津地鎮祭事件最高裁判決 昭和52年 

憲法判例百選Ⅰ 第7版 42事件 『憲法 事例問題起案の基礎』 精選憲法判例人権編16事件

佐藤幸治 日本コック憲法論第2版146頁
行政処分取消等請求事件

 

【事件番号】       最高裁判所大法廷判決/昭和46年(行ツ)第69号

【判決日付】       昭和52年7月13日

【判示事項】       一、憲法における政教分離原則

             二、憲法20条3項にいう宗教的活動の意義

             三、市の主催により神式に則り挙行された市体育館の起工式が憲法20条3項にいう宗教的活動にあたらないとされた事例

【判決要旨】       一、憲法における政教分離原則は、国家が宗教的に中立であることを要求するものであるが、国家が宗教とのかかわり合いをもつことを全く許さないとするものではなく、宗教とのかかわり合いをもたらす行為の目的及び効果にかんがみ、そのかかわり合いが、わが国の社会的・文化的諸条件に照らし、信教の自由の保障の確保という制度の根本目的との関係で、相当とされる限度を超えるものと認められる場合にこれを許さないものとするものである。

             二、憲法20条3項にいう宗教的活動とは、国及びその機関の活動で宗教とのかかわり合いをもつすべての行為を指すものではなく、当該行為の目的が宗教的意義をもち、その効果が宗教に対する援助、助長、促進又は圧迫、干渉等になるような行為をいう。

             三、市の主催により神式に則り挙行された市体育館の起工式は、宗教とかかわり合いをもつものではあるが、その目的が建築着工に際し土地の平安堅固、工事の無事安全を願い、社会の一般的慣習に従った儀礼を行うという専ら世俗的なものと認められ、その効果が神道を援助、助長、促進し又は他の宗教に圧迫、干渉を加えるものとは認められない、判示の事情のもとにおいては、憲法20条3項にいう宗教的活動にはあたらない。

【参照条文】       憲法20

             憲法89

             憲法20-3

【掲載誌】        最高裁判所民事判例集31巻4号533頁

             最高裁判所裁判集民事121号103頁

             裁判所時報718号1頁

             判例タイムズ350号204頁

             判例時報855号24頁

【評釈論文】       教育委員会月報29巻7号12頁

             ジュリスト648号16頁

             ジュリスト648号41頁

             ジュリスト648号47頁

             ジュリスト臨時増刊666号15頁

             ジュリスト増刊(憲法の判例第3版)29頁

             別冊ジュリスト68号48頁

             別冊ジュリスト95号68頁

             別冊ジュリスト109号42頁

             地方自治358号88頁

             地方自治498号81頁

             地方自治職員研修38巻81号66頁

             法学セミナー50巻12号88頁

             法曹時報33巻2号227頁

             法律時報49巻11号89頁

             民商法雑誌78巻6号818頁

 

       主   文

 

 原判決中上告人敗訴部分を破棄する。

 前項の部分につき、被上告人の控訴を棄却する。

 控訴費用及び上告費用は被上告人の負担とする。

 

       理   由

 

 第一 上告代理人堀家嘉郎の上告理由第一点について

 本件訴状の記載に徴すれば、本訴は上告人であるA個人を被告として提起されたものと認められるから、本訴が津市長を被告として提起されたことを前提とする所論は、その前提を欠き、失当である。論旨は、採用することができない。

 第二 同上告理由第一点の追加補充について

 本件記録に徴すれば、被上告人が本訴を提起するについて必要とされる監査請求を経ていることは、明らかである。原判決に所論の違法はなく、論旨は採用することができない。

 第三 上告代理人堀家嘉郎の上告理由第二点及び同樋口恒通の上告理由第四点について

 公金の支出が違法となるのは単にその支出自体が憲法八九条に違反する場合だけではなく、その支出の原因となる行為が憲法二〇条三項に違反し許されない場合の支出もまた、違法となることが明らかである。所論は、本件公金の支出が憲法八九条に違反する場合にのみ違法となることを前提とするものであつて、失当である。論旨は、採用することができない。

 第四 上告代理人堀家嘉郎の上告理由第三点、上告代理人奥野健一、同田辺恒貞、同早瀬川武の上告理由第一点ないし第三点、上告代理人樋口恒通の上告理由第一点ないし第三点について

 一 本件の経過

 (一) 本件は、津市体育館の起工式(以下「本件起工式」という。)が、地方公共団体である津市の主催により、同市の職員が進行係となつて、昭和四〇年一月一四日、同市a町の建設現場において、宗教法人大市神社の宮司ら四名の神職主宰のもとに神式に則り挙行され、上告人が、同市市長として、その挙式費用金七六六三円(神職に対する報償費金四〇〇〇円、供物料金三六六三円)を市の公金から支出したことにつき、その適法性が争われたものである。

 (二) 第一審は、本件起工式は、古来地鎮祭の名のもとに行われてきた儀式と同様のものであり、外見上神道の宗教的行事に属することは否定しえないが、その実態をみれば習俗的行事であつて、神道の布教、宣伝を目的とした宗教的活動ではないから、憲法二〇条三項に違反するものではなく、また、本件起工式の挙式費用の支出も特定の宗教団体を援助する目的をもつてされたものとはいえず、特に神職に対する金四〇〇〇円の支出は単に役務に対する報酬の意味を有するにすぎないから、憲法八九条、地方自治法一三八条の二に違反するものではない、と判断した。

 これに対し、原審は、本件起工式は、単なる社会的儀礼ないし習俗的行事とみることはできず、神社神道固有の宗教儀式というべきところ、憲法は、完全な政教分離原則を採用して国家と宗教との明確な分離を意図し、国家の非宗教性を宣明したものであるから、憲法二〇条三項の禁止する宗教的活動とは、単に特定の宗教の布教、教化、宣伝等を目的とする積極的行為のみならず、同条二項の掲げる宗教上の行為、祝典、儀式又は行事を含む、およそ宗教的信仰の表現である一切の行為を網羅するものと解すべきであるとし、本件起工式は、憲法二〇条三項の禁止する宗教的活動に該当し許されないものであり、したがつて、これがため上告人が市長としてした公金の支出もまた違法なものである、と判断した。

 (三) 論旨は、要するに、本件起工式は、古来地鎮祭の名のもとに社会の一般的慣行として是認され、実施されてきた習俗的行事はほかならず、憲法二〇条三項の禁止する宗教的活動には該当しないものであるのに、これに該当するものとした原判決は、本件起工式の性質及び政教分離原則の意義についての判断を誤り、ひいて憲法二〇条の解釈適用を誤る違法をおかしたものであつて、右違法は、判決に影響を及ぼすことが明らかである、というのである。

 二 当裁判所の判断

 (一) 憲法における政教分離原則

 憲法は、「信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。」(二〇条一項前段)とし、また、「何人も、宗教上の行為、祝典、儀式又は行事に参加することを強制されない。」(同条二項)として、いわゆる狭義の信教の自由を保障する規定を設ける一方、「いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない。」(同条一項後段)、「国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない。」(同条三項)とし、更に「公金その他の公の財産は、宗教上の組織若しくは団体の使用、便益若しくは維持のため、…………これを支出し、又はその利用に供してはならない。」(八九条)として、いわゆる政教分離の原則に基づく諸規定(以下「政教分離規定」という。)を設けている。

 一般に、政教分離原則とは、およそ宗教や信仰の問題は、もともと政治的次元を超えた個人の内心にかかわることがらであるから、世俗的権力である国家(地方公共団体を含む。以下同じ。)は、これを公権力の彼方におき、宗教そのものに干渉すべきではないとする、国家の非宗教性ないし宗教的中立性を意味するものとされている。もとより、国家と宗教との関係には、それぞれの国の歴史的・社会的条件によつて異なるものがある。わが国では、過去において、大日本帝国憲法(以下「旧憲法」という。)に信教の自由を保障する規定(二八条)を設けていたものの、その保障は「安寧秩序ヲ妨ケス及臣民タルノ義務ニ背カサル限ニ於テ」という同条自体の制限を伴つていたばかりでなく、国家神道に対し事実上国教的な地位が与えられ、ときとして、それに対する信仰が要請され、あるいは一部の宗教団体に対しきびしい迫害が加えられた等のこともあつて、旧憲法のもとにおける信教の自由の保障は不完全なものであることを免れなかつた。しかしながら、このような事態は、第二次大戦の終了とともに一変し、昭和二〇年一二月一五日、連合国最高司令官総司令部から政府にあてて、いわゆる神道指令(「国家神道、神社神道ニ対スル政府ノ保証、支援、保全、監督並ニ弘布ノ廃止ニ関スル件」)が発せられ、これにより神社神道は一宗教として他のすべての宗教と全く同一の法的基礎に立つものとされると同時に、神道を含む一切の宗教を国家から分離するための具体的措置が明示された。昭和二一年一一月三日公布された憲法は、明治維新以降国家と神道とが密接に結びつき前記のような種々の弊害を生じたことにかんがみ、新たに信教の自由を無条件に保障することとし、更にその保障を一層確実なものとするため、政教分離規定を設けるに至つたのである。元来、わが国においては、キリスト教諸国や回教諸国等と異なり、各種の宗教が多元的、重層的に発達、併存してきているのであつて、このような宗教事情のもとで信教の自由を確実に実現するためには、単に信教の自由を無条件に保障するのみでは足りず、国家といかなる宗教との結びつきをも排除するため、政教分離規定を設ける必要性が大であつた。これらの諸点にかんがみると、憲法は、政教分離規定を設けるにあたり、国家と宗教との完全な分離を理想とし、国家の非宗教性ないし宗教的中立性を確保しようとしたもの、と解すべきである。

 しかしながら、元来、政教分離規定は、いわゆる制度的保障の規定であつて、信教の自由そのものを直接保障するものではなく、国家と宗教との分離を制度として保障することにより、間接的に信教の自由の保障を確保しようとするものである。ところが、宗教は、信仰という個人の内心的な事象としての側面を有するにとどまらず、同時に極めて多方面にわたる外部的な社会事象としての側面を伴うのが常であつて、この側面においては、教育、福祉、文化、民俗風習など広汎な場面で社会生活と接触することになり、そのことからくる当然の帰結として、国家が、社会生活に規制を加え、あるいは教育、福祉、文化などに関する助成、援助等の諸施策を実施するにあたつて、宗教とのかかわり合いを生ずることを免れえないこととなる。したがつて、現実の国家制度として、国家と宗教との完全な分離を実現することは、実際上不可能に近いものといわなければならない。更にまた、政教分離原則を完全に貫こうとすれば、かえつて社会生活の各方面に不合理な事態を生ずることを免れないのであつて、例えば、特定宗教と関係のある私立学校に対し一般の私立学校と同様な助成をしたり、文化財である神社、寺院の建築物や仏像等の維持保存のため国が宗教団体に補助金を支出したりすることも疑問とされるに至り、それが許されないということになれば、そこには、宗教との関係があることによる不利益な取扱い、すなわち宗教による差別が生ずることになりかねず、また例えば、刑務所等における教誨活動も、それがなんらかの宗教的色彩を帯びる限り一切許されないということになれば、かえつて受刑者の信教の自由は著しく制約される結果を招くことにもなりかねないのである。これらの点にかんがみると、政教分離規定の保障の対象となる国家と宗教との分離にもおのずから一定の限界があることを免れず、政教分離原則が現実の国家制度として具現される場合には、それぞれの国の社会的・文化的諸条件に照らし、国家は実際上宗教とある程度のかかわり合いをもたざるをえないことを前提としたうえで、そのかかわり合いが、信教の自由の保障の確保という制度の根本目的との関係で、いかなる場合にいかなる限度で許されないこととなるかが、問題とならざるをえないのである。

 右のような見地から考えると、わが憲法の前記政教分離規定の基礎となり、その解釈の指導原理となる政教分離原則は、国家が宗教的に中立であることを要求するものではあるが、国家が宗教とのかかわり合いをもつことを全く許さないとするものではなく、宗教とのかかわり合いをもたらす行為の目的及び効果にかんがみ、そのかかわり合いが右の諸条件に照らし相当とされる限度を超えるものと認められる場合にこれを許さないとするものであると解すべきである。

 (二) 憲法二〇条三項により禁止される宗教的活動

 憲法二〇条三項は、「国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない。」と規定するが、ここにいう宗教的活動とは、前述の政教分離原則の意義に照らしてこれをみれば、およそ国及びその機関の活動で宗教とのかかわり合いをもつすべての行為を指すものではなく、そのかかわり合いが右にいう相当とされる限度を超えるものに限られるというべきであつて、当該行為の目的が宗教的意義をもち、その効果が宗教に対する援助、助長、促進又は圧迫、干渉等になるような行為をいうものと解すべきである。その典型的なものは、同項に例示される宗教教育のような宗教の布教、教化、宣伝等の活動であるが、そのほか宗教上の祝典、儀式、行事等であつても、その目的、効果が前記のようなものである限り、当然、これに含まれる。そして、この点から、ある行為が右にいう宗教的活動に該当するかどうかを検討するにあたつては、当該行為の主宰者が宗教家であるかどうか、その順序作法(式次第)が宗教の定める方式に則つたものであるかどうかなど、当該行為の外形的側面のみにとらわれることなく、当該行為の行われる場所、当該行為に対する一般人の宗教的評価、当該行為者が当該行為を行うについての意図、目的及び宗教的意識の有無、程度、当該行為の一般人に与える効果、影響等、諸般の事情を考慮し、社会通念に従つて、客観的に判断しなければならない。

 なお、憲法二〇条二項の規定と同条三項の規定との関係を考えるのに、両者はともに広義の信教の自由に関する規定ではあるが、二項の規定は、何人も参加することを欲しない宗教上の行為等に参加を強制されることはないという、多数者によつても奪うことのできない狭義の信教の自由を直接保障する規定であるのに対し、三項の規定は、直接には、国及びその機関が行うことのできない行為の範囲を定めて国家と宗教との分離を制度として保障し、もつて間接的に信教の自由を保障しようとする規定であつて、前述のように、後者の保障にはおのずから限界があり、そして、その限界は、社会生活上における国家と宗教とのかかわり合いの問題である以上、それを考えるうえでは、当然に一般人の見解を考慮に入れなければならないものである。右のように、両者の規定は、それぞれ目的、趣旨、保障の対象、範囲を異にするものであるから、二項の宗教上の行為等と三項の宗教的活動とのとらえ方は、その視点を異にするものというべきであり、二項の宗教上の行為等は、必ずしもすべて三項の宗教的活動に含まれるという関係にあるものではなく、たとえ三項の宗教的活動に含まれないとされる宗教上の祝典、儀式、行事等であつても、宗教的信条に反するとしてこれに参加を拒否する者に対し国家が参加を強制すれば、右の者の信教の自由を侵害し、二項に違反することとなるのはいうまでもない。それ故、憲法二〇条三項により禁止される宗教的活動について前記のように解したからといつて、直ちに、宗教的少数者の信教の自由を侵害するおそれが生ずることにはならないのである。

 (三) 本件起工式の性質

 そこで、右の見地に立つて、本件起工式が憲法二〇条三項によつて禁止される宗教的活動にあたるかどうかについて検討する。

 本件起工式は、原審の説示するところによつてみれば、建物の建築の着工にあたり、土地の平安堅固、工事の無事安全を祈願する儀式として行われたことが明らかであるが、その儀式の方式は、原審が確定した事実に徴すれば、専門の宗教家である神職が、所定の服装で、神社神道固有の祭式に則り、一定の祭場を設け一定の祭具を使用して行つたというのであり、また、これを主宰した神職自身も宗教的信仰心に基づいてこれを執行したものと考えられるから、それが宗教とかかわり合いをもつものであることは、否定することができない。

 しかしながら、古来建物等の建築の着工にあたり地鎮祭等の名のもとに行われてきた土地の平安堅固、工事の無事安全等を祈願する儀式、すなわち起工式は、土地の神を鎮め祭るという宗教的な起源をもつ儀式であつたが、時代の推移とともに、その宗教的な意義が次第に稀薄化してきていることは、疑いのないところである。一般に、建物等の建築の着工にあたり、工事の無事安全等を祈願する儀式を行うこと自体は、「祈る」という行為を含むものであるとしても、今日においては、もはや宗教的意義がほとんど認められなくなつた建築上の儀礼と化し、その儀式が、たとえ既存の宗教において定められた方式をかりて行われる場合でも、それが長年月にわたつて広く行われてきた方式の範囲を出ないものである限り、一般人の意識においては、起工式にさしたる宗教的意義を認めず、建築着工に際しての慣習化した社会的儀礼として、世俗的な行事と評価しているものと考えられる。本件起工式は、神社神道固有の祭祀儀礼に則つて行われたものであるが、かかる儀式は、国民一般の間にすでに長年月にわたり広く行われてきた方式の範囲を出ないものであるから、一般人及びこれを主催した津市の市長以下の関係者の意識においては、これを世俗的行事と評価し、これにさしたる宗教的意義を認めなかつたものと考えられる。

 また、現実の一般的な慣行としては、建築着工にあたり建築主の主催又は臨席のもとに本件のような儀式をとり入れた起工式を行うことは、特に工事の無事安全等を願う工事関係者にとつては、欠くことのできない行事とされているのであり、このことと前記のような一般人の意識に徴すれば、建築主が一般の慣習に従い起工式を行うのは、工事の円滑な進行をはかるため工事関係者の要請に応じ建築着工に際しての慣習化した社会的儀礼を行うという極めて世俗的な目的によるものであると考えられるのであつて、特段の事情のない本件起工式についても、主催者の津市の市長以下の関係者が右のような一般の建築主の目的と異なるものをもつていたとは認められない。

 元来、わが国においては、多くの国民は、地域社会の一員としては神道を、個人としては仏教を信仰するなどし、冠婚葬祭に際しても異なる宗教を使いわけてさしたる矛盾を感ずることがないというような宗教意識の雑居性が認められ、国民一般の宗教的関心度は必ずしも高いものとはいいがたい。他方、神社神道自体については、祭祀儀礼に専念し、他の宗教にみられる積極的な布教・伝道のような対外活動がほとんど行われることがないという特色がみられる。このような事情と前記のような起工式に対する一般人の意識に徴すれば、建築工事現場において、たとえ専門の宗教家である神職により神社神道固有の祭祀儀礼に則つて、起工式が行われたとしても、それが参列者及び一般人の宗教的関心を特に高めることとなるものとは考えられず、これにより神道を援助、助長、促進するような効果をもたらすことになるものとも認められない。そして、このことは、国家が主催して、私人と同様の立場で、本件のような儀式による起工式を行つた場合においても、異なるものではなく、そのために、国家と神社神道との間に特別に密接な関係が生じ、ひいては、神道が再び国教的な地位をえたり、あるいは信教の自由がおびやかされたりするような結果を招くものとは、とうてい考えられないのである。

 以上の諸事情を総合的に考慮して判断すれば、本件起工式は、宗教とかかわり合いをもつものであることを否定しえないが、その目的は建築着工に際し土地の平安堅固、工事の無事安全を願い、社会の一般的慣習に従つた儀礼を行うという専ら世俗的なものと認められ、その効果は神道を援助、助長、促進し又は他の宗教に圧迫、干渉を加えるものとは認められないのであるから、憲法二〇条三項により禁止される宗教的活動にはあたらないと解するのが、相当である。

 (四) むすび

 右に判示したところと異なる原審の判断は、結局、憲法二〇条三項の解釈適用を誤つたものというべく、右の違法は、判決の結論に影響を及ぼすことが明らかであり、論旨は理由がある。

 第五 結論

 以上の次第で、原判決中上告人敗訴部分は、破棄を免れない。そこで、更に、右部分について判断するに、前述したところによれば、本件起工式は、なんら憲法二〇条三項に違反するものではなく、また、宗教団体に特権を与えるものともいえないから、同条一項後段にも違反しないというべきである。更に、右起工式の挙式費用の支出も、前述のような本件起工式の目的、効果及び支出金の性質、額等から考えると、特定の宗教組織又は宗教団体に対する財政援助的な支出とはいえないから、憲法八九条に違反するものではなく、地方自治法二条一五項、一三八条の二にも違反するものではない。したがつて、右支出が違法であることを前提とする上告人に対する被上告人の請求は理由がなく、棄却されるべきものである。それ故、これと同旨の第一審判決は相当であり、前記部分に関する本件控訴は棄却されるべきものである。

 よつて、行政事件訴訟法七条、民訴法四〇八条、三九六条、三八四条に従い、訴訟費用の負担につき同法九六条、八九条を適用し、裁判官藤林益三、同吉田豊、同団藤重光、同服部高顯、同環昌一の反対意見があるほか、裁判官全員一致の意見で、主文のとおり判決する。

 裁判官藤林益三、同吉田豊、同団藤重光、同服部高顯、同環昌一の反対意見(裁判官藤林益三については、本反対意見のほか、後記のような追加反対意見がある。)は、次のとおりである。

 一 憲法における政教分離原則

 信教の自由は、近代における人間の精神的自由の確立の母胎となり、自由権の先駆的な役割を果たし、その中核を形成した重要な基本的人権であり、現代の各国の憲法において、精神生活の基本原則として、普遍的に保障されているものである。わが憲法も、二〇条一項前段において「信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。」と規定して信教の自由を無条件で保障するとともに、同項後段において宗教団体に対する特権の付与及び宗教団体の政治権力の行使の禁止を、二項において宗教上の行為等に対する参加の強制の禁止を、三項において国及びその機関の宗教的活動の禁止を、また、八九条において宗教上の組織・団体に対する財政援助の禁止をそれぞれ規定し、あらゆる角度から信教の自由を完全に保障しようとしている。

 そもそも信教の自由を保障するにあたつては、単に無条件でこれを保障する旨を宣明するだけでは不十分であり、これを完全なものとするためには、何よりも先ず国家と宗教との結びつきを一切排除することが不可欠である。けだし、国家と宗教とが結びつくときは、国家が宗教の介入を受け又は宗教に介入する事態を生じ、ひいては、それと相容れない宗教が抑圧され信教の自由が侵害されるに至るおそれが極めて強いからである。このことは、わが国における明治維新以降の歴史に照らしても明らかなところである。

 すなわち、明治元年(一八六八年)、新政府は、祭政一致を布告し、神祇官を再興し、全国の神社・神職を新政府の直接支配下に組み入れる神道国教化の構想を明示したうえ、一連のいわゆる神仏判然令をもつて神仏分離を命じ、神道を純化・独立させ、仏教に打撃を与え、他方、キリスト教に対しては、幕府の方針をほとんどそのまま受け継ぎ、これを禁圧した。明治三年(一八七〇年)、大教宣布の詔によつて神ながらの道が宣布され、同五年(一八七二年)、教部省は、教導職に対し三条の教則(「第一条 敬神愛国ノ旨ヲ体スヘキ事 第二条 天理人道ヲ明ニスヘキ事 第三条 皇上ヲ奉戴シ朝旨ヲ遵守セシムヘキ事」)を達し、天皇崇拝と神社信仰を主軸とする宗教的政治思想の基本を示し、これにより、国民を教化しようとした。また、明治四年(一八七一年)、政府は、神社は国家の宗祀であり一人一家の私有にすべきでないとし(太政官布告第二三四号)、更に、「官社以下定額及神官職員規則等」(太政官布告第二三五号)により、伊勢神宮を別として、神社を官社(官幣社、国幣社)、諸社(府社、藩社、県社、郷社)に分ける社格制度を定め、神職には官公吏の地位を与えて、他の宗教と異なる特権的地位を認めた。明治八年(一八七五年)、政府は、神仏各宗合同の布教を差し止め各自布教するよう達し、神仏各宗に信仰の自由を容認する旨を口達しながら、明治一五年(一八八二年)、神官の教導職の兼補を廃し葬儀に関与しないものとする旨の達(内務省達乙第七号、丁第一号)を発し、神社神道を祭祀に専念させることによつて宗教でないとする建前をとり、これを事実上国教化する国家神道の体制を固めた。明治二二年(一八八九年)、旧憲法が発布され、その二八条は信教の自由を保障していたものの、その保障は、「安寧秩序ヲ妨ケス及臣民タルノ義務ニ背カサル限ニ於テ」という制限を伴つていたばかりでなく、法制上は国教が存在せず各宗教間の平等が認められていたにもかかわらず、上述のようにすでにその時までに、事実上神社神道を国教的取扱いにした国家神道の体制が確立しており、神社を崇奉敬戴すべきは国民の義務であるとされていたために、極めて不完全なものであることを免れなかつた。更に、明治三九年法律第二四号「官国幣社経費ニ関スル法律」により、官国幣社の経費を国庫の負担とすることが、また、同年勅令第九六号「府県社以下神社ノ神饌幣帛料供進ニ関スル件」により、府県社以下の神社の神饌幣帛料を地方公共団体の負担とすることが定められ、ここに神社は国又は地方公共団体と財政的にも完全に結びつくに至つた。このようにして、昭和二〇年(一九四五年)の敗戦に至るまで、神社神道は事実上国教的地位を保持した。その間に、大本教、ひとのみち教団、創価教育学会、日本基督教団などは、厳しい取締・禁圧を受け、各宗教は国家神道を中心とする国体観念と矛盾しない限度でその地位を認められたにすぎなかつた。そして、神社参拝等が事実上強制され、旧憲法で保障された信教の自由は著しく侵害されたばかりでなく、国家神道は、いわゆる軍国主義の精神的基盤ともなつていた。そこで、昭和二〇年(一九四五年)一二月一五日、連合国最高司令官総司令部は、日本政府にあてて、いわゆる神道指令(「国家神道、神社神道ニ対スル政府ノ保証、支援、保全、監督並ニ弘布ノ廃止ニ関スル件」)を発し、これにより、国家と神社神道との完全な分離が命ぜられ、神社神道は一宗教として他の一切の宗教と同じ法的基礎のうえに立つこと、そのために、神道を含むあらゆる宗教を国家から分離すること、神道に対する国家、官公吏の特別な保護監督の停止、神道及び神社に対する公けの財政援助の停止、神棚その他国家神道の物的象徴となるものの公的施設における設置の禁止及び撤去等の具体的措置が明示された。