では、‹普遍性› l’Universelleに相当する問題とわれわれがここで扱う問題の比較に取りかかりましょう。つまり、対象となるものがふたつに分けられ、双方とも等価の対立物となるかのごとく言表に示したとしてこれと‹普遍性›とがどう折り合いを付けるかです。いましがた予告しておきましたがそれぞれindividus(ここでは男性と女性)どうしを等数性équinuméricité(フレーゲ自身のオリジナルの独語はGleichzahligkeitです)で強引に結びつけることは土台無理です。動物的交接の一対一対応が人間の男性女性との関係には適用できないことは既に話したと思いますが。ふたつの‹普遍性›deux Universellesとは、一方のが他方にあるいは他方が自分の方に関係をもつ可能性を前提にしてのことです。いわゆる関係とは性的関係と呼ばれているものとはまったく別物です。後者の関係は五万と起きていることです。そしてこの関係において、たしかになんらかのささやかな関係が築かれます。日常茶飯事のことですから ··· わたしがここに記入するのは、この関係を普遍性のなかにdans des universelles基礎付けようとする目論みについて言っているのです。男性›Hommeの普遍性l’universelle女性›Femmeの普遍性l’universelleに結びつけることなどいったいどうしたらできますでしょうか ···

もちろん男性の側だけからなる普遍性など普遍的とはいえません。ファリックな機能、その否定的な側面からなる象徴界における、といった前提においてのみ、Encore73ページの冒頭に掲げられたsexuationmathèmeの左側、つまり男性の側ではこの量子式は整合性があるのですが、右側の女性の式は全体の式を非論理的にしてしまっているのです。第一、Universellesと複数で示すこと自体、矛盾しています。

 

 

Que le savoir inconscient soit topologique, c'est-à-dire qu'il ne tienne que de la proximité, du voisinage, non de l'ordre, c'est en quoi j'essaie de dire, de fonder là-dessus qu'il est nodal. Ce qui est à traduire de ceci, qu'il s'écrit ou ne s'écrit pas. Il s'écrit quand je l'écris, que je fais le nœud borroméen, et... quand vous essayez à cet instant de voir comment ça tient, c'est-à-dire que vous en faites... que vous en cassez un, les deux autres se baladent. Il ne s'écrit plus. Et c'est là que se voit, que s'amorce la convergence du nodal et du modal.

 

無意識の知がトポロジー的であり、ということは近傍(開集合だとも言っていますから、これは開近傍と捉えてもよいのでは。しかしながらラカンはハウスドルフのハの字も口から発したことはないようです。トポロジーに精通しているラカニアンが幅を利かせていますが、ハウスドルフ空間について言及しているひとはいないのが不思議です)という概念によってしか捉えることができず、順序の概念では捉えられないと言っています。集合論的な捉え方だとしか小生には言えません。基数と順序数との対比を数理論理的にはどう捉えるのか、一方で、sexuationの式からは、男性と女性とのあいだで(男性という集合と女性という集合を考え、それぞれ存在者を要素として考えると)は全単射も逆写像も不可能でありそうですので、トポロジーをもち出してうまく行くのか、というのが今のところの小生の素直な実感です。また結び目性と様相的とはどう折り合いをつけるのかです。

 

Donc ce savoir inconscient ne se supporte pas de ce qu'il insiste, mais des traces que cette insistance laisse.

Non pas de la vérité, mais de sa répétition en tant que c'est en tant que vérité qu'elle se module.

 

insistance, instanceはシニフィアンのrépétitif··· 様相、様態といってよいのでしょうか。いずれにせよ、その痕跡(Identificationにおいてはまだlalangueという新造語は現れていませんが、parolesédimentlalanngueなのだとすると、これとtraceとはどういう関係にあるのでしょうか)。反復があって、波状的な運動ということは、Séminaire X における拍動的pulsatoireな運動のことを言っているのでしょう。ラカンは閉/開といったparadoxalmodeで捉えなければならないということでしょう。

 

Ici, il faut que j'introduise ce dont se fonde le voisinage comme tel. Le voisinage comme tel se fonde de la notion d'ouvert.

Ceci, la topologie en abat tout de suite la carte. C'est d'ensembles en tant qu'ouverts, qu'elle se fonde. Et c'est bien en quoi elle aborde, elle aborde par le bon biais ceci : que la classe ne se ferme pas. C'est-à-dire qu'elle accepte le paradoxe, le paradoxe qui n'est paradoxe que d'une logique prédicative, à savoir que si la logique renonçait simplement à l'être, c'est-à-dire que soit rayée purement et simplement la logique propositionnelle, il n'y aurait pas de problème, le problème, s'il y en a un, problème désigné de paradoxe, étant seulement celui-ci que la classe Homme n'est pas un homme.

 

たしかにsexuationの式は命題論理が援用した量子式を用いており、少なくとも男性においては例外的な存在者であるひとりの男性と‹男性›Hommeというクラス(属性といってもよいでしょう)とを切り離しても論理的に破綻はありません。集合論でいえば、Hommeという集合に閉じられたそれぞれの要素un hommeであり、例外的な男性が原父で、去勢の法をまぬかれた唯一の存在者であり、かれが‹男性›という去勢を蒙る個々の存在者である男性が属すクラスの代表なのですから、これはいわば小さなパラドックスです。