ブルブル ブルース (Blues)

荻哲の音楽日記−Blues、世界の音楽、よもやま話など

カテゴリ: 日本の音楽

八月の終わりはいろいろと忙しくて、更新もままならず…すみませんでした。

さて、前にも書きましたが、僕の誕生日は終戦記念日の二日後。
子供の時、テレビではお決まりの終戦の特集番組などが流され、子供の僕は気が塞いでしまった。おまけに、夏休みもそろそろ終わりということで、宿題のことも心配しなければならない誕生日でありました。それに夏の終わりって意外と物寂しいでしょう?
負け戦ってやつはトラウマになるんだろうな。負け戦は人を卑屈にする。
でも、戦争がいつまでも終わらないのも辛いもんだ。

さて、Youtubeでこんな動画を見つけたのです。
ナンシー梅木 – Sayonara

1953年というとまだまだ戦争の記憶に人々が打ちひしがれていた頃ですね。そんな時代に、米国で堂々アカデミー助演女優賞を取ったナンシー梅木。この頃の東洋人は、アメリカでかなりの差別を受けているはずですが、その中での快挙です。
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さて、ナンシー梅木さんは、日系人ではなくて、北海道生まれの日本人。戦後の進駐軍のためにジャズなどを歌い始めたそうで、1950年代の日本のジャズ歌手の草分けてき存在だとか。その後、アメリカに活躍の場を求めたそうです。

下の歌では日本語を交えて歌っていますが、日本語の歌詞が少し舌っ足らずにも聞こえ、面白いです。歌はさすがに上手ですね。
Gisele MacKenzie & Miyoshi Umeki: Buttons & Bows
この動画を見ながら思いましたが、米国人にしても戦場で命を取り合った男達よりも女性の方を受け入れやすかったのかもしれません。少し前に、「負け戦ってやつはトラウマになるんだろう」と書きましたが、勝った方にしても戦争は決して楽しい思い出ではないはずだ。

このブログは昔の歌を特に取り上げる傾向があるわけですが、最近、童謡歌手の先駆けとして昭和の初期に活躍した平井英子さんが103歳で亡くなったというニュースを読んだので、さっそく調べちゃったのでした。
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證城寺の狸囃子
日本人なら誰もが知っているこの歌。アニメのぎこちない動きがいいなぁ。童謡の歌詞を多く手掛けた野口雨情の作詞。そうそう、アーサー・キットも歌っておりましたよ。
Eartha Kitt−Sho-Jo-Ji The Hungry Raccoon


突然、質問:
ところで、證城寺はどこにある寺か知ってますか? (答えは一番下)

それでは、もう少し平井さんの童謡を聞いてみましょう。
鼠の留守番

日本にミッキーマウスが紹介されたのは1929年のことだそうですが、1931年のこのアニメ、すでにパクってます。まあ、戦前はまだ著作権が緩いのですかね。ネズミの親分が麦酒の箱の上で采配指揮しております。

黒ニャゴ
黒ニャゴは黒猫のことかいな。平井英子は1918年の生まれだから、11歳の時の声です。動画の製作は「千代紙映画社」。想像するに切り紙を少しずつ動かしてアニメーションを作ってるんでしょうね。時間が掛かりそう…。

その内、童謡ジャズという耳慣れない言葉が出て来た。
童謡ジャズ  汽車
聞いてみると僕が小学校の時に習った小学校唱歌じゃないですか。演奏はアーネスト・カアイ・ジャズバンド。 アーネスト・カアイ(写真下)は、名前からもわかるようにハワイ出身のミュージシャン兼作曲家。可愛い平井嬢の声にカアイの演奏です。
Ernest_Kaai,_Advertiser,_1907

彼はギター、ウクレレ、マンドリンなど幅広く楽器をこなしたとか。その彼はバンドを率いてアジアを演奏旅行していたそうで、日本にも大正時代の終わりごろから訪れていたという話があります。その内、日本と中国の戦争が激しくなってきたので、本国へ戻ることになったとか。
こんな形でジャズも少しずつ日本に知られるようになったのでしょうね。

これはアーネスト・カアイが作曲したウクレレ曲。なぜかハンガリーのお姉様が演奏しております。
Ernest Ka'ai - Haele - Aniko Juhasz (fingerstyle ukulele)


最後は彼女が19歳の時の歌声。なんでも当時のヒット曲だったとか。
煙草屋の娘(平井英子/岸井明)昭和12年
やはり、可愛らしい声ですが、この数年後には結婚して歌手生活は引退し若奥様になられましたのことよ。
メロディはお馴染み「タンタン、タヌキの金…」ですが、実は狸の歌はこの「煙草屋の娘」の替え歌として始まったらしいです。そして、この煙草屋の娘のメロディは、何と賛美歌「Shall We Gather At the River」からの借用だそうで、賛美歌から煙草、そして狸の八畳敷という意味深い繋がりがあるのです。


千葉県木更津市 證城寺にある「童謡碑」
Syoujyouji_in_Kisarazu

別にリンゴで食中毒になったわけじゃござんせん。時に思いがけない所で、思いがけず、思いも寄らない思い出の唄に出会うことがあるものでございます。
とある古物屋で冷やかしに古着などを見ていたら…。
The Skatalites − RINGO

スカのリズムに乗って、スピーカーから流れて来たこの曲。
「あれ、このメロディ、知ってるぞ〜」ということで、店員さんに今掛かっている曲は何ですか?と聞いた次第。よしよし、バンド名が分かったぞ。

「リンゴの花びらが〜、風に散ったような〜」と口について出て来る歌詞。子供の時に聞いた歌は何故だかいつまでも忘れない、ああ、今は昨日の晩御飯すら何を食べたか思い出せないというのにさ。
インターネットで調べてみると、私が子供の時分に聞いたこの懐メロの「リンゴ追分 」を、ジャマイカのスカタライツというバンド(写真下)が1965年にカバーしていたそうです。
SKATALITES_1964_copy

なに? 元歌、知らないですと? そうかぁ、お若いの、これはな昭和の大歌手だった美空ひばりの唄なんじゃ(爺臭い話し方)。美空ひばりを知らない方は、お父さんかお母さんに聞いてちょうだいよ。
美空ひばり - リンゴ追分 (1952)
1952年のヒットというから、ワシもまだ生まれてはおらんのだけど、ね。ところで、この歌、調べると、結構、外国でもカバーされてるのだな。
例えば、これ。
The Trojans - Ringo 1987
このピアニカ吹いて、歌も歌ってる兄ちゃん(当時)は、ジョン・メイオールの息子なんですって。なるほど。途中で怪しげな日本語が入って来るのですが、僕は結構、こんなの好きです。

その他にも、ハービー・ハンコックもカバーしてる。
Herbie Hancock Quintet - Ringo Oiwake
これは、1983年ですって。この頃は、私ゃ過酷な会社勤めしてました。家にも帰れないで会社で残業もよくありましたっけ。ま、関係ない話でした。

さて、話は戻りますが、なんで最初のスカタライツの曲は何で、最初にバキュ〜ンと銃声やヒズメの音が入ってたのか。理由は良く分かりませんが、調べていたら西部劇の俳優ローン・グリーンという人が、1964年にこんな歌を吹き込んでおりまして、当時のヒット曲だったそうです。
Ringo ・ Lorne Greene
ジャマイカでもウェスタンが聞かれていたのでしょうか…。このリンゴという西部劇のガンマンの名前が「リンゴ追分」と結びついたのかも知れませんね。まあ、そうゆうことにしときましょう。
戦後、日本の歌として世界的にヒットしたのは、坂本九さんの「上を向いて歩こう」でしたが、この頃、「リンゴ追分」も日本のメロディとして親しまれたのでしょうかねぇ。

と、まあ、本日は街をブラついていたら、リンゴに出会ったという話でした。

おまけ:
これは、イタリアのスカグループのカバーなんだそうです。
The Sabaudians−Ringo Oiwake

(今回、最後に付録付き)

他愛も無い曲なんだけど、ついつい、何回か聞いてしまい…何だか…好きだ。

ごあいさつ〜ねこのねごと〜酒が飲みたい夜は〜いつかー高田渡

ちょっと聞き取りで歌詞を書いてみます。
******
のんき、のらねこ、寝言をぬすむ、あ〜の〜(この部分、高田渡はArronみたいな歌い方している)
あのね、あの世は、なかなか、なかなか、なかなか来んな

のんき、のらねこ、寝言をぬすむ、あ〜の〜
あのね、あの世へ、道くねくねね

のんき、のらねこ、寝言をぬすむ、あ〜の〜
あのね、あの世に、ネズミ見えんね

のんき、のらねこ、寝言をぬすむ、あ〜の〜
あのね、あの世は 眠すぎますな
**********
「寝言をぬすむ、あ〜の〜」、でふんわりした雲に乗っかれますな。

メロディは、ホギー・カーマイケルの作ったあの曲から借用したんでしょうが、高田氏ののほほんとした声とともに、のんびりした不思議な詩にピッタリと合ってしまっている。
HOAGY CARMICHAELーLAZY BONES

作詞は詩人の木島始さんという方。
kijima hajime
写真は雰囲気一杯の木島氏。
詩作の他にもアメリカの詩やジャズの評論の翻訳などをしていたということです。
今まで彼の詩は読んだことが無いけれど、ちょっと探して見よう。

木島始 最後の2つの詩
上のリンクに載っている二つの詩は、彼の告別式に配られた詩だとか。
特に二つ目の詩は、僕もとむらいの時に、お借りして配りたいぐらい、と思う。
<…おもいだせるなら わらってるかおがいい
わすれされるものならば ふんまんことごとくがいい...

しきはいらない、びじれいくはいらない、なみだはいらない、
さとれないとさとろうよ…>
木島始「ほんとの誕生日(26)」の一部から


なるほどね、僕も…、
ふと砂の塔がくずれ去るごとく、
時の流れにふわりと抱かれ、永遠の旅に出たし…と。

付録:
おふざけな感じでピアノを弾いてますが、この手のお遊びが出来るなんて、ピアノの腕も大したもんだ。少し酔っぱらって機嫌が良いのかな。
Skip James - Lazy Bones

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静かな夜にこの歌を聞いてしまうと、まるで昔からの知り合いに思いがけなく出会ったようで、しみじみとした気持ちになるのです。この曲が入っていた<ごあいさつ>は、日本のフォークアルバムの中でもベスト10に入ってよろしいと思う。
高田渡 / コーヒーブルース

三条へ行かなくちゃ、三条堺町のイノダっていう珈琲屋へね…あの子に会いに? いや、好きな珈琲を少しばかり…>。

イントロは、ディランの<Don't Think Twice, It's All Right>からの借用だね。このアルバム・カバーもアンディ・ウォーホルがデザインしたベルベット・アンダーグラウンドのレコードのパロディなんだろうか。
歌詞の中、「最後も一滴が勝負さ」というところは、ミシシッピ・ジョン・ハートの<Coffee Blues>を意識してるのでしょうね。ジョンが歌の始めの語りで「缶に書いてるように、マックスウェルのコーヒーは最後の一滴まで美味しいんですよ」って言っていたので。

さて、コーヒー・ブルースという題が付く歌が多少ある。例えば、この大御所の歌。
Lightnin' Hopkins - Coffee Blues
母ちゃんはご立腹、父ちゃんがコーヒーを買って来なかったから。
「一体、あんた何やってるのさ?」
「いやあ、済まない、もうこんなことは二度としないから」
どうやら、父ちゃん、コーヒー買う金を他の場所で使ってしまったらしい。

これと似た話をどこかで聞いたことがある。親父さんが米を買う金を持って行ったがよいが、「金を落としたらしい」と手ぶらで戻って来たそうだ。済まなそうにしてる父ちゃんの面にカカアの声が。「またパチンコ? 米が無くて、どうして暮らして行くの? 情けない」と叱られたお父ちゃん。
この様なブルースを聞くと、どこの国でもカカアに叱られている男が居るんだなと分かる。

最後は手前味噌ですが、僕が19歳ごろに作ったブルース。いまだに歌ってます。
珈琲ブルース (Coffee Blues)
そう云えば、ニール・ヤングも「シュガーマウンテン」を19歳の時に作ったそうで、いまだに歌ってる。たわいもない歌詞の方が歳喰ってからも歌いやすい(かな?)。

<おまけ>
この歌は西田佐知子さんの<コーヒールンバ>の元歌。題名は、「コーヒーを挽きながら」。
ELENA /Yerevan/ Moliendo Cafe
こんな美人さんとならコーヒーも美味かろう。夜も楽しかろう。

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去年の暮、知ってるジャズ歌手の方から「(ある時期まで)日本のブルースというのは、どうして(アメリカとは違った)あんな感じのブルースだったのか?」という疑問が出された。
日本のブルースというのは、例えば、淡谷のり子の「別れのブルース」や西田佐知子の「東京ブルース」など、名曲ではあるけれど、本来のブルースのメロディとは言いにくい曲に「ブルース」というタイトルが付けられています。
ぶっちゃけた話を書くと、僕はその疑問を聞いた時、「多分、セントルイス・ブルースなんかが日本のブルース感に影響したんじゃないかな」と漠然と思ったのです。そうそう、あの途中からマイナーに変わる辺りの曲調です。
でも、確かじゃない。 ので、調べるこの私。

ここで、疑問:日本の歌謡曲にブルースというタイトルが付いたのは何時なんだろう?
調べた甲斐が有って、見つかったのは、ヘレン・雪子・本田という人の<スヰート・ホーム・ブルース>という曲。昭和9年の作というから、1935年。
スヰート・ホーム・ブルース
「我が家の窓を知るや君」って聞かれても、困るよな〜ぁ。覗き見の趣味ないし。
聞いてみた人は分かるかも知れないけど、歌詞も曲も当時のアメリカのブルースには似ても似つかないっす。ちょっと不思議な訛りがあります。

さてさて、日本に「憂歌団」というバンドが有りましたが、「日本ではブルース=憂歌(憂鬱な歌)」だという認識は正しいと思います。
だから、マイナー系の淋しき曲は全部ブルースという云うタイトルがついてもおかしくないわけ。戦後の一時期、「かなしき...」、「涙の...」というタイトルが歌謡曲に多く付けられましたが、あれも目新しさから「ブルース」の代わりに題名に使われたのですね。「悲しき街角」は「街角のブルース」でも通用しますし、「最終列車のブルース」でも売れたかも。

awaya noriko

しかし、ブルースがタイトルに入った曲で、日本で初めて大ヒットしたのは、ご存じ、淡谷のり子が「別れのブルース」。上が写真です(日本のマ・レーニなんて云ったら叱られますよ)。

で、すげーしばらくぶりに聞いてみると...そこには新発見が有った
別れのブルース‐淡谷のり子

おお、淡谷さん、Bluesを「ブルーズ」って正しい英語で発音しているよ。さすが東京音楽学校を卒業しただけはある。途中で「踊るブルーズの切なさよ」と歌っていますから、ここではブルースは踊る曲として登場してます。ダンス曲としてのブルース?ということは、もともと日本に紹介されたブルースは、昔のビッグバンドやスイング、そしてニューオリンズスタイルみたいなジャズだったのか!? 

脇道に逸れますが、これなんかを聞いてみると、昭和の早い時期に日本の歌謡曲の中にジャズが導入されているのが分かります。
流行歌 故郷は豊年 - 加賀聖一
題名や歌は何とも日本的というか中国へ出兵した一兵士の語り節なんですが、間奏に入るソロなどはジャズっぽいす。妙な具合に和洋折衷で掴みどころがない曲。この歌が出された3年後には、アメリカさんと戦争するんですよねぇ。

考えるに戦争が本格的に始まるまでは、幾多のモボやモガが、ジャズでカフェで踊っておったのでしょうね。そのジャズの調べに「XXブルース」なんてのが付いていて、ジャズとブルースが混同された...まあ、ブルースのミュージシャンでもジャズっぽい曲を弾いていた人も居るしね。
The Alcoholic Blues
これなんかも「酒精中毒者の憂鬱(ブルース)」と題名が付けられてますが、曲調からブルーな雰囲気を感じるのは無理かな。酔っぱらってフラフラと千鳥足...。

日本で<ブルースの女王>と言われた淡谷のり子自身は、「ブルースというのはやはりセントルイス・ブルース」みたいな曲でしょうと言ったことがあるそうです。彼女自身はブルースという音楽を知っていたんですね。
St. Louis Blues (1929)>

しかし、日本人に強く意識されたのは、後半の<St. Louis women wear diamond rings…>の辺りの調べでしょうか。情緒的で哀しい調べが好きな日本人はこのマイナーとセブンスの組み合わせにジンと来たことでありましょう。
この「別れのブルース」を作曲したのは、服部良一さんですが、この人、「ブルースの父」と呼ばれたWC ハンディの曲が好きだったようです。だから、彼の作曲に「セントルイス・ブルース」の影響が有っても驚きはない。

ただし、彼が「別れのブルース」のために考えていた曲想は、淡谷がすでに吹き込んでいたフランスのシャンソン「暗い日曜日」みたいなのを考えていたようなので、本場アメリカのブルースというよりヨーロッパ色の濃い日本風のブルースが誕生したようです。
まあ、コロッケにケチャップを掛けて、箸で食べるようなもんでしょうか?

もちろん、この曲がヒットしたおかげで、日本のブルースは暗い調子の曲で別れなどを歌った哀歌となった、というのが私の結論で有ります。

もちろん、折衷されて出来たブルースだからと言っても、幾つも傑作が生まれました。
俺はこの曲が好きです。エっへへ。
伊勢佐木町ブルース

おまけ:
ところで、青江三奈さんはスタンダードのジャズも歌ってましたんですよ。
You'd Be So Nice To Come Home To - Mina Aoe

いらっしゃい〜。
まずは、歌でも聞いてください。

青山ミチ‐風吹く丘で

この曲、聞き覚えがありませんか? ビレッジ・シンガーというグループが<亜麻色の髪の乙女>という題で吹き込んで1966年にヒットしたんです。
私は、若いから知らんって? でも、ハーモニカなども入って、のどかな良い歌でしょう?

MIchi aoyama

1966年に青山ミチ(写真上)が録音しましたが、ある事情のためにお蔵入り。
ハッキリした理由は分かりませんが、彼女は覚せい剤所持で捕まったとか、事務所移籍に絡むいざこざで干されたとか言われています。でも、このレコードは少数販売されたのでしょうかね。Youtubeで聞くことが出来ます。作曲はすぎやまこういちさんですね。その二年後にビレッジ・シンガーの歌でヒットしました。しかし、ビレッジ・シンガーのと聴き比べると、僕には青山ミチさんの歌の方が胸に迫るものが有ります。デビュー当時は元気なアメリカンポップで有名になった少女歌手ですが、この様に情緒的な歌も上手ですね。上の写真では最近亡くなった樹木希林さんを洋風にした感じですね。

なんでも、今年の1月にひっそりと亡くなったそうです。戦後、米国人の軍人と日本人の母の間に生まれ13歳ぐらいでデビューしましたが、前述のようなトラブルなどで芸能界から消えてしまいました。その後の暮らしぶりは楽ではなかったそうです。
同じく、今年に亡くなったフォーク・ロックのミュージシャン、エンケンこと遠藤賢司さんもこの「ミッチー音頭」をカバーしてましたっけ。

青山ミチ - ミッチー音頭
歌詞がいけます。「歌って踊ってスタミナつけて〜」ってところ好きだな。ニラやニンニクを食べてから踊ると臭いで周りに嫌われるので気を付けましょう。この歌を吹き込んだ時は14歳ぐらいで、よく聞くと声がまだまだ少女の声ですね。若々しいっす。

この歌も僕の姉二人が聞いていましたよ。懐かしいですね。
涙の太陽
この元歌も青山ミチで、これもパンチのある声を聴かせました。作曲は湯川れい子さんだそうです。ベンチャーズしてますねぇ。僕が中坊の時は安西マリアさんの歌で流行ったな、たしか。

さて、私ごと。また、12月に日本に帰ります。
そして、母の墓参りは青山墓地です。

僕が高校の頃、千葉市に有ったライブハウス「マザース」で、ウシャコダというバンドを聞きに行ったのです。彼らは皆、千葉の出身でちょっとコミカルなバンドでしたが、演奏は当時の僕を仰天させるほど上手でした。(ウシャコダについては<キン作かっぽれ>を聞いてね。)

そのバンドのボーカリストの藤井康一がウクレレ弾きながら<My Blue Heaven>を歌ってる動画を見つけたので、懐かしくて聞いてしまいました。

私の青空
https://youtu.be/bIhNdokaX64


さて、この後、どちらに振ろうか迷っている私であります。

ウクレレ・アイクと呼ばれたクリフ・エドワードのことを書こうか…このまま<My Blue Heaven>で続けようか…。

でも、今日は寒いので青空で行こう!

あほ空 二村定一 天野喜久代
「な、なんや、のっけから阿保空とは、どついたるぞ!」と怒らんでください関西の方々。これは戦前の綴りで有りやんす。そう、青空ですよ、読み方は。右から左に読んでくださいよ。
ところで、当時の大阪市では「あほ」をどうやって書いていたのでしょうか...。ああ、そうか昔の人は漢字に強いから「阿呆」って書いてたのかも。
ところで、なんで二村定一はこんなに鼻が長かったんでしょうか。

そして、大瀧詠一さんは、青空ではなく天竺という言葉を使ってます。
私の天竺
彼らしく、Heavenを天竺と訳したんですね。珍しく英語で歌っております。途中で<峠の我が家>のメロディが入って来て、遊びがあります。

この日本語のタイトルは<私の青空>。エノケンこと榎本健一さんの歌で有名なんでしょうけど、最後は私の趣味で、松村詩子の歌で終わらせて頂きますよ。いいでしょう?
松島詩子
私の青空 松島詩子
こんな可愛らしい声のお嫁さんが家で待っていたら、寄り道せずに帰りましょう。
1938年の録音ですから、まだ少しは日本の世情にも余裕があった頃なんでしょうか。
私は、このノホホンとした雰囲気が好きなんどすぇ。

何となく、書かないと不安になる。これを習い性と呼ぶ。

今回は書き下ろしです。へっへへって、笑う理由はないのでがね。ついつい、笑う。ツイツイ蠅に刺されてしまったようです。
the drifters

さて、僕にとって夏の海辺に来るとドリフターズを聞いてみたくなるグループなわけですが、まだ夏でもないのにこの歌を聞きたくてね。

Save the last dance for me
可愛らしい歌詞の歌なんですが、やはりドリフターズのコーラスは良いよね。
読みながら頷いてくれていますか?

これは、日本では越路吹雪が歌てました。邦題は「ラスト・ダンスは私に」だった。

そして、フランスではダリダが歌ってヒットしたそうです。
Garde-Moi La Derniere Danse
ダリダって誰だって? 昔の歌手だよ。
フランス語の巻き舌の発音がすごいね。個性的な顔立ちの美人?...かな。

しかしだね、今回、本当に紹介したいのは、この歌だね。
「ラストダンスは私に」とビートルズの「ヘイ・ジュード」を組み合わせてしまった日本の歌。
歌はキングトーンズ、アレンジは多羅尾伴内(大瀧栄一)。
The Kingtones - Save The Last Dance For Me ~ Hey Jude

二つの曲を同時に楽しめるという画期的な曲であります。
聴いていて、楽しくかつ笑える素晴らしい歌です。遊びが有ります。
ゲテモノですって? だから好きなのさ。

前略 天国のお袋さま

最近、小生の友達が、フェイスブックというところに李香蘭の<夜来香>のカバーを載せていました。それから、昭和初期の「懐メロ」を聞き続けています。懐メロ番組を子供の時にテレビなどで見ていると、色々と当時のことを解説してくれましたね。今でも、子供の時に聞き覚えた歌などを懐かしく聞くこともあります。お母さんもそちらでそんな曲を聞いているのでしょうか。ああ、それともタンゴかな。 

それでは、また。
草々
li koran


閑話休題
母親は大正の末年の生まれで、彼女の最後の子供が僕なんですが、自然と母の若い頃の流行歌などを聞いて育った僕です。おまけに兄や姉たちとも年が離れていて、彼らが聞く歌も聞かされております。だから、少しレトロな音楽に洗脳され続けておりました。
大瀧詠一さん<さらばシベリア鉄道>という歌を初めて聞いた時に皆さんは、どんなイメージを抱いたのでしょうか?

僕は、この懐メロを何となく思い出していたのです。どことなくロシアっぽい旋律。そして、厳寒の雪の荒野、恋人への想いなどが歌われていたせいでしょうか。

東海林太郎‐国境の町

へへへ、古臭い曲ですみません。
東海林太郎という歌手は、元々は満鉄に勤めていらっしゃったんですね。しかし、左翼的な思想の持主だということで、左遷されてしまったそうです。東京に戻ってからは弟と中華料理屋を開いていたそうで、順調な人生ではなかったようです。30歳を過ぎて歌手として成功した後も、戦後になると軍歌調の歌(<麦と兵隊>など)を戦前に歌っていたため、進駐軍から睨まれ、しばらくは人前で歌えなかったようです。苦労人ですねぇ。

もちろん、有名だと思いますが、<さらばシベリア鉄道>のギターの旋律はここから取られております。この曲もロシア風な感じで寒い感じのする歌であります。これも恋人への傷心が歌われています。画面にJoe Meekという名前が出ておりますが、これはこの歌のプロデューサーですね。
John Leyton ‐Johnny Remember Me

まあ、色々と雑多な曲を楽しんで聞いている僕ですが、その内、またもや夏に似合うユルユルした曲を聞き出すのでしょうね。その時はまたそんな曲のことを書きましょうね。

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