J. ラカン - わたしのスピーチは午後になってしまいましたが、昨日と今日の午前中、方々から貴重なご発言をお伺いしました。ここで、いちいちお名前を申し上げることは差し控えさしていただきます。あいにく、表彰式をするつもりはありませんので。とくに今日の午前中の部は参考になりました。

さて、今回は、わたしが認めたものを読むことにします。なぜそうするかは、後になってお解りいただけると存じます。話しの途中でご説明いたしますゆえ注-1)。(2008/10/20)

三人目の女。これがタイトルです。三人目の女がまたやって来たのです。しかしこの女も、ジェラール・ネルヴァルが言っているように1)、最初の女なのです。ではディスクdisqueに録音されたものではないか。いいでしょう。それ2)がナニというとしてもça dit ce que。では、この「ナニ-を-言う」"dit-ce-que"を、ローマで録音されたディスクの再生disque-ours de Romeであるとしなくてはなりませんね。

わたしは、一国語3)のなかに、更にほんの少し擬声語を注ぎ込みましたが、この一国語は、私に逆らい、おのれのなかには擬声語など存在しないなどと否認してはいません。このように否認する資格などこの一国語はもち合わせていませんし、現に一国語において、その音素システムとは相容れないこの擬声語の存在を認めることができますから。だが、わたしには、そこを衝こうという魂胆がある訳ではありません。ご存知のように、フランス語については、ヤコブソンが音素システムの体系化を成し遂げました。それはそれで大したもんです。わかりやすく言いましょう。フランス語でやっているから、ローマ講演は、空回りディスクdisque-ourdrome4)として聞こえるのです。

他のララングにとって、「空回りディスク」は、単調でつまらない音の連続を発するだけと思われるでしょうから、それに喋り方を手懐けましょう。そうした方がわれわれの国と国境を接している国々の方たちのお耳に快く響き、また、それが、マトリックス、たったいまわたしがそうはっきり言いましたよね、ヤコブソンのマトリックスでして、このマトリックスの機能からわれわれはすっきり決別することができるでしょうから。

長話はよくないでしょうから、種明かしをしてしまいましょう。それ、つまり空回りディスクから話を始めたのは、声をわたしの四つの対象である(a)の項目のなかに加えるためです。つまり、声から、それが発する雑音のなかに物質性があるのでしょうが、この物質性を取り除いてしまうのです。シニフィアンの作用につけをまわしてしまうのです。シニフィアンの作用とは、これはわたしの主張ですが、メトニミーの効果です。こうして、声は、身軽になります。物質性とは別のもののもつ身軽さを身につけるのです。

以上です。しかし、三人目の女についてお話しするのは、これとは別のイメージをお伝えしたいからです。わたしにとってお馴染みな擬声語 ― くわばらくわばら ― それは、かの女たちの猫なで声が、紛うことはないのですが、猫の享楽だということです。それが喉から発せられるのか別の場所から出てくるのか、わたしには皆目わかりません。わたしがかの女たちを愛撫するときを思うと、それは、身体全体から来ているように思えますが。それは(シニフィアンの)ゲームの規則5)についてはなにも教えてくれません。それはその後でやって来るのです。「われ思う、ゆえにse jouit(それは)自らに享楽を与える」。それは常用の「ゆえに」を受け入れず、ゆえに"je souis"6)となるのです。

一寸、駄洒落を言ってしまいました。受け入れないとは、わたしが排除forclusionと言ってきたのと同じことだとご理解ください7)。je souisを受け入れないので、それは現実界に現れます。それは、わたしの年齢に対する挑戦と看做されるかもしれない。この年齢で、ここ3年というもの、それを連中に引き渡し、葬り去るという噂もあることですし。ここ3年というもの、ソクラテスはもうあの世に逝っている、と言われているんですよ!だが待て、わたしが逝去してしまっていると仮定して、その後に ― その後にわたしの場合でも起こり得ますよ。メルロ=ポンティが正にそうでしたでしょう ― しかし、デカルトは、自分自身の"je souis"について、かれは人生を楽しんでいる、il jouissait de la vieと言われることがなかったのです。断じてです。かれの"je souis"とはどういうことでしょう。まさにわたしが言い続けてきた主体、精神分析の「わたし」のことです8)

当然、残念ながら、デカルトは知りませんでしたil ne savait pas9)。この哀れなデカルトの主体は、知りませんでした。自明なことですが、かれのために解釈が必要です。それは症状symptôme10)のひとつなのです。というもの、かれが、結論に達する前に、考えているのは何についてなのか ― おそらく、存在の音楽なのではないでしょうか。デカルトは学院で学んだ知のことを考えますが、これはジェズイットの学院講師から耳にたこができるぐらいに頭に叩き込まれたものです。でもデカルトはこれを軽く受け流していました。かれが、自分のことを解っていたら、他人に披露することなく蔵いこんでいたでしょう。かれ自身の知が学院を卒業後、飛躍的な展望を遂げ、かれの発表したものが物議をかもすこととなり、かれが語ったというだけで、つまり言語を用いて語るとすると、そこに無意識が生じることとなると解っていたら、蔵いこんでいたでしょう。そして、ひとの常として、自己防衛から、かれは途方に暮れます。わたしが、主体には届かない知と呼ぶものがこれにあたります。主体の方はといえば、この知をめぐって、この主体を代表するreprésenteシニフィアンはたったひとつだけなのです。デカルトにとっては、当時の言い方に従えば、既成の知、かれが生まれ育った土壌でできた言説に嵌り込んでしまい、その代表者、いうならばセールスマンreprésentant de commerceにされてしまったという言い分でしょう。この言説をわたしは主の言説、にわか貴族の言説と名づけます。ですから、デカルトは、かれの「われ思う、ゆえにje souis」を背負って、身動きがとれなくなるのです11)

それでも、デカルトの場合は、パルメニデスが言ったとされているものよりましです。パルメニデスが言ったとされる、知と言説を結びつけている箇所が不鮮明でしょう12)。哀れなプラトンは、ソクラテスの言葉から整合性のある理論展開を引き出すことができていません。プラトン自身解っていないのだから、パルメニデスについて知りようがないのでしょうか。ともあれ、プラトンがちゃんと書いていなかったし、ソクラテスの天才的ヒステリー13)についてもかれがちゃんとわれわれに伝え教えていなかったのです。その件からなにを引き出すことができるでしょう。

わたしは、ソフィストのことを調べるためくたくたです。偽りのヴァカンスになってしまいました。わたしは極端にソフィスト的になるに違いありません。多分、それから利益を得るためです。わたしが愚鈍にならなければならないなにものかがあるべきなんです。でもわたしはこのことを評価しません。評価するためのこつというものをわれわれは持っていません。当時のソフィストがなに者であったのかわれわれは知る術がないのです。われわれはことの重みを理解していないのです。

souisの意味に立ち戻りましょう。簡単ではありません。このことは、伝統的文法において、êtreというある動詞の活用の資格にとりかかることになります。ラテン語では、みなさんお解りでしょうが、fuisumとは異なるものです14)。他にも古道具はいくらかもっていますが、それをひけらかしすのは止めます。みなさんの方でやってください。蛮人であるゴール人が、この語から、自分たちの言語としていろいろ活用させていったことについてです。お任せします。ゴール人は、eststat15)の方へと向かわせました。ゴール人だけではありません。スペインにおいても同様なからくりがあったと思います。つまるところ、ラカン式言語学linguistrie16)は、それなりに、まさにそれから導き出されているということです。クラシカルな言語学の蘊蓄を傾けるような道楽はここではしませんので悪しからず。

いずれにしても、これらの国でのêtreの内実であるものはなになのかは考えてもよいでしょう。つまりそれぞれの神話の存在êtreともいえます… 名を与えるとすると、ヨーロッパのひとつとかふたつとかの国の神話的存在Undeuxroupéens17)のとなります。戯れにこう言いましたが、神話素ののことです … つまりは、個々の国のこの神話素は(フランス語でと同じように)連辞に託されて … 受肉化されたことば=キリストを予示するなにかとして表されるのでしょうか。このことはいまから説明します。それを語るのは骨が折れます。だれかがローマに呼べばわたしが喜んでくれると思っていたようですけど、どうしてでしょう。たしかにこの地には精霊名勝の地があまりに多い。しかし、<存在>l'Êtreで至上のものとは、この連辞以外を措いて他になにも有りやしません。

わたしは、人称と呼ばれているものをも差し挟んで駄洒落を連発して、悦に入ることがあります。「君は僕を」m'es-tu me、あるいは「でも君は僕を」mais-tu-me、どさくさに紛れ、「君は僕が好きなんだな、ムムッ」、といった調子です。実際はどちらも同じからくりです。ひとはメッセージを逆転したかたちで受け取る、ということを示しているのです。これを言い出したのはかなり昔で、享けてきました。実をいうと、これを思いついたのは、クロード・レヴィ=ストロースに縁があります。かれは、わたしの友人の女性のひとり、名前をいうと、モニクに気があり、今はかれの奥さんなのですが、かれはそう言ってかの女を口説いたのです。まさにどちらも自分のメッセージを逆さにして受け取っていたのです。モニクはこのことを繰り返しわたしに告げました。これほど、わたしの定式がぴったり当てはまる例はありません。でもかの女がわたしに感染させたのです。わたしはチャンスは絶対ものにする方なので。

別の時制で説明しましょう。半過去です。わたしは … だったのにJ'était。ああ!君はどうだったのだろうか。あとは名残が響きます。過ぎたことは仕方ありません。接続法は、滑稽です。願わくば、かくあらん!デカルトは、用意周到でした。神は、御ことば le direである。御ことばdieure、それは真理をあらしめる、その決定権を握っている、思い描いたように、としています。わたしと同じように御ことばを発すればこと足りる。それが真理というもので、そこからは逃れることはできない。もし神がわたしを欺いているのならば、残念ながら、御ことば、その金言の定めに拠り所をもとめるのが真理への道なのだ。まあよい!となります。この点で、わたしは、ライン川の向こう側の国に批判を持ち込んだ連中18)について、当時の時点までのことに関して、言わねばならない。結局、かれ等はヒットラーに追従することになったのであるから。わたしは地団駄踏んだのです。

ということで、象徴界、想像界そして現実界です。ラカンでは有名度ナンバーワンのセットです。怪しげなのは、これが意味sensをもつようになったという噂です。三つの配列どおりの意味だそうです。どのみち、どちらの方もわたしの作ということになりますが、これがいま順風満帆だとしても、いつ風向きが変るか皆目見当もつきません。まず出発点として、意味があるに違いないとするしかないでしょう。意味によって思考は構成されているのだし、ことばも意味によって、身体に、なんらかの馬鹿げた表象を導入します。この点について、みなさんは、ツールを持ち合せていますね。想像界を持っていますから。さらに、そこからわれわれ分析家にお土産が返ってきます。しかし、想像界は、自慢げに語る訳ではありませんね。胸につっかえているものを吐き出すんでしょうが。ひょっとしてという風ですが、ひとつの真理を口にするのです。でもつねにその都度ひとつの真理を口にするんです。やれやれです。だが、意味が想像界に居を構えているのと同様、他のふたつの領域にもこれは言えるのです。意味なんてものを持ち出すのは観念論だと、皆は、これを罵詈雑言を込めて唾棄しました。しかし、分析主体は、この意味しか要求しません。その方が得だからです。思考というものは、意味の鳴る鈴を馬鹿の一つ覚えのように、振り続けるといった愚行の最たるものなんですから。

わたしが使っているタームを哲学的に用いるのは最低のやり方です。これを止めさせるにはどうしたらよいのでしょう。これらのタームを頭に入れて欲しいのですが、哲学以外のところから入って欲しいのです。みなさんは、思考というものは、脳みそのなかにあると思っていらっしゃるでしょうが、理由は言えませんが、そう思って欲しくないのです。わたしは勝手に次のように確信しています。つまり、思考は、語る主体においては額の筋肉にあると。ハリネズミのように他人を近づけないひとの場合がまさにそうなんです。このようなひとをわたしは大好きです。そのようなひとに出会うと、わたしは自分のポケットの中に入れてしまいます。ハンカチに包んでですが。当然のことですが、かれはおしっこをチビリます19)

最後に、みなさんが、額にしわを寄せて考えることに同意していただけるとして、足piedで考える20)としもよいとしてください。足を使って、それを吸収して欲しいのです。だってそうでしょう。想像界、象徴界、現実界、これらは、わたしの後に続く方たちのために作られたものなのですから。そうすることによって、それが、この三つの領域が分析への道を切り拓くのを助けるのです。

みなさんのために、わたしが描くのにへとへとになった、これらの紐の輪ronds de ficelleは、これらに猫なで声をあげることを期待しているのではありません。これは、みなさんの役に立ちます。役に立つのですが、ちょうど、今年話してきた惰性l'erre21)についてです。つまり、それが規定するトポロジーを捉えるうえで、みなさんのお役に立てるのです。

これら三つのタームはタブーではありません。これらをきちんと把握すべきです。最初のローマ講演で最初にこの女に語らせましたが、その女が現れる以前からこの三つのタームは存在しているのです。わたしはこの三つを考えに考えた末、発表しました。最初のローマ講演に取りかかるよりもずっと昔です。

ボロメオの輪をここで示すのは、だからと言って、そこにみなさんの足を罠に嵌めるために、そうするなんてことは論外です。わたしがひとは足で考えるとするのも、このことを言っているのではありません。みなさんがここに置くのは、肢/メンバーmembreとかとはまったく異なったものです。ここでのメンバーとは、分析家のメンバーのことを言っているのですが。みなさんがそこに置くのは、わたしが <a> と名づけた計り知れない対象です。これが象徴界、想像界そして現実界の締め付け coincementの結び目により捕えられるものです。みなさんの役割として答えてあげることが許されるのは、この <a> を正確に捕えることなのです。つまり分析主体自身の欲望の原因としてこの <a> を与えてあげることなのです。これを手に入れるべきなのです。しかし、みなさんがそこに足patteを捕えるとしても、それも大したことでははありません。重要なことは、みなさんは、このことを、自前で行なうということです。

je souis を完全に退けた後、どのように言えばよいか考えた末、茶化してみなさんにこう言いましょう、この結び目は、それを存在させなければならないと。となると、わたしが一年間、『精神分析の裏面』のタイトルのもとに、4つのディスクールについて説明した後、みなさんが知り得たことにさらに付け加えるとなると、結び目を形あるものとして示すとなると、みなさんは、そこから見せかけsemblantをつくり出さねばならないのです。これは厄介ですよ。見せかけをつくり出すためには、それについてアイデアを持つだけでは十分でないだけ、いっそう厄介なのです。

わたしが、そのアイデアを持っているなどと思わないでください。ただ、わたしは、「対象a」と書きます。アイデアを持つのと書くこととはまったく異なったことです。それは a を論理に縁組みさせます。つまりそれは、a を対象の資格として、現実界のなかで、働くことができるようにします。ただし、対象にはアイデアは含まれないので、このことは、はっきり言っておきますが、すべての理論、どのような理論であってもですが、理論のなかには、今まで、穴があっただけです。アイデアを持たない対象とは、穴のことです。これから、わたしが今さっき、プラトンによって伝えられたソクラテス以前の思想に対して留保の態度を取りましたが、この態度が正当化されるのです。この思想が、わたしが言っていることを、まったく許容しないほど鈍感だったという訳ではありません。見せかけは、いつの間にか、そこに浸かっているのです。それは見せかけに常に付きまといます。見せかけの方で、そのことが判らなくてもです。こう言うしかありません。見せかけがそれを感じているが、どうしてそうなのか判らないからです。このことから、よるべなさ、耐え難さを、それは撒き散らすのです。

見せかけが冗談にだけ終わってしまわないようなディスクールなどひとつもありません。なぜかは解りませんが、ディスクールの最後のもの、分析のディスクールはそうはならないかもしれないと、人々は期待してしまいます。ともかくも、次のように言うのは理由にはなりません。つまり、このディスクールのなかで、最後のディスクールだからしょうがないと言い訳をし、みなさんは、居心地の悪い思いをしながらそこに留まるのです。そうしておいて、国際精神分析協会の同業者の決まり文句に従えば、分析のディスクールを、本物よりももっとそのものらしい見せかけとまでしてしまうのです。ただ、見せかけについては、こう但し書きが示されています。ですのでご注意のほどを。はなしをする者そのものの見せかけは、そのはなしをするという営為において、つねに、すべてのディスクール、話すひとをも支配するディスクールのなかに身を置くことになる。見せかけ、それは第二の実物でもある、と。

ですから、みなさんが、みなさんのところで分析をやってみたいと頼まれたとき、もっとリラックスして、構えないでください。襟元を糾さなければ、などと考えないでください。みなさんが道化役を演じることになるとしても、道化は存在価値のあるものと思ってください。わたしが出演したテレヴィジョンを観ればよいでしょう。わたしはピエロに映っていますよ。これを参考にしてください。但し真似はだめです。わたしが真剣に取り組んでいることは、みなさんがわたしに続いて、連続した運動を展開して行くことです。誰と行動をともにするのと誰そのひとになってしまうのとは違いますから。

象徴界、想像界そして現実界とは、みなさんが実際に語る場合の言表ですが、みなさんが分析のディスクールのところに位置し、みなさんが分析家であるとき、そうなるのです。しかし、これら三つのタームは、この分析のディスクールのためにしか、この分析のディスクールによってしか現れてきません。いま申し上げたことばに特別な意図があるわけではありません。ありのまま述べただけです。だからと言って、これが他のディスクールを明らかにする訳ではありませんが、他のディスクールを無効にするものでもありません。たとえば、主のディスクールは、その目論見は、みんなの歩調がぴったり合うようにものごとが進むことです。ところで、それですが、現実界はけっしてこのような訳には行きません。なぜならば、現実界は、まさに、うまく行かないものだからです。自らを十字架に架して護送されるようなものです。さらに、歩調を合わせて歩むことに、繰り返し足枷をして、これを阻み続けるものでもあるのです。

わたしは、まず現実界について、次のように言いました。現実界とは、つねに同じ場所に戻ってくるものだ、と。強調すべきは、「戻ってくる」です。戻ってくる場所とは、現実界が発見する場所でもあり、それは見せかけの場所です。この場所を、想像界のみで捉えることは困難です。まず、場所という概念が、すでに想像的なものを前提としているからです。幸いなことに、われわれには、トポロジーがあり、そこに支えを求めることができます。わたしが試みようとするものです。

現実界の二番目の定義は、現実界は様相論理において、不可能性に属するものだということで、これに照準を合わせてきました。因に、現実界には不可能なものはなにもない、と想定してみてください。学者どもはおかしな顔をします。われわれもそうですが。では、それを認めるのにどれだけの回り道をしてこなければならなかったか。何世紀にもわたって、すべてが可能であるとひとは信じてきました。わたしは知りませんが、みなさんのなかに、ライプニッツ22)を読んだ方はいらっしゃるでしょうね。ライプニッツは「共可能性」compossibleに帰着しました。神は最善を尽くされた。だから、ものごとは、全体として可能であるはずだ、と。組合せ組織combinatの類と奥の手combineの類がその背後には隠されているとすることは、考えが及ばない。多分、分析が、ありのままの世界le monde、つまり想像界ですが、これを見出すことを誘ったのでしょう。このことが行なわれるには表象といわれる機能を単純化することが前提となるでしょうし、この機能をそれが存在するところ、つまり身体のなかに置くことが前提となるでしょう。それを、ひとは、大分前から気がついていました。また、それが、観念論というものでした。ただし、観念論はそれに到達したのです。でも、知というものがない以上、それは、知のループを閉じることを繰り返してきました。そのなかでも光ったものはありました。状況を甘受しながらも、哲学者たちは、彼岸の兆しを待ち望んでいました。それをヌーメノン呼んで、かれらは、その兆しを待ち望んでいたのです。こうした次第で、ともかくも、何人かの聖職者が関わりました。特にバークリー司教は、当時、無敵の存在でした。また、それは体裁を整えていました。

現実界は世界ではありません。表象によって、現実界に到達しようと望んでも無駄です。わたしは、今ここで、量子論とか、波動論、あるいは素粒子についてのはなしを始めようというのではありません。でも、これらの理論についての知識は身につけておいた方がよいでしょう。興味がないとしてもです。自習でよいです。科学についての小冊子を何冊か読めば十分です。

ついでに言っておきますが、現実界は全称的universelではありません。どういうことかと言えば、現実界は、それぞれの要素がそれ自身と同一であるといった、狭義の意味においてのみ、すべてtoutであるといえるということです。みずからを、「全体」tousとは言わない、という留保付きでです。「要素の全体」などありません。それぞれのケースに応じた集合があるだけです。加算するのは容易いことです。それですべてです、と言えばよいからです。わたしのS1 … じっさい、そこには、世界と交合するというに等しい虚栄が示されているのです。つまり、整合性conséquenceと呼ばれてきたものが成り立つ、というに等しいのです。虚栄だとするのは、世界には、対象"a"以外のものなんて存在しないからです。対象"a"とは、糞とまなざし、声と乳首ですが、これらは、主体を分断し、これら廃棄物でもって刻印を施し、主体の身体において、外-在ex-sisteするようにするのです。これらの対象から見せかけをつくり出すには、それなりの資質が必要です。この資質を備えるようになるのは、極めて困難なことで、女性にとっては、男性よりも困難なのです。一見、これは逆のように見えますが、本当なんです。女性が男性にとって、対象"a"となることがあっても、そのことで、かの女が、対象"a"になるのを好む傾向があるなどとは言えないのです。でも結局、そのようになってしまうこともあります。かの女が、ことの成り行きから、対象"a"に、自分を似せるressemble、といったこともあり得るのです。アンナ・フロイトほど蠅の糞に似せてみせる例は他にないでしょう。実に、かの女はそれに相応しいのです。

注-1)この発表は1974111日に行なわれた。同年1031日から114日にかけて、ローマでラカニアンの大会が開催され、ラカンの発表は、いわば、基調講演のようなものと言えよう。因に、この会合の開会の辞と閉会の辞もラカンが述べている。

なお、この「前置き」は最新のヴァージョン(http://noeud-de-borromee.com/articles.php?lng=fr&pg=547)に掲載されたもので、追記しました。(2008/10/20)