青梅市の郷土史の発表のレジュメです。
ネタ本は「青梅再発見」大倉十彌也(2010)です。

1  郷土史からもれた二人
○青梅・奥多摩で活躍
・飛田勝造・・・根ケ布「東山園」
・梅田重夫・・・建設会社「梅田組」社長
→日本軍の関連の土木建設会で活躍。戦後は米軍基地の整備工事
→青梅の「若狭屋」という有名料理店の跡地にホテル建設と経営


2 飛田東山
・茨城県大洗の出身、戦前に霞村根ケ布の天寧寺の地所に住む。
・小字の「東山」を号に知りいれて、飛田東山と称する。
・若い頃に労務者の手配師の親分に見込まれて、実力をつける。
→建設界に大きい影響力
ex「川井玉堂美術館」・・・秩父多摩国立公園の中でも規制が厳しい特区で、商業用看板、表示物の設置が一切禁止だったが、飛田東山の働きで建ったという。


3 「両国の川開き」の復活に尽力
・都政関係者の懐古録
美濃部亮吉都知事・昭和42年(1967)~昭和54年(1979)
任期の終わり近くに「両国の花火大会」復活の検討を指示
都民生活局次長・奥野昭三氏の手記に、青梅の飛田東山とある。
・昭和52年(1977)に、奥野氏と飛田氏(有名花火大会の顧問)が会う。
→20年ぶりに復活する計画の協力を得る。
・昭和53年(1978)・・・100人を超える全国の花火師を両国の料亭に迎えて協力体制が固まった。
・「両国の川開き」→「隅田川花火大会」美濃部都政の置き土産


4 天皇賜杯を賜る
・飛田東山・・・いわゆる「侠客」。晩年、天皇から天皇賜杯を賜る
→青梅市の資料などではとりあげられていない。


5 青梅の「梅田組み」
・梅田重夫・・・梅田組(のちの梅田建設工業)社長
・韓国出身、朝鮮名は孫海圭 ・青梅市西分町に住む。
・『重すぎた無垢花』(2006)文芸社
・・・李王朝のラストエンペラーの話
日本の敗戦により、李王朝への旧日本政府からの経済的保護が途絶える。
窮地にあった朝鮮王朝の一族に対して多額の献金を毎月送る。


6 戦時下の鉄道工事
・奥多摩町地誌・・・戦時下の昭和16年(1941)
御岳駅から氷川へのトンネルや橋の多い延長工事を梅田組と本沢組が請け負った。
働く人、物資が不足、トンネルを掘る削岩機不足。手掘り工事だったという。
・青梅線の延長工事・・・軍による川崎での鉄鋼増産、溶鉱炉用の石灰石を日原から大量に輸送するため。

7 八丈島の防衛道路も
・梅田組が八丈島の防衛道路も請け負った。
・参謀本部の「兵要地誌」に記録。
昭和19年6月に道路新設が決定、昭和19年8月に完成。
・朝鮮人労働者の活躍


8 数千人の人夫
・青梅鉄道の延長、福生飛行場の工事、東京都水道局の小河内ダム
・朝鮮からの労働者 → 梅田組が請け負い。


9 王家につくす梅田氏
『重すぎた無垢花』(2006)文芸社・渡部登志子・・・
・日韓併合、日本政府の保護の下、京城・東京での出来事を記す。
・朝鮮王朝・第27代・純宗王、後継者・李垠王子
・著者の実姉が侍従の趙氏の子息に嫁いでいる。縁者。


10 赤坂の李王朝邸
・孫海圭・・・梅田重夫の朝鮮名。
『重すぎた無垢花』に孫海圭の記述 → p62
朝鮮王族…千代田区紀尾井町に昭和5年(1930)に建てられた東京邸に住まい。→赤坂プリンスホテル


11 「月々3万円」の貢献
当時の3万円・・・
電車の初乗り20銭、大学卒業の国家公務員初任給540円
現在では2000万円にもあたる額。

小説によると・・・孫海圭(梅田重夫)は、日本敗戦後、家族を伴って、祖国建設の夢を描いて、建設機材を積んで韓国に帰国。
李承晩のやり方に失望して日本に帰国。李王族に献金。


12 駐留軍関係の仕事に転換
・戦後・・・日本軍から駐留軍への仕事へと転換。
・家族の再入国にGHQの協力。
→ 李王家の口添えが功。
・李王両殿下を奥多摩へ案内。川井玉堂邸、吉川英治邸へ。


13 ホテル・レストランの経営
「若狭屋」という有名な料理店の跡地に、
「江南ホテル」という西洋式の慰安所を経営。駐留兵相手
・石神前駅には、戦前は奥多摩楽々園という鉄道会社直営の行楽施設。戦後は、進駐軍に接収されて、将校クラブとして使用。


14 廃業後マンションに
・梅田組土木建設部門を廃業後。
青梅市立総合病院近くで喫茶店・レストランの経営→都内へ移動
・この梅田組の跡地・社長宅の跡地は
メゾンドールというマンションへ。現在に至る。
戦前・戦中・戦後に、日米両軍の大規模工事を請け負った在日企業の足跡