滝井繁男裁判長名判決 食道がん手術と当時の知見 最高裁平成15年

手嶋豊『医事法入門 第3版』有斐閣・2011年・189頁

損害賠償請求事件

最高裁判所第2小法廷判決/平成14年(受)第592号

平成15年11月14日

【判示事項】    食道がんの手術の際に患者の気管内に挿入された管が手術後に抜かれた後に患者が進行性のこう頭浮しゅにより上気道狭さくから閉そくを起こして呼吸停止及び心停止に至った場合において担当医師に再挿管等の気道確保のための適切な処置を採るべき注意義務を怠った過失があるとされた事例

【判決要旨】    食道がんの手術の際に患者の気管内に挿入された管が手術後に抜かれた後に,患者が,進行性のこう頭浮しゅにより上気道狭さくから閉そくを起こし,呼吸停止及び心停止に至った場合において,上記抜管の約5分後に患者の吸気困難な状態が高度になったことを示す胸くうドレーンの逆流が生じたことなどから,その時点で,担当医師は,患者のこう頭浮しゅの状態が相当程度進行し,既に呼吸が相当困難な状態にあることを認識することが可能であり,これが更に進行すれば,上気道狭さくから閉そくに至り,呼吸停止,ひいては心停止に至ることも十分予測することができたなど判示の事情の下においては,担当医師には,上記時点で,再挿管等の気道確保のための適切な処置を採るべき注意義務を怠った過失がある。

【参照条文】    民法415

          民法709

【掲載誌】     最高裁判所裁判集民事211号633頁

          裁判所時報1352号342頁

          判例タイムズ1141号143頁

          判例時報1847号30頁

【評釈論文】    民事法情報217号101頁

          民商法雑誌130巻4~5号327頁

 

       主   文

 

 原判決を破棄する。

 本件を大阪高等裁判所に差し戻す。

 

       理   由

 

 上告代理人荒川英幸,同藤浦龍治の上告受理申立て理由について

 1 被上告人が開設した公立小浜病院(以下「本件病院」という。)で食道がんの手術を受けた患者である乙川太郎(以下「太郎」という。)が,手術の際に経鼻気管内挿管がされた管を手術後に抜管された直後に,気道閉そくから呼吸停止,心停止の状態となり,命は取り留めたものの,いわゆる植物状態となり,その後,食道がんにより死亡した。本件は,太郎の遺族である上告人らが,太郎が植物状態に陥ったのは,本件病院の担当医師のA(以下「A医師」という。)が,上記抜管後に太郎の呼吸状態の監視を十分に行わず,再挿管等の気道確保のための適切な処置を採ることを怠った過失によるものであるなどと主張して,被上告人に対し,債務不履行又は不法行為による損害賠償を求める事案である。

 2 原審の確定した事実関係の概要等は,次のとおりである。

  (1) 太郎は,平成6年11月14日,本件病院の内科で食道がんにり患しているとの確定診断がされ,同月22日,本件病院の外科で担当のA医師からがん細胞が確認されたので早急に手術をする必要がある旨の説明を受けた。

 太郎は,同年12月6日,本件病院に入院し,同月12日午前11日17分から翌13日午前5時25分まで,約18時間にわたって,食道全摘術,いん頭胃ふん合術の手術(以下「本件手術」という。)を受けた。本件手術は,食道の全摘術であり,こう頭,いん頭の周囲が広範囲に郭清されたため,術後のこう頭周囲の浮しゅの状態は,通常の食道胃ふん合術に比して,かなり高度のものであったと推測される。

 太郎は,本件手術後,経鼻気管内挿管のまま,集中治療室に収容された。同日午前8時,太郎は呼吸苦を訴えたが,その際,太郎には,努力性呼吸がみられ,呼吸数の増加,換気努力により顔面に発汗もみられた。その後,太郎の呼吸困難な状態は,自発呼吸から人工呼吸器による調節呼吸に変更することにより改善された。

 同月14日午前0時40分ころ,太郎は,全身けん怠感,呼吸苦を訴えたが,A医師が,酸素濃度を60%としたことで,呼吸困難な状態は改善された。

 同月15日から17日にかけて,太郎が呼吸苦を訴えず,また,動脈血液ガス分析の結果も問題がなく,酸素濃度も40%とされたことから,A医師は,同月17日午前9時には,人工呼吸器による調節呼吸から補助呼吸へと変更した。

  (2) 同月18日早朝,太郎が呼吸苦を訴えなかったことから,A医師は,同日午前9時半ころ,補助呼吸から自発呼吸のみとした。太郎は,A医師に対し,気管内に挿入されている管を抜くことを希望し,A医師は,動脈血液ガス分析の結果が良好であったことから,抜管可能と判断し,同日午前10時50分ころ,抜管の処置をした。

 A医師は,抜管後,こう頭鏡により太郎のこう頭の状態を観察したところ,こう頭浮しゅ(++)がみられた。同日午前10時55分ころ,太郎の吸気困難な状態が高度になったことを示す胸くうドレーンの逆流が生じたが,A医師は,その際,再挿管を直ちにする必要はないと判断し,吸引圧の上昇を図るとともに,逆流防止弁(ハイムリッヒ弁)を装着して,様子をみることとした。このころ,太郎には,軽度の呼吸困難の訴えや努力性呼吸がみられた上,上気道の狭さくを示すしわがれ声による発声もあった。

  (3) もっとも,同日午前11時ないし午前11時5分ころ,A医師が,こう頭鏡により太郎の上気道の状況を観察したところ,こう頭が見え,呼吸困難な状態ではなく,また,聴診器により呼吸音(肺胞音)を聴取したところ,異常がないことが確認された。このため,A医師は,同日午前11時7,8分ころ,太郎の換気は安定したと判断し,隣室の看護婦詰所でカルテを記載しようと考え,太郎から目を離し,ドレーンの排出状態を観察するなどしていたが,同日午前11時10分ころ,太郎を見ると,四肢冷感,爪床色不良,冷汗,顔色及び口唇色不良等のチアノーゼが現れており,呼びかけにも応答せず,呼吸音がほとんど聴取できない状態であった。

 A医師は,直ちに吸たんをし,アンビューバッグとフェイスマスクで陽圧呼吸を試みたが,換気をすることができず,また,経口再挿管を試みたが,太郎は,筋強直状態で開口することができなかった。そして,A医師は,異常に気付いて駆けつけたB医師と共に,経鼻再挿管を試みたが成功せず,再度,経口再挿管を試みているうちに,太郎は心停止に至った。

 太郎が呼吸停止,心停止に至った原因は,進行性のこう頭浮しゅにより,上気道狭さくから閉そくを起こしたことによるものと推測される。

  (4) その後,A医師らは,体外式マッサージを開始し,経口再挿管に成功した。A医師らは,再挿管後,人工呼吸,心マッサージを行い,救急薬であるボスミン(抗心停止剤)やハイドロコートン(抗ショック剤)を投与したところ,同日午前11時15分ころ,太郎は,心拍再開をするに至った。

 しかし,その後,太郎は,いわゆる植物状態となり,平成8年7月4日,死亡した。その死因は,食道がんが再発,進行したことによるものであった。

  (5) なお,上記抜管後心停止に至るまでの経緯について,看護記録には,「抜管後,口腔,鼻腔より血性痰吸引」,「呼吸苦(+)吸気困難軽度訴う」,「嗄声ながらもなんとか発声あり」,「呼吸促すと深呼吸もしようとするが,徐々に努力性呼吸となり,四肢冷感,爪床色不良,冷汗(+),顔色口唇色不良」,「呼名反応鈍くなり突然呼吸停止」,「心停止あり」等の記載があるが,上記の太郎の呼吸状態が安定したことに関する記載はない。

 また,食道がん根治術の場合,気管内に挿入された管の抜管後に上気道の閉そく等が発生する危険性が高いことから,抜管後は,患者の呼吸状態を十分に観察して再挿管等の気道確保の処置に備える必要があり,特に抜管後1時間は要注意であるとする医学的知見があり,本件訴訟の鑑定人塩崎均及び同中島義和は,抜管後に胸くうドレーンの逆流が生じた時点で,こう頭浮しゅの進行を考慮することができたし,考慮すべきであったとした上で,A医師がこの時点で再挿管等の気道確保の処置を採らなかったことに疑問を呈している。

 そして,医学的知見によれば,急激な進行性のこう頭浮しゅの発生により呼吸困難から呼吸停止に至ったとすれば,発症から少なくとも数分間の呼吸困難な状態が持続する時間が必要であり,抜管後,全く呼吸困難もなく,突然,呼吸停止が生ずるようなことは,ほとんど考えられないとされており,看護記録の記載等に徴すると,太郎は,進行性のこう頭浮しゅの発生により一定の時間呼吸困難な状態にあり,その後,呼吸停止に至ったと推測される。

 3 原審は,上記事実関係の下において,次のとおり判断して,上告人らの請求を棄却すべきものとした。

  (1) 本件手術の内容からみて,術後のこう頭周囲の浮しゅの状態は,かなり高度のものであったと推測されること,抜管後胸くうドレーンの逆流がみられたが,これは吸気困難な状態が高度になったことを示していること,しわがれ声による発声があったこと等に照らすと,太郎は,進行性のこう頭浮しゅにより,上気道狭さくから閉そくを起こし,呼吸停止及び心停止に至ったものと推測するのが相当である。

  (2) 鑑定人塩崎均及び同中島義和の鑑定の結果,A医師の証言,看護記録の記載等から,太郎は,進行性のこう頭浮しゅの発生により一定の時間呼吸困難な状態にあったと推測し得る。

  (3) A医師が,平成6年12月18日午前10時50分ころに太郎の気管内に挿入してあった管を抜き,胸くうドレーンの逆流が生じたものの,その後,太郎は,いったん呼吸が安定した状態になったのであるが,同日午前11時10分ころには呼吸停止状態になったことからすると,呼吸困難な状態は相当短時間であったと考えることができる(A医師がドレーンの排出状態の観察等をしている間に呼吸困難な状態が急速に進行したものと思われる。)。

 そうすると,抜管後,こう頭浮しゅがあり,胸くうドレーンの逆流が生じたものの,いったん太郎の呼吸が安定した状態になったのであるから,その後に太郎が呼吸困難な状態に陥ったことにつきA医師が直ちに気付かなかったとしても,呼吸困難な状態が相当短時間であったことからすると,これをあながち非難することはできず,A医師に過失があると認めることはできない。

 4 しかしながら,原審の上記3(1),(2)の判断は是認することができるが,同(3)の判断は是認することができない。その理由は,次のとおりである。

 前記の事実関係によれば,次のことが明らかである。(1)本件手術は,食道の全摘術であり,その手術内容からすると,術後のこう頭周囲の浮しゅの状態は,かなり高度のものであったと推測されるのであり,現に,A医師は,平成6年12月18日午前10時50分ころに前記抜管をした後,こう頭鏡により太郎のこう頭の状態を観察し,こう頭浮しゅ(++)の存在を確認している。(2)前記抜管の約5分後(午前10時55分ころ)には,太郎の吸気困難な状態が高度になったことを示す胸くうドレーンの逆流が生じており,また,そのころ,太郎には,軽度の呼吸困難の訴えや努力性呼吸がみられた上,上気道の狭さくを示すしわがれ声による発声もあったなど,太郎のこう頭浮しゅの状態が相当程度進行しており,既に呼吸が相当困難な状態にあって,これが更に進行すれば,上気道狭さくから閉そくに至ることをうかがわせるのに十分な兆候があった。(3)太郎が呼吸停止,心停止に至った原因は,進行性のこう頭浮しゅにより上気道狭さくから閉そくを起こしたものと推測されるが,前記の医学的知見によれば,本件手術のような食道がん根治術の場合,気管内に挿入された管の抜管後に,このような上気道の閉そく等が発生する危険性が高いとされており,抜管後においては,患者の呼吸状態を十分に観察して再挿管等の気道確保の処置に備える必要があり,特に抜管後1時間は要注意であるとされている。

 上記の諸点に照らすと,A医師は,抜管後,太郎の吸気困難な状態が高度になったことを示す胸くうドレーンの逆流が生じた上記時点(前同日午前10時55分ころ)において,太郎のこう頭浮しゅの状態が相当程度進行しており,既に呼吸が相当困難な状態にあることを認識することが可能であり,これが更に進行すれば,上気道狭さくから閉そくに至り,呼吸停止,ひいては心停止に至ることも十分予測することができたものとみるべきであるから,A医師には,その時点で,再挿管等の気道確保のための適切な処置を採るべき注意義務があり,これを怠った過失があるというべきである。

 なお,前記のとおり,A医師は,胸くうドレーンの逆流が生じた上記時点後の同日午前11時ないし午前11時5分ころに太郎の観察等をし,午前11時7,8分ころにその呼吸状態が安定したとの判断をしているが,そのような状態はわずかな時間継続した一時的なものにすぎず,太郎が,その直後の午前11時10分ころには,再び呼吸困難な状態に陥り,呼吸停止に至ったことからみて,こう頭浮しゅによる呼吸困難という基本的な状況に変化があったものとは考えられない。したがって,このような一時的な状態が存在したことが上記の判断を左右するものではない。

 5 以上によれば,胸くうドレーンの逆流が生じた上記時点において,A医師には,再挿管等の気道確保のための適切な処置を採るべき注意義務を怠った過失があるというべきであり,これと異なる原審の判断には,法令の適用を誤った違法があるといわざるを得ず,この違法は,判決の結論に影響を及ぼすことが明らかである。論旨は理由があり,原判決は破棄を免れない。そして,本件については,損害等の点について更に審理を尽くさせるため,本件を原審に差し戻すこととする。

 よって,裁判官全員一致の意見で,主文のとおり判決する。

 (裁判長裁判官・滝井繁男,裁判官・福田 博,裁判官・北川弘治,裁判官・亀山継夫,裁判官・梶谷玄)