法螺と戯言

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白村江海戦(4),カタールW-cup,コロナ(上昌広博士),早野透氏を悼む

(本ブログは月木に更新されます。コメントはryuuzaki_i@yahoo.co.jp へ)
(写真:悔しさが滲む新聞記事。東京新聞11月28日付け。拡大は図のクリックで)
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「たかされ」ど ワールドカップの 敗戦に 無能監督を 詰(なじ)る私

「たかされ」とは、江川卓氏がどこぞで言い放った一言だそうです。それは、大昔のことで、プロ野球巨人が野球界のルールの隙間を突きルール破壊という術策を弄した事件です。この事件で件の江川氏は念願の巨人入団を果たしました。爾来、周囲の雑音にめげず、大活躍をしたのですが、その途上に批判者に対して「たかが野球、されど野球」と呟いたそうです。それが未だに「タカサレ」として語り伝えられています。
「ワールドカップ」は五輪と共にスポーツイベント配信企業には最大の金儲けの機会です。当然多様なスキャンダルが開催ごとに噂されています。そうではありますが、サッカ愛好者にとっては観戦に一喜一憂する楽しみなイベントです。とりわけ、二十一世紀最大のフットボラであるレオネル・メッシの華麗な足捌き、シュートには「うっとりしたい」との願望があります。
 さてわが、日本代表戦です。先日は、力量においては月とスッポンほどの差がある強豪ドイツ代表に逆転勝ちするという大番狂わせを演じてくれました。当然、余勢を駆って昨夕のコスタリカ代表をも撃破してくれるものとの期待をもってTVの前に座りました。傍らには、そうした我々の期待感に阿るような記事がゴロゴロ転がっています。コスタリカ代表監督の「言」も単なる強がりにしか聞こえません(でした、TV観戦前):
%%%%%【W杯】タモリ、コスタリカ戦直前番組に出演 歴史的なドイツ戦勝利「後半あれだけ変わるとは」 11/27(日) 17:25配信
テレビ朝日系サッカー特番「タモリステーション ドイツに歴史的勝利!!日本サッカー運命の決戦直前SP!!」(午後5時)が放送された。  日本は23日のドイツ戦で強豪を相手に勝利を飾った。司会を務めるタモリ(77)は、進行役の斎藤ちはるアナウンサー(25)から「ドイツ戦はご覧になりましたか」と聞かれると「見ましたよ。前半押されまくってましたからね。後半あれだけ変わるとは思いませんでした」と笑顔で語った。  改めてVTRで日本の勝利を振り返ると「今、結果が分かっているから冷静に見られるけど、こうやって見ると日本すごいですね」としみじみ。さらに「日本中が一瞬元気になったんじゃないですかね」と話した。  また、逆転を決めたFW浅野拓磨のシュートの難しさについて中山雅史氏(55)が「僕だったら外してます」とジョークを飛ばすと、タモリは「(コースは)ほんのちょっとですよね」と驚きの表情。Jリーグ初代チェアマンで元日本サッカー協会会長の川淵三郎氏(85)も「100年残るゴール。それほど難しいゴールだと思います」と浅野に拍手を送った。
%%%%%
 コスタリカ代表監督の言:
%%%%%コスタリカ・スアレス監督「われわれは死んでいない」 初戦スペインに大敗、今夜日本戦へ高い士気を強調【カタールW杯】 11/27(日) 16:52配信
◇27日 サッカーW杯カタール大会 1次リーグE組 日本―コスタリカ  日本代表(FIFA世界ランク24位)は、グループリーグ第2戦でコスタリカと相対する。日本は初戦でドイツに2―1の大金星を収め、現時点で勝ち点はスペインと並んで「3」。一方のコスタリカは、初戦でスペインに0―7と歴史的大敗を喫し、背水の陣だ。 【写真複数】日本の美女サポーター  「コスタリカはいまだに0―7の敗戦にフラフラだが、ルイス・スアレス監督は日本と激突する正念場の第2戦を前に、選手とファンの士気を高めようと試みた」とは、仏AFP通信。同監督は「われわれが目指すのは“生まれ変わること”ではない。生まれ変わるには一度死ななければならない。われわれは死んでいない」と語気を強めた。  「この3日間、状況を180度転換させようという選手の心構えを目にしてきた。私は練習と選手の能力に信念を持ち続けている。選手を信じている」。また、指揮官は日本がドイツ戦の勝利から自信過剰に陥ることはなく、アプローチやメンバー編成も変えてこないだろうと予想した。  コスタリカ紙ティコ・タイムズは「日本戦は、引き分けでさえも敗戦と同じで敗退を意味する。スペイン戦の無残な得失点差が存在するからだ。これは、ラ・セレ(『選ばれし者』を意味するコスタリカ代表の愛称)にとって真のオール・オア・ナッシング(いちかばちか)の試合だ」と、悲壮感を報じた。(写真はAP)
%%%%%%中日スポーツ
 さて、そうしたワクワク感でTV視聴がはじまりました。冒頭にイヤ〜な場面を見、私には「不吉な予感」がよぎりました。森保監督が内ポケットからメモ帖とペンを取り出したからです。私はこれまでもこのメモ帖を見ると、TVに向かって「それをしまえ!!」と叱り付けたものでした。案の定、私の予感は的中してしまいました。下の記事は終了直後のネット記事です。「失点のところ以外は、無失点に抑えながら・・・(当たり前ではないか!失点があれば無失点とは言わない!!)」なる監督の無意味な言に思わず失笑です。
%%%%%森保監督「狙い通りの展開だったが、結果が…」コスタリカに痛敗で一気に敗退危機 2022年11月27日 21:21
【FIFAワールドカップ】日本代表は27日、カタールW杯1次リーグE組第2戦コスタリカ戦に0―1で敗れた。0―0で迎えた後半36分に失点を許すと、ノーゴールで敗戦。ドイツとの初戦で歴史的勝利を挙げ、日本史上初のW杯2連勝を狙ったが、達成できないどころか1次リーグ敗退のピンチとなってしまった。
 27日の1次リーグ初戦でドイツから大金星を挙げて迎えた一戦で先発を5人入れ替え、MF堂安律(フライブルク)、FW上田綺世(セルクル・ブリュージュ)、守田英正(スポルティング)らがピッチに送り出された。前半は両チームとも大きな見せ場もなく、一進一退の攻防が続く。淡々と試合が流れたせいか、前半のアディショナルタイムは1分。今大会は前半でさえも、5分ほど取る場合もあるだけに、珍しかった。
 勝負に出なければならなくなった後半。指揮官は上田に代えてドイツ戦決勝ゴールのFW浅野拓磨(ボーフム)、DF長友佑都(FC東京)に代えてDF伊藤洋輝(シュツットガルト)を投入した。さらに同17分にDF山根視来(川崎)を下げ、MF三笘薫(ブライトン)が入って3バックに布陣を変更。すぐさまMF伊東純也(スタッド・ランス)も出してきた。
 それでもゴールが遠い展開。抜け出した伊東がペナルティーエリア手前の中央で倒され、獲得した後半27分のFKのチャンスは、MF鎌田大地(Eフランクフルト)が決められない。すると後半36分に先制点を許す悪夢が訪れた。DF吉田麻也(シャルケ)の中途半端なクリアを奪われ、最後はDFケイシェル・フジェル(エレディアノ)にシュートを決められてしまう。イレブンはぼう然とするしかなかった。
 この日は交代策もハマらず、歓喜から一転して1次リーグ敗退のピンチに陥った。1次リーグ初戦でアルゼンチンに勝ったサウジアラビアは同2戦目にポーランドに0―2で敗れた。日本もこの日、厳しい現実を突きつけられた。16強入りの可能性を断たれたわけではないが、強豪スペインとの1次リーグ最終戦(12月1日=日本時間同2日)はピンチで迎えることになった。
 試合後の森保監督は「失点のところ以外は、無失点に抑えながら攻撃のチャンスをつくるというところで、狙い通りの展開だったが、結果が狙い通りではなかった。残念ながら結果を出せず申し訳ない気持ちだが、次の第3戦で結果を出して国民のみなさんに喜んでもらうようにベストを尽くす」と語った。
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+++++コロナ第八波
 一体、ウイルスに無知な庶民は度重なるワクチンン注射に同対処すればよいのでしょうか。上先生が語ります。
COVID-19 ワクチン ワクチンに関する厚生労働省の最新情報.


+++++早野透氏の死を悼む
 朝日新聞の記者として健筆を振るった早野透氏が11月中旬になくなられたとのことです。氏の死去を悼んで佐高し、平野氏が思い出を語っています。丸山真男、市民と民衆、小室直樹、地霊、安倍、早野氏の著書「政治家の本棚」、「田中各位」などさまざまな話題が語られています。
民衆への眼差し 追悼早野透【 平野貞夫×佐高信×辻元清美 3ジジ放談】20221125


+++++白村江海戦後(3)
 海戦敗戦後に死去したと報じられる一名の男性と一名の女性はいずれも「倭」国側の人物です。女性は「皇祖母」とあります。唐・新羅に襲われた『百済』を救援するために出兵を決断した倭国の首領は日本書紀の記載を借りるならばそれは「景行天皇」の息子、または孫ということになります。ところが息子と目される「蘇我入鹿」はすでに18年前の西暦645年に乙巳の変で暗殺されています。海戦で倭国を指揮した人物は入鹿の息子と思われます。この息子の祖母ということは、景行天皇后ということです。すなわち「キミ」(隋書倭国伝)であれば景行天皇后ということになり、西暦663年まで生存していたことになります。ところで、これまでも書いてきたように日本語では(「日本語」に限らないが)、マ行とバ行が相互に転換します。それを考えると「キミ」はキビ、すなわち「吉備」です。景行天皇后は九州の地に拠する天皇を代行して「吉備」すなわち、現在の岡山県に陣を構えていたと考えています(これは日本書紀記載とは異なります) 。白村江海戦の勃発直前に、夫(名称不詳、「大海皇子」か?)に同行するべく、九州に移動します。それが日本書紀の以下の節ではなかろうかと考えています:
%%%%%《斉明天皇六年(六六〇)十二月丁卯朔庚寅【二十四】》
原文:
天皇幸于難波宮。天皇方随福信所乞之意。思幸筑紫将遣救軍。而初幸斯備諸軍器。是歳。欲為百済将伐新羅。乃勅駿河国。造船。已訖。挽至績麻郊之時。其船夜中無故艫舳相反。衆知終敗。』科野国言。蠅群向西、飛踰巨坂。大十囲許。高至蒼天。或知救軍敗績之怪。有童謡曰。

文意(岩波文庫「日本書紀」(四)366頁)
天皇は難波宮に行かれ福信の乞うところの意に従い筑紫に行き将を遣して救軍せんと考えた。初めにしかるべき諸軍器を備えることとした。是歳、百済のためにまさに新羅を伐つことを計画した。すなわち駿河国に勅して造船した。が、それを曳航して績麻郊に至るとき其船が夜中に故無くして艫舳相反した。民衆はこの戦の敗をさとった。科野国では、蠅群が西向し、巨坂を飛踰した。その大きさは十囲許となり、蒼天の高さにまで達した。或るひとが言うには救軍敗績之怪であると語った。
(こうした前書きにも関わらず斉明女帝は西に向かう、と日本書紀は書きます。これも白村江海戦の背景の一つですのでいずれ、詳しく書きます)
%%%%%
 日本書紀によれば、大海皇子は斉明天皇の次男であり、連れ合いではありません。しかし、これは藤原不比等が正史編纂の上でこしらえ上げた筋書きとすれば、見当はずれではなかろうと考えています。いずれにせよ近日中の斉明紀の見直しが不可欠であることを確認してこの話はこれ以上はかきません。

 話を天智紀三年に戻します:
天智天皇三年(六六四)
冬十月乙亥朔(一日) 宣発遣郭務悰、勅是日中臣内臣。遣沙門智祥、賜物於郭務悰。
十月戊寅(四日) 饗賜郭務悰
十月是月 高麗大臣蓋金終於其国。遣言於児等曰。汝等兄弟。和如魚水。勿争爵位。若不如是。必為隣咲。
この説話は興味深いものがあります:
すなわち
「郭務悰の一行はほぼ二ヵ月半日本列島に滞在します。この話は唐の武将が滞在中のことですが、なぜか、ここで高麗大臣蓋金が死去に際して子供らに語った言葉が紹介されます。「子供たちは水と魚のように互いに和せよ。爵位を争うなどはしてはならない。さもなくば、必ずや隣国に笑われるだろう」と。まるで八年後の壬申の乱を予言しているかのごとくです。つまり、日本書紀編纂者(藤原不比等)はやがておこる壬申の乱は「兄弟喧嘩」であろうとの印象操作をしているのです。
十二月甲戌朔乙酉(十二日)郭務悰等罷帰。
(つづく)

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 最後に思わず身につまされた記事を反省をこめて転載しておきます(青をクリックしてください):
%%%%%「そういえば最近、松居一代見ないな…」仕事に追われてるとき、ネットにアクセスすると“終わり”なワケ『きょうも厄日です』 #108

白村江海戦の後(2)、金に集(たか)る宗教、「立憲民主」前党首の言

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(写真:北関東寒村、晩秋の刈り入れを終えた田んぼの風景。彦生(ひこばえ)も緑を失い黄色に変わっています。拡大は 図のクリックで)
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(写真:今日も電線に留まったムクドリ群が隣家の柿を狙っています。まるで量子力学で言うところの素粒子のエネルギ準位のようです。拡大は図のクリックで)
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 強国の ドイツを撃破 意気軒昂 監督批判の 我は沈黙

 ワールドカップ・カタール大会の3日目、日本代表が登場しました。鉛筆とメモ帖をもってピッチ際に立つ森保代表監督を応援する気になれず、昨夕はTVを視聴しないはずでした。が、誘惑に負けてついついゲーム終了まで観てしまいました。なんと、優勝候補の一角ドイツに逆転勝ちですから驚きました。今夜の監督はこれまで見せてきた指揮ぶりとは違っていました。これまでは、選手のプレー中の勢いを過信し、選手交代をほとんどしないか、あるいは遅きに失する交代です。そのつど、私は、TV画面に向かって監督を厳しく叱り付けていたものでした。ところが、昨夕は選手交代も早めはやめ、しかもその交代が当たっていたのです。誰かが知恵を付けたのでしょう。これで親分の田島会長がさらに長くサッカ協会長のポストに居座ることになりそうです。

+++++前立憲民主党代表の暴言
 2016年であったでしょうか。当時の民進党。党首前原誠司氏が小池百合子東京都知事の還元に乗り、党を分断してしまいました。まさに野党が大団結をして安倍政治と対峙すべきときでありました。この大危機に際して立ち上がったのは枝野幸男氏でした。氏は新たに立憲民主党を結成し、街頭で声涙ともに下る見事な訴えを国民に向け発したのです。私も大いに心を動かされ、支援をしました。ところが、この党は「れいわ新選』党の優れたリーダである山本太郎氏の人気急上昇の中で、その革新性が陰を潜め、レイワ党への反発をしばしば口にするようになりました。この変貌の行き着く先が下に紹介する発言であると私は見立てています。
です。

週刊新潮 2022年11月24日号掲載
%%%%%松尾貴史 立憲・枝野幸男前代表をバッサリ「金輪際信用してはいけない」 2022年11月14日 13:48
 タレントでコラムニストの松尾貴史(62)が14日、ツイッターを更新。立憲民主党の枝野幸男前代表を厳しく批判した。
 
 枝野氏は12日の講演で、昨年10月の衆院選について当時代表として消費税率引き下げを訴えたことに「政治的に間違いだった」と発言。波紋を呼んでいる。
 これを受けてかどうかは明らかにしていないが、松尾は「枝野幸男氏という人物は、金輪際信用してはいけないということだけはわかりました。あまりに酷い変節漢ぶりに戦慄さえ覚えます。ここまで恥知らずだとは想像もできませんでした」とバッサリ。
 
 さらに「野田佳彦氏にも呆れ返ってものも言えませんが、枝野氏については論評すら口が腐りそうです。「気持ちが悪い」の一言です」と厳しい論調で批判した。
%%%%%東スポWEB
 
+++++白村江敗戦後
 西暦663年9月、白村江の海戦で倭国は敗北を喫します。日本書紀は日本列島に逃げ帰った倭国軍の動静についてはほとんど語ることなく、日本書紀は翌年五月の「百済鎮将である劉仁願が朝散大夫郭務悰等を遣してくる。その際、表函と献物を持参する。」なる出来事を書きます。この出来事は、これのみで語ることは十分でなく、翌年(西暦665年)9月の郭務悰等の’再’来・日本列島とあわせ考察するべきと考えています。
 そこで、郭務悰等の二回の来日本列島の間の出来事を日本書紀で見ておくことにします:

日本書紀は「天智天皇三年(六六四)五月是月。大紫蘇我連大臣薨。〈或本。大臣薨注五月。〉」と書きます。岩波文庫「日本書紀」校注者は、この人物の名前が公卿補任(くぎょうぶにん)にあると書いています。
%%%%%ウイキに拠れば
公卿補任(くぎょうぶにん)は、歴代朝廷の高官の名を列挙した職員録で、日本史の基本史料の1つ。
概要[編集]
各年毎に朝廷の官職を記している。従三位以上で太政大臣・摂政・関白・左大臣・右大臣・内大臣・大納言・中納言・参議・非参議のいわゆる公卿に相当する者の名を官職順に列挙する。記載される人名には本姓が使われ、藤原氏は、「藤原○○」ではなく略して「藤○○」と記載される。各人の名の下には、生没年、昇叙・任官などの事歴を付記している。『国史大系』本には神武天皇の代から明治元年までの分を含む。
公卿補任の作者、成立年代は不明であるが、弘仁2年(811年)に成立した「歴運記」[1]を基に、以後の分を書き足していったものと考えられている。
%%%%%
 死去した大紫蘇我連大臣なる人物が150年後に編纂された文書に登場するとされています。桓武天皇による平安京遷都17年後です。その直後の797年に続日本紀の編纂が終えていたとはいえ、更なる調査のための解読作業が詳細に僧侶・公家などの間で継続されていた時期であったのでしょう。しかし、その調査解読作業では藤原不比等が設定した基本路線からの逸脱は許されていないはずです。したがって、この「蘇我」なる呼称もそれが渡来民に出自を持つ人物であったとしてもそれは書き記されるはずはありません。実際、そうした方針で編まれる「職員録」の背景にまで、岩波文庫校注者は目を及ぼしませんから、「蘇我石川氏」の係累かと書いています。私自身はこの人物は白村江海戦にあっては倭国の将軍級の地位にあって兵を指揮し、戦闘中に負傷したのではなかろうかと想像しています。その史実は倭国側の故事に記されていたのでしょう。が、当然藤原不比等の編纂する日本書紀には反映されません。
 次に日本書紀は
「天智天皇三年(六六四)六月》◆六月。嶋皇祖母命薨」
と、書きます。
「嶋皇祖母」命なる女性についても、日本書紀はその人物の来歴を書きません。ここでも百年以上も後の文書に登場する女性に比定されます。そもそもは田村皇女であり舒明天皇の后であるとすれば、まさに天智天皇の祖母ということになります。辻褄合わせの感は免れません。舒明天皇の后ということであれば、倭国王である景行天皇の息子の嫁ということになりますから、この方も白村江海戦での犠牲者ということになるのかもしれません。220922日記事で書きましたが、この説話では雄略紀の一節で新羅侵攻の最高の際に三名を将官として派遣する際のエピソードです。三将官のうちの一名が、妻の病弱で連れて行けないと天皇に訴えるのです。当時の戦争では妻が戦場に同行することは普通であったようです。
 こうしたことを考慮するならば、この女性が天智天皇すなわち中大兄の祖母とは考えにくいことです。さらに言うならば「嶋」なる「冠詞」は一体なにでしょうか?

 日本書紀は、ここで、郭務悰野接遇を語ることになります。
*《天智天皇三年(六六四)十月乙亥朔》◆冬十月乙亥朔。宣発遣郭務悰◆勅是日中臣内臣。遣沙門智祥、賜物於郭務悰。
*《天智天皇三年(六六四)十月戊寅【四】》◆戊寅。饗賜郭務悰《天智天皇三年(六六四)十月是月》◆是月。高麗大臣蓋金終於其国。遣言於児等曰。汝等兄弟。和如魚水。勿争爵位。若不如是。必為隣咲。
*《天智天皇三年(六六四)十二月乙酉【十二】》◆十二月甲戌朔乙酉。郭務悰等罷帰。
%%%%%
(続く)
(つづく)

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+++++信者に集(たか)る宗教
 宗教はそもそもは権力者の傍らで、神の神託を取り次ぐ役割を担っていたのだろうと思います。しかし、その宗教が権力者の暴政の犠牲者の苦しみを逸らす、またはなだめる役割を持っていることが認識され、結果として宗教が零細の民に目を向けることとなったのでしょう。かくして、宗教の側は、民の懐具合(財)に目を付けることとなります。そうした構図は(旧)統一教会に限らないと、元創価学会印の小長井秀和氏が語っています。
%%%%%「両親は創価学会に数千万円寄付した」 宗教2世・長井秀和が告発「100万円の壺なんて安すぎて学会員にはピンとこない」国内 社会 2022年11月16日
仏壇だけで約2千万円
 宗教団体への高額献金を規制する必要性が叫ばれる中、“ブレーキ”となっている存在と伝えられるのが公明党だ。献金額の多さが規制されるとなれば、支持母体の創価学会にも降りかかってくる問題となるのは想像に難くない。“エリート学会員”として育ち、10年前に創価学会を脱会した、芸人の長井秀和が高額献金の実態、池田大作名誉会長の素顔について告発する。
 ***
【写真を見る】必死の形相で公明党議員の応援演説を行う「久本雅美」「柴田理恵」
 両親が熱心な学会員だった長井は、東京創価小学校、創価中、創価高、創価大と進学するなど、まさにエリート学会員だった。さらに芸人としてブレークした後は、「芸術部」に所属して広告塔としての役割も果たしてきた。その後、長井は学会に絶望し、2012年に脱会を表明。そんな長井に高額献金の実態を聞くと、「集まる金額は毎年1千億円以上ともいわれる」としながら、
「学会側が明言することはありませんが、財務(注・一般的には寄付、お布施のこと)の額はおおむね収入の1割が目安といわれています。10日で1割の高利貸し“十一(トイチ)”にちなんで、私は学会の財務を“宗教十一”と呼んでいますが、収入が低ければ低いほど、当然、負担は大きくなる。うちの両親でもすでに総額で数千万円の寄付をしていると思いますよ。それだけでなく、例えば高額な学会専用の仏壇を3基も購入していて、仏壇関連だけで約2千万円。統一教会の“100万円の壺”なんて安すぎて、多くの学会員はピンとこないんじゃないでしょうか」
 統一教会の被害者救済を巡り、現在、国会では高額献金を規制する新法の是非が論議されているが、これに対する公明党の歯切れの悪さも長井氏の話を聞けばうなずける。あからさまな詐欺的行為はないとはいえ、献金や物販の規模は、統一教会のそれとは、まさに桁違いなのである。
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 そもそも、学会一家に育った長井はなぜ脱会するに至ったのか。創価小・創価中に通っていた子供の頃に通算60回ほど池田大作氏と会ったことがあり、当時は「しょっちゅうアイスクリームとかお小遣いをくれるオッチャンくらいの印象だった」という。
 成長するにつれて、聖教新聞などで読む池田氏の言葉と、この印象とのギャップに違和感を覚えるようになっていったそうだ。
「彼が執筆した小説『人間革命』を読んでも“そんなわけないでしょ”と思いはじめ、池田氏の作られすぎたカリスマ性を異様だと感じるようになったのです」
 それでも信仰心は残っていたというが、2007年夏に決定的な“事件”が起きた。
「参院選の応援のために埼玉県を訪れていたときに、車に同乗していたさる最高幹部が終始、池田氏の悪口を言っていたんです。もう、言うことがコロコロ変わるだの無茶を押し付けられるだのと言いたい放題」
 そこから自分で創価学会の実態について調べるうちに「外の世界から見た学会がいかにうそにまみれているか」に気付いたという。結果、彼は脱会することを決意したのだが、待っていたのはかつての仲間たちからの「これでもかというほどの呪詛(じゅそ)の言葉」だった。
 11月17日発売の「週刊新潮」では、脱会表明により家族と断絶状態になるなど、「2世」ゆえの苦悩も経験する長井が、創価学会が抱える問題について4ページにわたって包み隠さず語り尽くす。
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白村江海戦後、巨大な金になるスポーツイベント

(本ブログは月木に更新されます。コメントはryuuzaki_i@yahoo.co.jp へ)
(写真:秋の風景です。隣家の柿実をついばむ小鳥達

 
 宗教と スポーツ大会に 集(たかる)のは そこにジャラジャラ 金が見える故か

 本年は「金儲けを企む人たち』にとって宗教は格好の仕掛けであることが、公然と語られる年となっています。それに加えスポーツ競技に関わることも、「金儲け」の機会への接近でもあることが、昨日カタール国で始まったサッカーの世界大会である“World Cup 2022 ”から明らかになっています。 すでに、開催前から巨大な金の動きが報じられています(参考記事情報BOX:買収疑惑や人権問題、カタールW杯に渦巻く批判)。いずれ世界を揺るがす大スキャンダルが明るみにでるのかもしれません。同様のスキャンダルの一端が昨年の東京五輪がらみで、現在、解明が続いているようです。巨大なネズミが引きずり出されるのでしょうか?
%%%%%東京五輪事業で電通などに談合疑い…贈賄側が特捜部に説明、テスト大会入札で受注調整か 11/20(日) 5:00配信
 東京五輪・パラリンピックを巡る汚職事件で摘発された贈賄側の一部が東京地検特捜部に対し、大会組織委員会が発注した五輪・パラ関連の事業の入札について「談合があった」と説明していることが関係者の話でわかった。競技のテスト大会に関する入札で、大手広告会社「電通」など9社と1団体が落札していた。特捜部は独占禁止法(不当な取引制限)に抵触する疑いがあるとみて、公正取引委員会と連携して調べている。 【図】五輪汚職事件の捜査で浮上した談合疑惑の構図
 東京大会を巡っては、組織委元理事の高橋治之被告(78)がスポンサー企業など5社から計2億円近くの賄賂を受け取ったとして、受託収賄罪で4回起訴された。今回、競技関連の事業について新たな不正疑惑が浮上し、大会への信頼がさらに揺らぐ事態となる。
 テスト大会は、五輪・パラで行われる競技について、出場選手の動線や観客の受け入れ、警備態勢などを事前に確認する目的で、本大会と同じ競技会場などを使用し、2018〜21年に計56回行われた。
 関係者によると、談合の疑いがあるのは、組織委が18年に行った、テスト大会の計画立案などを委託する業務の入札。競技が行われる1〜2会場ごとに計26件が総合評価方式の競争入札で行われ、電通をはじめとする広告会社など9社と共同事業体の1団体が落札した。1件当たりの契約額は約6000万〜約500万円で、総額は計約5億円に上る。
 汚職事件の捜査の過程で、贈賄罪で幹部らが起訴された5社のうち一部の企業が、計画立案業務に関する入札について、特捜部に「談合が行われた」と説明したという。特捜部はこれまでに押収した証拠なども踏まえ、電通など複数の企業の間で受注調整が行われ、会場ごとの落札予定者を事前に決めていた疑いがあるとみている。
 組織委(清算法人に移行)によると、計画立案業務を受注した9社と1団体は、テスト大会の実施業務、本大会の競技運営の業務について組織委との間で随意契約を締結。契約総額は数百億円に上ったとみられる。特捜部は、本大会の競技運営などを請け負うことも視野に入れて談合が行われた可能性もあるとみて、公取委とともに調べを進める。
 独占禁止法は、「不当な取引制限」として、業者同士が受注調整する談合や、価格協定などを結ぶカルテルなどを禁じている。課徴金納付命令など行政処分の対象になるほか、悪質なケースは公取委が検事総長に告発し、刑事罰が科せられる。罰則は、個人が5年以下の懲役または500万円以下の罰金、法人は5億円以下の罰金。
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 ウクライナ紛争の現今の情勢を元外務省情報局長の孫崎氏が鳩山友紀夫元首相と論じています。孫崎氏の分析は、米国がこれ以上ウクライナ軍事介入を継続することに益なしと判断し停戦に舵を切るだろうというものです。この見通しは、前回記事で紹介した元陸上自衛隊陸将補 矢野義昭氏の戦況分析と細かい点では異なっているようですが、おおむね合致しています。無益の人命殺戮を伴う戦闘行為の即時停止こそを庶民は願っています。その意味では「朗報」といえるのかもしれません。
時事放談(2022年11月) 米大統領選の分析など 鳩山友紀夫×孫崎享


+++++白村江敗戦直後
 白村江敗戦の年の翌年(西暦664年)二月に、天皇は大皇弟に臣下達の序列を改めるよう指示します(二十六階の冠)。敗戦で混乱を極めていたであろう倭国(政庁は九州)で統治組織をいじくるなどとは考えがたいことです。奈良盆地に本拠を置く「中大兄」勢力が、海戦での勝利を踏まえて、いよいよ統治組織の構築に取り掛かったのです。それが「冠位」の整備であったろうと前回記事で書きました。日本列島正史編纂にあたって藤原不比等には渡来人が主導する倭国の政情は、渡来人の口から聴取するしかありません。実際七世半ば以前の日本列島政情は、壬申の乱以降に捕虜となった倭国民の口述に拠ったのです。それが古事記の序章で書くところの稗田阿礼による口誦です。稗田阿礼は伊藤義教氏の研究著作から考えると、彼が倭国に入り込んだ渡来民の一人、それも最高級の知性を有した人物であろうと思えます(「ペルシ文化渡来考」、15頁より)。伊藤氏はその事には直接には言及していません。天智紀あたりから、中大兄の治世に関わる、すなわち奈良盆地内の事跡がポツリポツリと出現します。すなわち、この頃から奈良盆地内に語るべき事跡が増加して来たということであろうと考えています。
 その翌月には
天智天皇三年(六六四)三月、以百済王善光王等居于難波。』有星殞於京北。
と、あります。
 百済兵の一部(敗残兵というべきか)が九州倭国・北岸に辿り付いたと、私は理解します。多くの研究者は難波は大阪湾の西岸とが考えます。その是非の判断は連行した地が「難波」ということです。唐・新羅連合軍が百済兵の一部を捕虜として、百済王善光王と一部の指導者たちを捕虜として大阪湾西岸に連行したことになります。西暦七世紀の半ばはやがて勃発する壬申の乱の危機をはらんでいます。そうした状況下を倭国が軍事的に支配していたと思える瀬戸内海を東に向けて「百済の上級の民」を奈良盆地の勢力が走行するとは思い難い。「難波」なる地は博多湾の河口にある那珂川近辺です(前回記事参照)。
 この二ヵ月後に以下の重大な記述があります:
日本書紀「六六四)夏五月戊申朔甲子十七日は
「百済鎮将である劉仁願が朝散大夫郭務悰等を遣してくる。その際、表函と献物を持参する。」
 と、書きます。朝散大夫郭務悰が赴いた地は誰しもが九州倭国の政庁所在地であると思い込みます。しかし、この地は八ヶ月前に白村江で戦闘を交えた敵の陣地です。そんな中に、のこのこと出かけることは無かろうと考えます。すなわち、かれらは白村江の戦闘の後処理としてまずは奈良盆地内に拠する海戦での味方であった中大兄一派を尋ね、協議したのだろうと考えています。
 日本書紀は、この唐武将がその一年半後に再度、武将を派遣していると書きます。その間にも注目すべき行動を日本列島勢力(あえて倭国とは書きません)が展開していますがそれらの考察を後に譲って書いておきます。
%%%%%天智天皇四年(六六五)九月庚午朔壬辰【二十三日】》
唐国遣朝散大夫沂州司馬馬上柱国劉徳高等。〈等謂右戎衛郎将上柱国。百済将軍朝散大夫上柱国郭務悰。凡二百五十四人。七月二十八日、至于対馬。九月二十日、至于筑紫。二十二日、進表函焉。〉
(文意は、たとえば岩波文庫「日本書紀」(五)、34頁)
%%%%%
 この記載では、唐の将軍が対馬を経て筑紫に至ると明記しているのです。しかも54名もの護衛兵を引き連れているのです。
 そこで、次回は、西暦664年5月から665年9月までにおきた事象の意味を考えて見ます。
(つづく)

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ウクライナ紛争現況、恐ろしい生物トップ15、ネットで民を操る

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(写真:この秋最低の朝の気温であります。夜明け前の赤く染まる東の空です。拡大は図のクリックで)
夜明け前0056


 今冬の 一の寒さに おじけづく 一歩の踏み出し 体震える
 
+++++NY司法試験について、米国上級裁判所への照会
 小室圭氏のNY司法試験については、合格はともかく、その過程に幾多の疑念があることは確かです。司法試験に合格した小室氏は近日中に米国弁護士としての適性審査を受けることになっています(Character and Fitness)。この審査では、合格者の過去の経歴、受験資格などが審査されるとのことです。これを統括するのがNY上級裁判所という事のことなので、NY在住のとある日本人(ハンドル名Takuya さん)が、小室氏についての疑念を纏め上げて当該裁判所による精査を求めるとの行動(action)を起こしました。この「行動」は、多数の同様の疑念を抱く人々の賛同・支援をえてこそ 説得力を増すとして、そうした人たちの賛同署名をChange.orgなる機能を通じて意思表示を募っていました。その概要は11月10日記事で紹介しました。
 小室氏の合格に至る経緯について疑念を抱く人は多かったようで、わずか一日で賛同者の数はあっというまに5000名を超えました。ところが、その後、新規署名者の増加が鈍化しました。どうやら、この署名活動が世間に広まることを好ましく思わない人士が、Change.orgのシステムに介入し、グーグロなどの検索に引っかからないように手を加えたとの疑念が持ち上がっています。
小室圭の署名活動が意図的に?秋篠宮さま会見で佳子さま結婚や眞子さんも?森元首相が倒れた真相!森友学園の次はコレ!

 グーグルなどの検索で、調査対象集団から特定の項目を外す方法ついては以下の動画が大変わかりやすく解説しています。考えてみれば当たり前のことなのですが、世論調査にせよ何にせよそれを人力でするのか、コンピュタの力でやるのかはあまり関係ないということです。そこに何がしかの強権が加われば、それを変質させることもできるし、人々の目から隠すこともできるということです。2月24日に始まったロシアによるウクライナ軍事侵攻報道なぞはまさにそれでした。他国への軍事侵攻は非難さるべきことは明らかです。しかし、我国では、この紛争の原因に立ち入る報道は皆無で、朝から晩まで英米、NATOにニュース源をもつロシアの蛮行報道一色であったことはよく知られています。
 以下の動画では、システム内部を操作することで、表に出る記事を如何様にも変更できるカラクリの一環をわかりやすく説明しています。
https://www.youtube.com/watch?v=XqS770pCtKg
深堀】小室圭署名サイトnoindexがつく条件予想。discoverableがfalse

 さて上の動画で指摘されているのが「森友学園問題」を超える大スキャンダルです。そこで指摘されているのが「愛誠病院」です。この病院をめぐる奇妙な事態を下の記事が書いています。
参考:理事長がクルクル代わる「愛誠病院」の異常事態東京・板橋区で3万屬旅駘地を破格の安値で借り続ける大病院の理事長が2年間に4人も交代
 
+++++ウクライナ問題
 大手メディア報道では、「ウクライの激しい抗戦でロシアは苦境に陥っている』との論調から、さまざまの断片的ニュースが相も変わらず続いています。しかし、下の動画で元陸上自衛隊陸将補 矢野義昭氏が語るところは、そうした報道とはまったく異なっています。
特番『矢野先生に訊く!ウクライナ情勢と緊迫する台湾、最新情報と日本の安全保障』ゲスト:岐阜女子大学特別客員教授 元陸上自衛隊陸

関連記事:
ウクライナ侵攻で労働力不足のロシア、14歳以上の子どもも働けるよう法律を改正へ

関連ツイート:
ウクライナ紛争―住民の証言


+++++故星野仙一氏による選手への暴力支配
 すでに鬼籍に身を移された人物の生前の過誤をあげつらうことは、気が引けます。しかし、我国のスポーツ界、とりわけ学校体育では依然として「根性」を論拠とした「指導者によるまたは先輩による体罰」が横行しています。こうした体質をプロの野球界にあからさまに持ち込んだのが星野仙一氏です。下の記事に見るように星野氏の選手に加えた暴行は目をおおいたくなるほどです。選手は監督にとっては大切な財産のはずですが、その財産に暴力を加え傷ものにしています。一方の選手はそれを監督の情熱であるとして容認しています。
 以下の記事と、それに関するコメントを見て思うことは『日本のスポーツ』が世界のトップに立てない理由の一つがこの暴力体質であるのかなと思ってしまいます。
%%%%%「監督、これ以上やってしまうと」平手打ち、キック、また平手打ち…闘将・星野仙一の「熱血指導」が生んだ中村武志“流血騒動”の顛末「質量ともにあの時がナンバーワンでした」 11/15(火) 17:12配信 文春オンライン
 皆さん、こんにちは。中村武志です。   前回(「娘さんからは『毎日叩かれてきてね!』と…」星野仙一に日本一“鉄拳制裁”を受けた“球界の殴られ屋”が明かす「鬼と仏の素顔」) お知らせしたように、今回は“鬼”の星野さんのお話。それも最も壮絶だった体験談をご紹介したいと思います。あれは星野さんの中日監督就任2年目の1988年のことでした。 【画像】 平手打ち、キック、また平手打ち…ウソをついた中村武志氏に星野氏は容赦ない「指導」を加えた
管理人に駐車場での練習交渉
 その前に、当時の私がどのような立場の選手だったかに少し、触れておきます。前年の87年、私はそれまで全く芽が出ず、解雇もちらつき始めていたのですが、星野さんの薫陶を受けたことで、プロ3年目にして1軍で初出場を果たし、43試合に出ることができました。  それでも、正捕手へは道半ば。88年も87年と同様にキャンプから無休で、ドラフト1位で入団したばかりの立浪(和義=現中日監督)とともに練習に明け暮れていたのです。もちろん無休は星野さんの厳命。たとえビジターの試合でも、誰が場所を探してくるのか、公園、河川敷などでランニングや素振りを欠かすことはありませんでした。  とある地方遠征で、例によって私と立浪はチーム宿舎の駐車場でキャッチボールから練習を開始していました。すると管理人さんに、すぐにやめるよう注意されたのです。一応「僕らはプロだから車に当てることはありません」と形だけの抵抗は試みましたが「プロでも駄目なものは駄目!」と一蹴されました。  管理人さんのおっしゃる通りです。私たちはこれ幸いと、練習をやめて帰ろうとすると、いらっしゃったのです。星野さんが。  星野さんは、私たちに無休で練習を命じた責任感からか、それまでも頻繁に視察に来られていました。私たちと管理人さんのやり取りを見ていたのでしょう。駐車場での練習を許可するよう交渉に乗り出してきたのです。  2人の話し合いを遠巻きに見ていましたが、それはそれは、もうあっさりと許可が下りたわけです。星野さんの知名度の高さか、巧みな話術か、それともお小遣いでも渡したのでしょうか。いずれにしても、あっけなく無休のシーズンが継続したのです。
星野さんは来ないとの下調べも……
 前振りが長くなりましたが、ここからが今回の本題。確か暑い時期に差しかかった、チームの試合がない日のことでした。私と立浪は自分たちを奮い立たせて重い腰を上げ、現在のナゴヤ球場の敷地内に移転する前の合宿所「昇竜館」の室内練習場で汗を流そうとしていました。
 実はその頃、私たちは試合がない日の星野さんのスケジュールを当時、星野監督付広報だった早川(実)さんに逐一、確認していました。その日のことも当然、チェック済み。決していらっしゃらないはずだったのですが……。  すっかり気が緩んでいた私たちは、いつもは試合に近いユニホーム姿で練習するのですが、この日はジャージでした。「今日は監督が来ないから良かったな」などと話しながら、ダラダラとウォーミングアップをしていました。  すると、遠い向こうの細い通路に影が通ったのが見えたのです。見慣れた影が。星野さんでした。  大きな足音を立てながら、みるみる近づいて来ます。悲しいかな、習慣的かつ反射的に「また怒られる」と思ってしまう習性がすっかり身に付いていました。
咄嗟についたウソ
 星野さんは無言で、近くにあった私のバットの方へと向かい、運動の延長のように軽くそれを振り始めたのです。私と立浪が「お疲れ様です!」と声をそろえてあいさつすると、星野さんは「誰のバットや?」。私は「僕が(チームの先輩である)彦野(利勝)さんに借りているバットです」と正直に答えました。 「本当にこれを使うのか?」  星野さんがそうおっしゃって差し出してきたバットは先が半分なく、靴べらのように加工されていました。  一体誰が? なぜ?  私はパニックに陥りました。追い打ちを掛けるように、星野さんは「オマエはどのバットを使うんだ?」と静かに、それでいて強い語気で尋ねてこられました。それまでは何一つウソをついていなかったのですが、あまりのプレッシャーに気圧された私は、ここで咄嗟にありもしないのに「バットは寮の部屋に置いてあります」と虚偽の申告をしてしまったのです。星野さんという人は、ウソが一番嫌いであることを知っていながらも。  私はあるはずのない自分のバットを探しに部屋に戻りました。途中で誰のものだったか、白木のバットを見つけ、慌てて自分の背番号「39」をグリップエンドにマジックで書き込みました。  私は普段、黒色のバットを使っていました。星野さんが見抜かないはずがありませんでした。 「キサマ、自分のバットは持っていないのか?」 「はい」と観念してウソだったことを認めると「そういう気持ちでやっているから駄目なんだ!!!」
顔腫らし、流血しながら電車に
 私は顔面付近を、相撲の張り手のように平手打ちされ、思わず尻もちです。今度はキック。立ち上がると再び、平手打ち……。このパターンが正確に繰り返され、背後に壁が近づいてきたところで、最初は近くで呆然と見ていた打撃コーチの島谷(金二)さんが止めに入ってくれたのです。「監督、これ以上やってしまうと……」とか何とか言っていたと思います。確か。  気付けば、私はホームベース付近から三塁線方向へ、実に50メートルほども後ずさりしていました。後にも先にも、星野さんに受けた“指導”では質量共にナンバーワンでした。  ボクサーでも、これだけ殴り続ければ酸欠状態でしょう。星野さんは肩で息をしながら「ナゴヤ球場に行ってバット取ってこい!」。そして返す刀で、そばにいた寮のお世話係のおばちゃんに「タケシにタクシーチケットは渡すなよ!」とも言いました。  私は顔を腫らし、流血しながらも自分のバットが置いてあるナゴヤ球場へ電車で向かいました。ちょうど2軍は試合中で、みんな「どうしたんだ?」と心配してくれましたが、説明すると長くなるので、とにかく早く戻ろうと何も言わずにその場を立ち去ったのです。
折れないはずのマスコットバットが…
 寮に帰ると、既に星野さんの姿はありませんでした。立浪が一人、ちょうど打撃練習を終えた後でした。そして、こう言っていました。 「僕も部屋にバットを置いていなかったから(星野さんに怒られるのではないかと)焦りましたよ」  立浪の傍らには折れたマスコットバットが2本、転がっていました。重量があるマスコットバットが折れるなんてことは、相当なパワーを持っている外国人選手でも滅多にありません。しかも立浪が現役生活で放った安打は通算2480本、新人時代からバットの芯で捉えるテクニックは卓越していました。そんな巧打者が平常心でいられず手元が狂ってしまうほど、練習を見守っていた星野さんには迫力があったのだと、私は自分がパニクってウソをついてしまったことも妙に納得できたのです。  この件があってから、私は2005年に引退するまでの18年近く、自分のバットやミットは肌身離さず持つようになりました。その結果として、より道具を大切にするようになりましたし、常に道具を携帯することが技術の向上につながることを選手、コーチ時代を通じ、後輩たちに伝えることにもなりました。  星野さんがそこまで考えていたかどうかは定かではありません。ただ、星野さんが本気で怒ってくれた時は自分のふがいなさや至らなさを気付かされ、成長につながることが多かったのもまた事実なのです。  次回はそんな星野さんの熱さの裏に、実は意外な冷静さがあったことをお話ししたいと思います。
%%%%%中村 武志/Webオリジナル(特集班)
この記事に付されたコメントが真にきょうみです。不快のd
https://news.yahoo.co.jp/articles/2a7c146c636587d3c1f2063c0f25370bee575810/comments

+++++ヒトを殺害する危険な生物
 表題に有るような問題設定を提示されたなら、誰しもが一番危険な生物は人間自身であると答えるでしょう。多分その回答は間違っていないと思いますが、人間を除くと何が一番か?私は小さい頃犬に咬まれたので、犬を真っ先に揚げますが、世界はどうなのでしょうか。そんな疑問にこたえる記事をネットに見つけたので以下に紹介しておきます。
%%%%%人間にとって危険な動物ランキング、1位による年間犠牲者は75万人 Aug 28 2020 
マイクロソフトの創業者として知られるビル・ゲイツ氏が自身のブログ「GatesNotes」で、ヒトを最も死に至らしめている動物のリスト「World’s Deadliest Animals」を2014年4月に公開している。このリストは、どの動物が1年平均でどれだけの人間の命を奪っているかをまとめたもので、その後、2016年にビジネス・インサイダー誌、2019年に英サン紙が多少の数字の更新を加えてリストを再発表している。人類を最も危険にさらす動物は何だろうか(注:原記事では15位までは紹介されていますが、長いのでトップ10のみ)。
15位:サメ 年間犠牲者:6人
14位:オオカミ 年間犠牲者:10人
13位:ライオン 年間犠牲者:22人以上
12位:象 年間犠牲者:500人
。11位:カバ 年間犠牲者:500人
10位:サナダムシ 年間犠牲者:700人
サナダムシは、自然界ではクマやきつね、犬、猫などの体内に寄生する虫だが、人間の消化器官に寄生することもある。牛肉、豚肉でも感染の可能性があるが、日本では魚を媒体にして感染することが多い。多くの場合はサナダムシに寄生されても症状は軽く済むが、種類によっては幼生のままで体内を移動して、本来寄生すべきでない部位である脳などに定着、その結果、人(宿主)が死に至ることもある。年間約700人が死亡しているとされる。
9位:ワニ(クロコダイル)年間犠牲者:1000人
アフリカ、オーストラリア、南北アメリカ、ユーラシア大陸南部、カリブ海の島々などで毎年犠牲者を出しているワニ。大きく分けるとアリゲーター科とクロコダイル科に分類され、なかでも、クロコダイル科のワニはイリエワニやナイルワニに代表される大型の種で獰猛。ワニは基本的に憶病なので入江にいる人間を襲うことはあまりないはずだが、魚の乱獲などで食べ物が不足し、浅瀬に食べ物を求めてあがってきたところにいた人間を獲物として捕食してしまうことが理由だと考えられている。
8位:回虫 年間犠牲者:4500人
回虫は、人間の小腸などに寄生する虫。世界中で8〜10億人が回虫に寄生されており、成虫が塊になって腸を塞いだり、胆管や虫垂に入り込んでしまうこともあり、人を死に至らしめる。死に至る感染者はほとんどが小児である。そのほか、栄養障害を起こしたり、毒素により腹痛、頭痛、嘔吐、けいれんといった症状を起こすこともある。
7位:ツェツェバエ 年間犠牲者:1万人
ツェツェバエは、イエバエと同じくらいの大きさの小さいハエ。このハエには吸血性があり、寄生虫であるトリパノソーマを持っている場合には人や家畜に重大な病気をもたらす。人に感染した場合はアフリカ睡眠病、家畜に感染した場合はナガナ病を引き起こす。アフリカ睡眠病は、病状が進行すると睡眠周期が乱れてしまい、日中でも朦朧とした状態となる。そして昏睡状態に陥ったのち死に至る疾患である。ツェツェバエはサハラ以南のアフリカに生息。コンゴでは、アフリカ睡眠病で死亡する人数はエイズなどのほかのどの伝染病の死亡者数よりも多いという。
6位:サシガメ(刺亀虫)年間犠牲者:1万2000人
カメムシの一種だがサシガメは肉食性で、おもに昆虫などを捕らえる。なかには人などの脊椎動物から吸血する種もあり、シャーガス病の原因となる感染症を運ぶことがある。この感染症はトリパノソーマと呼ばれ、ツェツェバエが媒体となるアフリカ睡眠病の原因ともなる。アメリカ大陸に住むブラジルサシガメでは、刺した際に傷の周りにおとした糞に含まれた原虫がその傷口などから入ることでシャーガス病を発症させる。シャーガス病は心臓機能低下、心肥大、脳脊髄炎などを引き起こす。
5位:淡水カタツムリ 年間犠牲者:2万人
カタツムリが危険な動物であるといわれると不思議に思うかもしれないが、カタツムリにはさまざまな寄生虫が宿っているので注意が必要だ。カタツムリだけではなく、ナメクジにも同様のことがいえる。この寄生虫は広東住血線虫といい、終宿主はネズミだが、中間宿主としてカタツムリやナメクジに寄生する。感染すると脳や脊髄をおかすが、確立した治療法はない。カタツムリやナメクジを生のままつまんで食べる人はあまりいないだろうが、生野菜をきちんと洗わずに食し、小さい個体を摂取してしまうことはおおいに考えられる。また、かたつむりやナメクジが通った後の粘着物にも寄生虫がいることがある。
4位:犬 年間犠牲者:3万5000人
犬に噛まれた、大型犬に子供が襲われたというニュースは比較的よく耳にするが、犬による人の死因の大多数は、噛まれたことにより狂犬病に感染したことによるもの。世界保健機関によれば、狂犬病による死亡者の99パーセントは犬からの感染だという。狂犬病はウイルス感染症で、発症してしまうとほぼ確実に死に至るとされる。狂犬病に罹ると、一時的な錯乱や水を見たり風に当たったりした際に頚部の筋肉がけいれんを起こす。その後、全身けいれんとなり、高熱、呼吸障害などが表れて死に至る。
3位:蛇 年間犠牲者:10万人
大型のにしきへびなどに人間が飲まれることもあるが、人間を飲み込むことは稀。蛇が原因となる人間の死因はその毒だ。国境なき医師団の調査によれば、世界では毎年270万人が毒蛇に噛まれているという。そのうち死に至る人数は10万人、障害や傷が残る人が40万人で、犠牲者の多くが適切な医療機関がない地域に住む子供という結果が出ている。解毒剤が不足しているという報告もある。また、解毒剤がある医療機関にたどり着いたとしても金額は約5〜6万円。これは、毒蛇に噛まれる可能性が最も高いエリアの貧困層にとっては4年分の年収に当たり、治療が受けられないこともあるという。
2位:人間 年間犠牲者:46万人
昨今のニュースを見ていると、人間が人間をほかのどの動物よりも多く殺しているといわれても不思議ではない。日本では、一日に1件は殺人事件が起きているという統計が出ている。世界規模で見れば、年間被害者46万人という数字にもうなずける。ちなみに、まったく顔見知りでない人に殺されるより、顔見知りの人に殺される確率の方が高いそうだ。
1位:蚊 年間犠牲者:75万人
蚊は、多くの病原菌を運ぶことで、最も人間を死に至らしめる動物となっている。蚊が運ぶ、死を招く病原菌としてよく知られているのはマラリアだろう。世界保健機構のマラリアレポートによると、世界で年間約40万5000人がマラリアによって死亡している。マラリアのほか、デング熱、黄熱病、脳炎(ウエストナイルウイルス)など、蚊が媒介する重大な病気は多い。人類が最も気をつけなければいけない動物だと言える。
%%%%%変更:タイトルを生物→動物に変更(2020年8月25日)

白村江海戦後(1)、旧統一教会問題(菅野志桜里氏)

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(写真:晩秋の濃い霧に浸る北関東、夜明け前の刈り取りを終えた水田。拡大は記事のクリックで)
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 百の舌 あやつりあれこれ 啼きまねの 名人モズは 今朝はツクツク

 夜明け前、今朝のモズはひたすらつくつくと叫びおります。冬本番が接近していることを感ずる合図でもあります。周囲は、虫も鳴かず他の鳥も声を立てません。

+++++白村江海戦後(1)
 天武天皇と美麻貴天皇(崇神天皇)の存在時期が重なってくると書いてきました。日本書紀に従えば、その天皇在位時期は大きく隔たっています。天武天皇のそれは西暦672年ー686年年であるのに対して、崇神天皇の在位期間は紀元前97年―紀元前30年とされています。実に769年もの隔たりです。  崇神天皇は日本列島の政治支配を成し遂げた人物であると古事記・日本書紀は書きます。この事跡の実際は東国支配を実現したことにあると考えることができます。それは常陸国風土記を併読するならば、東国支配完遂は即常陸国制圧です。常陸国に拠した東国政治勢力(蝦夷)の拠点であった香島に、崇神天皇が達したのは西暦530年以後(奉幣)で、それは草壁皇子が夭折した前後であったろうことも常陸国風土記から見えてきます。そうした視点から古事記・日本書紀が書く崇神天皇の足跡を眺めると、古代史の筋書きが具体的に筋道だって把握できるのです。
 こうなると、二つの顔を持つ天武天皇とは何者であるのか?との疑問に再度直面します。その実相が垣間見えるに違いないとの思いから「壬申の乱」の再読作業を始めたところ、この「乱」には、その9年前の「白村江」海戦での倭国の敗北が色濃い陰を落としているとの思いにいたりました。
 といった思考経過を辿り、「白村江」海戦にまで話が立ち戻ってしまいました。この海戦について、通説は、「朝鮮半島に軍事侵攻した天智天皇率いる倭国軍が、唐新羅連合軍に敗れた」というものです。
 一方、私の私見は、「唐新羅連合軍が、九州の「倭国軍勢」と朝鮮半島・百済を戦場として対峙し、これを敗北に追いやった。その際、奈良の軍事勢力は唐新羅連合軍に与した。すなわち、百済が唐と新羅に挟撃されたと同じように、日本列島では九州の倭国が唐新羅と奈良の軍事勢力に挟撃された」というものです。この視点から「敗戦後の倭国」を日本書紀記述から読み取ろうというわけです。

 天智天皇二年の九月、倭国は「白村江」海戦に敗れ、戦地を撤退します。撤退後の政情について日本書紀は 実に四ヶ月もの長きにわたって何も記しません。年が明けて二月に登場する記事が以下です:
 
%%%%%《天智天皇三年(六六四)春二月己卯朔丁亥【九日】》
原文:
天皇命大皇弟。宣増換冠倍位階名及氏上・民部。家部等事。其冠有二十六階。(中略)
大織・小織・大縫・小縫・大紫・小紫・大錦上・大錦中・大錦下・小錦上・小錦中・小錦下・大山上・大山中・大山下・小山上・小山中・小山下・大乙上・大乙中・大乙下・小乙上・小乙中・小乙下・大建・小建。是為二十六階焉。改前華曰錦。従錦至乙加六階。又加換前初位一階。為大建。小建二階。以此為異。余並依前。其大氏之氏上賜大刀。小氏之氏上賜小刀。其伴造等之氏上賜干楯・弓矢。亦定其民部。家部。

文意:岩波文庫「日本書紀」(五)』30頁より
天皇は大皇弟に命じて以下を宣した(以下は原文にあるように多様な位階の、冠の設定)。
%%%%%
 戦争に敗れて、這う這うの体で倭国軍は九州に逃げ帰ってきたはずです。その際、勝者である唐新羅連合軍は追撃してこなかったのだろうか。上で指摘した謎の四ヶ月間の空白期間は九州倭国にあっては混乱の極みであったろうと想像できます。一方、勝者である唐新羅連合軍の尻馬に乗ってきた奈良の勢力は、今こそ、奈良の地に政治体制を構築する時期となったのだろうと思えます。それが、上に掲載の位階であったろうと思えます。繰り返すならば、上に掲載の文節は九州『倭』国に関する記述ではなく、奈良に構築されてきた新政治体制の記述ということになります。
 以後、日本書紀の記事はこの奈良の新政治体制と、倭国の政情記述が混在することとなります。読者はそれを注意深く見定めながら読み進めることが求められます。

 日本書紀・原文は「六六四年三月。以百済王善光王等居于難波。』有星殞於京北。」と、書きます。
 奈良勢力が着々と支配体系を構築している間に、九州の儺河域(玄海灘に流れ込む那珂川、日本書紀はその事実を隠蔽するために難波という地名をこしらえ挙げた)に百済の兵の一部がたどり着いたと思えます。
 以下の記事に記載される地震は、たとえば警固断層(2005年の福岡県西方沖地震、M-7.0)におきた地震ではなかろうかとも思えますが、古地震学者による調査はまだ及んでいないようです。
日本書紀・原文「六六四年の是春。地震。」
さて、百済兵の一部が九州倭国に北岸に辿り付いた二ヵ月後に以下の重大な記述があります:
日本書紀「六六四年夏五月戊申朔甲子十七日
百済鎮将劉仁願は朝散大夫郭務悰等を遣してくる。その際、表函と献物を持参する。

さて、この郭務悰等は倭国すなわち九州に来たのか、それとも奈良に行ったのでしょうか?
(つづく)

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+++++(旧)統一教会
 安倍元首相銃撃事件をキッカケとしてあらわになったのが旧統一教会の「宗教」の仮面をかぶった信者財産の強奪事件と政治癒着です。日本国民の前に「宗教問題」の深刻な展開を明るみに出しています。これについて元衆議院議員の論客で弁護士の菅野氏が語っています。
%%%%%注目の人 直撃インタビュー 菅野志桜里氏が断言「解散命令請求はできる」「必要な資料は教団の外に十分にある」(日刊ゲンダイ) 菅野志桜里(弁護士)
 銃撃事件発生から4カ月。旧統一教会(現・世界平和統一家庭連合)に対する包囲網は狭まっているように見える。霊感商法や高額献金などへの対策を議論した消費者庁の有識者検討会が先月まとめた報告書は、かなり踏み込んだ内容だったが、提言が実現するかは岸田政権のさじ加減ひとつだ。宗教法人法に基づく調査がなされ、解散命令の請求へと進んでいくのか。与野党が協議する被害者救済法案は、今度こそ弱きを助けるものとなるのか。尻すぼみの展開もあり得るのか。検討会メンバーを務めた検事出身の前衆院議員、菅野志桜里氏に聞いた。 
──消費者庁の検討会では、教団について「解散命令請求に値する事案」としながらも、「その前段として、これまで怠ってきた報告徴収・質問権を行使すべき」と主張されていました。
 適法手続き保障、それに社会的な合意形成の観点から、先へ進むプロセスとして文科省が質問権を行使する方がよいと考えています。もちろん、法律上は質問権を行使せず、解散命令を請求することは可能です。実際、裁判所が解散命令を出したオウム真理教と明覚寺に対しては質問権は行使されていない。ただ、この2事案をめぐっては、刑事事件化する過程で警察や検察がしっかり捜査している。反論の機会も保障されていた。
 一方、旧統一教会については、組織的な不法行為責任が認定された20件超の民事裁判などが主なベースとなります。捜査は入っておらず、必ずしも十分な反論の機会が保障されているとは言い切れない。そう考えると、手続き保障を尽くした結果の公正な判断として請求に向かった方がより適切ではないか、というのが、法律家としての感覚です。
──元政治家としての感覚ではどうですか。
 調査もしないまま、解散命令の請求はできないと判断するのはおかしい。こうした声は世論からも政治家からも上がっています。キチッと調査した上で請求すべきであれば請求しましょう、というロジックの方が広く社会の合意形成がなされるのではないか。そう感じています。この間、旧統一教会をめぐる問題が一気に可視化された。メディアも政治も社会もこれまで放置してきた分、しっかりと向き合わなければいけないよね、という空気が醸成されています。
 だからこそ、合意形成を積み重ねながら問題解決に向かって進んだ方がいい。それでこそ、岸田政権を動かすことができると思います。私は野党議員時代が長かったのもあって、バランス感覚ある世論の後押しこそが政治を動かすことを体感しました。「解散命令を請求せよ」の大合唱では、かえって政権がかたくなになってしまうのではないかという懸念もあります。
■最後までブレなかった消費者庁検討会
 ──消費者庁の検討会ではかなり盛んな議論が交わされ、提言もアグレッシブな内容です。
 第1回会合で目的が定まり、最後までブレることはなかったですね。河野大臣が最初のあいさつで「消費者庁の担当の枠を超え、境界を定めずに自由な議論を」と発言したのは大きかった。その意味するところは、霊感商法を規制する消費者契約法改正に限らない法整備の必要性、そして根っこの問題である旧統一教会への対応策を示すこと。(教団の主たる集金方法が)壺のような物品販売から献金へ移行していると指摘される中で、契約でとらえきれない献金はどうするか。
 分水嶺を明確にする方向で動きかけたのですが、契約であれ献金であれ、どちらも救済できるように法整備をした方が本来の目標を達成できるのではないか。そういうふうに手段については軌道修正を恐れないのも良かった。原則ライブ中継で、発言はほぼ議事録に残る。お手盛り発言、日和見発言をすれば厳しい目にさらされる。オープンな議論をとことん追求した検討会だったからこそ、できたことがありました。
──提言実現の見通しは?
 質問権については、一国の総理大臣が国会で答弁しましたからね。これだけの深刻な事案において、行使しないという選択肢はないでしょう。解散命令の該当事由のひとつ「法令に違反して、著しく公共の福祉を害すると明らかに認められる行為をしたこと」にピタリと当てはまっています。(編集部注=永岡文科相が11月11日、質問権行使を表明)
──請求はどうですか。
 できると思います。そもそも、質問権行使は疑いを強めるような新事実の収集を前提とした権限行使ではありません。宗教法人法は「犯罪捜査のために認められたものと解釈してはならない」としている。施設立ち入りには同意が必要ですし、資料を強制的に押収することもできない。つまるところ、質問権行使は相手方から新事実を引き出すというよりは、反論の機会を与えるもの。疑いが晴れる可能性はゼロではありませんから。質問権行使にあたって、万全の準備で臨めるかどうかが結果を左右すると思います。
 必要な資料は教団の外に十分にある。事案の収集、事実の分析、法的な当てはめといった作業は全国霊感商法対策弁護士連絡会(全国弁連)がかなりやっています。被害者のヒアリングという厳しい作業もやってくれている。文化庁宗務課はこれまでの積み上げをドーンといただいて、プラスアルファの作業をしてほしい。
 ──定員8人の宗務課に文科省内から22人が応援に入り、法務省、警察庁、金融庁、国税庁から8人が派遣されました。
 宗務課しか閲覧できない会計書類の突き合わせだとか、請求の可否の判断につながる作業をどんどん進めてほしいですね。検討会が報告書をまとめた先月半ば時点で、効率良くやれば年内に質問権行使。請求まで数カ月、長くても半年とみていました。質問権行使に至れば教団は反論するでしょう。ですが、会見などでの主張を見る限り、新たに合理的な反論がなされるとは考えにくい。
 ──自民党、公明党、立憲民主党、日本維新の会の4党による救済法案の協議をどう見ていますか。野党側が共同提出したマインドコントロールによる高額献金を規制する法案の一部に与党は難色を示しています。霊感商法による契約の取り消し要件緩和を柱とする消費者契約法改正を優先する構えです。
 できたものから仕上げた方がいいと言いたいところだけれども、消費者契約法改正と新法の救済要件は重ならなければいけない。どちらの法律でも同じように救えるようにしなければいけない。マインドコントロール下で結んだ契約だけでなく、献金についても取り消せるようにしなければいけない。本来は平仄を合わさなければダメ。政府の動きには2つ問題があると思います。
■提言を政治に埋め込むスタイルでやる
 ──というと?
 まずひとつは、今国会で例えば消費者契約法だけを仕上げるなど、何かしらの「やった感」を出し、根本の献金規制はウヤムヤにしようというような思惑です。期限を切らない先送りは「やらない宣言」と同じ。「今国会」という「スピード感」「やった感」では被害者は救われません。それこそ、ギリギリまで作業を詰めても課題が残るのであれば、来年の通常国会で最優先すべき2法案としてしっかり審議し、成立させるべきではないでしょうか。
 もうひとつは、献金をめぐる新法の関連です。検討会でも繰り返し訴えたのですが、宗教法人は公益法人でもあるのに、献金ルールに縛られていない。宗教法人法を改正し、公益法人法の規定を参考にした献金に関する規制を盛り込むのが筋。
 ですが、宗教法人法改正を嫌がる政治的エネルギーがものすごく働いて、新法という話になっている。対象を宗教法人に限定せず、献金そのものを規制しようという議論に歪められている。いま問題なのは宗教法人です。他の団体への安易な波及はトバッチリにもなりかねない。公明党がネックになっているように見える。無用に急ぎ、無用に範囲を広げようとする政治的な問題も指摘しておきたいですね。
 ──永田町を離れて歯がゆくはないのですか?
 むしろ離れたからこそ消費者庁の検討会に入り、しがらみなく発言ができました。政府の審議会や検討会はともすれば下請けになりがちですが、今回は健全な外注といった感じで取り組めた。私ひとりでは難しいですが、政治家の外側で政治的な提言をまとめ、政治に埋め込んでいくスタイルをつくっていきたいと思っています。
(聞き手=坂本千晶/日刊ゲンダイ)
【検討会の提言】
(1)統一教会に対して、解散命令請求も視野に入れ、宗教法人法に基づく報告徴収・質問を行使する必要がある
(2)消費者契約法で契約の取り消し権の対象範囲を拡大。行使期間の延長を検討する
(3)不当な寄付の要求などを禁じるため、現行法改正や新法制定を検討する
(4)相談対応では関連分野の専門家とも連携し、特に宗教2世に対する支援を行う
(5)霊感商法などの消費者被害に関する情報を迅速に公表し、幅広い世代への消費者教育を推進する

%%%%%▽菅野志桜里(かんの・しおり) 1974年、宮城県仙台市生まれ。東大法学部卒。元検察官。2009年の総選挙で初当選し、衆院議員を3期10年務めた。21年11月、一般社団法人国際人道プラットフォームを立ち上げ、代表理事に就く。22年1月、ウェブメディア「The Tokyo Post」編集長に就任。著書に「立憲的改憲」など。

小室圭氏の弁護士適正を調査する委員会、チバラギ地震

(本ブログは月木に更新されます。コメントはryuuzaki_i@yahoo.co.jp へ)
(写真:(上は十五夜の月、下は近くで見つけた柘榴の実。 拡大は図のクリックで)
十五夜月0012
 
 柘榴0007


十五夜の 丸く輝く お月さん お日様の家来をも まきぞえにせり

 今般の十五夜は、なんと太陽の惑星(家来)である天王星までもが月の背後に隠れてしまったとのことです。

 昨日夕方六時前、当地は地下からの激しい突き上げに遭い、私は戦(おのの)きました。なにせ、ドーンッときた数秒後にかなり大きなゆれがあったのです。どうなるのかと不安が募りました。どうやら時折当地を襲う地震の一つであったようです。
 そうではあっても、十月半ば以降、当地には少なくも四回を越える有感地震がありました。そのうちの二つは、現ブログ管理人が追いかけてきたチバラギ地震です( 180216日記事”井上達夫氏の憲法改定提言、チバラギ地震復習、脳内記憶〔3、nature)”〕。気象庁による公式発表があり次第、それを元にこの地震とそれを取り巻く活動環境を考察します。
(図:最近の「チバラギ」界隈の地震。防災科学技術研HPより。拡大は図のクリックで)
221110チバラギ界隈

 上図で上の二つは「チバラギ」地震です。左は本震で右は余震と思われます。一方下は、この地震発生に関係していたのではなかろうかと私が想像している埼玉県西部地震(左)と、上段の「チバラギ地震」が関わっていると思える「霞ヶ浦西部」地震(右)です。これら四つの地震の時空間的関係については次回記事で 図示します。

+++++KK(小室圭氏)について米国最高裁直属関連部局に直訴
 十月末に秋篠宮家長女の夫が三回目の挑戦で米国司法試験に合格しました。この合格に対して、日本国内のKK-wachersがこの合格にまつわる多くの疑問をネットーメディアで指摘しています。しかし、かの国の司法行政が合格と認定した人物を日本の国民が騒いだとしてもそれはいってみれば他国行政への干渉です。このいかがわしい人物に司法試験資格を与えた米国の大学の「その場しのぎと思えるほどの杜撰な処置」も指摘されていますが、それも米国の営利団体としての大学運営のやり方と思えば、それを他国の人間がとやかく言えるような筋は無いのだろうと思っていました。
(図:KK疑惑を取り上げている動画サイト一覧。拡大は図のクリックで)
221110馬鹿姫無題

 日本の大手メディアはこの問題に沈黙を守っているのですが、生来の「ミーハ族」である私は、実はひっそりとこの問題の追っかけをしてきました。その根底には、貧乏な家庭に育った私には「衣食住」に何の不安も無く、それが保障されている「特権階級」への反発があるのでしょう。その「特権」の上に乗っかって一部の人間が、更なる利権を得ることには不快感しかありません。そんな矢先のKK氏の成功譚です。嫉妬感を交えて愉快ではありません。そうした気分に沿うように、KK氏の弁護士適正を審査する米国の最高裁判所・委員会への「訴え」を起こす運動が始まったのです。他国の司法行政、あるいは他国の営利事業(大学運営)への干渉が成立するのか否かは興味深いので それを以下に転載しておきます(日本語訳が後ろに付されています)。
 
%%%%%発信者:H Takuya 宛先:Committee on Character and Fitness in First Judical Departmen the Supreme Court of New York
This campaign is for requesting Committee on Character and Fitness in First Judicial Department the Supreme Court of New York to investigate Kei Komuro's suspicions.
Kei Komuro passed Bar Exam and now he is facing Character and Fitness investigation. But, following four suspicions supposed to impact to the judgement.
1. Falsifications of his career.
2. Irregular law study procedure.
3. His admission eligibility of Fordham Law LLM course.
4. Illegally obtaining Bar Exam Questions.
Therefore, we would like Committee on Character and Fitness to investigate these suspicions for fair judgement.

Here is detail of each suspicions.
1. Falsification of his career.
Regarding his awards in Fordham Law,
As of now. Kei Komuro’s Education history is shown on Lowenstein Sandler LLP as below.
Fordham University School of Law (J.D. 2021); Fordham's Archibald R. Murray Public Service Award
Fordham University School of Law (LL.M. 2019), cum laude
Hitotsubashi University Graduate School (M.B.L. 2018)
International Christian University (B.L.A. 2014); Dean’s List
Reference:

But, the education history had been revised several time.
His educational career was shown in 2021 as below.
Fordham University School of Law (J.D. 2021); JFK Profile in Courage Award; Sweat Equity Award; Archibald R. Murray Public Service Award
Fordham University (LL.M. 2019), cum laude
Hitotsubashi University Graduate School (M.B.L. 2018)
International Christian University (B.L.A. 2014); Dean’s List
Reference:
Following two awards were not existing in Fordham Law school.
JFK Profile in Courage Award
Sweat Equity Award
Reference:
Reference

If Kei Komuro put these two awards on his resume, it is obviously falsification of his career to enter Lowenstein Sandler LLP.

Regarding his job career in Japan,
Lowenstein Sanlder LLP introduce Kei Komuro that He has experience working in Tokyo at both a law firm and a foreign exchange bank where, as a certified securities broker representative, he provided loan and foreign exchange services and prepared financial analyses for non-Japanese corporate clients.

Reference:Kei Komuro worked at Mitsubishi Tokyo UFJ Bank for one and half year. But, his job experience R was just entry level.
All of new employees who begin to work at any Bank in Japan are work as assistant, and they are not allowed to work for financial analysis or other important job.

Regarding Internship in California,
One of weekly magazine in Japan reported as below.
"Kei Komuro entered UCLA and work as an internship at DENTSU AMERICA California brunch office in 2013. But, the brunch office was not existing at the time."
The reporter also confirmed with DENTSU Headquarter that DENTSU AMERICA California office was not existing.
If he put his career on his resume, it is obviously falsification of his career.

These three falsifications are very important to judge his honesty.

2. Irregular Law education.
Most of students start from three year J.D course, and some of students take LLM cause after the J.D. course. But, Kei's law education career started from LLM and entered two year J.D. course.
Here are two points of concern:
i) Starting from LLM might be for avoiding LSAT.
Fordham law says that applicants to the LLM program with a law degree from outside of the United States are not required to sit for the LSAT exam.
Reference: FAQ Fordham Law LLM Admission.
If he doesn’t have appropriate law degree to enter Fordham Law LLM, it is a concern.
(More detail is described at Section 3)

ii) Why did Fordham Law approve his law education plan.
Fordham law announced about Kei Komuro as below..
"Kei Komuro, a paralegal at the Okuno & Partners law firm in Japan who is engaged to be married to Japan’s Princess Mako, will attend Fordham Law School starting in August. He has received the Michael M. Martin Scholarship. The Martin Scholarship is a merit scholarship covering the full cost of tuition from Fordham Law based on his strong academic and other credentials. The Martin Scholarship is not a loan and does not need to be repaid. He will enter the law school’s one-year LL.M. program and then hopes to continue for two more years to receive a J.D."
In this paragraph, there are three concerns.
1: Why Fordham Law introduced Kei Komuro as Fiance of Japan's Princess Mako?
New York Times Reported "He’s Supposed to Marry a Japanese Princess. Just Don’t Call Him Her Fiance." "On Thursday, in response to a request by Japan’s Imperial Household Agency, which oversees the ceremonial functions and protocols of the royal family, Fordham removed a phrase from a news release that had trumpeted Mr. Komuro, a paralegal in Tokyo, as the “fiance of Princess Mako of Japan.”
Kei Komuro might use the status "Fiance of Japan's Princess Mako" to enter Fordham Law and obtaining scholarship. After this report, Fordham Law modified the announcement on their website.
Reference: New York Times
Reference: Fordham Law News (Web Archive)
https://web.archive.org/web/20180706181456/https://news.law.fordham.edu/blog/2018/07/05/kei-komuro-fiance-of-princess-mako-of-japan-to-attend-fordham-law/
Reference: Fordham Law News

2: What is Two Year JD Program
As of now, the Two year JD program has already been abolished, and now Fordham Law doesn’t offer two year JD program any more. We anticipate applying this Two Year JD Program was for only Kei Komuro and it was special operation.
In fact, his name cannot be searched on the website.
Reference: Fordham Law Class of 2021 Graduates.
Reference: Fordham Law Class of 2021 Graduates.
Reference; Two Year JD Program (Web Archive)

3: Scholarship
Kei Komruo obtained scholarship to cover all of the tuition. But, his career and education history might not meet the criteria for the scholarship and admission. His royal status"Fiance of Japan's Princess Mako" was used for the scholarship and admission.
Using the status for personal profit and desire is not appropriate as attorney.
It is anticipated that any special operation performed for him.

3. His admission eligibility of Fordham Law LLM course.
Based on media report, Kei Komro graduated Hitotsubashi University ICS (International Company Strategy) Business Law Course in 2018. But, the course was acquired by Hitotsubashi University Law Division after his graduation.
The point is the business law course which Kei Komuro taken was not for comprehensive law studies. It just focuses on business law.
Basically, all students who would like to become an attorney, they study laws at four year collage. but, Kei Komoro didn’t enter it, and just studied at ICS Business Law course. Also, when he entered the school, it didn't require admission test. so, anybody can enter the school without admission test.
Is this education appropriate to obtain eligibility of Fordham Law LLM admission?
Reference:Web Archive of ICS business Law.

4. Illegally obtaining questions of Bar Exam.
One of Japanese medias “Monthly Themis” reported
"Kei Komuro reported to Japan embassy that he could do well at the Bar Exam, because same questions were on the Bar Exam as he heard."
If the questions at Bar Exam were same as he obtained, there was possibility that Japan embassy obtained Bar Exam Questions in advance…
If this report is truth, this is unfair. It must be investigated.

For these four suspicions, We would like to ask Character and Fitness Division to deeply investigate Kei Komuro.

<<日本語訳(Japanese Translation)
この運動は、ニューヨーク最高裁判所のキャラクターアンドフィットネス部門に小室圭氏の疑惑について詳細に調査するよう依頼するものです。
小室圭氏は司法試験に通過し現在キャラクターアンドフィットネスによる調査の目前となっています。しかし、下記4つの疑惑は審査に大きく影響します。
1.経歴詐称について;2.フォーダム大学のLLMコースに入学資格について; 3.通常ではない法律の学び方について;4.司法試験の違法入手の可能性について
これらの疑惑により、私たちは最高裁判所キャラクターアンドフィットネス部門に対してこれらの疑惑について深く調査するよう求めるものです。
各疑惑に関する詳細
1:経歴詐称について
小室圭氏の学歴については下記のように現在なっている。
Fordham University School of Law (J.D. 2021); Fordham's Archibald R. Murray Public Service Award
Fordham University School of Law (LL.M. 2019), cum laude
Hitotsubashi University Graduate School (M.B.L. 2018)
International Christian University (B.L.A. 2014); Dean’s List

参考:
しかし、2021年には下記のようになっていた。
Fordham University School of Law (J.D. 2021); JFK Profile in Courage Award; Sweat Equity Award; Archibald R. Murray Public Service Award
Fordham University (LL.M. 2019), cum laude
Hitotsubashi University Graduate School (M.B.L. 2018)
International Christian University (B.L.A. 2014); Dean’s List
参考:
ここでポイントになるのは、下記の二つの賞についてはフォーダム大学の中に存在していない。
JFK Profile in Courage Award
Sweat Equity Award

参考:
参考:
もし、小室圭氏がこの二つの賞を履歴書に載せていた場合、これは明らかな経歴詐称となる。
また、小室圭氏の職歴に注目すると
Lowenstein Sandler社のホームページにいは次の通り書かれています。
”Lowenstein Sanlder LLP introduce Kei Komuro as that He has experience working in Tokyo at both a law firm and a foreign exchange bank where, as a certified securities broker representative, he provided loan and foreign exchange services and prepared financial analyses for non-Japanese corporate clients.”
しかし、銀行では1年半しか勤めておらず、入社1年目から2年目にこのような重要な仕事を任せるかは疑問で、通常はアシスタントになると思われる。
その為、職務内容についても深く確認する必要がある。
これについては弁護士になるのに相応しいか判断する為に調査されるべきである。
2:通常ではない法律の学び方について
ほとんどの学生は3年間のJDコースを終了した後にLLMコースを受講するが、小室圭氏の法学歴はLLMから始め2年間のJDコースを受講している。
2つの懸念事項について
1)LLMから始めたのはLSATを回避するため
アメリカ合衆国以外の法学学位を持つ入学希望者についてはLSATの試験を要求しない。
参考資料 FAQ Fordham Law LLM Admission.
もし、小室圭氏が適切な法学学位を持ったずにフォーダム大学のLLMに入った場合は、こは一つの懸念事項です。
(より詳細はセクション3で言及します)
2)なぜ、フォーダム大ロースクールは小室圭氏の法学計画を許可したのか。
フォーダム大学は「小室圭氏は1年間のLLMプログラムを終了したのち2年間のJDコースを希望している」
しかし、フォーダム大学では2年間のJDコースはすでに廃止され提供していない。
入学当時廃止されていた可能性もある。
これは何かしらの入学のために皇族特権のような特別な計らいがあったと考えられる。
現に、フォーダム大学のニュースレターに「日本のプリンセス眞子と婚約している」記載があることから、入学に関して皇族特権を使った可能性もある。
参考:
参考:
3:フォーダム大学のLLMコースに入学資格について
報道によると小室圭氏は一橋大学国際企業戦略科で経営法務コースを2018年に卒業している。
しかし、この経営法務コースは2018年に一橋大学の法学部に吸収されている。
ここでポイントになるのは経営法務コースは総合的な法律を学ぶものではなく、経営法務に特化したものである。
一般的に弁護士を目指す全ての人は4年制大学で総合的に法律を学ぶが、小室圭氏はそうではなく経営法務コースでだけ勉強をしている。
この学歴についてフォーダム大学のLLMコースへの入学資格があると認められるべきだったのかが疑問である。
参考:
4:司法試験の違法入手の可能性について
日本のメディアの一つ「月刊テーミス」によると小室圭氏が司法試験後日本総領事館に「聞いていた通りの問題が出た為、大丈夫」と報告された。
また、同じ問題が出たのであれば、不正の可能性もある。
これが本当であれば、不公平であり調査すべきである。
上記の4つの理由から、キャラクターアンドフィットネス部門には深く小室圭氏について調査してほしい。
%%%%%紹介終わり
 関連動画:上に掲載の話題については冒頭のみで、ほとんどが秋篠宮長男が秋の定期試験で「赤点」なる低評価であったそうで、その結果についての考察です。これはこれで興味深い)
【新・オレの話し。】赤点の衝撃 子どもノンフィクション文学賞 受賞者


 関連動画:
 この動画では、KK氏の「適正調査」に加えて、秋篠宮の嫡男の勉学における不都合が論議されています。
Character &Fitness、注目点はここ!米国専門Youtuber解説紹介します!KK息子の場合もこの点は注目!

地熱発電、壬申の乱の始まりは白村江での敗戦

(本ブログは月木に更新されます。コメントはryuuzaki_i@yahoo.co.jp へ)
(写真:朝五時半すぎに オレンジ色に染まり始める 南東の空が、一時間後には 茜色を経て青空に変化してゆきます。拡大は 図のクリックで)
朝焼け0004

朝焼け9991


 朝焼の 空の色合い 刻々と オレンジから 茜に変わる

+++++日本の地熱
 原子力規制委員会が、日本の既存の原子力発電所の耐用年数を60年にまで延長することで、エネルギ危機をしのごうとの思惑を東京新聞記事が書いていました(前回ブログ記事)。しかし、日本列島には十分なほどの石炭が埋蔵されており、それを二酸化炭素の排出を極限にまで押さえ込んでエネルギを生成する技術を有していることが明らかになっています。それに加えて、火山を多く抱える日本列島には、下の記事に見るような豊かな地熱があります。危険な原発に走る前になぜ既存のしかも日本列島が抱えるエネルギ源の活用をしようとしないのか!と思っています。これには西側諸国の「日本国支配と下僕視」が有ると考えています(後日)。
%%%%%特集・連載情報地熱発電 新たなステージ
 日本の地熱資源量は世界3位の2347万KWを誇ります。国は2030年に地熱発電の設備容量で現状比約2.4倍に当たる150万KWの実現を掲げており、数万KW規模の大型地熱発電の実現に向けた取り組みが活発になっています。
地熱開発が最先端技術で入る新たなフェーズ
地熱発電 新たなステージへ(上) 2022年11月01日
日本の地熱資源量は2347万キロワットで世界3位。国は2030年に地熱発電の設備容量で現状比約2・4倍に当たる150万キロワットの実現を掲げ、国立公園内での開発可能性調査に着手。数万キロワット規模の大型地熱発電の実現に向けた取り組みが活発になってきた。新エネルギー・産業技術総合開発機構(NEDO)は地中のマグマ層を活用した次世代再生可能エネルギーとなる超臨界地熱開発について、23年度以降に試錐井(しすいせい)の掘削を行う計画。日本の地熱開発は最先端技術の投入で新たなフェーズに入る。
国内の地熱発電設備容量は21年末で61万キロワット。19年に23年ぶりの大型案件として秋田県の山葵沢地熱発電所(設備容量4万6000キロワット)、岩手県の松尾八幡平(同7500キロワット)が稼働した。だが、全体では再生可能エネルギー固定価格買取制度(FIT)前から数万キロワット増強した程度にとどまっている。
柳津西山地熱で、川からの水を地熱層へ投入する涵養井
こうした中、国は地熱発電の大幅導入増に向け、開発にブレーキをかけてきた各種規制を緩和しつつある。自然公園法では地熱資源の80%が存在する国立・国定公園における「第2、3種特別地域内の開発を原則認めない」との規制を廃止。地熱開発のための保安林の転用解除も迅速化され、環境アセスメントも円滑化する措置がとられている。
初期調査から操業開始まで10年以上かかる高リスクの地熱開発事業へ企業の参入を促進するため、石油天然ガス・金属鉱物資源機構(JOGMEC)は初期調査や探査・開発事業で基礎調査データ提供や助成金、出資・債務保証などの資金支援を10年間で80超のプロジェクトに提供。うち7件は開発フェーズに入っている。
22年度は北海道・函館市でオリックスによる国内最大級のバイナリー発電(設備容量6500キロワット)が運転に入る。これに続き、29年度までに稼働を目指すプロジェクトは岩手県・安比地熱発電(同1万4900キロワット)、秋田県湯沢市ではカタツムリ山発電(同規模)のほか環境アセスメント中の案件がある。ただ、数万キロワット級の大規模プロジェクトが見えていない。
そこでJOGMECは地下資源開発のリスクを低減し、事業者が開発しやすい環境を提供する新たな調査を21年度から開始。国立・国定公園内を対象に全国30カ所で地熱ポテンシャル調査を進めている。「各エリアで2000メートル級のボーリングを実施し、地熱層を確認する。調査結果を基に23年度以降、民間企業の案件組成・事業化につなげる」(盒況魄戝惑事業本部長)とする。
また、福島県の柳津(やないづ)西山地熱発電所(福島県柳津町)では地熱蒸気減衰で発電量が低下。運転開始時に比べ出力が3万キロワットと半減しているが、この蒸気量の回復を目指し、国内で初めて河川水を人工的に涵養井に注水して生産井の蒸気量を回復する「人工涵養」の実証を20年夏から進めてきた。これまでに蒸気量の回復を確認しており、国内各地の地熱発電所における減衰対策として期待できそうだ。
JOGMECは超臨界状態の二酸化炭素(CO2)を熱媒体として発電する革新技術開発にも着手。地下熱水の代わりにCO2流体を活用し、地熱発電を目指す。基礎研究事業を大成建設、地熱技術開発(東京都中央区)に委託、50年に実現する予定だ。
%%%%%日刊工業新聞 2022年10月18日

 %%%%%10数万KWを実現へ、「超臨界地熱発電」貯留層の構造探る地熱発電 新たなステージへ(下) 2022年11月03日
 テクノロジー火山深部のマグマ・マントル由来の400度―500度Cの地熱で10数万キロワットの大規模発電を実現する「超臨界地熱発電」の構造試錐井(しすいせい)の開発が2024年度にも始まる。次世代の再生可能エネルギーとして新エネルギー・産業技術総合開発機構(NEDO)が国内4エリアで進める資源量評価を踏まえ、30年までに構造試錐井から調査井の掘削、50年ごろに大規模発電の実現を目指す。
NEDOは国のグリーンイノベーション戦略にも盛り込まれた超臨界地熱発電技術の開発を18年から開始。現在は資源量評価と試掘の段階だ。日本の超臨界地熱資源のポテンシャルは1200万キロワット程度で、東北、北海道と九州地域に多く存在するが、優先調査する有望地域として岩手県の八幡平と葛根田、秋田県湯沢南部、大分県九重の4地域を選定。地熱開発企業や研究機関、大学、団体がチームを組み資源量評価や掘削工程の策定などを進めている。
NEDOでは23年度末に構造試錐井の候補地を決め、24年度以降に掘削に入る計画。調査井掘削の前に構造試錐井で超臨界地熱貯留層の真上の地下3000メートル前後まで掘削し、地質構造や温度の状態を把握、掘削、資機材、モニタリング装置の評価も行う。
福島再生可能エネルギー研究所(FREA、福島県郡山市)をリーダーとするグループは葛根田地域での超臨界地熱資源量評価で、超臨界地熱貯留層が存在する可能性が極めて高いことを明らかにした。
既存の葛根田地熱発電の貯留層より深い地下3000メートル以深の花崗岩の上部に超臨界領域がある可能性が高く、4本の井戸と1本の還元井で40年以上安定して10万キロワットを発電するシミュレーションも得た。
FREAでは同地域での開発による浅部地熱系への直接の影響は極めて少ないとみている。
23年度末の構造試錐井掘削では、350度C程度の花崗岩の上部まで掘削に入る。FREAの浅沼宏再生可能エネルギー研究センター副研究センター長は「構造試錐井は米国が行った月面探査のアポロ計画に例えると、月面ロケットを飛ばす1歩前の予備ロケットが完成した段階」と話す。構造試錐井の掘削費は1本当たり数10億円かかる見通しとみられ、調査井掘削は26年度以降、実用化開発は30年度以降になりそうだ。
NEDOによると有望と見られる4地域ではこれまでの調査で資源賦存を推定できており、まずまずの進捗(しんちょく)状況という。構造試錐井は23年以降にまず1カ所で掘削する計画だが、調査井ではボーリングの資機材は変わる見通しで、適切な材料開発も進める。NEDOの大竹正巳新エネルギー部熱利用グループプロジェクトマネージャーは「30年代以降に国内数カ所で実証試験を行い、50年前後に事業化を見込む。1本の井戸で発電規模は1万キロワット以上を期待しており、1地域での規模は10数万キロワットを目指す」としている。
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日刊工業新聞 2022年10月19日

+++++天智天皇死去直前に朝鮮半島に待機した郭務悰
 「壬申の乱」は、天武天皇の二面性、言葉を変えれば、日本書紀は互いに真逆な二人の人物を「巧み」に重ね合わることで持って史実の隠蔽をしていると私は疑っています。「互いに真逆な」二面性については歴史の経緯からはまったく明白ですが(既述)、それを隠蔽する記載についてそれを明るみにすることはなかなか難しい。実際、古代史研究者の多くが其の隠蔽に気付かず、記載のまま七世紀後半の日本列島政治史を受容しています。
 その結果、七世紀末の日本列島の政治について学者を誤った歴史認識に導きます。其のほころびがチラリと垣間見せるのが「草壁皇子」です。この皇子は天武天皇と持統天皇の間に生した子ですがわずか二十九歳の若させ夭折します。この皇子を歴史研究者は天武天皇の第一子(嫡男)と信じて疑いません。しかし、西暦720年に撰上された日本書紀よりも先の西暦713〜718年に編纂されたとされる常陸国風土記の新治郡の条では、草壁皇子の別名は日並知皇子(通説では「ひなめし」と訓するが「ひならし」とも訓める)であり、美麻貴天皇(漢風諡号は崇神天皇)の息子または孫と記載されます。古事記・日本書紀はこの天皇が、混沌としていた日本列島の政治支配を始めて成し遂げた人物であると書きます。神武天皇にもそうした記載があるので、世の研究者は其のことに戸惑っているようです(神武天皇についてはいずれ書きます)が、この記載が史実に近いと私は考えています。それは奈良政権に逆らった東国の軍事制圧に成功したからです。この成功に先行したのが「壬申の乱」であったと、私は考えています。とするならば、美麻貴天皇または其の父(垂仁天皇、記紀に従えば、父に当たるが、実際は息子あるいは天皇後継者)が壬申の乱を勝利に導いた天武天皇の実像であるらしいことが見えてくるのです。そうした背景に鑑み210125記事”垂仁記(玉緒、三重纒手)、2F氏の24億円詐取疑惑(一日万冊より)”では垂仁天皇記を読み直しました。読み直しから気づくことは垂仁天皇の活動舞台が現在の埼玉県から岐阜県にまたがっていることでした。それがきっかけとなって仁徳天皇の子孫系列の洗いだし作業となってしまいました。この作業で、記紀の編纂過程が見えてくることを書きました(別の機会にそれを復習することにします)。

 さて、上述の経緯を振り返るならば、改めて壬申の乱前後の日本書紀の記載を再吟味する必要を感じます。壬申の乱の直接の契機は天智天皇の病です:
「天智天皇一〇年(六七一)九月。天皇寝疾不予。〈或本云。八月天皇疾病。〉」(文意は岩波文庫「日本書紀」(五)58頁を参照)
 この病に先行して不吉な兆しを示すと思われる記事が多く出現します。それらを一部列記すると:
まずは白村江海戦での敗北です。この海戦は倭国が朝鮮半島に自らの権益を確保したいとの思惑から、それに敵対する隣国「新羅」への軍事行動で始まります。しかし、新羅を軍事的に支援する唐の介入から不首尾に終わり、結局は戦闘の舞台は百済の西縁「白村江」に集中し、敗北を喫した倭国は九州に撤退することで終わります。しかし、その直後から唐新羅連合軍は九州大宰府に本部を置く(都督府)進駐軍を九州倭国に駐留させます。すなわち実質的な倭国支配です。
 こうした状況下でも、日本書紀は「天智天皇」の治世は継続していたかのごとく書きます。実はそれこそが「壬申の乱」の始動であったと思うと、諸事の連関が見えてきます。
 そこで、白村江の海戦の記述をざっと日本書紀に見ておくことにします。
%%%%%天智天皇二年(六六三)秋八月壬午朔甲午(十三日)。
新羅以百済王斬己良将。謀直入国先取州柔。於是。百済知賊所計。謂諸将曰。今聞。大日本国之救将廬原君臣、率健児万余。正当越海而至。願諸将軍等応預図之。我欲自往待饗白村。(文意は岩波文庫「日本書紀」(五)28頁を参照)
(中略)
天智天皇二年(六六三)九月辛亥朔丁巳【七】
百済州柔城、始降於唐。是時国人相謂之曰。州柔降矣。事無奈何。百済之名絶于今日。丘墓之所豈能復往。但可往於弖礼城、会日本軍将等、相謀事機所要。遂教本在枕服岐城之妻子等、令知去国之心。(文意は岩波文庫「日本書紀」(五)26頁を参照)
%%%%%(以下略)
(つづく)

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平野貞夫氏の岸田観、原子力規制委員会


 ここ数週間雑事におわれ、思考停止状態であります。と言うわけで、「古代史」論議はお休みにします。
(本ブログは月木に更新されます。コメントはryuuzaki_i@yahoo.co.jp へ)
(写真:濃いもやに覆われる田舎の散歩道から見る風景です。どこからかけたたましく叫ぶ鳥の声がきこえます。拡大は図のクリックで)
CIMG9979

 
(写真:上空に浮かぶ雲の東側縁が赤くそまって、フレスコ画を思わせます。)
CIMG9983


 穏やかな 秋の一日 心地よい されども我は 雑事に追われる

 雑事の始まりは、あのKKM夫妻の米国司法試験合格という慶事が公になった頃であります。勿論、それは当方の私事とは関係が有りません。どこの馬の骨ともわからない青年が皇室のお姫様を娶ってしまったことに、いまだに羨望と嫉妬感を抱く本ブログ管理人は、あの青年が米国司法試験に合格したことに納得できないのであります。
 
+++++原子力発電維持の布石?
 昨今の原油高騰という機を捉えての規制委員会の方向提示です。それをいうなら、まずは西側諸国の圧力に屈して後退させてしまった石炭火力の見直しであるはずです。
(図:東京新聞11月3日付け朝刊一面より、拡大は図のクリックで)
CIMG9987


+++++三爺による政局論議
 おなじみの歯切れのよい平野節であります。朝日新聞の敏腕記者として鳴らした早野透氏が回を重ねるごとに、生彩をなくしてゆくように見えます。鼎談のボケ役として二人の老人の話を引き出す役に徹しているのだろうと好意的に見ていましたが、どうやらそうでもなさそうです。
<どうなる岸田> 平野貞夫×佐高信×早野透【3ジジ生放談】


+++++私の好きなマジック・ネタです。
 Cyril Takayama - Vaso セロのマジック

タモリ、天智発病と唐の軍勢

(本ブログは月木に更新されます。コメントはryuuzaki_i@yahoo.co.jp へ)
(写真:晩秋の当地の朝焼けはなかなかの風景と思っています。拡大は図のクリックで)
農道の朝焼け9963

(写真)民家のアンテナにとまって、仲間に語りかける小鳥。拡大は図のクリックで)
小鳥9970


偽神を 審議したのか 出雲の会合 強欲偽(にせ)の 神を裁いたか

 10月の出雲の神々の集まりを終え、神々の皆さんは夫々任務地にもどっていることでしょう。旧統一教会の犯してきた酷い信者からの収奪と権力機構へのもぐりこみが暴かれて来た四ヶ月です。出雲ではこの実情が交々語り合われたに違いありません。其の成果がどのように吾等凡人の日々に現れてくるのか。楽しみであります。もっとも神々の世界の話ですから、当方に漏れ聞こえてくることはありませんが。 

+++++壬申の乱直前
 日本書紀を眺める際に気をつけねばならない心構えがあるとすれば、それは「大昔のことなので、記述によしんば整合性がなくとも、それは資料情報の不足に由来するのだろう」として吟味を進めないことに有ります。と言うわけで、以下の記述でも、些細なことにこだわった考察を続けます。
 日本書紀が語る天武天皇像は矛盾に満ちていることを書いています。すなわち互いに相矛盾する人物を一人の人物に重ね合わせています。其のことを示唆するのが天武天皇即位前期の冒頭の記事に登場する「大海子皇子」であると書きました。こうした記述には何がしかの伏線があるのだろうとの思惑から天智紀の末年を見直してみます。
 前回記事では、天皇位を継ぐことを固辞した東宮(ひつぎのみや)が、天皇の病快癒を祈願して吉野にこもった話をっ来ました。その後に重大事が起きます:
%%%%%天智天皇一〇年(六七一)十一月甲午朔癸卯【十日】
原文:
対馬国司遣使於筑紫大宰府言。月生二日。沙門道文。筑紫君薩野馬。韓嶋勝娑婆。布師首磐。四人従唐来曰。唐国使人郭務悰等六百人。送使沙宅孫登等一千四百人。総合二千人。乗船四十七隻、倶泊於比智嶋。相謂之曰。今吾輩人船数衆。忽然到彼、恐彼防人驚駭射戦。乃遣道文等、予稍披陳来朝之意。

文意(岩波文庫「日本書紀(五)」60頁より
対馬国司が遣使し筑紫大宰府に十一月二日に沙門道文、筑紫君薩野馬、韓嶋勝娑婆。布師首磐の四名が唐の使節とともに来ている。と語る。彼らが言うには「唐国使人である郭務悰等六百人、送使沙宅孫登等一千四百人。総合二千人が乗船四十七隻で倶に於比智嶋に泊まった。そこで、相会い語らうとこのよれば、“今吾輩人船数衆。彼らが忽然に到るならば、防人は恐れ驚どろき駭射戦をしかねない。すなわち道文等を遣し、予め稍披陳来朝之目t期を陳氏他方がよい」と。
%%%%%
 天皇が病に臥したのが二ヶ月前の九月です。それを承知の上で二千人もの人間が比智嶋に宿泊している。宿泊地「比智嶋」については、岩波文庫・校注者は「巨済島西南(朝鮮半島釜山近く)に比珍島とあるが未詳」と書きます。二千人もの人間が物見遊山で倭国に来る時代では有りませんから、それは軍事関係者であろうと思われます。663年の白村江の海戦以後、唐新羅連合軍が大宰府に進駐しています。其の進駐軍の増強を目論んでいたとしても、それは倭国側の知らぬところです。むしろ、唐・新羅連合軍の一翼を担っていたであろう奈良の軍勢にとっては大きな関心事であったはずです。これが壬申の乱の直接的な引き金となったのでしょうか?もう少し検討する必要がありそうです。

 (つづく)


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+++++知識人・森田一義氏
 タモリ、サンマ、タケシは現在の三大お笑い芸人と呼ばれています。しかし、サンマは「ひたすら煩い」、「タケシ」は「知性はを気取るが言語不明」です。しかし、タモリは紛れもない現代日本の知識人です。下の記事にも駆られていますが早大中退は才能豊かな人を輩出しています。記事には登場しませんが、東海林さだお氏も其のお一人です。東海林氏とタモリ氏の共通点は細やかな『人間観察』です。そこから「人間のおかしみ」を大仰にでは無く、とりわけ誇張することも無く淡々と表現するのです。それが読者・視聴者をして「おもわずにやり」とさせるのです。
 そんなタモリ氏でありますが、興味の対象に対してはきわめて貪欲です。其の一つが鉄道です。また「地球科学」です。「ブラタモリ」なるTV番組は私にとっては面白いばかりでなく、有益でもあります。
【天才!】徹子の部屋 タモリの7ヶ国語バスガイド

%%%%%『タモリ倶楽部』40周年、独特の脱力感と教養の深さを継ぐ「ポスト・タモリ」はいったい誰?
https://news.yahoo.co.jp/articles/4e03e6b55d1d205768eaefd318228cc5cab42f1f?page=1
0/28(金) 21:31配信
 40年以上にわたり、お茶の間に愛され続けてきたタモリ(77)。昭和58年にスタートした冠番組『タモリ倶楽部』(テレビ朝日系)は10月8日に40周年を迎え、18年ぶりとなる新著『お江戸・東京 坂タモリ 港区編』(ART NEXT)も10月12日に発売されるなどその活躍ぶりは健在だ。 【写真】30歳ごろのタモリ  一方で、終戦の年に生まれたタモリは今年8月に喜寿を迎えている。いつまでも続くと思われていた『森田一義アワー 笑っていいとも!』(フジテレビ系)が突然終了した2014年のように、タモリがテレビの舞台から姿を消す日も、考えたくはないがいつかはくるだろう。そのときにタモリに代わりテレビの顔となるのは誰なのか……江戸川大学マスコミ学科教授で、お笑い評論家でもある西条昇先生に話を聞いた。
%%%%%ポスト・タモリは誰か?
「タモリさんがデビューしたのは、やや遅咲きで30歳のころ。もともとは芸人を目指していたわけではなく、ジャズ演奏家の山下洋輔さんらにその面白さを半ば発見されるような形で福岡から上京することに。  その後、素人芸人としてアングラな“密室芸”を披露するなかで、漫画家の赤塚不二夫さんに気に入られたことが大きな転機となって、ついにテレビデビューを果たしました」(西条先生、以下同)  デビュー当時は“4か国語麻雀”というネタや、イグアナの形態模写、デタラメな言語“ハナモゲラ”を話すネタなど、マニアックな即興芸で人気を博したが、テレビ業界的にはややキワモノ芸人のような存在だったという。 「タモリさんの精緻な観察眼やアドリブ力から生まれる即興芸は本当に面白く、他の芸人とは一線を画すものでした。今の芸人でいえば、日常の光景をモノマネに落とし込む中川家・礼二さんには、芸人としてのタモリさんと似た雰囲気を感じます。  また、ピン芸人としてのシュールさやマニアックさという点では、バカリズムさんなども意外と近いものがあるかもしれませんね」
デビュー後間もない1976年にラジオ『オールナイトニッポン』(ニッポン放送)のパーソナリティーに抜擢され、'80年代にはトーク&コントバラエティー『今夜は最高!』(日本テレビ系)や『タモリ倶楽部』もスタート。こうした番組には、即興芸とはまた異なるインテリジェンスなタモリの魅力があふれていた。 「もちろん下ネタなども多くありましたが、ジャズの演奏を披露したり、哲学的なトークを展開したりと、タモリさんの多才さがお茶の間に認知されていきました。現在でも『ブラタモリ』(NHK総合)などで顕著に見られるように教養の深さや趣味人としての側面は、タモリさんの持ち味のひとつだと思います」  ニッチな世界に面白さを見いだし、それを知性で笑いに変えるセンスは『タモリ倶楽部』にも存分に表れている。 「タモリさんが何かを面白がっている姿を見たい、その独特な視点をもっと知りたいという需要があるのも、タモリさんならではという気がします。そういった視聴者の知的欲求をくすぐるという点でポストタモリ的な存在を考えれば、いとうせいこうさんやみうらじゅんさんなどは“タモリ的な魅力”を持っているようにも思います」  タモリを“昼の顔”として起用し、国民的キャラクターに押し上げた『〜笑っていいとも!』や『ミュージックステーション』(テレビ朝日系)で数多くのタレント・アーティストと対峙してきた“MCタモリ”の力量については、多くの人が知るところだ。
脱力感が生み出す不思議な空間
「グイグイと番組を回していく司会者とは異なり、タモリさんはいい意味で力の抜けた受け身の天才。どんなゲストに対しても気負わず、時に沈黙が訪れることもいとわない不思議な空気感があります。『〜いいとも!』では、各曜日のレギュラー陣が起こすドタバタを、時に傍観者的な立ち位置から楽しそうに眺めている姿も印象的でした」  こういった司会ぶりは、タモリとともにお笑いBIG3のひとりに挙げられ、細かなボケを盛り込みながら笑いの空気をグイグイとつくり上げていく明石家さんまとは対極にあるともいえるだろう。 「無理に自分から空気を変えようとせず、その場の流れをうまく生かして周りを引き立てるMCぶりは、タモリさんならではのもの。そういった脱力感が許される雰囲気づくりがうまいという意味で、今の芸人で考えると、おぎやはぎさんにはタモリさんに通じるものがありそうです」  脱力系MCという点では、ふかわりょうもポストタモリに近い存在といえるかもしれない。ラジオ番組などで自ら「タモリイズムの継承者」を標榜しているように、力の抜けた司会ぶりにはタモリを彷彿とさせる場面も多々ある。 「番組ごとにMCのやり方を柔軟に変えてみせるのもタモリさんのすごさ。近年では、報道番組『タモリステーション』(テレビ朝日系)で“ほとんど発言をしない”という姿を見せたことも話題になりました。  一方で、状況に応じて急にノリノリになる姿を見せたり、思わぬハプニングなどが起きたときに的確なアドリブ力を見せつけるなど、司会者タモリという存在は一様には語れません。本当の意味で“司会者タモリ”のすべてを引き継ぐような人は現れないのではないかとも思いますね」
 タモリの経歴を振り返ったとき、「早稲田大学中退」という非凡な才能の系譜があることを西条さんは指摘する。 「実は早稲田を中退した芸能人は多く、古くは“エノケン・ロッパの時代”を築き、榎本健一さんと戦後の日本のコメディー界を席巻した古川ロッパさんという人がいます。ほかにも、森繁久彌さん、大橋巨泉さん、永六輔さんなども早稲田中退組なのですが、こういった過去の大物たちが持っていた知性や笑いのセンスは現在のタモリさんに通じるところがあるとよく感じます」  その後も、小室哲哉、ラサール石井、サンプラザ中野くんなど、早稲田大学を中退した後に才能を開花させた存在は数多くいる。早稲田の学生の間では「中退一流、留年二流、卒業三流」という神話めいた言葉が今なお受け継がれているという。現在活躍している芸人では、くりぃむしちゅーの上田晋也も早稲田中退の経歴を持つが、その意味ではいつかポストタモリと呼ばれる日がくるかもしれない。  中川家、おぎやはぎ、いとうせいこう、上田晋也……ポストタモリを受け継ぐ可能性のある人物は何人も挙がるが、“タモリ”という特異な存在は余人をもって代えがたいこともまた同時にわかった。 「タモリという人物を要素ごとに切り分けて考えれば、それぞれの資質を引き継ぐような人はいると思います。ただし、どれもあくまでもタモリという人物の一側面にすぎず、全体像としての“タモリ”をまるっと受け継げる人は、おそらくいないのではないでしょうか。改めて唯一無二の奥深い存在だと感じます」  テレビの衰退が叫ばれる一方、そこで活躍を続けるタモリの魅力は一向に衰えない。お茶の間を楽しませ続けている“森田一義アワー”はまだまだ終わらないだろう。 西条昇(さいじょう・のぼる)●お笑い評論家、江戸川大学マスコミ学科教授、アイドル研究家。江戸川大学ではエンターテインメント論、アイドル論、お笑い論を担当し、ゼミでは業界志望学生の就活指導も行っている
%%%%%(取材・文/吉信 武)

大海・大海子(壬申の乱前)、玉川問題(古賀氏)、統一教会問題(菅野・郷原氏))

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(写真:カラスウリがあちこちに見えます。拡大は図のクリックで)
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(写真:窓外の秋の空、拡大は図のクリックで)
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 団栗が 散歩途上に 散乱し 足元でパリッと 心地よくはじけり

 つい最近まで、葉っぱの陰から姿を覗かせていた団栗が、早や木から零れ落ちる時期となりました。路上にちらばる団栗。ど田舎であれば、リスや狐の食料となるのでしょう。しかし、当地では、たまにそうした小動物を見かけますが大方は雨に流されるなどして消えてしまいます。

 統一教会の問題点が整理されている動画を見つけました: 
【菅野志桜里氏と「統一教会問題」を語る〜”検討会提言”のインパクトと岸田首相「答弁変更」をめぐる混乱】郷原信郎の「日本の権力を斬

https://www.youtube.com/watch?v=kAzMWipIuqI

 前々回の記事で「玉川問題」に関する論評のいくつかを紹介しました。かってテレビ朝日の報道番組の常連コメンタエターとして的確な政治評論をしてこられた古賀茂明氏が 安倍政治の無茶口ぶりを「Iam not Abe」と書かれた紙片を画面に提示しました。公然と安倍氏批判をしたために当時の内角官房長官・菅義偉氏の激怒をこうむり番組常連コメンテータの座を追われました。その元経産相官僚の古賀氏が今般の玉川氏謹慎の裏側を語っています。
https://www.youtube.com/embed/kAzMWipIuqI" title="『玉川徹氏降板!いったい何があったのか?』反玉川分子からダダ漏れのテレ朝内部情報、玉川氏謝罪文は会社の作文だった、コメンテーター降板・レポーターに格下げ、会社に忠誠を強いられる玉川氏に言論の自由はない"


+++++『大海』と「大海子」(壬申の乱直前の呼称の使い分け)
 繰り返しになりますが、日本書紀が伝える天武天皇には二つの顔があります。すなわち、西域渡来人に出自を持ち、壬申の乱で倭国の側を率いた首領です。もうひとつの顔は、倭国勢力と敵対し其の殲滅を指揮し、奈良の権力を「確立」した人物です。藤原不比等は意図的にこの人物を同一人として描くところから七世紀後半の日本列島古代史には「歯切れの悪さ」が残されていると私は考えています。
 日本書紀の編纂では、天武天皇の異なる実像を巧みに使い分けています。それを解きほぐす鍵が「中大兄」なる呼称と「大海」です。が、其のからくりがなかなか暴きだせずに苦戦し、「大海」なる呼称の追跡をしているのが現時点です。
 日本書紀編集者にとっては、そのからくりの記述を避けられない事件は壬申の乱であろうとおもえます。それは、二人の相矛盾する指導者が軍事対決をする場面です。それが、『大海』と「大海子」なる二つの呼称です。互いに似通った二つの呼称の違いを識別しない後世の研究者は、同一人物とみなします。一方、同時代に生きてこの「乱」に関わったあるいは目撃した人物には、呼称の違いから別人物であることを知るのです。しかし、このいわば「ごまかし」が七世紀末から八世紀にかけての天皇を語る上で新たな矛盾を引き起こします。それが常陸国風土記新治郡の条でおもわぬ露呈につながるのです(後述)。

 前回記事では、この乱の直前に二回登場する(東宮)大皇弟を考察しました。一つは天皇と側近のいわばハイキングである従猟エピソ−ドです。其の情景を叙事しているのが万葉集二十番、二十一番であると大方の研究者は考えます。これは、万葉集の歌が「史実」を詠っていることの証であるといいます。二つの独立した古文書が同一の出来事を記載していることに研究者は安堵します。日本書紀の個々の記載については、時に其の史実性を疑う研究者も少なくないからです。たとえば、故岡田英弘氏(東京外国語大学名誉教授)などは其のお一人です。ところが、従猟については万葉集が書いているので、日本書紀の記載の史実性が裏付けられたと考えるわけです。
 私は日本書紀天智紀の「従猟の下り」は、万葉集歌の書紀編集者による意図的「取り込み」であると考えています。これによって、日本書紀・記載出来事の信憑性を確保できると踏んだ藤原不比等の狙いであったろうと考えます。言葉を変えれば、そこには天智天皇なる人物の『実存』を訴えたいとの思惑があったろうと考えています。したがってここに、「大海(子)」ではなく「大皇弟」を登場させる必要はそれほど重要で有ませんが、次にやってくる「壬申の乱」への舞台設定であったと考えています。それは「兄弟」が仲良かったと言うことを「読者」(周囲の側近または後の有識者)に誇示するためであったのでしょう。
 さて、次のエピソードです。それは中臣鎌足への「藤原」姓を賜る際の使者として大皇弟が遣わされたという出来事です。ここでも「大海(子)」なる呼称はつかわれません。が、、こうした説話を書き記す意図は、似兄弟が信頼しあっている関係であることを示すことにあったと思われます。
 こうした事件をへて西暦671年9月に天智天皇は病の床に就き、わずか三ヶ月の闘病後に死去します。死の直前に天皇は自らの死後を東宮に託すと枕頭に侍る東宮に語ります。しかし、東宮はそれを固辞し、天皇の病回復を祈願するとの理由で吉野で修行仏道に入ると語ります。このあたりはよく知られた説話で、東宮の心の奥を覗き込むような解説がなされ小説や映画の題材になります。
 さらに注目すべきは、反倭国側と目される天智天皇の側近に「蘇我」姓を名乗る人物が配されていることです。もしや日本書紀が語る天智天皇こそが実は倭国側の首領ではないのかといった思いがよぎります。これも近日中に考察します。
 其の視点で、日本書紀巻二十八冒頭の記述を再度眺めることにします。
%%%%%《天武天皇即位前紀》
原文:
天渟中〈渟中。此云農難。〉原瀛真人天皇221010記事http://blog.livedoor.jp/oibore_oobora/参照)。天命開別天皇同母弟也。幼曰大海人皇子。生而有岐嶷之姿。及壮雄抜神武。能天文・遁甲。納天命開別天皇女菟野皇女、為正妃。天命開別天皇元年、立為東宮。

文意(岩波文庫「日本書紀{五}66頁より」は省略。
%%%%%
 天命開別天皇なる呼称は和風諡号と考えています。すなわち、死後に其の人物の偉大な行政を称えて諡られたのでしょう。この人物の正体は不明であることを本ブログでは繰り返し書いてきました。
と、いうことは天命開別天皇と母を同じくする弟である幼名が大海人皇子なる人物も其の正体を疑ってかかるべきなのでしょう。そうなると正妃となる天命開別天皇の女(むすめ)である菟野皇女の正体もわからなくなります。この菟野皇女が後の「持統天皇」であるとするならば、この人物が生きた時代は藤原不比等との共同作業ですから、明らかにそれは「反倭国」の側に立ち位置を持っていたことになります。この人物については、天武天皇の正体を突き詰めた上で近日のうちに考察することにします。

 いずれにせよ、冒頭の一説こそは、壬申の乱の幕開けでもあります。改めて天武天皇の和風諡号を眺めてみます。すでに書いたように「瀛」は「大海」と同じ意味です。とすれば、「大海」を使えばよいものをわざわざ、勿体をつけて別の漢字表記にする。これも天武天皇の二重人格を反映しているのだろうと私は考えます。
 
(つづく)

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大海と大海子、ウクライナ紛争の今、旧統一教会考察(鈴木エイト氏)

(本ブログは月木に更新されます。コメントはryuuzaki_i@yahoo.co.jp へ)
(写真:新月に近い二十七夜月が受皿(うけざら)のような格好をして南東の空に浮いていました(電線のすぐ上)。拡大は図のクリックで。拡大しないと月が見えません)
二十七夜月9931

 寒村は よそにさきがけ 秋去りぬ ススキおしのけ アワダチはびこる  
 (写真: 寒村住宅域上空に、朝焼け雲が帯状に並んでいます。拡大は図のクリックで)
住宅域を覆う朝焼け雲9938

+++++ウクライナ紛争
 2月24日、ロシアはウクライナ東部に軍事侵攻しました。東部ウクライナに居住するロシア人をウクライナによる抑圧から救うとの理由に加え、ゼレンスキイ・ウクライナ国大統領によって公言されたウ国のNATO加盟の阻止です。この問題は旧ソ連邦の崩壊時からずっと燻っていた国際的政治課題でした。其の政治課題に謀略の陰が及んだのが2004年のオレンジ革命です。ウクライナ国大統領選でロシアを支持する人物が当選すると、民衆がそれに反発して大規模な市民運動が起きます。この市民運動にはジョージ・ソロス氏という西側陣営の大富豪がかかわっていたことは知られています。しかし、この運動を歓迎するはずの米国政府はそれを国際的力関係の変更に利用することには消極的でありました。かくして、NATO域の東側諸国への更なる進出は欧州東部での平和維持にはそぐわないという視点がNATOとロシアに間で合意されてきました。
 しかしこの政治情勢はウ国の大統領選挙にも常に影響を及ぼしていました。がそれは大事には至らずして2014年となります。この間、米国内の軍事・産業複合体と呼ばれる、米国国支配層の大きな部分を占める勢力が着々とウ国内にロシアへの軍事干渉を可能とする組織を作り上げてきました。それを中心的に担ってきたのが当時米国副大統領で、現在は大統領職にあるバイデン氏のと氏の弟であるハンタ・バイデン氏です。2014年の大統領選で再度ロシアとの関係を重視する人物が当選すると公然と新大統領に反発しあわよくば転覆をもくろむ活動が活発化します。関係国はウ国の平和的鎮静をえるべく協議を再開し2005年「ミンスク」合意にこぎつけました。そこでは、ウ国はNATOに加盟しないこと、ウ国東部の自治州への暴力的抑圧をウ国は止めるなどが合意されました。
 2018年に大統領に選出されたゼレンスキ大統領は当選直後からしばらくの間は、このミンスク合意の遵守を約束し、そのための政策実行にも手をつけていたようです。ところが2019年になり公然と「ミンスク」合意の無視を公言します。この間に何がおきたのでしょうか?NATOの右翼部分、米国軍産複合体からの働きかけがあったのだろうとおもっています。が、なんといって直接的にはロシアとの衝突は回避したいトランプ前大統領が大統領選挙で敗北したことにあったのだろうとおもっています。
 こうしてウクライナ国への軍事的・政治的支配の拡大に強い関心を抱いていたナイデン氏が、ウ国への支配力を公然と推進することになりました。其の中にはウ国に長く巣食っていたアゾフ大隊のようなナチ勢力の強化もあったのでしょう。2021年には彼らの暴力的行為が拡大し、ロシアへの挑発がくりかえされます。かくして、其の挑発に載せられたのか、それを利用したのかは定かでありませんが、ロシアはウクライナ侵攻を実行に移します。
 こうして本年2月24日を迎えます。ロシアの関心はNAOと東部ウ国住民の保護であり其の軍事活動は限定的でありした。う国東部住民の支持を得て、きわめて短時間に平和へ向けての兆しが醸成され、3月末にはゼレンスキをふくむウ国とロシアとの停戦・和平境涯はほぼ合意に達していたのです。ところがそこに「ブチャ」の虐殺があり、この事件を通じ平和への道筋が破壊され、戦争継続はNATO美国に強まります。かくして、米国は大々的におおっぴらに最新兵器をウ国に持ち込み戦争の継続を助長するにいたっています。それが現在の情勢と思えます。こうした混沌から和平停戦にどのようにたどり着けるか。この問題に詳しい孫崎享氏が語ります。
時事放談(2022年10月) 鳩山友紀夫×孫崎享


関連記事:
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DSウクライナ軍ほぼ崩壊でDS米軍が代わって参戦か? 2022年10月24日 06時53分37秒
これによると、アメリカ陸軍の101空挺部隊が、ウクライナ国境から僅か数キロの場所で軍事演習を展開している模様。↓
DSウクライナ軍が殆ど壊滅し焦るDS裏社会。そこで、奴等は基軸通貨米ドルを死守する為に、DS傀儡米軍を投入しロシアと戦争し第3次世界大戦(世界最終戦争)へと発展させたいようです。
もし、米陸軍空挺部隊がロシアに向けて1発でも弾を発射すれば、それは、ロシアに対する宣戦布告と見なされ、DS米と露との間で戦争に突入する。当然、DS傀儡NATOも介入。米国の属国日本もこの戦争に巻き込まれる可能性は十分にある。
まいいでしょう。
プーチンロシアが日本に対して軍事作戦を展開。DS岸田カルト統一教会裏社会一味を全匹殲滅した貰えれば日本は救われます。何しろ、戦争資金を拠出しているのはお人好しの国日本ですし、9割の世間知らずの愚鈍日本人の頭上にミサイル、銃弾、軍用機が飛び交わないと目を覚ましませんからね。😁
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+++++「大海」皇子と「大海子」皇子
  前回記事の最後に紹介した日本書紀天武天皇即位前期の冒頭は、まさに日本国の帰趨を定めた「壬申の乱」の幕開けです。天武天皇即位前期に先行する天智天皇十年(西暦671年)九月紀は以下を書きます:
「天皇寝疾不予。〈或本云。八月天皇疾病。〉(天皇がみやまいたまう、岩波文庫「日本書紀(五)」58頁)」と。
 二年前の西暦669年5月に天皇は大皇弟などを引き連れて山科野(蒲生野)に従猟し、同年9月10日に政治的盟友であった藤原鎌足が患い天皇が見舞っいます。其のわずか6日後の10月16日に鎌足は死去しますが死去の直前に十月に「中臣」から「藤原」の姓を賜ったと書紀は書きます。其の使節に立ったのは東宮大皇弟(ひつぎのみこ)と書きます。
 上記の二つの説話に登場するのが(東宮)大天皇弟です。この人物の名前について書紀はそれを明記しませんが岩波文庫「日本書紀(五)」の校注者は「大海子皇子」であると書いています。因みに日本書紀で「大海子皇子」なる人物は天武天皇即位前期のみです。岩波文庫「校注者」の思い込みであろうと考えています。
 ついでですから触れておきますが「山科野」の従猟を歌ったのが有名な万葉集二十・二十一番歌であると言われています。
万葉集一巻二十・二十一番の歌は:
01巻/0020番
題詞:"天皇遊猟蒲生野時額田王作歌",
原文:"茜草指 武良前野逝 標野行 野守者不見哉 君之袖布流",
訓:"あかねさす紫野行き標野行き野守は見ずや君が袖振る",
仮名:"あかねさす むらさきのゆき しめのゆき のもりはみずや きみがそでふる",
"(紀曰 天皇七年丁卯夏五月五日縦猟於蒲生野 于時<大>皇弟諸王内臣及群臣 皆悉従焉)","なし",
01巻/0021番
題詞"(天皇遊猟蒲生野時額田王作歌)皇太子答御歌 [明日香宮御宇天皇謚曰天武天皇]",
原文:"紫草能 尓保敝類妹乎 尓苦久有者 人嬬故尓 吾戀目八方",
訓:"紫のにほへる妹を憎くあらば人妻故に我れ恋ひめやも",
仮名:"むらさきの にほへるいもを にくくあらば ひとづまゆゑに われこひめやも",
左注:"紀曰 天皇七年丁卯夏五月五日縦猟於蒲生野 于時<大>皇弟諸王内臣及群臣 皆悉従焉",

 この二つの歌は二人の皇子と糠田大王との恋の持つれを詠っているとされるためによく知られている歌です。この歌に付される歌意は以下のそれが代表的です。
『あかねさす紫野行き標野行き野守は見ずや君が袖振る』 わかりやすい現代語訳と品詞分解
この歌の前書きには、「大海人皇子が蒲生野で狩りをしたときに、額田王が詠んだ歌」と記されています。額田王(ぬかたのおおきみ)は飛鳥時代の歌人です。大海人皇子(のちの天武天皇)と結婚をして子どもをもうけていましたが、この歌を詠んだときには、大海人皇子とは別れて、天智天皇(大化の改新で有名な中大兄皇子。大海人皇子のお兄さん)と恋人関係にありました。

宴会の席で額田王は、大海人皇子との昔の関係をネタにして1句詠んだのです。

今は天智天皇と付き合っているけれど、大海人皇子は、実はまだ私に気があって、彼は袖を振って好きだと伝えてくるわ。そんなあちこちで袖を振っていたら、見張りの人がこれをみて、秘めた恋がばれてしまうじゃないの。
もちろん、大海人皇子に対するいじわるではなくて、ただのネタです。その場にいた大海人皇子は、この句を聞いて、歌を返します。それが

紫草のにほへる妹を憎くあらば人妻ゆゑに我恋ひめやも

という句です。
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 歌人の大岡信氏は 上に引用した「歌意」が研究者の間では受け入れられていることを認めながらも、それはどうにも不自然であるとの感をぬぐえないと語ります。すなわち宮廷人たちが耳をそばだてる中でこうしてあけすけに愛を語るものであろうか?と、疑問を投げかけます。

 それはともかく、、私が気にするのが、上に掲載した歌意にあっても主人公は「大海子皇子」であると、ブログ作成者は書きます。

さて私が付した歌意はこれまでのそれとはまったく異なっています。
0908月2日記事2009年9月28日記事の二つの記事で考察しました、其の過去記事抜粋を再掲しておきます。

%%%%%歌意:薬草である茜を求めて、あのお方は紫野(筑紫野)で逝ってしまった。近くの標野(志免)にある薬草園へも私はでかけ、野守にあの方の振る袖が見えませんでしたかと尋ねました。
(コメント)十六歌から十九歌では、かけがえの無い「あのお方」が亡くなってしまった事が、未だ実感されず、山襞の隈(かげり)を見ては、そこにひっそりと隠れておられるのではないかとの「哀しい願望」が詠われてきました。詠んだ場所が、筑後から肥前西部にまで及んで居る事に一つの謎があります。来るべき唐新羅連合軍との闘いの備えた軍備活動の最中にも、ともすれば、「あのお方」を思い出すということでしょうか?
 一転して、二十歌?二十二歌は、宮廷があったと思われる大宰府近辺と、肥前中央部が歌の舞台です。そこで、あの「大事なお方」を思い出しているのです。ああ、あの時はああだったな、このときはこうだったなと、「あのお方」の仕草などの「姿」が詠われて居ます。
 この歌が、天皇の妃である額田王に想いを寄せる大海皇子が、大胆にも、宮廷の行事の真っ最中に「額田王に草原で手を振って、自分の愛の変わらぬことを伝えた」などといった、冷静に考えれば、ありえない事態については、その異常な解釈をポロッと告白する心ある文学者、国文学研究者もおられるようです。標野(志免)は、注連縄(しめなわ)で境(さかい)された貴人専用の薬草園が、筑紫野(むらさきの)にあったので、人はそこを、志免(しめ)と呼んだのでしょう。すでに、8月2日にも書きましたが、「茜」、「標野」(注連縄)は薬草および薬草園であり、「あのお方」が、かっては病に苦しんでおられた事を暗意しているのです。
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(つづく)

考古学ランキング

+++++統一教会問題
 この問題に数十年磐田って粘り強くかかわってきたジャーナリストの鈴木エイト氏がかたっています。
The News ● 統一教会問題 自民党の根深い汚染と岸田政権の本気度【鈴木エイト・望月衣塑子・尾形聡彦】

玉川問題、菅原道真の方略試(現代の昇進試験か)での試験問題、グレタさん

 本日はTV朝日の朝の報道番組でコメンテイタとして権力に阿ねない舌鋒鋭い言を発しつづけ視聴者の政治意識を覚醒させてきた玉川氏に関する記事を紹介したいので、「古代史」連載記事を休載いたします。ご容赦ください。
(本ブログは月木に更新されます。コメントはryuuzaki_i@yahoo.co.jp へ)
(写真:寒い朝、散歩の途上のいつもの丘から眺める田畑。遠方の煙は「民の竈」か(実は米の籾殻焼く煙)。なにやら仁徳天皇になった気分であります。拡大は図のクリックで)
民のかまど9922

 ブルブルと ふるえ上がれり 今朝の冷え 今年の秋は 長持ちせぬか

(写真:民家の柿の木。拡大は図のクリックで)
柿9924


 今朝は、格段に冷え込みました。布団から這い出す勇気が無く、しばらくは温もりの中にとどまりました。意を決してキッパリというわけではなく、ずるずると布団から這い出ると、体中がふるえあがリました。
 「震える」と言えば、偶々、就寝時に手にしていた本が「天神 菅原道真」(三田誠広著、学研M文庫、2001)でありました。道真公のきらめく才能がほとばしる生い立ちを小説風に書いています。親交のあった在原業平が天皇位に復する道を絶たれ失意の中で東国に旅立ったのが西暦867年貞観九年とあります。2年後の貞観九年に発生した東日本大地震を、在原業平は体感したのだろうかと、想像しました。あの2011年3月1日の東日本大地震は、其の貞観地震の再来であると言われています。三田氏の本によれば、道真はこの大地震の翌年、すなわち貞観十二年(西暦870年)に26歳で文官の最上級試験である「方略試」の試験を受けます。道真は其の試験に「中の上」と言う成績で合格し政治の重要事項を議する諸会議に参列できる「参議」に栄進します。
 この試験の際の問題は二題:「氏族を明らかにせよ」、地震(ないふる)を弁ぜよ」であったと、三田氏は書いています。出題者は、京都にあっても、この貞観地震を認識しており、それが試験の設問になったのかと想像しました。

 貞観地震の同定は、『日本三代実録』(日本紀略、類聚国史一七一)といった古い文書の記述もさりながら、地質地震学の専門家が地面、海底の掘削などから、地震の痕跡を確認すると言う作業が決定的でありました。
 前回紹介した南海地震についても同様な科学的調査も当然なされていますが、一方で地域で発見された古文書の「解釈」にも大きく依存してきました。10月18日付け東京新聞が以下を書いています:
(図:10月18日付け東京新聞25面記事より。拡大は図のクリックで)
南海39928

 前回記事でも触れたように、古文書に記載されている「地学現象」については、「科学的調査」による検証が必要であるとの極めて当り前のことがなされないまま、「政治的思惑」が先行してしまったと上掲載の記事が書いています。

+++++玉川問題
 下に紹介する記事でも触れているように、TVでうっかり失言をするコメテータは少なくありません。こうした人たちは其の失言直後には大いに批判されたり非難されたりしていますが、すぐにもとのコメンテータの椅子に戻っています。ところが、玉川氏については、そうは行きません。常連の橋下氏をはじめ多くのこれまで玉川氏から鋭く発言の矛盾を指摘されてきたコメンテータが執拗に玉川氏の降板をもとめていました。さらには自民党国会議員までもが其の非難の声に加わっています。理由は簡単です。現在の政治について、政治家に忖度しない発言を玉川氏が続けてきたからです。批判された側は、これまでも「悔しい思い」を抱えながらも反論できず沈黙を余儀なくされました。しかし、今回は違います。玉川氏の事実誤認があったとはいえ、現在のメディアの最大の闇である電通を表に出してきたからです。これはメディアではタブーとされる対象です。
玉川氏のコメントは緻密な調査と氏自身の深い勉強の跡が窺えるものでした。それがゆえに、玉川氏の言は視聴者に受け入れられてきたのだとおもいます。今回の「電通」コメントはまさにめったに起きないミスと思えます。続投しても、何の問題もないと私には思えます。しかし、メディア幹部と政治家には厄介な存在であったのでしょう。
 %%%%%テレ朝に「玉川徹を降板させるな」の抗議電話殺到で、局上層部もすぐの“玉川おろし”断念! フェードアウト作戦に変更か 2022.10.18 テレ朝に「玉川さんを降板させるな」の電話殺到で“玉川おろし”断念か リテラ

 『羽鳥慎一モーニングショー』番組HPより
 ついに明日19日、玉川徹氏が謹慎を終えて『羽鳥慎一モーニングショー』(テレビ朝日)に番組復帰する予定だが、注目を集めているのは、その“進退”だ。
 周知のとおり、玉川氏は安倍晋三・元首相の国葬における菅義偉・前首相の弔辞について、9月28日放送の『モーニングショー』で「当然これ、電通が入ってますからね」などとコメント。翌日の放送で「電通はまったく関わっていないということがわかりました」と事実誤認を認めて謝罪したが、その後も批判は収まらず、10月4日にテレ朝の篠塚浩社長が玉川氏の出勤停止10日間の謹慎処分を公表した。
 そして、この謹慎処分を受けてメディアでは「玉川氏が降板する」という情報が飛び交うことに。たとえば、5日配信の「FRIDAY」の記事では“番組改編期に合わせて降板することが既定路線になっている”と報道。また、13日付の「NEWSポストセブン」の記事では、19日は玉川氏の復帰ではなく謝罪のための出演に過ぎず、来年に定年を迎える玉川氏が「ここを引き際とした」と伝えている。
 果たして、玉川氏は明日の放送で『モーニングショー』を降板してしまうのか──。本サイトはテレ朝関係者などに取材をおこなったが、この間、局内では相当な綱引きがおこなわれていたようだ。
「玉川氏本人は降板する気はない。ところが、篠塚社長をはじめとする上層部は玉川氏を降板させたがっており、自分から辞めるよう、すごい圧をかけている。週刊誌メディアで降板情報が出たのも、玉川氏を番組から降ろしたい上層部によるリークでしょうね」(テレ朝関係者)
 だが、テレ朝側としては、玉川氏を一方的に降ろせない事情もあるらしい。というのも、テレ朝にはこの間、「玉川を降ろせ」ではなく、「玉川さんを降板させるな」という抗議電話が殺到しているらしいのだ。
「発言直後は、批判の声のほうが大きかったが、いまは『降板させるな』という電話が8〜9割を占めているようです。こんな状況で強引に降板させたら、それこそテレ朝側が炎上しかねない。しかも、もし玉川氏がケツをまくって、テレ朝を退社したら、これまでの圧力を暴露されるというリスクもある。それで、すぐの降板はなくなったようです。とりあえず今回は、出演回数を週2回か3回程度に減らす、といった対処で終わる可能性が高い」(前出・テレ朝関係者)
■安倍応援団の見城徹が委員長を務める「番組審議会」で玉川おろしの声
 しかし、すぐの降板はなくなったからといって、状況はまだ予断を許さない。というのも、玉川降板を仕掛けていると言われるテレ朝の篠塚社長は、報道局長時代から“テレ朝のドン”である早河洋会長の腰巾着的存在であり、安倍官邸の意を受け、報道現場に露骨な圧力をかけてきたことで知られている人物だからだ。
 さらに、テレ朝の放送番組審議会の委員長を務め、同組織を牛耳っているのは安倍元首相の応援団だった幻冬舎の見城徹社長だ。テレ朝のさまざまな報道・情報番組で安倍政権に批判的な出演者が降板させられ、政権批判報道が減った背景にも、その影響があると言われていたが、今回もかなり玉川氏に対して強行姿勢をとっているという。
「文春オンライン」が10月6日におこなわれたテレ朝の「放送番組審議会」の発言録を入手し、15日付で記事にしていたのだが、そこには「勘違いでは済まない」「何を根拠にあれだけの問題を公器で言ったのだろうか」「コメンテーターという形では、もう画面には出ないほうがいいと思う」などという委員の発言があったという。
 こうした政権応援団が自民党の意向を受けて、玉川おろしを継続していく可能性は高い。
 実際、自民党からはあからさまな圧力も加わっている。
 たとえば、自民党の西田昌司・参院議員は、9月30日に自身のYouTubeチャンネルで「(玉川氏が)まず謝罪をしなくちゃならないのは、菅義偉(前)総理と昭恵夫人はじめご遺族の方々」「本当に失礼なことを言ったということで、それこそお詫びをしなきゃならないと思うんですけれども、(菅氏と遺族に)まったく触れてない」と玉川氏を批判。椿事件を持ち出して「私はテレ朝の社長も会長も含め、まさにこれがテレ朝なんだなと思いますね」と語った。
 さらに、西田議員は夕刊フジの記事で、このように玉川氏を糾弾したのだ。
「玉川氏は私人の評論家や学者ではなく、公共の電波を使用するテレビ朝日の社員だ。ミスではなく、虚報で偏向報道だ。根拠なく菅氏の弔辞を徹底的に腐す発言は『報道の自由』を逸脱している。玉川氏個人の謝罪ですむ話ではなく、テレビ朝日のあり方が問われる」
「すでに、自民党としてテレビ朝日に説明を求めるよう、党幹部に提言した。テレビ朝日には誠実な態度を求めたい」
「国民は、政治的に公平だという前提でテレビを視聴する。虚偽の情報を事実として伝えることは危険な『政治的偏向』だ。テレビ朝日は、玉川氏個人の事実誤認としているが、本当にそうか。組織として詳細な経緯を説明する責任がある」
「極めて重大な問題で、国政の場でも強く提起したい」
 言っておくが、玉川氏が裏付けのないままコメントしたのは「電通が入っていた」という部分であって、菅前首相の弔辞が演出されたものだというのは、本サイトでも記事にしたように明らかな事実だ。
 本サイトだけではない。政治ジャーナリストの田崎史郎氏は四国新聞9日付のコラムにおいて、菅前首相と岸田文雄首相による弔辞のスピーチライターは同一人物だと暴露した上で、弔辞の評価が分かれたことを〈私はどれだけ「念」を入れたかの違いだと思う〉などと岸田氏の弔辞にダメ出ししている。
 いや、それ以前に、国会議員が「『報道の自由』を逸脱している」「政治的偏向だ」と糾弾し、「国政の場でも強く提起したい」などと発言するのは、それこそ報道への政治的介入、報道圧力にほかならない。
 だいたい玉川氏の発言が糾弾されるなら、自民党の政治家連中はどうなるのか。統一教会と自身の関係について虚偽の説明をおこなった政調会長である萩生田光一氏や、「国葬反対のSNS発信の8割が隣の大陸から」という発言疑惑の高市早苗氏、そして「桜を見る会」前夜祭問題で118回もの虚偽答弁をおこなった安倍元首相こそ、徹底追及されるべきではないのか。
■『NEWS23』岸井成格を降板に追い込んだ「視聴者の会」も玉川攻撃
 しかし、理不尽な報道圧力をかけているのは政治家だけではない。安倍応援団が立ち上げた「放送法遵守を求める新・視聴者の会」も、放送法違反の疑いとして、玉川氏とテレ朝の責任追及を求める申し入れ書を総務省や放送倫理・番組向上機構(BPO)に近く提出すると夕刊フジが12日に報じたからだ。
「視聴者の会」といえば、これまでも政権批判報道に圧力をかけ、たとえば安保法制を番組内で批判した『NEWS23』(TBS)のアンカーだった岸井成格氏を放送法違反だとする新聞意見広告を打ち、結果、岸井氏を降板へと追いやった民間団体。本サイトは「視聴者の会」の結成当初からその動向を追いつづけ、同会の中心人物たちが“安倍晋三応援団”だらけであることや、賛同人の多数を日本最大の右派団体「日本会議」の関係者が占めていることなどを報じてきたが、今回も圧力に動くというのだ。
 つまり、西田議員にしろ、「視聴者の会」にしろ、玉川氏を降板に追い込むことによって政権批判を封じ込めようという意図がミエミエなのだ。
 しかし、いまのテレビ朝日の上層部の体質を考えると、こうした圧力に屈して、最終的に玉川おろしに動く可能性は高い。
「出演回数を減らして、そのまま玉川氏の影響力を減らし、次かその次の改編で玉川氏を降板させるというのが、上層部の腹ではないかと言われていますね」(前出・テレ朝関係者)
 繰り返すが、「電通」発言については裏取りをしないままコメントした玉川氏に非がある。しかし、玉川氏の発言は差別を助長するヘイトスピーチといった人権を侵害するものでもなく、出演回数を減らされたり、降板させられるような「大誤報」であるはずもない。実際、政権や自民党と電通の密着ぶりは事実ではないか。
 しかも、玉川氏はその非を認め、訂正・謝罪し、謹慎処分まで受けているのだ。もし、この程度の誤報で番組降板に追い込まれ、テレビ局が糾弾されれば、コメンテーターが政権や政治家、大企業に批判的な発言に踏み込まないよう、番組制作側がコントロールするようになるだろう。つまり、テレビから政権批判が消えるということだ。
 そうさせないためにも、玉川氏を降板させるようなことが起こってはならない。前述したように、「玉川氏を降板させるな」という抗議の声にテレ朝上層部も困っているという。玉川氏を守るためだけではなく、「政権批判できる自由」を守るために、抗議の声をあげなければならないだろう。
%%%%%(編集部)
関連記事:
%%%%%玉川氏降板はTVメディアの自死 2022年10月20日 植草一秀の『知られざる真実』

植草氏による関連ブログ記事
「御用読売産経が国葬美化に懸命」
「菅弔辞を絶賛する摩訶不思議」
「岸田内閣終焉にどう備えるか」

「テレビ朝日の玉川徹氏が「電通の演出」と表現したのは勇み足だったが、スピーチライターが演出効果を考慮して原稿の原案を創作したことは想像に難くない。」
と記述した。
テレビ朝日の玉川徹氏は国葬翌日に放送された9月28日の『羽鳥慎一モーニングショー』で
「僕は演出側の人間ですから、テレビのディレクターをやってきましたから、それはそういう風につくりますよ。当然ながら。政治的意図がにおわないように制作者としては考えますよ。当然これ電通入ってますからね。」
と発言した。
しかし、その後に電通の関与がなかったことが判明したとして発言を撤回し、謝罪していた。
ところが、この発言が問題視された。
玉川徹氏は10日間の謹慎処分を受け、10月19日放送で改めて謝罪するとともに、コメンテーターを降板し、現場取材を伝える役割を新たに担うことを発表した。
玉川氏は電通が関与していなかったのに、電通が関与していたと勘違いし、誤った発言を示した。
このことを確認して番組で発言を撤回し、謝罪した。
この程度の間違いはよく生じるもの。
フジテレビ情報番組の「めざまし8」MCを務める谷原章介氏は10月6日の放送で、臨時国会の代表質問について、
「野党第一党ですからね。そこの代表がどういう答弁をするか。
臨時国会開かれて、電気料金のことに関して岸田総理、言及はされました。ですが本来、泉代表、労働者を背景に持っている党なわけですから、そういった方々に対して給料の底上げであったりとか、生活に関わること、一切質問されていなかった。」
と発言した。
ところが、この発言は事実に反していた。
翌日10月7日の放送で谷原氏は、
「昨日の放送で、臨時国会の代表質問について取り上げた際『立憲民主党・泉健太代表が、生活に関わることを一切質問していなかった』とお伝えしましたが、泉代表はコロナ対策、エネルギー問題、物価高対策など生活に関わる事柄についても質問されていました。
おわびして訂正いたします。失礼いたしました」
と謝罪した。
昨年9月には次の事案も発生している。
TBS情報番組『ひるおび!』の9月10日放送でレギュラーMCの八代英輝弁護士が
「志位委員長がつい最近、『敵の出方』という言い方をやめようとは言ってましたが、共産党は『暴力的な革命』というのを、党の要綱として廃止してませんから。
よくそういうところと組もうという話になるな、と個人的には思います」
と発言し、共産党と連携する可能性がある野党について言及した。
昨年は10月21日に衆院総選挙が実施されている。
総選挙での最大の焦点は野党共闘だった。
この点を私は再三にわたって指摘してきた。
その最重要問題について八代氏が発言した。
この発言について八代氏は、10月13日放送の同番組で、
「先週の私の発言ですが、私の認識は閣議決定された政府見解に基づいたものでした。
一方、日本共産党はたびたび否定されていることも申し上げるべきでした。申し訳ありませんでした。
テレビで発言する者として、今後はより正確にバランスに配慮し、言葉に責任を持っていきたいと思います」
と発言した。
事実として、共産党の綱領に「暴力的な革命」は表記されていない。
日本共産党はTBS番組担当者に対して同氏の発言は「謝罪・訂正になっていない」と指摘し、「公正・公平、真実を報道する番組として引き続き氏を起用するつもりなら、事実に基づかない発言をしたことへの氏の謝罪と訂正をさせるべきだ」と申し入れた。
このことを受けて八代氏は9月17日放送で
「先日9月10日の番組内での私の発言、『共産党は暴力的な革命を党の要綱として廃止してない』につきまして、現在の共産党の党綱領には、そのような記載はないと多くのご批判をいただきました。
ご指摘のとおり、現在の共産党の党綱領には、そのような記載は存しません」
と説明。
「選挙を間近に控えたデリケートなこの時期に、私の発言により多くの関係者の皆様方に多大なご迷惑をお掛けしましたことを深くお詫び申し上げます」
と謝罪した。
番組MCの谷原氏、八代氏の誤発言と比較して、玉川氏の誤発言だけがとりわけ重大であるとは到底考えられない。
フジサンケイグループの「夕刊フジ」はいきりたって玉川徹氏攻撃を展開してきたが、報道機関として中立・公正の立場を重視するなら、フジテレビ番組MCの谷原氏発言に対しても厳しい追及を示すべきだ。
この国のメディアコントロール、情報統制が悲惨な状況に移行していることが改めて確認されたと言える。
%%%%%
 郷原信郎弁護士もこの問題を論じています:
関連動画:
【国葬・法的根拠と玉川発言問題について楊井人文弁護士と徹底討論!!】郷原信郎の「日本の権力を斬る!」#182
 

+++++地球温暖化警鐘を鳴らすグレタ嬢
 世界の政治の背筋をシャキッとさせたことで知られるグレタさんが、私には同意しかねる発言をしているとのことです。 
%%%%%グレタさん原発「擁護」? 揺れる世界情勢…環境活動は 2022年10月17日 22時56分
テレ朝news
 環境活動家、グレタ・トゥーンベリさん:「すでに(原発が)稼働しているのであれば、それを停止して石炭に変えるのは間違いだと思う」
 こう発言をしたのは、環境活動家、グレタ・トゥーンベリさん。
 12日、ドイツの公共放送のインタビューで、気候保護のために原発は良い選択なのか?と問われ、原発を援護する意見を述べたのです。
広告
 グレタさんといえば…。
 環境活動家、グレタ・トゥーンベリさん:「『たわ言はもういらない』『人・自然・地球を搾取するな』と声を上げましょう」
 世界の首脳陣を相手に、気候変動への対策を力強く求めてきた人物。
 2019年には国連の気候サミットに出席するため、環境に配慮したヨットで大西洋を横断。大きな注目を集めました。
 そんな彼女が、原発の稼働延長を巡り論争が起きているドイツで「原発援護」発言をしたことで、グレタさんの運動に批判的だった原発推進派が一転し、歓迎したことで話題となっているのです。
 リントナー財務相:「グレタ・トゥーンベリが原発を送電網に接続し続けるという党の立場を支持したことを歓迎します」
 ブッシュマン法相:「グレタ・トゥーンベリですら、ドイツの原発の稼働継続に賛成している」
 一人の活動家の発言が大きな反響を呼ぶこととなりました。
 一方、14日、イギリス・ロンドンではこんな出来事が…。
 環境活動家の女性2人がゴッホの代表作「ひまわり」にトマトスープをかけ逮捕、起訴されました。
 この2人が支持する環境団体はイギリス政府に対し、新たな石油プロジェクトの中止を訴えるために行動したと発表しています。
 美術館を訪れた客:「美術館のスタッフが走り回っていたので変だと思ったら、カバーを掛けられた絵が運ばれていった。そして警察が反石油のシャツを着てる2人を連行していった。私はアートが大好きなので、こういうデモはあまり応援できない」
 時に大きな注目を集める「活動家」の存在。その声を世界に届けるにはどうすべきなのか。
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 私は、かねてより石炭火力こそ、原発を減らすことに役だtるべきと野閑雅を本ぶる号でも主張してきました。

天武紀の「大海子皇子」、南海地震発生確率、大谷(動画)

(本ブログは月木に更新されます。コメントはryuuzaki_i@yahoo.co.jp へ)
(写真:近所の公園の草むらで孫がつかまえた大カマキリ。家に持ち帰りレゴで作った車にのせて遊ばせています。もっとも、カマキリ君は何とか其の束縛からのがれんと動き回っています。拡大は写真のクリックで)
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 秋半ば 秋茜飛び交い バッタが跳ねる 叢の中 大蟷螂が潜めり

 昨日は秋らしい気持ちのよい日でありました。虫取り網を持った孫に付き合い公園の草むらを徘徊しました。クタクタであります。

+++++南海地震
(図: 東京新聞10月17日付一面記事より。拡大は図の二回クリックで)
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 10月17日付東京新聞が南海地震の発生確率を小さくするような古文書資料が発見されたと報じています。南海地震の発生は今後30年の間におきる可能性が80%近い確率であると政府の地震調査委員会がすでに公表しています。ところが、80%と言う発生確率の算定で、歴史文書の書く史実がそのまま過大に評価されて使われている、と一地震学者が指摘したと言うものです。其の地震学者によれば、其の文書を正しく読むならば、80%の発生確度は50%にまで低下する。すなわち発生逼迫度はそれほど高くないと言うことになります。
 この議論が暗意する最大の問題点は「地震の予知が過去の大地震に関する文字で記された文書の記述」に立脚していると言うことです。それは、定量的に測量された地学変動を何がしかの力学モデルに基づいて算定されているわけではないということです。地震予知研究のなんともお寒い現状が明るみに出たと言うことです。しかし、これは地震学者たちの力量に拠るのではありません。「予知」研究の本質的困難であることを国民は理解してあげなければなりません。

+++++大海(おおあま)考察
 前回・前々回記事は「大海」考察の路線から脱線し「須弥山」の記事を考察しました。日本書紀を含む古代史原典と呼ばれる古文書記事では、「統治」という言葉に多様な漢字が当てられていますが、それには「シロス(シメ)メル」と言う訓が付されます。となると、須弥山(しゅみせん)には「統治機能」という意味がこめられているのではなかろうかと想像しています。
 一部の古代史愛好者は、其の表現がかって中近東で高度文明を誇った「スメール帝国」に由来すると言います。また、それはヘブライ語の統治を意味する言葉であるので、日本列島の古代にはユダヤ文明の陰が色濃く覆っていると主張する学者もいます。
 私は、こうした主張の真偽を吟味できるほどの知識を持ち合わせていません。しかし、本ブログ記事の主張の一つが「ペルシア文化・文明」の日本列島への渡来です。渡来に付随して多様な周辺の文化を伴っていたであろうことは想像できます。「神」を勘定するに当たって「柱」なる表現を用いるのは「ヘブライ語」文化であるといいます。そうしたことは有得ることと想像できます。記紀の編纂に携わった人間がそうした外来表現を自らの知識を誇示するために「(特殊の)訓」みを付したとおもっています。
 「須弥山」も仏教用語であるとの理解が一般的ですが、上記の経緯からすれば、多分に中東の宗教・文化の影響を受けていると私は考えています。そうであるならば、斉明女帝が佐賀県の嘉瀬川東岸に建造した須弥山は必ずしも仏教に帰依したのではなく、もっと多様な思想が混在していたとも思えます。其の様に思える一つの根拠が「サカ」(族)と「シャカ」です。「シャカ」の存在そのものが中東出自のスキタイ(さか)族の宗教に強く影響され、逆の影響もあったのでしょう。其のいわば混交思想が遠くアジア東端の日本で捉えられていたと思えます。其の混交状態を意図的に分離したのが「神社」造営です。そして一見矛盾するようですが神仏混交であったろうと思っています。
 いずれにせよ、斉明五年紀の須弥山造営は、まさに斉明天皇統治下の思想の発現であったろうとおもっています。私の万葉集一巻・二十二番歌の解釈は正しかったと考えています。

 さて、七世紀半ば、相対立する二つの政治勢力であった、倭国(蝦夷)と奈良権力のどちらの側にも顔を出す天武天皇の実像を追い求める話を続けます。

%%%%%《斉明天皇五年(六五九)七月戊寅【三】》◆秋七月朔丙子朔戊寅。
原文:
遣小錦下坂合部連石布。大仙下津守連吉祥。使於唐国。仍以陸道奥蝦夷男女二人示唐天子。〈伊吉連博徳書曰。同天皇之世。小錦下坂合部石布連。大山下津守吉祥連等二船。奉使呉唐之路。以己未年七月三日発自難波三津之浦。八月十一日。発自筑紫六津之浦。九月十三日。行到百済南畔之嶋。々名毋分明。以十四日寅時。二船相従放出大海。
《斉明天皇七年(六六一)五月丁巳【二十三】》◆丁巳。
耽羅始遣王子阿波伎等貢献。〈伊吉連博徳書云。辛酉年正月二十五日。還到越州。四月一日。従越州上路、東帰。七日。行到檉岸山明。以八日鶏鳴之時。順西南風。放船大海。

文意:
斉明天皇五年(六五九)秋七月朔丙子戊寅【三日】岩波文庫「日本書紀(四)」350頁より)
小錦下坂合部連石布、大仙下津守連吉祥を唐国に遣す。陸道奥蝦夷男女二人を同伴し唐天子に引き合わせる。〈伊吉連博徳書は以下を書く「天皇之世に小錦下坂合部石布連、大山下津守吉祥連等の二船を奉り呉唐之路につかう。未年(この年、659年)七月三日難波・三津之浦から出立。八月十一日には筑紫六津之浦から出立。九月十三日に百済南畔之嶋に到る。島の名明らず。十四日寅時に二船は相従いて大海に放れ出づ。
斉明天皇七年(六六一)五月丁巳【二十三日】(岩波文庫「日本書紀(四)」368頁より)

耽羅(済州島と岩波文庫校注者は書く)が始めて王子阿波伎等を遣して貢献する〈伊吉連博徳書が言うには「辛酉年(661年)正月二十五日に越州に還到り、四月一日には従越州を上路し東に帰る。七日には檉岸山明に行到り、八日鶏鳴之時に順西南風にのり大海に放船する。
%%%%%
 白村江海戦の四年前です。友好関係にあった百済の危機が迫り、倭国では、それなりの支援準備を始めていたのではなかろうかと想像しています。当然、唐が新羅との戦闘に介入することを危惧し、あれこれの情報収集をしたのが斉明五年紀の記事とおもっています。
 いずれにしてもこの二文節で登場する「大海」には、執筆者がなにやらの暗意をこめたとはおもえません。天武天皇とのかかわりは見られないので単なる情景描写と見做してよいと思えます。

%%%%%《天武天皇即位前紀》
原文:
天渟中〈渟中。此云農難。〉原瀛真人天皇。天命開別天皇同母弟也。幼曰大海人皇子。生而有岐嶷之姿。及壮雄抜神武。能天文・遁甲。納天命開別天皇女菟野皇女、為正妃。天命開別天皇元年、立為東宮。

文意(岩波文庫「日本書紀{五}66頁より」:
天渟中〈渟中。此云農難。〉原瀛真人天皇(この名称については221010記事参照)は天命開別天皇と母を同じくする弟也。幼き時は、大海人皇子という。生れながらにして、岐嶷(きぎょく 幼いころより才知が優れている)之姿があった。及び、壮雄にして抜きがたいほどの神武に秀でていた。天文・遁甲をよくした。天命開別天皇の女(むすめ)である菟野皇女を納(め)しい正妃と為する。天命開別天皇元年に立ちて東宮と為す。
%%%%%
「天命開別天皇元年、立為東宮」と書紀は書きますが、天智天皇元年紀にそうした記事はありません。わずかに天智三年に「天皇、大皇弟に命(みことのりして)・・・」の記載があるのみです。しかも、この時点では天智天皇は未だ即位していないため、実は天皇ではなかったのです。其の人物が「大皇弟」と書くのです。すなわち、この時点で、実は天皇位にあった人物が存在しており、「大皇弟」も存在し、それが誰であるかは明記されていない、とこの記事は読むべきなのでしょう。

 考察に当たっての手がかりは「能天文・遁甲」です。この人物が西域ペルシア渡来の技術(遁甲)と見識(天文、シリウス星の天空徘徊追跡技術など)を有していることを書いています。すなわち、どうやら「天智天皇」(其の正体は不明)死去後、困難にある倭国の首領となった人物を「書いている」と思えます。ところが、この印物は「大海」皇子ではなく大海「人」皇子であると書紀は書きます。さてこれは書紀執筆者の書き損じなのでしょうか?私は、ここに当時の書紀読者すなわち周辺の「官僚」をたぶらかしてきた「詐術」を見る思いがしています。すなわち、奈良権力を握ったのが舒明天皇の第二子ではないということをあっさりと、しかし、ずるがしこく正史たる書紀に書きとどめたのではなかろうかとの疑いです。勿論それを指示したのは藤原不比等です。
(つづく)

考古学ランキング

+++++米国野球界を虜にした大谷翔平氏
大谷翔平が残してきた数々の奇行に世界が驚愕!暗黙のルールをガン無視した結果…【メジャーリーグ・プロ野球】

所用出来の為本日のブログ更新を休ませて頂きます

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森元首相の贈賄疑惑、須弥山の像は奈良盆地に作られ須弥山は嘉瀬川東岸に造られた

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(写真:散歩の途上に見つけた渡り鳥の集団。電線にスズナリ状態であったのですが、私が接近すると多くが電線を離れました。わずかに幹部クラスが電線にとどまり私の挙動を監視しています。直下の地面にはおびただしい白き糞であります。拡大は図のクリックで)
渡り鳥0328


  蛇と蛙 姿を見せず わたる鳥のみ 徒党を組んで 地上に白き糞 

%%%%%田中角栄以来46年ぶり首相級の逮捕か。森喜朗元首相の消えた“恫喝力”   2022.10.10
田中角栄氏以来46年ぶりとなる首相経験者の逮捕劇は、果たしてあり得るのでしょうか。今回のメルマガ『上杉隆の「ニッポンの問題点」』では、ジャーナリストで『悪いのは誰だ!新国立競技場』の著者でもある上杉さんが、過去2回に引き続き五輪汚職問題を徹底追及。森元首相包囲網を狭める検察の動きと、2016年に目撃した2人のキーパーソンの「密談」現場の様子を紹介しています。

【五輪汚職】検察の反撃(3)「ステーキ店に関心を示すフランス当局」狙いは……
国葬が終われば、東京地検特捜部は最後の仕上げに動くだろう。
なにしろ特捜部の悲願は1976年以来の首相級の逮捕だ。当然、狙いはスポーツ(体育)利権のドンである森喜朗元首相だ。
国葬の日、大広ルートで新たに逮捕者が出た。高橋治之容疑者も三度目の逮捕となり、これで20日間(延長含む)の拘留は確定的になった。
大阪に本社がある大広は博報堂の100%小会社である。ちなみに、博報堂DYの「D」は大広、「Y」は読広のそれぞれ頭文字で、巨人・電通に対抗するスポーツ部門の強化のために作られた広告代理店の連合体である。
ただ、今回の大広ルートが政治家に到達することはないだろう。オフィシャルサポーターのECCから「語学通訳事業」の一部を奪い取り、大広に振り分けたのは高橋容疑者だ。高橋スキームの捜査の一環である。
では、あの政治家に至るルートはなにかといえば、繰り返し『ニューズオプエド』でも指摘しているように駐車場事業、つまりパーク24ルートの「築地市場跡地」や「秩父宮ラグビー競技場」の利権である。
とりわけ秩父宮ラグビー競技場については、2019年に開催されたラグビーワールドカップ以来、森元首相利権の中核でもある。政治資金収支報告書や還流する資金の流れは、当時(7年前)の拙著『悪いのは誰だ!新国立競技場』(扶桑社新書)に詳述しているので、そこは触れない。
検察の動きが激しい。安倍元首相の蓋が外れたのはもちろん大きいが、なにより森元首相の体調が思わしくなく、永田町への忖度の必要がなくなっていることが、検察を元気にさせているのだろう。
2016年の春、ともに東京都都知事選に出馬した山口敏夫元労働大臣と私は、完成したばかりの虎ノ門ヒルズ前で一緒に演説したことがある。2005年くらいから五輪問題の取材をしていた私と、かつて高橋治之容疑者の弟ともに逮捕された経験のある山口氏とは、ある意味、オリンピック利権の構造を知り尽くしている「同志」でもあった。よって、候補者同士にもかかわらず、自主的に合同演説会を開催することになったのだ。
「森喜朗君。そんなところにいないで、出てきなさーい。森君、君はいつも逃げ回っている。安倍晋太郎さんが危篤の時もそうだった。小渕総理の時もそうだった。今回もまた、君はこそこそして、月額6,000万円の高額家賃のそんなビルの8階に逃げ隠れているのではないのか?」(山口氏)
そのころ、選挙活動の後に、山口氏と私は、高橋治之容疑者と竹田元会長のステーキハウスである「そらしお」に出かけたものだ。そこでは、カウンターに座って、密談をする高橋氏と竹田前会長の姿を何回か見かけた。
今回の五輪汚職の萌芽は、すでにそのころから腐臭を放っていたのである。もちろん検察もチャンスをうかがっていた。というのも、その「そらしお」を舞台に繰り広げられる不正に、フランスの検察当局が関心を示しており、日本の捜査当局に対しても情報の確認が入っていたからである
%%%%%(つづく)

 私の少年時代とおなじような生い立ちをした後、日本を代表するサッカープレイヤになった話を見つけましたので、其の記事の在り処を記しておきます。似た生い立ちをかたるのが、長友氏であり駒野氏(南ア大会で、PKをしくじり号泣した)です。不思議におもっていることですが、野球少年からプロ野球人として大成したベースボーラにはこうした話は多く聞きません。
 母へのピースが生きがいだった 得点王を育んだ貧困家庭の絆 有料記事
聞き手はいずれも辻隆徳2022年10月5日 6時30分

+++++「大海考察」(10、須弥山)
 天武天皇の和風諡号は天渟中(農難=ぬな)原瀛(おき)真人天皇と日本書紀は書きます。「瀛』(エイ)は「ゆったりとした海」、「大海」を意味すると大漢和字典(藤堂明保監修は)は書きます(781頁)。ウイキは「瀛真人」(おきのまひと)は道教の神学では「瀛州」という海中の神山に住む仙人の高級者を意味する。と書きます。「渟中」は「沼(ぬま)」が転じたものです。そもそも東北日本に渡来した民は自らを「こうしょう」からやって来たと称していたと想像しています。「しょう」は日本海側では「しおう」と音写され[(古)四王]、と漢字表記されます。一方、太平洋側では「せおう」と音写され「背男」と漢字表記されます。
 この「しょう」が時に「松」、「沼」で漢字表記されます。しかし、藤原不比等はこうした漢字表記がかって日本列島に存在した渡来民族の存在を連想させるとして意図的に「沼(ぬま)」を「水がたまる』を意味する「渟」(てい、ジョウ)に置き換え、さらにはそれに「ぬな」なる訓を施したのです。
 というわけで、天武天皇の「和風諡号」には藤原不比等の複雑な思惑がすべてこめられていると私は考えています。興味深いことの一つは幼名とおもわれる「大海」を避けつつも同意味の「瀛」を使っていることです。こうした名前の操作はなにやら人工的で、この人物の実在性に疑念を抱かせるものとなっています。すなわち「やりすぎ」なのです。

 さてその「大海」皇子の母である斉明紀を眺めていて、気付いたのが下の一節です。斉明天皇紀は其の事跡にしばしば「蝦夷」が出現するので、これまでも繰り返し読んでいた筈ですが、読みすごしていました。つまりヒトというものは「問題意識」があってこそ、新発見につながると言うことを思い知らされました。
%%%%%─埓凸静傾銚淒(六五九)三月甲午【十七】
原文:
甘檮丘東之川上。造須弥山、而饗陸奥与越蝦夷。〈檮。此云柯之。川上。此云箇播羅。〉
文意(岩波文庫「日本書紀」(四)348頁より:
甘檮丘の東にある川上に須弥山を造り、陸奥と越の蝦夷を饗(もてな)す(檮は柯之(カシ)と訓み、。川上は箇播羅(かわら)と訓む)。
%%%%%
 何の変哲も無い一節とお思いでしょうが、さにあらずなのです。この歌から私が直ちに連想するのが万葉集巻一・二十二番歌です。
%%%%%巻1/0022番
題詞:
"明日香清御原宮天皇代 [天渟中原瀛真人天皇謚曰天武天皇] / 十市皇女参赴於伊勢神宮時見波多横山巌吹芡刀自作歌",
原文:
"河上乃 湯津盤村二 草武左受 常丹毛冀名 常處女煮手",
訓読み:
"川の上のゆつ岩群に草生さず常にもがもな常処女にて",
仮名:
"かはのへの ゆついはむらに くさむさず つねにもがもな とこをとめにて",
左注:
"吹芡刀自未詳也 但紀曰 天皇四年乙亥春二月乙亥朔丁亥十市皇女阿閇皇女参赴於伊勢神宮"
%%%%%
この歌の「鑑賞」(解説)の一例が 以下です:
明日香清御原宮(あすかのきよみのはらのみや)の天武天皇の時代
(673〜689年)
十市皇女(とおちのひめみこ=天武天皇の皇女、母は額田王)が伊勢神宮に参拝したときに、波多(三重県一志郡一志町)の横山の巨岩を見て、吹芡刀自(ふきのとじ)が作った歌
22 河上(かわのえ)のゆつ岩群(いわむら)に草生(む)さず常にもがもな常娘子(つねおとめ)にて
 ※「ゆつ」接頭語。聖なる、美しい、または、多くの。
 ※「もがもな」〈もがも〉は願望の終助詞、〈な〉は詠嘆の終助詞。

    川のほとりの岩たちは
    草も生えずに美しい
    いつもこうして永遠の
    乙女のようでいられたら

 上掲載の解釈は、どの研究者にあってもどの歌人にあってもほとんど違いがありません。大方の研究者は万葉集初期歌群(巻一雑歌、巻二相聞歌)の解釈を避けがちなのです。理由は其の歌意をを掴むことが難しいからです。実際、そうした難しさを吐露する研究者も少なくありません。
 理由は 題詞にあります。つまり歌の背景が冒頭に鎮座するため、それにそぐわない歌意は排除されてしまうのです。しかし、題詞を付した当時の有識者がすべてを把握しているわけではありません。もっと自由に、すなわち使われている漢字、其の巧みな使いまわしに気付くと、実はまったく違った情景を我々にもたらしてくれます。二十二歌では、鍵は「川上」、「湯」、「草武左受』(草が生えない)、そして「煮手」(湯に手を浸して温めている情景)です。

 そうなると、「川上」はどこかと言うことになります。それを明らかにしているのが斉明五年三月紀であるはずが、古代史研究者の「曇った目」はそこに気付かないのです。
「甘檮丘東之川上。造須弥山、而饗陸奥与越蝦夷。」
どこぞの山の東にある「川上」に須弥山を造ったと書紀は書いています。前回記事で斉明三年七月十五日紀の一節を書きました。
 そこでは
「作須弥山像於飛鳥寺西」
とあります。二つの記述は似ていますがまったく異なるのです。まずは「造」ではなく「作」であり、作ったのが須弥山ではなく須弥山像なのです。つまり奈良盆地にはいわば須弥山の模型(ミニチュア)が作られたのです。と、いうことは本物の日本列島・須弥山は他にあることになります。それは、川上の地で「湯」が出る場所、現在の佐賀県嘉瀬川中流域にあり、その川の東岸に有るのが現在の「巨石パーク」です。
(図:佐賀県の中央を南に流れる嘉瀬川の東岸にある巨石パーク。これが斉明五年紀に語られる須弥山。拡大は図のクリックで)
180806巨石パーク無題

 佐賀県人はなぜこんな貴重な史跡を大々的に全国に訴えないのでしょうか。不思議でなりません。  ここからおのずから甘檮丘の在り処が推定できます。「甘」は「天すなわち阿毎」の別の「音写」文字です。「檮」は「トウ」で「木の切り株」です。これは日本書紀執筆者が「カシ」と注をつけますが、それは多分に政治的思惑によるものです。すなわち、この「丘」が奈良盆地にあることを暗意させたいのでしょう。実際は山の頂上に陣屋を設営するために木を伐採したのでしょう。となるとそれは川上から西に10kmの天山しかありません。

  因みに万葉集一巻二十二番の歌意を私は以下のように鑑賞します:
河上の湯の出るあの岩のあたりは、草が生えずいつも赤み(丹)を帯びた湯気(毛、火山性の硫黄臭の蒸気)でけぶっています。そこにいつも、あの方(女性)が、いつものように己が手をまるで煮ているように湯に手を浸して温めて(煮手)います。
 多分この女性は病を癒すべく温泉に療養に来ているのです。そして、日がな手を温泉の温かい湯に浸し手を温めながら物思いに耽っているのです。私は、死を間近にひかえた斉明天皇のお寂しい日々を(誰かが)詠んでいると想像しています。蛇足ですが興味深い点は「煮手」です。手を湯で温めるしぐさを「手を煮る」と表現しているのです。

そうしたことを180430記事で書きました。以下にその過去記事の一部を本ブログの末尾に再掲しておきます。
(つづく)

考古学ランキング

=====
 以下は今回記事を補足するための過去記事です。
参考記事(過去記事の抜粋):
+++++豊考察(3)
 魏志倭人伝のあの一節に関する私の解釈は:
「正しい漢文表記では「與台」(台=連邦を与る)とあるべきところが、何がしかの錯誤を介して「台与」と魏志倭人伝には記載されてしまった。一部の研究者は、その錯誤を錯誤とは考えず、「台與」を宗女の名前と考え、「トヨ」なる訓を付して、さらには「豊」なる漢字表記をあてた」
というものです。
 古代の日本列島、とりわけ倭国に「トヨ」と音し「豊か」を意味する「言語」があったのだろうか?それを検証する手立てはありません。確からしいことは、下の肥前国風土記逸文に見られるように「豊」は「ユタカ」と訓む事例です。いうまでも無く「豊」は漢字表音では「kho」であり、「toyo」なる表音はありません。

 私の仮説は冒頭に書きました。佐賀県の中央を流れ、有明海に北から流れ込む嘉瀬川の中流域右岸にある與止日女神社に祀られる「與止日女」こそは魏志倭人伝に登場する卑弥呼宗女ではなかろうか、と書きました。「與止」は「與台」の転じたものではなかろうか。すなわち「台(邪馬国連邦)の経営を与る」娘(女)を祀った社であると考えることができます。

この神社は、卑弥呼の座した邪馬台国と目される吉野ヶ里からわずか西へ12kmに位置します。卑弥呼の宗女であるからこそ、斯くも近接してその座所があった、と私は考えたわけです。
(図1:卑弥呼の舞台であり、かつ万葉集一巻一〜二十二歌の舞台。中央を流れるのは嘉瀬川。有明海にそそぐ。オートキャンプ場あたりが「川上温泉峡」。拡大は図のクリックで。)
221010巨石パーク


 前回、参考記述として「與止日女神社」に関するウイキ記事を転載しました。ウイキ記事で引用されている肥前国風土記逸文をまずは下に掲載します:
(図2:肥前国風土記逸文より。拡大は図のクリックで。)

 訓が原文に先行しているので、改めて現代文を付する要はありません。私の推察がそのまま記載されています。つまり正調(正しい)漢文では「与台」であるべきが「台与」となった裏舞台が、この逸文であると想像できます。

 逸文には「與止姫」を含め、三つの漢字表記が書き込まれています。付されている仮名に注目すると、「豊姫』に付されている仮名はなんと「ユタ」なのであって、「トヨ」ではありません。これは明らかに「ヨド=ヨト」の転化したものです。これらは、現地の言い伝えから呼称されたものと想像します。とするならば、「台與」から「豊」を導き出すことには無理があろうと思います。

 ところで、上掲の「逸文」については「風土記佐嘉川の条」の記載が注で引用されています。つまり、「与止日女』は、肥前国風土記の逸文ではなく本文にも登場しています。そこで、それを見てみます。

(図3:肥前国風土記佐嘉川の条より。拡大は図のクリックで。)

 本文の中ほどに、「又、此川上有石神名曰世田姫・・・」とあります。ここに登場する「世田姫」も「ヨダ」姫と訓するのであろうことは、「風土記」(岩波書店刊)の校注者も書きます。

 さて話は脱線します。と、いうのは本ブログではこの場所について、あれこれと論議してきたからです。その過去の論議をここで振り返るならば、それは当該ブログ管理人の論議の筋道が倭国古代史の真実の流れから外れていないかったとの証ともなるからです。
 まずは「川上」です。万葉集二十二歌に読み込まれている「川上」であることは間違いありません。ここには温泉があることが図1の地図からわかります。
%%%%%万葉集二十二歌:
01/0022,"明日香清御原宮天皇代 [天渟中原瀛真人天皇謚曰天武天皇] / 十市皇女参赴於伊勢神宮時見波多横山巌吹芡刀自作歌",
原文:"河上乃 湯津盤村二 草武左受 常丹毛冀名 常處女煮手",
訓読:"川の上のゆつ岩群に草生さず常にもがもな常処女にて",
仮名:"かはのへの ゆついはむらに くさむさず つねにもがもな とこをとめにて",
%%%%%
 昔から古代文学研究者の間で受け継がれてきた、この歌の歌意が訓読と仮名で示されています。此れをもとにいろいろな解説が横行してきました。本ブログ読者諸兄はこれら訓読・仮名から歌が描き出す情景を思い描くことができますか?大方の人たちはできないと思います。万葉集の特に一巻に収められている歌群の多くについての専門家の説明はまったく意味不明であることを実感されるとおもいます。
 その理由の一つは、舞台を奈良盆地とその周辺に限定してしまう。自由な発想がそのことのみで封じ込められてしまうからです。もう一つの理由は古代日本語への想像力の欠如であろうと思います。私が付したこの歌への歌意はすこぶる真っ当と思っています:
%%%%%2009年9月30日記事再掲
二十二歌の原文:
「河上乃 湯津盤村二 草武左受 常丹毛冀名 常處女煮手」
私の付する歌意:
河上の湯の出るあの岩のあたりは、草が生えずいつも赤み(丹)を帯びた湯気(毛)でけぶっています。そこにいつものように、あの方(女性)が、おのが手をまるで煮ているように湯に手を浸して温めて(煮手)いてほしいものだ。
コメント:
「常處女」も、「いつも処女の様であって欲しいものだ」なぞという解釈には、品性の無さを感ずるのみです。いとおしい「あのお方」が、ここで、温泉に手を浸して温めていたのです。情景が見えるようではありませんか。繰り返し強調したいと思うのが「煮手」です。湯に手を浸している様子を、この漢字で表現するのです。この字を見た聴衆は詠み手に大いなる拍手を送ったのではないでせうか?
%%%%%
 この歌の歌意については此れまでも繰り返し書いてきました。とりわけ私が重視するのは歌が詠まれた場所「川上」です。此れは「川の上流」ではない。まさに「川上」と聞いただけで場所が特定できる「固有名詞」であることを、専門家は気付いていないのです。そこから、ここが温泉の湧き出る場所であることも歌はexplicitに詠っています。もう一つの注目点は、初期歌群の「詠み手」による文字遊びです。すなわち「煮手」です。暖かい水に手を浸している情景を詠っています。このことから「煮る」(にる)が当時の倭国に存在した言葉であることもわかってくるのです。貴婦人の病気療養の一コマです。

 もうひとつ、逸文は倭国古代史研究にとって重大な情報を提供しています。しかし、此れも大方の歴史研究者は見逃しています。それは
“此川上有石神名曰世田姫”
です。「與止日女=世田姫」は「石神」でもあったと逸文は書いていることです。図1に示しましたが、「與止日女」神社のすぐ北にあるのが肥前・巨石パークです。私はこれぞ日本書紀・斉名三年紀に語られる説話であろうと考えています(すでに2013年4月17日記事で文意を付していますので、ここでは原文のみを下に掲載しておきます)。世に有名な「狂心の渠」(たぶれこころのみぞ)説話です。日本書紀は、天智天皇の行った奈良盆地内での無慈悲な工事と、斉明時代の嘉瀬川での「須弥山石」建造の事業を意図的に混同させて記載します。:
%%%%%日本書紀
《斉明天皇二年(六五六)九月》◆九月。遣高麗大使膳臣葉積。副使坂合部連磐鍬。大判官犬上君白麻呂。中判官河内書首。〈闕名。〉小判官大蔵衣縫造麻呂。
《斉明天皇二年(六五六)是歳》◆是歳。於飛鳥岡本更定宮地。時高麗。百済。新羅。並遣使進調。』為張紺幕於此宮地、而饗焉。遂起宮室。天皇乃遷。号曰後飛鳥岡本宮。』於田身嶺冠以周垣。〈田身。山名。此云太務。〉復於嶺上両槻樹辺起観。号為両槻宮。亦曰天宮。』時好興事。廼使水工穿渠。自香山西至石上山。以舟二百隻載石上山石。順流控引於宮東山。累石為垣。時人謗曰。狂心渠。損費、功夫三万余矣。費損造垣功夫七万余矣。宮材爛矣。山椒埋矣。又謗曰。作石山丘、随作自破。〈若拠未成之時、作此謗乎。〉』又作吉野宮。』西海使佐伯連栲縄。〈闕位階級。〉小山下難波吉士国勝等。自百済還、献鸚鵡一隻。』災岡本宮。
《斉明天皇三年(六五七)七月己丑【三】》◆三年秋七月丁亥朔己丑。覩貨邏国男二人。女四人、漂泊于筑紫。言臣等初漂泊于海見嶋。乃以騨召。
《斉明天皇三年(六五七)七月辛丑【十五】》◆辛丑、作須弥山像於飛鳥寺西。且設盂蘭瓮会。暮饗覩貨邏人。〈或本云。堕羅人。〉
%%%%% 
2013年4月17日記事 で以下を書きました:
%%%%%2013年4月17日記事抜粋
(前半部省略)B1の解読です:
「廼使水工穿渠。自香山西至石上山。以舟二百隻載石上山石。順流控引於宮東山。」
 「香山の西から石上山まで渠を掘り、水を回す工事。船を二百隻使い、石を石上山に運んだ」と書きます。目的は、既に書きましたが、「須弥山」築造です〔現在の巨石パーク)。運河の経路は、天山の北麓であったろうと既に書きました。実際、天山の北東に「白石山」(標高794m)があります。石をここで掘り出したと思っています。現代ペルシア語辞書によれば「sira」は「場所」を意味するとのこと。まさに「白石」は「石のある場所」という意味になります。

 「順流控引於宮東山]は、嘉瀬川からの水を東の山に作った宮に引き入れたということだろうと思っています。巨石山の東の山とはどこか?万葉集九歌が言う「爪謁〔湯?〕気〔そとぎ〕」、現在の「都渡城」近辺であろうと思っています〔下図(佐賀県中央部)参照、D点〕。
 そして、万葉集二十二歌で詠われる人嬬(万葉専門学者は、これを「ひとづま」としますが、私は知的な麗婦人と解しています。)が療養しておられたのだと私は思っています。療養の一環として、川上の温泉に手を浸していたのです。この「川上」温泉峡も下図のD点近傍です。
%%%%%(以下省略)

 この肥前巨石パークに巨石群を配置して程なく、嘉瀬川の右岸に「與止日女」神社が創建されたのであろうことが逸文から推察できます。とするならば、ここから、日本書紀が書く斉名女帝あるいはそれに擬せられる倭国の首領の治世時代が特定されるのかもしれませんが現時点ではその手がかりは」ありません。

 さて、ついでですので、万葉集初期歌群で最も解読が難解であるとされるのが一巻九歌です。その歌の解読に資する説話が肥前国風土記に記載されています。脱線ついでに次回それを書きます。
(参考過去記事抜粋おわり)

村上選手56号、安倍氏・紙幣!!、須弥山、玉川問題

(本ブログは月木に更新されます。コメントはryuuzaki_i@yahoo.co.jp へ)
(写真:やっと出ました。56号ヤクルト村上選手。これまで、王貞治氏というよりは巨人のスポンサである読売新聞・渡辺恒雄氏の意向に忖度して、年間55本を越える本塁打記録を日本人選手が超えることはありませんでした。しかし、そうした透明感を欠く雰囲気を村上選手が打破してくれました。うれしい限りであります。東京新聞10月4日一面記事より、拡大は記事のクリックで)
村上0333

(写真:季節の移ろいに出遅れた鷺が水路の柵でポツンと立っています。なにやら寂しげであります。拡大は写真のクリックで)
鷺0331

  めっきり減 今朝の寒さの 散歩人 日和見奴(め!) と腹の内で嗤う

 突然の寒さでありましたが意を決して散歩に出ました。虫の音もいつもよりは小さめです。おもえば、今頃 出雲では列島から集合した神々が喧々諤々やってるのでしょうか。今年の議題は物価の高騰もさりながら、宗教に携わる神としては「統一教会問題」であるはずです。八百万の神々は、これまで千数百年にわたって民の幸福に最大の関心を寄せてきたはずです。少なくとも其の民からなけなしの金を巻き上げるなぞの無道はありないはずと眉を顰めていたはずです。ぜひとも討議の内容を知りたいものです。

+++++「大海」考察(ちょっと寄り道)
 「幼名」( あるいは「和名」と書くべきかもしれません)を「大海」(おおあま)と呼ばれる人物が、壬申の乱を率いたとされます。誰しもがそれを史実と認めています。そうであるならば、この人物は壬申の乱までは、倭国側にあって、乱以後は倭国を殲滅した側に立場を変えたということになります。このことが気になり、日本書紀に登場する「大海」を調べています。それは日本書紀では12回登場します。其のうちの7回についてこれまで調べてきました。
 舒明紀前までは、それは、ある場合には場所の名前として登場し、ある場合には吉備国にかかわる女性として登場してきました。そして舒明紀で始めて「大海皇子」が登場します。これから、調べるのが舒明天皇の后でもあった斉名天皇(皇極天皇と同一人物とされる)紀に移ります。

 さて、斉明紀を眺めていて一つ気付いたことがあります。今回は脱線をお許し願います。
%%%%%─埓凸静傾銚淒(六五九)三月甲午【十七】
原文:
甘檮丘東之川上。造須弥山、而饗陸奥与越蝦夷。〈檮。此云柯之。川上。此云箇播羅。〉
文意(岩波文庫「日本書紀」(四)348頁より:
甘檮丘の東にある川上に須弥山を造り、陸奥と越の蝦夷を饗(もてな)す(檮は柯之(カシ)と訓み、。川上は箇播羅(かわら)と訓む)。
%%%%%
 同様の記事が書紀にはあります:
%%%斉明天皇三年(六五七)七月辛丑【十五日】
原文:
作須弥山像於飛鳥寺西。且設盂蘭瓮会。暮饗覩貨邏人。〈或本云。堕羅人。〉

文意(岩波文庫「日本書紀」(四)336頁より:
須弥山像を飛鳥寺の西に作り盂蘭瓮会を設け。暮(ゆうべ)に覩貨邏(とから)人を饗す(或本は堕羅(たら)人と書く〉
%%%
 修学旅行で奈良見物をする際の定番コースはこの須弥山石です。
(写真:須弥山像。拡大は図のクリックで)
221006330px-Mt.Sumeru-Japanese_garden

 さてそうなると、冒頭の記事すなわち斉明五年の記事とはどのような関係があるのでしょうか。その関係を解き明かす鍵が万葉集二十二歌です。それを書く前に、備忘メモとして下の記事を書き添えておきます。
 須弥山といえば、推古紀も触れています:
%%%《推古天皇二十年(六一二)是歳
原文:
自百済国有化来者。其面・身皆斑白。若有白癩者乎。悪其異於人、欲棄海中嶋。然其人曰。若悪臣之斑皮者。白斑牛馬不可畜於国中。亦臣有小才。能構山岳之形。其留臣而用。則為国有利。何空之棄海嶋耶。於是。聴其辞以不棄。仍令構須弥山形及呉橋於南庭。時人号其人曰路子工。亦名芝耆摩呂。又百済人味摩之帰化。曰。学于呉、得伎楽舞。則安置桜井、而集少年、令習伎楽儛。

文意(岩波文庫「日本書紀」(四)124頁より:
自百済国より化来(おのずからやってくる)者が有った。其面・身はぜんぶ斑白であり、もしくは白癩者乎であるか。其異なる相を憎みて人々海中嶋に棄てたいと思った。そこで其人がいうには「若し臣(わたくし)の斑皮を憎むのであれば、白斑の牛馬を国中では畜ってはいけない。亦、臣(わたくし)は小(いささか)才ありて、山岳之形を構(つくる)ことが能(でき)る。其のことを留(きおくにとどめ)てもらえば臣を利用することで、則為国のために利する。どうして海嶋耶の空に棄ててしまうのか」と。其辞を聴いて棄てないことにした。仍令構須弥山形及呉橋を南庭に構るよう命じた。時人は其人を路子工と呼んだ。亦名は芝耆摩呂である。又、百済人の味摩が帰化した。呉で学んだので伎楽舞ができるという。そこで彼を桜井に置き少年をあつめ伎楽儛を習わせた。
%%%
 この記事に登場する外国人の出自は百済とあります。しかし、その「語感」はペルシア人を思わせます。ペルシア文明の日本列島への影響について緻密な研究を積み重ねてこられた伊藤義教京都大学名誉教授は自著の「ペルシア文化渡来考」(岩波書店)で日本書紀に登場する人名などを考察しています。今後の調査では、伊藤教授の考察紹介を含め私の思うところを書いてみたいと思います。
 と言うわけで、次回は斉明五年紀と万葉集二十二歌の関わりを書きます。
(つづく)

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+++++安倍氏への"個人崇拝?!“
 統一教会を政治の側から守り立ててきたのが安倍晋三氏です。国会審議での度重なる虚言、銃撃による死去後に明らかになった異常な統一教会との癒着にあきれ果てて自民党清和会所属の国会議員が安倍氏政治閥から離反するのだろうと見立てていました。が、実際はいまだに安倍氏追随は厳然と生き続けているようです。こんな記事を見つけました。呆れました。
%%%%%今度は「安倍晋三記念紙幣」発行を求める文書が出回る…保守系や自民議員が発起賛同 2022/10/05 日刊ゲンダイ

配布されている「安倍晋三記念紙幣発行推進国民会議」設立趣意書(提供写真)
221006紙幣144443652

「決め方に理がない。法がない。基準がない」「分断、混乱を繰り返すべきではない」
 5日に衆院本会議で始まった岸田文雄首相の所信表明演説に対する代表質問。立憲民主党の泉健太代表は、9月27日に行われた安倍晋三元首相の「国葬」をめぐり、岸田首相の姿勢をこう批判した。
 読売新聞社が1〜2日に実施した世論調査で、実施に対して良かったと「思わない」との回答が54%に達し、「思う」(41%)を上回った安倍氏の国葬。
 泉代表は国葬についてのルール作りの場を国会に設けるべきだと提唱していたが、永田町では今、「国葬以上の混乱を招く」との声が上がる「文書」が配布されている。「安倍晋三記念紙幣」の発行についてだ。
【「安倍晋三記念紙幣発行推進国民会議」設立趣意書】と題したA4サイズの紙には、<今こそ、不世出の大政治家であり、国守であられた安倍晋三元総理大臣の面影を永久に後世に伝えるべく、氏の在りし日の面影を挿入した新たな紙幣(参万円札)を発行し、法制度によって、国民の間に永久に通用させることが必要と思われます>などとある。
 発起人や賛同者は、いつもの保守系や自民党国会議員の面々で、どうやらエリザベス女王の肖像画が印刷されている英国ポンド紙幣を参考にしているらしい。
 文書を見た野党議員からは、「国葬でさえ世論を分断したのに。さらに紙幣発行って……」などと困惑顔だ。
 この調子だと、いずれ銅像を含めた記念館の建設といった話が浮上するのも時間の問題かも。
%%%%%
関連動画:
  先般の国葬、そして、菅氏の弔辞について、朝の報道番組のコメンテータである玉川徹氏が、事実に基づかない言を口にしてしまったとして、橋下氏などが鬼の首を取ったかのごとく「喜び勇んで」非難をしています。これについて弁護士の郷原氏が下の動画で語っています(28分ごろ)。
【ジャーナリスト鈴木哲夫氏と語る、「国葬」後の政治状況】郷原信郎の「日本の権力を斬る!」#181

蚊屋皇子(大海考察(8))、「ちむどんどん」考、山縣有朋(三爺放談)

(本ブログは月木に更新されます。コメントはryuuzaki_i@yahoo.co.jp へ)
(写真:ススキの向こうの用水路に絡みつくように横に流れる朝もや。拡大は図のクリックで)
用水もや0314


 朝晩の 虫の鳴き声 静まりて 一歩一歩と 冬はちかづく

 先週の土曜日に「ちむどんちゃん騒ぎ」がまずは終了しました。私も恥ずかしながらツイッタなるものでこの騒ぎに時折乱入しました。主人公の意向のみで強引に筋書きが理屈抜きで変更され、その兄があちらこちらで金に絡んだ犯罪詐欺まがいの騒動を引き起こします。其の際の演者の大仰な演技(オーバーアクション)になじめず、早々に視聴から身を一旦は退きました。が、その後、ネットに教えられ「チムドンドン反省会」なるツイッタ・グループを覗きました。これが面白い。その「ツブヤキ」を確認するためにTVに復帰しました。ドラマが終わってみるといろいろな評者があれこれ語っています。大方はメディア界隈にたむろすることで口に糊する人たちなのでしょう。NHKをはじめとする業界に忖度してか、原作者の意図を「深読みして」、あの主人公たちの立ち居振る舞いに「意味付け」をします。
 私は若いころ住井スエさんが原作の「橋のない川」なる映画を見たことを思い出しました。記憶が定かではないけれども部落解放運動に携わる青年がやたらと「しゃっちぼこばった」演技をしており、それが気になって映画の主題に随いていけませんでした。映画通の友人が語るには、それこそ脚本家・演出家の「哲学的意図」が反映されているのであるとして、滔々と彼の映画論に付き合わされたことがあります。根が思考の浅い私にはどうもこの手の「深読み」は苦手であります。
 このツイッタを覗いて知ったことは、このドラマは脚本家・演出家・制作統括者が協議してドラマの進行を計画し進めてゆくのだそうです。ドラマが始まって間もないころにこの三者の対談が公開されたのだそうです。このドラマの主題は沖縄と沖縄料理であるはずが、この三者は口をそろえて「料理には興味が無い」と公言していたとのこと。其の姿勢が時代考証の無知と徹底的な軽視につながっていました。こうした人間に朝の貴重な15分をNHKは提供していたのです。受信料を否応なくふんだくられている視聴者は怒りの持って行き場がないと言うわけです。上掲のツイッタに群がる人たちの気分がよ〜くと共感できた次第です。
関連記事:
『ちむどん』朝8時“最低視聴率”を更新…歴史的不評で高まる黒島結菜への同情論「悪いのは脚本家と制作陣」 10/3(月) 17:13配信

+++++大海考察(7)
  本日の「大海」(おおあま)考察冒頭の日本書紀記事は、そもそもこの考察を思い立った文節です。
Α墅位静傾墜麈(六三〇)正月丁卯朔戊寅戊寅【十二日】》
原文:
立宝皇女為皇后。后生二男。一女。一曰葛城皇子。〈 近江大津宮御宇天皇。 〉二曰間人皇女。三曰大海皇子。〈 浄御原宮御宇天皇。 〉夫人蘇我嶋大臣女法提郎媛、生古人皇子。〈 更名大兄皇子。 〉又娶吉備国蚊屋釆女、生蚊屋皇子。

文意(これまでにも、しばしばこの記事を考察しているので省略します)
%%%%%
 舒明天皇紀では其の即位前紀が異様に長く2523文字に達します。これは3244字からなる神功皇后摂政前紀に次ぐものとなっています。理由は、もっぱら跡目争いで、其の決定経過はすんなりとは行かなかった様子を書紀は書きます。推古天皇というよりは、景行天皇すなわち倭国王の跡目です。日本書紀の記述からは、倭国王は蘇我馬子であり、聖徳太子でもあることが想像できます。「聖徳太子の真実」を著した大山誠一氏は聖徳太子を蘇我馬子と考えているようです。私も同意見です。とすると奈良盆地にある巨大な馬子の墓は史実の言い伝えを反映しているのかもしれないなどとも思っています。いずれにしても、この「即位前紀」はいずれ、私の史観から再考察することを考えています。
さて、日本書紀は二人の歴史に残る男児の後ろに、腹違いの息子が吉備国蚊屋釆女との間で出生した、それが蚊屋皇子であると書いています。「蚊屋」で連想するのが、古事記が書く「雄略天皇」即位前後の記事です:
 過去記事を転載します:
%%%%%210621記事抜粋再掲
まずは安康記です。文意で簡単に触れましたが、忍歯王が弓で射殺(いころ)されるまでの経緯です。登場人物の名前を考察する前に舞台の情景を考えておきます。
「淡海之久多綿之蚊屋野。多在猪鹿。其立足者。如荻原。指擧角者。如枯樹。此時相率市邊之忍齒王。幸行淡海。到其野者。各異作假宮而宿。」
 この情景描写から「淡海」が海または大きな湖ではないことがわかります。薄(すすき)が原とでもいうべき場所です。古事記研究者が「所在不明」と断じて探索を諦めてしまうのが「久多綿」です。「蚊屋野」を「萱」と解読するのが一般的のようですが、私は「蚊帳」(かや)と解読します。すなわちあたりは綿毛のように蚊が飛び交うので、屋根のようなもので刺されるのを防がねばならない情景を思い浮かべます。「綿毛」とは「蒲の穂」です。この地は「蒲原」でもあります。因みに「久多」は「久田」で、それは三島郡の出雲崎の近くの地です。
(過去記事では淡海を手がかりにして、地図を参照しつつ、雄略記を考察している)
%%%%%過去記事再掲おわり
 記紀の編纂にあたり、同じネタを使いまわしする事例が多くあります。これも其の一つです。雄略天皇という架空の人物をこしらえあげるにあたり、どこぞで登場させた人物を、地名に置き換えたのが雄略記であったと現ブログ管理人は考えています。いずれにしても「吉備」国は西暦600年ごろ、后の「きみ」に何がしかの統治権限が委ねられていたのだろうと想像しています。其の后に付き添っていた女性を、三男坊が娶ったと言うわけです。それにしても三男坊の嫁は「蚊」に食われやすい体質であったのかなぞ、どうでもよいことを考えてしまいます。

 西暦641年に在位期間わずか12年で舒明天皇が死去します。上に書いたTV朝ドラ「チムドンドン」もどきのことが発生します。すなわち書紀は
「舒明天皇十三年(六四一)十月丙午【十八日】殯於宮北。是謂百済大殯。是時東宮開別皇子、年十六而誄之」と、書きます。すなわち西暦641年10月18日(ひのえうま)宮の北で殯をする。これはいわゆる「百済風の大殯」である。このときまだわずか16歳の東宮開別皇子が誄(弔辞)をのべる」と書きます。
 開別皇子が何者であるかを日本書紀はまったく語っていないのです。まさに「ちむどんどん」です。書紀を読み進めると、どうやらこの人物は舒明天皇の皇子であるらしい(!、断言はしていない)ことを、いわば「ナレ(−ション)で、とってつけたような説明」で判明するのです。すなわち、即位に当たってのゴタゴタを反映した(と、書紀読者に思わせてか)のか、実は皇太子をあらかじめ決めていなかったのです。しかし、書紀編纂者はそこで、そうした誤解の背後の陰謀の存在を否定するべく「東宮」なる「処遇」を持ち出します。
 今でこそ東宮御所といえば、皇太子殿下のお住まいであると誰しもが考え、そのままなんら違和感を覚えずに読み進めますが、「東宮」なる呼称が登場するのは、日本書紀・敏達五年紀です。そこでは長女の菟道貝鮹皇女(うじのかいたこひめ)が東宮聖徳と嫁(みあい)したと書きます。ここでも「東宮」なる地位についての説明はこの記載以前には一言も無く、(仕方が無いので)後世の学者が「皇太子」として解釈します。私は、「東宮」には特別な意味がありそうであると考えています。ここで、それを書き出すとまた話が散漫になるので、「大海」考察が一段落した後にそれを書くことにします。

 つぎは舒明天皇の後を襲った舒明皇后すなわち皇極天皇です。
%%%%%А垤超謀傾銚鞠(六四二)二月戊申【二十二】》
原文:
饗高麗。百済於難波郡。詔大臣曰。以津守連大海可使於高麗。以国謄吉士水鶏可使於百済。〈 水鶏。此云倶比那。 〉以草壁吉士真跡可使於新羅。以坂本吉士長兄可使於任那。

 文意(岩波文庫「日本書紀(四)」188頁より):
(朝鮮半島の揺らいでいる政治状況のなかで、高麗の使節が百済の使節とともに倭国を訪れた)
そこで、高麗、百済於を難波郡(これは大阪難波ではなく 九州玄界灘に面した那珂川河口域であろう)で饗(接待)する。大臣に詔して曰く「津守連大海を高麗へ、国謄吉士水鶏を百済へ(水鶏は倶比那(くいな)と言う)、草壁吉士真跡を新羅へ坂本吉士長兄を任那への使節とせよ」と。
%%%%%
 四人の幹部を朝鮮半島の主要国に派遣(紛争調停か)するが、そこに新羅が含まれていません。来るべき白村江の海戦の布石なのでしょう。最北に位置する高麗への使者が「大海」を呼称に含む人物です。これがどのような意味を有するのか、現時点では不明です。
(つづく)

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+++++国葬問題
 山縣有朋に安倍氏を重ねた菅氏の弔辞について、佐高氏が批判しています。この国葬については「電通がかかわっている」との玉川徹解説委員(TV朝日)の発言があったのだそうです。そして数日も絶たずしてそれは事実ではないことが判明し、玉川氏が公に謝罪した。これまで玉川氏から散々やり込められてきた安倍氏応援団員と思しき政治評論家たちが一斉に玉川氏の謝罪発言を非難しています。それもかなり執拗に非難しています。その旗振り役があの橋下徹氏です。
 私は、今般の国葬では背後で電通が仕切っていたとしても何の違和感も感じません。それほどに、一国の政治が金と虚偽にまみれているからです。玉川氏の意図は其の構図を指摘することにあったと考えています。
<安倍「国葬偽」・国権派山縣の大罪・自民に浸み込む統一教会>平野貞夫×佐高信×早野透【3ジジ生放談】


慶応大学、雄略天皇

(本ブログは月木に更新されます。コメントはryuuzaki_i@yahoo.co.jp へ)
(写真:なんと、田んぼの道で、ザリガニが途方にくれていました。季節はずれ、時代遅れもはなはだしいことを自覚せずに飛び出してしまったようです。拡大は図のクリックで)
CIMG0278


 ひこばえが 目立つ田んぼに ザリガニが 途方にくれて はさみふり上ぐ

(写真:彦生え(左)と黄金色の稲穂(右)。拡大は図のクリックで)
CIMG0290

 時代遅れのザリガニに遭遇して連想したのが、河島英五の歌です:
河島英五 時代おくれ


+++++「大海」考察(6)
 前回記事では雄略天皇の新羅侵攻にまつわる説話を考察してきました。今回は、この天皇について過去記事を振り返っておきます。210621記事210628記事 で書きましたが、この天皇には二つの大きな異質の事跡があります。ひとつは天皇になるまでの経緯です。活躍の舞台を「淡海=青海』の地(現在の新潟県界隈)に遺しています。ところが、どこをどう経巡ったのか、この天皇は「しき」の「県主」に不快感を抱き、「火をつけた」と言うのです。
%%%%%古事記
原文:
初大后。坐日下之時。自日下之直越道。幸行河内。爾登山上。望國内者。有上堅魚。作舍屋之家。天皇。令問其家云。其上堅魚作舍者。誰家。答白。志幾之大縣主家。 爾天皇詔者。奴乎。己家。似天皇之御舍而造。即遣人。令燒其家之時。其大縣主懼畏。稽首白。奴有者。隨奴不覺而。過作。甚畏。

文意(岩波文庫「古事記」185頁より)
当初大后が日下に坐していた頃、(天皇は)大日岳から真っ直ぐに下る道を越えて河内に幸行し山上にのぼり國内を展望した。そこで、堅魚を上げた舍屋を作る家を見つけた天皇はその家が誰のものかと問うた。答に曰く「志幾の大縣主の家である」と。天皇は「奴めが己が家を天皇之御舍に似せて造りおった」と怒った。直ちに部下をやり其家を焼いたので、其の大縣主は懼れ畏みて稽首(「ぬかつく」、岩波文庫では「のみ」、漢語では「ケイシュ」。土下座すること)して「私奴(わたくしめ)は知らない事とはいえ、とんでもないことをしました。お赦しあれ」と詫びた。
%%%%%
 さらに過去記事を一部抜粋して再掲します:
%%%%%210628記事
 すでに書いたようにこの「理屈」は乙巳の変での中大兄・中臣鎌足の理屈と同じです。すなわち
 上に書いた古事記に目を戻します。天皇の后が、まだ大日岳の麓に居られたとき、天皇は后を尋ね大日岳の下の道を直に越えて河内を訪ねた。そこで山に登り・・・(周囲をみわたした)の状況は図のBから見て取れます。山麓を西に下った山中に「河内神社」があるからです。
 ところが、ここで、話がいきなり重大政治事件の記述となります。すなわち「鰹木」(かつおぎ)を口実として「シキ」大縣主の家を焼き討ちし、家の主(あるじ)を「無礼」であると土下座させるのです。
 私はこの「シキ」の主(あるじ)こそ、現在の埼玉県志木に宮を置いた「ワカタケル王」であると考えています(1968年埼玉古墳出土の鉄剣に刻まれていた人物)。すなわち奈良の軍事政権が東国すなわち現在の埼玉県志木に陣屋を構えていた一族(蝦夷)を軍事攻略し殲滅した事件を、藤原不比等はさりげなくさらっと此処に書き留めたのであろうと考えています。となると、古事記の上の説話では、このワカタケル王が「新潟県の北部の長谷」出身の「ワカタケル」に土下座して謝罪したことになっています。この「奇妙さ」については、後述します。

 「鰹木事件」の説話から思い起こすのが日本書紀・巻二十四、皇極元年十二月紀です。「天皇であるかのような振る舞いをする蘇我一族(蝦夷の首領)」をあげつらい、それを理由にして蘇我入鹿暗殺を敢行した乙巳の変(西暦645年)です。鰹木事件と同じ論理で「敵対者」の殲滅を図るのです。実際、乙巳の変で「蘇我」政治は大きな打撃をうけ後退を余儀なくされました。

 上述した古事記の説話についての私の解釈には納得しない方も少なくないはずです。なぜなら古事記の説話に登場する「新潟県北部の長谷」出身の「ワカタケル」が志木の「ワカタケル王」を土下座させ謝罪させたことになるからです。この奇妙さの責任は藤原不比等に背負ってもらわねばなりません。「ワカタケル」王が同時代に二名存在したはずはありません。藤原不比等はその奇妙さを取り繕うために有名な説話を拵(こしら)え上げます。すなわち己が姿とそっくりな「天皇」との遭遇です。
%%%%%

 古事記は歴史的大事件、すなわち渡来族の主要拠点であった「シキ」を軍事的に制圧したと書きます。繰り返しますが、話の筋書きからすれば、「シキ」宮とは奈良盆地にあったとされる「磯城」ではなく、現在の埼玉県「志木」とその一帯です。すなわち新潟北部からまずは埼玉県に舞台は移ったと考えるのが自然です。実際、雄略記を注意深く眺めると、記載の舞台が埼玉県・志木界隈にみつけることができます。
 しかし、研究者・学者さんたちは「天皇は、そもそも新潟県北部出身であるはずがない」と思い込み、さらには敵勢力に焼き討ちをかけた地は埼玉県の志木であるはずもないと決め付けます。かくして、奈良を舞台とする話に納得し、当然、登場する地名や人名の由来もすべて奈良盆地に求めてしまう。あるいは必要に応じて場所をこしらえ上げてしまうのです。

山奥育ちの勇猛な人物が南下し現在の埼玉県・志木に宮を構えたことは史実に近いと考えています。それは稗田阿礼などの語るところによったか、あるいは、志木を軍事攻略した際に捕らえた囚人からの聞き取りであったかもしれません。「トガ」なる地が周辺に少なくありません。ソバ生産で知られる「戸隠」(とがくし)、そもそも信濃国は「科野」(罪人の地)と漢字表記されることもあります。こうした囚人の収容所であったろうと私は想像しています。その埼玉県志木は七世紀の後半に奈良の軍事勢力によって乗っ取っられ、常陸国侵攻の出撃基地となります(19年2月27日記事”(続)美麻貴天皇、税申告体験、<<資料>>子供虐待”)。
(つづく)

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+++++学問を支える日本の大学
 毎年10月になると、関心はノーベル賞受賞者です。以前も書きましたが、我国の学問レベルが年々劣化していることが報じられています。自然科学分野では、国の学問レベル比較の物差しとして研究者が著した論文数が取り上げられます。それも、世界の研究者によって引用される論文数です。つまり学問的に重要な論文であれば、多くの他の研究者がそれを引用しているはずです。
 其の物差しを遣うと、日本の研究者による論文数は、2000年代初頭の世界のトップ5番以内から今や、十二番まで下落しているとのことです。この間急激にのし上がってきたのが中国で、いまやダントツのトップに位置しています。
 さて、以下に紹介する動画ではこうした我国の学問状況で日本国内の一流私立大学はどのように学問レベル向上に貢献しているのか、あるいは貢献できるのかと言う興味深い話が取り上げられています。
【ひろゆき&成田悠輔】慶應大学vs日経テレ東大学【戦う前から惨敗説】

【ひろゆき&成田悠輔の疑問】日本「衰退時代」…足枷の正体【裏口入学の実態】

大海考察(5)、五輪贈収賄

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(写真:飛行機雲が朝空をまっすぐに走っています(拡大は図のクリックで)。
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(写真:団栗の実が日に日に成長しています。拡大は図のクリックで)
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 秋空を 飛行機雲が 切り裂いて 機跡の向こうは 過ぎし夏あり

 物価値上げ・疫病の蔓延で日々不安な生活をしいられる庶民の叫び声が聞こえます。一方で、我国の「せれぶ」は、金があるのに、更なる儲けを狙って貪欲に蠢動してきたのです。まさに三流政治家を送り出してしまった我国の悲惨な「政治欠落」です。
【東京五輪汚職捜査は、森喜朗元首相、竹田恒和元JOC会長に波及するのか!? 】郷原信郎の「日本の権力を斬る!」#174

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+++++大海(おおあま)考察(4)
 前回記事では日本書紀の以下の記事を紹介しました。すなわち、西暦465年(日本書紀編年による)雄略天皇は新羅への軍事侵攻を思い立ったが、「神」の託宣に従い側近の将軍とも相談の上(談=かたらう)一旦は思いとどまった。しかし、新羅は「百済を侵犯」、「高句麗と倭国の交流を妨げるなど、その無礼行為は目に余るものである。それを許しがたく思った天皇は「軍事侵攻」を敢行することとして四将軍を選んだ。そんな折、四将軍の一人である紀小弓宿禰の妻が死去した。そのため、紀小弓宿禰は戦地に滞在中、自分の身の回りを世話する女性がいないと天皇に愚痴を言った(ただし、自分の口からではなく、大伴室屋大連に言って貰った)。天皇は其の事情を理解し、紀小弓宿禰に一人の女性を賜り(日本書紀・原文ママ、まさに女性は物扱い)、この女性を戦地に同行させた。それが吉備上道釆女大海である。「釆女」とは宮廷に働く「きれいどころ」女性達で、其の出自は主として豪族であると、されています。しかし、前回記事でも書いたように「吉備」(キビまたはキミ)は倭国王の后の呼称に由来しますから、まさに天皇一族が天皇に差し出した「女性」と言うことになります。すなわち最高権力の后の係累です。そして、其の女性の名前が「大海」(おおあま)です。藤原不比等が意図して、仇敵「倭国王」を貶めるために持ち込んだ名前であろうと私は考えています。すなわち、やがて舒明天皇の次男として誕生する男児を軽んずることに其の思惑があったのであろうと私は深読みをしています。

 もう一つ、指摘しておきたいことは「新羅」征討です。神功皇后の想定した敵国も「新羅」です。記紀という「正史」編纂の統括をする藤原不比等の意図は「新羅擁護」です。すなわち、西暦663年の白村江海戦では藤原不比等は唐・新羅連合軍の側に立って倭国を攻める側にいたからです。其の政治的立場からすれば、新羅と敵対する倭国は許容できない。国内に反唐勢力がかって日本列島に存在し、それを奈良の勢力が打ち破ったとの行動の示威であり正当化でもあります。

 前置きが長くなりました。前回記事の続きです:
 %%%%%ァ塒採天皇九年(乙巳四六五)夏五月》
原文:
紀大磐宿禰聞父既薨。乃向新羅。執小鹿火宿禰所掌兵馬・船官及諸小官。専用威命。於是。小鹿火宿禰深怨乎大磐宿禰。乃詐告於韓子宿禰曰。大磐宿禰謂僕曰。我当復執韓子宿禰所掌之官不久也。願固守之。由是。韓子宿禰与大磐宿禰有隙。於是百済王聞日本諸将縁小事有隙。乃使人於韓子宿禰等曰。欲観国堺。請、垂降臨。是以韓子宿禰等並轡而往。及至於河。大磐宿禰飲馬於河。是時韓子宿禰従後而射大磐宿禰鞍几後橋。大磐宿禰愕然反視。射堕韓子宿禰於中流而死。是三臣由前相競。行乱於道。不及百済王宮而却還矣。於是。采女大海従小弓宿禰喪来到日本。

文意(岩波文庫「日本書紀」(三)」
(戦地の新羅で、四将軍は連戦連敗を喫します。ついには、紀小弓宿禰も「値病薧」(病で死)します。)
紀大磐宿禰は父が既薨したときき、ただちに新羅に向かった。小鹿火宿禰が所掌する兵馬・船官及諸小官を執(ひき)い、威命を専らとした。於是、小鹿火宿禰は大磐宿禰を深怨し、詐りて韓子宿禰に告げて曰く「大磐宿禰は僕(やつが)れにこう言った“我は韓子宿禰所掌之官を使い慣れていない也”と。願くば固守せよ。由是、韓子宿禰と大磐宿禰に隙が生じた。於是、百済王が日本諸将縁小事有隙と聞き人を韓子宿禰等につかわして曰った「国堺を見たいので降臨されたい」と。是以、韓子宿禰等が轡を並べてでかけ、河のほとりにゆくと、大磐宿禰が河で馬に水を飲ませていた。是時韓子宿禰は従後に従い、大磐宿禰の鞍几後橋を射った。大磐宿禰は愕然とし振り返り韓子宿禰を射堕し中流に死せしめる。是において三臣由前相競いて行乱した。結局百済王の宮に行かずして却還て戻ってしまった。かくして、采女大海は従小弓宿禰の喪にしたがい日本に戻った。

(ブログ管理人中:執筆者はうかつにも「日本」なる呼称をつかっています。当然、岩波文庫「校注者」はこれをあえて「ニッポン」とは訓まず、「ヤマト」と仮名を振ります。しかし、日本書紀編纂統括者は意図的にここに「日本」なる呼称を持ち込んでいるのです。「新羅討伐に失敗した倭国おとしめ」と同じ思惑があるのです)
(さらに、この記載は下のようにつづきます。今回はいつもより長くなってしまいました。ご辛抱いただければ幸いです。文意は岩波文庫によらず、ネットでの意訳を転載させていただきます)
原文:
遂憂諮於大伴室屋大連曰。妾不知葬所。願占良地。大連即為奏之。天皇勅大連曰。大将軍紀小弓宿禰竜驤虎視。旁眺八維。掩討逆節。折衝四海。然則身労万里。命墜三韓。宜致哀矜。死視葬者。又汝大伴卿。与紀卿等。同国近隣之人。由来尚矣。於是大連奉勅。使土師連小鳥。作冢墓於田身輪邑而葬之也。由是大海欣悦不能自黙。以韓奴室。兄麻呂。弟麻呂。御倉。小倉。針六口送大連。吉備上道蚊嶋田邑家人部是也。別小鹿火宿禰従紀小弓宿禰喪来。時独留角国。使倭子連〈 連、未詳何姓人。 〉奉八咫鏡於大伴大連。而祈請曰。僕不堪共紀卿奉事天朝。故請、留住角国。是以大連為奏於天皇。使留居于角国。是角臣等初居角国。而名角臣。自此始也。

文意(岩波文庫「日本書紀(三)」62頁)
 ネットで該当部分の現代文訳を見つけましたので、それを転載しますキビ上道釆女大海
小弓の未亡人となってしまった大海は喪に服すべく帰国し、大伴室屋大連にこう申し上げた
「妾(やっこ)、葬(をさ)むる所を知らず。願はくば良き地(ところ)を占めたまへ」
(訳:私は(将軍を)埋葬するところを知りません。願わくば、埋葬地を決めてください)
これを聞いた天皇は以下のような詔を出した。
「大将軍(おほきいくさのきみ)紀小弓宿禰、竜のごとく驤(あが)り虎のごとく視て、旁(あまね)く八維(やも)を眺(み)る。逆節(そむくもの)を掩(おほ)ひ討ちて、四海(よものくに)を折衝(ことむ)く。然(しかう)して則(すなは)ち身万里(とほきくに)に労(いたづ)きて、命(いのち)三韓(からつくに)に墜(し)ぬ。哀矜(めぐむこと)を致して、視葬者(はぶりのつかさ)を充(あ)てむ。又汝(いまし)大伴卿(おほとものまへつぎみ)、紀卿(きのまへつぎみ)等(たち)と、同じ国近き隣の人にして、由来(ありく)こと尚(ひさ)し」
(訳:大将軍紀小弓宿禰は、竜のように高くあがり、虎のようにみて、あまねく四方を眺めていた。背くものを討ち、四海を言葉で説いて従わせた。しかし、その身は万里の果てで病にかかり、その命は三韓の地でなくなってしまった。哀れみいたんで「はふりのつかさ」をあてよう。また大伴は紀と同郷で、近い隣人でもあるので、往来も久しいことであろう)
すなわち、小弓の半島での功績を賞讃し、葬礼のための役人を遣わし、さらに小弓と大伴氏の勢力地がたまたま同じ国で、隣り合っている縁で、小弓の墓を両者の接点である田身輪邑(たむわのむら、和泉国日根郡淡輪村、現在の大阪府泉南郡岬町淡輪)につくるように指示したのである。
大海は喜んで、お礼として「韓奴室(からのやっこ むろ)・兄麻呂(えまろ)・弟麻呂(おとまろ)・御倉(みくら)・小倉(おくら)・針(はり)」の「六口」(むゆたり)を大連に送った。これが、吉備上道の蚊嶋田邑(かしまだのむら)の家人部(やけひとべ)となった、という[2]。
%%%%%
 仲哀=>神功・・・=>雄略紀が書く新羅征討譚は「白村江での奈良盆地側の勝利の結末」を前提にしてつづられていることを、本記事の冒頭で書きました。すなわち、倭国が冒してきた軍事行動の過ちをこれでもかこれでもかと書き連ねていることになります。史実として倭国が新羅征討の軍事行動を繰り返してきたのかはさだかでありません。
 この過ちの中で倭国王后につながる出自を持つ「大海」と言う女性を、どこぞの馬の骨の妾にするやら、さらには其の身分を貶める境遇におくやらの記述であることを見てきました。
(つづく)
 

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「大海」(おおあま)考(4)、国葬問題

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(写真:急激に肌寒くなった北関東の朝です。雲の隙間を朝日がオレンジ色に染めています。拡大は図のクリックで)
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 秋分は 暑さ寒さの 別れの日 今朝の気温は 二十度に達せず

 朝の空気が冷たく感じる中、恒例の朝散歩であります。十数人ほどの散歩する若者とすれ違いました。我が地元の大学生でしょう。この大学、ここ十年ほどの間にラグビ、サッカー、柔道など学生スポーツで急激に全国クラスの上位レベルにのし上がりました。ところが、残念ながら陸上競技部門では今一歩と言うところのようです。と言うわけで、いまだ箱根駅伝には手が届いていません。どうやらこの学生さんたちは箱根を目指しての早朝練習のようです。

+++++国葬問題
 優柔不断な態度で日々をすごす岸田首相の頭痛のタネは日ごとに批判が高まる「安倍氏・国葬問題」です。ついに自民党現職の国会議員からも公然とした反対表明がありました。
(図:東京新聞9月22日付け、三面より。拡大は図のクリックで)
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関連動画:この問題を含む現今の政治課題を鳩山元首相と孫崎元イラン大使が論議しています。
時事放談(2022年9月) 鳩山友紀夫×孫崎享


+++++大海(おおあま)を考察する(4)
 仲哀天皇が誰に擬せられた人物であるのか、あるいは事跡が史実に根ざしているのか否かは定かではありません。日本書紀が語る筋書きに従えば、この天皇は渡来系であるはずです。なぜなら、「倭武命」の息子です。名前に使う漢字から、編纂者の意図がそうであったと思えるので菅、学者先生はそうは考えず、「倭武命」は、いかに書く雄略天皇であると考えているようです。それはさておき日本書紀は「倭武命」の父は景行天皇天皇であると書き、この天皇は西暦600年の時点で倭国王であることは、其の「和名」から明らかです。景行天皇の素性を「和名」から解き明かす手がかりを与えているのは藤原不比等自身です。藤原不比等の其の思惑には大いに興味をそそられる野ですが、この藤原不比等の示唆を受け止める古代史学者は多くありません。
それはさておき、仲哀天皇にご託宣を授けた神、そしてそれが無視されたことで、天皇に怒りと報復をした神はゾロアスタ教の神であったのでしょうか。前回、其のくだりを読み飛ばしてしまいましたが、日本書紀は実に注意深く書いています。
曰く「天皇聞神言。有疑之情。」とあります。
 脚色が多い日本書紀に比べるとそれが比較的少ない古事記は:
曰く「其大后息長帶日賣命者。當時歸神」すなわち
「其の時の神を歸(よ)せたまい」と、日本書紀に比べて表現は直裁です。「宋書倭国伝」によれば、五王の中で武王の活動がもっとも詳しく書かれており、どうやら武王は日本列島から朝鮮半島にも大きな関心を寄せていた節があります。仲哀天皇の説話がこの武王の活動から「ひいたもの」とするならば、この神託は「アフラ・マズディ」に帰(よ)せたのかとの想像が沸きます。すなわち、東北日本から南下した武王率いる渡来族はさらに朝鮮半島に進出する機を窺った。一方渡来族の中には、朝鮮半島への進出を諌める勢力もあった。そうした渡来族の内部の意見対立が、仲哀―神功皇后説話を作り出したのでは無かろうかと想像しています。

 さて、「大海」(おおあま)考察をするために、雄略紀を眺めることにします。因みに「大海」なる表現は古事記では息長帶日賣命(神宮皇后)のくだりでの一箇所しか登場しません。それは明らかに「大きな海(うみ)」と解釈されます。したがって、それは「天武」天皇を意識しての表現と考えることができません。:
参考までに210621記事と其の前後の記事では雄略天皇で語られる説話が、現在の新潟県北部から始まっていることを書いています。
%%%%%ぁ塒採天皇九年(乙巳四六五)三月》
原文:
天皇欲親伐新羅。神戒天皇曰。無往也。天皇由是不果行。乃勅紀小弓宿禰。蘇我韓子宿禰。大伴談連。〈 談。此云箇陀利。 〉小鹿火宿禰等曰。新羅自居西土。累葉称臣。朝聘無違。貢職允済。逮乎朕之王天下。投身対馬之外。竄跡匝羅之表。阻高麗之貢。呑百済之城。況復朝聘既闕。貢職莫脩。狼子野心。飽飛飢附。以汝四卿。拝為大将。宜以王師薄伐、天罰襲行。於是。紀小弓宿禰使大伴室屋大連。憂陳於天皇曰。臣雖拙弱、敬奉勅矣。但今臣婦命過之際。莫能視養臣者。公冀将此事具陳天皇。於是。大伴室屋大連具為陳之。天皇聞悲頽歎。以吉備上道采女大海。賜於紀小弓宿禰。為随身視養。

文意:岩波文庫「日本書紀(三)」56頁から始まる訓みくだし文は、理解が難しいので、下記のウイキの解読文に置き換えておきます。
吉備上道采女大海
<<転載はじめ
雄略天皇9年(465年)、天皇は新羅征伐のために紀小弓宿禰(き の おゆみ の すくね)、蘇我韓子(そが の からこ の すくね)大伴談連(おおとも の かたり の むらじ)、小鹿火宿禰(おかひ の すくね)らを派遣している。

その際に、妻をなくしたばかりの紀小弓は大連の大伴室屋(おおとも の むろや)を通じて、こう天皇に訴えた。

「臣(やっこ)、拙弱(おぢな)しと雖(いえど)も、敬(つつし)みて勅(みことのり)を奉(うけたまは)る。但し今、臣が婦(め)、命過(みまか)りたる際(きわ)なり。能く臣(やつかれ)を視養(とりみ)る者(ひと)莫(な)し。公(きみ)、冀(ねが)はくは此の事を将(も)て具(つぶさ)に天皇に陳(まう)せ」
(訳:私は臆病ですが、謹んでみことのりを承ります。ただ、私の妻はなくなったばかりで、私の面倒をみるものがありません。大連様、願わくば、このことを詳細に天皇に陳状して下さい)
と申し上げた。この奏上を聞いた天皇は同情して、吉備上道采女大海を小弓に賜り、付き添って世話をすることにさせた。
>>転載終わり
%%%%%
 さて、岩波文庫校注者は「吉備上道采女大海」について「吉備氏一族の女性」とのみ書き詳細は不明と書きます。「吉備」から真っ先に連想するべきは隋書倭国伝です。そこには倭王の妻について「王妻號雞彌」とかかれています。呼称は「雞彌」(きみ)です。日本列島に住まう民にとっては「マ」行で始まる音とバ業で始まる音はしばしば入れ替わります。したがって「雞彌」は「キビ」と発音されていたと考えることができます。そうなると、現在の岡山県と其の界隈は「きび」地方と呼称されていた。すなわち、倭国王の妻が統治を任されていたことに始まるのではなかろうかと思えます。そしてこのいわば幹部の妻の呼称が「大海」(おおあま)であると日本書紀は書きます。このことを考察するために上に掲載の節文に続く次の節文を次回考察します。
(つづく)
 

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「大海」(おおあま)考(3)、ミノア文明

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(写真:散歩の途上にある小高い場所で立ち止まると「民の竈」から煙が上がっています。万葉集二歌に歌われる光景です。題詞は舒明天皇と書くが、古事記には仁徳天皇説話として記されています。写真は、仁徳天皇の気分で取ったものですが、実際は稲刈り後に田に残されるモミ殻を焼く煙です。近所の老婦人達がこの中に芋を突っ込んで、焼きあがるのを待ちながら談笑する風景があちこちで見られます。拡大は図のクリックで)
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 大粒の 強雨が窓叩く さながらに 間歇泉のごとく 噴いては強風


+++++「大海」(おおあま)を論ずる(3)
 山本周五郎の小説はずいぶんと読みました。同じ様な基本設定で筋立てを違えるというものがいくつかあることがわかります。解説書などを読むと、山本周五郎自身が設定(モチーフというのでしょうか)にそぐわない筋立てに満足せず、何回でも書き直したとの事です。最近、おなじような本を読みました。宮部みゆき「戦い続けた男の素顔―松本清張傑作選」が、松本清張の小説を上で書いたような視点から整理したのでしょう。取り上げた清張の諸短編のどれもが松本清張の自伝ともいうべきものです。氏が将来の展望も希望も無い「お茶汲み」時代の体験がかたられています。したがってどれもが読み進めると、設定が同じなのです。しかし、展開が異なります。宮部みゆき氏も松本清張作品の面白さの新たな魅力を見たのだろうと想像しました。

 山本周五郎、松本清張といった大家に並ぶべくも無いことはよ〜くっと承知していますが、私の「大海(おおあま)天皇」考察もそうなのです。いつも頭の中にあり、何とか、この天皇の相容れない側面を整合的にとれえられないものかと思ってきました。現在試みている、「大海」を手がかりにした新視点からの接近も其の一つであります。と、言うわけで前回記事の続きです。

%%%%%《仲哀天皇八年(己卯一九九)九月亥朔己卯(五日)》
原文:
詔群臣以議討熊襲。時有神託皇后而誨曰。天皇何憂熊襲之不服。是膂完之空国也。豈足挙兵伐乎。愈茲国而有宝国。譬如処女之(原文は「目」偏)。有向津国。〈(原文は「目」偏)。此云麻用弭枳。 〉眼炎之金・銀・彩色、多在其国。是謂栲衾新羅国焉。若能祭吾者。則曾不血刃。其国必自服矣。復熊襲為服。其祭之。以天皇之御船及穴門直践立所献之水田、名大田。是等物為幣也。天皇聞神言。有疑之情。便登高岳、遥望之。大海曠遠、而不見国。於是。天皇対神曰。朕周望之。有海無国。

文意(岩波文庫「日本書紀」(二)130頁):
 群臣に熊襲討伐の義せよ詔す。時に皇后に神託有りて曰う
「天皇は何を憂えて熊襲を屈服させないのか。是は膂完之空国(阻止氏のむな国、けだものの)国也。豈に挙兵して伐(うつ)べし。茲国には宝国あり。譬えば処女之祿(原文は「目」偏まよばき)のごとくである。津(うみ)の向こうには国がある。眼に炎(まばゆい)ばかりの金・銀・彩色、多くが其国にある。是を栲衾新羅国(たくぶすましらぎ)という。若し吾をまつるならば、則、刃を血で汚さずとも。其国は必ずや自から服従する。復た、熊襲も服従する。吾を祭(まつる)には、天皇之御船及穴門直践立(あなとのあたいほむだち)が献ずる水田、其の名を大(王の意か?)田とし、是等物を幣と為せ。」
天皇は神言を聞く。しかし疑之情ありそこで高岳にのぼり、遥を望むと、そこには大海が遠くまで曠がり、国は見えず。そこで、天皇は神に曰う。朕は周(あたり)を遠望したが、海のみがあり国を見る事ができなし」と。
%%%%%
「大海曠遠」は、情景描写であり、人物の呼称とは思えません。が、其の直前に「大田」なる表現が登場します。これが「王の田」であるとすると、「大海」にもそうした意味、すなわち「天皇が治する海域を意味するのかなとも思えます。日本書紀での「大」なる漢字の用法のあいまいさについては念頭においておく必要がありそうです。
 それはさておき、上に掲載の説話はよく知られています。神の言を信じなかった天皇に怒った、神は、天皇の熊襲征伐を失敗に終わらせ、さらには翌年「謎の」死去に追い込むという顛末です。一方、同様を神に告げられた皇后には、立派な子を授ける(後の応神天皇)との言質に加え、新羅での戦争勝利まで請け負ってもらうのです。

 日本書紀が語る系譜では、景行天皇(大足彦)の息子の一人が倭武命(ヤマトたける)です。別のむすこが「稚足彦」でのちに政務天皇となります。しかし、この天皇には息子がいなかったので、倭武命の息子である足仲彦が仲哀天皇となったが、上に書いたような「哀しい」生涯であったということになります。
(図:古事記が書く古代天皇の年表と景行天皇の呼称が暗示する実際の時代は七世紀初頭をはさむ時期である。それは息子の呼称が傍証となる。拡大は図のクリックで)
200211歴史時間軸無題

 ここでは、繰り返しませんが、私の「見立て」では、この順番は逆さまです。すなわち景行天皇は西暦600年頃に日本列島で最大の政治権力を握っていた人物です。勃興して間もない隋国に倭王の名代として使節を派遣したのもこの景行天皇天皇です(「遣隋使」)。そして景行天皇の父君あるいは祖父は「武王」(宋書倭国伝に記載される「倭の五王」の一人)です。この武王が「倭武尊(命)」と思われます。父親・祖父は「興王(高王)」、「斉王」ですが、この人物が日本書紀にあらわに登場することはありませんが、地名や神の名前にひっそりと登場しています。
 こうした記載の順序と史実としての時間順序とは逆転しているのです。とするならば、ここで、仲哀天皇の実在性を議論することには意味がありません。ただし、其の事跡として語らえる説話は後の世の天皇の活動の一旦であることは否定できません。

(つづく)


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 1984年と言いますから40年近くも前の大昔、仕事でギリシャに出張する機会がありました。当時は欧州への出張機会なぞは皆無にちかいきわめて稀でした。西洋コンプレックスとは、西洋への羨望の裏返しでありますから、天にも昇る気持ちでこの話に飛びつきました。当時は日本―ヨーロッパの航空路は当時のソ連邦上空を飛行できませんから、まずはアラスカのアンカレッジ経由となります。パリで飛行機を乗り換え、アテネに向かいます。一行は私を含む三名で、うちの一名はその後、官庁を辞め、北陸某市の市長として、2007年の新潟地震では震災後の復興対策で辣腕を振るいました。いくつかのエピソードについては本ブログでも触れたことがあります。滞在中の活動はギリシャ国内のアテネを含む主要四都市で日本の地震を話すことでありました。其の内の一つがクレタ島の都市イラクリオンであったことは真に幸運でありました。「アリアドネの糸」で知られる「クノッソスの迷宮」を見学する機会もありました。
 当然、ミノア文明を滅ぼしたサントリーニ島の大噴火の話は聞いていましたから現地の学者さんから改めて教えてもらった話は真に興味深いものでありました。アテネに戻ったのち、我々の国内旅行にずっと随行してくださった研究者が考古学者である美人の御夫人同伴で、「シニオン岬」二案内いただき、学問的な詳しい解説までして頂きましした。そこで、アイゲウス王はクレタ島から戻るはずの王子を待ちこがれていたのです。

 このサントリーニ島の噴火が引き起こした大津波が現在のシナイ半島にまでおしよせたと、地球物理学者の竹内均東大名誉教授は仮説しました。津波の引き波の際に、紅海を満たす海水が短時間海底を露呈したと教授は想像しました。その間に、モーゼ率いる出エジプト民は紅海を横断しエジプトを脱出し、シナイに逃れたというわけです。

そうした故事にを思い起こさせる説が下記です:
%%%%%「アトランティスの謎」に終止符か?! 「アトランティス=ミノア文明説」にメディア騒然! 9/16(金) 7:02配信
---------- 地震と大洪水に見舞われ、一日にして海中に消えたと言われる「アトランティス大陸」は地中海にあった!? 「ムー大陸」はかつて太平洋上に存在した!? 多くの謎に包まれ、実在すら証明されていない、「失われた大陸」が語り継がれてきたのはなぜか? そしてなぜこれほどまでに私たちの心をつかむのか? 1960年代、日本の新聞でもその主張が注目された「アトランティス=ミノア文明説」。70年代、小松左京の『日本沈没』によって、さらなる盛り上がりを見せる。ついにアトランティスの謎が解明される時が来た……!  西洋古代史・西洋神話研究者である庄子大亮氏が謎に迫る。 (※本稿は庄子大亮『アトランティス=ムーの系譜学〈失われた大陸〉が映す近代日本』を一部再編集の上、紹介しています) ----------
日本の新聞を賑わせた仮説
 諸説のなかでも、「アトランティスを襲った大災害とは、前二千年紀におけるエーゲ海のサントリーニ火山の大噴火に伴う災害のことで、それに襲われたクレタ島もしくはサントリーニ島こそアトランティスではないか」という仮説が海外の研究者やメディアによって特に取り上げられるようになり、これが日本にも波及する。  かねてよりそうした推測はあったが、ギリシアの地震学者アンゲロス・ガラノプロス(1910〜2001年)の主張が注目され、1960年には日本の新聞紙上でも紹介されていた(『読売新聞』1960年8月2日夕刊)。  また1967年7月20日の各紙朝刊でも、サントリーニ島(「サントリン」、古代名から「テラ島」、「シーラ島」などの表記あり)において噴火により埋没した町の遺跡アクロティリが発掘されたことが、アトランティスに直結するのではないかとの見解(米国・ギリシア合同考古学調査隊の発表)が紹介され、広く一般向けの話題として受け取られていたようである。
「アトランティス=ミノア文明説」とは?
 その数年後、斎藤忍随(1917〜86年)(当時、東京大学文学部教授)の著書『プラトン』(岩波書店(岩波新書)、1972年)の冒頭でも、サントリーニ島の噴火とアトランティス伝説の関連性が注目されるとの話題が紹介されていた。  これは、プラトン哲学について紹介していく本論とはあまり関係がなく、取って付けたような感じを受けるのだが、読者の関心を引く冒頭の話題として当時重要なものだったと考えると納得である。 また『藝術新潮』1973年4月号では、「アトランティスの謎を解くサントリーニ島の発掘」が特集されており、この頃にかなり広まっていたのではないかと思われる。  便宜的にこれを「アトランティス=ミノア文明説」と呼ぶ。 ギリシア本土の南方に位置するクレタ島で栄え、場合によってはエーゲ海の島々も含めて捉えられる、ミノア文明こそアトランティス伝説の由来とする解釈である。  クレタ島は東西に長く延びた島で、面積は約8300平方キロメートル、地中海で5番目に大きい島だ。山が多いが、島の南側には平野が広がっている。 このクレタ島で、前2000〜前1400年頃、ミノア文明が繁栄した。
アトランティスの最期に酷似
 1900年に、英国の考古学者エヴァンズがクノッソスにおいて、まるで迷宮のような巨大な宮殿を発掘し、存在を明らかにした文明である。 その後、島の各地でも、それより規模は小さいが宮殿が発掘されている。「ミノア」という名称は、クレタの伝説上の王ミノスに由来する。  アトランティスを連想させるという指摘は当初からあったが、20世紀後半になってミノア文明説が俄然注目されたのは、「地震と大洪水に見舞われ、一昼夜にして海中に没した」という、アトランティスの最期を連想させる大災害が実際にあったことが詳しくわかってきたからだった。  すなわち、クレタ北方約120キロメートルに位置するカルデラの島、サントリーニ島が大噴火を起こし、クレタ島に地震や津波、降灰といった大災害をもたらしたことが、発掘調査等で判明してきたのである。  かねてよりミノア文明とアトランティスの関連性を示唆しつつ、クレタ島での津波被害の痕跡発見やサントリーニ南部の遺跡アクロティリの発掘において功績を残した考古学者が、ギリシアのスピリドン・マリナトス(1901〜74年)であった。
小松左京の「日本沈没」とリンク
 一方、アクロティリの町の遺跡発掘からクレタ島ではなくサントリーニ島がいわばミノア文明圏に属してたいへん繁栄していたことも次第に明らかになるに伴い、クレタ島ではなくサントリーニこそがアトランティスのモデルなのではないか、との主張もなされるようになった。 この主唱者が地震学者アンゲロス・ガラノプロス(1910〜2001)である。当時、日本テレビがこうした研究進展(特にガラノプロスの解釈)に興味をもった。  その取材企画に関わったのが、作家の小松左京(1931〜2011年)である。1970年代中頃、小松の代表作の一つで、日本を未曽有の災害が襲う設定の小説『日本沈没』がベストセラーとなっていた。 小松左京は日本テレビのマヤ文明やイースター島取材とそれに基づく書籍「ドキュメントシリーズ」(読売新聞社(日本テレビ放送網))刊行にも携わっていたが、沈没のイメージのつながりからアトランティス企画には特に適任であったといえよう。  取材の成果は1977年7月17日に日曜スペシャル「小松左京のアトランティス大陸沈没の謎」として放映された。 後日の新聞(『読売新聞』1977年7月22日「放送塔」欄)には視聴者からの肯定的な投書が掲載されており(「久しぶりに見ごたえある現地取材」「こういった遺跡を前に私はアトランティスは間違いなく存在したと思った。再放送を」)、番組はかなり好評だったのではないだろうか。
かし、「時代」も「位置」も……
 この「アトランティス=ミノア文明説」はおそらく最もよく紹介される解釈で、一つの解決のように言及されることもあるのだが、ミノア文明説で万事が解決というわけではない。  まず、アトランティスは1万2000年以上前に大西洋に存在したとされるが、クレタ島やサントリーニでは時代も位置も異なる。 これには説明が一応なされてはいる。年代は、アトランティスについての情報がエジプトを介した際に、数字が誤って伝えられたとの解釈である。  特に、エジプトの100と1000をあらわす記号が取り違えられてしまったのではないか(百の位が誤って十倍にされてしまったのではないか)、というのだ。 だとしたら千の位を1/10にすれば正しい数字なので、プラトンがアトランティスの年代として伝えた「ソロンの時代(前600年頃)から9000年前」とは、「ソロンの時代から900年前」、すなわち前1500年頃となり、ミノア文明の存在した時代と重なるわけだ。  もう一つ、位置の問題がある。 アトランティスは、ヘラクレスの柱(=ジブラルタル海峡)の向こう側にあったと伝えられていたが、クレタ島とサントリーニ島はエーゲ海にある。  この点についてガラノプロスは、「ヘラクレスの柱」とは、ギリシア本土のペロポネソス半島南端の二つの岬を指し、「ヘラクレスの柱」の向こう側とはすなわちエーゲ海のことを指すから、位置も矛盾しないと主張した。 だが、辻褄合わせとの印象も強い想定だ。
噴火が直接の原因ではない
 そして次に、ミノア文明はサントリーニの大噴火によって「一昼夜にして」滅亡したわけではないという点である。その後の調査で、ミノア宮殿の床の下から、火山灰や軽石が発見された。 つまり、噴火後に宮殿が存在していたことをそれは示している。  サントリーニの大噴火はクレタ島にたいへんな被害を与えたのだろうが、それによって「一昼夜にして」ミノア文明が滅んでしまったというわけではなかった。 また1980年代、サントリーニの遺跡の火山灰のなかから見つかった植物をもとに、放射性炭素年代測定(生物の遺骸に含まれる放射性炭素をもとに年代を測定する方法)が行われた。  すると、その植物が火山灰に飲み込まれてしまった年代、つまり噴火が起こったと考えられる年代は、前1600年頃と推定された。 すなわちクレタの宮殿が破壊され、ミノア文明が崩壊する前1450年頃より100年以上前になる。
現代科学により「否定」された
 さらに、米国のカリフォルニア州にある樹齢4千年のイガゴヨウマツの年輪分析でも、前1628年の年輪に霜害が認められた。 サントリーニほどの火山が噴火した場合、噴煙がかなりの距離まで浮遊し、太陽光を遮って気温を低下させるなど、世界的な規模で影響を及ぼす。  よって、遠く離れたカリフォルニアの霜害が、サントリーニ噴火の有力な証拠になるのである。また、グリーンランドの氷冠の分析から、やはり同じ時期の層に、酸性の層が存在することがわかっている。 氷冠は年輪と同じように、雪が毎年積み重なっていくため、硫黄に富んだガスから形成された硫酸の影響が、その時期の層に認められたと考えられる。  こうして現在では、噴火の年代は前1628年頃と見るのが有力である。ミノア文明の崩壊は、直接的には本土のギリシア人による前1450年頃のクレタ侵入と略奪によると考えられている。 アトランティスのように一昼夜で滅んだわけではないのだ。  現代のクレタやサントリーニがアトランティスとのつながりを積極的にアピールしていることからも分かるように、世に浸透したアトランティス=ミノア文明説だが、「大噴火によってクレタ島が壊滅的被害を受け、ミノア文明が終焉を迎えたことが伝説のもとになった」という解釈の根幹は、以上のように否定されてしまったことになる。 ---------- メディアを賑わせた「アトランティス=ミノア文明説」によって、いよいよ解明されるかに思えた「失われた大陸」の謎。しかし、その仮説は根幹から覆され真相はいまだ藪の中。人類最大のミステリー「アトランティスの謎」が、解き明かされる日はくるのだろうか……!  %%%%%----------

景行天皇と大海、村上選手を喜ぶ、コロナ対策(上医師が語る)

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(写真:朝5時過ぎです。が、朝日は当地の地平にはまだ姿を現していません。わずかに其のあたりの空が明るんでいます。、拡大は図のクリックで)
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 怪物が 又もや生まれる 野球界 55の壁を 九月で越える

村神様】村上宗隆55号!王貞治に並ぶ日本選手最多 歴代2位タイ!日本最多60号超えへ|9月13日 ヤクルト 対 巨人


 日本の野球界が、大谷、ダルビッシュについでまたも新たなスターを生み出しました。村上宗隆選手です。すごいものです。何とかこのまま60号に達して欲しいと期待しています。
 それにしても世界では、野球はマイナスポーツです。昨年の五輪でも野球種目への参加国はわずか10国です。どんなに米国で人気のあるスポーツであっても世界では、とりわけ欧州では「とるにたらぬスポーツ」扱いです。そうしたマイナ・スポーツではあるけれど、米国選手を凌駕するすごい選手が日本から輩出しています。ダルビッシュ、大谷、村上が世界のメジャースポーツに登場していたらと想像することは楽しいことです。言葉を変えればこれほどの高い運動能力を持ったアスリートが野球界にとじこめられてしまっている。それを助長したのがNHKと朝日など大手マスメディアが散々煽ってきた甲子園を舞台とする高校野球であると思っています。

+++++「大海考察(2)」
 天武天皇と持統天皇の間にできた長男、草壁皇子、は、「日並子皇子尊」(続日本紀(一))とも表記されています。この呼称を記した事情に藤原不比等の「正史」編纂上の思惑がありそうですが、現時点ではそこを穿り返すための資料は見当たりません。一方常陸国風土記の最初に登場する「新治郡」で登場するのが「比奈良珠命」です。時代は美麻貴天皇の時代、すなわち崇神天皇の時代です。二人の人物「日並子皇子尊」と「比奈良珠命」は、音が同じであるので、それは単に「音写」するための漢字が異なっただけで、実は同じ人物であろうと考えています。
 そうなると、二人の天皇、天武天皇と美麻貴天皇とは、ほぼ同じ時代に天皇であったと考えるのが自然です。多分同一の人物であったろうと考えられます。
「天武天皇」は日本書紀でもまったく異例なことに、28、29巻と二つの巻が充てられています。多くの研究者が微に入り細にいたり、この二巻を繰り返し繰り返し吟味したはずです。しかし、そこからは天武天皇の二つの側面を暴き出す手がかりは見つかっていません。それほど藤原不比等はこの二巻の編集に計算をしつくし熟考を重ねたということなのかもい知れません。
 しかし、「壬申の乱」に手がかりはあるはずと現ブログ管理人はこだわっています。

 「二人の天武」なる着想をした際には、「壬申の乱」で敗れた倭国首領の天武Aは、現在の九州熊本県・鹿児島県境の「端海野」(万葉集二十九歌)あたりに潜伏し反撃の機会を窺っていた。しかし、其の機会は到来せず、やむなく日向から船で、東国の蝦夷一族と合流すべく東に向かった。これが「神武東征」であろうと考えていました。一方、勝者である天武B率いる奈良軍勢は、奈良での府庁および市街地造成に着手した、と考えています。日本書紀巻二十九には奈良盆地の様子が多くは記載されていません。もっぱら、万葉集で描かれてきた情景を奈良盆地の出来事として焼きなおす記述であるように見えます。こうした中で持統天皇とは一体どのような役割をしていたのか、も問い直される必要があります。
 こうしたいくつかの疑問への解答の一助になろうかとの期待から日本書紀の「大海」(おおあま)を引用する節を考察しています。
 と、言うわけで前回の続きです:
%%%%%◆垠聞堙傾捗夙年(戊子八八)七月丁酉(七)》
原文:
(到八女県。則越藤山、以南望粟岬。詔之曰。其山峰岫重畳。且美麗之甚。若神有其山乎。時水沼県主猿大海奏言。有女神。名曰八女津媛。常居山中。故八女国之名、由此而起也。

文意(岩波文庫「二」、66−78頁):
 (ブログ管理人注:六年前の景行天皇十二年八月十五日(中秋の名月にあたりますが、書紀はそれには言及しません)に天皇は熊襲の反乱を知り、筑紫に征討の行軍を開始します。この行軍は七年後の景行天皇十九年九月に終えたと書紀は書きます。上に掲載する説話は現在の熊本県と福岡県の県境で遭遇する不思議な大木にまつわる説話の後半部分です。)その大木にまつわる地である八女県に到着した。藤山(久留米の北部の地か)を越えると南に粟岬(アワミサキ、天草か?)を望めた。周囲の山々は峰が幾重にも重なりはなはだ美しい光景であった。そこで、そこには神がおられるんだろうかと語った。其のとき沼県主猿大海が以下を奏言した「八女津媛という女神がおられる。この神はいつも山中におられる。そこで、八女国之名で呼ばれるようになった」
%%%%%
 すでに書いたように景行天皇こそは、西暦600年に隋皇帝に表敬の使節を遣わした倭国王です。当然、上に掲載した説話が事実であるとしても、それは卑弥呼の生きた時代よりもはるかに昔の西暦88年ではなく西暦六世紀後半のことです。
 私は景行天皇の筑紫行軍は継体天皇の磐井の乱征討と同じ事件であったろうと考えています。すなわち、東国から南に下った「蝦夷」(後世、藤原不比等が蔑称した一団であるが、便宜上使っています)が香島に一大拠点を設営します。それが西暦六世紀前半です。これを常陸国風土記は「香島大神の降臨」と書いています。このときに景行天皇がすでに蝦夷一族の首領であったか否かはわかりません。それはさておき、香島に軍勢を残して、景行天皇の一部は南に進軍します。そこで、現在の京都北部に達し、そこで、奈良盆地を含む近畿地方の制圧行動を起こしました。それが苦戦したようで、20年ほどの歳月を要したにもかかわらず、完全制覇とはならなかったのかもしれません(日本書紀「継体天皇」紀、もっともこの説話は後世にしつらえあげられたのかもしれません)。そこで、景行天皇の軍勢は軍事行動の目標を九州に転じ、そこをまずは制覇することとしたのでしょう。いずれ、継体天皇記紀の考察のさいに言及します。

 うえに掲載の「大木(たいぼく)云々」の記事は行軍の途中で土地の古老から聴取した言い伝えです。それは万葉集二十九歌の冒頭で語られる説話です(220421日記事”壬申の乱に登場する「大分」、ウクライナ軍捕虜は英国傭兵だった”)。この説話で登場するのが阿蘇山と天山(佐賀県)です。藤原不比等の日本書紀記述への点検は険しく、後人に疑いを抱かせるような記載を避けるところから、話を「八女」に摩り替えてしまっているのです。景行天皇が「神」を祭った場所は現在の佐賀県にある天山です。すなわち天=阿毎(あめ)です。上の説話に登場する沼県主猿大海の「海」はこの「毎」に由来します。多分地元の言い伝えを改変して書紀の記事として仕立て上げたのだろうと想像しています。
(つづく)

考古学ランキング

+++++コロナ問題
 コロナ蔓延七波はひところのすさまじさを超えたかに思えますが、依然として感染者数は決して少なくありません。どうやら我国のシチ波には五輪を優先したための意図的な手抜きがあったようであります。そしてそれを行政は隠蔽しているのではないかと上昌広医師が指摘しています。
%%%%%感染研はなぜ隠す? 東京五輪期間中に海外から流入したコロナの実態

著者のコラム一覧
上昌広医療ガバナンス研究所 理事長
1968年兵庫県生まれ。内科医。東京大学医学部卒。虎の門病院や国立がん研究センター中央病院で臨床研究に従事。2005年から16年まで東京大学医科学研究所で、先端医療社会コミュニケーションシステムを主宰し、医療ガバナンスを研究。16年から現職。
どうする、どうなる「日本の医」
感染研はなぜ隠す? 東京五輪期間中に海外から流入したコロナの実態
公開日:2022/09/13 06:00 更新日:2022/09/13 06:00

 東京五輪・パラリンピック(オリパラ)が閉幕し、1年が経過した。コロナ対策の検証結果の発表が続いている。

 8月3日、東京大学医科学研究所の井元清哉教授を中心とした研究チームが、オリパラ期間中に、日本国内で独自に進化したAY.29デルタ株が少なくとも20の国や地域で確認され、55の独立した変異株が日本から海外に拡散されたと発表した。オリパラの開催が、世界に変異株の拡散を後押ししたことを証明したことになる。

 このリスクについては、昨年7月、西浦博・京都大学教授らの研究チームが「ユーロサーベイランス」誌に報告しており、彼らの懸念が現実化した。

 実は、東京五輪のコロナ対策の問題は、これだけではない。もう一つの懸念は、オリパラ期間中の海外からの変異株の流入だ。この時期にコロナに感染したオリパラ関係者は約800人で、国立感染症研究所は全員のウイルスゲノムを調べている。彼らが、どのような変異株を我が国に持ち込んだかについてはデータが存在する。ところが、その結果を公開していない。
 政府が情報公開に消極的でも、公開情報を用いることで、変異株の流入については、ある程度、推計することができる。その際に利用するのは、「GISAID」という国際ゲノムデータベースだ。

 2006年の鳥インフルエンザの流行の際に必要性が指摘され、2008年の世界保健機関(WHO)総会で設立が決まった。パンデミック中に原因ウイルスのゲノム配列を同定した研究者が自発的に登録し、蓄積されたデータは誰でも解析することができる。

 コロナに関するゲノム情報も収集しており、9月6日現在、1296万6979のコロナゲノム配列が登録されており、誰でもダウンロードして分析することが可能だ。

■約900のコロナ配列が「取得場所不明」

 知人の情報工学者が調べたところ、オリパラ期間中に、日本国内から登録され「取得場所不明」とされる約900のコロナ配列が登録されていた。多くは、前出の日本国内で独自に進化したAY.29デルタ株だが、日本ではそれまでに流行が確認されていなかった61の変異株が存在した。これは、オリパラ関係者が国内に持ち込んだと考えるのが妥当だ。
この61株の情報は重要だ。どのような変異株だったのか、どの程度感染が拡大したのか、臨床像はどうだったのかを明らかにしなければならない。

 ところが、国立感染症研究所は、これらに関する情報を一切、公開していない。なぜ、彼らはオリパラ期間中に海外に流出した変異株については情報を公開するのに、流入株については「隠す」のだろう。公開することで、何か不都合が生じるのだろうか。このような変異株が、日本国内に蔓延し、少なからぬ死者を出したという疑念が高まるばかりだ。
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関連記事:

大阪ワクチン開発断念とアンジェスの闇 2022-09-09 八木啓代のひとりごと

「大海」(おおあま)考察、911事件、エリザベス女王の死

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(写真:旧暦8月17日午前5時、西の空に見える中秋の名月の二日後の月。拡大は図のクリックで)
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 十五夜に ダンゴ食らいて 月愛(め)でぬ 夜の涼気 心地よきかな

 21年前の9月11日、NYで大惨劇が起きました。二機の飛行機が二棟の世界貿易センタビルに激突し、それらを崩落させました。惨劇はそれにとどまらず、米国の国防を司どっていたはずの国防省本部ペンタゴンにまで及んだとされています(これについては、飛行機が突っ込んで生じたとされるペンタゴン建物の穴の大きさが飛行機の両翼の幅よりもはるかに小さいことから、其の真偽が疑われている)。さらには付随していくつかの不可解な事件も起きています。其の一つが下の動画で語られている貿易センタ七号棟崩壊です。
 動画の冒頭で、動画主宰者は「911事件にかんする動画については要注意!の勧告をyoutube運営会社から受けた」と語っています。この事件については下記のHpでも其の冒頭で、かなり不可解な出来事が発生していたことを記しています。どうやらこの事件は現代史での暗闇に触れる事件であったと思えてきます。
重大なお知らせ

 以下のHPでは、この事件についての科学的検証が論議されています。
参考記事:http://bcndoujimaru.web.fc2.com/bcndoujimaru_menue.html

%%%%%「大海」を考える
 前回記事で天武天皇が二人の人物、すなわち倭国の頭領たる天武Aと奈良盆地勢力の首領・天武B の事跡を重ねていると書きました。ところで日本書紀は天武天皇の和名を大海皇子と書きます。「大海」がよしんば「和名」であってもそれを万葉集に探すことは意味がありません。何故なら、それは倭王と其の子息の実際の名前ではないからです。そこで、「大海」の出現を日本書紀の中に調べてみます。以前「大海」なる呼称は隋書倭国伝に登場する倭国王の号の漢字表記に由来するのだろうと書きました。それは多分監修者たる藤原不比等の思い付きではなかろうかと想像しています。
 日本書紀には11回「大海」が登場しますが、其のうちそれが人物の呼称と思われるのは八名(重複と思われる人物は大海宿禰、采女大海の二名)です。真に意外なことには「大海皇子」なる号は日本書紀では一回しか登場しません。
%%%%% 埒鮨静傾銚鞠(甲申前九七)二月辛亥朔丙寅(十六)》
原文:
立御間城姫為皇后。先是。后生活目入彦五十狭茅天皇。彦五十狭茅命。国方姫命。千千衝倭姫命。倭彦命。五十日鶴彦命。又妃紀伊国荒河戸畔女遠津年魚眼眼妙媛。〈 一云、大海宿禰女八坂振天某辺。 〉生豊城入彦命。豊鍬入姫命。次妃尾張大海媛。生八坂入彦命。淳名城入姫命。十市瓊入姫命。是年也、太歳甲申。
 文意省略
%%%%%
 崇神天皇の后の一人は大海宿禰 (おおあまのすくね)の女(むすめ)であった、と日本書紀は書きます。「宿禰」についてはウイキは「武人や行政官を著す称号と書きます。この初出は埼玉県行田市の埼玉古墳群(さきたま)から出土した鉄剣に由来します。鉄剣に刻まれた銘文に「足尼」なる漢字がきざまれています。この鉄剣に刻まれた銘文の他の文言を見る限りでは、これは、渡来民が自らの話し言葉を「憶えたての漢字」で以て「音写」したものであると私は考えています。「宮」なる漢字も見ることができますが、当時には神社はありません。これは権力者の「政庁、統治の中心」という意味であり。古代ペルシア語でや中心を意味する「myan」( ラテン文字表記)であると思います。
 鉄剣に刻まれた太歳「辛亥」年について、大方の学者は西暦471年と考え、それを雄略天皇としています。が、私はそれは「西暦531年」であろうと考えています。其のことは私が常用するシリウス星年代決定法で以ても裏づけされます(2010年1月13日記事”万葉集関連情報(七、稲荷山古墳ー志木線)、小沢氏問題by郷原信郎教授”)。
 どうやらこの崇神紀の記事は、藤原不比等時代にすでに発掘されていた金錯鉄剣銘文の情報を念頭において作成されたと、私は思っています。さて、この人物と名前・官位を同じくする人物が西暦686年に登場します。それは天武天皇の死直後の記事です。時間順に記事を眺めるところですが、其の記事を下に示しておきます。
%%%%%《朱鳥元年(六八六)九月甲子【二十七日】》
原文:
諸僧尼発哭於殯庭乃退之。是日。肇進奠。即誄之。第一大海宿禰蒭蒲誄壬生事。次浄大肆伊勢王誄諸王事。次直大参県犬養宿禰大伴惣誄宮内事。次浄広肆河内王誄左右大舍人事。次直大参当摩真人国見誄左右兵衛事。次直大肆釆女朝臣筑羅誄内命婦事。次直広肆紀朝臣真人誄膳職事。

文意(岩波文庫「日本書紀」(五)228頁:
(天武天皇が亡くなった九月十一日から13日後の24日に葬儀が行われた。まさに其の時に皇太子であった草壁皇子を暗殺しようとした大津皇子が捕縛された)。葬儀で、諸僧尼が殯庭で発哭し(葬儀の場で哀悼の声を発し)おえて、是日、肇めて奠(供物)をささげ、誄‘(哀悼)の意をささげた。第一に大海宿禰蒭蒲(あらかま)が誄(弔辞)をのべ、壬生の事を述べた(幼少のころのことと岩波文庫校注者は書く)。次に浄大肆伊勢王が諸王事(皇親の名籍)を述べ、次に直大参県犬養宿禰大伴惣が宮内事のことを述べた(宮廷)。次に浄広肆河内王が左右大舍人事をのべた(宮中の雑事をするスタッフ)。次、直大参当摩真人国見が左右兵衛事(天皇親衛軍)をのべた。次に直大肆釆女朝臣筑羅が内命婦事(官位を帯する婦人達)をのべた。次に直広肆紀朝臣真人が膳職事(食膳)をのべた。
%%%%%
 天武天皇の死の直後わずか十三日後に、次男である大津皇子が兄であり皇太子でもある草壁皇子殺害をもくろんだとのことで拘束されたと、上掲の記事は書きます。まさに”すわっ!兄弟喧嘩”という意味では「壬申の乱」の再現ともなりかねない事件があった、と日本書紀は書きます。しかし、それは成功できなかったのです。
 この事件それ自体も天武天皇の謎を深める案件ですが、最初に弔辞を述べたのが大海宿禰蒭蒲(あらかま)で、この人物が天武天皇の幼少時の生い立ちに言及したとの事です。藤原不比等はどのような意図を以てこの記事を書いたのでしょうか、大いに気になります。
 さらに、なぜ、其の弔辞をのべた人物と同じ出自を持つと想像できる人物が崇神天皇の息子の嫁であるのか。興味深いことです。
(つづく)

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+++++皇室
 英国女王が96歳の天寿を全うされたとの事です。日本では終戦後にも「昭和天皇」が、あからさまに日本国の政治体制に口出しをし、米国政府にも意見を伝えたとの記録が残されています(容喙)。しかし、現在は日本国憲法の制約下にあり、天皇の政治的発言は封じられています。そのため皇室の話題はもっぱらA宮・後嗣殿下と其の家族の醜聞が取りざたされる程度です。日本と異なり、英国王室は時に政治にあからさまに口出しをすることが知られています。其の実相の一端を下の記事が語っています。
%%%%%エリザベス女王の訃報で英王室の“不都合な真実”も浮彫りに 印象的だった晩年の手の甲のあざ公開日:2022/09/12 13:50 更新日:2022/09/12 16:56
英国の女王エリザベス2世が8日、96歳で亡くなった。在位70年、それも「腐っても鯛」な老舗の大国、英国の元首となると、現在この地球上で生きている人間の大半が、彼女にまつわるなんらかの記憶を保持していると言っても大げさではないだろう。その死への反応は、国葬どころか、いわば「世界葬」といった様相を呈している。

 さて、エリザベス女王の功績を讃える際によく聞かれるのが、「開かれた王室」「国民に寄り添う」というフレーズだ。「開かれて」いて「寄り添う」というのは、今やあらゆる立場の人間、サーヴィスに当然のように求められる資質となった。女王の生涯にそうした精神の表れを示す例は枚挙にいとまがないわけだが、しかしたとえば、The New York Timesの記事「女王を悼めども、帝国を悼むまじ」(Mourn the Queen, Not Her Empire 2022/9/8)では、功績の「光」の裏にある「影」──たとえば、植民地での暴虐を詳述した「不都合な」文書が、長らく隠蔽もしくは破棄されていたことなど──にも触れている。さらには、会期中に毎週催されるという女王 vs 首相のバッキンガム宮殿でのタイマン、もとい、会談で話された内容は、「ブラックボックス」とされるのが掟であったことも。「私がこの世で信頼する人間は二人だけ。一人は妻、もう一人は女王」と言った首相もいたとかいなかったとか。ともあれそこは、当然ながら、「開かれた」どころか機密だらけの場でもあったに違いない。

■女王は「英国民に寄り添った」のか

 思えば、女王が国民に対してガッツリ「開かれ」て「寄り添った」のは、公式訪問、オリンピックやコロナといった、あくまでも公の行事や有事に際して(のみ)であった。例の「メグジット」(※20年1月、サセックス公爵夫妻が英国王室の主要メンバーから退くことをSNSで発表)のときは、迅速な初動に続いて、本音は極力抑えたと思しき(京都人的)大人な文書(「悲しおすけど、おふたりさんこれからの幸せを願うてます(大意)」)の発表のみという無駄のなさ。その内実について、女王本人がさらに何かをほのめかすようなことはない。ダイアナ妃のときも、国民から「冷たい」と言われてやっとの追悼演説。まあチャールズも「たいがい」だが、やたら偶像化されていたダイアナについても、内心、言いたいこと山ほどあったんだろうな、と想像される。
印象的だったトラス新首相任命の写真
 要するにこういうことだ。世界の支配構造の表も裏も知り尽くしたベテラン女王には、「開いた」ことよりも「閉じて」おいたことの方が、はるかに多かったはずだ。秘密を抱え続けるというのは、(国家機密に比べれば)大した秘密などないに等しいような庶民でも苦しいのだから、女王の抱えていた重圧は察するに余りある。皆が口をそろえて言う彼女の威厳や包容力は、そういう「覚悟」から発するものでもあっただろう。カラーパレットができあがるのではないかという勢いの毎度の鮮やかな衣装と柔らかな笑顔で、いつもお元気な女王様、という揺らがぬイメージを作り上げた。しかし、いつになく地味なお召し物で、トラス新首相任命の写真に写った女王の手の甲のあざは、実は心身ともに満身創痍であったことの、最初で最後の「ヒント」だったのかもしれない。

 時代の激流の中、伝統ある国家の威容を保ちつつアップデートしていくという難題にあたっては、「秘すれば花」的美学がひとつのサバイバル戦略でもあった。しかし時代は変わる。良くも悪くも、容赦なく「開かれる」=「ばれる」時代になった。「ばらされる専門」だった新国王チャールズ3世は、女王の美学を引き継ぐ器とはあまり思えないが、いかにもそれが今っぽい、というべきなのかもしれない。女王陛下という、世界の大きな「ブラックボックス」がまたひとつ消えた後、大所帯運営はさっそく波乱必至の模様。ハリー王子(サセックス公爵)が暴露本を出そうとしているとか、英連邦では不穏な反動の芽だとか、またスコットランド独立の動きが出るのではないかとか…。"God Save the King."(王に神のご加護がありますよう)と祈るばかりである。

%%%%%(文=合田典世/京大大学院准教授・西欧文化論)

壬申の乱(再考察ー3)、東郷和彦氏が語るウクライナ問題

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(写真:一月ほど前の強風・強雨でついに倒壊した鎮守様のご神木。拡大は図のクリックで)
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(写真:まさに黄金の原となった田んぼ。拡大は図のクリックで)
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  閃光が 雷音伴い 窓ゆれる 臍をかばって 布団をかぶる

 今朝未明の 雷はずいぶんと長く続きました、閃光と雷音の時間差はまちまちでした。どうやらあちこちに雷が徘徊たようです。

 ロシアによるウクライナ侵攻が勃発したのは本年2月24日です。あれからはや、5ヵ月半、ほぼ半年が経過しました。この間の事態の推移を東欧圏で長く外交官として活動してこられた東郷和彦氏が語っています。特にウクライナ国での使用言語分布への言及は興味深いものがあります。また、今般の紛争は「バイデン米国大統領」が引き起こしたといってよいという分析はなかなか興味深いものがあります。
 おもえば、今から42年前に滞在したモスクワの研究所では、ソ連邦科学アカデミ準会員(当時はロシアではなくソビエト連邦)の教授が主宰する研究室に居候することとなりました。アカデミ会員に準ずるほどの優れた研究者であるので、当然モスクワ大学、あるいはレニングラード大学を卒業しているのだろうと考えていました。が、名前は忘れましたが「地下資源に関するInstitute(正式名称は失念したが大学に準ずる高等教育研究機関) 」と経歴にあり不思議に思っていました。其の疑問が最近読んだ本「数学の大統一に挑む」(Edward Frenkel著、青木薫訳、文芸春秋、2015年)で解けました。著者はカリフォルニア大学バークレイ校の数学教授で、「群論」を駆使して量子力学の新局面を展望するという現役の研究者です。本の前半部で著者は自らの青年期を語ります。飛びきり優秀であったので、周囲も、そして自分自身もモスクワ大学に入学し数学物理を研究すると思い込んでいました。実際入学試験の結果は採点した教授達がうなるほどの見事な結果であったといいます。しかし、試験後の面接で、面接官から「君は此の大学に何回挑戦しても入学できない」と宣告されたそうです。一人の面接官は著者の才能を惜しんで別の学校を薦めてくれたそうです。それは「石油ガスInstitute」でした。入ってみると同じような体験者が少なくなかったと書いています。理由は著者の出自です。すなわち「ユダヤ人」であるからです。私がモスクワで居候した研究室の教授もどうやらそうした出自を持つのかなと理解した次第です。幸いにしてこの研究所では出自を問わなかったということなのかもしれません。
 ところがこの教授は、私が訪ソした二ヵ月後に心臓疾患で急逝してしまいました。研究室には一名の助教授と三名の大学院生(アスピラント)がいました。タシケントの外国語大学を優秀な成績で卒業した青年、残る二名、一人はハンサムのサーシャ、一人は寡黙で憂いの表情の美人のナターシャ、はキエフ大学卒業生でした。此の二名は英語を話さないので、親密な会話はもっぱら助教授とタシケントの院生でした。彼はウズベキスタンに帰国後、学問の世界からビジネスに転進し、一躍ウズベキスタンの有数な金持ちの一人となったことは以前このブログ記事で書きました。1990年代初頭「新ロシア人」という言葉がはやりましたが、彼はまさに「新ウズベキスタン人」とでも言うべき人物でありました。
 さて、件の二名のウクライナ人学生は、私のクリミア旅行のお膳立て、すなわちシンフェロポリ研究所との連絡、カウンタパートの選定などの手配、ヤルタ地震観測所を含む観光地情報などを教えてくれました。おかげさまで、実り多いクリミヤ滞在でありました。と、言うわけで、下の動画で語られるクリミヤを懐かしみながら視聴しました。ブチャの虐殺事件の背景なども詳しく語られています。
ウクライナ戦争はなぜ終わらないのか?ロシアの真意とは⁉︎ 東郷和彦(静岡県立大学グローバル地域センター客員教授)×鳩山友紀夫


+++++天武天皇(再考−2)
 天武天皇の出自、姻戚、幼名(ただし「大海人皇子」は日本書紀監修者が命名)などは、此の天皇の政治的立ち場が倭国側であると強く推定させます。ここで言う「倭国」とは、魏志倭人伝、宋書倭国伝、梁書などが書く倭国とは、やや異なります。それは隋書倭国伝、旧唐書が認識していたと思われる「倭国」です。すなわち、隋・唐が認識していた「倭」国は、西域ペルシアからの渡来民、に加え邪馬台国時代の「倭国」の末裔、そして日本列島の在来の民(たとえばアイヌ)から構成されていたのです。其の中で主導的立場にあった渡来民は日本列島東北部に上陸し東日本に痕跡を残しながら、在来民を糾合しつつ南下し、日本列島を自らの影響下においてきたのです。それを隋・唐は認識していたのでしょう。此の勢力に対峙する、奈良の権力は「倭国」勢力を「蝦夷」と蔑称し壬申の乱の前後から唐・新羅の後押しを得て殲滅に乗り出します。

 しかし、上で書いてきたこととは異なり日本書紀で語られる天武天皇は明らかに「倭国」側の人物ではありません。此の天皇は壬申の乱の勝者であり、「乱」後には日本列島支配の頂上に立って治世した人物として語られます。皇后は天智天皇、すなわち先代の最高権力者の娘です。まさに支配層の要です。

 どうにも話が整合しません。私はかって以下のような考察をしました。
%%%%%過去記事再掲170809記事「天武は二人居た」を藤原不比等が暗黙に語りおる
 %%日本書紀巻二十九・天武四年紀四月の条より
天武天皇四年(六七五)夏四月甲戌朔戊寅(五日)。請僧尼二千四百余、而大設斎焉。
辛巳(八日)。勅。小錦上当摩公広麻呂。小錦下久努臣麻呂二人。勿使朝参。
壬午(九日)。詔曰。諸国貸税。自今以後。明察百姓。先知富貧。簡定三等。仍中戸以下応与貸。
癸未(十日)。遣小紫美濃王。小錦下佐伯連広足、祠風神于竜田立野。遣小錦中間人連大蓋。大山中曾禰連韓犬、祭大忌神於広瀬河曲。
丁亥(十四日)。小錦下久努臣麻呂坐対捍詔使。官位尽追。
庚寅(十七日)。詔諸国曰。自今以後。制諸漁猟者。莫造檻穽、及施機槍等之類。亦四月朔以後。九月三十日以前。莫置比満沙伎理梁。且莫食牛・馬・犬・猿・鶏之完。以外不在禁例。若有犯者罪之。
辛卯(十八日)。三位麻続王有罪。流于因播。一子流伊豆嶋。一子流血鹿嶋。
%%

 上記文節には、大方の古代史学者同様、私も強い興味を抱き、本ブログでも繰り返しその解釈を試みてきました。
 その中には上記引用文の最下行「辛卯(十八日)」も含みます。万葉集二十四歌に誰が付したかは定かでありませんが「誰か」が、注を付したのです。その人物は、上記の記述の最下行こそ、万葉集二十四歌と同じ事件を叙事していると考えたわけです。

 所がその事件の発生日時を「天皇四年乙亥夏四月戊戌朔乙卯」と書いてしまったのです。
%%%%%万葉集巻一、二十四歌左注
"右案日本紀曰 天皇四年夏四月戊戌朔(四月一日)乙卯(十八日)三位麻續王有罪流于因幡 一子流伊豆嶋 一子流血鹿嶋也 是云配于伊勢國伊良虞嶋者 若疑後人縁歌辞而誤記乎"
%%%%%
 万葉集の左注でも、その事件は四月十八日に起きたことになっているのですが、その干支が違っているのです。天武天皇四月一日の干支は、上記日本書紀最上行に見るように「四月甲戌朔」であり「四月戊戌朔」ではありません。
 私は、この違いこそ、藤原不比等が天武紀を監修するに際して日本列島史に持ち込んだfabricationの名残に違いないと、当時の暦やらをいじくりまわすなどの考察をしてきました。残念ながら、現時点では色々な可能性があり確論とよべるものには達していません。が、史実に何がしかを持ち込むことで歴史の真実を隠蔽したことには変わりはないと確信しています。

 麻績王は東国の抵抗戦線構築のため東上する際に、重要な戦略基地と見なした一つが因播であったろうと思っています。それを上掲の常陸国風土記の△諒言瓩如峅質躪餔波」と書いています。多分この視察メモは藤原不比等の手にすることとなり、彼のfabricationの補強の材料として使われたのではなかろうか、と想像しています。

  さて、話を戻します。麻績王に東国鹿島への出張を命じたのは誰か?であります。「この任務を麻續王に課したのは、飛鳥浄御原大宮臨軒天皇です。この天皇は日本書紀巻二十八、二十九で語られる天武天皇であるとされています。飛鳥浄御原大宮は奈良盆地内にあったとされていますから、「おかしいではないか?」と、古代史学専門家からは冷笑・嘲笑されてしまいます。
奈良盆地に拠する権力者は、東国の軍事支配を目論む側であり、その権力者が東国の反奈良勢力を支援するとすれば奇妙な話です。

 この奇妙な議論を整合的に理解できる歴史の道筋があるのです。私は、かねてより、「日本書紀は人格の異なる二人の人物を合体させて一人の「天武天皇」をfabricateしている」、と書いて来ました。仮にその二人を天武A,天武Bで表記します。天武Aは九州に基盤を置く倭国王です。一方天武Bは奈良盆地に基盤を置く最高権力者です。日本書紀はこの天武Bの人物のプロフィールを露に書きません。が、この人物こそ、まずは壬申の乱で倭国を敗残に追いやり、いまや、東国の野蛮人(東夷)征伐と称して征討軍を送らんとしているのです。

 実は、日本列島近・現代史の総監督者であった藤原不比等はこの事実を大ッピラに明らかにしているのです。それは日本書紀で天武紀だけが二巻あることです。即ち巻二十八、巻二十九です。古代史研究者は巻二十八は壬申の乱を記録する文書であり、二十九は天武の治世を記録する紀であるから奇異なことではないと自らを納得させてきたのです。しかし、藤原不比等の「学者」としての本心は、二人の天武の存在を(直接表現ではないにせよ)後世に知らしめておきたかった。巻二十八は天武Aであり、巻二十九は天武A+天武Bであったのです。
 古代史研究者が精査すべきは日本書紀二十九の構造であろうと思っています。さすれば、天武Aと天武Bの峻別が可能となり、ひいては七世紀から八世紀前半の日本列島政治史の未知が開かれるのだろうと思っています。

 さて、常陸国風土記行方郡の条(上掲△諒言瓠砲暴颪れる「飛鳥浄御原」は、この天武Bの宮廷であると、大方の古代史研究者は疑いません。つまりそれは奈良にあると。わたくしは自らの文脈からそれを疑っていますが、あの異端の古代史研究者として知られる故古田武彦氏もわたくしとは異なり視点から「飛鳥浄御原」は九州にあったと主張しその場所も示しています。そもそも地名に「原」がつくだけで、それは九州にあるの可能性が高いのです。九州の地では「原」は「ハラ」とは音せず、「バル」と音します。

 飛鳥浄御原も「あすかきよみはら」ではなく「あすかきよみばる」であったと思われます。古田武彦氏は、自らの九州王朝説に従ってこの宮は小郡であるといいます、
(図: 小郡 左の青をクリックすると地図が表示されます。
%%%%%過去記事再掲おわり
(つづく)

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壬申の乱・再考察(2)、木村氏が語る統一教会問題、朝ドラ炎上(2)

(本ブログは月木に更新されます。コメントはryuuzaki_i@yahoo.co.jp へ)
(写真:此のところ、めっきりと蝉の雄たけびが静まりました。そうなると虫の声が田んぼで際立って聞こえてきます。
虫の声0202


 きのうきょう 蝉の鳴き声 静まるも 湿気の日々は 未だ 収まらず

+++++天武天皇(再考察(1))
 壬申の乱の勝者は天智天皇の仕掛けた罠を見抜き、戦闘に踏み出した天武天皇であった、と日本書紀は書きます。大方の歴史研究者が日本書紀の記述から読み取る「通説」です。研究者が其の通説に違和感を抱かない理由は、七世紀の権力争いの背後に思いを致していないことです。すなわち、乱の一方の当事者である中大兄は、「乙巳の変」(西暦645年)でのいわば「暗殺者」です。九州に勢力を及ぼしていた渡来民に出自を持つ蘇我一族の殲滅を図ったのです。

 日本書紀の文脈からは、天武天皇は、九州の出自と思ってよいと思います。有力な側近となった高市皇子の母が胸形君徳善の娘尼子娘です。胸形が九州の北部現在の宗像です。さらにさかのぼるならば、それは邪馬台国時代に存在した「彌奴(みな)国」です。此の国は八つある邪馬国連邦(邪馬台国の意、「台」は「中央」転じて「連邦」の意味と現ブログ管理人は解釈している)構成国には含まれていません。しかし魏志倭人伝には此の「台」国に含まれていない21の国一つに「彌奴(みな)」国を挙げています。以前書いたように現地住民は番号で以て夫々の国を呼称していたと書きました。それに倣うならば「彌奴(みな)」国は「三(み)七(な)」国、すなわち三番国と七番国に関連して構成されている「国」と捕らえていたはずです。
 此の国が排出した英雄こそが権力に抗って建甕槌命らと戦い、無念にも敗れて諏訪湖に幽囚された「建御名方」命です。古事記で描かれる舞台は山陰地方出雲界隈です。「九州北部から奮戦し出雲にまで戦線が拡大したけれどもそこで、敢え無く敗北を喫した」といった史実を反映した説話であろうと私は考えています。そして此の説話は、「壬申の乱」で敗北した倭国側を想起させます。しかし、そうとすると天武天皇はそうした敗れた側ではなく勝った側に、それも勝った側を率いた人物です。

 ところで、天武天皇の名前は、その出自が渡来民であることを想像させます。この人物を日本書紀は大海皇子(おおあま)と書きますが、実際の呼称は不明です。此の名前は明らかに隋書倭国伝に記載される倭王の号「姓阿毎」(せいはあめ)に由来します。すなわち、「毎」を「メ」の「音写」として使っているのです。

 さて、こうなると、天武天皇は「乙巳の変」の敵(かたき)を討ったという構図になります。そうなるとおかしなことがおきます、すなわち、浄御原宮以降の天皇は倭国の系譜(渡来民の系譜)となってしまうからです。其の倭国の系譜に「乙巳の変」で倭国王の暗殺を中大兄とともに企んだ中臣鎌足が側近として仕え、それにとどまらず其の息子である藤原不比等が権力を強大化させてゆきます。どうやら、壬申の乱の登場役者については、詳しい考察が必要です。こうした視点から壬申の乱を眺めた研究者を私は知りません。
(つづく)

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+++++(旧)統一教会
 一水会代表の木村三浩氏が、旧統一教会の問題を詳しく語っています。
%%%%%「自民党はけじめをつけるべき」「教義を読めば距離を取ろうと思うはずだ」旧統一教会・国際勝共連合との関係を批判してきた一水会の木村三浩代表
9/4(日) 9:01配信
 次々と明るみになる、政治家と世界平和統一家庭連合(旧統一教会)との“関係”。関連団体のイベント出演や祝辞・メッセージの提供、会費の支払いなど、特に自民党議員においてそれは顕著だ。 【映像】一水会・木村代表に聞く  背景にあるとみられているのが、旧統一教会、そして関連団体である「国際勝共連合」と“反共”という理念で一致した自民党の長い歴史だ。
 国際勝共連合の梶栗正義会長は『PRESIDENT Online』のインタビューの中で「UPFや国際勝共連合、世界平和連合などは、現実社会の問題を解決するために設立された団体であって、目的や活動もまったく異なっています。自民党と何か特別な深い関係があるわけではなく、共産主義の勢力と戦える政治家の方の活動を応援しています」と説明している  2日の『ABEMA Prime』では、こうした日本の保守派と旧統一教会の関係を問題視してきた民族派団体「一水会」の木村三浩代表に話を聞いた。
■統一教会、勝共連合は“民族主義運動の敵だ”
 木村代表は国際勝共連合について次のように話す。  「1967年、日本船舶振興会の笹川良一さんなどの保守派、右翼の人たちが本栖湖に集まって会議を開き、共産党に対抗する大連合のようなものをやろうという話になった。そして翌年、共産主義に打ち勝って、自分たちの政治理念を世の中に広めていこうという趣旨・理念のもと、岸信介元総理などの肝いりもあり、世界基督教統一神霊協会(現・世界平和統一家庭連合)の政治部門として国際勝共連合が結成された(会長に統一協会の初代会長・久保木修己氏、名誉会長に笹川氏)。そして日米安全保障条約の改定(1970)を推進しようとする自民党とも仲良く反共運動をやってきた。
 もともと自民党というのは融通無碍な政党で、1960年にも安保闘争を乗り切るために博徒、テキ屋などを動員した『反共抜刀隊』を作ろうとしたこともある。そのくらい、時々で利用できるものは利用し、利害が一致する者とは結ぶ政党だ。やはり60年代、70年代は保守、右翼の方が“反動”だと思われていた時代だったので、ある面で純粋で非常に真面目に活動する国際勝共連合、統一教会の人たちを頼もしく思ったというのが実情だと思う。そして、それは選挙活動おいても同様だったということだ。
 国際勝共連合としても統一教会の政治部門でもあり、“神の国を作るための尖兵”として、“サタン”である共産党を倒す、その点では自民党と一緒に活動することで利害が一致したということだろう。しかし創設者の文鮮明氏と北朝鮮の金日成国家主席の仲が良かったことからも分かるように、単に“反共”というだけでなく“反日”という側面もあった。実際、統一教会の『原理講論』には、日本は朝鮮半島における非常に残虐な行為の償いをしなければならないと書かれていて、天皇も含めて“サタン”の側に置かれてしまっている。  さらに1984年、世界日報事件というのが起きる。統一教会に関連する『世界日報』の編集長になった人がそうした教義を勉強、“これは何だ”と批判した結果、刃傷沙汰になってしまった。一水会としては“それはおかしいんじゃないか“ということではっきり距離を取るようになり、翌1985年には鈴木邦男・前代表が『朝日ジャーナル』で統一教会、勝共連合を“民族主義運動の敵だ”と批判した。


「原理講論」では
220905統一無題

 日本会議も、勝共連合とは教科書問題などで連携をしてきたと思う。しかし本来なら“日本がサタンの国と呼ばれているが、これはどういうことか”と批判しなければならない。そもそも『原理講論』や統一教会の教義を読んでいないということなのかもしれないが、やはり互いに批判し合ってしまうと共産党を利するから、ということで“棚上げ”してきたのではないだろうか」。
■「自民党はけじめをつけるべきだ」
 高まる批判を受け、「旧統一教会と、その関連団体との関係を断つ」と明言した自民党。岸田総理も会見で「当該団体との関係を断つこと、これを党の基本方針として、関係を断つよう所属国会議員に徹底する」と表明している。こうした状況に、木村氏も「けじめをつけるべきだ」と話す。
 「“票をくれ”という人がいるのは事実だろうし、選挙運動に無償で関わっている人たちがいるというのもよく聞く話だ。やはり利害の一致だ。ただ、自民党の中にもいろんな人がいるから、要求や理念を取り入れていくのは違うだろうということにもなるだろう。例えば全国霊感商法対策弁護士連絡会が、統一教会や勝共連合とは付き合わないでくださいという要望を出してきた。安倍政権になってから、安倍さんにも何回も出している。そういう中で、政治力をもって捜査が潰されるようなことがあったとしたら、それは問題だ。  その意味では、刑事罰の対象になるような事実、行為については徹底的に捜査していかなきゃいけない。もちろん自民党の全てが愛国的で保守的ではないが、物事の見える政治家はいっぱいいるし、そういう人は勝共や原理、統一教会とは接点を持っていないと思う。ちゃんと『原理講論』なりを読んでいれば、それは距離を取ろうということになるんじゃないか。統一教会を肯定するわけではないが、信教の自由というものもあるし、宗教を信じている人にとっては心の安定になっている部分もある。そこは細かく見ていかないといけないし、宗教だからダメだ、となってはいけないと思う。  日本も“政治の季節”ではないし、1995年のオウム真理教事件のこともあり、宗教そのものが凋落し、統一教会も霊感商法などで社会的に叩かれた。それでもオウムの陰で活動を続け、家庭連合(世界平和統一家庭連合)と名称を変えてLGBTや憲法改正などに目標を置き、スパイ防止法などのコンサバティブ的な政治理念を持って続いてきた。『原理講論』の中に人間は表面的なものだけでは変わらないという教えもあるが、マルクスが“宗教が悩める民衆のアヘンだ”と言ったように、人々の心を掴む求心力があるということだろう」。
 木村氏の話を受け、『2ちゃんねる』創設者ひろゆき氏は「自民党なり政府が今やるべきことは、文科省を動かして調査をする、宗教法人の非課税特権を剥奪する、あるいは税務署が入る、といったことだと思うが、いまだにやっていない。それは宗教弾圧とか、信教の自由という話ではないと思う。結局、政府として動いたのって、消費者問題の担当大臣になった河野さんが霊感商法対策をすると言った、それが唯一だろう」とコメント。  一方、ジャーナリストの佐々木俊尚氏は「勝共連合や日本会議に関する話は具体的な点があまりないというのが現実だし、あまり言い過ぎると陰謀論の範疇に入ってしまう危険がある。こども家庭庁の設立についても、勝共連合の影響があったのかどうかは分からない。あるともないとも言えない段階で、証拠なしに一方的に断罪するのはよくない。関係しているのと影響を受けているのは違うので、そこは厳密に分けないと宗教弾圧になりかねない」と懸念を示していた。
%%%%%(『ABEMA Prime』より)
 関連動画:
国葬と旧統一教会問題に揺れる永田町に今起きていること

+++++NHK 朝ドラ炎上がやまない!
 此のところ連日のようにNHK朝ドラに関する記事をyahooニュースで見るようになりました。最近のニュースで
『作者は「今日も一日頑張ろうと思っていただける様なドラマ作りが一貫して出来た」と自信をにじませた』
との談話が紹介されていました。私が見る限り、受信料を取って、視聴者に見せるに値するドラマとは言いがたいようです(下の参考に付したコメントをみればわかります)。まあ朝ドラごときで元気が出るのか、そうでないのかは定かではありませんが、視聴している15分は不快な気分になります。それはなんといってもドラマがつぎはぎだらけで脈絡が無いからで、それは作者がドラマの周囲・環境にたいしてきちんと対峙していない(時代考証無視、料理番組興味なしなど勉強不足・調査不足)によることがはっきりしているからでしょう。
 そうした世間の不評を少しでも挽回せねばとのNHKあたりからの依頼があったのでしょうか、このところ弁護記事が目立っています。その視点が「純文学的テーマ」を作者は追求していたのではないかとのなんともピンとはずれな論評です。驚きました。
NHK朝ドラ「ちむどんどん」イライラの元凶は脚本家選び 暢子やニーニーの力演も台無し! 9/4(日) 9:06配信
関連記事:
ヒロインの“純粋無垢”は“恐怖”と表裏一体 『ちむどんどん』根底にある純文学的テーマ
『ちむどんどん』が描き続ける“幸せになること”の重要性 二ツ橋が飲食業の難しさを説く
膨大な数にのぼる視聴者からのコメント

壬申の乱論議の見直し(1)、偽りの「韓国ヘイト」(田中・浅田)

(本ブログは月木に更新されます。コメントはryuuzaki_i@yahoo.co.jp へ)
(写真:朝焼けの空。拡大は図のクリックで)
朝やけ0195


 秋 未(いま)だ 蒸し暑き日が 戻りきて 当地の蝉も うんざり声で鳴く

 ここ数日、涼しい日が続いたので、このまま秋に突入かと思っていました。暑き日々への警戒心を解き放っておりました、ところが今日は朝から、あの蒸し暑き空気が戻ってきました。勘弁してくれと、のた打ち回っております。本日の窓際の蝉の鳴き声にも疲労感がただよっています。

 8月8日に始まった長万部の水柱噴出について、其の現象と関係付けらるれるような周辺の地震活動変化が認められるか否かを調べてみました。長万部界隈の地震活動はそれほど高くないので、今回は宗谷地方です。ここで、水柱出現のほぼ一ヶ月前に大きな地震が起きました。3年前からのこのあたりの地震活動を眺めてみると、北海道の西縁に沿う地震活動はユーラシア・プレートと北米プレートの境界と考えられています。が其の活動は、留萌あたりで二つに分岐し一つは北東方向の宗谷に延びているということがわかります。そこで、今回は宗谷地方の地震活動の時間的変動を図にしてみました。
(図:2019年1月1日ー2022年8月28日までの北海道周辺の浅い地震活動。左は地震活動。右は地震活動の時ー空間分布の三次元表示。拡大は図のクリックで)
 220901宗谷無題

 分岐活動は、時空間分布(上図の右)でもぼんやりと見えています。次回、もう少し、このあたりを精査することとします。
 
+++++天武天皇に重なる崇神天皇(1)
 常陸国風土記新治郡の条が語る説話は、草壁天皇を介して天武天皇が崇神天皇と時代を同じくして活動していたことを暗示します(前回記事参照)。天武天皇といえば、「壬申の乱」の主役です。日本書紀の通読から見える「壬申の乱」は舒明天皇の二人の息子、長男と次男の間に繰り広げられた「兄弟喧嘩」です。両者の政治的主張、政治的野望を日本書紀は記載しません。江戸時代のいくつかの藩で起きていた「お家騒動」と同じです。17年前の645年におきた「乙巳の変」とは真に対照的です。この変では、首謀者の中大兄と中臣鎌足による「蘇我一族支配への批判と否定」なる明確な「大義名分」が語られています。
 
 しかし、此の二つの大事件、すなわち「乙巳の変」と「壬申の乱」の両方に中大兄が絡んでいるとなると、此の「乱」が江戸時代のお家騒動と同じであるとは考えがたいのです。「乙巳の変」同様、そこには、日本列島が七世紀に抱えていた深刻な政治対立の発現が「壬申の乱」であると考えるのが史実であり、そうした理解に我々を導くと考えています。

 そこで、私が本ブログで書いてきた「壬申の乱」にいたる過程の概要をまずはおさらいしておきます。まずは天智天皇は和名が「中大兄」で、中臣鎌足と謀って「蘇我入鹿」を誅殺し、さらには父である蘇我蝦夷を自害に追い込みます。これが乙巳の変(西暦645年)です。「蘇我」は西域「サカ族」出自を持つ渡来民の子孫です。この一族は日本列島を七世紀初頭までは、おおむね統治しており、西暦600年に隋に使節を送る(遣隋使)ほどの権勢を誇っていました。大陸中国王朝は、此の日本列島の政治体制を「倭国」と表記しています。当時の倭王が日本書紀ではあらわに書かないが「景行天皇」(西暦71年即位と日本書紀は書く)であると私は考えていることは依然書きました。日本書紀は景行天皇を書くことを嫌い、ここに「聖徳太子」なる人物を持ち込んできます。「聖徳太子の真実」(吉川弘文館、1999年)を著した歴史学者の大山誠一・中部大学教授は 聖徳太子の実在には強い疑問を投げつつ(実際には実在否定説)も、蘇我馬子を重ねています。日本書紀に従えば、蘇我馬子は乙巳の変で自害させられた蘇我蝦夷の父です。時代から言えば、まさに倭国王である景行天皇とぴたりと重なります。因みに景行天皇の和名を日本書紀は「大足彦忍代別」(おう たりひこ おしろわけ)と書き、隋書倭国伝は倭王を「倭国王 阿毎 多利思 比弧」(おう あめ たりし ひこ)と書きます。二つの名前の音が酷似していることから「景行天皇」が倭国王であることが確認されます(もっとも、弧の私の「確認」を疑う人たちのために私は其の確認を正当とする更なる論拠も提供できます」が、それらはすでに本ブログでは提示してきたので、ここでは繰り返しません)。

 西暦608年に隋皇帝は倭国に調査団を派遣します。其の調査団は九州の倭国政庁(多分、福岡県東部の「京都」(みやこ)から東に足を伸ばし、奈良盆地内で逼塞させられていた「秦王国」一党と遭遇します。これが、「倭国」と「奈良盆地勢力」間に以後70年以上にわたって繰り広げられた争闘の始まりです。
 中国大陸の王朝は当然のことながら奈良盆地内の「秦王国」の末裔を支援し、彼らに倭国転覆を使嗾します。それが、「乙巳の変」であり、白村江会(海)戦(西暦633年)です。この戦いに先んじて唐は新羅を抱き込んで百済を滅亡に追い込みます。この伝に倣って、唐は新羅と謀り奈良盆地の「秦王国」末裔をそそのかし、倭国の挟撃作戦で、倭国を「朝鮮半島への戦争」を挑発したと考えています(このあたりは故安倍首相が身内の会合で語っていた「真珠湾攻撃」経緯と似ています)。倭国はまんまと其の罠におち、朝鮮半島に出撃し、惨敗を喫して九州に戻ります。
 こうした筋書きで、日本列島の七世紀をおおむね理解できますが、疑問の一つは倭国権力は東国に大きな勢力を有していたはずです。この勢力が「白村江」の海戦で動員されたはずですが、日本書紀を見る限りそれが見えてこない。九州の勢力は、海戦での敗戦を見越して勢力の温存を図ったのだろうか、といった想像も可能です。しかし、東国に巨大な敵勢がいたと成ると、奈良盆地に拠する「秦王国」末裔は、唐の支援があったとしても安閑とはしていられない。この海戦での倭国と「秦王国」末裔の挙動は日本列島古代政治権力史の解明が難しい一つの局面であろうと考えています。

 それは、さておき西暦663年の海戦で、唐新羅に支援された秦王国末裔軍団は九州の倭国に大打撃を与えたのです。かくして倭国は自らの政庁である「宮」を京都(みやこ、福岡ー大分の県境)から近江・大津に遷したのです(西暦666年)。すでに書いたようにこの文脈から明らかなことは、このときに倭国の首領が後に天智天皇となる中大王であるはずはありません。一方天武天皇についても同様な疑問があります。それを次回書きます。
(つづく)


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+++++秋篠宮ご一家の問題
 宮内庁にあらたに元警視庁長官が相談役として着任したとのことです。醜聞続きの秋篠宮一家を右翼神道過激派から護るための一石とも思えます。が、この宮家の「無節操」な活動は、わざわざこうした過激派を刺激することを狙っているかのごとくです。それが、以下の動画で語られています。日本列島に住む芸術家が其の天分を発揮して作り上げてきた芸術がみすみす外国に移管されてしまうとしたら、こうした暴挙は看過できません。
【速報】小室圭夫妻静かに動き始めた不正案件。全て計画の上か


+++++統一教会と「反日」問題
 表記についてた田中康夫氏と浅田彰氏が鋭く語っています。少々長い記事ですが、ここに転載しました。
%%%%%安倍晋三の国葬に異議あり 「反日邪教」を持ち上げた偽りの「保守」《田中・浅田》 8/28(日) 6:02配信
---------- 田中康夫・浅田彰が、世相をしなやかにメッタ斬りする対談「憂国呆談」、今回は銃撃事件以降、政界を一気に覆った統一教会問題のお話からです。
「反共」だが「反日」統一教会の奇々怪々
 浅田 母親が統一教会(世界平和統一家庭連合)に入れあげて破産、人生設計が狂ったことを恨んだ男性が、統一教会幹部を殺すのは難しいから、代わりに祖父の岸信介元首相の代から統一教会と関係の深い安倍晋三元首相を殺害。それをきっかけに統一教会が自由民主党、とくに「右翼」の安倍派と、いまもって選挙応援などで広く深く結びついてることが明るみに出た。 神道系右翼の日本会議の方が目立ってたけど、統一教会もまだ根を張ってたんだなあ。確かに、北朝鮮で投獄され朝鮮戦争で韓国に逃れた文鮮明が興した宗教だから、反共意識が強く、岸が笹川良一のような右翼を通じて結びつき勝共連合をつくらせたのも不思議はない。 だけど、底流には反日意識もあって、日本人信者は植民地支配の罪を償うため韓国人信者の十倍も二十倍も貢げっていうわけでしょ? 現に霊感商法でカネを巻き上げることが問題化したのは日本で、韓国やアメリカではその種の問題は注目されてない。他方、反共だった文鮮明も晩年には北朝鮮との和解を目指してた。日本ナショナリズムを前面に押し出す自民党右派がそんな団体に選挙応援をしてもらってたとは!  僕が大学に入った1975年当時はまだ大学に統一教会系の原理研究会があって、僕も含めたいわゆるノンセクト・ラディカルにとっては新左翼の革マル派や中核派と並ぶ警戒対象だったから、ちょっと調べてみて、「淫祠邪教(いんしじゃきょう)」って古語を思い出したな。  イエスは霊の救済を行なったものの独身者として子孫を残さずに死んだ失敗したメシアだ。文鮮明(ムン・ソンミョン)・韓鶴子(ハン・ハクジャ)夫妻こそ霊と肉の救済を行なう真のメシアで、夫妻のもと信者同士が集団結婚して無原罪の(アダムとイヴが知恵の果実を食べて裸であることを恥じるようになりエデンの園から追放される、その原罪から解き放たれた)種族が増えていくことで人類は救われる、と!  キリスト教から見れば異端っていうより異教に近いでしょう。で、朝鮮がアダムなら日本はイヴ、端的に言って朝鮮半島が男性器なら日本列島は女性器、そのくせ女だてらに朝鮮を植民地支配した罪を償うために日本はどんどん貢げ、と。逆「慰安婦問題」って言っちゃうと不謹慎に過ぎるだろうけど、日本人女性信者は、経済力や学力がないから、あるいは病気や障碍があるから結婚できないでいる韓国人男性信者と、集団結婚で結ばれて、身をもって奉仕せよ、と。
 田中 その1点だけでも、「統一教会」と関わりを持った政治家は「公職追放」だ、と朝鮮半島や中国大陸を見下してきたエセ「保守」ネット右翼の面々は狼煙(のろし)を上げるべきなのにね。日出ずる国を「ド壺」に陥れた輩は反共「レッド・パージ」ならぬ統一壺「ポット・パージ」だと!   ベニート・ムッソリーニを信奉する「大衆右翼」を自負し、右翼団体の「国粋大衆党」を戦前の1931年(昭和6年)に結党した笹川は、敗戦後は競艇事業を担う全国モーターボート競走会連合会(現在の日本モーターボート競走会)の収益金を元手に日本船舶振興会(現在の日本財団の前身)を創設。「私は日本で一番金持ちのファシストだ」と1972年に米誌『タイム』で答えている。出生地の大阪府箕面市の名誉市民でもある彼は、言われなき迫害を受けたハンセン病患者の救済にも力を注ぎ、良くも悪くも端倪(たんげい)すべからざる毀誉褒貶(きよほうへん)喧(かまびす)しき人物ではある。 その彼が「私は文鮮明の犬である」と述べていたんだから、我が家のトイ・プードルのロッタの執事を自任する僕もビックリだよ(苦笑)。そうして1982年の合同結婚式では「天を中心とした理想と信念のもとに指導し教育しておられる文鮮明先生を私が心より尊敬する所以であります」と岸が礼賛するメッセージが読み上げられた。
党派性の強すぎる国葬
 田中 ところが「反共」で日本の「保守」と連帯していた筈の統一教会は1991年に文鮮明が平壌を訪れ、金日成(キム・イルソン)と朝鮮民族としての“兄弟の契り”を交わしてしまう。朝鮮民主主義人民共和国は1972年以降、マルクス・レーニン主義を脱却して「自主・自立・自衛」を掲げる主体思想(チュチェササン)を確立したから問題なしという屁理屈だろうけど、その北朝鮮に平和自動車という合弁企業の自動車製造会社を統一教会は設立した。 資本関係を現在は解消と主張しているけど、霊感商法で社会問題化した資金源の少なくとも7割以上は日本からの献金だと「ワシントン・ポスト」も報じているから、謂わば日本から北朝鮮への「迂回献金」だ(文が1982年にワシントンD.C.で創刊した紛らわしい名称の日刊紙『ワシントン・タイムズ』を三浦瑠麗が「宗教色はほぼなく、保守系新聞としてふつうの実務家にも読まれている」と香ばしく持ち上げて失笑を買っているし、同じく文が1975年に東京で創刊の日刊紙『世界日報』に関するWikipediaに登場する数々の著名人も香ばしい)。 平壌に支局を日本メディアとして初めて2006年に開設した共同通信社は、「統一教会創設者の遺族に弔電 北朝鮮、90年代から関係」と見出しを打って、死去から10年を迎える文の遺族に北朝鮮の朝鮮アジア太平洋平和委員会が弔電を8月13日に送ったと報じた。 「嫌韓・憎韓」を掲げて商売してきた『Hanada』『WiLL』『正論』の月刊3誌は「反日邪教」に騙されたと悲憤慷慨すべきなのに、黙して語らずのヘタレ振りだ。というか、結果的に片棒担いだ我々は愚かでした、と素直に懺悔すべきだよ。
 浅田 いずれにせよ、岸信介から安倍晋三に至る自民党右派は、現在の日本会議につながる神道系右翼のみならず統一教会のような反共反日集団まで選挙に動員する極端な存在だったのが、今世紀になると、吉田茂から池田勇人や宮沢喜一をへて岸田文雄にいたる「保守本流」を押しのけて主流になった。それが異常だってことは改めて意識しといた方がいい。 その意味でも安倍元首相の国葬は大問題だね。たしかに選挙運動中に凶弾に倒れた政治家を特別に追悼するのはおかしくないけど、それなら棺を乗せた霊柩車が国会や首相官邸を巡り衆参両院議長や首相を初めとする多くの政治家が見送った、あれで十分でしょう。 そもそも戦後の日本では国葬は法的根拠を持たないんで、吉田茂元首相の国葬(1967年)さえ問題ではあった。しかし、敗戦後、占領軍のダグラス・マッカーサー司令官と渡り合い、サンフランシスコ平和条約調印に漕ぎ着けた吉田、アメリカから再軍備を求められ警察予備隊あらため自衛隊をつくったものの平和憲法改正はしなかった吉田を、多くの国民が戦後日本の礎を築いた人物と見てたのは確かだろうし、そもそも1954年に首相を辞してからずいぶん時間が経っていた。 他方、安倍は強引な手法で日本を右の方へ引っ張っていったdivisiveな(融和ではなく分断を引き起こす)人物で、右翼には支持されてもそれ以外からは警戒されてたし、死ぬまで現役だったから、自民党葬ならともかく国葬には党派性が強すぎる。海外の首脳から弔電が殺到したとか言うけれど、ナショナリストを気取りながら実はアメリカべったり、ドナルト・トランプ前米大統領のような最低の人物にまで平気ですり寄ったんで「うい奴じゃ」と思われただけでしょう。 そういえば、国会でも議員が亡くなると反対党の議員が追悼演説をするのが普通だった。前に河野洋平元衆議院議長が言ってたよ、国会での演説で感動するのは追悼演説くらいのものだ、と。それが、安倍の場合は「お友達」の甘利明自民党衆議院議員がやることになりかけ、さすがにもめて先送りされる始末。このこと自体、国葬にふさわしくない人物だったことを物語ってる。
田中 先月も触れたように、家庭連合=統一教会会長の田中富広が7月11日午後に一方的な弁明会見を開くまで、「暗殺」から丸3日間も固有名詞を出さずに「とある宗教団体」の表現で忖度する一方で、250以上の国・地域・機関が1700件を超える弔電を送ってきたと政府広報係を務めていた新聞やTVも、最近では「国葬」反対が賛成を上回ると世論調査の結果を伝えている。産経新聞が8月20日、21日に実施した世論調査でも反対51%、賛成40%。政権維持の為に法的根拠のない「国葬」をぶち上げたと国民の多くに見透かされてしまったんだね。 ところが往生際の悪い面々は、「『反対』が79・7%で『賛成』の4倍以上」と『文春オンライン』が報ずるや、メールマガジン登録者を対象に実施した「公正さ」を欠く数値だと脊髄反射ツイート。 対抗して『月刊Hanada』が「嘘偽りなき愛国者の国葬緊急アンケート」を8月17日早朝からツイッター上で始めると、スタート当初は僅か2%だった「国葬」反対派が過半数を占めてしまう勢いに。しかも7日間で投票総数が60万票を突破。花田紀凱(かずよし)編集長の古巣の文藝春秋の回答者2981人よりも母数は遙かに多い。 でもね、SNSという単語が使われる遙か前に筑紫哲也が述べたように「インターネットは便所の落書き」(苦笑)なんだから、柳に風で泰然自若とやり過ごしてこそ太っ腹な「真の保守」だぜ。  なのに、「香山リカ、東ちづる、松尾貴史、ラサール石井も参戦! 皆さま、是非ご投票下さい!」と連続ツイートで賛成派に蜂起を促し、「動員がかかって(賛成派が)再逆転しているようです」と松尾が呟くと「松尾貴史さま 再逆転されて悔しいのはわかりますが、デマはおやめください。 まだ投票されていない皆様、ぜひ、ご投票ください!」「51万票を超えました。Twitter史上最大規模ともいわれておりますこのアンケートは、どなたでもご投票頂けます。是非ご参加下さい。」1人一票とは限らぬツイッターの「アンケート」なのに全力投球。  結果は「賛成51%・反対47%・どちらともいえない6%」。他の世論調査と異なり辛うじて賛成が過半数。そこにぶら下がるツイッタラーの膨大な「賛成」「反対」押し問答を眺めると、両陣営共にエネルギーを投下する場所が他に見付からない日本の哀しさを体現しているね。  三浦瑠麗が「大喪の礼」を「たいそう」でなく「たいも」と、したり顔で誤読したのを、事前収録にも拘らず撮り直しせずに「ワイドナショー」で流した天下のフジテレビにも話題が集中した。 “ポスト田史郎”を目指している古市憲寿に至っては、「政治家って票集めの為なら何でもする人達で、当然宗教団体とも付き合うし、他の組織とも付き合う」と擁護。「あまりに統一教会批判がヒートアップすると容疑者の思う壺だ」とアクロバティックな妄言まで吐いて、さしもの「ワイドナショー」で泉谷しげるに「なに言ってんだ、こいつ」と一刀両断される始末。 「フランスはある種、戦前の日本に似ているが国家が宗教を付き従えている。一方でアメリカは宗教的自由を重んじる。日本はどっちを目指すのか。統一教会だけをバッシングしても生産性がない」という支離滅裂な発言に至っては、ただでさえ地盤沈下中の「社会学者」のイメージを更に自ら貶(おとし)めてくれた。天晴れだ。

地域を浸食していった統一教会
 浅田 もちろん信教の自由は守らなきゃいけない。だけど、統一教会やオウム真理教のように強引な布教と洗脳のあげく多くの被害者を出し社会を脅かすようなケース、あるいはタリバンや「イスラム国(IS)」のように過激な神政政治を目指すようなケースは、当然、法的・社会的に規制すべきでしょう。  
田中 「FRIDAY」は、「合同結婚式」経験者で大阪市議会議長を務めた大阪維新の会の市議会議員について報じている。 大阪府知事から大阪市長へと転職した松井一郎の地元として知られる八尾市と大和川を隔てて隣接する松原市で、国から移管を受けて大阪府が維持管理を担当する国道309号線の歩道や中央分離帯の植樹帯を清掃する活動に「世界平和統一家庭連合」が参加していると、「国道沿いの看板に『旧統一教会』 役所が清掃活動にお墨付き?」の見出しで『毎日新聞』がスクープした。  「自助・共助・公助」の時代に“相応しく”、地域住民が行政の下働きを担う「アドプト・プログラム」と称する取り組みだ。「この歩道は、大阪府アドプト・ロード・プログラムにもとづき、『世界平和統一家庭連合』が清掃活動をしています。令和3年9月認定 大阪府富田林土木事務所 松原市役所」と記された看板には「アドプト・ロード 河内の国 福地化・松原地区」と大書きされている。この「福地化」というのは統一教会独自の用語で「反共」の砦としての活動拠点を意味するらしい。  同じく南河内の富田林市での「福地化」協定は2016年。大阪の高校を退学後に笹川良一が理事長を務めていた福岡工業大学附属高校に編入した松井一郎が、奇しくも府知事だった時代の協定だ。これも「偶然」とは言え、住之江競艇場の電飾関係を牛耳る(株)大通の創設者が松井の父親で、現在は彼の弟が経営者。 笹川の出身地の箕面市では全国大学連合原理研究会CARP(原理研)が子ども向けの科学実験の講座を毎月2回、17年前から市内各地の小学校で開いていたのも遅まきながら明るみに出た。  こうして統一教会が全国各地の地域コミュニティを侵食していく中で、数千億円規模の献金が数多くの家族の悲劇を生み、今回の「暗殺」へと至った。 なのに、文部科学大臣の永岡桂子は8月10日の就任会見で「憲法でも保障される信教の自由がある」「宗教法人の規制や取り締まりを目的としていない宗教法人法には手を付けずに被害の救済をするのが良い」と答えている。駄目だねぇ。最早、宗教法人でなくカルト集団なのだから、オウム真理教同様に解散命令を出すべきだよ。  爆笑問題の太田光が「悪いカルトと認定できていないから注意深く議論しろ」と相も変わらず明後日な発言をすると、杉村大蔵が「一般信者への差別の助長に繋がってはいけない」とニワカ人権派を気取ってるけど、アホちゃうか。解散させることが苦悩する信者二世の救済にも繋がるんだよ。 とまれ、負のイメージを払拭すべく前倒しで内閣改造を行った筈が「ど壺Ⓒ松尾貴史」に嵌まって次から次へと関係が明らかに。遂には〈改造しても「統一教会」ベッタリ内閣 「萩生田政調会長」がつないだ「カルト」と「生稲晃子」〉と『週刊新潮』が特集。「一緒に日本を神様の国にしましょう」発言まで発覚した。更には岸田文雄が広島の統一教会幹部と笑みを浮かべて2人で収まった写真も『FRIDAY』が掲載。 ぬかるみの世界。底なし沼だ。  「黄金の三年間」ならぬ「呻吟の三年間」となるのでは、と前回の前編の最後で述べたけど、 早くも「苦渋の三年間」どころか「泥沼の三年間」だね。
%%%%%田中康夫×浅田 彰

長万部水柱、平野貞夫氏の戦後国会史、史学者・岡田英弘氏、統一まみれ・萩生田氏

(本ブログは月木に更新されます。コメントはryuuzaki_i@yahoo.co.jp へ)
(写真:どんぐりが小さな実をつけ始めました。拡大は写真のクリックで)
どんぐり0187

(動画:遅上の水田の水にあつまる鷺の一家。)
鷺一家0185 


 突然の 水の噴出 柱なす 地下の様子は いかばかりか

 8月8日に北海道長万部で突然地下から水を噴き上げ、水柱ともいえる形状をなしていると報じられています。
【緊急取材】長万部町に現れた巨大な水柱を取材しました 北海道長万部町

%%%%%長万部の「水柱」は“温泉” ナトリウムやマンガンなど含まれ水温は21.5℃ 8/23(火) 18:45配信
今月8日、北海道長万部町に突如、出現した謎の「水柱」。2週間以上たった今も勢いよく噴き出し続けています。その正体が明らかになりました。 水柱の水質調査結果(長万部町HPより) 「検査結果より温泉水である(推定)」 町の人によりますと、当初は温泉のような特徴的なにおいがしていたという水柱。町が行った水質調査によりますと、ナトリウムやマンガンなどの「温泉成分」が含まれ、水温は21.5℃だったといいます。 また、有害な物質は基準値以下で、人体に影響のある数値ではないということです。 町は、噴き出る“温泉水”による騒音や、しぶきで金属がさびることもあるため、対策をとる必要があるとしています。
%%%%%
(図:科学技術研究所Hinetによる二つの地震の震央と、周辺の地震活動。拡大は図のクリックで)
220829日高無題

 どのような大局的地学変動(テクトニックス)とかかわっているのか知りたいところです。ちなみに7月8月の北海道での顕著地震は二回起きています(上図)。詳細は次回記事で書きますが、図左を見るとちょうど長万部のあたりで浅発地震活動が認められます。

+++++戦後国会政治闘争史
 国会職員そして議員として戦後の国会を目撃してきた平野貞夫氏が今般の旧統一教会問題の底流を語ります。貴重なエピソードが満載です。
統一教会 / 国葬 / 五輪 / 原発 平野貞夫×佐高信×早野透【3ジジ放談】


+++++壬申の乱の内実(1)
 日本列島の古代政治・宗教史に西域からの渡来民が深くかかわってきたことを私は現ブログで指摘してきました。「古事記」、「日本書紀」をその視点から読み直すと多くの発見があることも書いてきました。それは、万葉集、風土記も同様です。とりわけ常陸国風土記には、渡来民の痕跡が多く記されていることを書いてきました。

 日本書紀が語る「壬申の乱」は、日本列島とりわけ本州・四国・九州そして多分琉球列島にまで支配を広げていた渡来民を「蝦夷」と蔑称し、、殲滅するための本格的で最終的な争いです。征討した側の本拠地は奈良盆地にあった、「漢族」の末裔です。私は此の勢力を「奈良権力」と呼んでいます。勢力それ自身は大きくはなかったけれども、唐・新羅の連合軍からの強力な応援を得て、まずは九州に本拠を置いた渡来民の勢力を撃破したのです。これが「壬申の乱」です。しかし「壬申の乱」については、字面からは理解しがたい「状況」が日本書紀には多々記載されており、それらを整合的にかつ論理的に把握することが困難です。にもかかわらず、本ブログでは、かって、其の時点での理解に基づいて詳しく日本書紀・巻二十八を読んできました(130510記事~130520記事)。
 勝利の余勢を駆って奈良権力は、現在の埼玉県南部「志木」に陣を張り、渡来民の東日本での拠点であった常陸国を攻撃し、殲滅します。かくして奈良権力の全国制覇が完遂、そこで初代の「天皇」が誕生することになります。時代は七世紀末から八世紀初頭です。

 此の筋書きで日本書紀・古事記・風土記の記載について一本の理解の筋道が見えてきます。私が特に意識したのが梅原猛氏が1970年代初頭に提起した「怨霊論」です。きわめて論理的で説得的な氏の議論に魅せられ、記紀を読み理解する際にも梅原氏の立論に照らして、検証してきました。梅原氏の立論には渡来民の存在は前提されていませんが、氏が指摘した重要な発想は、私の描き出した古代史論と整合的であることも書いてきました。

 しかし、一つ大きな疑問点が未解決のまま残されています。それは美麻貴天皇(崇神天皇、紀元前97年即位)と天武天皇(西暦673年即位)の関係です。それはすでに書きましたが、天武天皇と持統天皇との間に生まれた草壁皇子が美麻貴天皇の御世に活躍したと、常陸国風土記が書いています。すなわち、天武天皇と美麻貴天皇は同時代に存在した人物ということになります。

 本ブログでも書いてきましたが常陸国鹿島の地に渡来民が拠点を構えたのが西暦六世紀前半であることが、地学的考察から推定されることを書きました。これは、鹿島大神の降臨であると考えることができます。一方、常陸国風土記鹿島郡の条は、美麻貴天皇が鹿島大神に「奉幣」したと書きます。美麻貴天皇は紀元前の人物ではなく六世紀前半以降の人物となります。

 こうなると、どうやら、怪しくなってくるのは「天武天皇」です。此の人物は日本書紀・舒明元年紀に初めて登場します。どうやら、此の人物を疑う必要があります。日本書紀が語る多くの説話については、多々解釈に戸惑うことが少なくありません。日本書紀について哲学者の山田宗睦氏が指摘するような、時間と空間を入れ替えてしまうような記載もあります。しかし、其の多くは丁寧に原文を眺めると、其のからくりが見えてきます。しかし、釈然としない説話については、理解を留保したままであります。こうした釈然としない思いを抱えていたときにたまたま出会ったのが岡田英弘氏の指摘です:
%%%%%130410記事七世紀前後の編年史・私見(1)より
 月刊誌「新潮45」が2013年の1月号から「日本書紀はどのように作られたか」と題する記事の連載を始めています。執筆者は岡田英弘氏(東京外国語大學名誉教授、東大文学部史学科卒)です。大変単刀直入に書いています。其の中にこんな記述があります「日本書紀が伝える大和朝廷の物語はすべて第三十五代の舒明天皇から第三十九代の天武天皇の世に起こった現代史にヒントを得て書かれている」。

 私は、本ブログで縷々書いてきましたが、上記の岡田氏の議論に強い説得力を感じます。実際、其のことを本ブログで書いています。「神仏戦争」しかり、「磐井の叛乱」しかりです。岡田氏は「倭武命の東征譚」が天武天皇の事跡をなぞったものと書きます。私はそれは倭の五王の時代、「武」王の事跡が土台になったと考えています。そうした幾つかの点で意見を異にするとはいえ、発想が極めて酷似していることに意を強くしました。
%%%%%
 岡田氏の歴史論につては世の大勢の論議に惑わされない、独自の分析をすることで多くの歴史研究者から畏敬されています。その岡田氏について以下にウイキ記事を紹介しておきます。
%%%%% 岡田 英弘(おかだ ひでひろ、1931年(昭和6年)1月24日[1] - 2017年(平成29年)
人物:
中国史、古代日本史、韓国史などで、日本の中国史学会に異を唱えた研究、発言、著作がある。
「満文老檔」共同研究により26歳(史上最年少)で日本学士院賞を受賞するが、既存の中国正史に追従する中国史学の在り方に異を唱えたことで、日本の史学界では長年異端扱いされた[6]。岡田は、「私は“群れる”ことができない性質なのを痛感しつつ、学者人生を過ごしてきた。学界では孤立したが、それを苦痛にも、寂しいとも思ったことがない。強がりではなく、どうも私にはそうした神経がないらしい。周囲を恨んだこともない。学界という狭い世界ではなく、メディアに広く求められ認められたことで、私はやりたい学問ができ、主張したいことを主張してこられた」と述べている[7]。
しばしば著作内で「三国時代に漢族は激減し、ほぼ絶滅した」と主張している[8]。
朝鮮半島について、歴史学的には「韓半島」と呼ぶのが正しいとしている。
韓国起源説について、「もともと、日本は未開野蛮の国で、朝鮮がすべて、いいことを教えてやったんだと思いたい。極端な話が、日本の歌謡曲だって、実は朝鮮人が発明して、それを有名な音楽家である古賀政男が朝鮮に来て、それを聞いて帰って、つまり盗んで、自分が作曲したと言って発表した。それが日本の歌謡曲の起こりだ、という解釈まである。これは国民的な信念なのだ。このようなことに至るまで、とにかく、自分たちが兄で、日本は弟だ、という信念が、韓国人のアイデンティティーの基礎にあって、これを否定されたら、韓国人でいられない」と評している[9]。
研究:
歴史を理論として確立しているのはヘロドトスに始まるヨーロッパ史と司馬遷らに始まる中国史だけであり、両者の歴史観はまったく原理を異にしていること、そしてその他の地域の歴史は両者いずれかの歴史観による焼き直しであることを主張した。この観点から、両者を単に融合して世界史を記述するのではなく、両者を止揚・昇華させた新たな原理による世界史を構築する必要性を説き、世界史の始まりをモンゴル帝国によるヨーロッパ文明・中国文明の接触に求めている[10]。
評価:
福島香織によると、中国の習近平政権の事実上のナンバー2[11]だった王岐山(当時中央政治局常務委員)は2015年4月、フランシス・フクヤマら中南海を訪れた外国人に、岡田およびその著作について下記のように論じたという[12][6]。
…去年、岡田英弘の歴史書を読みました。そのあとで、私はこの人物の傾向と立ち位置を理解しました。彼は日本の伝統的な史学に対し懐疑を示し、日本史学界から“蔑視派”と呼ばれています。彼は第三世代(白鳥庫吉、和田清につぐ?)の“掌門人(学派のトップ)”です。モンゴル史、ヨーロッパと中国の間の地域に対するミクロ的な調査が素晴らしく、民族言語学に対しても非常に深い技術と知識をもっており、とくに語根学に長けています。彼は1931年生まれで、91年に発表した本で、史学界で名を成しました。これは彼が初めてマクロな視点で書いた本で、それまではミクロ視点の研究をやっていたのです。私はまずミクロ視点で研究してこそ、ミクロからマクロ視点に昇華できるのだと思います。大量のミクロ研究が基礎にあってまさにマクロ的にできるのです。
杉山清彦も、岡田のことを「モンゴル史・満洲史に軸足をおきながら、ひろく中国史・日本古代史などさまざまな分野で発言をつづけており、その卓抜した史眼には定評がある」として、岡田の著書『中国文明の歴史』(講談社現代新書、2004年)を、「少なくとも学界では正当な評価を受けているとは言いがたいと思われる。たしかに史料的根拠や論証は、おそらく、なかば意図的に省略されているが、さまざまな専門の研究者は、それぞれおのが分野において氏の投げたボールを受け止めるべきではなかろうか」と評している[13]。
%%%%%
 岡田氏の言に励まされ、天武天皇の再考察を次回しておくことにします。 

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+++++どっぷりと統一教会につかってきた 萩生田氏
 次々と萩生田氏と旧統一教会との醜悪な関係が明るみに出てきます。政調会長という自民党の要職につけた岸田氏はあくまでも其の人事に固執するのでしょうか。何せ当面3年間は国政選挙はありません。日本人の忘れっぽさは世界に知られています。3年どころか75日で萩生田氏の汚れた経歴は忘れ去られるのかもしれません。
%%%%%「神の国の実現を果たしたい」 萩生田氏の演説内容を元信者が証言 8/29(月) 5:56配信
 萩生田光一政務調査会長が先の参院選期間中、生稲晃子候補を伴い旧統一教会の関連施設を訪れていたことを「週刊新潮」8月25日号が報じたことを機に、萩生田氏と生稲氏への批判が噴出している。そんな中、萩生田氏と統一教会の関係を示す、新たな証言が――。 【写真4枚】萩生田氏と“お友達”の統一教会幹部・入山聖基氏  ***
 萩生田氏は本誌(「週刊新潮」)8月25日号の発売から一夜明けた8月18日、自民党本部で記者団に囲まれた。まるで絵に描いたようなむくれ面だった。  本誌報道が皮切りとなり、萩生田氏と統一教会との濃厚な関係が明るみに。7月の参院選に向けて氏の地元・八王子市内の教会関連施設で信者らに生稲晃子氏の応援を依頼していた事実、かねて教団施設で繰り返し演説していた事実など、記事の内容についてもこの日、説明を求められたのである。 「萩生田氏はぶら下がり取材で改めて、生稲氏を伴って施設を訪ねたと認めました。新潮の報道までは“付き合う人の中にたまたまそういう関係者がいたかもしれない”などと言っていたわけで、うそが明白になった形です」(政治部記者)  自民党幹部も驚いたふうだ。 「党の東京都連では萩生田さんが教会との窓口役だと長らく認識されています。選挙応援にかこつけた格好ですが、おニャン子クラブ出身の元アイドルを連れて行けば信者さんだって喜ぶ。つまりは自分の顔も立つようにしたのでしょう」
「カメラから逃げ回り……」
 知名度のある新人候補にも手を延ばそうとしていた教会。それに介添えした萩生田氏。ただならぬ仲が浮かぶばかりだが、政界とカルト教団との関係に批判が渦巻き、岸田内閣の支持率が低下する中、ご自身は窮地を悟ったようで、 「カメラから逃げ回りましてね。一度など党本部での面談の日程をキャンセルし、わざわざ取材の場所を議員会館に変更した。会館の敷地内は撮影が許可されていませんから」(前出記者)  その萩生田氏が一転、冒頭のごとく自民党本部でのぶら下がり取材に応じた。  調整に動いたのは懇意にするテレビ朝日の女性記者だという。 「彼女は40代で政治部では美人で通っている。萩生田氏のお気に入りなのは公然の秘密といったところ。氏が官房副長官時代、テレ朝が組閣人事のネタを抜けたのは彼女のおかげだったといわれている」(全国紙政治部デスク)  だが、ここでも逆風が。 「他社から“そもそもテレ朝は幹事社でもないのに、なんで取りまとめをしてるんだ”と批判の声が上がった。また、彼女が萩生田氏と“質問は3問まで”と勝手に取り決めたため、激昂する社が現れた」(同)
“神の国の実現を果たしたい”
 結局、取り決めはウヤムヤにされたが、記者陣から四つ、五つと矢継ぎ早に質問が飛び、慌てて党職員が取材を打ち切る事態に。  時間は5分程度。萩生田氏は頻繁に教団施設を訪れていた事実や、選挙スタッフとして信者が働いていた点はなおも否定するなど、説明を尽くしたとは言い難い。  ここで、元信者の話に耳を傾けてみよう。 「萩生田さんは落選中の2009年から12年にかけて、八王子市内の教会施設で水曜日の夜に開かれる集会によく顔を出してくれていたんです。集会では、はじめに教会長らから“自民党が政権を取らないと日本が滅ぶ”などという話があり、その後に萩生田さんが登壇します。“政治の世界でみなさまの代表として、神の国の実現を果たしたい”と力強く語ってくれていたのを覚えています」
「もちろん、選挙の手伝いだってしました」
 萩生田氏はカルト特有の言葉遣いにも通じていた。 「教祖のお二人(文鮮明・韓鶴子夫妻)について“真の御父母(おふぼ)様”と言っていました。実際のお父さんやお母さんと区別するため、普段、教会員が使う言葉です。だから、みんなが萩生田さんは私たちの家族なんだなって思っていたんです」  そんな“家族”のために、信者たちも親身だった。 「もちろん、選挙の手伝いだってしました。選挙事務所に行って、一般のボランティアの方々に交じって有権者への電話がけをするんです。ただし、自分たちが統一教会から来たことを別のスタッフに明かすのはタブーとされてました」  8月20日に放送されたTBS「報道特集」によると、ポスター貼りやウグイス嬢の仕事をさせられた信者もいたという。  ならば萩生田氏の釈明は、またもうそだったということになりはしまいか。  萩生田氏が語っていない真実は、まだ他にもある。  統一教会とその問題に詳しいジャーナリストの鈴木エイト氏が言う。 「萩生田氏はフェイスブックを通じて、統一教会のある大幹部と今でも“友達”の関係にあるんです」
偽装勧誘を主導
 その幹部の名を入山聖基という。年齢は57歳。 「入山氏はもともと、萩生田氏の地元・八王子の教会長でしたが、その後、出世しています。昨年11月、統一教会が運営するニュースサイトでは『伝道教育局の副局長』という肩書で紹介されている。『伝道教育』といっても、要は身分を隠して教会に人々を誘う“偽装勧誘”を主導する機関なのです」(鈴木氏)  萩生田氏はその“偽装勧誘”を司る、組織中枢の重要機関のナンバー2と「お友達」であるというわけだ。  さらにこの入山氏、他の教会幹部とゆめゆめ一緒にはできない。注目すべきは長女の嫁ぎ先である。 「入山氏の長女は2020年2月、文鮮明の長男・文孝進の次男――つまりは教祖の孫に当たる男性――と『祝福結婚』しているのです。入山氏はかくて文一族と姻戚関係を持つにいたったわけで、当然、教団内でも比類なき栄誉を得たことになります」(同)
「面識がない」という説明の矛盾
 つまり、萩生田氏は文鮮明ファミリーと「お友達」でもあったことになる。参院選候補と教会へ頭を下げにいくなど、むしろ「やって当然のこと」だったか。  この点、萩生田氏に尋ねると、事務所から回答が。 「はぎうだ光一名のフェイスブックアカウントは、広報活動の一環で事務所スタッフが管理しております。友達申請があったものについて、明らかないたずら・スパム・商業目的の申請と思われるもの以外は基本的に全て承認しております。その上でご指摘の人物(入山氏)に関して記憶にある限り面識はありません」  またも「そうとは知らなかった」のロジックで通す魂胆なのだろうが、そうは問屋が卸さない。  萩生田氏は八王子市内のホールで14年に開催された統一教会の講演会に出席したことを認めている。そのイベントの司会者は当時、八王子教会長だった入山氏その人なのである。そこで萩生田氏は紹介されて来賓あいさつまで行っているのだ。“一面識もない”というのはかなり無理があろう。
創価学会からも怒りの声が
 統一教会の霊感商法問題などに長年取り組んできた山口広弁護士が語る。 「娘が文鮮明の孫と結婚したというのは、入山氏が韓国の統一教会本部からもかなり信用されていることを意味します。過去、日本で教団のトップをつ務めた人物の息子が文鮮明の孫娘と結婚したケースはありましたが、入山氏は国内でも重要な立場にいるのでしょう。そのような人物と政権与党の幹部が関係を持っているというのは、問題があると言わざるを得ません」  萩生田氏を取り巻く状況は厳しさを増している。 「萩生田さんは09年の総選挙で落選したことからもわかるように、選挙に弱い。八王子は創価大学など創価学会の関連施設が多く、学会の大票田で、それをあてにして推薦をもらっているのが萩生田さん。でも今回の騒動で、公明党幹部や学会婦人部から“それほどまでに統一教会と陰でズブズブだったのか”と怒りの声が漏れている。次の選挙で学会票がどう動くのかが心配」(自民党関係者)
政権支持率も急落
 岸田政権についても支持率は急落。イメージ一新を狙った内閣改造直後にしては異例の低さだ。国民は、自民党と統一教会の関係は一向に解消されていないと見ており、もはや小手先の弁明や綱紀粛正の呼号などでしのげる段階ではない。  萩生田氏は先の党政調会長就任時の会見で、自身を「胆力がある」と自賛した。  ならば氏は、今こそ「胆力」を示して真実を語るべきではないか。
%%%%%「週刊新潮」2022年9月1日号 掲載

浄御原(5)、コロナ感染急拡大、安倍氏暗殺の謎

(本ブログは月木に更新されます。コメントはryuuzaki_i@yahoo.co.jp へ)
(写真:初日の出を思わせる当地の朝日。拡大は図のクリックで)
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(写真:任務を終えた蝉が散歩道のいたるところに転がっています。ほとんどはアブラ蝉です。ところが、昨日はカナカナが転がっていました。まだ生きていたので連れ帰り網戸に止まらせておきました。仕事を終え疲れ気味の様で、じっと呼吸を整えている風であります。拡大は図のクリックで)
カナカナ0167


 疫病の 蔓延とまらず 対策は 成り行き任せで 民の不安増す

 未だに律儀にマスクを離さず、ワクチン接種も受けている我が国がコロナ蔓延状況世界一というのです。どうなっているのでしょうか?クラスタ論議、エピセンタ論議は今や聞こえてきません。水際防止策成るものもほぼ効果を挙げていないようで、国外からの感染者の入国もほぼ野放しといいます。国は具体的な感染防止策を疾うに諦めているようです。こうなると運が悪ければ死はやむを得ない。というわけで、老人のコロナ死者が増加していると報じられています。
 %%%%%オミクロン株感染拡大の「不都合な真実」…日本が「世界平均の16倍」のワケ 公開日:2022/08/24 06:00 更新日:2022/08/24 06:00
 世間には常に、「不都合な真実」が存在する。タブー(触れてはいけない)というか、知らないほうが“幸せ”のケースだってある。
 日航機(ボーイング747-100SR)の墜落事故は1985年8月12日だった。もう37年が経過したことになる。筆者は当時、大阪支社に勤務していた。このため、事故のことは鮮明に覚えている。いや、忘れられない。
 知人が乗っていたのだ。事故の1年4カ月前、製造元の米ボーイングの技術者が日本航空の技術者に送ったテレックスがいまごろになって出てきた。西日本新聞が報じている。
 すなわち、事故原因となった後部圧力隔壁を含む胴体部分の疲労に懸念を示し、事故の同型機7機の「機体を詳しくチェックするように」と、検査の前倒しを求めていた。テレックスは1984年4月24日付である。
 いや〜、これは「不都合な事実」に違いない。運輸省航空事故調査委員会(当時)のメンバーにはこの文書は知らされていなかったという。
 さて、次は新型コロナウイルスの感染拡大である。日本の感染者数は1日20万〜25万に達する。アメリカよりも多い。世界の感染者数(1日に約100万人強)の2割前後を占めている。
欧米ではほとんどがマスクをしていない。アメリカの疾病対策センター(CDC)は先週、濃厚接触者の隔離政策を撤廃した。アメリカ在住の友人は陽性と診断されたが、医者に「どんどん外出し、新鮮な空気を吸いなさいといわれた」と。
 日本はどうか。ほぼ全員がマスクを着けている。さらに、いたるところで検温、アルコール消毒を求められる。国民全体のワクチン接種率は2回目が81%、3回目が63%だ。接種率は主要国でトップクラスである。
 地元の自治体では高齢者の4回目の接種が完了、秋には5回目を行う計画だ。それなのに、日本の感染者数は絶対数もそうだが、100万人当たりの数値では「世界平均の16倍」と異常に高い。これはいかなる理由によるものか。
 確かに、オミクロン株の派生型(BA.5)が遅れて入ってきたという事情はあろう。
 しかし、マスク着用、ワクチン接種の効果を含め、コロナ対策の検証は必要ではないか。医療関係者の苦労には敬意を表するが、当局は接種者と非接種者の感染状況の比較データ、ワクチンが人間の持つ本来の免疫力を低下させていないか、などの疑問に答える義務がある。
%%%%%

 自民党政調会長の萩生田議員の統一教会癒着振りが次々と明るみに出ています。また、犠牲になった信者の悲惨な生き様も報道されています。「信仰」という信者の精神状態は浅薄に生きてきた私のような人間には想像しがたいものがあります。
【「統一教会問題」の今後、ジャーナリスト・鈴木エイト氏と語る(第2弾)】郷原信郎の「日本の権力を斬る!」#166


+++++「浄御原」考察(最終回)
220808記事で書いたように、万葉集には「八隅知之 吾大王」なる表現が24回登場します。其のうち、歌の作成が七世紀と思われるものは以下の十六歌です。
巻一(雜歌、七歌):三、五、(二九、柿)、三六(柿)、三八(柿)、四五(柿)、五十、五二
巻二(相聞・挽歌、七歌):百五二、百五五、百五九、百六二、、百九六(柿)、百九九(柿)、二百四
巻三(雑歌、二歌):二百三九(柿)、二百六一(柿)

 柿本人麻呂が作歌の時代推定に手がかりを与えてくれるのではなかろうかとの期待があり、上の表では「柿」なる印をつけています。理由は下で書くように万葉集一巻二十九歌の歌意です。万葉集を代表する歌人である柿本人麻呂については多くの研究がありそれらの一部は、ネット上でまとめられています。
日本大百科全書(ニッポニカ)「柿本人麻呂」の解説

 こうした膨大な諸研究によれば柿本人麻呂は西暦660年ごろ誕生し西暦723(あるいは708年ごろ)死去と書き、其の活動期は主として持統天皇以降689年以降」と書きます。しかし、万葉集を代表する歌人でありながら、その生涯は不確かであることが上に書いたネット記事からも窺えます。これに加え「水底の歌」(梅原猛、1973年、新潮社)は、著者の鋭い文学的感性と緻密な関連文書の読み込みから、柿本人麻呂論の決定打かと思われました。梅原フアンであった私なんぞは「万葉集とはこうして読むものなのか!」と深い感銘を受け、たびたび読み返したものでした。今般の「記事」を書くにあたり、再度読み返そうとしたのですが、見つかりません。どうやら「終活」の対象となってしまったようです。それはさておき、柿本人麻呂の活動時期をほぼ持統天皇に重ね合わせていることには変わりありません。そして梅原氏の哲学者としての関心は晩年の人麻呂の哀しい心情に集中します。当然「八隅知之 吾大王」に注意が向いていません。

 柿本人麻呂の活動時期の推定で、研究者が決め手にするのが、題詞です。七世紀末ともなれば「柿本人麻呂」なる歌人の特定もできていたはずです。すなわち、万葉集初期歌群と異なり、題詞には信憑性があると誰しもが思います。

 知識人たる柿本人麻呂が万葉集三歌で始めて詠われる「八隅知之 吾大王」なる表現の意味と背景を知らないはずはありません。実際、人麻呂作歌とされる歌には「万葉集初期歌」で登場する表現がしばしば出てきます。人麻呂は意図して「倭国王」の呼称を、眼前の天皇を称えるために用いたのでしょうか。大方の万葉集研究者はそのように考えています。また七世紀末の権力者もそうした倭国時代の最高権力者への呼称を用いた歌集が公になることを許容したということです。

 すでに書いたように私は「柿本人麻呂」の活動期は、斉明天皇の死の直後辺りから始まっており、壬申の乱では「大海皇子」に従軍したと考えています。したがって二十九歌にもあるようにかっては、柿本人麻呂は唐・新羅に後押しされた奈良の軍勢に追われ、大津に退きさらには鹿児島との県境にある端海野にまで逃避した大海皇子率いる倭国勢力に「叙事の役割を担って」随行したのだろうと考えています。しかし、大海皇子の軍勢は、鹿児島との県境域で散りぢりに成ったのでしょうか。一部はフィリッピン海側にのがれ、日向から東に向けて逃げたのだろうと考えています。知識人たる人麻呂はそこで奈良の軍勢に捕らわれたと想像しています。同様のことがペルシア出自の稗田阿礼にも起きたと考えています。以降、彼らの倭国勢力とともにあった時代の経験・情報さらには彼らの叙事・文章力は奈良の権力のために役立てることとなったのだろうと思います。
 此の時代には「天皇」なる呼称はなかったのかもしれません。そこで、しかし、国の最高権力者を呼ぶ際には、叙事者としては、「八隅知之 吾大王」なる意識から抜け出せていないのではなかろうか、と考えます。

 どうやら、「八隅知之 吾大王」は、万葉集162歌作成の時期を推定する手立てにはなり得なかったと結論せざるを得ません。
%%%%%02巻/0162歌
題詞
,"天皇崩之後八年九月九日奉為御齋會之夜夢裏習賜御歌一首 [古歌集中出]",
原文:
"明日香能 清御原乃宮尓 天下 所知食之 八隅知之 吾大王 高照 日之皇子 何方尓 所念食可 神風乃 伊勢能國者 奥津藻毛 靡足波尓 塩氣能味 香乎礼流國尓 味凝 文尓乏寸 高照 日之御子",
%%%%
「八隅知之 吾大王」につづく「高照 日之皇子」は、多分先行するプレーズのいわば「布団詞」(枕詞は修飾する表現の頭につく詞です。一方これはその接尾詞です。そこで私の造語「布団詞」としました)、すなわち後ろから対象語を修飾する表現です。しかし、そうではあっても何がしかの意味がそもそもはあったはずです。
「高」とは、日本列島に最初に渡来した「興王」(宋書倭国伝が書く倭の五王のお一人)を意味していると考えています。此の王の日本列島政治史での漢字表現は「高」です。藤原不比等が「興王」の存在を公にしたくなかったのかもしれません。「日」は「火」で、これも興王の出自を公にしたくない藤原不比等の指示で「日」なる漢字に変更したと思えます。というわけで「八隅知之 吾大王 高照 日之皇子」は森羅万象をご存知の我が大王は世界を輝かす興王の血をうけついでいる」という意味であろうと考えています。
 「浄御原」の呼称が使われた時期の特定にはいたりませんでした。現ブログ管理人の仮説が誤っていたとは思いませんが、検証にはいたらなかったと思っています。

 壬申の乱を「兄弟戦争」と日本書紀で描きつつながら九州の倭国を制した奈良の勢力は東の倭国(東の「蝦夷」)征討に乗り出します。其の話に移る前に、此の兄弟戦争を日本書紀を辿りながらもう少し詳しく眺めることにします。
(つづく)
 
考古学ランキング

+++++安倍元首相暗殺事件
 7月8日の暗殺事件発生直後は大いにメディアをにぎわせていた事件の真相報道は沈静化し、現在はもっぱら旧統一教会の非道と政治家との癒着が連日TVなどで報道されています。しかし、此の事件そのものには、多くの疑念があるにもかかわらず其の解明が放置されているようです。解明のひとつが下の記事です。
%%%%%%%%%%安倍銃撃事件捜査の核心<本澤二郎の「日本の風景」(4540)

<弾丸の線条痕・銃創・銃弾の角度と体内の銃弾の科学的特定>
 関西人は「えらいこっちゃ」とため息をつきながら、テレビやインターネットのYoutubeにかじりついている。統一教会国際勝共連合の政界懐柔は、自民党から維新・公明などに拡大していた。地方自治体や福祉・学術団体にも。

 昨日は日本テレビだったろうか、維新代表の松井の父親が、右翼のドンで知られる笹川良一の運転手で、勝共連合の仲間だったという仰天事実を、さも当たり前のように明かしていた。詐欺師のような弁護士・橋下徹の正体も。維新は笹川と安倍一族の別動隊政党だったのだ。愕然とするばかりである。知らぬは無知な凡人ジャーナリストと国民ばかりか。

 「山上徹也容疑者もここまでは知らなかったのではないか。しかし、結果的には、日本を統一教会国際勝共連合と笹川財団が操っていたことを知らせてくれた。笹川はギャンブルや財団運営で、そこからの一部の金で、全国の福祉団体に流して、手駒にしてきた。笹川は、岸と福田赳夫、安倍晋太郎と晋三を手玉にとっていたことにも。オウムの黒幕だった。いま倅の陽平はどうしているか。統一教会はというと、弱者の女性を信者に仕立て上げ、不幸な家庭から根こそぎ財産を奪い取っていた。韓国に嫁入りした数千人の日本人は拉致され、デモにも動員されている奴隷なのか。信者の集めたその莫大な資金が、自民党だけでなく、ワシントン政界の中枢にまで及んでいた。トランプの再選運動の原動力となっている。民主党のバイデンとの新たな対決の原動力となっている。いま安倍が倒れてトランプは片腕をもがれてしまった。それにしても笹川資金と文鮮明資金が共和党の金庫にまで流れていたとは!国際政治まで操っていたとは驚きだ」

 以上の発言は、元自民党代議士の秘書だった人物の、腰を抜かしたようなコメントだ。きわめて正確な分析である。
 なぜなら彼は、早稲田大学時代に統一教会国際勝共連合の罠に引っかかりそうになった。「原理講論」がそれで、留学を餌にして学生を集めていた。「宗教は恐ろしい、本当に恐ろしい」という。
 「今でも山上の母親は、信仰を捨てようとしていない。統一教会の信者は、家族も家庭も価値のない存在にしている。ひたすらサタンの道を追求する。目当ては金、金である。36年間の朝鮮半島の恨みが込められているのであろうか」といって再びため息をついた。

 不思議なことに、安倍ら右翼人士の歴史認識は、皇国史観を振り回して南北朝鮮の国と人々を、とことんいたぶり続けてきている。日韓外交破綻は、安倍・極右の実績である。今の岸田も、その手先となって外務省を指揮してきた。この手口も双方とも、阿吽の呼吸で推進してきたものか。「朝鮮半島出身者同士の戦いに、日本人弱者を巻き込んでいる」のであろうか。頭が混乱してくる。

 山梨県の旧上九一色村の笹川別荘に集合させられた、安倍夫人の昭恵のいう「悪だくみ」の写真には、笹川陽平を中心に安倍晋三・森喜朗・小泉純一郎・麻生太郎が映っている。もう一人いた。一番外れに岸田文雄もいた。合成写真でなければ、岸田も麻生に連れられて参加したものか。ここに文鮮明の妻の韓鶴子がいるとどうだろうか?
 トランプ再選に手を貸す面々なのだろうか。すぐ近くにオウム真理教の第七サティアンなる核兵器開発工場が存在した?トランプは日本核武装に協力的だったのか?憶測は膨らむ一方である。

 東京地検特捜部は、森喜朗の配下の電通元専務の高橋を五輪賄賂事件で逮捕した。検察の狙いは森だろうが、岸田が止めに入るのかどうか。

 そしてもう一つ大事な法務検察の仕事は、安倍銃殺事件の捜査である。安倍の首に2か所の銃創が判明している。銃弾は安倍の上方から撃ち込まれている。弾丸の線条痕をしかと判定しているのかどうか。
 他方、犯人とみられる山上は、安倍の背後から撃っている。安倍の銃創の位置と異なっている。徹底的な科学捜査が求められている。

<司法解剖の科学的所見に問題はないのか>
 強引に山上を犯人に仕立て上げるのか?その前に徹底した科学捜査が不可欠である。司法解剖は万全に行われたものか。日本に銃創のプロはいないという報道もある。
 少なくとも奈良県には、司法解剖のプロはいない?大阪にはいたのかどうか。この辺の情報は漏れてきてはいない。

<手製花火銃は見せかけか?果たして狙撃手はいたのかどうか>
 山上の安倍殺害の動機は、国民の誰もが理解できるが、果たして手製の花火銃の性能はどうなのか。単なる花火の「ドーン」という音だけだったのか。銃弾は見つかっていない。これも不思議である。
 真犯人は他にいたのかどうか。その可能性を否定出来ない。

<弁護人は誰か、何人か。真っ当な弁護士が担当するのかどうか>
 いま容疑者に弁護人はついているのか?国選弁護人なのかどうか。 怪しげな弁護人が紛れ込んで、法廷を混乱させることも出来る。真実を究明する真っ当な弁護人がつくのかどうか。世紀の法廷闘争に手を挙げる弁護人は少なくないだろう。この点も注目する必要があろう。

<長期間の鑑定留置は人のうわさも75日狙いも>
 忘れたが、鑑定留置の期間がかなり長い。彼の証言は理屈に合っている。まともである。母親が1億円の資産を統一教会に奪い取られたとの証言に、関係する当事者がその事実を認めている。山上証言に狂いはない。殺害の動機は100%理解できる。このような場合、誰でもが山上になれる事態である。

 通常の殺人事件では、長期の鑑定留置が必要か。むしろ裁判所も検察陣も対応に苦慮している。態勢を組むための政治的な時間稼ぎではないか。人のうわさも75日というが、この事件は日本と米国の政界を揺るがす大事件である。75日で忘れ去ることはない。
 日本の政界は、統一教会というカルト教団と、A級戦犯の一味と日本の戦後右翼の笹川財団による日本乗っ取り計画にある。日本の政府と国会と司法の三権を揺るがす重大事件で、これほどの危機は過去の日本史になかったことである。

 自民党も維新も崩壊する事案である。政治と宗教が問われている。公明党創価学会も、神道もその他もろもろの教団にも波及する。言論界も問われている。国策会社・電通も生き残れるのかどうか。

<当面は安倍国葬による神格化に成功するのかどうか>
 当面は、安倍国葬問題で日本は、天下分け目の関ケ原で大揺れするだろう。史上最低の人物を「国葬」にすることに、大半の国民は怒り狂っている。極右の強行実施も危うい。ことほど事態は、この国の体制すべてを激震させる世紀の事案である。
 日本沈没か再生へと突き進むのか。日本と日本人と東アジアの正念場といえる一大事でもある。
2022年8月20日記(反骨の政治評論家)
%%%%%記事紹介おわり

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森喜朗が血まみれの真相!NHKが統一教会とズブズブの関係!安倍晋三元首相の事件は台車が合図か?黒幕の真の目的はトランプ大統領!?
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%%%%%紀藤正樹弁護士、旧統一教会問題追及30年の戦い「嫌がらせや脅迫はしょっちゅう」 8/24(水) 7:15配信
 今ワイドショーで見ない日はない弁護士の紀藤正樹氏。旧統一教会の問題を追及し続ける紀藤氏だが、1990年代に「霊感商法」や「合同結婚式」が大きく取り上げられて以降、世間的な注目度は皆無に等しかった。そんななか、なぜ彼は圧力に屈せず闘ってこられたのか。 【写真】2007年、霊感商法被害をめぐって会見する紀藤弁護士
 * * * 「『統一教会に法のメスをいれてほしい』ということは、弁護士になってから30年以上、ずっと行政や警察などに言い続けてきたことなんです。しかし行政だけでなく政治は見て見ぬふりを続け、統一教会は被害者を出しつづけ、安倍元首相の襲撃という悲惨な事件が起きた。この“空白の30年”は、弁護士としての僕の敗北の歴史なんです」  そう話すのは、第二東京弁護士会に所属する紀藤正樹氏(61)。1990年に弁護士として活動を開始し、旧統一教会問題を中心にカルト宗教がもたらす被害について警鐘を鳴らし続けてきた。 「法学部にいた頃から『霊感商法』は話題になっていたし知っていましたけど、霊感商法の問題に関わることには信教の自由の問題もあり、最初は躊躇していたんです。  ですが、実際に弁護士として現場で相談を受けていると、あまりに卑劣なことが起きていました。事務所に来た高齢のおばあさんが僕の足下で、『先生のところに生きて来られた』と泣き崩れるんですよ。献金のせいで家族が崩壊し、事務所に相談に行こうとしたら、教会の人に『あの弁護士のところに行ったら交通事故に遭って死ぬ』と言われた、と言うんです。最初はあまりにもひどい人たちだと、単純に統一教会信者のことを思っていました。  しかしその後、裁判対策で証人になってもらおうと元信者の話を聞くようになると、霊感商法で相手を騙している側の信者も『人を救ってあげたい』という善意で不法な行為をしていたことがわかってきた。善意につけ込んで『他者を助けるには人のお金を奪うことが正しい』と信者に思い込ませ、身内ごと不幸にするなんて、とんでもないと思った」  1992年、複数の芸能人が参加し注目を集めた旧統一教会による「合同結婚式」は、世間の関心を多く集めた。しかし以降はメディアによる扱いも減り、問題は地中に潜っていくことになる。 「世間の注目がない間にも、統一教会は拡大し続けた。それどころか信者に子供ができて2世問題が生まれ、今は3世問題や1世の介護問題にまでなっています。  僕ら弁護士は地道に、被害者の相談の対応をしたり、講演やイベントがある度に、名前を出した政治家や自治体などに公開質問状や申し入れ書を提出したりしていた」
先人は坂本弁護士
 弁護士として旧統一教会を相手にすることのリスクは大きい。紀藤氏は「圧力は感じないようにしてはいるが、嫌がらせや脅迫じみた行為はしょっちゅうです」と言う。 「名誉毀損等で訴えられるリスクもあります。実際、他のカルト的団体のケースですが、何度か裁判を起こされたこともあります。  僕らの先人である坂本堤弁護士は、1989年にオウム真理教に家族ごと殺害されている。危険を感じる時は電車に乗らずタクシーに乗るとか、後ろを振り返るとか、そういうことを常に心がけています。  これまで、僕が所属する全国霊感商法対策弁護士連絡会は、統一教会問題について、政府、行政、警察、国税などに呼びかけをしても、結局宗教という名の隠れ蓑に皆が及び腰で、手をつけなかった。この空白期間に生まれた悲しみは、我々が負わなければいけない問題だと思っています」  それでも、“空白の30年”の地道な活動は、今に生きている。 「統一教会が宗教法人名を変える時、直前に我々が下村博文・元文科大臣宛てに『変えないでください』という申し入れ書を出していたから、変更した事実の問題性が明らかになった。安倍元首相を含め他の国会議員にも、前々から『統一教会関連の活動に加担しないでください』と連絡していたから、彼らと教会とのつながりを『知らないとは言わせない』と今言うことができる。  日本は1990年代にオウム事件を経験したにもかかわらず、カルト的宗教団体の問題として教訓を活かさず、霊感商法の問題だけでなく家族問題など、多くの社会問題を生んでいます。統一教会問題はここで清算しなければ、後世の日本人に申し訳ないと思っています」 【プロフィール】 紀藤正樹(きとう・まさき)/1960年生まれ、山口県出身。1990年に第二東京弁護士会に登録。「霊感商法」被害に取り組む全国霊感商法対策弁護士連絡会に所属し、2001年にリンク総合法律事務所を開設した。著書に『マインド・コントール』(アスコム)など。 ※
%%%週刊ポスト2022年9月2日号

浄御原、五輪収賄、悪評高い朝ドラ

(本ブログは月木に更新されます。コメントはryuuzaki_i@yahoo.co.jp へ)
(写真:八月後半です。周囲の田は「頭(こうべ)をたれた稲穂」の原です。拡大はクリックで)
米の平原0156

(写真:空にはウロコ雲が浮かんでます。拡大は図のクリックで)
うろこ雲0148

 法師ゼミ ツクツクツクと 唱えおる モクレン経(ぎょう)の ありがたき教え

 どうやらなんのかのといっても秋は着実に近寄ってきているようです。まさに「ありがたや、ありがたや」であります。なんといっても朝の涼しさはうれしい限りです。

 安倍氏暗殺で暴きだされたのが「統一教会と安倍氏が率いた政治家集団との醜悪な癒着」です。そして、暗殺がきっかけとなったとしか思えない事象が二つおきました。一つは、五輪を牛耳っていた電通幹部の逮捕であり、もう一つは安倍氏の経済政策を影で操っていた竹中平蔵氏の突然の表舞台からの退出です。政治の闇がこれから明るみにだされるのでしょうか?
動画: 
【五輪組織委員会元理事・高橋治之氏逮捕、検察とのバトルの行方は?】郷原信郎の「日本の権力を斬る!」#164

 +++++万葉集162歌(6)
 日本列島古代史の最大の分岐点は「壬申の乱」であると考えています。此の乱で、日本列島の権力機構・構造がドラスティックに変わりました。此の「乱」のお膳立てをしたのが「西暦600年」の遣隋使と西暦608年の隋による倭国視察団です。尤も、歴代の大陸王朝の倭国への関心は西暦600年に始まったものでないことは、それに先行する王朝正史がしばしば「倭国」を記載していることからわかります。しかし、倭国の存在は大陸王朝の益を増長するとの認識はなかったのです。

 一方の倭国側の「正史」とも位置づけられる古事記の関心は少々の朝鮮半島への関心があったとしても、もっぱら国内にあります。邪馬台国時代以降の政情を古事記が語っているようでありながら、実はそれらのほとんどは五世紀後半以降の日本列島での諸事象をあたかも五世紀以前の事象であるかのごとく粉飾して書き連ねていることが明らかになりました。それが現ブログ管理人に作業でもありました。そこには遠く西域ペルシアそして北東アジア勢力の影響があったはずですが、それを古事記があらわに記載していないことが、古事記の解読をきわめて難しくしています。

 古事記の筋道だった解読には、常陸国風土記の助けが必要です。古事記が記載し、日本書紀が記載する継体天皇の奇妙な「軍事行動」が後年の「壬申の乱」への準備となったと考えています。その継体天皇の治世に「夜刀神」が常陸国行方郡で跋扈したと風土記は書きます。もちろん、継体天皇と「壬申の乱」の間に挟まれる景行天皇こそが壬申の乱の直接的な舞台づくりをしています。遣隋使を派遣した(馬から落馬表現となってしまいました)のがまさに景行天皇です。

 さて、さしあたりの関心事は「壬申の乱」で対立したとされる「兄弟喧嘩」です。此の兄弟喧嘩説が日本列島古代政治史に「定着」してしまった感があります。しかし、壬申の乱の本質は兄弟げんかではありません。それはともかく、その始まりは舒明元年紀にあります。古事記・日本書紀はあらわには書かないけれども、舒明天皇は景行天皇の息子であろうと考えています(すでに詳述しているので繰り返しません)。舒明天皇が皇后である皇極天皇(斉明)との間に生した二人の皇子は葛城皇子、大海皇子であると記しています。此の記載を「補足」するべく、書紀は二人の皇子がともに後年天皇位に就いたことをあたかも「注釈を加えるかのごとき体裁」で書き加えていることに私は注意を促してきました。其の「体裁」とは、「宮」の在り処です。「葛城皇子は近江大津宮に、大海皇子は浄御原宮に」と、書くことで以て、後世の人たちは条件反射的に「葛城皇子は天智天皇」、「大海皇子は天武天皇」であると思い込む仕掛けを施したのです。
 此の仕掛けに基づいて「壬申の乱」構想、すなわち「兄弟喧嘩」を描いたのが藤原不比等であったと私は思っています。すでに書いたように近江・大津の所在は熊本県中部を西に流れる白川中流域の「大津」です。とするならば、浄御原も九州のどこかであろうと私は考えています。
 現在、其の場所が推定できないものかとあれこれ考えています。いろいろと集めた材料を伏線として張って、結果としてしかるべき結論に導き、読者の皆様に「あっと」言わせようとの思惑がありましたが、それをしていると私の「脱線癖」で、それらが置き去りにされてしまうやも知れません。そこで、私の予想をあらかじめ「結論として」書いておきます:
―――浄御原論―――
 大海皇子は倭国王である舒明天皇(日本書紀は当然のことながら此の王の本当の呼称を書きません)の息子ですから、彼が構えた宮の呼称には、彼の出自が反映しているはずです。其の視点から浄御原(きよみはら)を考えて見ます。
 まず「きよ」は「王国」または「王」を意味する古代ペルシア語の「キヤ」(kiya)に由来すると考えています。時にそれは単に「キ」と短縮されて使われることがあります。常陸国風土記筑波郡の冒頭に以下の文節があります:
「古老曰筑波の県古謂紀国」
 研究者は「紀」を「木または城(き)」と解釈し木材の豊かな国あるいは、北の蛮族襲来に備えた「城」に由来するとします。私は「kiya」すなわち、渡来人が常陸国に作った王国の一部であると理解しています。
 次に「御」(み)です。これは本ブログでも何回か考察してきた重要な主題です。それは「三」(み)でもあります。九州北部および四国、本州西端域に「三」が付される地名が多いことは歴史家の何人かは気付いていますが、真っ当な考察を私は見たことはありません。「三」はどうやら神聖な数字であったろうと私は考えています。130812記事”彌奴国(3),森浩一氏を悼む” で書きましたが、邪馬台国時代に先行して九州北部には「三国」(み)が存在したと私は考えています。此の国はどのようなことがあったのかまったくわかりませんが、解体され其の一部は「二」国と合体し「二三(ふみ不彌国)」と成り、一部は「七」国と合体し「三七(彌奴国)」と成ります。その末裔は九州から四国に散在し「三馬」(みま)さらには本州西端に三次、三原などの名残があります。わたくしは大変に悲惨な最期を「三国」は遂げたのだろうと思っています。その悲惨な歴史を鎮魂し、名誉回復のための措置が「三」への敬意であろうと考えています。「御」(み)は「三」の音写でもあります。最大の敬意表明が「宗像三神」を祀ることです。また神功皇后記で皇后が息子を葬儀船にしたてて瀬戸内海を走る説話は、まさに「三」国の逃散風景ではなかったかと想像を逞しくしています。

 というわけで、浄御原の呼称には、遠くペルシアからの渡来の民が崇める王と邪馬台国時代の悲運の「三」国の首領への敬意がこめられていると考えています。そうとすれば、其の場所は、佐賀県の吉野ヶ里か、または福岡県の朝倉、ないしは大分県との境の「京都」(みやこ)であろうと考えています。

 これを仮説として万葉集162歌の吟味を再開することにします。
220808記事は以下を書きました:
%%%%%過去記事抜粋再掲
「万葉集には「八隅知之 吾大王」なる表現が24回登場する」としてその内訳を列記しました:
巻一(雜歌、七歌):三、五、(二九、柿)、三六(柿)、三八(柿)、四五(柿)、五十、五二
巻二(相聞・挽歌、七歌):百五二、百五五、百五九、百六二、、百九六(柿)、百九九(柿)、二百四
巻三(雑歌、二歌):二百三九(柿)、二百六一(柿)
巻六(雑歌、六歌):九一七(赤)、九二三(赤)、九三八(赤)、九五六、千五(赤)、千四七
巻十三(雑歌等、一歌):三二三四、
巻十九(分類無、一歌):四二五四
 主として雜歌として括られるカテゴリに「八隅知之 吾大王」なる表現は集中し、それも巻三以前です。巻六以降の八つの歌についてはその半分は題詞によれば、山部赤人(生年不詳(700年?) - 天平8年(736年?)ウイキによる)作成と書かれています(上掲載でも歌番号に[赤]を付してあります)。山部赤人の活躍時代は、八世紀前半です。したがって、題詞は歌の詠まれた時代と背景を正しく記していると考えて良いと思います。したがって、これらの歌で読み込まれている「八隅知之 吾大王」が、倭国の王を意味しないことは明らかです。 むしろ、それは「日本」国(奈良盆地に権力を構築した政治勢力、いわゆる大和朝廷)の天皇です。赤人は万葉集の慣例に従ってあえて「天皇」の呼称として“意図して”「八隅知之 吾大王」なる表現を用いたと想像しています。
 日本列島の古代最高権力者が「天皇」と表記されるようになったのは何時頃のことであるのかが気になります。
%%%%%過去記事再掲終わり
(つづく)

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+++++評判の悪さが極に達している朝ドラ
 朝食の時間帯に放映される朝ドラを「時計がわり」に視聴しています。いやあ、其の筋書きのハチャメチャぶりに驚かされました。視聴し続けているのは、「時計代わり」というだけの理由です。此のドラマの15分前には名女優藤山直美さん主演の昔のドラマが再放映されていますから、毎朝30分朝ドラとお付き合いしていることになります。そうするといやおうなく、名女優さんの演技と、現今のドラマの女優さんと比べることになってしまいます。まあ、それはそれで、現今の女優さんには気の毒なのですが、ドラマそのものが崩壊していると思っています。私の感想はどうやら多くの視聴者の感想でもあるらしいことがネットからわかります。その記事をいかに紹介しておきます。
%%%%%朝ドラ『ちむどんどん』の苦境 「脚本チーム制」が裏目に出たか 2022年8月20日 16時15分
 作品の注目度が高まれば一定のアンチが出現するのは常だが、今回の場合はどう捉えるべきか。ドラマウォッチを続ける作家で五感生活研究所代表の山下柚実氏が分析した。
【写真】メガネ姿で愛犬と散歩する姿もチャーミングな黒島結菜
 * * *
「ツッコむ気もしなくなってきた」「ドラマを見ているより視聴者のネット批評を見る方が楽しい」「NHK史上最低最悪のドラマでは?」(いずれもWEB上の反響コメントより)──残すところ約1ヶ月半。スタート時には想定していなかった結果を生み出しているNHK連続テレビ小説『ちむどんどん』。
 このドラマをめぐっては、他にも珍しい反応がありました。8月14日、元農林水産副大臣・元参院議員の礒崎陽輔氏がツイッターでこうコメント。
「脚本の論理性が崩壊しています」「私自身沖縄振興の関係者として残念であり、既に手後れかもしれませんがNHKは猛省する必要があります」。これほど直接的なコメントが政治家から放送中のドラマに対して発せられるというのも異例。
 当然ながら注目を集め、「政治家も言論の自由がある」「いや政治家は黙っているべき」「政治家かどうかは別にしても、まったく同感」等さまざまなリアクションがありました。
 そもそもNHK朝ドラとは、何なのか。多くの人にとって「生活・文化的インフラ」的な存在、そんなコラムを私自身、先月書きました。伝えたかった主旨とは「日本で暮らす多くの人々が一般的に共有している感性や慣習、常識に基づいて物語が描かれていくはず……無意識のうちに視聴者はそれを期待している」こと。しかし『ちむどんどん』はインフラの破綻や破壊が目立つゆえ、多くの人々が違和感や不快感を抱かざるをえない。
 もちろん、半年に亘る朝ドラの脚本を書くことはそう簡単ではないでしょう。今回は特に実在のモデルがいるわけではなく、一からのオリジナル。物語を生み出す力も生半可なものでは間に合わない。脚本・羽原大介氏は「全体の構成案が出来上がったのが約2年前」と公式HPで語っていて、少なくとも内容を練る時間はじっくりとあったようです。
 その上での破綻だとすれば……朝ドラの脚本を一人の作家に依存するリスクは大きい、と感じざるをえません。そもそも海外のドラマでは「チーム制」が常識であり、日本のドラマ界にも必要な取り組みではないかと、真剣に思う今日この頃です。
 もちろんNHK自身も危機感を抱いているようで、局内に脚本開発に特化したチーム「WDR(Writer’s Development Room)プロジェクト」を立ち上げる、という記事を見ました。
「海外ではシリーズドラマを制作する際、複数の脚本家が『ライターズルーム』という場に集い、共同執筆することが一般的です。構想段階からメンバーと物語の内容を共有し、アイデアを提供し合う」、「1人で書いていると手詰まりだったことも、違う人のアイデアで乗り越えられることって意外と多い。そうやって、チームで物語の強度を高めていくのがWDRプロジェクトの狙いです」(日刊スポーツ 2022.6.30)と語っているのは、大河ドラマ「真田丸」「鎌倉殿の13人」を担当し、米UCLAで脚本の手法を学んだNHKプロジェクト・ディレクター保坂慶太氏。
 WDR体制で「構想段階からメンバーと物語の内容を共有し、アイデアを提供し合う。構成が得意な人もいれば、せりふが得意な人もいて、そういう才能を掛け合わせながら知恵を出し」ていくことで完成度の高い脚本ができるという。では、今回の朝ドラの脚本はどうやって生まれたのか? もちろんクレジットには羽原大介氏の名前がありますが、驚くことに「チーム制」にかなり近似した方法をすでにとっていたもよう。羽原氏自身こう語っています。
「執筆にあたっては、まず初めに最終週までのプロットを作リました。これを土台に第1週から話の展開やセリフーつ一つを詰めていき、さらに小林さん(制作統括)と木村さん(チーフ演出)と3人で揉んで、また書いては揉んでと、何度も打ち合わせを重ねました。相当な試行錯誤でしたよね」(『連続テレビ小説ちむどんどんPart1 NHKドラマ・ガイド』NHK出版)
 脚本作りに脚本家と制作統括とチーフ演出の3人が積極的に関わっていたという。それによって内容が膨らんでいけばいい。ただ、次のコメントを見て、うーんと考えました(いずれも前出のガイド本より)。
「白状しますと、僕たちおじさん3人は料理の知識がまったくないんです」(羽原氏)
「僕にとって料理は『美味いか、不味いか』ではなく、『食べられるか、食べられないか』。そういうレベル」(木村氏)
 衝撃です。もちろん制作陣全員が料理に詳しくなくてもいい。ただ、キーを握る3人ともに料理がわからない=生活感がない、ということを対談でそのまま明かしていることに驚きを禁じ得ない。
 なるほど、ドラマの中で何ヶ月もの間、シェフの暢子が髪の毛をアップにせず厨房に立ち続けた理由も想像できます。あの髪型に拒絶感を抱かないことと生活感のなさとはダイレクトにつながっているはず。さらに、チーム制のようにして3人で脚本をいじっていくうちに、むしろ責任の所在が曖昧になるなど裏目に出た点もあるのでは。考証が甘かったり矛盾する箇所が散見できるのもそのせいなのか?
 さて、そこで関心が向くのは次の朝ドラ『舞いあがれ! 』です。当初、脚本は桑原亮子氏が書くことになっていたが、突然、嶋田うれ葉氏、佃良太氏の両名が脚本陣に加入した、との報道を見ました。3人体制で臨むことになった意味とは何ぞや? どうか、『ちむどんどん』と同じ轍は踏まないで──心からそう願う視聴者はたくさんいるのではないでしょうか。
%%%%%
 此の朝ドラの低質がツイッタ界にも波及し、其の低質さを嘆きあう特別なコーナが形成されています:
#ちむどんどん反省会
また、頻繁に批判記事がネットに掲載されると、それに対する膨大なコメントが書き込まれています:
comments

「R」を発音記号に持つ漢字の不思議(2)、国会にいて欲しくない二世議員

(本ブログは月木に更新されます。コメントはryuuzaki_i@yahoo.co.jp へ)
(写真:蜘蛛に囚われた蝉。蝉の体の半分ほどがすでに蜘蛛の胃に収められている?拡大は図のクリックで)
蝉と蜘蛛0139

(写真:網戸で泡を吹く蝉。何があったのやら。拡大は図のクリックで)
泡をふく蝉0144

 息災は 身持ちのよさか ワクチンか 不安抱えて 四回目摂取

 昨日、せかされるような気分に駆り立てられ、四回目のコロナ・ワクチン接収を受けてきました。2020年2月の蔓延顕在化以来、江戸行きと、外食をぴたりとやめてますから、「身持ち」は確かです。私が住まう市でもすでに感染率は一割を越え、11~12%と急増です。医院は普段老齢の医師が細々と営んでいるとの印象でしたが、昨日は女医さんが てきぱきと仕切っていました。それを反映してか、押しかける診察・摂取希望者が殺到し、駐車場は満杯です。病院の事務の方が、あちこち手をまわして注射(駐車)スペ−スの確保に走り回っていました。

 ネット情報では、米国では医師の80%はワクチン接種効果を否定していると聞きます。また摂取回数を重ねるごとに摂取による副反応の重症化が増すなどの噂も聞きます。そもそもかくも頻繁にワクチンを体内に投ずることで、人体の自前の免疫力は減退の一途をたどるのではなかろうかとの危惧もあります。まあ、高齢老人については所詮は「生体実験」として位置づければよいわけで、私もあえて声を上げませんが、子、孫の先行きが心配になります。

+++++統一教会と安倍元首相
%%%%%自民党関係者が語る「安倍元首相が統一教会との関係を“党公認”状態に」 8/17(水) 6:02配信
「すべて選挙応援に収れんします。安倍さんは、自民党総裁として、選挙に勝つための、支援組織の一つとして位置づけていたのでしょう。特に参議院の比例区は、雲をつかむような選挙。1万でも2万でも候補者にとってはのどから手が出るほど票が欲しいのです」 【写真あり】統一教会の組織票の投票先を決めていたのは安倍晋三元首相だったという 国会議員が旧統一教会(現・世界平和統一家庭連合)と関係を築くメリットを、前参議院議員で統一教会に詳しいジャーナリストの有田芳生さんがこう語る。 統一教会の組織票の投票先を決めていたのは安倍晋三元首相(享年67)だったという。伊達忠一元参議院議長(83)は北海道テレビの取材に対し、2016年の参院選挙で比例区から出馬した宮島喜文氏(71)に統一教会の票を回すように安倍氏に依頼。宮島氏は12万2833票を獲得して当選したが、6万人の信者がいるとされる統一教会の票の存在は大きかったとみられる。 さらに、今年7月の参院選において伊達氏は、ふたたび宮島氏に統一教会の票を回すように安倍氏に口利きを頼んだが、井上義行氏を支援することを理由に断られたという。宮島氏は当選の見込みなしとして出馬を断念、井上氏は当選を果たしている。 選挙経験が豊富な、ある自民党関係者はこう語る。 「支持母体が弱い議員にとっては頼みの綱になりますし、安倍さんにとっても党内で影響力を強めることができます。複数の議員が統一教会と関係を深めたのも、助けてくれるならばなんでもお願いしたいという思いがあったからでしょう」 ■安倍氏が統一教会との関係を“党公認”状態に 自民党関係者は「票以上に影響があるのは、無償ボランティアの派遣」だという。 「告示期間で使える資金は1500万円から2000万円などと決まっています。ところがカラー印刷のポスターや名刺は、ほとんどゴミになってしまうんですが(笑)、地元のミニ会合などでは何百枚も配り、数百万円かかります。さらに選挙管理委員会に届出したスタッフの給与、選挙カーの手配などで活動資金はなくなり、ボランティア全員の弁当を満足に配ることもできないのが現状。それでも、選挙スタッフの仕事は多忙です。 たとえば『◯◯氏、来たる』のような、大物政治家の応援演説を知らせる立て看板も、電柱にくくりつけます。本当は違反で警察に黙認してもらっているので、演説が終わればすぐに撤去しなくてはなりません。 ポスターが剥がれ落ちたりすると、有権者からクレームの電話がかかってくるので、雨や風の翌日は、朝4時、5時に見回らなければならないんです。こうした条件で働いてくれるスタッフなんて、そうそう見つかりません」 宗教的な動機を背景に非常に勤勉に働く統一教会から派遣されたスタッフは選挙戦の大きな戦力になったという。しかし、そんなありがたい存在だとしても、統一教会は霊感商法や合同結婚式などで社会問題になってきた団体だ。 「かつては統一教会の行事への出席は躊躇されるものでした。ところが、自民党総裁で首相の立場でもあった安倍さんが教団との関係を深めたことで状況は一変。安倍派の議員を中心に、堂々と名前を出して祝電を送り、イベントに参加するようになっていったのです」(自民党関係者) 統一教会の霊感商法の被害額は35年で1237億円、直近5年でも54億円。だが、そんな団体との交際は、もはや“党公認”状態といってもよかった。 「党のトップの安倍さんが堂々とやっているから、議員たちが統一教会との関係を広げることに、党として誰も忠告できなくなったのです」(自民党関係者)
%%%%%「女性自身」2022年8月23日・8月30日合併号

関連動画:
 この動画でしばしば引用されるBenjamin Fulford氏は「陰謀論者」として知られています。たとえば2011年の3月11日の東日本地震は世界の支配者が企てた人工地震であると荒唐無稽な主張していました(参考:110404記事)。私自身は氏の言説を耳にする場合は眉につばをしています。しかし、氏の論議の見立てそのものは時に要検証という事項があり、ここに紹介する次第です。くれぐれも全面的に惑わされることのなきよう。
動画:次は竹中平蔵が逮捕か統一教会よりもヤバい銀行乗っ取り!小室圭J1ビザで11月まで滞在か!?安倍晋三元首相の陰謀論と過去の怪しい事件

+++++「R」を発音記号に持つ漢字の不思議(2)
 田中康夫氏のツイッタでの問題提起は「日本」がラテン文字表記ではJupung、すなわち「日」の音からは直接には想起できない「jih」である事の不思議でありました。「jih」に転化する音韻のローマ字表記が「r」であることには、不可解であるとの思いに我々を導きます。すなわち「r」から連想する音は「巻き舌」で発声されるはずだからです。
ところが、漢語の実際の発音は「jih」に似ており、英語の「r」とは異なっていた。日本列島の民を含む東アジアの民の「lとr」の混乱と困惑の起源はここにあるのではなかろうかとの推論を前回書きました。その具体的事例が現在のyangon(ミャンマ国の2006年までの首都)という地名に見られます。すなわち、この地を始めて訪れたラテン語を話すポルトガル人は同地の湖水の多さに強く印象付けられ「lago]と呼んだのです。ここで「l」は「ya」に近い音であったと想像しています。これについては前々回記事で以下のように書いています:
***過去記事一部再掲(220808記事
(前略)一方中国語では「ラ」行の音のほとんどは「r」ではなく「l」(える)です。カステラの起源は「ポルトガル語(またはスペイン語)」の「castella]について以下のような記事があります。
%%%%%スペイン語の日本語表記
カスティーリャ、カスティーリア llの発音は昔はリャ行に近い音で発音されていたが、近年スペインでは北部方言などを除いてリャと発音されることはほとんどなく、yと区別せず発音される。 スペイン南部(特にアンダルシア方言)、中南米ではジャ行に近い音で発音する国もあり、またアルゼンチンやウルグアイなどではシャ行の発音をする方言的な地域もある。
%%%%%
 朝鮮半島に多い「李」姓を日本人は「り」と音するが、実際は「イ」に近いことが上述の説明からうなずけます。
* **過去記事転載終わり
 依然として残る疑問は「jih」なる音を中国語の音に移し変える祭に「r」なる記号が用いられていることです。そして後年「r」が現在我々が使いなれている巻き舌の音「アール」になるのです。かくしてビルマ国ではそもそもは「lago」, すなわち「yangon」であったはずが「l」の音に対応する音を「r」で表記したため「Rangoon」になるとの変遷を辿ったのだろうと想像しています。東アジアでの言語間の相互転換は基本的には文字を持っていた中国漢字の「音写」でなされます。したがって周辺国は、中国漢字を「音写」記号として、外来言語を表現することになります。中国漢字が「lago」を「裸語」とでも表記していれば、ややこしくならなかったのでしょう。ところが現地人は「la」を聞きなれない音として扱ってしまった。

 以上が我々日本人が生まれながらに苦しめられている「r、l」問題の起源であると思っています。

 さて、ついでですから、「日本」国という名称の起源についても簡単に触れておきます。
まずは旧唐書を見ることにします:
%%%%%『旧唐書』倭国・日本国伝
 日本國者、倭國之別種也。以其國在日邊、故以日本為名。或曰:倭國自惡其名不雅、改為日本。或云:日本舊小國、併倭國之地。其人入朝者、多自矜大、不以實對、故中國疑焉。又云:其國界東西南北各數千里、西界、南界咸至大海、東界、北界有大山為限、山外即毛人之國。

 日本国は、倭国の別種なり。その国は日の出の場所に在るを以て、故に日本と名づけた。あるいは曰く、倭国は自らその名の雅ならざるを憎み、改めて日本と為した。あるいは日本は昔、小国だったが倭国の地を併せたという。そこの人が入朝したが、多くは自惚れが大にして不実な対応だったので、中国はこれを疑う。また、その国の界は東西南北に各数千里、西界と南界いずれも大海に至り、東界と北界は大山があり、限界となし、山の外は、すなわち毛人の国だという。
%%%%%
 この記述にしたがえば、「日本」なる表記は日本列島に住む民、すなわち奈良盆地に新しい権力を構築した一族が考え出したと思えます。しかし、もし、そうであれば奈良の新権力は高らかに自らの政治力を誇示するべく「日本」なる呼称を正史たる日本書紀で書いてもよいはずです。が、下でも書いたようにそれは見受けられません。
 わたくしは「日本」なる呼称は当時の奈良政権の「宗主国」たる唐の「入知恵」であったかも知れないと思っています。いずれ」掘り下げてみたいと思っています。
 因みにウイキは旧唐書を以下のように書いています:
『旧唐書』(945年完成)東夷伝の中には、日本列島について「倭国伝」と「日本国伝」の2つが並立しており、「巻199上 列傳第149上 東夷[3]」には「日本國者 倭國之別種也 以其國在日邊 故以日本爲名 或曰 倭國自惡其名不雅 改爲日本 或云 日本舊小國 併倭國之地[4]」とあり、倭国が国号を日本に改めたか、もともと小国であった日本が倭国の地を併合したと記述されている。そして、宋代初頭の『太平御覧』にもそのまま二つの国である旨が引き継がれている。これについては、編纂過程の影響であると考えるのが日本における通説である。異論も存在していて、例えば、森公章は「日本」の国号成立後の最初の遣唐使であった702年の派遣の際には国号変更の理由について日本側でも不明になっており、遣唐使が唐側に理由を説明することが出来なかった可能性を指摘する[5]。大庭脩は、これを単なる編纂過程のミスではなく「倭国伝」と「日本国伝」の間の倭国(日本)関連記事の中絶期間には、白村江の戦い及び壬申の乱が含まれており、当時の中国側には、壬申の乱をもって「倭国(天智政権)」が倒されて「日本国(天武政権)」が成立したという見解が存在しており、結論が出されないままに記述された可能性があると指摘している。
%%%%% 

一方、日本書紀(西暦720年撰上)では、文書の表紙に登場し、いたるところで「日本」が登場します。ただし、そこには「ヤマト」なるかなが振られています。よく知られているように古事記は言うまでもなく日本書紀は「国名・日本」の発祥由来を書きません。
「日本」に「ヤマト」なるカナを振ることになった経緯は「やまたいこく」にあるとの説を多くの古代史研究者が主張しています。私も沿うであろうと考えています。しかし、「邪馬台国」成る呼称の起源は、「そもそも日本列島住民は自らの国土を「ヤマト」と読んでいた」謎の首長には同意しません。
(つづく)

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+++++世襲政治家(いわゆる親の七光政治家)
%%%%%衆院選で落ちててほしかった世襲政治家ランキング 2位は安倍晋三氏…圧倒的1位は? 記事投稿日:2021/11/13 06:00 最終更新日:2021/11/13 06:00
11月10日に召集された特別国会で、岸田文雄首相(64)が第101代首相に選出され、第2次岸田内閣が発足した。
10月末に行われた衆議院選挙では、立憲民主党の辻元清美氏(61)など意外な大物議員が落選。硬直化が進む日本の政治にも変化の風が吹くかと思いきや、依然、強い勢力を誇っているのが世襲議員だ。
河野洋平氏(84)を親に持つ河野太郎氏(58)や、かつての総理大臣である小泉純一郎氏(79)の次男・小泉進次郎氏(40)といった有名二世議員が続々と当選。親の地盤を引き継いだ議員らの底力を見せつける結果となった。
そこで、本誌はWEB上で「落選してほしかった世襲議員」についてのアンケートを実施し、ランキングを作成した。約200人から回答を得た結果は、以下の通りだった。
【今回の衆院選で落選してほしかった世襲の衆議院議員は誰ですか?】(回答:2021年11月2日〜11月7日)
1位:麻生太郎氏(40.4%)
2位:安倍晋三氏(25.5%)
3位:甘利明氏(7.5%)
3位:小泉進次郎氏(7.5%)
5位:小沢一郎氏(5%)
6位:鳩山二郎氏(3.1%)
7位:河野太郎氏(2.5%)
8位:小渕優子氏(1.9%)

40%と圧倒的1位だったのは麻生太郎氏。
九州の帝王”とも呼ばれる麻生家出身で、父親は衆議院議員を3期務めた麻生太賀吉さん(享年69)。昨年10月に菅内閣の閣僚の家族分を含めた資産が公開された際、麻生氏は6億4,845万円とトップだった。そんな庶民離れした感覚が、「(カップ麺について)1個400円くらい?」「温暖化で北海道の米がうまくなった」といった、これまでの失言を招いていると批判を受けたようだ。以下のようなコメントが寄せられた。
「数々の失言から見える本音が受け入れがたい。国民を馬鹿にしている。」(60代女性・専業主婦)
「金銭感覚が金持ちのものさしなので。考え方や発言に同意できない。」(50代女性・専業主婦)
「裕福なご家庭に育ち、国民に対して『下々の皆さん』などと口を滑らすような国民に寄り添えない人に国政は無理」(50代女性・専業主婦)
■2位は“説明責任を果たしていない”あの人
25.5%の得票率で2位に選ばれたのは安倍晋三氏(67)。父親は衆議院議員を11期務め、自由民主党幹事長や内閣官房長官などを歴任した安倍晋太郎さん(享年67)だ。総理大臣在職中に発覚した森友・加計問題や、桜を見る会をめぐる問題にたいして、説明が不十分であると厳しい指摘が相次いだ。
「森友学園問題・桜を見る会など、不透明なお金の流れが多すぎる。」(40代女性・会社員)
「モリカケ問題を筆頭に不透明過ぎることが多いから」(50代女性・専業主婦)
「説明責任を果たしていないから。」(30代女性・会社員)
同率3位となったのは、小泉進次郎氏と甘利明氏(72)。元総理大臣の純一郎氏を親に持つ進次郎氏だが、実力不足と指摘する声が。
「親の七光りだと思うから。中身のない発言ばかりで信用できない。」(20代その他・学生)
「国会議員、大臣の器とは到底思えない」(30代女性・会社員)
2期衆議院議員を務めた甘利正さん(享年72)を父にもつ甘利氏。やはり、報じられている金銭問題についての不十分な説明で信頼を大きく損なっているようだ。
「金銭問題についてしっかり説明されてないから。」(20代女性・会社員)
「有耶無耶な問題を説明せずに当選すると思っていたのか疑問。」(30代女性・会社員)
果たして、彼らは任期中に親譲りではない政治家としての”底力”を見せることができるのかーー。
%%%%%出典元:WEB女性自身

「R」を発音記号に持つ漢字の不思議、日本の科学・順位下落し今や世界十二位

(本ブログは月木に更新されます。コメントはryuuzaki_i@yahoo.co.jp へ)
真夏ボケは未だ癒えておりませんが、夏休み明けのブログを本日から再開します。
(写真:蓮池に真っ赤なトンボを見つけました。いわゆる「アキアカネ」ではなく、「夏茜」というそうです。拡大は図のクリックで)
赤トンボ0105

(写真:このところ、鷺が当地に群れています。けさは子連れ(右端の小さい鷺)であります。拡大は図のクリックで)
親子0121

 八号が 秋を引きつれ やってくる そんな期待を 裏切る暑さ

 一昨日の台風八号は、きっと涼気を伴ってくるに違いない、と被害を案じつつも密かに期待していました。ところが、一両日の暑さは尋常でありません。

 さて、哀しい記事を見つけました。時間がたつにつれ、「科学技術立国」を旗印に掲げたはずの我国の凋落がとまりません。
%%%%%注目論文数、過去最低の12位スペインと韓国に抜かれる 2022/8/9 20:46 (JST)8/9 21:03 (JST)updated c 一般社団法人共同通信社
 研究内容が注目されて数多く引用される論文の数で、日本はスペインと韓国に抜かれて前回の10位から過去最低の12位に転落したことが9日、文部科学省の科学技術・学術政策研究所が公表したランキングで分かった。研究開発費や研究者数で日本は3位だが、21世紀に入って横ばい状態。増加傾向にある諸外国に対して「じり貧」の傾向が強まっている。
 各国の2018〜20年の平均論文発表数などを分析した「科学技術指標2022」によると、日本の注目論文数は横ばいの3780本で、スペインは3845本、韓国は3798本だった。1位と2位は中国(4万6352本)と米国(3万6680本)。
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+++++Jupung( 日本国ラテン文字表記)の起源
 万葉集162歌で読み込まれている「浄御原」は特定の地名を表す固有名詞ではなく情景描写に近い表現であろうと考えています。それを論証するための作業の中で、日本列島古代史に登場する「日本」の起源を考察する羽目になりました。芥川賞作家で政治家でもある田中康夫氏による「Japan」の起源がマレー語にあるとのツイートがきっかけとなりました。田中氏の言からフト沸いた疑問が漢字「日」の発音です。大漢和字典によれば「niet. Ri」とあり「jih」すなわち日本人にはなじみの多い「ジツ」を連想させる「音」はありません。そのことが気になり、いささか脱線をしています。その要点は以下です:
Googleで「中国語 jih」を検索すると冒頭に出てくるのは
「日本語 jih ; 中国語(簡体) 日 ri」です。大漢和字典もそれについて、「音」が時間の経過の中で変化すると解説しています。が、実際にその「音」がどのように推移するのかは明示されていません。実際、「音」の変化を文字で表現するのは難しかろうと想像します。そうした難しさを言い表したものが、後述するALA-LC翻字法です。

 一つそうした音の変化を反映していると思わせるものがあります。それは私の実体験です:
2007年8月から半年ほど二回にわけてミャンマー国で仕事をしたことがあります。2007年の9月に大きな事件が起きました。それはミャンマー国の軍政を一旦緩和させ、さらには政治体制の若干の変更をせまるほどの大きな影響を与えた「僧侶達の街頭デモンストーレーション」事件です。この事件の数日後に日本国政府は外務省事務次官をヤンゴンに派遣します。何らかの折衝を終え、帰国する事務次官と、私の一回目の滞在任期終了が重なりました。偶然にもヤンゴンからバンコックへの便は事務次官と同じ、しかも私の席はすぐの後席でありました。事務次官が四・五名の護衛風人士に囲まれるようにして行動するのを見聞し、改めて事務次官なるものが偉い人であるのだと実感させられました。
 それはさておき、朝、仕事場にいく車の中で、数回僧侶の行進にすれ違いました。また、仕事場の門前を長い行進が通り過ぎるのを観察する機会もありました。その翌日であったと記憶しますが、日本大使館から「直ちに宿舎にもどるように」との緊急連絡を受けて、いそぎ仕事を切り上げて宿舎に向かったのですが、道路があちこちで封鎖され、私の車はとんでもない迂回を余儀なくされました。  英語を話す我がドライバは、私にぶつけても詮無い愚痴を口にし続けます。一方の私はこれまでの通勤では見たこともなかったヤンゴンの景色が珍しく、車窓の風景に見入っていました。なんといっても印象深いことは、途上で見る多くの湖水です。ヤンゴンの北方にはさらに大きな湖水がいくつかあります。
 ところで、「ミャンマ」(Myanmmar)なる呼称は1989年に生まれます。この年、政治体制が軍政に取って代わり、国名が「ビルマ」( Burma)から変更されます。先に書いた運転手は機嫌が良いときは饒舌で、出勤の行き帰りに交わす話題は多岐にわたります。たまたま、僧侶の大行進前に交わした会話が国名でありました。彼が言うには「英語表記」そしてその「発音」は二つの国名で異なるが我々には「ほぼ同じ」であるというのです。確かにBとMを入れ替えれば、双方はきわめて似通っています。これは日本語でもしばしば見られます。馬は「バ」であり「マ」でもあります。同じことが世界でもしばしば見受けられます。
 この運転手君の指摘で気付いたことがヤンゴン(2006年までの首都)です。ウイキは
「1989年にラングーン (Rangoon) から改称された。名前は「戦いの終わり」を意味する。
ヤンゴン(ビルマ語: ရန်ကုန်、ALA-LC翻字法: Ranʻ kunʻ、IPA: /jœ̀ŋɡoʷN/, [jœ̀ŋɡòʷ] ヤンゴウン」
と、書きます。
 私はこのウイキ解説の後段に着目しています。ALA-LC翻字法とは、土着の言語の発音をローマ字表記するための手法です。「R」が「/jœ̀」なる発音記号と対応していることがわかります。まさに、前回記事から引き続く本ブログの関心事です。
 ここから想像できることは東アジアの人間には{R}なるローマ字表記で示される「音」が事のほか難しかったのではなかろうかとの想像です。ここには、彼らの歴史がかかわっているようです。
%%%%%[ペグー王朝滅亡 1492年に即位したビンニャー・ラン2世は歴代の王の中で傑出した人物の一人だった[33]。16世紀に入ってポルトガル王国が東南アジアの交易圏に現れるとペグーにヨーロッパの銃火器が輸入され、それを扱うポルトガル人傭兵が雇用されるようになった[34]。16世紀のペグーを訪れたポルトガル人トメ・ピレス(英語版)は、肥沃な土地と良港を称賛した[35]。ポルトガルを通してペグーの名前はヨーロッパに伝えられ[12]、ヨーロッパ人はこの地に成立していた政権をペグー王国と呼んだ[17]。
しかし、ペグーは北方で勢力を広げるタウングー王朝からの攻撃に晒される。1539年にポルトガル人傭兵と銃火器の力を借りたタウングー王タビンシュエーティーによってペグーは占領され、ペグーはタウングー王朝の都とされた[36]。ペグー王タカーユッピはピェーの城主の元に逃亡し、アヴァと連合してタウングーを攻撃したが、タビンシュエーティーに敗北した[37]。同年、タカーユッピは亡命先での象狩りの最中に病死する[38]。1550年にシリアムでペグー王家の末裔が反乱を起こし、タウングー宮廷ではタビンシュエーティーがペグー王を自称する人物に殺害される事件が起きた。翌1551年にタビンシュエーティーの義弟バインナウンによってペグーの反乱は鎮圧される。
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 すなわち、ビルマはポルトガルとの関係があったとウイキは書いているのです。ところで、ポルトガル語では湖はLagoと表記されます(英語のlakeの語源)。15世紀に現在のヤンゴンを訪れたポルトガル人はその地に多い湖水に強く印象つけられLagoと呼んだのでしょう。しかし、現地民には{L}なる音はなじまなかったのです。そこで、現地民はポルトガル人の呼ぶ地名の「L」を{R}(実は[L]の音「ジャ、ヤ」に近い)に置き換えた「Rago」をそのままもちいたと想像します。これがラングーン(rangoon)の由来と思えます。ところが「Rangoon」は「 [jœ̀ŋɡòʷ](ヤンゴン)と発音表記されるため、実は歴史的には「ヤンゴン」なる発音も同時に潜伏していたのだろうと思います。
1989年の軍政転換といえども地名の表記は英語ではそれが変わろうとも「発音」では変わっていないということです。
こうした{r}と{l}の混同が中国大陸ばかりでなく、とりわけ日本列島住民に大きな影響を与えたのです。田中康夫氏の「日本」呼称が、思わぬ発見につながりました。
(つづく)


考古学ランキング

 良いことか、悪いことかわかりませんが、科学技術立国の柱が細くなる事と下の記事に示される官僚の卵から東大卒が減少することとはなにやら相関があるのかもしれません。
%%%%%平均給与41万円だが…日本から「東大卒・エリート官僚」消失の危機 2022年8月12日 11時15分

国家公務員といわれると、どのようなイメージを持つでしょうか。「残業が少ない」「安定している」など、羨んでいる人も少なくありません。また、いわゆる「キャリア」と呼ばれる人の多くは有名難関大学の出身であり、「官僚といえば東京大学卒」というイメージを持っている人も多いでしょう。しかし、人事院や省庁が公表するデータを紐解いていくと、日本の行く末を心配せざるを得ない状況がみえてきました。
国家公務員の平均給与額は41万円。一見高給だが…
国家公務員とは、国および地方自治体、国際機関等の公務、すなわち公共サービスを執行する職員のうち、国家機関や行政執行法人に勤務する人のことを指します。
国家機関や行政といった「公」のための業務に携わる国家公務員は、いったいどれほどの給与をもらっているのでしょうか。人事院が公表した『令和3年国家公務員給与等実態調査』によると、調査対象となった新規採用者等を除く25万3,000人の平均給与額は、41万4,729円でした(平均年齢42.7歳)。
職員数、平均年齢、平均経験年数及び平均給与月額出所:令和3年国家公務員給与等実態調査
また、今年8月に人事院が公表した『令和4年国家公務員給与等実態調査の結果概要 』によると、平均給与額は41万3,064円と、ほぼ横ばいとなっています(平均年齢42.5歳)。
一方、民間はというと、厚生労働省は『令和3年 賃金構造基本統計調査』にて、正社員・正職員の賃金を月額32万3,400円(平均年齢42.3歳)と公表しています。

こうしてみると、民間企業の平均と比べて高給にみえる国家公務員の給与。しかし彼らはやはり、東京大学をはじめとした有名難関大学を卒業していることがほとんどです。コンサルや商社といった大企業で支払われる給与と比べると、「高給取り」とは言い難いでしょう。
(表:国家公務員給料。拡大は図のクリックで)
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国家公務員合格者数…1位はさすがの「東京大学」
人事院の『2022年度国家公務員採用総合職試験(春)の合格者発表』によると、2022年度の国家公務員の合格者は1,873名で、倍率は8.2倍となっています。
大学の出身校でみてみると、国立大学が1,248人で、全体の6割超え。私立大学は531人で、3割弱です。合格者の出身学校数は159校と、昨年度から22校増加。そのなかで最も合格者が多いのは「東京大学」で217名。全体の1割以上を占めています。
【国家公務員採用総合職試験(春)合格者出身大学上位10】
1位:東京大学 217名
2位:京都大学 130名
3位:北海道大学 111名
4位:早稲田大学 84名
5位:東北大学 75名
6位:慶應義塾大学 71名
7位:立命館大学 63名
8位:岡山大学 61名
9位:中央大学 49名
10位:千葉大学 47名
出所:人事院
「官僚といえば東京大学卒」というイメージがありますが、そのとおり、国家公務員合格者の10人に1人は東大卒という結果に納得感があります。ただ経年でみてみると、近年、国家公務員合格者における東大卒の存在感は薄れつつあるようです。
【東京大学「国家公務員合格者数」推移】
2013年:454名
2014年:438名
2015年:459名
2016年:433名
2017年:372名
2018年:329名
2019年:307名
2020年:249名
2021年:256名
2022年:217名
出所:人事院
「東大卒・エリート官僚」が減少を続ける日本の危機
これほど合格者を減らしているのは、東大だけで、ほかは年度によって上下はあるものの、それほど目立った動きはみられません。ここからみえてくるのは「東大のキャリア離れ」です。東大生は、あえて官僚を目指さなくなっているのです。
理由はいくつか考えられ、2010年代、景気回復によって、民間志向の卒業生が増えたこと。また国家公務員の長時間労働が大きく報じられ、忌避感が強まっていることが一因です。
たとえば三菱商事の平均年収は、有価証券報告書から「1,678万3,874円(平均年齢42.7歳)」であることがわかっています(※)。
※有価証券報告書の年収には残業代およびボーナスも含まれていることが多い。
また、人事院『令和3年人事院勧告』によると、他律的業務の比重が高い部署の職員は8.7%、また上限を超えて超過勤務を命じられた本府省の他律部署に限ると15.7%にのぼります。1ヵ月に100時間未満の上限を超えた職員が7.8%、2〜6ヵ月平均で80時間以下の上限を超えた職員は10.4%だったといいます。
特に国会開催中、夜遅くまで明かりがついている官庁街を歩いたことがある人もいるでしょう。「こんな時間まで働いているんだ……」という驚きを覚えたに違いありません。
そのようななか、国としても危機感が高まっているのか、徐々に待遇改善の機運が生まれています。
人事院は「働き方改革」を打ち出しており、2015年よりフレックス制度を導入、翌年には制度を拡充しました。また、2022年3月には『妊娠・出産・育児・介護と仕事の両立支援制度の活用に関する指針』を打ち出すなど、ワークライフバランスの向上に動いています。
さらに今月8日、人事院は2022年度の国家公務員の月給を0.23%(921円)、ボーナス(期末・勤勉手当)を0.10ヵ月引き上げて年4.40ヵ月とするよう国会と内閣に勧告しました。月給、ボーナスともにプラス改定を求めるのは3年ぶりで、年間給与は平均5万5,000円増える見通しとなっています。
「東大卒・エリート官僚」が減少を続ける現在。有望な学生が国家公務員を敬遠し続けると、それが「日本凋落」につながりかねないことから、私たち日本国民にとっても無関係な問題ではないかもしれません。給与や労働環境など、今後の更なる待遇改善が待たれます。
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+++++統一協会関連
なぜ日本だけがここまで統一教会の食い物にされたのか/山口広氏(弁護士、全国霊感商法対策弁護士連絡会代表世話人)、有田芳生氏(ジャーナリスト) 8/13(土) 20:00配信
安倍元首相の銃撃事件をきっかけに統一教会に社会の注目が集まっている。犯人の山上徹也容疑者が、母親の統一教会への入信を機に家庭生活が崩壊し、その恨みの矛先を統一教会と関係が深いと思われる安倍元首相に向けたことが、蛮行の動機になったと供述していることを警察が発表したためだ。  その後、100人単位で自民党の議員と統一教会の間に協力関係があったことが明らかになり、安倍首相の暗殺劇に端を発する統一教会問題は、壮大な政治スキャンダルに発展する様相を見せ始めている。  テレビ各局で生中継された8月10日の外国特派員協会での統一教会幹部による会見では、田中富広会長が、社会を騒がせていることを謝罪しつつも、自分たちは一切悪いことはしていないという自己弁護を延々と繰り返すばかりか、むしろ自分たちは不当な迫害を受けている被害者であるとまで主張し、宗教的な迫害で国連に提訴することまで匂わせたことが話題となった。  同日には岸田首相が内閣改造を行うにあたり、統一教会との関係がないことを最優先で閣僚を選ばなければならないほど、今や統一教会は岸田政権にとっても最大のリスク要因の一つとなっている。  しかし、ここに来てあらためて統一教会問題の実相に目を向けてみると、なぜこれだけ多くの被害者を生み、逮捕者まで出している教団の日本での布教活動が、これまで黙認されてきたのかとの疑問を持たずにはいられない。今回、その背後に統一教会と政治の関係、とりわけ自民党との強いパイプがあったことが、次々と明らかになり、特に、違法な勧誘活動を取り締まる立場にある警察に影響力を持つ警察OBや元国家公安委員長経験者、宗教法人を管轄する文部科学省の文科大臣、副大臣経験者などに重点的に食い込んでいたことが浮き彫りになったことで、統一教会が信者からの寄付や、印鑑や壺などを法外な値段で売りつける、いわゆる霊感商法によって、日本から600億円とも言われる資金を韓国に送金し続けることができた背景にあったカラクリの一端が見えてきている。とはいえ、なぜ日本だけが外国の宗教団体である統一教会に付け狙われ、実際にそこまで被害を拡大させたのか。その背景にはもう少し複雑な事情がありそうだ。  そもそも統一教会が最初に日本進出を果たした1950年代末から1960年初頭にかけて、当時の岸政権は共産主義勢力への対策に頭を悩ませており、統一教会の反共団体としての性格に利用価値があると考えて、日本国内での活動を支援したという。1968年に反共団体で統一教会の関連団体である国際勝共連合が設立された時、笹川良一氏が名誉会長に就任している。統一教会の創始者の文鮮明氏が岸首相や笹川氏と昵懇の関係にあったことは、多くの歴史的資料によって裏付けられている。外国の宗教団体とは言え、時の首相や右翼の大物の庇護を受けていれば、容易に日本に地歩を築くことができても不思議はない。  しかし、その後霊感商法などと呼ばれ、多くの被害者を出した統一教会による日本における積極的な信者集めや販売促進活動は、1970年代以降に本格化している。統一教会の被害者の代理人を務める山口広弁護士によると、この時、統一教会に取り込まれた日本人信者の多くは、日本が歴史的に韓国に酷いことをしてきたことの償いが必要であるという言説に容易に説得され、自分は韓国由来の宗教の統一教会に尽くすべきだと考えるに至ったと語る。根底には統一教会に根付いているエバ国家の日本はアダム国家の韓国に奉仕しなければならないという教義がある。  もちろん経済成長の中で家族や共同体との結びつきが希薄になり、孤独な境遇にある人が狙われたり、自身や家族に病人を抱えていたり、不幸があった人などを付け狙うといった、新興宗教の特有の勧誘手法はふんだんに使われていた。しかし、それは日本に限ったことではない。なぜ日本だけがここまで外国の宗教団体の食い物にされたのかについては、しっかりとした整理が行われる必要がある。なぜならば、そこには他国と比べた時の日本の政治体制、行政制度、社会制度の弱点が凝縮されている可能性があるからだ。  今週は35年にわたり、統一教会の霊感商法の被害者や多額の寄付をした後に脱会した元信者らの代理人として統一教会と交渉を続けてきた山口広弁護士と、ジャーナリストとしてこの問題を追い続けてきた有田芳生氏に、8月10日の記者会見で統一教会から上がってきた様々な主張の妥当性を問うた上で、なぜ統一教会が日本でここまで勢力を伸ばすことができたのか、自民党との太いパイプは何を意味しているのかなどについて、ジャーナリストの神保哲生、社会学者の宮台真司と議論した。 【プロフィール】 山口 広 (やまぐち ひろし) 弁護士、全国霊感商法対策弁護士連絡会代表世話人 1949年福岡県生まれ。72年東京大学法学部卒業。75年司法試験合格。78年弁護士登録。同年、東京共同法律事務所入所。87年全国霊感商法対策弁護士連絡会を起ち上げ事務局長に就任。日弁連消費者問題対策委員会委員長、内閣府消費者委員会委員などを歴任。2022年より現職。著書に『検証・統一協会=家庭連合』、『検証・統一協会―霊感商法の実態』など。 有田 芳生 (ありた よしふ) ジャーナリスト、前参院議員 1952年京都府生まれ。77年立命館大学経済学部卒業。同年新日本出版社に入社。あゆみ出版、晩聲社などを経て、86年よりフリージャーナリスト。2007年新党日本副代表就任。10年参院初当選(民主党・比例区)。当選2回。2022年の参院選で立憲民主党より出馬も落選。同年、ジャーナリスト活動を再開。 宮台 真司 (みやだい しんじ) 東京都立大学教授/社会学者 1959年仙台生まれ。東京大学大学院博士課程修了。社会学博士。東京都立大学助教授、首都大学東京准教授を経て現職。専門は社会システム論。(博士論文は『権力の予期理論』。)著書に『日本の難点』、『14歳からの社会学』、『正義から享楽へ-映画は近代の幻を暴く-』、『私たちはどこから来て、どこへ行くのか』、共著に『民主主義が一度もなかった国・日本』など。 神保 哲生 (じんぼう てつお) ジャーナリスト/ビデオニュース・ドットコム代表 ・編集主幹 1961年東京生まれ。87年コロンビア大学ジャーナリズム大学院修士課程修了。クリスチャン・サイエンス・モニター、AP通信など米国報道機関の記者を経て99年ニュース専門インターネット放送局『ビデオニュース・ドットコム』を開局し代表に就任。著書に『地雷リポート』、『ツバル 地球温暖化に沈む国』、『PC遠隔操作事件』、訳書に『食の終焉』、『DOPESICK アメリカを蝕むオピオイド危機』など。 【ビデオニュース・ドットコムについて】 ビデオニュース・ドットコムは真に公共的な報道のためには広告に依存しない経営基盤が不可欠との考えから、会員の皆様よりいただく視聴料によって運営されているニュース専門インターネット放送局です。 ----- (本記事はインターネット放送局『ビデオニュース・ドットコム』の番組紹介です。)
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万葉集(八隅知之,3),見つからない銃弾(盲管銃創)

(本ブログは月木に更新されます。コメントはryuuzaki_i@yahoo.co.jp へ)
尚、次回のブログ更新は8月11日に予定されていましたが、管理人の私事の都合で休ませていただきます。まあ、夏バテ休みということです。
(写真:先日、鴨、鷺によって大量殺戮されたと思っていたザリガニ君のなかで辛うじて生きながらえたザリガニが前夜来の雨でできた路上の水溜りを散策していました。私に気付き、虚勢を張って、はさみを振り上げ脅しをかけています。
 ザリガニ0074

 木陰の田んぼで番(つがい)の白鷺が水中の泥を突ついてます。もしかしてメスのほうが、人間の目を盗んで「美人」に変身し、白い衣(ころも)をハラリと脱ぎ捨てるのではなかろうか、との淡い期待で盗撮しましたが、そういうことは起きませんでした。
 番白鷺0084


 涼しさも ほんの束の間 焼け石に 一滴たらした 水の如し

 秋が近づいているのかと期待したここ数日でした。しかし、週があけてみれば、あの暑さが戻ってきました。

 政治家と旧統一教会との長きにわたる腐れ縁が大きな政治問題となっています。明後日の内閣改造では、そうした関係を持っていた国会議員は大臣には登用されないと岸田首相は言明しています。

 三年ほど前のことでしょうか。「警戒サイレン」が当たり一面に響き渡ったことが数回ありました。ご記憶の方も多いでしょう。北朝鮮が発射するミサイルが日本列島に落下するやもしれぬとの理由でした。当時の安倍氏が「敵国北朝鮮の危険な行為」として国民に訴えたのです。安倍氏が、「モリ(森友)カケ(加計)スパ(ゲッティ、スーパコンピュタ)」や花見などで不正・嘘が次々に発かれ窮地に追い込まれると、決まったように北朝鮮がミサイルやら核実験やらを強行したことを思い出します。当時はネットでも、北朝鮮は安倍氏の苦境を助けているのかなどといった記事が多く出回ったものです。つまり安倍氏に向けられた疑惑を「北朝鮮憎し」に転じるためであろうという指摘です。そしてその指摘が実は真実に近かったことを安倍氏暗殺事件が明るみに出しています。まさに北朝鮮ミサイルと安倍氏ピンチには、強い相互の「扶助」関係があったのです:
櫻井よしこや極右文化人はの正体!統一教会と自民党がズブズブの証拠!安倍昭恵夫人がスピリチュアルに


 その暗殺された安倍氏の殺害犯について、現在容疑者として収監されている「山上」なる人物ではないという疑惑があちらこちらから聞こえてきます。理由は、直接の死因となった銃弾について不確かな情報があり、その真偽の詳細が秘匿されているためと思われます。唯一、政府に近いと思われる自民党参議院議員・青山繁晴氏がyoutubeで適宜、警察筋からの情報を公開しています。
 しかし、青山氏という国会議員がどれだけの真実を語っているのかは見定めようもありません。すなわち、こうした情報は政府が容認していることは明らかです。当然、極秘事項までが公開されるはずはありません。が、興味深いことを語っているので転載しておきます:
動画【ぼくらの国会・第375回】ニュースの尻尾「警察に更に問う 安倍元総理暗殺事件」

 さてこうした「お上」から提供される情報に疑念を抱く人士は少なくありません、その一例をいかに添付します:
関連動画:
動画元気なおじい
 上に転載した動画群からその一つを下に紹介しておきます。
動画安倍元総理暗殺事件 盲管銃創 国民は青山議員に騙された!

+++++Japanなる呼称の起源
 前回の記事で「万葉集には「八隅知之 吾大王」なる表現が24回登場する」としてその内訳を列記しました:
巻一(雜歌、七歌):三、五、(二九、柿)、三六(柿)、三八(柿)、四五(柿)、五十、五二
巻二(相聞・挽歌、七歌):百五二、百五五、百五九、百六二、、百九六(柿)、百九九(柿)、二百四
巻三(雑歌、二歌):二百三九(柿)、二百六一(柿)
巻六(雑歌、六歌):九一七(赤)、九二三(赤)、九三八(赤)、九五六、千五(赤)、千四七
巻十三(雑歌等、一歌):三二三四、
巻十九(分類無、一歌):四二五四
 主として雜歌として括られるカテゴリに「八隅知之 吾大王」なる表現は集中し、それも巻三以前です。巻六以降の八つの歌についてはその半分は題詞によれば、山部赤人(生年不詳(700年?) - 天平8年(736年?)ウイキによる)作成と書かれています(上掲載でも歌番号に[赤]を付してあります)。山部赤人の活躍時代は、八世紀前半です。したがって、題詞は歌の詠まれた時代と背景を正しく記していると考えて良いと思います。したがって、これらの歌で読み込まれている「八隅知之 吾大王」が、倭国の王を意味しないことは明らかです。 むしろ、それは「日本」国(奈良盆地に権力を構築した政治勢力、いわゆる大和朝廷)の天皇です。赤人は万葉集の慣例に従ってあえて「天皇」の呼称として“意図して”「八隅知之 吾大王」なる表現を用いたと想像しています。
 日本列島の古代最高権力者が「天皇」と表記されるようになったのは何時頃のことであるのかが気になります。ウイキは
「ヤマト王権の首長を「大王」(オオキミ)といったが、天武朝ごろから中央集権国家の君主として「天皇」が用いられるようになった[10]。「天皇」は大和朝廷時代の大王が用いた称号であり、(以下略)」
と、書きます。日本書紀で最初にそれが登場するのが神武紀で「而生兒姫蹈韛五十鈴姫命。 是爲神日本磐余彦火火出見天皇之后也。」と、あります。世の中の不穏分子(蝦夷のこと)が掃討され、いよいよ、大陸中国に倣って正史の編纂に取り掛かる。その冒頭です。「神武天皇」時代に「天皇」なる称号がすでに存在していたとするならば、それは「神武天皇なる人物が紀元前660年ごろの人物ではなく、七世紀末ごろの人物」ということになります。というわけで、上掲載のウイキ記事に見るように、その称号がはじめて古代日本列島の支配機構に登場したのかはいまだ明らかになっていないようです。
 この事情は「日本」国なる国の呼称も同様です。
 余談ですが、ツイッタで次のような「つぶやき」を見ました。ツブヤキ者は作家であり、政治家でもある田中康夫氏です。田中氏はJapanなる呼称の起源に関心を抱き、その経緯を以下のように書いています:
220808田中康夫無題

  田中氏は「江戸しぐさ」の「発案者」と自認する「芝三光」氏の論議に疑義を投げかけるところから「日本がjapan」と海外で呼称される起源を探っています。ところで、芝三光なる名前はペンネームで、それは氏が住んだ現在の東京都港区芝白金三光町に由来するのだそうです。この地は南の白金台地と北の麻布台地が渋谷川によって削られできた谷底地です。北里研究所、お上品で知られる慶応・聖心の付属校が町工場と混在する不思議な地です。タモリ氏お気に入りの「坂」の一つ「三光坂」があります。

 田中氏は諸考察の上、Japanは「マレー半島」で語られる言葉に由来する外来語であるとします。中国の民の何人かは12世紀ごろには故国を離れて世界に広がっていたといわれています。いわゆる華僑です。彼らが「日本」なる呼称をマレー語族に持ち込んだというのが田中氏の想像のようです。
 ところで、ここで大きな問題が起きました:「学研・大漢和辞典」(藤堂明保監修)によれば「日」の音は「ジツ(漢音)、ニチ(呉音)」とあるが、その音のローマ字表記は「niet,riei、ri」とあり、「ジツ」に対応する音がないのです。田中氏が「日」に振る「jih」なる音が漢和辞典にはありません。Googleで「中国語 jih」を検索すると冒頭に出てくるのは
日本語 jih ; 中国語(簡体) 日 Ri
なる、対応表です。
 著名な漢文学者である藤堂氏が大辞典で書いたことは誤っていなかったのです。「日」を、日本列島住民は「jih]または「ニチ、niet」と発音するが中国ではその音に対応するのは夫々[ri],[niet]であるというわけです。とするならば、マレー語族に「日本」を持ち込んだのは「華僑」ではなく「日本列島住民」自身ということになります。その音を写し取って(「音写」)ラテン文字表記されたものが「Japung」ということになります。因みにマレー語では日は「matahali」ですからjapanとは似ても似っつきません。

 さてこうなると不思議なのは「Ri」(ri)です。これをどのように発音するのか?上掲の大漢和辞典は巻末の29頁(1571−1599)を中国語の音韻解説に当てています。その中で次のような一節を見つけましたので添付しておきます。
(図:“nii,ri”大漢和辞典1599頁より。拡大は図のクリックで)
藤堂15990090


 言語学者は疾うにそんなことは知っているのでしょうが、ド素人には皆目わかりません。知るためのとっかかりすらありません。

 以下はど素人の思い付きです。それは「r」なるラテン文字で表記される記号の「音」です。スペイン語、あるいはロシア語(対応する記号はp)、アラビア語などでは「巻き舌」でこれは発音されます。ところがフランス語では、そうした発音は存在せず「喉奥から発する」いわゆる口蓋音で、日本人には「g」に近い音です。興味深いことはこの「g」に近い音がロシア語文字では「r」(Γ ゲー)
に似ています。どうやら謎を解く鍵がこのあたりにありそうです。一方中国語では「ラ」行の音のほとんどは「r」ではなく「l」(える)です。カステラの起源は「ポルトガル語(またはスペイン語)」の「castella]について以下のような記事があります。
%%%%%スペイン語の日本語表記
カスティーリャ、カスティーリア llの発音は昔はリャ行に近い音で発音されていたが、近年スペインでは北部方言などを除いてリャと発音されることはほとんどなく、yと区別せず発音される。 スペイン南部(特にアンダルシア方言)、中南米ではジャ行に近い音で発音する国もあり、またアルゼンチンやウルグアイなどではシャ行の発音をする方言的な地域もある。
%%%%%
 朝鮮半島に多い「李」姓を日本人は「り」と音するが、実際は「イ」に近いことが上述の説明からうなずけます。特に私が注目するのが”中南米ではジャ行に近い音で発音する”の一節です。これは私の中南米友人との会話を通じた実体験でもあります。

 次回、書きますが、どうやらこの問題は日本人の哀しい性、すなわち「r、l」問題に帰着しそうです。暑い中、こうした暑苦しい話をうだうだ続けることに躊躇いがあるので、続きは次回書きます。
(つづく)

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万葉集162歌(八隅知之、2)、コロナ(上昌広医師が語る)

(本ブログは月木に更新されます。コメントはryuuzaki_i@yahoo.co.jp へ)
(写真:連日の蒸し暑い日々。近所のフクロウ君、健気にもシャキっとあたりを睥睨していました。)
220804フクロウ 

連日の 酷い暑さも 小休止 さりとて秋は まだまだ遠くに 

 本朝は突然の涼しさであります。このまま秋へむかってくれるとうれしいのですが。東北地方が深刻な水害に遭っています。被災者の方々にお見舞い申し上げ、一刻も早い平常への回復を祈念いたします。報じられる地は新潟県北部から山形県、飯豊山系の西麓で、そこは本ブログがしばしば考察してきた古代史ゆかりの地です。

+++++コロナ感染拡大第七波
 コロナ感染が急拡大しています。8月4日には全国の重症数が4ヶ月ぶりに500人を超えたとメディアが報じています。自宅にこもっている年寄りには、つい最近までは感染と聞いても他人事でしたが、このところ、身近なところで39度の発熱で、感染したとの話を聞くようになりました。それにしては、政府・行政の側にはそれほどの深刻感は窺えません。庶民の感染は放置ということのようです。
【上昌広医師と語る〜日本のコロナ対策「敗戦」】郷原信郎の「日本の権力を斬る!」#160


+++++万葉集162歌(吾大王=わがおおきみ)
 舒明天皇の次男である「大海皇子」が成人して天皇位についた際に、政庁である宮を構えたのが「浄御原」であると、舒明元年紀は、“後日の書き込み"という体裁をのこして、記しています。歴史学者は、大海皇子は後日の「天武天皇」であるので、上に掲載される書き込みについては「史実」の上では、何の疑念もないとします。
 しかし、現ブログ管理人はそこに日本列島古代権力史におきた大事件の隠蔽意図を嗅ぎ取ります。それが、この問題に「粘着する」理由です。舒明天皇(倭国政体の中ではこの人物の呼称は明らかでない)は推古天皇の後を襲った天皇です。推古天皇の実在・非実在は議論の余地がありますが、倭国王である「阿毎多利思比弧」の治世ですから、倭王の子または孫であったはずです。すなわち舒明天皇なる人物は「倭国」時代の最高権力者です。その次男が構えた宮が奈良盆地に存在するはずはありません。
 そこで「明日香能 浄御原」の「真実」、すなわちそれが地名であるのか、それとも宮の置かれた地の情景描写であるのかを調べます。これは私の「伊勢」疑惑に向かう姿勢と同じです。後日書きますが「伊勢」も固有名詞ではなく、そもそもは「強い風が吹く海辺(瀬=勢)」、すなわち情景描写であったのだろうと考えています。
 万葉集162歌の原文に散らばっている数個の「鍵となる語」は 岼棒能國者 奥津藻毛」、◆嵌隅知之 吾大王」、「高照 日之皇子」であろうかと考えています。,砲弔い討録鮨静傾諜に後日の書き込み痕が残されています。しかし、それは後に編纂される日本書紀との整合性を意識したのであろうと考えられます。そこで、この考察を一旦保留し、△飽椶辰討い泙后まずは、万葉集162歌の原文を再掲します:
%%%%%万葉集02巻/0162歌,
題詞:
"天皇崩之後八年九月九日奉為御齋會之夜夢裏習賜御歌一首 [古歌集中出]",
原文:
"明日香能 清御原乃宮尓 天下 所知食之 八隅知之 吾大王 高照 日之皇子 何方尓 所念食可 神風乃 伊勢能國者 奥津藻毛 靡足波尓 塩氣能味 香乎礼流國尓 味凝 文尓乏寸 高照 日之御子",
%%%%%
 すでに繰り返し強調してきたように、万葉集古歌に付せられる「題詞」に依拠することは、歴史の直視を妨げることがしばしばです。題詞に従えば、この歌は西暦695年ごろの事件を歌で叙事していると理解されます。もしそうであれば、[古歌集中出]なる言に整合しません。すなわち、七世紀のまさに末に詠われた歌が「古歌」に分類されてしまうことは奇異です。万葉集には六世紀末〜七世紀初頭と推察される歌が少なくありません。それらの歌を差し置いて七世紀末の歌が「古歌」であるはずはありません。

 前回、書いたように西暦600年、倭国では最高権力者は「姓は“阿毎”、号は“多利思比弧”」と名乗っており、民は最高権力者を「オオキミ」と呼んだのです。一方隋皇帝はこの最高権力者を「倭国王」と表記します。倭国の最高権力者と側近が自らが形成する支配機構と支配域を指して「倭」と名乗っていたとは思えません。それは大陸にあって紀元前二世紀ごろ漢を圧迫していた匈奴が自らを「匈奴」と名乗ることがあっても、それがみずからのIdentityとは自覚していなかったのと同様です。
 それはさておき、「八隅知之 吾大王」は倭国時代の(西暦七世紀前半)民による崇敬をこめた権力者への呼称です。崇敬の念が「八隅知之」にこめられています。世界の四隅、すなわち空間的には東西南北(四界)に加えて上界と下界(二界)、そして時間的には過去と未来(二界)までも俯瞰する王への最大限の敬意です。こうした世界観は倭国を構成する主要な民の出自の信仰「ヤズド」(ゾロアスタ教の神霊)に由来すると私は考えています。この「ヤ」が「八」と重なったと想像しています。彼らは、自らが日本列島の北端に上陸し、漸次、南進して辿り着いた九州の地で、先住権力の「邪馬台国」の存在を知ります(万葉集一巻、一・二歌)。「邪馬台国」の「邪」は、原住民の話し言葉である数詞「八」であることから(13年8月6日記事参照)、「八隅知之」の「八」は先住民末裔への敬意を表してもいるのでしょう。

 万葉集には「八隅知之 吾大王」なる表現が数多く出現します。その回数は24にのぼります。内訳は以下です:
巻一(雜歌、七歌):三、五、(二九、柿)、三六(柿)、三八(柿)、四五(柿)、五十、五二
巻二(相聞・挽歌、七歌):百五二、百五五、百五九、百六二、、百九六(柿)、百九九(柿)、二百四
巻三(雑歌、二歌):二百三九(柿)、二百六一(柿)
巻六(雑歌、六歌):九一七、九二三、九三八、九五六、千五、千四七
巻十三(雑歌等、一歌):三二三四、
巻十九(分類無、一歌):四二五四
 万葉集には、4516首が20巻に収められています。それぞれの巻は歌の性格・対象によって分類されています。そのなかで「雑歌」は、分類に困った歌群が治められていると思えます。七、十、十一、十二は柿本人麻呂の歌が中心となっていることからも、歌の配列は時間順ではないようですが、同一の巻内では、それらをことさら時間をばらばらにしる必要もないようなので、基本的には時間順と思って良いようです(ただし、「反歌」などの関連する歌は例外となります)。
 そこで、上記表から見えてくる特徴を考えることにします。
(つづく)

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+++++安倍氏暗殺事件
 安倍氏暗殺に関しては、報道が多くなされているにしてはどこか焦点がぼけています。その結果いろいろと理解しがたいことがあちこちに見られます。それを以下の動画が語っています。
安倍晋三元首相の謎の司法解剖!まさかの生存説!山上容疑者はおとりか!?小室夫妻のNYがヤバイ

関連記事:
%%%%%【“安倍政治”の功と罪】ジャーナリスト斎藤貴男「日本社会を根底から腐らせた」〈週刊朝日〉 8/4(木) 8:00配信
 第2次安倍政権は、特定秘密保護法や安保法制などで強行採決を連発し、森友・加計学園問題や「桜を見る会」を巡る問題などスキャンダルが続出した。長期政権が残した歪みは大きい。ジャーナリストの斎藤貴男さんに聞いた。 【この記事の写真の続きはこちら】
*  *  *  安倍氏への銃撃事件には大変な衝撃を受けました。謹んでご冥福をお祈りしたい。しかし、7年8カ月に及んだ「安倍政治」の評価を問われれば、それはまた別の話です。  集団的自衛権の行使容認やアベノミクスなど個別の政策については、議論が分かれるところだと思います。それよりも、安倍政治の最大の罪は、民主主義を完全に形骸化し、日本社会を根底から腐らせたことです。  安倍氏なりの理想とする“国家像”というものがあったのでしょう。けれども、それを実現するためには手段を選ばなかった。自分の理想以外の価値観を軽視し、踏みにじってきました。  異論に耳を傾けず、重要法案を数の力で押し切った。特定秘密保護法や安保法制、「共謀罪」法などで強行採決を連発しました。安倍氏の考えに共感できる人たちにはすごく頼もしくも映ったでしょうが、反感を持つ人たちは強烈な怒りを覚え、国論が両極端になっていきました。  森友・加計問題や桜を見る会では、公文書の改竄(かいざん)や廃棄が常態化。具体的な証拠を突きつけられても「批判は当たらない」で済ませ、権力者は何をやってもよいのだ、というのが自民党や官僚の常識になりました。  こうした強権的な手法やスキャンダルを巡って国論は二分され、ネット上などで互いに罵詈(ばり)雑言を浴びせ合うようになりました。社会が分断されたのは、新自由主義によって格差が広がったのも主因です。公正な競争など望むべくもない条件の差をそのままに、いわゆる“負け組”はすべて自己責任で片付けられてきた。新自由主義は小泉純一郎政権の時に顕著となり、当然の帰結として安倍政権ではネポティズム(縁故主義)がはびこりました。
今回の国葬を決めた岸田首相は政権維持のため、安倍派を取り込みたいという思いもあったのでしょう。しかし、国葬を巡っても賛否は真っ二つに分かれています。これ以上、国民を分断することは避けるべきです。  分断と対立が進んで最も懸念されるのは、冷笑主義の蔓延(まんえん)です。安倍氏は国会で質問中の野党議員に対して、「日教組、日教組」とヤジを飛ばしたことがありました。日本教職員組合の何が問題かを説明もせずに、日教組という名称そのものを悪口にして、せせら笑ったのです。真っ当な批判に耳を傾けるどころか、お互い議論をしようという態度さえ冷笑の対象になる。これでは罵(ののし)り合っているほうがまだマシ。社会の閉塞(へいそく)感はますます高まるばかりです。
%%%%%(構成 本誌・亀井洋志) ※週刊朝日  2022年8月12日号

万葉集巻二・162番、旧統一教会(平野貞夫)

(本ブログは月木に更新されます。コメントはryuuzaki_i@yahoo.co.jp へ)
(写真:週末、夏休み休暇で北関東「暑村」にやってきた孫君に付き合って「成田夢牧場」に出かけました。ヤギの広場には、1頭のヤギがやっと通れるほどの狭い幅の板を10mほどつないで、橋を作っています。なぜか、ヤギ共はこの細い板に登るのです。当然反対側からも上ってきますからどこかで、ぶつかります。しばらくは相手が道を譲る、すなわち後退する歌か、あるいは橋から地上に飛び下りるのを待ちますが、どちらも意地をはっているのか、そうはしません。そうなると力ずくです。こうして」ヤギの「角突き合い」がはじまります。拡大は図のクリックで)
角突き合い0045

(写真:当地の田んぼでも、早くも穂をつけた稲が育っています。拡大は図のクリックで)
稲穂0056


 溶ける脳 すさまじき暑さ わがPCも 主(あるじ)に倣い しばしば誤作動

 北関東の地ではありますが、八月初旬になり、けたたましいほどに暑く「寒村」なぞという形容詞は不適切な日々であります.脳みそが暑さで流動性を増すのであります。そんな暑い夏の早朝三時過ぎに蝉の「ピッ」なる音声が窓外にします。しばらくは何を躊躇ってるのか、一気には鳴かず、数秒の間をおいて「ピッ」を繰り返します。そのうち他所のあちこちからも「ピッ」が始まります。かくしてあのけたたましい一斉合唱が始まります。「やれやれ、今日も暑くなりそうだな」と寝ぼけ頭で考えます。しかし現実の事態は深刻な溶脳現象であります。高齢爺には毎年やってくる暑い夏が年々過酷になるのであります。

+++++万葉集162歌
 万葉集二巻162歌に「浄御原」なる表現が始めて登場します。この歌の作成時期が推定できれば、「浄御原」なる呼称が生まれた時代が見えてくるのではなかろうかとの期待をしています。そうした期待を抱かせるのは、この歌の「題詞」が「古歌集中出」、すなわち、いろいろな歌群集から構成される万葉集の中でも「古歌」とされる歌群から選ばれたことを書いているからです。
%%%%%万葉集02巻/0162歌,
題詞:
"天皇崩之後八年九月九日奉為御齋會之夜夢裏習賜御歌一首 [古歌集中出]",
原文:
"明日香能 清御原乃宮尓 天下 所知食之 八隅知之 吾大王 高照 日之皇子 何方尓 所念食可 神風乃 伊勢能國者 奥津藻毛 靡足波尓 塩氣能味 香乎礼流國尓 味凝 文尓乏寸 高照 日之御子",
%%%%%
 題詞は、西暦686年に死去した天武天皇の九回忌祥月命日9月9日の御齋會の際の夢見を歌ったと理解されています。すなわち、日本列島の政治動乱が落ち着き、奈良の権力が藤原宮に政庁を構え安定に向かっている時期であるとの印象を、読者に与えます。
 現ブログ管理人は、こうした従前の「歴史観に基づいた理解」に疑念を抱いています。真っ当なこの歌の解釈を獲得するために原文が含むいくつかの表現に着目します。その一つが「神風乃 伊勢能國」です。ウイキを見るまでもなく「伊勢」の起源、とりわけ「伊勢神社の創建年代」についてはいまだに不確かであるとするのが、一般学説です。にもかかわらず、この神宮は格別に「神格化」されています。全国に四万余あるとされる神社を統合する神社本庁は伊勢神宮を本宗とします。伊勢神宮・宮司は「日本会議」なる団体の顧問を務めるなど、宗教界の重鎮でもあります。ウイキはこの日本会議が日本国の右派勢力の代表的組織であることを書き、一方で「旧統一教会」に名前を連ねる有力な政治家たちが重なっているとも書きます。
 こうした謎の「伊勢」に「祭所」が設けられたのが垂仁天皇二十五年紀であると日本書紀は書きます。一代前の崇神天皇時代に疫病が流行し、その災厄を鎮めるために「定奉。天神地祇之社」(古事記)をなしたのです。その際に「天照大神」の祭祀担当者も定めていたが、どうやら、事情があってその祭祀場所を変更することになったとのいわば「理屈付け」をします。
 日本書紀編年によれば崇神天皇、垂仁天皇の在位期間はそれぞれ、紀元前97−紀元前30、紀元前29−西暦70年です。そして130年後の西暦200年から269年が神功皇后摂政(卑弥呼)の時代となります。真っ当な古代史研究者の誰もがこの編年を頭から信じてはいないはずです。古代であるがゆえにこうした不確かさが付きまとうとして、その不確かさを許容します。結果として現代の日本政治での宗教思想史にかかわる事にまで、この不確かさが入りこんでしまったのです。
 この歴史編年の不合理さを解消するのが、「時間の逆転」観です。すなわち、神功皇后摂政(卑弥呼)以前の歴史記述にあっては「時間」はchronologicalではないことを受け入れることです。過去の私の詳しい考察は繰り返しませんが、常陸国風土記などの併読から崇神天皇(美麻貴)の活動時期が七世紀末であったことがわかってきました。さらに垂仁天皇は崇神天皇の活動を準備した権力者であるらしいことも見えてきました。こうした史実と記紀の記載順序は整合しません。記紀は自らの編年の矛盾の辻褄あわせをします。ひとつは系譜です。そしてこの伊勢神宮の記載もそのひとつです。伊勢問題の視点がさだまったことで、それひとまずここで、休み別の鍵を解くことにします。そのうえで、「伊勢」問題の見直しをしようという考えです。

 歌の中で読み込まれている「八隅知之 吾大王(わがおおきみ)」なる表現について、万葉集研究者はまったく疑うことなく「天皇」であると解説します。「おおきみ」は隋書倭国伝に由来します:
「開皇二十年、倭王姓阿毎、字多利思比孤、號阿輩雞彌、遣使詣闕」

 西暦600年倭国王は隋皇帝に表敬の使節を派遣します。その際に使節が皇帝の面前でなした陳述が隋書倭国伝に記載されています。それによれば「號阿輩雞彌」とあります。すなわち「王は阿輩雞彌(あわきみ)」と呼ばれている、と使節は語っています。そうした倭国王と側近との関係が上掲の万葉集に書き記されていると考えることが、合理的です。ところが、上でも指摘したように、万葉集研究者をはじめ、ほとんどの古代史研究者は、「吾大王」を勝手に後世の支配者への尊称である「天皇」に読み替えてしまうのです。そしてこの安易な読み替えが歴史の解明の手がかりを自ら放り投げてしまっているのです。
(つづく)

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+++++旧統一教会問題
 安倍元首相の旗振りに従って、国を挙げて「反韓国、朝鮮半島蔑視」を事あるごとに叫びつつけてきた我国の「右翼」陣営の奇妙な挙動を桝添氏が皮肉っています。
https://www.chunichi.co.jp/article/518169%%%%%舛添要一さん、旧統一教会に支援を求める嫌韓派政治家の矛盾を指摘「政治理念などどうでもよいということなのだろう」と皮肉込める 2022年7月31日 12時28分
 元東京都都知事、参議院議員で国際政治学者の舛添要一さん(73)が31日にツイッターを更新。連日、多くのメディアで報道されている世界平和統一家庭連合(旧統一教会)とのつながりを持つ政治家について「韓国で発足し、教祖も韓国人である統一教会の選挙応援を平気で受ける『嫌韓派』の右寄りの政治家たち。日本人信者が献金した金は韓国の教団本部に吸い取られている」と、考え方と現実との矛盾を指摘した。
 さらに「『嫌韓派』なら、徹底的に韓国を排除すればよいのに、票目当ての付和雷同で、政治理念などどうでもよいということなのだろう」と皮肉を込めた。
%%%%%
 参考動画:
<統一教会・国葬 / 政治のウラ話> 平野貞夫×佐高信×早野透【3ジジ生放談


 参考動画:
統一教会と霊感商法の実態について弁護士らが会見
 参考動画:
https://www.youtube.com/watch?v=yfxi4SgbRQcフルモチS2#05】▼安倍元総理の国葬反対の理由とは? ▼橋下徹氏について「通り魔に襲われたような感覚!」▼本物のカルト(政権)の

7月28日、休載のお知らせ

本日(7月28日)、所用のためブログを更新できませんので、休載します。次回は8月1日(月)となります。酷暑の日々、皆様におかれましてはくれぐれもご自愛なされますよう祈念いたしております。

崇神記(疫病)、キッコの日記

(本ブログは月木に更新されます。コメントはryuuzaki_i@yahoo.co.jp へ)
(写真:公園の樹や枝葉に張り付く蝉の抜け殻が日に日に増えてきました。いつもの散歩街道では、右側の雑木林で叫びたてる蝉共のわめき声が、左側の水田に跳ね返ります。かくして散歩者は両側から蝉の合唱を浴びせられるという仕儀と相成っております。拡大は図のクリックで)
せみ0018

 喧(やかま)しく 田に跳ね返る せみの声 (常陸・令和の芭蕉)

(写真:用水のフェンスで用水に写る己が姿に見惚れるナルシス雉君。拡大は図のクリックで)
ナルシス雉0011

 
+++++伊勢(2、垂仁二十六年紀)
 舒明天皇元年紀は、生した二人の男児を書きます。長男の葛城皇子、そして次男の大海皇子です。後日、何者かの手によって夫々の皇子に注を加えるかのように書き込みがなされます。いわく長男は近江大津に宮を構え、次男は浄御原に宮を構えたと。
 近江・大津は滋賀県琵琶湖南岸の地ではなく、史実は熊本県の中央を東から西に流れる白川中流域の「大津」です。私が知る限りでは、古田武彦氏、そして九州在住の古代史愛好者ぐらいが、同様を考えていると想像しています。大方の歴史研究者にとっては、それは「荒唐無稽」に映ります。何よりも当時の政治の目撃者がそんなばかげた記載を看過するはずがないと指摘します。このあたりの議論はすでに本ブログでは詳しく論じてきました。そうした指摘を躱(かわ)す為に、日本書紀編纂者は、万葉集などの原典に記載される地名を近畿地方に「つくりあげた」のです。この「大津」はまさにそのひとつです。
 繰り返しますが、葛城皇子は確かに「大津」に自らの政庁を構えたのです。その意味で、日本書紀は「史実」を書き記しているのです。ただし、それは藤原不比等が意図し、大方の歴史家が「誤解」した滋賀の「大津」ではありません。
 同様な議論が浄御原にも適用できるに違いないと現ブログ管理人は考えています。当然その地は倭国領内であって奈良盆地ではないはずです。それを探る手立てとして引っ張り出してきたのが万葉集162歌です。この歌が「浄御原」を露に詠みこんでいるからです。問題は、日本書紀が撰上された西暦720年以後にこの歌が作成されているとするならば、そこで登場する「浄御原」は、大方の歴史家が考えるように奈良盆地内香具山から真南2kmの「宮跡地」ということになります。
 ところが、162歌に付される題詞は以下を書きます。
"天皇崩之後八年九月九日奉為御齋會之夜夢裏習賜御歌一首 [古歌集中出]"
すなわち、
「天武天皇薨去から8年後、西暦694年の9月9日に開かれた御齋會の夜に夢の中で浮かんできた(習の意味不明)歌を奉った。これは[古歌集中から出した一首]である。」
 天武天皇九回忌の9月9日(祥月命日)の法要の際に詠まれた歌ということになります。私は、題詞はこの歌の詠まれた時期と状況を伝えていないと考えています。万葉集の一巻・二巻にはしばしば見かけることで、不思議ではありません。本ブログでは具体的にそれを詳述してきました。
 ということは、この題詞も八世紀の初頭頃に当時の知識人が「知恵」を絞って状況を想像し作ったものか、あるいは、藤原不比等の意向に沿うように、あえて歴史の真実を捻じ曲げた作ったものか、そのどちらかであると思っています。その是非を考察するために再度、歌の原文に戻ります。
 まずは162歌の原文の再掲です。
 明日香能 清御原乃宮尓 天下 所知食之 八隅知之 吾大王 高照 日之皇子 何方尓 所念食可 神風乃 伊勢能國者 奥津藻毛 靡足波尓 塩氣能味 香乎礼流國尓 味凝 文尓乏寸 高照 日之皇子

 この歌に付された歌意は以下です(220714記事”浄御原(6、万葉集162歌)、原発事故民事裁判判決”)。
<西本願寺本万葉集の原文を忠実に訓むときの解釈>
訓読 明日香の 浄御原(きよみはら)の宮に 天つ下 知らしめしし やすみしし わご大王(おほきみ) 高照らす 日し御子 いかさまに 思ほしめせか 神風の 伊勢の国は 沖つ藻も 靡ける波に 潮(しお)気(け)のみ 香(かほ)れる国に 御(み)籠(こも)りし あやにともしき 高照らす 日し皇子

 万葉集の解読の難しさは「時代が特定できない」ことにあります。歌意を想像するには時代背景と政治状況を知っていることが大きな手がかりになります。というわけで、上に掲載の「歌意」についても「不確か」であると考えています。
 さて時代を特定する手掛があるだろうか?そこで歌を凝視して気づくことが「伊勢」です。「伊勢祠」に日本書紀がはじめて言及するのが、垂仁・二十六年紀です。この記載から見えてくることは天照大神を祀る経緯と、そのいわば担当者(担当する媛の選定です)。因みに垂仁天皇の事跡について古事記も書いています。こちらのほうが枝葉末節とも思える「修飾」表現がないため、歴史の筋道が見やすいことを追記しておきます。

 さて、なぜ天照大神を祀ることが必要になったのでしょうか?そのことを以下の記事が書きます
 %%%%%宗教新聞2022年1月1日号記事より
新年明けましておめでとうございます。昨年に引き続き本年も新型コロナウイルス蔓延に不安を抱えての出発です。mRNAワクチン開発成功者へのノーベル賞授与は間違い無しとの評判でしたが、その後の予想を超えた頻度で起きる重篤な副反応と多様な変異株発生のためにそうした話は聞かなくなりました。古代日本列島の政治・宗教史である古事記は、崇神記で「疫病が神社発祥の始まり」即ち「此天皇之御世疫病多起人民死爲盡爾天皇愁歎而(中略)仰伊迦賀色許男命作天之八十毘羅訶(此三字以音也)定奉天神地祇之社」と書きます。日本書紀編年に従えばこの天皇の即位は紀元前97年と算出されます。が、常陸国風土記、続日本紀その他を併せ考察すると時代は七世紀末と推定できます。「社(やしろ)を定(さだ)め奉(たてまつ)」る背景は、怨念を抱えて殲滅させられた蝦夷(えみし)の鎮魂です。この本質を直裁に指摘したのが故梅原猛氏です。社に奉るために駆り出されたのが天之八十毘羅訶です。「八十」は「ヤツド」の音写で蝦夷の信奉した「祆教神霊」です。「夜刀神」(常陸国風土記)又は「八十神」(古事記)で大国主命へ嫌がらせをする憎まれ役を負わされています。時の権力者は事態の鎮静のために仇敵の宗教に縋ったのです。にも関わらず、蝦夷残党の反逆の火はあちこちで燃え上がりました。最大のそれが八世紀末のアテルイの乱でした。
%%%%%
 上述のように崇神治世時代に大きな災厄があり、その災厄からの救済を祈念して“定奉天神地祇之社”を成し、その際に、天皇は娘の豊耜入姫命(古事記では豊鉏入日売命)をその担当(拝み祀る)に当てたのです。後任は垂仁天皇の後皇后との間になした倭媛命で、この姫が天照大神の鎮座する場所として「伊勢」を選定したところ、天照大神もその地が気に入ったと、垂仁紀が書いていたことを前回記事で紹介しました。

 ところで、現ブログ管理人は記紀の記載にあっては、神代・神武時代は別途考察することとして、崇神天皇から神功皇后時代の記載は時間経過の順(chronological)ではなく、時間をさかのぼる方向で記載されていると指摘してきました。記紀にこうした記載の逆転があることはすでに山田宗睦氏も指摘していることは以前書きました。現今の事例でいうならば、垂仁天皇の時代は崇神天皇の時代に先行するということです。
 この逆転をどのように理解するのか。それを次回書きます。
(つづく)

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+++++有名なブロガ「きっこ氏」が鋭く書いていますので紹介しておきます。

%%%%%統一教会と自民は“一心同体”。安倍元首相が破壊した「政教分離の原則」 2022.07.21 『きっこのメルマガ』 まぐまぐニュース
安倍元首相銃撃事件以降、次々と明らかになる自民党と旧統一教会との浅からぬ関係。その繋がりは、もはや「一心同体」と言っても過言ではないもののようです。今回の『きっこのメルマガ』では人気ブロガーのきっこさんが、旧統一教会がどのような団体であるかを解説するとともに、彼らと安倍政権がお互いの利益のために行ってきた「活動」を詳細に紹介。その上で、安倍元首相は日本における政教分離の原則をも破壊したと断言しています。
安倍晋三と統一教会の蜜月関係
参院選の最中に発生した安倍晋三元首相の殺害事件で、またスポットを浴びることになった韓国のカルト教団「統一教会」ですが、安倍政権下の2015年に名称を「世界平和統一家庭連合」に変更し、安倍政権が終わった2020年には「天の父母様教団」に変更しています。しかし、これらの名称は長いし紛らわしいので、ここでは「旧統一教会」という呼び名に統一したいと思います。統一教会だけに…なんてのも織り込みつつ、あたしが初めて旧統一教会を認識したのは、子どもの頃のワイドショーでした。
当時は「霊感商法」という言葉で大きく取り上げられ、二束三文の壺などを法外な値段で売りつけられたという被害者たちが、モザイク処理&ボイスチェンジャーで顔と声を隠し、次々と出演して被害の模様を証言していました。そして、次に旧統一教会の名前を耳にしたのは、あたしが20歳になって社会人になった1992年のこと、歌手の桜田淳子さんや新体操の山崎浩子さんなどの「合同結婚式」のニュースでした。
この時は「合同結婚式」の異様さだけでなく、桜田淳子さんの実父が「全国統一教会被害者家族の会」の秋田支部の会長をつとめたり、桜田淳子さんの所属していたサンミュージックの相澤社長が二束三文の壺を200万円で買わされたりと、カルト教団の波紋は広がり続けました。
そして、あたしが次に旧統一教会の名前を耳にしたのが、10年前に第2次安倍政権がスタートした直後でした。政権を奪還した安倍首相が満を持して発表した組閣一覧を見たところ、旧統一教会や関連団体のイベントなどに祝電を送ったり、イベントに出席して祝辞を述べたり、旧統一教会の機関紙のインタビューに顔を出していた自民党議員が、閣僚の約半数、12人もいたのです。さらには、副大臣や政務官まで入れると、政権中枢の30人以上もの自民党議員が、何らかの形で旧統一教会と繋がっていたのです。
安倍元首相と言えば、祖父である岸信介氏の時代から癒着している旧統一教会や、父である安倍晋太郎氏の時代から癒着しているジャパンライフなど、カルト教団やマルチ商法などの反社会組織と手を組んで組織票を集めて来たことで知られています。しかし、まさかここまで深く癒着していたとは、さすがに気づきませんでした。
そして、少し遡(さかのぼ)って調べてみたところ、驚くべき事実が分かったのです。旧統一教会は悪質な霊感商法として、長年にわたって公安警察から「重要監視対象」とされて来たのですが、これが2006年の第1次安倍政権下で解除されていたのです。さらには、政権奪還後の2013年、旧統一教会の機関紙『世界思想』9月号の表紙を安倍首相自らが飾ったのです。その後も安倍首相は『世界思想』の表紙にたびたび登場し、あたしが確認しただけでも、計6回も表紙を飾っているのです。
さて、その後の流れですが、2014年10月11日、旧統一教会が東京の八王子市芸術文化会館大ホールで「祝福原理大復興会」というイベントを開催すると、安倍首相の懐刀と呼ばれていた自民党総裁特別補佐の萩生田光一議員と参議院議院運営委員長の中川雅治議員が出席し、来賓挨拶を行なったのです。
そして、翌2015年3月には、翌4月に全国で初めて「同性パートナー制度」が成立することとなった東京の渋谷区で、同性婚や同性愛を批判するビラが区民宅へ片っ端からポスティングされたのです。人海戦術で大量のビラのポスティングを行なったのは、旧統一教会の下部組織「Pure Love Alliance Japan」で、真偽は不明ですが、当時は安倍官邸からの指示だと噂されました。
その2カ月後の2015年5月、学生団体「SEALDs(シールズ)」による安倍政権への抗議デモが拡大すると、今度はどこからともなく別の学生団体が現われ、シールズを批判し安倍政治を賞賛し始めました。これが安倍官邸の指示で出動した学生団体「UNITE(ユナイト)」ですが、メンバーの大半が旧統一教会の学生信者で、旧統一教会の政治組織「国際勝共連合」の傘下団体でした。
「UNITE」の活動資金は、安倍内閣の内閣機密費から支出されていたという噂もありましたが、これも真偽は分かりません。しかし、後にデジタル担当大臣に抜擢され、恫喝問題ですぐに身を引くことになる自民党IT戦略特命委員長の平井卓也議員が、当時、自身のフェイスブックなどで、この「UNITE」の活動を宣伝していました。
そして、その裏では、1994年から差し止められていた旧統一教会の名称変更が、2015年8月、約20年ぶりに認可されたのです。旧統一教会は悪名高い「統一教会」という名称を捨て、「世界平和統一家庭連合」という新しい名称で、世間の目を気にせずに活動できるようになったのです。ちなみに、この時、この名称変更を受けて、自民党の鳩山邦夫議員と亀井静香議員が祝電を送っています。
その後も安倍首相を介して、旧統一教会と繋がりを持つ自民党議員が増え続けました。それは、選挙で組織票が得られるからです。今回の参院選でも、当選した自民党の井上義行議員が旧統一教会の全面支援を受けていたことが発覚しました。井上議員は第1次安倍政権で首相秘書官をつとめた側近中の側近であり、自ら旧統一教会の賛同会員であることを認めています。今回は選挙中に同性愛者への差別発言を行なったため、当選は難しいと見られていましたが、旧統一教会の組織票の効果なのか、当選を果たしました。
長年、旧統一教会の問題を取材し続けて来たフリージャーナリストの鈴木エイト氏によると、旧統一教会と何らかの繋がりがある現職の国会議員は112人いると言います。その内わけを見ると、自民党が衆参合わせて98人と突出しており、他は立憲民主党が6人、日本維新の会が5人、国民民主党が2人となっています。
さて、今回の安倍元首相の殺害事件ですが、山上徹也容疑者(41)の供述によれば、昨年2021年9月12日に韓国で開催された旧統一教会の関連団体「天宙平和連合(UPF)」のイベントで流された安倍元首相のビデオメッセージで、韓鶴子総裁に「敬意を表する」と述べた安倍元首相を見て、殺害を決心したと言います。
【関連】安倍晋三、統一教会との蜜月を笑顔でカミングアウト。イベント登壇&韓鶴子総裁を称賛で本性あらわ、「票とカネ」目的の歪な関係
一方、このあまりにも軽率すぎるビデオ出演を危惧した「全国霊感商法対策弁護士連絡会」は、5日後の9月17日、安倍元首相に対して「今回のような行動を繰り返されることのないよう、安倍先生の名誉のためにも慎重にお考えいただきますよう強く申し入れます」という抗議文を送りました。しかし、これまでの再三の抗議文と同様に、安倍元首相はこれを完全にスルーしました。
【関連】祖父・岸信介からのつながり。安倍元首相と統一教会のただならぬ関係
そして、その2カ月後の2021年12月のこと、2023年4月に創設される「こども庁」の名称が、自民党中枢の複数の議員によって、突如として「こども家庭庁」に変更されました。当時、加藤勝信前官房長官を始め自民党議員らは「それらしい理由」を口々に述べていましたが、12月21日、旧統一教会の政治組織「国際勝共連合」の公式HPに、機関紙『世界思想』1月号を引用する形で「心有る議員・有識者の尽力によって、子ども政策を一元化するために新しく作る組織の名称が『こども庁』から『こども家庭庁』になりました。」と発表されたのです。
これをそのまま読めば、「こども家庭庁」という名称は旧統一教会の希望であり、それが自民党議員らの尽力によって採用された、という意味になりますよね。他にも国際勝共連合は、憲法9条を改定して軍事力の保持を明記し、集団的自衛権を確立させるための「憲法改正」を目指しています。そして、新憲法には「家族条項」を盛り込もうとしています。
さらには「選択的夫婦別姓法案」「こども権利条例」「ジェンダーフリー条例」などに反対し、個人の権利を抑え込もうとしています。これらはすべて国際勝共連合の公式HPに明記されており、その大半が安倍自民党政権が声高に主張して来たことと合致しているのです。「こども家庭庁」への名称変更からも分かるように、すでに現在の自民党は、旧統一教会と一心同体の関係なのです。
多くの人は、日本の政権は「自民党と公明党の連立政権」だと思っているでしょうが、その実態は「旧統一教会と創価学会の連立政権」だったのです。カルト教団とグルになった組織票によるイカサマ選挙で、政権の座に居座り続けた安倍元首相は、日本の「民主主義」と「三権分立」を破壊しただけでなく「政教分離の原則」も破壊したのです。皆さん、このような人物を「国葬」にし、政治私物化による数々の疑惑を闇に葬ってしまうことに、あなたは賛成ですか?それとも反対ですか?
%%%%%(『きっこのメルマガ』2022年7月20日号より一部抜粋・文中敬称略)

伊勢(1、垂仁26年紀)、宗教と政治家

(本ブログは月木に更新されます。コメントはryuuzaki_i@yahoo.co.jp へ)
(写真:当地では、一部の田は八月近くになって水張りをします。目ざとく見つけたt鴨が集まっています。いつもであれば、カモが集まると優雅なサギがやってくるのですが、今朝はまだ来ていないようです。)
加茂9995

  祖父に倣い 巨魁たらんと 嘘重ね 辿り着きし 総理のポスト 
 
 安倍氏がその能力の低さにも関らず、一国のトップに上り詰めることができたのは、巨魁たる祖父の人脈、そして遺産(金に限らない)に拠ったのでしょう。しかし、その現実をみずからの力と過信し、結果として米国を含む政財界の逆鱗に触れるところがあったのだろうと想像しています。そのひとつがウクライナ紛争で、他の政治家が口をそろえて「鬼畜ロシア」をさびたてう中で、安倍氏はその「音調」がちがっていた。安倍氏には何か含むところがあったのではと思っています。しかし、それをするには、安倍氏はあまりにも力量不足であったのでしょう。こうして7月8日の事件となった。しかし、この背景はケネディ米国大統領狙撃事件同様、その真相が明らかになることは無いでしょう。
 このところ、多くのネット・メディアが7月8日の安倍晋三元首相狙撃事件と容疑者(私はいまだに、山上某なる人物の狙撃で安倍氏が亡くなったとの警察発表に疑念があるため、あえて犯人と書かず、容疑者と書いています)が入信していたとされる旧統一教会を扱っています。それらのいくつかを連戴の「古代史」記事の後ろに掲載します:

+++++浄御原(7、万葉集162歌)
 「浄御原」と聞くとほぼ機械的に奈良県西部で天武天皇が『宮』を構えた地であると考えます。「浄御原」とは、舒明元年紀で大海皇子の生誕に付された書き込みが初出です。誰がどのような思惑で書き込んだのかは不明です。というわけで、「浄御原」とは、そもそも「倭国」王の都の別の呼称では無いかと考えています。そうとすれば、これまでの『暗黙』の了解は見直されなければなりません。すなわち検証です。
 その作業のために日本書紀を「訊問」してもそれは犯罪加担者に供述を迫るようなもので、多分大きな成果は上がらないでしょう。勿論「古事記」はこの件では部外者です。なにせ古事記は推古天皇までで記載を終えているからです。そこで狙いを定めたのが万葉集です。万葉集巻二162歌で初めて浄御原が登場します。万葉集の前後の流れからこの歌の作成年代を推定することが可能かも知れません。が、今回はその接近は通用しないかも知れません。理由はこの歌の題詞に「古歌出中」なる文言、すなわち、異なる既存の歌集それも古い歌集から持ってきて、162番の場所に挿入したとあるからです。となれば、この歌の中身について吟味をしておく必要が生じます。
 鍵を握るのが、「伊勢」です。どのような経緯から「伊勢」が日本列島古代史に登場するのか?それを日本書紀に探すと「垂仁紀」です。ただし 本来は日本書紀のいわば「草稿」版である古事記に探すべきところです。前回書いたように、古事記はそれについては触れていません。
%%%%垂仁紀(前回のつづき)
原文:
然後、神誨取丁巳年(垂仁二六年丁巳前四)冬十月甲子。伊勢国渡遇宮に遷る。是時倭大神著穂積臣遠祖大水口宿禰。而誨之曰。太初之時期曰。天照大神。悉治天原。皇御孫尊。専治葦原中国之八十魂神。我親治大地官者。言已訖焉。然先皇御間城天皇。雖祭祀神祇。微細未探其源根。以粗留於枝葉。故其天皇短命也。是以。今汝御孫尊。悔先皇之不及、而慎祭。則汝尊寿命延長。復天下太平矣。時天皇聞是言。則仰中臣連祖探湯主、而卜之。誰人以令祭大倭大神。即渟名城稚姫命食卜焉。因以命渟名城稚姫命。定神地於穴礒邑。祠於大市長岡岬。然是渟名城稚姫命。既身体悉痩弱以不能祭。是以命大倭直祖長尾市宿禰。令祭矣。 〉(岩波二38頁)

文意 岩波文庫「日本書紀」第二巻38頁):
然る後、神の誨(さと)すままに丁巳年(垂仁二六年丁巳前四、下に管理人による注を参照してください)冬十月の甲子をとりて伊勢国渡遇宮に遷る。是時倭大神が穂積臣の遠祖である大水口宿禰の憑依して誨えて曰うには「太初之時、天照大神は天原を悉く治めた。皇御孫尊は葦原中国之八十魂神を専っぱら治め、我は親しく大地官を治む」という。言はそれで終わった。然るに、先きの天皇である御間城天皇が神祇を祭祀したと雖も未だに微細其源根を探らず以って枝葉もそのまま留めている。故に天皇は短命であった。是を以って、今汝御孫尊は先皇之不及を悔い慎んで祭れば、則ち汝尊寿命延長し天下太平は復(もど)る。」天皇聞是言を聞いて則ち中臣連祖である探湯主におおせる。而してこれを卜(うらな)う。「誰人を以って大倭大神令祭。そこで渟名城稚姫命食が卜(うらな)う。渟名城(ぬなき)稚姫命が穴礒邑(あなしのむら)に神地をさだめる。そこで大市長岡岬に祠を置く。渟名城稚姫命は既に身体が悉(ことごとく)痩弱っているので祭ることが不能。大倭直祖長尾市宿禰に祀ることを命ずる。

%%%%%
 丁巳(かのとみ)年に当該ブログ管理人の注を書き添えました。それが以下です。太歳(十干十二支)は六十年周期で元に戻ります(十と十二の最小公倍数 還暦)。したがって大昔の事件の起きた年について、太歳がわかれば、60年の不確定さがあっても、その発生年を推定することができます。その発想を逆に(時間の進む方向で)考えてみました。伊勢に神性を付与するとのアイデアが沸き、それをいつの時代にするべきかの検討を藤原不比等と彼の側近は考えたはずです。その検討の時はまさに丁巳(かのとみ)年であったのかもしれません。この「伊勢国渡遇宮」は七世紀後半から八世紀前半のこととすると、それは660−4=西暦656年、または720−4=716年ということになります。前者であれば、それは「乙巳の変」(西暦645年)と白村江海戦(663年)の間です。そうとすれば、まさに倭国が滅亡の道をたどり始めた時期ということになります。一方、後者であれば、それは日本書紀が撰上された西暦720年の4年前です。伊勢に垂仁紀が書くような神性が付与されたのは日本書紀編纂終了直前、言葉を変えれば、伊勢は藤原不比等の政治的思惑が生んだ創造ではなかったのかと考たわけです。

 今回、紹介した文節はなかなか興味深いのです。先の天皇は短命であったとありますが、書紀に従えば先の天皇は崇神天皇で、在位期間六十年余です。ということは、うっかり書紀は真実を書いてしまった。即ち垂仁天皇の先代は短命であったのかもしれません。たとえば草壁皇子、あるいは大友皇子(弘文天皇)などです。これら考察しておきたいことを次回書きます。
(つづく)

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 以下の動画では、郷原氏の指摘は、私が考えていたことは異なる視点から狙撃事件を捉えていることがわかります。
【安倍元首相国葬をめぐる問題と、殺害事件の背景としての「アベノリスク」】郷原信郎の「日本の権力を斬る!」#156


 いろいろな議論がありますが、現在多くの関心が集まっているのが「政治と宗教」です。興味深い記事を見つけたので下に転載しておきます:
https://news.yahoo.co.jp/articles/dcccd0b4a1d877fe8d10d876386a906508b898b0
%%%%%公明党・山口代表“政治と宗教の関係”にノーコメントで大ブーイング…ひろゆきからも呆れ声
7/21(木) 11:01
「事件としての捜査が進展中なのでコメントは控えたいと思います。今後状況をしっかり見極めたいと思っております」 7月19日、こう答えたのは公明党の山口那津男代表(70)。安倍晋三元首相(享年67)が銃撃によって死亡した事件をめぐり、記者団から「政治と宗教」の関わりについて問われた。しかし、冒頭のように明確な立場を示さなかったため、物議を醸している。 報道によると、殺人容疑で送検された山上徹也容疑者(41)は、母親がある宗教団体に傾倒し、多額の献金をしたことで家庭崩壊を招いたと供述。’21年9月に安倍元首相がその団体へ寄せたビデオメッセージの動画を目にし、安倍元首相に対しても強い反感を抱いたという。この報道後、団体の名前として世界平和統一家庭連合(旧統一教会)の関わりが取り沙汰され、同連合は会見を開くことに。そして、会見で山上容疑者の母親が団体の会員であることを明かしていた。 安倍元首相に同連合との接点があると考えた山上容疑者は、「本当の敵ではないが仕方なく殺害対象に選んだ」といった趣旨の供述をしていると報じられている。 山上容疑者の供述が報じられた直後から、安倍元首相をはじめとする政治家と旧統一教会の関係をめぐる議論が各所で白熱している。それゆえ、宗教団体「創価学会」を支持母体とする公明党の見解にも注目が集まったようだ。 「創価学会の公式サイトでは、先日行われた参院選への支持依頼が公明党からあったことを明かしています。協議の上、コロナ禍での公明党の政策や姿勢を評価し、支持する旨を山口氏に通知したと記しています。’09年に同党の代表に就任した山口氏は、いわば“党の顔”です。世の関心事となっている『政治と宗教』の関係性について、どのように受け止めているかは誰もが注目するところでしょう」(全国紙記者) だが、「政治と宗教の関係」について明言を避けた山口代表の態度に、ネット上では疑問視する声が相次いでいる。 《控えちゃダメでしょう。あなた、政治と宗教を語るべき1丁目一番地なんだから》 《政権与党にいる一方の責任者として、「コメントを控える」という言葉を発したのであれば、それは論外です》 《むしろ一番語らないといけない立場にいるのでは?公明党と創価学会の関係を政教分離を踏まえて見解を出してほしいと思う》 かねてよりカルト宗教の規制を訴えている“ひろゆき”こと西村博之氏(45)も19日にTwitterを更新し、山口代表がコメントを差し控えたことを伝える記事を添えてこう皮肉った。 《「カルト宗教は良くない」という日本の政治家であれば当然言うべき言葉が出てこない公明党の山口代表》 公明党の公式サイトでは、創価学会との関係を“政教一致”などと非難する意見に対して《全く的外れな批判》と明記している。 その上で、憲法に定められている「政教分離の原則」について、《憲法が規制対象としているのは、「国家権力」の側です。つまり、創価学会という支持団体(宗教法人)が公明党という政党を支援することは、なんら憲法違反になりません》との見解を示している。 10年以上にわたって公明党の“顔”を担っている山口代表。世間の問いに口を開くことはあるのだろうか。
%%%%%

浄御原(7、万葉集162歌)、統一教会(旧称)と大臣

(本ブログは月木に更新されます。コメントはryuuzaki_i@yahoo.co.jp へ)
(写真:一部のメディアが報ずるように今夏は蝉が少ないようです。例年であれば、窓の網戸にはりついてやかましく喚きたてるアブラゼミもまだ登場しません。本日やっと訪ねてきた蝉がじっと網戸の向こうからこちらを凝視しています。それはそれで、監視されているようで気味が悪いものです。拡大は図のクリックで)
せみ9976

 しずかさや 暑き大気を 助長する あの喧しき せみ 沈黙ゆえ

 夏といえば、喧しい蝉です。朝三時過ぎころに遠慮がちにビビと鳴きだし、やがて四時過ぎともなると遠慮会釈も無くわめきたてるのが日常でありました。ところが今夏は、時折、夜明け前にビビと窓外で音をたてるのですが、それはあの夏の風物にはいたらず、消えてしまいます。このまま蝉の鳴かない夏となるのでしょうか。

 安倍晋三元首相奈良県狙撃事件がメディアを連日賑わせています。警察は現場で取り押さえた容疑者をいまや狙撃犯人と断定し、メディアは警察発表による犯人の自供を報じています。さらには、メディアは、犯行の動機を解説するとの理由から犯人と家族の所属した宗教団体の実情と、犯人との関りを報じています。こうした宗教団体が政治に関っていることの危険性を指摘することは理解できますが、この宗教団体の教義がどのように今般の犯行に関っていたのか、この宗教団体の、信者からの強奪まがいの金集めが、どのように教義に関っていたのかといった疑問には今のところ応えてはいないようです。いまや政界で自民党と完全にべったりと与党を形成している公明党なんぞは真っ先に危険な宗教団体として見直す論調が現れても不思議ではありませんが、その方向に矛先が向く気配はありません。
 いつものことですが、大手メディアが声高に叫びたてるにつれ、ものごとの本質が意図的に隠蔽されてしまうようです。すなわちそれは、安倍氏への狙撃は真に宗教団体への逆恨みであったのかという疑問です。この事件の真相はしばらくは明るみに出ないと思えます。それは1964年のケネディ米国大統領の狙撃事件の真相がいまだに闇の中にとじこめられていることと同様です。いうまでも無いことですが、世界政治の中では、ケネディ米国元大統領と当国の安倍元首相ではその「重み」は格段に違います。しかし、安倍氏が当国の政治の暗闇世界で重い存在であったことは確かと思えます。その存在が明らかになることに不都合を危惧する日本の支配層の思惑が関ったであろうと想像することは合理的であろうと思っています・
(図:日本国政治に湿潤する統一教会(旧称)。日刊ゲンダイ紙より。拡大は図のクリックで)
220718統一5975

220718統一976


+++++浄御原(7、万葉集162歌)
 前回記事では「竹取翁と万葉集のお勉強」 と題されたブログ記事から以下の一節を紹介しました。
 ブログ作者はこの歌のつくられた時代を次のように解説しています:
%%%%%「この歌は、〇統八年(七年か?694)九月九日の御斎会(の夜に持統天皇の夢枕に天武天皇が現れたとき日本書紀に記載なし:ブログ管理人注)の、持統天皇の気持ちを歌ったものです。そして、歌の一節の「神風の 伊勢の国は」から、天武天皇は伊勢の国にいらっしゃることが判ります。つまり、天武天皇が祭られているのは、∋統二年(688)に持統天皇が「最初の遷宮」を行った伊勢の皇大神宮(通称、伊勢内宮)です(日本書紀に記載なし:ブログ管理人注)。大神宮諸事記によると、朱雀(朱鳥?) 三年ママ(688)九月二十日に天武天皇の遺品が大和から伊勢の太神宮に送られています(日本書紀に記載なし:ブログ管理人注)から、この朱鳥三年九月二十日頃に皇大神宮が完成したと思われます」
%%%%%
 このブログ作成者は関連資料に広く眼を通されていることから、上で、番号を付して括弧の中で注を加えたように、日本書紀の記載には無い「解説」が施されています。いずれにしても、万葉集162歌の解読にあたっては、多くの研究者は「伊勢神宮と天武天皇そして持統天皇」が鍵であると考えていることがわかります。浄御原宮は天武天皇と皇后である持統天皇が構えた宮であるとの「先入観」に支えられていると、私は考えています。本ブログでは、浄御原とは、中大兄が権勢を振るった奈良盆地にはなく、それは倭国即ち九州のいずこかの地であったろうと考えています。それを考察することにします。

 さて、私の日本列島政治史観にあっては、可能な限り原典から「情報」を抽出することを原則としています。本ブログ記事冒頭に引用した論者が、多くの文献を元に考察している手法とは異なっている事を強調しておきます。こうした立場からは、天武天皇、伊勢神宮についてはこれまで縷々書いてきたように、不確かなことが多いと私は考えています。まずは伊勢神宮についての日本書紀記載をみてゆくことにします。

 日本書紀では「伊勢」の初出は「伊勢崇秘之大神也」であり、それは天照大神の『石屋戸』篭り騒動です(参考 岩波文庫「日本書紀」(一)82頁)。 因みに古事記も同じ説話を語りますが、そこでは「伊勢」は登場しません。日本書紀記載では伊勢にあって秘された状態で崇められてきた大神の実像は定かでありません。文を真っ正直に読むならば。天照大神が天の岩戸から引っ張り出された際の岩戸の傷が天照大伸の象徴とも読めます。
 さて日本書紀で、次に『伊勢神宮」が登場するのは垂仁紀です。ただし、垂仁紀が語る説話も古事記にはありません。藤原不比等は日本列島現代・近代政治史を編纂するに当たり、まずはその叩き台(初稿)として古事記を書き上げます。それを加筆訂正して日本書紀(日本紀)に仕立て上げる際に、「伊勢神宮」をひとつの「キー(鍵)」としてその筋書きを構築することを思い立ったのではなかろうか私は想像しています。
 以下垂仁紀からの引用が長いので、初めにひとつ注意を喚起しておくことがあります。現ブログ管理人の日本列島古代史観にあっては、以下に登場する垂仁天皇紀は、紀元前五年の日本列島の支配者の事跡ではありません。垂仁天皇紀で語られる諸事跡は西暦七世紀半ば以降のことです(たとえば
210204日記事”古事記・和那美の水門(わなみのみなと)は何処だ, 中越地震”)。しかし、それらの事跡が必ずしも時間順に(chronological)に記載されているわけではないことは、山田宗睦氏の指摘どうりです(たとえば「古代史と日本書紀」ニュートンプレス発行)。また、事跡が発生した場所も主として東日本であることも以前書いてきました。
%%%%%垂仁天皇二五年(丙申前五)三月丁亥朔丙申(十日)。
原文:
離天照大神於豊耜入姫命。託于倭姫命。爰倭姫命求鎮坐大神之処。而詣莵田筱幡。〈 筱、此云佐佐。 〉更還之入近江国。東廻美濃、到伊勢国。時天照大神誨倭姫命曰。是神風伊勢国。則常世之浪重浪帰国也。傍国可怜国也。欲居是国。故随大神教。其祠立於伊勢国。因興斎宮于五十鈴川上。是謂磯宮。則天照大神始自天降之処也。〈 一云。天皇以倭姫命為御杖。貢奉於天照大神。是以倭姫命以天照大神。鎮坐於磯城厳橿之本而祠之。
原文が長いのでここでいったん休止します。

(文意、岩波文庫「日本書紀」二、38頁)
天照大神は豊耜入姫(とよすきいれひめ)命を身近から離し倭姫命に託す。倭姫命は大神之座す処を鎮めることをもとめて莵田筱幡を詣です。更に還りて近江国に入り、美濃之東をまわって、伊勢国にいたる。天照大神が倭姫命に誨(さと)して曰うには「是の神風の伊勢国は則ち常世之浪重浪が行ったり帰たりする国で傍国では可怜(うまし、万葉集二歌の表言を借用したと思えます。ブログ管理人)国である。是国に居たいとおもう」と。そこで大神の教えの随(まま)に伊勢国の其に祠を立てる。因りて斎宮を五十鈴川上に興す(万葉集二十二歌の冒頭は「川上」で始まるので、歌の解釈を「伊勢」に関係付けていますが歌の舞台は佐賀県を流れ有明海に注ぐ嘉瀬川です。ブログ管理人注)。是を磯宮という。則ち天照大神がはじめて自ら天降之処である。〈 一書が云うには天皇は倭姫命を御杖となすことで天照大神に貢奉す。是を以って、倭姫命を天照大神が鎮坐する磯城の厳橿之本を祠とする(万葉集十一歌の舞台を連想させる)。
(以下次回)
%%%%%
 上記記事は万葉集1巻の初期歌群からの転用が目に付きます。すなわち、古きことに見せかけて実は万葉集が叙事している事績をそのまま解釈を変えて、日本書紀即ち政治史の一要素として転用していることがわかります。
(つづく)

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浄御原(6、万葉集162歌)、原発事故民事裁判判決

(本ブログは月木に更新されます。コメントはryuuzaki_i@yahoo.co.jp へ)
(音声:雨上がりの朝、田圃では蛙がせわしく合唱しています。)
蛙の合唱9958


 経産と つるんで起こした あの事故が 民に当たえた 巨大な被害

 つい数週前の連日の猛暑日で、政府は電力供給が需要に追いつかないことを懸念し節電を呼びかけました。こうした事態に便乗して「休止している原子力発電所の再稼動」のみがこうした電力不足問題の解決につながるとの議論が復活してきました。しかし、ひとたび事故を起こすや、その被害は甚大であることを「数値」の上で示したのが今般の東京地裁判決です。しかもこの13兆円の過失賠償があったとしても福島県の農地・山林・近海を放射能汚染から救い出す作業は含まれないのです。なぜなら、こうした自然山林の回復に必要な技術すら開発されていない。みすみす豊かな自然、多くの農産物を日本国民に供給してきた農林水産業は事故前の安心な環境に復する目途が立っていないのです。この重大な過誤は無理を押し通してきた東京電力に第一義的な責任があります。それを容認したのが経済産業省の手厚い庇護です。厳しい断罪が求められるはずですが、原発再稼動を目指す経産省はいまやそうしたことには口をぬぐっています。
(図:東京新聞7月14日付一面記事より。拡大は図のクリックで)
東京新聞一面9960


 ウクライナ紛争、参議院選挙、安倍元首相暗殺事件など、激動の22年7月前半を鳩山氏と植草一秀氏が振り返ります。植草氏が日本国民が生きるうえで抱えている深刻な生活・疫病などの問題に明快に答えています。問題はこうした提案が政策として実現させるための行政です。岸田氏にはまともに検討して欲しいものです。
植草一秀(経済評論家)×鳩山友紀夫


>>上掲載の動画・関連記事:
%%%%%戦後史のタブー・パンドラが開いた 2022年7月13日 植草一秀の『知られざる真実』
7月11日に鳩山友紀夫元内閣総理大臣が理事長を務める東アジア共同体研究所が主宰するUIチャンネルに出演させていただいた。(上掲載)
対談テーマは「参院選結果と日本の諸問題」
上記URLで視聴が可能なのでぜひご高覧賜りたい。
参院選は予想通り自民大勝、立憲惨敗、維新伸長という結果に終わった。
投票日2日前に安倍晋三元首相が殺害された事件は自民党の得票を増やす効果を持ったと見られる。
自民党は改選過半数の63議席を獲得。
立憲民主党の獲得議席は16議席(6年任期の議席数)。
非改選議席を1獲得したが、これを含めた非改選議席23から7議席も少ない獲得議席数になった。
維新は比例で8議席を獲得し、比例7議席の立憲を抜き、比例獲得議席数で第2党になった。
2014年から2017年までの国政選挙では投票率が約5割の状況下で自公への投票率と非自公への投票率がほぼ拮抗してきた。
得票における与野党伯仲状況が存在していた。
ところが、2019年の参院選以降、状況が大きく変化している。
憲法改定に積極的勢力と阻止勢力とで区分すると、今回選挙では推進勢力35%対阻止勢力15%という状況が生じた。
政治刷新を目指す野党勢力の衰退が顕著。
野党が衰退する一方、与党と野党の中間に位置する「ゆ党」が拡大している。
これは野党衰退の裏返しの現象。
野党衰退の原因は野党が分断工作によって壟断されたことにある。
野党分断工作の尖兵として活動してきたのが連合六産別。
連合六産別は旧同盟の系譜を引く。
旧同盟はCIAが野党分断を目的に創設した民社党の支援母体として創設された大企業御用組合連合。
その連合六産別が野党分断というCIAが付与した当初のミッションを忠実に実行している。
野党共闘を標的にし、中核野党が共産党と共闘することを妨害する。
この活動を展開し続けてきた。
この工作活動に籠絡されたのが立憲民主党。
強固な野党共闘を主導することを期待されて立憲民主党は躍進した。
しかし、枝野幸男氏にはこの方向で政治刷新を目指す意思が存在しなかった。
枝野幸男氏が野党共闘を否定して野党共闘が瓦解。
連動して立憲民主党が国民支持を失った。
泉立憲はこの路線を引き継ぎ、結果として立憲惨敗=自民大勝が生じた。
自民が大勝したというより立憲民主が自壊したと表現する方が現実に即している。
CIAが民社党と同盟を創設して野党を分断する工作活動を展開してきたことが取りも直さず米国の「反共化路線」である。
1947年のトルーマン・ドクトリン公表を契機に米国の対日占領政策が大転換した。
民主化は中止され、非民主化・反共化・再軍備に180度の方向転換が生じた。
日本国憲法は民主化占領政策のレガシーだが、1947年以降の米国にとって日本国憲法は邪魔な存在に転換した。
米国の対日政策の根幹が「反共化・日本再軍備化」に転換した。
このミッションを負ったのが戦犯容疑者から解放された岸信介氏だった。
1968年、統一教会の創設者・文鮮明が岸信介の協力を得て、反共産主義政治団体「国際勝共連合」を日本に設立。
韓国、日本を反共の防波堤にすることが米国の極東政策の根幹に据えられたなかで、「勝共連合」こそ米国の対極東戦略の根幹に関わる存在になった。
安倍晋三氏の銃殺事件を契機にこの問題に光が当てられることになった。
日本の反共・対米隷属政治を堅持するために米国が最大の力を注いでいるのが反共キャンペーンであり、これを実践して野党弱体化の成果を上げているのが連合六産別である。
今回選挙結果はCIAの戦略が見事に軌道に乗ったことを象徴している。
しかし、好事魔多しという。
CIA戦略そのものとも言える「勝共連合」と自民党清和政策研究会との関係性に光が当てられることは彼らにとっての最大の脅威である。
パンドラの箱が開いたと言える状況だ。
『日本経済の黒い霧
ウクライナ戦乱と資源価格インフレ
修羅場を迎える国際金融市場』
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+++++浄御原(きよみはら、5)
 前回記事の続きです。万葉集では浄御原の初出は巻二の162番です。その題詞の末尾に「古歌集中出」とあります。前回書いたように(というよりは研究者による「古歌」の説明を写した)、万葉集は既存のいろいろな出典から選ばれた歌群を選んで構成されています。「古歌」もそうした「出典」の一つです。となると「古歌」なる歌群は誰がどのようにしてそれらをまとめ、分類したのか、について知りたいものです。研究はあるようですが、定説はないとされています。それはさておき、「古歌」を取り上げた「ブログ」記事を見つけたので以下に転載しておきます。このブログ作成者の連絡先でも判明すれば、更なる説明が頂けると思っています:
%%%%%古謌集と古集の歌を鑑賞する  古歌集の歌 2011年02月17日 | 柿本朝臣人麻呂歌集及び万葉集に載る歌集

 万葉集には人名を冠した歌集から採られた歌を見ることが出来ますが、一方では、古謌集や古集と称される歌集から採られた歌もあります。万葉集では柿本朝臣人麻呂歌集、高橋連蟲麻呂歌集、笠朝臣金村歌集や田邊史福麻呂歌集のような人名を冠した歌集は有名ですが、ここでは、あまり注目をされない古謌集や古集と称される歌集の歌を鑑賞します。人名を冠した歌集では柿本朝臣人麻呂歌集が一番古い時代のものになりますが、もし、古謌集が柿本朝臣人麻呂歌集の成立より古い時代のものですと、古謌集が日本最古の歌集となります。
 なお、個人の感覚で古謌集と古集とは違う歌集とし、古集には大神高市麻呂の長門守就任を祝う宴の歌がありますから、早くて大宝二年(702)以降の成立と考えています。一方、柿本朝臣人麻呂が柿本朝臣佐留と同一人物としますと、柿本朝臣人麻呂歌集は人麻呂の死後に公表された私歌集と思われますので、歌集の成立を世に公表することを以て成立としますと人麻呂歌集は和銅元年(708)以降の成立となります。ここで、素人の表記方法等からの感覚的な判断で、古謌集は藤原京から平城京初期、古集は平城京初期の歌を集めた歌集と思います。そうしますと、西暦がキリストの受難を区切りとするように、万葉人たちは人麻呂歌集より前に成立した歌集に対して古謌集や古集との名称を与えたのかもしれません。
 さて、この古謌集や古集と称される歌集の歌を鑑賞するにおいて、例によって、紹介する歌は西本願寺本の表記に従っています。そのため、原文表記や訓読みに普段の「訓読み万葉集」と相違するものもありますが、それは採用する原文表記の違いと素人の無知に由来します。
 また、勉学に勤しむ学生の御方にお願いですが、ここでは原文、訓読み、それに現代語訳や解説があり、それなりの体裁はしていますが、正統な学問からすると紹介するものは全くの「与太話」であることを、ご了解ください。つまり、コピペには全く向きません。あくまでも、大人の楽しみでの与太話であって、学問ではないことを承知願います。
%%%%%
 というわけで、このブログでは、まず「古歌」についての概要説明があります。その上で、この歌群に含まれる歌を、ブログ作成者は解読します
古謌集と古集の歌を鑑賞する  古歌集の歌
「万葉集には、古謌集の歌として二十七首が紹介されています。ここでは、万葉集で付けられた歌番号の若い順に歌々を鑑賞していきます。歌の表記方法や題材から推定して、古謌集の歌は藤原京時代から平城京時代初期の歌、人物では柿本人麻呂から大伴旅人・坂上郎女の時代を編集した歌集のような感覚がします。」との前置きをつけて万葉集二巻85−90歌の解読をします。
 85−90歌歌群については本ブログでは160701記事をはじめとして多数回考察しています(最後は210819記事、允恭天皇の嫡男木梨軽皇子と軽大娘皇女との近親恋愛と伊予への逃避行)。現在本ブログで考察を進めているのは壬申の乱の再吟味ですが、それが一段落したところで、飯豊王の話に戻ります。其処に登場するのが磐姫です。上掲載の万葉集二巻85−90番はその磐姫に関る歌とされています。そのときにこの歌を再度考察することになります。というわけで、これらについてはしばらくは考察を留保して直ちに162歌に話を移します: 

%%%%%古謌集の歌を鑑賞する
天皇崩之後八年九月九日、奉為御齊會之夜夢裏習賜御謌一首
古謌集中出
標訓 天皇の崩(かむあが)りましし後八年の九月九日、奉為(おほんため)の御齊會(ごさいゑ)の夜に夢のうちに習(なら)ひ賜へる御謌一首
標注 古謌の集(しふ)の中(うち)に出(い)づ
集歌162 明日香能 清御原乃宮尓 天下 所知食之 八隅知之 吾大王 高照 日之皇子 何方尓 所念食可 神風乃 伊勢能國者 奥津藻毛 靡足波尓 塩氣能味 香乎礼流國尓 味凝 文尓乏寸 高照 日之皇子
訓読 明日香の 浄御原(きよみはら)の宮に 天の下 知らしめしし やすみしし わご大君 高照らす 日の御子 いかさまに 思ほしめせか 神風の 伊勢の国は 沖つ藻も 靡ける波に 潮(しお)気(け)のみ 香(かほ)れる国に 御(み)籠(こも)りし あやにともしき 高照らす 日の御子
私訳 明日香の浄御原の宮で天下を御統治された、天下をあまねく統治なされる私の大王の天の神の世界まで照らしあげる日の皇子は、どのようにお思いになられたのか、神の風が吹く伊勢の国の沖から藻を靡き寄せる波の潮気だけが香る清い国に御籠りになられて、私は無性に心細い。天の神の世界まで照らす日の御子よ。

 この歌は、持統八年(694)九月九日の御斎会の夜に持統天皇の夢枕に天武天皇が現れたときの、持統天皇の気持ちを歌ったものです。そして、歌の一節の「神風の 伊勢の国は」から、天武天皇は伊勢の国にいらっしゃることが判ります。つまり、天武天皇が祭られているのは、持統二年(688)に持統天皇が「最初の遷宮」を行った伊勢の皇大神宮(通称、伊勢内宮)です。大神宮諸事記によると、朱雀(朱鳥?) 三年(688)九月二十日に天武天皇の遺品が大和から伊勢の太神宮に送られていますから、この朱鳥三年九月二十日頃に皇大神宮が完成したと思われます。 
 ここで、持統二年の最初の皇大神宮遷宮の西暦と大神宮諸事記による朱雀(朱鳥?) 三年の天武天皇遺品奉納の西暦が一致するのは、単なる偶然の一致と思ってください。それが桓武天皇が延暦十六年二月に定めた天照大御神を信奉する国学の歴史です。
%%%%%
 ブログ作成者は ご自分の理解は一般の受け入れられている解釈とは異なるかもしれないと断っています。が、この歌の解説を別記事で再度書いています。重なることが多いのですが、あえてブログ記事をそのまま転載します。

%%%%%万葉集 長歌を鑑賞する 集歌162 2014年11月23日 | 万葉集 長歌を楽しむ
天皇崩之後八年九月九日、奉為御齊會之夜夢裏習賜御謌一首
古謌集中出
標訓 天皇の崩(かむあが)りましし後八年の九月九日、奉為(おほんため)の御齊會(ごさいゑ)の夜に夢のうちに習(なら)ひ賜へる御謌(おほみうた)一首
追訓 古謌の集(しふ)の中(うち)に出(い)づ
集歌162 明日香能 清御原乃宮尓 天下 所知食之 八隅知之 吾大王 高照 日之皇子 何方尓 所念食可 神風乃 伊勢能國者 奥津藻毛 靡足波尓 塩氣能味 香乎礼流國尓 味凝 文尓乏寸 高照 日之皇子

<標準的な解釈(「萬葉集 釋注」伊藤博、集英社文庫)>
訓読 明日香の 清御原(きよみはら)の宮に 天の下 知らしめしし やすみしし 我が大君(おおきみ) 高照らす 日の御子 いかさまに 思ほしめせか 神風の 伊勢の国は 沖つ藻も 靡みたる波に 潮(しお)気(け)のみ 香(かほ)れる国に 味凝(うまこ)り あやにともしき 高照らす 日の皇子

意訳 明日香の清御原の宮にあまねく天下を支配せられた我が大君、高く天上を照らし給う我が天皇よ、大君はどのように思し召されて、神風吹く伊勢の国は、沖の藻も靡いている波の上に潮の香ばかりがけぶっている国、そんな国においであそばすのか・・・ただただお慕わしい高照らす我が日の御子よ。

<西本願寺本万葉集の原文を忠実に訓むときの解釈>
訓読 明日香の 浄御原(きよみはら)の宮に 天つ下 知らしめしし やすみしし わご大王(おほきみ) 高照らす 日し御子 いかさまに 思ほしめせか 神風の 伊勢の国は 沖つ藻も 靡ける波に 潮(しお)気(け)のみ 香(かほ)れる国に 御(み)籠(こも)りし あやにともしき 高照らす 日し皇子

私訳 明日香の浄御原の宮で天下を御統治された、天下をあまねく統治なされる私の大王の天の神の世界まで照らしあげる日の皇子は、どのようにお思いになられたのか、神の風が吹く伊勢の国の沖から藻を靡き寄せる波の潮気だけが香る清い国に御籠りになられて、私は無性に心細い。天の神の世界まで照らす日の御子よ。

 この歌の私釈を行うときの立場には伊勢神宮内宮は正式名称が皇太神宮であり、祭神は天武天皇であるとの認識があります。つまり、天武天皇は伊勢神宮内宮に祀られている=籠られているとしています。その解釈の差が「味凝」の言葉をどのように解釈するかに現れています。
 なお、個人の解釈では「味凝」の用字は、『日本書紀』允恭天皇二四年に載る木梨軽皇子と軽大娘皇女との兄妹恋愛事件の発覚の一端となった「御膳羹汁凝以作氷。天皇異之、卜其所由」の文から推測して、御斎会に出された料理に“煮こごり”があったのでは考えています。「味凝」の用字にある種の神託行為や神霊現象を連想されていると考えています。
 このような伊勢神宮内宮での祭神や『日本書紀』の物語引用などを踏まえますと、歌の代作者は柿本人麻呂ではないかと推定します。
%%%%%
 ブログ作者はこの歌のつくられた時代を次のように解説しています(上に転載した記事の再掲載):
「この歌は、持統八年(694)九月九日の御斎会(日本書紀に記載なし:ブログ管理人注)の夜に持統天皇の夢枕に天武天皇が現れたときの、持統天皇の気持ちを歌ったものです。そして、歌の一節の「神風の 伊勢の国は」から、天武天皇は伊勢の国にいらっしゃることが判ります。つまり、天武天皇が祭られているのは、持統二年(688)に持統天皇が「最初の遷宮」を行った伊勢の皇大神宮(通称、伊勢内宮)です(日本書紀に記載なし:ブログ管理人注)。大神宮諸事記によると、朱雀(朱鳥?) 三年(688)九月二十日に天武天皇の遺品が大和から伊勢の太神宮に送られています(日本書紀に記載なし:ブログ管理人注)から、この朱鳥三年九月二十日頃に皇大神宮が完成したと思われます」
 どうやら、この歌考察の鍵は「伊勢神宮」にあることがわかります。この神宮はいまだに大きな謎をはらんでいます。にも関らず、日本列島内では最も権威ある神社として、歴代の首相が着任時に伊勢詣でをします。ここではその経緯に立ち入ることはしませんが、そもそも「伊勢」とはなにか、についての私論を書くことにします。
(つづく)

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浄御原(5、万葉集162番)、安倍氏狙撃される

(本ブログは月木に更新されます。コメントはryuuzaki_i@yahoo.co.jp へ)
(写真:今朝4時過ぎ、ついに初蝉で、眼が覚めました。昨朝、電信柱のてっぺんで悲しげに身をのけぞらせて啼いていた尻尾の長い鳥。名前は不詳。拡大は図のクリックで)
鳥9939

 二十二年 七月八日の 政変で 非戦の国是が 弊履となるか

 衝撃の七月八日でありました。この事件で選挙情勢は一気に変貌しました。その結果が、昨夜から本日にかけての一連の自公維圧勝報道です。幸いに山本太郎氏はこの逆風の中、議席を獲得しました。が、私が必勝を願った森裕子氏は議席を失いました。
 いよいよ、新憲法の改定作業が始まるのでしょう。「国際紛争を解決する手段としての戦争を否定する」という現行憲法の理念が弊履のごとく捨て去られるのでしょう。敵国と判断するや否や、日本から「自国防衛」という理屈をつけて軍事攻撃できることになります。故安倍晋三氏の長年の主張が実現するのです。まさに先週の金曜日は、日本国大変貌の出発の日となってしまったようです。

 思えば、改憲への故安倍氏の情念はすさまじいものでありました。そして氏は自らの死を以って、その情念の実現を果たしたということになります。日本国・政財界の奥の院が安倍氏の情念につけ込んで,氏の命(いのち)で以って、日本国につきまとってきた「非戦」の国是を捨てさせることに成功した、と見るほうが正確なのかもしれません。となると、安倍氏は「改憲」を騒ぎすぎたための「犠牲者」ということになります。
 「政財界の奥の院」なぞと言い出すと「陰謀論」かと思う方もおられるでしょう。しかし、安倍氏の祖父である岸信介元首相は元読売新聞社主の故正力松太郎氏と同様米国CIAのagentであったと疑われています(【特別対談】名越健郎×春名幹男:「米露公文書」で解き明かす日本外交「秘史」(中))。「陰謀論」にも荒唐無稽な話がたくさんありますから、注意深く情報を読み取ることが必要ですが、時に「陰謀論」であるとレッテルをはることで以って、議論の深化を遮断するという効果もあると私は考えています。少なくも上に示した春名氏は日米間の政治問題研究の専門家です。
 ところで、事件勃発後からまる二日間ほどネットでは狙撃現場の映像が流されていました。あんなどでかい円筒状の「銃」を抱えたまま演説する安倍氏の背後に近づけたのです。私のような素人が見ても不自然と思えます。ましてや其処から発射されたとされる散弾銃で負傷したのが安倍氏のみという状況はありえるのでしょうか。周囲に巻き添えを食らって負傷したいう人物の報道はありません。一発目の白煙前から容疑者確保までの動画には、まだまだ不審な点が多いようです。たとえば、安倍氏は二回目の白煙では、銃撃をうけて崩れ落ちたというよりは、身をかがめて演台からおり、そのうえで、身を丸めて更なる銃撃を防ぐという一連の行動を比較的落ち着いてとっているように見受けられます。残念ながらこの種の映像はネットにアップロードされるや否やすぐに視聴不能扱いとなるようです。現在、どこぞに残されているのか否かは不明です。

 現在のメディアはひたすら警察による発表の垂れ流しです。そこでは「宗教団体である統一教会」の特異性のみが強調されています。安倍氏の死は狙撃者の家庭内のいざこざに安倍氏が不運にも巻き込まれたという単純な事件であるとの印象操作を警察は目論んでいると疑っています。それにしても、この団体の闇は深いことをジャーナリストの岩上氏が北海道大学教授桜井義秀氏とのインタビュー記事で明らかにしています:
【7/10 18時〜再配信】文鮮明という「メシヤ」が「再臨した国」韓国に貢がされる「エバ国家」日本!? 自民党に深く浸透する統一教会の「正

 ともかく性急に警察からの情報のみでこの事件を理解でいないようです。しばらくは様子を見ることが必要です。そのうち、ポツリポツリと深刻な闇が顔を出すのかもしれません。
 
+++++浄御原(5)
 万葉集に「浄御原」が登場するのは二巻162番です。この歌が詠まれた背景を探るために先行する六歌を眺めています。156−158番は十市皇女が宮中で突然無くなった際に異母兄弟に当たる高市皇子が歌ったとされる歌を並べています。日本書紀編年に従えばそれは天武七年即ち西暦678年です。
 藤原不比等は同時代に生きた権力周辺の側近、さらには後世の知識人に真相が明るみに出にくいと判断する限りでは、「史実」をそのまま「紀」に書き記すようです。さもなくば、つまらないところで『史実』を改変することで、他所に大きな影響(ほころび)をもたらすからです。
 さてこの皇女の突然の夭折に強く哀しんだのが高市皇子です。皇子は日本書紀にしたがえば、母は胸形君徳善の娘である尼子姫です。日本書紀巻二十八は「壬申の乱」のいわば特集号で、高市皇子の大活躍を書き綴ります。
 それにしても、万葉集二巻156-158歌から十市皇女と高市皇子を連想することは難しく、それはひとえに冒頭に付されている題詞に縛られていることを指摘しておきます(歌の原文についてはブログ記事の冗長になることを危惧するので省略します)。

 さて、つぎの159−160歌の題詞は以下です(原文掲載は種略):
02巻/0159番,"天皇崩之時大后御作歌一首"
02巻/0160,−161番"一書曰天皇崩之時太上天皇御製歌二首"
 天皇が崩御されたときに大后がお読みになった歌であると書きます。先行する三歌が西暦678年に突然無くなった十市皇女の死を悼んだ歌であるとされることから、ここで亡くなったとされるのは天武天皇で、それは西暦686年ということになります。いずれ、詳しく書きますが、ここで亡くなったとされる天皇は日本書紀が書く『天武天皇』ではなく、「倭王名」は不明であるが、日本書紀では「大海皇子」に該当する人物であろうと私は考えています。したがって大后は後の持統天皇ではなく「尼子姫」であったと考えます。そうした視点からは159歌は吟味に値するに十分な内容を持つ歌ですので、じっくりと解読したいところですが、そのためには歌の背景を探っておかねばなりません。その作業を後日することとし、162歌に話を移します。
02巻/0162番
題詞:
"天皇崩之後八年九月九日奉為御齋會之夜夢裏習賜御歌一首 [古歌集中出]",
原文:
"明日香能 清御原乃宮尓 天下 所知食之 八隅知之 吾大王 高照 日之皇子 何方尓 所念食可 神風乃 伊勢能國者 奥津藻毛 靡足波尓 塩氣能味 香乎礼流國尓 味凝 文尓乏寸 高照 日之御子",訓読:
"明日香の 清御原の宮に 天の下 知らしめしし やすみしし 我が大君 高照らす 日の御子 いかさまに 思ほしめせか 神風の 伊勢の国は 沖つ藻も 靡みたる波に 潮気のみ 香れる国に 味凝り あやにともしき 高照らす 日の御子",
仮名:
"あすかの きよみのみやに あめのした しらしめしし やすみしし わがおほきみ たかてらす ひのみこ いかさまに おもほしめせか かむかぜの いせのくには おきつもも なみたるなみに しほけのみ かをれるくにに うまこり あやにともしき たかてらす ひのみこ",
%%%%%万葉集162歌
まず何より気になるのが題詞です。二点あります。
‥傾鎚之後八年九月九日
[古歌集中出
まずは上の△暴颪「古歌」についてウイキで見ておくことにします。
%%%%%古歌集(読み)こかしゅう
精選版 日本国語大辞典「古歌集」の解説
こかしゅう コカシフ【古歌集】
「万葉集」に引載された古い歌集の名。巻二・七・九・一〇・一一に見える。ほとんど短歌で、他に長歌二首、旋頭歌一首が引用されている。奈良時代初期の作と推定され、素朴な歌風をもつ。「古集」と同じものとされる。
%%%%%以下次回に続く

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じょう

浄御原宮(4、万葉集162歌)、ウクライナ紛争とザ大統領の責任

(本ブログは月木に更新されます。コメントはryuuzaki_i@yahoo.co.jp へ)
(写真:穴掘りに汗かくザリガニ。拡大は写真のクリックで)
CIMG9927

 せっせせっせと 土搔き出して 巣穴掘る 生まれてすぐに 思うは次世代

 異常とも思える大量発生は、水の少なくなった泥土にのこされた鴨の足跡がどうやら決着をつけたようです。そして鴨やら鷺やらによる大量「虐殺」を生き延びたザリガニが次世代つくりのためにせっせと穴を掘り、中の土を外に掻き出しています。

+++++浄御原(3)
 浄御原の由来を書くためにいささか回り道をしました。「浄御原」が最初に万葉集に登場するのは162歌です:
%%%%%万葉集2巻/0162歌,
題詞:
"天皇崩之後八年九月九日奉為御齋會之夜夢裏習賜御歌一首 [古歌集中出]",
原文:
"明日香能 清御原乃宮尓 天下 所知食之 八隅知之 吾大王 高照 日之皇子 何方尓 所念食可 神風乃 伊勢能國者 奥津藻毛 靡足波尓 塩氣能味 香乎礼流國尓 味凝 文尓乏寸 高照 日之御子",
訓読:
"明日香の 清御原の宮に 天の下 知らしめしし やすみしし 我が大君 高照らす 日の御子 いかさまに 思ほしめせか 神風の 伊勢の国は 沖つ藻も 靡みたる波に 潮気のみ 香れる国に 味凝り あやにともしき 高照らす 日の御子",
仮名:
"あすかの きよみのみやに あめのした しらしめしし やすみしし わがおほきみ たかてらす ひのみこ いかさまに おもほしめせか かむかぜの いせのくには おきつもも なみたるなみに しほけのみ かをれるくにに うまこり あやにともしき たかてらす ひのみこ"
%%%%%
 歌の解読をする前に、この歌の詠まれた時代を推定することにします。本来は手順が逆であるのかもしれません。しかし、万葉集初期の歌群は時代が定まらないと歌の意味が解しかねる事例が少なからずあります。そこで、この歌に先行する三歌156-158 番から推定作業を試みます。この三歌には共通の題詞が付されています:
「十市皇女薨時高市皇子尊御作歌三首」 
すなわち「十市皇女がなくなられた際(西暦678年4月)に、高市皇子がおつくりになった三歌」と。

 日本書紀は「十市皇女卒然病発、薨於宮中」と書きますから宮中での突然の薨去です。十市皇女は天武天皇の娘であると書紀は書きます。記紀の解説書の一つと思われる「懐風藻」では、大友皇子の「室」とも書きますが、私はこれには信憑性は無く、藤原不比等が構想した当時の政治史観を後押しするための創作ではなかろうかと疑っています。この皇女の母親は美貌の誉れ高い「額田姫王(ぬかだのおおきみ)」です。
 額田姫王の父親は「鏡王」であると日本書紀は書きます。茨城県の勝田あたりには「額田」姓が多いことを以前書きました。この「姓」に由来すると思われる「額賀」姓から有力政治家が輩出しています。となると、どうやら、この美女の出自は東日本の『蝦夷』(西域からの渡来民)ではなかったかと思えます。そのことが父親である鏡(かがみ)王から推測できます。東北日本に伝えられる「日高見」なる呼称が「鏡」と音を同じくするのです。「高見」には“たかみ”とは異なる音があるのです。「高(興)」は「カガ、カグ」と音されることがしばしばあります。「シリウスの都、飛鳥」(栗本慎一郎著 たちばな出版 2005)によれば、古いトルコ語では「k」の音は「ク」、「グ」にくわえ、喉奥から強く音を発すると「クグ」となると書いています。
 広く知られた事例が万葉集十三歌の冒頭の「高山」です。「カガヤマ、またはカグヤマ」と音されます。また日本書紀では「香々背男」と呼ばれる邪悪の神が登場します。
%%%%%
日本書紀・神代紀(下)九段
〈一云。二神遂誅邪神及草・木・石類。皆已平了。其所不服者。唯星神香香背男耳。故加遣倭文神。建葉槌命者則服。故二神登天也。〉倭文神。此云斯図梨俄未。〉果以復命。(文意 岩波文庫「日本書紀(一)120頁参照」。
《第九段一書第二》一書曰。天神遣経津主神。武甕槌神、使平定葦原中国。時二神曰。天有悪神。名曰天津甕星。亦名天香香背男。請、先誅此神。然後下撥葦原中国。是時斎主神号斎之大人。此神今在乎東国楫取之地也。(文意 岩波文庫「日本書紀(一)136頁参照」。
%%%%%
 上に引用した節は日本列島古代宗教史の原点であると私は考え、これまでしばしば引用し、考察を加えてきましたので、文意をここで繰り返すことはしません。
 岩波文庫「日本書紀」校注者は香香背男に「カガセオ」と仮名を振ります。私はこの「カガ」を漢字表記したものが、万葉集十三歌の「高山」(カグヤマ)であると考えます。かくして鏡王は「高見」王とも漢字表記できることになります。すなわちこの人物は「倭国」の幹部である「コウ」一族に出自を持つ人物であると考えることができます。ここで「コウ」こそは宋書倭国伝が書く倭の五王「珍、讃、斉、興、武」のお一人「興王」(記紀では「高」が漢字表記としてつかわれている)であろうと考えています。

 余談ですが、上記考察は「鏡」に「カガミ」なる訓を付した経緯を想像させます。これもすでに書いてきたことですが、西域ペルシアからの渡来族にとっては、何がしかの政治的決断をする際にはシリウス星を介した神託を仰いできたのです。その際に用いられたのが鏡です。鏡はシリウス星の天空上の位置を精度よく計測するための不可欠な道具の一つです。鹿島神宮の拝殿背後に埋められている「鏡石」はその一つです。東北日本に渡来してきた一族は事あるごとにシリウス星の方位を気にかけていたことでしょう。その際に鏡を用いていたのです。すなわち「高」(カガ)一族が星を「見」る。そうした道具が「鏡」です。かくして、「鏡」に「かがみ」なる訓が付されたのだろうと想像しています。

(つづく)

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+++++ウクライナ紛争
 2月24日にロシアがウクライナ軍事侵攻してから四ヵ月半が経過しています。戦況は、米国とNATOをふくむ西側諸国の支援にもかかわらず、ウクライナの反抗はますます難しくなっています。これ以上の犠牲者を出さないためにも早急に停戦協議を開始するべきです。これはウクライナの屈服であると、我が国の「進歩的知識人」は主張し「あくまでももっと抗うべき」といいます。この紛争は2014年のミンスク合意をめぐるウクライナ国の内戦状態の延長上にあるのです。そのように考えると、ザレンスキがウ国のトップとして国民の生命と生活に責任を感じているのであれば、停戦協議応ずるべきと思っています。これは降伏ではないので、ゼ大統領には自らの主張をプーチンに向かって正々堂々陳述する機会があるはずです。それがまっとうであれば世界世論がそれを支持するはずです。
%%%%%外交努力で戦争を回避することはできないのか…ゼレンスキーには3年間の時間があった 公開日:2022/07/07 06:00 更新日:2022/07/07 06:00

 毎日新聞6月29日付「記者の目」欄で同紙カイロ支局の真野森作記者が、先輩である伊藤智永専門編集委員の4日付の論考「ゼレンスキー氏は英雄か」に噛み付いているが、私の見立てでは真野が●、伊藤が○である。

 伊藤は、ゼレンスキーが戦争を止める外交努力を怠り、それゆえにこれだけの戦争被害を出したことへの政治責任を免れないと指摘した。それに対して真野は「露政府はだまし討ちで全面侵攻を始めた。最後通告のない奇襲を外交でどう止められただろうか」と反論しているが、これは事実を知らぬ者の妄言である。

 2013年11月にキーウで始まった市民デモは、米国官民の公然たる支援でたちまち武装反乱に発展、14年2月親露派の大統領が追放され、5月に親米派のポロシェンコ大統領が就いた。この急激な展開で、ウクライナが一気にNATO加盟にまで突き進むのではないかと恐れたロシアは、元々はロシア領であり露黒海艦隊の母港セバストーポリをも抱えるクリミアについては即刻、露領に編入した。この時、ウクライナ東部のロシア系市民の比重の大きいドネツクとルガンスクの2州でもロシアへの併合を求める動きが高まったが、プーチンはそれを許さず、あくまでもウクライナ国家の内で一定の自治を実現すべきとして、14年9月にウクライナ、ロシア、両州の4者による「ミンスク議定書」を結び、さらに翌年には仏独も入った「ミンスク議定書2」を結んだ。
しかし、ポロシェンコも19年に登場したゼレンスキーも、両州に適切な自治を与える制度を作り出すことができなかった。

 それでも、戦争を回避するにはその道しかないことを知るマクロン仏大統領とショルツ独首相は、今年2月7日から15日にかけてモスクワとキーウをシャトルし最後の外交工作を展開した。が、ゼレンスキーは応ぜず、だからプーチンは2月24日の開戦宣言演説で「8年間、終わりの見えない長い8年もの間、私たちは、事態が平和的・政治的手段によって解決されるよう、あらゆる手を尽くしてきた。すべては徒労に帰した」と言ったのである。

 だからといって戦争を始めていいことにはならないが、少なくともゼレンスキーには就任以来の3年間、外交努力で戦争を回避するための時間があったことは事実として踏まえておきたい。
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『なら」の由来、在NY皇室お姫様と国益、ザリガニ騒動

(本ブログは月木に更新されます。コメントはryuuzaki_i@yahoo.co.jp へ)
(動画:ざりがにの大量発生です。
大量ざりがに9914

(写真:それを狙って、鴨が土足で田圃を踏み荒らした痕跡があちらこちらに見えます。拡大は図のクリックで)
鴨足9916

 上の動画に見られるように、昨朝の田圃には沢山の小さなザリガニが大量にウロウロしていました。そういえば、当地は茨城県南部です。この地では以下のような記事が大きな話題になっていました。
関連記事:
「よっぽど暑かったんだろう」水田にザリガニが浮いてる... 衝撃写真が約5万リツイート 2022年7月1日 20時57分  J-CASTニュース

例年に比べて早くも梅雨が明け、各地が連日の厳しい暑さに見舞われるなか、水田で見かけたザリガニの異変を伝えるツイートが注目を集めている。
「ザリガニが、田んぼに浮いている」
話題となっているのは、茨城県南部で水稲耕作を行うツイッターユーザー・しろえもんさん(@shiroemoon)による2022年6月30日昼の投稿だ。水田を撮影した写真を添付し、
「よっぽど暑かったんだろう ボイルされたザリガニが、田んぼに浮いている エェ...」
と伝えた。茹でたエビのような明るい赤色になった4匹のザリガニが映っている。
また7月1日の同時刻に、田んぼの水温を計測したとツイート。「水深が浅い場所では43℃」「少し深い場所ならば41℃」と報告し、高温の理由を「まだ稲が小さいので、日光を遮ることができず、水温が上昇しやすいのかもしれません」と分析した。
先の投稿は4万9000件以上のリツイートや20万1000件超の「いいね!」を集め、ザリガニの様子に「マジかよ・・・暑すぎんだろ」「えらいことなってる!」といった声が広がっている。ただし、死因については水温上昇による酸欠など異なる見立ても出ている。
反響を受けてしろえもんさんは同日、J-CASTニュースの取材に対し、普段通り気軽に投稿したものとし、「ここまで大きな反響を呼ぶとは全く思いませんでした」と驚きを示した。
写真に映る4匹のザリガニは、発見時、間違いなく死んでいたといい、
「いただいたリプライを読んでいると暑さが直接的な死因ではないようですが、発見時はあまりにも暑い日中だったので、本当に茹だってしまったのかと驚きました」
と感想を述べた。「他の場所でも数匹が同じ状態で水面に浮いていました」とも添える。
例年に比べて「間違いなく熱いと思います」
ザリガニの写真を撮影したのは12時ごろ。なお気象庁が発表しているデータによると、当日、水田がある地域の気温は約34度だった。
発見の経緯を「連日あまりにも暑いので、各水田にたっぷり水を入れようと巡回していた時に発見しました」と伝える。
しろえもんさんによると、水田の水温は例年に比べて「間違いなく熱いと思います」。ザリガニのほか、暑さによる生物への影響は、「私が観察した限りでは、他の生物への影響はなさそうです」とする。具体的には、
「オタマジャクシやメダカ、タニシなどは元気に動いています。ただ、できるだけ涼しい場所を求めて、水流のある場所や水深が深い場所に密集していますね」
と説明した。稲に関しても「影響は分かりませんが、現状では問題なく生育しております」という。
しろえもんさんは今回の出来事を振り返って、「自分も外で作業をする身ですが、熱中症対策を十分に行って欲しいと改めて感じています」と伝えた。
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 ザリガニに 苦難の今夏 おいぼれも 暑い空気に 息もたえだえ

 今夏の暑さはすさまじいですな。ザリガニの様態はその反映かもしれません。本日チラリと雨が降りました。しかし、それも一瞬のことでした。一向に暑さがおわる兆しが見えません。つらい日々がこれからも続くのか!やれやれ(吐息)であります。
+++++浄御原(2)
 壬申の乱(西暦672年)での倭国側の二人の主役が登場するのは舒明一年紀です。長男は将来大津に宮を構える人物と不規則な書き込みがあります。。一方の次男は浄御原に宮を構える人物とこれも不規則に書き込まれています。後世の公家・僧侶・国文学者達はこの「不規則な書き込み」について、前者は「琵琶湖南岸の大津」であり、後者は「奈良盆地奥深い地にあったとされる飛鳥浄御原」であるときめつけます。そのことを誰しもが疑いをさしはさまない定説であるかのようです。しかし、「この定説」の筋書きにそって書紀の記載を理解することが難しい。すなわち、七世紀後半の日本列島政治・権力史を「筋道立てて」(論理的)把握できないのです。「壬申の乱」では、もしかして舒明天皇(実体は倭国王)の二人の子息に確執があったとしてもそれは、この「乱」の本質ではありません。「本質」は七世紀半ばまで日本列島の権力を握っていた「倭国」を「奈良の一族と唐新羅連合軍」が転覆したという「権力交代事件」なのです。
 そうした、視点からは「大津の宮」は琵琶湖畔の大津ではなく、熊本県中部を西に流れる白川沿いの「大津」であることが導かれます。実際、その情景を後年、万葉集二十九歌が敗者(倭国)をしのびつつ大津宮を歌っているのです。
 さてそうであれば、次男が宮を構えたとされる「浄御原」はどこでしょうか?勿論日本書紀はその地を詳述しません。後世の学者さんがあれこれ想像し、現在はそれに比定される地もあります。其処には『宮址』も発見され、観光名所ともなっています。わたくしは、この地は上述の「大津」の異なる表現ではなかろうかと推測しています。奈良盆地内に、万葉集で歌われる『地』を「創出する」ことは藤原不比等の常套手段である事は前回書きました。
 「万葉集初期歌群」が倭王に直属する「書記官」による「歴史叙事作業」として作られているのです。したがって、藤原不比等は知らないが、しかし日本列島で実際に起きた諸事象が歌われているのです。当然藤原不比等はそれを無視できません。むしろそうした史実は藤原不比等が編纂する『正史』の中に取り込んでこそ、その「正史」の正統化ができるからです。
 とするならば、この「浄御原」も万葉集に登場するはずです。それが万葉集二巻百六十二歌です。そこで、この歌を直ちに考察することにします。賀、その前に、そもそも「奈良」なる名称のいわれを振り返っておきます。奈良も、万葉集に詠まれている一部を勝手につまみ出して「つくられた」地名であることをまずは示しておきます。それが前回記事の末尾に書いた万葉集一巻十七歌です。
%%%%%01巻/0017歌,
題詞:
"額田王下近江國時<作>歌井戸王即和歌",
原文:
"味酒 三輪乃山 青丹吉 奈良能山乃 山際 伊隠萬代 道隈 伊積流萬代尓 委曲毛 見管行武雄 數々毛 見放武八萬雄 情無 雲乃 隠障倍之也",
訓読:
"味酒 三輪の山 あをによし 奈良の山の 山の際に い隠るまで 道の隈 い積もるまでに つばらにも 見つつ行かむを しばしばも 見放けむ山を 心なく 雲の 隠さふべしや",
仮名:
"うまさけ みわのやま あをによし ならのやまの やまのまに いかくるまで みちのくま いつもるまでに つばらにも みつつゆかむを しばしばも みさけむやまを こころなく くもの かくさふべしや",
%%%%%
 本ブログではこの歌についての解読をすでに数回書いてきました。したがって、その要点のみを以下に書いておきます。
 この歌について一般に流布されている解釈のひとつを:以下にあげます:
    三輪の山は奈良山の
    むこうに隠れてしまうまで
    道の曲がりが幾重にも
    重なるくらいいつまでも
    見ながら行きたい山なのに
    何度も見たい山なのに
    これほど情け容赦なく
    雲が隠してよいものか

 万葉集一巻に登場する初期歌群の解釈はきわめて難しい。著名な万葉研究者の解釈を眺めると、其処には研究者の懊悩が滲んでいます。そうした懊悩に導く最大の理由は「題詞」です。もし研究者が「題詞」という束縛から解き放たれたならば、もっと現実世界に即した解読ができるはずなのです。
 上の十七歌は十六歌〜二十二歌までの歌の舞台と同じです。それは現在の奈良県とその周辺ではありません。それを題詞にあわせて無理に奈良県界隈とするので、歌の解釈賀頓珍漢になるのです。その最たる事例が十六歌です。学識ある大人の研究者がこの歌は「季節の好き嫌い」を語り合う歌であると、大真面目に解説書などで書きます。「秋に逝去したとある女性を悼み、かなしんでいる」のです(すでに本ブログでは詳細な検討をしているので、ここではこれ以上かきません)。そして十七歌では、その悲しみを抱えながら、歌の読み手は現在の朝倉(多分当時「宮」があった)から西に旅をする際の歌です。「三輪」は奈良県の山ではなく朝倉にある小高い丘です。そしてこの歌を解読する鍵は「ヨシノ」です。文字通り「良い場所」という意味でしょう。つまり倭国が治さめる地は「良いところである」と歌います。その「ヨシノ」への愛着はこの歌に続く一連の歌でも読み取れ、二十七歌で締めくくられます。因みにその途上にあるのが佐賀県の「吉野ヶ里」です。それはさておき、十七歌は十六歌で表明した「さびしさ」を受け継いでいます。西へ向かう旅の途上に北側に続く「ヨシノ」の山並みの合間に見える黒い陰に「あの女性」の姿がひっそりと潜んでいるのではなかろうかとの淡い期待が行間に見えるほどに、寂しい心情を私は感じています。
 さて、この歌を詠み誤った理由を下に書きます。
 原文は「青丹吉 奈良能山乃」とありますが
これは「青丹吉奈 良能山乃」と解読するべきなのです。時は秋なのです。朝倉から西に進む行く道の北側の「ヨシノのやまなみ」(良能山)が紅葉で彩られている様を歌っているのです。それが「青」、「丹」(赤色)、「吉奈」(黄色)です。
それを意図的に読み違えて作り出したのが「奈良能山」すなわち「奈良」です。念のいったことには、「あおによし」は「ナラ」の枕詞であると万葉学者は解説します。この誤読実例は、万葉集が原文でじっくりと眺めなおすことの重要性を訴えていると想っています。

 さて、こうした実例を踏まえて「浄御原」の出所を次回考察します。
(つづく)

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+++++眞子姫処遇と国益
 下の動画では、眞子姫問題がかなり繊細な日本の国益問題に関っていると指摘しています。
【あづみん】安積明子コーナー KK・A宮・JK后

浄御原と奈良(2)、6月20日の能登地震

(本ブログは月木に更新されます。コメントはryuuzaki_i@yahoo.co.jp へ)
(写真:夏至は疾うに過ぎ、早一年の半分が今日で終わります。このところの連日の暑さのせいか、私の頭のボケが一段と進行し、例年より早くザリガニ君が登場しました。)

ざりがに1234.MOV

 農道で 鋏(はさみ)ふりあげ 健気にも 散歩人をどけ どけと威嚇せり 

 田の真ん中を走る農道に小さな赤い生き物が動いています。近づいてみると、まだ成長しきっていないザリガニです。水のあるたんぼにかえしてやろうと、つかまえようとしました。奴さん生意気にも抵抗するのであります。懸命にはさみをふりあげて私の指をちょんぎろうとします。こちらもそうやすやすと指をさしだすわけにはいきません。尻尾のほうに手を伸ばし捕まえようとします。奴はくるっと体を回転させ、またもや鋏を向けてきます。「おい、俺はな~、お前をさぎや鴨、烏から助けてやろうとしてるんだ!それがわからぬのか!愚か者め!」と、奴の振る舞いをなじり、つかまえることをあきらめ、水田にむかってはじき飛ばしました。どうやら奴もここでやっと私の温情を理解したようでありました。水に漬かる前に鋏を振り上げて感謝の会釈をしたようにみえました。

+++++浄御原宮(2)
 このところ、本ブログでは壬申の乱の二人の主役の経緯を考察しています。それは舒明一年紀での二人の皇子の誕生です。兄は「天智天皇」、弟は「天武天皇」であると書きますがそれは正規の文の一部としてではなく明らかに後日になされたいわば「追加書き込み」です。この「書き込み」は、二人の皇子の未来を「読者」に予測させるためです。それは書紀の編纂を統括した藤原不比等の政治的思惑を想像させるものです。すなわち、二人の兄弟の出自が「倭国」である限りは、その将来も「倭国」であるはずです。そうした視点から長兄である「葛城皇子」は後の「天智天皇」であるはずはないのです。この皇子が倭国にあって、国王、即ち景行天皇(日本書紀、=聖徳太子?)、阿毎多利比弧(隋書倭国伝)の地位を継いだと考えています。そしてこの国王が日本列島に進駐してきた「唐・新羅連合軍」の圧迫にこらえきれず南に退き熊本県白川沿岸の「大津」に「陣屋」を再構築したと思えます。
 というわけで、「大津」が「琵琶湖の大津」と読み手が勝手に理解する限りでは、日本書紀の記載を何者かが「これは史実とことなる」と異議を発することはありません。
 さて、次男坊である大海皇子は浄御原に宮を構えたと、「誰か(藤原不比等)がしかるべき政治的効果を狙って」書き込みます。前回記事で、「浄御原」なる地名の発想に疑念があると書きました。さらに付け加えて、それは「万葉集」の一歌からの思い付きであろうとも書きました。
 そのような発想を現ブログ管理人がするには理由があります。それは、奈良盆地内の多くの地名、呼称、それらは盆地外のどこかですでに存在しているからです。たとえば香具山です。万葉集十四歌の冒頭に詠われる「高山」(かぐやま)です。畝傍山も同様です。万葉集十四歌では「雲根火」または二十九歌の「畝火」です。前者は雲に根を張り「火」を噴く様子を、後者は「田を取り囲む畝(外輪山のこと)の中に火をふく」景観を「文字」で表現しています。そうなるとこの山は奈良盆地というせせこましい場所の高々200mにも及ばない小丘であるはずがありません。こうした事例を沢山あげることができます。私は、かって本ブログで奈良盆地は「日本列島古代史歴史・現場の箱庭化」であると書きました。
 その意味でもっとも重要な事例を付け加えておきます。それは「奈良」です。少々長くなりますが、語源についての諸説をウイキが列記しています:
%%%%%なら語源
奈良の語源を巡っては諸説あるが、比較的知られているものを挙げる。このうち特に有力視されているのは、2番目の柳田國男による説である。
『日本書紀』による説
武埴安彦命の反乱鎮圧に向かった大彦命らの軍勢が当地にあった丘(平城山丘陵)の草木を踏みならしたという『日本書紀』の記録に由来する。崇神天皇十年九月条には次のようにある。「則ち精兵(ときいくさ)を率(ゐ)て、進みて那羅山に登りて軍(いくさだち)す。時に官軍(みいくさ)屯聚(いは)みて、草木を蹢跙(ふみなら)す。因りて其の山を号(なづ)けて、那羅山と曰ふ。蹢跙、此を布瀰那羅須(ふみならす)と云ふ」。これ自体はよくある地名由来譚であり史実とみる研究者は少ないものの、最古の史料として必ず言及され、また下記の柳田説とも言語学的関連がある。
柳田國男による説
平(なら)した地の意で、緩傾斜地を指すとする。柳田が『地名の研究』[1]において論じているもの。柳田によれば、東国では平(タヒラ)、九州南部ではハエと呼ばれる「山腹の傾斜の比較的緩やかなる」地形は、中国・四国ではナルと呼ばれている。ナラス(動詞)、ナラシ(副詞)、ナルシ(形容詞)はその変化形である。実際にナルと呼ばれる地名は、「平」「阝+平」「坪」など、「平」を含んだ漢字が当てられており、「文字が語義を証明している」。また、因幡志(1795年)巻14の挿図には「平地」と書いて「ナルヂ」の振仮名があり、この地方では近代まで普通名詞として用いられていたとも柳田は推測している。ナラ、ナロはその異種であり、実際、奈良はかつて「平城」と書かれることもあった。この説は、日本国語大辞典、各種の地名辞典[2][3][4]や郷土史本[5]でも取上げられており、最も有力視されていると言える。
吉田東伍による説
植物の「ナラ(楢)」に由来する。吉田東伍による[6]。植物のナラは、『万葉集』(7〜8世紀)[注釈 2]や『播磨国風土記』(715年)にすでに見られ、特に後者には「楢原(ならはら)と号(なづ)くる所以は、柞(なら)此の村に生へり。故、柞原といふ」という記述が見られる。角川日本地名大辞典はこの説も取り上げるが[3]、楠原他はこの説を退ける[4]。
朝鮮語からの借用語とする説
朝鮮語「나라(ナラ)」(国の意)からの借用語。おそらく松岡静雄を嚆矢とする[7]。朝鮮語の影響があるのではないかという指摘は、すでに金沢庄三郎の『寧楽考』に見られる[8]。ただし、どちらも比較されているのは近代朝鮮語である。しかし、そもそも古代朝鮮語の実態はほとんどわかっておらず、文献においてナラの語が確認できるのはようやく15世紀においてであり(『竜飛御天歌』(1447年)[9]、『月印釈譜』(1459年)、『法華経諺解』(1463年)など[10])、この語が7世紀以前に存在した、あるいは存在しなかったといういかなる確証もない。これら文献には 「나랗 (narah)」の形で現れ[注釈 3]、より古くは *narak という発音であったと考えられる[11]。クリストファー・ベックウィズ(英語版)は、この朝鮮語の *narak は中国語の中古音「壌 *narak」の借用語であり、後述する古代日本語や高句麗の言語の na とは無関係であると推論している[11]。また、ナラ、ナル、ナロという地名が、奈良以外にも多く存在することも説明できないといった否定的意見もある[4]。
ツングース諸語との関連をみる説
ツングース系のいくつかの言語や日本語[注釈 4](さらに、高句麗の言語[13])では na が「地」などの意味を表すが、「奈良」の語源はこれと関係するのではないかとみる説がある[14]。
%%%%%

 私は上掲載のどれもが間違っていると考えています。藤原不比等が眼をつけたのは万葉集の十七歌なのです:
%%%%%巻01/0017,歌
題詞:
額田王下近江國時<作>歌井戸王即和歌",
原文:
"味酒 三輪乃山 青丹吉 奈良能山乃 山際 伊隠萬代 道隈 伊積流萬代尓 委曲毛 見管行武雄 數々毛 見放武八萬雄 情無 雲乃 隠障倍之也",
訓読:
"味酒 三輪の山 あをによし 奈良の山の 山の際に い隠るまで 道の隈 い積もるまでに つばらにも 見つつ行かむを しばしばも 見放けむ山を 心なく 雲の 隠さふべしや",
仮名:
"うまさけ みわのやま あをによし ならのやまの やまのまに いかくるまで みちのくま いつもるまでに つばらにも みつつゆかむを しばしばも みさけむやまを こころなく くもの かくさふべしや",
%%%%%
 注目すべきは上の赤で示した部分です。それを次回書きます。
(つづく)

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+++++能登半島先端の地震(3)
 まずは防災科学技術研究所報告です。
(図1:地震活動の時空間的変動です。拡大は図のクリックで)
220620能登防災研無題

 上の図で、防災科学研究所は2006年に始まっていた能登半島北西部端の地震活動を併記しています。次回、この活動の様子を調べることにします。
(図2:三次元表示をする空間内の震央分布。拡大は図のクリックで)
220630index無題


(図三次元分布のための参照図。拡大は図のクリックで)
2206303D無題

(動画:震源の三次元分布。拡大は図のクリックで)
能登220620.MOV

 右下の地震活動は2019年に始まった飛騨地方の地震活動です。なにやら二重の活動しかもその深さも異なっているようにみえます。興味深い活動であることがわかります。
 下に図も興味深い示唆があるのですが、ここでは左の地震活動(2020年3月)が、いわば突発的であるのに比べ、右側の今般の能登地震は6月19,20日の地震に先立って三ヶ月以上も前から長く、小地震活動を続けてきたことがわかります。これは1965年の松代地震の際の地震活動と似ています。
(図4:地震活動推移。拡大は図のクリックで)
220630Hist無題

浄御原、市民情報紛失事件、皇室スキャンダル

(本ブログは月木に更新されます。コメントはryuuzaki_i@yahoo.co.jp へ)
(写真:突然の暑い日々であります。朝っぱらから、ひばりが元気に歌を歌い、ここ数日はホトトギスの歌で目が覚めます。そういえばホトトギスは卯の花と並んで旧暦四月(初夏)の季語と、古語辞典が書いています)
夏は来ぬ フォレスタ Foresta


ウダウダと 暑けりゃ暑いと 愚痴こぼす げに年よりは 煩(うる)さかと〜

 現ブログ管理人のここ数日の動態であります。寒けりゃ寒いで、同じようにぐちっておりました。息子・娘の世代すなわち日本列島の働き盛りの人たちには、老いぼれはさぞかし煩い存在だろうと僻むのであります。

+++++天智・天武とりかえばや(3)
 七世紀半ばまで日本列島を支配してきた「倭国」と、七世紀前半に大陸唐の強力な後押しを得て奈良盆地内に勃興した「秦王国」(隋書倭国伝に明記されている)由来の勢力との権力争闘が、西暦672年の「壬申の乱」です。奈良盆地に拠する勢力の首領は中大兄で、皇極三年(西暦644年)即ち乙巳の変の前年に忽然と日本列島政治権力闘争史に登場します。言葉を変えるならば、この人物は、倭国の中枢にいた蘇我(サカ族)を誅殺するために舞台に踊り出たのです。

 日本書紀はそのころの奈良盆地内の政情すなわち中大兄とその一派についての活動を殆ど記載しません。それを記載すれば、どうしても倭国について触れねばなりません。藤原不比等はそれを嫌ったのです。奈良の盆地勢力が政治的謀略で倭国を転覆したという経緯を日本書紀という「政治史」に書き残すことを避けたのです。したがって倭国については倭王である「阿毎多利思比弧」、後継者である「為利歌彌 多弗利」をも日本書紀には書き記しません。わずかに「王妻號雞彌」(きみ=吉備)と思しき女性を推古女帝として書きとどめるのです。
 日本書紀は推古女帝の認知をはばかって、聖徳太子を摂政としたと書きます。実状は聖徳太子が倭王であったのでしょう。「聖徳太子の誕生」(吉川弘文館)を書いた大山誠一氏は聖徳太子の実在を否定しますが、その事跡からこの人物は「蘇我馬子」であったと想像しています。私もこの想像に同意します。ということは、蘇我馬子こそが「阿毎多利思比弧」であるということです。奈良盆地にある馬子巨石古墳の存在とその謂れについては大いに気になるところですが、本筋から逸脱するので、他日に考察します。
 この女帝は聖徳太子死去七年後、西暦628年に薨去します。しばらくの天皇空位の期間をおいて押坂彦人大兄の息子が天皇になったと日本書紀は書きます。呼称に「押」(「オシ」古代ペルシア語で「勇敢な」を意味する尊称)が付されています。天皇になった「舒明」天皇は倭国の権力を引き継いだ、すなわち「倭国王」であったと考えることができます。
 こうした経緯をなぜ、日本書紀が書き連ねることができたのか?それは倭国が抱えていた「書記官」の何人かが藤原不比等に西暦七世紀半ばごろまでの倭国の政情を陳述したからです。そのもっとも名前を知られた人物こそ「稗田阿礼」です。ササーン朝ペルシアの末期、崩壊を前にして東方に逃れてきた人物です。
 そうした事情を勘案すると舒明紀の冒頭で語る一族の構成はその呼称などはともかく、真実に近いと思ってよいようです。ただし、この一族の構成を語るにあたって、重大な書き込みを誰かがしたのです。それが葛城皇子と、大海(人)皇子です。この書き込みによって、七世紀の日本列島で発生した一大権力闘争の理解が大混乱に陥れられたのです。この混乱は仕組まれたものと私は考えています。

 その混乱のひとつが葛城皇子です。これについては前回記事に書きました。今回は次男である大海皇子です。かきこみは「浄御原宮御宇天皇」というものです。「浄御原」とは何か?そしてその場所はどこか?誰しもがそれは天武天皇が「宮」を構えた「飛鳥浄御原」で、奈良盆地内の南部、香具山の南2.3kmにその場所は比定されていると思っています。この地の名称を藤原不比等が頭の中でひねり出したとはおもえません。そうとすれば藤原不比等が真っ先に思いつくのが万葉集です。万葉集に次の歌があります:
%%%%%万葉集一巻 02/0162,
題詞:
"天皇崩之後八年九月九日奉為御齋會之夜夢裏習賜御歌一首 [古歌集中出]",
原文:
"明日香能 清御原乃宮尓 天下 所知食之 八隅知之 吾大王 高照 日之皇子 何方尓 所念食可 神風乃 伊勢能國者 奥津藻毛 靡足波尓 塩氣能味 香乎礼流國尓 味凝 文尓乏寸 高照 日之御子",
訓読:
"明日香の 清御原の宮に 天の下 知らしめしし やすみしし 我が大君 高照らす 日の御子 いかさまに 思ほしめせか 神風の 伊勢の国は 沖つ藻も 靡みたる波に 潮気のみ 香れる国に 味凝り あやにともしき 高照らす 日の御子",
仮名:
"あすかの きよみのみやに あめのした しらしめしし やすみしし わがおほきみ たかてらす ひのみこ いかさまに おもほしめせか かむかぜの いせのくには おきつもも なみたるなみに しほけのみ かをれるくにに うまこり あやにともしき たかてらす ひのみこ",
%%%%%
次回、この歌の背景を眺めることにします。
(つづく)

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+++++皇室問題
 昨年10月末の小室圭・眞子夫妻の結婚宣言記者会見を契機にして、秋篠宮一家への批判が高まり、連日のように配信される動画は20を越えています。最近は美智子上皇后への批判にまで広がり、ネットでは「皿老婆」と揶揄されるほどです。私、長く「皿」の意味がわからなかったのですが、上皇后が外出時に頭に載せている皿状の帽子をさしているとのことです。
 下に転載するのは文藝春秋誌7月号所載の『「断り方も愛子さまはかなりお上手」成年会見に識者が“安心”した理由 眞子さん会見は“国民やマスコミへの不信感”が… 」』の対談記録からの抜粋です。
 ”世界は女王の時代へ”と題して3名が語っています。
小田部雄次氏(歴史学者・静岡福祉大学名誉教授)、佐藤あさ子氏(皇室ジャーナリスト)、君塚直隆氏(関東学院大学教授)による座談会(「文藝春秋」2022年7月号)を全文転載します。(全2回の2回目/ 前編 から続く)
%%%%%秋篠宮ご夫妻と悠仁さまは卒業式で報道陣を一瞥することもなく…識者が注目している愛子さまの“意味深なひと言” 6/27(月) 6:12配信
愛子さまの「意味深なひと言」
小田部 万世一系と言いますが、そもそも今の天皇家の系図は明治以後にできたものなのです。日本武尊や神功皇后、菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)など、明治以前には天皇とされていたが、明治以後に系図から除かれた天皇もいらっしゃいます。長くなるので詳細は控えますが、つまり現在の神武天皇以後の万世一系図が成立したのは1926年のことであって、現在でも議論は続いているわけです。さらに言えば、実在した天皇をどの天皇からとするかにも諸説あります。
君塚 神話の天皇をどう位置付けるかですね。今後の議論によっては変わる可能性もあるのでしょうか。
小田部 あります。そもそも皇室の祖神である天照大神は女性だったという説もあるし、最初の神様に性別はないとする説もある。神武天皇のY染色体を正当な皇位継承の論拠とするのはそもそも無理がある。  愛子さまが結婚されて、皇室が悠仁さま一人ぼっちになってしまう前に、我が国の皇室も変わらなければいけません。「そして誰もいなくなった」ではシャレにもならない。「愛子天皇」の現実味は、皇位継承者が皆無になる現実と表裏一体なのだろうと私は思います。
佐藤 正直、20歳を迎えた愛子さまに対して、今さら「天皇に」というのはいくらなんでも押し付けすぎなのでは、と私も思っていました。ただ、この前の会見で両陛下へのお言葉としておっしゃっていた、「これからも長く一緒に時間を過ごせますように」という言葉が気になってまして……。「皇室に残っても私は大丈夫ですよ」という意味なのかなとか(笑)。
小田部 国の象徴として世界との交流を深めている天皇家がなくなった場合、日本の国家と社会は何を中心にひとつになるのでしょうか。皇室は日本社会を世界において安定させる力を持っている。そのことを若い世代までが理解して考えていかない限り、本当に危ういと思います。
%%%%%「文藝春秋」編集部/文藝春秋 2022年7月号
 冒頭に小田部氏が語るように世の理性的な人は万世一系、皇統2600年なぞを信じ込んではいないことがわかり、ほっとする思いであります。それはさておき、天皇家一員に対しては宮内庁が理屈抜きで大金かけて庇護してくれるのです。その実態を今般の眞子姫のNY高級マンション生活で知るにつけ、はなはだ愉快ではない気分であります。

+++++地震の話
 6月20日の能登半島東北端の地震直後に気象庁が公開する直近の地震活動データベースが数日間にわたってアクセス不能となってしまいました。というわけで、次回、気象庁データベースから見えてくる今般の能登半島北端地震を眺めることにして、ここでは、京都大学の研究者がこの地震の発生に地下深くから地表に沸きあがる水が関っているとの見解記事を転載することにします。
%%%%%%能登で地震160回 “地殻変動”原因は「水」か…50年前に長野で類似“井戸から噴水”  6/21(火) 12:46配信
220626地下水無題

 19日は震度6弱、そして20日は震度5強と、石川県で地震が相次いでいます。群発地震は、いつまで続くのか。そのヒントが、50年前に撮影された写真にありました。 ■前日の被災宅…取材中に再び  まだ、前日の片付けも済んでいない被災家屋を取材をしていた、その時、19日の震度6弱に続き、20日は震度5強。またしても、強い揺れが襲いました。  住民:「びっくりしましたね」    「恐ろしい」と、家から飛び出してきた女性は、しばらく声を発することができない状態でした。落ち着いたところで、家の中を案内してもらうと、傾いた電灯がありました。仏壇の扉を開けてみると…。  住民:「ここも、なんだ」  2日連続で強い地震に見舞われた、石川県能登地方。神社の鳥居は、根元から崩れ落ち、石灯籠(どうろう)も倒壊しました。  19日に土煙を上げながら、一部が壊れ落ちた「能登のシンボル」見附島。そして、20日の地震でも、土砂崩れのようなものが起きていました。  住宅にも、被害が及びました。裏山が崩れた現場では…。  住人:「ここにフェンスもあったんですが、全部潰れてしまっています。岩そのものが建物のそばまで来ています。もう、いい加減にしてほしいです。ここのところ、ずっと地震続きですから。終わりにしてほしいですね」  気象庁・鎌谷紀子地震津波監視課長:「この地域では1年以上、地震活動が続いていて、当面、継続すると考えられるので、引き続き注意して下さい」 ■能登で地震160回…「水」原因か  能登地方では、おととし12月から震度1以上を観測した地震が、160回以上起きています。19日の震度6弱の震源から、5キロほどの距離で、20日の震度5強が、その4時間20分後もすぐ近くで、震度4の地震が起きました。  その原因と指摘されているのが、「地殻変動」です。  国土地理院の観測によると、珠洲市では、これまでに地面が4センチメートルほど隆起しています。近くに火山がない能登半島の地下で、何が起きているのでしょうか。  京都大学防災研究所・西村卓也准教授:「火山が無い所であれば、やはり『水』と考えるのが普通」  西村准教授によると、日本列島の地下深くには、海水を含んだ大平洋プレートが沈み込んでいて、そのプレートから水が分離。その水の一部が上昇し、地下10数キロ付近にたまって、今回の震源付近の地面を隆起させたと推測しています。  水が周囲の岩盤に力を加えたり、断層にしみ込んだりして、地震を起きやすくさせているのです。 ■50年前に類似“井戸から噴水”  実は過去にも、地下深くの水が群発地震を引き起こした例があります。  1965年から5年に渡り、長野県の松代町、現在の長野市で発生した群発地震。この間、揺れを感じる地震は6万回を超え、震度5を観測した地震は9回に上っています。  地震の元凶と信じられたナマズを退治する河童の民芸品も作られました。この松代群発地震は、どのように収束したのでしょうか。  西村准教授:「能登は、まだ水が深さ十数キロでとどまっている状況ですが。松代地震の場合は、もっと浅いところまで水が上がってきて。結局(水が)地表まで達して、あの写真のように水が噴き出した」  その時の写真では、地下深くの水が地表まで達し、井戸からは、激しく水が吹き上がりました。結局、松代群発地震は、この水の噴出によって、ようやく収束したのです。  能登半島の地震も、このようにして終わる可能性がある一方で、別のシナリオも考えられるといいます。  西村准教授:「地下には、水を通しにくい層や岩石があるので。それにぶち当たると、それ以上、浅い所にはいけない。そこに水がとどまって、(地震が)自然消滅する。水が移動しなければ、地震を起こすような悪さはしないので、そのまま(水は)地下にとどまって、終わる可能性もあります」  政府の地震調査委員会は20日、会見を開き、「今後、1週間程度は、最大で震度6弱の地震に注意する必要がある」との見方を示しました。そのうえで…。  東京大学名誉教授・平田直委員長:「地震の起き方を見ていると、決してこの数カ月で地震が終わるような兆候が表れていないので。年単位かどうかは全く分からないが、少なくとも数カ月は続く」
%%%%%(「グッド!モーニング」2022年6月21日放送分より)
 能登半島の地震に気を取られているところに今度は熊本です、6年前の大震災を引き起こした地震の震源地とほぼ同じ場所です。
(図:昨夜9時の熊本地震。防災科学研究所HINETより。拡大は図のクリックで)
220625M5地震無題

 
+++++市民の情報が安易に情報業者の手に委ねられていた!
 氏民の個人情報についてはきちんと保護すべき行政機関が、その情報解析なり処理を情報システム大手に委ねる。その会社をその作業を協力会社に委託する。その会社がさらに別の会社に委託するという驚くべき実態が一委託会社の失態から亜kるみに出ました。行政は市民の機密保護を放棄してしまっているのです。市民にとってはまさに唖然とする思いであります。
USB紛失は「協力会社の委託先の社員」 市の委託業者、説明に誤り 2022年6月26日 22時19分
朝日新聞デジタル
 兵庫県尼崎市の全市民約46万人の個人情報が入ったUSBメモリーが一時紛失した問題で、市から業務委託を受けた情報システム大手「BIPROGY(ビプロジー)」は26日、メモリーを紛失したのを「協力会社の社員」と説明してきたのが、「協力会社の委託先の社員」の誤りだったと発表した。
 BIPROGYは24日の記者会見で、紛失したのは協力会社の40代男性社員だったと、企業名も挙げた上で説明していた。BIPROGYは「協力会社から聞き取る中で認識を誤った」としている。
 BIPROGYによると、尼崎市との契約書では、業務の一部を委託する際は市の許可を取ると記載していた。BIPROGYが今回の業務を協力会社に委託し、協力会社がさらに別の会社に委託していたことについて尼崎市は「紛失発覚後に初めて知った」と説明している。
 USBメモリーは21日、データ移管作業後にUSBメモリーを持ったままBIPROGY関西支社の社員と大阪府吹田市内で飲酒した男性が、帰宅時に路上で寝込んでかばんごと紛失。24日に同市内で見つかった。メモリーには約46万人分の名前、住所、生年月日のほか、住民税額や、児童手当と生活保護の受給世帯の口座情報などが入っていた。(小川聡仁、中塚久美子)
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大谷二発、葛城皇子、即時停戦に向けて(孫崎氏)、WCカタール

(本ブログは月木に更新されます。コメントはryuuzaki_i@yahoo.co.jp へ)
(写真:昨日我等が大谷翔平氏は、なんと3点ホームランを二本も外野席に叩き込みました。おもわず快哉を叫びました。)
本当の着弾点見せます‼︎14号&15号ホームラン【マジでやば過ぎ絶対見て‼】大チャンスで1試合2本塁打3ランHRを放ってしまう大谷翔平に


大谷の ドデカイ二本 すさまじい 岩手の逸材 さらなる期待

 ネット・ニュースが大谷選手のドデカイ二発を報じていました。このところ、バットが湿っているのかと案じていました。早速動画を探したところ、たくさん見つかりました。日本列島には私と同じようにピョンピョンと喜んでいる大谷フアンが多いのでしょう。

 動画をさがしていると、昨年の「オオタニフィーバ」についての米国本場での報道の解説動画に出会いました。英語の勉強になると考え保存しました。
大谷翔平選手、アメリカ人はどう思ってる?テレビやファンの声を調査してみた!


 月一回の鳩山・孫崎対談です。鳩山氏は2010年に外務省の陰謀とも思える虚偽の報告に騙され、首相の座を退いた政治家です。この事件についての日本国メディアは鳩山氏を揶揄し軽侮する惨い汚濁に満ちた報道を撒き散らしました。軽薄な日本人がそれにのせられloopy−鳩山なぞと騒ぎ、結果として、沖縄県にある米国基地についての議論が放置されました。このことについて、当時の米国政府関係者が「鳩山氏の主張に深い理解を示していた」との新聞記事を孫崎氏が披露しています。
時事放談(2022年6月) 鳩山友紀夫×孫崎享


+++++取替えばや物語(2)
 舒明一年紀は壬申の乱の二人の主人公(当事者)の誕生を、正々堂々と書き記しているわけではありません。いわばこっそりと「後日に書き足した」のではなかろうかとの疑念を誘うやり方で書きます。これが、後世の人間に重大な誤解をさせるはずなのですが、後世の識者はそれに対して誤解すらもしません。かくして、藤原不比等の側からすれば、「歴史を歪めていない」と言い張れる論拠ともなっているのです。

 舒明一年紀は、長男である「葛城皇子は、後に“近江大津遷都”した天皇である」と書きます。それを裏付ける形で、天智天皇即位前紀が遷都を書きます。すでに書いたように“近江大津遷都”については古田武彦氏は「近江」は元々は「近見」(ちかみ)であったろうと自著「失われた九州王朝」(角川文庫、1973)で書いています。実際、熊本市南部の「近見」界隈には古墳が散在し、その地名も古くからのものであったらしいことがわかっています。「近見」から白川に沿って北東40kmにあるのが大津です。七世紀の後半のある時期に柿本人麻呂が哀しみを以ってこの『大津』を懐古し万葉集二十九歌を詠っています。白村江海戦の勝者である唐・新羅連合軍が九州に進駐してきたことから、倭国首脳陣がやむなくそもそもの「京」(みやこ)から退去し遷った地でもあります。そんな地に、唐・新羅連合軍日本進駐に加担した中大兄が「京」を構えるなぞはありえないのです。
 尚「オウミ」なる呼称がそもそもは新潟県『青海』(あおうみ)に始まり、それが「淡海」(あわうみ)となり「淡海」は「端海」(タンカイ、熊本県最南部)、さらには「近見」なる漢字表記を経て「近江」と変転したことは以前、本ブログで書いています。

 そのように考えると「葛城皇子」は中大兄ではないけれども、倭国の首領であり、上述のような戦況から、陣屋を「大津」に遷す決断をした人物であると考えることができます。言葉を変えると、「場所こそ違え」日本書紀は史実を正直に記載しているということができます。藤原不比等が日本列島政治史を語る際の常套手段です。「史実」についてはほとんどの関係者は疑わない。しかし、史実と別の史実をつなぐ「鎖」に「作為」を施すのです。

 こうした視点から、再度「天智天皇」の第一妃をもう少し詳しく考察します。名前は「遠智娘」(おち)です。本ブログで「秦」の「音」は「シン、チン、キン」であることを書きました。『学研大漢和辞典』(藤堂明保監修)によれば、この音の違いは「時代、場所」に依るようです。とするならば、「オチ」は「オシ」の転化した表現と考えることができます。「オシ」は古事記・日本書紀に登場する人物の呼称に、あるときは接頭詞としてあるときは接尾詞として登場します。
 たとえば景行天皇の和名は「大帯日子淤斯呂和気」(古事記)、「大足彦忍代別」(日本書紀)(おおたりひこ・おしろ・わけ)です。「オシ」は古代ペルシア語で「勇敢」を意味するいわば尊称です。古事記の冒頭に登場する「葦牙」(あしかび)、「蘆原国」(あしはら)の「アシ」も同義です。すなわち古事記は日本列島の政治権力が「アシ」を名乗る一族によって担われていたことを暗に認めているのです。古事記は藤原不比等が構想した日本列島政治・宗教正史のいわばドラフトであると私は考えています。したがって、用いている漢字なり表現は藤原不比等のそもそもの認識がチラリと顔を出すのです。それが景行天皇の和名が含む「淤斯」です。漢語では「ペルシア」は「波斯」と表記されます。景行天皇の父祖の出自が「ペルシア」であるところから、古事記では「斯」なる漢字が使われたのではなかろうかと想像しています。

 天智天皇の第一妃であるこの女性については「或本曰」として名前が「美濃津子娘」であったかもしれないと書きます。私は、「美濃津子娘」の接頭詞としてこの娘を修飾しているのが「遠智」ではなかろうかと考えています。「美濃津子娘」は「ミノツ」は「ミナ」が転じた表現とすれば、第一妃は「オシ」の血を受け継ぐ「みな」国(三七国、宗像、見名方)の姫君であった。と、私は考えます。当然、日本書紀に詳しい方は「ちょっと待ってくれ。胸形徳善の娘を娶ったのは大海皇子であったはず」とクレームをつけるはずです。其処が藤原不比等の狙い目でもあります。同時代に生きた藤原不比等の側近にして見れば、倭国の幹部が九州宗像の首領の娘を娶ったことは知っていてもそれが長男だったか次男であったかにおおきな関心は無かったのです。
(つづく)

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孫崎氏が神保氏に陽インタビュに応えています。
孫崎享×神保哲生:ウクライナ戦争の戦況はアメリカ次第という現実に目を向けよ

関連記事:三月末に世界を大きく震撼させたのがウクライナ首都キエフ郊外での「ブチャの虐殺」事件です。西側諸国はこの虐殺が侵攻したロシアによる重大な戦争犯罪であるとして、一斉の大キャンペーンを展開しました。日本のメディアもその一翼を担い連日のようにブチャの映像をTVで放映し続けました。日本国にあっては、普段は冷静な論評をする識者の多くもロシア非難の合唱に加わりました。一方のロシアはCNNによるこの報道の直後に、この「虐殺」には関与していないと明言し、直ちに国連に調査委員会を設置し事の経緯を検証することを求めています。しかし、国連安保理事会の当時の議長国である英国がこのロシアの申し出を拒否したのです。我が国のメディアはこの国連をめぐる経緯について殆ど報じていません。その経緯を記した記事を見つけました。それは長いので、ここに転載しません。が、後日の参照のために、保存しておきます。この記事が消去された場合には、申し出があれば、いつでも全文を転載します。

「ブチャの虐殺」の真相:ウクライナによる演出大失敗でNATO諸国からも冷ややかな目 2022-04-06 02:31:30

+++++カタールWCを率いる日本代表監督
 6月14日、蹴球日本代表チームはチュニジアとの試合で0−3と惨敗をしました。敗戦後の森保一監督の談話はいつもの「連係、連動」「臨機応変」、「成長」を含むなんともありきたりのものでした。これに多くのフアン、そしてサッカー協会の外部にある元選手たちが怒りの声を上げました。この監督、試合中にしきりにメモを取ることでも有名です。その間は視線は選手から離れるのです。そうしたメモが采配にどう生かされているのか問い詰めたい気分であります。
【レオザ】三笘の代表批判に森保監督が出した結論とは【切り抜き】


大敗後も予定調和な忖度インタビュー問題。「選手に責任はない」と答えた森保監督になぜ説明責任を求めない?【代表中継再考Vol.2

参考記事:
%%%%%森保監督の“三笘が戦術”発言が物議…繰り返される無策な采配にサッカーファンも呆れムード 6/23(木) 11:01配信
21日、オンライン取材に応じたサッカー日本代表の森保一監督(53)。6月の4連戦を終えた今、ワールドカップを11月に控えた代表チームの現状について語ったが、その内容が物議をかもしている。

各メディアによると、森保監督は6月に開催されたパラグアイ、ブラジル、ガーナ、チュニジアの4連戦を「最後に負けて終わってしまったので残念な部分はあるが、試そうと思ったことはしっかりと試せた」と総括。

また14日に行われたチュニジア戦後の記者会見で、三笘薫選手(25)が「チームとしてどう攻めていくのかというのは、決まりごとではないんですけど、いろんなものを持たないといけないと思います」と、戦術面に課題を感じていると明かしたことについて、森保監督はこう言及したという。

「本人からもそういう話があったし、メディア上でもいろんな話をしているが、彼自体が戦術であるというところ。個で打開する能力があるからこそ、そこを託している部分はある」

チームとしての戦術を求めた三笘選手の発言に対して、“選手そのものが戦術である”とした森保監督。この発言にはサッカーファンを中心にSNS上で呆れる声が……。

《森保には三笘がメッシにでも見えてるのだろうか》
《こんな無策な監督のもとで戦わなければいけない選手が気の毒。》

14日のチュニジア戦では、無策さのスキをついた相手指揮官の術中にはまっていたと、スポーツ紙記者は言う。

「今回のチュニジア戦ではディフェンスラインへの裏をつかれて3失点の完敗。チュニジアの代表監督は試合後に『日本を研究して試合に臨み最終ラインの裏を狙いました』と、語っていました」

森保監督の采配にたいして疑問の声があがるのは一度だけではないようで……。

「’21年10月のアジア最終予選のサウジアラビア戦で、ミスの目立っていた柴崎岳選手(30)を交代させず、パスミスから失点。森保監督自身も、『柴崎は疲労が見えていたので、交代しようとしていたところでの失点となった』と自身の決断が遅れたことを示唆していました。

また昨年の東京五輪でU24の代表を指揮した森保監督ですが、現在日本代表のエース三笘選手を6試合で70分しか使わず、準決勝のスペイン戦では驚きのベンチ外。

試合は延長までもつれ込んだものの延長前半に点を取られて敗退。三笘選手の個の力が必要な場面でした。実際に3日後に行われた3位決定戦で後半途中に出場した三笘選手は、圧巻のパフォーマンスみせ、メキシコから個人技でゴールを奪っています。個の力が必要な場面と戦術が必要な場面の見極めができてない印象を持たざるをえません」(前出・スポーツ紙記者)

果たして森保監督は、11月のワールドカップまでに戦術を整備できるのだろうかーー。
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天武・天智とりかえばや(1)、ウクライナ紛争の視点、美智子上皇后の蠢動

(本ブログは月木に更新されます。コメントはryuuzaki_i@yahoo.co.jp へ)
 このところ、日本列島の地震活動が活発になっているのではないかと危惧する報道が少なくないようです。たとえば、南海トラフの地震ということであれば6月17日の徳島県下の地震も気になります。定量的な論議はないので、活動増加については現時点では否定も肯定もできません。昨日午後、そして本日午前に二発のM5クラスの地震が能登半島先端に発生しています。気象庁の記者クラブに配布した資料の一部を以下に転載します。
令和4年6月19日15時08分頃の石川県能登地方の地震について令和4年6月20日10時31分頃の石川県能登地方の地震についてから、いくつかを示しておきます。

まずは震源域の地震活動です:
220620能登a無題

二つの地震の発震機構解です。逆断層地震です。解釈は、更なる調査をまたねばなりません。
220620能登f無題


(写真:昨朝は湿っぽい霧が濃くたち込めていました。朝の太陽もギラギラ輝きたいところを霧によって邪魔されています。拡大は図のクリックで)
濃霧の朝日1177

(写真:いつもの散歩道が霧のために違った風景を作り出しています。拡大は図のクリックで)
濃霧の散歩道1183

 突然に 気温があがり わがパソコン なにやら動き 怪しげなり

 とっかえひっかえのPCのモデルアップに追いつくことを疾うに諦め、いまだに古くなったウインドウxxを使っています。重大国家機密を操作しているわけではないので、通り一遍の防御策を講じているのみです。それでもときに妙なことがあります。しかし、それはこのところの暑い日に頻発します。「妙な動き」もシステムの『古さ』ではなく、ハードウエアのせいかもしれません。

 やや古い動画ですが、元外交官の浅井基文氏が語っていましたので、ここに掲載しました。
「ウクライナ危機の本質はNATO+米国vsロシアの戦い」鳩山先生、浅井基文(元外交官・元広島平和研究所所長)、木村朗編集長


+++++二つ名の中大兄の娘(2)
 中大兄は皇后とは子を生さず、四名の妃および他三女性と契り多くの子を生したと日本書紀は書きます。『日本書紀は書きます』との接尾詞を付する理由は、中大兄の出自が、とりわけ不透明であるからです。その不透明を明らかにできるのは、藤原不比等自身とその父親、および限られた側近のみですから、真実を書かずとも誰も疑いません。

 そもそも第一妃の「呼称」ですら「意図的」にあいまいに扱われていることは前回書きました。そうではあっても、中大兄の第一妃から持統天皇が生まれ、第二妃の遠智娘の妹(姪娘)からは元明女帝、そして、四妃に含まれない女性からは大友皇子(弘文天皇)が生まれたと書紀は書いています。大友皇子は壬申の乱で大きな役割を担っています。

 天智天皇の生した子の名前から、いろいろな想像をすることは可能ですが、ここでは、後の持統天皇となる女性について触れるにとどめておきます。この将来の女帝についてはこれまでも多くを本ブログで書いてきました。この女帝はまずは天武天皇の皇后として政界の第一歩を踏み出します。天武天皇無き後、実質の最高権力者でありながら四年間もの間天皇に即位することはありませんでした。それは斉明天皇の死去後七年間もの長きに渡って天皇に即位しなかった中大兄に倣ったかのようです。

 前回記事で持統天皇が二つの和名(倭名とは異なる、鸕野と讃良)と二つの諡号(大倭根子天之廣野日女尊と高天原廣野姫天皇)をもっていることを書きました。理由は、この女性が天武天皇の皇后であったとする「日本書紀」の記述に監修者たる藤原不比等が縛られているからです。天武天皇の和名は「大海皇子」です。これは出自を想像させます。即ち「大(おお)」が「王」、「海」が「阿毎」に由来するとすると隋書倭国伝が書く「倭国王、姓は阿毎」を直ちに連想させるからです。「倭名」を引きずった呼称を藤原不比等はこの人物に付したのでしょう。

 すでに書いてきたように倭国側の大海皇子と奈良王朝の創始者である中大兄が兄弟であるはずはありません。この天皇の和風諡号「天命開別」は「奈良王朝の創始者」であることを窺わせます。それはさておき、この重大な事実(二人は兄弟であるはずがないという事)は日本書紀では一言も書いていません。勿論ほのめかすこともありません。舒明天皇紀に列記される男児には中大兄は明記されていないことは本ブログでは繰り返し強調してきました。
 二人が「兄であり弟」であると後世の人たちが思い込む理由は以下にあります:
(図:日本書紀・舒明一年紀より。拡大は図のクリックで)
220620舒明無題


 ,賄恵凖傾弔藩解され、△賄敬霤傾弔藩解されますが、どちらも後世の人間による「書き込み」であると想像できます。それが上図にあるように小さな文字で表されているのです。
 
 近い将来に日本列島を天皇として背負ってたつはずの人物について、後世の人間が「書き忘れたのかどうか理由は定かでない」が本文の隙間に書き込むという作業は如何にも不自然と私は考えています。実際、天智天皇七年紀は自らがなした二人の娘が女帝(持統天皇、元明天皇)になることを書き込みではなく記しています。となると、それは「書き忘れ」ではなく、何がしかの政治的思惑が関ったと想像することは自然です。

 それは何か?それを考えるに先立って、現ブログ管理人のこれまでの「壬申の乱」観をざっと振り返ることにします。
 七世紀初頭、隋皇帝は倭国に裴清明を団長とする十二名の視察団を派遣します。視察団は九州にあった倭国の「京」(みやこ)で滞在中に東に足を伸ばし、奈良盆地内の漢人からなる「秦王国」を訪ねます。その存在は梁記・東夷条で知っていたのでしょう。ここから、大陸王朝の倭国転覆の策謀が始まったのです。隋の思惑を引き継いだ唐は西暦630年の遣唐使の帰国に乗じて一人の有能な策士、中大兄、を倭国に派遣します。中大兄は本国の指示に従いあれこれの「ちょっかい」を仕掛けます。宗教戦争(これについては後日考察)などを仕掛けたのちに西暦645年の「乙巳の変」で、ついに倭国の首領を暗殺することに成功します。しかし、首領亡き後も倭国はしぶとく持ち堪えた。唐と中大兄は次の戦略を構築します。それが白村江での海戦です。倭国と緊密な関係にあった百済にまずは標的を定め、新羅と図って挟撃し百済を追い詰めます。さすれば、倭国は百済救援に出撃するに違いないというわけです。その戦略にまんまと乗った倭国は白村江に出撃し、粉砕されるのです。こうして今度は倭国が唐と奈良盆地の中大兄勢力に挟撃されるという構図となります。かくして倭国の拠点であった九州に唐・新羅連合軍が進駐し、倭国勢力を追い詰めるのです。当然、それに中大兄の勢力が加担します。両者は合力して倭国の殲滅に乗り出します。
 こうして壬申の乱が発生します。倭国側の首領は日本書紀が書くところの「大海皇子」の筈ですが、なんとこの人物は、いつの間にか奈良盆地に宮廷を構えるという筋立てを日本書紀が描くのです。ここに不審するのが現ブログ管理人です。
 現ブログ管理人はおおむね上記の流れを把握しつつも最後の土壇場で突然、椅子をひっくり返される思いでありました。それではどう理解するのか?それを次回考えて見ます。
(つづく)

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 上に掲載の動画に関係する記事です。戦況は日本のメディアによる報道とはだいぶ違ってきたようです。
+++++どれだけの領土を平和と引き換えにするかはウクライナが決めるべき−NATO
 2022年6月12日21時37分
代償を払えば平和は実現するが、それを決めるのはウクライナ次第だとNATOのイェンス・ストルテンベルグ事務総長が主張した

 日曜日、イェンス・ストルテンベルグNATO事務局長は、アメリカが率いる同盟は、交渉の場で、ウクライナの立場を強化することを狙っていると述べたが、どんな平和協定でも、領域を含め、妥協が伴うだろうと付け加えた。

 フィンランドのサウリ・ニーニスト大統領との会談後、ストルテンベルグはフィンランドでのクルタランタ・トークで話した。NATO事務総長は、欧米はウクライナ軍を強くするため「代償を払う」のをいとわないが、現在の紛争を終わらせるため、キエフはモスクワに多少領土の譲歩をしなければならないだろうと述べた。

 「平和は可能だ」と彼は言った。「唯一の疑問は、平和に対し、どれだけ代償を払うことをいとわないかだ。平和のため、どれだけの領土、どれだけの独立、どれだけの主権を犠牲にするのをいとわないかだ。」

 「最も高い代償を支払う人々が判断すべきだ」と言って、ウクライナがどんな条件を受け入れるべきか、ストルテンベルグは示唆しなかったが、最終的に和平交渉の際「彼らの立場を強くする」ため、NATOと欧米はウクライナに兵器を供給し続ける。

 陰でウクライナの未来を議論するキエフの欧米支援者 CNN

 事務局長はウクライナ領土を譲ることを直接は勧めなかったが、第二次世界大戦の平和協定の一環として、カレリアをソ連に譲ったフィンランドの例を持ち出した。ストルテンベルグは、フィンランド-ソ連入植地を「フィンランドが第二次世界大戦後、独立主権国家になることが可能だった理由の一つ」だと説明した。

 まもなくウクライナが、欧米支援者に、和平協定への圧力を加えられるかもしれないという雰囲気が高まる中の、ストルテンベルグのこの発言だ。アメリカとイギリス当局は、ロシアとの戦争でウクライナが「勝てる」と公式に主張しているが、最近のCNN報道はワシントン、ロンドンとブリュッセル当局が、停戦と和平合意を計画する取り組みで、ウクライナ代表なしで会合していることを示唆している。

 ウクライナを支持している国々の国民が「戦争にうんざり」しつつあるため、匿名の外国関係者が、協定へと「我々を少々押しやった」とウクライナのウォロディミル・ゼレンスキー大統領も主張した。

 先月ヘンリー・キッシンジャー元米国務長官が彼がすべきことを提案したように、戦争終焉と引き換えに、何らかの領域を断念するようゼレンスキーに促したことをフランスのエマニュエル・マクロン大統領は公式に否定した。

 5月に、キッシンジャーはウクライナに、「現状」回帰を受け入れるよう提案した。つまり、クリミア半島の領土権主張を断念し、ドネツクとルガンスク人共和国の自治承認をだ。クリミア半島は、2014年以来ロシアの一部で、他方、二月に軍事行動が始まる数日前、モスクワはドネツクとルガンスク人民共和国の独立を認めていた。

 ゼレンスキーは、何度かロシアとの和解交渉に興味を表明し、彼の当局者や、アメリカ国務省や、ゼレンスキー本人が、まもなくその後反対意見を表明して、和平協定の可能性に対し、何度か立場を変えている。先月末、交渉に参加する意志を発表した後、ゼレンスキーは数日後に現れて、ドンバス共和国で掲げるのに「我々のウクライナ国旗代わる選択肢はない」と国民に言った。

 日曜日「我々はこの全ての戦いの後、ウクライナが彼らの領土を断念することが極めて困難なことを理解している」とストルテンベルグとの話し合いの後、ニーニストが言った。「だが、ロシアが全ての占領地を失うのを見るのは、この時点では予見不可能だ。平和実現は全く困難だ。」
%%%%%転載記事終わり

+++++皇室問題
 秋篠宮家でのゴタゴタの背後に美智子上皇后の策動があると、このところ皇室関連記事は報じています。下の動画がそれを語っています。
 定例ライブ】Jk后 雅子皇后へのい○めの系譜【22時半から配信】

”れいわ”登場の衝撃、二つ名を持つ中大兄の娘、 皇室の話題

(本ブログは月木に更新されます。コメントはryuuzaki_i@yahoo.co.jp へ)
(写真:水田で餌をついばむカモを騙して横取りせんと周囲を見回すアオサギ。拡大は図のクリックで)
白鷺1154

(写真: サギのカモにされるとも知らず、水田の水に首を突っ込む鴨達。拡大は図のクリックで)
鴨1157


 三年まえ レイワの登場に 興奮す あの高揚を 今度も期待

 七月10日は第26回参議院選挙の投票日です。わがくにのメディアは「投票を!」と呼びかけるにしては、さまざまな選挙関連報道をするわけではありません。したがって、この国政選挙での政党間の争点は何であるのかを広く国民が知ることが難しいのです。理由のひとつは厳しい選挙制度です。選挙のときほど、自由な報道が保障されるべきところが日本では真逆です。そのくせ、開票直後から各局こぞってのお祭り騒ぎです。つまり結果だけを有権者たる民は押しつけられるのです。国民が知りたいのはどの政党が自分の気持ち要求に適っているのかを知る機会はまことに少ないのです。
 そうした現行の選挙制度の中で、特異な選挙運動を展開したのが前回の参議院選挙での「れいわ」でありました。
中島岳志✖️鮫島浩 私たちは山本太郎に感動し、学者や記者として過去


(図:レイワ新撰組の政策。東京新聞6月16日付2面より、拡大は図のクリックで)
れいわ1165

 
+++++中大兄の娘
 倭国の政治権力は西暦663年の白村江の海戦での敗戦で大きく揺らぎます。それは、奈良盆地に蝟集していた一族のトップである中大兄の倭国転覆策謀を大きく前進させました。じっさい五年後の西暦668年には、転覆は成功したとの判断から、「奈良朝廷」とでも呼ぶべき機構つくりに取り組みます。その機構が大陸の唐朝廷に倣ったものであることは明らかです。朝廷機構の体裁は正后をさだめることから始まります。異母弟の娘を后に当てますが、生した子を書紀は記載しません。私の想像では、それはあくまでも「体裁」であったからです。それが事実か否かは誰も確認できません。そして中大兄の側近たちもさしたる関心を抱かなかったと思われます。むしろ今後の長く続く「支配機構」の維持に欠かせない子供たちを生すことです。それらの役割を「妃」たちが担うことになります。

 皇極三年(西暦644年)といいますから実に24年も前の昔に盗み取った女性を第一妃とします。この女性は蘇我倉山田石川麻呂の娘です。本ブログ管理人は建築家渡辺豊和氏が説くように「蘇我」氏は西域ペルシアに出自をもつ「サカ」族と考えています。彼らが七世紀半ばまで日本列島の主要な政治勢力であったのです。唐、新羅など海外アジアでは日本列島の支配的勢力を「倭国」と呼んできたのです。それは卑弥呼時代の呼称を踏襲したもです。彼等自身が自らが統治する国を「倭」と呼んでいたとはおもえません。むしろ、匈奴の支配体系に習った「二王」の存在から、列島東側の勢力を「日出」(ひいずる)国、西側を「日入』(ひいる)国と互いに呼び合っていたと思えます。この呼称は「美麻木入日子印恵」天皇の呼称からもうかがい知ることができます。が、なんと言っても特記すべきは西暦607年に倭王が隋皇帝に送った親書です。其処には
其國書曰「日出處天子致書日沒處天子無恙」
 とあり、隋皇帝はこの国書に「不悦」、すなわち「不快感をあらわにした」のです。この事件については、古代史専門家は理解に苦しみ、いろいろと憶測を交えた解説をしています。上に書いたような日本列島の政治権力の実態を考えるならば、この国書をおくった倭王にしてみれば最大限の親愛の呼美かけであったのです。

 すでに書いたように第一妃との無理やりの婚姻は倭国の幹部の娘をいわば人質にすることでした。それは、中大兄の倭国転覆陰謀の第一歩となるものです。実際、この幹部が「乙巳の変」では、蘇我入鹿、即ち自らのかっての頭目を誅殺することに加担させられます。
 さて、その娘が遠智娘(おちのいらつめ)です。日本書紀は「或本云」としてこの女性の別名を付記します。それが「美濃津子娘」です。この名前もどうやら定かではないようで、下に書くように「茅淳(ちぬ)娘」であったかも知れぬと「或本云」を情報源として書きます。やがて天武天皇后となり、かつ天武天皇の跡を襲って持統天皇となる人物の母親です。
 しかし、無理やり姦淫をした際には、すでに遠智娘には子がいたか、あるいは妊娠していたと日本書紀・皇極三年紀は書くのです。となると二人の間に生したとされる最初、そして二番目の子である、大田皇女、鸕野皇女のどちらかがあるいは両方とも中大兄の娘ではないらしいということになります。

 日本書紀・天智七年紀の記載は意図的に事実をぼやかしているとの疑いが次の一節です。無理やり姦淫をした女性の名前は“遠智娘は或本が云うには”美濃津子娘。”であったかも知れないと書き、子供の順番は、今度は男児が第一子です。
生一男。二女。其一曰建皇子。其二曰大田皇女。其三曰鸕野皇女。
しかし、この男児は口が利けなかったと書紀は書きます。
さらには、上記もは定かでないかもしれないとして以下を書きます:
   或本云。蘇我山田麻呂大臣女曰茅淳(ちぬ)娘。生大田皇女与。〉
この説では、二番目の娘の名前は娑羅々皇女です。

 日本書紀の編纂を統括した藤原不比等にとって、中大兄は父親の盟友です。そのもっとも近しい人物の婚姻関係を語っているはずが、「或本云。・・・」と二つもの「異」説を書き込んでいるのです。上掲のように、第一妃の名前すら定かでないのです。そして将来持統天皇となるはずの娘についてもその名前が鸕野皇女または娑羅々皇女と二つあるのです。この女性がいよいよ天皇に即位する際、日本書紀持統天皇称制前紀は以下を書きます。
《持統天皇即位前紀》◆高天原広野姫天皇。少名鸕野讃良皇女。
持統天皇の幼名とされる二つの名前をくっつけたものを“少名”としているのです。驚くのはまだ早い。さらに興味深いこと持統天皇天皇の和風諡号です:
《大宝三年(七〇三)十二月癸酉(十七)》○癸酉。従四位上当麻真人智徳。率諸王・諸臣。奉誄太上天皇。謚曰大倭根子天之広野日女尊。是日。火葬於飛鳥岡。
 この女帝には、すでに和名として、高天原広野姫天皇があったはずですが、それにもうひとつ大倭根子天之広野日女尊が諡(おく)られるのです。次回これを考察します。

(つづく)

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「れいわ」関連の動画をもうひとつ貼りつけておきます。
お金出さない政府に明石市長が国会でブチギレ「山本太郎は正しかった」全資料付


 さて、最後は私が好む三面記事ネタです。週刊誌を眺める気分であります。
【新・オレの話し。】皇宮警察の悪口内容、KK・A宮家情報提供者話

孫崎享氏の現況分析、中大兄の第一妃、猫の入浴(動画)

(本ブログは月木に更新されます。コメントはryuuzaki_i@yahoo.co.jp へ)
(動画:朝の散歩で、またも出会った蛇)
青大将1133

 (写真:栗林の下で憩いをとり青大将(?)。拡大は図二回クリックで)
栗と蛇1136


 本年は 良きこといっぱい あるんかな 散歩でしばしば 蛇君と会う

 旧集落の細い道を歩いていると、前方にやけに元気の良いミミズがばたばた動いています。カラスにでもつつかれて苦しがってるのかと思って近づくとなんと痩せこけた蛇でありました。

 集落を超えて歩みを栗林に進めると、栗の木下の草むらに青っぽい長い紐が落ちていました。よく見るとなんと蛇でありました。近くの小枝を拾って、尻尾の辺りを「チョンチョン」とつつくと、「ナンダなんだ」と鎌首を持ち上げ、こちらをしばらく睨んでいましたが、やがて木の根元の草薮に入り込みました。蛇の夢を見ると「吉兆。金が手にはいる」なぞの言い伝えを思い出し、以後それを毎日期待してるのですが、今のところそうした兆しはありません。

 ウクライナ紛争の現況について元外交官の孫崎享氏が神保哲生氏のインタビューに応えています。
孫崎享×神保哲生:ウクライナ戦争の戦況はアメリカ次第という現実に目を向けよ

 関連記事を本ブログ記事末に転載しました。

+++++「家計の値上げの許容度も高まってきている」(黒田日銀総裁の言)
 黒田総裁の言は国民の憤激を買いました。玉川氏は黒田氏の言の背景を以下のように理解しているとTV報道番組で語ったとのことです。たしかにすさまじいばかりの円高、それは日本国民にとっては急激な物価高としてのしかかってきます。一方では、またもやしたい放題の外国人観光客の国内跋扈です。何せ外国人観光客にとっては願っても無い物価安です。
%%%%%玉川徹氏、止まらない円安に「打つ手がないっていうのは、こういうこと」 6/13(月) 9:48配信
 13日放送のテレビ朝日系「羽鳥慎一モーニングショー」(月〜金曜・午前8時)では、今月8日に一時1ドル・134円台になるなど、止まらない円安について特集した。  コメンテーターで出演の同局・玉川徹氏は日銀の黒田東彦総裁が「家計の値上げの許容度も高まってきている」と発言し、「表現はまったく適切でなかった」と撤回に追い込まれた一幕について「黒田総裁の話っていうのは、ちゃんと読むと、意図としては円安がこういう風に進んでいるってことになると、日本は海外で貿易で稼ぐよりも海外に投資した分で稼いでいる方が多いんですね、既に。そういう海外で稼いでいる分が円が安くなると、当然ながらドルで受け取っているとすれば、もらえる円が多くなるわけでしょ。それが日本の中に入ってくれば、賃金が上がるっていうようなことを(黒田総裁は)言っているんじゃないかと読まれているらしい」と説明。  その上で「そこには一つ、見落としがあって、海外で儲(もう)かった部分を日本に持ってくるのかということです。当然、海外で儲かった部分をさらに増やそうと思ったら、成長が見込めるところに投資するに決まっているじゃないですか。そうすると、成長が見込めない日本に儲かった部分を投資しますか?」と疑問を呈すると、「円がいくら安くなって、円でもらえるようになっても、それはドルのまま海外に投資されるだけだから、日本には入ってこない。つまり打つ手がないっていうのは、こういうことなんですよね」と続けた。  「ぐるっと回って、日本に成長力がないと。そういうところにすべて帰結するんじゃないですかね」と結論づけていた。
%%%%%報知新聞社

+++++壬申の乱勃発
 日本書紀は、斉明天皇死去後、皇太子の立場にあった中大兄は、直ちに天皇に即位することをせず、なんと七年間もの間その地位を空白のまま放置していたと書きます。古代史研究者はその理由について、あれこれの想像を書きますが、それらは説得力を著しく欠いています。「西暦668年に中大兄が奈良王朝を発足させた」との現ブログ管理人の理解こそが合理的です。同時代に生きていた奈良王朝の幹部は、よしんば日本書紀の記載に真実が書かれていないとしても、言ってみれば、それは大陸王朝すなわち唐からの子飼いの側近です。彼らにとっては、まさに宿願を果たしたことが重要であったのです。
 それはさておき、書紀の慣例に従い、天皇の后、息子、娘などが列記されます:
%%%%% 天智七年紀
原文:
《天智天皇七年(六六八)》
◆二月丙辰朔戊寅【二十三】立古人大兄皇子女倭姫王為皇后。遂納四嬪。
  有蘇我山田石川麻呂大臣女。曰遠智娘。〈或本云。美濃津子娘。〉生一男。二女。
  其一曰大田皇女。
  其二曰鸕野皇女。及有天下、居于飛鳥浄御原宮。後移宮于藤原。
  其三曰建皇子。唖不能語。
  (以下書き込み:或本云。遠智娘生一男。二女。其一曰建皇子。其二曰大田皇女。
   其三曰鸕野皇女。
   或本云。蘇我山田麻呂大臣女曰芽淳娘。生大田皇女与娑羅々皇女。〉
   次有遠智娘弟。曰姪娘。生御名部皇女与阿陪皇女。阿陪皇女及有天下、居于藤原宮。
   後移都于乃楽。
  〈或本云。名姪娘曰桜井娘。〉
   次有阿倍倉梯麻呂大臣女。曰橘娘。生飛鳥皇女与新田部皇女。
   次有蘇我赤兄大臣女。曰常陸娘。生山辺皇女。
   又有宮人生男女者四人。有忍海造小竜女。曰色夫古娘。生一男。二女。
   其一曰大江皇女。其二曰川嶋皇子。其三曰泉皇女。
   又有栗隈首徳万女。曰黒媛娘。生水主皇女。
   又有越道君伊羅都売。生施基皇子。
   又有伊賀釆女宅子娘。生伊賀皇子。復字曰大友皇子。

文意(岩波文庫「日本書紀(五)」42頁)については、省略)
%%%%%
 舒明天皇の長男は葛城皇子です。所が、後世の何者かがこの葛城皇子の脇に「近江大津宮御宇天皇」と書き込んだのです。つまりこの人物が将来の「天智天皇」になるのだと暗示します。これによって「中大兄」の出自、身元調査は沙汰止みとなってしまうのです。

 皇后の出自すわち父は葛城皇子の異母弟にあたる古人大兄皇子であると書紀は書きます。このように書くことには藤原不比等の何がしかの思惑があったはずです。すなわち舒明天皇の血筋を引いた女子を娶ったことを強調することで、自らの出自の確かさを誇示するとの意図がそのひとつです。この一節の背後には、倭国を「のっとった」との後ろめたさを覆い隠す気分がにじんでいると私は想像しています。
 四名の妃の先頭に登場するのが蘇我山田石川麻呂大臣です。西暦645年の乙巳の変(いっし)で重要な役割を演じた「脇役」です。その人物のの女性を后にするいきさつを日本書紀はかなり詳細に書き綴っています。
《皇極天皇三年(六四四)紀:
原文:
中臣鎌子連議曰。謀大事者、不如有輔。請納蘇我倉山田麻呂長女。為妃、而成婚姻之眤。然後陳説、欲与計事。成功之路、莫近於茲。中大兄聞而大悦。曲従所議。中臣鎌子連即自徃媒要訖。而長女所期之夜被倫於族。〈 族。謂身狭臣也。 〉由是倉山田臣憂惶。仰臥不知所為。少女怪父憂色、就而問曰。憂悔何也。父陳其由。少女曰。願勿為憂。以我奉進、亦復不晩。父便大悦。遂進其女。奉以赤心。更無所忌。中臣鎌子連挙佐伯連子麻呂。葛木稚犬養連網田於中大兄曰。云々。
 
文意(岩波文庫「日本書紀」(四)216頁より
(槻の木の下での蹴鞠いご近しい盟約を交わした後のことです。中大兄と中臣鎌子は倭国の株の篭絡を謀ります)
中臣鎌子連は大事の謀を次のように中大兄にもちかけた。「(大きな謀のためには)輔(たすけ)が不可欠です。蘇我倉山田麻呂に請うて長女を后に娶りなさい。成婚姻之眤をなさい」と。こうした謀を持ちかけて「ともにこれをしましょう。こうすれば成功への道が近くなります」と。中大兄はそれを聞き大悦しその議に従うこととした。中臣鎌子連は、ただちに自(み)ずから蘇我倉山田麻呂に赴き、媒(なかだち)をすることを伝えた。ところが、その長女は所期之夜に族に倫される(族とは謂ゆる身狭臣(むさのおみ)也)。倉山田臣はおおいに憂い惶(おそ)れ仰臥して所為を知らず(取り乱した)。少女は父の憂色を怪(あやし)みて父に問うて曰く「なぜ憂悔のか?」と。父が其由を陳ると少女は曰「どうぞ心配しないでください。我は嫁ぎます。手遅れではない」と。父は大悦し、遂に其女を進呈し赤心をもって忌むこころなし。中臣鎌子連は佐伯連子麻呂、葛木稚犬養連網田の二名をこの件の功労者として中大兄に言う。
%%%%%
 
 書紀をそのまま読み進めても同じような理解に達します。中大兄と中臣鎌子が「倭国」転覆の手がかりとしてその重臣にまずは接近したことが明らかです。念のために繰り返すならば、「蘇我」とは、日本書紀があらわには書いてはいないけれども、彼らは遠く西域ペルシアに出自を持つ「サカ」族です。この一族が日本列島にあって「倭国」の主要構成員であったことはこれまでもくりかえし書いてきました。

 もうひとつ興味深いことは、蘇我山田石川麻呂大臣女である遠智娘〈或本では美濃津子娘。>が結婚初夜に「族」に「姦淫」(被倫)されたとの逸話を書き添えています。まことに興味深い話です。この后の生んだ子の父親が「中大兄」ではないことを示唆しているのだろうと考えています。その子とは鸕野皇女即ち、後の持統天皇と日本書紀が書く女性ではなかろうかと考えています。
(つづく)

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 上に掲載した動画での孫崎氏による戦況視点とはやや異なる記事を見つけました。私としては、「停戦協議開始」こそが、いたずらに失われる人命を救える唯一の方向と思っています。何とか事態がその方向で進捗するよう願っています。
%%%%%ウクライナの敗色濃厚?欧米メディアは掌返し、日本では報道されない本当の戦況とロシアの勝利条件=高島康司 2022年6月4日
ウクライナ軍が敗退している実態について解説したい。日本ではほとんど報道されない事実だ。「ニューヨークタイムス」や「ワシントンポスト」のような大手主要紙もウクライナの軍事的な勝利が困難だとの記事を書くようになっている。(『未来を見る! 『ヤスの備忘録』連動メルマガ』高島康司)
【関連】ウクライナ危機で「グレート・リセット」本格始動。ロシアが2月24日に軍事侵攻した本当の理由=高島康司
※本記事は有料メルマガ『未来を見る! 『ヤスの備忘録』連動メルマガ』2022年6月2日号の一部抜粋です。ご興味をお持ちの方はぜひこの機会にバックナンバー含め今月分すべて無料のお試し購読をどうぞ。
※毎週土曜日or日曜日16:00からLIVE配信予定「私たちの未来がどうなるか考える!メルマガ内容の深堀りと視聴者からの質問に答えるQ&A」世界中から情報を収集、分析し、激変する私たちの未来を鋭く予測する『ヤスの備忘録』でおなじみ、ヤスこと高島康司さんのライブ配信が大人気。世界の未来を、政治経済の裏表だけでなく、歴史、予言、AI、陰謀、スピリチュアルなどあらゆる角度から見通します。視聴方法はこちらから。
敗退するウクライナ軍
ロシア軍はウクライナ東部で攻勢に出ている。6月1日、東部ルガンスク州の要衝セベロドネツクの当局は、「市の約70%をロシア軍が掌握した」と明らかにした。同市はルガンスク州の最後の拠点とされ、ウクライナ軍は劣勢に立たされている。市街戦も起きており、民間人の退避が難しくなっているもようだ。
ロシアはルガンスク州と東部ドネツク州を合わせたドンバス地方の制圧に戦力を集中させている。31日、ロシアの「タス通信」は、親ロシア派勢力トップが「現在の主な目標はセベロドネツクと隣接するリシチャンスクの解放だ」と語ったと報じた。両市が制圧されれば、ルガンスク州全域がロシア軍の支配下となる。
また、ロシアが全域を掌握したと主張して支配の既成事実化を進める南部ヘルソン州について、アメリカのシンクタンクは、ウクライナ軍がヘルソン州とミコライウ州の州境の近くで限定的に反撃に成功したと分析している。
31日、イギリス国防省は、「ロシア軍が狭い地域に兵力と砲撃を集中させることで、作戦初期よりも大きな局所的成功を収めた」とする分析を公表した。一方で、ロシアがルガンスクとドネツク両州を占領するには「ドネツク州の都市、クラマトルスクや幹線道路などで、さらに困難な作戦目標を実行する必要がある」とも指摘した。
一方、戦況を細かく分析している複数の軍事アナリストは、イギリス国防省の分析よりも、戦況は明らかにロシア軍に有利に展開しているとしている。
ロシアが早期に掌握した南部のヘルソン州では、ウクライナ軍は領土の一部奪還を試みて反撃したが、ロシア軍の反撃に会い成功しなかった。これは東北部のハリキューでも同じだ。欧米のメディアではウクライナ軍による反撃と奪還が報じられているが、現実はそうではないようだ。ロシア軍はハリキューを以前として占拠している。
さらに東部ルガンスク州の要衝セベロドネツクだが、ロシア軍の掌握が進んでおり、ここを守っていたウクライナ軍は敗走している。敗走するウクライナ軍をロシア軍が攻撃しているもようだ。また、ルガンスクのリーマンがロシア軍に陥落した。この都市は、さらに西にあるスリャビアンスクとクロマトロスクという人口密集地に向かう中継地点にある。ロシア軍はここを拠点にこの2つの都市の攻略を行うようだ。
ウクライナ兵の状況
日本を含む欧米の主要メディアでは依然としてウクライナ軍の反撃に期待をして、最終的にはウクライナの勝利に終わるとの期待感が強いようだが、ウクライナ軍の現場の兵士の状況を見ると、とてもそのような期待を持てる情勢ではないことが分かる。
5月26日、アメリカの大手紙、「ワシントンポスト」は「東部のウクライナ義勇軍は見捨てられたと感じる」という題名の衝撃的な記事を掲載した。記者が東部ドンバスの前線に赴き、ウクライナ軍兵士を取材した非常に長い記事だ。この記事には、ウクライナ軍兵士の悲惨な状況が描かれている。
取材したのは、東部ルガンスクの最前線で戦っている民間民兵組織、「領土防衛隊」の一部隊だ。「領土防衛隊」は、ロシア軍の侵攻後に発足した。彼らは、東部の重要な前線でロシア軍が大砲やグラッドロケットで攻撃するなか、塹壕の中に閉じこもり、一日一個のジャガイモで生活しているという。そして、多勢に無勢、訓練も受けておらず、軽火器しか持っていないウクライナ軍は、砲撃が終わること、そして自分たちの戦車がロシア軍を標的にするのをやめることを祈っているという。
取材した部隊の中隊長によると、「ロシア軍はすでに我々の居場所を知っていて、ウクライナの戦車が我々の側から撃ってくると、我々の位置がバレてしまう。そして、銃や迫撃砲など、あらゆる武器で反撃してくる。生き残るために祈るしかない」という。3カ月前には120人ほどいたこの中隊は、死傷者や脱走者のために54人にまで減少している。
中隊の隊員の一人は、「指揮官は何の責任も取らず、手柄を立てるだけ。何の支援もないんだ。これ以上我慢できない」という。こう発言した兵士は、中隊のメンバーとともに前線から離脱して地元のホテルに引きこもった。そこで彼らは、軍法会議と軍事刑務所に入る可能性があることを承知の上で、「ワシントンポスト」の取材に応じた。
彼らによれば、ここ数週間、状況はさらに悪化しているという。砲撃で2日間も補給路が絶たれたとき、彼らは1日1個のジャガイモでやりくりすることを余儀なくされた。そして、昼夜を問わず、森に掘られた塹壕や、廃屋の地下室で過ごしている。「水もない、何もない」という。一日おきに自分が運んでくる水だけしかない。
また、装備も貧弱だし、訓練も十分ではない。ライフルと手りゅう弾のほか、与えられた武器は、装備の整ったロシア軍に対抗するためのロケット弾一握りだけである。そして、そのロケット弾の使い方は誰も教えてくれなかったという。
一方ロシア軍は、戦車、歩兵戦闘車、グラッドロケットなどの大砲を配備している。地上部隊や歩兵車両で森に侵入しようとすれば、簡単に「殺せる」距離まで近づくことができるという。そして、「重火器が相手だと、何もできない」とこの兵士は言った。
ウクライナ軍小隊が投稿したメッセージ
十分な武器や装備、また食料や水すらもない状況で戦っているのは「ワシントンポスト」が取材したこの「領土防衛隊」の部隊だけではない。包囲された都市セベロドネツクに拠点を置く第115旅団第3大隊の小隊は、SNSの「テレグラム」に戦線を離脱するとのメッセージを投稿した。そこには次のようにある。
ビデオメッセージは以下の「テレグラム」で見ることができる。「ワシントンポスト」が英語字幕を入れたので、それを日本語に翻訳した。
「我々は、セベロトネツクに駐留する第115旅団第3大隊である。我々はゼレンスキー大統領、そしてザルジニー総司令官、及びウクライナ国家に向けて言う。
我々には、後方からの攻撃から身を守る十分な防御がない。我々を守ってくれる重火器と、まともな司令官がいないのだ。我々はすでに2週間も必要なものの増強を待っている。我々には確実な死が待っている。
我々の部隊には戦闘の指揮官はいない。装備もない。兵士への尊敬の念もない。まったくなにもない。我々は国を守ることを拒否するものではない。ただ、まともな装備と指揮官がほしいのだ。これは我々だけの状況ではない。同じような部隊はたくさんある。
我々は第115旅団で任務に就くことを拒否する。ウクライナに栄光あれ!」
これが最前線で戦うウクライナ軍の一般的な状況であるのかどうかは分からない。しかし、この第115旅団と先に紹介した「領土防衛隊」の中隊長の発言は同じ内容なので、少なくともこれは、激戦地の東部ドンバス地域で戦っているウクライナ軍全体に共通した状況かもしれない。
もしそうであるなら、ウクライナ軍の苦戦もよく理解できる。必要な装備と指揮官の不足により、戦闘の継続が難しくなっているのだ。
このような状況を認めるかのように、5月27日、ウクライナ政府も3カ月に及ぶ戦争の勢いを一変させた東部でのロシア軍の進撃を避けるため、ルハンスクにある最後の抵抗拠点から撤退する必要があるかもしれないと発表した。
撤退すれば、ロシアは、ルハンスクとドネツクを完全に征服するという目標に近づくことになる。
西側のトーンの大きな変化
ウクライナ軍の劣勢とロシア軍の攻勢を受けて、これまでウクライナの勝利を確信していた西側の態度にも変化が見られ始めている。そのきっかけとなったのは、キッシンジャーの発言である。
5月23日、キッシンジャーは、スイス東部ダボスで開かれている「ダボス会議」にオンラインで参加した。そしてウクライナ情勢について「今後2カ月以内に和平交渉を進めるべきだ」との見解を示すとともに、「理想的には、分割する線を戦争前の状態に戻すべきだ」と述べた。また「ロシアが中国との恒久的な同盟関係に追い込まれないようにすることが重要だ」と強調した。
この「戦争前の状態」という言葉は、ロシアが2014年に併合したウクライナ南部クリミア半島や、親ロ派勢力が支配する東部ドンバス地方の割譲を意味するとの受け止めが広がった。要するに、停戦合意をするためには、ウクライナにも一定の領土の妥協が必要であると示唆したのだ。これはウクライナの妥協なしに停戦はあり得ないとする認識だ。
また、「ニューヨークタイムス」も5月26日に「どのように終わるのか?ウクライナの勝利の定義をめぐって生じた亀裂」という題名の記事を掲載した。そこには次のようにある。
「ゼレンスキーは、ロシアを大規模な侵攻が始まる前の2月23日時点まで押し戻したい、と何度も言っている。そうして初めて、ウクライナはロシアと停戦と和解について再び真剣に交渉する準備ができる、と彼は言っている。
しかし、欧州の高官や軍事専門家の中には、こうした目標でさえ野心的だと考える者もいる。そのためには、ウクライナはケルソンと破壊されたマリウポル市を取り戻さなければならない。クリミアへの陸橋からロシアを追い出し、ドネツクとルハンスクの大部分をロシアに併合させないようにしなければならない。(中略)
多くの専門家は、それがウクライナの能力を超えていることを懸念している。ウクライナは戦争の第一段階で目覚ましい成果を上げたが、ドンバスは全く違う。通常、攻勢に出るには、武器は別として3対1の兵力の優位性が必要だが、今のウクライナにはない。ロシア軍は、高い犠牲を払ってでも、ゆっくりと、しかし少しずつ前進している。」
これは要するにウクライナには勝ち目はなく、ロシアが目的を実現するだろうと予測した記事だ。
ウクライナの勝利が困難なことを匂わせる発言は、米統合参謀本部議長のマーク・ミリー将軍も行っている。5月24日、フォックスニュースとのインタビューで、ロシアとウクライナの戦争がどのような結末になるのか聞かれて、次のように答えた。
「いま我々は、ウクライナ軍とロシア軍のドンバスで起こっている非常に重要な作戦の結果が出るのを持っています。今後数週間でどのようになるかで、おそらくこの戦争の結果が決まるでしょう。
戦争は延々と続く可能性があります。最終的には膠着状態になるかもしれません。また反対に、どちらか一方が決定的な勝利を収めることになる可能性もあります。さらに和平交渉で終わる可能性があります。交渉した結果は論理的な選択ですが、双方が自分たちでその結論に到達しなければならないでしょう。
これはウクライナとロシアの間の戦争です。これが戦場でどのように終わるかは、ゼレンスキー大統領とプーチン大統領によって決定されるでしょう。」
これは米統合参謀本部議長のマーク・ミリー将軍自らが、ロシアの勝利の可能性を示唆した発言として話題になっている。
やはりジャック・ボーの言う通りか?
このように見ると、このメルマガの第694回の記事で詳しく紹介したスイス参謀本部の元大佐で、NATOの小火器拡散防止チームの責任者としてウクライナをモニターしてきたジャック・ボーや、米軍の情報将校出身で国連の核査察官だったスコット・リッターの分析が結局正しかったことになるだろう。
%%%%%
【関連】「ウクライナ勝ち確」は本当か?日本メディアが報じない、海外専門家3名が語る戦況=高島康司
久しぶりのお風呂が怖すぎてお漏らししちゃった猫がこちらです…

モンスタ、儂の愛情〜0.2(数学)、築城そして即位(西暦667年)、

(本ブログは月木に更新されます。コメントはryuuzaki_i@yahoo.co.jp へ)
(写真;日本人のボクサが世界をうならせる。凄い事です。井上尚弥がドネアに2回TKO勝利‼️【フル】 Naoya Inoue vs. Nonito Donaire - Full Fight Highlights


 唸(うな)るしか この驚きを 表せぬ あまりの強さに 言葉が出ない

 この試合の解説を視聴しました。ボクシングにはきちんとした理論があり、単なる殴り合いではないことが良くわかります。左手でジャブを繰り出すときには右手はどのような位置にあるのかなどです。そうではあってもこの井上ボクサはそうした常識を超えていると解説者は語ります。
井上vsドネア2 もう凄すぎて勝手に結論づけてみた : 井上尚弥には○○が通じない

関連:試合解説】井上尚弥VSドネア△鮓て、井上尚弥はまだまだ伸びる、伸び代しかない、具志堅

関連:【大勝利】ぶっちゃけ生配信では語りきれない井上尚弥対ドネア戦について、竹原

+++++2022年2月24日以前のウクライナ
 日本国内での「ウクライナ紛争」の特異な様相は「鬼畜ロシアと涙のウクライナ」報道です。リベラルとして政府に批判的な言動を公にしてきた「インテリ」さんたちの多くが今般の紛争を侵攻国ロシアと愛国に立ち上がる勇敢なウクライナ国民たちであると捉えます。したがって「停戦」はウクライナ愛国者の涙の敗戦であるとして、停戦に反対するのです。こうして失わずにすんだ無辜のウクライナ国民の命が奪われることはやむを得ないと主張するジャーナリストもいます。
 今般の紛争が2月24日以降に突然開始したのであれば、それは正しいのかもしれません。しかし、紛争の実相は少なくとも2014年以来八年間にわたって続いてきたウクライナ国内の親ロシア国民と米国に後押しされたウクライナ政府との間の流血の葛藤であったのです。以下の動画は、その2月24日以前の実相の一端を語ります。
 このところ、篠原常一郎氏による動画をしばしば掲載しています。氏が語っていることは事の真相に近いのであろうと考えるからです。しかし、下の動画を見ると最後のほうで、「安倍首相(当時)がウクライナ大統領(ゼレンスキ氏ではない)に耳元で東部ロシア系住民への虐殺を止めるようにと助言した」とのエピソードを篠原氏が語っています。私は氏自身が目撃したとは思えないので「胡散臭い」話であると思っています。篠原氏および氏と関係するいくつかの政治談議動画で、山口敬之氏が登場します。山口氏は伊藤詩織さん暴行の嫌疑で逮捕されるはずでした。ところが、安倍氏と親密な関係であったため逮捕をまぬかれたことは周知の事実です。上記の安倍氏に関るエピソードを篠原氏が自らの動画に加えたことは、氏の政治的スタンスの表明であろうとも思っています。念のために付け加えておきます。
/01/22オレの話し。馬渕大使と語り合うウクライナふんそう、あばれる右派セクター私兵、海自中東派遣で意見交換


+++++敗戦直後の土木工事
 西暦608年の隋皇帝による視察官の倭国派遣が“激動の七世紀”を招いたことを縷々書いてきました。このほぼ一世紀にわたる激動の内実は七世紀末から八世紀初頭にかけての奈良権力(「大和王朝」と自称するようになった)による蝦夷征討で終わりを告げることとなります。この激動の一世紀について藤原不比等は日本書紀の記載を通じて後世の人たち(公家・僧侶などの知識人)を誤った(史実とは異なる)理解に導こうとしていると現ブログ管理人は書いてきました。それは「隋」との交流を明記せず、その代わりに「聖徳太子」を『正史』に持ち込んだことです。私は聖徳太子は倭国王即ち景行天皇を念頭に置いて藤原不比等が作り出した人物であり、正史では大山誠一氏が自著「聖徳太子の誕生」(吉川弘文館、1999年)で書くように蘇我馬子であろうと考えています。

 隋に使節を派遣したこと、隋からの視察官を受け入れたことは、「奈良権力」の事績ではない。したがって、それを書紀に明記しなかったことは、藤原不比等にとっては「史実の隠蔽」ではないとのexcuseはありえるのです。もっとも、それを明記することは藤原不比等が日本列島のそれまでの支配機構を国外の勢力の軍事力で持って転覆したことを正史にあらわに書き込むことです。さらには、八世紀以降に構築されるあらたな「天皇教」とでもいうべき宗教体系の正統性への疑念を生ぜしめます。

 上記のような藤原不比等の思惑に鑑みて、海戦敗戦直後からの「天智紀」の慌しい土木作業の主人公は、倭国側の行為ではなく、そのまま奈良権力の事業であったのです。その意味では記紀は事実を書いていると思います。しかし、繰り返しますが土木工事が想定する敵について、誤解を生ぜしむる書き方をしているのです。実際、殆どの学者先生は、「敵は唐・新羅」であると断言します。現ブログ管理人は「想定する敵は九州の倭国勢力である」と主張します。戦勝国である唐・新羅連合軍の倭国駐留本部である「都督府」が大宰府にありながら、倭国が唐・新羅連合軍の侵攻を防ぐための防御対策のための建造物を設置し、さらには菟道(とみち、宇治ではない)などの既存の構造物の点検をするなどは考えにくいことです。
 下にまとめた天智三年〜六年にわたる土木工事は上記の視点から眺めてこそ納得が行きます:
%%%%%日本書紀天智天皇三年紀

天智天皇三年(六六四)
   十二月乙酉【十二】》◆十二月甲戌朔乙酉。郭務悰等罷帰。
   ◆是歳。於対馬嶋。壱岐嶋。筑紫国等、置防与烽。又於筑紫、築大堤貯水。名曰水城。
天智天皇四年(六六五)
   秋八月。遣達率答砵春初、築城於長門国。遣達率憶礼福留。
   達率四比福夫於筑紫国、
   築大野及椽二城。』耽羅遣使来朝。
   九月庚午朔壬辰【二十三日】◆唐国遣朝散大夫沂州司馬馬上柱国劉徳高等。
   〈等謂右戎衛郎将 上柱国。百済将軍朝散大夫上柱国郭務悰。凡二百五十四人。
   七月二十八日、至于対馬。九月二十日、至于筑紫。二十二日、進表函焉。〉
   十月己酉【十一】◆冬十月己亥朔己酉。大閲于菟道。
   十二月甲戌朔乙酉【十二日】◆郭務悰等が帰国。

天智天皇六年(六六七)
   十一月丁巳朔乙丑【九日】◆百済鎮将劉仁願
   遣熊津都督府熊山県令上柱国司馬法聡等。送大山下境部連石積等於筑紫都督府。
   十一月己巳【十三日】司馬法聡等罷帰。以小山下伊吉連博徳。
   大乙下笠臣諸石為送使。
   十一月是月 築倭国高安城。讃吉国山田郡屋嶋城。対馬国金田城。
%%%%%

 さて、唐・新羅連合軍に庇護されて、中大兄は奈良政権のトップに立ちます。日本書紀が語らないところを歴史学者は勝手に想像して、「中大兄」は何がしかの事情を考慮して斉明女帝死後七年間に渡って「あえて」天皇に即位しなかったのだと断定し、あれこれの想像で理由を語ります。
%%%%% 日本書紀
「《天智天皇七年(六六八)春正月丙戌朔戊子【三日】皇太子即天皇位。〈或本云。六年歳次丁卯三月、即位。〉
%%%%%
 しかし、上掲の一節は、中大兄が「奈良王朝」を正式に立ち上げ、そのトップに立ったこと、それにくわえて最高位の呼称を「天皇」としたことなのです。一方、倭国にあっては斉明女帝亡き後、「王」は多分葛城皇子が「代行であるか否かはさだかでありませんが、その任にあったのです。一方、奈良の集団はいわば唐・新羅の傀儡であったという立ち居地から「奈良王朝」とでも呼べる立ち居地に立ったということです。
 こうした周囲の状況の変遷の中で。倭国の側は陣屋を熊本県中部の「大津」に移して、反転攻勢を期した筈です。葛城皇子を首領とし、大海皇子をその補佐役としたのでしょうか。しかし、唐・新羅連合軍による軍事的圧迫が原因となったのか、二人の関係に不和が生じたのかもしれません。結局葛城皇子は倭国の一線から身を引くということになったのかもしれません。このあたりの真相は全くわかりません。いずれにせよ、こうして「壬申の乱」は始まりました。
(つづく)

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+++++数学の話
 前回、文系大学の入学試験問題に数学が『復活』したという話題を紹介しました。論理的思考の涵養の重要性に鑑み、その問題も「計算」ではなく、文意の把握からそれを数式で表現するという入試問題が例として取り上げられていました。
 ところで210321記事”現今の三大噺(地震、Pi(パイ)、ウクライナ)” で、What is  PI?” (livescience )
なる記事を以前紹介しました。この記事の末尾で“11 numbers that are cooler than pi"と題する記事を紹介しています。それが以下の11の数です。
Tau (2π) [3月14日がパイの日、6月28日はタウの日ということになります]
Natural log base (e) [技術屋にとってまことに便利な数です。微分しても形が変わりません]
Imaginary number i (i) [この数の奥深さをきっちりと解説した本がなかなか見つかりません]
i to the power of i (i の i 乗:i^i) [ 儂(私=”I")の愛情はいくつか?という謎々です]
Belphegor's prime number 悪魔の素数 1 0(13) 666 0(13) 1 [0が13個続くということにはさしたる意味はありません]
2^{aleph_0} 数の集合の濃度 [数学者というものは庶民にはわからない発想をします。即ち、異なる無限の「大きさ」を論ずるのです」
Apery's constant zeta(3) リーマンのz-関数
The number 1
Euler's identity  e^{i*Pi} + 1 = 0 [技術屋にとってはありがたい公式の出発点]
The number 0
The square root of 2

 ここではい鯆めることにします。SCILABという市販の科学技術計算ソフト上では以下のようになります。
--> ai=complex(0, 1);
--> b=ai^ai;儂の愛情(^は”べき乗”をあらわす記号)
b = 0.2078796
 ところで、上記は以下の値を取ることがわかります。
220609愛の愛情

 上記式を使って検算したものが下です(下品な話ですが、「儂の愛情はイーパイ」で表現できる)。
%e = 2.7182818
%e^(-0.5*%pi) = 0.2078796
イ砲弔い討亘椒屮蹈阿任發燭咾燭咾修譴鬟優燭砲靴討ました。下の例は隣り合う素数の間隔を考察したものです。
 160316日記事”先達による飯豊王考察(1)、素数分布(1、科学米国誌より)”
以下は関連する図です:
隣り合う二つの素数の間隔分布
隣り合う素数の間隔分布 20まで
隣り合う素数の間隔分布の素数の大きさによる依存性
素数が大きくなるほど、隣り合う素数の間隔は広がる

「大津遷都前後」、元外交官のロシア観、大学入試数学

(本ブログは月木に更新されます。コメントはryuuzaki_i@yahoo.co.jp へ)
(写真:用水の金網柵で物思いにふける鴨。拡大は図のクリックで)
鴨1121

(写真:六月はアジサイです。しかし旧暦ではそれは五月の花です。拡大は図のクリックで)
あじさい1115

  俳人は 皐月にあじさい 連想す なんと水無月 梅雨の月なり

 新暦では六月はまさに梅雨時。雨の月です。しかし、旧暦では雨が上がる月なんですな。 
おいおい、それは無いだろうと思わず声を荒げてしまいました。 
%%%%%日銀総裁「家計が値上げを受け入れている」 6/6(月) 14:55配信
産経新、日銀の黒田東彦総裁
日本銀行の黒田東彦総裁は6日、東京都内で講演し、商品やサービスの値上げが相次いでいることに関連し、「日本の家計の値上げ許容度も高まってきている」との見解を示した。さらに、持続的な物価上昇の実現を目指す上で「重要な変化と捉えることができる」と指摘した。
家計が値上げを受け入れ始めた背景として、黒田総裁は「ひとつの仮説」と断った上で、新型コロナウイルス禍による行動制限で蓄積した「強制貯蓄」が影響していると指摘。「家計が値上げを受け入れている間に、良好なマクロ経済環境をできるだけ維持し、賃金の本格上昇につなげていけるかが当面のポイントだ」と述べ、強力な金融緩和を継ける考えを強調した。
講演中、対ドル円相場は1ドル=130円台後半で推移。黒田総裁は「安定的な円安方向の動きであれば、わが国経済全体にはプラスに作用する可能性が高い」との見解を改めて示した。
10日には、訪日外国人客の受け入れが再開される。これについて、黒田総裁は「感染症による強い下押し圧力を受けてきた地方の中小サービス業企業にメリットをもたらす」と期待感を示した。
%%%%%

+++++ロシアを考える人たち
 依然として我国の大手メディアは今般の紛争を報じるにあたり、”ロシアの劣勢と意気盛んなウクライナ”を報じています。
(図:STATISTA より。拡大は図のクリックで)
220606UkurainaFUhInhmWIAAF2CW

 上の図を見ただけで、米国がまさにウクライナに替わってロシアと戦争をしている。即ち今般の紛争はウクライナを舞台としたロシアと米国の戦争という構図を示しています。
 以下のような記事もあります。この紛争については米英による巨大なプロパガンダが世界を席巻してきたために、なかなか別の視点からの論評が報道されてきませんでした。下記はその別視点からの信頼できる情報と(わたくしは)考えています。
参考記事:(青字をクリックすると本分を詠むことができます)
%%%%%ロシアの優勢で一段落しているウクライナ 2022年6月4日   田中 宇

 ロシアを含む東欧域外交官活動をされてきた馬渕睦夫氏が思うところを語っています。氏の語る所の全てに同意できるというわけではありませんが、興味深いので以下に転載しておきます:
(
馬渕睦夫×篠原常一郎】“世界の秘密を解く最大の鍵”これを必ず皆さんは理解しておく必要があります

関連:【馬渕睦夫×篠原常一郎】日本人はほとんど知らない,教えられない”●●問題の真相"

関連:【馬渕睦夫】お気づきでしょうか?今必要以上にメディアから批判されている人を見れば世界の●●が分かります【ひとりがたり】

+++++白村江海戦に敗戦後の築城
 日本書紀が「近江」と書く遷都先は、万葉集二十九歌では「大津」と書きます。万葉集初期歌群には藤原不比等の影響が全く無いと思われるので、二つの文献の信頼度を比較するならば万葉集がより信頼できると私は考えています。「近江」なる表記は異端の古代史研究者と評されてきた古田武彦氏も指摘するように藤原不比等が「近見」(熊本県中西部)なる地名から思いついたのでしょう。
 この遷都を「実行」したのは中大兄であると、古代史研究者・専門家は断じます。理由は唐・新羅連合軍によってこれまでの「陣屋」が攻撃されるとの危惧からであると説明します。奈良盆地から、高々60kmほど北の琵琶湖畔に移って、その危惧が緩和されるとは思えません。先日TBS・BS番組(関口宏司会)で二人の古代史学者が、そのことを論じていましたが、「・・・と思う」と自らの発言を締めくくります。研究者といえども琵琶湖畔への遷都について確たる理由に見つけかねているようです。

 私は以下のように考えています。倭国では、偉大な指導力を発揮した「斉明女帝」が死去したので、「王」となる人物は「葛城皇子」(日本書紀は「後の天智天皇すなわち中大兄と同一人物」とするが、これは読者を誤誘導する意図的・作為的書き込みと私は考えています)か、または「大海皇子」です。この二人が共同で倭国の民の統率に当たっていたのか、それとも葛城皇子が王として君臨していたのか、日本書紀からは読み取ることはできません。いずれにしても大宰府に唐新羅連合軍の司令部である「都督府」が設置されたのですから、倭国政庁は其処から隔たった地に移さざるを得ないのです。

 遷都の五ヵ月後、に以下の記事があります。
「八月。皇太子幸倭京。」
紛らわしい「一節」です。孝徳天皇即位に当たって「皇太子」を叙せられたのが『中大兄』と日本書紀は書きます。倭国の側は「天皇」つまり「王」が不在で「タフリ(ペルシア語の後継者、隋書倭国伝より)」が誰であるかも定かでありません。したがって、ここでは「皇太子」は奈良権力の首領である「中大兄」と考えておくことにします。どうやら、この人物が倭国勢が退去した「京」(みやこ)の占拠行動を率いたのでしょう。「京」は言うまでも無く、隋皇帝が派遣した『倭国視察官』一行(西暦608年)が招じ入れられた地、即ち現在の福岡県京都郡の御所ヶ谷です(220414記事”隋視察官が宿泊した京(6)、ウクライナ紛争を冷静に語る矢野義昭元陸将補”)。倭国陣屋(政庁)は肥前国、筑前国・朝倉などを遍歴し、海戦の敗戦前には再び『京』に戻っていたのかも知れません。天智天皇にしてみれば、敵国(倭国)の拠点のひとつを奪取したということです。

 奈良権力は進駐軍たる「唐\・新羅」軍事勢力に庇護されて、「倭国」反乱の防御対策に乗り出します。その一つが上記の「倭京」への軍の駐屯です。こうした倭国拠点の確保は遷都に先立って着々と進んでいます。遷都に先立つ三年前の西暦664年の記事として日本書紀は以下を書きます。この年は白村江での敗戦の翌年です。
%%%%%日本書紀天智天皇三年紀
原文:
《天智天皇三年(六六四)十二月乙酉【十二】》◆十二月甲戌朔乙酉。郭務悰等罷帰。
(中略)
《天智天皇三年(六六四)是歳》◆是歳。於対馬嶋。壱岐嶋。筑紫国等、置防与烽。又於筑紫、築大堤貯水。名曰水城。
《天智天皇四年(六六五)八月》◆秋八月。遣達率答〓[火+本]春初、築城於長門国。遣達率憶礼福留。達率四比福夫於筑紫国、築大野及椽二城。』耽羅遣使来朝。
《天智天皇四年(六六五)九月壬辰【二十三】》◆九月庚午朔壬辰。唐国遣朝散大夫沂州司馬馬上柱国劉徳高等。〈等謂右戎衛郎将上柱国。百済将軍朝散大夫上柱国郭務悰。凡二百五十四人。七月二十八日、至于対馬。九月二十日、至于筑紫。二十二日、進表函焉。〉
《天智天皇四年(六六五)十月己酉【十一】》◆冬十月己亥朔己酉。大閲于菟道。

文意(「岩波文庫日本書紀(五)」34頁より)
《天智天皇三年(六六四)十二月甲戌朔乙酉。【十二日】◆郭務悰等が帰国。
(中略)
是歳 対馬嶋、壱岐嶋、筑紫国等、防与烽を置く。又筑紫に大堤貯水築く。水城と称する。
天智天皇四年(六六五) 秋八月。達率答炴春初を遣して長門国に築城させ、達率憶礼福留、達率四比福夫を遣して筑紫国、築大野及椽に二城を築かせる。』耽羅遣使来朝。
九月庚午朔壬辰壬辰【二十三日】 唐国が朝散大夫沂州司馬馬上柱国劉徳高等を遣す〈等謂右戎衛郎将上柱国。百済将軍朝散大夫上柱国郭務悰。凡二百五十四人。七月二十八日、至于対馬。九月二十日、至于筑紫。二十二日、進表函焉。〉
冬十月己亥朔己酉【十一日】大于菟道を閲する。
%%%%%
 進駐軍の司令官たる郭務悰が七ヶ月の倭国滞在の後一旦帰国します。持参した「表函」の中身は、倭国攻略に先立って奈良権力との間に交わされた「協定」の履行をせまるものであったでしょう。当然、相当数の軍幹部と従兵が帯同したはずです。かれらはそのまま倭国に残留していたと想像するのが自然です。なにせ、終戦からわずか一年のことです。
 上掲の文節の最後のそれは、以下の記事と関係しています。そこで下に掲載する文節群を合わせて考察することにします。それを日本書紀は以下のように書きます:
%%%%%日本書紀・天智天皇六年十月十一月紀:
概要(原文省略、岩波文庫「日本書紀(五)」40頁より)
天智天皇六年(六六七)十一月丁巳朔乙丑。【九日】◆百済鎮将劉仁願遣熊津都督府熊山県令上柱国司馬法聡等。送大山下境部連石積等於筑紫都督府。
十一月己巳【十三日】司馬法聡等罷帰。以小山下伊吉連博徳。大乙下笠臣諸石為送使。
十一月是月 築倭国高安城。讃吉国山田郡屋嶋城。対馬国金田城。
%%%%%

 学者先生の考えは本ブログ管理人の考えと異なります。この築城は唐・新羅からの倭国の防衛と考えています。すなわち、この文節について多くの古代史専門家は次のように解説します。
「白村江の海戦で勝利した唐・新羅連合軍が余勢を駆って日本列島全域、とりわけ奈良盆地にまで軍事侵攻を広げることを危惧し、中大兄(のちの天智天皇)は、その防御のために各地に城を築いた」と(200623記事”天智天皇の土木工事、太郎ちゃんの演説、黒川弘務氏(平野貞夫氏)”)。
 学者先生方はその理解にことさら問題あるいは疑念を意識しません。しかし、そうではないことを次回書きます。
(つづく)

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+++++数学教育
 「三角関数不要論」を“つぶやい”たどこぞの大臣が一時期ネット上で炎上しました。確かにサイン、コサイン・・・は技術系の仕事に関る人間をのぞけば、社会では殆ど使いません。そうではありますが、この炎上がきっかけとなって、「数学」教育を取り上げる議論をのせるメディアも出てきました。また一時期文系の大学入試で試験科目からはずされていた数学を復活させるなどの変化も出ています。そんな中興味深い記事を見つけたので以下に転載しておきます:
%%%%%私大文系の「数学不要神話」が崩壊 これからの大学受験に求められる力とは 6/2(木) 8:00配信
いま、中高の数学教育が激変しています。たとえば幾何の立体を学ぶ単元では3Dプリンタを用いたり、生徒同士のディスカッションや探求を深める「教えない数学の授業」を取り入れている学校もあります。 それと時を同じくして、早稲田大学の看板でもある政経学部など、文系でも数学を必須とする私立大学が増えはじめたことにより、「私文(私立文系)なら数学を捨てられる」といった受験戦略が崩壊しました。 ここでは、激変する数学教育の今を追った宮内さおり氏のルポ『データサイエンスが求める「新しい数学力」』より、大学受験にまつわる箇所をピックアップしてご紹介します。 大学入試改革ショック ロボットなどの技術革新とグローバル化を迎えた社会を背景に、大学入試にも大きな変化が起こっています。特に顕著になっているのが首都圏の難関大学における変化です。 各大学が行う入試をどのように変更するかは、それぞれの大学に委ねられており、これまでも小さな変化は起こっていました。しかし、2021年度の共通テスト導入など、全体的にインパクトを与える動きが最近いろいろと出てきたのです。 難関私立大学が合格者数を減らしてくるなど、いくつかの要因が重なり、ここ数年の大学入試は“入試改革ショック”と言えるような状況が続いてきました。いったいどういうことが起きていたのか、少し詳しく見てみましょう。 最近の大学受験において苦渋を飲んだのが2018年度と2019年度の入試に挑んだ生徒たちです。文科省が大学定員厳格化を促した通達を発端に、難関私立大学では合格者数を大幅に減らす動きがありました。また、2020年度入試まででセンター試験の廃止が決まっており、学生や保護者の中には大きな不安が生まれていました。浪人すれば新しい形式の入試に挑まなければならないことになるからです。 「基礎学力が安定していれば、問題形式が変わっても解けるはず」という声ももちろんわかります。しかし、基礎学力があったとしても、問題形式が変わるとなれば、それなりの訓練が必要です。バレーボールの練習をしてきたのに、試合の直前に出場競技がいきなりバスケットボールになりましたと言われたら、同じ球技とは言え、いくら運動神経の良い子でもパフォーマンスに差が出るのは当然でしょう。 同じくらいの状況が今回の入試改革だったと思います。スポーツで言えば、使う筋肉が違ったり、使い方が違ったりするのです。教育について、国が掲げる「育成を目指す資質・能力」というものがありますが、その柱の1つとして、「思考力、判断力、表現力」ということがより強く言われるようになりました。そして、センター試験と比べて共通テストはこれらの力がより求められる問題に変わったのです。
(図:令和3年度共通テスト数学I・数学Aより。拡大は図のクリックで)
220606数学a無題

初めての共通テストとなった2021年度(令和3年度)入試の問題を見ると、数学の問題では、中高一貫校の適性検査型入試でおなじみの太郎さん花子さん問題が出されていました。問われる内容はこれまでのセンター試験とさほど変わらないのですが、国語のように文中にある穴を埋める形式になっているため、読解力が求められました。もちろん、数学的知見がなければ答えを導き出すことはできませんが、読解力も求められたのです。
(図:令和3年度共通テスト数学I・数学Aより。拡大は図のクリックで)
220606数学b無題


(図:令和3年度共通テスト数学I・数学Aより。拡大は図のクリックで)
220606数学c無題

そして、各大学で実施する入試についても変化が見られます。共通テストの実施に合わせたかのように、入試科目を変更する大学もありました。また、早稲田大学の看板学部、政治経済学部が共通テストの数学の受験を必須にしたのは大きな話題となりました。これにより“私立文系は数学ができなくても合格できる”という神話が崩れることになりました。
(図:令和3年度共通テスト数学I・数学Aより。拡大は図のクリックで)
220606数学d無題

早稲田大学総長の田中愛治氏は、2020年に行われた「週刊東洋経済」の取材に対し、全学に数学入試を導入することは2〜3年前から議論していたと回答しています。そして、政経の入試で数学を必須にしたのは、入学後の勉強に必要な基礎学力として、数学が必要だからだと述べています。
実際、政治学の分野でもデータ科学的な研究が行われるようになっています。元々数学的素養が求められることの多かった経済学部に加え、すべての学部でデータを使った研究が進められています。もはや数学は大学生である以上、知っていて当然、活用できて当然の必要不可欠な科目となりつつあるのです。 宮本 さおり(みやもと さおり) 教育・子育て分野を中心に執筆するジャーナリスト。同志社女子大学卒業後、地方紙記者として文化・教育紙面を担当。2004年、夫の留学に伴い渡米し、シカゴにて第一子の子育てに専念。2008年から教育、子育て、ワークライフバランス分野を中心に取材活動を再開。2015年より老舗中学受験雑誌『私立中高進学通信』で外部記者として学校取材を担当。 近年は「AERA」や「東洋経済オンライン」などで執筆。「東洋経済オンライン」のルポ連載「中学受験のリアル」は毎回人気記事ランキングにランクインする人気連載に成長。2019年、親子のための中等教育研究所を設立。「東洋経済オンラインアワード2020ソーシャルインパクト賞」受賞。プライベートでは大学生と小学生の子を持つ母。 中村 力(なかむら ちから) 北海道大学大学院理学研究科修了。公益財団法人 日本数学検定協会 学習数学研究所 研究員。日本数学検定協会において、「ビジネス数学検定」と「データサイエンス数学ストラテジスト」資格試験の立ち上げに全面的に関わった。著書に『完全ガイド!  数学検定1級 出題パターン徹底研究』(森北出版)、『ビジネスで使いこなす「定量・定性分析」大全』(日本実業出版社)などがある。 宮内 さおり(ジャーナリスト)/中村 力(日本数学検定協会 学習数学研究所 研究員)
%%%%% 協力:日本実業出版社 Book Bang編集部 2022年5月23日 掲載
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