刑訴法382条の1のやむをえない事情 最高裁昭和62年決定
刑事訴訟法判例百選 第10版 A48 11版A49 道路交通法違反被告事件
最高裁判所第2小法廷決定/昭和62年(あ)第406号
昭和62年10月30日
【判示事項】 刑訴法382条の2にいう「やむを得ない事由」に当たらないとされた事例
【判決要旨】 弁護人が控訴審で新たな証拠の取調べを請求するにあたり、その事情として、被告人が第一審では量刑上有利に参酌してもらった方が得策であると考えて事実を認めていたところ懲役刑の実刑判決の言渡しを受けたため事実を争うに至った旨主張したとしても、そのような事情は刑訴法382条の2にいう「やむを得ない事由」に当たらない。
【参照条文】 刑事訴訟法382の2
刑事訴訟法393の1
【掲載誌】 最高裁判所刑事判例集41巻7号309頁
最高裁判所裁判集刑事247号271頁
裁判所時報969号12頁
判例タイムズ652号132頁
判例時報1254号131頁
【評釈論文】 ジュリスト902号87頁
ジュリスト臨時増刊910号193頁
別冊ジュリスト119号204頁
法曹時報42巻8号224頁
法律時報60巻2号113頁
主 文
本件上告を棄却する。
理 由
弁護人脇田輝次の上告趣意は、単なる法令違反、事実誤認、量刑不当の主張であつて、刑訴法四〇五条の上告理由に当たらない。
所論にかんがみ、職権をもつて判断すると、記録によれば、原審において、弁護人は、被告人が第一審判決判示第一の事実を認めて争わなかつたのは、量刑上有利に参酌してもらつた方が得策であると考えていたものであるところ、第一審判決が懲役三月の実刑であつたため、被告人は控訴して毎時一六八キロメートルもの高速で自動車を運転して進行したことはないとの事実を述べるに至つたものである旨主張し、被告人の右のような新たな供述を被告人質問及び被告人作成の陳述書の形で提出しようとしたうえ、その新供述を裏付けるものということで証人二名及び書証五点の取調を請求したが、原審は、被告人の新供述の提出を許さず(被告人質問は第一審判決後の情状に関してのみ実施した。)、その余の右各証拠の取調請求を却下したことが明らかである。しかし、右弁護人主張のような事情があつたとしても、そのような事情は刑訴法三八二条の二にいう「やむを得ない事由」に当たらないとの原判決の判示は正当であるから、このような証拠は同法三九三条一項但書によりその取調が義務付けられるものではなく、ただ同項本文により取り調べるかどうかが裁量にまかせられているものであつて、右原審の却下等の措置は、控訴裁判所に認められた裁量の範囲を逸脱していないことが明らかであるから、相当というべきである。
よつて、刑訴法四一四条、三八六条一項三号により、裁判官全員一致の意見で、主文のとおり決定する。
(裁判長裁判官 藤島 昭 裁判官 牧 圭次 裁判官 島谷六郎 裁判官 香川保一 裁判官 奥野久之)
弁護人脇田輝次の上告趣意(昭和六二年五月二七日付)
第一、原判決は、刑事訴訟法第三八二条の二の解釈適用を誤るもので、右は判決に影響を及ぼすべき法令の違反に当たり、刑事訴訟法第四一一条第一号によって原判決を破棄されるよう求める。
(一) 弁護人は、第一審判決第一の道路交通法違反の事実につき、被告人が毎時一六八キロの速度で進行したことはないこと等を立証するため
書証として
(証拠の標目)(立証事項)
1 被告人沼田幸男の陳述書
公訴事実第一の事実を否認しなかった事情及び当日の運転の状況等
2 パスポート
事件当日関釜フェリーで韓国に渡つた事実並びに車輛積載荷物
3 時刻表
関釜フェリーが一日一便で、午後五時出航の事実
4 制動距離表とその解説(抄)制動距離等の計算方法
5 写真
測定地点にかけて、道路がカーブしている状況
6 証明書
公訴事実第二の事件当日の気象
7 不起訴処分告知書
被告人に関する違反等照会回答(昭和六〇年一二月一〇日運転管理課事務吏員藤井陽一郎作成)記載の「昭和五七年一〇月一〇日警視庁富坂署速度超過、点数六点」の事実が不起訴になっている事実
人証として
(立証事項)
1 上田太郎
公訴事実第一の事実を否認しなかった事情及び当日の運転状況
2 下田次郎
被告人車輛の停止、取調等の状況
3 右田三郎
測定方法等
を申請したが、原審は右証拠の内、7の不起訴処分告知書を除くその他の証拠は、刑訴法第三八二条の二所定の「已むを得ない事由によって第一審の弁論終結前に取調べを請求することができなかった証拠」に該当しないとして右申請を却下し、情状についてのみ被告人質問を許したに過ぎない。しかし右は、刑訴法第三八二条の二の「已むを得ない事由」の解釈適用を誤るものである。
(二) 思うに刑事訴訟手続を純粋に当事者主義的に解釈適用すれば、第一審において公訴事実を全て認め、簡易公判手続で判決を受けた事件につき、第一審における供述を控訴審で覆すことを認めることは許されないこととなるであろう。しかしながら刑事訴訟手続は、当事者主義的な訴訟構造の中においても実体的真実を発見すべき要請があることは、いかなる見地においても認められなければならないところである。
特に「已むを得ない事由」の意義を厳格に解し、原判決のように物理的不能の場合に限られると解した場合、被告人において情状以外に何らの証拠の取調べの請求をせず、簡易公判手続で終結した本事件のようなケースでは、第二審において救済される余地は事実上全く無いことにならざるを得ない。かくては、実体的真実発見の要請が全く無視されたに等しいことになり、憲法第三十七条の裁判を受ける権利が完全には保障されない結果とならざるを得ない。
確かに被告人は第一審において公訴事実を認め、簡易公判手続によることに同意しているのであるから、形式論としては裁判を受ける権利をその時点で放棄したという理屈も立たない訳ではないが、刑事訴訟手続を充分認識していない被告人が、第一審判決の量刑に驚き、初めて実体的真実につき裁判所の判断を仰ぎたいとの願いを起こしたとすれば、被告人の利益のためにも、又実体的真実発見の要請からも、事実の認定につき裁判所の門戸が開かれて然るべきである。
(三) 更に、本事件が速度違反事件であることが考慮されなければならない。一般に運転手は、走行中の車輛のスピードが正確に現在何キロであるかということを常に認識しながら運転している訳ではない。従って、スピード違反で停止を命じられた場合においても、測定地点を正確に毎時何キロで走行していたかということは、スピードメーターを注視していた場合以外明瞭に供述できる訳ではなく、一般に漠然としたそのときの感じでしかそのスピードを供述できない筈である。それ故測定器の表示する数値が機械であるから正確だと言われれば、運転手としては通常これを反論する材料を持ち合わせていないのが実状である。
又、道路交通法違反は形式犯であり、その違反についても罪の意識は一般に薄いのが実状である。それ故測定器に現れた数値が、たとえ承服しかねるものであっても、そのときの運転手の事情によっては、敢えてこれを争わないことになりがちである。又仮にこれを争っても、取調べの警察官より脅されたりすかされたりして、結局最後まで自分の主張を通すことなく妥協させられてしまうことも、巷間よく耳にするところである。
本件においても、被告人は速度記録確認書に署名指印をしているが、供述調書において「私の感じでは一二〇キロ毎時くらいと思いました。」と記載されていることに注目されなければならない。スピード違反の取調べの実状は、右のようなことであると鑑みれば、速度記録確認書に署名指印がされていながら、これにより相当低いスピードを自認する旨の供述が記載されていることは、極めて異例のことと言わなければならない。(この点に関する原審検察官の答弁書における取調べ順序についての主張は、全く事実に反する。)何故右のような異例の事態が生じたかは証拠調べがなされなければ明らかにならないところであるが、原審としては少なくとも右点に注目して、被告人申請の証拠を取調べるべきであった。
特に判示第一の事実については、後述するとおり事実誤認の可能性が全くないとは言い切れない事案であるのであるから、原審において被告人申請の各証拠の取調べがなされるべきであったと思料するものである。
よって、本事案においては特に「已むを得ない事由」に関し、精神的不能の場合も含むと解釈されるべき事情があったのであり、原判決がこれを認容しなかったのは、刑訴法第三八二条の二の解釈適用を誤ったものである。
第二、原判決は、第一審判決第一の道路交通法違反事件につき、被告人が毎時一六八キロメートルの速度で自動車を運転したと認定しているが、これは判決に影響を及ぼすべき重大な事実の誤認があると思われるから、刑訴法第四一一条三号によって原判決を破棄されるよう求める。
弁護人は、第一審判決判示第一の事実の認定は、事実の誤認がある旨を控訴趣意書において繰々陳述したが、原判決はこれを独自の理論を展開するもので、採用の限りではないとして一蹴してしまった。
しかし、次に述べるとおり毎時一六八キロメートルものスピードが出ていなかったと思われる事情が多く認められる本事案において、原判決のようにこれを独自の理論であると切り捨てることが果たして許されるのであろうか。
すなわち
(1) 被告人は、前日の午後八時頃東京を出発して現場に至るまで、約一四時間殆ど休みなく運転を続け、身体的にも精神的にも疲労している状態にあった。従って、精神の緊張を要する一六八キロもの超スピードを出し得る状況にはなく、又それほどのスピードで急がなければならない時間的事情もなかったこと。
(2) 被告人の車輛の速度が測定された地点は、追越車線ではなく走行車線である。又、同測定地点にかけて左方向にカーブしてきており、更にその先は右方向にカーブするS字型の真中当たりが測定地点である。右道路状況で時速一六八キロもの超スピードを出すことは、通常有り得ないことであること。
(3) 警察官の指示で被告人の車輛は、インターチェンヂへの分岐道路入口で一旦停止しているが、測定地点から同停止位置までの距離は、約二七〇メートルであること。
尚、原審検察官は、答弁書第一の五において、「測定地点(A地点)から分岐誘導道路までは約四〇〇メートルであり、誘導員の位置はA地点から四二七・八メートル離れた場所」である旨主張し、被告人の右二七〇メートルの主張を否認している。しかし「速度取締現場見取図」(甲三)には、A地点と取調べ地点(B地点)の間が六〇〇メートルと記載されているのみで、分岐誘導道路ないし分岐誘導員の位置までの距離は、何ら記載されていない。
そこで被告人は第一審判決後現地に赴き、現場の測定をしたところ、B地点から分岐誘導道路までの距離を約三三〇メートルと測定することができたが、その先は高速道路のため、進入を禁止され測定ができなかった。従って、前記現場見取図のA地点からB地点の距離六〇〇メートルから、右B地点から分岐誘導道路までの距離三三〇メートルを差し引いた二七〇メートルをもって、A地点から分岐誘導道路までの距離として主張しているのである。若し検察官の主張するように、A地点から分岐誘導道路までの距離が約四〇〇メートルであり、被告人の右実測が正しいとすれば(検察官は、何故かこの実測距離につき何も反論していない)、A地点からB地点までは七三〇メートルとならざるを得ず、これを六〇〇メートルとした前記「速度取締現場見取図」は間違っていることにならざるを得ない。しかし、現場見取図がそれほど不正確に作成されていることが有り得るであろうか。
この点に頬被りして、検察官は、被告人がA地点から二七〇メートルの地点で一旦停止したとすれば、高速道路上で一旦停止したことになり、有り得ないことであると主張しているが、右はまやかしの理屈と言うほかない。
(4) 右停止に際しては後続の車輛がいるのが分かったので、急ブレーキをかけるようなことはせず、緩やかに減速して停止しており、スリップ痕も残っていないこと。
(5) 又当時車輛には釜山の事務所で使用するための事務用品等としてコピー一台、タイプライター一台、カメラ二台、ズー厶レンズ一台、カラーテレ、ビ一台、留守番電話機一台、大型カバン三個、小型カバン二個等合計約三〇〇キロの荷物を積んでおり、後部座席にはその内コピー、タイプライター一台、大型カバンニ個を乗せていたが、これら荷物が右停止に際してずれ落ちたりしたこともなかったこと。
(6) 被告人の運転していたトヨタクラウンのスピードメーターは、時速一八〇キロまで表示されているが、クラウンの性能上平坦な高速道路上で三〇〇キロの荷物を積んで、時速一六八キロのスピードが出せるかどうかも大いに疑問であること。
(7) 時速一六八キロというスピードは、車体の震動や風圧の激しさによる心理圧迫が極めて大きなものと推測され、通常の運転者には到底耐えられるスピードではないこと。
(8) 本件測定に使用された松下製のレーダースピードメーターが、当時正常に機能していたか否か、事前に所定の検査がなされていたか否か、取扱方法に誤りはなかったか否か、等について充分な検証がなされていないこと。
(9) 制動距離に関する実験上の数値等を基準にして計算すると、測定地点を時速一六八キロメートルで通過して、約二七〇メートル先のインターチェンヂ分岐点道路入口付近で停止することは、どんな急制動をかけても不可能であること。
(10) 被告人の目は難視であり、遠方があまり良く見える方ではないが、通常の視力のある者でも、誘導員の合図は二〇〇メートル以上手前からは確認できない筈である。従って、仮に現場の実測値が検察官主張のように、A地点から分岐誘導道路まで約四〇〇メートルであるとしても、実際に誘導員の合図を見て制動措置をとれるのは、誘導員の二〇〇メートルくらい手前にならざるを得ない。しかし、時速一六八キロものスピードで走行していた車輛が、二〇〇メートル手前で誘導員の合図を見て急制動措置とり、二〇〇メートル先の分岐誘導員の手前で一旦停止することは不可能であること。
右各事情を立証する証拠は、前述のとおり原審において取調べられていない。従って、右事情の主張のみによって原判決の事実誤認を指摘することは問題なしとはしないが、原審訴訟記録においても右事情は或る程度は窺い知ることは出来るのであって、これらを無視して第一審判示第一の事実を認定した原判決には、事実の誤認があると言わざるを得ない。
第三、仮に第一及び第二の申立が通らないとしても、被告人に懲役三ケ月の実刑に処するのは、量刑が甚だしく不当であるから、刑訴法第四一一条第二号によって原判決を破棄されるよう求める。
被告人には、スピード違反として次の前科がある。
(一) 昭和五七年一一月二二日 略式命令 罰金四万円
(二) 昭和五九年一月二八日 略式命令罰金五万円
(三) 昭和六〇年三月六日 判決 懲役三ケ月 三年間執行猶予
ところで、被告人に関する「違反等照会回答書」(乙喘ごには右のほかに「違反等処分年月日・昭和五七年一〇月一〇日、検挙所属・警察庁富坂署、違反等の内容・速度超過(二五以上三〇未満)指定、点数・六」の記載がある。しかし、右は原審で取調べられた不起訴処分告知書で明らかなような、不起訴処分となっているものであり、本来違反等照会回答書から抹消されていなければならないものである。
然るにそれが抹消されないままとなっていたことにより、当然その後の違反である前記前科の量刑資料としてその都度斟酌され、それぞれその後の量刑に対し相乗的に影響を及ぼし、ついには第一審の判決に極めて大きな影響を与えるに至っていることは否定し得ないところである。従って、原審においては、抹消漏れによる影響度を相殺的に勘案すべきであったと思料するものであるが、原判決はこれにつき充分な斟酌をしたとは思われない。
その他控訴趣意書において主張したような被告人の情状を勘案すれば、原審原判決の量刑は甚だしく不当であり、刑訴法第四一一条第二号によって破棄されるべきである。