プランナーの独り言

ブライダル業界に携わるものとして、結婚や恋愛 結婚生活などにかかわるところから、日々の話題や現在、過去のお世話させていただいた方のエピソード 業界の問題点などなど 人との関わりを踏まえて綴ります。

カテゴリ: プロレス

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最近 ジュリアナ詩子ネタ、、それもかなり前の記事が再度ランキング上位に来た。

そのランキングは




きっかけは

ボディコン姿で大人気だった元女子プロレスラーの穂積詩子さんは今
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【あの人は今こうしている】  

穂積詩子さん(52歳・元女子プロレスラー)  女子プロレス激動期の1990年代前半、神取忍、風間ルミ、故ハーレー斉藤らが立ち上げた団体「LLPW」は本格的な格闘路線で話題となった。中でも派手なボディコンコスチュームで人気を集めたのが、“ジュリアナ詩子”こと穂積詩子さんだ。さて今、どうしているのか?  ◇  ◇  ◇ 「いらっしゃいませ。カウンターへどうぞ」  穂積さんと会ったのはJR中央線・吉祥寺駅南口。マルイのはす向かいの飲食店ビルにあるスナック「どりんくばぁー『維新力の店』」だった。 「店名の通り、私の“オヤジ”『維新力』がオーナーで、オープンは94年10月。営業は19時から深夜2時で、定休日の日曜以外は店に出てますよ」  維新力とは、天龍源一郎が率いた団体「SWS」や「WAR」などで活躍した大相撲出身のプロレスラー。穂積さんとは94年6月に結婚しており、取材当日も一緒だった。 「当初、お客さまは8割がプロレスファンで、北海道や九州からも来てくださいました。今は地元の常連さんが8割、ファンが2割くらいですが、引退して26年も経つのに立ち寄っていただけるんですから感謝しかありません」  とはいっても、やはり新型コロナ禍には振り回されっぱなし。4月中旬から5月31日までは政府の緊急事態宣言で完全休業し、8月も東京都の営業時間短縮要請で営業は22時まで。9月1日から通常営業に戻したものの、「客足はいまひとつ」だ。 「8月は前年比で6割ダウンでした。忘年会シーズンの12月までにはトントンぐらいに戻したいのですが……」  同店は、スナックながら維新力さんが所属していた大鳴戸部屋直伝の特製ちゃんこ鍋が名物。これを目当ての常連客が多く、いつもなら寒くなるとともに予約が舞い込んでくる。 「味噌、塩など6種類ありまして、1人前2500円。2人前から前日までの要予約です。宴会やパーティーは、ちゃんこ鍋のほかお料理が3品付いて飲み放題の5000円コースが好評です」

人気絶頂時に結婚、猛反対されたが…

 さて、八王子市生まれの穂積さんは、小学生の頃から女子プロレスファンだったが、中学・高校と吹奏楽部でクラリネットを担当。格闘技とは無縁のまま高校卒業式直前の86年3月にジャパン女子プロレスの入門テストに合格し、第2期生として加入した。  デビューは89年1月10日、対小金井幸子戦。敗れはしたものの、それ以降は試合を重ねるたびに腕前を上げ、一方で美人レスラーとして注目され始めた。  ショッキングピンクのボディコンでリングに上がったのは、LLPWに移籍後の93年6月。当時人気だったディスコ「ジュリアナ東京」のお立ち台ギャルにヒントを得た。 「LLPWは、看板レスラーの神取さんが柔道、風間さんがシュートボクシングで知られていて、本格派格闘路線が売りでした。それだけでは華がない、というので私がボディコンで出場することになったんです」  これが大当たり。ジュリアナギャルの象徴である“ジュリ扇”を振り回しながら花道に現れるや、観客は床を踏み鳴らして沸きに沸いた。  また、スポーツ紙、男性週刊誌からも取材が殺到。毎週のようにグラビアを飾った。 「そんな人気絶頂の時に婚約発表、結婚でしたから、当然ながらフロントには猛反対されました」  なれ初めは、共通の友人の紹介。 「初対面では威張っている感じがして、あまり良い印象ではなかったですね」と穂積さんが振り返ると、「僕の一目惚れ。“押しの一手”でした」と維新力さん。  今でこそ北斗晶・佐々木健介らプロレスラーカップルは珍しくないが、その頃は前代未聞だった。幾多のハードルを乗り越えて94年6月に挙式した。 「スナックを始めたのは、結婚後、“オヤジ”が内臓疾患でリングから離れざるを得なかったためです。2人とも接客経験がなかったので気を使いましたね」  その後、96年に長男、97年に次男に恵まれ、2児の母に。現在はともに社会人になり、格闘技とは別の業界で働いている。 「自宅は、私たち夫婦と13歳のラブラドルレトリバーの花ちゃんの“3人暮らし”(笑い)。先月から、YouTubeで『維新力部屋』を始めましたので、ぜひご覧ください」  趣味はヨガ。ほぼ毎日ジムに通っている。 (取材・文=高鍬真之)


ジュリアナ

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あのとき猪木の舌は出ていなかった。大どんでん返しのIWGP決勝戦秘話。

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アントニオ猪木を追いかけ続けて50有余年! 伝説のプロレスラーを追いかけ続けた伝説のカメラマン原悦生が、今だから語れる秘話を綴ってくれました。今回は「IWGP構想」の原点から現在のIWGP王座に至るまでの話。IWGP編は全3回。第2回は、「猪木舌出し失神KO負けの真実」です。

1983年6月2日、記念すべきのカードはアントニオ猪木vs.ハルク・ホーガンだった。このカードが決まったのは優勝戦前夜だった。  筆者はこの大会の優勝戦のカードは猪木vsアンドレ・ザ・ジャイアントで、優勝は猪木だ、と大会前から確信していた。何がどう転ぼうが、鉄板の予想だと信じて疑わなかった。「猪木でしょう」「猪木に決まっている」それ以外の答えなど存在しない……というほどの雰囲気だった。  優勝戦前日の試合前の時点でも、今日もアンドレが勝つか引き分けるかして勝ち点39あるいは38で首位で待つことになるはずだと安心していた。さらに、勝ち点37で並ぶだろう猪木とホーガンが優勝戦進出者決定戦を戦っても、優勝戦の猪木vs.アンドレのカードは動かないと確信してもいたのである。

不穏な雰囲気が流れていた開幕前夜。

 そもそも……その4週間前の5月5日、IWGP決勝リーグ戦の開幕前夜、東京の京王プラザホテルでのレセプションからして波乱含みだった。  ステージ上にはアンドレ、ホーガン、ビッグ・ジョン・スタッド、オットー・ワンツ、エル・カネック、エンリケ・ベラ、キラー・カーン、前田日明、猪木が座っていた。  アメリカのビンス・マクマホン(シニア)、カナダのフランク・タニー、メキシコのカルロス・マイネスら有力プロモーターの姿もあった。  急に欠場を余儀なくされたディノ・ブラボーに代わってラッシャー木村が乱入、急遽代役としてリーグ戦に加わることになった。

アンドレと前田日明。初めての邂逅……。

 IWGP決勝リーグは5月6日、福岡スポーツセンターで開幕した。  開幕戦の目玉カードは猪木とアンドレの対戦、猪木は早い決着を狙っていた。ところが猪木がショルダースルーでアンドレを投げたまでは良かったが、アンドレの体が場外フェンスを越えてしまい、猪木の“オーバー・ザ・フェンス”での反則負けになってしまった。  当時の新日本プロレスには、リングの周りと観客席を分けているフェンスを自分から故意に越えていった場合と、故意に相手をフェンス外に出した場合は、その時点で負けが宣告されるという不可解なルールがあったのである。  前田とアンドレの対戦は5月13日、大宮スケートセンターで行われた。前田とアンドレの初遭遇の日だった。  前田は持ち前の元気の良さを見せて、アンドレの胸板に強烈なカカトをぶち込んでいた。ファンが歓喜した一撃だった。アンドレにはさすがに及ばなかったが「前田やるじゃないか」という強い印象を残した。

アンドレの野望を砕いたのはキラー・カーンだった!?

 アンドレが着実に勝ち星を伸ばす中で、それを追う猪木とホーガンのリーグ戦での初戦は5月19日、大阪府立体育会館で行われた。  白熱の攻防だったが、場外でホーガンが猪木を担ぎ上げると、リングサイドで試合を見ていたアンドレがフェンスの外に飛び出した猪木の足先を捕まえて引っ張った。猪木とホーガンは2人とももつれるようにフェンスの外に飛び出してしまった。結局2人は勝ち点を伸ばせず、アンドレの一人勝ちが濃厚になっていった。  そんな悪どいプレーを見せたアンドレの優勝決定戦進出を阻んだのは、なんとキラー・カーンだった。  優勝決定戦前日の6月1日、名古屋・愛知県体育館で文字通りアンドレの足を引っ張り続けて両者リングアウトという共倒れを選んだのである。  結局アンドレは3位の勝ち点36でリーグ戦を終えた。これによって、翌2日の蔵前での優勝戦は猪木vs.ホーガンに決定したわけだ。

初回IWGPリーグは連日の超満員という大成功に。

 6月2日、蔵前国技館には超満員1万3千人のファンが詰めかけた。  立見券を求めて徹夜で並んだファンの内、1000人近くが入場できずに泣く泣く家路についたという。IWGPという名の魔力なのか、このシリーズは28日間、すべてが超満員で、IWGPがはじき出した観客動員数には地方のプロモーターも笑いを隠せなかった。  優勝戦のカード予想は外れたが、それでも優勝は猪木だろうと思っていた。その先に、大どんでん返しの結末が待っていることなど誰も知る由もなかった――。

慎重なホーガンと激しかった猪木。

 ゴングが鳴った時の緊張感は、過去の数多くのプロレスの試合と比べても格別のものがあった。  ホーガンはもはや3年前、IWGP構想以前に猪木が最初に戦った時の剛毛に背中が覆われていた野暮ったいホーガンではなかった。フレッド・ブラッシーに付き添われて来日したときのホーガンは体が大きいだけの“デクの棒”に過ぎなかったが、日本において猪木と戦うこと、猪木とタッグを組むことでレスラーとして急成長していた。とはいえ、IWGPの第1回開催において、猪木を倒して優勝できるだけの存在とはまだ思えなかった。ホーガン相手ならば、アンドレと戦うよりも猪木の優勝はより固いだろうと思った。  猪木は体のつやもよく、胸板には張りがあった。  ホーガンは冷静なままオーソドックスな戦いを挑んできたが、猪木がそれを嫌った。何かを仕掛けるつもりだったのか。  逆に猪木は、張り手でホーガンを威嚇するが、ホーガンは猪木から学んだことをおさらいするかのように慎重に猪木に向かっていっていた。  1発目のアックスボンバーはスピーディーだった。猪木はこれを半身で受けた。そのお返しに放った猪木の延髄斬りに、ホーガンは効いた素振りさえ見せなかった。  ホーガンの激しいブレーンバスターに猪木の体がリングで大きくバウンドした。もつれた2人は場外に落ちた。ホーガンは2発目のアックスボンバーを背後から放つと前のめりになった猪木の前頭部は鉄柱にぶつかった。そしてとどめとなった3発目。ふらっとエプロンに上がってきた猪木にホーガンは走り込んで真正面からアックスボンバーを叩き込んだ。場外に再び転落した猪木は……起き上がれない。

誰かが猪木の舌を無理やり引き出したのだ。

 ルール的にはダメなはずなのだが……カウントが進む中、猪木のリングアウト負けを恐れた坂口征二らセコンドが数人掛かりで猪木をリング上に押し上げていた。  世間では「舌出し失神事件」と言われているけれど、実は、この時点で猪木の舌が出ていたわけではないのである。  リング上に押し上げられた猪木がゆすっても全く動かないので、舌による窒息を恐れた坂口の指示で、木村健悟か星野勘太郎のどちらかが猪木の口に指を入れて舌を引き出した……というのが真相なのだ。  誰かが必死に舌を引き出そうとしている指を見た記憶はあるが、誰の手だったかと問われると、確証はない。木村の方が猪木の顔の近くだった記憶もあるけれども、星野が素早くやったのかもしれない。  そんな中、レフェリーのカウントは進んだ。  リングアウトであれ、ノックアウト・カウントであれ、まったく起き上がれない猪木のKO負けという事実は揺るぎないものに見えた。

憶測や作り話があふれる、伝説の試合に。

 リング上は大混乱だった。  ホーガンは、このとんでもないアクシデントに呆然としているようだった。  総立ちのファンが見守る中、猪木はその場でリングシューズを脱がされ、担架で控え部屋に運ばれた。猪木はそのまま駆け付けた救急隊員によって救急車に乗せられ、都内の病院に搬送されていった。  この試合はあまりにも衝撃が大き過ぎたために、いろいろな推測や作り話に近いものも語られている。  だが、この夜のことについて猪木本人が語ったことは、実は一度もないのだ。

事件から1カ月後。猪木と会って話した……。

「事件」から1カ月後、猪木に会って話をした。  猪木は思ったより元気だった。猪木は話の流れの中で「ケガをしたとき」という言い方をした。明け方まで話を続けたが、本人が試合そのものについて語ることはなかった。  猪木が、多くのファンが願った通りに優勝していたら、それ以降は違う世界が開けていたのかもしれない。だが、それはかなわなかった。見方を変えれば、かなわなかったことによって、猪木の引退、そして野望はさらに先に延びることになったのかもしれない。  この優勝戦がもし、当初の壮大な計画のようにニューヨークのマジソン・スクエア・ガーデンで行われていたとしたら……違う結果が出ていたような気がしてならない。  猪木のKO負けというインパクトと謎を残したまま、IWGPは翌年も開催されることになった。  だが、さらに成長したホーガンが猪木の前に立ちふさがることになる。

(「プロレス写真記者の眼」原悦生 = 文)



~~~~~~~
当時は 何があったかわからんかったが、、優勝したホーガンがあんまり喜んで無いのが気になっていた。



https://youtu.be/EHO3WCn4hPQ

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勿論 花ちゃんがずーーーっと並ぶ

月間部門は先ほど↓にまとめた。



人気記事

1編集#木村花 ちゃんの死を 動画でちゃかす #安田章 ...PV6887コメント22020-05-24 14:40ボリさん
2編集まず弔う時間を下さい #木村花 ちゃんの母の言葉が...PV4919コメント02020-05-26 15:32ボリさん
3編集棺に入っていた花はとびきり綺麗で寝ているようでした...PV713コメント02020-05-30 19:55ボリさん
4編集#木村花  #Hna  救急隊員「水! 水!」と叫ん...PV326コメント02020-05-26 01:37ボリさん
5編集#木村花 ちゃんの母 #木村響子 さんが 早朝に ...PV292コメント02020-05-31 06:56ボリさん



週刊プロレスが取材を許可されたのは良かった。

悲しみに浸る時間があと少しだけで済みそうな気がしてきた。

【送料無料】 スターダム (女子プロレス) / STARDOM ENTRANCE MUSIC 【CD】
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花の旅立ちを

みんなで見送りました



本当にかわいい顔して寝ていたので

すべてが嘘みたいで

実感がありませんが

、、、、、、




と早朝にもかかわらず ツイッターを通して葬儀の様子を語っていました。

Screenshot_20200531-063811



そして  SNSでの中傷に対して起こってる事象についてもお願いをツイート




一番苦しくて

悲しいのは


響子さんだと思う




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木村花 遺影


 都内の斎場で29日、恋愛リアリティー番組「テラスハウス」の出演者で、23日に死去した女子プロレスラーの木村花さん(享年22)の通夜がしめやかに営まれた。


 斎場には親族や友人、プロレス関係者、レスラーら約100人が参列した。突然の別れに涙を拭う若い女性の姿もあった。


https://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2020/05/30/kiji/20200530s00041000325000c.html



恋愛リアリティー番組「テラスハウス」の出演者で、23日に死去した女子プロレスラーの木村花さん(享年22)の葬儀・告別式が30日に営まれ、所属した団体「スターダム」でエグゼクティブプロデューサーを務めるロッシー小川氏(63)が自身のツイッターで木村さんの遺影を公開した。

 小川氏は「花の葬儀が無事に終わりました」と報告し、「この遺影は昨年11月にカメラマンの佐々木さんがスタジオ撮影したもの。華やかな花らしい写真。多くの仕事仲間や友人知人が見送り、最期を迎えたのです。棺に入っていた花はとびきり綺麗で寝ているようでした。永遠の眠りに就いた花…世界に一つだけの大輪となった」と続けた。

 公開された遺影の中で花さんは満面に笑みを浮かべており、遺影は黒縁ではなく花さんが大好きだったピンクで縁取られている。

フォロワーからは「すごく素敵な写真です」
「とても綺麗な遺影ですね」「黒ではなく、ピンク色の額なんですね。送る側の愛情を感じます」
「本当に綺麗な写真で花ちゃんらしい」
「木村花というレスラーは永久に不滅です」などという言葉とともに改めて冥福を祈る言葉が相次いだ。


https://www.sponichi.co.jp/






  


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《お前が早くいなくなればみんな幸せなのにな。まじで早くきえてくれよ》(原文まま)

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現在放送中の恋愛リアリティ番組『テラスハウス2019-2020』に出演中だった女子プロレスラーの木村花さん(22)が、23日未明に亡くなったことがわかった。

木村さんは亡くなる直前と思われる午前3時に自分のSNSを更新。インスタグラムのストーリーには《愛してる、楽しく長生きしてね。ごめんね。/さようなら》という意味深なメッセージを投稿し、一部のネット掲示板では心配する声もあがっていた。

また、木村さんがツイッターで最後に『いいね』をしたのが冒頭のコメントだった。『テラスハウスウォッチャー』の女性誌記者が解説する。

「ここ2か月ほど、花ちゃんのSNSは炎上していて、消えろなどのコメントはもうしょっちゅうでした。インスタグラムはコメント制限をかけていたのですが、ツイッターにはあらゆる罵詈雑言があふれていました。それを心配した母親で元女子プロレスラーの木村響子さんはアンチに応戦する姿勢を見せましたが、花ちゃんが亡くなる今日までアンチからの攻撃が止むことはありませんでした」

なぜ木村さんは亡くなったのか。テラスハウス入居からこれまでを振り返る。

◇バスケ選手への恋と失恋(2019年9月~)

木村さんが『テラスハウス』に新メンバーとして入居したのは19年の9月(第20週)だった。4月からスタートした今シーズンにおいて5人目となる女子メンバーだった。

「それまでのテラハのメンバーは、どちらかというと心の内を明かさないタイプが多く、全体的に暗かった。そこに天真爛漫でストレートな物言いをする花が入居したことで“空気が変わった“と好評の声が多かったんです。スタジオメンバーも花のことはベタ褒め。あの山ちゃん(山里亮太)も見守っていました」(前同)

木村さんは入居してすぐにバスケットボール選手の田渡凌さん(26)にひと目惚れ。不器用ながらもアタックするが失恋。

「凌は花の好意に気づいてあえて避けるなどして“察しろよ”という大人のプレッシャーをかけますが、花は言ってもらえないとわからない。避けられ冷たくされる日々が続き、涙する場面が増えていきました」(同)

このころは放送回のSNSでも応援コメントが圧倒的に多く、ファンとの微笑ましいやりとりなども見られた。


◇スタンドアップコメディアンとの恋(2019年11月~)

田渡凌さんは「バスケットボールに専念したい」と誰とも付き合うことなく卒業。 このとき木村さんには新しい恋が始まっていた。スタンドアップコメディアンを目指す小林快さんだ(26)。

凌さんとの恋で凹むたびに話を聞いてくれた彼に木村さんはだんだん心を開いていく。そしてクリスマスを迎え「花のことが気になっている」と告白され、幸せの絶頂にいたように思えたがーー。

「実際には収録と放送のあいだに2か月ほどのタイムラグがあります。視聴者はメンバーのSNSをもちろんチェックしていて、花と快がラブラブな放送回を見る一方で、リアルタイムで花が快のインスタグラムのフォローを外したことに気づきます。

同じころ、凌も花のインスタグラムのフォローを外しています。凌が花のフォローを外す前に卒業メンバーの愛華、春花、流佳と食事をしていたことをアップしていて、その後、一時的に花が愛華のフォローを外すということもありました。そのことから愛華が凌に、花に関して良くないことを吹き込んだのではと推測する声もありました。

視聴者の一部はメンバーのSNSアカウントのフォロー、フォロワーから誰に何回いいねをしたかなどの言動まで詳しくチェックしているのです」(同)

このころから木村さんは少しずつ荒んだ心境を投稿してはすぐに削除などをするようになっていく。


◇炎上(3月31日放送38週)

「スタンドアップコメデイがうまくいかないことから恋愛モードじゃない快と、恋愛を糧にプロレスを頑張るという花は明らかにテンションがすれ違っていきます。他のメンバーとダブルデートをした京都旅行でも快はお金も出さずに不機嫌。2人はその夜話し合い、恋愛に求めるものが違うということを確認し合って京都で決別します」(同)

そして“テラハ史上最大の修羅場”と言われる事件が起きる。“命より大事”なコスチュームを洗濯機に入れたまま出かけてしまった木村さん。

「そのあと中身を確認しないで快が洗濯機をまわしてしまったことで花のコスチュームは縮んでしまうんです」(同)

入居メンバー6人全員が集まったリビングルームに木村さんの怒声が響く。

《一緒に住むんだったら人のこともっと考えて暮らせよ! 限界だよもう! 京都の時からさ、自分のことしか考えて行動してないじゃん!!》

張り詰めた空気がテラハを襲った。

「わめき散らす花にただ謝ることしかできない快。最後に花は“ごめん”と謝る快に対して“さわんなよ! ふざけた帽子かぶってんじゃねーよ”と快がかぶっていた帽子を取って投げ捨てるのです」

自分の非を認めずに相手だけを責める行動が視聴者の怒りを買ってしまう。

《命より大切なコスチュームを洗濯機に入れっぱなしにするな!》 《お前も悪いだろ》 《暴力行為とか最低》 などの批判コメントが殺到し、木村さんはその夜、包帯に血がにじんでいるような画像をインスタグラムのストーリーにアップ。

そこには《すみませんでしあ/消えれるもんなら早く消えたいよ/生きててごめんなさい。良い人じゃなくてごめんなさい。嫌な気持ちにさせてごめんなさい/消えて無くなったら許してくれますか? 消えたらみんなに愛してもらえますか。/わたしはみんなの事が好きです。》(原文まま)とあり、

これに対しても、 《悲劇のヒロインを気取ってる》 《かまってちゃんかよ》 《早く卒業しろ》などのコメントが相次いだ。

翌週の放送回(39週)で快は卒業。物語の中心は他のメンバーにうつり、木村さんに対するコメントも少なくなってきたが、5月前半には最初の恋の相手である田渡凌さんが木村さんだけを省いたメンバーの写真をインスタグラムにアップ。メンバー同士の不仲疑惑も浮上した。

「凌のインスタ投稿で花に同情する声が高まるなか、5月13日に『テラスハウス』の公式YouTubeアカウントに配信された番組未公開シーンで再び炎上してしまうんです。

コスチューム事件以降、心配した女子メンバーが花に話しかけようとします。その中でメンバー女性が“花ちゃんも悪いところはあった“と諭すのですが、花は“100ーゼロで快が悪い“と発言してしまうのです。

その発言の裏には快にメッセージを送ってもスルーされ、自分から弁償を申し出た快を信じたかったのに裏切られた、などの思いがあったのではないでしょうか。しかしこの放送を見た視聴者は反省していないと捉えてしまうのです」(同)

19日に配信された42週の放送回では「恋愛よりも人として成長したい」と話していた木村さん。コロナの影響で撮影が中止される前の3月に撮影されたものと思われるが、彼女はこの2か月で追い詰められていったのかーー。

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「批判コメントをひとりで読んでいた」

若者の生きづらさや、自殺問題を取材するジャーナリストの渋井哲也さんは、

「木村花さんは孤立した末に自死したのだと思います。 死因はあきらかにされていませんが噂されている通りの硫化水素自殺だったら、前もって用意した末の自殺です。

コロナでステイホーム週間の中、毎日100通近い批判のコメントをひとり読んでいたのが本当ならば、アンチでもいいから自分をかまってくれる状況を選んだのでしょう。それが彼女が抱えていた孤立感を表しています。

今回の問題は番組側にも責任があると思います。炎上する部分を番組側が煽って視聴率を稼ぐのならそのぶん、出演者の心のケアをしなくてはいけなかった」 とし、制作サイドを批判。続けて、

「最後に綺麗な自分の姿を残してメッセージまで発信することに強烈な自己愛を感じます。台本がないというのが本当ならば、立て続けに失恋して自尊心も奪われた状態で、さらに炎上したら木村さんがどうなってしまうのか考えられる大人が周囲にいなかったのか。

韓国ではク・ハラさんをはじめとするネットをきっかけとした自殺が多いですが、もしかりに木村さんが自殺していたすれば、日本でこのようなケースは極めて稀です。出演者に適切な対応をしたのか。同じような状況を生まないためにも第三者による検証や、リアリティ番組のガイドライン策定など、一刻も早い対応が求められます」

とした。

23日夕方、番組側はホームページにお悔やみのコメントを掲載するとともに、配信予定だった木村さん出演の43週、44週を休止することを発表した。

週刊女性PRIME


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彼女の冥福を祈るしか他ないのだが、、、

とにかく 花ちゃん自体の件は今回で終わろうと思う


悲しくて 

悲しくて

悲しくて

でも 絶対お母さんの

木村響子さんの方が悲しいはず



彼女の件は 

もうただただ ご冥福を祈って早くお母さんに落ち着きが来る日を望むしかない。



番組の件が気になるところだが


これに関しては検証が必要なのは誰でもわかっている


フジテレビの今後の対応が待たれるが


今一当事者としての重みがないような気がする



そして 情報番組などのアンカーに任せているような気がしてならない






そして 絶対にやって欲しくない動きが出てきた




確かにSNSの件は シンガーソングライターを目指していた若い女性がファンに無視されたといって 首を刺される事件があった

あの時は実際に言葉の暴力があった後、犯行に及んでいる

あの時もSNSがきっかけだった。




小金井ストーカー殺人未遂事件 - Wikipedia


事件当日

2016年5月21日午後5時5分、東京都小金井市内のライブハウスよりAの携帯電話より110番通報があった。警視庁は被害女性が110番緊急通報登録システムに登録していたため、位置情報を確認せずAの自宅に警察官を派遣。その1分45秒後に目撃者より通報があり警察が現場に駆けつけた[2]。警察はその場にいたBを傷害容疑で現行犯逮捕し、[3]、後にBが「殺すつもりでやった」と供述したことから容疑を殺人未遂と銃刀法違反に切り替え送検した[4]



若干今回と違うのは、当人が執拗なSNS攻撃の後犯行に及んでいる。

花ちゃんの場合は 神経をすり減らす行為


どっちにしても SNSを使って相手の心をえぐってくる事


この時も問題になったが、、警察に相談に行ったのに、、、と言うくだりがあってどちらかというと

警察の対応が注視されがちで、SNSの中身の事までに大きく踏み込む事はなかったような気がする


本来なら この時


そう

2016年 

もう4年も前の事


この時議員はなんかしたのだろうか?


あまり記憶が無い!


逆に SNSの発信力と暴力的な内容は規制されるどころかどんどん増して行っているような気がする。

三原じゅん子議員が、私事性的画像記録の提供被害防止法 〔リベンジポルノ法)を作った後はなんかSNSの私的流用の規制などが大きく動いた記憶がない。

どっちかと言えば、著作権の方が主流だったような気がする。


そしてそのSNSで政治的な暴力的発信を 陰で 中国のSNSを使って行う 蓮舫議員

党員に現政権に暴言を使ってSNSに投稿させる共産党

ハッキリ言って この野党達はちゃんと対策ができるのか?

自分たちがとんでもないことを発信しているのに それを規制することを自ら襟をただして出来るのか?

不思議でならない。


ただのリップサービスだと思う

SNSこそ彼らの武器なのだから



それを しっかり取り締まる内容を作れるのか疑問


結局 花ちゃんの死がセンセーショナルだっただけにそれに乗っかってやってます感を出しているとしか思えない



花ちゃんのお母さん


木村響子さんの言葉


弔う時間をください!

まずそれだ!

木村花ちゃんのご冥福を改めてお祈りします 。

もう貴方の件は一旦置きますが

今後 日本の女子プロレス界がもっともっと

女子プロレス自体がもっともっと皆さんに理解してもらえるように私も微力ながら出来る事をしていきたいと思います。

貴方の事は決して忘れません

花ちゃんの事は月命日毎ぐらいに何か書くか、つぶやくかもしれませんが、
花ちゃんの尊厳を貶める行為や言動があった時はまた何か言うかもしれませんが
今後はテラハの方や今議員さんが言い出したSNSの対応の方に移ります。



元気でいてください

スターダムの仲間

そして 日本の女子プロレス界の事を見守ってください

そして お母さんを見守っててくださいね。


私の気持ちは先日投稿した



が本音です。


あえて
さようなら!

みんなを見守っててください



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kimurahana


女子プロレス「スターダム」に所属する木村花さんが23日に亡くなったことがわかった。22歳だった。同団体のホームページ(HP)で発表された。

HPでは「【訃報】木村花逝去に関するお知らせ」とのタイトルで亡くなったことを伝えている。    HPは「当社所属選手 木村花選手が本日5月23日逝去いたしました。突然のことでファンの皆様、関係者の皆様には深いご心配と、哀しみとなり、大変申し訳ございません」とした上で、「詳細につきましては、いまだ把握出来ていない部分もあり、引き続き関係者間の調査に協力してまいります。

木村花選手のご冥福を深くお祈り申し上げます。

今後につきましてはご親族と相談の上、お知らせいたします。また他の所属選手の心のケアにも努めてまいります」と説明している。  
 木村さんは現在Netflixで配信中の「テラスハウス」にも出演していた。  木村さんは21日に自身のツイッターで「音楽があって、あったかくて、家族と大好きな人達と素敵な人達がいっぱい出てきて 可愛くなって、可愛いねって言われて 試合をしていて、たくさん笑っていて 小波さんとじゃんぐるさんとプロレスを観に行く途中で 今までの幸せとこれからの幸せが沢山詰まった夢をみました。とにかく幸せだった」と心境をつづっていた。  プロレス関係者によると、木村選手は高校を中退後、プロレス学校に入学。卒業後、2016年当時、武藤敬司が率いた「WRESTLE-1」でデビュー。

2019年に「スターダム」に移籍すると、瞬く間にトップ選手に。ヒールレスラーとして人気だった。

 今年の新日本プロレス東京ドーム大会にも、初日の第0試合に出場。これからの活躍が期待されていただけに関係者のショックは大きいという。

母は元女子プロレスラーの木村響子さん
 
木村さんは21日に自身のツイッターで

「音楽があって、あったかくて、家族と大好きな人達と素敵な人達がいっぱい出てきて 可愛くなって、可愛いねって言われて 試合をしていて、たくさん笑っていて 小波さんとじゃんぐるさんとプロレスを観に行く途中で 今までの幸せとこれからの幸せが沢山詰まった夢をみました。とにかく幸せだった」と心境をつづっていた。

 プロレス関係者によると、木村選手は高校を中退後、プロレス学校に入学。卒業後、2016年当時、武藤敬司が率いた「WRESTLE-1」でデビュー。2019年に「スターダム」に移籍すると、瞬く間にトップ選手に。ヒールレスラーとして人気だった。今年の新日本プロレス東京ドーム大会にも、初日の第0試合に出場。これからの活躍が期待されていただけに関係者のショックは大きいという。母は元女子プロレスラーの木村響子さん。


ENCOUNT編集部










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1970年に日本プロレスに入門し、翌'71年にデビューを果たした藤波辰爾は、今年、プロレス生活50周年を迎える。

藤波辰巳



いまのプロレス界には、還暦を過ぎてからも時折リングに上がる大ベテランが少なからず存在するが、一度も正式な引退をすることなく、半世紀という長きにわたって現役を続けているのは藤波ただ1人。そんな藤波は、レスラー人生で一番心に残っている試合についてこう語っている。

「僕の名勝負というと、一連の長州力戦や前田日明戦というものを誰しもが挙げてくるでしょうし、剛竜馬戦やチャボ・ゲレロ戦といったジュニアヘビー級時代の試合を挙げる人もいるでしょう。でも、個人的な部分で言えば、やっぱり猪木さんとやった、

('88年)8.8横浜の試合でしょうね。

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 猪木さんは、僕がこの業界に入った時から師と仰いでいた人で、若手の頃は、まさかこの人と闘えるなんて夢にも思っていなかった。
 それが時を経て、猪木さんと実際にリングで闘うチャンスに恵まれて、しかも自分がチャンピオンとして、猪木さんの挑戦を受けるなんていう日が来るとはね」


人気低迷、世代交代も進まず。

 藤波が一番に挙げる、1988年8月8日、横浜文化体育館で行われたアントニオ猪木戦。この時期、新日本プロレスは大きなピンチに見舞われていた。

 この前年、'87年には“海賊男”の不可解な乱入や、ビートたけし率いる「たけしプロレス軍団(TPG)」の参戦といった“茶番劇”にファンが怒り、3.26大阪城ホール、12.27両国国技館と2度にわたって暴動が勃発。

さらに'88年3月には15年続いたテレビのゴールデンタイム放送が終了。人気低迷に歯止めが利かない状況になっていた。


 その一方で他団体を見渡すと、ライバル全日本プロレスは、御大ジャイアント馬場からエースの座を禅譲されたジャンボ鶴田と天龍源一郎の“鶴龍対決”が話題となり、この年、新日本を解雇された前田日明は新生UWFを設立し、若いファンの絶大な支持を集めていた。

 プロレス界は確実に新しい時代を迎えつつあったが、そんな中で新日本だけは世代交代が進まず、相変わらず猪木が絶対的なエースに君臨。しかし、40代半ばを迎えていた猪木の体力と気力の衰えは顕著であり、その求心力低下がそのまま新日本自体の低迷とリンクしてしまっていたのだ。

覚悟を示した「飛龍革命」。

 この危機的状況に立ち上がったのが、長年、猪木とともに新日本を支えてきた藤波だ。

 '88年4.22沖縄・奥武山体育館での試合後、控室に戻った藤波は猪木に対して事実上のメインイベンター交代を直訴。「やれんのか、おまえ!」と顔をビンタで張った師匠・猪木に対して、ひるむことなく強烈な張り手を返し、救急箱内にあったハサミで前髪を切り覚悟のほどを示した。これが俗に言う「飛龍革命」だ。この時の思いを、藤波はこう語る。

「沖縄でのあの感情はリアルですよ。ただ、べつに猪木さん個人に対する怒りがあったわけじゃない。本来、僕や長州といった下の世代がもっと早く、トップに立って興行を仕切れるようになってなきゃいけなかった。だから、あの時は自分自身への不甲斐なさもあったし、長年、重荷を背負い続けてきた猪木さんをなんとか楽にしてあげたかった。

 でも、僕らの世界では、会議室で猪木さんに相談して『僕らが代わりにやりますから、任せてください』なんていうのは通用しない。現場で既成事実を作るしかないんですよ。それでああいう行動に出たわけだけど、親分を殴っちゃったわけだから、どんな処分を受けても構わないぐらいの気持ちだった。

 今振り返ると、なんであそこでハサミを出して髪を切るなんて、子供じみたことをやったのかなと思うんだけど。あれは自分の精一杯の決意表明なんですよ。また、映像を見返してみると、自分でも何をしゃべってるのかわからないけど、感情が溢れすぎて言葉にならなかったんだよね。それぐらい自分は本気だったから」

「俺はもう何も言わんぞ!」

 16歳でプロレス入りした時から猪木の付き人を務め、新日本の旗揚げ以降も常に行動を共にした藤波にとって、猪木は師匠以上の存在。猪木のやり方に初めて反旗を翻したのは、それだけの危機感が藤波の中にあったのだ。

 この藤波の決死の訴えに対して猪木は、「俺はもう何も言わんぞ! やれよ、そんなら!」と、突き放すように容認。そして沖縄大会以降、「ランニング中に足の甲を骨折した」という真偽不明の理由で試合を欠場し、自身が保持していたIWGPヘビー級王座も返上した。こうして猪木不在の中で暫定エースとなった藤波は、ビッグバン・ベイダーとの王座決定戦に勝利しIWGP王座を初めて獲得。その後、ライバルの長州にもピンフォール勝ちを収め、新日本のトップに立った。

覚悟を示した「飛龍革命」。

 この危機的状況に立ち上がったのが、長年、猪木とともに新日本を支えてきた藤波だ。

 '88年4.22沖縄・奥武山体育館での試合後、控室に戻った藤波は猪木に対して事実上のメインイベンター交代を直訴。「やれんのか、おまえ!」と顔をビンタで張った師匠・猪木に対して、ひるむことなく強烈な張り手を返し、救急箱内にあったハサミで前髪を切り覚悟のほどを示した。これが俗に言う「飛龍革命」だ。この時の思いを、藤波はこう語る。

「沖縄でのあの感情はリアルですよ。ただ、べつに猪木さん個人に対する怒りがあったわけじゃない。本来、僕や長州といった下の世代がもっと早く、トップに立って興行を仕切れるようになってなきゃいけなかった。だから、あの時は自分自身への不甲斐なさもあったし、長年、重荷を背負い続けてきた猪木さんをなんとか楽にしてあげたかった。

 でも、僕らの世界では、会議室で猪木さんに相談して『僕らが代わりにやりますから、任せてください』なんていうのは通用しない。現場で既成事実を作るしかないんですよ。それでああいう行動に出たわけだけど、親分を殴っちゃったわけだから、どんな処分を受けても構わないぐらいの気持ちだった。

 今振り返ると、なんであそこでハサミを出して髪を切るなんて、子供じみたことをやったのかなと思うんだけど。あれは自分の精一杯の決意表明なんですよ。また、映像を見返してみると、自分でも何をしゃべってるのかわからないけど、感情が溢れすぎて言葉にならなかったんだよね。それぐらい自分は本気だったから」

「俺はもう何も言わんぞ!」

 16歳でプロレス入りした時から猪木の付き人を務め、新日本の旗揚げ以降も常に行動を共にした藤波にとって、猪木は師匠以上の存在。猪木のやり方に初めて反旗を翻したのは、それだけの危機感が藤波の中にあったのだ。

 この藤波の決死の訴えに対して猪木は、「俺はもう何も言わんぞ! やれよ、そんなら!」と、突き放すように容認。そして沖縄大会以降、「ランニング中に足の甲を骨折した」という真偽不明の理由で試合を欠場し、自身が保持していたIWGPヘビー級王座も返上した。こうして猪木不在の中で暫定エースとなった藤波は、ビッグバン・ベイダーとの王座決定戦に勝利しIWGP王座を初めて獲得。その後、ライバルの長州にもピンフォール勝ちを収め、新日本のトップに立った。

珠玉の60分は、最高の結末に。

 そんな藤波の前に立ちはだかったのが、ケガから復帰し、次期挑戦者決定リーグ戦を勝ち上がってきた師匠アントニオ猪木。こうして8.8横浜で、王者・藤波vs.挑戦者・猪木のIWGPヘビー級選手権という、これまでとは逆の立場での師弟対決が実現したのだ。

 この試合で藤波と猪木は、クラシックな技と技、力と力、気迫と気迫がぶつかり合う、新日ストロングスタイルの真髄とも言える試合を展開。そして稀代の天才レスラー2人が、持てる技術と気力を全て出し尽くすと、時間はあっという間に過ぎていき、珠玉の60分フルタイムとなった。

 結果だけ見れば、藤波のドロー防衛。猪木は王座を奪回することができず、藤波は猪木を超えることができなかった。それでも藤波は、「いま思えば、最高の結末になった」と語る。

“勝ちたい”よりも“守りたい”。

「僕は、丸坊主の新弟子時代から猪木さんに仕えてきたから、“猪木さんに勝ちたい”という気持ちももちろんあるけど、“猪木さんを守りたい”という気持ちと両方があった。だから勝てなかった悔しさより、あの試合で猪木さんを蘇らせたよろこびがあったんだよ。あの日の猪木さんの動きを見て、『終わったな』と言う人は誰もいないでしょう。あれがアントニオ猪木なんですよ」

 この時、猪木は45歳。その年齢であれだけの濃密な試合内容で60分を闘い抜いた猪木のすごさを、藤波は身を以て感じていたのだ。

「あの時、8月だから夏のいちばん暑い時期でしょ? しかも当時の横浜文化体育館にはクーラーがなかったの。それでリングはテレビ用のライトで照らされて、リング上は40℃以上あったでしょう。そんな中で1時間闘ったらね、冗談抜きにあの後2日間おしっこが出なかったから。脱水症状を起こしていたんだろうね。それくらい出し切った。そういう試合を、あの歳でやった猪木さんはやっぱりすごいよ。

 自分自身、あの時は猪木さんに対する気後れもまったくなかった。自分が思うがまま、本能のままに闘えたのがあの60分。だから、最後はすごく清々しかった。もちろん『藤波は結局、猪木さんに勝てなかった、超えられなかった』と言う人もいますよ。自分自身、そこに悔いがないと言ったらウソになるけど。そういった勝敗を超えて、あの試合は自分にとって最高の宝だね」

 この試合は、猪木と藤波の長年にわたる師弟関係の集大成だった。そしてすべてを出し尽くした試合後、猪木はチャンピオンベルトを手に取り、自ら藤波の腰に巻いてやった。その瞬間、すべてのわだかまりは氷解。無言で抱き合う師弟の頬を涙が伝った。


プロレスのあるべき姿。

「猪木さんにベルトを巻いてもらった時の気持ちは、言葉にできないね。猪木さん自身、当時引退が囁かれる中でああいう試合ができたことに対して、純粋な満足感があったと思う。だから僕の腰にベルトを巻いてくれるという行為になったんだと、僕は理解してるんだけどね。普通、猪木さんはああいうことはしないもん。

 その後、長州が猪木さんを肩車してね。ああいうことがとっさに出たということは、長州もまた同じ思いを共有していたからだと思う。そして、あのラストシーンでリングを囲むファンの顔を、ビデオで見てくださいよ。本当に純粋に“いいものを見た”という顔をしてますから。だから、プロレスというのは単なる技の攻防じゃないんです。たしかに時代が変わってプロレスがどんどん進化して、いろんなかたちに変わってはいるけれど、あれが本来あるべきプロレスの姿じゃないかな。そういう試合ができた、あの“8.8”という日付は、いまも自分の中で特別な日として残ってますよ」

『Sports Graphic Number』創刊1000号を記念して、NumberWebでもライター、著名人による「私にとっての1番」企画を掲載します! 今回は堀江ガンツ氏による「藤波辰爾のベストバウト」です。藤波が師と仰ぐアントニオ猪木との決戦を振り返ります。堀江ガンツ

堀江ガンツGantz Horie

PROFILE



~~~~~~~~~~~~~~



この頃もう プロレス見たくないなーーって思い始めた。


なんせ TGPプロレス の面々があのリングにベイダーを連れてやってきて(ベイダーは最初TGPプロレス所属だったのだ、、) いきなり番外編的に猪木と勝負しろとか言って強引に試合をした。


アホか!!

って思い始めた。


その後 ベイダー とか スコットノートンとか熱い外国人選手になって盛り上げてくれたので溜飲さげたが、、

その中で唯一心揺さぶられた 猪木VS藤波  思い入れは強い





H5 05063【中古・VHSビデオ】「新日本プロレス名勝負三十 昭和名勝負篇」出演:アントニオ猪木/タイガーマスク/藤波辰巳/他
H5 05063【中古・VHSビデオ】「新日本プロレス名勝負三十 昭和名勝負篇」出演:アントニオ猪木/タイガーマスク/藤波辰巳/他




















 


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ロングホーン

少し前 雑学クイズで 4択があった。

問題は、 

音楽の世界 特に ロック系のミュージシャンが中指と薬指を折りたたんで行うポーズは?

「メロイックサイン」の画像検索結果
merosainn

という問だった。

実際に指を折ってみて 直ぐ私は

ロングホーン

とわかったので

4択の答えにチャックを入れようとしたら

その中にロングホーンが無いではないか!!

バカな

そして 私は 



グワシ


にチェックした。

そう 楳図先生の漫画 
【まことちゃん】 の決めポーズだ。


そう まことちゃん 
なかなかロックな漫画やったから間違いないと思った



が 
正解はなんと

メロイックサイン

なんじゃそりゃ!!

でも絶対 これはロングホーンや!!


見よ↓↓↓


ハンセン 

もう一丁

ロングホーン

これは 撮影用だが

タイトルコールの時の

ウイィーーーーーーーーーーーー

関連画像

これに尽きる

絶対このポーズの伝道師は

スタンハンセン

である。


Gスピリッツ(vol.38) プロレス専門誌 対談 テリー・ファンク×スタン・ハンセン/特集 前座・中堅た (タツミムック)
Gスピリッツ(vol.38) プロレス専門誌 対談 テリー・ファンク×スタン・ハンセン/特集 前座・中堅た (タツミムック)


新日本プロレスリング 最強外国人シリーズ::不沈艦伝説 スタン・ハンセン DVD-BOX [ スタン・ハンセン ]
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日は、また昇る。 男の引き際と、闘うべきとき [ スタン・ハンセン ]
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まことちゃん〔セレクト〕(3)【電子書籍】[ 楳図かずお ]
まことちゃん〔セレクト〕(3)【電子書籍】[ 楳図かずお ]


余談だが 私が間違った 

グワシ

これはまことちゃんのポーズだが

立てる指が違っていた。


中指と小指を折るのだ。


これ ムズイぞ!!

guwasgi

注  今回少し手直しをしました

茶色の部分が付け加えられています。



元記事はこちら

















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昨日の夜の段階で噂になっていた。




「ケンドー・ナガサキ」のリングネームで知られるプロレスラーの桜田一男氏が死去したことが13日未明分かった。米国のプロレスラー親睦団体「カリフラワー・アレイ・クラブ」が公表した。享年71。死因は不明だが、心臓のペースメーカーの故障によるという情報がある。


 1948年、北海道網走市出身の桜田氏は64年に大相撲の立浪部屋から初土俵。71年に日本プロレスに入門し、プロレスに転身した。日本プロレス崩壊後には全日本に移籍し、米国に進出して日本人ヒールレスラーとして存在感を発揮。新日本プロレスにも参戦し、その後は大日本などインディー団体などでも活動した。またプロレス界ではけんか最強との呼び声もあり、総合格闘技に参戦した経験もある。

 16年には心臓の手術を受けていた。今月11日には千葉県船橋市で開催されたパーティーに出席していたとの情報もある。


2020/01/13 01:51デイリースポーツ


~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

プロレスラーのケンドー・ナガサキこと桜田一男さんが71歳で死去したことが13日までに
分かった。

訃報を受け、武藤敬司(57)が日刊スポーツにコメントを寄せた。武藤にとって、桜田さんは80年代米マットで活躍した時の恩人だった。

「突然の訃報に驚いております。サクラダさんとは若手時代に海外で大変お世話になり本当に良くして頂きました。実は自分がプロデュースする大会にも来て頂こうと構想があったのですが…残念です。サクラダさんは膝を人工関節にしていたので、私が人工関節施術手術を終えた時に電話を頂きいろいろアドバイスや心配をして頂いたのが最後の会話になってしまいました。サクラダさん、思い出が多すぎて整理がつきませんが本当にありがとう御座いました。心よりご冥福をお祈り致します」。


武藤敬司「整理がつきません」恩人ナガサキさん悼む

~~~~~~~~~~





何故かこのプロレスカテゴリーがこんな悲しい場になってしまうのか?

ケンドー
このころは 強かったなーー
~~~~~~

【大日本】ケンドー・ナガサキさん追悼 小鹿会長「本当に感謝しかない」と涙

東スポWeb2020年01月13日15時22分

大日本プロレスは12日に急逝した団体旗上げ当時のエース、ケンドー・ナガサキさん(享年71=本名・桜田一男)の追悼セレモニーを、13日の東京・後楽園ホール大会前に行った。

 リング上には1995年3月の旗揚げ戦から苦楽をともにしたグレート小鹿会長(77)と登坂栄児社長(48)が並び、最後までナガサキさんの愛弟子だった谷口裕一(42)が遺影を持った。所属全選手がリングを取り囲み、追悼の10カウントゴングが鳴らされた。

 大日本プロレスによると、ナガサキさんは12日に千葉・市原市内の自宅で亡くなっているところを知人に発見されたという。死因は不明。

2016年に心臓の手術を受けていたが、数日前まで自宅近くで元気な姿を見せていたという。

 ナガサキさんには近親者がおらず、葬儀などの日程は未定。小鹿会長は「ナガサキがおらんかったら大日本の存在などなかった。本当に感謝しかない。親族の方がいらっしゃいましたら、どうか大日本プロレスまでご連絡をください…」と哀悼の意を表しつつ、あふれる涙を拭った。

 ナガサキさんは48年9月、北海道・網走市出身。64年に大相撲の立浪部屋で初土俵を踏んだ。71年に日本プロレスに入門。日本プロレス崩壊後には全日本プロレスに移籍し、米国に単身渡って日本人ヒールレスラーとして一時代を築き上げた。

 80年代中盤にはミスター・ポーゴ(故人)とのコンビで新日本プロレスにも参戦。SWS、NOWを経て94年に小鹿会長が大日本プロレスを設立した際に合流。エースとして翌年3月の旗揚げ戦に参戦した。

 団体がデスマッチ路線から当時流行していたバーリ・トゥード路線に移行すると、最前線に立ち総合格闘技にも挑戦した。日本プロレス時代から「桜田ケンカ最強説」は根強く、実際に数々の武勇伝を残している。

 2000年代に入るとフリーとして活動するかたわら、神奈川・小田原市でスナックとちゃんこ屋を経営。飲食業に本腰を入れるようになり、マット界からゆっくりと撤退した。7年前からは千葉・市原市に移住。市内の会社に勤務していたという。また一人、昭和を代表する名レスラーが天に召された。


本当にご冥福をお祈りします。











 

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また 巨星が散った

NWA世界ヘビー級王座を8度獲得し、日本でも
“美獣”の異名でジャイアント馬場さんらと死闘を繰り広げた元プロレスラー、ハーリー・レイスさんが1日(日本時間2日)、肺がんによる合併症のために死去した。76歳だった。米WWEが発表した。

 米ミズーリ州出身。15歳でプロレスデビューし、1973年にドリー・ファンク・ジュニアを下してNWA世界ヘビー級王座を獲得した。

 日本では全日本プロレスを主戦場とし、エルボードロップやブレーンバスターなどの得意技で、ジャイアント馬場やジャンボ鶴田らと戦った。防衛戦では苦戦しながらも両者リングアウトで王座を死守するふてぶてしい様子も印象的だった。

 8度に渡りNWA王座を獲得し、86年にはWWF(現WWE)に移籍、95年に引退した。






ハリーレイス


■ニックネーム:美獣
■本名:ハーリー・レランド・レイス
身長・体重:185センチ、115キロ
生年月日:1943年4月11日
■出身地:米・ミズーリ州メアリービル出身
得意技:ブレンバスター、ダイビング・ヘッドバット
■主要タイトル:
 AWA世界タッグ
 IWA世界タッグ(オーストラリア版)
 セントラルステーツ・ヘビー
 ミズーリ・ヘビー
 北米タッグ(セントラルステーツ版)
 NWA世界ヘビー
 北米ヘビー(カルガリー版、モントリオール版)
 USヘビー(ミッドアトランティック版)
 フロリダ・タッグ
 ミッドアメリカ・ヘビー
 WWA世界ヘビー(インディアナ版)
 ジョージア・ヘビー
 PWFヘビー
 UNヘビー
 カリビアン・ヘビー 
■来日回数:33回
■参加シリーズ:
 43 2 (日) ダイナミック・S
 44 11 (日) NWAシリーズ
 45 11 (日) インター・チャンピオン・S
 47 2 (日) ダイナミック・S
 48 2 (全) ジャイアント・S結集戦
 48 8 (全)【特】ワールド・チャンピオン・S
 49 1(全)【特】新春NWA・S
 50 1 (全)【特】新春ジャイアント・S
 50 12 (全)【特】オープン選手権大会
 51 4(全)【特】第4回チャンピオン・カーニバル
 52 6(全)【特】NWAチャンピオン・S
 53 1(全)【特】新春ジャイアント・S
 54 5 (全)【特】スーパー・パワー・S
 54 10 (全)【特】ジャイアント・S
 55 5 (全)【特】スーパー・パワーS
 55 8 (全)【特】第2次サマー・アクション・S
 56 2 (全)【特】エキサイト・S
 56 10【特】(全) ジャイアント・S
 56 11(全) 世界最強タッグ決定リーグ戦
 57 4(全) グランド・チャンピオン・S
 57 7(全)【特】サマー・アクション・S
 57 10 (全)【特】ジャイアント・S
 57 11 (全) 82世界最強タッグ決定リーグ戦
 58 3 (全)【特】グランド・チャンピオン・カーニバルⅠ
 58 9 (全)【特】ジャイアント・S
 59 5 (全)【特】グランド・チャンピオン・カーニバルⅡ
 59 10 (全)【特】ジャイアント・S
 59 11 (全) 84世界最強タッグ決定リーグ戦
 60 6 (全) 85 熱風!サマー・アクション・ウォーズ
 60 8 (全) 85決戦!ダイナマイト・ウォーズ
 60 11 (全) 85 世界最強タッグ決定リーグ戦
 61 2 (全) エキサイティング・ウォーズ 86
 61 5 (全)【特】スーパー・パワー・S




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長州力


1970年代から活躍してきた人気プロレスラーの長州力さん(67)が26日、現役最後の試合を東京都文京区の後楽園ホールで行った。

【藤波さんにサソリ固め! 試合の様子を写真特集で】

 長州さんはミュンヘン五輪にも出場したアマチュアレスリングの実力者として、1974年に新日本プロレスでデビュー。輝かしい経歴とは裏腹の反骨精神むき出しのファイトで80年代に絶大な人気を獲得した。98年に一度は引退したが2年後に現役復帰。還暦を過ぎても力強い試合を見せてきたが、デビューから45年で改めて引退の日を迎えた。

 最後の試合は絶頂期に抗争を繰り広げた最大のライバル、藤波辰爾(たつみ)さんらを相手にした6人タッグマッチ。サソリ固めやリキラリアットなどの得意技も披露したが、かつて自身の付き人だった真壁刀義さんに空中技から3カウントを奪われて敗北。「これからもプロレスをよろしく」などとあいさつした後、満員の観衆の「長州」コールを浴びながらリングを降りた。【山本晋】

最終更新:6/26(水) 21:55
毎日新聞




~~~~~~~~

まー 長きにわたり お疲れ様でした。




名場面 コラ コラ合戦



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“熊殺し”の異名を持つ空手家のウィリー・ウィリアムスさんが7日、祖国アメリカで病気のため亡くなられたと海外メディアが報じた。67歳だった。

 極真会館米国コネチカット支部で空手を学んだウィリーさんは、故・梶原一騎氏が製作した映画『地上最強のカラテPart2』(1976年公開)で、巨大な熊と対決。
以降、熊殺しの異名を持つことになる。
その後、空手の世界大会で優秀な成績を収めたが、
アントニオ猪木が掲げた
「プロレスこそ最強の格闘技」という全格闘家に対する挑発に乗る形で、1980年2月に蔵前国技館で猪木と、『格闘技世界一決定戦』として、プロレス対極真空手の異種格闘技戦を行うことになった。

当時の極真空手は他流試合を禁じていたため、ウィリーさんは破門にされたが、当日ウィリーさんのセコンドには極真勢が付いており、後にウィリーさんも破門を解かれていることから、梶原氏が仲介したものと思われる。

 試合は、猪木対モハメド・アリ以来の緊張感溢れる闘いになった。両者一歩も引かぬまま同体でリング下に落下。両陣営のセコンドが入り乱れる中、4R1分24秒、両者ドクターストップのドロー判定ながらも、一連の猪木による異種格闘技戦シリーズの中でベストバウトの呼び声の高い、後世に伝えられる試合の一つであった。実際、DVDマガジン化された際には売り上げが良かったという。

 1994年に師匠の故・大山茂氏が設立したUSA大山空手に移籍。正道会館(初期K-1の前身)で佐竹雅昭と対戦したり、リングスで前田日明と対戦したが、既に全盛期は過ぎており、かつての殺伐感はなかった。

1997年の新日本プロレス1.4東京ドーム大会では、猪木引退ファイナルカウントダウンの相手として、17年ぶりに猪木と対峙したが腹が出ており、決め技限定マッチで猪木の決め技コブラツイストにギブアップ負け。1999年にはFMWに参戦。BAD BOY 非道と対戦し、敗れた非道が弟子入りを志願。ウィリー高山にリングネームを変更している。

 ウィリーさんの全盛期は70年代後半から80年代前半だったが、猪木が掲げた「プロレス最強」と闘うことで、簡単に認めさせなかった数少ない一人として、格闘家としての功績はいつまでも語り継がれることだろう。

猪木の好敵手がまた逝ってしまった。

合掌。





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2019年2月19日20時23分  スポーツ報知


 ◆ジャイアント馬場没20年追善興行~王者の魂~(19日、両国国技館)

 1999年1月31日に61歳で亡くなった不世出のプロレスラー、ジャイアント馬場さんの没後20年をしのぶ「ジャイアント馬場没20年追善興行~王者の魂~」が19日、両国国技館で行われ、馬場さんの好敵手だった“黒い呪術師”アブドーラ・ザ・ブッチャー(77)の引退セレモニーが開かれた。

 紺のガウンを身につけたブッチャーは、股関節を負傷している影響から車椅子でリングに上がった。セレモニーには、ドリー・ファンクJr(77)、スタン・ハンセン(69)、ミル・マスカラス、ドスカラス、坂口征二氏(77)、初代タイガーマスクの佐山サトル(60)、リアルジャパンプロレス会長の新間寿氏(83)、武藤敬司(56)、フリーアナウンサーの徳光和夫さん(77)、元日本テレビアナウンサーの倉持隆夫氏(78)らがリング上で花束を贈呈した。さらにザ・デストロイヤー、鈴木みのるからビデオメッセージが寄せられた。

 セレモニーの最後にマイクを持ったブッチャーは、ファンへ感謝の思いを伝えた上で「ここにジャイアント馬場がいてくれたら完璧です」と天国の馬場さんへの思いを明かした。その上で「若い人たちに言いたい。自分の親が年取っても決して老人ホームにぶち込んで忘れるようなことだけはするな!いずれお前たちも年取ってそうなるんだから。ちゃんと親を大事にしろ!忘れるんじゃないぞ!」と呼びかけていた。最後は「サンキュー」を6回連呼し引退の10カウントゴングを鳴らし、リングに別れを告げた。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

これからも 後進の指導をよろしくお願いしたい!!

アブドーラ・ザ・ブッチャー2世楽しみだなーーー

この雄姿 また誰か引き継いでくれんか?

ブッチャーVSホーガン

【予約商品】 (ハオミン) HAOMING Abdullah The Butcher ×HMG CAP [ab19-05] ローキャップ 6パネル キャップ 帽子 アブドーラ・ザ・ブッチャー プロレス 国内正規品
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全日本プロレス中継 世界最強 タッグ列伝 1977-1999 [ アブドーラ・ザ・ブッチャー ]
全日本プロレス中継 世界最強 タッグ列伝 1977-1999 [ アブドーラ・ザ・ブッチャー ]





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馬場さんの代名詞と言えば 16文キック

しかし あの体格でゴッツイ技もやっていたのだ、、、

ドロップキック

32文ロケット砲といわれた

馬場さんのドロップキック
フォームもきれいで、当たっているところも首元と申し分ない

相手のドンダフィーはかなり吹っ飛んでこの一発でKOだったそうだ。

晩年はあまり高く飛べず胸板あたりになって

更に進むと片足だけのヒットになった

そして 飛ぶフォームもこのような綺麗な側面飛びからのヒットではなく
背面飛びからの片足ヒットとなった。
お年だったので 背面からの受け身で安全に気を使っていたと思う。


晩年のココナッツクラッシュも足があんまり上がらなかったが、

ジャイアント馬場 ココナッツぅラッシュ

かなり上まで行っていた時は本当に首がねじ切れるかと思った
これは 相手は1メートル90センチ以上あった
ボボブラジルの頭を押さえて自分の太ももと外股関節で挟みこんでたたきつけていました。
晩年はあまり足を上げなくていいように 背の低い 永源遥選手なんかにかけていました。


そのココナッツクラッシュよりも 更に体に負担のかかるドロップキックを ここ一番と言う時に出していた。

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必見  英国無名時代 





ダイナマイトキッド
カッコ良かったよ!!
タイガーマスクの良きライバルだった。

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ジャイアント馬場さんと死闘を繰り広げた

人間台風 ドンレオジョナサン が亡くなった。



“人間台風”ドン・レオ・ジョナサンさん死去 力道山、馬場らと対戦

“人間台風”などの異名を取った元プロレスラーのドン・レオ・ジョナサンさん(本名ドン・ヒートン)が現地時間13日、カナダで死去したと現地の複数のメディアが報じた。87歳。死因は不明だが8月から入院していたという。

 米国出身のジョナサンさんは身長2メートル近い巨体の持ち主ながら宙返りができるほどの高い運動能力、怪力、高い技術を持ち、50年代から70年代にかけて活躍。日本でもおなじみで、58年に日本プロレスに初来日して力道山のインターナショナルヘビー級王座に挑戦した。

 その後も度々来日し、国際プロレスではアンドレ・ザ・ジャイアント、全日本プロレスではジャイアント馬場、ジャンボ鶴田らと対戦した






ドンレオジョナサン
ストロングスタイルの巨人でした。


まーー華のある選手だった。




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マサ斎藤さんが亡くなった。


ついこの前 ベイダーの訃報を載せたばっかりだったのに。


残念でならない。


マサ斎藤さん、倫子夫人が明かした最後の3時間半…止まった心臓を蘇生させようと闘い抜いた

今月14日にパーキンソン病で亡くなったプロレスラー、マサ斎藤(本名・斎藤昌典)さん(享年75)の通夜が21日午後6時から都内で営まれた。

 リングを再現した祭壇には、信条の「GO FOR BROKE!(当たって砕けろ)」が青文字で掲げられ、何度やられても闘志むき出しに立ち上がった現役時代のリング上で闘う勇姿の遺影が飾られた。
戒名は、でリングネームの「マサ斎藤」。最後までプロレスラーとしてパーキンソン病と闘った人生を象徴する戒名だった。

 喪主の倫子夫人(68)は、遺影を「まさにGO FO BOROKE!全身で表していたマサさんらしい姿だと思ったからです」と明かし、リングを再現した祭壇を「パーキンソン病ってお医者さんによりますと、モチベーションが上がらなくて、ひどい時にはうつになってしまうのがとても大きな特徴なんです。
ただ、来年2月に再びリングに上がるチャンスに恵まれ、本人はリングというだけで顔が変わります。
それで集中リハビリをやって備えていた。その矢先ということでした」とマサさんが生きがいだった場所への思いを込めたという。

 また、戒名をリングネームにしたことについて「名前を付けてくださった御両親には申し訳ないんですけれども、やはり、マサさんはレスリングをやるために生まれてきたような人で趣味はないです。

とにかくレスリング一筋。

どんなに苦しい時でも辛いときでもレスリングのレの字、リングという言葉を聞いたらそこで目の色が変わります。元気になります。とにかくアマチュアもプロもリング一筋。
レスリングが彼のすべてです。命です。
リングが彼のパワースポットでした。それで斎藤家のみなさんにご了解いただき、マサ斎藤で最期まで逝かせてくださいと戒名をマサ斎藤でそのようになりました」と説明した。

 棺のマサさんは穏やかな顔で眠っていると明かし「靴下もリングシューズも履いています。
今日はセミファイナル、明日がファイナル。ゴング間近だからちゃんとウォームアップして頑張ってよと話しました」と倫子さん。
棺には「私たちの結婚式、まだ恋人同志の時の写真。それに赤ちゃんが体が大きくなったような天真爛漫なマサさんらしい写真。
それとみなさんが書いて下さった記事を入れました。
最後の記事をマサさんは読んでいませんから、これからゆっくり嬉しそうに楽しく喜んで読ませていただくと思います、何回も何回も読むと思います」と明かしていた。

 また、倫子夫人は亡くなった時を明かした。14日午前1時05分が亡くなった時刻だが、前日の夜にマサさんが入所していた埼玉県内のリハビリ施設から心臓が止まり、病院へ搬送する連絡を受けたという。

「私が病院に駆け付けた時は心臓が止まっていました。
だけど、私は認めたくない。最後まで奇跡を信じました。ドクターも奇跡を起こしましょうと言っていただいて、私は取り乱してしゃくり上げていたんですけど、私は嫌です、認められません。
認めたらマサさんが遠くに行っちゃう気がして認められませんと。そこから3時間半、救急隊、ドクターの方が蘇生してくれて、私も、自分がやらなければいけないと鼻を5回も6回もかみましたが…。それで7月14日、午前1時05分になりました」と最後までマサさんの心臓を蘇生させようと懸命に闘ったことを明かした。
最愛の妻に看取られマサさんは永遠の旅立ちを果たしていた。

 マサさんの告別式は22日に営まれる。弔辞は、現役時代に深い親交があったザ・グレート・カブキの米良明久氏(69)と米国修業時代から公私共にマサさんを慕った武藤敬司(55)が読み上げる。

2018年7月21日21時23分  スポーツ報知


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1980年代後半から90年代にかけて、新日本プロレスの常連外国人選手として活躍した名プロレスラー、ビッグバン・ベイダー(本名:レオン・ホワイト)さんが、現地時間・6月18日午後7時25分に、アメリカで肺炎で亡くなられた。享年63歳。
 
ベイダーさんは、カリフォルニア州リンウッド出身。アメリカンフットボールの選手として活躍したのち、1985年にアメリカ・AWAマットでプロレスデビュー。
 
1987年12月にはマサ斉藤のスカウトによって、TPG(たけしプロレス軍団)の刺客、“皇帝戦士”ビッグバン・ベイダーとして両国国技館に初登場。いきなりアントニオ猪木を破って、鮮烈なデビューを飾った。

1989年4月には橋本真也を下して、第4代IWGPヘビー級王座も獲得。1990年2月には、東京ドームで行われた全日本プロレスとの対抗戦で、スタン・ハンセンとの“外国人頂上対決”が実現。プロレス史に残る大死闘を繰り広げた。
  
1999年には、全日本プロレスで3冠ヘビー級王座を獲得。現時点で、IWGPヘビーと3冠ヘビーを獲得した唯一の外国人選手として知られている。
 
謹んで、ビッグバン・ベイダーさんのご冥福をお祈りいたします。
  
新日本プロレスリング株式会社

ほんまに悲しい、、、、、

ご冥福をお祈りします。


ベイダー


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つい先日 あの MSG ニューヨークマジソンスクエアガーデンの帝王 

人間発電所こと ブルーノサンマルチノが亡くなった。

それを見て 
最近名レスラーが亡くなった中で一番最初に

あ―――この人の人生はどうだったのだろう?

と思ってったのが

アンドレ ザ ジャイアント。

彼を思い出して 彼の写真を探していたら なんと その丁度帝王時代のサンマルチノとの写真が見つかった。

そして 彼の生きてきた暫くの間にスポットをあてた記事も見つけた。



~~~~~~~~~~~~~~~~

一晩で106杯のビールを飲み、慢性的な痛みにも治療を拒んだ、プロレス界の伝説=アンドレ・ザ・ジャイアントの素顔を捉えたテレビ映画が米国現地時間4月10日に公開。
その内容について触れてみる。

大げさに振る舞うことこそがプロレスを大舞台での真剣勝負というファンタジーに仕上げてくれている。しかし偉大なる伝説の一角を担ったアンドレ・ザ・ジャイアントにあってはこの魅惑こそが現実だった。
この火曜日の夜に先行公開された、

ジェイソン・ヘアーが監督したHBOのドキュメンタリー『アンドレ・ザ・ジャイアント』では、プロレス界の象徴的スターの名声、謎めいた実生活、圧倒的な力とその裏にある痛みを描いている。取材相手は同じくプロレス界の伝説たるハルク・ホーガン、リック・フレアー、ビンス・マクマホン、さらにはビリー・クリスタルやロビン・ライトなどのハリウッドのスターたち、そしてアンドレの家族や友人たちにも及んでいる。

アンドレ・ザ・ジャイアント(本名:アンドレ・ロシモフ)、1970〜80年代の世界のプロレス界において「大巨人」の名をとどろかせた人物。彼は生涯を通じて文字通り成長を続けた。先端巨大症の結果である。ロシモフの身長は7フィート4インチと記録され体重は520ポンドとされている。

「CGI以前には、アンドレ・ザ・ジャイアントただ一人しかいなかったんだ」とベテランのプロレス研究家デビッド・シューメイカーはこのドキュメンタリー作品で、こう説明している。このドキュメンタリーから分かる簡単なトリビアをローリングストーンではまとめてみた。

・アンドレが急速に成長し始めたのは15歳になってから。

監督のジェイソン・ヘアーは大巨人の10代の内面にフォーカス。彼が年相応の背丈だった子ども時代の写真も登場する。「彼はかわいらしい子どもでした」とアンドレの兄、アントワーヌ・ロシモフはこの作品の前半でこう語っている。「普通だったんです」と。しかし15歳になって全ては変わってしまった。アンドレの他の兄弟、ジャックは母親が彼の成長が止まらないのを心配していたのを回想する。

また、ロシモフは先端巨大症への治療は一貫して拒否。かつてアンドレの踝(くるぶし)の骨折の治療を担当したハリス・エット医師がアンドレのサイズに関する医学的推定を示している。「彼の踝(くるぶし)の骨は普通の人の膝の骨ほどの大きさがあったんです」とエットは語る。エット医師はアンドレの症状は治療可能なものではあったが、意味のないことはしたがらないとして治療を拒んだという。つまり、選手としての個性を歪めてしまう可能性をアンドレ自身が危惧したのだ。だが、そのせいで肉体的な痛みや苦しみは増すばかりだった。

アンドレの映画『プリンセス・ブライド・ストーリー』(1987年)で共演したケイリー・エルウィスもその痛みこそが、彼の酒浸りの原因になったと見ている。「彼は痛くて飲まずにはいられれなかったの」と。

・アンドレは従来のプロレスの縄張りのフォーマットを乗り越えた、史上初めての国民的プロレススターの一人だった。

元プロレスラーで解説者のジェリー・ローラーとプロレス・ジャーナリストのデイブ・メルツァーが、プロレス界の縄張りについて語っている。フランス生まれのロシモフが欧州から米国にやってきた当時、北米には32もの異なる縄張りが存在していたとローラーは推定している。アンドレは各地域で2カ月間の興業をこなしては転戦していた。「当時、この業界にはアンドレ以外には完売間違いなしのスター選手はいなかったんだ」とローラーは語る。ただ、それゆえにアンドレは絶え間なく移動せざるを得なくなったのだ。

・北米でのアンドレ・ザ・ジャイアント人気の熱は当初あっさり収まってしまった。

当初はロシモフを一目見ようと会場に群衆が列を成したものだが、いったん本人を見てしまうと、繰り返し見ようとする魅力はまだ彼にはなかった。ビンス・マクマホン・シニアの助力で、アンドレは当時の北米各地のプロレス興行にピンポイントで参加できた。その結果、アメリカ国内および世界中でも名声を得た最初期のプロレスラーになれたのだ。

アンドレ
アンドレと 当時のニューヨークの帝王 ブールーノサンマルチノ と

アンドレもまだこのころは幅がそんなになく身長に見合った大きさだった。)



・アンドレは各地の地元マスコミを通じてお茶の間の人気者になった。


1970〜80年代、アンドレはアメリカ各地のローカルニュースによく出演した。マスコミ関係者と握手する際、手を強く握り締めてはその痛みに相手の顔をしかめさせたり、2000ポンドのバーベルを軽々と上げたり、インタビュアーに自分の巨大な衣装を着させたり、ファンに自分を売り込む術を彼は知っていたのだ。中でも人気番組『60 Minutes』で彼はこうも言っている。「(この身体は)神さまが俺の生計を支えるために下さったものだ」と。

・アンドレのおならは文字通り危険物だった。

ロシモフが町から町への旅暮らしのなかで、その巨大な身体が収まるクルマが用意できるかどうか、また飛行機の座席一列が確保できるかどうかで、悩まされていたのは有名な話だ。巡業ではプロレスラー仲間と移動する。そのときに、大巨人の強烈なおならに皆が悩まされたという。かつてのプロレス・パーソナリティ、ジーン・オーカーランドは、アンドレがやらかす前にはいつもその左足を上げて見せ、それが周りへの一種の合図になっていたことを回想する。ハルク・ホーガンは、アンドレがある飛行機の中で盛大にやらかしてしまったときの話をする。パイロットたちや乗組員がパニックに陥り、外の空気を求めたそうだ。

・アンドレは格下扱いされることを嫌った。

アンドレはいつも大物としてふるまうことが期待されていたと、ローラーもヴィンス・マクマホン(ヴィンス・マクマホン・シニアの息子)もホーガンも語っている。そしてアンドレが、”マッチョマン” ランディ・サベージやアンドレと同じ巨大レスラーのビッグ・ジョン・スタッドとの間に抱えていた問題を指摘。

当時、スタッドはこのフランスの大巨人にしか許されていないようなこと、例えばトップロープを一跨ぎしてリングに上がることなどをしては、アンドレを怒らせていた。「アンドレは誰が本当のボスなのかを見せつけたかったんだ」とマクマホンは語る。アンドレとのハードな試合の後、スタッドがあわててロッカールームに駆け込んできてスタッフと一緒に消えようとした。マクマホンがスタッドにどこに行くのかと聞くと、スタッドはすぐ出ていくと言って、こう答えたという。「彼に殺されちまうよ!」と。

・ギリギリのタイミングで決まったアンドレとハルク・ホーガンの決戦

この作品のクライマックスは1987年「レッスルマニアIII」でのアンドレ・ザ・ジャイアント対ハルク・ホーガンの名勝負である。9万3173人という観客を驚かせたのは、ホーガンがアンドレにボディスラムを繰り出した瞬間だ。

しかしマクマホンによると、実現までには大きな困難があったとのこと。ロシモフの巨人症は悪化する一方だったが、ホーガン戦の前にWWFへの復帰をまず説得する必要があった。また、ホーガンも試合は実現するまで先が読めない状態であったと詳細を語っている。ホーガンは試合中盤にアンドレが無事に試合をこなせていることに気づき、安堵したという。ホーガンは同試合の最後の歴史的な瞬間を口立てで再演してくれている。「スラーム! レッグドロップ!」と。

・アンドレの酒豪ぶり

「彼はリングの上でのパフォーマンスも好きだが、その後のパーティの方が大好きだった」とマクマホンは笑う。ヘアーの取材したプロレス関係者たちは皆口をそろえて、アンドレがどれだけの大酒飲みだったのかを語る。リック・フレアーはアンドレが一晩で106杯のビールを飲んだと語り、ローラーは少なくとも24杯だと述べ、オーカーランドはまずワインひと箱だと証言する。

・色褪せない「アンドレ伝説」

アンドレ・ザ・ジャイアントをめぐる物語は本人同様に神話的だ。この作品は繰り返しそれを描いている。アンドレにはサメのような80本の歯があるという噂があったというが、マクマホンはそれもアンドレ伝説の魅力の一部だと認めた。「アンドレに関してはどんなことでも言えるし、きっと信じられるはずだ」と。

アンドレの生涯はずっとつらいものでもあり、彼はその残酷さに敏感にもなっていった。何もかもが彼にとっては小さすぎたとホーガンは語っている。飛行機のトイレが使えずバケツで用を足すことになったり、街角で目立ち群衆に追いかけられたり、「彼は泣いていた」とオーカーランドは語る。「あれだけの大きな男が、と思うだろうが彼は泣いていたんだ」と。

・世界8番目の不思議

この作品で最も胸を突かれる瞬間で、アンドレが自分の日常生活上の困難を語るシーンがある。「どこでも何もかもが難しいんだ」と深くしかし疲れた声でアンドレは語る。「巨人用には何もない。視覚障碍者にも、その他の障碍者にもいろいろあるのに。巨人には何もない。だから自分からそちらに合わせるしかない。でもそれはたやすいことじゃないんだ」と。

「アンドレにはコスチュームは不要だった。顔のペインティングも、へんてこなローブもいらなかったんだ。彼はとにかく唯一無二だったんだ」とジャーナリストのテリー・トッドはこの「世界8番目の不思議」を、5000余りのマッチを数百万の観衆の前で戦い抜いたアンドレをこう語る。「彼は創造の世界から生きたままやってきたような存在だったんだ」と。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~


やっぱり アンドレの事は日本人がよく知っていいるのではないだろうか??


やはり 本文中にあった 1987年「レッスルマニアIII」 より先に日本では対戦が行われたし、 なにより ハンセンとの田園コロシアムの試合が日本では伝説だし。

プロレスの面白さを教えてくれたのは やはり アンドレだろう、、、




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