4章 価値観を選択する社会

◆洗脳社会のキーワード

前章では、これからやってくる社会が「自由洗脳競争社会」であることを説明しました。では「自由洗脳競争社会」とは、具体的にどんな住み心地の社会なのでしょうか。

この章では「自由洗脳競争社会」の中で個人個人が幸福に生きる、とはどういうことかを中心に考えていきたいと思います。最初にこの章で述べることの結論だけを列記します。

▼洗脳社会での「個人のふるまい」には特徴が三つある。1. 他人を、その価値観で判断するということ。2. 価値観を共有する者同士がグループを形成するということ。3. 個人の中で複数の価値観をコーディネートするということ。
▼また、そういったふるまいの動機になっているのが、1章でも説明した「自分の気持ちが一番大事、という価値観」であるということ。
▼現在進行中の社会変化では「家族」「就職」「規則正しい生活」といった決まり事が失われ、人間関係の自由がさらに推進される。そしてそれらのことは、二度と元に戻らない「引き返せない楔」である、ということ。
順々にいきましょう。まず他人を、その価値観で判断するとはどういったことでしょうか。

◆人を「中身で判断する」とは

私が以前経営していた会社では、人間を学歴や地位、外見ではなく「その人のセンスや趣味・価値観」で判断していました。一見、立派そうに聞こえますね。では、その実態を説明してみましょう。

私の会社はアニメーションの製作会社でしたので、入社してくる人はおおむねそういった方面に興味のある人でした。新入社員であろうとバイトであろうとお客であろうと、新しい人が会社に入ってくると、周りからいっせいに「何が好きか?」を聞かれます。
アニメかマンガか特撮かSF小説か、から始まって、アニメならどんなジャンルのアニメか、だれが監督のアニメか、といった詳しいことや、自分でマンガやイ ラストは描くのか、プラモデルは作るのか、コミケというマンガ同人誌即売会に行くのか、といった活動まで根掘り葉掘り聞かれます。もちろんその質問の中に は、実際どのくらい詳しいかというテスト的要素も含まれています。
そうして社員たちは、「今度来たヤツは美少女系のマンガをホームベースにして、アイドルからパソゲー(パソコンゲーム)、アニメまで守備範囲は広いぞ」と か「東欧系の海外SFばっかり読んでる、ガチガチのSF野郎だ」とか位置づけて、まずは安心します。この時点でだれとは話が合いそうだ、とか、情報交換で きそうだ、とかいうことが分かるからです。
また、たまたまそういった方面に全く興味のない人が入ってきてしまうと、その人がゴルフやテニスがどんなに好きでも、麻雀ができなくても、お酒が飲めなくても、少々の金持ちでも、十把一からげで「普通の人」と分類されてしまいます。

こういうわけで「中身で分類する」というのは「外見で分類する」のに比べて、特に立派なことというわけではありません。その人の出身地や学歴、年齢、配偶者の有無、持ち家や車の有無で分類するのと同様、その人の人柄や本質を見ようとしてはいないからです。
「結婚していて子供もあり、家を持っている人だから信用できる」というのと同様、「翻訳SF三千冊読んでるから信用できる」という、別の意味で他人をステロタイプに当てはめる考え方なのです。
ちなみに、私の会社内でも、彼女がいるか、とかその人の実家が金持ちか、とか出身地がどこか、という「普通のこと」も話題にはなります。が、たとえば彼女 がいると分かった場合は、次に必ず聞かれるのは、その彼女は「普通の人か、アニメファンか」といったことです。実家が金持ちというのも「小遣いが多くて新 しいパソコンがどんどん買える」とか、「無理に就職しなくても親のコネでなんとでもなるから、サークル活動に割く時間がいっぱいある」というふうに翻訳さ れます。
「変な人たちだなぁ」と思われるかもしれません。つまり価値観や世界観が違う、とかいうのはこういうことなのです。
今、適齢期の人たちに「結婚相手の条件は?」と聞くと、必ず返ってくる「価値観の同じ人」というのも、これと同じです。「スキューバが好き」だけなら、単 なる趣味の一致です。しかし「有給を一日でも多く取ってスキューバに行く」なら、「人生は趣味のためにある」という価値観が一致しているわけですね。

◆価値観で判断される個人

自由経済社会では、他人をその人の持っている「モノ」で測りました。
たとえば、「一戸建てを持っている」とか「三十五歳になってもまだ社宅に住んでいる」「別荘がある」「ベンツに乗っている」「家にクーラーもカラーテレビ もない」「貯金が三千万ある」「家は二十五坪で2LDKだ」といった評価です。当然、自分自身についても「五百万貯金があって、もうすぐ一戸建て購入予定 のサラリーマン」というふうに考えます。
これと同様、自由洗脳社会ではどの価値観や世界観を選んでいるかで他人を測ります。
「子供の早期教育にすごく熱心だ」とか「犬を飼っていて、ものすごくかわいがっている」「無農薬野菜を共同購入している」「UFOマニアで、いつもヘンな 本を持って歩いている」「ろうけつ染めとウクレレと中国語とヨガのカルチャーセンターを掛け持ちしている」といった感じです。「モノ不足」の時代ですか ら、その人の外見ではなく中身で分類しようとする方向へ向かうわけですね。
さて、私は「どんな価値観を選ぶか」と言いました。「どんな価値観を持っているか」とは言いませんでした。それは洗脳社会において、価値観とは自分独自のものを持ったりするのではなく、消費者として選ぶからだ、と考えているからです。
「自由経済社会」において、大多数の人は消費者です。これと同様「自由洗脳社会」においては大多数の人は被洗脳者、つまりイメージ消費者なのです。です が、洗脳社会といっても、別にだれかに一方的に洗脳され続ける恐ろしい社会というわけではありません。自由経済社会がだれかに一方的に買わされ続けている わけではないのと同じことです。私たちが生産者側に回れるのと同じく、その人がやりたければ洗脳者側にも回れるのです。

ここまでをまとめてみます。
自由経済社会においては、何を買うかが最大の関心事でした。これと同様、自由洗脳社会では、豊富にある価値観や世界観、つまりイメージから何を選ぶかとい うのが最大関心事になります。そして人々はお互い、どんなイメージを選んだかで相手を値踏みするわけですね。そして、同じ価値観を持つ者同士がグループを 作り出します。

◆価値観共有グループ

朝や夕方、公園で行われている犬の飼い主同士の集会をご存じでしょうか。彼ら、彼女らはお互いの名前を知りません。が、お互いの犬の名は知っていて、「ジョンのパパ」とか「ハウザーのママ」とか呼び合って話をします。もちろん自分の犬の話です。
自慢話もあれば、心配事もあります。虫歯や病気からペットフードの良し悪し、予防注射の話まで、情報交換も盛んです。大型犬派、小型犬派、ペットフード 派、手作り派、室内かわいがり派、外で放し飼い派などなど、いろんな好みによって、さらに小さなサークルを形成しています。が、そこで共通しているのは 「世界はペットのためにある」と言わんばかりの勢いです。
ここでは、ペットに関するあらゆることが話されますし、ペット以外のことはほとんど話されません。別に彼らの人生がペットー筋なのではもちろんありません。実生活では仕事があったり家族があったり、他の趣味があったりの当たり前の人たちです。
ただ、彼らは「仕事や家族と同じくらい大切なペットの話を一番楽しくできる仲間が、その公園にはいる」ということを知っているだけなのです。会社の同僚や ペット好きでない家族には、ポチが叱られたときどんなふうに拗(す)ねるのか、聞きたい人が一人もいないことを知っているだけなのです。

こういった特殊な価値観や世界観を共有するためのグループは、徐々に増えつつあります。
エコロジー運動をしている人たちのグループでは、世界のあらゆる要素・出来事は「地球に優しいかどうか」で判断されます。世界中のあらゆる企業も政治家もタレントも、エコロジー運動に協力的かどうかが最重要ポイントになるわけです。
わが子を有名小学校へ入学させようとしているお母さんたちの集まりでは、もちろん世界は「お受験」一色。たった六歳にして、人生のすべては決まってしまうかのような勢いなのです。
また自然食を中心とした、自然健康法派閥の人たちも有名です。季節の野菜を中心とした食事の材料は、もちろん無農薬野菜。ジャンクフードや炭酸飲料なんて もってのほかです。そんな人たちのオピニオンリーダーは、「料理でも砂糖は使うな」とお母さんたちをアジる小児科の先生です。とにかく健康なら死んでも本 望という勢いですね。

◆ネチケット

3章で紹介したパソコン通信は、こういった価値観・世界観の見本市とも言えます。パソコン通信は、(通常)フォーラムというテーマごとのたくさんの 部屋に分かれていることはもう書きました。日本の最大ネットNIFTYのフォーラム数は約八百、そのフォーラムの中がそれぞれ十〜二十の会議室に分かれて います。
パソコン通信する人は、まずNIFTYに電話をかけて(アクセスするといいます)つながると、どのフォーラムを選ぶかを指示します。すると、そのフォーラ ムの会議室のリストが表示され、どれにするかをまた選びます。するとようやく、実際に読んだり書いたりできる状態となります。

それぞれのフォーラムには、それぞれそのテーマに興味を持つ人たちばかりが集まります。たとえばアニメーションフォーラムは、アニメが好きという人 たちばかりが集まります。アニメといってもいろいろあるので、その中が様々な会議室に分かれているわけですね。ジャンルごとだけでなく、人気アニメなら会 議室をまるまる一個もらえます。また、アニメの声優の人の話のみの会議室もあります。なつかしアニメというのもあります。
ここでは、アニメのあらゆることが話されます。しかも、あらかじめ自主的に自分の書きたいことがどの会議室にふさわしいかも判断して書き込まれているの で、見事に分類されています。間違っている場合は、ほかの人が注意してくれます。注意された人は、自分の失礼をわび、しかるべき会議室へ移ってから改めて その話題を始めます。

今いる会議室の人たちの方が気が合うから、といった理由でだらだらとそこで何もかも書いてしまう、ということは決してありません。そのルールがいか に厳密に、大切に守られているかは、各フォーラムごとにたいてい一つ、フリートーク専用の会議室がわざわざ設けられていることからも分かります。
フリートークの部屋以外では、各会議室のテーマに無関係なことを話すのはエチケット違反なのです。フリートークの部屋ですら、そのフォーラムになんらかの関連がある話題が大半を占めています。
もっと大きな特徴は、それぞれのフォーラムのテーマ、会議室のテーマの根本的否定が許されない点です。こちらの方はエチケッ卜どころか、重大なマナー違反 となります。たとえば、アニメーションフォーラムで「今のアニメはダメだ。昔のアニメは良かったのに」といった話題はOKです。
けれど「アニメなんて、もともとくだらない。百害あって一利なし。アニメ好きのオタクなんか軍隊で叩き直せ」という意見を、明治生まれのおじいさんが書き 込んだとします。これに対し、みんなが寄ってたかってアニメの素晴らしさ、自分の人生にとってのアニメの重要性を話すということはあり得ません。そうでは なくて、そういう方はこのフォーラムにはふさわしくないということで、丁重にお引きとり願うわけです。もうちょっと親切に、健康・教育といったフォーラム をご紹介するかもしれません。
このようなネットワークエチケット、「ネチケット」は大変大切に守られています。

こういったことは、会議室単位でもあります。たとえば人気TVアニメ『魔法陣グルグル』の会議室。これに対する様々な批判は、いっぱい書かれています。
いわく、「展開が遅い」「先週の作画は粗い」。
しかし、「あんなふざけたアニメのどこがいいか、全く分からない」という全面否定の意見は許容されません。そういう場合、友好的な彼らは「自分たちの好き なものを批判されるのはつらい」「好き、という気持ちをみんなもっと大切にしてあげよう」と口々に発表し合って、否定者をゆっくりと圏外へ追い出してしま います。このことからも明らかなように、フォーラムや会議室というのは、価値観・世界観を同じくするグループなのです。

◆二次文化集団

同人誌即売会においても、パソコン通信ほどではありませんが、同じような要素が見つけられます。ほとんどの同人誌は、「自分はこんなマンガが好き」「こんなアニメが好き」「こんなイラストが好き」という価値観を中心に作られています。
オリジナリティーがなくてもストーリーのつじつまが合わなくても、大丈夫なのです。プロでは絶対必要な、こういう要素よりも、先ほどの「好きだという気持ち」が優先されるわけです。
「好き」を自分自身や自分のグループ内で確認するために描く、という意味合いも強いのです。買う側も、描き手の「好き」と、自分の「好き」が重なる部分が あるものを探します。この作業は、フォーラムや会議室を選ぶのと同じような作業です。ただし、即売会の方は、より微妙で繊細な価値観の差を探すことになり ます。

これからの洗脳社会では、会社であれ他のグループであれ、そこ独特のこういった価値観や世界観を持つようになるでしょう。そういった特殊な価値観を 共有できる仲間を求めて、それぞれの人はグループを作るようになる、ともいえます(先ほどの私の会社は時代の先端の例です。当時は「オタク族」と呼ばれた りしました。が、現在こういった現象は特別珍しいことではありません)。
そして人々は、個人の中で複数の価値観を共存させ、コーディネートして、複数のグループに所属することになります。このような集団をトフラーは「二次文化 集団」と名付けました。また心理学者のC・トールは「個々の人々は共通の関心やサブ・グループの一員としての関係をもとにして親しい『親友型』の関係を身 につけるようになるだろう」とも言っています。

◆価値観並立の訓練

今の若者たちや子供たちは、いくつもの価値観を持つ訓練を受けています。
学校、いくつもの塾、お稽古ごと、クラブ、ボーイスカウトのような活動。時間ごとに区切られたグループは、それぞれ価値観が違います。学校は先生の言うこ とを聞くところ、塾は勉強のできる子が偉いところ、英会話教室は積極的に話す子が良いところ、絵画教室は人と違うことをするのが良いところ、ボーイスカウ トは人に親切にするのが良いところ、等々。

そのグループの中での立場も様々です。学校では目立たない子、塾では中の上の成績、水泳は結構得意、英会話教室はこの前入ったところなのでまだま だ、といった感じです。「近ごろの子供は、友達と遊ぶといってもファミコンをしていたり、一緒にTVを見ているだけで、一緒に遊んでいるという感じがしな い」などとよく言われます。が、彼らにしてみれば、一緒に遊ぶという漠然としたことなど逆に、できないのです。「一緒に遊ぶ」だけでは、共通の価値観が見 つけ出せないからです。
その点、ファミコン仲間なら大丈夫です。ファミコンがうまい子が偉い。負けるとすぐ投げやりになるのは、ダメなヤツ。新しいソフトをどんどん貸してくれる のは、いいヤツです。ファミコンが好きな子はそのグループに入って、そこで心ゆくまでファミコンを楽しめばいいし、嫌いな子はそのグループに入らなければ いいだけです。
友達だからやりたくない遊びにも付き合う、という発想は希薄になりました。
だいたい「親友」といった、オールマイティーの友達を求めたりできる環境ではなかったのです。塾やお稽古ごとで分断されている生活では、気に入った友達と ずっと同じ時間を過ごすこと自体不可能です。毎日近所で日が暮れるまで好きな子と遊んでいたころとは、人間関係や精神構造が違ってしまうのは当然ですね。

こうして子供たちは、小さいころから多種の環境に放り出されます。
彼らは、環境ごとの価値観(勉強、運動能力、芸術的才能など)を持つことになり、その環境ごとに自分のステータスが決定され、他人に対する接し方も変わります。こっちのサークルではリーダーだが、別のサークルでは目立たないヤツ、といった具合でしょうか。
複数の価値観と他人への接し方が、個人の中で共存している。つまり人格がやや、分裂しているわけですね。「人並みに豊かにならなければ」という強迫概念が日本の現代病とするならば、多重人格は来るべき社会の現代病といえるでしょう。

現在、この傾向はどんどん加速されています。その原因は、子供たちの母親がすでにそういった世代になりつつあり、無意識のうちに子供たちを訓練しているからです。
母親たちは、自分自身の時間を、家事・育児・パート・自分のカルチャーセンター・子供の習い事に付き合う時間・母親同士のおしゃべりの時間、等々に分断し ています。子供たちは小さいころから、そういった母親たちによって様々な環境に連れ回されます。その環境やグループの価値観をすばやくキャッチして、その 場に応じた行動をとれる子供が良い子なのです。
また、同時に子供たちは小さいころから、ある程度そういった環境やグループに対する選択権が認められています。子供がいやがるから、と習い事をやめさせた り、別の教室に行かせたりすることは普通のことです。同じ水泳教室でも、今行っているところはスパルタ式で子供がいやがるから、別の遊び中心のところへ変 えようと考えたりします。
このようにして子供たちは、いくつもの複数の価値観を併せ持つように訓練を積みつつあります。彼らは更に、自分の時間を自分の気持ちに合わせて、絶妙のバランスでコーディネートできるようになっていくわけです。

◆非就職型社会

ついさっき見たTVで、筑紫哲也が「女子大生の就職状況は今、超氷河時代だ」と言っていました。中高年のリストラという名の解雇も問題になっています。
九三年の年末、私は吉祥寺の駅前で親子連れのホームレスを目撃しました。小学校三年ぐらいの子供は『ドラえもん』などのマンガ単行本を地面で売っていました。
私は大学のほかに、美術系専門学校やコンピューターゲーム学校の学生たちとも付き合いがあります。彼らのいずれもが、「就職」ということに関して否定的です。就職に関して悲観的、なのではありません。できれば就職せずに暮らせればなぁ、と彼らは思っているのです。

景気の回復については、もう楽観的に語る人はいなくなりました。一つの国の繁栄とは、他国からの搾取の結果である、と知ってしまった私たちは、もう 経済的繁栄に何も期待していません。おそらくこの国では「慢性的な失業」が、きわめて当たり前なこととなるでしょう。労働時間の調整はますます進み、週休 三日もそう遠い話ではないはずです。
生涯を一つの企業で働く、ということが特殊になり、休日や余った時間はほかの団体で過ごすことが当たり前になるのでしょう。つまり子供だちと同じく、ビジ ネスマンも「それぞれが独自の価値観を持つ、複数の組織」に所属せざるを得なくなるのです。それらの組織は営利団体とは限りません。ボランティア人口の増 大は現在でも話題になっていますし、フリーマーケットはこの数年、倍々ゲームで増え続けています。

環境の変化は人間の認識に変化をもたらします。今現在も私たちは、多種多様な価値観と共存しながら暮らしています。最近話題になったカルト教団問題 にしても、これからはますますああいった問題が増えてくるでしょう。私たちはこのように、否応なく「洗脳社会」への準備を進めているわけです。

◆TPOで使い分ける価値観

では私たちは「それぞれが独自の価値観を持つ、複数の組織」といかに付き合うことになるのでしょうか。
こういった特殊な価値観のグループは、それぞれが無関係に「独立して存在している」というわけではありません。何度も説明したように、実際には一人の人が いくつも掛け持ちしているのです。一つの価値体系はそれなりに完成したモノなので、掛け持ちするということは、矛盾した価値観を併せ持つ、ということにな ります。
たとえば「正しいアニメファン」は、ペットなんか飼うべきではありません。そんな暇や手間やお金があったら、アニメにつぎ込むべきでしょう。もちろん麻雀もお酒もグルメもオシャレも、よくありません。
また「正しい自然健康派」は都会に住んでもいけないし、家にTVもファミコンもあってはいけません。脂肪過多の学校給食も感心しませんし、座学中心の学校 教育システム自体よくないに決まってます。自然派にとっての教育は「晴耕雨読」しかあり得ないのです。軟弱にも、家畜ではなくペットなんか飼っているとし たら、もちろんキャットフードなんてやってはいけません。

こう考えると分かる通り、基本的に一つの価値観は他の価値観を許容しません。そのため、本来は一つだけの価値観で人生のあらゆる事柄を決め、統一す るべきなのですが、実際問題として、それでは人生があまりにも幸せとかけ離れたものになってしまいます。自分が大変な変人になってしまい、ふつうの社会生 活すら難しくなっていきます。アニメファンでもおいしいものは食べたいし、エコロジストでもTVで野球を見ながらビールを飲みたいのは当たり前です。

そんなわけで、ほとんどの人は、場合場合によっていくつかの価値観・世界観を使い分けています。つまり、矛盾した複数の価値観を同時に持たざるを得 ない、とも言えます。これから社会の自由洗脳競争が進むにつれて、こうした価値観・世界観の種類はどんどん増え、細分化していくことになります。というの も、高度情報化社会の正体は、一つの事実を様々な価値観でとらえてみせるということだからです。つまり情報があふれている状況、というのは価値観があふれ ている状況だともいえます。

3章で私は、高度情報化社会・マルチメディア社会の本質を「情報ではなく、情報に対する解釈があふれる社会」と決めつけました。今世紀中盤を「モノ余り・人手不足の社会」と定義するならば、来るべき世界は「情報(に対する解釈)余り・資源(環境)不足の社会」なのです。
いうまでもなく、「情報に対しての解釈」とは価値観・世界観を意味します。「油まみれの海鳥」や「第7サティアンに入る機動隊とカナリヤ」に関して、私た ちは「どういう意味か」ばかりを求めました。マルチメディア社会の正体とは、豊富な情報ネットで莫大な量の価値観・世界観が流通する世界なのです。

◆分割される個人

これからは価値観の増加につれて、一つの価値観を共有するグループがいくつも生まれてきます。それは犬の散歩仲間だったり、カルチャーセンター仲間だったり、ある団体のボランティアスタッフの仲間だったり、様々です。
パソコンネッ卜の発達によって、ネット上のサークルという形を取る場合も多いでしょう。ネットで知り合った人同士、たまにどこかで待ち合わせて実際に話すこともあるでしょう。
逆にかつてボランティア仲間だった人たちが、ネット上で交流を続けたり、ということもあると思います。どんな形を取るにせよ、一つのグループが一つの価値 観やセンスを共有するためのものであることに変わりありません。そのグループ内でしか通じない話、そのグループ内でしかできない話をする、というのがグ ループの目的となり、暗黙の了解となるでしょう。
そういった価値観を複数持ち、そういったグループに複数所属することが、これからの生活スタイルの基本形です。
そうなると人生の大きなポイントは、「どんな」価値観を「どれくらいずつ」生活の中に取り入れるか、「どんな」グループに「どの程度の深さ」で所属するか、になります。

パソコン通信を利用する人は、ふつう複数のフォーラムを選択します。しかも、フォーラムを選択するごとに自分でハンドル名という呼び名を登録するこ とになっています。すべての書き込みは、このハンドル名でなされます。つまり他人から見れば、自分という人間はハンドル名の数だけ存在することになるわけ です。
当然フォーラムごとに違う名前で呼ばれるわけですし、各フォーラムごとに価値観も立場も違います。こうなると、自分の中にハンドル名の数だけの自分が存在していて、その総体が自分である、という混乱した状態になります。

ちなみにNIFTYでは入会するとすぐ、各自にIDという無味乾燥な記号が発行されます。このIDだけは、どのフォーラムに行っても共通で、ハンド ル名の後ろに明記することになっています。したがって、Aというフォーラムのハンドル名大猫さんと、Bというフォーラムのハンドル名コグマさんが同一人物 かどうかは、IDを照合すれば判断できます。が、ふつうはそんな面倒なことはしません。

自分が所属しているAというフォーラムの常連十人が、ほかのどのフォーラムに顔を出しているかを確認しようとすると、結構面倒な作業となります。仮に同一人物だと分かっても、それだけで結局その人が何歳か、男性か女性かすらも分からない場合が多いのです。
パソコソ通信の黎明期(れいめいき)には、カタカナしか使えなかった時代がありました。そんな時代のリアルタイム会議で「定年前の男性の愛人問題に、小学 生の男の子が相談に乗った」という伝説があります。本当かどうかは知りませんが、パソコン通信の特性を知っている者には妙にリアルに聞こえる話です。
ネット上では肉体的・社会的制約から完全に解放され、純粋に精神的存在たり得る、とも言えます。そうした純粋に精神的存在である自分を分割して、各フォーラムヘ振り分けるわけです。

◆洗脳社会での「自分」

自分自身に関するとらえ方も、そういった複数の価値観を併せ持つ者の総体として把握します。つまり自分という人間を、以下のように認識するわけです。
「えーと、SDLのボランティアスタッフとして結構頑張っている。アニメ研究会の会長で、夏冬のコミックマーケットには同人誌を出版している。猫を二匹 飼ってて、『吉祥寺猫の会』の新入りメンバーだ。アウトドア歴は結構長いぞ。メソバーたちとログハウスを共同購入していて、そこで月に一回、運営の例会が あるけど、このごろは面倒でさぼっている。コンピューターネットでは映像系、ペット系、アウトドア系は一通り押さえているし、環境破壊の会議室では副議長 もやっている」
また、複数の価値観といっても、それぞれに対してそれなりに賛同していなければなりませんし、全くメチャクチャでいいというわけでもありません。
それは自分の部屋のインテリアを考えたり、カラーコーディネートするようなものです。「基本はナチュラルカラー、アーリーアメリカンのテーストを少し入れ て」とか「モノトーンを基本にテクノな感じ、ポイントは銀で」といったコーディネートが大切なわけです。何もかも白だけの部屋では落ち着かないのと同様、 たった一つの価値観ではやっていけないわけですね。
自分の部屋は空間をコーディネートすることですが、自分の人生は時間をコーディネートすることです。どんな集団・組織にどれぐらい深く参加しているか、それ全体のバランスが自分だ、ということになります。

犬の散歩の時は自分の犬の話をし、他人の犬の話を聞き、愛情の深さや細やかさを競います。この「犬が好き」という価値観を一つの色にたとえましょう。ペットとの時間が赤とすると、アウトドア友の会との時間は黄色です。
この二つは並べてみると全然違う価値観を持っていて、そのグループ内でも全然違う立場や地位・役割を担っています。一つの集団・組織ごとに立場や世界観が違うわけですから、どうしてもこの人は多重人格じみてしまいます。
多重人格が現代病になってしまう、と言ったのはこういうわけです。近ごろ「多重人格もの」のノンフィクションが流行(はや)る原因もここにあるのではないか、と私は考えています。
「多重人格」が現代病になる、というのはそんなに悪いことなのでしょうか。私は「一人一人の自我が確立している」という、私たちの社会の大前提に比べると、そんなに悪いことのような気がしません。

◆狂っている「パパラギ」

二十世紀のはじめ、西サモアからツイアビという名の酋長(しゅうちょう)がヨーロッパを訪れ、産業文明に出合いました。彼の驚きは『パパラギ』とい う本の中に書かれています。ツイアビは彼の仲間たちに「パパラギ(白人のこと)たちは、気が狂っている」と何度も繰り返しました。
パパラギたちは石の箱の隙間(ビル)に住み、丸い金属と重たい紙(貨幣)を貴び、束になった紙(新聞)に書いてある知識で頭をいっぱいにする。パパラギたちは、考えるという重い病気にかかっているのだ。
あるいはそうなのかもしれません。私たちは、気が狂っているのでしょう。こんな本を書いたり、読んだりすること自体が、ツイアビの言う「考えるという重い病気」なのでしょう。その考えるという病気の中でも、最悪のものが「私とは何だろう」という答えのない悩みです。
近代的自我、という言葉があります。「神様なんか本当はいないんだ。自分たちの生き方は自分で考えるしかないんだ」という、近代になってから主流になった考え方です。
私たちの世界でも、他人の言うことにすぐ影響されたり、自分で物事を決められなかったりする人は「自我が確立していない」と責められます。自我とは他人からの拝借でない価値観をはっきり持っていること、だとも言えるでしょう。

さて、民主主義とは「自分の利益が何か、自分自身が一番知っている。だから自分の利益の代表を一人選んで、投票することができる」が前提です。資本主義や自由市場も「みんなが自分の利益が何かちゃんと分かっていて、それに向かって邁進する」ことを前提としています。
自分のやりたいことがはっきり分かっている、すなわち自分の価値観が確立しているということです。近代の社会が「一人一人の自我の確立」を前提にしている とは、こういう意味なのです。ところがこの「近代的自我」というヤツが、ツイアビの言う「考えるという重い病気」の典型例なんですね。「近代的自我」は私 たちにいつも、こうささやきます。
「自分のやるべきことは、全部自分で判断しなくてはならない。それが自分の利益につながる。だから君が現状に満足していないとするならば、それはだれのせ いでもなく君の責任なのだ。君が『近代的自我』を確立していないから、自分のやるべきことが判断できないのだ。だから、もっと考えなくちゃいけない。もっ ともっといろんなことを勉強して、新聞を読んで本を読んで、考えなきゃいけない」

私たちは知らず知らずのうちに、こんなことを教え込まれています。確かにこれじゃ、ツイアビたちに「考えるという重い病気」と言われるはずです。

◆「近代的自我」という呪縛からの解放

洗脳社会での「自我の在り方」は、こういったシンドさを軽減してくれます。今までの価値観から見れば「その場その場で価値観が変わる、いい加減なヤツ」であり「自分の意見がないヤツ」ばかりが目につくことになるでしょう。
現に「今の若者は、TVで聞いてきたようなことしか言わない。突っ込んで話して、その時は納得した顔をしても、別のところへ行くとまた違うことを言っている。彼らには自分の意見がないのか!」という批判がよく聞かれます。
でも、たった一つの価値観で人生を統一することは、実は不可能なのです。さっきも説明したように、現代では「今、自分がいる場所」によって自分の価値観や人格が変わらざるを得ません。
「近代的自我」とは、決して実現することのない絵に描いたモチだったんですね。
「自分の意見を持て」と言っているオジサンたちにしても、自分なりの一つの価値観で人生をビシッと統一している人など一人もいません。「自分はこうあるべ きだ」という気持ちと、「でも、こうなってしまった」という後悔の間を行ったり来たりしている、というのが本当のところでしょう。すると、「じゃあ本当の 自分とは何なんだ」という答えのない疑問がまた、始まるだけです。だから、オジサンたちはいつも難しい顔をしているのです。

こんなに価値観があふれている現在では、「自我の確立」なんかをしようとしたら大変なことになります。
「自分がどうあるべきか決めなくちゃいけない。よく分からないけど、とりあえず決めてみる。決めても、そうはなれない。そうなるように頑張らなくちゃいけ ないのか、こうあるべき自分を決め直さなきゃいけないのか、分からない。分からないけど、こうあるべき自分だけは決めなくちゃ。自分の意見は持たなく ちゃ」
これでは、自分はダメ人間と思う以外、道はありません。不幸への道まっしぐらです。「自分の意見を持たなくちゃ」という考え方から解放されさえしたら、こんな悩みはなくなるのです。

三つ子の魂百まで、でオジサンたちは「自分の考えを持たなくちゃ」という強固な思い込みが捨てられません。ですからオジサンたちは、価値観が多様化 してきている現代になじめず、眉をひそめます。そして、会社に行こうが遊びに行こうが犬の散歩に行こうが、お構いなしに自分の意見を述べて浮いてしまいま す。「自分の意見・自分らしさ」というたった一つの色しか持っていないからです。
これからの洗脳社会で幸せに生きていくためには、軽やかに色を変える能力が一番大切になってきます。
まだまだ生き残っているマスコミの意見、洗脳社会でどんどん台頭してくるイメージリーダーたちの意見、身近な知り合いの意見、パソコン通信で知り合った人の意見等々。
様々な価値観があふれる中で、自分の気分や状況、立場、好み等々によって、いくつかの価値観を選択すること。そして、同じ価値観のグループに参加すること。そうすることで、自分の中に新しい人格をつくって楽しむこと。これこそ洗脳時代の醍醐味といえます。
その一つ一つの価値観の中には、「いわゆる」なものがあっても、だれか有名人の物まねがあってもいいのです。それよりも全体として自分の感性に合うよう に、その価値観の種類や深さや時間をコーディネートすること、いくつもの人格を持ち、自分なりに使い分けることが大切なわけです。
こうやって近代的自我を葬ったからには、「自分独自の意見・見解」は持てなくなってしまいます。「最近の若者には『好み』はあっても『信念』がない」と言 われる理由は、これでお分かりいただけたと思います(ところで言っておきますが、「洗脳社会では軽やかに価値観を変える」といっても悩みがなくなるわけで はありません。「人間は何のために生きているんだ」「私って一体、何?」なんていう何千年もメジャーな悩みは、決してなくならないでしょう。ご安心を)。

◆「自分の気持ち」至上主義

さて、こうした社会での行動力の源は「自分の気持ち」です。つまり自分の好き嫌い、合う合わない、おもしろい、やってみたいという気持ちなのです。 この気持ちがなければ、コーディネートのしようがありません。だからこそ、今の若者のキーワードは「自分の気持ちを大切にしたい」というわけですね。
この考え方に対して、一世代前の近代人たちは「ワガママ」「いい加減」「覇気がない」と一喝します。近代人の行動力の源は「ハングリー精神」です。もっと 金持ちになりたい、もっと出世したい、という「欲」が大切だったわけです。もっと正確にいうと、落ちこぼれたくない、ダメ人間で終わりたくない、という不 安やあせりの心が人々を動かしていたといえます。
中世の人から見れば、犬畜生のような業(ごう)の固まりの生き方ですね。が、近代ではこの欲がある人の方が生き生きと暮らせたことも事実です。

同様に、これからの自由洗脳社会では自分の気持ち、つまりワガママが大切です。自分の気持ちのはっきりしている人は、生き生きと暮らせます。いかにして、合法的に欲しいモノを手に入れるかと同様、いかにして社会の中で平和にワガママを通すかが勝負ともいえます。
そのためには、自分のワガママを通す代わりに他人のワガママを認める、という考え方が必要です。自分の財産の権利を認めてもらうためには、他人の財産の権利を認めるという社会的システムが必要なのと同じことです。
ですから今の若者たちは、たとえ友達であっても自分とセンスや価値観が違う部分を責めたり、無理に変えさせようとしたりは絶対にしません。そんなことは、最も卑しむべき行為です。
自由経済社会となって、だれもがお金を得るために一生懸命になった結果、世の中は泥棒だらけになったでしょうか。決してそうはならず、泥棒は卑しむべき行為とされました。
同様に洗脳社会というと、薬を飲まされたり暗い部屋に閉じ込められたりが横行するのかと考えてしまいがちですが、そういった強制洗脳は最も卑しむべき行為とされるでしょう。

それでは、平和に自分のワガママを通し、相手のワガママを認めるとどうなるでしょうか。
仮に、彼女は自分と一時間だけ話したい、自分は彼女と二時間話したいとします。双方が話したいと思っている時間は一時間だけですから、この小さい方に合わ せるわけです。自分は彼女とあと一時間話したいと思っていても、彼女はそうではないのです。その気持ちを尊重することが、彼女のワガママも認めることで す。あとの一時間は、別の人と別のことをすればいいのですから。

近代人から見れば、熱くなって議論しない彼らは、情熱がない、分かり合おうとしない、友達甲斐のない奴らです。
が、彼らは相手のセンスや価値観を尊重しているだけなのです。
このような態度は、パソコン通信の世界では特に顕著です。パソコンネット上では、その会議室内で会議室のテーマを全面否定するような発言は受け入れられま せん。決して論議しようとはせず、追い出してしまうのです。これも、自分たちのセンスや価値観を尊重するがゆえの行為です。

また近代人たちから見れば、どこかで聞いたような意見ばかり言う彼らは、自分の意見のない、いつまでたっても大人になれない未熟な人たちです。
が、中世の人々から見れば、他人が作った服を着、他人が育てた野菜を食べ、他人が殺した肉を食べ、他人が建てた家に住む近代の人々は、自分のことが自分でできない、いつまでたっても大人になれない怠惰な人たちでしかないでしょう。それと同じことなのです。
パラダイムが変わってしまったら、その向こうの人たちを理解するには大変な努力を要します。自分たちの価値観だけで相手を推し量ってはいけませんね。

◆求められる「洗脳商品」

さて、ここまでで「様々な価値観やイメージ、センスがあふれるこれからの洗脳社会では、洗脳消費者たちがそれを常に複数選択してコーディネートし、『自分の気持ち』を満たしていく」という仕組みを説明しました。
では、こういった洗脳消費者たちのニーズに合った洗脳イメージ、価値観とはどんなものでしょうか。言い換えればどんな「洗脳商品」が、これからは必要とされているのでしょうか。

一つ目は用途が限定されていて、分かりやすいことです。

たとえば刃物より包丁、包丁よりパン切り包丁の方が何に使うか分かりやすいわけです。同じように価値観やイメージも極端で、ある場面でしか使えないけど、その分単純で分かりやすい方が消費しやすいといえます。
人生論より恋愛論、恋愛論より失恋論、失恋論より離婚女の世界観の方が、より専門化され、利用しやすくなっています。
また、分かりやすいためには極論が必要です。離婚女の世界観では「離婚して初めて本当の恋愛ができるようになる。本当の男の値打ちが分かるようになる。本 当の人生が歩めるようになる。離婚を経験してない人間なんて半人前よ」といった、「決めつけ」と「勢い」が必要です。この極論が問題を分かりやすくすると 同時に、専門化させるわけです。

二つ目はキャラクター、つまりその価値観をだれが提唱しているかです。
近代では、大手メーカーの売っている電化製品は、三流メーカーのものより高くても売れました。洗脳社会においては、離婚女の世界観は見ず知らずのエッセイ ストが書くよりも、先日離婚した有名女性キャスターが書いたものの方が圧倒的に支持されます。もちろん、たとえ内容が同じであってもです。
逆に、身近な友達が考えた価値観を取り入れるというようなことはほとんどしません。だいたい自分で価値観をつくる人など、ほとんどいないでしょう。近代では自分で作った服を着たり、友達の作った服を欲しがったりする人が珍しいのと同じことです。

◆洗脳消費者たち

友達同士では、その服がどこでいくらで売っていたのかを話題にするように、その価値観はだれがどんな媒体で発言していたのかを話題にすることになり ます。同じようなスーツがデパートではいくらで売っていたよ、と情報交換するように、同じ離婚論ならあの番組に出ているこの人の方がおもしろいよ、という ふうに情報交換します。
そういった価値観をいかにうまく無理なくコーディネートしているか、が友達同士の間での評価の対象になったりもします。話題が変わるたび別の人の別の考え方を持ち出してきて、それがいつもおもしろい、というのがセンスのいい人というわけです。
自分の意見、自分の価値観を全部自分でつくり出すことは、情報があふれたこの洗脳社会では不可能です。モノがあふれた近代で、衣食住すべてに関して自分でまかなうことが不可能なのと同じことです。
近代人が様々な店に行って必需品を買いそろえるように、これからの人々は様々な価値観やセンスを持つ様々なグループと接したり、パソコソネットで話したり、TVで見たり、本で読んだりすることで、自分の心に必要な喜怒哀楽を取りそろえるのです。
それは帰属意識であったり、優越感であったり、知的興奮であったり、楽しい恋愛ゲームであったり、ちょっとした闘争心であったり、様々です。
たとえば、私たちがスカッとするためにアクション映画を見に行くようなことが、生活のあらゆる面で行われると考えてください。スカッとしたい、ほのぼのし たい、熱血したい、しんみりしたい、等々。彼らが「大切にしたい」と考えている「自分の気持ち」というのは、こういったものの総体です。

この「自分の気持ち」の奥には、すべての人間の行動原理となる不安が隠されていることは言うまでもありません。それは孤独感であったり、疎外感であったり、劣等感であったり、といったどうしようもないものです。
近代人が肉体の求める食欲とさほど関係なく、自分の好みで朝昼晩の食事を決めるように、洗脳社会の人々は毎日の生活を、そういった「自分の気持ち」つまり不安を満たすためにコーディネートします。
好きなものばかり食べて体を壊す人がいるように、これからの人たちは、たとえばオカルトマニアが過ぎて心を壊す人が出るようになるでしょう。栄養バランスを考えた食事が大切なように、精神バランスを考えたコーディネートが大切になります。

私たち近代人は知り合いがどんな人間か知るために、服装や車や癖などに注目します。家へ遊びに行ったり、遊びの話を聞いたりして、それとなく相手を理解しようとするのです。では洗脳社会では、どうやって相手のことを理解するのでしょうか。
人間関係が目的別に分断されている洗脳社会においては、相手の全部どころか、ほかのどんなグループに属しているかを知ることすら難しいでしょう。それは同時に、自分にとっての「特別な人」という意味がどんどん薄れていくことでもあります。
つまり、恋愛・結婚・家族・仕事といったあらゆる人間関係が、今までのように特定の人に限定されなくなるということです。
仕事に関しては前にも述べたように、複数のグループに所属することになるでしょう。その内容も、お金のためのバイトや好きでやってるボランティア、勉強のつもりの見習いなど、様々です。

◆「結婚」の解体

が、もっと注目すべきなのは、結婚・家庭の崩壊です。
アッシー君、ミツグ君の例を出すまでもありません。一緒に食事をして楽しい人、一緒に遊園地へ行って楽しい人、一緒にホテルに行って楽しい人、一緒にショッピングして楽しい人、一緒に喫茶店で話して楽しい人。みんな違っていて当然です。
それらをすべてひっくるめて一人の恋人という形に詰め込むと、不都合がいくつも出てきます。
自分の都合のよい時間がいつも、相手にも都合がよいわけではない。すべての趣味が合うわけでもない。恋人という言葉のために、無数の無理を重ねることになるわけです。「恋人」という、特定の人の存在が失われつつあると言えましょう。
こう書くと、「性の乱れが」と考える人もいるでしょう。が、今までの社会システムや約束事が崩れるだけで、別に今までより性が乱れるわけではありません。 ただし「女は貞操を守るべきだ」という女性側の思い込みも、同時に崩れてきています。そこの部分の現象のみをクローズアップすれば、確かに性は乱れてくる と言えるかもしれませんね。
さらに、洗脳社会は「結婚」という制度も無実化します。結婚とは社会的・法的に外部から規定されたシステムです。その中で「夫」「妻」といった特別の存在 が失われつつあること、結婚というシステム自体が有名無実化しつつあることは、まだ社会問題としてとらえられてはいません。
しかし、その前兆はいくつも挙げられます。一つは成田離婚に代表される早期離婚や、結婚直前の婚約破棄。一つは定年退職後の熟年離婚。もう一つは未婚の母の増加。
特にアメリカでは社会的地位の高いキャリアウーマンたちが、精子バンクから精子を取り寄せ人工授精して子供を産む、というケースが急増しています。
「子供は欲しいけど結婚はしたくない。あとで金銭や親権のことで揉めるのもいやだから」、という理由です。これなどは、結婚という社会的・法的システムを完全に否定した一つの実例です。

「生涯の伴侶」という漠然とした人間関係で、人生の半分以上を特定の人と一緒に暮らす、ということは洗脳社会では無理がありすぎます。
家に帰ったとき迎えてほしい人。生計を共にして、力を合わせてマンションを買いたい人。子供を一緒に育てたい人。子供が手を離れたら一緒に遊びたい人。年老いてからゆっくり二人の時間を過ごしたい人。
すべて同じ人というわけにはいかなくなってしまうでしょう。

◆「家族」の解体

このように、結婚観自体が揺らぎつつある現在、親子の関係にも影響を及ぼさないはずはありません。現在の日本の状況では、女としての貞操観念が希薄になりつつある女性たちも、母としての義務感に関してはまだまだ強固に持っている人が大多数です。
したがって、たとえ離婚してもわが子は自分の手で、と考えるお母さんがほとんどで、気持ちの上でも親子の関係は夫婦関係のように破綻しているようには見えません。ただその内実は、かなり苦しいものになりつつあります。
仕事でほとんど帰らない夫を待ちながら、マンションで子供と二人きり三人きりの生活を強いられ、育児ノイローゼになったり幼児虐待に走ったりする若いお母さんたちが急増しています。
逆に子供が大きくなっても、子離れできないお母さんたちも増えています。マザコンというのは、大きくなった自分の子供を自分とは別の存在として扱えないお母さんに責任の一端があるかもしれません。
いずれにせよ解決方法は、お母さんも自分の趣味を持ったり、友達をつくったりすることだといわれています。

実際その通りです。
彼女たちは一日二十四時間、「良いお母さん」というたった一つの価値観に縛られて生きているために、苦しなっているのです。「良いお母さん」の義務は、生 活の中でどんどん激化します。よそのよりおしゃべりが遅れている。よその子より怒りっぽい。すぐ泣く。走るのが遅い。お友達と上手に遊べない。成績が悪 い。
小さなことで一喜一憂して、ヘトヘトになってしまうのです。
当然、母親たちも複数の価値観やグループを選択して、心のバランスを取らざるを得なくなります。その一番手軽で罪の意識を持たずにできることが、子供に習 い事をさせる、ということです。子供が習い事をしている間、母親は待っているお母さん同士おしゃべりしたり、買い物したりして、良いお母さん」であり続け る0プレッシャーから逃れられます。
子供が手を離れると、お母さんはパートに出たり、カルチャーセンターに出かけたりして、ようやく複数のグループに所属するという、人間らしい生活を手に入れられるわけですね。

このように、これからの人間関係は広く浅く、が基本になります。と同時にその中から、自分と環境・価値観やセンスの合っている人を選び出して付き合うようになります。
趣味や価値観だけでなく、結婚しているか、子供がいるか、収入はどれくらいか、可処分所得はどれくらいか、といったことも大切です。そういったことがぴったり合う仲間同士は、なんといっても有意義な情報交換が可能ですし、最も楽しく気を使わずに付き合える間柄です。
それに比べ、血がつながっている、一緒に住んでいる、同じ学校だ、同じ会社だ、といった理由だけで付き合うのは無理があります。そんなことをしてもお互い疲れるだけで、得るものは少ないでしょう。
付き合いたい人とだけ付き合うという「ワガママ」が、良いことになるのです。「人間らしい幸せな生き方」とは、ちゃんと自分に合った人たちのグループをい くつも見つけ、自分の時間をうまくコーディネートしている人のことです。同時にそういった人が周りから見ればカッコイイ人、自分を大切にする人になるわけ です。

そうなるためには、従来の関係に縛られているわけにはいきません。親子だから、夫婦だから、上司だから、部下だから、クラスメートだから、という特別の関係の中で留まってはいられないでしょう。
そういった安定して継続的な人間関係は、永久に失われてしまいます。いったん結婚したら、少々相手に不満があっても互いに努力して歩み寄りながら結婚生活 を築く、なんてことは昔話になりつつあります。自分が何をしても自分のそばに寄り添ってくれるだれかがいてくれる、という安心感は失われてしまい、二度と 還らないでしょう。
その代わりに私たちが手に入れるのは、その時その時にとってベストの、一緒にいる人を見つける自由です。他人に関係を束縛されない自由です。

自由で束縛されないということは、常に不安定で、意識していないと失ってしまうということです。私たちはいくつもの人間関係を維持し、自分にとって心地よい距離に保つために、いつも気を使い忙しくしていることになるでしょう。
たとえば高校時代の親友と常に友情を保つためには、努力が必要です。住む場所も社会的環境も変わると、よほど意識しない限り、お互い音信不通になってしまいます。月一回電話する、年一回お正月には会うといった取り決めでもしない限り、関係を維持することは難しいでしょう。

将来、私たちの(電子?)手帳はそういった付き合いを維持するための取り決めで、スケジュール表がぎっしり埋まってしまうこととなるでしょう。それはついこの前まで、給料はもちろん今度のボーナスまで、何に使うのかの予定をびっしり決めていたのと同じことです。
それでもあと一万円あったら××が買えるのに、と考えていたのと同様、あと一時間あったら○○の集まりにも行けるのに、と考えていることでしょう。
こういった取り決めは、たとえ家族であっても必要となります。お互いに忙しくて、様々な人と会ったり電話したりパソコン通信したりしていて、そのままで は、気がつくと一年に一度も顔を合わせないまま過ごしてしまうほど、家族の絆は薄くなるでしょう。そうなると逆に、お互いの誕生日には必ず一緒に食事をす るだの、毎月三日は一緒に過ごすだの、お正月三箇日は必ず家で寝るだの、家によって様々な約束事が交わされるでしょう。
それは、そういったアポイントなしに、自然に家族全員が一緒にいること自体がなくなってしまうことでもあります。

かつて人間は農耕社会において、大家族で生活していました。そこにはおおらかな人間関係が存在し、みんなが力を合わせて農作業に取り組んでいたでしょう。
そこでは老人も子供も身障者も「同じ一族」ということで、常に居場所が設けられていました。が、近代社会になって人々は、そういった大家族や土地を捨てました。そうして、職業や住む場所を選ぶ権利を手に入れたのです。
現在それと同様の、大きな変化が起こりつつあります。
私たちは、家族や会社・学校といった既存の安定したグループに所属していることを放棄しつつあります。その変化の中で、私たちはかつてのような人間関係を 永遠に失いつつあります。しかしその結果、私たちは「何ものにも自分の人生を縛られない」という自由を得ることになるでしょう。
ひょっとしたら、それは高すぎる買い物かもしれません。しかしそれは、核家族で子供の数も少ない現代、大切に育てられた私たちが、ひ弱になった心のまま幸せに生きていく唯一の方法なのです。


私たちはこのように、かつて人々が親しんできた多くのものを失おうとしており、そして一方で、否応なく未知の多くのものを得ようとしています。同時代のだ れも経験したことのないスケールの不安と不安定、とてつもない自由のまっただ中に放り出されている、と言い換えてもいいかもしれません。
そんな今の私たちは、「何ものにも縛られない自分の未来」を、一体どんな心情で迎えていこうとしているのでしょうか。
それが、次の最終章のテーマです。