おいしうまいです。

 今回は、明治時代の偉人、福沢諭吉について見てみたいと思います。

 福沢諭吉2

 彼は幕末維新の動乱期を切り抜け、やがて慶應義塾を開設し、日本の文明開化に尽力した人物として広く世に知られています。

 慶応大学


 特に彼の残した「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず」は人間の平等を謳った言葉として非常に有名です。 

 このように彼の事績はあまりにも有名で、現代でも時折テレビ等で紹介され、彼について語った書籍も多数出ています。

 私は前回のテーマで曹操孟徳について扱い、彼は天下を統一したり、国家を建国したり、領土を大きく広げると言ったハードウェア面ではいまいちだったかも知れませんが、反面、時代を超えた制度や文化を創造し、海外にまで影響を与えると言うソフトウェア面においては間違いなく世界史上の偉人の一人であり、その生まれ持った強靭な合理精神は、儒教等既存の価値観に囚われず、次々と新機軸を打ち出した点で「超世の傑」ー時代を超越した英雄と言う評判にまさに相応しいと言う結論を出しました。

 そして、今回取り上げる福沢諭吉も、曹操のような厳罰主義こそありませんでしたが、既存の価値観や停滞した伝統を批判し撃ち破り、徹底した合理精神を発揮して、外来の制度や新しい文物を次々と紹介しては取り入れ、そのために自ら日本史上初の行いをする事も稀ではありませんでした。

 曹操も諭吉も、分野こそ違えど時代の境目、そして激動の時代を生き抜き、後世に残る様々な業績を挙げた事で共通していますが、同時に、若い時は破天荒な生活を送っていた事も非常に似通っています。
  
 最も、諭吉の方は曹操のように他家の嫁をかどわかすと言った犯罪行為を犯したわけではありません。
 
 むしろ諭吉は当時の学生には珍しく遊郭通い等は一切行わず、ひたすら学問に没頭していました。
  
 ですが、その点を引いても、諭吉と彼の学友たちの振る舞いは当時はおろか現代の感覚に照らし合わせても、正にクレイジーを極めていたと評されてもおかしくない程ぶっ飛んだものでした。

 ヒャッハー

 歴史上の偉人ならば、栄達した時に過去の恥や失敗などは隠蔽したがりそうなものですが、彼は何と、自らそんな赤裸々なエピソードを晩年口述筆記させ、福翁自伝として自ら創刊した時事新報に足掛け二年に渡り連載させています。

 福翁自伝

 よって、諭吉の人となりから私生活まで、後に書籍化されたこの福翁自伝を見れば手に取るように分かり、そこからは彼の徹底した合理主義と批判精神、そして明朗闊達で正直な人柄が見て取れます。

 今回はこの福翁自伝をメインに、主に彼の学生時代について見てみましょう。



 

 御札を踏み御神体をすり替える悪戯を敢行

 福沢諭吉は子供の頃から利発かつマイペースで、なおかつ権威や伝統に盲従しない合理的・科学的精神の持ち主でした。

 学者の家に産まれましたが、父福沢百助は早くに亡くなり、残された母・於順や兄と協力して生活し、品行は良かったのですが、持ち前の利発さ故、根拠のない権威主義や門閥支配・伝統やしきたりなどに内心ではかなり反発し、若いころより憤りを覚える事もしばしばありました。

 ですが、彼はそれを暴力的な反抗や陰湿な嫌がらせに訴えはしませんでした。

 それどころか、実に痛快かつユーモアあふれた悪戯を、少年時代の頃から試み、面白がっているのが常でした。

 彼は十二、三歳の頃、殿様の名前の書いてある反故をうっかり踏みつけた所を兄に咎められ、その場では謝りましたが、内心納得できない彼は、それならばお札を踏んでやろうと、人知れずこっそりと踏んだうえ、なんと、それを便所の紙に使ってしまったと自ら自伝で述べています。

 御札

 江戸時代 便所

 最初は少し怖かったそうですが、何も起こらなかったので、自分を叱った兄に対し「それ見た事か」と内心得意になったそうですが、当然誰にも言いませんでした。

 また、その一、二年後、早くも彼は神罰冥罰なんて大嘘だと信じるようになり、自分が養子に入っていた叔父の家の稲荷の社の神体を見てやろうと思い、開けて中身を見たら、そこには石があったから、それを投げ捨てて代わりの物を入れてしまい、のみならず、今度は隣家の屋敷の稲荷の社を開けて神体を見ると、木の札が入っていたので、それも捨ててしまいました。

 稲荷様

 間もなく端午の節句が来て、人々がお祝いに幟を立てたり太鼓を叩いてお神酒を挙げたり賑やかにやっているのを「ばかめ、俺の入れておいた石にお神酒を上げて拝んでいるとは面白い」と一人見て面白がっていたと諭吉自身が語っています。

 曹操も顔負けの悪知恵と悪戯好きな性格だったのが良く分かります。
 
 


 破天荒な適塾時代

 その後曲折があって、諭吉は江戸へ行こうとする所を兄に止められて大阪で緒方洪庵の適塾に入学します。

 適塾

 学問は出来るが、子供の頃から利発で、迷信やしきたりに反発しては悪戯を繰り返す諭吉は、この適塾時代にあらんばかりのエネルギーを発揮し、奔放かつフリーダムな学生生活を送り、様々な騒動を起こしています。

 当時適塾は、日本でもその進歩的な学風で全国から有意の若者が集まり切磋琢磨していましたが、諭吉自ら血気の壮年乱暴書生等と言っているように、才気煥発ゆえ、とても品行方正等とは言えなかったようです。

 そんな中にあって諭吉はメキメキと頭角を現し、やがて塾長にまでになりますが、この塾長時代こそ、彼の最も衝撃的なエピソードがつづられた時期でした。



 
 塾では全裸!?

 諭吉曰く大阪は温かい所なので、冬は特に困る事はないが、特に夏は塾生たちはみんなして裸で生活していたそうです。

 褌姿

 食事の時と会読の時だけは遠慮して何か適当な物を一枚羽織りはしますが、他は何もつけていないので、まるで野蛮人のような格好で飯を食い、勉強に励んでいた事になります。

 当時の適塾には高い物干し台があったそうで、彼ら学生は全裸のままそこで酒を飲もうと言う話になったそうですが、そこには既に使用人の女性が数名涼んでいました。

 物干し台

 すると松岡勇記と言う元気な青年が、真っ裸のまま物干し台に上がって行き、暑いなあ等と彼女達に言葉をかけながら、そのまま物干し台の床に大の字になって倒れて見せました。

 使用人の女性達は気まずくなったのかそのまま物干し台から降りて行き、学生たちは首尾よくそこで涼みながら酒を飲んだと言う事です。

 諭吉自身も深夜全裸で二階にて寝ていたところを女性の声で起こされ、てっきり使用人だと思いこんで、裸のまま梯子段の下に飛び降りて「何の用だ」と息巻いたところ、相手は緒方洪庵の妻八重だったそうで、諭吉は気まずさのあまり固まってしまい、八重の方も気の毒に思ったのか、何も言わずに下がってしまったと諭吉自身が語っています。

 
当時はこう言う事に大らかだったのでしょうが、それを差し引いても諭吉はじめ学生たちの破天荒ぶりがありありと見て取れます。


 
 

 虱との格闘

 適塾時代の諭吉達は夏場は全裸で過ごしていたようですが、おまけに現代はおろか、当時の感覚から見ても恐ろしく不潔な生活を送り、しかもそれを気にも留めませんでした。

 大所帯の適塾では自分達で煮炊きをし、机の周りで食事を取っていたようですが、道具が無いからと、なんと顔を洗う手水盥や金盥を使いまわして、茹でた素麺を冷やしたり、野菜を洗ったりしていたそうです。

 盥

 自ら不潔に無頓着だったと言い切る諭吉達の事でしたから、使用後も恐らくろくに洗いもしなかったのでしょう。

 そのせいもあってか、学生たちの着物や体には始終虱がたかっており、誰もこれを免れる事は出来ないと諭吉自身が言っていました。

 諭吉は虱退治のため一計を案じ、厳冬の夜に着物を物干しにさらして虱を卵ごと殲滅する事に成功していますが、熱湯を使うのは古臭くて面白くないからと言う、ただそれだけの理由でこんな方法を思いついたそうです。



 
 医者を恐喝!?

 そんな彼らですが、当時最先端の蘭学を身に着けただけあって豊富な知識やスキル持ってはいました。

 ある時、とある薬種屋が熊を入手しましたが、彼らは医者を通じて諭吉達に解剖を頼んできました。

 諭吉自身は行きませんでしたが、適塾の学生はこう言う事への関心が高かったので喜び勇んで頼みに応じ、さっそく解剖に取り組みましたが、実は、医者と薬種屋は表向きは後学のため解剖を拝見したい等ともっともらしい理由を付けていましたが、実際は薬になる熊胆が欲しいだけだったので、それを入手すると解剖の途中でさっさと姿を消してしまったのです。

 これに憤慨した適塾の書生たちは、協議の上、薬種屋と結託した医者を懲らしめてやろうと、手分けして医者の所に押しかけて医学を学ぶ者の面目を潰されたと散々ごねて先方を平謝りさせ、酒五升に魚や肉をせしめて手打ちとなったそうです。

 クレーマー

 この押しかけ抗議では、掛け合い手紙(抗議書)の作成・応接係・使者役・脅迫役を用意する等かなり用意周到かつ組織的に動いていましたが、当の医者は相手に解剖の機会を与えただけであって、そこまでの悪気は無かったのでしょう。

 これで酒や魚を差し出さなければならなかったのだから、相当参ったものと思われます。

 ちなみに諭吉はこの押しかけ抗議では掛け合い手紙の原案を練り、ちゃっかり参加しています。


 

 
 喧嘩の真似をして住民を恐れさせる

 諭吉達学生は大阪の街の至る所で喧嘩の真似ごとをして住民達の反応を見ると言うなんとも迷惑な遊びを思いつき、お互い申し合わせて大騒ぎを演じ、大声でどない合いながら痛くない程度につかみ合い等をしていたそうです。

 諭吉曰くすぐ野次馬が出てめちゃくちゃにしてくれる江戸とは違い、大阪の町人は臆病なのだそうで、おまけに当時は警察もなかったからこう言う事はやりたい放題で、彼らが騒ぎを起こすと、周囲の商店は片づけを始めて戸をばたばたと閉めてひっそりとしていたそうです。

 喧嘩

 同じところで繰り返すとばれるからと、彼らは今夜は道頓堀でやろう、順慶町でやろう等と作戦会議を行っていたそうですが、町人からすればたまったものではありません。




 今度は注意した植木屋を脅迫

 諭吉と松下元方と言う医者が二人連れで夜店の植木屋を冷やかしていた時の事、そこの主人に「旦那さん悪い事をしてはいけまへん」と注意されましたが、それが万引きを疑っての事と知って腹を立てた諭吉は、

 夜店 植木屋

 「なんでもこの野郎を打ち殺してしまえ。理屈を言わず打ち殺してしまえ」とかみつき、松下はなだめ役に回りましたが、周囲の人が集まって大騒ぎになりました。

 近くの善哉屋で餅つきをしていた力士が仲裁に入りましたが、諭吉たちは「許しはするが、明日の晩もし営業していたらここで打ち殺す」と物騒な条件を出して帰りました。

 そしてまた翌晩に様子を見に行ったら、そこの植木屋だけは店を閉めていました。

 諭吉は自伝で、けれども存外に悪い事はしない、等とけろっと言っていますが、これなどは立派な営業妨害であり、店主からすれば迷惑にも程があったでしょう。

 また、今までのエピソードを見れば、当時の諭吉たちが万引きをしてもおかしくないと見られていても仕方なかったのではないかとも思います。




 諭吉ネカマと化す

 学生達は遊郭に通う者が少なくなく、どんな遊女となじみだとか、そんな話で盛り上がっていたそうですが、諭吉自身はそんな事にはとんと関心はなく、しばしば彼らをからかっていました。

 遊郭

 藩医の息子で手塚と言う書生がいましたが、彼も遊郭通いにはまっていたのか諭吉曰くどうも身持ちが良くないそうです。

 諭吉は彼に遊郭通いを止めるように勧めると、本人ももういやだから決して行かないと素直に応じましたが、諭吉はまだ疑わしいから証文を書けと要求します。

 すると手塚は「もし違約すれば坊主にされても苦しからず」と証文を書き、諭吉に渡した後、勉学に励みますが、なんとそんな彼を見て諭吉は逆に面白くないと思い、悪い考えを思いつきます。

 学友達と相談して、手塚の馴染みの遊女の手紙をねつ造し、いかにも遊女の使いそうな言葉遣いで麝香をねだる内容で本人に渡るように画策します。

 ネカマ

 おまけに、筆跡が女らしくなるように、例の裸騒動でも出て来た松岡勇記に後家流で書いてもらい、玄関の番をする書生に「真実を言えばぶん殴る」と脅迫して取り次がせ、手塚とは書かずに宛先を鉄川(てっか)とわざと大阪なまりを反映した間違いでカモフラージュする念の入れようで、本人が見るように仕向けています。

 ネカマ2

 手塚はそれを読んで二、三日は辛抱していたみたいですが、とうとう耐えられず馴染みの遊女の所に行ってしまったようです。

 彼が遊郭から帰って来たところを鋏をもった諭吉が捕らえて、坊主にしてやろうと息巻きましたが、他の学生たちが仲裁に入り、代わりに酒や鶏を買わせる事にしました。

 
ですが、諭吉達は「お願いだ、もう一度遊郭に行ってくれんか、また飲めるから」等と散々本人を冷やかしたそうです。

 今ならSNSを使って馴染みの女性を装って外に誘い出し、現場をスマホで撮影した上、バリカンをもって登場、と言った所でしょうか?

 事実、諭吉が現代に生きていればこのくらいの悪戯はしかねません。

 ネカマで男を吊ると言う行為も、諭吉が元祖だったのかも知れません。


 

 
 諭吉たちは万引きの常習犯!?

 諭吉達酒好きの学生は、良く料理茶屋等で飲んでいたそうですが、彼等はほぼ決まってそこから御猪口だの小皿だのをこっそり盗んでいました。

 料理茶屋

 特に送別会などの大きな大きな宴会の時はねらい目だったらしく、懐に袂に、さらには背中にまで団扇だの大皿だのを入れて帰っていたそうです。

 そして、帰ったら彼らは戦利品を見せ合って自慢していました。

 諭吉自身、緒方(適塾)の書生は本当に万引きをしていた、と自伝でけろっと語っていますから、植木屋で万引きを疑われても仕方なかったわけです。

 万引き

 現在なら全員万引きの常習犯として捕まってもおかしくない案件ですが、諭吉曰く、茶屋の方も万引きを見越し飲み代に上乗せしていたのだろう、との事で、この辺りは大阪商人ならではのたくましさと言うべきでしょうか。


 
 
 舟遊びをする芸者達を襲撃!?

 ある夏の夜、諭吉達は酒が飲みたくなって外に出ようとしましたが、門限があるので出られません。
 
 そこで彼らはなんと当直の門番を脅迫して無理やり戸を開けさせ、街に繰り出しています。

 これだけでも大変な事ですが、彼らは安い酒を飲んで例のごとく小皿をくすねての帰り道、難波橋に差し掛かったところで三味線を鳴らしながら舟遊びをして騒いでいる人達を認めます。

 難波橋

 舟遊び

 すると諭吉達は、自分らはやっとの思いで安酒を飲んでるってのにいまいましい奴らだと言う理由だけで、手に持った小皿を二、三枚投げつけたら、三味線の音が聞こえなくなりました。

 諭吉達はすぐに逃げたのですが、その一月後に、塾の書生が遊郭に行くと、とある芸者から「一月ほど前の夜、お客さんと船で難波橋の下で涼んでいたら、誰かがお皿を投げつけて来て、私の三味線の皮を打ちぬいてしまった。本当に危なかった」と言われましたが、その書生はじめ諭吉達がひた隠しにしたのは言うまでもありません。

 

 
 度重なる異臭騒ぎ!?

 さて、この適塾にて諭吉達は、主に蘭学を通して西洋の先端の学問を身に着けようと切磋琢磨していました。
 
 そしてその範囲も、今で言う文系に限らず、科学技術系の学問や実験も大いにやっていました。

 諭吉自身手先が器用で、幼いころから自身で色んな物を修繕したり、下駄を作ったり刀剣を細工する内職を始めています。

 そんな彼が塾長になった事も影響したのでしょうか。

 幕末の日本ですから、蘭学を通じて西洋の事情に通じていても、実物の機械や実験器具等は容易に調達できません。
 
 それでも諭吉達学生は、おおよその中身は知っていますから、どうにか自分達自身で作ってみたいと、原書の図等を写してそれを再現しようと格闘していました。

 ある時諭吉達は硇砂(塩化アンモニウム)を製造しようと思いたちますが、もちろんこの時代の日本でこんな物を扱っている場所はありません。

 そこで彼らは、鼈甲屋に行って馬爪の削り節を大量に手に入れて、それを徳利に入れ、徳利の外に泥を塗り、素焼きの大きな瓶を買ってそれを七輪に乗せて火を起こし、その瓶の中に先ほどの徳利を三、四本ほど入れ、徳利の口には瀬戸物の管を付けて蒸発したのを出させると言う風に、自ら実験用具を工夫し、どんどん火をたくと、その瀬戸物の管の先からたらたらとアンモニアが出て来ました。

 実験は成功したように思えましたが、アンモニアなので言うまでもなく早速異臭騒ぎが起きました。

 異臭騒ぎ

 彼らは緒方塾の庭でこの実験を行ったのですが、使用人の男女が気分が悪くなってご飯が食べられないと訴える程の酷さで、実験に携わった学生たちが銭湯に行くと、着物の臭さで犬が吠える有様でした。

 しかも塩化アンモニウムの製造自体も出来たものは中途半端で、おまけにこの異臭騒ぎでしたが、これでもまだ諦めない学生達がいて、淀川で一番安い船を借り、例の実験用具を乗せて行ったのですが、街中の川ですから、周囲に匂いが漂い、川岸から苦情が入ります。

 淀川

 苦情が入ると船を移動させますが、大阪の街中の事ですから、言った先々で異臭騒ぎが起こり、住民達は苦情を入れて来たそうです。

 現代だったら警察はおろか、化学テロの疑いで、自衛隊までもが出動する大事件になっていたかも知れません。

 異臭騒ぎ2

 諭吉達がしでかした様々な騒動の中で、実はこれが一番酷いものだったのかも知れません。

 

 以上、適塾時代を中心に、若き諭吉達の破天荒ぶりを見て来ました。

 そのどれを見ても、現代ならばほとんどが警察沙汰になり、場合によっては新聞やテレビを賑わす騒動の主になっていた物も混じっています。

 ですが反面、お金は無いが時間と体力を持て余している学生達の自由極まりない行動を見ると、大らかな時代背景と合わさって、羨ましくも感じます。

 こんな青春時代や学生時代を送れたら、小さな悩み等すぐに吹っ飛ぶ事でしょう。

 ですがもちろん、諭吉達学生は遊んでいただけではなく、真剣に勉学し、激動の時代にあって、日本の将来のために人生を賭け、危険を冒すのも厭いませんでした。

 次回は諭吉達が真剣に学び、明治維新期で活躍したエピソードを拾ってみましょう。