昨今、個人情報関連の本には、必ずと言っていいほどに
取り上げられているのが、
1964年(昭和39年)の「宴のあと」事件です。
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三島由紀夫「宴のあと」(新潮文庫)

日本において、初めてプライバシー権が確立した出来事として
例にあげられています。

1961年(昭和36年)、元外務大臣の有田八郎氏が、
自分をモデルに小説を書いたとして、
三島由紀夫と出版社を訴えた事件。

事件はさておきまして、「宴のあと」の中に、
青梅市が登場しています。
三島由紀夫は青梅に来ていたんですねー。

2009年11月28日(土)に、第一回が行われた
「青梅うんちく散歩」という企画で知ったのでした。
ガイドのO倉さんは、物凄いウンチクを持った方。
どんどん教養を分けてもらいます!!!



以下は、文庫本の中から抜粋。青梅が出てきます(長いです)。

P113-118
晩春のまことによく晴れた午さがり、かづは山崎を伴って、青梅市へ二時間のドライヴをした。
忠霊塔の寄付金は十万でよかったかしら」
と車中かづは例によって奉書の包みを示した。
「多すぎやしませんか」
青梅ばかりでなく三多摩の遺族みんなのためなんだから、少なすぎても多すぎやしないわ」
「そりゃああなたのお金だから勝手ですが……」
「又そんな冷たいことをいうのね。今私のお金というのは、要するに党のお金なんですよ」
こんなまともな大義名分には、山崎はいつでも脱帽するほかはなかった。それでもこのごろは立入った皮肉を言った。
「忠霊塔の礎の前に立つと、又滂沱たる涙が自然に流れるんでしょうな」
「そうですとも。自然にですよ。自然なものしか人の心を博ちませんよ」
青梅街道をゆくにつれて、沿道には緑が多くなり、わけても美しい欅林があちこちに見られた。欅は青空へ思うさま繊細な枝をひろげ、その林はあたかも、空の海へ一せいに投げかけた投網のような鮮やかさである。
かづは久々の遠出に心たのしく、持参のサンドウィッチを山崎にしきりにすすめ、自分も喰べた。良人と一緒でないことの寂しさが少しも感じられないのは、この仕事がまぎれもない良人のためのものであり、精神的紐帯は一緒にいるときよりも却って強まっているからだとかづは考えたが、そのわがままな精神的紐帯は、このごろではかづ自身の幻想、かづ自身の解釈しか許さないものになっている。
――青梅市は戦災を免れた古風な物静かな町である。かづは車を市役所の前に止め、前以って山崎が連絡しておいたので、地方新聞の記者たちに取り囲まれながら、市長室へ行って市長に会い、忠霊塔の寄付金をさし出した。助役とかづの同郷の振付師とがそれからかづの車に同乗して、永山公園の碑のところへ案内することになった。道は町中の横丁を通り抜けて、小さな陸橋を渡って北上して、裏山の山腹を切りひらいたゆるやかな自動車道路を昇ってゆくのである。
沿道の若葉の美しさにかづは喊声をあげた。かづはどこへ行っても自然の風光を褒めそやすのを忘れなかった。それを政治的に重要だと思ったからである。政治家の目からは選挙区の景色はどこも美しく見えなければならず、自然を美しく眺めるには政治家でなければならない。それは収穫されるべき果物の、みずみずしさと魅惑に充ちている筈だ。
果して山上の公園の眺めは、かづの心を魅した。忠霊塔の碑の前で少し泣き、公園の広場の中央に立てた櫓のまわりに群れ集うている民謡連盟の女たちに少し微笑を見せたけれども、案内された小高い涼亭の上からの眺めは、日ごろの繁忙を忘れさせるほどであった。
東南へひらけた眺めは、町外れの東のかたに、迂回する多摩川のゆるやかな流れとひろい河原を、そこかしこの社影のむこうに示していた。広大な眺望は、公園の夥しい赤松の枝々に劃されていた。
谷あいの市を隔ててすぐ向こうの南の山々には、けば立った若葉の鬱金いろが目立っており、午後の日はあきらかなのに、霞がいちめんにかかっていて、そのあいまいな光にまぶされた若葉の堆積は、寝起きの髪のように不しだらに見えた。眼下の町には軒のあいだにときどきちらと、派手なバスの車体の色が横切った。
「いい景色ですね。なんていい眺望でしょう」
「東京近郊にこの永山公園ほどの眺望は、ちょっと類がありませんでしょう」
と助役が言った。そして涼亭の軒からそこらの松の枝へ、いちめんに懸け連ねた記念祭の提灯を、手に巻いた地図で一寸はねのけて、
「あの東の地平線に見えるのが立川です。ここから見れば、遠目できれいに見えます」
と言った。
かづはそのほうへ目を転じた。ところどころの社のあいだに河原をあらわした多摩川は、東の果てに姿を隠してしまって、地平線には、岩塩のような白い町が煌いていた。そこから白い破片が舞い上がるようにみえるのは飛行機で、舞い上がると、低く地と平行に南のほうの丘影へ切れた。そこがあまりに白いので、かづは墓地だと思ったほどである。
ここから眺める立川墓地には、人間のけはいは少しも感じられず、ただ地平に接した何か冷たい鉱物の巨きな集落のように思われた。その上の広闊な空にはいろいろな雲があった。地平に近い雲ほど硬く凝固していて、上へゆくほど輪郭はぼやけ、形態はあいまいに煙のようになった。その中程のところに、上方は乱れた縁を光りにかがり、下方は彫刻的な陰影をくっきりと示した一群の雲があった。それらの雲だけが、却って現実感を失って見え、空に映したみごとな幻燈のようであった。
こうして晩春の午後の或る一刻の光が、もう二度と目に映ることのない、奇妙に精緻で確実な風景を拵え上げていた。雲にさえぎられて、近景の杉林が俄かに黒ずむときも、地平線のその風景は、縛められたように身じろぎもしなかった。
……こういう景色から、もちろんかづは、何らの人間的な印象を受けなかった。自分と向かい合わせになっている巨きな美しい無機質のものを感じた。それは雪後庵の庭とはまるでちがう自然であり、彼女の手の内に納まる人間らしい美しい微細画ではなかった。それにしても、こうして展望することは政治的な行為であった筈だ。展望し、概括し、支配するのは政治の仕事である。
かづの心は分析に適していなかったが、この風景が一瞬彼女の目に宿した美は、かづが自分の豊満な、熱情と涙にあふれた肉体に託している政治的な夢とは反対に、何だかひどく嘲笑的に、彼女の政治的不適格を暗示しているように思われた。
そのとき夢からさめたように、背後の太鼓のひびきとレコードの拡声器の歌声と、それに和する大ぜいの人たちの民謡の合唱が、かづの耳を博った。はじめて、そこらじゅうに懸けつらねた昼の堤灯のけばけばしい色が目に映った。堤灯の一つらは、やわらかな若葉の枝先に葡萄いろのこまかい花をいっぱいつけた楓並木の梢をもめぐっていた。
「さあ、あの中へ入りましょう。あの中へ入って一緒に踊りましょう」
とかづは突然、山崎の手を引いて行った。
「これはおどろきましたな、奥さん」
と助役が言った。
 かづの目ははや風景を見なかった。振付師がかづを案内して、民謡の踊りの群へわけ入った。民謡連盟の人たちを主軸にした町の主婦や娘たちが、ことごとく揃いの法被を着て、御嶽杣唄を歌い踊っていた。かづの手は自然にその人たちの手に倣い、足も自然にそれに倣った。

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永山公園にある忠霊塔。東郷平八郎の筆。