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Les non dupes errent
(1)
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• séminaire oral du mardi 13 novembre 1973
Jacques Lacan 1973-74

pipe

 

 

 

 

En rapport avec les documents sonores disponibles en archives au groupe Lutecium, le texte proposé sur cette page est une transcription écrite intégrale de la séance énoncée le 13 nov 73, relue à l'aide de la bande son, (nov. 2002).

transcription de la version sonore originale


Je recommence donc, je recommence puisque j'avais cru pouvoir finir. Qu'est-ce qu'il y a ? Je recommence même parce que j'avais cru pouvoir finir.C'est ce que j'appelle ailleurs la passe : je croyais que c'était passé. Seulement voilà : cette créance, n'est-ce pas, "je croyais que c'était passé", cette créance m'a donné l'occasion de m'apercevoir de quelque chose. C'est même comme ça, ce que j'appelle la passe, ça donne l'occasion tout d'un coup de voir un certain relief... un relief de ce que j'ai fait jusqu'ici. Et c'est ce relief qu'exprime exactement mon titre de cette année, celui que vous avez pu lire, j'espère, sur l'affiche et qui s'écrit : les non-dupes errent.

Ça sonne drôlement, hein ? C'est un petit air de ma façon.
Ou pour dire mieux les choses, une petite "erre", e, deux r, e.

まず、ラカンのこのセミネールでの開口一番。「では始めましょう」ではなく、Je recommenceつまり「やり直しです」です(あーあ、まただ、と心の中で呟いているような感じです)。「だってそうでしょう、当時はこれで終えたと思っていたのですから」と続きます。当時とは、ちょうど10年前のおなじ11月です。『父親の名』と題されたセミネールが、一回だけのセアンスで、サンタンヌ病院で行なわれました。そしてこれが最後のサンタンヌでのセミネールになります(Le savoir du psychanalyste··· ou pireと平行してサンタンヌで行なわれましたが)。ノマードの身となったラカンは、アルチュセール、フーコー、レヴィ=ストロースの尽力でエコール・ノルマルに招聘されます。ですから、『基本概念』の出だしはl’excommunicationという宣言になるのです。『不安』のセミネールで、ラカン自身が不安をかかえていたであろうことは、このセミネールの小生の解説でも示しました。不安とは去勢不安ではなく、逆に去勢が起こらないかもしれないといった事態に不安は現れる、といった意味のことをラカンは強調しています。IPAを〈他者〉だとすると、このカマキリに飲み込まれてしまう、これをラカンはdésir de l’Autreといった表現のもとに想定しますが、この場合del’Autreの欲望(l’Autreの属格であるdésirを示すde)ですが、もしこれが事実になれば、これはjouissance de l’Autreとしか言えません。現に、この時期を境にして、désir(『不安』のセミネールの最初の方では、ラカンは威勢のいいことを放言しますが、最後の方になるに従い、だんだんトーン・ダウンしてくるようにも読み取れます。例えば、désirも抵抗の一種なのだ、みたいなことを言っています。あるいはdésir de l’Autreといった表現自体にラカンは神経症的抵抗を示していたのかもしれません。後述するフロイトのTraumdeutungにおける母親の欲望についての夢が絡んでいたのかもしれないのです)以上にjouissanceについて語ることが多くなります。ラカンはアンナ・フロイトのことをけちょんけちょんに言います(『ラ・トゥルワジィエーム』では蠅の糞に似ていると言っていますが、ラカンが日本語をもっと知っていたら、errerとの絡みで金魚の糞と言い換えていたでしょう)が、心底では、おっかないオッカさんみたいに思っていたのではないでしょうか。オッカさんに飲み込まれるのは嫌だ、お父さん助けて!ジュランヴィルは『ラカンと哲学』のなかでゲーテの詩に触れています。シューベルトの作品1のあの有名Erkönig日本語では『魔王』と訳されており、フランス語ではLe Roi des Aulnesですが、これは勘違い訳だとしばしば指摘されています。YouTubeでフィッシャー・ディースカウとジェラルド・ムーア(オクターヴのトレモロはこのように異なった筋肉を使い分けて弾けば、最後までもちます)のすばらしい演奏をぜひ聴いてください。ディースカウは、語り手、こども、父親そしてErkönigをそれぞれ声と顔の表情を変え、ニュアンスを持たせて歌っていますhttp://jp.youtube.com/watch?v=0iAl0mWXceo&feature=related。ひとことで言うと、フロイトにとって、このような無力な父親つまりpère réelが隠蔽記憶となっている、となります。1963年のセミネールにおいてもタイトルはLes noms du pèreと複数です。しかし、フロイトにとって、père réelは見えていなかったのです。『こどもが燃える夢』では歴然としているといえるでしょう(小生は、この夢において、そもそも、Erkönigが日中の残滓なんではないかと思っているのですが)。フロイトもかれの分析主体も、そのことに気がつかないで解釈している。まさにかれらはdupesなんじゃあないかと思うのですが ···

C’est ce que j’appelle ailleurs la passe
「因に、わたしがパス(ラカニアン分析家の免許皆伝と言っておきましょう)と呼んでいるものもこれと同じです」。本セミネールとpasseの関連についてはhttp://www.cairn.info/article_p.php?ID_ARTICLE=ESS_011_0039をご参照ください。je croyais que c'était passé「もう済んだことだと思っていたのですから」とラカンは続けます。日本語には「すみません」という言葉がありますが。日本人はよく使いますよね。店員を呼ぶときにも「すみませーん!」ですから。因にロシア人も、Изумините(本当に悪いことをしたと思ったときは、Проститеと言います)はよく使いますが、もう済んだことなのだからCe qui est fait est faitということで、これが負い目detteではなくcréanceになってしまうのですから、やはりフランス人は図々しいのか、いや、これがmot d’espritなのだ、とも言えます。債権と債務の関係も、Credit default Swapみたいなめっちゃくちゃな金融商品ができたので訳が判らなくなってしまいました。敵対する金融機関のCDSの買いで値をつり上げ、破綻のリスクの増大を臭わせ、株式の狼狽売りを誘い、一方で予め同じ銘柄の株の空売りをすることよって儲けるといった、金融機関どうしの仁義なき闘いの様相を呈しているいまの世を暗示しているとするのは読み過ぎでしょうか。
のっけから脱線、しかも妄想だったかもしれません、すみません。もとい、この年のセミネールのタイトルが示されます。Les non-dupes errent. Les noms du pèreの繰り返し、やり直しですが、この「またかあ」は前年のセミネールのタイトル『アンコール』にも窺えます。あるセアンスでラカンは、朝4時までスピーチの準備に費やし、一寸仮眠を取りますが、かれは夢を見ます。セミネールには聴衆がひとりもいない、といった内容の夢ですが、聴衆は大喝采で、アンコールの要求を繰り返します。とはいえ、もしだれからも愛されなくなったら、といったジレンマはあったでしょう。ラカンが自分自身のことをヒステリー的という場合、belle indifférence的な側面を示している場合が多いのですが、これとて反語的で、知のひけらかしの見栄っ張りもやはりヒステリー的です。

C'est un petit air de ma façon.
ここでのairは歌ですが、歌もたいていルフランがあり、つまりこれも繰り返しです。

そして同じ発音、エールでこんどはerreになります(さらに現実界、特に大文字で示されるle Réelの頭文字Rもエールです)