田原睦夫裁判長名判決 痴漢事件の被害者供述に関する最高裁平成21年判決

刑事訴訟法判例百選 10版「69事件 解説は遠藤邦夫判事

強制わいせつ被告事件

最高裁判所第3小法廷判決/平成19年(あ)第1785号

平成21年4月14日

【判示事項】 1 上告審における事実誤認の主張に関する審査の方法

       2 満員電車内における強制わいせつ被告事件について,被害者とされた者の供述の信用性を全面的に肯定した第1審判決及び原判決の認定が是認できないとされた事例

 

【判決要旨】 1 上告審における事実誤認の主張に関する審査は,原判決の認定が論理則,経験則等に照らして不合理かどうかの観点から行うべきである。

 

       2 被告人が満員電車内で女性Aに対して痴漢行為をしたとされる強制わいせつ被告事件について,被告人が一貫して犯行を否認しており,Aの供述以外にこれを基礎付ける証拠がなく,被告人にこの種の犯行を行う性向もうかがわれないという事情の下では,Aの供述の信用性判断は特に慎重に行う必要があり,Aの供述する被害状況に不自然な点があることなどを勘案すると,Aの供述の信用性を全面的に肯定した第1審判決及び原判決の認定は不合理であり是認できない。

       (2について補足意見,反対意見がある。)

 

【参照条文】 刑事訴訟法411

       刑法176

       刑事訴訟法317

 

【掲載誌】  最高裁判所刑事判例集63巻4号331頁

       裁判所時報1481号111頁

       判例タイムズ1303号95頁

       判例時報2052号151頁

       LLI/DB 判例秘書登載

 

【評釈論文】 季刊刑事弁護59号101頁

       ジュリスト1391号148頁

       ジュリスト1424号125頁

       法学セミナー54巻6号132頁

       法曹時報64巻7号1904頁

       法律時報82巻4号123頁

       刑事法ジャーナル19号97頁

 

       主   文

 

  原判決及び第1審判決を破棄する。

  被告人は無罪。

 

        理   由

 

  弁護人秋山賢三ほかの上告趣意は,憲法違反,判例違反をいう点を含め,実質は単なる法令違反,事実誤認,量刑不当の主張であり,被告人本人の上告趣意は,事実誤認の主張であって,いずれも刑訴法405条の上告理由に当たらない。

  しかしながら,所論にかんがみ,職権をもって調査すると,原判決及び第1審判決は,刑訴法411条3号により破棄を免れない。その理由は,以下のとおりである。

  第1 本件公訴事実及び本件の経過

  本件公訴事実の要旨は,「被告人は,平成18年4月18日午前7時56分ころから同日午前8時3分ころまでの間,東京都世田谷区内の小田急電鉄株式会社成城学園前駅から下北沢駅に至るまでの間を走行中の電車内において,乗客である当時17歳の女性に対し,パンティの中に左手を差し入れその陰部を手指でもてあそぶなどし,もって強いてわいせつな行為をした」というものである。

  第1審判決は,上記のとおりの被害を受けたとする上記女性(以下「A」という。)の供述に信用性を認め,公訴事実と同旨の犯罪事実を認定して,被告人を懲役1年10月に処し,被告人からの控訴に対し,原判決も,第1審判決の事実認定を是認して,控訴を棄却した。

  第2 当裁判所の判断

  1 当審における事実誤認の主張に関する審査は,当審が法律審であることを原則としていることにかんがみ,原判決の認定が論理則,経験則等に照らして不合理といえるかどうかの観点から行うべきであるが,本件のような満員電車内の痴漢事件においては,被害事実や犯人の特定について物的証拠等の客観的証拠が得られにくく,被害者の供述が唯一の証拠である場合も多い上,被害者の思い込みその他により被害申告がされて犯人と特定された場合,その者が有効な防御を行うことが容易ではないという特質が認められることから,これらの点を考慮した上で特に慎重な判断をすることが求められる。

  2 関係証拠によれば,次の事実が明らかである。

  (1) 被告人は,通勤のため,本件当日の午前7時34分ころ,小田急線鶴川駅から,綾瀬行き準急の前から5両目の車両に,Aは,通学のため,同日午前7時44分ころ,読売ランド前駅から,同車両に乗った。被告人とAは,遅くとも,本件電車が同日午前7時56分ころ成城学園前駅を発車して間もなくしてから,満員の上記車両の,進行方向に向かって左側の前から2番目のドア付近に,互いの左半身付近が接するような体勢で,向かい合うような形で立っていた。

  (2) Aは,本件電車が下北沢駅に着く直前,左手で被告人のネクタイをつかみ,「電車降りましょう。」と声を掛けた。これに対して,被告人は,声を荒げて,「何ですか。」などと言い,Aが「あなた今痴漢をしたでしょう。」と応じると,Aを離そうとして,右手でその左肩を押すなどした。本件電車は,間もなく,下北沢駅に止まり,2人は,開いたドアからホームの上に押し出された。Aは,その場にいた同駅の駅長に対し,被告人を指さし,「この人痴漢です。」と訴えた。そこで,駅長が被告人に駅長室への同行を求めると,被告人は,「おれは関係ないんだ,急いでいるんだ。」などと怒気を含んだ声で言い,駅長の制止を振り切って,車両に乗り込んだが,やがて,駅長の説得に応じて下車し,駅長室に同行した。

  (3) Aが乗車してから,被告人らが降車した下北沢駅までの本件電車の停車駅は,順に,読売ランド前,生田,向ヶ丘遊園,登戸,成城学園前,下北沢である。

  3 Aは,第1審公判及び検察官調書(同意採用部分)において,要旨,次のように供述している。

  「読売ランド前から乗車した後,左側ドア付近に立っていると,生田を発車してすぐに,私と向かい合わせに立っていた被告人が,私の頭越しに,かばんを無理やり網棚に載せた。そこまで無理に上げる必要はないんじゃないかと思った。その後,私と被告人は,お互いの左半身がくっつくような感じで立っていた。向ヶ丘遊園を出てから痴漢に遭い,スカートの上から体を触られた後,スカートの中に手を入れられ,下着の上から陰部を触られた。登戸に着く少し前に,その手は抜かれたが,登戸を出ると,成城学園前に着く直前まで,下着の前の方から手を入れられ,陰部を直接触られた。触られている感覚から,犯人は正面にいる被告人と思ったが,されている行為を見るのが嫌だったので,目で見て確認はしなかった。成城学園前に着いてドアが開き,駅のホーム上に押し出された。被告人がまだいたらドアを替えようと思ったが,被告人を見失って迷っているうち,ドアが閉まりそうになったので,再び,同じドアから乗った。乗る直前に,被告人がいるのに気付いたが,後ろから押し込まれる感じで,また被告人と向かい合う状態になった。私が,少しでも避けようと思って体の向きを変えたため,私の左肩が被告人の体の中心にくっつくような形になった。成城学園前を出ると,今度は,スカートの中に手を入れられ,右の太ももを触られた。私は,いったん電車の外に出たのにまたするなんて許せない,捕まえたり,警察に行ったときに説明できるようにするため,しっかり見ておかなければいけないと思い,その状況を確認した。すると,スカートのすそが持ち上がっている部分に腕が入っており,ひじ,肩,顔と順番に見ていき,被告人の左手で触られていることが分かった。その後,被告人は,下着のわきから手を入れて陰部を触り,さらに,その手を抜いて,今度は,下着の前の方から手を入れて陰部を触ってきた。その間,再び,お互いの左半身がくっつくような感じになっていた。私が,下北沢に着く直前,被告人のネクタイをつかんだのと同じころ,被告人は,私の体を触るのを止めた。」

  4 第1審判決は,Aの供述内容は,当時の心情も交えた具体的,迫真的なもので,その内容自体に不自然,不合理な点はなく,Aは,意識的に当時の状況を観察,把握していたというのであり,犯行内容や犯行確認状況について,勘違いや記憶の混乱等が起こることも考えにくいなどとして,被害状況及び犯人確認状況に関するAの上記供述は信用できると判示し,原判決もこれを是認している。

  5 そこで検討すると,被告人は,捜査段階から一貫して犯行を否認しており,本件公訴事実を基礎付ける証拠としては,Aの供述があるのみであって,物的証拠等の客観的証拠は存しない(被告人の手指に付着していた繊維の鑑定が行われたが,Aの下着に由来するものであるかどうかは不明であった。)。被告人は,本件当時60歳であったが,前科,前歴はなく,この種の犯行を行うような性向をうかがわせる事情も記録上は見当たらない。したがって,Aの供述の信用性判断は特に慎重に行う必要があるのであるが,(1)Aが述べる痴漢被害は,相当に執ようかつ強度なものであるにもかかわらず,Aは,車内で積極的な回避行動を執っていないこと,(2)そのことと前記2(2)のAのした被告人に対する積極的な糾弾行為とは必ずしもそぐわないように思われること,また,(3)Aが,成城学園前駅でいったん下車しながら,車両を替えることなく,再び被告人のそばに乗車しているのは不自然であること(原判決も「いささか不自然」とは述べている。)などを勘案すると,同駅までにAが受けたという痴漢被害に関する供述の信用性にはなお疑いをいれる余地がある。そうすると,その後にAが受けたという公訴事実記載の痴漢被害に関する供述の信用性についても疑いをいれる余地があることは否定し難いのであって,Aの供述の信用性を全面的に肯定した第1審判決及び原判決の判断は,必要とされる慎重さを欠くものというべきであり,これを是認することができない。被告人が公訴事実記載の犯行を行ったと断定するについては,なお合理的な疑いが残るというべきである。

  第3 結論

  以上のとおり,被告人に強制わいせつ罪の成立を認めた第1審判決及びこれを維持した原判決には,判決に影響を及ぼすべき重大な事実誤認があり,これを破棄しなければ著しく正義に反するものと認められる。

 そして,既に第1審及び原審において検察官による立証は尽くされているので,当審において自判するのが相当であるところ,本件公訴事実については犯罪の証明が十分でないとして,被告人に対し無罪の言渡しをすべきである。

  よって,刑訴法411条3号により原判決及び第1審判決を破棄し,同法413条ただし書,414条,404条,336条により,裁判官堀籠幸男,同田原睦夫の各反対意見があるほか,裁判官全員一致の意見で,主文のとおり判決する。なお,裁判官那須弘平,同近藤崇晴の各補足意見がある。

  裁判官那須弘平の補足意見は,次のとおりである。

  1 冤罪で国民を処罰するのは国家による人権侵害の最たるものであり,これを防止することは刑事裁判における最重要課題の一つである。刑事裁判の鉄則ともいわれる「疑わしきは被告人の利益に」の原則も,有罪判断に必要とされる「合理的な疑いを超えた証明」の基準の理論も,突き詰めれば冤罪防止のためのものであると考えられる。

  本件では,公訴事実に当たる痴漢犯罪をめぐり,被害を受けたとされる女性(以下「A」という。)が被告人を犯人であると指摘するもののこれを補強する客観的証拠がないに等しく,他方で被告人が冤罪を主張するもののやはりこれを補強する客観的証拠に乏しいという証拠状況の下で,1審及び原審の裁判官は有罪・無罪の選択を迫られ,当審でも裁判官の意見が二つに分かれている。意見が分かれる原因を探ると,結局は「合理的な疑いを超えた証明」の原理を具体的にどのように適用するかについての考え方の違いに行き着くように思われる。そこで,この際,この点について私の考え方を明らかにして,多数意見が支持されるべき理由を補足しておきたい。

  2 痴漢事件について冤罪が争われている場合に,被害者とされる女性の公判での供述内容について「詳細かつ具体的」,「迫真的」,「不自然・不合理な点がない」などという一般的・抽象的な理由により信用性を肯定して有罪の根拠とする例は,公表された痴漢事件関係判決例をみただけでも少なくなく,非公表のものを含めれば相当数に上ることが推測できる。しかし,被害者女性の供述がそのようなものであっても,他にその供述を補強する証拠がない場合について有罪の判断をすることは,「合理的な疑いを超えた証明」に関する基準の理論との関係で,慎重な検討が必要であると考える。その理由は以下のとおりである。

  ア 混雑する電車内での痴漢事件の犯行は,比較的短時間のうちに行われ,行為の態様も被害者の身体の一部に手で触る等という単純かつ類型的なものであり,犯行の動機も刹那的かつ単純なもので,被害者からみて被害を受ける原因らしいものはこれといってないという点で共通している。被害者と加害者とは見ず知らずの間柄でたまたま車内で近接した場所に乗り合わせただけの関係で,犯行の間は車内での場所的移動もなくほぼ同一の姿勢を保ったまま推移する場合がほとんどである。このように,混雑した電車の中での痴漢とされる犯罪行為は,時間的にも空間的にもまた当事者間の人的関係という点から見ても,単純かつ類型的な態様のものが多く,犯行の痕跡も(加害者の指先に付着した繊維や体液等を除いては)残らないため,「触ったか否か」という単純な事実が争われる点に特徴がある。このため,普通の能力を有する者(例えば十代後半の女性等)がその気になれば,その内容が真実である場合と,虚偽,錯覚ないし誇張等を含む場合であるとにかかわらず,法廷において「具体的で詳細」な体裁を具えた供述をすることはさほど困難でもない。その反面,弁護人が反対尋問で供述の矛盾を突き虚偽を暴き出すことも,裁判官が「詳細かつ具体的」,「迫真的」あるいは「不自然・不合理な点がない」などという一般的・抽象的な指標を用いて供述の中から虚偽,錯覚ないし誇張の存否を嗅ぎ分けることも,けっして容易なことではない。本件のような類型の痴漢犯罪被害者の公判における供述には,元々,事実誤認を生じさせる要素が少なからず潜んでいるのである。

  イ 被害者が公判で供述する場合には,被害事実を立証するために検察官側の証人として出廷するのが一般的であり,検察官の要請により事前に面接して尋問の内容及び方法等について詳細な打ち合わせをすることは,広く行われている。痴漢犯罪について虚偽の被害申出をしたことが明らかになれば,刑事及び民事上の責任を追及されることにもなるのであるから(刑法172条,軽犯罪法1条16号,民法709条),被害者とされる女性が公判で被害事実を自ら覆す供述をすることはない。検察官としても,被害者の供述が犯行の存在を証明し公判を維持するための頼りの綱であるから,捜査段階での供述調書等の資料に添った矛盾のない供述が得られるように被害者との入念な打ち合わせに努める。この検察官の打ち合わせ作業自体は,法令の規定(刑事訴訟規則191条の3)に添った当然のものであって,何ら非難されるべき事柄ではないが,反面で,このような作業が念入りに行われれば行われるほど,公判での供述は外見上「詳細かつ具体的」,「迫真的」で,「不自然・不合理な点がない」ものとなるのも自然の成り行きである。これを裏返して言えば,公判での被害者の供述がそのようなものであるからといって,それだけで被害者の主張が正しいと即断することには危険が伴い,そこに事実誤認の余地が生じることになる。

  ウ 満員電車内の痴漢事件については上記のような特別の事情があるのであるから,冤罪が真摯に争われている場合については,たとえ被害者女性の供述が「詳細かつ具体的」,「迫真的」で,弁護人の反対尋問を経てもなお「不自然・不合理な点がない」かのように見えるときであっても,供述を補強する証拠ないし間接事実の存否に特別な注意を払う必要がある。その上で,補強する証拠等が存在しないにもかかわらず裁判官が有罪の判断に踏み切るについては,「合理的な疑いを超えた証明」の視点から問題がないかどうか,格別に厳しい点検を欠かせない。

  3 以上検討したところを踏まえてAの供述を見るに,1審及び原審の各判決が示すような「詳細かつ具体的」等の一般的・抽象的性質は具えているものの,これを超えて特別に信用性を強める方向の内容を含まず,他にこれといった補強する証拠等もないことから,上記2に挙げた事実誤認の危険が潜む典型的な被害者供述であると認められる。

  これに加えて,本件では,判決理由第2の5に指摘するとおり被害者の供述の信用性に積極的に疑いをいれるべき事実が複数存在する。その疑いは単なる直感による「疑わしさ」の表明(「なんとなく変だ」「おかしい」)の域にとどまらず,論理的に筋の通った明確な言葉によって表示され,事実によって裏づけられたものでもある。Aの供述はその信用性において一定の疑いを生じる余地を残したものであり,被告人が有罪であることに対する「合理的な疑い」を生じさせるものであるといわざるを得ないのである。

  したがって,本件では被告人が犯罪を犯していないとまでは断定できないが,逆に被告人を有罪とすることについても「合理的な疑い」が残るという,いわばグレーゾーンの証拠状況にあると判断せざるを得ない。その意味で,本件では未だ「合理的な疑いを超えた証明」がなされておらず,「疑わしきは被告人の利益に」の原則を適用して,無罪の判断をすべきであると考える。