少し前まで住んでいたピッツバーグで乱射事件が有った。

事件の起こった地区は、街並みが多く普段は落ち着いた瀟洒なところだ。ユダヤ人が多く住むことで有名で、カーネギーメロン大学や私が教えていた大学などもある文京地区でもある。

犯人はライフルやハンドガンを携えて、朝のユダヤ寺院に集まった人々を無差別で撃った。犯人は反ユダヤ主義者だそうだが、話に整合性がない狂人である。死者は11人を数えた。18年前にもピッツバーグで有色人をライフルなど5人殺害した男がいたことを思い出したが、今回はそれよりも犠牲者が多い。
ピッツバーグに住んでいる私の知人の中に犠牲者は含まれていなかったが、事件の詳細が分かるにつれて悲しい気持ちでいっぱいになる。

犠牲者の中に97歳の女性が含まれていた。彼女はホロコーストからの生還者だった。1945年にナチの悪夢から逃れることは出来たが、その悪夢は執拗に彼女を追いかけて来て最後にはその命を奪ってしまったのだ。
この女性の人生を考えると、悲しみや憤慨と共に、幾つかの「なぜ?」が頭に浮かぶ。
「なぜ、我々に人生が与えられているのか?」。
「なぜ、ある特定の人々、会ったたこともない人々をこれほど憎むことが出来るのか?」

確かなことは、今回、犠牲者は「ユダヤ人」だったけれども、代わりに日本人、有色人種、黒人、イスラム教徒、同性愛者などが代わって入る可能性があるということ。つまり、誰でもいいのだ。白人同士でも「宗教的な理由から」殺し合うこともあるのだから。「我々」“We”に入らない人々である「奴ら」”Them”を憎むのだから。

ある研究では、この様な事件を起こす犯罪者の多くは、親や社会から子供時に受けた虐待やイジメ、または精神的な苦痛に「怒りや憎しみ」を持っているのだとか。そして、その歪んだ心は次第に社会的な”Them”を見つけ出し、理由をでっち上げて攻撃する。
マザー・テレサがこんなことを言っていた。「もし、世界の平和を真剣に望むのであれば、まず、自分と身近な人々を幸せにしなさい」と。身近な人とはほとんどの人にとって家族であろう。不幸な子供時代を送る人達が減れば、この様な凶悪犯罪も少なくなるのであろうか。

Gebbeles hate

上の写真はあるパーティで撮られたナチの宣伝相ゲッペルスの写真である。

彼は写真家が気に入ったのか、満面の笑みを漏らしている。しかし、ある一言が告げられたのちには、右の様な厳しい顔を向けた。「引き金」となったその一言は、「あの写真家はユダヤ人だ」である。この二枚の写真はある特定の人に向けた嫌悪の感情によって起こされる「ヘイトクライム」というものを如実に物語っている。その個人(カメラマン)ではない、そのレッテル(ユダヤ人)に対して憎悪しているのである。
ゲッペルスは大学時代、特に反ユダヤ的なところは無く、ユダヤ人の学友ともごく普通に接していたと言う。自分が宣伝したナチの「反ユダヤ主義」のプロパガンダに自己も洗脳させたのであろう。


今度、ピッツバーグに行ったら、そのユダヤ寺院(Tree of Life)に花を捧げに行こうと思う。そして、犠牲者のために涙を流そうと思う。今の自分にはささやかに泣くことしか出来ないのだから。