いまや不安神経症という診断名にとって代わられつつあります。DSM‐IVには神経症という語は存在しません。panic* disorder も不安障害のカテゴリーのなかで扱われています。では不安とはなんでしょう。 仏語 panique(形容詞)の用例の方が古くから認められています。16世紀、ラブレーは panice という古い形を用いて書いています。当時、「パンについて」という語義があり、パンが不意に現れることが恐怖を引起こしたことから、「恐怖」を形容する語となりました。余談ですが、アーサー・マッケンの『パンの大神』はまさに恐怖以上のものです。英語 panic は名詞で、これがフランスに逆輸入?され、avoir la panique などという表現もよく使われます。日本でもパニック映画が氾濫したころからでしょうか、この横文字はよく使われるようになったものです。 もちろん、「不安」という語の語義の広がりを panic で代表させることはできないでしょう。また、各国語の不安に相当する語にはそれらの内包と外延があり、同列には扱えない部分も存在します。たとえばドイツ語で Ich habe Angst とは言えても、フランス語で J'ai angoisse とは言えません。Je suis angoiss醇Pでしょう。それでも、不安, anxiety, Angst, angoisse には一寸した不快感から、それこそパニックという語が相応しい情動の氾濫までに及ぶ共通の意味作用の広がりを持っています。 哲学に興味をお持ちの方には申し訳ないのですが、ここでは、キルケゴールにもハイデガーにもふかく言及するようなことはしませんし、そのような資格を小生はもち合わせてもいません。ただ、このページが増殖してゆく性質のものであることから、ラカンとの関係で、キルケゴールには一寸触れることになるかもしれません。 さしあたっては、フロイトにおける不安をめぐる理論展開とそれに伴う不安神経症の臨床的位置付けの変遷を辿って行くことにします。フロイト理論にアポリアがあるとするならば、その核となっているもののひとつが「不安」の問題だということができるでしょう。もつれた糸を解いたのはラカンだと思いますが、この糸を手繰り寄せるのも大変です。ややもすると、前よりもこんがらがってしまいます。そこらへんのところを小生なりに概観してみようと思います。その後で再びパニックディスオーダーに戻ります。  1894年、草稿 E のなかでフロイトは、「不安はどこから生じてくるのであろうか」という問を発しています。それ以降40年にわたって、紆余曲折を伴った理論展開が繰り広げられますが、最晩年にいたっても、かれ自身、満足のゆく決着をみたという実感は持っていなかったでしょう。 便宜上三つの時期を区別して説明してゆくやり方がすっきりと整理されて理解できるかと思いますので、小生もそうします。 第一期では、不安神経症(少なくとも、この名称のもとに、ひとつの臨床的単位 を確立したのはフロイトそのひとです)を神経衰弱から独立させて論じることができ、同時に、強迫神経症と恐怖症を切り離して論じる試みも行なわれました。神経症全体の病因としては、当時支配的であった Janet の心的変質説を刷新しました。 この1894年の論文において、不安と恐怖症との関係は、主体が不安から身を守るため呈する症状が恐怖症であると要約されます。強迫症状と恐怖症の差異は、この時点では、前者が性的な内容の記憶からの防衛によって説明され、強迫神経症はヒステリーとともに防衛-精神神経Abwehr- Neuropsychose として位置付けられたのに対して、後者は不安神経症にみられる症状あるいは機制であり、性的な事象が関与するとしても、心的なメカニズムが作用するのではなく、現にある性生活上の離脱による、性的(エネルギーの)緊張の蓄積が不安の湧出となるものと解されていました。不安神経症が当時、神経衰弱とともに現実神経症 Aktualneurose として扱われ、つまりその時点では、精神分析療法の対象からは除外されていたわけです。 ところがフロイトはヒステリーか研究において、幻想 Phantasie の重要性を認めるようになります。1897年のフリースへの手紙のなかで、かれは、「ヒステリー者の幻想は、かの女(あるいはかれ)が子供のとき、自分の幼児期に起きたと思っていた出来事に結びつくのだが、ずっと後になってからやっと、その事柄の意味を理解する」と書いています。この nachtr拡lich という語をフロイトはしばしば用います。後にラカンによってこの語の重要性は着目され、主体とシニフィアンとのかかわり、そこから成立してくる意味作用といった翻訳が施されます。さらに一ヶ月後の手紙、草稿Mでフロイトは、「すべての不安症状(恐怖)は……幻想に由来する」と言い切ります。こうして不安神経症(恐怖症は、ヒステリー、強迫神経症、と同列のものへ、つまり現実神経症ではなく防衛-精神神経症仲間入りすることになります。不安は、この時点では、幻想にかかわる、抑圧の結果として捉えられます。自我という概念は、不安との関係においては、まだ登場していません。いわゆる局所論の導入とともに、抑圧の理論も展開され、不安についてのとらえかたもその都度修正されてゆきます。 「ハンス少年」の症例の紹介とともに、恐怖症は、はっきりと『防衛』神経症であると規定されます。ヒステリーとの差異は症状レヴェルのものにすぎず、構造的には「転換」の有無を除けば同質のものとして、不安神経症のかわりに「不安ヒステリー」といった用語が使われるようになります。臨床単位へと昇格した「恐怖症」の誕生です。現象としての恐怖症あるいは不安は次のようなメカニズムを通じて現れるとされます。つまり、情動は原因となる素材つまり表象と切り離されるがヒステリーとは異なり、身体領域への転換が行なわれず、自由で拘束されないまま、不安というかたちで現れるのだと。この自由で拘束されない不安を不安ヒステリーは固定させようとある対象を見つける。それが恐怖症の対象なのだとフロイトは言います。ところでハンス少年の症例はまた、フロイトにとって、エディプス願望の帰結としての去勢コンプレックスの準拠となる症例でもありました。しかしここでは、症例の分析の細部に立ち入ることはしません。 もう一度おさらいをしてみましょう。1909年の時点でのフロイトは、エネルギーの不安という形での湧出という初期のいわゆる経済論的概念になお支配されていましたが、神経症の核としての去勢コンプレックスを導入することができました。以後、「父親」の問題、「去勢」の問題は『トーテムとタブー』、『狼男の症例』を通 じて展開されてゆくこととなり、第三期の不安理論へと受け継がれてゆくこととなるのです。  1916年の『精神分析入門』では、前段までの理論の基本的部分の修正は行なわれないまま(一部、後退している部分もみられる)、フロイトは神経症性不安の三つの型を区別 している。  1. 1916年の『精神分析入門』では、前段までの理論の基本的部分の修正は行なわれないまま(一部、後退している部分もみられる)、フロイトは神経症性不安の三つの型を区別 している。 2. 不安ヒステリーとしての恐怖症における不安。 3. 危険というものとの関連をまったく見出すことのできない不安。不安発作であり、ときに眩暈、胸部・喉部の絞扼感といった身体症状に置き換えられる、不安の自発的発作。* 「不安は対象のないおそれ」という定義については後述 3番目のものは、神経症性不安と現実不安 Realangst(つまり、現実の危険に対する反応である不安)との関係についての問題を提起している点で興味深いものですが、フロイトはただ「なにか」がこの不安を引き起こすと説明しているだけです。Wir werden doch zun劃hst die Erwartung festhalten wollen : wo Angst ist , muァ auch etwas vorhanden sein , vor den man sich 穫gstigt . また、このテキストでは、不安と(神経症の)症状の関係、抑圧はそこでどのような役割を演じているのかは十分な説明が尽くされているとは言えませんが、不安=信号説が素描され、自我により症状への逃避がなされることが述べられています。いちばん不明瞭なところは「危険」についての説明でしょう。リビドーは、たとえば小児神経症の際、利用されないままとどまり、不安へと変化するとフロイトは述べていますが、なぜ、このリビドーが危険の因子となりうるのかという点です。『ハンス少年の症例』、『トーテムとタブー』、『狼男の症例』などを通じて、去勢不安についての重要性を認識していながら、なぜかれは、これを「危険」と結び付けられなかったのでしょうか。 『制止、症状、不安』の第絃呂如▲侫蹈ぅ箸郎討咼魯鵐江年を取りあ、やにわにそれまで自説としてきたことを覆します。抑圧を作動させるのは去勢不安であり、その逆ではなかったのだと。しかしこの逆転は、理論展開のうえで必然的なものといえます。実際、フロイトは、ハンス少年の恐怖症をめぐって、次のような重大な問題提起を行なっています。つまり、症状とはなにか、不安が昂じてくるのはなぜか、不安を引き起こす対象の選択とは、かれが拒絶した満足とはなにか、そしてなぜかれはそれを拒絶したのか。 症状とは馬恐怖である、あるいは「馬に噛まれるのでは」といった不安に満ちた予期である、とフロイトは説明しますが、そこからさらに論理を展開するにはこの少年がおかれた心的状況を考慮に入れなければならないとして、父親に対するライヴァル心と敵意、エディプステキな態度を重要視します。抑圧された欲動の代表は敵意の対象としての父親ということになります。不安は父親が行使するかもしれない復讐に対するおそれとして説明され、このおそれは、当然の反応、理解可能な反応であるがゆえ、症状とみなされません。神経症的な特徴が現れるのは、父親から馬へと代理形成が生ずるとき、つまり恐怖症の対象の置き換えが成立したときであり、どうじに葛藤が解決されるのです。不安は他の症状へと向けられ、父親への愛のみが意識されるものとして残されます。憎しみの対象としては父親、さらにはその代理である馬も抑圧されます。馬に対して、少年には憎しみはなく、恐怖と憐れみのみが認められていたのですから。 こうして明らかになったのは、抑圧を作動させるのは当の去勢不安であり、不安の内容(馬に噛まれるのではというおそれ)はつねに、最初の内容(父親に去勢されるのではというおそれ)の変形がほどこされた代理ということになります。  ……不安という情動は恐怖症の核心をなすものだが、抑圧過程から生じるものでもなく、抑圧された(欲動の)動き Regung へのリビドー備給から生じるものでもない。不安は抑圧するものそのものから生ずるものである。動物恐怖症の不安の本性は不変のまま存続する去勢不安であり、この後者は現実不安、つまり現実に迫ってくる危険、あるいは現実にそうだと判断された危険を前にしての不安であり、それゆえ、不安が抑圧をもたらすのであって、その逆ではない。かっては抑圧が不安をもたらすと誤って考えていたのだが。G.W.?.p.137.  恐怖症状がどのように働くのか、これではっきりしてきました。まず自我が去勢不安を察知します。そして不安信号を発すると、一連の、脅威となる表象が抑圧され、無意識のものとなり、同時に、恐怖症が形成されるのです。去勢不安は別 の対象に結びつき、歪曲された表現をとることになります。このような変形は、父親についての愛と憎しみとのあいだの葛藤を回避することにも役立つし、自我が不安を発するのをストップするためにも役立ちます。 以上の説明は、強迫神経症やヒステリーの症状形成のメカニズムんにも妥当します。どの場合でも、症状は、不安が昂じてくることによって知らされる危険な状況を回避するのに役立っているのです。神経症は、この1926年の『制止、症状、不安』に至って、去勢という共通する核心のもとにまとめあげられ、それらの差異は、不安信号に対する症状の現れ方によって決まるとされました。 『続精神分析入門』の第32講において、自我が不安、症状をめぐって、どのような役割を果たしているのかがさらに明かにされます。自我は、リビドーから要求があると、過去に遭遇した、危険な状況の記憶を呼び喚こし、この危険が繰り返されないように、欲動の備給を禁圧します。自我が強ければ、この過程は難なく達成されます。逆に、欲動を抑え込むだけの力が十分に備わっていないと、自我は特別のテクニックに頼らざるを得なくなります。つまり、欲動が満足するのを先回りしてくい止め、恐れられた状況に突入しそうになるとき不快が生じるようにさせるのです。このテクニックは快−不快の自動装置 Lust-Unlust-Automatismusを発動させ、危険な欲動(の代表=表象)を抑圧します。自我が試験的な備給を促し、不安=信号とともに、快−不快の自動装置が発動するのです。 いくつかのケースがそこからよそうされます。 1. 不安発作が満開となり、自我は自らの役割を断念し、この発作を放置する。 2. 自我が逆備給を用いることにより、症状が形成される。 3. あるいは、この逆備給により反動形成が確立する。 さて不安はそもそもなにに対する不安なのか。まずそれは去勢不安であると既に定義されています。ここ(『続精神分析入門』)でフロイトは、この去勢不安と対象喪失とを結びつけます。男根期に起こる去勢不安は対象喪失を前提とした分離不安でもあります。図式的にいうならば、女の児の場合、対象喪失、もっと正確に言えば、対象の側からの愛を喪失することが、もっとも重大な危険状況だからです。そしてフロイトは、これまでの著作においても同様なコンテクストにおいて依拠してきたのと同様、ここでも、快感原則に従うならば、外傷というモメントを考慮から外すことはできないと述べています。 ここで問題が起きてきます。断念した初期の理論に回帰しているともみえる叙述がみられるからです。フロイトはこう述べています。事後の抑圧Nachdraengenについていえば、たしかに不安は過去の危険な状況の再現の信号であるが、原抑圧Urverdraengungは自我が外傷的契機に引続いてリビドーの過大な要求にみまわれたときに形成されるのだが、この原抑圧によって、出生時の不安をモデルとして、独自の不安が現れると。そしてどうようなメカニズムにより、不安神経症において、性的機能の身体的障害から不安が生ずるのであろうと。