ブルブル ブルース (Blues)

荻哲の音楽日記−Blues、世界の音楽、よもやま話など

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さて、前の記事で紹介したキューピーの生みの母でありますローズ・オニールは、明治7年(1874年)にペンシルベニア州に生まれました。生家が裕福でなかったために、正規に美術を習うことは出来ませんでしたが、父親の蔵書の美術書に載っていた絵を模写して独学で絵を学んだそうです。
少女時代の逸話としてこの様な話があります。
児童画のコンテストで一等を取りましたが、その時ローズはわずか13歳。審査員は彼女が自分で描いたのではないと疑い、その場で絵を描いて見せ、審査員たちを納得させたとか。絵の技術を学ぶ方法の一つに名作の模写が有りますが、彼女もその方法で腕を磨いたのわけです。数年の後は雑誌のイラストレーターとしてプロの道を歩み始めました。下は彼女が二十頃の作品。
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彼女の書いたイラストの中でも有名なのはこんなのがあります。
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絵の題名は<ジョージアにて>。
リンチに出かける白人達を見て、若い黒人が老人にたずねます。
「トム爺や、(俺たちの境遇は)奴隷の時代よりもましになったんかな」と。
トム老人はこう答えます、「あの頃、俺たちは商品だったから、あんな目には合わなかったさ」

実は僕はこの絵を見てちょっとショックを受けたので、彼女のことについて書くことにしたのです。ポン引きやヒモは折檻する時に、(商品である)女性の顔を傷つけないように尻や足などを叩くという話を聞いたことがありますが、それと同じことなんでしょうね。怯えた幼子の顔が印象的です。北部の州といえども人種差別は根強く有りました(そして、今でも!)。彼女はそれに対する風刺画を描いて平等主義を主張したのです。
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さて、彼女の描いたキューピーは明治41年(1908年)ごろから流行しましたですが、ただ可愛いだけのイラストじゃなかった。
このポスター(1915年頃)ではキューピーちゃん達が女性参政権を訴えているのです。「家事に関わる政策を男性に任せておくわけにはいかない。お母さんたちに参政権を与えよ」と。
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当時すでに女性参政権運動などは始まっていたものの、米国で全国的に女性に参政権が与えられたのは1920年のことだと云います。この当時、夫人に参政権はなく、このイラストではキューピーちゃん達が女性参政権を訴えているのです。

今週のイメージソング:<Ethel Waters - No man's mamma

男と別れてさばさばした気持ちを歌っております。よほど愛想が尽きていたんでしょうね。

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子供たちのキューピーちゃんを人形として抱っこしたいという希望を手紙で受けて、彼女はキューピー人形を作り上げたわけですが、彼女は黒人の子供たちのために肌の黒いキューピーも造ったといいます。彼女の願いはお金持ちの子にも、恵まれない子にも等しくキューピー人形が抱かれることだったそうです。
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キューピー達が集まって、樽の中にディオニソスの様に座っている男の子を慰めに来ます。

さて、ローズは二回の結婚をしていますが、離婚後は未婚のまま恋人を持ったとか。そして、離婚することが嫌われていた当時としては異例なことだったようです。日本でも昭和の辺りまでは、離婚する夫婦がいたら妻の方に問題があったんだという大人もいましたね。女性は男に尽くし、少しのことは我慢するのだ、とか言っていた。

面白い話があって、2回目の結婚で一緒になった旦那さんは、ローズが赤ちゃん言葉で話をするのに辟易していたという話がある。しかし、逆に「どうちて、あなたはそんなにお酒をのむんでちゅか?」なんて聞かれたら、燃えてしまう男もいるはずだが…。

ローズは当時としてはかなり進歩的な思想の持ち主で、女性も平等で自由であるべきというフェミニズムを実行したのでしょう。

どうしてローズはこんなに進歩的だったんだろうと考えてみました。彼女の育った家では、教師をしていた母親が主に家計を支えており、子煩悩な好きな父は家で子供と過ごすことが多かったようです。だから、女性が社会に進出するという考えも自然と芽生えたのでしょうか。また、ローズは早くから自分で稼ぎ経済的も独立することが出来たので、経済的に男性に頼る必要もなかったわけです。

さて、キューピーの流行も終わる頃、彼女の作風にも変化が見られます。
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上の女性的な怪物が’男性を抱擁する作品などは、「キューピーの画家が、今度は奇怪な怪物を描き出した」とスキャンダラスな話題を与えたとか。僕はこの絵を見ながら、「地母神」という言葉を思い出した。子供を産み育て、男たちを大きく包み込み癒す…。
O’Neillという名前は、アイルランド系ですが、ケルト神話にはメイブ<Medb>という地母神が出てきます。

次の絵などはイギリスの詩人で画家でもあったウィリアム・ブレークの作品を思い出させます。
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さて、お金持ちだったローズさんですが、羽振りの良い時には浪費も多く、フランスに居を移したり、家族を一手に養ったり、取り巻きたちとの付き合いや献金、そして世界恐慌などの影響を受けて、晩年はすっかり財産も使い果たし、ミズーリ−州の田舎に引き込んで静かな余生を送ったそうです。ローズは第二次世界大戦が終わる一年前の8月6日に69歳で亡くなっています。
この優しきキューピー達の生みの親は、広島や長崎で行われた非道を耳にすることなくこの世を去ったのだ。

フェイスブックで、ある方がキューピーのことが書いておられました。
好奇心から、このキューピーが題名についたブルースはあるかと探したところ、あるんだなぁ〜、これが、また。それもあの大御所のご機嫌なブギウギであります。
あの酒飲みのオッサンの結構いい加減な歌詞でありまして、それでも聞かせるのが技であります。

LIGHTNIN' HOPKINS - MY LITTLE KEWPIE DOLL
https://youtu.be/QltpVqFMPFA

<ベイビー、一体どうしたんだよ、そんなお前に俺はどうしていいのかわからない。
そう、お前は俺の可愛いキューピー人形なんだからさぁ。>と適当な訳。
ある本によれば、売れ出してからのホプキンスさんは、内縁の妻と暮らしていても住所不定で、他の女性のところに数日泊まっていたりすることもあったという居所が分からないオッサン。何とかレコード会社が連絡をつけて録音という次第になると毎回飲みながらの録音となる。遊ぶ金(生活費)が欲しいホプキンス、以前に吹き込んだ歌を焼き直して、いい加減に歌詞をつけて新曲を作り上げたりする。この曲もそんな曲のひとつか。
聴いていてもへべれけな歌でありますが、そんないい加減さもブルースらしくてヨロシイじゃないか!と書いておこう。

さて、好奇心の強い僕はキューピー人形の方にも興味が湧いたわけですが、もともとはローズ・オニール(Rose O'Neill)という女性のイラストレーターが作り出したもの(写真下)。なんでも、デズニィーが出るまで、世界でも一番売れたイラストレーターだったとか。彼女は明治7年生まれで、キューピー人形の流行は明治41年(1908年)! キューピーは明治生まれだったのです。
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そして、調べて行くと色々と興味深い話が出て来たのです。このローズ・オニールという女性、ただものじゃない…ぞ。
ということで、次回に続く…。

皆様はダンスを見るのがお好きか?

Julie Brown's Performance

気がくさくさする。何となく落ち着かない。そんな時には、スローで自堕落なブルースを聞くと心地良いのだ。この気だるいこの曲はリトル・ウォルターの<Blue Midnight>ですな。
中国拳法に酔拳というのがあるけど、こりゃ酔踊じゃあな。昔の地下の倉庫みたいな感じのステージで、踊り始めに懐からスキットルを取り出してくいっと一飲み。やっぱりこの曲、酔っぱらいが似合う。時々、千鳥足で踊るのでコミカル。

僕は、このジュリー・ブラウンさんが誰だかは知らない。多分、ダンサー兼振付師といったところか。でも、何だか気になったので彼女のダンスの動画を探したら、今度はスローなブギで踊っておりますな。ジュリーさんの音楽のセンス、お好み焼きじゃぁ。
Pink Champagne
酒の飲みすぎで彼女に逃げられた歌。あ、女性だから飲みすぎで男に振られたか? 
ベットに横たわりロマンチックな夜を期待してたら、隣で酔っ払ってイビキをガーガー。
でも、このダンスを目の前で見たら俺みたいな爺さんもおかしな気分になりまして候よ。

これなんかも今の気分にマッチングなんよ。
Heather and Lee's Performance
ノラ・ジョーンズの歌だね。ハーレム・ハムファッツの<Weed Smoker's Dream>を思い出させるね。
とにかく、退廃的で非常によろしい。酒で呆けた頭には最高でありました。
女性の尻が生めかしく動くのを見るは爺には眼福であった。
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人生は時々、細い糸の様な偶然で繋がることがあるんじゃないかと思う。いつ切れてもおかしくないほど細い糸だけれども、長い間、切れもせず繋ぎ留めていたりすることが時にある。

人のギターをこっそり隠れて弾いていた少年、ジョン・スミス・ハート。ある時、人気のない場所から手慣れた演奏が聞こえて来たので、母親がこっそりと見に行くと、大人が弾いているのではなく自分の息子だったので驚いたという逸話がある。ジョンは9歳ぐらいだったそうだ。しばらくして、母親は息子にギターを買い与えたという話がある。

最近、ホール・アンド・オーツのオーツが、ジョン・ハートの所有していたギルドのギターを手に入れたという記事を読んだので、ジョン・ハートを聞き出した。Philip-Murphy-JO-16-crop  John Oates

スカウトのために行われた町のコンテストで勝ち、ニューヨークシティで録音をするという機会を得たジョン・ハート。彼が35歳ごろの話だ。名前が平凡なので、レコード会社が“Mississippi”と入れて「ミシシッピ・ジョン・ハート」を芸名とした。
しかし、ニューヨークに行ってみると静かな田舎で暮らしていたミシシッピ・ジョン・ハートは、大きな都会には馴染めなかったようで、NYCでホームシックブルースである<Avalon, My Home Town>を作って録音している。
Avalon Blues (acoustic blues 1928)

<ニューヨークの朝9時を15分すぎた頃、ああアヴァロン、俺の街、涙を浮かべて思い出してるところ。女房は俺が傍らにいることを望んでいるだろう…列車で町を去る時にキスをいっぱいしてくれて手を振っていたよな。どこにも立ち寄らないで、真っ直ぐ帰って来てね、と…>
しかし、時は大恐慌の折だ。 “Okeh”というレコード会社も営業不振で彼の録音の数年後には他社に身売りされたとかで、あまり宣伝しなかったのかレコードの売れ行くは良くなかった。ジョンは多くの他のミュージシャンのようにジュークジョイントやメディシンショーで演奏をしなかったので、そのせいもあるかもしれない。
その後、ジョンにレコード会社から連絡がなかったし、彼の方も生活して行くために、小作人のなど様々な仕事して暮らした。ジョン・ハートは小柄な男だったが、線路の枕木を手で切り出して現場まで運ぶような重労働にも従事したことがあるそうな。昔の人は頑丈だ。

それから、35年後、トム・ホスキンズという人によってジョン・ハートがはるばる再発見されることになる。

きっかけは1952年に出された< The Anthology of American Folk Music>という6枚組のレコード。その中に彼の曲が2曲紹介されていた。彼を探そうと考える好事家が出て来た。
その時に探すヒントとなったのが「Mississippi John Hurt」という芸名と「Avalon Blues」という曲名である。1928年の録音時にこれらの言葉が使われなかったら、探すのにもっと時間がかかっただろう。探し出された時、ジョンはすでにギターを手放しており、2年ほど演奏していなかったそうだが、ハスキンスが自分のギターを貸し与えると器用に弾き始めたそうだ。

彼のギターと温かみのある歌がこうして若者の間で聞かれるようになる。いわゆるフォークブームである。今まで手にしたこともない金額が支払われたことにも驚いただろうが、白人の若者が熱心に年寄りの黒人の歌と演奏に聞き入るのを見て驚いたことだろう。

もちろん良い話ばかりではない。
人に勧められてジョン・ハートと妻は、ミシシッピからワシントンDCに移り住住むことにしたが、土地を離れる時に、地主が姑息にもジョン達を土地に留まらせようとしたという話がある。ジョン達が払えないような金額の借金があると言い出した。低賃金の労働者を失いたくなかったのだ。その時に同行していた白人が支払ったそうな。
しかし、移り住んだDCのアパート付近は治安が悪いことなどで、田舎の暮らしに慣れた彼らには馴染めなかった。その一方、1963年のニューポートフェスティバルではセンセーションを巻き起こし、老齢に関わらずれこーっディングやコンサートなどで多くのファンを得た。

長く望んでいた故郷のアヴァロンに再び戻ったのは1966年の2月。そして、ジョン・ハートは、その年の11月に静かに息を引き取ったという。自分の残された命が長くないことを知っていたのだろうか。
二年にも満たない人生の最後の輝きを私たちに示して、彼の故郷アヴァロンに戻って亡くなった、というわけである。
彼の人生の最後の二年間、ミシシッピ・ジョン・ハートは天使だったのだ。多くの人たちを幸せにし涙ぐませた。

八月の終わりはいろいろと忙しくて、更新もままならず…すみませんでした。

さて、前にも書きましたが、僕の誕生日は終戦記念日の二日後。
子供の時、テレビではお決まりの終戦の特集番組などが流され、子供の僕は気が塞いでしまった。おまけに、夏休みもそろそろ終わりということで、宿題のことも心配しなければならない誕生日でありました。それに夏の終わりって意外と物寂しいでしょう?
負け戦ってやつはトラウマになるんだろうな。負け戦は人を卑屈にする。
でも、戦争がいつまでも終わらないのも辛いもんだ。

さて、Youtubeでこんな動画を見つけたのです。
ナンシー梅木 – Sayonara

1953年というとまだまだ戦争の記憶に人々が打ちひしがれていた頃ですね。そんな時代に、米国で堂々アカデミー助演女優賞を取ったナンシー梅木。この頃の東洋人は、アメリカでかなりの差別を受けているはずですが、その中での快挙です。
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さて、ナンシー梅木さんは、日系人ではなくて、北海道生まれの日本人。戦後の進駐軍のためにジャズなどを歌い始めたそうで、1950年代の日本のジャズ歌手の草分けてき存在だとか。その後、アメリカに活躍の場を求めたそうです。

下の歌では日本語を交えて歌っていますが、日本語の歌詞が少し舌っ足らずにも聞こえ、面白いです。歌はさすがに上手ですね。
Gisele MacKenzie & Miyoshi Umeki: Buttons & Bows
この動画を見ながら思いましたが、米国人にしても戦場で命を取り合った男達よりも女性の方を受け入れやすかったのかもしれません。少し前に、「負け戦ってやつはトラウマになるんだろう」と書きましたが、勝った方にしても戦争は決して楽しい思い出ではないはずだ。

その昔、国際レスリングのラッシャー木村と金網デスマッチなどを行っていたジプシー・ジョーは、そのタフネスで名を(一部のファンの間で)知られていた。だがその実彼はプエルトリコの出身だったそうだ。

さて、最近、ジプシーのギターなどをインターネットで探して聞いていたら、ポール・「チャン・チョウ」・ヴィダル(Paul Tchan Tchou Vida)という不思議な名前のギタリストを見つけた(写真下)。
Paul Tchan Tchou Vida −La Gitane

この曲は彼の代表作らしい。彼は1923年にフランスのマルセイユに近い町で生まれた。生まれ落ちたのはジプシーの家で、父親もギタリストだったから、自然と彼もギターを弾き出したに違いない。ジャンゴ・ラインハルトと共に演奏したこともあるそうで、ジャンゴの継承者とみられているという話だ。
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ところで、「チャン・チョウ」は、何のことじゃと訊ねる人ありや? 蝶々じゃないよぉ。

最近はあまり使われないが、英語でも中国人のことを「チャンチャン」とか「チンチン」とか呼んで揶揄していた。フランスでは中国人のことを「チャン・チョウ」と呼ぶのだろうか。
何でも彼のオバさんが、東洋人っぽい顔立ちのポールをそう呼んでいたそうで、まあ、身内同士の愛称というわけですな。考えてみると、ジャンゴ・ラインハルトだってちょっと東洋人っぽい顔立ちしてたんじゃないかな?

インターネットで調べてみてもあまり彼のことを詳しく記述したものが見られないけれど、つまりは彼自身の音楽に語らせるしかない。
I'm Confessin' (That I Love You)
途中でハッと聞き惚れるフレーズが出て来る。夏の気だるい人気のない浜辺で、こんな音楽を聴いたらいいだろうな。
彼はあまり大きな場所で演奏をするのが好きではなかったそうで、パリではあまり演奏をしなかったと、どこかに書いてあったが1960年のパリでの録音に良いものが多いように思われる。

さて、<黒き瞳>はロシアの民謡ですが、好きな曲なので最後に紹介して終わりましょう。ジプシーの輝く黒い瞳を思い描きながら。
Les Yeux Noirs (Dark Eyes)
この曲の始まりはなかなか斬新であります。Tab譜が出ているので挑戦しみてはいかがか?

このブルグでは、多くのアクセスがあった記事をリストする機能がある。
最近、以前書いた<Arik Brauer(アリク・ブラウアー)>という記事へのアクセスが多かった。

そこで、調べてみたら予感が当たっていた。
ブラウワーさんは、今年一月に亡くなっていたのだ。
92歳の誕生日を迎えてすぐのことだったらしい。
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まあ、長生きをなさったわけだが、戦前、戦中、戦後といろいろな体験をして来たはずだ。
1929年のオーストラリアに生まれたユダヤ人だから、戦争が終わるまでは家族ともども辛酸を舐めたことは語るでもないだろう。彼の父は強制収容所で亡くなっている。
生前彼はあまり若い頃の話をしたがらなかったそうだ。ある展覧会のパンフレットには、「つらい現実に向き合う代わりに、(絵を描いて)想像力の中に遊ぶようになったのだ」と書いてあったように思う。

人は亡くなる前に美しい風景や花などの幻覚を見ることがある。彼は病床で自分が描いて来た不思議な風景を見たのだろうと想像する。
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ブラウワー氏の娘の一人はイスラエルを拠点に活動している歌手だが、葬式の時に彼女は父のためにこんな歌を歌って送ったのだろうか。
Timna Brauer - AVINU MALKEINU

この曲はMississippi Joe Callicottの<You Don't Know My Mind>で知っていたのですが、てっきり彼のオリジナルだと思ってた。でも、実はかなり古い曲でした。

Virginia Liston
多分、これがオリジナルなのかしらね。
Virginia Liston - You Don't Know My Mind (1923)

<私の気持なんかわからないでしょうね。私が笑ってるのはね、泣き出したくないからよ。
私の男、馬で一発当てたんだけど、その金を他の女に貢いでさ…。
私が泣いているのを見ていて心が痛まないの?って聞いたら、お前が死んでもそんな気持ちにはならんね、だとさ。
私の気持なんかわからないでしょうね。私が笑ってるのはね、泣き出したくないからよ。>
まあ、ひどい男に惚れたもんだ。涙は見せない、女の意地なのね。 

この歌のタイトルを入れてインターネットで検索すると、色々なカバーが出て来るのですが、これなんかも渋い。
Leadbelly - You Don't Know My Mind
<お前なんかに、俺の気持が分かってたまるか。つべこべ言ってねーで、早くここから出て行け!>って啖呵ですかね。

さて、リストン嬢には、こんな歌もある。
You Got the Right Key but the Wrong Keyhole
「カギは正しいけど、鍵穴が違うのよ」という歌で、年甲斐もなくスケベっぽい内容を期待して聞き始めてしまった。
<彼ったら、カギを差し込んで、回してみるけど、どうも具合が悪いみたいね。>
そして、こういうのだ。
<あんたが居ない時にドアの鍵を替えたの。カギは前のままだけど、鍵はもう合わないのよ>。
ははは、なかなか意味深で考えさせられる歌詞だ。
男の方では、悔し紛れにロバジョンの<Terraplane Blues>でも歌うんだろうね。
<俺がいない時に、この車に乗ったやつがいるな。エンジンがスタートしない!>

さて、<You Got the Right Key but the Wrong Keyhole>を聞きながら、思い出したのが、ルシンダ・ウィリアムスのこの歌。同じコンセプトだよね。でも、この歌には色気はないか。
Lucinda Williams−Changed the Locks
<わたし、玄関のカギを代えたのよ、だからアンタ、もう入って来れないからね。>
一度、熱が冷めると、女も冷たいもんだよね。貴方も経験ありますか? へへへっへ。

The Eternal Kansas City

「永久なるカンサスシティー」って曲が入ってるこのヴァン・モリソンのアルバムは、僕の覚えでは、あまり評論家の評価が良くなかったような気がする。
でもね、俺はこの曲の始まり方がすごく好きなのさ。レコードの溝に傷がついてるのかと思うほど、女性コーラスが「カンサスへの道を知っていますか?」って、何回も歌うんだ。そして、曲は段々と盛り上がって行く。いい曲だな。

ジャケットを眺めながら、僕は思ったもんだ。「ヴァン・モリソンってかっこ良いのかな、それとも悪いのか?」 チンチクリンに見えたりするけど、この顔で見つめられると、渋い!なんて思ったりするかも。
このアルバムには、もう一つ好きな歌がある。
Cold Wind in August
これもモリソン節全開でございます。評論家の評価は良くなかったけど、こうして聞き直すと悪くないじゃないか!

ところで、何かカンサスシティって特別なの?って思いません。
カンサス・シティは、ミズーリ−州とカンサス州にまたがっておりますが、大きなのはミズリー州にあるカンサスシティで、ちょっとややこしい。僕はまだ行ったことはないのですが、BBQなどが美味しいと聞いております。
Jim-Jackson
ブルースの曲にもカンサスシティが題名に入ってるのが幾つかあります。
古いところでは、1927年にジム・ジャクソン(写真上)が吹き込んだ
Kansas City Blues
<メンフィスのビールストリートでルーシーという女を探す彼。どうも、女はカンサスシティに移ったようだ。ハニー、あの町じゃお前は嫌われてしまうぜ…>
このモコモコとした音や声が私の様な古歌が好きな輩には溜まりません。この歌はメンフィスやミシシッピのブルースマンが良く取り上げる曲だったようで、ロニー・ジョンソンなども録音しております。

カンサスシティは禁酒法の時代でも、ギャングが後ろ盾していたナイトクラブで酒類を提供していたそうで、そんな店には様々なジャズのバンドが演奏していたとか。もちろん、そんな場所では男性客向けの夜のお楽しみも有ったのでしょう。
Little Willie Littlefield― Kansas City
さあ、カンサスシティに行くのさ、カンサスシティよ、待っててね!という活気のある歌。
かと思うと、去る者もいるんだ。カンサスシティを離れて、NYCに行くんだとか。さよなら三角、また来て四角…。
Goodbye Kansas City -- Wilbert Harrison

ところで、何でジョー・マッコイはミシシッピ生まれなのに、あだ名に「カンサス」ってついたんだろう。彼もカンサス・シティでよく演奏したのかしらね。
Memphis Minnie & Kansas Joe - When The Levee Breaks

もう爺ィなので、妙に涙もろい。
この間も運転中に音楽を聴いていて、目に涙が溢れたりした。
『ああ、この人はもう亡くなったんだよな』と思ったら、涙腺が緩んだ…。
変人だということだったが、この人の歌声は低音だけど優しげで、歌も聞いていて楽しいものが多かった。僕にエメット・ミラーの歌のいくつかを紹介してくれたのもレオン・レッドボーンだ。

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ニール・ヤングと談笑するレオン叔父さん。ニールも彼もカナダの出身だったね。レオンさん、老けて見えたけど、実はヤングよりも若かったのだ。

Bittersweet Waltz

人生はちょっと甘くてほろ苦いワルツみたいなもんだ、とか。

昔、このブログに書いたことがありますが、僕はレオンと並んで小便をしたことが有る。
彼がアルバム<Up a Lazy River>を出したころだから、1993年頃かな。
コンサートの休憩時間にカフェのトイレに入って小便してたら、彼が入って来て隣の便器に立ったというわけ。何か気の聞いたことを話かけたかったけれど、結局、良い言葉も見つからず…。それに小便してる時に話しかけるのは失礼だろうと思ったんだな。お互い横目でちらりと見合っただけだった。

コンサートの終わりごろに、ポラロイドで観客の写真を撮っていたレオン。今でも彼がコンサートで撮った写真が全部残っているとか。
上の<Up a Lazy River>は運転中に良く聞いていた。娘たちも一緒に<At The Chocolate Bon Bon Ball>を歌っていた。いろいろなお菓子の名前が出て来る美味しくて楽しい歌だ。

髭面のオッサンだったけど、こんな子供の歌なんかもやってたね。
Polly Wolly Doodle
キャンプファイヤーなんかで子供たちが歌う歌なんだけど、優しそうな人柄を感じさせます。

こんな写真をおまけの載せておきましょう。
まだ、若い頃(?)のフォークシンガー風のレオンさんだ。
Leon Redbone

最後は、この美しいお別れの歌を聴きながら、彼を偲ぶことにしよう。
If We Never Meet Again This Side Of Heaven
<いつかは、つかの間の人生の終わりを迎える僕ら。
再び会うこともないだろう、光り輝く天国で一緒になるまでは、ね。
あの遠き美しき彼岸で。>

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