コーおじさんの種まきブログ

定年の随筆集「農、教育、人生ーコーおじさんの七転八倒半生記ー」のその後、スローライフ協会の五つの種まきと松阪農業公園ベルファームのできごと、また人生についての「つぶやき」を、月に数回程度を目処に書いていきたいと思っています。ご意見・感想をいただける場合にはkohara@xf6.so-net.ne.jpへお願いします。

こもれび広場のリニューアルオープンー水鉄砲遊び

 三重スローライフ協会竹遊倶楽部では2015年からベルファームの竹林をお借りしての竹林整備とこもれび広場での竹炭作りや竹細工をしてきました。暑い夏場は直射日光が遮られ、鬼ケ窪池からのそよ風が素敵な場所なのでもっと来園者に利用してもらいたいと今年に入ってから広場の整備を進めてきました。

作業場と憩いの場所を分ける竹柵を作り、憩いの場所には赤い瓦チップを敷き詰めました。3年前の台風で折れたままになっていた枝も先日(7/19)新しく入会してくれた中井さんの友達が高所作業車を使い取り払ってくれました。

夏場ベルファームで一番涼しい場所ではないかと自負していますので来園者の方のお越しを待っています。竹遊倶楽部に入りたい方も歓迎です。 

 リニューアル・オープンの中身は「竹製品の展示と竹水鉄砲・竹コッポリ遊び」

8910-12時、ベルファーム西門脇のこもれび広場(雨天中止)

先着20名程度、参加費小学生以上ひとり200(幼稚園以下無料

受付はベルファーム事務にて。人数に余裕あれば当日現地で可

として一週間前にベルファームのホームページに載せてもらいましたが、三重県に置いてもコロナ感染者が拡大してきていることもあり、マスク着用、アルコール消毒、三密を避けるを徹底して行いました。
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 (入り口のアルコール消毒とテーブル・椅子の準備)

 竹仲間は12名8時過ぎから集まってくれてテーブルと椅子を用意し、ワンセット分はベルファームからお借りして、私たちの竹製品を展示すると共にこもれび広場の一角を水鉄砲遊びのコーナーとしました。
10時から12時ころまで都合4家族が来てくれて、竹コッポリより水鉄砲が人気で楽しく遊んでくれました。30-40人分は用意した冷たいしそジュースも喜んでもらえました。しそサワージュースは自宅で赤紫蘇を煮出して三温糖を加え米酢で鮮やかにしたものにその場で氷水とサイダーを加えて作りました。
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 (竹製品の展示と水鉄砲の水を見事に的に当てた凱土くん)
 竹の展示品は北村さんと笹原さんが作られた「うかし彫」と中西さんの作った「竹灯籠用の透かし彫り」が人気でした。他に甲田さんの竹風車、向川さんのお母さんが作った草履、そして私が作っている竹靴べらやスクレーパー、竹箸なども展示して、仲間内でも欲しい物があればお代をカンパにしました。
 久しぶりに12名の竹遊倶楽部の仲間が集ったので、いつもの紅工房さんに私たちの竹林整備で収穫した筍を使った弁当を作ってもらい交流も深めました。
 

参加費を含め収益はすべてコロナ禍及び令和二年西日本豪雨の寄付金にします。
との案内もしていましたが、参加費、竹製品等のお代、お昼弁当分のカンパなどで合計4300円が集まりました。これに竹遊倶楽部と私からも足して、とりあえず今回は令和二年7月西日本豪雨義援金として日赤に届けたいと思います。みなさんのご協力ありがとうございました。
 またお昼過ぎあいさつをお願いしていた岩森社長が芝刈りの仕事に時間がかかり遅れたとのことで倶楽部の仲間用にスイカを差し入れてくれました。同じく芝刈りをしていて少し体調を崩されたという廣畑園長も駆けつけてくれて一声お礼を言っていただき、いいつながりができました。

☆赤瓦チップが敷き詰めた「こもれび広場」はオープン後はスタッフがいなくても、ご自由にお使いください。またこもれび広場や竹のことで質問等があれば下記まで連絡ください。

三重スローライフ協会竹遊倶楽部、連絡先オオハラ090-5030-2614、ササハラ090-1622-8555

 

 

こもれび広場のリニューアルの完成

 これまでこもれびの森全体を竹遊倶楽部で使わせてもらっていたが、夏場は暑い太陽が木々で防がれとてもいい環境の場所であるので、来園者にもっと利用してもらいたいと思い、環境改善に手を付けることとなった。2019年の11月後半からこもれびの森のこんにゃく畑との簡単な竹柵の更新をするとともに、北村さんの植木職人技術を活かしてもらって竹遊舎や炭窯の手前にバージョンアップした竹柵を作り、入口の部分にも竹柵を追加した。
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 さらに、その間に瓦のリサイクルである赤瓦チップを万縁株式会社から購入して敷きつめ、古い木のテーブル・イスもグラインダーなどで汚れを磨き、竹酢液で防腐し、ぎりぎり年度内の3月29日に完成した。20人くらいならいつでも座ってもらって、弁当を食べたり、鬼ケ窪池に集う鳥たちを見ることができるようになった。
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 4月にはコロナ禍により緊急事態宣言が全国的にだされるなどなかなかお客さんも少ない状況がつづいてきた。宣言が解除されても長い梅雨などでなかなか使ってもらえる状況にも至らなかった。
 そうこうしている時に、7/19に最近竹遊倶楽部に入ってくれた美濃田区の中井さんの友達が高所作業車を持ってきてくれて2017年秋の台風で太い枝が倒れて隣の木の股に引っかかったままになっていた枝を切り落とし、周辺の枯れ枝も払ってもらった。強い風が吹くと太い枝が落下してくる危険性があったので、「頭上注意」の案内板を取り付けていたのですが、これでそれを取り外すことができるようになりました。
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 今年の梅雨明けはこの分では8月にずれ込みそうです。7/26のサロンフィリアの時にこもれび広場のリニューアルオープンの相談をしたのですが、竹水鉄砲など竹細工の遊びを含めて8/9日曜日に小さなイベントをすることになりました。昔少年、心は今も少年の70-80歳のメンバーは竹を使った遊びや楽器などの話に盛り上がりました。さて、8/9にどんなイベントができるのか楽しみです。


農産物仕入の難しさー施設への姉訪問ついでの一仕事

 介護施設に入居している姉に会いに奈良へ行った。三密が避けられないこの種の施設ではコロナが蔓延してから家族でも面会謝絶が続いていました。7月からようやく訪問が可能になったので7/15に行ってきたのです。
 せっかく出かけるのでそこから小一時間で行ける先日視察訪問したJA紀の里の農産物直売所「めっけもん広場」に立ち寄って農家市場で売れそうなお値打ちの桃を仕入れてくることになりました。

(ここまで書いて10日あまりが経ってしまいました)
直売所は9時からオープンなのでその前に到着するつもりだったのですが、朝の出掛けに時間がかかってしまい、着いたのが9時20分頃、すでに第一駐車場は満杯で道路に何十メートルも車が並んでいました。買い出しに来たので離れている駐車場では無理と思い、並んで待つことにしました。やがて入場の番になりましたが多くの人が桃目当てなので、一箱1000円から7000円程度まである中で、お値打ちのものはあっという間に売れていきます。ベルファームでは一箱が千円程度のものしか売れていかないだろうというアドバイスあったので何とかベルファーム用の5箱確保して、竹の仲間等への入用は道の駅かつらぎ等で求めました。

昼前にグループホーム橿原に行かねばならなかったので忙しい買い物でした。もう十回近く来ているのに今回のように混んだのは初めてで、スタッフの一にお聞きすると水曜日は特に人が多いとかでした。
いい経験になりました。

さて、半年ぶりに訪問した姉は思いの外元気で、外に連れ出した昼食も楽しみ食べてくれました。
自分自身が随分と劣化してきているので他人の後見でもないのですが、甥が自信を持つまでもう少しの辛抱かと思っています。
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健康青竹を作ってみる

視察でスタッフから求められた健康青竹は、7/2にある程度の素材づくりの準備ができ、素材と工具を持ち帰り、7/4,7/5と自宅でさらに炙りとつやだしをして形を整え、最後に竹の接地面に両面テープで松阪木綿を切って貼り付け仕上げとした。かなり前から一つ作ってあったのだが、今回少し山が高い状態で作ってみたのが上手く足裏にフィットして気持ちがいい。洗面台の前において歯磨き時に乗ってみると塩梅がいい。

20200705200410_p仕上がった健康青竹

廃油缶の油汚れとの格闘

 スローライフ活動のスタート地点から廃食油のリサイクルを始め、回収拠点はキハタトレーディングの社長が立ててくれたログハウスを「くるくるえこ家」と名付けた場所にある。園内はもちろん近隣の人やたまには遠くからの来園者も廃食油を持ち込んでくれている。

 さて、長い間懸案だった廃油缶のフタ掃除の目処が7/8ようやく付きました。数種類の薬剤を試してみましたが、ウルトラバードあるいはウルトラオレンジが常温でも取れやすいです。ネットで見たセスキ炭酸ソーダも使ってみるとかなりいけます。こちらは値段が安いのでうまく組み合わせればいいかと思っています。
 あと7個残っていた廃油缶の掃除も7/10に終了できました。といっても利用者の方が蓋をとって入れやすいようにフタの周りのみです。サイド部分の汚れはまた機会を見てやります。昨年は腱板修復手術をして一年間はリハビリだったので、力を入れないと拭い取れない汚れ落としは無理だったのですが、痛いと言いながらも竹細工がリハビリで筋力の強化に繋がりました。
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 掃除再開の時点で廃油缶は16個にもなっていたのですが、2缶はエコ家の裏に予備としておき、さらに2缶は竹遊工房の軒下におくことにしました。(7/11)

桃の産地への視察から

 コロナ禍で今年はなかなか視察にも行けなかったのですが、7/1社内の希望者を募って和歌山の紀の川へ視察に行ってきました。ハイエース満員の十人、私はお茶とコーヒーと少しの菓子を用意して道中を楽しんでもらうことにしました。
 社長自らが探し出してくれた視察コースに従って、最初は和歌山県紀の川市桃山町市場の「あら川第一桃生産組合(農事組合法人)直売所 」を訪問。あら川第一桃生産組合は、和歌山県紀の川市桃山町段新田地区に昭和43年「第一出荷組合」として発足し、現在では情熱をもった農家28戸からなる組合です。
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 紀ノ川の中流左岸に位置する桃山町一帯は、江戸時代中期から続く桃の一大産地で、紀ノ川の河川敷にほど近い排水抜群の土壌と、まばゆいばかりの陽光がおいしい桃を育み、「あら川の桃」ブランドを育んできたという(HP)。直売所には昭和十年のトラックによる出荷の状況を示す写真が掲げられていた。
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 (昭和10年の出荷の様子)
 2年前の台風21号の暴風により樹が折れ、全体の収穫量が低下していて、一人一箱の販売制限ながら多くの人が農家から運び込まれる桃を待っていました。

 次いでその近くの「八旗農園」に行きました。ホームページの八旗農園の企業理念によると、八旗農園は四百年の歴史を持つ「あらかわの桃」の伝統農業を継承・発展しつつ、豊かな自然環境に恵まれた紀の川流域の豊富な農産物を生かした事業を展開する。農業生産では最高においしい桃を、加工品については、素材の良さ・加工技術・衛生管理で、いずれも革新的な技術と科学的方法を確率し、安心・安全で高品質の商品を提供し、お客様に信頼される活動を展開する、としていて加工にも力を入れていました。そこで食べた桃のスムージーは絶品でした。
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    (あら川第一桃生産組合直売所 ) (八旗農園のイートコーナー)
 
 その後は「JA紀の里 ファーマーズマーケットめっけもん広場」に行きました。JA紀の里は平成4年10月1日には那賀郡内の5JAが、平成20年4月1日にはJA岩出が加わった大型合併JAです。組合員数は19,761名、職員は313名で本所と6支所4事業所、農機施設センター、給油所、選果場の施設などを配置しています。めっけもん広場(大型農産物直売所)は平成12年11月3日に開設されています。松阪協働ファームは2007年に設立され、一年間はモクモクの社長木村修氏が社長を兼任されていましたが、私が木村氏から引き継いでまもなく、めっけもん広場との関係ができました。当時JA紀の里の販売部長?をされていたたまたま同じ名字の大原部長にはベルファームにきてもらってお話もお聞きしました。それ以来わがスタッフのめっけもん広場のフアンは増えています。
 ちなみに販売高10億円以上の直売所は全国に39箇所あり(2017年)、ダントツの一位はJA福岡の伊都菜彩で40.7億円、2位はJA紀の里のめっけもん広場の28億円、3位はJA愛媛おちいまばりのさいさいきて屋の21.8億円、そして4位にはJAあいち知多のげんきの郷21.1億円で続いています。
 わが農家市場は社長が店長をされていたときに2.5億円ほどになったことはありますが、今は1.8億円止まりです。店舗の規模や周辺人口などさまざまな要因が影響しますし、どこのスーパーも直売コーナーを作るようになり、現状維持が精一杯の時代に入っているといえましょう。

 帰りに、奈良葛城市の道の駅かつらぎに立ち寄ってきました。花コーナーが広くて、竹製品もいろいろと売っていました。同行の女性スタッフもいろいろと刺激を受けたようです。
 帰り道いろいろ話している中で、七夕の笹竹と道の駅かつらぎに売っていた青竹踏み(600-800円)を作って欲しいと複数の人からリクエストされました。
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(右、山のように野菜を積み開けげられたランチ屋さん)




(左、各種竹製品の販売…道の駅かつらぎ)

 7/2は経営会議で出勤になっていたので、午前中に笹だけをルーベルと農家市場前及び野菜畑に設置しました。そして青竹踏み用の竹を切り、適当な長さに切り、それを炭火で燻して油が出てきたところで汚れを磨きました。さらに切り口のサンダー掛けをし、床の接地面は布を巻いたほうがいいのではという意見が出ました。7/2は17時に会議が終わったあと暗くなるまで作業をしていましたが、なかなか面倒です。
 7/3は公民館講座の英字新聞読みに久しぶりに出席し、疲れもあって作業の続きは手つかずで、今日ようやくサンダー掛けの続きや表面磨きなどの続きをしましたが、黒カビがついているのを落としたりがなかなか厄介です。完成はもう少しかかりそうになってしまいました。

新型コロナウィルスが暴き出したマスク人間模様ーアベノマスクが届いた日

(かなり時間が経ってしまいましたが、自粛期間中いろいろ考え、メモをとることがありました)
1) 武漢から発生した新型コロナウィルスは数ヶ月のうちに世界へ拡大しました。
 中国武漢から発生した新型コロナは、当初中国と横浜のクルーズ船の問題と、特に西洋諸国からはみられていたようですが、貿易も観光客など人の移動も現代世界における中国の影響力は半端でなく、2月頃からヨーロッパ諸国に急拡大しました。最新の5/29の世界の感染者は580万人、死者36万人という被害状況になっています。
 日本では、1/16国内で初めて感染確認がされ、武漢に渡航した中国籍の男性と分かりました。その後、横浜を出発し香港島を経由したクルーズ船「ダイヤモンド・プリンセス」号が2/3横浜港に入港し乗客の感染が確認されました。乗客の下船は19日から行われましたが、帰宅後に感染が確認されたケースも相次ぎ、このクルーズ船では結局、712人の感染が確認され、13人が死亡しました。マスコミの新型コロナ情報は増えつつありましたが、この頃まではまだ他人事のような雰囲気が少なくありませんでした。

2) 日本での対策の経過
 日本政府が1/28に国内初のヒトからヒトへの感染を公表すると、マスクや消毒液が店頭から消えました。2/13に国内で初めて感染者死亡が報告されました。2月24日イタリアで一日の感染者が200人を超え、中国以外での初の大規模感染が起こり、2月末から3月にかけて欧州での爆発的な感染が起こりました。 
 日本でも危機感が強くなり、2/26に安倍首相から多くの人が集うイベントの自粛要請があり、翌2/27には首相が全国すべての小中高校に臨時休校要請の考えを公表しました。当時は感染者のいない都府県が半数を超え、法的根拠のない突然の要請に教育現場や保護者に混乱が広がりました(朝日新聞3/21)。
 2/24政府の専門家会議はここ1-2週間が瀬戸際だといい、2週間が過ぎた3/9の専門家会議は、これまで感染が確認された場所に共通していた、①換気の悪い密閉空間、②多くの人が密集、③近距離での会話や発話(密接)の「3つの条件」を示し、これを避けることが大事と発表しました。3/11にはWHOがパンデミック(広範囲に及ぶ流行病、感染爆発・世界的大流行とも)認定をしました。
 開催がやきもきされた東京五輪・パラリンピックは3/24安倍首相とIOCのバッハ会長との電話会談で1年程度延期が合意されました。新型コロナウイルスの感染が都市部で急速に拡大している事態を受けて、4/7政府は新型コロナウイルス対策特措法に基づく「緊急事態宣言」を東京、神奈川、埼玉、千葉、大阪、兵庫、福岡の7都府県に対して行いました。宣言の効力はゴールデンウィークの5/6まででしたが、4/16に対象を全国に拡大しました。欧米のように強制力を伴う措置ではなかったものの自粛はかなり徹底され、結果として飲食店や接客業等の分野で、休業や閉店から店を畳んだり、倒産するお店も増えてきました。
 そこで、政府は5月14日に北海道・東京・埼玉・千葉・神奈川・大阪・京都・兵庫の8つの都道府県を除く、39県で緊急事態宣言を解除することを決定し、5/21には、大阪・京都・兵庫の3府県について、さらに5/25には残りの1都1道3県で解除、およそ1か月半ぶりに全国で解除されることになりました。
 とはいえ、コロナ以前に戻ることはもはやありえなく、「仕事と生活の新しいあり方」が問われることになっています。

3) マスクをめぐる悲喜こもごも
 先に見たように「ない」といわれるとそれを買いに突っ走る人が多いのは古今東西あまり変わらないのかもしれない。そしてそれは「ない」状態を一気に加速し、持てる人はさらに持ち、持たない人はないままという持ち方の格差を拡大してしまう。ものが少なくなればそのものの価格が上がるのは市場経済の常道だけれど、それに乗じて儲けようという人がかならず出てきます。以下、マスクをめぐるいくつかの記事です。
  ◯2020/03/09 - 中国の国家発展改革委員会は2日、国内の1日あたりのマスク生産量が1億枚を超えたと発表した。 ... 新型コロナウイルス対策で、マスクの生産能力と生産量は急速に増大し、2月29日に通常のマスク、医療用マスク、医療用N95マスクなどの1日の総生産量は1億1600万枚に達した。
  ◯20代の日本人学生は…50枚入りマスク3箱7500円相当を、約3万3000円で販売⇒売上合計は約30万円。「(値段について)他のサイトなどで相場を見て決めているので妥当。申し訳ない気持ちはゼロではないが、自分もマスクを買うために動き回ったり努力している」
  ◯足りる足りないは別にして、1日2000万枚から1日1億1000万枚もの生産に。
  ◯安倍首相は、3月5日に月6億枚以上の供給を確保していると言明したが、それから1カ月以上経ってもマスクの入手困難は解消していない。
  ◯不織布マスク(ドラッグストアで売られている使い捨てのマスク)の場合、供給の8割を輸入に頼っており、しかもその9割近くが中国からの輸入なので、中国でマスク需要が高まれば日本への輸出が減ってマスクが入手しにくくなる、といわれていてそのとおりとなり、4ヶ月ほどしたらほとんど元通りに近くなってきた。
 
 日本でマスク不足が始まったのは2月初旬であるが、その時点での新型コロナウイルスへの感染者数はまだ30人以下だった。人々がマスクを買い求めたのは感染を恐れたというより、「中国で感染拡大によってマスク需要が高まるため、日本への輸出が減るのではないか。だとしたら、買えるうちに買っておこう」という心理が働いたようである、といわれている。
 そしてそしてマスクが通常の数倍や重倍以上もしてくるにつれて、個人輸入などで儲けようとする人達が増え、薬局等ではバカ高い値段では売れないので、いろんな店屋さんの店頭でも売られるように状況になった。その高い価格でかわされた人とこの機に乗じて設けた人もいます。

4) 私はどうなったのか
 幸いにもマスクが必要になってきたとき、私は普段備えのマスクが一箱余りあった。この頃あまり風邪も引かないので残っていたのである。上の娘がほしいと言うので十枚あまり送った。この4月から医療機関に務めた下の娘は足りているとのことだった。息子は感染者が多い東京に住んでいることもあり、コロナ禍に過剰反応していて人手に触れるものは何も送ってくるな、という。
 会社はマスクが足りない人もいるということで、自分使いの十数枚を残して会社へ提供した。そうこうするうちの3/28に元私の研究室の留学生で昆明市に住む程さん(大学教授になっていた)から電話があり、マスクは足りているかという。私は大丈夫だが会社では足りていないと伝えると送ってくれることになった。マスク一箱50枚入りが4/10に自宅に届き、すぐに会社に持っていった。
それにしても普段は連絡を取り合っているのでもないが、ニュースで日本のマスクが足りないことを知って尋ねてくれたことにほんとに感謝である。一昨年には留学生たちが蘇州に招いてくれたし教師冥利に尽きるとはこのことですね。

 そんなこんなでマスクについてはドタバタせずにやり過ごせた。一時私も念の為もう人箱ぐらい備えておくかなと迷ったことはありましたが、開店のに3時間前から並んで待つ気はしないし、マスクの値段も急騰しすぎたので、何枚かのマスクを洗ってリユースすることで今もやり過ごしている。
 振り返ってみると1973年のあの苦い経験ー第一次石油危機時のトイレットペーパー騒ぎで物価が急騰したときーが役立っているのかもしれない。私はトイレットペーパー騒ぎには巻き込まれなかったのですが、日曜大工などのための工具箱が欲しいと思っていて、それもつられてどんどん価格上昇していくので、確か一箱8000円余で購入した。そしたら数ヶ月経って4-5分の一に下落したのである。
 人間は社会的動物である、という中身にはいろんな側面があり得ようが、ある程度は人に合わせながらも振り回されないでいることは大事なことなのだと改めて思う。(3がつ頃からメモ、6/13にテーマを絞り、6/23発信)
 

コロナと断捨離

先日、金属ゴミ回収の日、コミュニティのメンバーが整理されていたので手伝った。いつもの2倍ほどの金属ゴミが出されていた。通常メインとなる缶類や小物金属のほか、ソファ、石油ストーブ、自転車、掃除機など電気製品等々である。新型コロナによる自粛が余儀なくされる中思い切って断捨離を進められたものらしい。
私自身は非常勤になってから少しずつ本や資料その他の荷物の整理を進めているが遅々とした歩みである。
今の若い人はミニマリストとかあまり物を持たない人が多いが、高度成長の恩恵に浴しマイホームを建てたような世代は随分と物持が多いものと思われる。私もまた36年務めた前職を定年退職するとき、研究室に置いていた本や書類を収納するために書庫を立ててしまった。第二の職場で8年はフルタイムで勤めた後、心筋梗塞を患ってからは非常勤にしてもらって時間がだいぶ出来たので本や書類の整理を進めているが、お節介心もあって仕事を作ってしまうのでなかなか片付けは進まない。
それでも4月になって緊急事態宣言が発令されるにつけ、県立図書館にもいけなくなり、極楽湯なども休館になって家にいるしかなくなってきてからは整理が進んだ。
ここ一ヶ月あまり、それなりに整理できたものには年賀状や記念切手、そしてスクラップなどである。
基本的に何でも残してきたので、改めて整理しだすと時間がかかる。年賀状もあいうえお順に一通りの整理をするとともに、個性的な文面はつい残してしまう。
記念切手は中学生ころから折に触れて買っていたので、かなり残っている。近年はメールやスマホの発達で手紙を書くことがほとんどなくなってしまったので切手を使うチャンスがあまりない。けれど手紙は書くのに考えていることが多いので違った味わいが出ることもある。クロネコヤマトに持っていくことの多い宅急便も郵便局を利用すれば切手が有効活用できそうである。
何がより大事なのかを振り返るチャンスにもなったコロナ自粛を質的に充実したライフスタイルに変えていければと思う(6/6)。

コロナに関係なくベルファームの庭園は花ざかり

4月16日の緊急事態宣言の全国への拡大後、ベルファームの飲食店は閉店の止むなきに至っていますが、日常食料品を販売する直売所の農家市場と庭園は開いています。今庭園はさまざまなチューリップなどの花ざかりです。庭園ボランティアさんなどの支援を受けながらも、4人ほどのスタッフで頑張っている庭園メンバーは毎年チューリップの品種なども増やしてくれているので、これがチューリップと思うような変わったものも見られます。
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花を生かした写真スポットもたくさんあります。先日(4/26)もみんなでお撮りしましょうかとお節介心を発揮してきました。ルーベルでランチを楽しむお客さんにはしばらく待っていただかなくてはなりませんが、気分転換の散歩や健康のために園内を歩いている方は少し増えているかもしれません。
庭園は反対側の遊びの広場からも入れるようになっていますので十分楽しんでいただきたいです。
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道端のゴミに見る季節性

さっさと歩いてしまうと腰や足に負担が来てしまうのでゴミ拾い散歩の機会が増えている。
春分の日を過ぎて早三週間日もだいぶ長くなってきたので夕方の散歩がゆとりをもってできるようになった。春先のゴミ拾いで目立つのがティシュやマスクである。夏場に比べるとコーヒー缶なども少ない気がする。タバコの吸殻は相変わらずであるが‥。それでも小さなゴミ袋で余裕があるほどゴミは少なくなった。
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ここ二、三週間の道端のゴミ
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200本の枝垂れ梅―鈴鹿の森庭園

先日(3/7) 友達と赤塚植物園が10年余前から作っていたという鈴鹿の森庭園に枝垂れ梅を見に行ってきた。入園料が1500円とちょっと高いなあと思ったけれど、全国から集めたという200本ほどの枝垂れ梅は実に見ごたえがあり、十分満足できた。
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樹齢100年以上の枝垂れ梅もあり、さまざまな樹形と大きさの梅を見事に咲かせ、樹間に色とりどりの花を配置して見事な庭園になっている。
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背景に鈴鹿山脈があり、それが借景となって素敵なコントラストである。
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サグラダ・ファミリアに出会い直す

 2/17は朝からほとんど現役の時の留学生たちの書類の片付けをしていた。15時の休憩をとテレビを付けたらちょうどNHKでサグラダ・ファミリアのことをやっていた。
家を壊す話を聞いては廃材を集め、教会の建設にリユースしていたこと
ガウディは小さい頃から生命の力、とくに植物の育つ力やその芽をよく観察していたこと
人の話に耳を傾け、人をまとめる才能があったこと、
自分の財産を全部提供したのはもちろん分け隔てなく祈れる空間の創設のために自身の構想を解いてまわり資金を集めたこと
職人の家族の世話なども分け隔てなくしていたこと、
作った労働者たちの住宅は隣との壁を低くし、交流ができる工夫をしていたこと
色に敏感で、自然をグラデーションで表そうとしたこと、
自然には境目がないが、人の作るものには境目がある
飽くなき挑戦心があったこと、「神は完成を急がない 諸君! 明日はもっといい仕事をしよう!」

日本人でサグラダ・ファミリアに出会って一生をかけて仕事をされている外尾悦郎さんが172mという一番高い塔の内装を任され、ガウディはどう考えただろうかと悩みながら、自然を表す色のグラデーションにいきつくところは感動的であった。

ガウディの始めた仕事に後の人たちが何年かけてでも完成させようとしたのはガウディの構想と人間的魅力があったゆえかもしれない。改めて機会があればもう一度行きたいと思ったところである(2/19)。

画家エル・グレコが愛したという古都トレドToledo―駆け足のスペイン世界遺産ツアー③

 トレドは三方をタホ川Rio Tajo(国土を西南に流れポルトガルのリスボンに続いている)に囲まれ、マドリッドから71km南に位置する城塞都市である。
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Uの字に蛇行したタホ川の高台に作られた旧市街


 
 トレドは先史時代から人が住み、ローマの領地となったのち、西ゴート王国がイベリア半島を支配し、560年に首都となっている。以来イスラム教徒の支配下に置かれたりしながらも1561年に首都がマドリッドに移るまで政治・経済・宗教の重要な中心として繁栄した。
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 Wikipediaによると、トレドは12-13世紀にトレド翻訳学派とよばれる学者集団がイスラム教、ユダヤ教、キリスト教徒の共同作業としてギリシャ・ローマの哲学・進学・科学の文献がアラビア語からラテン語に翻訳され、さらにカスティーリャ語(現在のスペイン語)に翻訳されていったという。
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道をまたいで作られた家(右端)











 観光の街と化した古都トレドは今は5-6個のエスカレーターを乗り継いで旧市街に入れるようになっている。
 事前学習がほとんどできなくて行った後に興味が出て本を読んだりしているので、後の祭りなのであるが、街の中にそうした3つの文化がどのように融合していたのか次に行くチャンスが有ればぜひ見てみたいものである。
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古いものをうまく生かして街が作られている。














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トレドのカテドラルはスペインカトリック教の中心












 古い扉を活かしながら最新のインタホンもついている(左端)

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マジパンと伝統菓子

歴史的城塞都市クエンカー駆け足のスペイン世界遺産ツアー②

レンシアからマドリッドに向かって3分の2ほど進んだ標高1000mの高原に人口5.5万人のクエンカはある。大地をフーカル川(Rio Jucal)とウエカル川(Rio Huecal)が侵食してできた断崖絶壁の上にクエンカの旧市街は作られた。中世においては敵の侵入を許さない要塞都市であった。
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   宙吊りの家(左端)
 今も13世紀に建てられた大聖堂や14世紀に王家の別荘として建てられ、18世紀ころまでは市庁舎として使われていた「宙吊りの家(Casas Colgadas)」がある。
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断崖の上にあって生活に不便なので空き家が増えているようであるが、今も住んでいる人がいる。古い建物は直し直し使われている。








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  カテドラルの中(左)

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サクラダ・ファミリアー駆け足のスペイン世界遺産ツアー①

 1/29-2/3にかけてお値打ちにつられて、阪急交通社のスペイン街歩き6日間のツアーに行ってきた。死ぬまでにできれば行きたいと思っていたアントニ・ガウディ(1852-1926)のBasilica de la Sagrada Familia(聖家族教会)が入っていたからである。サグラダ・ファミリアは写真で見る以上に一見汚らしく色や形が乱雑にも見えたのだが、キリストの教えを通して人の人生の諸々を壮大な彫刻を通して表現している。
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建設中のサグラダ・ファミリア














 1892年着工され、ガウディがなくなった後も弟子たちによって建築が継続され、2026年の完成予定という。100年を遥かに超える時間をかけて繋いでいくという人の営みに圧倒される。しかもそれが町の真ん中で時代の変化と共に共存しているのである!そこに外尾さんという日本人の彫刻家が関わり続けているのはなんとなくのご縁を感じる。ただ残念だったのは駆け足ツアーで中に入れず外観しかみられなかったことである。

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            後門の入口
 ガウディが自ら指揮をを取って1930年に完成した生誕のファサード(門?)は太陽の昇る東側にあり、キリストの生誕と幼少期の出来事が彫刻されている。
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 スペインが気になっていたのは、このガウディが生まれたカタローニャ地方、しばしば独立運動が起こる個性的な地方であり、また西ヨーロッパでキリスト教徒とイスラム教の両方の文化の影響を受けている地域ということもあった。
 もう一つ教会建築に目が行ったのは1988年にオランダに留学させてもらった時に訪問した周辺国のどの街や村にも教会が中心にあったこと。高さ157mのケルンの大聖堂(最初は4世紀に完成し、火災で消失した三代目が1248年に建設が始まったものの途中長く中断し、全てが完成したのは1880年だという)に圧倒されたからである。当時はまだ若かったので塔の上まで歩いて登ったことをかすかに覚えている。

アイスチューリップが咲いています―春寒のベルファーム

昨年から冬場に咲くチューリップ(アイスチューリップ)が冬の庭園の一つの魅力を作っています。
今年も白やローズピンクのアイスチューリップが見事に並んでいます。
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 庭園入った正面のローズピンクのアイスチューリップ(左)
 グラスハウス右横の白のアイスチューリップの写真スポット(右)

また、花に囲まれた写真スポットも多数作られていますのでみなさんのご利用を待っています。
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しばらく前からグラスハウス内にも花に囲まれた
写真スポットが置かれています。


アイスチューリップはまだ一ヶ月ほどは見頃だそうです。

何でもやってみるー平均年齢70歳半ばの可能性

 121日〈火〉の〈サロンフィリア in豊ヶ丘・津〉は9人(笹原さん、蓮池さん、辺見夫妻、三鬼さん、植村さん、小西さん、森川さん、大原)の参加で、Aki  Ohara (米ギャラップ認定ストレングスコーチ、Points of You®認定マスタートレーナー)さんに「自分の可能性を探る」とのテーマでワークショップをしてもらった。実は、フランス時代を含め16年間パティシエをしていた娘が一昨年コーチングの起業をしました。15年続いているサロンも基本は講師を決めて30-40分話してもらってその後自由に話し合っているパターンが多いのですが、ちょっと冒険をしてみました。

 娘と一度竹の仲間でやってみようかと話し合ってから、多少の心配もあり、少し時間もたってはいるのですが、青春時代の仲間にも劣らない仲間になっているので何とかなるだろうと進めました。最初は少々固まった感もありましたが、アイスブレイクの自己紹介などが進むうちに様子が一変しました。
難しいとかいいながらも、みんな適応力がすごかったです。コーチもうまく引き出してくれましたが、それぞれに一家言ある人たちがその場に身を預けることができるのは見事でした。
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 points of you の写真や一言カードを使ったワークは「視点を変える、自由に発送する」という意味のように、年齢を経ていることがかえって引き出しの豊かさを発揮することにもなっていると思えました。
定年世代はねばならない定職からは開放されているし、好きなことをしている仲間はその意味で自由であり、生活習慣等の慣れはあっても実は可能性はかなりあるのかもしれません。
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 80歳や90歳になっても創造的な仕事をしている芸術家や学者さんは少なくないけれど…

ついそれは特別な人と思いがちであるが、実は大部分の人が諦めているだけなのかもしれない。
最後の簡単な感想で、人生で一番感動したという言葉が出てしまった人もいて新鮮な衝撃だったのだと思われる。裏返すと竹の仲間の多くが子供の心を失っていないのかもしれない。そんな仲間がずっと続いているのは、中心となってくれている笹原さんの人間的魅力によるところも大きいことは確かだが、私にはそれぞれが自分の可能性をできるだけ開こうとしていることもあって数年も続いているのではないかと思われる。
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 私自身も素敵な仲間に恵まれていることの再確認し改めて感謝の気持ちが湧いてきた。劣化する心身とどのように向き合って残りの生を楽しみ、何に役立てるかを改めて考えてみたいと思った。

 娘にとっても高齢者ばかり(50歳代の一人を除いて)という珍しい対象者に対するワークショップ経験のプラスはあったものと思う。と、一週間が立ちなかなかまとめられなくて悶々としていたら、娘からの嬉しい続報が届いた。
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 points of you の資格者のトライブ(仲間、専門家集団?) で紹介したら、すごい反響だったと。180いいね!は最年長のワークショップだったからかな?感想のシェアの中には、劇的なビフォーアフターだとか、人生の大先輩のお話を聞いてみたかったとか、感銘を受けましたとか‥。おそらく我々よりはかなり若い人が多いと思われるが、世代間交流をもっと進めることが重要ではないかと思っている私としては若い世代がそのように我々世代?に関心を示してくれたことが驚きというか嬉しい出来ごとである。(1/27)

58年ぶりに訪ねた長崎―命、歴史、文化を噛みしめる

宮崎で研修医をしている娘がいるうちに一度一緒に訪ねたいと思っていた長崎は、確か甲賀高校の修学旅行以来である。イメージで残っていたのは平和の像のみ。

1/10に福岡に飛んで、夜行バスで来た娘と頼んでおいてくれたレンタカーで1/11-1/12と長崎を旅した。いろんな学びがあったが、印象的ないくつかの事柄を記しておきたい。

出島は鎖国のしていた江戸時代の唯一の外国との窓口である。オランダはバタビア(ジャカルタ)の東インド会社を経由して多くの輸出入品が出島を通して交易されていた。出島の壱番蔵は輸入品の一番多い砂糖が保管されていたという。記憶が薄れてしまったが、砂糖の輸入額は現在の金額に直して◯億円というレベルであった。
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市電が残っていて、道の真ん中の停留所に渡る人を気遣う慣習もあるのか、車は人が横断すると止まっていて人優先が根付いているのではと思われた。平地の少ないところに42万人もの人が住んでいる。しかし中華街も21時には閉まり、ちょっとスローな田舎町の雰囲気。

長崎原爆資料館は、1996年4月にそれまで被爆資料を展示していた長崎国際文化会館を建て替えて開館したという。映像技術もふんだんに利用して真に迫る展示がなされていた。
長崎の原爆投下に関しては二重のunluckytがあった。1945年8月9日テアニン島を飛び立ったボックスカーは第一目標であった小倉が焼夷弾の煙で視界が悪く三回旋回して長崎に向かった。その長崎も雲で視界不良で、燃料不足を心配し帰還を検討したが、一瞬の雲の切れ目に原爆(プルトニウム爆弾)を投下したという。
IMG_20200112_111815原爆投下の瞬間





当時約24万人の人口のうちその年の12月までに死者73,884人、負傷者74,909人の被害であった。
戦争の終わりは見えていた中で2発の原爆を落とすという戦争のおぞましさの反面、長崎医科大学附属病院で被爆した永井隆博士を始めとして多くの人が救援・救護活動に携わっている。また当時被爆者救援列車の機関士として直接援護にあたった寺井邦人が回想して描いた画も残されている。原爆投下から約3時間後に爆心地近くの踏切まで救援列車を乗り入れ、当日4回に渡り沿線の病院に運んだという。

冷戦の時代に進んだ軍拡競争は地球が何度も滅びるほどの核爆弾を持ってしまったが、広島とともに長崎は核兵器のない世界を目指す先頭に立っている。1981年ヨハネ・パウロ2世が初めて長崎を訪れた。カトリック修道会が設立した被爆者養護施設「恵の丘長崎原爆ホーム」でローマ法王の語りかけにであった山崎さんはそれを機に家族への思いを証言集に載せている。そしてローマ法王二度目の訪問は2019年11月24日に庶民的な感覚で慕われた教皇フランシスコ(教皇はカトリック中央協議会の呼称)が長崎を訪問された。フランシスコ法王は2018年にジョー・オダネル氏の撮影した「焼き場に立つ少年」のポストカードを広く配布するよう支持したことで有名である。
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 ローマ法王が配布した焼き場に立つ少年のカード(左)
 ジョー・オダネル『トランクの中の日本』(右)

買い求めたジョー・オダネル『トランクの中の日本―米従軍カメラマンの非公式記録』によると、ジョーはアメリカ海兵隊のカメラマンとして、1945年9月2日に佐世保に近い海岸に上陸し、空襲による被害状況記録する命令を受け、広島や長崎を始め、50以上の市町村に足を伸ばしている。1946年3月に帰還したジョーは持ち帰ったネガをトランクに収め二度と再び開くことはないだろうと蓋を締めたという。生きていくためにすべてを忘れてしまいたかったのだ。

その後、ホワイトハウス付きカメラマンとして働いた後、体を壊して退職した。それは長崎・広島をさまよい歩いたことによる放射能が原因と言われた。数え切れないほどの手術や治療で身体は良くなったが心の傷は癒えなかった。もう逃げるのはよそうと現実に向き合い、聞き書きをしてくれるジェファニー・オルドリッチとの出会いもあって、きのこ雲の下で何があったのか、その恐ろしい事実を伝えていくことが自分の使命だと自覚し写真展を開いていくようになったという。

戦争は加害者側にも多くの傷を残す。そして現場に立つもののみがその歴史や文化、そして意見の違いを超えて共有できるものが出てくるのかもしれない。「平和を守ることができてはじめて未来があるのだから」と。

いろんな事情があってほとんど家族らしい共有時間を持てなかった娘との貴重な二日間でした。命に携わる仕事に就くことになっただけにヒトの一筋縄でいかない現実も知りながら命を大事にする心と技術を磨いていって欲しいものです。

令和最初のお正月

明けましておめでとうございます。

昨年も政治や官僚の劣化が目立ちましたね。マスコミ等の官邸等への忖度も寂しいものですが、現場にいる人間はどこでも生きるための努力を続けています。松阪農業公園ベルファームへ指定管理者として入って早や12年(会社としては13年)になります。
このブログも2009年10月29日に開始して早十年が過ぎました。怪我や病気をするたびに気力も衰えて、書きたいテーマもなかなか書ききれず月に2回しかかけていないこともあるのですが、ポツポツでも見に来て頂ける人がいることが続ける励みになっています。

 幸いにして株式会社松阪協働ファームの方は優秀な後継ぎがいてくれて有り難いのですが、赤字も抱えたNPO法人の方は、なかなか後継ぎも得難いところです。ベルファームのような施設は事業の継続が基本であることはもちろんにしても、お客様が求めるものは庭園を始め、芝生での家族遊びなどホッとし、散歩など健康に役立つことも大事です。このような部分に対してはボランティア的なNPO活動役割を発揮できる部分でもあります。そういう氏意味では食育活動や農業塾あるいは竹林整備・竹炭焼き・竹細工等の自然遊びの要素も可能な限り続けたいものです。

 私ごとでは、2019年1月に左肩腱板断裂の手術をしてリハビリにほぼ一年かかってしまいました。社会的仕事が減ったので新たに習い事を始めたりで楽しんでは居ますが、一つ愕然としたことがありました。秋口から定年時に持ち帰った本や資料の整理を本格的に始めました。一応全部点検して処分を決めているのですが後何年かかることかと…。本もまだ数千冊ありますが、できれば紙リサイクルより引き継ぎ手を見つけてやりたい。素敵な仲間が集ってくれる竹遊倶楽部で活動資金にと作っている竹細工も簡単には売れなくなりましたが、せめて大事に使ってくれる人の手に渡したい。

心身ともに劣化し、後期高齢者の仲間入りをしたこれからは、離れている家族を含め、NPO活動や身の回りでの責任を果たし、人生の後始末に力を注ぎたいと思っています。そのため年賀状には来年からのご挨拶は失礼させていただきたい、と書いたのですが、奇しくも昨日届いた年賀状の中にも同じ趣旨のものが4件ほどありました。
もうしばらく頑張るつもりでは居ますが、改めて長年のご厚誼に感謝いたします。

2020年1月2日

                  大原興太郎 e-mail:kohara@xf6.so-net.ne.jp

(TEL:090-5030-2614,FAX:059-230-2656)

  (ブログhttp://blog.livedoor.jp/okaeri33/)

                 

師走の日々

前回以降の12月の慌ただしさの断片。

12/8 ベルファーム手づくり市と竹作業の日。かろうじて参加費を少し上回ったくらい。
12/10 リハビリのあと伊賀で古文書講座。講座当日出ているだけなのでなかなか上達しない。
それでも続けていれば多少でも慣れるかなとおもって。もともと古文書を勉強するというより達筆の字が読めなくて、江戸時代にはそれが一般的であったという行書体(草書体)が少しでも読めるようになれば達筆の人の文章も少しは分かるのではないかと始めたのだが…

12/12 経営会議。メンバーで来季以降に向けて森林公園のバンガローで宿泊合宿。前から一度止まってみたかったが、一棟素泊まりで12000円だと家族四人とか中高生の運動合宿とかでもないと難しいかも。
12/14  錫杖湖水荘で豊ヶ丘コミュニティクラブの忘年会。ベルファーム関連の仕事のほうがあれこれあり、地域での活動はあまり出来ていないので出られるときには出ようと出席した。竹の昆虫が何種類も飾ってあり、見事だなと思って聞いたらそこのシェフが作られたという。

12/15 第何回三重環境フェア。邊見美代子さんと蓮池さんが手伝いに来てくれた。竹箸つくりと竹炭かごを持っていったが中高年の情勢が箸作りに人気で結果的に18件の参加があり、手づくり市より収入があった。隣のブースが四日市環境学習センターの人たちで、竹箸講座を年三回ほどのイベントでしてもらえないかとの提案があった。竹箸づくりは準備が大変だが喜んでもらえるのなら参加もありかも、来年の検討課題である。

12/21 森川・藤田理事が頑張ってくれている第六期農業塾における講義。
その後、名古屋での地域と協同の研究センターの理事会と懇親会に出席。シャンシャン手拍子的な理事会が多い中で、自由闊達な意見が出るので出席し甲斐がある。実践的な研究を大事にしてきたつもりの自分としてはここの会は以前のコープみえの理事会よりははるかに面白い。自宅の断捨離を進めるにはもう少し活動範囲を狭めていく必要があるが、これもここ数年の検討課題。

12/22 総文での夢の手づくり市三度目の参加。2回目同様内々で買ってもトントンが精一杯。
今日は出品しや同士の物々交換を試みてみたが、こんなこともありかな。隣の場所がわかば園の人たちで、製品品を一つ差し上げたら喜んでくれた。活動資金は笹原さんからの素材の無償提供もあり何とかなっているので、製品を喜んでもらえる施設などへの寄贈ももありかなと思った次第。

12/26 12月のサロンフィリア&忘年会(10:30-13:00頃、豊ヶ丘・大原宅)。

時間を午前中に変えてのサロンで昼食を一緒にすることにした。参加は都合がつかなかった中西さんを除き、蓮池・甲田・笹原・邊見夫妻・北村・植村・坂口・向川・竹本・大原と最終11名で現在の活動メンバーが出揃った。

邊見美代子さんに酒の肴をお願いし、私はビーフシチューを作った。お酒、手作り梅酒とヤマモモ酒などを嗜んでもらい、飲めない方には生ジュース、コーヒー・紅茶を飲んでもらった。一人ひとりの話してもらう時間が取れなかったがワイワイガヤガヤ楽しい時間が過ぎ、邊見輝行さんが作られた「令和最初の忘年会」の前で記念写真を撮った。何人かが作ってきた作品などを提供し合い、私ももらってもらいたい本など提供して、納得のいく額のこの日の募金の合計は6180円活動資金に加わった。
会計報告もさせてもらったが、素材の無償提供をしてもらっている笹原さんの貢献分が大きく、十分自立会計になっているので有り難い。

12/29 今年最後の竹遊倶楽部共同作業日。竹炭焼きと蒟蒻畑周りの竹柵の青竹への更新と私は燻竹のスクレーパーや靴べらの製品つくりをした。今年最後の集いなので昨夜十人分ほどの牛汁を作ったのだが、牛すじカレーの感覚で作ったら硬くて…。圧力鍋を使ったので煮込みはしたが失敗作ですと言って食べてもらった。が、評価の厳しい三鬼さんほか美味しいと言ってもらってホッとしました。素敵な仲間なのでつい何かをしたくなりいつも時間が足りない感覚は抜けないが…。
12/26のサロンの後に三重環境フェアで知り合った万縁有限会社の瓦チップを確認に行き、3トン車一車を購入して、12/27にベルファームに運んでもらっていたが、腰が痛くて一人で進まなかった瓦チップの撒布もこの日してもらい、こもれびの森はきれいな状態で正月を迎えることになった。
(何とか年内の簡単報告ができました)



現場主義のリアル―中村哲氏の生き様に思う

十年あまり前から何度かマスコミにも取り上げられてきたからお名前とアフガニスタンでの活動の概要は知っていたが、先日12月4日凶弾に倒れられ帰らぬ人となられた。

以前に私が中村さんの活動に驚嘆と尊敬の眼で接したのは医者は病人や傷を治すのが本務であるにしても、アフガニスタンの人がちよっとした下痢などでなくなったりするのは栄養失調で免疫力が落ちているからであり、その元となっている貧困をなくさねばと井戸を掘ったり、砂漠に灌漑をひいたりして農地を作り、仕事を作ってアフガニスタンの人々の生活を改善してこられた。

大国のアメリカやロシアも関与し、政府と反政府、タリバン、ISなど難しい政治均衡が続く中でのその活動は現地の人々に大きく受け入れられるとともに絶えず命の危険があったことであろう。それが今回残念にも現実になってしまった。

今回の悲しい出来事のあと、マスコミ等でこれまでの偉業が語られ、中村さんの意志をつないでいこうというの機運が盛り上がっている。おそらく中村さんは覚悟の上で自分のミッションとして活動してこられたのであろう。それはどこかの国の身内や自分たちの利害で本来あるべき公のあり方すら崩していくような人々や政治家とは対局の位置にある。

私自身が最初に中村さんの活動に惹かれたのは現場を大事にする姿勢とその行動力に感銘したからである。比較にならないとはいえ、物事の現場で問題を捉え、解決策を探るということはずっと自分の生き方の根幹にもあったからである。

今や五年目になる竹遊倶楽部の活動もベルファーム近隣地域の美濃田の人々に視察旅行等を通じて影響をし、少しながらお手伝いをする中で竹林整備や美濃田大仏への竹林街道の整備につながってきた。そこには活動する仲間の喜びがあり、同時に周りの人々にも喜んでもらえたりしている。これもささやかながら現場主義を大事にしてきたからだと言えよう。

現代の政治や社会は環境問題や貧困・格差問題などのツケを次世代にもたらしている。そのことを自覚するなら身近なところでも少しでも地域の人々が生き生きとし、次世代が少しでも良くなるような活動を続けていきたいものです。



今年の松阪牛まつりとJRさわやかウォーキング

今年も牛まつりの日がやってきました。朝からゴミ拾いでしたが、すでに煙草の吸殻がいつになく多い感じです。今日は夕方もゴミ拾いをしたほうが良さそうです。
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何とか天気もさわやかな日になって9時過ぎには南駐車場は早満杯です。
オートバイ・自転車の臨時駐車場となった事務所裏の通路には名古屋や大阪方面からのバイクもたくさん来ています。

今年もずっとお世話になっている栃木治郎さんは予選を通って、さきこ号648kgを出品されていました。今年は87歳になられると思うのですが、農家市場にもお茶を出品されていて元気を頂いています。
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DSC_6172今年の品評会の一席は大紀町の西村節生さんで、例年のごとく朝日屋さんが2600万円で落としました。二席は625万円、三席は509万円とのこと。











JRのさわやかウォーキングは牛まつりにあわせて松阪駅から豪商の町を通り抜け、美濃田大仏を経由してベルファームに至るコースでした。竹遊倶楽部が少し協力した竹林街道が見事に出来上がっていてよかったです。美濃田まちづくり実行委員会の田中正宏会長のリーダーシップで美濃田大仏の周りを含め整備が随分進んでいました。
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   竹林街道
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朝からトイレ用の竹炭かごつくりなどしていて、400人とも言われたウォーキングの最中には間に合わなかったのですが、何人か竹林がきれいだと写真を撮っている人が多くしました。お節介心が出て、三組ほどのカップルの写真を撮ってあげました。

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  美濃田大仏と笹原さんの燻だけに竹林街道の文字を彫ってくれた蓮池さん

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 今日は11月の後半にしては暖かい日でしたが、ベルファームの庭園には数年前に植え替えた四季咲きのバラが結構きれいに咲いています。園内の池には早渡り鳥も渡ってきました。




人育ての基本…非認知スキルの高め方

「幼少期からの社会的スキルの発達を促す育児環境」(細川 陸也氏) 

PAN倶楽部研究例会(20191107,ウインク愛知1007)で興味のあるテーマが話され、聞きに行ってきました。細川先生は京大医学研究科人間健康科学専攻を卒業され、現在、名古屋市立大学 看護学部 地域保健看護学 助教をしておられる新進気鋭の研究者です。

 細川先生は生活保護受給率23.7%という大阪市西成区の経験が生かされています。西成区あいりん地区には子育て世代も多く、可処分所得が平均より低い相対的貧困層が多いところです。

認知スキル、いわゆる学力よりも、非認知スキル…意欲、自制心、協調性、勤勉性、練強さ、やり抜く力、コミュニケーション能力など測定できない個人の能力こそが大事である。また第2言語習得の敏感期は3-7歳である。

 以下、講演から得られたエッセンスを箇条書きに示します。

・5歳児の問題行動は親の教育歴が低いほど、世帯収入が低いほど高い。
 

一貫性のない関わりや体罰を伴う関わりは自己制御や協調性を低くする。

  • 安定感・安心感のある家庭環境は、子供の社会的スキル(写真1)を高める

  • 一貫性を持ちながらも頑固にならない、ことが重要。

  • 子供の発達を最も左右するのはストレス。

  • ストレス反応は命を守る反応であるが、ストレス反応が続くと海馬の機能が低下し、ストレス対処能力が落ちてくる。→子供に怒りをぶつけたり、延々と説教したりするのはマイナス。

  • ラットの実験だが、親のケアがあるとストレスレベルを改善する→適切な親の子供への関わりが大事。

  • モバイル機器を教育目的以外で使う(例えばスマホで子供を遊ばせておくとか…)時間が多いほど問題行動が多くなる(2時間以内が理想)。

  • 能力を褒めるより努力を褒めるほうが何でも挑戦するようになる(写真2)

  • 自制心を鍛える方法は、継続と反復 筋肉のように鍛える。If-thenプラニング…誘惑に負けそうな時にどのように自分をコントロールするか、気をそらしたり、想像力を膨らませたり…。

  • 両親の関係性と社会的スキルとの関係では、物理的に攻撃したり、口汚く罵ったり、話し合いを拒否したり、逃げたりする場合には自己制御・協調性・自己表現が低くなり、お互いが協力的な態度を取る場合にはこれらの社会的スキルが高くなる(写真3)

  • 非認知スキルを促すには、環境に働きかけたほうが良い。学業のための粘り強さを高める環境、内発的動機づけを高める環境…帰属意識を持てる環境、頑張れば学習内容を高められる環境を作る

  • Pan倶楽部のLINEで資料を共有する


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      写真1-社会的スキル    写真2-褒め方

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    両親の関係性と社会的スキル





    ラジオ体操と飛行機雲

    11月から7時半開始となった昨日のラジオ体操で、始まってざわざわと談笑する女性陣の目立った。何かとみると、空を見上げて飛行機を見ている。
    澄み切って寒くなった所為もあるのかまっすぐの飛行機雲がながく留まっている。しかも不思議なことにほんの十分足らずの間に5機の飛行機が空を縦横に横切った。
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    こんなこともあるのかな?少なくとも私にとっては75年の人生で初めてである。

    台風(自然災害)への備え

    鳴り物入りの大型台風19号。東海地方にとっては今日一日が何とか無事に過ごせれば明日は晴れの予想で竹林草刈りの予定。

    地震、雷、台風、火山噴火、大雨被害、津波や高潮、さらに最近ではありえないような竜巻も。災害列島日本にとって来ない年はない台風など自然災害への備えは生きていく上で必須のものである。「災害は忘れた頃にやってくる」とは昔から教訓的に言われていることばだが、最近の災害で犠牲が大きいことが多いのは私たち一人ひとりの備えも不十分になっているということもあるのではないだろうか?

    それを助長してきたのは私たちが生活の便利さに慣れすぎ、普段の備えが不十分になっていることもあるかもしれない。よく使われる「想定外」という言葉は歴史から学んでいないか、自分の備え不足への言い訳か、安全性より経済性を優先したかなどの理由があろう。

    これからの時代は国家的に安全性のためにどれだけの金をかけられるかはあまり期待できなくなっていると言えよう。今回の台風15号による停電復旧の遅れの理由の一つは倒れた電柱の復旧に時間がかかっていることらしい。ロンドンやパリのように地中に電線を埋めればいいのだろうけれど、随分とお金がかかり、財政状況の悪い中では大きな期待はできない。

    となると、停電の中でも生きられる自衛の備えをするしかない。自給的な生活が基本であった昔の知恵をどこまで現代に活かせるかを考えてみることも必要かもしれない。

    インフラが一週間止まったとしたら…竹炭や土鍋で食事は作れる。ジャム類やしそサワーなど加工品やストックもそれなりにあるので一週間程度なら外の助け無しでも生きられそう。緊急のトイレ代わりも備えているが、幸い菜園付きの一軒家なのでいざとなればその土が利用できる。水も重し代わりにペットボトル数本に入れているので生活水にはなるが、備えが不十分だと思ったのは飲料水のストックが少ないことである。

    どこかに車にも食べ物と水を乗せておくべきと書いていたが、これはあまり考えていなかったのでさっそく対応しよう。

    災害の備えの議論はさすがに豊ヶ丘コミュニティクラブでもしていない(集会所の冷蔵庫には少しのストックがあるかもしれないが)。実際には隣近所で助け合うことが大事だから、そのためにも地域でのコミュニケーションはさらに密にしていく必要があろう。
    この頃再び参加しだした地域のラジオ体操は毎日17-18人から22-23人が集まっているが、こういう人たちが地域活動の核になっていくのだろう。

    庭園入口の整備…目隠し暖簾とモッコウバラの剪定

    イングリッシュガーデンはベルファームのウリの一つです。

    私たち(株)松阪協働ファームが指定管理を引き受けてから、それ以前700円頂いていた入園料は無料にしました。経営的には庭園スタッフも多くは雇えないので、現状は三人プラスアルファのボランティアや適宜の応援スタッフで何とか維持してきています。

    当然のことながらすべき事柄はやまほどあり、なかなか手が回らないことも多いです。
    そんな中、非常勤で会議以外には業務を義務付けられていない自分は自由に動かせてもらって気になるところを時々直したりしています。
    今年は1月に右肩腱板修復手術をしてなかなかリハビリも進んでこなかったのですが、ようやく7-8ヶ月過ぎて左手もある程度力を入れて使えるようになり、ずっと気になっていたイングリッシュガーデン入口付近の整備に手を付けることになりました。

    9/17にはルーベル裏庭まで伸びているモッコウバラを剪定しました。9/27には入り口左の裏庭に入り込んでいる部分を思い切って剪定する。
    まだ庭園に向かって右側の上に伸びたツルが気になるが…。
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    もう一つ気になっていたのはメインの入口からルーベルの勝手口と休憩室に入る横の入口が扉が早くから壊れていて勝手口が丸見えすぎることである。スタッフが通る道でもあるのでどのような目隠しがいいのかずっと考えていた…。
    燻竹の製品作りに使っていた仲間のÑさんからもらってきた布で使えそうなものがあったので、10/3の松阪マラソン実行委員会の会議で行った時に、午後現場へ素材を持ち込んで描いていたイメージを確認してみた。なんとかやれそうだったので、燻竹に片側を両面テープで巻きつけて固定し、ジグザクカットできるハサミで布を切り込み暖簾にして人が通り抜けやすくした。
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    もう片側が残っているが、こちらは燻だけの端材が使えないか考えてみたい。
    10/6 燻竹の端材にシュロ縄を通して竹暖簾を作り、11/11に行った時に現場に設置してみた。
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    そのままにしてしまったので10/12の台風19号来襲前に社長に外しておいてもらい、10/13に改めて設置した。(10/18)

    55年ぶりの経ヶ峰ハイキング―心臓より脚が…

    心筋梗塞から3年半、駅の乗り換えとかでは階段を急ぐとゼエゼエいうことになるが、
    どこまで運動機能が回復しているのか、いつかハイキングをしてみたいと思っていた。
    娘からマヤ遺跡に行かへん!と言われていたこともあった。
    市政だよりの中に経ヶ峰(819m)ハイキングの参加者募集がされていた。当日参加も可能となっていたので体調を見て参加しようかと思っていた。
    天気予報が昼間小雨の予報もあり、9/27の金曜日、午前中松阪マラソン実行委員会の後、午後は事務所裏の竹の柵を直し、庭園入口のモッコウバラの剪定の続きをし、夕方には燻竹の靴べらを3つほど作ったりしてかなり疲れもあり、最終決定は今朝起きてからと考えていた。

    まあまあ寝られたこともあり、行ってみることにした。集合場所の草生小学校には曇りにも関わらずかなりの人が集まっていた。あまり良く覚えていないのだが、経ヶ峰には大学の寮生活をしていた時に三翠寮から登ったことを覚えているのでおよそ55年前である。

    曇り模様もあり、参加者は後で聞いたら84名とのこと。消防団や地域の人のお世話する人がその半分ほど協力していた。案内役の人が先頭に立って歩いたが、小学生から80歳くらいの人まで多彩な人ですぐに列は縦長になっていった。

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    私はあまり頑張らない範囲で10番目前後を歩いていた。
    安濃コースは比佐豆知菅原神社の登り口から4.6kmとなっている。草生小学校からだと6kmくらいかな。登り口から三分の一くらいは舗装された車も登れる道。地道になるとかなりの急坂である。草生小学校の標高が42mとのことで全体がかなりの勾配の気がした。
    しかしながら山の中腹から上は雲にかかっているこんな天気でも途中何人もの下山してくる人に出会った。一人は豊ヶ丘で少し前に民生委員をされていた人にも出会った。

    日はでていないが、湿度が高くまたたく間に汗びっしょり、タオルを沢水につけて汗を拭ったり、水分を補給する以外はあまり休まずに登っていった。雲の中にはいっても数十メートルは見通せる感じであったが、こんなところで道に迷ったら一瞬やばいなと思った。

    今日はイベントなのでところどころに何人かずつの消防団の人たちが見守っていたが。8-9合目あたりの急坂では腿を引き上げるのに痛みを感じた。普段使わない筋肉を使っているのだろう。家にあった杖をもってくればよかったと思った。
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    9時15分頃草生小学校を出発してほぼ二時間で山頂についた。雲で見通しは悪いが、山頂でシャツを着替えて、パンを一つ食べた。あまり空腹を感じなかったので、帰りは山小屋経由の少し遠回りで11時半ころ山頂から下って13時少し過ぎに草生小学校に戻った。

    下りは足の爪先、とくに自分は足の人差し指が親指より長いのでその爪が痛かった。
    帰り着いて甘酒をいただき、そのまま極楽湯に行って体をほぐしたが、クタクタの状態。


    体重を図ったら59.1kgで昨夜の61.3kgから約2kg落ちている。水分も1kg近く取っているのにこの減りようにはびっくり。タオルで顔や頭をなんども拭きながらだったが、ズボンも腰回りまでびっしょりだった。駅伝でもこんなに体重は減らなかった気がする。筋肉痛とクタクタでやる気がでないけれど、一応登山ができたことは少し体の自信を取り戻してもいいのかもしれない。


    真田家ゆかりの地を巡る…上田市での国際忍者学会大会

    9月14-15日久しぶりに電車で学会に出かけた。
    長野県上田市で開催された第三回国際忍者学会大会である。
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    学会の様子

    二日目の15日は巡検という真田家縁の史跡を巡る旅である。
    子供の頃、真田幸村と真田十勇士の話がとてもおもしろくてよく覚えている。
    いつか上田城には行きたいと思っていたが、実は初めてであった。

    真田三代ゆかりの地をたずねてというファイルも作られているが、三代とは幸隆、昌幸、信之(信幸)で信之の弟であった幸村(信繁)は入っていない。
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     真田三代と真田氏の特徴

    上田城は1583年に昌幸によって築城された。
    真田幸隆(幸綱)は小県郡真田村(現上田市真田町字長字真田の近辺)の出身で、甲斐国武田氏の武将であった。
    昌幸は幸隆の三男で武田信玄の家臣となり、武田家滅亡後自立し、九度山でなくなる(65歳)まで多くの主君に仕え、戦国時代を生き延びてきている(Wikipedia)。
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    そんなこともあってか昌幸の墓所は真田山長国寺(長野市)、真田山長谷寺(チョウコクジ、上田市)、善名称院(和歌山県九度山町)の三箇所にあるという。
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    徳川方についた昌幸の長男信之と織田方についた昌幸・信繁は関ヶ原の戦いでは敵味方に分かれることになる。どちらが勝っても真田は残ることにはなるが過酷な時代であったことはたしかであろう。
    真田が注目されるのは少数で多数を撃破したことや情報戦(忍者の役割)に強かったことなど地域の誇りとするに足る存在であったことが伺える。
    1590年に信之が成立させた沼田藩は1681年に改易されている。
    そんなこともあってか真田氏発祥の地に真田神社ができたのは明治になってからであるという。そしてさまざまな真田ゆかりの史跡が整備されてきたのは戦後であり、2016年の大河ドラマ真田丸の成功によって地域おこしがより進んだのではないかとも思われる。

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     真田ゆかりの地図   上田城跡       真田三代の石像?


    8ヶ月ぶりのヨガとラジオ体操

    8月29日、1月の左肩腱板手術以来8ヶ月ぶりに豊ヶ丘ヨガに参加してみた。

    8月の自宅断食で多少はカチカチの体が少しは柔らかくなっていたはずだが次の日や二日後にあちこちが痛い。散歩は2月後半の退院以来できるだけしてきたつもりだが、歩いて使う筋肉はほんの少しなんだなと改めて感じた。昨年までは月二、三回程度ではと思っていたが、それでも続けていれば多少のほぐしにはなっているんだと改めて感じる。

    その日の参加者は8人ほどでやはり男子は私一人だったけれど佐久間先生に来てもらって根付いていることが嬉しい。

    そして今日9/4、手術までは時々行っていたたけのこ公園でのラジオ体操に参加した。
    左肩のぎこちなさはあるがこちらは何とかできた。豊ヶ丘コミュニティクラブのメンバーが20人ほど参加していた。コミュニティクラブの会員は百名弱いるが、活発に地域活動をされているメンバーである。

    会社を非常勤にしてもらってから住んでいる地域でのボランティア活動も増やそうと思いながらなかなかできていなかったが、今日を復帰のきっかけに少しずつ参加が増やせればと思う。

    今年の農業塾研修旅行は朝津味と三重大農場

    8月10日は第七期農業塾の最終日で、塾長として食と農についての最終講義をした後、皆さんに修了証書を手渡した。今期は10名の修了で今日は7名の参加でした。

    そしてその後は、研修旅行で津市の直売所朝津味を訪問し、ヒーサーの森を散策した後朝津味で昼食を食べた。人数が少ないと親密になりやすいという利点があり、ぜひ農業塾の同窓会を作って欲しいという意見が複数あった。
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    朝津味の後は、すぐ隣の三重大学農場を訪問し、農場長の奥田教授が話をしてくれた。
    管理棟の前にグリーンカーテンにもなるパッションフルーツを植えていた。

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    奥田先生の話を聞く受講生



    鉢植えのパッションフルーツ






    今日は森川事務局長が腰の手術で退院の日になっていて、藤田理事が段取りや運転手などほとんど一人でやってくれた。

    子どもたちと竹筆作り

    8月8日松阪市中原文化センターで、中原小学校のなかよし会5-6年生18人に竹筆作りを教えるイベントに参加した。
    リーダーは竹文化振興協会三重県支部の支部長である竹輝銅庵の竹本社長。それに竹遊倶楽部の六人(笹原、北村、蓮池、三鬼、山中、大原)が手伝った。

    木槌は生徒がもってくるということで叩く台木はすべて竹本社長が準備された。
    子どもたちは竹の皮を剥いで割れ目まで入れた素材を小一時間ほどかけて叩いて筆にしていった。少し割れた子には別の竹を渡したりシながら、ほぼ全員が見事に筆を作り上げた。

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    そして後の一時間でみんな立派な字を書き上げた。
    子どもたちの力にこちらが元気をもらったような気になった。
    それにしても竹本社長はとても忙しい方なのにこれまでの準備過程も含め、どのように竹筆を作っていくのかの教材をパソコンで作ってきて子どもたちに渡された。
    これは会社員のときに絶えずプレゼンをシなければならないことが勉強になっているとのことでした。

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    速歩時々緩歩の理由

    心筋梗塞の手術以来、3年4ヶ月。二ヶ月に一回の定期血液検査は今の処ありがたいことにほとんど正常値の範囲に戻っている。

    甘いもの好きは変えられないし、だからこそ有酸素運動としての速歩は大事と思っている。

    手術前よりは少し速度は落ちているがまだほぼ時速6km(100m1分)は守れている。
    それは昔の時計で測るというクセが後押ししているんだけれど、ぐったり疲れてしまうときやあまり歩きたくないなというときもある。そこで自分に少しブレーキをかけるためにしていることが散歩中のゴミ拾いである。結果的に緩歩になる。

    団地内はほんとにゴミが少なくて、団地へ入る道路にゴミが多いのであるが、それでも2、3年前に比べると随分と落ちているゴミが少なくなった。ひどいときはもっと大きなゴミ袋でも拾いきれない時があった。4kmコースの田圃道にはタバコの吸殻がかなりあったが、今は圃場作業がないということもあってか少なくなっていた。

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    見事な竹灯籠の展示会

    同窓会誌への原稿に手間取ったり、竹筆づくりにかなりの時間を割いたりで7/20の午後の報告が遅くなりました。

    滋賀県守山市図書館で開催されていた三グループによる竹灯籠の展示会は圧倒されました。

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    笹原さんが元建設会社の社長さんで創作竹灯籠を指導されている渡部俊夫氏と連絡をとっていただき、当日も懇切な説明を受けました。

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    デザインの絵が一つのポイントですが、それを竹に移して、ルーターで彫っていくのですが、ほんの僅かな部分で土台の竹につなっているのでとても繊細さのいる作業です。

    竹筆作りを習いに行く

    7月20日竹遊倶楽部の有志(竹本、笹原、北村、三鬼、大原)で、竹文化振興協会岐阜支部の
    クラフト同好会の松本氏(前支部長)に竹筆作りの基本を教えてもらいに岐阜市へ行きました。

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    その概要をメモっておきたいと思います。

    ○ 竹筆作製条件

    1. 竹の採取時期 七夕を過ぎた時が良いとされているが、旧暦の七夕(9月過ぎ)の時期が良い。

    2. 竹の種類    どのような竹でも基本的には作成可能 真竹が無難 笹でも可能。根に近い部分がよく、穂先は根っこ側にする

    3. 竹の年数    良い筆を作ろうとするならば2-3年ものが良いが、その年の成長しきった(芽が出切っている)竹が良い

    4. 竹筆の長さ   好みで良い、太さも好みで

    ○ 作製方法
    ・ 希望とする竹筆の長さに切断 上下を決める
    ・ 筆先とする方で筆先の長さを決める(鉛筆で印をつける) その部分の竹皮のみを削り取る
    ・ 竹皮を除去した筆先部分に両刃の小刀かナタで2mm弱程度の間隔に切れ目を入れる
    ・ 1%程度の苛性ソーダ液を作りその中に割いた竹先を入れ加熱する(電器コンロ) 2-3年の竹の場合は苛性ソーダの濃度を3-5%にする
    ・ 割いた竹の状態で一本一本加熱時間を調整(30-60分くらい)
    ・ 柔らかくなった筆先を水洗いし酸性液で中和する 更に水洗いを続ける
    ・ その後筆先を木の台上に置き木槌でもってゆっくり叩きほぐしていく 台木は硬いものが良い 1cmくらいずつ外に向けて叩く
    ・ 水洗いと叩きほぐしを数回重ねながら筆としての状態を作り出していく 良い筆を作るには一日一本くらいのペースで
    ・ 筆としての穂先が出来上がったら水洗いをし、筆先を下にして陰で干す 
    ・ 完成

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    この日はクラフト同好会が竹籠を作っておられました。
    毎月20人以上が参加されていて見事なグループです。

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    特注 リースケーキ?

    ベルファームは個性的で魅力ある人が少なくありません。

    「やさい畑」のパティシエTさんもその一人かと思います。

    今回先に上げたように庭園のスタッフチームがリースガーデンの創園
    に取り組み、素敵なガーデンづくりに取り組んでくれたことが嬉しく、

    プレオープンに際して、彼・彼女らのがんばりに敬意を表するために
    特注ケーキを作ってもらえませんかとTさんに頼んだ。

    それを今日のチーム会議にお届けできたのが下の写真である。
    リースガーデンをイメージできる素敵なものに仕上げてもらいました。

    実はわたしは素敵だなとは思いましたが、それをリースのイメージだとすぐに
    気づいてくれたのは庭園のUさんでした。

    素敵な仲間たちがほっと一息ついてまた頑張ってくれて来園者に喜ばれる
    仕事が増えていけば楽しいですね。

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    リースガーデンがプレオープン

    ベルファームのイングリッシュガーデンの一番奥のところにストリームガーデンというものがありましたが、なかなか整備も追いつかず、この度リースガーデンとして新たに生まれ変わることになりました。

    一つのきっかけは、一般の方からの寄付をいただいたことです。ベルファームのホームページにも書かれているように、協議の末このストリームガーデンを新しく作り直すこととなりました。新しい庭のコンセプトを「夏でもくつろげる木陰とたくさんのお花が楽しめる庭」として庭のデザインを考えました。元あった高木の「ナンキンハゼ」を中心にした円形花壇をメインとし、なだらかな曲線の園路に沿って作った植え込みには、初夏~初秋にかけて鑑賞できる花木を植栽するなど、管理面と観賞面の両方から長く親しまれるお庭を目指したデザインができ、ようやく形が整ってきました。

    DSC_5390DSC_5391ガーデンボランティアさんの協力





    もう一つの特徴は、ベルファーム設立以来ガーデンの指導的立場にあったSさんが今年の春をもってやめることになり、残る三人のスタッフがリースガーデンの企画段階から社長のボトムアップの実践を兼ねて積極的に取り組んできたことです。

    DSC_5401整ったリースガーデン




    去りゆく人の技術やノウハウの伝承、一般の方の寄付やボランティアさんとの協働、スタッフひとりひとりの成長などいろんな意味合いを持った新しいガーデン部分の誕生となりました。


    「めずらしく不可解な竹の開花と竹の枯死」

     
    二週間あまり時間が過ぎてしまったのですが、6月7日京都ホテルオークラ3F曲水の間で開催された三回目の参加となる竹文化振興協会の総会に出席した。司会はいつもの渡辺政俊(竹文化振興協会・専門員)先生、とても八十数歳とは思えないお元気さ。京都大学大学院教授で竹文化振興協会理事長でもある柴田昌三先生がご挨拶された。

    その時の竹の情報発表会で気になる情報があった。最初に表題のタイトルで報告されたのは京都大学大学院博士後期課程二年の小林慧人氏。1908年に淡竹の開花が一斉にあり、120年周期といわれている。小林氏は、大津市で淡竹の開花2019年5月にみられた。ハチク類のメグロ竹が2019年3月に開花。マダケ類のキンメイチク金明竹も咲いている。竹の開花は60年とか120年とかいわれるが今その時期が来ているのではないかという。

     

    会社の視察旅行で6月12-13日と徳島へいった道中に途中の竹林を見ていると、黄変した竹(これは必ずしも枯死の前兆とはいえないらしいが…)や枯死した竹がチラホラみられた。

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      その他、珍しい竹工技能士でもあられる三島一郎(長岡銘竹株式会社・京の名工)氏は「失いつつある左前…竹垣の種類とルーツ」についてお話された。竹垣は10-15年の寿命。建仁寺の青垣はお坊さん自らが竹を割って作った。菱の組み方は着物の前合わせと同じで左前だという(処刑は右前の垣で造られていたとのこと)。また、京都は一年分の竹を秋に切っていた。新月に切った竹は虫が入りにくいという。

     

    また、柴田昌三(京都大学大学院教授)が「メキシコと世界の竹事情」のテーマで、2018年の第11回世界竹会議(ハラパ市…標高1500mのメキシコシティから300km) についてお話された。竹の構造材としての利用が盛んであること、貧困対策や医療に竹が使われていること。BambooPioneer …上田浩一郎氏が始められたUeda Lectureがつづいていることなど。また、次の会議は2020年10月に台湾の台中市で第12回世界竹会議が開催予定であるという。今度は近くだし行ったみたいものである。

    生駒市「高山竹林園」・京都嵯峨野竹林街道への視察

     

     今年の第一回の竹遊倶楽部視察旅行は5月30日(木) に甲田さんの提案の生駒市高山竹林園と、午後は笹原さんと相談で京都嵯峨野の竹林街道を見てきました。

     いつものようにベルファームのハイエースを借りて9人の参加。8時ベルファーム集合、8時10分頃ベテラン運転手でもある三鬼さんの運転で出発。ナビが古いこともあり、生駒市高山竹林園に到着まで予定いていた以上に時間がかかり、10時半を過ぎていた。

     抹茶に使う日本唯一の茶筌の産地と言われる高山は、室町中期に「鷹山村」という鷹山氏が支配していた1万8千石の村だったという。わび茶(絢爛豪華な書院における茶の湯に対して、村田珠光以後、安土桃山時代に流行し、千利休が完成させた簡素簡略の境地すなわち”わび”の精神を重んじたもの)の祖であり称名寺の住職であった村田珠光が高山宗○に茶筌の依頼をしたのが始まりで、茶筌を中心に明治期からは編み針なども制作してきたという。

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      竹箸、編み針        いろいろな茶筌

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      茶筌製作工程の説明   日本庭園

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      比較的簡単な竹垣(高山竹林園)

    日本庭園を見ながらの方苦しくない抹茶をいただき、その後は竹の見本園を見学した。生駒市高山町は奈良?京都・大阪の三角点のような小高いところで、ここから高速道路まで出るのがたいへんだった。ところどころすれ違い場所がある程度の狭い山道であった。

     そんなこともあり、嵐山での昼食には13時の予定が30分も遅れたが、これが幸いしてお昼時が過ぎていたので、おばんざいバイキング(1995円?)もスムーズに食べることができた。

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      竹の小枝を使ったオーソドックスな竹垣

    木曜日というウィークデーなのに松尾神社の方から渡月橋を渡った途端、さまざまな言語も飛び交う人また人でいっぱいだった。嵐山・嵯峨野の人気なのか、京都の人気なのか?


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      竹垣のいろいろ

     食後の散歩も兼ねて嵯峨野の竹林街道を散歩した。一二度はきているはずだが、今回は竹遊倶楽部の活動③年余りの経験もあり、みなさん竹の生け垣を始めいろんなところに注目して歩いた。

     一つ残念だったのは昨年秋の台風の後始末がまだ完全に終わっていないのか倒竹がわりにみられたことである。
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    竹垣の中を覗くと倒竹が…



     
     それにしても竹垣の作り方にはずいぶんといろんな方法があることがわかった。ぜひ今後ベルファームから美濃田大仏への竹林街道整備の協力に活かしたいものである。

     

    春の竹林整備等

    今年の孟宗竹の筍は少し出るのが遅く、4月中旬頃から連休すぎまで出ていました。

    昨年間引き過ぎの状況もあり、今年は筍としてはあまり取らないでおこうということでしたが

    少しは切って整備する必要がありました。

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      何度かの整備できれいになった孟宗林

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     5/26の破竹林の整備の折に、腐竹している竹を一箇所に集め、
    その前に三鬼さんの発案で竹の枝を置いてみるという試みが
    上記右の写真です。
    単に黙々と作業をするだけでなく、ふと思いついたことを
    実践してみることができる素敵な仲間です。

    連休の5/3に遡りますが、笹原さんが庭園で用いるために提供していただいている
    竹酢液のタンクが昨年秋の台風でモッコウバラに覆われてしまい、液を取り出せなく
    なってしまっていましたので、チェンソー等を使って鬱蒼とした部分を切り取ってもらい
    竹酢液が使えるようになりました。

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     竹酢液のタンクの位置を移動する  
     右の写真は午後までやってくれた屈強な四人(邊見氏、中西氏、北村氏、三鬼氏)

    この他チェンソーを持ってきてくれた植村氏、笹原氏、庭園のボランティアでもある
    向川さんが手伝ってくれました。

    5/22にはいつも支援でお世話になっている竹輝銅庵の前の竹園の整備を
    北村氏、笹原氏と私もリハビリを兼ねて手伝いました。

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    竹の街角博物館もされている竹本氏の竹や松阪振興へのこだわりは、竹文化振興協会
    三重支部の支部長をしていただいているのに相応しく、竹の作品を自ら作り、集め、展示
    するという立派な文化に育っています。

    私なんかは竹製品をベルファームの松阪紹介で売っていただいていても素人もいいところで
    文化には程遠いですが、とりあえずは楽しめているので良しとしています。
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    この春には青竹(ヨウカン竹の残り)で一輪挿しも作ってみましたが、私たちの
    簡易炭焼き器でもそこそこの燻し竹ができることをベテランの笹原氏が証明して
    くれましたので、また時間を見つけて人に喜んでもらえるものを作りたいです。


    ベルファームのバラは今年も咲き誇っています

    少し報告が遅れましたが、ベルファームにとって花の咲き誇る時期がやってきました。

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    品評会も行われています






    平成から令和へ―「平成の天皇」から学ぶべきこと

     実際、平成という時代をまともに考えたことはなかった。チコちゃんにぼーっと生きているんじゃねーよ!と言われそうであるが、特に平成が終わる4月30日と令和が始まる5月1日の報道等を聞いていると、改めて大きな変化の時代に生かせてもらっているという気がする。

     

     平成が令和に変わるのは、今上(kinjo)天皇が生前退位を決意されたから、それも十年も前にその問題の提起をされていたのに政権は生前退位に反対する人たちに配慮してか真剣に議論もせずにほってきた。そして2016年8月8日明仁天皇の覚悟の「お言葉」によって、事態は動き出した。政府は皇位継承に伴うさまざまな問題を深く検討することなく、大多数の国民の生前退位への理解に配慮してか、一代限りの退位ということになった。

     

     平成天皇の最後の言葉には「即位から三十年、これまでの天皇としての務めを、国民への深い信頼と敬愛をもって行い得たことは、幸せなことでした。象徴としての私を受け入れ、支えてくれた国民に、心から感謝します。明日(あす)から始まる新しい令和の時代が、平和で実り多くあることを、皇后と共に心から願い、ここに我が国と世界の人々の安寧と幸せを祈ります。」とある。

     

     さまざまな皇位継承についての意見があるが、次の「さよなら平成」特別対談 「平成の天皇 あなたが知らないこと」(週刊現代61巻14号・4月27日・5月4日号、白井聡・伊藤智永) から大事と思う部分を抜書きしてみよう。

     

    白井・「今上天皇の意図は、いわゆるナショナリズムをむき出しにした、上からの統合ではないと思います。国家が共同体たりうるには、最低限の協同性が必要です。つまりは”みんな一緒に生きているのだから、みんなが幸福になるよう助け合いましょう”という感覚です。平成時代に空洞化したのは、まさにこの感覚でしょう。そんな状況に対して、今上天皇は被災地訪問をはじめとする”象徴的行為”に力を尽くすことで必死にあらがってきた」

     

    伊藤・「生涯、君主意識が抜けなかった昭和天皇と違って、どうすれば象徴となりうるかという課題に意識的だったのが”平成の天皇”でした。…美智子さまとお二人で全国津々浦々を回り始めたのは1961年、徳仁(Naruhito)皇太子(浩宮)誕生の翌年からです。早い段階で47都道府県を訪問し終え、海外、日本人戦没異例の地も積極的に訪れた。被災地を訪問する服装も、従来の折り目のついた服装ではなく、腕まくりのワイシャツ姿になり、作業着になった。膝をついて同じ目線ではなすスタイルは即位前、皇太子夫妻の時から始まっていました。

     

    白井・「天皇とは存在するだけで天皇であるかもしれないが、民主主義の世の中ではそれでは不十分なのだと。天皇は常に行動を通じて天皇になり続けなければならないというのが今上天皇の思想なのでしょう。自分に続く次代の天皇にも”する天皇”でなければならないという、高いハードルを課している。では何を”する”のかといえば、自ら動いて国民と交流し、国民の幸福と平和を祈る。そこには祭祀王としての天皇の超論理的側面があると思います。つまり、天皇は祈りにおいて国民の幸せに無限の責任を負うという考えが見える。…丸山真男は責任を自覚する”精神の貴族主義”が、品位ある民主主義に必要だと論じました。今上天皇の振る舞いはまさにこうしたエートス(精神態度)を喚起させるものではないでしょうか」

    そしてその振る舞いを美智子皇后との共同作業として実践してこられた。

     

    白井・「民主主義社会も、日本という国も、人口減少を続ける日本人も、所与のものでも永遠のものでもなく、存続するためには普段の努力が必要だというメッセージだったはずです。”平成の天皇”は闘ってこられた。ではわれわれはどう応えるのか。皇室や政治家だけでなくすべての日本人の知性が問われています。」

     


     この課題への言及を後回しにして、海外からの平成天皇への評価はどうだったのか?アメリカ人のケネス・ルオフさん(ポートランド州立大学教授)は「平成の天皇の歩みを、どのように評価しますか。」という問いに対して次のような言葉を述べている(朝日新聞デジタルインタビュー)。

     

     「戦後の日本国憲法の柱である、平和と福祉のために尽くした明仁天皇と美智子皇后だったと評価できるでしょう。それも、ただ『平和が大事』と繰り返すだけではありませんでした。日本の国民に対して、日本人が戦争で経験させられた大変なことだけでなく、日本が過去、特に近隣の諸国の人びとに行ったひどいことについてもしっかり思い出し、記憶し続けることが大事なのだという誠実なメッセージを伝えました」

     

     「天皇制がかつて排外主義的な象徴に使われ、今も使おうとする人々がいるのは事実ですが、平成の天皇と皇后は国際協調主義に基づいた行動を続けたと思います。戦争の傷痕をいやそうという行動を含め、その基盤には、戦後憲法の価値を重視するという考えがあったことも間違いないでしょう」

     

     「災害の被災者に接する姿は、あらゆる国民が記憶するでしょう。皇太子時代から、障害者など社会の弱者に配慮し、離島などを訪れ、地理的なことも含めて周辺にいる人々に手をさしのべ続けたことも特徴でした」

     

     また、テンプル大学東京校のジェフ・キングストン教授は「陛下には道徳的な権威がある」と話す。「陛下はその権威を自ら獲得した。最高慰問者(consoler in chief)だ。陛下は父親(昭和天皇)には決してできなかった方法で民衆と関係を築いている」(BBC)。「陛下は、日本の和解のための最高の特使という、天皇の新たな役割をつくり出し、地域内を何度も訪問し、償いと悔恨の意を示してきた。基本的に、過去の戦争の傷を癒そうとしてきた」とキングストン教授は指摘する。


     

     平成の明仁天皇はさまざまな抵抗がありながらも象徴天皇のあり方を一貫して模索され、皇后と共に先の大戦の慰霊と次々と起こる日本列島の大災害を慰問して回られた。そのあり方は世界の君主の中でも異例であると言われる。その足跡はとても真似のできないものかもしれないが、政治の不作為を補ってあまりあるものと言えるかもしれない。平和を祈念するだけでなく、平和の礎としての国際協調主義に立った国際親善を鋭意創ってこられたからである。

     

     令和の時代はどんな時代(次代)になるのだろうか?人口減少や高齢化に伴う諸問題、成長がなかなか望めない中でどのような社会的な目標を定めていくのか、これらは行為の継承性や皇室のあり方にもつながってくる。世界的にもさまざまな格差問題や分断による憎しみからのテロなどさまざまな課題がある。5月1日に新たに即位された徳仁天皇・雅子皇后は、平成天皇のなされたことを継がれると共に、外国経験が長く、言葉や国境を超えたつながりやより深い国際親善も果たしていかれるであろう。

     

     自然災害は多かったけれど平和な時代であった平成と同様に令和がいい時代になるには、私たち一人ひとりも役割を果たしていく必要がある。一部に反対もあった平成天皇の生前退位を可能にしたのは大多数の国民の賛意があったことであり、それは平成天皇の象徴としての模索が国民に支持されてきた証左でもある。私たち一人ひとりの成熟と覚悟がここまで育った民主主義を後戻りさせないことにつながるのであろう。

     そのことに思いを致しながらも、衰えゆく私にとって令和は終活の期間、身近な次の世代への負担を少しでも減らし、できうればこれまでの生き様を通して何かを残せることではないかと思われる。明仁上皇と同じ時代に生きられたことを喜ぶならなおさら、生み出された自由時間をどのように使うのかが問われている。

     

     ノブリスオブリージェ(身分の高い者はそれに応じて果たさねばならぬ社会的責任と義務があるという、欧米社会における基本的な道徳観) があまり感じられない支配層、自分たちの利害しか考えていないのではないかと心配されるような今の政治の現実をも見据えながら、次代にツケを残さない生き方を模索していく必要があろう。

    「なつよ、その思いを抱いて、来週につなげよう」

     4/27”なつぞら”のナレーターウッちゃん(内田光良)の言葉である。
    非常勤になって朝ドラを見られる機会が多くなったが3月のある日の”なつぞら”の予告でこれは視聴率が上がりそうだと直感したが、案の定23%前後を記録し、この一ヶ月で何度も涙腺を刺激された。 

     主役奥原なつ(広瀬すず)の子供時代の粟野咲莉の演技がうまくて、後を心配したがそれも杞憂で、高校生になったなつはのびのび演じている。なつの好きな開拓者のじいちゃん大樹(草刈正雄)の重厚感が前半のドラマを引っ張り、毎回見ごたえがある。

     今週のストーリーは開拓酪農家として牛乳に自信を持っていて乳業メーカーに直接販売している大樹に農協を通して販売するように、十勝に連れてこられた柴田家の父剛男に頼まれたなつがなつが通う十勝農業高校の教師倉田隆一(柄本佑)に相談するところから始まった。倉田はそれを劇の中で自分のことだけ考えるより団結して進もうという台本にして農業高校の生徒たちに演じさせ、今日の発表会で大樹にみせるというのである。
     その大樹はなつの友達の山田天陽(吉沢亮)の父が遅れて酪農家になることを応援してきたが、メーカーに買い叩かれてきたことを知り、劇の後半に間に合って団結の必要性を改めて感じ、牛乳を農協に出すように変わるのである。


     戦前から農業資材や農産物は産業組合

    (現農協)と商社系列が競い合ってきたが、1戸1戸の農家は小さくても団結すれば大資本にも対抗しうるということが協同組合の原点であった。現実はドラマほど綺麗事ではいかないかもしれないが、ホクレン(経済事業を担う農協の連合会)が強くなったことによって救われた個々の農業者は少なくないのだろうと農学に関わってきた一人としては思ってしまうのである。

     それともう一つこの一連のドラマで強く感じたことがある。先週にも農協に勤める剛男が何度も大樹に農協に出すように頼んでいるが大樹は耳を貸さず、自分がメーカーから評価されているのはこれまでの実績の結果であり、それぞれに努力すればいいのだと取り合わなかった。大樹が山田の牛乳がひどく安く買われていてその不平等に怒ったこともあるが、言葉で説得するのではなく、気持ちや感動で人は動くことを改めて再認識させてくれる一コマであった。


    吉野の歴史と桜―千本桜を見る

     先週末、1月の入院以来行っていなかった橿原のグループホームの姉に会いに行く。ちょうどあちこちの桜が満開であった。せっかくなので久しぶりにJA紀の里の直売所めっけもん広場まで行き、いつも世話になっている仲間用の柑橘類を買い求めた。
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    直売所めっけもん広場の気になるウリ文句






     帰りがけ吉野の千本桜を見る。吉野は初めてであったが、ケーブルカーであがったところの丘の稜線に金峰山寺と門前町が広がっているのに驚いた。パンフレットによると、金峰山(きんぷーせん)とは、奈良県の吉野山から山上ヶ岳(大峰山)に至る一帯を指し、飛鳥時代から聖地として知られていたという。白鳳年間(7世紀後半)に修験道を始めた役行者(えんのぎょうじゃ)がこの金峰山で修行し、人々を迷いや苦しみから救い、悟りの世界に導くためにお堂(蔵王堂)を立ててお祀りしたという。
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     吉野の桜は日本古来のヤマザクラを中心に三万本で日本一と言われる。世界遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」に登録されたこともあるのか、山の上の門前町は外国人観光客を含めた人また人でいっぱいであった。

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     南北朝時代の南朝の都が吉野にあったことは覚えていたが、その数百年前から吉野が聖地として栄えていたことは知らなかった。吉野から直線距離で二三十キロの紀ノ川沿いに弘法大師(空海)が816年に開いた高野山真言宗の金剛峯寺があり、真言宗内の争いなどで1140年ころ和歌山に近い岩出に造られた新義真言宗総本山根来寺がある。

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    奥千本を望む        一本の木に紅白花





     因みに根来寺の僧兵は根来衆と呼ばれ、その隣今の和歌山から海南市にかけての雑賀衆(さいかしゅう)とともに鉄砲で武装した鉄砲傭兵・地侍集団(忍者集団ともいいうる)の一つであった。伊賀・甲賀の忍者集団も修験道とのかかわりが深いが、都の百キロ圏内に宗教や自律的集団が多く存在したことは興味のあるところである。

    自宅から姉のところまでは110キロほど、退院以来初の遠乗りで、二日間で300キロ足らずなのに流石に疲れた。
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    根来寺の桜

    ベルファームは早、花の季節―新入社員を祝っているかのように

    4月1日は高卒社員の入社式。

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    社長から辞令をもらう新入社員

    風は少し寒かったのですが、いい陽気で工房横のリビングストンデージーがみごとに
    咲いています。
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    イングリッシュガーデンでは赤、黄、白のチューリップが咲いています。

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    グラスガーデンの中には私の好きな極楽鳥花(ストレチア)も咲いていました。
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      極楽鳥花

    三重大学伊賀研究拠点を去るにあたって―定年後のもう一つの地域との接点

      2019年3月をもって、生物資源学部を定年の2008年の4月から11年の長きにわたって伊賀研究拠点の特任教授、アドバイザーとしてにかかわらせていただいた役割が終わりとなります。2008年の6月からは兼任されていたモクモク手づくりファームの木村社長に代わって松阪農業公園ベルファームの指定管理者、(株)松阪協働ファームの社長となり、一億あまりの借金を抱えた会社の舵取りを任されることになりました。その時から松阪、伊賀と月に2000-3000km、二台にわたるプリウスで走り回ることになりました。

    五年前にはベルファームでの朝のゴミ拾いの途中に自転車で転倒して右肩腱板断裂をして、社長も交代して行く回数もだんだん減らしてきました。そんなに注目される研究ができるわけでもない自分としては農や環境について学んだことをどういう形で地域に還元していけるかが自分の課題と思っていましたので定年後の松阪と伊賀2つの地域への関わりはとても有難いものでした。

     

     幸いにもベルファームでの取り組みは「六次産業化による地域活性化―三重県・松阪農業公園ベルファームの連携と挑戦―」(戦後日本の食料・農業・農村第8巻『食料・農業・農村の六次産業化』2018.2)として日の目をみることになりました。

    伊賀研究拠点では唯一の社会系の人間でしたので立ち位置の難しさや役立たずの面はありましたが、菜の花プロジェクト、上高尾の村おこしなどでは加藤進先生や小林康志氏との協同活動ができました。辞めるまでに伊賀有機農業協議会についてまとめたいと思い、昨年の夏ころから書き始めました。現地調査の余裕がなくて構想の半分しかできませんでしたが、20年あまり関わってきた三重県史編纂の『三重県史研究』第34号に「〃有機の里 いが〃の淵源―その基礎を創った人々」の論文を載せてもらい、この3月末に発刊の運びになったことは有難いことでした。

     

    最後のイベント参加となった3月27日の伊賀研究拠点の第19回子供大学では、酒井先生の「なぜ地震は起こるのか?」のお話や加藤先生の楽しい「水を入れると光るカップをつくろう」という導電実験がありました。
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      酒井先生の自身の話    加藤先生の電気の実験

      その夜は近しい人たちから同時にやめられることになった副所長の山本先生共々懇親会をしていただきました。その席ではサプラライズで、森脇さんが作られた押し花アートと伊賀焼のコーヒーカップを頂戴することになり感激やら申し訳ないやらでした。ある意味11年間で一番印象に残る素敵な時間を過ごさせていただきました。山本先生は以前に滋賀医大で献体団体の「シャクナゲ会」事務長?をしていたときに懇意であったという。甲賀市生まれの私が伊賀で11年も仕事をさせていただいたことにもご縁を感じる。

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    左は山本先生、右は押し花アートを作ってくれた森脇さん





    ここ数年で公的なお仕事はほとんど代わってもらい、この4月からはほとんどベルファームでの活動のみとなる。今なお借金の残っているスローライフ協会の活動をベルファーム中心に続けて、生きているうちにしておきたいことやしておくべきことに注力したいものです。

     

    人間としての持てる可能性をちょっと拓いて、自分も周りもハッピーに!

    少し前の3月20日にベルファーム常勤的スタッフの全体会議が開かれました。各部署の2019年度の活動方針を共有し、チーム全体としての力を結集していこうという大事な会議です。

    ここしばらく執行役員や経営会議で議論になり、社長が事あるごとにスタッフに啓蒙してくれているのが、トップダウンよりボトムアップで経営力を高めようということです。

    私以外の経営幹部はみんな叩き上げで言ったことは率先してやっていくタイプなので、ボトムアップのためには随分と忍耐もいることと思いますが、会議では多くのスタッフさんからの意見がこれまでになく取り上げられていました。私個人はこの会議がいい意味でターニングポイントになるのではないかと思っています。


    特に喫茶ルーベルは当初から職場の雰囲気がいい部署でしたが、さまざまなアイディアで少し頭打ちの感がある業績についても期待できるのではと思っています。これまで以上にベルファームの来園者の皆様のご意見も取り上げていけると思いますので見守っていただければと思います。

     

    私は最後に会長として挨拶させていただいた時に「伝えたいこと3つ」を述べましたが、時間がなかったこともあり、もう少し伝えたかったことを整理してみたいと思います。タイトルはちょっときれいごとすぎるような表現なのですが…、言いたいことは、人生の実質的な半分の時間を使うことになる仕事が面白ければいい人生に近づくよねということです。

     

    ① 私が時々使う言葉ですが、「人間も動物である」すなわち、エネルギーや物質のスムーズなの出し入れで生きている。自然治癒力・免疫性―誰にも自分を守る生命の仕組みが備わっている、それを強めるかどうかは多分に生活習慣にかかっている。断食をしてみると調子の悪い箇所が治ったりします(動物はお腹の調子が悪くなると食物を取らないで治します)。

    とくに人の自然性を大事にしたい。人はまわりの自然や環境の中でしか生きられない。さまざまな人工物の発明等で人間生活は便利で効率的になってきましたが、人は土から離れては生きられない。だからこそその土地で取れたものを食べる「地産地食」やその土地でとれたもので自分の体ができているという「身土不二」などがベルファームの理念にもなっているのです。

     

    ② 食物を得て、それが活動の源泉になる→基本的に食物を入れなければ活動のエネルギーを出せないように、様々な知識を取り入れ、吟味することが知恵になる。どんなことも学ぶことには貪欲でありたいですね。

     

    ③ 人間は人の間と書くように他人との関わりの中で自分を作り上げていきます。人の悩みも喜びも全て人間関係の中にあると言っても言い過ぎではないと思われます。となるとストレスを溜めすぎないような方法で人と関わること、人との関わりを喜びに変えられることが豊かな人生への一つの重要な要点になると思われます。
    会社など組織の中で目標を共有していくことは大事ですが、その中で自分は何に力を注ぐべきかは人によって異なることもありえます。

    そんな時に人とばかり比較しているとストレスが溜まってばかりということがあるかもしれません。より大事なことは自分が力をつけ、柔軟性を身につけることだとすれば、他人比較する前に以前の自分と比較してプラスがあればそれが先ではないでしょうか。できないことよりできること探しをということです。自分が気持ちよく働けることが結局は組織のためにもなるのではないかと思います。

     

    最後にみんなに「ベルファームの一番のウリは何ですか?」とお聞きした。美しいイングリッシュガーデンや美味しいランチという声を想定していたのだが、もちろんそれも大事であるが、その中で仕事をしているスタッフの笑顔やあり方という声が出てきたのが嬉しかった。
    多くの素敵なスタッフがますます自分に磨きをかけてリピーターを多く持てるようになればまた一皮むけたベルファームが育ってくるのではないかと思います。

     

    ○ 私の今のベルファームにおける役割は、74年の波乱の人生を使い尽くす方法→聞き役とエンカレッジすることだと思っています。

     滋賀の山里に農家の長男として生まれ、日本の農業に何らかの形で役立つことが自分の役割と思い込んで農学部に進み、縁あって三重大の教師を36年勤め、定年後にベルファームで働かせてもらいました。

    この間、私事ですが、当時まだ珍しいアジアの人と国際結婚し、二人の子供を作ったが破綻し、ひとり親子育てを経験し、子連れ再婚と挫折による別居(ひとり子が大きくなってから離婚)、基本年金生活での末子への仕送りなどあまり人のしないこともいろいろと経験して敷きました。
    そこからも学ぶことも多く、ひとり親家庭へのちょっとした支援や相談を続けたりもしています。農業や環境に関わる社会的なお仕事、世界の何カ国に友だちもでき、十名あまりの留学生から中国に招待されるなど感謝すべき経験もさせてもらってきました。

    数年前から右肩腱板断裂、心筋梗塞、左肩腱板断裂などでNPO活動としての竹林整備などもままならなくなり、残るは経験値の多さを生かして聞き役に徹し、周りの人たちが元気になってもらえるのを少しでもお手伝いできたらと思っています。落ち込みかけたら一緒に食事でもしましょうか。

     

    〈連絡先―月に数度しか来ないので〉

    Kotaro 090-5030-2614, 津市豊ヶ丘3-13-17,kohara@xf6.so-net.ne.jp,

    ブログhttp://blog.livedoor.jp/okaeri33/

    強行軍の研修旅行ー小樽から何を学ぶ

    今年度の研修旅行は半年以上前からLCCの航空券を抑えた北海道・小樽でした。

    3/5ベルファームを朝の5時に出て、セントレア7:35発の新千歳行きに乗り、
    帰りは新千歳20:30発でセントレア22:30自宅に戻るのはみんな次の日という
    強行日程です。

    私はベルファームまでが小一時間かかるし、朝が起きられなくて迷惑をかけても
    いけないので前日に東横インに泊まりました。

    新千歳空港からレンタカーを借りて回るという選択肢もあったようですが、
    雪の状況もわからないし、電車で小樽に向かい、二日間小樽のあちこちを回ることになりました。

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     長野の山は雪でしたが、北海道も今年は行きが少なかったようです。

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     JR北海道の快速には内地?にはない工夫がありました。左端の写真には3つの
    工夫が写っています。
    一つはチケットホルダー。でもここに入れて忘れてしまうこともありそうですが…
    2つは快速にもテーブルが付いていること(下の部分)。
    3つ目は頭上の荷物置きが一部透明になっていて下から小さなものでも取り忘れていないかすぐに分かることです。

    右の2つの写真は天狗山のゲレンデと頂上から小樽の街を見下ろしたものです。

    ホテルはGrand Parkという名前でしたがよくこんな立派なところに泊まれたものだと思いましたが、元はヒルトンホテルで倒産して別の会社が買い取ったようです。インバウンドで多くなっているアジアの人たちがとても多く泊まっていました。
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    ホテルのロビーと運河遊覧


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     北海道の海岸部は当然のこと海の幸が豊富です。左は練り物の会社の見学の様子です。
    右は昆布屋さんの奥に飾ってあった漁具です。その昆布茶はとても美味しかったです。

    考えてみると飛行機が就航するずっと前の本州からのアクセスは船です。その時代の北海道の玄関は札幌というより小樽だったのでしょう。江戸時代の北前船(大阪ー下関ー舞鶴ー敦賀ー新潟ー函館ー小樽)の時代から京都や大阪と北海道とは交易が盛んだったと言えます。


    私の荷物はみんなが気を使ってくれて持ってくれましたが、歩きまわっていると知らずに方を動かしていることも多く、ホテル泊まりの夕方と朝も歩いて15分程の温泉に行き、セントレアの帰りにも極楽湯によってもみほぐしてきました。
    今回の研修旅行は社長が自ら段取りし、企画してくれました。確かに研修より観光になってしまった部分はありますが、社長の親心の旅行だったと思います。お疲れさん。

    2019 春の洋ラン展 in ベルファーム

    3月8-10日の日程で三重愛蘭会さんの主催で洋らん展が開催されています。

    いつもながら素敵なランや珍しいランが展示されています。

    お値打ちの洋ランが買えるのも魅力的です。

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     左から2つはデンドロビューム属で、真ん中の白い花はタイワンピンポンという名前がついています。


    入院病棟の夜―看護師さんのたいへんさ―

    入院生活37日間で時々睡眠導入剤は使ったけれど、残念ながら朝まで起きずに寝られたたことはなかった。一日外泊で自宅に帰った時は5時まで7時間寝られたのですが…。

    痛みもそれなりにあったけれど、ひとつは湿度が低すぎて(17-20%)喉がカラカラで目が覚める。
    大部屋に移ってからは部屋の扉が空いたままなので、唸っている人、叫んでいる人の話もよく聞こえてくる。
    いびきが気になることもある。看護師さんは呼ばないときでも時々回ってきて様子を見てくれている。

    あまり迷惑をかけないようにと思ってはいても、痛みが気になる時はアイスノンやホットパックをもって来てもらったこともある。そんな時の看護師さんの一言に癒やされる。「また痛かったらいつでも呼んでね!」。

    叫んでいる人へもイライラせずにゆったり対処されている。2時間交代の休みはあるとはいえ、看護師さんの夜勤はほんとうにたいへんだろうと思いました。

    リハビリの難しさ―力を入れないように意識する

     手術は無事成功したので、後は外転装具が外れるまでの4週間と3-6ヶ月かかるというリハビリに如何に対処するか。

    時間はたっぷりあるので、「入院中にやること」リストを十数個あげ、その資料をもってきていた。し手術翌日の午前中に点滴の管、酸素マスク、導尿カテーテルが外れて、その日の夕方にインターネットに繋がる個室に移動してもらった。痛みもそれほどではなかったので、手術後三日目(1/17)からはリハビリをしてもらう他はベットに腰掛けて主にパソコンに向かっていることが多くなった。

    手帳メモの整理、手帳住所録の整理、年賀住所録の整理、今年度のWishlistの整理、健康日誌の整理、後見している姉の書類の整理、もう一度会いたい人リスト、ベルファームでしたいことリスト、竹遊倶楽部の案内板、竹等の展示説明、終活の開始、編年史的な人生の総括、喜寿2021、傘寿2024に向けてのやること、2004からのスローライフ活動の総括等々である。

    一週間、二週間作業は捗っていろいろな整理もでき、先行きのこともだいぶ考えられたけれども肩のこりはひどい。普通にパソコン作業が続くだけでも肩は凝るが、左腕が装具を通して方にかかるので仕方がないのだが…。

    そんな時に二週間ぐらい経った頃か、リハビリの広瀬先生から「脇が硬いのも生活習慣ですよ…力が入ったままになっている」と指摘された。ただひたすら時間の経過を待つしかない、と思っていたところがあるので、ハッとした。リハビリ中も「もう少し力を抜いて…」と言われても自覚できていないことがある。知らないうちに力が入っていることもある。気をつけていると右手で歯を磨いているときにも、左手で装具を抱えて力が入っていることがある。

    甲野善紀氏のDVD「古の武術を知れば、動きが代わる、体が変わる」をみて、普通によく言われる「力を抜いて」は力をいれるでもなく、だらんとするのでもなく、生卵が塩水の中に留まっている状態という説明が腑に落ちる。


     人によっては頑張ることより頑張らないことが難しいのと似ているかも。筋肉は柔らかい人、柔らかくデキる人が力を発揮できるのと似たことだと頭では理解できていても動かすことによる痛みがあると、力を抜いてと言われても無意識の防衛反応か力が入ってしまうこともある。なかなか加減が難しいけれど課題が明らかになったのは一歩前進か?

     

     ちなみに鈴鹿回生病院はかなり有名らしいですが、両肩とも腱板断裂の人も珍しくはないそうです。私はこの原因の一つはライフスタイルもあるのじゃないかと思っています。私のように事務職で力仕事をほとんどしてこなかったものは、鍛えられていない分より劣化が進んで、ちょっと転んだり、力仕事を続けたときに切れやすくなるのではと思うのです。腕が使えないといかに生活に不便かは身にしみているのでリハビリも心してやらねばと思っています。

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