長い無沙汰をしてしまいました。この前の参詣は何時の日であったか?久しぶりに訪ねた境内、掲示板が賑わいを見せているようで何よりでありますな。本日は、ホロコーストについての問答をさせていただきたく参詣に参ったしだいであります。まずは、ご住職様のホローコースト講話の拝聴から。http://www.marino.ne.jp/~rendaico/daitoasenso/taigaishinryaku_horocoosto_yamasakironco.htm
講話の中で、山崎かおる、三鷹板吉氏といったホロコースト信者の言辞が詳しく引用されています。私、それに似た言辞を何処かで最近読んだ気がするのでありますよ。どこであったかと考えておりまして、充分長い時間経過の後やっと思い出したんであります。山椒魚と称する経済学者による不破氏の資本論講読「批判」でありました。 以下にその一部を引用します(宮地健二氏のHP http://www2s.biglobe.ne.jp/~mike/sansyouo.htm)――――
 それに、どうみても不破氏のこれら著作の水準は、アマチュア研究者の域を出るものではなく、学問的批判にたえるものではないだろう。不破氏を学生時代からよく知る友人の原論学者O君に「鳥なき里のコウモリということかな」と電話で話したら、「全く同感だ」という返事がかえってきた。本部勤務員その他を前に得々として「講義」する神経がわからない、やるなら内外の資本論研究者に呼び掛けて公開討論の場を設けたらどうだ、ともいっていた。また、在野で独創的な国家論研究をいまも続けているT君は、「『資本論』全三部を読む」を、「論語読みの論語知らずだな」と一刀のもとに切り捨てていた。いずれにしても全巻すべてその内容は、お世辞にも「独創的」などとはといえず、あいかわらず折衷主義的で冗漫かつ平板な解説の域を出ていない。(中略)だが、その内容はとても「学術講演」などとはいえぬお粗末なもので、その全部につきあう気には到底なれない。一言でいえばこれはまさに「老害」の典型、天下にその「老醜」をさらしたものといってよいだろう。(後略)
引用終わりーーー
私は考えるのであります。これは批判という代物ではありませんな。ただのあてこすり(いやみ)としか読めんのですわ。日本のマル経学者のなんとケツの穴の小さい事よ。素人さんが一生懸命、自分なりの辞書まで作って読み、彼なりの理解をし、身内の者に語って聞かせてるに過ぎないことでしょうが。その語りに誤りがあったとしても、損するのは彼ら不破氏を教祖とあがめる人達だけでしょう。山椒魚氏は宮地氏が紹介する如くさぞかし立派なアカデミズム世界の学者さんなのでありましょう。しかし、自らのアカデミズムの立場を笠に来ての素人さんに対して揶揄を飛ばすスタンス、それはいただけませんな。
さて、ホロコースト否定派に向かって三鷹板吉氏が下記http://www.marino.ne.jp/~rendaico/daitoasenso/taigaishinryaku_horocoosto_mitakaronco2.htm
のように語るとき、三鷹氏の素人さん蔑視が透けて見えるどころか、丸見えでありますね。
―――引用(三鷹板吉氏)

 「アカデミズムの学者たちの『定説』と矛盾する『異説』に対しては、問答無用で『嘘』と決めつけ、シャットアウトする というのが一つの方法。こういう一見乱暴な方法論が通用するからこそ、アカデミズムはアカデミズムたり得るのです。逆に言えば、もしもいくらかなりとも可 能性が ある『異説』だったならば、フツー人よりずっと先に、アカデミズムの学者の誰彼が主張して、学者間で『論争』が発生しているはずです。いまだ論争中の問題 は 『定説』とは言えません」。

―――引用終わり
私は言いたい。学問研究(アカデミズムと読み替えてよいかどうか定かでないけれども))とは、「疑問の発生」を契機とする知的好奇心に駆られて「調べ」「読み」「考察」「書く」作業でしよう。誰でも関われる作業です。大学でやる作業がアカデミズムであり、大学外で行う作業はそうではないとの思い込みがこうした自称「サヨ」の方々にはあるんですかね。こういう文章の背後にはなにやら嫉妬やら羨望やらを嗅ぎ取れないでもありませんな。
それにしても、こういう品格に欠ける人間を持ち上げてその文章を掲載する宮地氏も、そろそろK党批判のタネが尽きかけたということなのでしょう。その点、ご住職様のK党分析には深みがありますですよ。これはお世辞ではありませんよ。その深みは、ご住職様がなんにでも好奇心を持ち、首をつっこみたがる所にあると私は見ているのであります。それこそが学問の原点なんでありますから。そしてその調査能力は目を瞠らせられます。いささかほめすぎましたかな。
山崎、三鷹氏らが下記の様に語るとき、彼等は、学者研究者であったはずの自らを自己否定していることになりはすまいか?。
―――否定論者への対処法(引用はじめ)
「まともな論争ができる相手ではない。そういう相手の土俵に乗って議論することは、客観的には彼らの意図(=否定論の拡 散)に加担してしまいかねない」、 「ガス室があったかなかったかという議論をすると、否定派は際限なく『論拠』を繰り出し、都合が悪い事実には口をつぐ むか、まったく見当はずれの罵声を浴びせるだけである。ヴィダル=ナケが『否定派を相手に議論はしないが、否定派については議論すべきだ』と述べている が、私はこの意見に賛成である」。
―――引用終わり。
自分はアカデミズムの世界にいる事を暗に仄めかした上で、「お前さん方のような素人さんには難しい話だから、知らなくて、いいんだよ。私どもにまかせなさい」と言ってるんですね。市井の古代研究家をアカデミズムの古代研究者から全く相手にされない事を素人研究家は、大いに不満がり井沢元彦氏のようにいやみたっぷりの悪罵をアカデミズムに事あるごとに投げつけています。この関係と似ているのかも知れませんな。

ここで問われているのは、60数年前ホロコーストがあったのか無かったのかというきわめて単純なことなんでありますよ。この事件への哲学的認識が論議されてるのではないのでありますよ。物的証拠を精査し、諸事実を論理的に積み上げるという作業をやりゃあいいじゃないですか?ヨーロッパではそれが犯罪になるんだったら、そういうことのない日本は格好の研究環境じゃありませんか。それが学者さんの仕事だっぺ。木村さん、西岡さんは素人ながら自らの手でそれをおやりになり、そのえうで浮上した数々の疑問を、アカデミズムの世界の「専門家」に投げかけたんでしょう。それへの対応が「こまい事をグチグチいってくるのを相手にしたら敵の思う壺だ。相手にしないのが最良」とは!彼らは、この「相手にせず戦法」が実は「敗北宣言」である事に気付くべきでしょう。このビダル=ナケが開発した「戦法」は日本のホロコースト信者のさながらお守り袋のようであります。松浦寛氏もその著書「ユダヤ陰謀説の正体」(1999年)で、この守り袋をトクトクとかざし、何を言われても「疑いを」さしはさむべからずと読者相手に言ってのけます。情痴大学で教鞭を取るおヒトとは思えませんな。しかし、流石にこれだけでは、いかな読者も納得すまいと思ったのでしょう。そこで、まずは木村さんらの主張する「ホロコ?スト無かった」説は、一般常識人が全く相手にしない「トンデモ」話であることを、ねちっこく繰り返します。そこで用いられる言い回しは、品性を欠いたものです。こうした下品な表現を満載した本が一流本屋から出版されるのも不思議な話でありますな。

もっと不思議な事があります。ウエブでこの本の読後感を検索してみたんですな。10件ほどひっかかりました。字数が増えたので、詳細は次回の問答に書きますが、なんと、「トンデモ本」の接し方が分かり「ため」になったとの感想が多いんですな。「お前ら、何処に目をつけてんだ」とパソコン画面に向かって吼えたですよ。

それでは 又。