まず、必然性と偶然性との対比についてはセミネールXI巻の「テュケーとアウトマトン」を押さえておかなければならないと思います。ちょうど岩田靖夫氏による、ギリシャ哲学の研究(哲学会編 - 哲学雑誌第93巻第765, 1978, 有斐閣)に掲載された『偶然と秩序−アリストテレスの目的論における一つの局面−』がアリストテレスの『自然学』におけるこの「テュケーとアウトマトン」についての解説を極めて明晰に述べているので、この論文を引用しながら、ラカンに繋げたいと思います。

筆者はアリストテレスにおける偶然の問題をもっぱら『自然学』の枠内で考察している。
まず「テュケー」についてであるが、アリストテレスは自然の目的論的構造の論究を、偶然の分析から始めている。「さて、先ず第一に、われわれが目で見て知っているように、あるものは常に同じ様式でアエイ ホーサウトース生成し、他のものは大凡の場合にホース エピ トー ポリおなじ様式で生成するものだから、明らかに、テュケーやテュケーから結果することがらがこれらのいずれの原因である、ともいえない。すなわち、テュケーは必然的エクス アナンケースかつ恒常的にアエイ同じ様式で生成するものの原因でもなければ、大凡の場合に同じ様式で生成するものの原因でもないのである。しかし、これら両者を逸脱して生成するものが存在するのだから、そして、万人の言うところでは、そのようなものはテュケーによって存在するのだから、なにかテュケーやアウトマトンということが存在するのは明らかである」

必然的、恒常的あるいは蓋然的つまり法則的秩序的に生成/無法則的無秩序的に生成後者のような生成の仕方を示すものについて、万人はその原因をテュケーとする、とアリストテレスは述べているのである。

「ところで、生成するものの中で、あるものはなにかのために(合目的的に)生成し、他のものはそのようにではなく生成する。そして、合目的的に生成するものの中で、さらにあるものは意図的な選択プロアイレシスにもとづいて生成し、他のものはそのような選択にもとづかないで生成する。・・・・・ 従って、明らかに、必然性や蓋然性を逸脱して生成するものにおいてさえ、そのあるものにはなにかのために(目的)が帰属しうつのである。(因に、合目的なものとは意図にもとづいてディアノイア為されるかぎりのすべてのもの、並びに、自然フュシスにもとづいて生成すかぎりのすべてのもののことである」

ここでは生成するものを合目的的に生成するものとそうではないものとの二領域に分け、さらに合目的的に生成するものを、目的意識をもった人間の意図的選択にもとづいて生成するものごとと、そうではないものの二領域に分けているのである。

ところで合目的性において、自然の大規模な合目的性に比し、人間の立てる合目的性は微小なものとしている。アリストテレスの目論みはテュケーを自然的な出来ごとから駆逐し、人間的合目的性の中に画定することにある。

以上により、テュケーの領域の目印が、第一に無秩序無法則という性格であり、第二に人間的合目的性という性格であることが明らかになった。