(写真:昨日未明当地は雲が厚く十五日月(満月)を拝することができませんでした。今日こそはと期待したのですが、雲にさえぎられてしまいました)
P十六夜


 雲の間を うっすら黄色く 光らせて 十六(いざよい)の月 未明の西に


 前回掲載した図1で、一つ書き忘れたことをここに書いておきます。
 一番左のラインは袈裟丸山と埼玉県の志木(宮戸神社)と書きましたが、実際は古社である宮戸神社は志木市にではなく市の境を越えた朝霞市にあります。「あさか=安積」と思い込み、ここにも「サカ」族の痕跡があったと、一年半ほど昔の2013年7月22日のブログ記事で書きました。
http://blog.livedoor.jp/oibore_oobora/archives/51855910.html 
これに対して読者の方から皮肉まじりの指摘を頂きました。曰く:
%%%%%読者からの指摘
朝霞の地名の由来って、新しいんだよね。昔は膝折って言ってた。
「1932年(昭和7年)、東京府荏原郡駒沢町(現在の東京都世田谷区)にあった東京ゴルフ倶楽部が当地に移転して来た。また同時期に町制が施行された。その際、倶楽部の名誉総裁で、当時の皇族であった朝香宮鳩彦王(やすひこおう)にちなんで、町制施行と同時に倶楽部の許可のもとに「朝霞町」と改名された。この時、朝香という宮号をそのまま使用するのは畏れ多いということで、一字変えて朝霞となった。」(wiki「朝霞市」より)
しかし朝霞の由来も確認してない仮説って。
%%%%%指摘紹介終わり

 この朝霞の南側、現在の自衛隊駐屯地にある所は「栄」地区です。その西には「新塚」とありますから、私は古墳ではないかと思っています。そもそも「サカ」族の名残をとどめている地であることには違いありません。私の推論は少しだけ違ったということであろうと思っています。


+++++閑話休題(不比等の倭国史編纂過程を想像する、1)
 本題の「中つ国」の誕生と全国制覇・反抗鎮圧・そして退却の歴史に戻るべきところです。が、それは、藤原不比等の倭国史構築(捏造、fabricate)に直接かかわってきます。そこで、それについて私の考える概要をあらかじめ書き留めておきたいと思います。
 まずは、本ブログで繰り返し書いてきた、「暦の二重性」です。
 (表1:歴代天皇の在位期間とそこから垣間見える規則性、一・二欄 天皇の代、名前、三・四欄 日本書紀巻、α群、β群の分類、五〜十欄 天皇即位、退位年月、十一欄 在位期間、十二欄(備考) 天皇のグルーピ分け 、クリックすると拡大されます)
dualV2


 上表は、日本書紀の編年から見える歴代天皇の在位期間に見出される規則性を示したものです。この表で、強調しているのは十二欄(備考欄)です。天皇をA〜Dにグループ分けをしています。夫々のグループで最も長い在期間には大文字アルファベットで、それ以外は小文字アルファベットで表記します。規則性とは、
(大文字在位年)≒(小文字在位年)の和
という関係があるのです。たとえばD(35.3)≒d(13.4+1.8+5.3+12.8+3.4=36.7)
 これは私の恣意・主観はまったく入っていません。どなたでも上記の表を自分で検証できます。 
この表から、私は、百数十年の倭国の歴史が、天皇の数を増やすことで在年数を倍に引きのばすという操作がなされたと推断しました。

 その引き伸ばした期間を較正するとどうなるのか?ここに私の推論が入ります。鍵は神武天皇の即位年とされる紀元前660年と天智天皇の即位年(正確には、斉明天皇の亡くなった年)が661年であることの中にあります(詳論は2013年4月12日記事参照)。
http://blog.livedoor.jp/oibore_oobora/archives/51840994.html
二重に勘定された暦をしかるべき年に置く際にこのことを考慮すると、継体天皇の登場が、大陸の隋建国の時期と重なってきました。その結果、継体天皇の指揮下で展開されたと日本書紀が書く「磐井の乱」は、大陸の倭国への干渉・軍事行動であったのではなかろうかと疑えるのです。これを詳細に検討するために祟神天皇紀を読んできたわけです。その作業は現在も継続中です。
こうして作成した古代倭国史暦が表2です。

(表2:西暦661年を二重暦の一端とし手作成した倭国編年表:三・四欄 日出・日入国と中津国、五欄 大陸の出来事、六欄 倭国での出来事、七欄 シリウス年代決定結果 但し、六世紀半ば以前についてはこれから考察、クリックすると拡大されます)
編年150119b


 上記の表では日本書紀編年の允恭・履中天皇以前(六世紀半ば)については、言及していません。それを知る手立てが記紀に見つかるのでしょうか?ここにこれまでの議論が実は大いに役立つのです。
 まずは、日本書紀編年を改めてざっと眺めて見ることにします。
(1) 祟神天皇による四道将軍の派遣(日本書紀、巻五、β群)
(2) 景行天皇による九州遠征(日本書紀、巻七、β群)
(3) 倭建命による 東国軍事遠征 (日本書紀、巻七、β群)
(4) 神功皇后による摂政 (日本書紀、巻九、β群)
おおまかに上の順番で記述されています。
上で書いた「α群、β群」とは、日本書紀の解読で革命を齎した森博達氏による分類です:
その概要は以下です:
%%%%%日本書紀の分類
http://www.kyoto-su.ac.jp/graduate/g_ffl/g_lc/kenkyu/index.html 
日本書紀の三十巻は表記の性格の相違によって巻十四から二十一と二十四から二十七からなるα群と巻一から十三、二十二から二十三、二十八から二十九からなるβ群と巻三十に三区分できる。
α群は持統朝に渡来中国人である続守言と薩弘恪が正音により正格漢文で述作した。守言は巻十四からを、弘恪は巻二十四からを担当した。文武朝になって山田史御方が倭音により和化漢文でβ群を撰述した。
巻三十は元明朝に紀朝臣清人が著述した。同時に三宅臣藤麻呂がα、β両群にわたって漢籍などによる潤色を加え、さらに若干の記事を加筆した。清人の述作は日本人ならではの漢字漢文の誤用や奇用などの倭習が少なかったが、藤麻呂の加筆には倭習が目立った。
%%%%%分類紹介終わり
「β群」とはいわば「日本人英語、Japanglishとの自虐的言い方があります」ならぬ「日本人漢文」というわけです。

まずは、日本書紀巻七から考えて見ます。上の(2)です。主役は景行天皇で、その和風諡号は、大足彦(たりひこ)です。一方、隋書倭人伝に登場する倭国王の名前は阿毎の多利思比孤(たりしひこ)です。二つの名前が酷似しているのです。おまけにその息子の名前、名太子為利歌彌多弗利の多弗利は古代ペルシャ語では「稚ない」という意味です。なんと日本書紀では、景行天皇の嫡男は「稚足彦」(政務天皇)であると日本書紀は(うっかりと?)明記してしまっているのです(2013年12月9日記事)。
http://blog.livedoor.jp/oibore_oobora/archives/51874294.html
 藤原不比等は、景行天皇を隋国に使節を派遣した倭国の王であるとして倭国史を構想したと思えるのです。

 次に巻九、上記の(4)です。
日本書紀巻九に次の記述があります:
%%%%%
神功皇后摂政三九年(己未二三九)三十九年是年也。大歳己未。〈 魏志云。明帝景初三年六月。倭女王遣大夫難斗米等。詣郡、求詣天子朝献。太守〓夏遣使将送詣京都也。 〉
神功皇后摂政四十年(庚申二四〇)四十年。〈 魏志云。正始元年。遣建忠校尉梯携等、奉詔書・印綬。詣倭国也。 〉
神功皇后摂政四三年(癸亥二四三)四十三年。〈 魏志云。正始四年倭王復遣使大夫伊声者・掖耶約等八人上献。 〉

文意:岩波文庫「日本書紀(二)」172頁
 神功皇后摂政三十九年、大歳は己未(つちのとひつじ)。魏志が言うには、明帝景初三年六月(西暦239年)、倭の女王が大夫難斗米などを隋国に派遣し、郡に来て天使に朝献したいとの希望を伝えた。太守登夏は将を派遣し京に送りよう指示した。
以下、二つの文が魏での倭女王の応接を書きますが、ここではその文意を省略します。
%%%%%

 倭国女王である卑弥呼があたかも神功皇后であるかのごとく日本書紀は書きます。この記事は、未だに日本の古代史研究者の頭を悩ましています。その謎は、後に解く事にします。私が着目するのは、時間が逆転していることです。巻五は隋書倭国伝に従えば西暦600年前後の出来事、、そして巻九は魏志倭人伝に従えば西暦三世紀です。この着眼から眺めると大変興味深いことがわかってきます。

 次に(3)に移る前に、私の覚書として一つ書きとめておきます:
魏志倭人伝の最後のほうに以下の下りがあります。

(図:魏志倭人伝一部)
w20


「更立男王國中不服更相誅殺當時殺千餘人復立卑彌呼宗女壹與年十三爲王國中遂定」
文意はおおむね以下です:
卑弥呼が死んだ後、国は再び騒乱となったので、卑弥呼の宗女壹與を擁立した・・・・。

 壹與は「臺(台)與」であるとは、古田武彦氏など例外はありますが大方の研究者の一致した見解です。私も「台」が中央政庁を意味すると考えているのでこの見解に同意しています。「臺(台)與」は「タイヨ」と音するところから、それは「トヨ」に似ている、と学者さん方は考えたのです。
なぜか?九州の東部は豊前など豊が多く、且つ、伊勢神宮の下宮には「豊受大神」祀られています。古来より、神官、僧等の学者さんはこの「豊」の由来を求めていました。そこで、魏志倭人伝の「臺(台)與」に飛びついたのです。かくして、これが「豊」であると、大方の歴史家は考えています。

 私は、すでに書いたように「豊」(ほう)は「高」の転化した表記であると考えています。
 「卑彌呼宗女臺與」は「卑弥呼の宗女が臺(政府)を與(あずかる)」、つまり「宗女が国政に関与することとなった」という意味ではなかろうかと考えています。
 漢文の構文は英語と似て「主語+動詞+目的語」です。したがって、「臺(政府)を與(あずかる)」という解釈は、倭国人が書いたものならいざ知らず、隋の書記官がこんな文法的誤りをするはずが無い、と誰もが言います。

 そうなんです。私は倭国からの伝聞を隋の記録者が、そのまま史書に記してしまったと思っています。倭人は知ったかぶりをして「主語+目的語+動詞」を隋の書記官に語った、あるいは覚えたての漢文を手渡したのではなかろうか、と想像しています。つまり、森博達氏が言う「倭習漢文」、今風に言えば日本人英語ならぬ日本人漢語ではなかったかと考えています。
 そうであるならば「トヨ」なる女性は存在しなかったということになります。
(つづく)