Science du sujet, science du reel - Lacan a partir de Hintikka, et Wittgenstein, Antoine Soulez Littoral No.30, La frerocite, octobre 1990
Tentative d’Hintikka est de traduire le notions modales en notions non modalesより
science du réel において«savoir»とはなにかがまず問題になってくる。それは「真」le vraiの知ではない。science du réel = logiqueではあるがこの論理は当然nécessairement, logique du signifiantであり、logique du signeではない。ところが、logique du signifiantにおいてはこのsigneはle réelをcontingenceとして捉えられたものである。でラカンのめざすlogiqueはlogique de la contingenceなのである。
ラカン的logiqueはbivalence(le vrai/le faux)のlogiqueには還元されえない。contingenceにも対応しているからである。
二値論理学においては、le contingence, le réelは主体にとって、真なのか偽なのか未だ判らないものであるが、必ず、やがてどちらか判明するものである。
le contingentはlogicien du signeにとっては「経験の可能性」«possibilité de l’expérience», événementであり、仮説が証明されることであり、シンボルの属性が現れることである。一方、logicien du significationにとっては主体の分裂に相当する。
ではlogicien du signeの真と偽の可能性の扱いは精神分析にとってどの程度の射程をもつものなのか、逆に、logicien du signe(例えばRussell)は主体の分裂におけるcontingenceをどう受け止めるか。
Érik Porgeの«De l’efficience de l’acte : causalité mentale ou loterie»(in Littoral no. 26, novembre 1988)参照のこと。ラカンはséminaire «Les non-dupes errent» 19 février 1974のséanceにおいて、Hintikkaがやってはいけないことをやってしまっているが、そのやってはいけないことをラカンもやっていると述べ、この点でヒンティッカはラカンに先んじていたといえる。
Antoine Soulezはアリストテレスの『命題論』の「明日海戦が行なわれるであろう」といった命題をめぐって、これは論理学者に未来-偶然性といった問題を提起する命題であり、Hintikkaの論理展開の出発点であるとしている。
ヒンティッカはアリストテレスには2種類の「可能性」があり、そのうちのひとつがヒンティッカの言うpossibility properであり、様相論理において検討すべき課題となるとしている。
les futurs contingentsは難問でメガラ派前期と後期とのあいだで論争となり、アリストテレスおよびストア派特にクリシッポス( ⇒ http://ja.wikipedia.org/wiki/クリュシッポス)においては論理の破綻であり、行為や出来ごとévénementにおいて真理が云々として捉えられるべきものとした。
一方で、le possibleは昔から神の業とされ、論理学者たちはこれを自由意志の行為における実現といった次元でとらえてきた。
⇒ http://ja.wikipedia.org/wiki/可能世界論, Mondes possibles V. http://fr.wikipedia.org/wiki/Mondes_possibles
19 février 1974 のセミネールにおいてラカンはbinaire な論理学ではなくtroisこそlogique du réelに相応しいし、この論理は発見することでなく発明するものだと言う(Wittgensteinはconstruireするものだと言っていると)。
vrai, fauxのlogique binaireに対してtroisの論理はinscriptibleだとAntonia Soulezは言っている。inscriptible, impréscriptible ··· dénombrableにおいてibre, ableはまさに可能性を示しているではないだろうか。