Les non-dupes errentを読み進めるためには、結び目のトポロジーだけをやっているだけでは駄目で(というより、結び目のトポロジーが集合論やカントールとフレーゲの書簡でのやり取りを踏まえていることが ··· ou piresavoir du psychanalysteを読んでいると解ってきます。またこれを理解するにはその前年のDu discours qui ne serait pas semblantも読まなくてはなりません。«en-je lacanien»の第10(20086)に掲載されているMichel Bousseyroux«Le pastout : sa logique et sa topologie»にコンパクトに纏められているものに準じて、ここ暫く勉強会はこの論文そのもの、上記3つのセミネールについて勉強をすすめています。小生ひとりで歯がたちません。カントール(Lacananticantorienです)のいわゆる連続対仮説を巡る問題について、次回はKoideさんがリードしていただくことになりました。ここで極簡単にラカンにおけるsexuation()論理から結び目のトポロジーへの移行の必然性について纏めてみます。

#第一に後継数の問題です。自然数の場合、有限集合であれば、これを小さい数から並べてゆけば(いまだに小生は順序数と基数との関係、どちらにprioritéをあたえるべきなのか、等々根源的なことが解っていませんラカンにおけるドン・ジョバンニについて本稿で書かれている部分はひとつの答えです)、後継数(ドイツ語ではReiheという語が普通使われているようですが、カントールはSuccessionという語ももちいているようです)がない(集合でいうとこれも要素であるかないかの問題となります)という事態にぶつかりますがアレフ・ゼロの場合はつねに後継数があることになります(アレフ・ゼロ+1もアレフ・ゼロですから)。ところがラカンによれば、1の後継数は存在しないのです。ですからひとはYad’l’Unを連発するしかないのです。ひとりの男とひとりの女をふたつの輪(あるいはトーラス)と看做すと、絡み目(これをラカンは神経症の構造としていますよね)にしないかぎり、ふたつはひとつになりません、というよりひとつとひとつのままです。2という数字はラカンにとって鬼門みたいなものです。たとえばS2は知を表すシニフィアンですが、Savoir du psychanalysteの最初のセアンスについて小生が説明しましたように、Batailleの無知とはまったく異なりますが、精神分析における知も究極的には無知が刻印されているのです(「夢の臍」とか「原抑圧」という言葉を思い起こしてください)。相変わらずDictionnaire historique de la langue françaiseからですが、successeurが語源的にsuccèsと関係しているようです。1976-7L’insu que sait de l’une bévue s’aile à mourreというタイトルも最初の部分をl’insuccèsと読めます。

#ところがボロメオの輪は、そこにある結び目性(nodalitéをこう訳すのは問題だとKoideさんから指摘されましたが)により三つの輪はconsistanceをもつのです。nœuds borroméens généralisés(MillerEncore113ページの図6に示されているのがその例です。どこかで誰かがこの図は間違っていると書いていましたが、ちゃんとテイク・ノートしていなかったので確認できません)ですと輪は3以上無限大にまで増やすことができ、つまり1から2には行かないのですが、3以上の自然数にはつねに後継数があるということになるのです。

今回アップするのは、主にSavoir du psychanalysteの最後(197261)のセミネールです。