ブルブル ブルース (Blues)

荻哲の音楽日記−Blues、世界の音楽、よもやま話など

世界には戦争や紛争が溢れ、いつまでも止みそうにない。
超大国のエゴ(拡大政策や資源獲得)によって起こされる戦争。

僕は非常に平凡な人間なので、ただ一つの事だけを望む。それは自分を含めて、人々が平和に暮らす社会で、これは自分や自国だけで確立出来るものではないはずだ。

今回の音楽:
<Jackson Browne “Lives In The Balance” Official Music Video >



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今回、紹介したいのは、ケーテ・コルヴィッツ( Kathe Kollwitz )という女性画家だ。1867年に生まれ、1945年にドイツが降伏する少し前に亡くなった。

彼女は自画像をよく描いた人で、自分のその時々の気分を色濃く表す絵を残している。個性的な顔立ちの美しい女性だが、多くの自画像には陰鬱な気分が出ている。
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彼女の夫は医師で、貧しい労働者達の住む町で人々に医療を施した。
その時に彼女が目にした様子を彼女は描いた。けっして明るく楽しい絵ではない。
K K art

加えて、彼女の長男は第一次世界大戦で戦死した。コルヴィッツは戦争のもたらす悲劇を描き、戦争に反対した。
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画家として知られ始めたが、ナチスは彼女を「廃頽芸術」の画家と指定し、芸術活動を禁止してしまった。

最初に載せた歌は、ジャクソンブラウンが1986年に発表したアルバムの表題作。
当時、米国のレーガンがチリのクーデターに干渉したことを歌っているといわれているが、この40年前のメッセージが古びていないのはどうして?

<政府は国民に嘘をつき、国が戦争に向かう時、以前にも見たことがある事を、どうやってまた新しく記憶にとどめるのか、とあなたは問うかもしれない。

陰に顔を隠した人々は、さあ、ビジネスチャンスだとばかり、銃を戦地に送り込む。
彼らは同じように、僕らに大統領を売りつける、まるで服や車を売るように。
未成年や宗教まで、彼らは何で売りつける。そして、戦争も。

ラジオやテレビでは、「アメリカは自由のために戦う、友が困れば助けに駆けつけるのだ」と何回もプロパガンダを繰り返す。だけど、我らの友好国って何処だい。 自国民を平気で殺害するあの国の政府のことか。

明日をも知れない生活を強いられて、砲火を浴びる人々がいる。
大砲の前に子供が居て、鉄条網には血がこびりついている。
陰に潜み、名前すら思い出せない国の戦争をたきつけている彼らは誰なのか>

僕のブログに良く来られる方は、僕がアメリカに住んでいるのをご存じだろう。
自分の国のトップが世界のバランスを崩し、国同士の信頼関係を脆弱なものにしていることを見るのは、腹立たしく悲しい。 この男は選挙前の公約で、世界中の戦争をすぐに止めさせることが出来ると大嘘を吐いた。 しかし、逆に自分の国と彼自身が世界の脅威になりつつある。

「昭和史」という本を書いた半藤一利は、この様に書いている。
「大事件は氷山の一角で、下にはいくつもの小事件が隠されている。突如、事件が起こるというものではなく、時間をかけて、連鎖的にゆっくり形づくられてきたいくつもの要因が、ある時、まとまって大事件として噴出してくる。ある時点での人間の小さな決断が、歴史をとんでもないほうへ引っ張っていくこともある。その恐ろしさはそこが知れない」

あのヒットラーですらきちんと選挙で選ばれたんだ、ということを忘れてはならない。

久しぶりにスタンリー・キューブリックの「シャイニング」を映画館で観た。ディレクター・バージョンということで、劇場版でカットされていた場面も見ることが出来た。主演の狂気面、助演シェリー・デュヴァルの恐怖におののく顔、不気味なバーテンバーなど(ジョー・ターケルは、ブレードランナーではタイレル博士を演じてましたね)、これらの個性的な役者がこのサイコドラマの傑作を作り上げたわけです。

今回も新しい発見が幾つかあったが、その中でこのブログに関係しそうなのは、この映画で善良そうな黒人のお爺さんを演じたスキャットマン・クロザーズ<Scatman Crothers>は、役者や声優として知られる前に、ミュージシャンとして北部の州で名を馳せていたということだ。
何でも禁酒法時代にアルカポネの前で演奏もしたことがあるとか。
ま、この爺さん、芸達者なエンターテーナーだったというわけですな。

まずは、彼の歌を聞いてみましょう。
<Keep That Coffee Hot>

いかにも50年代のR&B、この人の声は特徴的で、ちょっとコミカルで温かみがある。

役者を始めたのは40歳を過ぎてからで、初めはコメディやミュージカルの映画に出ていた。僕が彼の演技を始めてみたのは、『カッコーの巣の上で』の守衛の役ではないかな。

さて、こんなカントリーっぽいのもこなしてますな。
<Ghost riders in the sky>
歌詞はすごい恐ろしい嵐の光景を歌ってるんだけど、なんともお洒落な感じに仕上がっています。

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こちらの動画ではレッド・フォックスというコメディアンと<All of Me>を歌っておられます。あだ名の「スキャット・マン」どおり、彼はスキャットを使ってます。彼がテ弾いているのは、テナーギターかな。
<Scatman Crothers & Redd Foxx - "All Of Me" >
27歳に結婚した妻と亡くなるまで連れ添ったそうですが、いろいろと浮いた話が多いショービジネスの世界では珍しい。

二週間ほど前、ロスアンゼルスのアカデミー映画博物館に行きましたが、そこでちょうど「ホラー映画」の特別展が行われており、この「シャイニング」に関連の品も展示されてました。

あまり好んでブルーグラスというジャンルの音楽を聴かないけれど、この手のアパラチアン風の歌は好きだったりする。戦前のならなおさらだ。

<Coon Creek Girls - Pretty Polly [1938]>

詩の内容は、ウィリーという悪漢が、ポリーという少女をかどわかし、結婚を迫られ、殺害してしまうという哀れな内容。ドク・ワトソンのオーミー・ワイズの歌詞もそんな内容でした。

さて、このCoon Creek Girls(CCG)のCoonは、Racoon、つまりアライグマの意味だ。地方の人気ラジオ番組に出演するため、田舎びた名前をつけたそうだ。リリーとロージィのレッドフォード姉妹が中心となって1930年代半ばに結成された。
その後、1957年に解散するまで20年ほど演奏活動を行うわけですが、何回かメンバーを替えており、結局、レドフォード姉妹がグループの中心となっていた。

レドフォード姉妹には他に12人の兄弟が居たというから、やはりケンタッキー中部の貧しい農家の出なのだろうか。

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特にリリーの方は、フィドルやバンジョーに長けており、歌も歌う。こうして若い頃の写真を見てみると中々の美人さんだ。まあ、紅一点だよね。で、歌を聞いていると中西部辺り(ケンタッキー?)の訛りがあって微笑ましい。

このCCGは、ホワイトハウスに招かれて、ルーズベルト夫妻の前で演奏を披露し、好評だったというから、田舎の人々には大きなニュースだったろう。

さて、今日は雨降り、家で鬱々と過ごしておりますが、そんな時にはこんな歌が良いのさ。
渋茶をすすりながら聞くのだ。
<East Virginia Blues>

さて、あのピート・シーが―が、彼のバンジョーはリリー・レドフォードの奏法から学んだ、と言ったとか。この様な奏法は「クローハンマー奏法」と呼ばれています。

もちろん、いつも哀し気を歌ったわけじゃない。こんなコミカルな感じの歌も歌いましたよ。アメリカのかしまし娘かね。
<How Many Biscuits Can You Eat>
ビスケット、いくつ食べられるの? って歌なんだけど、ちょっと意味深か?
貴方の焼いたビスケットなら、いくらでも食べられますよ、って答えとくかぁ…あはは。

最後は、リリーのバンジョーの独奏を聞いて終わりにしましょう。
雰囲気が有りますねぇ。これこそ、アメリカン・ヘリテッジ。
<Red Rocking Chair>

今回登場いただくのは、ジェッシー・フラーという人。
ボブ・ディランの演奏スタイルに影響を与えた人物とされています。

<サンフランシスコ湾のブルース>で、有名なお方。ブルースとタイトルがついているが、この人はブルースマンというよりも、ワンマンバンドミュージシャンとして位置づけられるようだ。
それでは、楽しいこの歌を聞きながら、コーヒーでも、どうぞ。
<San Francisco Bay Blues>

長閑な歌ですが、彼女に振られてしまった悲しい心を歌っています。

さて、この人は演奏時にいくつかの楽器を使うことで知られてますが、実はこんなエピソードが有ります。
ボブ・ディランはミネソタ大学に入学したのですが、学業よりも音楽にのめり込んでいて、デンバーでジェッシーさんの演奏を見て、フラーのギターを弾きながらハーモニカを吹くスタイルを模倣した、とのことです。

例えば、彼のファーストにはジェッシー・フラーを彷彿させるこんな歌が入っております。参考まで。
<Bob Dylan - Freight Train Blues>

Jesse Fuller
このジェッシー・フラーさんのことをサラッと、書いてみましょう。
1896年にジョージア州アトランタ近郊で生まれた彼は、幼い頃に里子に出され、それから辛酸を舐めたそうです。折檻なども受けたとか。もちろん、ろくに学校に行かせても貰えず、子供の時から農場や工場などで働き始めたとか。当時の南部黒人にはよくある話ですね。

そんな孤独な少年の楽しみはボロボロにギターを弾いて歌うことだったそうで、十代半ばで、ブルース、ゴスペル、フォークソングなどを人前で披露していたとか。しかし、苦労人なのでしかし、歌では食べていけないと考えていたようです。

もともと器用な人なのか、30歳頃には鉄道の機関士をしたり、溶接工として働いたりもしています。
1950年代のフォークブームに入ってから、彼は少し音楽活動に意欲を見せ始め、一人で様々な楽器を弾きこなすスタイルを確立していったようです。彼はもう50歳半ばだったはず。

さて、彼が演奏に使ったのは、ギター、ハーモニカ、カズー、ハイハット、そして自分で作ったフォトデラという足で操作するベース楽器…まあ、詳しく知りたい方は、次の動画をご覧ください。
<Running Wild>

鉄道で仕事をしていたので、鉄道の歌をいくつも作っておりいます。
<railroad work song (1955)>

最後に書いておきたいのは、こんなこと。
若い頃に陰惨を舐めて来たジェッシーさんですが、暖かい人柄だったそうで、若い頃の苦労(ひがみ)が見えない人だったとか。
ボクシングで世界チャンピオンになった輪島功一も少年時代は非常に貧しく、中学生になると夜間はイカ釣り漁に出て、昼は疲れて学校の机で寝ていたといいます。しかし、若い頃の苦労を、少しも外に出ない明るい人柄だそうです。団子屋さんですしねぇ。

夏もそろそろ…高校時代の夏休みの思い出どもが頭に浮かんで来たが、夜更かしばかりの寝ぼけた自分ぐらいしか思い浮かばない。
テキトーに勉強はしていたのだろうが、その他には何をしていたかしらん。
レコードばかりかけてゴロゴロしていたか。扇風機からは昭和のぬるい風。

さて、ラジオでこの歌を初めて聞いたのは、高校の夏の頃かしらん。
<Roochoo Gumbo>

最後の辺りの「ハイサイおじさん」って辺りが良いねぇ。
渋谷洋一さんの番組だったかなぁ。番組の名前は失念したが、ちょうどその時の放送をラジカセで録音していたので、何回も聞き直した。赤いナショナルのラジカセで。

<つめたく冷して>
夏の風情が一杯。細野晴臣の名前は、「はっぴぃえんど」で知っていたけど、こんな東洋風の音楽と共に僕の耳に戻って来るとは…嬉しかったねぇ。はっぴぃえんどの<夏なんです>という不思議な歌を氏は作ってるけど、きっと夏の生まれなんだろうな、

さて、今回の紹介している歌は1976年に横浜の中華街で行われたコンサートから。
ライブの様子が見れる。皆さん若いね。
<Harry Hosono & TIN PAN ALLEY - 北京ダック>

僕の叔父さんは、戸塚に住んでいた。時々、横浜の中華街まで食材を買い出しに行って、自分で中華料理を作ってた。小学生の時に連れて行って貰った中華街は、マスコミやマンガで大きく取り上げられる前で、「街」も今ほど大きくもなかったし賑やかさも無かった気がする。叔父さんが行く店は細い路地に並んでいたような覚えがある。建物も古びていて、小学生の僕などには何となく胡散臭い感じがしたぞよ。
でも、この中華街も1972年の日中共同声明以降から、賑やかになっていったんだろうな。その頃の街の活気が良く伝わるいい歌だ。

さて、僕の聴いたラジオ番組は、大盤振る舞いで、細野氏の<泰安洋行>や<トロピカル・ダンディ>から、幾つかの曲を選んで流してくれたが、その番組で一番最後に掛ったのがこの曲。
<サヨナラ>
番組で細野さんが、マーチン・デニーに影響を受けていると言っていたが、レコードが見つからず、僕自身はしばらくマーチン・デニーの曲を聞くことはなかった。
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イメージソング:
<ねこのねごとー高田渡>


ウチの猫はキャットカフェからもらい受けて来たオスの猫。タキシード柄の粋な奴である。
野良猫として保護されてたそうだが、人当たりも良く、犬が家に来ても落ち着いているので、以前どこかで飼われていたのだと思う。僕がキャットカフェにあるソファに座っていると、膝の上にも乗って来たので、目を合わせると何だか心が通い合った感じがした。
そんな経緯で、レオン君が家に来てから、今年の8月26日で5年が経った。来た当時、獣医さんが推定で5歳としたので、今年で10歳…。俺と同じで老齢の域に入りつつある。
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元々の名前はレオンではなかったが、レオン・レットボーンを偲んで「レオン」と名付けた。
<Leon Redbone ―Lazy Bones>

猫は寝てばかりの怠け者だし、上のイメージソングの元歌なので、「怠け者」という題名のこれを選んでみた。
座布団の上で、お休みしているレオンの頭を、「お互い歳だなぁ」と撫でながら呟くのだが、君にはいつまでも元気で長生きして欲しいものである。

猫の歌は色々とあるけど、まあ最後はこれかな。
<Stray Cats - Stray Cat Strut>

ギタリストのブライアン君、昨年までギターが弾けないくらい弱っていた様子だけど、今度、11月に私の街でコンサートをするようですね。行こうかなぁ、と考えている所。

下は懐かしきレオン・Rのお写真
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最近、近くのノーフォーク植物園でお散歩を楽しんだ。
花や木も沢山あった(当然か)。そして、日本庭園風のお池にはカエルがたくさん居た。ああ良い天気。

池のカエルが何であるか一瞥して何カエルか分からなかったけど、その内、一匹が「ヘイ〜、彼女、ゲロゲロ〜」と鳴きやがったので、彼らが何ガエルか分かった次第だ。
<ウシガエルの鳴き声>
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日本では外来種のウシガエル。鳴いてる奴を見ながら、俺は呟く、「食べると美味しいんだよな…お前ら」。

当然のごとく、ここでこのカエルさんの名前の付いたブルースを流す、俺。
<Bullfrog Blues - Canned Heat>
<朝、目が覚めた時に、ウシガエルが頭に浮かんで来たことはあるかい?>
あるわけねぇだろう、こちとら江戸っ子でぇ。出て来たら脚をフライにして食っちまうぞ、と。だけど、意外にも癖がなく、鶏肉風の味なのよ。
アルバム写真の中のパイプを薫らせたアラン・ウィルソン、若く見えますね。

そういえば、このアイリッシュの兄いも歌ってたな。
<Bullfrog Blues‐Rory Gallagher>
この酒飲みの兄貴、翌朝起きた時に、頭が頭痛でゲロゲロ、トイレでゲロゲロは毎度のことだったかもなぁ。酒で寿命を縮めた方だ。

さて、この歌の元歌は、これですよね。
<Bullfrog Blues −William "Big Foot" Harris>

ハリスさんのこの歌、始まりの16秒までは速いテンポで、それから突然テンポが落ちる、という不思議な歌。
あるブルース系の雑誌では、中程度の(まあまあの)ブルースマン、という評価を受けておりましたハリスさんですが、先に紹介したカエル歌の二つのカバーで、彼の名前は不動なものとなりました(かな?)
メディシンショーなどで、歌っていたそうですが、2回のセッション(1927年と1928年)で16曲を録音したということなので、当時はまあまあの売れっ子だったのかも。
顔写真を見るとなかなかのハンサムさん。彼の消息ははっきりしておらず、1930年代に30歳半ばで亡くなったとされております。
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下はジム・ジャクソンのヒット曲をカバーしたもの。当時のメディシンショーで定番だったのでしょう。
<Kansas City Blues>

これは、ちょっと違う毛色のウシガエルのブルース。
最後はこんな可愛らしいウシガエルのラグで終わるのでゲロ。
<Bull Frog Blues by Tom Brown & Guy Shrigley 1916>

もうこの曲が流行って30年が経つのね。
<Cornershop - Brimful of Asha>

コーナーショップというバンドで、リーダーはインド系の英国人。
<45回転のドーナッツ盤から零れるようにアシュアの歌声が聞こえて来る。誰もが枕の代わりの胸が必要さ>

始めて僕が、インド人が作る本格的なカレーを食べたのは、多分、銀座の「ナイル」というレストランであろうか。
当時、付き合っていた彼女はインド料理が好きで、時々その店に行きましたが、ランチメニューが幾つかある中で、ウェイターの兄ちゃんはいつも「ムルギカレーが美味しいよ」と半ば強制的に決めてしまうのでした。まあ、美味しかったですけど。

それから、色々なレストランでインド式のカレーを食べてまいりましたが、ある女性の声がいつも後ろで聞こえていたような気がする。
一番上の歌の歌詞に出て来る「アシャ」こと「アシャ・ボスレ」という女性歌手もその一人なのです。

<In Ankhon Ki Masti>

そうそう、この声。頼んだ「チキン・ティッカ・マサラ」に、マンゴーの甘いチャッネを載せて、さあ食べようとすると、この声が「さあ、召しあがれ」と響いて来るのですよ。
突然、カレーが食べたくなる。日本のじゃなくてインドのスパイシーなやつをね。

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アシャ・ボスレは、インドでも屈指のプレイバックシンガーでありました。多くの美人女優が彼女の歌に合わせて、口パクしたのだ。姉のラタ・マンゲシュカルもギネスブックに最多録音歌手として載ったプレイバックシンガーで、このお二方は、声が可愛らしくてハリがある。
何回も彼女らの声を聞きながら、カレーを食した僕である。

最後はインド風のロックでお別れ! 
<Dum Maro Dum>
ところで、皆さんはカレーの付け合わせにチャッネを載せますか? 
何のチャッネがお好きかな?
甘いのも良いが、僕は酸っぱいやつも好き。
冷蔵庫に有れば、福神図漬けも載せたりするぞよ。夏はカレーだ!

最近、久しぶりにオーストラリア出身のブルースマン、CW・ストーンキングを聞いてます。彼のことは以前紹介した事が有りますね。
以前にミュージシャンを辞めたとか辞めるとか聞いていたが、実はまだ元気に活動しているようなのだ。ま、一曲いかがか?

<Jailhouse Blues ― C.W. Stoneking>

良く分からないが、この人の英語は(オーストラリアの)アクセントが強い様だ。そして、彼の演奏もアクが抜けておらず、決して上手という風ではないんだけれど、これが彼の声にピッタリで白人にしてはブル―でダークな雰囲気を醸し出している。
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さて、<Jailhouse Blues>というタイトルの歌は極めて多いんですが、それではメロディーや歌詞は同じかというとそれぞれ違う。

今までも書いて来たが、刑務所の経験を持つのブルースマンは多い。だから、それぞれが自分の経験を歌ってるのかしらね。

<Lightnin' Hopkins - Jailhouse Blues>
<俺はムショに入るのは気にならんさ。でも、長い間入ってた。多くの友達にも再開したぜぇ>
ライトニングさんは何回かムショに入っていた強者であります。物言いが反抗的でふてくされていたと取られたのか、中には詰まらない理由で留置所に放り込まれたりしてます。

特に戦前などは囚人は大きな労働力にもなっていたので、軽い罪でも、特に黒人はすぐにしょっ引かれ、架線や耕地などの労働に従事させられた。
夜、街を歩いているだけで捕まったりしていた、というのだから酷いもんだ。

日本と違って、アメリカではかなり入獄経験のある人が多いわけだが、この目が不自由だった彼もしょっ引かれたことがあるのだろうか?
<Sleepy John Estes - Jailhouse Blues>
嬉しいことに終身刑や電気椅子はまぬかれた、とか。
まあ、この人の場合、少しは目が見えていたという話もあるが、有るとしたら若い頃の話か、それとも創作か。

マギーさんも歌ってるが、この人の場合はどうかなぁ。彼は第二次世界大戦に従軍していたというから、ムショ暮らしも軍隊生活も似たようなもんか。
<Jail House Blues ― Sticks McGhee>

これは永遠の名作なので、タイトルは違いますがオマケに加えて置きました。
<Midnight Special ― Leadbelly>
受刑者の生活が歌のテーマですが、早く出所した気持ちが歌われております。
早く、人間になりたい!

サニー・ボーイ・ウィリアムソンの歌というと、どろんとよどんだ眼で、ウダウダと愚痴をこぼしたり、酒場かどこかで耳にしたゴシップをねちっこく歌う、という感じだ。
でもぉ、好きなんだな、そんな歌も。
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でもでも、次の歌は彼の歌の中でも、明るい歌である。
それでも、彼らしく、ぬるとした声を震わせて<ベイ〜ビィ>…と始まりますけど。それは、サニー・ボーイ IIだからしょうがない。
<Sonny Boy Williamson - Bring It On Home>

<おまえの元へ帰るんのさ、切符は買ったし、荷物も積んだ、「乗車してください」と車掌の声が聞こえる、席に着いたら揺られて、線路を走って行く列車、ベイビー、ベイビー、おまえの元へ帰るんだ>
故郷の妻や子供にはどんなお土産を持って帰るのでしょうか。
聞いていて思うのは、多分、この歌はサニーボーイ自身の体験を歌にしたものではないだろう、ということ。戦後間もなくから60年代に掛けて、多くの南部の黒人労働者達が北部のデトロイトやシカゴに出稼ぎに出たわけですが、これは故郷に稼いだ金を持って南部の家族の下に帰る人々のことを歌ったんじゃないかと、思うのです。
当時、故郷を離れて寂しい思いをしている労働者達がこの歌を聞いて、「いつかは故郷に…」と思ったに違いない。彼らのためにこんな歌も作られていたわけです。

<ブラウンズビルに帰るんだ、あの長いカーリーヘアのもとに、彼女の家のドアを叩くまで、何処にも寄り道はしないぞ…>と意気揚々した歌。
<Sleepy John Estes – The Girl I Love, She Got Long, Curly Hair>
この曲はライ・クーダーもカバーしてるけど、タイトルは<Goin' To Brownsville>でしたね。このテネシー州のブラウンズビルがジョン・エステスの住まいでした。

最後に…
さてさて、少し話題が逸れますが、こんなドキュメンタリーフィルムを見つけたです。
<Sleepy John Estes - Brownsville, Tennessee>

ジョン・エステスが1962年にブルースの好事家に再発見された時には、電気も水道も無い掘立小屋、まだ若い妻と子供達と共に暮らしていたと云われていますが、この動画の子供達も痩せこけ、妻のドレスもボロです。暮らしも貧しいものであることが分かります。

このフィルムは、ブルース研究者のサムエル・カーターによって撮られたようですが、その再発見時に録画されたものなんじゃないかしら。

彼の生年については1899年と1904年という二説があるのですが、録画では彼はたどたどしく1904年の12月に生まれたと語ってます(ちなみに彼の墓には、1899年の生まれと彫ってある)。
いづれにせよ、録画当時のジョンさんは今の俺よりも若い(!)のだ。

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上は1962年に出された「スリーピー・ジョン・エステスの伝説」のカバーですが、この写真と同じく鉛筆のカポを使い、(多分)同じギターを使っています(ツマミだけは付いてますが)。帽子や背広はアルバム写真のために新調したか(?)。

その後のレコードやコンサートの売り上げで、ジョンは家族に新しい服や靴を買い与え、電気と水道のある家に住み移ることが出来たでしょう。 

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