秋山規雄裁判長名判決 ロス疑惑銃撃事件一部無罪
東京高裁平成10年 弁護団長は弘中先生ですね。
殺人、詐欺、銃砲刀剣類所持等取締法違反、火薬類取締法違反被告事件
ながいので途中を省略してあります。全貌は判例タイムズか判例時報がみやすい。
東京高等裁判所判決/平成6年(う)第1200号
平成10年7月1日
【判示事項】 一 銃撃の実行者である特定の者との殺人罪の共同正犯の訴因に対しその実行者を氏名不詳者と認定したことが違法とされた事例
二 相被告人を銃撃の実行者とする殺人罪の共同正犯の事実も氏名不詳者を銃撃の実行者とする殺人罪の共同正犯の事実も認められないとされた事例
【判決要旨】 殺人者の訴因が銃撃の実行者である特定の者との共同正犯として構成され、検察官が銃撃の実行者はその者以外に見当たらないとしていたなどの事情のある本件においては(判文参照)、訴因変更の手続をとることなく、氏名不詳の実行者との共同正犯を認定した手続は、違法である。
【参照条文】 刑事訴訟法312 刑法199 刑法60 刑事訴訟法382
【掲載誌】 高等裁判所刑事判例集51巻2号129頁
判例タイムズ999号102頁
判例時報1655号3頁
【評釈論文】 現代刑事法1巻7号68頁
ジュリスト臨時増刊1157号188頁
判例評論481号64頁
目 次
主文
理由
第一部 控訴趣意とこれに対する判断の概要
第一 控訴趣意
一 検察官の控訴趣意
二 被告人A1の弁護人の控訴趣意
三 両控訴趣意の要旨
四 控訴審での主な争点
第二 当裁判所の判断の概要
第二部 銃撃事件の銃撃実行者をA2と認めなかったのを不当とする検察官の控訴趣意(A2の犯人性)について
第一 検察官の主張
第二 原判決の判断の要旨
第三 事件の発生とその前後の状況
一 事件の発生
二 事件発生後の事情聴取状況
三 銃撃事件の証拠の構造と輪郭
四 被害及び現場の客観的状況
第四 共犯者に必要な条件について(検察官の控訴趣意中、「共犯者の条件とこれを満たす人物」の主張《同控訴趣意第二章第一節》
一 検討された対象者の範囲について
二 共犯者に必要な適格条件について
第五 A2の犯行現場への臨場性(その一 レンタカー借り出しの関係《同第二節第一分節》)について
一 原判決は検察官の主張を取り違えて判断しているとの主張について
二 A2バンの使途に関する主張について
1 原判決の判断及びこれに対する検察官の主張
(一) 原判決の判断
(二) 検察官の主張
2 A2バンの使途に関するA2の供述経過
3 (A)の説示を不当とする所論について
4 (B)の説示を不当とする所論について
(一) 第一関門(A2はK2号の入出航の遅れを知り得たか)
(二) 第二関門(バン借り出し前の行動)
(三) 第三関門(タイヤのパンクなど)
(四) 第四関門(集荷中止後の行動)
(五) 第五関門(現実の集荷と発送の遅れ)
(六) 小括
5 その他の集荷目的にバンが使用されたことはないとの主張について
6 本件バンの走行距離について
7 A2がF2レンタカーの存在を秘匿していたことについて
第六 A2の犯行現場への臨場性(その二 いわゆるアンテナ問題《同第二節第二分節第一》)について
一 問題の所在
二 E10アンテナの原物性について
1 検察官の主張
2 E10マストが「純正品」であることとその原物性との関係に関する所論の主張について
3 折損頻度に関する所論の主張について
4 A2バン及びE10マスト自体に即した原物性の主張について
5 レンタル契約書中の「G00D」の記載とアンテナの状態に関する所論の主張について
6 本件貸出し当日のマストの折損可能性に関する所論の主張について
三 車両の特徴による同一性の識別
第七 犯行に加担する動機の有無《同第三節第二の一》について
第八 A2とA1との謀議《同第三節第一の一》について
一 謀議を要する事項と謀議の必要性
二 謀議の機会と方法
1 謀議の機会
2 国際電話
3 渡米時の共謀
4 本件前日の共謀
第九 殺人報酬の約束と支払い《同第三節第二の一》
一 検察官の主張
二 A2への一八三万円の入金
三 A1の出金
第一〇 A2とライフル銃との結びつきについて《同第三節第二の二》
第一一 A2のアリバイについて《同第二節第二分節第二》
第一二 A2バンがレンタカーであった事実の主張について《同第二節第二分節第三》
第一三殴打事件に関するA2の言動について《同第三節第一の二》
一 チャイナドレスの女のこと
二 凶器のハンマーのこと
第一四 A2を銃撃実行者とする殺人の訴因についての総合判断と結論について《同第四節》
一 A2の銃撃行為への関与を疑わせる事実
二 A2の銃撃行為への関与に疑問を感じさせる事実
三 現実性の評価
第三部 A1の弁護人の控訴趣意中、訴因問題(同控訴趣意第二及び第四)の主張について
第一 手続経過
第二 当裁判所の判断
第四部 A1に関する自判(その一。主として、銃撃事件の銃撃実行者を氏名不詳者とする殺人の予備的訴因について)
第一 主位的訴因について
第二 予備的訴因の追加請求とその内容
一 予備的訴因の要旨
二 予備的訴因の追加を相当と判断した理由
1 争点化の必要
2 両当事者の意見
三 予備的訴因における実質的争点
第三 銃撃実行者が未解明である事実
第四 犯行の動機について(検察官が主張する情況事実 一)
一 夫婦関係の冷却とB1に対する愛情の喪失について
二 C1の営業資金の必要性、保険契約締結の事情等について
三 今回渡米時に締結した保険契約について
四 小括
第五 共犯者の物色について(検察官が主張する情況事実 二)
一 D1に対する打診
二 D2に対する打診
三 D3に対する打診
四 D4に対する打診
五 A2に対する打診
六 小括
第六 殴打事件について(検察官が主張する情況事実 三)
一 D5供述の信用性について
二 D5供述を信用できないとする弁護人の主張について
一 ハンマ―様凶器による殴打について
2 D5の供述の変遷について
3 小括
第七 A1が本件と酷似する殺人方法を殴打事件当時に提案していたとされる事実について
(検察官が主張する情況事実 四)
一 D5供述がされた時期
二 D5供述の特徴
三 小括
第八 謀議の成立に疑問を持たせる事情
一 犯行態様と謀議の不可欠性
二 A1にとっての謀議の機会
第九 渡米経過と出発前後の事情について
第一〇 銃撃現場の状況について(検察官が主張する情況事実 五)
一 検察官がA1の犯人性を示すと主張する点
二 目撃証言とA1の供述
1 目撃証言の内容と証言評価に当たっての留意点
2 A1の原審公判供述の概要
三 白いバンの停車とその移動等
1 白いバンの存在
2 白いバンは先着していた
3 バンは本件銃撃後に立ち去ったか
四 白いバンで走り去った人物の現場での動静について
五 銃撃の態様、銃撃位置等の関係
六 強盗犯の存否
1 強盗犯による銃撃の客観的可能性(銃撃の位置関係)
2 強盗の動きは目撃されているか
3 その他関連する情況事実の検討
4 小括
第一一 A1の供述の虚偽性について(検察官の主張する情況事実 六)
第一二殺人の予備的訴因についての結論(情況事実を総合しての結論)
一 A1の犯行関与を疑わせる事実
二 A1の犯行関与に疑問を感じさせる事実
三 結論
第五部 A1に関する自判(その二。その他の事件について)
第一 銃撃事件に関連する詐欺の訴因について
第二 昭和六三年一二月一六日付け起訴状第二記載の詐欺の事実について
第六部 本件全体の結論及びA1に関する自判
(罪となるべき事実)
(証拠の標目)省略
(法令の適用)
(一部無罪の理由)
第一 起訴にかかる公訴事実の要旨
第二 当裁判所の判断
主 文
一 原判決中被告人A1に関する部分を破棄する。
同被告人を懲役一年に処する。
同被告人に対し、この裁判確定の日から三年間その刑の執行を猶予する。
原審訴訟費用中、証人D3(原審第六八回)、同E1(同第六九回)及び同E2(同第七〇回)に支給した分は同被告人の負担とする。
本件公訴事実中、昭和六三年一一月一〇日付け起訴にかかる殺人、同月一九日付け起訴にかかる詐欺及び同年一二月一六日付け起訴にかかる公訴事実第一の詐欺の各事実については、同被告人は無罪。
二 検察官の被告人A2に対する控訴を棄却する。
理 由
第一部 控訴趣意とこれに対する判断の概要
第一 控訴趣意
一 検察官の控訴趣意
東京地方検察庁検察官甲斐中辰夫作成名義の控訴趣意書に記載のとおりであり、これに対する答弁は、被告人A1の関係では同被告人の弁護人弘中惇一郎、同鈴木淳二、同喜田村洋一、同渡辺務、同加城千波連名作成名義の答弁書に記載のとおりであり、被告人A2の関係では同被告人の弁護人伊藤卓藏、同安井桂之介、同加藤義樹、同濱涯廣子、同土赤弘子連名作成名義の答弁書に記載のとおりである。
二 被告人A1の弁護人の控訴趣意
弁護人弘中惇一郎、同鈴木淳二、同喜田村洋一、同渡辺務、同加城千波連名作成名義の控訴趣意書及び同補充書に記載のとおりであり(なお、同弁護人らは、控訴趣意中、殺人の事実に関する原判決の認定を審判の請求を受けない事件について判決したものと主張している中には、訴訟手続の法令違反の主張を含む趣旨であると釈明した。)、これに対する答弁は、東京高等検察庁検察官山田弘司作成名義の答弁書に記載のとおりである。
これらをそれぞれ引用する。
三 両控訴趣意の要旨
両控訴趣意とも詳細、膨大であるが、その要旨は次のとおりである。すなわち、
1 検察官の控訴趣意は、要するに、原審において、検察官は、「被告人A1と同A2は、共謀の上、生命保険金を取得する目的で、被告人A1の妻B1の殺害を企て、昭和五六年一一月一八日、a1市b1通りc1ブロックの路上で、同女の頭部に二二口径のライフル銃で撃った銃弾を命中させて、殺害した」事実を訴因として主張したところ、原判決は、被告人A2をB1銃撃の実行者と断定することにはなお合理的な疑いが残るとして、この訴因についてはA2を無罪とし、一方被告人A1については、前記訴因を変更しないまま、「A1は氏名不詳者と共謀の上」、その氏名不詳者に銃撃させ、B1を殺害したとの事実を認定した、しかし、原判決が銃撃の実行者をA2と認めなかったことは、A2の関係では勿論、A1についても、その共犯者が誰であったかに関して事実誤認であるというのであり、
2 A1の弁護人の控訴趣意は、要するに、訴訟手続に関する主張と事実誤認に関する主張とに分かれるが、訴訟手続に関する主張としては、
(一) 検察官が主張する「A1はA2と共謀の上」B1を殺害したとの殺人の訴因につき、原審裁判所が訴因変更の手続をとらないまま、判決中で突然「A1は氏名不詳者と共謀の上」同女を殺害したと認定したのは、訴因を逸脱した認定であって、これは、刑訴法上、審判の請求を受けない事件について判決をした違法(刑訴法三七八条三号)に当たるか、そうでなくても、判決に影響を及ぼすことの明らかな訴訟手続の法令違反(同法三七九条)に当たり、また、このような原審の手続は憲法三一条に違反する、
(二) 原判決は、「氏名不詳者と共謀の上」と判示するだけで、「罪となるべき事実」の判示に必要な具体的事実を記載せず、特に共謀共同正犯における共謀の相手方を特定していない、更に共謀の相手方及び共謀を構成する具体的事実について厳格な証明を行わせず、判決にその証拠を挙示してもいない、これらの点は、理由不備ないし理由齟齬に当たる、
(三) 原判決は、原審審理を通じて、訴訟関係者のすべてがA1と「A2との共謀」の成否を争点と考え、そこに証拠調べを集中し、それ以外の主張・立証を行っていないときに、全く釈明権を行使することもないまま、率然としてA1は「氏名不詳者と共謀の上、その氏名不詳者が銃撃した」との事実を認定したが、その訴訟手続には、不意打ち、審理不尽の違法がある、
(四) 原審裁判所は、殴打事件の犯人であり、銃撃事件にとっても重要証人とされるD5の証人尋問請求を一旦採用しながら、その後、同女が国外にいることを理由として同女の検察官調書を刑訴法三二一条一項該当の書面(国外滞在)として採用して取り調べ、以後同女を証人として尋問しなかった、しかしD5が国外にいたのは原審審理期間中の一時期だけのことであって、審理の途中には帰国していたのであるから、このような原審の審理手続は刑訴法三二一条一項の解釈を誤り、憲法三七条に違反する、その点で判決に影響を及ぼすことの明らかな訴訟手続の法令違反に当たる、というのであり、
事実誤認に関する主張としては、
(五) 原判決は、A1が「氏名不詳者と共謀の上」B1を殺害したとの事実を認定し、殺人(昭和六三年一一月一〇日付け起訴状)及び生命保険金等詐欺の事実(同月一九日付け起訴状記載の公訴事実第一及び第二並びに同年一二月一六日付け起訴状記載の公訴事実第一)につき有罪としたが、原判決がいう「氏名不詳者」は客観的には存在せず、A1とこの「氏名不詳者」との間での殺人の共謀はあり得ないから、これらの罪の関係で、原判決には判決に影響を及ぼすことの明らかな事実誤認がある、
(六) 原判決は、動産保険金詐欺の事実(同年一二月一六日付け起訴状記載の公訴事実第二)につきA1を有罪としたが、原判決が認定根拠としたE1及びE2の各証言は信用性に乏しく、A1か破損していない商品を故意に破損させて保険金請求をさせたとの事実を認定した点には重大な疑問があり、原判決にはその点で判決に影響を及ぼすことの明らかな事実誤認がある、等というのである。
四 以上によれば、当控訴審での主な争点は、
1 本件銃撃事件の銃撃実行者をA2であると認めること及びそのA2とA1との共謀を認めることには合理的な疑いが残るとした原判決の認定の当否の問題(A1及びA2の両名の関係。後記第二部で判断する。)、
2 検察官が、殺人の訴因として、「A1はA2と共謀の上」B1を殺害したという事実を掲げているときに、その訴因を変更することなく、判決中で、突然、「A1は氏名不詳者と共謀の上」同女を殺害したとの事実を認定することは訴因制度上許されるかという訴訟手続上の問題(A1関係。後記第三部で判断する。)
3 原判決が、原審で取調済みの証拠に基づいて、銃撃実行者を氏名不詳者としたまま、その者とA1との共謀成立の事実を認定したことの当否の問題(A1関係。後記第四部で判断する。)、
4 最後に、これと関連する保険金詐欺及びこれとは別の動産保険金詐欺の事実認定に関する問題(A1関係。第五部で判断する。)等である。
第二 当裁判所の判断の概要
一 当裁判所は、原審記録及び証拠物を調査するとともに、事案の重大性にかんがみ当審でも必要な証拠調べを尽くし、慎重な検討を続けた末に、頭書の結論に達した。その判断の概要は次に取りまとめて述べるとおりであり、詳細な理由はそれに引き続いて述べるとおりである。すなわち、
1 本件証拠によれば、原判決が、本件殺人事件の銃撃実行者をA2と断定することにはなお合理的な疑いが残ると判断したのは相当であって、その点に事実誤認があるとはいえない。
すなわち、検察官は、銃撃実行者をA2であると主張する主たる根拠として、犯行時に現場で目撃されたのと車種が同じで車体の塗色がよく似たカーゴバンを、A2が、事件前日から当日にかけて、レンタカー会社から借り出していた事実があることを指摘し(以下、A2が借り出していたこのバンをA2バンという。)、このバンは本件犯行に使用する以外に使途がなかったし、また本件発生時にバンを借り出していた事実とそのレンタカー会社名を、A2は忘れていたといって捜査機関に素直に述べず、レンタル契約書を突きつけられてようやく認めた供述経過は、このバンを本件犯行に使用した事実を最後まで隠そうとしたことを疑わせると主張する。この点に関する検察官の情況証拠の分析とこれに基づく推論は、極めて詳細、緻密であり、その点に限っていえばかなり説得的であって、検察官がA2に対して嫌疑を抱いたのももっともであったと一応首肯させる点がある。
しかし、このことだけを根拠として、犯行現場で目撃されたバン(以下、現場バンという。)はA2バンであったと断定することは、本件ではまだできない。すなわち、証拠上、現場バンにはアンテナが装着されていなかったか、あるいは最初は装着されていたが破損して無装着状態になっていたことが明らかとなっているところ、関係証拠によれば、A2バンには、その当時、アンテナがついていた可能性がかなり高いと推認すべき根拠があり、そうなると、両車は、車種が同じで車体の塗色は似ているけれども、別個のバンであった疑いが生じるからである。その他、A2には犯行に加担する動機が全く見当たらないこと、本件前にA2とA1とが謀議をする機会が現実にはほとんどなく、かつ現実に謀議をした痕跡も全く見当たらないこと、犯行への加担に対する報酬授受の事実もないことなど、A2の犯行関与を打ち消しているとしか理解できない周辺事実を含めて総合考慮すると、検察官が主張するとおりの、銃撃実行者はA2であって、そのA2とA1との間に共謀が成立していたとの事実を認めるには、どうみても合理的な疑いが残ると判断せざるを得ない。
2 A1に対する殺人の公訴事実について、検察官が訴因として、「A1とA2との共謀」を掲げ、かつ、A1の共謀の相手方としてはA2以外には考えられないとの立証を続けた原審での審理経過を前提として、原審裁判所が、訴因変更手続をとることなく、判決中で、突然これとは異なる「A1と氏名不詳者との共謀」を認定した訴訟手続には、判決に影響を及ぼすことの明らかな法令違反があり(刑訴法三七九条)、その点で原判決は破棄を免れない。
3 原判決を破棄した上、「氏名不詳者との共謀」の事実等について、この上更に証拠を取り調べる余地があるのであれば、本件を原審に差し戻し、そこでより一層の真相解明を期待することも考えられなくはない。
しかし、何といっても本件発生後すでに一六年以上(起訴後九年以上)の年月が経過しており、しかも事件の発生地が外国であるため証拠収集上の制約も多く、加えて、検察官は、原審で、A2以外に銃撃犯人がいるとは考えられない旨の立証を繰り広げてきた経過があって、今後その点について新たな証拠が現れることはほとんど望み得ない状況にある。そして、本件の核心は、主として取調済みの情況証拠に対する評価とこれに基づく推論過程にあることを勘案すれば、いまさら原審に差し戻すことは適切ではなく、この段階で当審において自判するのが相当と考えられる。
4 そこで、自判することとするが、検察官がA1に対して掲げる殺人の主位的訴因の事実、すなわち銃撃実行者をA2とし、同人とA1が共謀してA2にB1を銃撃させたとの事実については、前記のとおり合理的な疑いが残るから、証明不十分としなければならない。
次に、予備的訴因の事実、すなわち、直接の銃撃実行者を不明としたままで、その氏名不詳の銃撃実行者とA1が共謀して、その氏名不詳者にB1を銃撃させたとの事実について有罪の認定をするためには、本件ではその共謀がA1と本件とを結びつける中核的事実であることにかんがみ、その者からどのような弁明や供述等がなされても、A1がその氏名不詳者と共謀して銃撃させたことに間違いがないことを裏付けるに足りるだけの確かな証拠が必要だと考えられる。そこで、A1についてこれをみると、同人の場合には、例えば殴打事件前に共犯者探しともみえる一連の不可解な言動が認められ、その後に発生した殴打事件をめぐる行動には被害者B1の殺害とその保険金取得をねらったとしか思えない加害意思を読み取ることができ、その三か月後に起こった本件との間には犯行態様その他について何やら共通性も見え隠れし、しかも、銃撃事件発生時の現場の状況に関するA1の供述、中でも銃撃犯人をグリーンの車で来た二人組の強盗犯である、白いバンには気づかなかったと述べる点には虚偽供述との疑いが強く持たれるなど、A2の場合よりもはるかに強い嫌疑を抱かせる事情が認められることは否定できず、検察官が、少なくともA1の犯行関与は間違いがないと主張することにもかなりの程度理由があるといえる。
しかし、他方、B1に引き続いてA1もライフル銃で銃撃・被弾している本件の犯行態様からみて、本件は、共犯者抜きには考えられない態様の犯行であることは明らかで、その点がまさに中核的な要証事実となっているところ、検察官がこの者以外には共犯者は考えられないと主張して立証に努めたA2について、原判決は証拠不十分の判断をし、この判断は、関係証拠に照らして、当審においても維持するほかなく、しかもそれ以外には共犯者とおぼしき者が全く見当たらない状況にある。証拠上、共犯者が単に特定されていないというだけではなく、全く解明されていないのである。加えて、日本にいたA1において、アメリカにいたと想定するほかない氏名不詳の共犯者を新たに見つけ、その者との間で特に殴打事件後本件発生までの間に銃撃事件について謀議をし、これを完了しておくまでの機会はほとんどなく、かつ、現実に謀議をした痕跡は全く見当たらないこと、B1を連れて渡米した経過にはむしろ犯行計画を否定しているかのような事情が認められること、犯行加担に対する報酬支払いの事実が全くないこと等々の、いずれも共犯者の存在を否定する趣旨の情況事実が多く認められる証拠関係にあること等の周辺事実を含めて総合考慮すると、検察官が主張するような、銃撃犯人は不明でもその氏名不詳者とA1との間に共謀が成立していたこと及びA1がその者にB1を銃撃させたことに間違いはないと推断するに足りるだけの確かな証拠は見当たらず、なお合理的な疑いが残るといわざるを得ない。
5 そうすると、A1が関与したことを前提とする前記保険金詐欺の訴因についても、有罪の認定をすることはできない。
二 本件の事実認定に関連して一言付言しておくこととする。
1 本件は、情況証拠から諸々の間接事実を立証し、いわばモザイク状の間接事実を多数積み重ねて犯罪事実全体の立証をするという、微妙・困難な証拠関係にある事件である。ただ、このような場合、もし情況証拠から推認をする過程にいくらかの疑問が残ることを理由として、事実の認定に決断力を欠き、安易に疑いが残ると判断して証明不十分とするならば、情況証拠による犯罪立証の余地は、大幅に狭められ過ぎることになりかねない。もとより、刑事裁判における有罪認定には、「合理的な疑いを差し挟む余地のない程度」の立証が必要であり、また「疑わしきは被告人の利益に」が鉄則とされていて、そのこと自体に異論はないが、この際あえて言えば、ここに合理的な疑いを美し挟む余地がないとは、反対事実の疑いを全く残さない場合をいうのではなく、抽象的には反対事実の疑いを入れる余地がある場合であっても、社会経験上はその疑いに合理性がないと一般的に判断されるような場合は、有罪認定を可能とする趣旨であって、このことは、専ら情況証拠によって犯罪事実の立証を行うほかない本件のような事案の場合に強く認識しておく必要があると考、えられる。
その意味では検察官の意見にも首肯できる点がある。しかし、反面、このことは、専ら情況証拠を積み重ねて立証するほかない事案の場合には立証の程度が低くてもよいという意味ではもとよりない。やはり、中核となる要証事実について、質の高い情況証拠による立証が不可欠とされることは、刑事責任の帰属に関するという事柄の性質上当然である。だから、もし、右に述べた観点からみても合理的な疑いを入れる余地のない立証がされたとはいえないと判断されるときには、その人物が第六感的感覚からはいかに疑わしいと感じられ、あるいは実際に証拠の一部に疑わしい点が認められても、それがまだ疑わしいとの域にとどまっている限り、刑事裁判の性質上、有罪の認定をすることはできないし、その旨判断することにはばかるところがあってはならない。
2 保険金取得目的で、妻を銃撃させたとされる本件公訴事実の内容は、もしそれが真実であるとすればいかにもおぞましい犯行であって、社会的に放置できないことはいうまでもない。検察官は、銃撃実行者をA2であると判断し、そのA2とA1との間にかねての面識関係を基盤とする共謀が成立していたと認定して、両名を起訴した。銃撃実行者をA2とするこの認定は、A2に対する刑事責任追求の前提として必要であったことは勿論であるが、それのみにとどまらず、A1に対する関係でも、銃撃実行者を特定することによって同人に対する立証上の難点を切り抜けるねらいを持っていると理解される。銃撃実行者の立証を抜きにしてはA1に対する事実の立証も容易でないことを見通したもので、検察官のこの判断は、一般論としてはまさにそのとおりと考えられる(銃撃犯人不明のままで、A1だけを本件殺人の共犯者として起訴に踏み切ることができたかを考えてみれば明らかである。)。これに対して、原審裁判所は、銃撃行為へのA2の関与を証拠不十分と判断し、その結果銃撃実行者不明のまま、それでもA1は氏名不詳の誰かと共謀してB1を銃撃させたことに間違いはないと認定した。しかし、銃撃実行者は誰か、またその者との共謀成立経過という、まさにA1と本件犯行とを結びつけている中核的な要証事実の立証を欠いたままの状態で、更にいえば、A2以外にはこれに相当する共犯者は見当たらないと検察官が主張し、立証を尽くした状態のままで、なおA1を氏名不詳者との共謀共同正犯者と認定できるとする原審の判断には、やはり無理があると当裁判所は考える。
3 本件は、a1疑惑銃撃事件として、激しい報道合戦が繰り広げられたいきさつのある事件である。マスコミの調査報道が先行して事件を掘り起こし、これが引き金になって警察の捜査に発展した経過があったことと、事件の謎めいた内容や、犯人と疑われたA1の言動の特異さ等が加わって、格別世間の注目をひいた。週刊誌や芸能誌、テレビのワイドショーなどを中心として激しい報道が繰り返されたが、こうした場面では、報道する側において、報道の根拠としている証拠が、反対尋問の批判に耐えて高い証明力を保持し続けることができるだけの確かさを持っているかどうかの検討が十分でないまま、総じて嫌疑をかける側に回る傾向を避け難い。
ところが、その後公判廷での証拠調べを通じて、本件の証拠関係は極めて微妙であり、広く報道されているほど単純ではないことが明らかになっている。争点は極めて多岐にわたるのに、目撃者の供述内容には変遷が多く、事案の解明につながる物証はなく、A1の本件関係での捜査官に対する供述調書は一通もなく、またA2についても自白調書と呼べるものはない。結局、情況証拠を洗い出し、矛盾する証拠をも無視しないで、モザイク状の証拠と事実をつき合わせて全体像を推認してゆく以外には手がない証拠関係にあるところ、検察官からは、A1は、保険金取得のために、A2に指示してライフル銃で妻B1を銃撃させ、かつ、被害者を偽装する目的で自分の大腿部にも銃弾を撃ち込ませたとの主張がされ、弁護人らからは、そのように判断できる証拠はどこにもないではないかとの反論がされて、証拠の評価をめぐる対立は際立っている。この対立は、証拠を歪みなく評価しても当事者としての立場の違いによって避けられないものなのか、それともそれぞれが都合のよい証拠だけを強調し、そうでない証拠を無視する結果として生じているだけなのか、証拠に直に接する機会がない者には判断のしようがない状態にある。
ところで、証拠調べの結果が右のとおり微妙であっても、報道に接した者が最初に抱いた印象は簡単に消えるものではない。それどころか、最初に抱いた印象を基準にして判断し、逆に公判廷で明らかにされた方が間違っているのではないかとの不信感を持つ者がいないとも限らない。そうした誤解や不信を避けるためには、まず公判廷での批判に耐えた確かな証拠によってはっきりした事実と、報道はされたが遂に証拠の裏付けがなく、いわば憶測でしかなかった事実とを区別して判示し、その結果、証拠に基づいた事実関係の見直しを可能にすることの重要性が痛感される。
略
第二 当裁判所の判断
被告人A1にかかる前記殺人の主位的訴因及び同予備的訴因、前記詐欺の主位的訴因及び予備的訴因については、いずれも以上に詳しく述べたとおりの理由により、合理的な疑いを差し挟む余地が残り、結局いずれも犯罪の証明がないことに帰するから、無罪を言い渡すべきものである。
よって、右の各事実について、刑訴法三三六条により同被告人に対し無罪の言渡しをする。
よって、主文のとおり判決する。
検察官 山田弘司、三浦正晴各公判出席
(裁判長裁判官 秋山規雄 裁判官 門野博 裁判官 福崎伸一郎)