高齢者死亡の不法行為責任 広島高裁平成27年
損害賠償請求控訴事件
広島高等裁判所判決/平成26年(ネ)第110号
平成27年5月27日
【判示事項】 特別老人ホームに入所していた老人が肺血栓塞栓症により死亡した場合において、同ホームの配置医に過失があったとして医師の不法行為責任が認められた事例
【参照条文】 民法709
【掲載誌】 判例時報2271号48頁
主 文
一 原判決中、被控訴人丁原に関する部分を、次のとおり変更する。
(1) 被控訴人丁原は、控訴人甲野太郎に対し、一六五万円及びこれに対する平成一四年一二月二五日から支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。
(2) 被控訴人丁原は、控訴人乙山及び同丙川に対し、それぞれ五五万円及びこれに対する平成一四年一二月二五日から支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。
(3) 控訴人らの被控訴人丁原に対するその余の請求をいずれも棄却する。
二 控訴人らのその余の控訴をいずれも棄却する。
三 訴訟費用の負担を次のとおり定める。
(1) 控訴人らと被控訴人丁原との間に生じた訴訟費用は第一、二審を通じてこれを五分し、その一を被控訴人丁原の負担とし、その余を控訴人らの負担とする。
(2) 控訴費用のうち、控訴人らと被控訴人A1との間に生じたものは控訴人らの負担とする。
四 この判決は、一項(1)及び同(2)に限り、仮に執行することができる。
事実及び理由
第一 控訴の趣旨
一 原判決を次のとおり変更する。
二 被控訴人らは、控訴人甲野に対し、連帯して六〇〇万円及びこれに対する平成一四年一二月二五日から支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。
三 被控訴人らは、控訴人乙山及び同丙川のそれぞれに対し、連帯して二〇〇万円及びこれに対する平成一四年一二月二五日から支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。
第二 事案の概要等
一 事案の概要
本件は、Bの相続人の一部である控訴人ら(相続分は、控訴人甲野は二分の一、同乙山及び同丙川は各六分の一)が、特別養護老人ホームA3を経営する被控訴人A1及び同会の理事でありA3の配置医である被控訴人丁原に対し、A3に入所していたA1が平成一四年一二月二五日に死亡したのは肺血栓塞栓症の治療・予防薬であるローファリンの調整を怠った過失によるものであり、控訴人らはBの被控訴人らに対する損害賠償請求権を相続したなどと主張して、被控訴人丁原に対しては、診療契約上の債務不履行又は不法行為に基づき、被控訴人A1に対しては、特別養護老人ホーム入所契約上の債務不履行、社会福祉法二九条及び民法四四条一項(いずれも平成一八年法律第五〇号による改正前のもの。以下それぞれ「社会福祉法」、「民法」という。)又は使用者責任に基づき、控訴人らが相続したBの損害の内金(控訴人甲野は一二〇〇万円、同乙山及び同丙川はいずれも四〇〇万円)及びこれに対するBの死亡の日である平成一四年一二月二五日から支払済みまで年五分の割合による遅延損害金の支払を求めた事案である。
原審は、控訴人らの請求をいずれも棄却したため、これを不服とする控訴人らが控訴の趣旨の限度で一部控訴した。
二 前提事実
以下のとおり、補正するほか、原判決の「事実及び理由」中、「第二 事案の概要」の「二 争いのない事実等」及び「三 医学的知見」のとおりであるから、これを引用する(以下、略称は原判決のとおりである。)。
(1) 原判決三頁一〇行目〈編注・本号後掲五六頁二段四行目〉「被控訴人丁原は、」〈編注・原文ママ〉の後に「Bと診療契約を締結しており、同契約に基づいて、」を加える。
(2) 三頁一七行目から一八行目にかけて〈編注・本号後掲五六頁二段一三行目〉「同月三〇日から」の後に「被控訴人A1との特別養護老人ホーム入所契約に基づき、」を加える。
(3) 四頁一四行目〈同五六頁三段一三行目〉末尾の後に、次のとおり加える。
「 PT-INR値とは、薬剤投与後の患者のプロトロンビン時間(血液凝固時間、PT)を正常なPT比(薬剤を投与しない場合の血液凝固時間)に換算した値(患者血漿のPT/正常血漿のPT)である。出血傾向の予備検査として、抗凝固療法のコントロールに用いられる。また、ワーファリンの投与量の単位が錠となっているが、これはワーファリンカリウム一mgを含有する錠剤を指す。すなわち、引用にかかる原判決添付別表の『一』の記載はワーファリンが一mg投与されたことを意味する。」
(4) 六頁一行目〈同五六頁四段三三行目〉末尾の後に「Bの死因は、上記死亡診断書記載のとおり、肺血栓塞栓症であった。」を加える。
(5) 七頁一六行目〈同五七頁二段二六行目〉冒頭に「ア」を加え、二六行目〈同五七頁三段一一行目〉末尾の後を改行して、以下のとおり加える。
「イ 平成一三年(二〇〇一年)六月改訂のワーファリンの添付文書には、要旨以下の記載がある。
(ア) 効能・効果
血栓塞栓症(静脈血栓症、心筋梗塞症、肺塞栓症、脳塞栓症、緩徐に進行する脳血栓症等)の治療及び予防
(イ) 用法・用量
投与量や投与回数のコントロールに用いられるのは、Quick1段法によるプロトロンビン時間(PT)の測定やトロンボテスト(TT)である。
治療域は前者では正常値に対する比が二倍前後とするものが多い。
ワーファリンに対する感受性には個体差が大きく、同一個人でも変化することがあるので、プロトロンビン時間測定やトロンボテストを特に治療初期には頻回行い、治療域を逸脱しないよう努力する。
(ウ) 使用上の注意
(重要な基本的注意)
血液凝固能検査等出血管理を十分に行いつつ使用すること
初回量及び維持量は血液凝固能検査等の結果に基づき、慎重に決定すること
ビタミンK製剤を投与中の患者には本剤の効果が発現しないので、本剤の治療を要する場合は、止血目的以外のビタミンK製剤を投与しないこと
(相互作用)
抗凝血薬療法施行中に、新たに他剤を併用したり、休薬する場合には、凝血能の変動に注意すること
ウ また、上記添付文書の「使用上の注意」の「相互作用」の箇所には、「併用注意(併用に注意すること)」の項があり、同箇所には、次の医薬品との併用により、本剤の作用が増強又は減弱することがあるので、併用する場合には凝血能の変動に十分注意しながら投与することとの記載があり、併用によりワーファリンの作用が増強することがある医薬品としてシメチジン(消化性潰瘍用剤)、イトラコナゾール(抗真菌薬)が挙げられている。
エ エーザイ株式会社臨床研究センターが平成八年二月に発行したワーファリンの適正使用情報第二版(以下「平成八年適正使用情報」という。)には、要旨以下のとおり記載されている。
(ア) 血液凝固能の測定頻度
ワーファリンの投与量の決定とコントロールは、血液凝固能をプロトロンビン時間(PT)またはトロンボテスト(TT)で測定することによって患者ごとに行われることが原則である。ワーファリン導入から維持量決定の期間における血液凝固能測定の基本的なスケジュールは次のとおりである。
① ワーファリン投与開始前、患者ごとの基準値を知る。必要に応じて二回以上測定する、
② ワーファリン投与開始後一週間、原則として毎日測定する、
③ ワーファリン投与開始後第二週、隔日~三日に一回測定する、
④ 維持量が決定し、血液凝固能が安定するまでの投与開始後第三週~第四週は、週に一~二回測定する、
⑤ 血液凝固能が治療域内で安定した外来通院時では、原則として一か月に一回測定で血液凝固能をチェックし、必要に応じて用量調節を行う。
(注) ②~③の時期に維持量を決定するが、原則として入院にて行うのが安全である。
(イ) 血液凝固能の不安定
(原因)
ワーファリン維持療法中に患者のプロトロンビン時間(PT)またはトロンボテスト(TT)が変動し、不安定となってコントロールがうまくいかない場合の原因は、次のものが考えられる。
① 患者のワーファリンに対する適応力に余裕がない
② 患者の病態の変化
③ ワーファリンの投与量の変更が頻繁すぎる
ワーファリンの効果は投与直後には現れず、経口投与後一二~二四時間で発現し、四八~七二時間まで持続する。したがって、その日のPT、TTに応じてすぐ投与量を変更することを避け、少なくとも二~三日間は投与量を一定にして経過を見た方が投与量の方針がたて易く、早く安定した治療域に到達できることが多い。
④ ワーファリンと薬物相互作用のある薬剤を投与または中止した
⑤ ビタミンK含有量の多い野菜類の過量摂取や納豆の摂取、あるいはビタミンKの吸収障害がある
⑥ 患者の飲み忘れによるコンプライアンスの不良がある
(対処法)
投与量を変更する場合で、患者がワーファリンに対する適応力に余裕がない場合には、二~三日に一度、〇・五mg単位の少量の増減量による細かな調整が必要である。」
三 争点及び当事者の主張
(1) 被控訴人丁原は、Bへのワーファリン投与量を調整する義務を負うか
(控訴人らの主張)
ア ○○共立病院(以下「共立病院」という。)のA3に対する平成一四年一一月二〇日付け紹介書(以下「本件紹介書」という。)には、「臥床状態でもあり肺血栓塞栓症の再発予防でワーファリン内服してましたがコントロールむずかしく現在は一/二T/dayのみを使用しています。一/二T~一Tぐらいで調整してみてはどうかと考えていました。」との記載がある。被控訴人丁原は、これに基づいて、PT-INR値を測定してワーファリンの投与量を調整する義務があった。
イ Bは、高齢、女性、長期臥床という肺血栓塞栓症の危険因子を有しており、再発の可能性が高く、ワーファリンの投与量を増量することも含めた調整を行う必要が大きかった。現に、Bは共立病院の入院中もPT-INR値が安定せず、退院時においてもワーファリンの維持量が決定しておらず、血液凝固能が安定した状態には至っていなかった。
ウ 平成一四年一二月五日にはBに対するタガメット、イトリゾールの投与が中止されたが、ワーファリンの添付文書の「相互作用」欄の記載に照らせば、この時期においては、PT-INR値を測定して、ワーファリンの維持量を増量も含めて適宜調整すべきであった。
エ 以上のとおり、被控訴人丁原にはPT-INR値を測定してワーファリンの投与量を調整する義務があったにもかかわらず、これを行わず、漫然とBに対する治療を続行したものであるから、診療契約上の債務不履行又は不法行為責任を負う。
オ 被控訴人らは、A3においてワーファリン投与量の調整を行うことは困難ないし不可能であると主張するが同主張は争う。仮にA3でそれが困難ないし不可能であるというなら、被控訴人らは、共立病院への外来受診も含め、転医・転院させるべきであった。
(被控訴人らの主張)
ア 本件紹介書によれば、Bのワーファリンの維持量は、同病院において既に「一/二T/day」と決定されていたから、被控訴人丁原が重ねて投与量を調整すべきであるとはいえない。
「一/二T~一Tぐらいで調整してみてはどうかと考えていました」との記載は共立病院の治療方針を記載したものにすぎず、被控訴人丁原の治療内容にならない。
イ Bは、共立病院において特別養護老人ホームであるA3に入所できるほど症状が安定した状態と判断されており、再入所後も臨床症状に異常がなかった。
ウ ワーファリンは副作用が強く、過剰投与により出血性の重篤な疾患を発症するリスクがあるから、臨床症状に異常がない限りこれを増量することは考えられない。
本件において、血液凝固能を検査してワーファリンの投与量を調整すべきとすれば、出血性の重篤な疾患の副作用を防止するためである。そして、タガメット及びイトリゾールはワーファリンの作用を増強する可能性のある薬剤であり、これらの休薬は出血性疾患の発症リスクを高めるものではないから、タガメット及びイトリゾールの中止時に血液凝固能を検査してワーファリンの投与量を調整する義務があるとはいえない。
エ ワーファリンは副作用が強く、過剰投与により出血性の重篤な疾患を発症するリスクがあるから、そのようなリスクに対応できる医療施設でなければ、投与量の調整は困難である。
PT-INR値測定によるモニタリングは特別養護老人ホームにおいても可能だが、控訴人ら主張の頻度で測定することは一般的でない。また、モニタリングの機会さえ確保できれば、ワーファリン投与量の調整が可能というわけではない。
オ そもそも臨床症状に異常がない限りワーファリンの増量を行うことは考えられず、ワーファリンの投与量調整のために転医・転院させるべきであったなどとはいえない。
(2) (1)の義務違反とBの死亡との因果関係等
(控訴人らの主張)
ア Bにはワーファリンが一日一/二錠投与が継続されていたにもかかわらず、肺血栓塞栓症が再発して死亡した。被控訴人丁原がワーファリンの投与量を適切に調整して投与しておれば、肺血栓塞栓症が再発せずにBが死亡しなかった高度の蓋然性が認められるから、被控訴人丁原の過失とBの死亡には因果関係がある。
イ 仮に過失と死亡との因果関係までは認められないとしても、ワーファリンの投与量を適切に調整しておれば、平成一四年一二月二五日時点でBが生存していた相当程度の可能性がある。
(被控訴人らの主張)
ア ワーファリン投与によりPT-INR値が病的に上昇する原因の一つに、経口摂食の減少が挙げられる。A3再入所後、Bの摂食状態は悪化しており、体重が減少していたから、ワーファリンを増量することによって過剰効果が現れるリスクがさらに高まっていた。また、Bには、共立病院入院時において、ワーファリンを一mg投与したことにより、PT-INR値が四・七六まで上昇する過剰効果が見られた。
イ このような状況で、ワーファリンの投与量を増やすことは考えられないから、ワーファリンの投与量を調整する注意義務違反と死亡との間に因果関係はない。また、仮に転医が実施されたとしても、臨床症状に変化がない限り、転医先においてもワーファリン投与量の増量は行われないはずであるから、被控訴人丁原に転医・転院義務違反があったとしても、ワーファリン投与量を増量することで肺血栓塞栓症の発生を回避することはできないから、Bの死亡との因果関係はないし、Bの死を回避できる相当程度の可能性があったともいえない。
(3) 被控訴人丁原が弾性ストッキングを装着させなかった過失
(控訴人らの主張)
肺血栓塞栓症の予防方法として弾性ストッキングを装着させる方法があることは、平成一四年一二月当時において一般的な医療水準であったから、被控訴人丁原はBに弾性ストッキングを装着させる義務があった。
(被控訴人らの主張)
否認する。
弾性ストッキングの血栓予防効果は限定的であるし、使用が奨励されるようになったのは、ガイドラインが策定された平成一六年以降である。
(4) 被控訴人A1の責任
(控訴人らの主張)
ア 特別養護老人ホーム入所契約上の債務不履行
特別養護老人ホームの医師又は看護職員は、常に入所者の健康状況に注意し、必要に応じて健康保持のための適切な措置を採らなければならない。このことから、被控訴人A1は、特別養護老人ホーム入所契約に基づき、Bに対して適切な医療を提供する義務を負っていたところ、被控訴人A1は同義務を怠った。
イ 社会福祉法二九条及び民法四四条一項の責任
被控訴人丁原は被控訴人A1の理事であり、Bに対して不法行為責任を負うから、被控訴人A1は、社会福祉法人としての不法行為責任を負う。
ウ 使用者責任
被控訴人A1は、被控訴人丁原を配置医として指揮監督下において職務に従事させていたから、被控訴人丁原の職務の執行についての不法行為責任を負う。
(被控訴人らの主張)
否認し争う。
(5) 損害
原判決の「事実及び理由」中、「第二 事案の概要」の「五 争点に対する当事者の主張」の「(6)争点(6)(損害額)」〈同六〇頁二段二二行目以下〉のとおりであるから、これを引用する。ただし、原判決一八頁七行目〈同六〇頁三段二四行目〉の「一二〇〇万円」を「六〇〇万円」に、同頁九行目〈同二七行目〉の「各四〇〇万円」を「各二〇〇万円」にいずれも改める。
第三 当裁判所の判断
一 認定事実
以下のとおり補正するほか、原判決の「事実及び理由」中、「第三 争点に対する判断」の「一 認定事実」〈同六〇頁三段三一行目以下〉のとおりであるので、これを引用する。
(1) 原判決二一頁一〇行目〈同六一頁三段一二行目〉「処方された。」の後に「このほか、タガメットとイトリゾールも、一四日分処方された。タガメットは、ワーファリンの添付文書にワーファリンの作用が増強することがあるとして挙げられているシメチジンを成分とする薬剤であり、イトリゾールは同旨で挙げられているイトラコナゾールを成分とする薬剤である。」を加える。
(2) 同二二頁四行目〈同六一頁四段六~七行目〉「一二月五日から」を「被控訴人丁原が一二月五日以降、処方を継続せず、同日から」に改め、二二頁五行目から六行目にかけて〈同九行目〉「以下のとおりである」の後に「。なお、A3に再入所した平成一四年一一月二〇日から死亡の前日の同年一二月二四日まで、Bには、肺血栓塞栓症の発症を窺わせる臨床症状(呼吸困難、胸痛、下腿浮腫)は見られなかった。」を加える。
二 争点についての判断
(1) 被控訴人丁原がワーファリンの投与量を調整する注意義務を負うか
ア 被控訴人丁原の注意義務
Bは、平成一四年一一月二〇日、A3に再入所しているところ、被控訴人丁原作成のカルテには同月二一日に診療を開始した旨の記載がある。これによれば、被控訴人丁原は、同日、Bと診療契約を締結したと認められる。
以下においては、被控訴人丁原とBとの上記診療契約を前提として、被控訴人丁原がBに対するワーファリンの投与量を調整する義務があるかを検討する。
イ ワーファリンの投与量を調整する必要性
ワーファリンは血栓塞栓症の治療及び予防に効能・効果を持つ薬剤であるが、これに対する感受性には個体差が大きく、同一個人でも変化することがあるので、プロトロンビン時間測定やトロンボテストを特に治療初期には頻回行い、治療域を逸脱しないよう努力すべきとされていること、血液凝固能検査等出血管理を十分に行いつつ使用すること及び初回量及び維持量は血液凝固能検査等の結果に基づき慎重に決定することが同薬の使用に際しての重要な基本的注意とされていること、ワーファリンの平成八年適正使用情報には、導入から維持量決定の期間における血液凝固能測定の基本的なスケジュールが具体的に示されていることは、先に原判決を補正した前提事実として認定したとおりである。
一般に、医薬品の添付文書の記載事項は、当該医薬品の危険性(副作用等)につき最も高度な情報を有している製造業者等が作成するものであるから、その記載内容は、医師がその医薬品を使用するに当たっての標準的な注意義務の内容となるというべきであるし、平成八年適正使用情報は、医薬品の添付文書(能書)自体ではないものの、この内容を補完するものであるから、その記載内容は、同様に、当該医薬品を使用するにあたっての注意義務を導くうえでの重要な考慮要素となるというべきである。
以上によれば、患者に対してワーファリンを処方する医師は、上記ワーファリンの添付文書及び平成八年適正使用情報の記載に沿って、血液凝固能検査等出血管理を十分に行いつつ使用すべき一般的な注意義務があるというべきである。
ウ Bの臨床経過
原判決を引用して認定した事実によれば、Bは、平成一四年七月三〇日にA3に長期入所したこと、同年九月一日に呼吸困難等を発症して共立病院へ救急車で搬送され、うっ血性心不全等の診断でそのまま共立病院に入院したこと、同月一二日に共立病院において肺血栓塞栓症と診断され、同月一四日からワーファリンの投与を受けるようになったこと、共立病院におけるワーファリン投与とPT-INR値の推移は原判決添付の別表のとおりであったことが認められる。
上記別表によれば、Bに対するワーファリン投与量とPT-INR値の推移はいずれも振幅の激しいものであり、共立病院に入院中のBは、ワーファリンの平成八年適正使用情報にいう「維持量が決定し、血液凝固能が安定」した状態にあったとは認められない。
エ 本件紹介書
Bは、平成一四年一一月二〇日、共立病院を退院し、A3に再入所したと認められる。共立病院の担当医師であったC医師は、同日、一四日分のワーファリン、タガメット、イトリゾール等を処方し、併せて、A3医務室の担当医師(すなわち、被控訴人丁原)に対し、本件紹介書を作成して、当時のBに対する治療状況を被控訴人丁原に引き継いだことが認められる。
本件紹介書には、Bにはワーファリンのコントロールが難しいこと、現在は一日一/二錠を使用しているが、紹介者(C医師)においては一/二ないし一錠くらいで調整してみてはどうかと考えていた旨が記載されているが、これは、当時のBにおいて、ワーファリンの維持量が決定し、血液凝固能が安定した状態にはなかったことを前提として、被控訴人丁原に対し、PT-INR値を測定してワーファリンの投与量を調整することを求めたものと認められる(なお、このことは、《証拠略》によっても明らかである。)。
オ 検討
以上のとおりのワーファリンの性質、当時のBの臨床経過、本件紹介書による共立病院からの申し送りの内容に照らすと、A3に再入所した当時のBは、ワーファリンの維持量が決定し、血液凝固能が安定した状態にはなかったのであるから、Bに対してワーファリンの投与がされていることを認識していた被控訴人丁原においては、PT-INR値を測定するなどしてワーファリンの投与量を調整すべき義務があったというべきである。
上記に関し、Bは、A3に再入所した当時、共立病院から一四日分のワーファリンを処方されており、これによれば、被控訴人丁原においてワーファリンの投与量を調整すべき義務があるとしても、その義務は共立病院で処方された一四日分のワーファリンの投与を終えた時点で発生すると解する余地がないとはいえない。しかし、ワーファリンの初回量及び維持量は血液凝固能検査等の結果に基づき慎重に決定すべきことが同剤の使用に当たっての重要な基本的注意であることは医師である被控訴人丁原が当然認識しているはずのものであるし、しかも、本件紹介書にはBに対するワーファリンのコントロールが難しいものであることが明示されていたのであるから、被控訴人丁原においては、BがA3に再入所した時点で、上記のワーファリンの投与量を調整すべき義務があったと認めるのが相当である。
なお、被控訴人丁原は、Bに対し、平成一四年一二月五日以降、タガメット及びイトリゾールの処方を中止する一方で、ワーファリンの処方を継続しているが、この時点においてもPT-INR値を測定するなどしてワーファリンの投与量を調整することをしていない。この措置はワーファリン添付文書の「併用注意(併用に注意すること)」の項の記載に反するものであり、この時点における被控訴人丁原の上記義務違反は明らかである。
カ 被控訴人らの主張について
(ア) 被控訴人らは、Bの再入所当時、ワーファリン投与量は共立病院において一/二錠に調整されていたから、被控訴人丁原において改めて投与量の調整を行う義務はないと主張し、その根拠として本件紹介書の記載を挙げる。しかし、本件紹介書の記載を上記の趣旨に読み取ることは到底できないというべきであり、他にワーファリン投与量が調整済みであったことを認めるに足りる証拠はないから、被控訴人らの主張は採用できない。
(イ) 被控訴人らは、Bは共立病院で症状が安定していたから退院したものであり、その症状はA3に再入所後も変化がなかったと指摘し、ワーファリンは出血性疾患の発症のリスクがあるから、安定した臨床症状に変化がない以上、増量の調整を行うことは考えられないと主張する。
しかし、平成八年適正使用情報によれば、患者の病態の変化は血液凝固能が不安定な時に考えられる原因の一つにすぎず、臨床症状に変化がないからといって、ワーファリンの調整(増量)をする必要がないことを述べるものではない。
BがA3に再入所した当時の〇・五mgというワーファリンの投与量は、ワーファリンの最小容量の錠剤である一mgの半分という僅少なものである。Bには肺血栓塞栓症の既往があり、臥床状態でもあるため、再発予防の目的でワーファリンが投与されていたことからすれば、〇・五mgという投与量が過少である可能性は否定できない。以上によれば、Bの臨床症状を前提としてもPT-INR値の測定の必要性は否定されないというべきであり、被控訴人らの主張は採用できない。
(ウ) 被控訴人らは、ワーファリンは副作用が強く、過剰投与により出血性の重篤な疾患を発症するリスクがあるから、投与量の調整はA3のような特別養護老人ホームでは困難であると主張する。
しかし、前医である共立病院のC医師が、本件紹介書をもって、A3の被控訴人丁原に対し、PT-INR値を測定してワーファリンの投与量を調整することを求めたことは先に見たとおりであって、C医師が、敢えて、特別養護老人ホームにおいて困難な検査をA3に求めたとは考えられない。よって、被控訴人らの上記主張は採用できない。
なお、仮にA3においてそれが困難であるというのであれば、ワーファリンの投与量調整の重要性に照らし、被控訴人丁原とすれば、Bに他の医療機関を受診させる機会を設けてこれを行うことを検討すべきであったというべきである。
(エ) なお、被控訴人らの提出する鑑定意見書には、出血の危険性等を考慮すればワーファリン増量の余地がないかのような記載があるが、本件における注意義務はワーファリンを無条件で増量すべきことを内容とするものではなく、投与量の調整のために血液凝固能検査(PT-INR値検査)を尽くし、適正量を調整すべきことを内容とするものであるから、同意見書の記載は上記認定の妨げになるものではない。
よって、被控訴人丁原のワーファリン投与量の調整義務の不存在をいう被控訴人らの主張は、いずれも採用することができない。
(2) 因果関係
ア 死亡との因果関係
Bは肺血栓塞栓症により死亡したものであるが、被控訴人丁原のワーファリン投与量調整義務の違反と死亡との因果関係が認められるためには、ワーファリンの投与量の調整により、Bの血栓の生成を回避し、又は血栓を溶解し、肺血栓塞栓症の発症を防ぐことができたことを要する。
これについて、控訴人らは、Bに対してはPT-INR値が二ないし二・五の範囲(治療域)になるようにワーファリンの投与量を調整すべきであったと主張する。しかし、《証拠略》によれば、ワーファリンの治療域の設定は経験的に決められてきたこと、一般的な治療域の設定についても文献によって多少の相違があることが認められるのであって、本件において、共立病院においてワーファリンの調整が困難であったBに対し、どのようにワーファリンを使用しておれば肺血栓塞栓症の発症を回避し、その死亡を免れることができたのかについては、これを的確に認めるに足る証拠がない。
以上によれば、被控訴人丁原がワーファリンの投与量を調整する義務を履行することによって、肺血栓塞栓症の発症を防ぐことができたとまでは認められず、死亡との因果関係は認められない。
イ 義務の履行による相当程度の生存可能性
(ア) 医師の過失ある医療行為と患者の死亡との間の因果関係の存在は証明されないけれども、医療水準にかなった医療が行われていたならば患者がその死亡の時点においてなお生存していた相当程度の可能性の存在が証明される場合には、医師は、患者が右可能性を侵害されたことによって被った損害を賠償すべき不法行為責任を負う(最高裁第二小法廷平成一二年九月二二日判決・民集五四巻七号二五七四頁)。そして、医師が適切な時機に医療水準にかなった医療行為をすれば、そのような適切な医療を行わなかった場合に比べて患者の健康を回復する方向で治療効果が上がるのが通常であるから、医師が過失によりそのような医療行為を行わなかった場合には、特段の事情がない限り、そのような適切な医療が行われていれば、患者が死亡の時点においてなお生存していた相当程度の可能性の存在を推認できるというべきである。
(イ) 被控訴人丁原は、Bに対し、PT-INR値を測定するなどしてワーファリンの投与量を調整する義務を負っていたにもかかわらずこれを怠り、Bは、平成一四年一二月二五日死亡したという経過からすれば、特段の事情がない限り、上記義務が履行されておれば、Bが一二月二五日の時点で生存していた相当程度の可能性があると推認できる。
(ウ) 被控訴人らの主張について
a 被控訴人らは、Bの摂食状態が悪化しており、また、Bは共立病院入院時にワーファリン投与の過剰効果が見られたことから、ワーファリンの投与量を増加することは考えられないと主張し、PT-INR値を測定してワーファリンの投与量を調整したとしても、Bの平成一四年一二月二五日の死亡の結果を回避できる可能性はないと主張する。
b 確かに、経口摂食の減少はPT-INR値の病的減少の原因の一つに挙げられているが、摂食状態の悪化が直ちにワーファリン投与量を現状から変更しないことの理由になるとは認め難い。また、共立病院に入院中のBにワーファリン投与の過剰効果が見られたことは被控訴人らの指摘のとおりであるが、その原因は併用されていた薬剤の投与及び平成一四年一〇月二日から同月一七日までのワーファリンの投与量(三mg)が原因である可能性があるばかりか、A3に再入所後のワーファリンの投与量が過少であった可能性があることは前記のとおりであるから、被控訴人らの上記主張は採用できない。
(エ) 以上によれば、被控訴人丁原が前記(1)の義務を尽くしていた場合にBが平成一四年一二月二五日の時点で生存していた相当程度の可能性の存在の推認を覆す特段の事情は認められない。
よって、被控訴人丁原が上記義務を履行していれば、Bは一二月二五日の時点で生存していた相当程度の可能性があると認められる。
(3) 弾性ストッキングを装着させなかった過失
当裁判所も、Bに弾性ストッキングを装着させなかったことを治療上の過失と評価することはできないと判断する。その理由は、以下のとおり補正するほか、原判決三二頁一行目から一四行目まで〈同六四頁四段一六行目~六五頁一段七行目〉のとおりであるので、これを引用する。
ア 三二頁四行目「そして」から六行目「に過ぎない。」まで〈同六四頁四段二二~二五行目〉を次のとおり改める。
「そして、本件(平成一四年一二月)以前に公刊されていた肺血栓塞栓症の予防に関する医学文献の中には、弾性ストッキングの着用に言及していないものがある。」
イ 三二頁七行目〈同二七行目〉「推奨される」の後に「又は治療法の一例として紹介される」を加える。
(4) 被控訴人A1の責任
ア 特別養護老人ホーム入所契約上の債務不履行
特別養護老人ホームの設備及び運営に関する基準(平成一一年三月三一日厚生省令四六号)二一条一項は、特別養護老人ホームの医師又は看護職員は、常に入所者の健康の状況に注意し、必要に応じて健康保持のための適切な措置を採らなければならないと定めているが、特別養護老人ホーム自体は医療機関と異なることからすると、特別養護老人ホームが入所者に対して適切な医療を提供する義務を負うとまでは認められない。
よって、被控訴人A1が、被控訴人丁原の前記注意義務違反により、入所契約上の債務不履行責任を負うとは認められない。
イ 社会福祉法二九条及び民法四四条一項の責任並びに使用者責任
社会福祉法人は社会福祉事業(医療行為は含まれない。社会福祉法二条一項ないし三項。)を行うことを目的とする法人であり、理事がその職務を行うについて他人に加えた損害を賠償する責任を負う。
被控訴人丁原には、前記(1)の過失が認められるが、同過失は配置医としての過失であって社会福祉事業の遂行上の過失とは認められない。そして、社会福祉法人は医療行為を行うものでないから、配置医としての上記過失を被控訴人A1の理事の職務上の過失と認めることもできない。
また、社会福祉事業を目的とする社会福祉法人が、配置医の医療行為に対して指揮監督をすることはできないから、被控訴人丁原が被控訴人A1の使用者であるとは認められない。
以上によれば、被控訴人A1が被控訴人丁原の過失行為を理由として社会福祉法二九条及び民法四四条一項に基づく責任、又は使用者責任を負うという控訴人らの主張は採用することができない。
(5) 損害
ア 被控訴人丁原の不法行為が前記のとおりBの生存の相当程度の可能性を侵害したものであることに照らすと、Bの損害は慰謝料及び弁護士費用に限られると解するのが相当であり、その余の費目(逸失利益及び葬儀費用)が損害に当たるとは認められない。
イ そこで、Bの慰謝料の額について検討するに、被控訴人丁原の義務違反は、ワーファリンの基本的かつ重要な注意事項とされるところに違反したものであること、本件紹介書に記載されたBの前医(C医師)の明示の指示にも反したものであったこと、その他本件に現れた一切の事情を考慮すると、その額は三〇〇万円をもって相当と認める。
ウ Bの相続に関する法定相続分は、控訴人Bが二分の一、控訴人B及び同Bが各六分の一であるから、控訴人Bは上記慰謝料のうち一五〇万円を、控訴人B及び同Bは上記のうちそれぞれ五〇万円を相続したと認められる。
また、弁護士費用については、控訴人Bの請求にかかる部分については一五万円、控訴人B及び同Bにかかる部分についてはそれぞれ五万円を被控訴人丁原の不法行為と相当因果関係のある損害と認める。
エ 以上によれば、控訴人Bは一六五万円(元本)を、控訴人B及び同Bはそれぞれ五五万円(元本)を被控訴人丁原に対して請求することができる。
第四 結論
以上によれば、控訴人らの被控訴人丁原に対する請求は、控訴人Bについては一六五万円及びこれに対する平成一四年一二月二五日から各支払済みまで民法所定年五分の割合による遅延損害金、控訴人B及び同Bについてはいずれも五五万円及び前同様の遅延損害金の支払を求める限度で理由があるから認容すべきであるが、控訴人らの被控訴人丁原に対するその余の請求及び被控訴人A1に対する請求はいずれも理由がないから棄却すべきである。
よって、原判決のうち被控訴人丁原に関する部分を上記の趣旨に変更し、その余の控訴(被控訴人A1に関する部分)は理由がないから棄却することとして、主文のとおり判決する。
(裁判長裁判官 川谷道郎 裁判官 木村哲彦 梅本幸作)


