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カテゴリ:憲法 > 労働法

労働安全規制と国家賠償責任 大阪泉南アスベスト訴訟最高裁平成26年

菅野12版登載

行政判例百選第7版224

損害賠償請求事件

最高裁判所第1小法廷判決/平成26年(受)第771号

平成26年10月9日

【判示事項】       労働大臣が石綿製品の製造等を行う工場又は作業場における石綿関連疾患の発生防止のために労働基準法(昭和47年法律第57号による改正前のもの)に基づく省令制定権限を行使しなかったことが国家賠償法1条1項の適用上違法であるとされた事例

【判決要旨】      石綿製品の製造等を行う工場又は作業場の労働者が石綿の粉じんにばく露したことにより石綿肺等の石綿関連疾患にり患した場合において,昭和33年当時,①石綿肺に関する医学的知見が確立し,国も石綿の粉じんによる被害の深刻さを認識していたこと,②上記の工場等における石綿の粉じん防止策として最も有効な局所排気装置の設置を義務付けるために必要な技術的知見が存在していたこと,③従前からの行政指導によっても局所排気装置の設置が進んでいなかったことなど判示の事情の下では,石綿に関する作業につき局所排気装置の設置の促進を指示する通達が発出された同年5月26日以降,労働大臣が労働基準法(昭和47年法律第57号による改正前のもの)に基づく省令制定権限を行使して罰則をもって上記の工場等に局所排気装置を設置することを義務付けなかったことは,国家賠償法1条1項の適用上違法である。

【参照条文】      国家賠償法1-1

            労働基準法1

            労働基準法(昭47法57号改正前)42

            労働基準法(昭47法57号改正前)43

            労働基準法(昭47法57号改正前)45

            労働安全衛生法22

            労働安全衛生法23

            労働安全衛生法27

【掲載誌】       最高裁判所民事判例集68巻8号799頁

            裁判所時報1613号214頁

            判例タイムズ1408号32頁

            判例時報2241号3頁

            LLI/DB 判例秘書登載

【評釈論文】      環境法研究10号133頁

            環境法研究42号113頁

            ジュリスト1479号54頁

            ジュリスト1502号94頁

            別冊ジュリスト236号460頁

            別冊ジュリスト240号32頁

            法学(東北大)80巻6号648頁

            法学セミナー60巻1号115頁

            法学セミナー60巻2号27頁

            法曹時報68巻12号172頁

            法律時報89巻1号121頁

            民商法雑誌151巻1号75頁

 

       主   文

 

 1 原判決中,被上告人X1に関する上告人敗訴部分を破棄する。

 2 前項の部分につき,被上告人X1の控訴を棄却する。

 3 上告人のその余の上告を棄却する。

 4 第1項及び第2項に関する控訴費用及び上告費用は被上告人X1の負担とし,前項に関する上告費用は上告人の負担とする。

 

       理   由

 

 第1 事案の概要

 1 被上告人らは,大阪府泉南地域に存在した石綿(アスベスト)製品の製造,加工等を行う工場又は作業場(以下「石綿工場」と総称する。)において,石綿製品の製造作業等又は運搬作業に従事したことにより,石綿肺,肺がん,中皮腫等の石綿関連疾患にり患したと主張する者(原判決別紙13「損害額等一覧表」の元従業員氏名欄記載の33名のうち,番号11及び12の2名を除く31名。以下「本件元従業員ら」という。)又はその承継人である。本件は,被上告人らが,上告人に対し,上告人が石綿関連疾患の発生又はその増悪を防止するために労働基準法(昭和47年法律第57号による改正前のもの。以下「旧労基法」という。)及び労働安全衛生法(以下「安衛法」という。)に基づく規制権限を行使しなかったことが違法であるなどと主張して,国家賠償法1条1項に基づく損害賠償を求める事案である。

 2 原審の適法に確定した事実関係等及び関係法令の概要は,次のとおりである。

 (1) 石綿の概要等

 石綿は,ほぐすと綿のようになる一群の繊維状鉱物の総称であり,クリソタイル,アモサイト,クロシドライト等に分類される。石綿は,紡織性,抗張力,耐熱性などにその特長を有しており,古くから紡織品,建築材料等に広く使用されてきた。

 我が国では,高度経済成長に伴って石綿の消費量が大きく伸び始め,昭和40年代半ばから昭和60年代にかけて大量消費が続いたが,平成2年頃から急激に消費量が減少し,平成18年9月には,石綿含有製品の製造,使用等がほぼ全面的に禁止されるに至り,石綿の消費はほとんどなくなった。泉南地域は,長きにわたり我が国における石綿紡織品の主産地であり,同地域には,戦前戦後を通じて多数の石綿工場が存在したが,そのほとんどは,小規模かつ零細な事業所であった。泉南地域における石綿製品の製造等の工程では,相当量の石綿の粉じんが発生し,本件元従業員らは,石綿工場において石綿製品の製造作業等又は運搬作業に従事し,その過程において石綿の粉じんにばく露したことにより石綿関連疾患にり患した。

 (2) 石綿関連疾患の概要

 石綿関連疾患には,石綿肺,肺がん,中皮腫等がある。これらのうち石綿肺は,石綿の粉じんを大量に吸入することにより発生するじん肺であり,肺線維症の一種である。自覚症状としては,労作時の息切れ,せき及びたんの症状があり,進行すると安静時でも息切れがするようになり,呼吸不全のため常時酸素吸入が必要となる場合がある。また,続発性気管支炎等の合併症から重篤な気管支炎に進行し,死亡に至る例もある。石綿肺は,石綿の粉じんのばく露がなくなった後でも病変は進行し,その治療法は,ほぼ症状の緩和しかない。中皮腫は,漿膜の表面にある中皮細胞に由来する悪性の腫瘍であり,ほとんどが石綿を原因とするものである。中皮腫に対する確立した治療法はなく,非常に予後の悪い疾患であるとされている。

 (3) 石綿関連疾患に関する医学的知見の進展等

 ア 我が国においては,昭和12年から昭和15年にかけて,保険院社会保険局健康保険相談所大阪支所長らにより,初めて本格的な石綿肺の調査(以下「保険院調査」という。)が行われ,その調査結果において,飛じん量と勤続年数が石綿肺り患の2大要因であることなどが指摘された。

 イ 戦後,金属鉱山を中心としてけい肺の撲滅を目指す運動が広がり,労働省は,昭和23年から全国けい肺巡回検診を実施した。その結果,検査対象とされた約4万6000人の労働者のうち,約6600人がじん肺患者とされ,そのうち約6000人がけい肺,残りの約600人が石綿肺を含むその他のじん肺とされた。その後,昭和30年9月から昭和32年3月にかけて,「けい肺及び外傷性せき髄障害に関する特別保護法」に基づく全粉じん作業労働者に対するけい肺健康診断が実施され,昭和34年頃には,対象労働者数33万9450人のうち有所見者が3万8738人(11.4%)であることが明らかとなった。また,昭和27年頃以降,研究者らによる石綿の粉じん被害の実態調査が行われ,勤務年数が増加するに従い,有所見者が増加する傾向が認められた。

 ウ 上記の結果等を踏まえ,労働省は,昭和31年から,石綿の紡織作業等の衛生上有害な業務に従事する労働者に対する特殊健康診断を実施することとし,その結果,石綿関係の事業所においても異常所見者が認められ,特に大阪では高率であった。これを受けて,労働省は,労働衛生試験研究として,昭和31年度から昭和34年度まで,石綿肺等のじん肺に関する研究を専門家に委託した。昭和31年度及び昭和32年度には,石綿肺の診断基準に関する研究が行われ,大阪等の石綿工場において石綿肺の実態調査が実施された。その結果では,全労働者のうち石綿肺であることが確実である者の割合は10.8%ないし19.2%であり,勤続3年以上の労働者において石綿肺であることが確実である者の割合は29.6%ないし45%であって,全粉じん作業労働者に対するけい肺健康診断における有所見者率が11.4%であったことと比べて,かなりの高率であった。

 エ 上記の昭和31年度及び昭和32年度の研究報告では,石綿肺の実態等につき,①石綿の粉じん濃度はどの工場でも高く,長期間の作業により石綿肺の発症が必至の状況であったこと,②粉じん濃度が高い職場ほど発症率が高く,勤続年数が長くなると発症率が上昇すること,③石綿肺り患者は機能的体力が劣り,肺活量の低下が顕著であって,重症の石綿肺り患者には心肺機能に障害が生ずることなどが指摘されるとともに,石綿肺の概略を明らかにすることができ,診断基準の設定にまで到達したと報告され,昭和32年度の研究報告がされた昭和33年3月31日頃には,石綿肺に関する医学的知見が確立した。そして,上告人は,昭和33年頃,上記の委託研究の結果等から石綿の粉じんによる被害が深刻なものであることを認識していた。

 オ 昭和34年9月,上記の労働衛生試験研究の成果等を踏まえ,けい肺審議会の医学部会により,石綿肺を含む粉じんに対する被害の予防と健康管理の必要性が表明され,上記医学部会の意見に基づくけい肺審議会の答申を受けて,昭和35年3月,じん肺法が制定された。

 カ そして,その後の研究によって石綿の粉じんのばく露と石綿肺以外の石綿関連疾患との関連性が次第に明らかとなり,昭和46年頃には肺がんとの関連性が,昭和47年頃には中皮腫との関連性がそれぞれ明らかとなった。

 (4) 関係法令の概要

 ア 昭和22年に公布された旧労基法(同年施行)は,労働者が人たるに値する生活を営むための必要を充たすべきものとして労働条件を確保することを目的とするものであり(1条),使用者は,粉じん等による危害防止等のために必要な措置を講じなければならないものとされ(42条等),労働者は,危害防止のために必要な事項を遵守しなければならないものとされている(44条)。また,旧労基法では,使用者は,労働者を雇い入れた場合にその労働者に安全衛生教育を実施しなければならないものとされている(50条)。そして,上記の各規定に違反した者には罰則が科される(119条1号,120条1号)。旧労基法42条から44条までの規定により使用者が講ずべき措置及び労働者が遵守すべき事項は,命令に委任されており(45条),労働安全衛生規則(昭和22年労働省令第9号。以下「旧安衛則」という。)及び特定化学物質等障害予防規則(昭和46年労働省令第11号。以下「旧特化則」という。)が,上記の措置及び事項の具体的内容を定めている(旧安衛則は昭和22年11月1日,旧特化則は一部を除き昭和46年5月1日に各施行)。なお,上記両規則が競合する部分については,旧特化則が優先する。

 イ 昭和35年3月31日に公布されたじん肺法(同年4月1日施行)は,石綿肺をも含むようにじん肺を定義し,事業者(昭和52年法律第76号による改正前のじん肺法にあっては「使用者」)に対し,じん肺の予防のための措置を講ずるよう努める義務を課すほか(5条),じん肺に関する予防及び健康管理のために労働者に必要な教育を実施する義務を課しており(6条),同法6条の規定に違反した者には罰則が科される(45条1号)。

 ウ 昭和47年6月8日,安衛法が公布され(一部を除き昭和47年10月1日施行),これに伴い,旧労基法42条以下に定められていた安全及び衛生に関する規定が改正され,労働者の安全及び衛生に関しては,安衛法の定めるところによるものとされた。安衛法は,職場における労働者の安全と健康の確保等を目的とするものであり(1条),事業者は,労働者の健康障害の防止等のために必要な措置を講じなければならないものとされ(22条等),労働者は,事業者が講ずる措置に応じて必要な事項を守らなければならないものとされている(26条)。また,安衛法では,事業者は,労働者を雇い入れたとき及び労働者の作業内容を変更したときにその労働者に安全衛生教育を実施しなければならないものとされている(59条1項及び2項)。そして,上記の各規定に違反した者には罰則が科される(119条1号,120条1号。ただし,作業内容変更時の安全衛生教育については平成17年法律第108号による改正後の120条1号)。安衛法22条,26条等の規定により事業者が講ずべき措置及び労働者が守らなければならない事項は,労働省令に委任されており(27条),労働安全衛生規則(昭和47年労働省令第32号。以下「安衛則」という。)及び特定化学物質等障害予防規則(昭和47年労働省令第39号。以下「特化則」という。)が,上記の措置及び事項の具体的内容を定めている(上記両規則はいずれも一部を除き昭和47年10月1日施行)。なお,上記両規則が競合する部分については,特化則が優先する。上記両規則の制定に伴って,旧安衛則及び旧特化則は廃止された。

 (5) 局所排気装置に関する技術的知見の進展,規制の経過等

 ア 局所排気装置は,高濃度で発生した有害物が周囲の一般空気中に混合分散する前に汚染空気を吸込み気流によって局所的に捕捉除去し,清浄化して大気中に排出する装置である。局所排気装置は,おおむね,フード,吸込みダクト,除じん装置,ファン,排気ダクト及び排気口の各部位から構成され,その基本構造自体は単純なもので,戦前から現在まで大きな変化はない。

 イ 欧米では,戦前において既に局所排気装置の研究及び設置が進んでいたが,戦前の我が国では,研究者らによって局所排気装置の原理等が紹介され,わずかな設置例が存在するにすぎなかった。しかし,昭和26年,国際労働機関(ILO)によって採択された産業安全に関するモデル規程が労働省労働基準局安全課により翻訳されて出版された。同規程は,国際労働機関が,世界各国の専門家の意見を集め,6年余りの期間を費やして作成したものであり,局所排気装置の構造等についての詳細な規定を含むものであった。また,昭和28年7月には,労働省労働基準局労働衛生課長の監修により,米国の研究者が局所排気装置の設計や集じん装置等について解説した書籍が翻訳されて出版された。これらの書籍等の出版によって昭和20年代後半には局所排気装置の実用的な知識が向上拡大し,民間の工場において徐々に局所排気装置が設置されるようになり,昭和30年頃には局所排気装置の製作等を行う業者も一定数存在していた。このような状況を受けて,労働省は,昭和27年から昭和32年まで毎年局所排気装置を含む粉じん除去対策を労働衛生試験研究の課題とし,併せて昭和30年頃から一般的な形で局所排気装置の設置の行政指導を行った。そして,労働省は,昭和30年度から労働衛生試験研究として,局所排気装置の設計基準に関する研究を専門家に委託し,同研究の成果は,昭和32年9月,「労働環境の改善とその技術-局所排気装置による-」と題する書籍(労働省労働基準局労働衛生課監修。以下「昭和32年資料」という。)として発行された。昭和32年資料は,我が国における最初の局所排気に関するまとまった技術書であり,局所排気装置全般について,図表等を交えて理論面及び実用面からの詳細な検討結果を記載し,石綿工場における実例は記載されていないものの,研磨作業,粉砕作業等を行う作業場における実例を図や写真入りで紹介している。また,昭和32年資料の末尾の資料編には,昭和32年資料の発行者である日本保安用品協会が推奨することができる局所排気装置の設計施工者として9社が紹介されている。

 ウ 前記のとおり,昭和30年9月から昭和32年3月にかけて大規模なけい肺健康診断が,昭和31年から特殊健康診断がそれぞれ実施され,相当数の異常所見者がみられたことから,労働省労働基準局長は,昭和33年5月26日付けで,都道府県労働基準局長宛ての「職業病予防のための労働環境の改善等の促進について」と題する通達(同日基発第338号。以下「昭和33年通達」という。)を発出した。労働省労働基準局長は,昭和33年通達により,粉じん作業等につき労働環境の改善等予防対策のよるべき一般的措置の種類をその別紙「労働環境における職業病予防に関する技術指針」(以下「別紙技術指針」という。)に定めたとしてその実施の促進を指示した。別紙技術指針は,昭和33年通達の趣旨につき,労働環境の改善に関する技術上の問題がある程度解決し得るに至ったので上記の一般的措置の種類を定めたものであるとし,作業の種類,発散有害物,その抑制目標限度,準拠すべき測定法,労働環境に対する措置等を定めた。そして,石綿に関する作業については,抑制目標限度を1立方センチメートル当たり1000個(1立方メートル当たり20mg),測定法を,労研式じん埃計法,インピンジャー法,ろ紙式じん埃計法,電気集じん機法とし,労働環境に対する措置として,石綿等の破砕,ふるい分け,ときほぐし等については,局所排気装置を設けることを,石綿等の積込み及び運搬については,でき得る限り局所排気装置を設けることを定めるとともに,局所排気装置の技術方法については昭和32年資料を参照することとした。

 エ 昭和35年3月31日,じん肺法が公布され,同法に基づいて設置されたじん肺審議会の粉じん抑制技術専門部会において,局所排気装置の標準となる設計方法と保守管理方法についての検討が行われた。その検討結果は,昭和41年1月,「局所排気装置の標準設計と保守管理(基本編)」と題する書籍(労働省労働基準局安全衛生部編。以下「昭和41年資料」という。)として発行された。労働省労働基準局長は,昭和41年,都道府県労働基準局長宛ての通達を発出し,昭和41年資料を局所排気装置の施工業者等に対する指導書として活用し局所排気装置の知識及び技術の普及を図るよう指示した。また,労働省労働基準局長は,昭和43年及び昭和46年,都道府県労働基準局長宛ての通達を発出し,石綿工場に局所排気装置を設置するよう指導することなどを指示した。

 オ 有害物質により健康障害が増加したこととこれに対する社会的関心の高まりを受け,労働大臣は,昭和46年4月28日,旧特化則を制定した。旧特化則は,石綿等を規制対象として,粉じん等が発散する屋内作業場については当該発散源に局所排気装置を設けなければならないものとし(4条),局所排気装置の要件として,フード,ダクト,ファン及び排出口の設置位置等について定めた上(6条1項),フードの外側における粉じん等の濃度(以下「抑制濃度」という。)が労働大臣が定める値を超えないものとする能力を有するものでなければならないとした(同条2項)。その後,安衛法の制定に伴い,旧特化則は廃止され,特化則が制定されたが,局所排気装置に関する規制内容は,旧特化則とほぼ同じであった。

 カ 労働省は,昭和41年資料の発行後も局所排気装置のフードの理論的研究,実施例の収集等を行った。そして,昭和47年には,フードの設計について作業ごとに整理するなどした「局所排気装置フード 設計資料集成-応用編-」(労働省安全衛生部労働衛生課編。以下「昭和47年資料」という。)が発行され,さらに,昭和53年2月には,石綿に関する作業の特殊性に対応した局所排気装置のフードの実例やその効果等について記載した「局所排気装置フード 設計資料集成-粉じん(石綿)編-」(労働省安全衛生部労働衛生課編。以下「昭和53年資料」という。)が発行された。

 キ 前記のとおり,局所排気装置については,昭和32年資料が発行された後も,昭和41年資料,昭和47年資料及び昭和53年資料が発行されたが,これらは,いずれも昭和32年資料に記載されたところを大きく変更したり,新たな理論に基づく論述がされたりしているものではなく,昭和32年資料に既に示されていた内容について,具体的かつ平易に解説し,その実例を紹介するにとどまるものであった。また,昭和33年頃の石綿工場における石綿の粉じん防止策としては,粉じんの発散源となる機械に局所排気装置を設置することが最も有効な方策であり,前記のとおり,労働省は,昭和30年頃から行政指導により事業所に対して局所排気装置の設置を指導していた。しかし,昭和33年通達が発せられてから約9年後の昭和42年に大阪労働基準局が行った調査では,局所排気装置が設置された石綿工場の割合は4割程度にとどまっていた。また,昭和46年に同局が行った調査では,上記の割合は8割を超えたものの,これらは1台でも局所排気装置が設置された石綿工場の割合にすぎず,石綿工場における粉じんの発散源のうち局所排気装置が設置されたものの割合ではない上,設置された局所排気装置も設計及び保守管理が不良で,現実の労働環境は依然として改善されていない状況であり,昭和46年当時においても石綿工場における局所排気装置による粉じん対策は進んでいなかった。

 (6) 昭和33年当時における粉じん濃度の測定技術及び評価指標

 ア 粉じん濃度の測定技術

 我が国では,昭和33年当時,粉じん濃度の測定器として,インピンジャー,電気集じん機,労研式じん埃計,チンダロメーター,労研式ろ紙じん埃計などが存在していた。これらは,石綿の粉じんのみを測定することはできないが,総体としての粉じん濃度を測定することは可能なものであった。

 前記のとおり,別紙技術指針では,石綿に関する作業につき,抑制目標限度が1立方センチメートル当たり1000個(1立方メートル当たり20mg)とされ,準拠すべき測定法として,労研式じん埃計法,インピンジャー法,ろ紙式じん埃計法,電気集じん機法が指定されていた。このうち,インピンジャー及び電気集じん機は,利用上の難点があり,使用例も多くなかったのに対し,労研式じん埃計は,機械に故障がなく,測定者が技術を有していれば実用に堪えるものであり,保険院調査や昭和31年度及び昭和32年度の労働衛生試験研究等において石綿の粉じん濃度を調査するために用いられていた。また,労研式ろ紙じん埃計は,取扱いが容易であり,各種の作業現場において使用されていた。

 イ 粉じん濃度の評価指標

 昭和13年,我が国の研究者により,米国等における研究を参考に,粉じん濃度の指標として恕限度が提唱された。恕限度とは,作業者個人の健康被害を防止するためのばく露限界として考案された指標であり,一般の発じん性作業場における恕限度は,1立方センチメートル当たり400個とされた。

 昭和28年,けい肺対策審議会の粉じん恕限度専門部会において,けい酸じんの恕限度について検討が開始され,同部会は,昭和29年,労働大臣に対して恕限度の具体的数値を示した。

 また,前記のとおり,昭和33年,別紙技術指針において,有害物の発散源に対する改善措置の効果の目標値として抑制目標限度という数値が定められ,石綿に関する作業については,1立方センチメートル当たり1000個(1立方メートル当たり20mg)とされた。

 (7) 粉じん濃度に関する規制内容等

 ア 我が国及び諸外国においては,粉じんによる健康障害を予防する観点から法令等による規制値又は専門家による勧告値として一定の粉じん濃度が示されてきた。米国産業衛生専門家会議(American Conference of Governmental Industrial Hygienists。いわゆるACGIH)は,1950年(昭和25年),労働者の有害物質のばく露濃度の限界値(Threshold Limit Value。いわゆるTLV)を設定し,石綿については,1立方センチメートル当たり175個とした。我が国でも,昭和40年,日本産業衛生協会(昭和47年に日本産業衛生学会に名称が変更された。以下,この名称変更の前後を通じて「日本産業衛生学会」という。)が,石綿の粉じんの許容濃度として,1立方メートル当たり2mg(石綿の繊維数に換算すると,1立方センチメートル当たり33本。以下,石綿の粉じん濃度における本数は石綿の繊維数である。)を勧告した。この許容濃度は,米国産業衛生専門家会議の設定した上記の限界値とほぼ同義のばく露限界を示す概念であり,労働者が有害物質にばく露する場合,当該物質の空気中濃度がこの数値以下であれば,ほとんど全ての労働者に健康障害が見られないという濃度である。

 イ 前記のとおり,旧特化則及び特化則は,抑制濃度が労働大臣が定める値を超えないものとする能力を有することを局所排気装置の性能要件とし,労働大臣は,昭和46年労働省告示第27号(以下「昭和46年告示」という。)により,石綿の抑制濃度の規制値を,当時の日本産業衛生学会の許容濃度の勧告値と同じ1立方メートル当たり2mg(1立方センチメートル当たり33本)と定めた。

 ウ 労働省労働基準局長は,昭和48年7月11日付けで,都道府県労働基準局長宛ての通達を発出し,石綿が肺がん,中皮腫等を発生させることが明らかになったなどとして,当面,石綿の抑制濃度を5μm(マイクロメートル)以上の石綿繊維が1立方センチメートル当たり5本とするよう指導することを指示した。

 エ 米国産業衛生専門家会議は,1973年(昭和48年)に石綿に発がん性があるとの立場を採り,1974年(昭和49年),石綿の粉じんのばく露濃度の限界値として1立方センチメートル当たり5本を勧告した。これに対して,日本産業衛生学会は,同年3月31日,石綿の発がん性等を考慮して,石綿の粉じんの許容濃度につき,従来の勧告値である1立方メートル当たり2mg(1立方センチメートル当たり33本)を見直して,5μm以上の石綿繊維が1立方センチメートル当たり2本とし,クロシドライトについては上記の濃度をはるかに下回る必要があるとした。

 オ 労働大臣は,昭和50年9月,昭和50年労働省告示第75号(以下「昭和50年告示」という。)により,昭和46年告示を改正して石綿の抑制濃度の規制を強化し,その規制値を5μm以上の石綿繊維が1立方センチメートル当たり5本と定めた。さらに,労働省労働基準局長は,昭和51年,都道府県労働基準局長宛ての通達により,石綿の粉じんにばく露した労働者から肺がん又は中皮腫が多発することが明らかとされ,その対策の強化が要請されているなどとして,当面,石綿の抑制濃度を5μm以上の石綿繊維が1立方センチメートル当たり2本(クロシドライトについては,0.2本)以下を目途とするよう指導することなどを指示した。

 カ その後,安衛法に基づく作業環境測定結果の評価に関して,管理濃度(有害物質に関する作業場の空気環境の良否を判断するための指標)という指標が導入され,昭和63年9月1日,安衛法に基づいて定められた作業環境評価基準(昭和63年労働省告示第79号)において,石綿の管理濃度は5μm以上の石綿繊維が1立方センチメートル当たり2本(クロシドライトについては,0.2本)とされた。

 (8) 呼吸用保護具に関する規制内容

 昭和22年10月31日に制定された旧安衛則は,使用者に対し,粉じんを発散する衛生上有害な場所での業務において作業に従事する労働者に使用させるために呼吸用保護具を備える等の義務を課すとともに(181条等),労働者に対し,就業中の呼吸用保護具の使用義務を課しており(185条),昭和46年4月28日に制定された旧特化則は,使用者に対し,石綿等を取り扱う作業場に呼吸用保護具を備える等の義務を課した上(32条等),特定化学物質等作業主任者を選任して保護具の使用状況を監視させる義務を課している(28条1項3号)。そして,上記各義務に違反した場合には罰則が科される(旧労基法119条1号,120条1号)。また,昭和47年9月30日には,安衛法に基づいて安衛則及び特化則が制定されたが,呼吸用保護具に関する規制内容は,従前とほぼ同様のものであった。その後,平成7年1月26日の特化則の改正により,労働者に呼吸用保護具を使用させる事業者の義務が規定された(38条の9。同年4月1日施行)。これに対して,昭和47年9月30日に制定された鉛中毒予防規則等には,制定当初から労働者に呼吸用保護具を使用させる事業者の義務が規定されていた。

 3 原審は,前記の事実関係等の下において,上告人は石綿関連疾患にり患した本件元従業員らにつき,各損害の2分の1を限度として,損害賠償責任を負うと判断した。原審の判断の概要は,次のとおりである。

 (1) 昭和32年資料によって,石綿工場を含む一般の作業場において局所排気装置を設置し得るだけの技術的基盤が形成され,昭和33年当時に存在した粉じん濃度の測定技術及び評価指標により局所排気装置の性能要件を定めることも可能であったから,石綿肺り患の実情が相当深刻なものであることが明らかになっていたなどの当時の状況の下において,昭和33年通達が発出された同年5月26日から,旧特化則が制定された昭和46年4月28日まで,労働大臣が,旧労基法に基づく省令制定権限を行使し罰則をもって石綿工場に局所排気装置を設置することを義務付けなかったことは,国家賠償法1条1項の適用上違法である。

 (2) 石綿の粉じんのばく露と肺がん及び中皮腫との関連性についての医学的知見が明らかになっていた昭和47年頃には,局所排気装置の設置だけでなく,より徹底した石綿の粉じんのばく露防止策が求められていたから,日本産業衛生学会が石綿の粉じんの許容濃度として5μm以上の石綿繊維が1立方センチメートル当たり2本を勧告した昭和49年3月31日から6箇月後の同年9月30日以降,労働省告示により上記の勧告値に等しい値が管理濃度の値とされた昭和63年9月1日まで,労働大臣が,労働省告示を改正して上記の勧告値を石綿の抑制濃度の規制値としなかったことは,国家賠償法1条1項の適用上違法である。

 (3) 前記のとおり,昭和47年頃には,局所排気装置の設置だけでなく,より徹底した石綿の粉じんのばく露防止策が求められていたから,事業者に対して労働者に呼吸用保護具を使用させることを義務付ける鉛中毒予防規則等が制定された昭和47年9月30日以降,特化則の改正により石綿に関する作業について上記の義務付けがされた平成7年4月1日まで,労働大臣が,安衛法に基づく省令制定権限を行使して事業者に対し労働者に防じんマスクを使用させること及びその使用を徹底させるための石綿関連疾患に対応する特別安全教育を実施することを義務付けなかったことは,国家賠償法1条1項の適用上違法である。

 第2 被上告人X1を除く被上告人らに対する上告について

 1 上告代理人都築政則ほかの上告受理申立て理由第2及び第3について

 (1) 論旨は,局所排気装置の設置の義務付けに関する規制権限の不行使が国家賠償法1条1項の適用上違法であるとした原審の前記第1の3(1)の判断には,同項等の解釈適用を誤った違法があるというものである。

 (2) 国又は公共団体の公務員による規制権限の不行使は,その権限を定めた法令の趣旨,目的や,その権限の性質等に照らし,具体的事情の下において,その不行使が許容される限度を逸脱して著しく合理性を欠くと認められるときは,その不行使により被害を受けた者との関係において,国家賠償法1条1項の適用上違法となるものと解するのが相当である(最高裁平成13年(受)第1760号同16年4月27日第三小法廷判決・民集58巻4号1032頁,最高裁平成13年(オ)第1194号,第1196号,同年(受)第1172号,第1174号同16年10月15日第二小法廷判決・民集58巻7号1802頁参照)。

 これを本件についてみると,旧労基法は,労働者が人たるに値する生活を営むための必要を充たすべきものとして労働条件を確保することを目的として(1条),使用者は粉じん等による危害防止等のために必要な措置を講じなければならないものとし(42条等),安衛法は,職場における労働者の安全と健康の確保等を目的として(1条),事業者は労働者の健康障害の防止等のために必要な措置を講じなければならないものとしているのであって(22条等),使用者又は事業者が講ずべき具体的措置を命令又は労働省令に委任している(旧労基法45条,安衛法27条)。このように,旧労基法及び安衛法が,上記の具体的措置を命令又は労働省令に包括的に委任した趣旨は,使用者又は事業者が講ずべき措置の内容が,多岐にわたる専門的,技術的事項であること,また,その内容を,できる限り速やかに,技術の進歩や最新の医学的知見等に適合したものに改正していくためには,これを主務大臣に委ねるのが適当であるとされたことによるものである。

 以上の上記各法律の目的及び上記各規定の趣旨に鑑みると,上記各法律の主務大臣であった労働大臣の上記各法律に基づく規制権限は,粉じん作業等に従事する労働者の労働環境を整備し,その生命,身体に対する危害を防止し,その健康を確保することをその主要な目的として,できる限り速やかに,技術の進歩や最新の医学的知見等に適合したものに改正すべく,適時にかつ適切に行使されるべきものである(前掲最高裁平成16年4月27日第三小法廷判決参照)。

 (3) 前記の事実関係等によれば,石綿肺の被害及びその対策の状況等につき,次のようにいうことができる。①石綿肺の被害状況については,労働省の委託研究において昭和31年度及び昭和32年度に行われた石綿工場での石綿肺の調査の結果,勤続3年以上の労働者の石綿肺の発症率が29.6%ないし45%であり,昭和30年から昭和32年にかけて実施された大規模なけい肺健康診断による有所見者率が11.4%であったことに比べてかなりの高率であったことなど,石綿工場の労働者の石綿肺り患の実情が相当深刻なものであることが明らかになっており,上告人においても,昭和33年頃,石綿の粉じんによる被害が深刻なものであることを認識していた。②石綿肺に関する医学的知見については,昭和33年3月31日にされた上記の委託研究の報告において,石綿肺の概略を明らかにすることができたなどとされ,同日頃には石綿肺に関する医学的知見が確立していた。③昭和33年当時,石綿工場における石綿の粉じん防止策としては,粉じんの発散源となる機械に局所排気装置を設置することが最も有効な方策であり,局所排気装置を設置することによって石綿工場の労働者が石綿の粉じんにばく露することを相当程度防ぐことができたと認められる。④局所排気装置の設置状況については,労働省は,昭和30年頃から局所排気装置の設置を指導し,昭和33年通達等を発出してその普及を図っていたものの,昭和42年の大阪労働基準局の調査では,1台でも局所排気装置が設置された石綿工場の割合が4割程度にすぎず,昭和46年の同局の調査でも,石綿工場に設置された局所排気装置は設計及び保守管理が不良で現実の労働環境は依然として改善されていないなど,昭和46年当時においても石綿工場における局所排気装置による粉じん対策は進んでいなかった。

 (4) 上記のような昭和33年当時の石綿肺の被害状況等に加え,前記の事実関係等によれば,局所排気装置の設置に関する技術的知見につき,次のようにいうことができる。①局所排気装置は,その基本構造自体は単純なものであり,戦前から現在まで大きな変化はない。②昭和28年7月,米国の研究者が局所排気装置の設計等について解説した書籍が翻訳されて出版されたことなどにより,昭和20年代後半には局所排気装置の実用的な知識が向上拡大し,民間の工場においても徐々に局所排気装置が設置されるようになり,昭和30年頃には局所排気装置の製作等を行う業者も一定数存在していた。③このような状況を受けて,労働省は,昭和27年頃から局所排気装置を含む粉じん除去対策の研究を進める一方,昭和30年頃から一般的な形で局所排気装置の設置の行政指導を行った。④そして,昭和32年9月には,労働省の委託研究の成果として,局所排気装置の設置に向けた理論面及び実用面からの詳細な検討結果が記載された昭和32年資料が発行された。⑤労働省労働基準局長は,昭和33年通達を発出し,別紙技術指針において,石綿に関する作業につき局所排気装置の設置の促進を一般的な形で指示した上,その際には昭和32年資料を参照することとした。

 (5) さらに,前記の事実関係等によれば,昭和33年当時における粉じん濃度の測定技術及び評価指標につき,次のようにいうことができる。①昭和33年には,粉じん濃度の測定器として労研式じん埃計及び労研式ろ紙じん埃計が存在しており,これらによる粉じん濃度の測定法は,別紙技術指針において石綿に関する作業における粉じん濃度の測定方法に指定されるなど,石綿工場においても粉じん濃度を測定することが可能なものであって,その使用に特段の支障はなかった。②同年には,粉じん濃度の評価指標として恕限度及び抑制目標限度が存在しており,これらは,専門家による研究又は検討の結果として示されたものであるなど,相応の根拠を有するものであった。

 (6) 以上の諸点に照らすと,労働大臣は,石綿肺の医学的知見が確立した昭和33年3月31日頃以降,石綿工場に局所排気装置を設置することの義務付けが可能となった段階で,できる限り速やかに,旧労基法に基づく省令制定権限を適切に行使し,罰則をもって上記の義務付けを行って局所排気装置の普及を図るべきであったということができる。そして,昭和33年には,局所排気装置の設置等に関する実用的な知識及び技術が相当程度普及して石綿工場において有効に機能する局所排気装置を設置することが可能となり,石綿工場に局所排気装置を設置することを義務付けるために必要な実用性のある技術的知見が存在するに至っていたものと解するのが相当である。また,昭和33年当時,石綿工場において粉じん濃度を測定することができる技術及び有用な粉じん濃度の評価指標が存在しており,局所排気装置の性能要件を設定することも可能であったというべきである。そうすると,昭和33年通達が発出された同年5月26日には,労働大臣は省令制定権限を行使して石綿工場に局所排気装置を設置することを義務付けることが可能であったということができる。

 (7) 本件における以上の事情を総合すると,労働大臣は,昭和33年5月26日には,旧労基法に基づく省令制定権限を行使して,罰則をもって石綿工場に局所排気装置を設置することを義務付けるべきであったのであり,旧特化則が制定された昭和46年4月28日まで,労働大臣が旧労基法に基づく上記省令制定権限を行使しなかったことは,旧労基法の趣旨,目的や,その権限の性質等に照らし,著しく合理性を欠くものであって,国家賠償法1条1項の適用上違法であるというべきである。これと同旨の原審の前記第1の3(1)の判断は,正当として是認することができる。論旨は採用することができない。

 2 上告代理人都築政則ほかの上告受理申立て理由第4及び第5について

 論旨は,抑制濃度及び防じんマスクに関する規制権限の不行使が国家賠償法1条1項の適用上違法であるとした原審の前記第1の3(2)及び(3)の判断には,同項の解釈適用を誤った違法があるというものである。

 被上告人X1を除く被上告人らは,亡Aを除く本件元従業員ら又はその承継人であるところ,前記1のとおり,局所排気装置の設置の義務付けに関する規制権限の不行使が国家賠償法1条1項の適用上違法とされる期間は,昭和33年5月26日から昭和46年4月28日までであり,原審の適法に確定した事実関係によれば,亡Aを除く本件元従業員らは,上記期間内において石綿工場で石綿の粉じんにばく露した者であって,上記期間内に石綿の粉じんにばく露したことと上記の者の石綿関連疾患との間には相当因果関係が認められるというのであるから,上告人は,抑制濃度及び防じんマスクに関する規制権限の不行使が同項の適用上違法であるか否かにかかわらず,上記の者が石綿関連疾患にり患したことによる損害につき損害賠償責任を負うことになる。したがって,論旨は,原判決の結論に影響しない部分を論難するものであり,採用することができない。

 第3 被上告人X1に対する上告について

 1 上告代理人都築政則ほかの上告受理申立て理由第2及び第3について

 論旨は,局所排気装置の設置の義務付けに関する規制権限の不行使が国家賠償法1条1項の適用上違法であるとした原審の前記第1の3(1)の判断には,同項等の解釈適用を誤った違法があるというものである。

 被上告人X1は,本件元従業員らの1人である亡Aの承継人であるところ,前記第2の1のとおり,局所排気装置の設置の義務付けに関する規制権限の不行使が国家賠償法1条1項の適用上違法とされる期間は,昭和33年5月26日から昭和46年4月28日までであり,原審の適法に確定した事実関係によれば,亡Aが石綿工場で石綿製品の製造等に従事していたのは,昭和56年5月6日以降であるから,局所排気装置の設置の義務付けに関する規制権限の不行使が同項の適用上違法であるか否かは,亡Aに対する上告人の損害賠償責任の有無に影響を及ぼすものとはいえない。論旨は,原判決の結論に影響しない部分を論難するものであり,採用することができない。

 2 上告代理人都築政則ほかの上告受理申立て理由第4について

 (1) 論旨は,抑制濃度に関する規制権限の不行使が国家賠償法1条1項の適用上違法であるとした原審の前記第1の3(2)の判断には,同項の解釈適用を誤った違法があるというものである。

 (2) 前記の事実関係等によれば,①日本産業衛生学会が昭和49年3月に石綿の粉じんの許容濃度として5μm以上の石綿繊維が1立方センチメートル当たり2本を勧告したのに対し,労働大臣は,その1年6箇月後の昭和50年9月には,昭和50年告示により,昭和46年告示を改正して石綿の抑制濃度の規制を強化し,その規制値を5μm以上の石綿繊維が1立方センチメートル当たり5本と定めたこと,②この規制値は,昭和49年に米国産業衛生専門家会議が勧告した石綿の粉じんのばく露濃度の限界値と同等のものであり,米国産業衛生専門家会議の勧告値は,専門家によるものであって,一定の信頼性を有するものであること,③日本産業衛生学会の許容濃度は,米国産業衛生専門家会議のばく露濃度の限界値とほぼ同義のばく露限界を示す概念であることが明らかである。

 そして,抑制濃度は,粉じんの発散源付近に設置されるフードの外側の濃度であり,一般的に作業場の中で最も粉じん濃度が高い場所の濃度であるから,その規制により間接的に作業場全体の粉じん濃度を規制することになるものである。このような抑制濃度の内容からすると,抑制濃度の規制値として,粉じんのばく露限界を示す許容濃度等の値を用いる場合には,許容濃度等による規制を行う場合に比べて,より厳しい規制を行うことになるということができる。そうすると,抑制濃度の規制値が,粉じんのばく露限界を示す許容濃度等の値よりも緩やかなものであるとしても,そのことから直ちに当該抑制濃度の規制値が著しく合理性を欠くものということはできない。

 以上の諸点に照らすと,労働大臣が,昭和49年9月30日以降,石綿の抑制濃度の規制値を昭和50年告示により5μm以上の石綿繊維が1立方センチメートル当たり5本とし,労働省告示の改正により1立方センチメートル当たり2本としなかったことが,安衛法の趣旨,目的や,その権限の性質等に照らし,著しく合理性を欠くとまでは認められず,国家賠償法1条1項の適用上違法であるということはできない。

 (3) 以上と異なる原審の前記第1の3(2)の判断には,判決に影響を及ぼすことが明らかな法令の違反がある。論旨は理由がある。

 3 上告代理人都築政則ほかの上告受理申立て理由第5について

 (1) 論旨は,防じんマスクに関する規制権限の不行使が国家賠償法1条1項の適用上違法であるとした原審の前記第1の3(3)の判断には,同項の解釈適用を誤った違法があるというものである。

 (2) 石綿工場における粉じん対策としては,局所排気装置等による粉じんの発散防止措置が第一次的な方策であり,防じんマスクは補助的手段にすぎないものである。そして,防じんマスク等の呼吸用保護具については,昭和47年9月30日に制定された安衛則及び特化則によって,事業者及び労働者に対し前記第1の2(8)のとおりの義務が課されており,これに違反した場合には罰則が科されることになる。また,労働者に対する安全衛生教育については,事業者に対し,昭和47年6月8日に公布された安衛法において労働者を雇い入れたとき及び労働者の作業内容を変更したときの安全衛生教育の実施義務が課されているほか,昭和35年3月31日に公布されたじん肺法においてじん肺に関する予防及び健康管理のために必要な教育を実施する義務も課されており,これらに違反した場合には罰則が科されることになる(ただし,作業内容変更時の安全衛生教育については平成17年法律第108号による安衛法の改正後である。)。そうすると,上記の各義務を通じて,労働者の防じんマスクの使用は相当程度確保されるということができる。

 以上の諸点に照らすと,石綿工場における粉じん対策としては補助的手段にすぎない防じんマスクの使用に関し,上記の各義務に加えて,事業者に対し労働者に防じんマスクを使用させる義務及びその使用を徹底させるための石綿関連疾患に対応する特別安全教育を実施する義務を負わせなければ著しく合理性を欠くとまでいうことはできない。

 したがって,労働大臣が,石綿工場での作業に関し,昭和47年9月30日以降,安衛法に基づく省令制定権限を行使して事業者に対し労働者に防じんマスクを使用させること及びその使用を徹底させるための石綿関連疾患に対応する特別安全教育の実施を義務付けなかったことが,安衛法の趣旨,目的や,その権限の性質等に照らし,著しく合理性を欠くとまでは認められず,国家賠償法1条1項の適用上違法であるということはできない。

 (3) 以上と異なる原審の前記第1の3(3)の判断には,判決に影響を及ぼすことが明らかな法令の違反がある。論旨は理由がある。

 第4 結論

 以上によれば,原判決中,被上告人X1に関する上告人敗訴部分は破棄を免れず,同部分につき,同被上告人の請求を棄却した第1審判決は正当であるから,同被上告人の控訴を棄却すべきであるが,上告人のその余の上告は棄却すべきである。

 よって,裁判官全員一致の意見で,主文のとおり判決する。

  (裁判長裁判官 白木 勇 裁判官 櫻井龍子 裁判官 金築誠志 裁判官 横田尤孝 裁判官 山浦善樹)

採用内定 大日本印刷事件 最高裁昭和54年

労働判例百選第8版 12 9版 9事件 菅野10版12版掲載

雇用関係確認、賃金支払請求事件

最高裁判所第2小法廷判決/昭和52年(オ)第94号

昭和54年7月20日

【判決要旨】       1、大学卒業予定者が、企業の求人募集に応募し、その入社試験に合格して採用内定の通知を受け、企業からの求めに応じて、大学卒業のうえは間違いなく入社する旨及び一定の取消事由があるときは採用内定を取り消されても異存がない旨を記載した誓約書を提出し、その後、企業から会社の近況報告その他のパンフレツトの送付を受けたり、企業からの指示により近況報告書を送付したなどのことがあり、他方、企業において、採用内定通知のほかには労働契約締結のための特段の意思表示をすることを予定していなかつたなど、判示の事実関係のもとにおいては、企業の求人募集に対する大学卒業予定者の応募は労働契約の申込であり、これに対する企業の採用内定通知は右申込に対する承諾であつて、誓約書の提出とあいまつて、これにより、大学卒業予定者と企業との間に、就労の始期を大学卒業の直後とし、それまでの間誓約書記載の採用内定取消事由に基づく解約権を留保した労働契約が成立したものと認めるのが相当である。

             2、企業の留保解約権に基づく大学卒業予定者の採用内定の取消事由は、採用内定当時知ることができず、また、知ることが期待できないような事実であつて、これを理由として採用内定を取り消すことが解約権留保の趣旨、目的に照らして客観的に合理的と認められ、社会通念上相当として是認することができるものに限られる。

             3、企業が、大学卒業予定者の採用にあたり、当初からその者がグルーミーな印象であるため従業員として不適格であると思いながら、これを打ち消す材料が出るかも知れないとしてその採用を内定し、その後になつて、右不適格性を打ち消す材料が出なかつたとして留保解約権に基づき採用内定を取り消すことは、解約権留保の趣旨、目的に照らして社会通念上相当として是認することができず、解約権の濫用にあたるものとして無効である。

【参照条文】       労働基準法2章

【掲載誌】        最高裁判所民事判例集33巻5号582頁

             最高裁判所裁判集民事127号259頁

             裁判所時報769号1頁

             判例タイムズ399号32頁

             金融・商事判例586号43頁

             判例時報938号3頁

             労働判例323号19頁

【評釈論文】       季刊労働法113号157頁

             公企労研究44号77頁

             ジュリスト701号77頁

             ジュリスト臨時増刊718号261頁

             別冊ジュリスト73号24頁

             別冊ジュリスト101号20頁

             時の法令1048号55頁

             日本法学45巻4号169頁

             日本労働法学会誌55号104頁

             判例評論257号179頁

             法曹時報34巻11号215頁

             法律のひろば32巻10号66頁

             民商法雑誌82巻4号526頁

             労政時報2470号40頁

             労働判例323号15頁

             労働判例364号19頁

             労働法律旬報985号24頁

 

       主   文

 

 本件上告を棄却する。

 上告費用は上告人の負担とする

 

       理   由

 

 上告代理人和田良一、同西迪雄、同渡辺修、同竹内桃太郎、同成富安信、同美勢晃一の上告理由一について

 企業が大学の新規卒業者を採用するについて、早期に採用試験を実施して採用を内定する、いわゆる採用内定の制度は、従来わが国において広く行われているところであるが、その実態は多様であるため、採用内定の法的性質について一義的に論断することは困難というべきである。したがつて、具体的事案につき、採用内定の法的性質を判断するにあたつては、当該企業の当該年度における採用内定の事実関係に即してこれを検討する必要がある。

 そこで、本件についてみると、原審の適法に確定した事実関係は、おおむね次のとおりである。すなわち、上告人は、綜合印刷を業とする株式会社であるが、昭和四三年六月頃、滋賀大学に対し、翌昭和四四年三月卒業予定者で上告人に入社を希望する者の推せんを依頼し、募集要領、会社の概要、入社後の労働条件を紹介する文書を送付して、右卒業予定者に対して求人の募集をした。被上告人は、昭和四〇年四月滋賀大学経済学部に入学し、昭和四四年三月卒業予定の学生であつたが、大学の推せんを得て上告人の右求人募集に応じ、昭和四三年七月二日に筆記試験及び適格検査を受け、同日身上調書を提出した。被上告人は、右試験に合格し、上告人の指示により同月五日に面接試験及び身体検査を受け、その結果、同月一三日に上告人から文書で採用内定の通知を受けた。右採用内定通知書には、誓約書(以下「本件誓約書」という。)用紙が同封されていたので、被上告人は、右用紙に所要事項を記入し、上告人が指定した同月一八日までに上告人に送付した。本件誓約書の内容は、

 「この度御選考の結果、採用内定の御通知を受けましたことについては左記事項を確認の上誓約いたします

             記

 一、本年三月学校卒業の上は間違いなく入社致し自己の都合による取消しはいたしません

 二、左の場合は採用内定を取消されても何等異存ありません

 「1」 履歴書身上書等提出書類の記載事項に事実と相違した点があつたとき

 「2」 過去に於て共産主義運動及び之に類する運動をし、又は関係した事実が判明したとき

 「3」 本年三月学校を卒業出来なかつたとき

 「4」 入社迄に健康状態が選考日より低下し勤務に堪えないと貴社において認められたとき

 「5」 その他の事由によつて入社後の勤務に不適当と認められたとき」

というものであつた。ところで、滋賀大学では、就職について大学が推せんをするときは、二つの企業に制限し、かつ、そのうちいずれか一方に採用が内定したとき、直ちに未内定の他方の企業に対する推せんを取消し、学生にも先に内定した企業に就職するように指導を徹底するという、「二社制限、先決優先主義」をとつており、上告人においても、昭和四四年度の募集に際し、少なくとも滋賀大学において右の先決優先の指導が行われていたことは知つていた。被上告人は、上告人から前記採用内定通知を受けた後、大学にその旨報告するとともに、大学からの推せんを受けて求人募集に応募していた訴外ダイキン工業株式会社に対しても、大学を通じて応募を辞退する旨通知し、大学も右推せんを取り消した。その後、上告人は、昭和四三年一一月頃、被上告人に対し、会社の近況報告その他のパンフレツトを送付するとともに、被上告人の近況報告書を提出するよう指示したので、被上告人は、近況報告書を作成して上告人に送付した。ところが、上告人は、昭和四四年二月一二日、突如として、被上告人に対し、採用内定を取り消す旨通知した。この取消通知書には取消の理由は示されていなかつた。被上告人としては、前記のとおり上告人から採用内定通知を受け、上告人に就職できるものと信じ、他企業への応募もしないまま過しており、採用内定取消通知も遅かつた関係から、他の相当な企業への就職も事実上不可能となつたので、大いに驚き、大学を通じて上告人と交渉したが、何らの成果も得られず、他に就職することもなく、同年三月滋賀大学を卒業した。なお、上告人の昭和四四年度大学卒新入社員については、同月初旬に入社式の通知がなされ、同時に健康診断書の提出が求められた。右入社式は、同月三一日に大学新卒の採用者全員を東京に集めて行われたが、式典は一時間余りで、社長の挨拶、先輩の祝辞、新入社員の答辞、役員の紹介、社歌の合唱等がなされた。式典に集つた新入社員は、その日、式典終了後、卒業証明書、最終学年成績証明書、家族調書及び試用者としての誓約書を提出し、東京で約二週間の導入教育を受けたのち、上告人の各事業部へ配置され、若干期間の研修の後それぞれの労務に従事し、上告人の定める二か月の試用期間を過ぎた後の同年六月下旬に、更に本採用者としての誓約書を保証人と連署して提出し、社員としての辞令書の交付を受けた。上告人における大学新規卒業新入社員の本採用社員としての身分取得の方法は、昭和四四年度の前後を通じて、大体右のようなものであつた。

 以上の事実関係のもとにおいて、本件採用内定通知のほかには労働契約締結のための特段の意思表示をすることが予定されていなかつたことを考慮するとき、上告人からの募集(申込みの誘引)に対し、被上告人が応募したのは、労働契約の申込みであり、これに対する上告人からの採用内定通知は、右申込みに対する承諾であつて、被上告人の本件誓約書の提出とあいまつて、これにより、被上告人と上告人との間に、被上告人の就労の始期を昭和四四年大学卒業直後とし、それまでの間、本件誓約書記載の五項目の採用内定取消事由に基づく解約権を留保した労働契約が成立したと解するのを相当とした原審の判断は正当であつて、原判決に所論の違法はない。論旨は、採用することができない。

 同二について

 本件採用内定によつて、前記のように被上告人と上告人との間に解約権留保付労働契約が成立したものと解するとき、上告人が昭和四四年二月一二日被上告人に対してした前記採用内定取消の通知は、右解約権に基づく解約申入れとみるべきであるところ、右解約の事由が、社会通念上相当として是認することができるものであるかどうかが吟味されなければならない。

 思うに、わが国の雇用事情に照らすとき、大学新規卒業予定者で、いつたん特定企業との間に採用内定の関係に入つた者は、このように解約権留保付であるとはいえ、卒業後の就労を期して、他企業への就職の機会と可能性を放棄するのが通例であるから、就労の有無という違いはあるが、採用内定者の地位は、一定の試用期間を付して雇用関係に入つた者の試用期間中の地位と基本的には異なるところはないとみるべきである。

 ところで、試用契約における解約権の留保は、大学卒業者の新規採用にあたり、採否決定の当初においては、その者の資質、性格、能力その他いわゆる管理職要員としての適格性の有無に関連する事項について必要な調査を行い、適切な判定資料を十分に蒐集することができないため、後日における調査や観察に基づく最終的決定を留保する趣旨でされるものと解され、今日における雇用の実情にかんがみるときは、このような留保約款を設けることも、合理性をもつものとしてその効力を肯定することができるが、他方、雇用契約の締結に際しては企業者が一般的には個々の労働者に対して社会的に優越した地位にあることを考慮するとき、留保解約権の行使は、右のような解約権留保の趣旨、目的に照らして、客観的に合理的な理由が存在し社会通念上相当として是認することができる場合にのみ許されるものと解すべきであることは、当裁判所の判例とするところである(当裁判所昭和四三年(オ)第九三二号同四八年一二月一二日大法廷判決、民集二七巻一一号一五三六頁)。右の理は、採用内定期間中の留保解約権の行使についても同様に妥当するものと考えられ、したがつて、採用内定の取消事由は、採用内定当時知ることができず、また知ることが期待できないような事実であつて、これを理由として採用内定を取消すことが解約権留保の趣旨、目的に照らして客観的に合理的と認められ社会通念上相当として是認することができるものに限られると解するのが相当である。これを本件についてみると、原審の適法に確定した事実関係によれば、本件採用内定取消事由の中心をなすものは「被上告人はグルーミーな印象なので当初から不適格と思われたが、それを打ち消す材料が出るかも知れないので採用内定としておいたところ、そのような材料が出なかつた。」というのであるが、グルーミーな印象であることは当初からわかつていたことであるから、上告人としてはその段階で調査を尽くせば、従業員としての適格性の有無を判断することができたのに、不適格と思いながら採用を内定し、その後右不適格性を打ち消す材料が出なかつたので内定を取り消すということは、解約権留保の趣旨、目的に照らして社会通念上相当として是認することができず、解約権の濫用というべきであり、右のような事由をもつて、本件誓約書の確認事項二、「5」所定の解約事由にあたるとすることはできないものというべきである。

これと同旨の原審の判断は正当であつて、原判決に所論の違法はない。論旨は、採用することができない。

 同三について

 所論の点に関する原審の判断は、原審が適法に確定した事実関係のもとにおいては、正当として是認することができ、原判決に所論の違法はない。論旨は、採用することができない。

 よつて、民訴法四〇一条、九五条、八九条に従い、裁判官全員一致の意見で、主文のとおり判決する。

    最高裁判所第二小法廷

        裁判長裁判官  木下忠良

           裁判官  大塚喜一郎

           裁判官  栗本一夫

           裁判官  塚本重頼

           裁判官  鹽野宜慶

 

      上告代理人目録

和田良一   西 迪雄   渡辺 修

竹内桃太郎  成富安信   美勢晃一

 

      被上告代理人目録

吉原 稔   河村武信   塙 悟

高田良爾   加藤英範   篠田健一

柴田茲行   渡辺 馨   岡 豪敏

高見澤昭治  木村 靖   平田武義

吉田隆行   稲村五男   川中 宏

渡辺哲司   村山 晃   岩佐英夫

荒井新二   清水洋二   山川 豊

田原俊雄   清野順一   藤本 正

牛久保秀樹  松井繁明   山本 博

                  以上

横田正俊裁判長不当判決 秋北バス事件 最高裁昭和45年

労働判例百選第8版 21事件 9版 18事件 菅野10版12版掲載

就業規則の改正無効確認請求事件

 

最高裁判所大法廷判決/昭和40年(オ)第145号

     昭和43年12月25日

【判示事項】       1、就業規則の法的性質

             2、労働者に不利益な労働条件を一方的に課する就業規則の作成・変更は許されるか

             3、55才停年制をあらたに定めた就業規則の改正が有効とされた1事例

【判決要旨】       1、就業規則は、一種の社会規範としての性質を有するだけでなく、それが合理的な労働条件を定めているものであるかぎり、経営主体と労働者との間の労働条件は、その就業規則によるという事実たる慣習が成立しているものとして、その法的規範性が認められるに至つているものと解すべきである。

             2、あらたな就業規則の作成・変更によつて、既得の権利を奪い、労働者に不利益な労働条件を一方的に課することは、原則として許されないが、当該規則条項が合理的なものであるかぎり、個々の労働者において、これに同意しないことを理由として、その適用を拒否することは許されない。

             3、従来停年制のなかつた主任以上の職にある者に対して、使用者が、その就業規則で、あらたに55才停年制を定めた場合において、判示の事情があるときは、右改正条項は、当該被用者の同意の有無にかかわらず、これに対して効力を生ずる。

【参照条文】       労働基準法89

             労働基準法90

             労働基準法91

             労働基準法92

             労働基準法93

【掲載誌】        最高裁判所民事判例集22巻13号3459頁

             最高裁判所裁判集民事93号1067頁

             裁判所時報512号9頁

             判例タイムズ230号122頁

             判例時報542号14頁

             労働判例71号14頁

【評釈論文】       季刊労働法19巻1号80頁

             産業経済研究10巻1号1頁

             社会労働研究18巻2号59頁

             ジュリスト419号69頁

             ジュリスト421号92頁

             ジュリスト臨時増刊433号170頁

             別冊ジュリスト45号58頁

             別冊ジュリスト73号52頁

             別冊ジュリスト101号46頁

             地方公務員月報68号56頁

             時の法令670号56頁

             時の法令671号55頁

             日本労働法学会誌34号91頁

             判例タイムズ236号45頁

             判例評論124号27頁

             法学セミナー156号39頁

             民商法雑誌67巻6号115頁

             立命館法学80号116頁

             竜谷法学2巻2~4号69頁

             労政時報1972号45頁

             労働判例750号8頁

             労働法律旬報698号13頁

             労働法令通信22巻2号6頁

 

       主   文

 

 本件上告を棄却する。

 上告費用は上告人の負担とする。

 

       理   由

 

 上告代理人古沢斐の上告理由について。

 一、おもうに、多数の労働者を使用する近代企業において、その事業を合理的に運営するには多数の労働契約関係を集合的・統一的に処理する必要があり、この見地から、労働条件についても、統一的かつ画一的に決定する必要が生じる。そこで、労働協約や就業規則によつて、まず、労働条件の基準を決定し、その基準に従つて、個別的労働契約における労働条件を具体的に決定するのが実情である。

 ところで、ここでいう就業規則(就業規則の中には労働条件に関する定めのほか、工場・事業場等における管理規律ともいうべき定めを含んでいるのが通例であるが、後者は、一応、ここでは除外して考えることとする。)は、どのような性質を有するか、さらに、経営主体は一方的に労働者の不利益にこれを変更することができるかが問題となる。これらの点について、当裁判所は、次のように判断する。

 (1) 元来、「労働条件は、労働者と使用者が、対等の立場において決定すべきものである」(労働基準法二条一項)が、多数の労働者を使用する近代企業においては、労働条件は、経営上の要請に基づき、統一的かつ画一的に決定され、労働者は、経営主体が定める契約内容の定型に従つて、附従的に契約を締結せざるを得ない立場に立たされるのが実情であり、この労働条件を定型的に定めた就業規則は、一種の社会的規範としての性質を有するだけでなく、それが合理的な労働条件を定めているものであるかぎり、経営主体と労働者との間の労働条件は、その就業規則によるという事実たる慣習が成立しているものとして、その法的規範性が認められるに至つている(民法九二条参照)ものということができる。

 そして、労働基準法は、右のような実態を前提として、後見的監督的立場に立つて、就業規則に関する規制と監督に関する定めをしているのである。すなわち、同法は、一定数の労働者を使用する使用者に対して、就業規則の作成を義務づける(八九条)とともに、就業規則の作成・変更にあたり、労働者側の意見を聴き、その意見書を添付して所轄行政庁に就業規則を届け出で(九〇条参照)、かつ、労働者に周知させる方法を講ずる(一〇六条一項、なお、一五条参照)義務を課し、制裁規定の内容についても一定の制限を設け(九一条参照)、しかも、就業規則は、法令又は当該事業場について適用される労働協約に反してはならず、行政庁は法令又は労働協約に牴触する就業規則の変更を命ずることができる(九二条)ものとしているのである。これらの定めは、いずれも、社会的規範たるにとどまらず、法的規範として拘束力を有するに至つている就業規則の実態に鑑み、その内容を合理的なものとするために必要な監督的規制にほかならない。このように、就業規則の合理性を保障するための措置を講じておればこそ、同法は、さらに進んで、「就業規則で定める基準に達しない労働条件を定める労働契約は、その部分については無効とする。この場合において無効となつた部分は、就業規則で定める基準による。」ことを明らかにし(九三条)、就業規則のいわゆる直律的効力まで肯認しているのである。

 右に説示したように、就業規則は、当該事業場内での社会的規範たるにとどまらず、法的規範としての性質を認められるに至つているものと解すべきであるから、当該事業場の労働者は、就業規則の存在および内容を現実に知つていると否とにかかわらず、また、これに対して個別的に同意を与えたかどうかを問わず、当然に、その適用を受けるものというべきである。

  (2) 就業規則は、経営主体が一方的に作成し、かつ、これを変更することができることになつているが、既存の労働契約との関係について、新たに労働者に不利益な労働条件を一方的に課するような就業規則の作成又は変更が許されるであろうか、が次の問題である。

 おもうに、新たな就業規則の作成又は変更によつて、既得の権利を奪い、労働者に不利益な労働条件を一方的に課することは、原則として、許されないと解すべきであるが、労働条件の集合的処理、特にその統一的かつ画一的な決定を建前とする就業規則の性質からいつて、当該規則条項が合理的なものであるかぎり、個々の労働者において、これに同意しないことを理由として、その適用を拒否することは許されないと解すべきであり、これに対する不服は、団体交渉等の正当な手続による改善にまつほかはない。そして、新たな停年制の採用のごときについても、それが労働者にとつて不利益な変更といえるかどうかは暫くおき、その理を異にするものではない。

  二、ところで、原判決の確定した事実は、次のとおりである。上告人は、昭和二〇年九月、被上告会社に入社し、大館営業所次長(所長事務取扱)の職にあつたものであるが、被上告会社には、上告人の入社当時はもとより、その後も停年の定めはなく、昭和三〇年七月二一日以来施行された「従業員は満五十才を以つて停年とする。停年に達したるものは辞令を以つて解職する。但し、停年に達したるものでも業務上の必要有る場合、会社は本人の人格、健康及び能力等を勘案し詮衡の上臨時又嘱託として新に採用する事が有る」との就業規則五七条の規定も、上告人のごとき主任以上の職にある者に対しては適用がなかつた。ところが、被上告会社は、昭和三二年四月一日に至り、右就業規則五七条本文の規定を「従業員は満五十才を以つて停年とする。主任以上の職にあるものは満五十五才を以つて停年とする。停年に達したるものは退職とする。」と改正し、この条項に基づき、被上告会社は、すでに満五五歳の停年に達していることを理由として、同月二五日付で、上告人に対し、退職を命ずる旨の解雇の通知をしたが、上告人は、右条項について同意を与えた事実はなく、満五五歳の停年を定めた規定は上告人に対し効力が及ばないと主張する、というのである。

 ところで、停年制は、労働者が所定の年齢に達したことを理由として、自動的に、又は解雇の意思表示によつて、その地位(職)を失わせる制度であるから、労働契約における停年の定めは一種の労働条件に関するものであつて、労働契約の内容となり得るものであることは疑いを容れないところであるが、労働契約に停年の定めがないということは、ただ、雇用期間の定めがないというだけのことで、労働者に対して終身雇用を保障したり、将来にわたつて停年制を採用しないことを意味するものではなく、俗に「生涯雇用」といわれていることも、法律的には、労働協約や就業規則に別段の規定がないかぎり、雇用継続の可能性があるということ以上には出でないものであつて、労働者にその旨の既得権を認めるものということはできない。従つて、停年制のなかつた上告人のごとき主任以上の職にある者に対して、被上告会社がその就業規則で新たに停年を定めたことは、上告人の既得権侵害の問題を生ずる余地のないものといわなければならない。また、およそ停年制は、一般に、老年労働者にあつては当該業種又は職種に要求される労働の適格性が逓減するにかかわらず、給与が却つて逓増するところから、人事の刷新・経営の改善等、企業の組織および運営の適正化のために行なわれるものであつて、一般的にいつて、不合理な制度ということはできず、本件就業規則についても、新たに設けられた五五歳という停年は、わが国産業界の実情に照らし、かつ、被上告会社の一般職種の労働者の停年が五〇歳と定められているのとの比較権衡からいつても、低きに失するものとはいえない。しかも、本件就業規則条項は、同規則五五条の規定に徴すれば、停年に達したことによつて自動的に退職するいわゆる「停年退職」制を定めたものではなく、停年に達したことを理由として解雇するいわゆる「停年解雇」制を定めたものと解すべきであり、同条項に基づく解雇は、労働基準法二〇条所定の解雇の制限に服すべきものである。さらに、本件就業規則条項には、必ずしも十分とはいえないにしても、再雇用の特則が設けられ、同条項を一律に適用することによつて生ずる苛酷な結果を緩和する途が開かれているのである。しかも、原審の確定した事実によれば、現に上告人に対しても、被上告会社より、その解雇後引き続き嘱託として、採用する旨の再雇用の意思表示がされており、また、上告人ら中堅幹部をもつて組織する「輪心会」の会員の多くは、本件就業規則条項の制定後、同条項は、後進に道を譲るためのやむを得ないものであるとして、これを認めている、というのである。

 以上の事実を総合考較すれば、本件就業規則条項は、決して不合理なものということはできず、同条項制定後直ちに同条項の適用によつて解雇されることになる労働者に対する関係において、被上告会社がかような規定を設けたことをもつて、信義則違反ないし権利濫用と認めることもできないから、上告人は、本件就業規則条項の適用を拒否することができないものといわなければならない。

  されば、本件就業規則条項が上告人にも適用があるとした原審の判断は、その過程に叙上と見解を異にする点はあるが、結論において、是認することができ、原判決には所論の違法はなく、論旨は、結局、理由なきに帰し、排斥を免れない。

 よつて、民訴法四〇一条、九五条、八九条に従い、裁判官横田正俊、同色川幸太郎、同大隅健一郎の反対意見があるほか、裁判官全員一致の意見で、主文のとおり判決する。

 裁判官横田正俊、同大隅健一郎の反対意見は、次のとおりである。

 一、思うに、契約の内容は、当事者の合意によつて決定されるべきものであり、かくして決定された契約の内容は、当事者において、相手方の同意なくして一方的にこれを変更することができないのが契約法上の大原則であり、このことは、労働者と使用者が対等の立場において決定すべきものとされている労働条件を定める労働契約についても妥当するものというべきである。もつとも、多数の労働者を擁する企業における労働契約については、労働条件を統一的かつ画一的なものとする必要があるので、労働組合法(以下、組合法と略称する。)は労働協約の制度を、また労働基準法(以下、基準法と略称する。)は就業規則の制度をそれぞれ認め、これらによつて労働条件の基準が決定され、その基準にしたがつて個々の労働契約における労働条件が統一的かつ画一的に決定されるよう配慮している。このように、労働協約と就業規則は、労働条件の統一、画一を図る点においてその目的を同じくするものであるが、両者の間には、その法律上の性質において重大な差異があることを見逃してはならない。

 すなわち、労働協約は、労働組合と使用者またはその団体との合意による協定であつて、それによつて定まる労働条件その他労働者の待遇に関する基準は、これに違反する労働契約の部分を無効とし、無効となつた部分や労働契約に定がない部分をこれによつて補充する効力を有するものとされているのであつて(組合法一六条)、労働協約には、労働条件の最低限を保障する基準法の諸規定のもつ法規範的効力(基準法一三条参照)に類似する効力が与えられているのである。そして、かくして労働協約により定められた基準は、労働協約、すなわち労使の合意によつてのみ変更することができるのであり、就業規則によつてこれを変更することはもとより許されないのである(基準法九二条一項)。

 これに対し、就業規則は、使用者が一方的に作成し、または変更するものであつて、その内容が労働条件その他労働者の待遇に関するものであつても、労働者の合意により決定されるものではない。したがつて、就業規則については、当然のことながら、労働協約について前述したような法規範的効力を認めた一般的な規定は、なんら設けられておらず、わずかに、前示労働協約の場合に比べきわめて限定された範囲でその法規範的効力を認める規定、すなわち、就業規則に定める基準に達しない労働条件を定める労働契約は、その部分について無効とし、その部分は就業規則に定める基準による旨の規定(基準法九三条)が設けられているに過ぎない。そして、冒頭に示した契約の本質論に照らせば、使用者が就業規則により一方的に決定し、または変更する労働条件が、当然に、すなわち労働者の意思いかんを問わず、労働契約の内容となつて労働者を拘束するというような見解は、たやすくこれを肯認することはできない。

 二、ところで、基準法が就業規則の制度を認め、使用者に対してその作成、届出、公示という一連の手続を命じている理由を考えるに、就業規則のうち労働条件を内容とするものに関してこれをみれば、それは、

 (イ) 労働契約における労働条件の統一、画一を図るためには、まず使用者においてその基準を決定し(必要ある場合には、これを変更し)、これを公示することにより労働者に周知させ、これに基づいて労働契約が締結されることが望ましいからであり、それは、多くの大衆を相手とする保険業において、保険契約の内容の統一、画一を図るため、まず、保険者において普通保険約款、保険料等を決定し、これに基づいて保険契約が締結されるものとされているのとその軌を一にするものと解される。次に

 (ロ) 基準法が就業規則の届出を命じているのは、就業規則に基づいて労働契約が締結されることが予定されていることにかんがみ、その内容について行政庁の監督を加え、必要がある場合には行政庁においてその変更を命ずることができる(九二条二項)ようにするためであると思われる。もつとも、基準法の規定を具体的に検討すると、行政庁の右監督の権限はきわめて制限されたものであり、就業規則が労働法の強行規定や労働協約に違反するかどうかの点(九二条一項)に限られており、就業規則の内容、ことにそれが労働者にとつて不利益なものであるかどうか、それが合理的なものであるかどうかなどについては、同法九一条の特異の規定を除いては、なんらの監督的規定は設けられていないことに留意する要がある。このような基準法のたて前は、前述の保険契約については、普通保険約款、保険料等については行政庁による認可の制度や、変更命令の制度が設けられていて、契約内容の適正が保障されているのとその趣を著しく異にするのである。もつとも、保険契約の場合と異なり、そもそも、労働契約の具体的内容の決定は労使の合意にまつのが本筋であり、国家は、労働法が現に定めているような最少限度の規制の範囲をこえ、労働契約の内容の適否、合理性の有無などを論じて、みだりにこれに干渉すべき筋合のものではないのであるから、保険契約の場合との間に相異が生ずるのはむしろ当然のことであろう。

 三、以上述べてきたところを総合して就業規則と労働契約の関係を考えるに、就業規則は、これに基づいて個々の労働者との間に労働契約が締結されることを予定して使用者が作成する規範であつて、そのままでは一種の社会的規範の域を出ないものであるが、これに基づいて労働契約が締結されてきたというわが国の古くからの労働慣行に照らせば、使用者としてはこれに基づく労働契約の締結に強い期待をかけることができるのであり、基準法が就業規則の作成、変更に当り労働者側の意見を聴くべきものとしている(九〇条)のも、これに基づいて労働契約が締結される蓋然性を打診させるためのものと解することができる。

 そして、前述の労働慣行は単なる事実たる慣習に過ぎないものであり、法たる効力を有するに至つたものとはとうてい認められないので、法律的にこれを観れば、社会規範たる就業規則は労働者の合意によつてはじめて法規範的効力を有するに至るものと解するのが相当である。

 もつとも、前述の労働慣行に照らせば、労働者が就業規則のあることを知りながら労働契約を締結したときは、就業規則についても合意したものと解してさまたげなく、また就業規則が変更された場合にも、これに対し異議がないと認められる場合には、その変更に合意したものと解するのが相当である。しかし、就業規則の変更について労働者に異議があると認められる場合には、使用者は、異議のある労働者に対してはその変更をもつて対抗しえないものといわなければならない。このように解するときは、異議の有無により労働者の間に労働条件の統一、画一が保たれないという不都合を来すこととなるが、その不都合は、法規範的効力のない就業規則の改正によつて安易に事を処理しようとした使用者においてその責を負うべきもののように考える。

 四、これを本件についてみるに、上告人を含む主任以上の職に在る者に対し、新たに原判示のごとき内容の停年制を定める本件就業規則の改正は、どのような意味においても、既存の労働条件を上まわる基準を定めたものとは解されないから、基準法九三条の適用を論ずる余地はなく、上告人が右改正規定に異議がないとは認められない本件においては、右改正規定は、上告人に対しては、その適用がないものというほかはない。しからば、被上告人が右改正規定に基づいてした本件解雇の意志表示はその効力がないものといわなければならない。

 なお、被上告人は、右解雇の意思表示は、基準法二〇条の予告解雇の意思表示としてその効力がある旨主張しているが、上告人を含む主任以上の職員については、被上告人主張のように、解雇の事由についてなんらの制限がなく、したがつて上告人は基準法二〇条によりたやすく解雇される地位にあつたものと解することには大きな疑問がある。本件記録によれば、被上告会社の就業規則は、同規則二条一項に掲げる従業員を対象とするものであるが、その他の職員についても就業規則の全部または一部を適用することができるものとされており(同規則二条二項)、同規則五五条には従業員に対する解雇の事由を列挙的に定めた規定があるのであつて、右就業規則制定の際のいきさつやその後の規則の適用の実状いかんによつては、第一審判決も説示するように、右五五条は、解雇の事由を制限的に列挙したものであり(基準法二〇条の排除)、しかも上告人を含む主任以上の職員にもその適用があるものと解する余地がないではないと思われるからである。しからば、本件解雇の意思表示が有効であるかどうかを判断するには、右のごとき事実関係についてさらに審理を尽す必要があるものといわなければならない。

 したがつて、停年制を理由とする本件解雇を有効であるとして、上告人の請求を棄却した原判決は失当であつて破棄を免れないが、本件解雇が被上告人主張の他の理由により有効であるかどうかを判断するには、さらに審理を尽す必要があるので、本件を原審に差し戻すのが相当であると思料する。

 裁判官色川幸太郎の反対意見は、次のとおりである。

 私は、横田裁判官、大隅裁判官の反対意見と概ねその見解を同じくするものであり、多数意見には承服しがたいのである。以下、私の考えるところを述べることとする。

 一、多数意見は、「経営主体と労働者との間の労働条件は」、内容が合理的であるかぎり、経営主体の定めた「就業規則によるという事実たる慣習が成立している」となし、それであるが故に、「その法的規範性が認められる」とする。右にいう「その」とは、就業規則そのものをさすものであるのか、それとも、労働条件は就業規則の定めるところによるという慣習のみをさすものであるのか、必ずしも明らかでない。多数意見の全判示を総合すると、就業規則自体に法的規範性を認めるのがその基本的立場であると解せられるのであるが、叙上引用の判示部分は、就業規則の法的性格についてはふれることなく、労働契約を締結するときもしくはその存続中において、およそ労働条件は、就業規則の定めるところによるという事実たる慣習があり、その慣習に法的規範性が認められているのだ、としているにすぎないものの如くである。しかしながら、そのいずれであるにせよ、私は、以下の理由により、これに賛成することができない。

 二、およそ、工場制生産その他これに類する事業場にあつては、多数の者の力を組織的に結集し、これによつて特定の事業を遂行するわけであるから、秩序と規律を欠くことができないし、同時に、労働条件についても統一的・画一的な処理がなされなければ、企業の円滑なる運営はこれを期待することができない。かくして就業規則は法の要請の有無にかかわらず必然的に産れてくるものなのである。そして、一旦それが制定されると、使用者の経済的・社会的な優越性の故をもつて、当該就業規則は経営内規範としての力を発揮すると同時に、新たに企業に編入される者は、事実上その定めるところを無条件に承認せざるを得ない関係に立つ。したがつて特別の事情のない限り、労働契約の締結に際しては、個々の労働者が使用者と契約内容の一々について商議決定することなく、就業規則所定の労働条件を、一括して而も暗黙の間に受け入れるのが普通となるわけである。この契約締結のあり方は、現在、いわゆる事実たる慣習を形成していると見ることができるであろう。しかしながら、これはあくまで、新規な契約締結の場合における現象であることを忘れてはならない。要するに、新たに労働関係に入る場合における労働条件決定のあり方たるにとどまるのである。一旦労働契約が成立し、就業規則に定める労働条件に従つて労働力を給付し、賃金を受け取る関係が持続している間において、使用者が労働者の同意を得ることなく、まつたく一方的に、就業規則を変更して労働条件を切下げ、もしくは従来存在しなかつた不利益な労働条件を設定した場合、既存の労働条件が当然に変更される、という事実たる慣習が果してあり得るであろうか。もとより否である。多数意見も、よもやかくの如き慣習の存在を主張しているわけではあるまい。

 三、労働契約締結の際における前示の如き事実たる慣習の存在は、いかなる法律上の意味を有するものであるかが、つぎに吟味されなければならない。多数意見は、事実上の慣習が成立しているが故に、ただそれだけの理由で、その慣習が法的規範になるとしているかの如くである。しかし、事実たる慣習は、契約を補充する作用を有するにすぎず、当事者がこれによる意思を有していたと認められたときに、はじめて、その慣習が法源となるにとどまるものであつて(民法九二条)、契約当事者の意思如何にかかわらず、これを規律する力を有するものではない。前示の事実たる慣習が、法的規範となるためには、労使の一般的な法的確信によつて支持せられ、両者の規範意識に支えられていることのために、契約当事者に対して強行せられるものでなければならないのである。もともと労働条件は、「労働者と使用者が、対等の立場において決定すべきもの」(労働基準法二条。以下、基準法という。)である。これは、ひとり国家による要請であるのみならず、漸次成長しつつある労働者の規範意識であると認めることができるのである。したがつて、労働条件が使用者の一方的に定める就業規則による、という事実たる慣習は、法的確信の裏付けを欠くが故に、とうてい法的規範たり得るものではない。多数意見が、何らの論証をも用いることなく、民法九二条を引用しただけで、事実たる慣習が成立していることから直ちに、法的規範性の存在を認めていることには、納得し難いものがあるのである。

 四、仮に多数意見のいうように、前示の事実たる慣習が何らかの理由で法的規範性を取得したとしても、法的規範となるのは極めて限定された範囲でしかない。すなわち、労働契約の締結にあたり、使用者と労働者との間の労働条件は(多数意見によれば、それが合理的な労働条件を定めているものである限り)、使用者の定めた就業規則による、というだけのことなのである。就業規則そのものが事実たる慣習でないことは、多言を要しないところであるから、就業規則自体は法的規範性を取得するものではない。いわば、内容を白地とし、その白紙部分の補充は使用者の一方的決定にまかされているという意味においての外枠のみが、法的規範であるにすぎない。ところで、多数意見の後段によれば、新たな就業規則の作成又は変更によつて、不利益な労働条件を一方的に課することも、当該規則条項が合理的なものである限り、そのことに同意しない個々の労働者をも法律的に拘束する、という理論が展開されているのである。これは、就業規則自体を法的規範と見たものだと考えない限り、理解できないところではあるまいか。而も、何故に、「経営主体が一方的に作成し、かつ、これを変更することができることになつている」就業規則が、法的規範性をもち得るのかという理由づけにいたつては、ついにこれを窺い知ることができないのである。

 五、多数意見が、就業規則自体をもつて法的規範であるとするものであるならば、つぎの諸点が問題となるであろう。およそ法的規範は、契約の外にあつてその契約内容を規律するものでなければなるまい。法的規範が当事者の意思如何にかかわらず契約を支配するものである以上(少なくとも労働契約締結の場に関する限り、多数意見はかかるものとして理解しているようである。)、それが適法に変更せられた場合には、就業規則の定めるところが合理的であろうとなかろうと、契約内容は自ら変更を余儀なくされるべき筈である。多数意見によれば、法的規範である就業規則の一方的変更はもとより可能であり、したがつて適法だということにならなければなるまい。しかるに多数意見が、就業規則の一方的変更によつて労働条件を不利益に変更することは原則としてできない、としているのは、一体いかなる根拠に基づくものであろうか。のみならず、他面、その変更が合理的ならば、相手方の不同意にもかかわらず許される、とするのであるが、その理由は果して奈辺にこれを求めるのであるか、疑問とせざるを得ないのである。

 さらにまた、多数意見は、就業規則の定める労働条件は定型であり、労働契約は一種の附従契約であるかの如く主張する。その当否は別として、もしそうだとすれば、労働契約が締結された場合、右の定型たる労働条件は、当該労働契約の内容を充填したわけであるから(就業規則が法的規範である限り、かくの如く、契約内容に化体するということ自体、そもそも私には考えられないのであるけれども)、それを当事者の一方が相手方の意思を無視して変更し得るというのは、およそ近代契約法原理の許容するところではないと考えるべきではあるまいか。

 六、多数意見は、基準法が、就業規則に対する規制と監督に関する定めをしていることを挙示し、これをもつて、就業規則が法的規範として拘束力を有している証左だとする。しかし、基準法は、就業規則が使用者の便宜のために一方的に作成せられ、その優越的立場の故に事実上強行されている実態と、苛酷なる懲罰制度が猛威を振るつてきた歴史的事実に鑑み、最小限度の規制を加えんとしたに過ぎないのである。監督の手がかりとしても、届出の義務を課しているだけであつて、許可・認可の制度をとるわけではないし、さらに、制裁規定については若干の制約こそあれ(同法九一条)その余には及ばず、また就業規則の内容に国家が積極的に干渉するのは、強行法規又は労働協約に反した場合に限られているのである(同法九二条二項)。これらの規制のみをもつてしては、就業規則の広汎な内容を「合理的」ならしめる上に、ほとんど何ほどの力もないことは、言を俟たないであろう。もつとも、作成、変更にあたつては、労働組合ないし労働者の代表の意見を聴くべきことを命じてはいるが(同法九〇条)、同意を要しないことはもちろん、たとえ反対の意思が表明されても、それを無視して一方的に作成し変更することさえ容認しているのであり、かくして出来あがつた就業規則が、いかに使用者本位の、利己的で不合理なものであろうとも、強行法規や労働協約に反しない限り、国家はこれに、一指もふれることができないのである。これを普通保険約款や運送約款(いずれも契約の単なる事実上の基準たるものである。)に対する免許・認可等の規制(保険業法一条、一〇条、道路運送法一二条)に比較すれば、むしろ野放しであるといつても過言ではあるまい。かくの如き有名無実にも近い「監督的規制」をもつて、就業規則の法的規範性を裏付けんとするのは、甚だ無理な話ではないであろうか。

 もつとも基準法九三条は、就業規則で定める基準に達しない労働条件を定める労働契約は、その部分については無効とされ、無効となつた部分は就業規則で定める基準による、としているので、一見、これによつて国家が就業規則の法的規範性を認めたかの如くであるが、これを労働協約の直律強行性を定めた労働組合法一六条と比較するのに、基準法九三条は、無効とする範囲を、就業規則で定める基準に達しない労働条件に限定し、その部分を否定するだけである点において、労働組合法の規定とは少なからざる差異があるのである。その立法の趣旨も、要するに、就業規則は使用者が一方的に作成、変更するものであつて、労働協約とは趣を異にし、その内容は必ずしも労働者の利益に即するものではないが、時として使用者は、その優越した立場の故に、就業規則所定の線にさえ達しない低い労働条件を、個々の労働者に押しつけることがないともいえないので、かかる場合、弱者たる労働者を保護するために、特に設けたものと解せられるのである。仮に就業規則が法的規範であり、労働契約の内容は、当事者の意思いかんにかかわらずその定めるところによるものであるならば、特に規定を設けるにも及ばない筈であるが、しかし、就業規則は、後に述べるように、事実上の契約基準たるにとどまるのであるから、使用者が、個々の場合に、その定めるところをすら無視して、就業規則所定の労働条件を下廻る条件を労働者に強いることも、法律上十分可能なのである。もしかくの如き事態を放任するにおいては、常時十人以上の労働者を使用する使用者に、法定の内容を具えた就業規則を作成し、届出をなす義務を課した規定(同法八九条)の趣旨は、まつたく没却されることにならざるを得ない。使用者に作成、変更の自由のある就業規則に対して直律強行性を付与することは、国家法その他の法的規範及び自由意思に基づく契約によらないで、個人の権利・義務を左右せしめることになるわけであるから、近代法の原理にそわぬものなしとはしないのであるが、労働者保護法たる基準法の建前上やむを得ざるに出たものと解すべきであろう。この一カ条があるの一事をもつて、国家が使用者に法的規範たる就業規則を作成、変更することを授権したものだ、と解することはとうていできないのである。多数意見も、国家の授権に法的規範性付与の根拠を求めているわけではないようであるが、それならばなおさら、当該法条をもつて何らかの裏付けにするわけにはいかないものと思われる。

 七、就業規則が経営の要請に基づく、自然発生的な必然の所産であり、経営内の規範として機能していること、個別的に締結される労働契約の内容は、就業規則による定型的な労働条件を鵜呑みにせざるを得ないのが実情であり、それは現在においては、事実たる慣習と化しているといえないこともないこと等々については、既にふれたところであり、この点では多数意見と必ずしも所見を異にするものではない。しかし、就業規則は、発生の沿革、形成の過程及び妥当の根拠などの点において、国家法その他の法的規範とは比較すべくもない相違点を蔵しているのである。法は正義を指標とするものであるが、就業規則は、所詮、一使用者の利益保持に奉仕するものにほかならない。就業規則中には労働者の利益擁護に資する部分もないではないが、それが就業規則中に存するのは、労働者側の主張に従つてとりいれられた場合でない限り、いわば開明的専制君主の自己制約にも似たものであり、結局において企業の利益に合致するとしたが故である。いま、現実に生きている凡百の就業規則をアトランダムに取りあげて検討するならば、構成の不均衡、表現の不適切はいうに及ばず、人は、前後の矛盾撞着、用語の曖昧模糊、ほとんど救うべからざるものあるを知るであろう。これをしも法的規範だとすることは、健全なる法感情のとうてい許容し得ないところといわざるを得ない。

 八、本件における問題点は、従来停年制の定めのなかつた職種について、使用者が一方的に就業規則を改正することによりあらたに停年制を設けた場合、関係労働者の反対にもかかわらず、反対した労働者にこれを適用し得るかというところにある。以下これを検討する。

 (イ) 使用者が就業規則を一方的に変更しうるものであることについては、既に判例の存するところである(当裁判所昭和二五年(ク)第六五号同二七年七月四日第二小法廷決定、民集六巻七号六三五頁)。その変更が労働者にとつて利益たると不利益たるとは問うところでない。しかし私は、不利益変更によつては、既存の労働契約の内容が当然に変るものではないと解する(利益に変更した場合には、変更後の就業規則による労働条件が最低基準となり、基準法九三条によつて、それに達しない既存の労働契約の当該部分が否定され、無効になつた部分については、変更後の就業規則がその穴を埋めることになる。したがつて何ら問題は生じないのである。)。

 もともと、労働契約締結の際に存在した就業規則所定の労働条件部分は、契約の内容に化体したものであるから、一旦成立、確定した契約内容を、当事者の一方がほしいまゝに変更しうべき道理はないのである。就業規則所定の労働条件部分を一方的に変更し、これを公にする行為は、既成の契約内容を変更したいという申入れ以外の何ものでもない。相手方たる労働者がこれに同意を与えない以上、当該変更部分は法律的拘束力を生じないのである。

 なお、もとより右の同意は明示たることを要しない。労働者が特に反対の意思を明示することなく、変更された労働条件に従つて就労していれば、ここに暗黙の同意があつたとみて差支えないであろう。もし変更が一方的になされたものでなく、労働組合との協議を経て行なわれ、労働協約の形式をもつて妥結した場合ならば、基準法九二条の定めもあることであるし、その協約適用下にある個々の労働者の反対は、まつたく意味をなさないことになる。事の実際は、右のいずれかによつて処理せられるものと見て、誤りがあるまい。仮にこれらの方途によることができず、あくまで反対の態度を堅持した労働者があつたときは、その範囲では労働条件の画一性を欠く結果とならざるを得ないけれども、しかし、そもそも使用者が、一旦約束した労働条件を、一方的に労働者の不利益に変更しようとすることは、たとえそれが客観的条件の変動に起因するにもせよ、労働者から見れば一種の食言なのであるから、反対の声のあがることも当然なのである。この場合、使用者としては労働者ないし労働組合に対し、誠意をつくして説得に努むべきであつて、その努力を怠つたときは勿論、説得がついに不成功に終つた場合でも、そのために労働条件の画一性を欠くという経営の蒙る不利益は、使用者の甘受せざるを得ないところともいえるのである。

 (ロ) つぎに問題となるのは、本件停年制の新設が、就業規則の不利益変更かどうかということである。多数意見の見解は、この点においても直截ではないが、一方において「労働者に不利益な労働条件を一方的に課することは、原則として、許されない」としつつ、他方において、変更の結果たる「条項が合理的なものである限り」適用の拒否は許されないという理論を前提として、本件の変更が不合理でない所以を縷々説示しているのであるから、不利益変更と見た点において原審の判断を支持したものと解すべきであろう。記録によれば、上告人は既に五五歳を過ぎていたのであつたが、停年制がないので管理職として平穏に稼働していたところ、突如として就業規則の一方的改正がなされ、五五歳停年制の即時施行となり、日ならずして停年を理由とする解雇の通知を受けたというのであるから、終身雇用の期待が既得権的なものとして認められると否とにかかわらず、上告人にとつて労働条件の不利益変更たるを免れないのである。多数意見は五五歳の停年制をもつて合理性ありとなし、その限りでこの一方的不利益変更を有効だとする。就業規則が、使用者の一方的に設定、変更しうる法的規範であるならば、その変更が「合理的」であつてもなくても、有効だと考えられるのではないかと思われるが、それはともかくとして、「合理的」か否かについて、これを決定する基準が一体あるのであろうか。疑問の余地なしとはしないのである。労使の関係を見ると、特に配分の面において、相互に利害相反の鋭い対立を示していることを知るのであるが、配分の問題で意見の相違があつた場合、いかなる理由でいずれの主張を「合理的」であるとするか、そのための準繩これをいずくに求め得るか、これが問題なのである。配分の場合だけではない。およそ廉価にして質の高い労働力をできるだけ少なく用いて、最大の生産性を達成しようというのは、使用者にとつての至上命令であるが、労働者にとつては、これこそ労働の強化にほかならない。いわゆる経営の合理化は、使用者の立場に立つ限り、疑もなく「合理」性をもつが、労働者にとつて見れば、不合理極まる一層の搾取なのである。本件におけるが如き五五歳停年制については、若年労働者と高年齢労働者との間に、見方の相違があることは事実であるが、使用者が推進し、一部の労働者がこれを歓迎するからといつて、それだけで「合理」性ありとするわけにはいくまい。五五歳の停年が一般に妥当と認められていたのは、次第に過去のことになりつつあるのではないか。肉体労働者についてさえ停年年齢は徐々に延長される気運にあり、管理職にいたつては五七歳ないし六〇歳をむしろ普通とすべく、中小特に零細企業においては、停年制の設定は、経営を却つて困難ならしめるが如き事情が醸成されつつあるのであつて、五五歳停年制を合理的だとする多数意見には疑なきを得ないのである。

 九、以上の理由により、私は、多数意見に賛成することができないのである。原審は、就業規則に関する法理を誤解し、上告人の請求を棄却したのであるから、破棄すべきものであるところ、被上告人の仮定抗弁についてなお審理をする必要があるから、これを原審に差し戻すべきものと思料する。

    最高裁判所大法廷

        裁判長裁判官  横田正俊

           裁判官  入江俊郎

           裁判官  草鹿浅之介

           裁判官  長部謹吾

           裁判官  城戸芳彦

           裁判官  石田和外

           裁判官  田中二郎

           裁判官  松田二郎

           裁判官  岩田 誠

           裁判官  下村三郎

           裁判官  色川幸太郎

           裁判官  大隅健一郎

           裁判官  松本正雄

           裁判官  飯村義美

 裁判官奥野健一は、退官のため署名押印することができない。

        裁判長裁判官  横田正俊

三代川三千代裁判長名判決 黒川建設事件 東京地裁平成13年 退職金等請求事件

労働判例百選9版 2事件 菅野10版12版掲載

東京地方裁判所判決/平成9年(ワ)第13308号

              平成13年7月25日

【判示事項】       1 少なくとも退職金の算定に関しては,取締役という地位は,部長の上位に位置する管理職の一つと捉えられ,従業員は役員に就任した後も退職金規定にいう従業員たる身分を失わず,役員就任の期間も通算して退職金の額を算出することを当然の前提としていたとして,原告らは,取締役に就任した後も,就業規則により退職金支給を受ける従業員であるとされた例

             2 株式会社において,法人格が全くの形骸にすぎないというためには,単に当該会社の業務に対し他の会社または株主らが,株主たる権利を行使し,利用することにより,当該株式会社に対し支配を及ぼしているというのみでは足りず,当該会社の業務執行,財産管理,会計区分等の実態を総合考慮して,法人としての実体が形骸にすぎないかどうかを判断するべきであるとされた例

             3 S企画設計事務所は,外形的には独立の法主体であるとはいうものの,その実態は,分社・独立前と同様,グループの中核企業である被告会社の一部門と何ら変わるところはなく,被告代表取締役は,グループの社主として,直接自己の意のままに自由に支配・操作して事業活動を継続していたのであるから,S企画設計事務所の株式会社としての実体は,もはや形骸化しており,その法人格は否認されるとされた例

             4 被告会社および被告代表取締役は,いずれもS企画設計事務所を実質的に支配するものとして,S企画設計事務所が原告らに対して負う未払賃金・退職金債務についての責任を免れないとされた例

【掲載誌】        労働判例813号15頁

             労働経済判例速報1794号3頁

 

       主   文

 

 1 被告らは,連帯して,原告甲野一郎に対し,4731万4800円並びにうち496万5000円に対する平成9年5月1日から支払済みまで年1割4分6厘の割合による2金員及びうち4234万9800円に対する同年7月16日から支払済みまで年6分の割合による金員を支払え。

 2 被告らは,連帯して,原告乙山二郎に対し,2054万3040円並びにうち399万6000円に対する平成9年5月1日から支払済みまで年1割4分6厘の割合による金員及びうち1654万7040円に対する同年7月16日から支払済みまで年6分の割合による金員を支払え。

 3 原告らのその余の請求を棄却する。

 4 訴訟費用は被告らの負担とする。

 5 この判決は,第1及び第2項に限り,仮に執行することができる。

 

       事実及び理由

 

 第1 請求

1 被告らは,各自,原告甲野一郎(以下「原告甲野」という。)に対し,4740万6750円並びにうち496万5000円に対する平成9年5月1日から支払済みまで年1割4分6厘の割合による金員及びうち4244万1750円に対する同年5月8日から支払済みまで年6分の割合による金員を支払え。

2 被告らは,各自,原告乙山二郎(以下「原告乙山」という。)に対し,2074万5581円並びにうち399万6000円に対する平成9年5月1日から支払済みまで年1割4分6厘の割合による金員及びうち1674万9581円に対する同年5月8日から支払済みまで年6分の割合による金員を支払え。

 第2 事案の概要

1 本件は,株式会社シャトー企画設計事務所(以下「シャトー企画設計事務所」という。)を退職した原告らが,被告丙川太郎(以下「被告丙川」という。)及び被告株式会社黒川建設(以下「被告黒川建設」という。)はシャトー企画設計事務所を実質的に支配しているから法人格否認の法理が適用されるべきであり,また,原告らの退職金については被告黒川建設が重畳的債務引受をしたと主張の上,未払賃金及び未払退職金を被告らに対し請求する事案である。

2 前提となる事実

(1) 当事者等

 ア 被告黒川建設は,昭和52年7月22日に設立され,土木建築及び建設業務全般に関する業務等を営む株式会社であり,被告丙川は,被告黒川建設の代表取締役の1人である(〈証拠略〉)。

 イ 原告甲野一郎(以下「原告甲野」という。)は,昭和34年4月1日,株式会社シャトーテル(当時の商号は株式会社黒川建設。昭和52年9月に商号を変更。以下,商号変更の前後を通じ「シャトーテル」という。)に期間の定めなく雇用され,昭和45年3月同社取締役に就任した。昭和52年7月,被告黒川建設設立と同時にその取締役に就任し,同年9月以降はシャトー企画設計事務所の取締役をも兼任していたが,平成元年4月1日付けで,シャトー企画設計事務所の代表取締役に就任するとともに被告黒川建設の取締役を退き,平成9年4月末日をもってシャトー企画設計事務所を退職した(以上,〈証拠略〉)。

 ウ 原告乙山は,昭和38年3月26日,シャトーテルに期間の定めなく雇用され,昭和55年4月1日付けでシャトー企画設計事務所設備部部長に任命され,昭和62年4月1日付けで同社の常務取締役に,平成元年4月1日付で同専務取締役に各就任し,平成9年4月末日をもって同社を退職した(〈証拠略〉)。

 エ シャトー企画設計事務所は,昭和52年3月に設立された株式会社であり,その発行済株式合計4万株のうち,2万株は被告黒川建設が,1万6000万(ママ)株は株式会社シャトー興業(以下「シャトー興業」という。)が,2000株は株式会社シャトー殖産(同社は,「株式会社まるこう」,「株式会社丸徳不動産」との商号を有していた時期もあるが,以下,商号変更の前後を通じて「シャトー殖産」という。)が,1300株は被告丙川が,それぞれ保有している。

 なお,被告黒川建設の発行済株式の95パーセントと,シャトー興業の発行済株式の90パーセントは,いずれもシャトー殖産が保有しており,シャトー殖産の発行済株式の99パーセントは,被告丙川の長男である丙川三郎が保有している(以上は争いがない。)。

 オ 被告黒川建設及びシャトー企画設計事務所には,シャトー殖産,シャトー興業の他にも株式会社シャトー小金井(以下「シャトー小金井」という。)など複数の関連会社があり,これら関連会社は,「黒川建設シャトーグループ」(以下「シャトーグループ」という。)と総称されていた(〈証拠略〉)。

(2) 就業規則

 ア シャトー企画設計事務所及び被告黒川建設は,いずれも昭和63年12月1日に実施し,平成元年12月22日に中央労働基準監督署に対して届け出た就業規則を有するところ,この両社の就業規則は,全く同一内容のものである(被告黒川建設の就業規則は,平成5年12月1日に4条の一部が変更されているが,実質的な変更ではない。)(〈証拠略〉)。

 イ シャトー企画設計事務所及び被告黒川建設の各就業規則(以下,一括して「本件就業規則」という。)には,賃金の支払時期につき,従業員が退職又は解雇されたときには事後7日以内に支払うとの条項(第46条)があるほか,退職金に関し次の条項が存する(〈証拠略〉)。

 「(退職金の支給)

 第60条 従業員が下記の各号に該当する事由により退職した時は退職金を支給する。

  (中略)

  5 従業員が自己の都合で退職した時

  6 従業員が会社の都合で解雇された時

  (後略)

 (退職金の算定方法)

第62条 第60条第1号,第2号,第6号に該当する従業員の退職金は別表第1による

  第60条第3号,第4号,第7号に該当する従業員の退職金は別表第1の6割を支給する。

  第60条第5号に該当する従業員の退職金は別表第1を基準とし別表第2により支給する。

  別表第1の勤続期間の計算は次のとおりとする。

  1 勤続期間の起算は入社日よりとする。

  2 勤続年数の計算に1年未満の端数を生じたときは6か月未満は切捨てとし,6か月以上の場合,基準値Kは翌年度のKとの中間値をもって基準値とする。

  3 休職期間は勤続年数に算入しない。

 (退職金算定方法の変更)

第65条 退職金算定の方法は貨幣価値の変動,給与形態の変更等により適宜変更することがある。」

 ウ 本件就業規則に関連して,退職金算定に関する内規(以下「本件内規」という。)が存在するが,本件内規による退職金算定方法は次のとおりである(争いがない。)。

  (ア) 退職金の算定は,次の式による。

基本算定方式=(基本給+物価給+付加給)×K(係数)×支給率

  (イ) 基本給+物価給は,原則としては,各従業員の給与明細表中の「基本・物価給」欄の金額であるが,本件内規により設定された現在の上限金額は10万1000円である。

  (ウ) K(係数)は,原則として,本件就業規則の別表第1のとおりであるが,本件内規により,勤続年数36年の場合は90,37年以上の場合は100とされている。

  (エ) 支給率は,自己都合退職の場合,別表第2のとおりであるが,本件内規により,退職事由に関わりなく,勤続年数28年以上で退職時年齢50歳以上の場合は110パーセント,勤続年数35年以上で退職時年齢57歳以上の場合は120パーセント,勤続年数38年以上で退職時年齢60歳以上の場合は150パーセントとされている。

(3) 原告らは,前記のとおり,シャトーテルに入社し,平成9年4月末日をもってシャトー企画設計事務所を退職したが,この間,在籍したいずれの会社からも退職金の支払を受けていない(争いがない。)。

3 争点

(1) 原告らは,本件就業規則60条にいう「従業員」か。

(2) 被告らは,法人格否認の法理の適用により,原告らに対して未払賃金債務及び未払退職金債務を負うか。

(3) 被告黒川建設は,重畳的債務引受により,原告らに対して未払退職金債務を負うか。

(4) 原告らの未払賃金及び未払退職金の額

4 当事者の主張の骨子

(1) 争点1(原告らは,本件就業規則60条にいう「従業員」か)

 ア 原告ら

 取締役が従業員性を有するか否かの判断は,①使用従属関係の有無(職務の内容・遂行方法,職務権限,勤務時間・勤怠の管理状況,雇用保険,退職金共済等への加入状況),②労働の対価としての賃金支払の有無,③取締役就任の際に一旦退職し,退職金を受領しているか否か,がメルクマールになり,これらの要素を総合的に勘案して決すべきである。

 そして,原告らについては,以下のとおり,シャトーテル入社後,形式上,シャトーグループの会社の取締役の地位にあった期間も含めて,本件就業規則60条にいう「従業員」に該当することは明らかである。

  (ア) 職務の内容・遂行方法

 もともとシャトー企画設計事務所は,シャトーテルの設計部,設備部及び四国支店の設計課を独立・別法人化させ,かつ,同各部署所属の従業員全員を転籍させて設立された会社である。そして,原告甲野は,シャトーテル,被告黒川建設の各取締役就任,シャトー企画設計事務所の代表取締役就任後も,その担当する職務内容及び職務遂行の方法にはまったく変化はなかった。また,原告乙山は,昭和52年3月のシャトー企画設計事務所の独立・別法人化と同時に,シャトーテルの設計部長から横滑りしてシャトー企画設計事務所の取締役となったのである。

  (イ) 職務権限

 原告らは,シャトー企画設計事務所の経営方針・計画の策定についてさえ,シャトーグループの「社主」である被告丙川の強力な指揮監督の下でその権限を行使していたにすぎず,裁量権はまったく与えられていなかった。

  (ウ) 勤務時間管理

 原告らは,シャトーテルや被告黒川建設の取締役であった時も,シャトー企画設計事務所の取締役であった時も,勤務時間及び勤務日につき一般従業員と同様厳しく管理され,欠勤・遅刻・早退などによる賞与の減額も存在した。また,一般従業員が午前8時30分始業であるのに対して,部長以上の者はシャトーグループ所属のグループ会社の取締役も含めて全員が午前7時55分からの被告丙川主催の部長朝礼に出席することが義務付けられていた。

  (エ) 雇用保険の加入等

 原告らは,シャトー企画設計事務所の取締役就任後雇用保険に加入していない時期があったが,これは取締役は一律に雇用保険に加入できないとの社会保険事務所の取扱いによるものにすぎず,本件において過大に評価されるべきではない。

  (オ) 賃金(労働の対価性)

 原告らに対する賃金体系は,シャトー企画設計事務所の取締役となった後も従業員と同じであり,役員報酬としての体裁も一切なく,金額の決定も,株主総会や取締役会の決定によらず,シャトーグループ「社主」たる被告丙川が決定していたから,原告らの給与が労働の対価であることは明らかである。

  (カ) 取締役就任時の退職金の清算の有無

 原告らがそれぞれ取締役に就任したときに,退職金の清算は一切されなかった。

 イ 被告ら

 原告らは,シャトー企画設計事務所の代表取締役ないし取締役であって従業員ではない。また,原告甲野は,シャトー企画設計事務所の代表取締役として,商法上の代表取締役としての権限を行使していた。

 したがって,原告らは,シャトー企画設計事務所の代表取締役ないし取締役に就任した後は,本件就業規則60条の「従業員」には該当せず,就業規則に基づく退職金の支払請求権はない。

(2) 争点2(被告らは,法人格否認の法理の適用により,原告らに対して未払賃金債務及び未払退職金債務を負うか。)

 ア 原告ら

 被告らは,以下の(ア)ないし(ウ)のとおり,実質上経済的に一体のものとしてシャトー企画設計事務所の業務・財産を一般的に支配し,シャトー企画設計事務所を企業活動の面において現実的・統一的に管理・支配している。したがって,本件においては,シャトー企画設計事務所の法人格は否認され,被告丙川及び被告黒川建設こそが原告らに対する後記未払賃金及び未払退職金の支払義務を負うものである。

  (ア) シャトー企画設計事務所の発行済株式合計4万株のうち98.25パーセントが実質的に被告らによって所有されていること

 被告丙川は,株式を有する者が会社の実権を有し,かつ,自己の会社は自己と一体であるとの思想を有していた。被告丙川のこうした確たる思想を念頭にシャトー企画設計事務所の株式所有関係を見るならば,それがシャトー企画設計事務所の業務・財産を支配するに足るものであることは明らかである。

 また,被告黒川建設も,上記の株式所有関係を前提に,シャトー企画設計事務所の事業活動が事実上被告黒川建設の支配下にあって,実質的には親子会社と同等の関係にある旨対外的に表明している。

 なお,シャトー企画設計事務所の発行済株式の90パーセントは,被告黒川建設及びシャトー興業が保有し,この両社の各発行済株式の90パーセント以上を保有するシャトー殖産の99パーセント株主は,名目上丙川三郎であるが,同人が被告丙川の実子であることや,その年齢を考慮すると,実質的に株主権を有しているのは被告丙川である。

  (イ) 被告丙川,同黒川建設が,シャトー企画設計事務所をあらゆる企業活動の面において現実的・統一的に管理・支配していること

   a シャトー企画設計事務所も含めて,シャトーグループ所属の各社は,被告丙川が独断で設立及びその「消去」を決定している。

   b シャトーグループでは,「社主」たる被告丙川の意思は,被告黒川建設に置かれた統括本部(シャトーグループ企業各社を統括する部署)とその下の総務本部(シャトーグループ全体の総務関係の事務を統括的に取り扱う部署)及び財務本部(シャトーグループ全体の財務関係の事務を統括的に取り扱う部署)から,グループ各社の末端に至るまで何重にも張りめぐらされた指揮命令系統を通じて,グループ内の隅々まで徹底され浸透していた。また,シャトーグループには,総合取締役会や合同取締役会のほか,平成3年度に新たに,グループ所属の各社の社長からなり,グループ会社の組織,人事,従業員の給与及び賞与,事業計画等に関する討議を行う社長会が設置された。この社長会の議題も,被告丙川が実質上決めていた。

   c 原告らは,シャトー企画設計事務所の取締役であるにもかかわらず,受給していたのは「給与」であり,しかもその金額は社主である被告丙川が自ら決裁して決定していた。

   d シャトーグループでは,グループ所属各社の取締役の任命権限は,実質的に各社の株式のほとんどを所有する被告丙川の意向に従って決定された。

 シャトー企画設計事務所においても,その従業員の採用・退職や昇進・昇格については,一々シャトーグループ総務本部を通じて被告丙川の許可・決裁を得なければならない状況にあった。また,上記従業員の賃金・賞与の決定は,人事評価の結果により最終的に被告丙川が決定していた。

   e シャトー企画設計事務所には見るべき「資産」はなく,その収入はシャトーグループ財務本部によって管理されており,シャトー企画設計事務所の代表取締役の地位にあった原告甲野にさえ,実質上処分権が与えられず,被告丙川の支配下にあった。また,シャトー企画設計事務所が日常の業務遂行に必要な細々とした支出をする場合でも,原告らは,常に伝票を起こし,シャトーグループ財務本部を通して被告丙川の承認を得た上で,財務本部から支払をしてもらわなければならなかった。

 さらに,被告らは,シャトー企画設計事務所に対し諸種の高額な費用負担を強い,原告らがその減額を願い出ても拒否した。

   f シャトーグループでは,各種契約の締結や官公署への許認可申請の一部などについても事前に社主である被告丙川の承認を得ることとされており,その他各社社長は,権限の範囲内の業務であっても重要なものについては事前に社主の承認を得るものとされ,権限の範囲内の業務で事前承認を得ない事項についても,実施後遅滞なく社主に報告しなければならないとされていた。このように,被告丙川は,シャトーグループ各社を設立・別会社化した後も,各社の社長に事前承認や事後報告を義務付け,契約書等の原本も提出させることで,シャトーグループ内の各社をあたかも一企業の事業部門のごとく本来の企業活動の面で掌握していたのである。さらに,被告丙川は,シャトーグループ所属各社の経理数値も自ら操作を加えて決定し,グループ各社の監査結果を報告させた上,これを精査して事細かに指示を行なっていた。

  (ウ) 多額の諸費用負担等によるシャトー企画設計事務所の利益の吸い上げ構造をとっていること

 被告らは,本館ビル,別館ビルにおける法外な事務所賃料,多額の建物管理費,健康管理指導料や本来被告黒川建設が負担すべき財務本部及び総務本部の各種保険料や人件費その他の不当に高額な諸費用の負担をシャトー企画設計事務所に強いることで,シャトー企画設計事務所の利益吸い上げの構造を作っていた。

 上記諸費用負担額は,被告ら(具体的には被告丙川の支配下にある財務本部及び総務本部)が決定しており,原告らが不当に高額であるとして何度減額を願い出ても,被告丙川はこれを聞き入れなかった。

 イ 被告ら

 法人格否認の法理において,第三者がその法人の債務を負担するものとされるのは,法人格が全くの形骸にすぎない場合や,法人格が法律の適用を回避するために濫用されている場合と解するべきところ,本件はこのいずれにも該当しない。以下詳論する。

  (ア) シャトー企画設計事務所の法人格が全くの形骸にすぎないということはない。

   a 被告黒川建設は昭和52年に設立され,シャトー企画設計事務所からは法人として独立している。また,シャトー企画設計事務所は,設立時より就業規則を有しておりこれを労働基準監督署に届け出ている。シャトー企画設計事務所を設立し,原告らを代表取締役ないし取締役に就任させ,その給料を決定しているのは被告丙川であるが,これは,株主である丙川三郎の代理人としての当然の権利行使にすぎない。

 また,総合取締役会,合同取締役会等の原告主張の会合が種々行われていることや,総務本部,財務本部が存在し,被告丙川が最終的に種々の決定をしていることは事実であるが,前者については,シャトーグループ全体の連絡のために当然必要な会合であって,通常の企業ではどこでも行われていることであり,後者については,株主の代理人としての行為である。

   b 従業員はシャトー企画設計事務所が雇用し,給料を支払っている。

 シャトーグループ各社における従業員の採用面接等は各会社の社長が行い,かつ決定しており,シャトー企画設計事務所においても,原告甲野がこれを行っていた。また,被告丙川が,平成5年ころ,シャトー企画設計事務所の経営状態が悪化したため同社従業員のリストラを原告甲野に要請しても原告甲野は応じず,むしろ新しく採用したりしている。

 さらに,同社従業員の退職金の決定等も原告甲野に委(ママ)されていた。また,原告甲野ら取締役の給料は被告丙川が決定し,決裁書類に捺印しているが,従業員の給料については,被告丙川が捺印した書類はない。従業員の問題について被告丙川が種々意見を述べ,その決定権が被告丙川にあるとしても,株主の代理人としての権限行使であり,法人格否認の法理には関係ないことである。

   c シャトー企画設計事務所の営業等についても,代表取締役である原告甲野が,シャトー企画設計事務所の銀行印及び代表印を所持し,毎月の経理を管理し,同社の事業について契約を締結し,資金繰りも行っていた。

 被告丙川は,原告甲野に対し,シャトー企画設計事務所本社の賃料が高いことから,賃料の安いシャトー小金井所有のビルに移るよう勧め,また,平成6年ころ,シャトー企画設計事務所の経営状態が悪化してきたので,同社を解散したらどうかという話をしたが,原告甲野は,いずれも拒絶し,被告丙川の勧めに応じなかった。

   d 原告らは,被告黒川建設が不当にシャトー企画設計事務所の利益を吸い上げていると主張するが,全く事実に反し,むしろ被告黒川建設及びグループ各社は,シャトー企画設計事務所に対して,実際に設計依頼をせず,業務も行っていないにもかかわらず設計料を支払ったり,通常より多くの設計料を支払うなどして多額の援助をしている。

   e シャトー企画設計事務所の経理,決算もきちんと行われている。

  (イ) 「法律の適用を回避するために濫用されている」こともない。

   a 被告らは,被告黒川建設の収入をシャトー企画設計事務所に隠したり,シャトー企画設計事務所から不当に利益を収得したりしてはいない。むしろ,被告らは,シャトー企画設計事務所に対する資金的な支援をしている。

 原告らは,シャトー企画設計事務所が諸費用や立替金等を支払っている事実をもって利益の吸い上げと主張するが,これらは,他のシャトーグループ各社の諸費用等と比べて均衡を損なうものではない。

   b 被告丙川及び同人の親族等の関係者や株主は,シャトー企画設計事務所から,設立時以来給与や報酬その他の金員を受領していない。

 かえって,シャトー企画設計事務所の業績は,原告甲野の代表取締役就任当初以来収益前倒しをしなければ黒字決算できない状況にあって,経営が厳しくなっているにもかかわらず,原告甲野は,自身の高額の収入を確保していた。

   c シャトー企画設計事務所のシャトーグループ各社に対する債務の未払は,平成5年ころから続き,平成9年6月には黒川建設とシャトー殖産に対する債務の合計額は1億3460万7999円であった。

 このうち,被告黒川建設に対する債務は同月30日現在で4686万4749円であり,この額は賃料・諸費用月額354万4500円の13か月分以上に相当する。また,シャトー殖産に対する債務は同日現在で8774万3250円であり,賃料・諸経費・人件費月額409万6158円の21か月分以上に相当する。

(3) 争点3(被告黒川建設は,重畳的債務引受により,原告らに対して未払退職金債務を負うか。)

 ア 原告ら

 同一の企業グループ内において退職金の算定基礎となる勤続年数につき,同一企業グループに属する他社での勤続年数を通算することとされる場合,異動前企業を退職し異動先の企業に異動する労働者は,同一企業グループ外に離脱する時を不確定期限とする,同一企業グループ内における通算在職期間に応じた退職金を受け取ることができる抽象的な権利ないし法的地位を取得すると解するべきであるが,退職金請求権保護の重要性に鑑み,異動前企業が同一グループ内でも中核企業ないし親会社の地位にあり,かつ,異動先企業が異動前企業の一部門を独立させた企業である場合や,異動前企業の子会社の立場にある場合には,当該労働者の上記権利ないし法的地位に対応する退職金債務について一切免責されるのではなく,異動先企業と共に重畳的に債務を引き受けると解するのが,当事者の合理的意思及び社会的公平に合致する。

 本件においては,被告黒川建設は,シャトーグループ内部の中核企業であり,シャトー企画設計事務所の親会社であるから,被告黒川建設は,シャトー企画設計事務所が負担する原告らに対する退職金債務を重畳的に引き受けたというべきである。したがって,原告らは,シャトーグループを離脱した日である平成9年4月30日に,シャトー企画設計事務所のみならず,被告黒川建設に対しても退職金請求権を取得したと解するべきである。

 イ 被告ら

 被告黒川建設は,昭和52年7月22日の設立以来自らの努力で会社を営業してきたものであって,シャトー企画設計事務所の親会社の立場にはなく,被告黒川建設より先に設立されたシャトー企画設計事務所の債務を重畳的に引き受ける義務を負うこともない。また,被告黒川建設がシャトー企画設計事務所の従業員の退職金の支払債務を重畳的に引き受ける契約をしたことも,これに同意したこともない。

 被告黒川建設は,シャトー企画設計事務所から何らの利益も得ておらず,むしろ設計料の名目で多額の資金を援助しており,かつ,同社に対し,4686万4749円の債権を有している。この金額は,本件において問題となっている退職金以上の金額である。この未払債務がありながら,原告らは,平成5年以降も高額の給料収入を得ていたものであり,これらの収入は被告黒川建設の負担によって得ていたものと考えられるのである。したがって,被告黒川建設が退職金の支払義務を重畳的に負うものではない。

(4) 争点4(原告らの未払賃金及び未払退職金の額)

 ア 原告ら

  (ア) 原告らの未払賃金は次のとおりである。

 原告甲野 合計496万5000円

 (平成8年11月分~平成9年4月分,月額82万7500円)

 原告乙山 合計399万6000円

 (平成8年11月分~平成9年4月分,月額66万6000円)

  (イ) 本件就業規則及び本件内規は,シャトーグループ全体の就業規則及び内規である。そして,これに基づき,原告らの退職金を算定すると次のとおりとなる。

   a 原告甲野

 (a) 基本給+物価給 10万1000円

 (b) 付加給 18万1945円

  上記付加給は,左記金額の合計額である。

 ・1万円×5か月(係長在職月数)÷457か月(勤続月数)=109円

 ・5万円×74か月(課長在職月数)÷457か月(勤続月数)=8096円

 ・7万円×13か月(部長在職月数)÷457か月(勤続月数)=1991円

 ・11万円×109か月(取締役在職月数)÷457か月(勤続月数)=2万6236円

 ・15万円×120か月(常務取締役在職月数)÷457か月(勤続月数)=3万9387円

 ・50万円×97か月(代表取締役在職月数)÷457か月(勤続月数)=10万6126円

 (c) K(係数) 100

 (d) 支給率 150パーセント

 (e) 原告甲野の未払退職金額

  (10万1000円+18万1945円)×100×1.50=4244万1750円

   b 原告乙山

 (a) 基本給+物価給 10万1000円

 (b) 付加給 8万4242円

  上記付加給は,左記金額の合計額である。

 ・1万円×95か月(係長在職月数)÷410か月(勤続月数)=2317円

 ・5万円×27か月(課長在職月数)÷410か月(勤続月数)=3292円

 ・7万円×132か月(部長在職月数)÷410か月(勤続月数)=2万2536円

 ・15万円×24か月(常務取締役在職月数)÷410か月(勤続月数)=8780円

 ・20万円×97か月(専務取締役在職月数)÷410か月(勤続月数)

  =4万7317円

 (c) K(係数)82.2

 (d) 支給率  110パーセント

 (e) 原告乙山の未払退職金額

  (10万1000円+8万4242円)×82.2×1.10=1674万9581円

  (ウ) よって,①原告甲野は,被告らに対し,未払賃金及び未払退職金として,連帯して4740万6750円並びにうち496万5000円に対する最終の支払日の翌日である平成9年5月1日から支払済みまで賃金の支払の確保等に関する法律6条1項及び同法施行令1条所定の年1割4分6厘の割合による遅延利息及びうち4244万1750円に対する弁済期の翌日である同年5月8日から支払済みまで商事法定利率年6分の割合による遅延損害金の支払を,②原告乙山は,被告らに対し,未払賃金及び未払退職金として,連帯して2074万5581円並びにうち399万6000円に対する最終の支払日の翌日である平成9年5月1日から支払済みまで賃金の支払の確保等に関する法律6条1項及び同法施行令1条所定の年1割4分6厘の割合による遅延利息及びうち1674万9581円に対する弁済期の翌日である同年5月8日から支払済に至るまで商事法定利率年6分の割合による遅延損害金の支払を,それぞれ求める。

 イ 被告ら

  (ア) 原告らの主張する未払賃金債務が存在することは認めるが,これらの債務者は,シャトー企画設計事務所であって,被告らではない。

  (イ) 本件内規は,被告黒川建設の内規である。

 原告らの主張する退職金額の計算のうち,基本給+物価給の額及びK(係数)の値は認める。課長及び部長について付加給が存在することは認めるが,係長,取締役,専務取締役,常務取締役及び代表取締役には付加給はない。また,原告乙山の部長在職月は36か月である。

 さらに,シャトー企画設計事務所が原告らに対し退職金を支払っていない事実は認めるが,被告らは原告らに対し退職金債務を負うものではない。

 第3 争点に対する判断

1 シャトーグループの形成とその組織について

 証拠によれば,次の事実が認められる。

(1) グループの形成

 被告丙川は,昭和30年ころ,それまで個人で行なっていた設計業務をシャトーテルに移し(シャトーテルの設立自体は昭和25年8月),以後,建築設計・施工,マンション・ビルの建築分譲,ホテル・レストラン経営等に業務分野を拡大させ,昭和40年代に,分譲したマンションの管理等を行なう株式会社シャトー管理,株式会社シャトー海洋調査(旧商号株式会社シャトー水路測量),株式会社シャトー貿易,リゾート開発等を行なうシャトー興業,不動産仲介等を行なう株式会社シャトー不動産,レストラン等の経営を行なう株式会社シャトーレストラン(旧商号シャトーホテルレストラン)等の関連会社を設立した。

 しかし,昭和50年にホテル「シャトーテル赤根崎」を建築するため多大な債務を負担したことを契機に,シャトーテルの資金繰りが悪化したため,被告丙川は,昭和52年3月,シャトー企画設計事務所を設立してシャトーテルの行っていた設計業務を,同年7月,被告黒川建設を設立してシャトーテルの行っていた建設業務を,それぞれ新会社に移管した。

 さらに,昭和54年以降昭和55年10月までに,シャトーテル新潟支店を分社・独立させて株式会社シャトー塩沢を,同小金井支店を分社・独立させてシャトー小金井を,シャトーテルが経営していたホテル「シャトーテル大手前」の運営部門を分社・独立させて株式会社シャトーテル大手前(旧商号株式会社シャトーレストラン。昭和40年代に設立された前記株式会社シャトーレストランとは別法人。)を,それぞれ設立した。

 これらシャトーテルの各部門の分社・独立に伴い,各部門に従事していたシャトーテルの従業員も原則として新会社に移籍した。

 上記新会社設立と業務移管を経て,シャトーテルは,昭和57年1月会社を解散した(なお,同社は,昭和57年10月にいったん清算結了の登記がされたが,平成2年4月24日復活し,その旨の登記がされている。)。

 また,シャトーテルは,昭和54年4月にホテル「シャトーテル松山」を他に売却していたが,昭和61年9月,シャトーグループが同ホテルを買収したことにより,同ホテルを経営する会社として株式会社シャトーテル松山が設立された。

 平成7年当時のシャトーグループは,被告黒川建設及びシャトー企画設計事務所他9社から成っており,各社の資本金は,被告黒川建設が3億円と突出して多く,他の会社は,2000万円から多くても5000万円までであった。

(以上につき,〈証拠略〉,原告甲野本人)

(2) グループ内組織

 シャトーテルは,昭和40年ころから,毎月社内報を発行していたが,関連会社の設立に伴い,遅くとも昭和46年2月までには,グループ会社全体の社内報に変わり,名称も「MONTHLY KUROKAWACHATEAU CONGLOMERATE」となって現在に至っている。「黒川建設シャトーグループ」の総称が使用されるようになったのも同じころからである(以上,〈証拠略〉)。

 この社内報に掲載された組織図によると,シャトーグループの組織は次のとおりである。

 昭和40年代に設立されたグループ各社は,シャトーテルの各支店や経理部,総務部等と同様,株主-会長-社長-常務会-取締役会という系列の下に位置づけられ,昭和52年に設立されたシャトー企画設計事務所も,独立前と同様,シャトーテルの建設本部の下に位置づけられた。建設本部には担当専務取締役がいるものの,シャトーテルの社長直属の部門ともされている。

 被告黒川建設が設立された後は,シャトーテルも他のグループ各社と同様,株主-会長-社長-常務会-取締役会という系列の下に位置づけられ,建設本部の外,社長室,総務部,経理部及び調査室が社長直轄の部門とされ,建設本部の下にシャトー企画設計事務所と建設部が位置づけられていた。

 昭和57年にシャトーテルの解散決議がなされた後は,「黒川建設」本社の下に,被告丙川をリーダーとする経営会議及びグループ総括本部が位置し,その下に,被告黒川建設の営業本部,建設本部,経理部及び総務部と,グループ各社が位置づけられた。この時期,グループ各社のトップの地位には,会長職として被告丙川自身か,又は社長職として被告丙川の実弟である丙川四郎が就いていた。

 そして,遅くとも平成3年以降は,「黒川建設シャトーグループ統轄本部」(以下「グループ統轄本部」という。)がシャトーグループの最上位に位置し,その下に,総務本部(シャトーグループ全体の総務関係の事務を統括的に取り扱う部署),財務本部(シャトーグループ全体の財務関係の事務を統括的に取り扱う部署),開発室が置かれ,被告黒川建設を含むグループ各社も,このグループ統括本部の下に位置づけられた。さらに,グループ統括本部に直属するものとして,グループ全体の社長会,経営会議(平成4年まで),事業計画販売促進会議,その他各種の会議や委員会が存在した。

 平成7年以降も,グループ統轄本部を最上位とし,その下にシャトーグループ各社が位置する組織構造に変わりはないが,グループ統轄本部の下に位置していた財務本部及び総務本部が全グループ財総本部となって,シャトー殖産内に移管され,被告丙川がその本部長の地位に就いた。財務部長及び総務部長は,いずれもシャトー殖産の取締役であるAとBであるが,この両名は,それまでは被告黒川建設に在籍していた者である。

 (以上につき,〈証拠略〉)

(3) シャトーグループの就業規則

 前述のとおり,被告黒川建設及びシャトー企画設計事務所は,それぞれ労働基準監督署に届け出た就業規則を有するが,これらとは別に,シャトーグループ全体の就業規則も存在する。グループ全体の就業規則の内容は,有給休暇に関する条項が若干異なるほかは,シャトー企画設計事務所及び被告黒川建設のそれと全く同一であり,実施の日も同様に昭和63年12月1日とされている(なお,グループの就業規則4条は変更後の被告黒川建設のそれと同一。)(以上,〈証拠略〉)。

(4) シャトーグループと被告丙川の地位及び権限

 ア 被告丙川は,シャトーグループの「社主」と称し,グループに属する株式会社の設立及び「消去」をもっぱら独断で決していた(被告黒川建設代表者兼被告本人丙川(以下「被告丙川本人」という。)。

 イ 社主である被告丙川は,シャトーグループのグループ統轄本部の長の地位にあり,グループ統轄本部下にあった財務本部のリーダーを務め(総務本部のリーダーは被告黒川建設の副社長C),前記のとおり,平成7年に財務本部と総務本部とが統合され,全グループ財総本部としてシャトー殖産内に置かれた後は,その本部長の地位にあった(〈証拠略〉)。

  ウ シャトーグループでは,グループ会社の役員をメンバーとする総合取締役会,合同取締役会,幹部朝礼及び部長朝礼が定期的に開催されていたが,いずれの会も,社主である被告丙川がリーダーとなっていた(〈証拠略〉)。

2 争点1(原告らは本件就業規則60条の「従業員」か)について

(1) シャトー企画設計事務所及び被告黒川建設は,それぞれ自社の就業規則を労働基準監督署に届け出ているが,両社の就業規則は全く同一内容のもので実施の時期も同一であること,これらとは別に,同一時期に実施されたシャトーグループ全体の就業規則が存在し,このグループ全体の就業規則は,有給休暇に関する条項が若干異なる他は,被告黒川建設及びシャトー企画設計事務所のそれと全く同一であることは前記のとおりである。

 そして,1において認定したシャトーグループ内の組織等に照らすと,シャトーグループ各社内では,グループ全体の就業規則が各社共通の就業規則として各従業員に対し示されていたものと推認される。

 本件において問題とされる退職金に関する条項は,シャトー企画設計事務所及び被告黒川建設の就業規則では60条以下,シャトーグループ全体の就業規則では59条以下であるが,その文言は全く同一である。そこで,原告らについて,シャトー企画設計事務所,被告黒川建設又はシャトーグループの各就業規則のいずれが適用されるかはともかくとして,原告らが本件就業規則60条又はシャトーグループ就業規則59条の「従業員」に該当するか否かについて検討する。

(2) 原告らが,シャトーテル入社後,平成9年4月にシャトー企画設計事務所を退社するまで,シャトーテル,被告黒川建設あるいはシャトー企画設計事務所の取締役に就任したいずれの時にも,帰属していたいずれの会社からも退職金の支給を受けていないことは前記のとおりである。

旭紙業事件最高裁平成8年

労働判例百選 第8版 1事件 9版1事件 菅野10版12版掲載

療養補償給付等不支給処分取消請求事件
最高裁判所第1小法廷判決/平成7年(行ツ)第65号

平成8年11月28日

【判示事項】       車の持込み運転手(傭車運転手)が労働基準法及び労働者災害補償保険法上の労働者に当たらないとされた事例

【判決要旨】       自己の所有するトラックを持ち込んで特定の会社の製品の運送業務に従事していた運転手が、自己の危険と計算の下に右業務に従事していた上、右会社は運送という業務の性質上当然に必要とされる運送物品、運送先及び納入時刻の指示をしていた以外には、右運転手の業務の遂行に関し特段の指揮監督を行っておらず、時間的、場所的な拘束の程度も、一般の従業員と比較してはるかに緩やかであったなど判示の事実関係の下においては、右運転手が、専属的に右会社の製品の運送業務に携わっており、同社の運送係の指示を拒否することはできず、毎日の始業時刻及び終業時刻は、右運送係の指示内容のいかんによって事実上決定され、その報酬は、トラック協会が定める運賃表による運送料よりも一割五分低い額とされていたなどの事情を考慮しても、右運転手は、労働基準法及び労働者災害補償保険法上の労働者に当たらない。

【参照条文】       労働基準法9

             労働者災害補償保険法7

【掲載誌】        訟務月報44巻2号211頁

             最高裁判所裁判集民事180号857頁

             判例タイムズ927号85頁

             判例時報1589号136頁

             労働判例714号14頁

             労働経済判例速報1627号25頁

【評釈論文】       季刊労働法184号177頁

             訟務月報44巻2号87頁

             訟務月報44巻2号212頁

             判例タイムズ臨時増刊978号278頁

             判例評論463号59頁

             法律時報70巻4号119頁

             法律時報71巻4号119頁

             労働法律旬報1422号21頁

 

       主   文

 

 本件上告を棄却する。

 上告費用は上告人の負担とする。

 

       理   由

 

 上告代理人荒井新二、同森和雄、同鮎京眞知子、同横松昌典の上告理由第一について

 所論の点に関する原審の判断は、正当として是認することができ、原判決に所論の違法はない。論旨は、独自の見解に立って原判決を論難するものであって、採用することができない。

 その余の上告理由について

 所論の点に関する原審の事実認定は、原判決挙示の証拠関係に照らし、首肯するに足り、その過程に所論の違法はない。

 原審の適法に確定した事実関係によれば、上告人は、自己の所有するトラックを旭紙業株式会社の横浜工場に持ち込み、同社の運送係の指示に従い、同社の製品の運送業務に従事していた者であるが、(1)同社の上告人に対する業務の遂行に関する指示は、原則として、運送物品、運送先及び納入時刻に限られ、運転経路、出発時刻、運転方法等には及ばず、また、一回の運送業務を終えて次の運送業務の指示があるまでは、運送以外の別の仕事が指示されるということはなかった、(2)勤務時間については、同社の一般の従業員のように始業時刻及び終業時刻が定められていたわけではなく、当日の運送業務を終えた後は、翌日の最初の運送業務の指示を受け、その荷積みを終えたならば帰宅することができ、翌日は出社することなく、直接最初の運送先に対する運送業務を行うこととされていた、(3)報酬は、トラックの積載可能量と運送距離によって定まる運賃表により出来高が支払われていた、(4)上告人の所有するトラックの購入代金はもとより、ガソリン代、修理費、運送の際の高速道路料金等も、すべて上告人が負担していた、(5)上告人に対する報酬の支払に当たっては、所得税の源泉徴収並びに社会保険及び雇用保険の保険料の控除はされておらず、上告人は、右報酬を事業所得として確定申告をしたというのである。

 右事実関係の下においては、上告人は、業務用機材であるトラックを所有し、自己の危険と計算の下に運送業務に従事していたものである上、旭紙業は、運送という業務の性質上当然に必要とされる運送物品、運送先及び納入時刻の指示をしていた以外には、上告人の業務の遂行に関し、特段の指揮監督を行っていたとはいえず、時間的、場所的な拘束の程度も、一般の従業員と比較してはるかに緩やかであり、上告人が旭紙業の指揮監督の下で労務を提供していたと評価するには足りないものといわざるを得ない。そして、報酬の支払方法、公租公課の負担等についてみても、上告人が労働基準法上の労働者に該当すると解するのを相当とする事情はない。そうであれば、上告人は、専属的に旭紙業の製品の運送業務に携わっており、同社の運送係の指示を拒否する自由はなかったこと、毎日の始業時刻及び就業時刻は、右運送係の指示内容のいかんによって事実上決定されることになること、右運賃表に定められた運賃は、トラック協会が定める運賃表による運送料よりも一割五分低い額とされていたことなど原審が適法に確定したその余の事実関係を考慮しても、上告人は、労働基準法上の労働者ということはできず、労働者災害補償保険法上の労働者にも該当しないものというべきである。この点に関する原審の判断は、その結論において是認することができる。

 論旨は、原審の専権に属する証拠の取捨判断、事実の認定を非難するか、原判決の結論に影響しない説示部分を論難するに帰し、採用することができない。

 よって、行政事件訴訟法七条、民訴法四〇一条、九五条、八九条に従い、裁判官全員一致の意見で、主文のとおり判決する。

 (裁判長裁判官井嶋一友 裁判官小野幹雄 裁判官高橋久子 裁判官遠藤光男 裁判官藤井正雄)

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