藤田宙靖裁判長名判決 大阪現職刑務官母子殺人放火事件最高裁平成22年

藤田宙靖『最高裁回顧録 学者判事の七年半』有斐閣・361頁]       殺人,現住建造物等放火被告事件

最高裁判所第3小法廷判決/平成19年(あ)第80号

平成22年4月27日

【判示事項】       殺人,現住建造物等放火の公訴事実について間接事実を総合して被告人を有罪とした第1審判決及びその事実認定を是認した原判決に,審理不尽の違法,事実誤認の疑いがあるとされた事例

【判決要旨】       殺人,現住建造物等放火の公訴事実について,間接事実を総合して被告人が犯人であるとした第1審判決及びその事実認定を是認した原判決は,認定された間接事実中に被告人が犯人でないとしたならば合理的に説明することができない(あるいは,少なくとも説明が極めて困難である)事実関係が含まれているとは認められないなど,間接事実に関する審理不尽の違法,事実誤認の疑いがあり,刑訴法411条1号,3号により破棄を免れない。

【参照条文】       刑法108

             刑法199

             刑事訴訟法317

             刑事訴訟法411

             刑事訴訟法413本文

【掲載誌】        最高裁判所刑事判例集64巻3号233頁

             裁判所時報1507号181頁

             判例タイムズ1326号137頁

             判例時報2080号135頁

             LLI/DB 判例秘書登載

【評釈論文】       研修745号21頁

             論究ジュリスト7号227頁

             ジュリスト1426号174頁

             法学新報117巻5~6号237頁

             法曹時報65巻6号1409頁

             法律時報83巻9~10号118頁

             早稲田法学87巻4号145頁

 

       主   文

 

 原判決及び第1審判決を破棄する。

 本件を大阪地方裁判所に差し戻す。

 

       理   由

 

 弁護人中道武美の上告趣意のうち,第1点ないし第3点は,憲法37条違反,判例違反をいう点を含め,実質は単なる法令違反,事実誤認の主張であり,被告人本人の上告趣意は,事実誤認の主張であって,いずれも刑訴法405条の上告理由に当たらない。

 しかしながら,所論にかんがみ,職権をもって調査すると,原判決及び第1審判決は,刑訴法411条1号,3号により破棄を免れない。その理由は,以下のとおりである。

 1 本件公訴事実及び争点

 本件公訴事実の要旨は,被告人は,(1) 平成14年4月14日午後3時30分ころから同日午後9時40分ころまでの間に,大阪市平野区所在のマンション(以下「本件マンション」という。)の306号室のB(以下「B」という。)方において,その妻C(当時28歳。以下「C」という。)に対し,殺意をもって,同所にあったナイロン製ひもでその頸部を絞め付けるなどし,よって,そのころ,同所において,同女を頸部圧迫により窒息死させて殺害し,(2) (1)記載の日時場所において,B及びC夫婦の長男であるD(当時1歳。以下「D」という。)に対し,殺意をもって,同所浴室の浴槽内の水中にその身体を溺没させるなどし,よって,そのころ,同所において,同児を溺死させて殺害し,(3) 本件マンションに放火しようと考え,同日午後9時40分ころ,本件マンション306号室のB方6畳間において,同所にあった新聞紙,衣類等にライターで火をつけ,その火を同室の壁面,天井等に燃え移らせ,よって,Bらが現に住居として使用する本件マンションのうち上記306号室B方の壁面,天井等を焼損し,もって,同マンションを焼損した,というものである。

 被告人は,Bが子供のころにその実母E(以下「E」という。)と婚姻し,養父としてBを育て,かつては,同居するEと共に,B家族との交流があったが,Bの借金問題,女性問題等をきっかけに,本件事件当時はB家族と必ずしも良好な関係にあったとはいえず,B家族が平成14年2月末に本件マンションに転居した際には,その住所を知らされなかったものである。上記(1)ないし(3)の公訴事実となっている事件は,Bの留守中に発生したもので,火災の消火活動に際してCとDの遺体が発見されたことから発覚し,捜査が進められた結果,同年11月16日に被告人が逮捕され,同年12月7日に上記(1),(2)の各事実が,同月29日に上記(3)の事実が起訴された。

 上記公訴事実につき,検察官は,その指摘する多くの間接事実を総合すれば被告人の犯人性は優に認定できる旨主張し,被告人は,本件事件当日まで,事件現場である本件マンションの場所を知らず,事件当日及びそれ以前を含めて,その敷地内にも立ち入ったことはない,被告人は犯人ではなく無罪である旨主張した。争点は,被告人の犯人性である。

 2 第1審判決

 第1審判決は,被告人の犯人性を推認させる幾つかの間接事実が証拠上認定できるとした上,これらの各事実が,相互に関連し合ってその信用性を補強し合い,推認力を高めているとして,結局,被告人が本件犯行を犯したことについて合理的な疑いをいれない程度に証明がなされているとし,ほぼ上記公訴事実と同じ事実を認定し,被告人を無期懲役に処した(検察官の求刑は死刑)。この間接事実からの推認の過程は,以下のようなものである。

 (1) 被告人は,本件事件当日である平成14年4月14日,仕事が休みであり,午後2時過ぎころに自宅を出て,自動車に乗って大阪市平野区方面へ向かい,同日午後10時ころまで同区内ないしその周辺で行動していたことが認められるが,さらに,以下のアないしオを併せ考えると,被告人が,同日に現場である本件マンションに赴いたことを認定することができる。

 ア 本件マンションの道路側にある西側階段の1階から2階に至る踊り場の灰皿(以下「本件灰皿」という。)内から,本件事件の翌日にたばこの吸い殻72本が採取されたが,その中に被告人が好んで吸っていた銘柄(ラークスーパーライト)の吸い殻が1本(以下「本件吸い殻」という。)あり,これに付着していた唾液中の細胞のDNA型が,被告人の血液のDNA型と一致していること,このDNA型一致の出現頻度は1000万人に2人という極めて低いものであること,本件事件の火災発生後,程なく警察官による現場保存が行われたことなどから,被告人が,本件事件当日あるいはそれまでの間に事件現場である本件マンションに立ち入り,本件灰皿に本件吸い殻を投棄したことが動かし難い事実として認められる。

 イ 本件事件当日午後3時40分ころから午後8時ころまでの間,被告人が当時使用していた自動車と同種・同色の自動車が,本件マンションから北方約100mの地点に駐車されていたと認められる。

 ウ 被告人自身が,捜査段階において,本件事件当日に自己の運転する自動車を同地点に駐車したことを認めていた。

 エ 本件事件当日午後3時過ぎないし午後3時半ころまでの間に,本件マンションから北北東約80mに位置するバッティングセンターにおいて,被告人によく似た人物が目撃されたと認められる。

 オ 被告人自身,本件事件当日はBないしB宅を探して平野区内ないしその周辺に自動車で赴いたことを自認しており,これは信用できる。

 (2) 他方,動機面についても,以下のアないしウの点などから,被告人は,本件事件当時,背信的な行為をとり続けるBに対して,怒りを募らせる一方,後記のような自分からの誘いを拒絶した上で,Bと行動を共にし,被告人の立場から見ればBに追随するかのような態度を見せていたCに対しても,同様に憤りの気持ちを抱くようになったことが推認できる。そうすると,Cとの間のやり取りや同女のささいな言動など,何らかの事情をきっかけとして,Cに対して怒りを爆発させてもおかしくない状況があったということができる。そのような事情を有していた被告人が,本件事件当日,犯行現場に赴いたことは,被告人の犯人性を強く推認させるものである。

 ア 平成13年10月1日から同月24日まで,C及びDは,被告人宅で同居生活を送ったが,そのころ,被告人は,Cに対し,恋慕の情を抱いており,性交渉を迫る,抱き付く,キスをするなどの行為に及んだことがあった。

 イ しかし,Cは,被告人からの誘いを拒絶し,被告人宅から被告人に告げることなくBの下へ戻った上,Bと行動を共にするようになり,被告人との接触を避けてきた。

 ウ 被告人は,Bの養父ないし保証人として,Bの借金への対応に追われていたが,Bは,被告人に協力したり,感謝したりすることをせず,無責任かつ不誠実な態度をとり続けていた。

 (3) 被告人は,本件事件当日の夕方,朝から仕事に出ていたEを迎えに行く約束をしていたにもかかわらず,特段の事情がないのにその約束をたがえ,C及びDが死亡した可能性が高い時刻ころに自らの携帯電話の電源を切っており,Eに迎えに行けないことをメールで伝えた後,出火時刻の約20分後に至るまでの間同女に連絡をとっていないなど,著しく不自然な点があるが,これらについては,被告人が犯人であると考えれば,合理的な説明が可能であり,得心し得るものである。

 (4) このほか,被告人の本件事件当日の自身の行動に関する供述は,あいまいで漠然としたものであり,不自然な点が散見される上,不合理な変遷もみられ,全体として信用性が乏しいものであって,被告人は,特段の事情がないのに,同日の行動について合理的説明ができていない点がある。また,Cは,生前,在宅時も施錠し,限られた人間が訪れた際にしかドアを開けようとしなかったこと,本件の犯人が2歳にもならないDを殺害しているのは口封じの可能性が高いこと,犯人が現場に放火して徹底的な罪証隠滅工作をしていることなどから,本件犯行は被害者と近しい関係にある者が敢行した可能性が認められる。これらの各事実も,被告人の犯人性を推認させるものである。

 (5) 以上の事実を全体として考察すれば,被告人が本件犯行を犯したことについて合理的な疑いをいれない程度に証明がなされているというべきである。

 (6) なお,被告人は,本件事件当日に本件マンション敷地内に入って階段を上ったことがある旨認める供述をした被告人の平成14年8月17日付け司法警察員に対する供述調書(乙14)について,警察官から激しい暴行を受けたために内容もよく分からないまま署名したと主張するが,同供述調書の供述内容には任意性及び信用性が認められ,これによっても,被告人の犯人性が肯定されるという上記判断が更に補強されることになる。

 3 原判決

 この第1審判決に対し,被告人は,訴訟手続の法令違反,事実誤認を理由に控訴し,検察官は,量刑不当を理由に控訴した。

 原判決は,被告人の控訴趣意のうち,前記司法警察員に対する供述調書(乙14)には任意性がなく,これを採用した第1審の措置が刑訴法322条1項に反しているという訴訟手続の法令違反の主張について,そのような訴訟手続の法令違反があることは認めつつ,事実誤認の主張については,第1審判決の判断がおおむね正当であり,同供述調書を排除しても,被告人が各犯行の犯人であると認めた第1審判決が異なったものになった蓋然性はないのであるから,この訴訟手続の法令違反が判決に影響を及ぼすことの明らかなものとはいえないとした。その上で,検察官の主張する量刑不当の控訴趣意に理由があるとして,第1審判決を破棄し,第1審判決が認定した罪となるべき事実を前提に,被告人を死刑に処した。

 4 当裁判所の判断

 しかしながら,第1審の事実認定に関する判断及びその事実認定を維持した原審の判断は,いずれも是認することができない。すなわち,刑事裁判における有罪の認定に当たっては,合理的な疑いを差し挟む余地のない程度の立証が必要であるところ,情況証拠によって事実認定をすべき場合であっても,直接証拠によって事実認定をする場合と比べて立証の程度に差があるわけではないが(最高裁平成19年(あ)第398号同年10月16日第一小法廷決定・刑集61巻7号677頁参照),直接証拠がないのであるから,情況証拠によって認められる間接事実中に,被告人が犯人でないとしたならば合理的に説明することができない(あるいは,少なくとも説明が極めて困難である)事実関係が含まれていることを要するものというべきである。ところが,本件において認定された間接事実は,以下のとおり,この点を満たすものとは認められず,第1審及び原審において十分な審理が尽くされたとはいい難い。

 (1) 第1審判決による間接事実からの推認は,被告人が,本件事件当日に本件マンションに赴いたという事実を最も大きな根拠とするものである。そして,その事実が認定できるとする理由の中心は,本件灰皿内に遺留されていたたばこの吸い殻に付着した唾液中の細胞のDNA型が被告人の血液のそれと一致したという証拠上も是認できる事実からの推認である。

 このDNA型の一致から,被告人が本件事件当日に本件マンションを訪れたと推認する点について,被告人は,第1審から,自分がC夫婦に対し,自らが使用していた携帯灰皿を渡したことがあり,Cがその携帯灰皿の中に入っていた本件吸い殻を本件灰皿内に捨てた可能性がある旨の反論をしており,控訴趣意においても同様の主張がされていた。

 原判決は,B方から発見された黒色の金属製の携帯灰皿の中からEが吸ったとみられるショートホープライトの吸い殻が発見されていること,それはCなどが被告人方からその携帯灰皿を持ち出したためと認められること,上記金属製の携帯灰皿のほかにもビニール製の携帯灰皿をCなどが同様に持ち出すなどした可能性があること,本件吸い殻は茶色く変色して汚れていることなどといった,上記被告人の主張を裏付けるような事実関係も認められるとしながら,上記金属製携帯灰皿を経由して捨てられた可能性については,Eの吸い殻を残して被告人の吸い殻だけが捨てられることは考えられないからその可能性はないとした。また,ビニール製携帯灰皿を経由して捨てられた可能性については,ビニール製携帯灰皿に入れられた吸い殻は通常押しつぶされた上で灰がまんべんなく付着して汚れるのであるが,本件吸い殻は押しつぶされた形跡もなければ灰がまんべんなく付着しているわけでもないのであり,むしろ,その形状に照らせば,もみ消さないで火のついたまま灰皿などに捨てられてフィルターの部分で自然に消火したものと認められること,茶色く変色している点は,フィルターに唾液が付着して濡れた状態で灰皿の中に落ち込んだ吸い殻であれば,翌日採取されてもこのような状態となるのは自然というべきであることから,その可能性もないとした。

 しかし,ビニール製携帯灰皿に入れられた吸い殻が,常に原判決の説示するような形状になるといえるのか疑問がある上,そもそも本件吸い殻が経由する可能性があった携帯灰皿がビニール製のものであったと限定できる証拠状況でもない(関係証拠によれば,B方からは,箱形で白と青のツートーンの携帯灰皿も発見されており,これはE又は被告人のものであって,Cが持ち帰ったものと認められるところ,所論は,この携帯灰皿から本件吸い殻が捨てられた可能性があると主張している。)。また,変色の点は,本件事件から1か月半余が経過してなされた唾液鑑定の際の写真によれば,本件吸い殻のフィルター部全体が変色しているのであり,これが唾液によるものと考えるのは極めて不自然といわざるを得ない。本件吸い殻は,前記のとおり本件事件の翌日に採取されたものであり,当時撮影された写真において既に茶色っぽく変色していることがうかがわれ,水に濡れるなどの状況がなければ短期間でこのような変色は生じないと考えられるところ,本件灰皿内から本件吸い殻を採取した警察官Fは,本件灰皿内が濡れていたかどうかについて記憶はないが,写真を見る限り湿っているようには見えない旨証言しているから,この変色は,本件吸い殻が捨てられた時期が本件事件当日よりもかなり以前のことであった可能性を示すものとさえいえるところである。この問題点について,原判決の上記説明は採用できず,その他,本件吸い殻の変色を合理的に説明できる根拠は,記録上見当たらない。したがって,上記のような理由で本件吸い殻が携帯灰皿を経由して捨てられたものであるとの可能性を否定した原審の判断は,不合理であるといわざるを得ない(なお,第1審判決が上記可能性を排斥する理由は,原判決も説示するように,やはり採用できないものである。)。

 そうすると,前記2(1)イ以下の事実の評価いかんにかかわらず,被告人が本件事件当日に本件マンションに赴いたという事実は,これを認定することができない。

 (2) ところで,本件吸い殻が捨てられていた本件灰皿には前記のとおり多数の吸い殻が存在し,その中にはCが吸っていたたばこと同一の銘柄(マルボロライト〔金色文字〕)のもの4個も存在した。これらの吸い殻に付着する唾液等からCのDNA型に一致するものが検出されれば,Cが携帯灰皿の中身を本件灰皿内に捨てたことがあった可能性が極めて高くなる。しかし,この点について鑑定等を行ったような証拠は存在しない。また,本件灰皿内での本件吸い殻の位置等の状況も重要であるところ,吸い殻を採取した前記の警察官にもその記憶はないなど,その証拠は十分ではない。検証の際に本件灰皿を撮影した数枚の写真のうち,内容が見えるのは,上ぶたを取り外したところを上から撮った写真1枚のみであるが,これによって本件吸い殻は確認できないし,内容物をすべて取り出して並べた写真も,本件吸い殻であることの確認ができるかどうかという程度の小さなものである。さらに,本件吸い殻の変色は上記のとおり大きな問題であり,これに関しては,被告人が本件事件当日に本件吸い殻を捨てたとすれば,そのときから採取までの間に水に濡れる可能性があったかどうかの検討が必要であるところ,これに関してはそもそも捜査自体が十分になされていないことがうかがわれる。前記のとおり,本件吸い殻が被告人によって本件事件当日に捨てられたものであるかどうかは,被告人の犯人性が推認できるかどうかについての最も重要な事実であり,DNA型の一致からの推認について,前記被告人の主張のように具体的に疑問が提起されているのに,第1審及び原審において,審理が尽くされているとはいい難いところである。

 (3) その上,仮に,被告人が本件事件当日に本件マンションに赴いた事実が認められたとしても,認定されている他の間接事実を加えることによって,被告人が犯人でないとしたならば合理的に説明できない(あるいは,少なくとも説明が極めて困難である)事実関係が存在するとまでいえるかどうかにも疑問がある。すなわち,第1審判決は,被告人が犯人であることを推認させる間接事実として,上記の吸い殻に関する事実のほか,前記2(2)ないし(4)の事実を掲げているが,例えば,Cを殺害する動機については,Cに対して怒りを爆発させてもおかしくない状況があったというにすぎないものであり,これは殺人の犯行動機として積極的に用いることのできるようなものではない。また,被告人が本件事件当日に携帯電話の電源を切っていたことも,他方で本件殺害行為が突発的な犯行であるとされていることに照らせば,それがなぜ被告人の犯行を推認することのできる事情となるのか十分納得できる説明がされているとはいい難い。その他の点を含め,第1審判決が掲げる間接事実のみで被告人を有罪と認定することは,著しく困難であるといわざるを得ない。

 そもそも,このような第1審判決及び原判決がなされたのは,第1審が限られた間接事実のみによって被告人の有罪を認定することが可能と判断し,原審もこれを是認したことによると考えられるのであり,前記の「被告人が犯人でないとしたならば合理的に説明することができない(あるいは,少なくとも説明が極めて困難である)事実関係」が存在するか否かという観点からの審理が尽くされたとはいい難い。本件事案の重大性からすれば,そのような観点に立った上で,第1審が有罪認定に用いなかったものを含め,他の間接事実についても更に検察官の立証を許し,これらを総合的に検討することが必要である。

 5 結論

 以上のとおり,本件灰皿内に存在した本件吸い殻が携帯灰皿を経由してCによって捨てられたものであるとの可能性を否定して,被告人が本件事件当日に本件吸い殻を本件灰皿に捨てたとの事実を認定した上で,これを被告人の犯人性推認の中心的事実とし,他の間接事実も加えれば被告人が本件犯行の犯人であることが認定できるとした第1審判決及び同判決に審理不尽も事実誤認もないとしてこれを是認した原判決は,本件吸い殻に関して存在する疑問点を解明せず,かつ,間接事実に関して十分な審理を尽くさずに判断したものといわざるを得ず,その結果事実を誤認した疑いがあり,これが判決に影響を及ぼすことは明らかであって,第1審判決及び原判決を破棄しなければ著しく正義に反するものと認められる。

 よって,弁護人中道武美の上告趣意第4点について判断するまでもなく,刑訴法411条1号,3号により原判決及び第1審判決を破棄し,同法413条本文に従い,更に審理を尽くさせるため,本件を第1審である大阪地方裁判所に差し戻すこととし,裁判官堀籠幸男の反対意見があるほか,裁判官全員一致の意見で,主文のとおり判決する。なお,裁判官藤田宙靖,同田原睦夫,同近藤崇晴の各補足意見,裁判官那須弘平の意見がある。

 裁判官藤田宙靖の補足意見は,次のとおりである。

 私は,多数意見に賛成するものであるが,本件において被告人を犯人であるとする第一審判決及びこれを支持する原判決の事実認定の方法には,刑事司法の基本を成すとされる推定無罪の原則に照らし重大な疑念を払拭し得ないことについて,以下補足して説明することとしたい。

 1 第一審判決及び原判決が,被告人を本件の犯人であると認定した根拠は,基本的には,以下のような点である。

 (1) 被告人が当日現場マンションに立ち入ったことを証する幾つかの間接証拠が存在すること。

 (2) 被告人に被害者らを殺害する動機があったとまでは認定できないが,被害者Cとのやり取りやそのささいな言動をきっかけとして,同人に対し怒りを爆発させてもおかしくはない状況があったこと。

 (3) 第三者の犯行を疑わせる状況は見当たらないこと。

 (4) 被害者らの推定死亡時刻頃における被告人のアリバイはなく,また,この点についての被告人の供述があいまいであり,不自然な変転等が見られること。

 (5) これらの事実は,それ自体が直接に被告人が犯人であることを証するものではないが,これらを総合して評価すると,相互に関連し合ってその信用性を補強し合い,推認力を高めていること。

 しかし,これらの根拠は,以下に見るとおり,いずれも,被告人が犯人であることが合理的な疑いを容れることなく立証されたというには不十分であるというほかないように思われる。

 2(1) 被告人が当日現場マンションに赴いた事実を証するとされる間接事実は,仮にこれらの事実の存在が証明されたとしても,そのいずれもが,公訴事実自体とはかなり距離のある事実であり,いわば間接事実のまた間接事実といった性質のものであるに過ぎない。例えばまず,被告人が当時使用していた車(白色のホンダストリーム)と同種・同色の車が事件発生時刻を挟んだ数時間現場の近くの商店前の路上に長時間にわたって駐車されていたという事実は,必ずしも,被告人が使用していた車そのものが駐車されていたという事実を証するものではない。また,近所のバッティングセンターにおいて被告人ないし被告人とよく似た男が目撃されたという事実についても,そのこと自体は,あくまでも,被告人が現場マンションの近くにいたという事実を証するものであるに過ぎない(被告人は,具体的な場所については特定できないものの,当日現場マンションの近くに赴いたこと自体は,必ずしも否定してはいないのである)。

 このような状況にある以上,上記二つの事実は,当日被告人が犯行現場に赴いたということをより積極的に推測させる証拠がある場合にそれを補強する機能しか持ち得ない筈のものと思われるが,そのような積極的証拠としての役割を持たされているのは,唯一,現場マンションの犯行現場に通じる階段の踊り場の灰皿内から発見されたたばこの吸い殻から,鑑定により被告人のものと一致するDNA型が発見されたという事実である。しかし,多数意見も詳細に指摘するとおり,問題のたばこの吸い殻が,発見された際の状況等に照らして,間違いなく被告人が当日当該灰皿の中に投棄したものと推認できるか否か(被告人の吸い殻が入った携帯灰皿をCが過日同マンションに持ち帰り,本件当日以前にCが当該灰皿に投棄した可能性があるという論旨に対し,そのようなことはおよそあり得ないとまで言えるか)については,少なくともそのように断言することはできないように思われる。

 以上要するに,上記の各間接事実の存在によって,被告人が事件当日現場マンションを訪れたという事実については,その可能性が相当の蓋然性を以て認められること自体は否定できないが,その事実自体を証拠上否定できないとまでいうことはできない。更に,仮にこの事実の存在が認定されたとしても,公訴事実との関係では,(被告人がこの点に関し虚偽の供述をしていることが判明したという事実をも含め)それ自体が一つの間接事実に過ぎないのであって,被告人の有罪認定の根拠としては,未だ強力な証明力を有する事実とまでいうことはできない。

 (2) 犯行の動機につき,第一審判決及び原判決においては,被告人にCを殺害する動機があったとまでいうことはできないにしても,同女との間のやり取りや同女のささいな言動など,何らかの事情をきっかけとして,Cに対して怒りを爆発させてもおかしくない状況があったという事実が,単独ではその推認力には限界はあるものの,被告人の犯人性に関する積極方向の間接事実であると指摘されている。しかし,このように一般的抽象的な状況のみで,当日被告人とCとの間にどのような具体的事実があったのかについておよそ認定されることなく,これを被告人有罪の積極的根拠として用いることについては,疑問を禁じ得ない。すなわち,動機についても,原判決認定に係る事実のみでは,せいぜい,本件犯行の一般的な可能性があることを否定できない(動機があり得ないとは言えない),という程度の証明力しか無いように思われるのである。また,仮にCに対する犯行の動機を,上記のようにその場における突発的な激情ないし憤激(の可能性)に見出すとしても,そこから更に進んで,証拠隠滅の目的のために被告人が日頃可愛がっていた(わずか1歳10か月に過ぎない)被害者Dの殺害にまで至ったという説明についても,十分な説得力があるものとは言えない。

 (3) 第三者の犯行可能性について第一審判決がこれを否定する根拠は,いずれも,例えば宅配便や郵便配達を装った通り魔的殺人の可能性を排除するものとして,必ずしも説得的であるとは言えない。なお,本件における捜査のあり方に関しては,本件マンションに立ち入ったことを自供した被告人の平成14年8月17日付の供述調書(乙14号証)につき,原判決もまたその任意性を否定せざるを得なかったことに示唆されているとおり,その適法性につき疑念を抱かせる点が無いとは言えないのであって,捜査陣が,捜査の早い段階から被告人が犯人であると決め付けて,その裏付けとなりそうな事実のみを集め,それ以外の事実については関心を持たなかった(切り捨てた)のではないかという上告論旨の指摘も,全く無視することはできないというべきである。

 (4) 被告人の当日の行動についての説明には,極めてあいまいなものがあり,とりわけ,当日立ち寄った場所に関し,一つとして確定的なことを述べていないという点は,大いに不審を抱かせる事実であると言わざるを得ない。しかし,であるからといって,そのこと自体が被告人を犯人と推認させる決定的な事実となるわけではなく,やはり可能性を否定し得ないというだけのことでしかない。また,原判決が重視する,被告人が犯行時刻頃に携帯電話の電源を切っていたという点については,もしこの事実が被告人の本件犯行を裏付ける事実というのであれば,被告人の犯行は計画的なものであり,それが故にこそ前以て電源を切っていた,ということになる筈であると思われるが,本件の犯行が(未必の故意をも含め)予め計画されたものであるとは全く認定されていないのであって,むしろ,上記のように,現場におけるCとの接触の中での突発的・偶発的な殺意によるものであると推測されているのである。果たして,そのような犯行状況の下で携帯電話の電源を切るというような冷静な行動に出ることが,容易に想定され得るであろうか。なお,仮にこの事実が,必ずしも被告人の本件犯行そのものではなく,被告人が被害者宅を訪れること自体を秘する目的であったことを裏付けるものとして引き合いに出されているのであるとしても,バッテリーの消費をセーブするために携帯電話の電源を一時切るという行為自体は必ずしも奇異な行動とは言えない上,そもそも当日被告人が被害者宅を探すために行動していたこと自体は,当初から,特に秘されていたわけではないのであって,それにも拘らず急遽携帯電話の電源を切ることとなったのは何故かについては,第一審及び原審において,なんら明確な認定がされておらず,全ては,被告人が犯人であることを前提とした上での推測に基づくものでしかない。のみならず,仮にそうした事実が認められるとしても,被告人が被害者宅を訪れたという事実自体,本件犯行との関係では一つの間接事実としての位置付けを与えられるものでしかないことは,先に見たとおりである。

 (5) 第一審判決及び原判決は,上記の各間接事実について,その一つ一つについては,それだけで被告人有罪の根拠とすることはできないものの,これらを「総合評価」すれば合理的疑いを容れる余地なく被告人有罪が立証されているとする。私もまた,このような推論が一応可能であること自体を否定するものではない。ただ,本件における各間接事実は,その一つ一つを取って見る限り,上記に見たように,さほど強力な根拠として評価し得るものではなく,たばこの吸い殻のDNA型を除いては,むしろ有罪の根拠としては薄弱なものであるとすら言えるのではないかと思われる。本件において認定されている各事実は,上記に見たように,いずれも,被告人が犯人である可能性があることを示すものであって,仮に被告人が犯人であると想定すれば,その多くが矛盾無く説明されるという関係にあることは否定できない。しかし一般に,一定の原因事実を想定すれば様々の事実が矛盾無く説明できるという理由のみによりその原因事実が存在したと断定することが,極めて危険であるということは,改めて指摘するまでもないところであって,そこで得られるのは,本来,その原因事実の存在が仮説として成立し得るというだけのことに過ぎない。「仮説」を「真実」というためには,本来,それ以外の説明はできないことが明らかにされなければならないのであって,自然科学における真実の発見と刑事裁判における事実認定との間における性質の違いを前提としたとしても,少なくともこの理論上の基本的枠組みは,後者にあっても充分に尊重されるのでなければならない。これを本件について見るならば,被告人を犯人と断定するためには,「被告人が犯人であることを前提とすれば矛盾無く説明できる事実関係」に加えて更に,「被告人が犯人でないとしたならば合理的に説明できない(あるいは,少なくとも説明が極めて困難である)事実関係」の存在が立証されることが不可欠であるというべきである。有罪の認定に関し「合理的な疑いを差し挟む余地がないというのは,反対事実が存在する疑いを全く残さない場合をいうものではなく,抽象的な可能性としては反対事実が存在するとの疑いをいれる余地があっても,健全な社会常識に照らして,その疑いに合理性がないと一般的に判断される場合には,有罪認定を可能とする趣旨である」という考え方は,当審判例の示すところであるが(多数意見が掲げる平成19年10月16日第一小法廷決定),いうまでもなく,本件について上記に述べた私の考え方はこれと矛盾するものではない。むしろこの判例の趣旨が,個別に見れば証明力の薄い幾つかの間接証拠の積み重ねの上に,「被告人が犯人であるとすればその全てが矛盾無く説明できるが故に被告人が犯人である」とする「総合判断」を広く是認する方向へ徒らに拡大解釈されることは,厳に戒められなければならないと考えるものである。

 3 なお,堀籠裁判官の反対意見に鑑み,以下を付加したい。

 先に述べたとおり,私は,「被告人が犯人であることを前提とすれば全ての事実が矛盾無く説明できる」こと(以下「事実①」と称する)のみで被告人を犯人と断定することは甚だ危険であり,有罪の認定に当っては,これと同時に「被告人が犯人でないとすれば合理的に説明することができない(あるいは,少なくとも説明が極めて困難である)事実関係」の存在(以下「事実②」と称する)が認定されなければならないと考えている。その場合,有罪認定の証拠とされる間接事実群のうちいずれかの個別事実のみをもって既に上記「事実②」が認められるならば,それ以上の「総合判断」は必要としないということは,反対意見の指摘するとおりであるが,本件の場合には,そのような事実関係にはなく,正に「総合判断」が必要とされるケースなのであるから,ここでいう「事実②」の必要とは,更に進んで,総合判断の「あり方」に関しても問題とされるものであることは,本来,改めて説明するまでもないことであるように思われる。

 すなわち,「総合判断」に当っては,上記「事実①」と共に,「事実②」もまた充たされているか否かが問われなければならないところ,本件において第一審及び原審が前提とした間接事実のみでは,個別の事実についてはもとよりこれらを如何に「総合」しても,その結果として「事実②」がクリアーされているものとは言えないのみならず,そもそも,その審理に当ってこの問題が正面から意識されているようにも窺えない。多数意見は,正にこの点を問題とするものである。

 なお,反対意見は,「裁判員裁判は,多様な経験を有する国民の健全な良識を刑事裁判に反映させようとするものであるから,裁判官がこれまで形成した事実認定の手法を裁判員がそのまま受け入れるよう求めることは,避けなければならない」とした上で,上記のような考え方につき,「合理的疑いを容れない程度の立証とは何かを説明するためのものであるとしても,先に述べたような趣旨で裁判員裁判が実施された現時点においては,相当ではないと考える」という。しかし,それ自体一般国民にとって必ずしも容易に理解できる概念とは言い難い「合理的疑いを容れない程度の立証」とはそもそもどういうことであるかについての手掛かりを全く与えることなく,手放しで「国民の健全な良識」を求めることが,果たして裁判員制度の本旨に沿うものであるかは疑問であるのみならず,刑事司法の原点に立った上での事実認定上の経験則とは本来どのようなものであるかを明示することは,法律家としての責務でもあるものと考える。

 裁判官田原睦夫の補足意見は,次のとおりである。

 私は,多数意見に同調するものであるが,本件事案の重大性にかんがみ,以下のとおり補足意見を述べる。

 本件は,被告人が本件犯行を全面否認しているところ,被告人と本件犯行とを結びつける直接の物証も目撃証人も存しない中で,原判決及び原判決が被告人の供述調書の証拠能力の点を除いて肯認する第一審判決は,間接証拠の積重ねによって,被告人が本件犯行を犯したものと認定している事案である。しかしながら,第一審判決が挙げる間接事実は,何れも被告人が犯人であるとすれば矛盾しない事実ではあるものの,多数意見にて指摘するとおり「被告人が犯人でないとしたならば合理的に説明することのできない(あるいは,少なくとも説明が極めて困難である)事実関係」は含まれてはいないのである。第一審判決の挙げる個々の間接事実は,被告人の犯人性と関連付けるには更なる重要な間接事実を必要とするものや,犯人性との関連性自体が極めて薄弱なものであったり,また,当該間接事実と被告人との関連性が認められるか自体に疑問が存するものであって,それらの間接事実を総合しても,被告人を本件公訴事実にかかる犯人であると認定するには,なお合理的な疑いを払拭できないと言わざるを得ない。以下,被告人の犯人性を示す間接事実として,原判決が肯認する第一審判決が挙げる諸点について検討する。

 1 本件吸い殻について

 本件灰皿内から,4月15日に発見されたたばこの吸い殻中に存したたばこ「ラークスーパーライト」の吸い殻から検出された唾液中の細胞のDNA型が,被告人のものと一致したことが,被告人の犯人性にかかる重要な間接事実として位置付けられている。しかし,多数意見にて指摘し,また,後に検討するように,本件吸い殻の状況からして,それが本件当日に本件灰皿に投棄されたものと認定するには重大な疑問が残る上,仮に,同吸い殻が本件当日に本件灰皿に投棄されたと推認できるとしても,当該事実は,即,被告人の犯人性に結びつくものではなく,同事実とは別に,被告人と本件犯行を結びつけるに足る他の間接事実が存する場合に,それを補強する有力な証拠となるにすぎない。

 (1) 本件吸い殻が意味するもの

 本件吸い殻が本件灰皿から発見された事実は,本件吸い殻が第三者によって本件灰皿に投棄された可能性(その可能性があることについては,弁護人らは第一審以来,亡Cにおいて,被告人が所持していた携帯灰皿を持ち帰り,その中味を本件灰皿に捨てた可能性があると主張している。)が認められない限り,被告人が本件マンションを訪れた事実を証明するものではある。

 しかし,以下に述べるとおり,その事実は,即,被告人が本件マンションのB方を訪れた事実の推認に結びつくものではなく,いわんや本件の犯人性に結びつくものではない。

 ア B夫婦は,平成14年2月28日に本件マンションに引越しているが,本件当日以前に被告人が本件マンションのB方を訪問したことを示す証拠は存しない。また,被告人が本件当日以前にB夫婦の本件マンションの住所を知っていたことを示す直接の証拠も存しない。原判決は,同年3月6日ころのEと被告人との問答に関するEの証言から,被告人は本件当日以前にB夫婦の住所の概要を把握していたと推認できるとするが,同日ころの被告人とE間の会話の内容については,被告人は,Eが第一審公判廷で証言するところと異なり,Bが被告人との離縁届を被告人に無断で提出したことに関する内容であったと述べ,Eに対して暴力を振るった事実を否定しているのである。また,Eは,一貫して被告人が犯人であると思い込んだうえで証言しているところからして,同人の証言の信用性については慎重に判断する必要があり(この点については,項を分けて後述する。),同証言内容をもって,被告人が既に3月6日の時点でB夫婦の住所の概要を把握していたと認定するには無理がある。また,仮に被告人がそのころにB夫婦の所在地の概要を知っていたとすれば,被告人は,本件当日より以前に本件マンションに辿り着いていて然るべきであるが,被告人が本件当日以前に本件マンションを訪れたことを窺わせる証拠は存在しない。

 イ B夫婦は,本件マンションに入居後も,その居室である306号室について,1階の集合郵便箱の306号室欄には氏名を表示しておらず(甲5号証,検証調書),また,306号室の入口の表札掲示個所にも氏名を掲示していなかった(甲5号証,検証調書)。

 したがって,被告人が偶々本件マンションに辿り着いても,306号室がB夫婦の住居であることは容易には判明しない状態であった。それ故,被告人がB夫婦の住居を探り当てるには,亡Cに電話で確認するか,本件マンションの住人等に尋ねるしかないところ,被告人が亡Cとその住所について電話連絡したことを窺わせる証拠は全くない。また,被告人が本件マンションの住人等に対してB夫婦の所在を問い合わせる等していれば,本件事件発生後に行われたであろう警察による本件マンション周辺での不審者目撃情報等に関する聴込み捜査において,当然に被告人の行動が把握されていて然るべきであるが,被告人がかかる問い合わせをしていたことを窺わせる証拠は,本件記録上皆無である。

 ウ なお,原判決は,被告人が本件当日306号室のベランダにいた亡Cの姿を外から見ることも可能であり,その姿を視認したうえで,被告人がB方を訪ねることが可能であったと摘示するが,そのような事態は偶然の可能性として有り得るというにとどまるものでしかなく,他に何らの補強証拠も存しない下で,そのような偶然の可能性が存することをもって,被告人がB方に辿り着くことができたと認定することは,事実に基づく合理的な推認の範囲を超えるものであって,証拠法則上,到底認められるものではない。

 エ 以上のとおり,被告人が本件マンションの建物自体を訪れたという事実が仮に認められたとしても,その事実から直ちには,被告人が本件当日,B方を訪れたと推認することはできないのである。

 (2) 本件吸い殻の客観的状況

 ア 本件吸い殻は,本件翌日の検証時に本件灰皿から採取されたが,その検証時の写真によれば,本件灰皿の蓋を取った状態の下では,灰皿の内容物の上部にはその所在が確認できない。また,本件吸い殻が本件灰皿の中のどのような場所に存したかは不明である(灰皿の内容物を採取したFは,内容物を手掴みで取り出したというのであり,個々の内容物の所在を確認していない。)。

 イ 多数意見において指摘するとおり,本件事件から1か月半余経過してなされた唾液鑑定の際に撮影された本件吸い殻の写真によれば,本件吸い殻の全体が変色しているが,かかる変色は,一般的には,吸い殻自体を水等(酒やジュース等を含む。)に漬けるか,相当期間風雨に曝された場合に生じ得る変色である(堀籠裁判官は,検証時に撮影された写真と鑑定時に撮影された写真との間で吸い殻に変色が認められ,それは時間的経過によって生じたものという以外に理由は考えられないとされるが,その間に変色したという事実認定それ自体に疑問があるうえ,本件で捜査官が供述する本件証拠品の保管状況からして,僅か1か月半の間に,堀籠裁判官が述べられるように変色することは,有り得ないというべきである。)。原判決は,フィルターに唾液が付着し濡れた状態で灰皿に落ち込んだ吸い殻であれば,翌日採取されてもこのような状態になるのは自然であると認定するが,普通にたばこを吸う状態の下で,フィルター全体が変色する程フィルターに唾液が付着することは有り得ず,また,それだけ大量の唾液が付着していれば,血液型の鑑定もなし得ると思われるところ,本件吸い殻についてなされた鑑定では,唾液の付着は認められたものの血液型の特定まではできなかったというのであって,それらの諸点からして,原判決の認定は明らかに経験則に反する。

 ウ 本件検証の際に本件灰皿の内容物の全体を展示した状況を撮影した写真では,個々の吸い殻の映像が小さくてなかなか判別が困難であるものの,一応本件吸い殻を特定することができる。同写真によれば,本件吸い殻以外で明らかに濡れた形跡のある吸い殻は数本に止まる。もし,本件灰皿に何人かが水を掛け,あるいは,本件火災の際の消火活動によって本件吸い殻が濡れたのであれば,他の吸い殻も同様に濡れていて然るべきであるが,上記写真からは他の多くの吸い殻が本件吸い殻同様に濡れていたとの形跡は窺えない。

 また,本件灰皿の内容物を取り出したFは,内容物が濡れていたか否か,「わからない。覚えていない。」と証言し,その証言の際に,検証時に本件灰皿の内容物を取り出したうえで本件灰皿の底の部分を撮影した写真を見て,錆びてはいるが,湿っているようには見えないと供述している。

 エ 本件灰皿は,本件事件当日以前,約8か月間清掃されたことがないというのであって,その内容物には相当に古いものが含まれている。

 オ 以上の状態,殊に本件吸い殻全体が濡れる状況に置かれたことがあったか,あるいは長期間風雨に曝された場合に生じるような変色をしていることからして,本件吸い殻は,被告人が本件当日に喫煙したものを本件灰皿に投棄したものとは到底推認し得ない。

 (3) 本件当日以前に被告人が喫煙したたばこの吸い殻が本件灰皿に投棄された可能性について

 ア 被告人自身が本件当日以前にB方を探しているうちに偶々本件マンションに立ち寄り,その際に本件灰皿に捨てたのが本件吸い殻である可能性も一応あり得る。しかし,被告人は本件マンションを過去に訪れたことはない旨主張しており,被告人のその供述が信用できる限り,この可能性は否定される。

 イ 亡Cが被告人の携帯灰皿を持ち帰り,その内容物を本件灰皿に捨てた可能性について

 この点は,第一審以来,弁護人らが主張しているところであり,その可能性を否定する原判決及びその引用する第一審判決の認定が首肯し難いことは,多数意見にて指摘するとおりであるが,その可能性に関する主要な問題点について以下に摘記する。

 (ア) 被告人は,常時携帯灰皿を持ち歩き,その灰皿を被告人,E,亡Cが共用していたこと,及び亡Cが時としてその共用していた携帯灰皿を持ち帰ったことがあったことは,記録上明らかである。

 (イ) 本件火災現場の6畳間床面上の焼毀物の中から金属製の携帯灰皿が見つかり,その中に2本の吸い殻が存したところ,そのうちの1本は,亡Cが常時喫煙していた「マルボロライト」であったが,他の1本はEが常時喫煙していた「ショートホープライト」であった。本件記録上,亡CとEとが直接会ったことが認められる最後の機会は2月20日であるから,短くとも同日以後本件当日まで55日の間,同灰皿の内容物は投棄されていなかったことが認められる。

 (ウ) 本件検証時の写真には,B方台所の三段ラックの上に置かれていた喫煙用具がまとめて入れてあった箱の中に,箱型で白と青のツートーンの携帯灰皿が確認されているが,その内容物に関する写真は,本件記録上存しないことからして,同灰皿には吸い殻が存しなかったことが窺われる。

 (エ) Eの証言及び被告人の供述によれば,上記各携帯灰皿の外にも,被告人方にはビニール製のものがあって,それを亡Cが持ち帰っていた可能性が認められる。

 (オ) 本件灰皿に存した吸い殻中には,亡Cが日頃喫煙していた「マルボロライト(金色文字)」が4本存したことが認められる。

 (カ) 本件吸い殻のような形態でたばこの火が消えるのは,原判決が認定するように灰皿に捨てられたうえでの自然鎮火の場合も勿論あり得る。他方,例えば,机の上等に吸い差しのたばこを置いて,話に夢中になっているうちに机の縁の所で消えてしまい,その吸い殻のみを携帯灰皿に収納しても,本件吸い殻のような状態になることはあり,また,フィルター近くまで吸い終わった後,揉み消す際に火のついた部分が全部落ちると,やはり本件のような状態となり得るのであって,本件吸い殻の状態は携帯灰皿に収納されていたことと矛盾するとは認定できない。

 (キ) 多数意見にて指摘しているとおり,以上の諸事実の存在にもかかわらず,それらの諸点について十分に審理を尽くすことなく,弁護人らが指摘する亡Cによって本件吸い殻が本件灰皿に捨てられた可能性を否定する原判決の判断は,是認することはできない。

 2 目撃情報について

 原判決及びそれが肯認する第一審判決が摘示する被告人に関連する目撃情報は,被告人との関連性を直接認定できるものではなく,極めて薄い関連性しか認められないものにすぎず,それらの目撃情報をもって,被告人が本件当日,本件マンション付近を徘徊していたと認定するには,なお合理的疑いが存すると言わざるを得ない。

 (1) 直接の目撃情報は皆無である。

 本件当日,被告人が本件マンション付近を徘徊していたことを裏付ける確実な目撃情報は皆無である。

 原判決及びそれが肯認する第一審判決は,被告人は本件当日の午後3時30分ころから本件マンション付近にいて,本件火災発生後,本件現場を離れていると認定しているところ,それだけ長時間,本件現場付近を徘徊していれば,当然に何人かの確実な目撃情報があって然るべきである。また,被告人は,住宅街の中でB宅を探し歩いていたのであって,単なる一般の通行人とは異なり言わば目立つ行動をとっていた(キョロキョロ見廻しながら歩いていたとか,通行人等に人の住所を尋ねていた等)のであるから,周辺の住民等による確実な目撃情報があって然るべきである。しかし,本件において,そのような証拠は皆無である。

 さらに,今日では,コンビニエンス・ストアーや有料駐車場等,随所に防犯ビデオが設置されていて,多くの刑事事件において,そのビデオ映像が有力な証拠として用いられているところ,本件では,かかる証拠は全く提出されていない。また,今日,高速道路や国道その他の主要道路には,Nシステムカメラが随所に設置されており,それによって撮影された自動車のナンバーの写真が,刑事事件における犯人の特定に繋がる有力な証拠として用いられていることは,オウム真理教の事件などを通じて裁判所にとって顕著な事実であるが,本件ではかかる証拠も提出されていない。

 (2) 駐車の目撃状況について

 ア 原判決及びそれが肯認する第一審判決は,被告人が本件当日運転していたホンダストリームと同種,同色の車が,G商店北側空地に駐車しているのが,本件当日の午後3時40分ころ,4時30分ころ,8時ころにそれぞれ第三者に目撃されていた事実を基に,同一の車が同所にその間駐車していたと認定している。

 イ しかし,上記各目撃者は,自動車のナンバーまでを目撃している訳ではないのであって,上記の事実のみでは,同一の車が同所に引き続き駐車していたと認定するには論理の飛躍がある。ホンダストリーム自体は,本件当時販売が開始されて以来それ程時間が経っていないとは言え,既に大阪府下だけで6000台以上販売されていたというのであって,同一の場所に同一の車種の車が時間を置いて駐車していたのが目撃される可能性がないとは言えない。また,第一審判決は,上記の各事実から同車は午後3時40分ころ以降継続して駐車していたものと認定しているが,同一人物が2度に亘って目撃しているならともかく,上記の目撃情報は別々の人物によるものであり,殊に午後4時30分ころの目撃から午後8時ころの目撃までの間3時間半余の空白があり,仮にその車が同一であったとしても,その間同車が移動していなかったことが当然に推認できるものではない。

 ウ 仮に,G商店北側空地にホンダストリームが本件当日午後3時40分ころから本件火災発生時まで継続して駐車していたとすれば,同所は普段そのように長時間同一車輌が駐車している場所ではないことからして,当然に目立つ状況にあったと認められる。他方,上記駐車場所の横にはG商店のたばこや飲料水の自動販売機が並んでいるのであるから,休日であっても付近の住人等による相当数の利用者はあると推測され,それらの利用者の中からその駐車自動車の目撃者が相当数現れても不思議ではないと思われる。しかし,本件では,大規模な聴込み捜査が行われたと推認されるにもかかわらず,僅か4名(実質3名)しか目撃者を見出せなかったのである。そうすると,それら4名の目撃者は偶々その時刻に駐車しているホンダストリームを目撃したというにすぎないのであって,その目撃状況からして,同一の車輌が同所に継続して駐車していたとまで認定するには,なお論理に飛躍があると言わざるを得ない。