覚せい剤常用の殺人事件について心神耗弱とした東京高裁昭和59年

高橋総論4版358頁        殺人、覚せい剤取締法違反被告事件

東京高等裁判所判決/昭和57年(う)第1115号

昭和59年11月27日

【判示事項】         被告人は,犯行当時,覚せい剤の常用により慢性中毒の状態にあったが,いまだその人格や妄想や幻覚に完全に支配されていたとは認められないとして,心神喪失を示唆する二つの鑑定及びこれらを援用しての弁護人の心神喪失の主張を排斥し,心神耗弱の認定をした事例

【参照条文】        刑法39

              刑法199

【掲載誌】         高等裁判所刑事裁判速報集昭和59年344頁

              刑事裁判資料252号920頁

【評釈論文】        別冊ジュリスト111号74頁

 

       理   由

 

(1) 被告人が本件犯行の約4か月前から覚せい剤を常用して来たことを考え併せると,本件犯行当時の被告人の精神状態を単なる情動興奮状態と考えることはできず,被告人は,その当時覚せい剤使用の影響により,嫉妬妄想を中心とし,追跡妄想,被害妄想,被毒妄想の加わった妄想に若干幻覚(幻視,幻聴など)を伴う異常体験の現れた異常な精神状態にあったものと認められる。

(2) 覚せい剤中毒による幻覚妄想状態にある者の責任能力について,司法精神医学者の間には,右幻覚妄想が精神分裂病による幻覚妄想と病態の類似するところから,これを人格全体が核心から障害され,全人格が病的変化の力に支配される精神分裂病の場合と同列に扱い,原則的に責任能力はないと考える立場と,これと異なり覚せい剤中毒の場合には,人格の核心か冒されることがないため,全人格が病的変化の力に支配されず,対人接触や疎通性もよく保たれ,幻覚妄想があってもそれに対応すべき意志・理性・感情などの人格的能力が残存するから,幻覚妄想に動機づけられた犯行を直ちにこれに支配された犯行として責任能力を否定するのは正当でないとする立場とがある。そして,中田鑑定はもとより,保崎鑑定も前者の立場を採っているものと解される。

(3) このように,右両鑑定の基礎とする見解と対立する見解も存することを考慮に入れて,前認定の事実その他証拠上認められる事実に基づいて考察すると,被告人は覚せい剤を常用していた者で,慢性中毒の状態にあったと思われるが,昭和55年6月22日以降は23日の昼間及び原判示第二の25日午後5時ころ覚せい剤を使用したにすぎず,右25日の使用量も0.045グラム程度であったから,本件犯行は覚せい剤を使用した直後のものではない。そして,被告人は,持病の心臓病に対する配慮もあって,覚せい剤の使用を中断したり,その量も加減するなどしており,このことと広美,孝美の供述などから認められる被告人の日常生活における生活態度や能力には本件犯行前格別の変化ないし低下がなかったこと及び他人との意思疎通にも欠けるところがなかったことからすると,被告人は,広美と同棲して以来妄想幻覚及びその影響による異常行動もあったが,常時妄想幻覚にとらわれていたのではなく,通常の日常生活におけるそのような覚せい剤の影響は必ずしも強くはなかったと認められる。広美に傷害を負わせたことや紅谷医院から一人逃げ出したことは嫉妬妄想や追跡妄想に触発されたものと認められるけれども,右行動により広美が両親に連れ戻される結果となった後,被告人が一刻も早く広美に会い,同女の両親の宥恕を得なければならないと考えて,両親宅や横山に繰り返し電話して,広美に怪我をさせたことや入院費の支払いについて謝罪し,あるいは両親との仲介斡旋を依頼するなどの被告人の本件犯行時の行動は十分理にかなったもので,社会常識を備えていることを示すものであり,右謝罪や仲介を拒絶されて方途を閉さされた被告人が,自分に好意的だった孝美から広美の所在を聞き出そうとして同女を車に監禁した経緯も十分に了解可能である。

(4) 次に個々の犯行についてみると,本件犯行のうち,覚せい剤の自己使用(原判示第二),孝美に対する監禁(原判示第三の(二)),無免許運転(同(四))大仁警察署巡査2名に対する各公務執行妨害(同(五)),散弾銃1丁と散弾銃用実包18発の所持(同(七)))・覚せい剤の所持(同(八))の各所為は,いずれも妄想幻覚が直接の動機となったものでも,また誘因となったものとも認められないから,その関与は薄いものといえる。そして,孝美の監禁や散弾銃の所持・発砲は,被告人が逮捕を免れる手段として,また「宮内を連れて来い」などとの要求を貫く手段として,合目的に利用していることが認められる。また,菊池渉,菊池和子及び斉藤克彦に対する各示凶器脅迫の行為(原判示第三の(一)及び(三))は,いずれも警察に追われているという追跡妄想に基づいていることが認められるけれども,被告人は,菊池渉に対しては一旦は同人及び同人の妻和子の弁解を聞き入れて同人を解放し,あるいは警察官の来ないことを確認するだけの思慮があったのであり,また斉藤克彦の場合にも散弾銃を上方建物に向けて発砲するなど,周囲の状況に対応しあるいはこれを配慮した行動をしているのであって,なお自我機能が維持されていたと認められる。そして山下刑事課長に対する殺人・公務執行妨害の行為(原判示第三の(六))については,被害妄想,被毒妄想などの異常体験がその基底にあったことは否定できないが,それは前記(一四),(一五)に認定した程度においてであって,被告人が原審及び当審公判廷や各上申書で供述するところをそのまま信用することができないことはすでに述べたとおりである。右犯行前,被告人が警察官の説得を受けた際,銃口を向けられていると思ったり,発砲されることを極端に恐れたことは異常といえるが, 「警察官は自分をだまして逮捕しようとしている」と考えたのは誤った判断だとはいえないし,警察官が薬に毒を混入したと思い込んで怒ったのも,異常ではあるが理解できないことではない。しかも,山下刑事課長射殺の犯行は,妄想幻覚が直接の動機とはなっておらず,同課長が笑みを浮かべたのに憤激したことが動機になっているのであって,爆発的性格の現れと思われるが,なお自我による意志決定が存在したと認められる。加えて,以上の犯行を通じ,被告人は意識障害がほとんどなく,地理的感覚も失われておらず,自動車運転の能力もあり,被告人なりに周囲の事態に対処する行動をとっていることが認められる。

 のみならず,被告人が本件犯行当時,前記のように電話で広美の両親に謝罪し,あるいはその仲介を依頼したこと,広美に届けるつもりで書いた手紙や孝美に口述して筆記させたメモにも,怪我をさせて申しわけなかったとか,両親が怒るのも無理がないと反省しているとか述べていること,久保田に対し「お前は関係ないから警察にもしっかり言えよ」などと,自己の行為の性質を理解し久保田に対する配慮を示した言動をしたこと,原判決が説示するように散弾銃を久保田にさとられないよう林の中から持ち出したように見せかけたり,恥をさらさないようにコンドームを川に捨てたこと,山下刑事課長に雨に濡れさせるのは悪いと言ってタオルを投げ渡し,同課長らの説得に対し筋道の通った応答をしていること,同刑事課長に発砲した直後「孝ちゃん,一諸に死んでくれ」と叫ぶなど自己の行為の重大さを認識した言動をしたことなども認められるのである。

(5) 以上の事実を総合して考察すると,本件犯行を通じ,被告人は前記のとおり妄想や幻覚の現れた異常な精神状態にあったが,なお被告人は,自己の行為の意味やその反規範性を認識する能力,他人に対する配慮をし,事態に応じ自己の意思により行為する能力をある程度保持していたと認められ,被告人の人格が妄想や幻覚に完全に支配されていたとは認められない。そして被告人は,前記のとおり精神病質の傾向かあり,疑り深く物事に拘泥したり一方的に邪推しやすく,自信に欠け敏感で傷つきやすく被害妄想を持ちやすい,しかも些細なことで激昂し暴力行為に及びやすいなどの性格の持主であることがうかがわれるのであるから,本件犯行は,6月22日以来のめまぐるしい行動による心身の疲労のもとで生じたこのような被告人の本来の性格の現れとして理解できる面も多いように思われ,妄想幻覚に支配された平素とは全く異なる錯乱状態における行動とは認められないのである。したがって,被告人は,本件犯行当時,是非を弁別する能力及びこれに従って行動する能力をいまだ失ってはいなかったものと認められる。とはいえ,被告人は前記のとおりその当時覚せい剤使用の影響により異常な精神状態に陥っており,妄想幻覚に影響された異常な行動も多かったのであるから,本件犯行当時,被告人は是非を弁別する能力及びこれに従って行動する能力が著しく減弱した心身耗弱の状態にあったものと認めるのが相当である。