(PCおよび管理人が健常であるかぎり本ブログは月水金に更新されます。)
 10月28日に投票のあったつくば市長・市議選の結果について、まずは書き留めておきます。当選した市長の得票数が三万六千余票、二位、三位の得票数、いずれも一万六千票を越えました。つくば市で圧倒的支持を十数年前までは獲得していた元茨城県会議員の共産党候補はわずか六千票で最下位。同時に投票があった市議会選挙。今回市長選最下位得票した候補者は、かっては常に市議選上位当選の常連でした。然るに今回の選挙ではトップ当選がカナダ人帰化と思われる候補者五千余票に対して、共産党候補者は二十位、二十七位、二十八位(最下位当選)、三名合計の得票数が五千余票です。
 十数年前まで、この党は茨城県にあっては、国政選挙で総得票数は何時も最下位であったが、つくば市のみでは当選者に伍する得票を獲得していました。研究学園都市住民の高い知性が、共産党への高い支持を支えているなぞと党関係者は誇らしげでした。とするなら、最近の急激な支持の下落が意味するところを共産党中央は深刻に捉えるべきでしょう。
 党中央は、この急激下落を党員数・赤旗購読者の急激な減少に帰し、連日下っ端党員の尻を叩き、督励しています。急激な支持そして党員数減少の真の原因が党中央の政策・指導方針、政策的戦略・戦術の誤りであることは、党外の心ある人たちの一致した見方です。共産党幹部はそうした自らの過誤については頑なまでに言及しないのです。そして、八十を越えた老人特権大幹部が豪邸山荘から指揮を執る異常さ!一般党員がなぜ、これらのことを不審しないのか?「民主的組織」には考え難い事と思っています。 看過できないこと、そして憂うことは、共産党支持者といわれる300万余の有権者が、こうした共産党の犯罪的過誤に気づかず 、またしても国民が心から望む政治の転換という大事業に貢献し損なうことです。 

 弥五郎ドン あんたは一体 誰なんだ 倭国の隅に 潜む古代史
 
+++++大隈弥五郎ドン伝説
 前回、鹿児島県大隈町岩川に伝えられる巨人弥五郎伝説に触れました。小高い丘の頂上に立つ巨人像が周囲を睥睨しています。この弥五郎ドンについて、インタネットで見つけた記事を下に転載します:
yagoro

%%%%%インタネットで見た記事転載開始
http://www005.upp.so-net.ne.jp/a-kgs/yagoro.htm  
鹿児島県大隅半島の北西部,宮崎県と境を接する曽於(ソオ)地区の中心地,曽於市大隅町は,巨人伝説の「弥五郎どん」で知られる。
 町の中心地の小高い丘には,身の丈15メートル,腰の大刀9メートルという,巨人像が東を向いて建っている。
  弥五郎どんとは,いったい何者なのか。
  その昔,日本国においても今のアフガンのように各地をそれぞれの部族が治めていたが,南九州一体には,熊襲(クマソ)族・隼人族がいた。熊襲は古代大和朝廷に服することなく,たびたび争乱を起こした部族であり,隼人は大和朝廷に服属した熊襲の後身であるとされるが,定かではない。
 日本書紀には,「球磨曽於(クマソオ)」の地名が記されており,日向国風土記には「日向国曽於郡」という地名が出てきて現在の「曽於郡」につながるが,かつて大隅は日向国(宮崎県)に属していた。
 さて,弥五郎どんは,何者か?? いくつかの説があり,古くは熊襲の時代に遡る。
その1 大隅隼人の酋長説
 最後まで大和朝廷に服従しなかった大隅隼人酋長の大人弥五郎のことである。
その2 熊襲タケル説
日本武尊の熊襲征討を迎え撃った熊襲タケルのことである。
その3 武内宿弥説
武内宿弥という人は,天皇六代に仕えた長寿者で,現在,弥五郎どんを祭ってある大隅町岩川八幡神社の祭神の一人で海幸彦・山幸彦兄弟の親戚筋に当たる人らしいが,景行天皇から仁徳天皇まで六代というと300歳になるなど実像ははっきりしない。 
 地元では,この説が最も一般的に信じられているらしい。
その4 鎮西八郎為朝に討たれた熊襲の末裔説
 明治の初めに発行された「鹿児島神社誌」に鎮西八郎為朝が熊襲の大人弥五郎を追討にきて,その戦いぶりが記載されているという。
その5 720年の隼人反乱の首領説
 中央政府の圧迫に隼人族はたびたび反乱を起こしているが,特に700年,720年,740年の反乱は大規模だった。このうち,720年の反乱は,中央から派遣された大隅初代国司の締め付けに耐えかねて,これを殺害したことに端を発し,政府軍は圧倒的な兵力を持って臨んだが,頑強な隼人は屈せず,約1年間の激戦の後,ようやく平定された。この戦乱で田畑は荒廃し悲惨な状況にあったので,3年間ほど課役免除の措置がとられたという。今で言う税金の“納付猶予”というやつか。 で,このときの隼人の首領が大人弥五郎ではないかという。
%%%%%弥五郎ドン記事転載おわり

 上記で、(一)と(五)は南九州に跋扈したとされる「隼人」説です。私は、「隼人」については、現時点では自分の考えを持ちません。大分にある古社・宇佐神社の存在意図は隼人鎮魂のためとウイキペディアは書きます。私は、この説に同意しません。以前も書きましたが、平城京時代まで(八世紀半ばごろまでの)重要政治課題であった「九州権力残党の制圧・鎮魂」(敢えて九州王朝と書かないのは「朝」を用いることに正確さを欠くからです。)こそが、宇佐神社の存在理由であったろうと思うからです。
 (二)と(四)が「熊襲」説です。いずれ「熊襲」について詳しく考察しますが、私自身は「熊襲」族、または「球磨曽於」族なる部族は存在しなかったと考えています。古代九州の現地の民は「アイヌ」族であったろうと思っています。近く、「アイヌは原日本人か」(梅原猛・埴原和郎著、小学館、1982)などを引用しつつ、このことを考察します。「クマ又はカム」はアイヌ族にとって「人の背後にあって人を守護する」存在であり「熊」は其の「存在」の人間界への使者です。こうした宗教観を異国(北アジア)からの渡来者である「高・サカ」族は尊重した気配が万葉集の初期の歌群から読み取ることができます。
 一方、日本書紀に貫かれる「藤原不比等史観」構築では、こうした在来の宗教観が排除されねばならなかったのです。そのために在来宗教の最大ターゲットとして「クマ又はカム」を排除せねばならなかった。かくして日本書紀では、その打倒対象として「クマ」(そお)、「ツチ」蜘蛛(クモ=クマ又はカム)がこしらえあげられたのです。にも拘わらず、狡猾な藤原不比等は、あらたな宗教・信仰対象として中国の漢字「神」を持ち込み、それに「クマ」に似た「カミ」という音を付し、庶民をたぶらかしたと考えています。「くまそ」は不比等による在来宗教の破壊の象徴としての捏造された「ターゲット」であったと思っています。

 となると、弥五郎ドンとは誰か?これに関連して、本ブログ作成のきっかけを与えてくださった渡辺豊和氏が氏のHPで興味深い指摘をされています。それを次回紹介します。
(つづく)