コーおじさんの種まきブログ

定年の随筆集「農、教育、人生ーコーおじさんの七転八倒半生記ー」のその後、スローライフ協会の五つの種まきと松阪農業公園ベルファームのできごと、また人生についての「つぶやき」を、月に数回程度を目処に書いていきたいと思っています。ご意見・感想をいただける場合にはkohara@xf6.so-net.ne.jpへお願いします。

コロナ禍で挑戦するリユース・手作り市

 三重県の緊急事態宣言は9月30日まで延長されました。公共施設やそこでのイベントも休止されることが多く、ラジオ体操や少しの散歩のみで一日家にいることの多い日々です。オリンピック・パラリンピックは多くの人の心配をよそに実施されてしまいました。そんな中でも全力を出し感銘を与えられたアスリートたちには敬意を払いたいです。しかしながらいくら政府がこの間の感染拡大(第六波)にオリパラは関係ないと言われても全国津々浦々への波及は、ついには自宅療養という名の病院にかかりたくてもかかれないという深刻な事態をもたらしました。軽症かと思われていたのが急に容態が変化して亡くなられた方も少なからず出てきています。
 業務そのものが人と人の接近が避けられない医療関係者や福祉関係者の苦労が忍ばれます。日本ではワクチン接種が進んできたこともあるのか急拡大していた感染者少し減少し始めましたがなお油断はできません。世界を見渡せばワクチンの調達もままならず、医療資源も乏しい国々も少なくありません。
 こんな中で私が何かできることはないかと思い巡らしていて、ふとこれなら一人でもある程度やれるのではないかと思いついたのが下記の「リユース・手作り市」です。ベルファームの農産物直売所「農家市場」は近隣の農家さんの出品で成り立っていますが、ここのところ毎月意欲ある農家さんが農家市場前で直売する「農家マルシェ」が行われています。ここに協賛する形で、まだ使えるもの回して再利用するリユース市、竹素材などで手作りしたものなどをお値打ちに販売して売上高全額を医療従事者に寄付する企画をしました。

リユース、リペア、手作り市

売上高全額コロナ禍で奮闘の医療関係者に寄付しますー

…農家マルシェに協賛して…

 

日時:919日及び20日 各10-12時頃(状況により最大15時まで)

場所:ベルファーム農家市場前

出品物の例:食器、音楽CD、本、修理傘、燻竹及び竹炭製品(靴べら、箸、一輪挿し、竹炭かご)、その他日用品(ストラップなど)

 

SDGs、持続可能な社会を目指して、物を大切に使い、繰り返し使い、直して使いましょう!

◯費用はボランティアで賄い、売上は少しまとまった段階で当面すべて「国境なき医師団」(世界の約70の国や地域で医療・人道援助活動を行っている団体)と「ジャパンハート」(“医療の届かないところに医療を届けるというMissionを掲げ、25年以上にわたりアジアで医療活動を行っている団体)に寄付します。

◎通常の半分以下の価格で販売しますが、寄付も大歓迎です。

 

NPO法人 三重スローライフ協会, 竹遊倶楽部

(世話役:オオハラ,090-5030-2614)


コロナ感染のリスクとワクチンのリスク

オリパラ実施と共に急拡大していったコロナ感染数のピークは超えたというもののまだ高い感染状態(21の都府県で9/12までの緊急事態宣言が続いている。世界的には遅れていたコロナワクチンは2021217日から医療従事者約四万人に先行接種開始され、4月頃から高齢者の接種を優先的に行い、97日時点では累計接種は13900万回となり、総人口の約48%6200万人が2回接種しているという(Our world Data)。特に感染した場合の重症化が心配されていた高齢者の接種は一回目90/16%、二回目88.33%(9/8, NHK新型コロナウィルス特設サイト)と高い水準になっている。

 

ファイザーやモデルナワクチンはmRNAワクチンという種類でウィルスのタンパク質を作る遺伝情報の一部を筋肉注射するという。そのため伝えられる副反応以外にも長期の影響を心配する人(若者)がいる。しかもワクチンを打っても感染して亡くなる人も出てきたりして難しい問題である。特に最近はブレイクスルー感染(ワクチンを2回摂取した後に感染)によって死亡した人も報告されている(9/9日テレNEWS24によると都が把握しているブレイクスルー感染の死者は22人になったという)

しかし、一般的に言えばワクチン接種による感染予防と、もし感染したとしても重症化の危険は避けられる可能性が高く、西村秀一医師がいうように、特に人との接触の多い職業の人はワクチン接種のメリットが大きいというのはそのとおりであろう(西村秀一『もうだまされない新型コロナの大誤解』幻冬舎)

ところがこれは一般にはあまり報じられていないがワクチン接種後短期間(最短2日後)に亡くなっているケースが報告されている。厚生労働省もこの関連情報はオープンにしている、「新型コロナウイルスのワクチン接種を受けたあとに死亡が確認された人は、88日の時点で1002人でした。ファイザーが100万人あたり19.6人、モデルナが100万人あたり1.2人で「接種と因果関係がある」と結論づけられた人はいなかったということです。また、心臓の筋肉や膜に炎症が起きる「心筋炎」や「心膜炎」の疑いがあると報告された人は、ファイザーのワクチンが55人(100万人あたり1.1人)、モデルナが13人(100万人あたり1.4人)でした」と。

7月だったか8月の初めだったか、「週刊ポスト」がこの問題を取り上げていて、ワクチン接種後に亡くなった60人ほどの人の基礎疾患や服用している薬のデータが載せられていた。その中に、私も心筋梗塞の手術をしてもらって以来服用しているバイアスピリンを飲んでいた人が二人含まれていた。厚生労働省の情報にも、「予防接種を受けるに当たり注意が必要な人」に「抗凝固療法を受けている人、血小板減少症または凝固障害のある人」が明記されていた。いずれもワクチン接種との因果関係ははっきりしていないと記されているが基礎疾患がある場合には気になるところである。

先の西村医師が言われているようにワクチンを打つかどうかはその人の考え方と生活スタイルの関係が一つのポイントだという。確かに定年後に家にいるだけとか、仕事があっても人との接触が少ない、三密にならない人でワクチン接種による悪化のリスクがある人にとってはワクチン接種は急を要するとはいえない。

自分の場合は接種後の「万が一」がむしろ気になっている。昨年末くらいから蜂窩織炎といわれた左足が完治しなくて閉塞性動脈硬化症のような症状になっているし、足の静脈瘤もできていて、今の処絵師などにはなっていないが、歩くと痛みがしばしばおこるような状況。血栓が心臓や頭に飛ぶと危ないことになるので気になってしまう。今亡くなってしまうと子供らに必要以上に大きなツケを残しそうだからである。断捨離は少しずつ進めているがコロナ禍の中で体力気力が弱ってはかばかしく進んでいないこともある。そのため社会的な仕事を減らしたり、人生でお世話になった人への区切りの挨拶を兼ねて竹製品を作っていたりと迷いが続いている。

 この問題を考えていてもう23ヶ月以上になる。最近ワクチン接種がある程度進んだ中で、自粛を緩和し経済を活性化させるためにワクチンパスポートの話が出てきた。飲食やイベント参加、移動にワクチン接種の証明書があれば活動を可とする方向での検討が進みだした。ワクチンを打つリスクから控えている人には新たな分断になりかねない問題を含むが、新型コロナウィルスの全体的コントロールという視点ではこの話は進められるであろう。

 結局問われているのは自分が今何を大事にし、直面する課題に向き合えているか、なのであろう。終活を進めなければと思いながらも遅々として進んでいないのが現実ではある。しなければいけないことのリスト(Do List)はかなり頻繁に作り、それなりの優先順位は付けているのだが、どうも目先のことに囚われてほんとに大事なことは、簡単には進まないので、つい後回しにしているのかな?それでいて求められてもいないお節介仕事やジャム作りやしそドリンク作りに時間を費やしている。ちょっと立ち止まってちゃんと考える時間を持たないと大きな後悔に繋がりかねないかな!


後期高齢者になっての運転免許の更新

 後期高齢者になってから初めての免許更新が8/26に無事終了した。
8/10に認知機能検査があり、記憶力が衰えているのが気になっていて16枚の絵を見せられて、しばらく後に何が書かれていたか思い出して書いてくださいと言われ、9個しか思い出せなかった。同じ絵のヒント(野菜の◯とか家具の◯とか)を出された問題は16個全部思い出せたので88点で合格していた。同じく受けていた人が予習してきたが出題のパターンが違ったとかいわれていた。自分も予習しておくかなとか一瞬思っていたが余裕がなくて出たとこ勝負だった。次に8/20の高齢者講習は実車試験でクランクやS字カーブ、車庫入れなど運転技術の衰え程度のチェックなのかなと思うが、まあ問題はなかった。
 更新時の検査でちょっと気になっていたのは大型免許に不可避の深視力(遠近感や立体的に見る判断力)が落ちていないかどうかである。もともとトラクターなどの大型特殊免許と大型二輪免許の他に当然普通免許を持っていたのだが、海外に出ていたときに免許が執行してしまい、復活の更新免許を受けるときに免許センターの人に大型があれば普通は乗れるから普通免許はいらないじゃないの、といわれ、免許の更新料は別々にかかっても払うつもりでいたのだが、折角のアドバイスに反発するのもどうかなと思ったのか聞き入れてしまったので、大型の検査がもし通らなかったらどうしょうと少し心配していたのだが、8/26の視力検査(両目で0.8以上)も深視力何とか通ってしまった。
 大型と言っても若いときにアルバイトで大型トラックを運転したことがあるくらいで、松阪に来てからは何回かマイクロバスを運転したことはあるが、よほどのことがないかぎり大型に乗ることはないであろう。自家用車も3台お世話になったプリウスから今はビッツになっている。やはりハイブリットがいいなあとの思いはあるがいつか変えるとしてもアクアくらい。プリウスクラスと比較するとだいぶ運転が楽な気がする。
 もちろん最近の心身の衰えは自覚しているので、最近は狭い道を避けて、遠回りしても広い道を通ることが多くなったし、スピードも出しすぎないようには注意している。幸いにして車で他人を怪我させたことはないが、車は凶器になりうることを忘れないようにしたい。

そして、五輪ははじまり、終わった…感動と不安のはざま

 「そして、五輪は進行中…感動と不安のはざま」と題してこの原稿を書き出したのは83日だった。ずっと気になる新聞記事のスクラップを続け、整理を試みてはいたが、2キロの散歩をしてはその疲れが残り、午前や午後に1-2時間の昼寝をしないと頭がスッキリしない状態が続いていた。コロナ拡大しても外仕事のベルファムでの竹細工や仲間にもらってもらうシソサワードリンクや水っぽい梨ジャム作りの挑戦、高齢者講習や認知検査などで書ききるのが後回しになっていたが、このあたりで五輪とコロナ拡大絡みのメモランダムに区切りをつけておきたい。(8/24)

 

  多くの国民の不安・反対や医療関係者の心配をよそに東京オリンピック2020+1723日に開会式が行われました(競技開始は7/21)。それから早十日が経っています。いざ始まるとコロナ禍のストレスが多い中、開催されるかどうかもわからない中調整を続けてきたアスリートたちの、開催されたことや困難な中支えてくれた家族や周りの人たちへの感謝の言葉が相次ぎ感動を与えています。期待に添えず残念な結果に終わった選手やあまり注目されていない中大活躍した選手など話題に事欠きません。

 しかしながら、心配されていたコロナ対応への課題はすぐさま現れた。コロナ患者を受け入れていた横浜の五輪指定病院の電話は鳴りっぱなしで、医療機関へのしわ寄せが一層ひどくなっている(20210724、朝日「コロナと急患 追われる医療」)

 少しさかのぼって、朝日新聞が717,18日にアンケート調査(有効回答数1444)によると、五輪賛成は33%、反対55%、菅義偉首相が繰り返す「安全、安心の大会」には「できない」が68%になっている。内閣支持率はこれまで最低の31%で、不支持率は49%となっている(7/19,朝日新聞)。同じ7/19の朝日新聞では、関西を中心に感染が広がった3月から沖縄県を除いて緊急事態宣言(10都道府県、第4波)が解除となった6/20までで、自宅や施設で亡くなった人が少なくとも51(大阪府19人、兵庫県15人、北海道7)いるという。ワクチン接種はそれなりに進んできているもののデルタ株など変異株が急拡大し、病床が足りない状況がこの時点でも起こっている。

 それらを代表する分かりやすい発言は「東京五輪と太平洋戦争、同じに思えて仕方ねェ(ビートたけしの21世紀毒談)(週刊ポスト7/16,23)である。いわく、「国民がこれだけ反対しても、聞く耳持たずに開催に突っ走るんだから呆れるね。菅さんは、今でも本気で『東京五輪は人類がコロナに打ち勝った証』になると思ってんのかな?」(118P)。また、「そんな(開催の)カネがあるなら、コロナで倒産した会社の社員を助けるとか、こういうパンデミックがまた起きたときに備えて病院や研究所を充実させるとか、地震や水害みたいな災害に備えて各地に避難所を作るとか、他にやるべきことは山ほどある」と。全く同感である。(8/3-16)

 

◯菅政権の目論見に反した五輪下の感染拡大

 菅首相は主要七カ国首脳会議(6/13共同宣言)で、東京オリンピック2020+1を安全安心の大会にするとアピールした。その流れなかで6月17日沖縄を除く9都道府県の緊急事態宣言を解除し、2月3日に成立した改正特措法による「まん延防止等特別措置」への移行を決めた。解除の時点で感染者は増えつつあったが、ワクチンの接種拡大によって抑え込めるとの楽観シナリオを拠り所にしていた、との朝日「最後の緊急事態宣言() ワクチンで日本も変わる(20210720)の分析である。その後東京の感染状況は悪化し、78日には4度目の緊急事態宣言出すことになる。三度目の緊急事態宣言(4/23)の時に複数の閣僚が五輪の中止を菅首相に進言したが聞き入れられなかったという。首相はトップダウンにこだわり、調整役不足の政権の構造的な問題が、コロナ対応を通じてあらわになっている、と「果たされぬ約束 首相孤立」の記事で述べられている(最後の緊急事態宣言・下、20210721, 朝日P3)

 五輪開会式直前の721日の都のモニタリング会議では、都内の週平均の新規感染者数は20日時点で1170人と前週785人の49%増となり、このままいくと8月上旬には第三波を上回る約2600人になるとの予測が示された。また、自宅療養者(入院したくてもできない人との指摘もある)3657人と前週の1841人から倍増し、関西圏をはじめ多くの地域で新規感染者数が増加傾向と指摘している(20210722, 朝日1p)

 さらに開会式直前の722日には開閉会式ディレクターを務める劇作家の小林賢太郎氏がナチスによるホロコースト(ユダヤ人大虐殺)を揶揄する表現を過去に用いていたとして解任したと大会組織委員会が発表した。開会式の演出チームを巡っては、楽曲の作曲を担当していたミュージシャンの小山田圭吾氏が同級生や障害者を過去にいじめた経験を反省する様子もなくインタビューで語っていたことが問題視され、19日に辞任している(20210723, 朝日1p)。なぜこんな間際にと思うが、SNS等で問題視されぎりぎりになってさすがにまずいのではと大会組織委員会が判断したようなのだが、森前会長が女性差別発言で辞任したのと同じく標準からずれた人権感覚を世界にさらすことになってしまった。


 大会の進行に伴い日本人アスリートの活躍が日々報道されるとともに、コロナの新規感染者数は予想を超えて拡大していき、730日午後840分時点で全国の新規感染者数は10,743人となり3日連続で過去最多を更新し、東京では3,300人と3日連続で三千人を超えた(20210731,朝日新聞)

 そして五輪は88日閉会式が国立競技場で無観客で行われ、日本は史上最多のメダル58(27個、銀14個、銅17)の獲得で終了した。選手たちが国境や人種など違いを超えて、競い合い認め合うスポーツマンシップや日本の活躍で、開催前の逆風はある程度和らぎ、朝日新聞の全国調査では56%が五輪開催「よかった」とした。しかしながら、菅内閣の支持率は28%と昨年9月の発足以来はじめて3割を切った。
 五輪選手と一般の人たちを分離した「バブル方式は」成功したと言えるレベルだが、全体としてみると穴がありバブルな以外に感染が拡大するリスクがあり、一般には五輪開催によってコロナ対策としての自粛ムードが「ゆるんだ」と回答した人が61%に及んでいる。宣言下で自粛を求めながら五輪を開催するという矛盾は効果的な人流の減少をもたらさず、夏休みやお盆という元々人の移動が増える時期ということもあり、結果的に都市部に集中していた感染を各地に拡大させることにもなってしまった。(20210709, 朝日新聞、コロナ五輪 内外にリスク) 

ワクチン接種が政府の当初目論見通りに進まなかったにしても感染が急拡大した大きな要因の一つは、感染力の強いインド由来のデルタ株に首都圏では9割が置き換わった(20210812,朝日新聞「宣言一ヶ月 見えぬ出口」)こともあろう。特にコロナ対応、ワクチン接種に加え、五輪への協力を求められた病院は「三重苦」が深まったと言われ、多くの課題を残した。そして824日にはパラリンピックの開会式が行われ難しい時間が続くこととなった。(8/24)

4-2 個人としての限界と私自身の課題

4-2 個人としての限界と私自身の課題
 私個人としても現役の時及びベルファームの管理運営の代表取締役をさせていただいていたときはなすべき職務は今より遥かに多かったのですが、何とかこなす体力がありました。しかし、今や年末に起こした自損事故で左足を痛めてそれが蜂窩織炎と診断され、未だにちゃんと速歩ができるまで治らない。わずか2kmの朝の散歩ですぐに疲れが出る。ベルファームへ行って何とか一日動けても、その後の温泉やマッサージでも以前のようにはなかなか疲れが取れず、体調が戻るのに二三日かかってしまう。
 松阪協働ファームの仕事を非常勤にしてもらってからは普通は週に一、二回なので楽にはなっています。ところが、常勤で行っていたときには苦にならなかった往復60km(二時間弱)ほどの通勤がしんどくなって、行っている日に気になることをあれもこれもやっておきたいとなり、早めに帰るつもりでもすぐ夕方になってしまいます。疲れはできるだけその日のうちに緩和しておきたいので極楽湯など温泉やマッサージに行っていると、朝は7時に出て帰りは20-22時になってしまいます。
 人に指示して自分はあまり動かんかったらいいやないか、と云ってくれる人もいます。確かに会社の一員としては必須で出ている月一回の会議だけでも過ぎていくのかもしれません。小企業の常勤者はいろんな作業をしなければなりませんし、特に役員は収益を上げるための工夫や仕事はもちろんのこと、朝のゴミ拾いから人育てまで何でもこなさねばなりません。そうした実態を見ていると多少でもカバーできることはしたいと思い、屋外のテーブル磨きや壊れた裏庭の柵の補修などもしてきました(肩や肘が治りきらないので少し残っている部分が気にはなっていますが)。
 ここ数年ベルファームの竹林整備やこもれびの森の環境整備などに力を発揮してもらっている竹遊倶楽部の活動は実質リーダーの笹原さんの大きな力添えなしにはなし得なかったことです。ただベルファームとの橋渡し役は私一人なので、活動作業日はお茶屋コーヒーの世話、昼食の段取り、夏は冷茶作りなどちょこまかと動きま回るので一日の歩数が15000歩から2万歩を超えることもママあります。以前は一晩寝れば回復していたのですが、昨年末の事故からきた左足首がなかなか良くならず、心肺機能も衰えていよいよ役たたずになってきました。

 体調の問題を抜きにしても、最近年は人生のしまい方についていろいろと考えることが多くなりました。自分の人生は何事も卒なく上手にこなす能力は持ち合わせていなかったので、多くの高度成長期の戦士たちのようにどうしても仕事優先にならざるを得ませんでした。その時々に目の前の問題に全力を尽くしてきたつもりですが、器量が足りなかった分、結果的に後回しになったのが家族や身の回りです。
 三人の子どもたちは本人たちの努力で何とか自分で食っていく道を見つけてくれました。自分がいい環境で育てたとは言えない子どもたちや困っている親族(一昨年から施設に入っている姉の後見人も)には今からでも少しでも助けねばという考えが昔の農家の長男としてそだてられた根っこの部分にはあります。
これから何年生きるかわからないけれど、残り人生は家族親族や私の社会的な活動を支えてくれた多くの仲間になにか報いるものがあればそれをみつけ、実践していくのが最後の務めだろうと思えるのです。その方向性とも関連して、この4月から放送大学の心理と教育コースの学生になりました。

 そんなこんなで昨年の巻頭言にも述べた方向性のとおり、今年度中にNPO法人としての活動は一区切りとさせていただきたいと思っています。改めて、理事や会員など長く三重スローライフ協会を支えてくださった皆様に御礼を申し上げたいと思います。
 定年後は三重の片田舎松阪のベルファーム周辺でささやかに活動してきたに過ぎないけれど、今はどんな時代の中にあるのか、もがきながらも位置づけたいというのが元研究者としてのせめてもの矜持と思っています。体力や気力がもう少し戻ることがあれば、三重という田舎でのスローライフ活動の取り組みの経過や意義などを振り返りまとめる機会があればとは思っています。合掌。

4-1 NPO法人としての行く末

4. 組織のあり方と一人ひとりの向き合い方
4-1 NPO法人としての行く末
 昨年の巻頭言で組織の行く末に関する提案をさせてもらいました。答えにくい提案であったかもしれませんが、残念ながら特に意見が寄せられることはありませんでした。しかしながら会員が極端に減ることなく継続してもらったことは多くの人の応援の気持ちが感じられてとっても感謝です。
 昨年の提案の中でも書かせてもらったように、組織としての現状維持自体がかなり難しくなってきました。私自身は結果として17年間理事長を務めさせてもらってきましたが、借金を抱えながらもこれまでなんとかやってこられたのは四代にわたる事務局長をはじめ、歴代の理事さんや会員さんのおかげです。財務的な事情から事務局員さんを雇うことが難しくなってからは、より理事さん、特に何人かの理事さんに負荷がかかってきました。
 特に活動してくれている人への折に触れての気遣いなどはできるだけしてきましたが、会員さんはだんだん減少するばかりで、最近数年では農業塾の参加者と竹遊倶楽部の参加者が賛助会員になってもらうことが、かろうじての新規加入でした。この新しい加入者も続けてもらうには活動を楽しんでもらえる場作りをすることが大事ですが、活動の前後や準備的仕事などその世話役の役割も体が衰える中ではままならない状況です。
 なお多くの人に支えられているものの、今の体制では財政的にもさらに赤字が膨らんでいくことは避けられません。コロナ禍の中で理事会も満足に開けず活発な議論からは程遠い状況です。設立当初よりベルファームに場を与えられて活動してきていますので、協会も出資している(株)松阪協働ファームがあと1年で区切りとなる指定管理二期十年目の2022年6月の総会に向けて、NPOの最終責任者としてどのような解決法があるかを模索したいと思います。
 NPO法人廃止事務の経験をしてみえる森本理事からいくつかの情報を頂いていて、簡単ではないさまざまな手続きもありそうです。今年はNPO設立18年目に入ります。来年からの2年も頑張って20年にしたらという一部の声も聞いてはいるのですが、後に述べる個人的な事情もあり、この一年が持つかどうかも不安に感じているのが正直なところです。
 たとえ法人格を返上 したとしても、ベルファームに関わるNPO活動は任意団体として動きやすい形で続けることは可能ですし、私自身も松阪協働ファームと連携して行っている食育活動や農業塾、特に竹遊倶楽部などは可能なかぎり続けたいと思っています。

3-3 先人たちの教えを思い起こそう

3-3 先人たちの教えを思い起こそう
 これまでも経済と倫理(ここで倫理とは人としての生き方に関わるもの)については何度も論じてきたかもしれないが、改めて人間の本質に迫るこの問題をもう一度噛み締めてみたい。私が生まれた滋賀県の近江商人は「三方良し」の言葉を残している。商いは自分が儲かったらいいだけでなく、相手にもいいこと、さらには世間にもいいことが大事だというのである。
 松阪協働ファームの社長をさせてもらっていたとき、若き親友のピーターD.ペーターゼンの唱えていた作りて(売り手)、買い手、世間、働き手(雇用者)、自然の五者に良い経営という五方良しを参考にして、自然はもちろん活動のベースとして大事だが、将来を担う子どもたちのことをもっと考えたいと、自然を将来世代に代えた「五方良し」を目標にした。その精神は今にも続いていると思っている。
 松阪のことをいろいろと勉強したのもベルファームへいった2008年以降であるが、印象に残っている一つが江戸の越後屋を起こし、三井財閥にもつながった三井高利(1622-1694)の「先義後利」である。人に良い行いをしていれば利益は後からついてくるというものである。
 今年の大河ドラマ「晴天を衝け」の主人公・渋沢栄一(幼名は栄二郎、それから英一郎、篤太夫、徳太郎と改名)が藍玉を農家に作ってもらうのに、質についての目利きは発揮しながらもいい値で買い取って、農家にいい藍玉を作ってもらい、父親に認められる下りがある。これは彼の経済への姿勢を表し、渋沢の一生を貫く原点となっているのではないかと思われる。多くの企業を起こしながらも財閥を作らなかったこととも関係があるのではなかろうか。

3-2 経済と倫理の両立―「オルタナ」の目指すもの

3-2 経済と倫理の両立―「オルタナ」の目指すもの
私のもとに送られてくるメールマガジンに「オルタナ」がある。オルタナは、サステナビリティやCSR(企業の社会的責任)をテーマとした日本初のビジネス情報誌として、2007年4月に創刊された「サステナブル・ビジネス・マガジン」である。編集長の森摂氏によれば、英語の「alternative」が名前の由来で、売り上げや利益だけではない、環境や社会に配慮した「オルタナティブ(新しい、もう一つ)なビジネスのモノサシ」を探り、世に広げることがミッションです、としている。重点取材分野は、サステナビリテ全般/CSR/SDGs(持続可能な開発目標)/ESG(環境・社会・ガバナンス)/気候変動/自然エネルギー/第一次産業/ソーシャル/エシカル などです。
 米コンデナスト社が最近、サステナビリティをめぐる用語の使用について再考したそうです。(WWD記事:「『地球に優しい』って本当?ビューティ誌『アルーア』がサステナビリティについて幾つかの表現を廃止」)https://bit.ly/3c9o0wD
記事によると、「多くのプラスチックの容器がリサイクル可能ではあるものの、実際9%ほどしかリサイクルされていないという報告をもとに、『リサイクルが可能なプラスチック』という言葉の使用をやめる」とのことです。「地球に優しい」「環境に優しい」「エコフレンドリー」「生分解性」などの表現も、雑誌内での使用を禁止にするそうです。「生分解性は微生物の働きによって製品や素材が無機物まで分解されることを指すが、この働きに時間の制限を明記していないことや、ほとんどのゴミ処理に使われる埋立地には分解に要する十分な酸素が足りていない」(同記事)
「地球に優しい」「環境に優しい」という言葉は、オルタナも創刊以来、使用禁止にしています。「優しい」という言葉が科学的でないのが最大の理由ですが、そもそも「地球に優しい」とはどういう意味なのでしょうか、と問いかけている。
これらの戒めは、私たちが少し環境に良さそうな行動をしたとしても、今の社会の構造や私たちの行動スタイルを本気で変えないと、地球の未来や子どもたちの未来を明るいものにすることは難しい、覚悟して取り組もうということを求められているということではないか?

3-1 経済が持続的に発展するには

3. 私たちに求められているもの
3-1 経済が持続的に発展するには
 最近良く耳にするSDGsとは「Sustainable Development Goals(持続可能な開発目標)」の略称です。SDGsは2015年9月の国連サミットで採択されたもので、国連加盟193か国が2016年から2030年の15年間で達成するために掲げた目標です。具体的には17の大きな目標と、それらを達成するための169のターゲットで構成されています。目標の最初の6つをみてみると、①貧困をなくそう、②飢餓をゼロに、③すべての人に健康と福祉を、④質の高い教育をみんなに、⑤ジェンダー平等を実現しよう、⑥安全な水とトイレを世界中に、となっている。
 こういったことが目標であるというのは現実には大きな格差があり、その格差の是正こそ求められていると理解することができる。経済大国世界一のアメリカも日本を抜いて世界2位に躍り出た中国もともに所得格差は拡大している。
 世界非政府組織NGOの報告によると、世界の富豪の上位2153人が2019年の時点で所有した資産は、最貧民層46億人の総資産を上回っているという。アメリカの上位1%の富裕層が国の富の約39%をコントロールしているのに対し、下位90%が国の富に占める割合はわずか26%(https://www.cydas.com/peoplelabo/kakusashakai/)、と言われる。政治や政策を主導するのは主に富裕層だから格差の是正の現実的な難しさはあろうが、経済成長よりも分配の公正や改善を図ることでができれば経済や社会の安定につながりうると思われるが…。

2-4 オリンピックを巡って気になること

2-4 オリンピックを巡って気になること
 また、いろいろ関連記事を漁っていると、2020オリンピック開催地を日本と争ってイスタンブールが破れた(2013.9.7)が、2012年12月に発足した第二次安倍内閣は自ら主導して「日・トルコ原子力協定」を締結(平成25年4月26日東京で署名, 平成25年5月3日アンカラで署名, 平成26年4月18日 国会承認)している。エネルギーの多くを輸入に頼っているトルコの事情があり、福島原発事故を心配した反対運動もあったようだが、エルドアン首相の強いリーダーシップで締結している。それにしても福島原発事故からの復興も見通せていない中での原発輸出に迷いはなかったのであろうか。私の感覚では理解できないことである。
 もう一つ、JOC理事の中で一人先駆けてオリンピックの再延期を主張し続けてきた山口香理事は、「JOC内は無反応、議論がしたかった」(五輪はどこへ「出る杭」続けた理由, 2021.6.23, 朝日新聞)と発言しているが、大勢順応や忖度が蔓延し、日本の民主主義は大丈夫なのかと思ってしまう。
政治学者の宇野重規氏は民主主義の危機ということに関して、「意見応酬こそ基盤 個人の参加と責任 諦めの感覚が脅威」と延べ、「議会に抱く不満 市民の声反映へ デジタル化が鍵」(2021.6.17, 朝日新聞 オピニオン&フォーラム 「民主主義を信じる?」)と、市民が政策形成に日常的に参加し、行政権を直接統制する可能性に期待する、としている。私たち一人ひとりに迫る重い言葉である。

 素直に喜べないことが多すぎるが、いろいろと困難な大会現場で一生懸命働いている人は少なくないと思うし、コロナ禍の中で迷いながらもモチベーションを保っているアスリートの人たちがいることは希望でもある。もともとの目標の一つでもあった世界一コンパクトな五輪にすることが徹底され、世界での分断を克服し、格差の拡大を是正していくようなスローなあり方のオリンピックが目指せていたらとの悔いは残る。
政府の新型コロナウイルス感染症対策分科会の尾身茂会長ら専門家有志の提言は、「ワクチン接種が順調に進んだとしても、7月から8月にかけて感染者や重傷者の再増加や、変異株の影響への懸念。そして、大会開催を契機とした、全国での人流増加の懸念」が述べられている。観客については「当然のことながら、無観客開催が最も望ましい」と明記している。(business Insider, 20210618, 三ツ村崇志)
政府も都も、組織委員会も「安心・安全の五輪を目指す」と語るばかりで、これまでほとんど納得がいく説明してこなかった。しかし、提言にあるように、「引き続き強い感染対策が必要である状況に変わりがないことや、対策に協力したことで経済的に疲弊した方に対する迅速な支援の必要性、感染状況が悪化した場合の対応」の説明、とりわけ「国内の感染状況の悪化に応じて、大会主催者が迅速にとるべき対策について、市民へのアナウンスをできるだけ早く行って下さい」という指摘が十分実行されることを望むのみである。

2-3 東京オリンピックにみられる政府と国民の意識の乖離

2-3 東京オリンピックにみられる政府と国民の意識の乖離
 昨年のコロナ禍で一年延期された東京オリンピック2020は、最近の国内世論調査では、70%近い人が、7月23日からの予定通りの開催を望んでいない。しかし、国際オリンピック委員会(IOC)は依然として、大会は実施すると強い姿勢を堅持している。(https://www.bbc.com/japanese/features-and-analysis)。医療関係者も世論も、大多数は予定通りの開催に反対しているが、それでも、東京オリンピック・パラリンピックの中止について、政府からの発言はない。何があってもオリンピックは実施すると決めているかに見える政権の姿勢は、コロナが少し収まったかにみえると、Go to eatやgo to travelがあって、また感染者が上昇する繰り返しであった延長線上にある、と見られてもいる。間近に迫った開催予定の中で、今回のオリンピックに関する事柄を調べれば調べるほど??が出てくる。
パンデミック後のあり方に関係して、お金の問題と(すでに暗黙の前提となっているかに見える)開催に至る経過の不透明なことは注目しておきたいものである。
 問題は開催地決定前後から、どのようなオリンピックにするのかの議論にも関わっている。商業主義化し大金の開催経費を出せる国しか開催できない問題性の指摘は以前からあった。東京大会までの準備過程で、全体の約8割の競技会場を半径8キロの中に集中させるなど、世界一コンパクトな五輪にすることで経費を7000億円に抑えるとしていた。ところが、2019年までの準備過程で、その4倍を超える3兆円まで五輪(関連?)経費は膨らみ、さらに一年延期とコロナ対策などでどこまで上がるかわからない状況だ。(https://www.jprime.jp/articles/-/17119)
 その上、5月26日の衆議院文科委員会では組織委員会が代理店に委託している会場運営のディレクターの一日あたり人件費が35万円とあまりにも高額だという野党議員からの指摘があった(@niftyニュース)という。みればみるほどオリンピックという錦の御旗に隠れた不透明さや便乗商法が出てくる。
さらに、気になるJOC(日本オリンピック組織委員会)の経理部長M氏の都営地下鉄浅草線中延駅での飛び込み事故(6月7日午前9時20分、日刊ゲンダイ20210608)があり、五輪の不審な金の流れと自殺の関連で憶測も、と報じられた。
その後、JOC職員の自殺に関しては公益財団法人東京オリンピック・パラリンピック競技大会組織委員会とは異なる組織であり誤報だとの記事も出ているが、オリンピックに関する情報に随分と偏りが見られ、情報がコントロールされていると感じている人は少なくない。

2-2 改めてパンデミックの意味を考える

2-2 改めてパンデミックの意味を考える
 昨年の巻頭言でさまざまな問題を論じていてダブルところもあるかもしれませんが、改めて大事だと思うことを考えてみたいと思います。私が目を通している新聞は主に朝日だけですが、重要な指摘を多々目にします。2021年3月31日朝日新聞の「異論のススメ」で保守の論客で知られる佐伯啓思氏(京都大学名誉教授)は現代文明かくも脆弱として、「感染症は急速に拡大 一貫せぬ情報が流通 他国依存の経済露呈」と問題点を指摘されている。
 もう少し詳しく見ると、「現代文明は3つの柱を持っている。第一にグルーバル資本主義、第二にデモクラシーの政治制度、第三に情報技術の展開である。…グローバリズムとは、人、モノ、カネの国境を超えた移動であるが、今回、われわれはそこにウィルスや細菌を付け加えねばならなくなった。ほんの2ヶ月ほどの間に、ウィルスのグローバル化が生じたのである」と。 また、「今回のような新型の病原体の出現は、(過去のデータなどから起こりうる…引用者注)リスクではなく(何が起こるかわからない…同左)不確実性である。その時かろうじて頼りになるのは、政府や報道ではなく、われわれのもつ一種の”常識”や”良識”であろう。…、…市場主義や過剰な情報文化は、われわれから思考能力も”常識”も奪い取っていった」と。
 ここから示唆されるものは少なくないと思います。私たちの人生がいかに商業主義に掠(カラ)め取られていったか。検索の便利さにしても自分で考えるよりマスコミ等を含め他からの意見や回答に左右されすぎていないか。自分で考え、立つことの基本的な大事さを見失っていないか?例えベランダガーデンであっても植物を育ててみれば自然の仕組みや奥深さに気づくことは多い。水をやりすぎても足らなくても根がしっかりしていないと植物は育たないこと。根っこの大事さはそのままこうした危機における人間(自分)の振る舞いにも現れます。地域の活性化や地方重視は最近年頻繁に唱えられるようになっている。自分もまた事あるごとに地域の大事さを強調してきた。しかし、それをグローバル資本主義の問題点に対するオールタナティブ(もう一つ) の可能性としてはどこまで把握できていただろうか。
 少し考えてみると、日本の歴史を見ても遣隋使や遣唐使のように外国からの文化の輸入、戦国時代の南蛮貿易、そして列強に開国を迫られる明治維新、更には太平洋戦争の敗戦後のアメリカ軍の進駐とアメリカ文化一色化の歴史など外とのつながりで発展した歴史がある。一方で、そのことによって日本の風土に根付いた地域地域の歴史文化が廃れたり弱くなっていくことも経験してきました。自分たちの伝統文化を大事にしながらどうグローバリズムと向き合うかは今まさに改めて問われていることだと思われます。
 アメリカフーバー研究所の西鋭夫教授(1941-)は、進駐軍が持ち帰った機密書類が公開の時期を迎えるとそれらの膨大な資料を読み解き、語られない歴史の裏側も表示しつつ今私たちに何が求められているのかを自覚できる真実の歴史を提示してくれている("[Pride&History]" <support@prideandhistory.jp>)。例えば今話題になっている大河ドラマ「晴天に衝け」の渋沢栄一(1840-1951?) についても、マスコミ等が報じない妾がたくさんいて認知した子供だけでも20人と言われている。渋沢は第一国立銀行、東京取引所、帝国ホテルなど500を超える企業を起こし、次いで600を超える教育機関・社会公共事業に携わってきたといわれる。そのすざましいバイタリティを支えた一因に彼女たちがいたのかもしれない。経済を起こし、資本主義が発展しても貧富の格差が顕著になったことから、50年以上にわたって関わりつづけた東京市養育院など経済的弱者の施設や社会基盤的な事業に深く関わったことが他の経済人に見られない大きな特徴といえます。それは渋沢が書いた『論語と算盤』にみられる「道徳経済合一説」という考え方に基づいていた。
 再び西鋭夫氏に戻ると、表も裏も含めた等身大の人間像を捉える中で改めて渋沢栄一に迫るとパンデミック後の世の中のあり方や私たちの向かうべき道筋がみえてくるのかもしれない。

2-1 人類が絶滅する6つのシナリオ

これまでもそれなりに書く苦しさはあったのだが、今年の三重スローライフ協会の年次報告書はまったくいろいろとあって、特に巻頭言が書けなくて結果的に例年より二、三ヶ月も遅れてしまいました。印刷もできて会員の皆様にお送りできる状態になりつつあるのですが、ひょっとすれば最後になるかもしれないところもあり、もう一、二メッセージの追加を考えています。そんな中他にもご迷惑をおかけしている組織のある方に原稿をみてもらったところ、考え方で大事なことが入っており、こちらの理事にも参考にさせてもらってもいいか、と連絡をいただきました。苦しみの記憶しかなかったのですが、読み返してみるともがきの中にこれから大事にしていきたいと思うことも含まれています。少し勇気を頂いて三重スローライフ協会以外の方にもみてもらい、また意見でもいただければと思いました。以下分割して載せます。

2. 私たちを取り巻く危機の状況と要因
2-1 人類が絶滅する6つのシナリオ
たまたま2021年4月に図書館で見つけた「サイエンティフィックアメリカン」の編集長だったフレッド・グテル(Fred Guterl)の『人類が絶滅する6のシナリオ』(Why the Human Race May Cause Its Own Extinction and How We Can Stop It)は衝撃的だった。この本の第一章に「世界を滅ぼすスーパーウィルス」とあるのは驚きでした。まさに現在世界中で苦しんでいるコロナ禍の世界を予言していたかのような内容だからである。この本は2012年(2013年翻訳書)に発行されている。
6つの危機要因とは①スーパーウィルス(この段階ではインフルエンザやペスト)/②大量絶滅/③気候変動/④生態系の危ない均衡/⑤バイオテロリズム(ステルスウィルス)/⑥暴走するコンピューターが挙げられている。私はこれに依然として核の驚異を付け加えておきたいと思う。地球が何十回も滅んでしまうような核弾頭の数があり、しかも今や核搭載の主力は潜水艦であるので、考えれば考えるほど危険性があることを無視し得ないからです。
各要因をすべて論じる余裕はないのですが、変異株が次々に生み出される新型コロナという見えない敵に人類はどのように対処できるのか…まさに現代的な課題です。

衰えつつある人がボランティアで気をつけるべきこと―チーム竹遊倶楽部の行く末―

 久しぶりのサロンフィリア(7月11日)は松阪市森林公園で、4月から市の指定管理を受けて運営することになった岩森社長(兼森林公園園長)の新しい取り組みのお話を聞くことになった。

 次いでお昼からは新しく作られたオートキャンプサイト脇の竹林の整備を手伝うことになった。
参加したのは午前中の参加者13人の内10人(女性二人を含む)と森林公園からスタッフ2名、実質1.5時間ほどでその間に二度小休止もとったが、足場の悪い斜面だったしベルファーム竹林や美濃田竹林のようにほぼ平坦な場所のようにはいかなかった。それでも短時間で少し開けた竹林になってきた。


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◯故障や衰えは現実のものとなる
 今日はあまり無理をせず14時過ぎにもう終わろうとなり、竹林の場所から駐車場まで戻る途中で実質リーダーSさんの異変に気づいた。上り坂で苦しそうに立ち止まられたからである。竹林街道の整備でも自らとても動かれていたし、私一人ではほとんどできないメールがない人への連絡なども負担をかけていた。そんなこともあり昼食前の竹遊倶楽部のミーティングでも羊羹竹の段取りや竹輝銅庵の竹園管理の世話を他の人に引き受けてもらいたいことを話された。
来年から家族に運転を止められている、という話もされた。迎えに行ってくれる人はたくさんいようが何もかも頼りすぎていたので今こそこれからの活動のあり方を考え直すときだと思われます。

先日はHさんがみんなで昼食時の食欲がなく疲れた感じですぐに帰ってもらったが、ずっと気になっていて今日は夫婦で元気な顔を見せてもらってホッとしたが…
 少し前には農家のKさんが田植え作業などで腰を傷められて出てこれないとのことで、少し経って後お見舞いに行ったら比較的元気そうで良かった。今日も顔を見せてもらったが午後は用事があるからとのことで竹林整備には参加されなかったがそれでよかったと思う。80歳になられていてもとてもお元気だったので一斉作業日などは呼びかけさせてもらっていたがかなりしんどかったのではないかと思われる。

 伊勢型紙など細かな仕事が得意であるが外作業には向いていない感じのHaさんには火の番などしてもらっていたが、もう無理だから退出させてほしいとつい先日聞いた。常連的に参加してくれる人は十人前後居ても多くの人がいろんな病を経験したり抱えている。竹遊倶楽部も6年目なので衰えてくるのはやむを得ないのです。どのように適応していくかこそが問われているのでしょう。

 しかしながらそれぞれに個性(持ち味)がありながらもチームとして機能しているのが嬉しいところです。チーム力を成り立たせてきたのは何よりも6年間の竹にまつわる「共通体験」がベースとしてあると思われます。その多くが70代から80歳くらいまでで、まさに日本の高度経済成長を支え戦ってきた戦士という共通項もあると思われます。悪くすれば忖度になりますが、気遣いができ、雰囲気が読める世代で自ずからしからしむということもあるかもしれません。

◯当日の自分とその後のこと
 森林公園から一旦ベルファームのこもれび広場に戻って、談笑などしていた仲間数人が帰ってから(16時少し前くらい)宿題の作業に取り掛かった。いつもの花生けは談笑の間に済ませていたので、一つは極楽湯用の靴べらの完成であった。よくお世話になっている極楽湯に先日燻靴べらを2つ差し上げたのだが、2つとも誰かが持って帰ったらしい。それで靴べらにルーターで「ごくらくゆ」名前を入れて差し上げることにしたのである。もう少し作業をしたかったが疲れすぎになりそうな感じがあり、それ以上は止めることにした(適応1)。
 帰りがけも疲れでボーと運転することのないようにコンビニでアイスコーヒーと氷を購入した(適応2)。さらに時々利用するマッサージ家さんの一つが運良く空いていたのでマッサージをしてもらう。体がガチガチでしたねと言われたが、もんでもらい書けて初めて自覚した(現実自覚、意識の修正)。40分でも背中腰が随分楽になったので、極楽湯に入って靴べらを渡すとともにバイブラで筋肉を解す。
 あまり長居はせずに、おはぎの「豆太」をいつもお世話になっている近所の馬場さんに届けて21時直前に帰宅。ちょうど阪神が巨人に負けたところ、60数年の阪神ファンとしてはがっかりだが、何となく遅れに遅れている放送大学のオンライン授業を聞いてみようという気になった(ベルファームから疲れて帰った日にこんな気になるのは初めて)。一コマ分の一時間ほどを聞き、練習問題の小テストもまあまあで思いの外調子が良い。こんなときこそ注意しなければと思いながらも…生きている実感。
 次の日の朝、5時間余の睡眠なのに久しぶりに頭がシャンとしていて、昨日の出来事をメモっていたらつい7時のラジオ体操の時間が過ぎてしまっていた。それでも2kmの散歩はしたのだが、少し速めのキロ11分程度なのに筋肉が固くなって軽い腰痛になって尾を引くことになってしまった。

ここで考えてみたいことは
◯本人の思いや意欲の尊重と家族や周りの関与や時にブレーキの問題です
 体が思うようにならなかったり、衰えを自覚するようになると人と同じように出来ないことが気になったり、みんなに迷惑を掛ける事にならないかと身を引いてしまうことはよくあることだと思います。体は衰えても手続き記憶(もののやり方などの記憶)はほとんど衰えなくて、思う通りにいかなかった時のショックは結構大きいものです。
 このことに関して私には大好きだった祖父が農作業をやめてしまうきっかけになった鮮烈な記憶があります。祖父が80歳を過ぎた稲の収穫時期のこと。いつものように6-8段ほどタケで組んだ稲架掛けの時に上に登っていた祖父が、私たちがほり上げる稲束を掴めずに落としたのです。今の私なら理解できますが、握力が落ちてきてこれまでなんでもなく出来ていたことがあれっということになったのでしょう。そのことがあってからほとんど農作業に携わらなくなってしまいました。93歳で死ぬまでタバコを吸い、毎日新聞を隅から隅まで読み散歩はよくしていました。
 今考えると少しもったいないなと思います。体と異なり頭は必ずしも歳とともに衰えないのかもしれませんが、寂聴さんや南伊勢町の炭焼き名人右田さんのことを思い出します。病を含めいろんな経験をしながらも周りに支えられ、蘇り続けておられる。能力や経験知は別にしても一つの理想型に思えます。ヒトは直線的にいっきに衰えるのではなく、少しは蘇りつつジグザクに衰えるのだと思います。
 その観点に立てば実情の変化や自分自身と周りに敏感になりながらその状況に適応し、やりたい気持ちが残っていればそれなりにやれるように工夫していくのが納得のいく人生になるのではないでしょうか?

◯「ピンピンころり」に近づくには
 死の間際までできるかぎり自分のことは自分でできて、あまり周りに迷惑をかけずに(生きている事自体まったく人に迷惑をかけないなどということは不可能という基本は別にして)逝けたらいいな、という一つの望ましい形の言葉かなと思う。コロナは高齢者のフレイルを進めたのではないかと思う。自粛ムードの中で活動的になることが何となく憚られるからである。その意味では竹遊倶楽部の作業日などは適度に動けて、みんなで外で食事をしながら喋れるのでいい機会を提供できているのだともいえるのだろうか。ただ自己主張の苦手な高齢者世代は、休むほどではないけれど体調はすぐれないような時に無理して周りに合わせてしまい、疲れすぎることはよくあることです。一人だとペースをコントロールしやすいのですが、みんなといるときは誰かがあるいはお互いに相手の体調にも気を配っていることが大事だと思われます。
 自分の場合には、「ピンピンころり」に近づくには少しだけ無理をすることだと思っています。無理をしすぎるとその付けは後に回ってくるし、動くことをやめると体の劣化はすぐに進んでしまいます。「いい加減」が何とも難しいものです。なかなかピタッとはいかないので試行錯誤を続けるしかないのでしょうね。

おかえり、スローライフ―今まさに求められているものの一つ

―スローライフを楽しもう―ポストコロナの生き方―


 巻頭言の執筆に苦しみながら書庫を整理していたら、設立初期の頃の会員募集ポスターがみつかった。「おかえり、スローライフ」と真ん中にあり、あなたも私たちといっしょになつかしい未来を見つけてみませんか?とある。「懐かしい未来」とはヘレナ・ノーバーク・ホッジの『ラダック 懐かしい未来』が有名で、訳者のあとがきによると、自尊心を持ちながら、個人主義にとらわれることのないラダック(インド北部の小チベットといわれる地域)の人たちに、​自由、幸福の意味を考えさせられるのではないでしょうか、と述べられている。

 設立に向けて仲間で何度も議論した中から出てきた「三重スローライフ協会がかんがえていることは」、
▼地産地消を推し進めていくこと、
▼地域の郷土料理を守っていくこと、
▼安全安心な食材を守ること、
▼家族や仲間と楽しい食事のひとときを楽しむこと、
▼生活の中のムダを考え直すこと、
▼資源を大切に循環型の生活を提案していくこと、
▼シンプルな生き方を楽しむこと、
▼生きがいのある生活をめざすこと、
▼環境を守りつつ生産・流通できるしくみづくりに挑戦すること、
▼市民農園で農に楽しむこと、グリーン・ツーリズムを広めていくこと、
▼松阪木綿や伊勢型紙などの伝統産業に光をあてること、
▼子供から大人までみんなで『食』について学ぶこと、
▼地域の農・山・漁村の文化を守っていくこと、
▼アウトドアで自然に学ぶこと、
▼世代を超えて素敵な交流を持つこと、
▼お年寄りから歴史や昔の様子を教えてもらうこと、
▼エネルギーの無駄遣いを慎むこと、
▼日本家屋のよさに目覚めること、
▼風力や太陽光の自然エネルギーを真剣に考えてみること、
▼バイオマスの不思議なチカラに感動すること、
21項目があげられている。
 今年度は設立18年目に入りますが、幸いにしてほとんどの項目に濃淡はあれ関わってこられたことはありがたいことです。

 21世紀に入る前後の頃が一つのスローライフのブームであったように思いますが、今また新型コロナ(COVID-19)によるパンデミック(疫病や感染症が世界的に大流行する状態)によりコロナ後のあり方が模索されています。
 それはまさにスローな生き方の中に多くのヒントがあるように思われます。人々の生活の基盤としての経済は大事だとしてもお金に振り回されないで地(自然)に足が着き、家族や仲間を大切にし、農や地域の産業や傳燈を重んずる生き方は、まさに懐かしい未来を約束してくれるのではないでしょうか。

 

 

パソコンのイロハを学ぶ―あたふたの5月の収穫

 5/2の竹林街道ウォーキングイベントに向けて、4月は美濃田竹林街道の整備に竹遊倶楽部の活動できるメンバーが最後の追い込みで忙しかった。私自身はまだまだ体調が回復せず側面的な援助の世話役の役割をしていたぐらいであるが、それでも9日ほどベルファームへ行った。頭の中が竹遊倶楽部になっていたこともあり、4月から初めた放送大学の授業は聞き逃すことが多かった。
 5/2に竹林街道ウォーキングイベントが終わってから5月中はできるだけ授業の遅れを取り戻そうともがいた。というよりも5/28までに履修している科目のWeb通信指導を受けて小テストを済ましていないとテストを受けられないという関門があった。何とかオンライン授業を除く13科目の面接指導が終わったのでホッと一息である。
 ちょっとしたリラックスもあった故か5/29-30の面接授業(集中講義)「新・初歩からのパソコン」はあとにメモ書きしたようにあれこれとお得感があった。というか長年パソコンはさわっていても基礎から学んだことは一度もないのでなるほどと思うことが多かったが、繰り返しやらないとすぐに忘れていきそうである。

 まだまだ分からないことばかりですが、Ctrlキーの便利な使い方などはこれからも役立てないとと思います。ICT技術に伴う情報格差は現代の大きな問題の一つかと思いますが、学ぼうとする者にとってこの種の授業はとてもありがたいものです。ただ、二日目の授業が終わってからレポートを書いている時に小耳に挟んだのですが、全くついていけなかったといっていた人もいました。コロナ禍の履修生は現実に会う機会も少なくほとんど知らないので友達同士で教え合うということもなかなか進まない状況でした。
「メールはハガキと同じ」は目からウロコでした。個人宛に送ったりしているのはついその人だけが見るものと思い込みがちですが、ハガキが郵便局や配達員に見られうるようにメールも各結節点で読まれうること、またハガキにあまり長い文章はかけないようにメールは簡潔に書いて受信者の負担にならないようにすること。
Cromeのシークレットモード、Inprivateは使ったことがありませんでしたが、閲覧履歴が残らないとか分かりました。Windowsロゴキーも使ったことがありませんでしたが、今後は使ってみたいと思います。
opacの利用。E-bookは印刷は60pが限度だが、一旦閉じて次に61pから120pまで印刷することは可能。
Googleの検索は時々使っていますが、e-statで政府統計にアクセスできるとか、filetype(PDF, docx,xlsxなど)とキーワードで検索が容易になることを学びました
ヘッダーとフッターの付け方―長い文章を書くことがあるのでありがたいです。忘れないうちに使ってみなければ。


◯そのほか知り得た豆知識(自分の復習のためのメモです)
・パソコンが固まってしまった場合、Ctrl+Alt+Delete、あるいは電源ボタンを5秒以上長押しして終了
・Ctrl+ホイールで画面の拡大・縮小が可能
・Ctrl+Sで連続的に保存?
・Ctrl+クリックで連続的に画面を開く
・Ctrl+hで検索置換
・検索画面でCtrl+マウスの左クリックで検索項目を連続的に開ける(画面に立ち上がる)
・Windows 10の場合、Zip fileはダブルクリックで解凍できる
・OPACやe-statの使い方
・filetype(PDF, docx,xlsxなど)とキーワードで検索が容易になることを学びました
・WebメールとIMAP(Internet Message Access Protocol,専用メールソフトを使う)の違い
・Googleドライブを使うとUSBはほとんどいらない
・ウィルスソフトを入れるとパソコンが遅くなる(?)
・ホームのCtrl+Eで中央揃え
・Windowsロゴキー+Xで便利機能。+Èでエクスプローラーが立ち上がり、よく使うクイックアクセスに連携

一年越しの竹林街道ウォーキングイベントー5月2日

 昨年(2020)のGW中に予定していた松阪農業公園ベルファームから美濃田大仏へのウォーキングイベントは緊急事態宣言の全国への拡大(2020.4.16-5.14)によって中止のやむなきに至っていた。今年1月になってベルファームの社長や園長から今年のGWに実施してはどうかとの打診があり、竹遊倶楽部の仲間や美濃田まちづくり実行委員会会長の田中氏らとも相談し、5月2日に実施することになっていた。
 1月末にイベントのチラシ原案を作りベルファームから一般に案内してもらっていたが3月の中頃中日新聞に載ってから(私が電話取材を受けたのは3/16)一日二日で定員の30名が埋まってしまった。その後も問い合わせがあるということでみんなと相談して30分遅れて出発する第二陣を募集することになった。4/8にはCBCテレビ伊勢支局からの取材を受け、4/14に2分ほど放映された(ちなみにテレビに出るなんて現役の時にもなかった気がする)。その後コロナ感染者の再拡大や県外移動の自粛などもあり、最終的に5/2の実施時点では第一グループ24人、第二グループ20人での実施となった。
 当日、竹遊倶楽部の仲間は早い人は7時過ぎから最終地点で昼食会場ともなる木漏れ日広場の清掃や場所の設営を行った。それぞれのグループに二人ずつ道案内をつけて、第一グループ(三鬼、大原)は集まりが早くて予定より少し早い9:45頃に出発した。子どもたちの多かった第二グループとはちょうど竹林街道の真ん中あたりで行き違った。池沿いの道を東駐車場まで歩き、そこで竹林街道を経由して美濃田大仏への写真地図でコースの概要を説明しました。東駐車場を出て竹林を通り美濃田大仏までの距離は片道約900m、この内竹林街道は180m強です。
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                        (竹林街道の案内板と説明をするベルファーム広報の長澤さん)
 竹林街道の出入り口20-30mは竹柵のきれいな通りが出来ていました。竹柵つくりの発端は定年後に植木職人もされてきた北村さんを中心に、そのその素材の竹枝縛りはほとんど笹原さんが週に数日てきて仕上げられたものです。自然にカーブした竹林街道を歩き、出口付近にはこの竹林街道整備を強力に推進してくれた美濃田在住でもある中井さんのこだわりの休憩所が大工の三鬼さんや中西さん等々人々によって作られたのですが、2日に間に合うように横に通した竹に風鈴が吊るされていて風のある当日には風情のある音が響いていました。
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  (蓮池さんが彫られた案内板と冨田さんが作られた竹林街道の看板)
 ベルファームから竹林街道の出口近くに二本の亀甲竹の移植と笹原さんが燻された亀甲竹の根本を立てにした展示がされています。竹の休憩所と共にこれも嵯峨野などにはない特徴かと思います。
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   (竹で作られた休憩所と亀甲竹の展示)
 美濃田大仏の一角には敏太(みぬだ)神社、放生池、大仏殿、真楽寺などがあり、数年前とは見違えるほどに整備されています。
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   (放生池)       (道の奥が敏太神社)
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 (美濃田大仏殿)
この美濃田大仏は青銅製で高さは3mあり、元文4年(1739)の作と云われている。






 帰りも同じコースを逆に歩き、ベルファームに戻ってから竹遊倶楽部の作業場でもあるこもれびの森に誘導してあつらえたテーブル・イスに座ってもらい、美濃田の歴史に詳しい山本實穂氏から約20分程のお話を伺ったあと筍弁当を手渡した。山本先生のお話は難しいかもしれないのでどのように聞いてくれるかなと心配でもあったが、みんな真剣に聞いていたのが印象的でした。
 なお、ボランティアしたい人や食後に竹を切ってみたい人は申し出てくださいと伝えたら数人の希望者があり、連絡先を聞いた。竹切りは子どもたちにとって初めての経験だったが、一人の女の子は大工の三鬼さんの指導で飲み込みよく見ている間に上達した。笹原さんが準備してくれたこの企画は三重スローライフ協会が目指してきた大事な部分でもあるが、今の子供達は危ないとか言うことでナイフやのこぎりなど使える機会がないので貴重な経験になるだろうと思われる。災害列島とも云われる日本ではいつ便利な電気やガス水道が止まるかもしれない。そうした時に自然にふれあい、自然を活かす技術に触れていると苦難を生き延びる力も増すと思われる。(5/5)


最初からつまづき?―ライフスタイルの切り替えはボチボチ

 最初の入学手続きが遅れて二次にずれ込んだこともあるが、授業は4/1からの始まりになっている。三重学習センターで学生証を受領したのは4/7、ちょうどその日帰宅したら受講科目の教材も届いていた。
 始まっている講義は気になりながらも、松阪農業公園ベルファームを管理運営する株式会社松阪協働ファームはこの4月から松阪市森林公園も運営することになり、私としては何の協力ができるだろうかとずっと考えてきた。達した一つの結論は預かっていながらなかなか売るのは難しい故西山さんのほっこりした花や動物の絵を自分で買い取って森林公園に寄贈することだった。もう一つは笹原さんの燻竹を使って作った竹の靴ベラのコテージ等への寄贈である。
 もう一つ予定通り切り替えが出来ていかなかったのは竹林街道整備に時間が取られたことだった。最も私自身の役割はなかなか足が治りきらないこともあり、竹林街道の竹柵づくりにはほとんど参加していなくて協力している仲間の世話役であった。4月は4/22までで私も8日間竹関連作業で出ることになった。(竹林街道整備の状況については別稿を考えている)
 放送大学の方は第一期(4-7月)に取った15科目をスタートする前に面接授業(スクーリング)の追加募集があり、募集した3科目が追加登録されたのは4月22日だった。その一つ森久綱先生の「リサイクル経済学」の授業は4/24,25の集中講義だった。90分授業が7コマ半にレポート作成が約半コマ。

 選択した普通科目はテレビ授業とラジオ、それにオンライン授業とあり、ようやく4/26になって初めてすでに4コマ目になる「社会調査の基礎」と「遠隔学習のためのバソコン」をスタートすることができた。ただすでに3回分欠席しているし、試験の日程はだいたい7月後半で決まっていたがどのように単位が取れるのかもまだはっきりつかめていない。

 3月からボチボチ取り組んでいる「竹」(竹文化振興協会機関紙)に投稿する予定の竹林街道整備についての原稿もまだ少ししか出来ていないし、三重スローライフ協会の年次報告の原稿締切も5/10に迫っている。しかも毎年巻頭言と竹遊倶楽部とサロンの3篇の執筆が求められているが…(4/28)

 放送大学で習うのはたぶん3-5年くらい?4/24-25の面接授業から学びのモードに入ってきたが、放送大学はまさに放送、まずBSテレビが中心だが、音声のみのBS531、そしてオンライン授業といろんなタイプがあってまだ機器の扱いに戸惑うこともある。でも面接授業をきっかけとして六科目ほど聞いてみて、学びを中心としたライフスタイルはこれまでの仕事やNPO活動が中心となった生活とはだいぶ異なるなとの印象である。というか特に会社の非常勤として動きやNPO活動が主となったここ数年のどちらかと云えば体を動かすことが中心であった生活とはだいぶ異なる。錆びついた頭がちゃんと動いてくれるのか試行錯誤の移行過程である。
 もう一つ足を引っ張られているのが治りの遅い蜂窩織炎の後遺障害?である。未だに左足首のまわりは右足より1.5cmほど大きい。お医者さんから云われたようにストレッチは続けているが、まだ速歩はできないし、それが故もあるのか心肺機能が戻っていなくて一日動いていると二三日持ち越すほど疲れてしまう。どこまで焦らずにやっていけるかが試されているのかもしれない。(5/1)


この段階で一日23,900歩をどう考える?

4月18日(日)も勢いを増したベルファームから美濃田大仏への竹林街道の整備の日。私自身はまだ体調が本調子ではなく、直接の街道整備には加わらず、世話役的な仕事と竹製品販売の補充の製品作りなどをしていたのだが一日の終りに歩数計をみると23,900歩ほどになっていた。昨年は23,000歩を上回る日が5日ほどあったが、今年になってリハビリ開始後はもちろん初めてである。
15,000歩程度に抑えないと疲れがなかなか取れないと考えてはいたが、この日は6:50頃に家を出たが割に空いていて7:40にベルファームに到着して、いろんな作業がかさなった。時系列的に作業をみておくと、

① まず事務所で4月後半の竹遊倶楽部の活動案内のコピー、続いて蚤の市広場と南駐車場周辺のゴミ拾い(可能な限り。以前からの自分の仕事)。
② 事務室の電源盤キーを借りて、西門近くの電灯から引いた竹遊工房への電源を入れる(一日の最後に電源を自動に戻す)
③ これまでは竹遊工房の電源タップから電源リールで竹遊舎まで引くのだが、電源コードを木に引っ掛けながら引いてくれていたので、そのタップを雨がかからないように調整して、ベルトサンダーに電源を通す。
④ 9時過ぎ本日の主力六人ほどと美濃田区からの数名が合流して作業している現場に様子見(お昼弁当の必要か不必要かを確認)
⑤ 農産物直売所近くの水道から4Lペットボトル2本に水をくんできて(往復100mほど)、コンロで竹炭を使いお茶と湯を沸かす
⑥ 家の庭から摘んできた花やハーブを農家市場とパン屋さんやさい畑、喫茶ルーベルの一輪挿し8-9箇所に取り替え(ベルファームに花はいっぱい咲いているが、自分で作る楽しみと自賄いのこだわり)。
⑦ 土産物店松阪商会の竹製品販売コーナーの売れ筋をチェック。竹炭かごが2つとも売れていたので竹炭かごを数個作り、補充。
⑧ 竹林街道を歩きたいという友人二人が来たので、東駐車場の竹林街道の入口付近まで案内。
⑨ 売れ筋の弁当は早くなくなりやすいので、10時半ころ確保し、11時半過ぎに農家市場内の紅工房さんに取りに行く。そして汁茶碗を出して温かい味噌汁の準備。時に柑橘類も。
⑩ 12時前後からみんなで昼食、楽しい時間。5/2の打ち合わせの予定だったが、美濃田の堀氏の提案の岐阜へ赤レンガトンネルの廃線跡をNPOが保全活動をしているのを見に行く話。
午後13時前から作業再開、
pm① 私はみんなとは合流せず、廃食油リサイクルのルール無視の20L缶に入れられた廃油を本来の投入先であるドラム缶に移す(20L缶4個分)
pm② たまたま園長が鍬の柄が外れたのを持って歩いていたので、直してみようかと引き取った。ついでに柄もサンダーで磨いたのはいいが、樫の柄に鍬先を電動ドリルで固定しようとしたら釘が折れてしまった。ビスで止める場所をずらしてやってみたがまた釘の先が折れてしまった。先にドリルで小さく穴を開けてからビスで止めるほうがいいことに後で気づいたが、一旦は固く止まったのでとりあえずそのままでしばらく使ってもらい、また外れたら持ってきてもらうことにした。
pm③ 竹遊舎前の私のいつもの作業場所で竹炭の整理などしていると15時頃竹林街道作業をしている仲間からこれからそちらに向かうからコーヒーを所望とのこと。仲間の中西さんが珈琲館を持ってきてくれたりインスタントコーヒーをサービスしてくれたりしていたが、しばらく前からみんなの労をねぎらう意味で私が湯は沸かしているのでドリップコーヒーを作り出したら評判が良くてよく作るようになった。
pm④ ほとんどの人がコーヒーを飲んで帰ったあと、笹原さんはしばらくさらに竹柵用の竹枝縛りをやってくれている(実は週の半分ほどもほとんど一人で)。私は作品作りや片付けをし、みんなが帰ったあと小一時間電源切りや火の始末や竹遊舎と竹遊工房の施錠、ゴミの持ち帰りなど。みんなが掘り起こしてきてくれて余った筍を水煮にするため持ち帰る。いつもはその日のうちに水煮を作ってしまうが、この日は途中で夕食を済ませ、極楽湯でマッサージをしてもらって21時半ころ帰り着いた。

ベルファームに行っている日で15,000歩を超える日にちは3月が6回、4月がこれまでで4回となっている。今日の流れで⑧とpm②は特別事項でその分歩数も増えたが、周りの状況の中で自分の行動を決めることや非常勤になってから往復60kmあまりの道のりがしんどくなって頻繁には行く気にならないので行った時に事を済ましてしまおうと思うのでどうしても歩きすぎになっている。
それでも昨年暮れの事故までは疲れが3日も残ることはほとんどなかったが、回復が遅いのは体力が戻っていないからだと思われる。今日も少し速めの2.2km散歩(キロ10分30秒程度)をしてみたら、呼吸がすでに500mであがってくる。痛みは残っていても歩いているとそれなりに筋肉は戻りつつあるが、負荷をあまりかけて歩いていないので心肺機能が戻っていなことがわかり、これが疲れが取れない一番の理由ではないかという気がするのである。
疲れが残ると気力も落ちてするべきことが進まなくて悪循環である。蜂窩織炎の後遺症がこんなに続くのも不思議だが、内線が続くシリアの惨状や軍の独裁と命をかけて闘うミャンマーの人々の生きざまなどを思えば脳天気な悩みなのかもしれない。(4/20)





放送大学入学者の集いー学びたいに年齢性別過去歴は関係なし

3/31に初めて開催される松阪市の柳屋奉善の月晦日の縁市に、竹遊倶楽部として竹羊羹の竹づくりなどで協力させてもらっている関係で参加協力することになり数日間てんてこ舞いでした(この報告はまた後でします)。
 その前の日曜日3/28に三重学習センターで放送大学入学者の集いがありました。清水センター長からの挨拶と事務局からの同窓会や同好会等の説明の後、参加者の自己紹介がありました。高卒で大学卒を目指す人、放送大学教養学部の6つのコースを全部制覇して専攻科に進む人、仕事がカウンセラー関係で心理学を学ぶ人、主婦で子供のことをもっと理解したいと心理と教育コースに入学した人、そして最高齢は81歳の人、今年喜寿になる私を上回る人がいるとは。(私の入学理由は別項で)

 みんなコロナでマスクをしているので最初わからなかったが、かつて職場で一回りほど下の同僚だった人や津市の地域活性化で知り合っていた二人の知人がいたのにも驚きでした。かつて私の社会人大学院生であった人が次々といろんな大学に入っていて学ぶのが趣味かいなと言い合っていた事がありましたが、学ぶ意欲の高い多様な人がいるのは勇気づけられます。(4/1)

何で心理学を学ぼうと思ったの?ー喜寿の挑戦

  3/2に放送大学教養学部心理と教育コースに全科履修生(2年次編入)の志願書を出した。
年末の訳のわからない自損事故で一ヶ月はほとんど動けずリハビリも時間がかかっていろいろと考えている中で意思が固まってきたことである。
 今の役割では竹遊倶楽部の世話役としての部分が大きく、仲間には迷惑を掛けるかもしれない。今まで通りのお世話ができない可能性があるので、通信でそのことを伝えたあとに何人かの仲間から聞かれたのが表題である。
 正直に言うとあまりはっきりとした理由を意識していたとは言えないのが正直なところである。臨床心理士を目指して資格を得た暁に次の仕事とするには歳を取りすぎている(モクモクからのお誘い、というより半ば当然のごとくベルファームに来ることがなかったらあるいはあり得た選択肢かもしれないが…)。
しかしながら、明日のことは分からないにしても、少なくとも平均余命の後十年ほどは生きられる可能性があることを考えると自己満足以外にも意味が出てくるかもしれない。

 これまでの人生はある種自分の前に現れた事柄や人間関係の中で自ずと道が決まり生きてきた。
思い返せば自分が農学系の学校に進んだことは農家の長男だったことと父親の誘導にあまり深く考えることもなく五十年あまりその道を進んできたと言えるのかもしれない。

 確かにルーツの一つは父の教えるという仕事、もう一つは徳爺さん(祖父)の自然の中での農業の仕事。家庭はかなり自由な雰囲気ではあったし、基本的にしたいことがさせてもらえた自由度があった。それで若い頃は駅伝に夢中になったりしていた。何でもできる自由はなんにも出来ない不自由にもつながる。人間は考えや行動に何らかのこだわり点がある方が動きやすい。それが小さな時の経験であったり、たまたま出会った本であったり、人であったり…。

 父親は農の大事さと東京にいたときに出会った・知己を得られた優れた知識人(戦後の日本を方向づけた南原繁、矢内原忠雄、上原専緑といった人)たちの影響から私には学問をして日本の農業に貢献することを望んだ(それには答えられていないが応えようとはしてきた)。 

 大学で学んだことは農業経営学だったし、大学三年生に出会った柏先生を慕って京都の農学研究科では農学の哲学(農学原論)を学ぶことになった。物事を根本から考えることは性に合い、そして院で一生友達をたくさん得たことがなんの後悔もせずその道を進んできた結果につながったのだろう。そして定年後松阪農業公園ベルファームに来ることになったのは現場を大事にしたい思いでモクモクの木村・吉田氏らと長年交流させてもらっていた流れであった。

 現役時代の人の心理や意識を扱ったユイツとも云える機会は、日本農業経済学会のシンポジウムでの報告とその論文(「若い担い手の意識と行動」)を学会誌に載せてもらったことである。その執筆は苦しくとも楽しい思い出だったが、振り返ってみると自分の内なる琴線に触れた仕事であったからかもしれない。
 E.フロムや河合隼雄先生の本にはしっくりくることが多かったが、それを農の研究と結びつける能力や余裕がなかったとも言える。農業経営学を教えていながらその基礎となる作物や家畜に特別の興味は持てなかった。結局のところ、人間そのものに対する興味や関わりが強かったのであろう。
 定年間際の十年あまり、特にアジアからの留学生たち、第一期の国費留学生ほど優秀でなくても、修士や博士の資格を取得して自分の人生を切り開こうとしていた彼らに深く関われたのはまさに自分のミッションと思えたからなのだろう。不得手な英語での論文や学会報告に挑戦し、その過程で生まれた人のネットワークがなかったら彼らの指導を完遂することなどできなかったであろう。
 あっという間に4月に入ってしまい、手続きが遅かったこともありまだ教材が届かないし、割く時間を減らさざるを得ないかと思っていた竹遊倶楽部の仕事がさらに忙しくなって、パニクリかけているのが夢に出てくる。どのように切り抜けるのかもう一人の自分が眺めている…(4/6)




久しぶりの廃油缶の掃除

3/17、部署別の集会の日だったが、私はドラム缶に変えて以来できていなかった廃油リサイクルの缶の掃除をすることにした。ちょうど中部エコバイオの廃油回収に来てもらう日で、その話を担当者にするとドラム缶の掃除の仕方を手伝って教えてくれた。底に溜まった廃油の汚泥は凄まじいものだった。
汚泥をかき出したら、ビニール袋4杯にもなった。それから下に敷いたダンボールを変えて、20リットル缶の蓋の油を拭き取った。
油移しIMG_20210317_100321廃油缶掃除IMG_20210317_141610廃油缶内IMG_20210317_141554















 ドラム缶に変えたのが昨年の9/23だったが、それ以来廃油の回収は直接ドラム缶に入れてほしいと大きく表示しているが、ルール通りにしてくれないで予備に置いている20L缶(4個)に入れていたり、廃油を入れたペットボトルをそのまま置いていく人もいて、時々私がドラム缶に移しているがなかなか追いつかない。
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曲がりなりにも一人で十年あまりしてきたが誰があとを引き継いてくれるだろうか?(3/23)

賑わい出した春のベルファーム

例年より少し早くアチコチの桜も咲きかけている春日和の3/20のベルファームは賑わいを取り戻しつつありました。コロナによる自粛自粛で公園で散歩でもという人も多くなっているのかもしれません。
イングリッシュガーデンへのアプローチ道路はアイスチューリップが綺麗に咲いています。入り口の花壇も花盛りです。
ディジーIMG_20210319_140039ice tulip IMG_20210308_171750
















アイスチューリップIMG_20210308_171819庭園前IMG_20210319_140146





また技の工房横のリビングストーンデイジーも真っ盛りですね。その手前、匠の館事務室への入口近くにはパンジー?の花壁が見事ですよ!
花壁IMG_20210319_094624リビングストーンデイジーIMG_20210319_094638





昨年から取り掛かっていたカビに侵食された工芸椅子をようやく磨き、補修も終えた2脚をもとに戻しました。時間と体力があればまだまだできることはあるのですがボチボチですね。

椅子磨き前IMG_20210319_124842磨き椅子IMG_20210319_140021

リハビリの現在地と再開したことなど

 2/5にあとは日にち薬といわれ、リハビリに力を入れてきてから早一ヶ月が過ぎた。なんだか理由がわからないが右足くるぶしの腫れと痛みはほとんど変わらない状況である。ただこの間2/17のブログ「リハビリの本格化と困難さ」にも書いたように、固くなったくるぶしをほぐすためにストレッチや風呂でのマッサージは続けて歩くことはかなり容易になってきた。時々ズキズキしたんだりするので、まだ散歩の距離も2km程度で4kmコースに挑戦はできていないが、2月からは竹遊倶楽部の作業日には出るようになった。その時は抑えていても12000歩にはなり、2日ほど15000歩前後になった時はクタクタになる。
 竹遊倶楽部活動日にも世話役で動いても竹切り作業はしなかったが、3/3-4日の竹細工の靴ベラ作りでベルトサンダーーを使ったら右肘の腱鞘炎のぶり返しと右肩腱板の痛みが出てきた。竹切りや電動工具などを使うにはまだまだ要注意である。それでも会社の仲間からは顔の勢いが戻っていると云われた。痩せていた筋肉も少しずつ戻り、そのことを示すかのように59kg台から増えなかった体重も60kg台で安定するようになった。
 昨年の5月の連休に断食をしたときから、また髭を伸ばしていた。でもコロナ禍のマスクでは、ヒゲがじゃまになると感じていた。それで2/6に理髪店に行ったときにヒゲを剃るとともに頭も坊主にしてもらった。かなり以前から考えていたが終末に向かっては身軽にしていきたいと思っていて、わが徳じいさんのように自分で自分の頭を刈るのがいいなと思っていて中学の時に何回か刈った覚えがあるが、3/1には手に入れた電気バリカンで坊主に出来た。理髪セットをちゃんと残していたので息子の小中学生の時には刈っていたのかな?
 もう一つこの間試行錯誤したのは錆びついている頭に刺激を与えるための学びの再開である。この件についてはまた項を改めたい。(3/9)
   他にも何かあったかなと思いながら、3/10は森林公園の打ち合わせに出ていった。私のできることは亡くなった西山さんから預かっている花や鳥の絵画を活かすこと。4月からの森林公園の新園長になる現社長岩森氏に公園内の建物に飾る了解を得て、私は休園のベルファームに戻る。今日も笹原さん、北村さん、邊見さん、中井さんが竹林街道の竹柵作りの続きをしてくれていて、応援がてら現地に行き、昼食を一緒に食べる。その後私一人はベルファームに戻って手作り市出品の作品作りに。一人だと無意識に気を使ってあれこれ動くこともないので一輪挿しの竹の中に入れる竹筒やスクレーパー作りの基礎作業が進んだ。
 竹林街道の整備は3年くらい前から進めていたが、昨年の前半に美濃田区の中井さんが竹遊倶楽部に入ってもらってから、彼の熱い思いもありどんどん整備のレベルが上ってきた。目標は京都嵯峨野の竹林街道である。ベルファームから美濃田大仏への竹林街道の整備は今や竹遊倶楽部の一大イベントになっており、この経過を竹文化振興協会の雑誌「竹」に載せるのが私の宿題になっている。
 2月の半ばから時々はじめているのが自宅の植木の選定である。前回友だちに頼んでやってもらってから早数年立っているので随分伸び放題である。金木犀はあまり伸びていなかったが高野槇が伸び放題で日にちをおいて二、三日かかった。松は手がつけられない感じだが、もう一本伸び放題のカシ?を3月中には選定したい。(3/11)

リハビリの本格化と困難さ

年末から悩まされていた左足くるぶし周辺の痛みは少しずつ緩和しながらもなかなか回復の兆しが見えてこない。皮膚科と整形外科の先生から日にち薬と言われ(さじを投げられた?)リハビリに本格的に取り組もうとなったのが2/5である。
 信頼している芸濃の整形外科で点滴治療で血液検査の炎症反応が収まっているのが分かったのが1/20だった。後は日にち薬と言われていたが、あまり良くなってこないこともあり、友達から紹介されていた新町の皮膚科にもみてもらった。最初は抗菌剤の飲み薬を処方され、1/25良くなってこないので様子を見ようということになった。この日に病名を聞いたら蜂窩織炎と分かった。2/1に受信したら再び炎症反応が起こっているかもと再度血液検査をし、2月5日結果やはり炎症反応は正常値以内ということで改めて日にち薬と言われてしまった。念の為整形外科の先生に程度について確認したらスクワットもやりなさいということになった。
 ほとんど寝ている期間が一ヶ月以上に渡り、いろんな筋肉がやせている。寝込んでいる当初は買ってきてもらったお粥や地区の友人からの差し入れや簡単なもので済ましていたが、少しずつ調理もするようになり室内で歩くことや立っていることも増えてきた。
 それでも2/5以降のこの二週間はかなりもがいていた感じがする。リハビリはなかなか進まないので、昼間の極楽湯に行ってバイブラとかで足をほぐしたり、先日は鈴鹿の「花しょうぶ」で塩サウナに入って塩で患部をもんだり…。2/11からは公園でのラジオ体操にも復帰した。
 本格的にリハビリに入ったということで、これまでとてもお世話になった人々へのお礼もし、動けない時にあれこれ考えていたこれからの生き方の準備や家の片付けに当てる時間も増えた。さらに以前から困った時に時々もんでもらっていたベテランのマッサージ師さんから勤め先が変わったとの電話をいただき、早速してもらったり。
 そして2/14の夜には挨拶に行った近所の甲田さんがEMS(E;ectrical Musle Stimulation)の器具を貸してくれて電気刺激も使ってみた。右肘の腱鞘炎の部分に当ててみたら効き目があったが、左足くるぶしにはほとんど効果が見られなかった。左足くるぶしは周辺に巻いた脂肪が固くなっているような感じで、足首のまわりも右は19cm、左は20cmで1cmの差が生まれている。
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変わらないくるぶし周辺とEMS治療の試み

 居間のリクライニング付きベッドで寝ているとテレビに支配されてしまう時間が多くなるので、数日前から寝室を元の書斎兼の部屋に移し、パソコン作業もそこですることが多くなった。もともと一二週間で治るかと思っていたし、蜂窩織炎の記事をみているとそう書いてあるものが多いので少し焦っていたのかもしれないが、ここまで来ると成り行きに任せるしかなさそう。ケガのことはさておいてできることを増やしていき、生き生きとした日常をどう取り戻すかに注力することこそが課題だろうか。

5週間半ぶりのベルファーム

 昨日2/4午後は事故以来始めてベルファームへ行った。
笹原さんが午前中から竹柵つくりのための枝準備をしてくれていた。この間電話やメールでのやり取りはしていたが、改めて打ち合わせを行う。同じく心配してくれていた中井さんも顔を見せてくれた。2/7の日曜日には植村さんが自分で作ったトウキビの汁を飲ませてくれるということもあり集まれる人が集まることになった。

 ベルファームの経営はコロナ禍の中で苦戦しているけれど、スタッフは頑張っていろいろな工夫をしてくれている。来年度から松阪協働ファームは松阪森林公園も指定管理の運営を任されることになり、森林公園を担当するメンバーが引き継ぎと新しい取り組みの準備をしてくれている。
 昨年コロナ禍の中一番影響を受けたと思われるのが大型バスの需要が落ち込んで集客が大きく減少したMow&Buuである。今年は二期目10年の10年目に入る年になる。当然3期目も挑戦していくことになるが、私自身は今年満77歳となり、何らかの関わりは残すにしてもどのような関わりができるのか、自分の残り人生の宿題も踏まえてよく考える必要がある。

商会の竹製品の販売状況が気になっていたが、1月はあまり動いていなくて少し補充するだけで事足りた。
 この一ヶ月あまりは地域や友達たくさんの人にお世話になったので、モクモクや馬路村の商品とともにベルファームの商品を購入してお礼をすることにした。
ベルファームに来るとどうしても動いてしまう。6千歩あまりあるいたけれどあまり腫れなかったので慎重にリハビリを進めよう。

フレイルの進行とリハビリの難しさ

 年が変わる頃から左足くるぶし周辺の腫れがひどくなり、正月明けの開院を待って1/5にもみの木整形外科へ行き、血液検査の結果炎症反応が強いとのことで1/6から1/12の間に4回点滴治療をしてもらって血液の炎症反応はほぼ収まり、1/16には先生からオートマチックなら運転も可とのお話もいただいた。
 しかしながらこの二十日ほどほとんど寝たきりの間に小さな体の割には唯一自慢だったふくらはぎと太腿の筋肉はみるみる落ちてきた。事故前まで平均1万歩近く歩いていたのが何もできなくなったのだから仕方ないが、腱板断裂の修復手術で40-50日二度入院したときにも、術後すぐに院内リハビリが始められたのでここまで筋肉が落ちなかったような気がする。1/16にある意味先生にお墨付きをもらって少しでもリハビリに力を入れようとトイレも尿瓶は使わず毎回行くようにし、身の回りのつみかさなった荷物類を少しずつ片付け始めた。
 何人かの友達に交互に乗せてもらって診察に行く日には歩数も千から2千歩にもなってきたが、腫れが引いてきたと思っていたくるぶし周辺がまたパンパンに張って椅子に座ってご飯を食べるときのように重力がかかったり、足首を動かすと痛みがひどい。(1/22r)
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(左より1/16, 1/18, 1/19)
 整形外科よりも皮膚科に行くべきだったかもとは時々思ったが、日にち薬といわれた本質はあたっていると思うし、痛みもある中でどのように新しい生活習慣を試みながらリハビリを進めるのか、ある意味二律背反の課題にどう向き合うのか、そこを考えるために追い込まれているのかしら?
 痛みもあって頻繁に寝姿を変えざるを得ないので床ずれまではできていないけれど、左足をかばう歪みから右の腰が張って痛いし、少しパソコンに向かう気になっても硬い体もあって足を投げ出して座っているとお尻が痛くなり長くは持たない。それでも寝ていてできるストレッチや小さな運動はできるだけしていることもあるのか、こんな場合だいたいなってしまう肩こりは今の処免れている。
 痛みが酷いときにはほとんに死んでしまいたいと思うこともあるけれど、いろんな人の助けで今がある。まだ生かされている意味を的確に見出すこともリハビリと共に課題として与えられていることなのかなと思う。まずは2、3ヶ月心身ともに甦れるのかどうか、偽りない自分を晒しながらもがき続けるしかなさそう!

ライジング若冲を見る

 昨日、BSの「ライジング若冲」をみて感動した。伊藤若冲との出会いは十年近く前の東京での若冲展を見に行ったことだった。絵心もなにもない私が若冲の描く動物や野菜や虫に生命力を感じさせるインパクトを感じた。
 「ライジング若冲」では、江戸時代の天才絵師・伊藤若冲の謎に包まれた天才の実像を初めて本格的にドラマ化したものであり、綿密な考証と大胆な仮説に基づき、アートなエンターテインメントとして世に問う問題作だとしている。臨済宗相国寺の禅僧に影響を受け、あちこちのお寺などにある名画の模写を続け、自然の動植物などの営みを単に精密に描くという域を超えて生命そのものの躍動感を描いている気がする。
 数年前竹遊倶楽部の仲間で左官仕事を主としながら絵を描かれていたNさんに、若冲展で求めた絵画集を見せた時、その後の絵がかわったことを鮮明に覚えている。特に鶏の目の周りが変わりすごく生き生きとした表情になったのである。その後病気で亡くなられてしまったので、本物を見てそれを取り込めるNさんの技量というか絵がもう見られないのがとても残念である。
 私の手元には奥様からお預かりしたNさんの絵がまだ残っている。手作り市などにも出しているがなかなか引き取り手が出てこないけれど、何とか後世に活かしたいものだと思っている。(1/17)













痛みのメッセージは何?

左足の腫れは12/29頃からパンパンになっていた。12/31に甲田さんに乗せてもらって荷物を取りに行ったのが負荷をかけすぎたのか、1/1には左足くるぶし周辺がかなり赤く腫れ、痛みが増してきた。痛みで集中力はなくなり、時間がすぎることのみに気が行くような情けない状態だったが、1/5の開院まで病院にもいけない状態。
  1/5にもみの木整形外科で見てもらい、血液検査の結果炎症反応が高いので1/6から点滴治療になってからも単に赤かった炎症が赤黒く変化はしたが痛みは去らない。
 人生の中で手術は4回、三重大学へ赴任直前の1972年に京都市内をオートバイで走っている時に市電の線路で滑って転倒し鎖骨を骨折したのが最初。それから36年間は入院するようなことはなかったが、松阪農業公園ベルファームに行くようになってから体の限界を知るかのようにいろいろなことが起こった。
 2013年9月7日自転車でいつものようにゴミ拾いをしていて、自転車の一部を車止めに引っ掛けて転倒し右肩を打撲し、痛みがさらないので後日(9/19)MRI検査を受けたら腱板が断裂しているということで、10/7に腱板修復手術を受け、53日入院することになってしまった。
 2016年4月4日の夜中0時過ぎ、耐えられない方の痛みでスマホで調べると心筋梗塞にこんなこともあるとの情報があり、迷った末に救急車を呼び、三重中央医療センターに運ばれ早朝の即手術となった。(同年4/21のブログに経過を書いている)
 そして3度目(通算4度目)の入院手術は2019年1月15日、此のときは左肩の腱板の修復手術で前回と同じ佐野先生に手術してもらった。(この経過も1/19他のブログで書いている)
 定年後の三回の入院では時に眠れないこともあったが、手術は麻酔をしてもらっているので、気がついたら手術は終わっていて、今回のわけのわからない腫れから二週間も続く痛みの経験は初めてであった。何の因果かとは思わないけれど、こんな痛みの継続は何のメッセージだろう、何に気づけということなのか? 確かにこの間、旧ソ連での抑留生活やジャングルでの生きるための闘いは如何に過酷であっただろうとか、痛みやひもじさの極限ではまともな人としての意識を保つことはとても大変なんだなと感じたり、それに対していくら痛い痛いといっても、助けてくれる友がいる今の自分はどんなに有り難いことかと感じたり…、たまたまBSテレビで見ていたシリアの内戦に伴う「瓦礫のビアにスト」エイハムさん、自分も過酷な状況の中で子どもたちのためにピアノを弾き祖国を忘れない活動に感動したりの経験はした。
 結局のところそこからまだ何かを掴んだとは言えない。今日の診療で血液検査の炎症反応が大きく改善していて痛みもレベルが下がってきているので、まさにこれからが問われるのかもしれない。(1/22r)

人生最悪の年末年始から③―事故から何を学ぶ?

 

事故の日から4日間は下の娘が見てくれ、12/29夕から1/3朝までは京都から上の娘が帰ってくれて、買い物はSさんにお世話になりながら食事と洗濯はしてくれ助かった。保険会社とのやり取りなどは東京の息子がすばやくやってれたし、事故後の救急病院に立ち会ってくれた末娘も、大事な約束をキャンセルして京都から戻ってくれた上の娘も親以上にどっしりしていて頼もしかった。

ここ一、二年非常勤も週一程度(実際にはNPO活動が忙しくなり月10回程度)となり、これまで仕事中心であまりできなかった家族と地域への恩返しをしていかねばと思って少しずつは関わりを増やしてきたのだが、今回の出来事は家族や地域の友達・隣人に全く迷惑をかけることになってしまった。誰でも自分のことで生きていくのが精一杯のことだろうから、家族でも急に関わりの深さを求められて苛つくこともあったであろう。それでも関わってもらえる人が少なからずあったことはほんとに感謝しかない。

くるぶしの内側などは腫れが引いてきたけれど、外側の赤黒くなった腫れは、布団の中に横になっているとズキズキ痛む程度であるが、這ってトイレに行ったり、食事をして椅子に座っている間は痛みがひどくなって、ひどいと痛みで頭のてっぺんや背中にびっしょり汗を書いてしまう状況である。当然夜も熟睡できないので、疲れたら断続的に眠るような感じである。腫れが引き痛みの緩和が進むのにどれくらいの日にちがかかるのかわからないけれど、今は快方へ向かう希望をもって時々刻々を過ごすしかない。

家ですることはたくさんあるけれど、なんせ気力が伴わない。食欲は少し戻ってきたけれど、寝ているだけなので、体重も2-3kgほど減ったまま。上の娘が買っておいてくれた加湿器も水がなくなると入れなければならないし、痛みで汗をかいたりすると風呂にも入りたいので、這っていって浴室に入り、左足だけ浴槽の縁に上げて、一人でのアクロバチックな入浴も挑戦すればできるようになった。こうして楽な入院ではなく、少しは動かざるを得ないことは何らかの他の人の手を借りながらも一人暮らしで生きていく訓練になっているのかもしれない。

とはいえ、これだけ痛い思いをする経験から何か学んだのかといわれれば、まだ何とも言えない。もう少し痛みが緩和し、少し本気で考えられるようになった時が勝負なのかもしれない。ただ、家族や地域の人々とのつながりへの感謝と元気になればそこにどれだけかでもお返ししたいなという気持ちが強くなった。

また、お医者さん等とのやり取りの中で自分の行動パターンをなかなか変えられないなというより明らかな自覚があった。自分が感じたり考えていることは後回しにして、自分なら配慮すると思ってしまって任せすぎるのが自分の抜けないくせである。周りの全体的な状況の中で、その環境に合わせる形で自分の役割などを規定してしまい、自分が思うことを後回しにするクセが抜けない。

これはNPO活動や会社のことでも言えることかもしれない。事故前のコロナ禍の中でも少しずつ片付けをしながらもこれでは何年何十年かかっても事態は大きく改善できないかもしれないという危機感を感じている。中途半端な振り返りはとりあえずここまでとして具体的な作業に取り掛かろう。(1/8)

 

 

人生最悪の年末年始から②

12/26の出来事を思い出し、整理し記述するのに10日もかかっている。これがほんとに考え書くことも仕事にしてきた人間なの?ベットに横になっていると痛みはまだマシで、時にテレビで時間をごまかし(pass time)、逃げる心と闘いながらようやくパソコンを開く、こんな繰り返し。記憶はすぐに飛んでしまい電話とラインのやり取りメモでかろうじて前後が繋がる状態。


〈最悪になった年末の経過〉

27日朝から38度の体温だった。喉も痛くないし、鼻水も出ず、味覚もあるが、夕方

だったか一瞬39度になったりしたので、患者さんを見たあと来てくれていた末娘が28日は休みをとって、かかりつけ医の高野尾クリニックに連れて行ってくれた。熱があるというので別の入口から入り、胸のレントゲンとCTを撮ってもらい、感染症の疑いはないということで熱下げ鎮痛薬のカロナールを一週間処方してもらった。 

 薬のおかげもあったのか29日の朝には熱は平熱に戻り、それ以後体温は安定している。

ところが左足首周辺と左の下肢の腫れが一向に引かず、まともに歩けない状態なので29日午後もう一度救急車で入った永井病院でみてもらった。その原因を骨折の可能性があると考えられたのかレントゲンとCTを撮ってもらって何ともないとなり、それ以上の検査も処置もされるに日にち薬といわれて戻ってきた。今考えると、左足の腫れがかなり赤くなり、いくつか押して痛い箇所もあったので、血液検査などしてもらって炎症ドメ薬など処方してもらっていたら、痛みと格闘の日々は少々変わっていたかも。

 29日の夕方、京都から上の娘が帰ってきてくれ1/3の朝までいてくれることになった。

30日にはよくマッサージなどに行く近くのあおぞら整骨院に上の娘の友達で普段から仲良くしているSさんに連れて行ってもらい、左足のテーピングをしてもらいゆっくり歩くことができるようになった。そのため、31日に隣近所のKさんから手伝うことあるかと言ってもらって時にレッカー会社のアクアから残りの荷物を引き上げてくるお願いをした。当然自分も同行することになり、痛い足であるいて荷物を運んだ。これが左足の無理に繋がったかもしれない唯一の無理であった。それが結果的により苦しい正月をもたらしたのかもしれれない。なんせ正月で病院は休みだし、やはりもみの木整形外科の大西先生に見てもらおうと思っていたけれど、開院は1/5からだったから。

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〈痛みに耐える年始からの経過〉

1/1 年賀状はだんだんと出さないようにしてきましたが、それでも50-60届いて嬉しいような、返事もかけそうにないのでたいへんなようなですね。これを機会に絶対断捨離を勧めなければならないのですが、なかなかこれまでのライフスタイルは変えにくい。

1/2 上の娘に一週間ほどの買い物準備。民生委員Tさんに連絡。

1/3 友達Mさん、おせち料理を持って慰問に来てくれる、一緒に昼食。

11時前上の娘が帰京。

豊ヶ丘コミュニティクラブ加藤孝生会長に連絡。車送り迎えの助け合いは保険の問題もありしなくなったが、必要なら手伝うと。

Mさんに燃えるゴミをまとめてもらい玄関先へ、近所の馬場さんに処置してもらう。

13:45― 津北部西包括支援センターから連絡。要支援・要介護の手続きをしてくれることになり、以前と同じペタニヤさんからケアマネさんが来ることになる。

1/4 いつも気軽に接してもらっている近所の馬場さんに助けをたのむ。

午後ベタニヤのケアマネ、以前にもお世話になった福井さんが訪ねてくれて介護保険申請の手続きなど教えてもらう。

1/5 馬場さんに乗せてもらって、芸濃支所で事故のドタバタで見失ってしまった後期高齢者保険証の再発行と介護保険の申請をしてきた。その足でもみの木整形外科にいった。9時前についたのに正月明けもあってか沢山の人で、一時間半まちといわれたのが2時間あまり待ち、一二分の診察でまれに、こういうこともあると少し強めの抗菌消炎鎮痛剤を出してもらい、血液検査もしてもらった。


1/6
もみの木整形外科から11時ころ血液検査の結果が出たからできれば早く知らせたいと言われ、私自身も3回新しい薬を飲んだ割にはあまり痛みや腫れが改善しないので見てもらいたいと思い、急遽17時に予約を取ってもらった。今日は提案してくれていた伊賀の小林さんに送迎を頼むことになった。遠くの人に頼むのは忍びない気持ちだが、話したいこともあったので甘えさせてもらった。

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なお赤黒く腫れた炎症部分1/7











 血液検査の結果は炎症反応を示すCRP4.99(正常値0.3以下)と高くなっていて、通院で抗生物質の点滴治療をしましょうということになり、早速20分ほどかけて100ccの点滴となった。ここから腫れと痛みが回復する光がみえてきた。

1/7 福井さんの紹介でライフテクノさんが来てくれて、松葉杖を借りることになった。室内では四つん這いで這っている方が安定するが、外では楽になりそう。

1/8 午前中、早速介護保険の調査員の方が来てもらって症状と生活の様子を聞いていかれた。

人生最悪の年末年始から①

20201226日がその運命の日でした。その日は竹遊倶楽部今年最後の作業日で、今年は随分と仲間にお世話になったので、25日ベルファームに行ったときに松阪牛の切り落としを買い求め、ほぼ十人分ほどのビーフシチューの準備をしてきたところだった。

 

何とかお昼ごはんまではよかったのですが、そのご調子がより悪くなった。工房の電源にご飯をセットし、炭火コンロでビーフシチューを温め、いつもなら仲間の一人ひとり分自分が作り上げて手渡すのにそれがしんどくてその作業も三鬼さんに任せた気がする。みんなが作業してくれているこもれびの森の駐車内でうとうとし、もう帰ったほうがいいよとなって帰り支度をし、気付け薬的にミニストップに寄ったときもすぐに運転する気に小1時間車内で休んだ。

その後、高速を使いながら体調を戻そうと思っていつものように極楽湯に行った。この時今日は疲れているから早く帰って寝ようという判断ができていれば最悪は避けられていた。半ばルーチン化しているパターンを変えられない「問題イチ」である。

極楽湯ではいつもどおりまずサウナに入ったんだと思うが、気がついたら救命救急士さんに介抱されていた。サウナの入り口かどこかで倒れて救急車を呼ばれたらしい。意識が戻り住所氏名電話をちゃんと伝えられたのでそこで開放された。

寒かったのでもう一度炭酸浴に入ったりしたものの、レストランで少し休んでから帰ろうとしたのだか、小川町の信号を左折して県道55号線入る左折カーブで左側の縁石が気になったのは覚えているのだが、次に気がついたときは田んぼに横転していく途中だった。車は真横になり運転席が下になって自力では這い出せずに、近所の人が読んでくれた救急車の人に助けられて、後部座席から這い出した。

同乗者も対向車も居なかったことを不幸中の幸いと思うべきか。自分の感覚では歩けるし大丈夫と思ったが、救急車に載せられ、結局永井病院へいくことになった。入院にはならないだろうということで誰か家族が病院に引き取りに来る必要があるということで、救急隊の人が私のスマホから末娘のアドレスを見つけ連絡をとってくれた。

運び込まれた永井病院ではどこを調べられたのかよくわからなかったが、大丈夫となり4月に三重に戻ってきた娘の車で帰宅することになった。ところが家の鍵が見つからない。いつもお尻のポケットにいれているが救急車でズボンを脱がされときになくなったのか、横転した車の中にあるのか、念の為レッカー会社の駐車場に置かれた車の車内を探すことになった。23時半も過ぎた時間なのに嫌がらずに対応してもらって感謝である。合鍵は万が一のため隣近所のKさんにも預けてあるが、こんな時間帯では迷惑であり、県内に戻った娘にも一つ持っててもらうことにした。結局あちこち探して救急隊が私に係る備品をまとめていた中にあり、無事帰宅でき眠ることができた。(1/5, 1/6,1/22r)

 

何十年ぶりかの握力測定

11/2豊ヶ丘の「さろんここから」の健康診断(津医療生協のボランティア活動)に参加して、長年測ってみたいと思っていた握力測定をした。結果はええっと驚きの右41.5kg, 左38.5kgであった。
今年の春頃から園内のテーブル・椅子磨きを始めて、作業は一日二、三時間に留めていたが、腕や肩が痛み、ひどいときには疲れの出てくる翌朝や翌翌朝にしばらくグーパーができないことがあったりしたので握力がよほど落ちているのではないかと思い、チャンスがあれば測りたいと思っていたのである。

私はもともと握力は強くなかったが、結果数値は記憶がおぼろげだが若いときの数値に匹敵するものだったので驚いたのである。ちなみに75-79歳の男性の平均値は21.3-35.1となっていて、同時に測ってもらった筋肉量は45.4kg(男性の平均26.5kg)だった。実感としては信じられない数値だがここ数年歩く歩数も8,000-10,000歩と意識して歩けていることも結果につながっているのかもしれない。

よく使うディスクサンダーや電動カンナは自分の腕や肩にはかなり堪えるのだが、痛んでもできるのはありがたいことである。特にベルファームが非常勤になってからは会議以外は主にNPOの仕事をさせてもらっているが、これがほとんど外仕事で竹林整備はもちろんのこと竹細工もかなり腕の力を使うので、実は鍛えられて強くなっていた。NHKの谷本道哉先生じゃないが「筋肉はうらぎらない」が実践できていたということなのかしら?
園内に200余りあるテーブル・イス磨きも残り数分の一程度になっているので何とかやり抜こうという勇気をもらった感じである。

竹遊倶楽部の2020年度上半期活動報告

 炭焼や竹林整備を継続しながら今年もいくつかの新しい試みができた。主な活動は以下の通り。


○ こもれび広場のリニューアルオープン

昨年度の後半からこもれび広場の竹柵づくりや瓦チップ敷き詰めなどの整備をしてきたが、89日に夏の竹遊び水鉄砲や竹製品の展示で区切りのオープンイベントを行いました。水鉄砲は仲間十人ほどが作った20本ほどの水鉄砲で楽しんでもらいました。

コロナ禍もあり、一般参加者は家族4組ほどでしたが、久しぶりに仲間が笹原・北村・亀井・中西、逸見夫妻・甲田・中井・植村・大藪・向川・大原と12名の参加となり、紅工房さんに依頼した筍弁当としそサワージュースを振る舞いで交流を楽しみました。私たちの活動の重要な部分でもある竹炭焼も実施しました。また、招待したベルファームの社長と園長から普段の活動にねぎらいの言葉もいただきました。
 その後
9/21には新窯の補修改善を行いいい竹炭がやけるようになり、また私たちの昼食場所の八角テーブルも中井氏からヒノキ素材の提供を受け、10/18に大工の三鬼さん中心に天板を張り替えてもらいました。
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(八角テーブルと水鉄砲)





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水鉄砲遊びと竹林街道の整備















 

○美濃田竹林街道の整備手伝いの継続。

前期に引き続き、10/24,10/25の2日に渡りベルファームから美濃田大仏への竹林街道の両側の竹林整備(古竹伐採)の手伝いをしました。今後も機会を見て協力していきます。

○ 竹の見本園の充実

 5/4黒竹と布袋竹の芽を確認、三年前に整備した竹林の南東部に移植してあったのだが数本あった四方竹はほとんど枯れてしまい気になっていたが今年は残った一本からたくさんの筍が出てもう安心です。10/1810/25に旧御城番工房で笹原さんが育てられていた亀甲竹をさらに数本移植し、亀甲竹、黒竹、布袋竹、四方竹、業平竹の小さな群落ができてきました。
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(ベルファーム竹林整備と竹の見本園)

















○ 竹の浮かし彫りの滋賀への研修と竹細工のレベルアップ

 滋賀の妹背の里などで活動されている渡部俊夫さんのグループから、竹の浮かし彫りと竹灯籠にする透かし彫りを数人の仲間が習ってきたのは今年の2月でした。それ以後浮かし彫りは北村さんと笹原さんが、透かし彫りは中西さんと冨田さんが熱心に技術を習得されている。特に北村さんはタンカー建造の設計から施工管理の腕を生かしてたくさんの作品をものにされ、10月の松阪市展でも入選されている。渡部さんからは近い将来滋賀・奈良・三重で共同の竹作品展示会を開こうと提案されています。

○〈手づくり市〉への参加。

この前半はコロナ禍で休みが多くなりました。総文の夢の手作り市は半年間休止となり、ベルファームの手作り市は9月から開催となりましたが、私たちは10/11に今年度初めて参加しました。個人的に協賛してくれた北村さんの浮かし彫り、蓮池さんの伊勢型紙、甲田さんの風車などがよく売れました。

○ 子どもたちへの竹道具の作成。今年の夏は、昔なつかし「竹の水鉄砲」作りにみんなで挑戦し、20個ほど作成しました。8月にイベントをし、時々木もれび広場に遊びに来る子どもたちにもあげました。

○ 柳屋奉善さんへの羊羹竹作りはコロナ禍で注文は減りましたが今年も協力しました。竹切り4/19, 仕上げ作業5/24同日300(プラス300予備納入)追加注文あり、8/4に竹切り、8/6に仕上げて、同日50(プラス100予備納入)

○ 園内テーブル・イス磨き―竹遊倶楽部の仕事ではなかったのですが、大原が始めた雨風で黒カビが生えた園内のブル・椅子みがきに5/21, 5/27, 5/31, 6/7, 6/9と協力してもらった。ベルファームの中心部蚤の市広場とアンパンマン広場周辺の39個を磨き終えました。また、7/19 中井氏の友だちが高所作業車で折れ枝を取り除いてくれました。

○ 常連さんに引き続き新しい仲間の参加。常連組の北村、笹原、中西、蓮池、辺見、三鬼さんに大原、そして遠くからも折に触れて参加してくれる植村、坂口、甲田氏、向川さん、さらに勝俣夫妻、佐久間さん。今年の始めに加わってくれた農家の亀井さんと大藪さん、さらに7月から強力な助っ人中井氏が参加し、大原がかってに特別顧問と名付ける山本實穂氏や左官大工の鈴木氏とのつながりもできました。

 


改めて断食の効果を実感!

10/11から10/18まで22回目の断食を自宅で行った。10/11と10/18は竹遊倶楽部の活動日だったのでベルファームへいった。10/18は半食、夕方からお粥少しにし、10/19,20もお粥や半食にした。その後、10/21は友達とメナード青山に出かけ、10/24,25はベルファーム地元の美濃田大仏への竹林整備の続きに仲間と駆けつけ、その間日本農業賞の三重県代表恩田農園の講評とスローなニュースの原稿も重なっていたが何とか仕上げられたのは、回復途中の無理で少し体調を崩したもののやはり断食のおかげだと思います。

(今回の断食の感想)
全般に断食中に何かをしようという意志が弱くなった。断食日誌すらほとんど書けていない
断食三日目に下痢便、回復食二日目にも。回復食四日目に少し茶っぽい普通の便。それでも宿便が出ると急速に力が出てくる。
断食中は特にオナラもよく出た。二日目に少しフラッとし気持ち悪くなりかけたので今回はその時からスポーツドリンクを使ったのでほとんど苦しくなかった。ラジオ体操は基本的に断食中も続けた。力はなかったがひととおりできた。
断食中は心筋梗塞の薬やサプリ(ビタミンB類)をやめる(回復食二日目から服用再開)。右腰の痛みや腰の痛みはなかなか消えなかったが、回復食とともに緩和してきた気がする。それに断食後はやる気や集中力が戻ってきた。
夜中に小水に起き、また寝て5時ころ目が覚めることが多いが、断食前は一度起きてもまだ眠くてもう一時間半か二時間寝て何とか動き出せる状況だったが、回復食三、四日目頃から5時間程度の睡眠でも頭がすっきりしているので新聞を読んだり、バソコン仕事できるようになった。
動きが良くなったので部屋の断捨離も進んで、小さな宝ものが見つかる。パソコン仕事によく合っていたメガネ、お金を立て替えていて返してもらったのに忘れていたカネの封筒など。
食への感謝の心や心身の向上、ゆったりと人の話を聴けるのはいつもどおり。
・ 友だちは家だったら食べ物いっぱいあるだろうからよく我慢できるね、というのだが、自分はそんなに我慢強い方ではないと思うが、成り行きの結果が見えていて一時の苦しみももっと大きな快調さが後に訪れることを体で覚えているからではないだろうか。
・ やることが多く、娘からも「他志向の自己中」と言われているように、片付けることは山ほどあるが、その途中で誰々にこうしてあげたいああしてあげたいと湧いてくるので、泳ぎ続けているカツオみたいなもんなんでしょうね。そう思え続けられるのも時々断食でリセットできているからではないかと断食との出会いに改めて感謝です。(10/30完了)


空き家になりかけているブログを訪ねていただいている方へ

 書きかけの下書きはいくつか書いたものの結局9月は一遍も乗せることができませんでした。その間も私のブログには少なからぬ人が訪ねていただきました。有り難いとともに申し訳ない気持ちでいっぱいです。
病気をしていたわけでも、特別に忙しくなったわけでもないのですが、週に1-3回ベルファームに行って一二回の会議のほかは主に竹遊倶楽部の仕事や春から続けているテーブルや椅子磨きを続けているだけなのです。ただ、電動かんなや電動グラインダーでの作業が何とかその日はできても使い痛みの肩や腰がマッサージや温泉でほぐしてもなかなか治らなくなり、毎朝めがさめると腰を曲げるのが痛く、握力もなくなっていて指がすっと握れない状況が続いています。

 休みは多くなっているのに体の修復に時間がかかってしまうので、家の片付けも遅々として進みません。気力が落ちているのか、パソコンに向かうより家でも外仕事(花の水やり、草引き、選定や刈込)の方に時間を使ってしまうというか、考えたりまとめたりすることから逃げているのか…

 最近仲間というか我々の特別顧問になっていただいた山本さん86歳は午前中は農作業、午後は切り抜きなどで勉強されていて矍鑠として弁舌さわやか、細々した数字も澱みなく出てくる大先輩で、総じてアクティブな70歳代の私たちの仲間も感心することしきりでした(サロンフィリアでの話しぶりはどこかで話題提供したいところです)。竹遊倶楽部の世話役として音を上げかけていることが分かる仲間からはまだまだ頑張らなあかんでと。
 
 非常勤とはいえ役員を続けさせてもらっている重荷がどこかにあるのか、もう一年半の二期目を終えたら一区切りつけるほうがいいのではと思いながら、確かに75歳の平均余命は11.5歳あるので平均的に見れば86歳くらいまで生きている可能性はある。もし目標にしている徳じいさんの93歳までいきるとすれば17年もある。それには自己管理をより徹底しないと難しいだろうが、もう一つは新しい目標をもてるかどうかではないだろうか。
 
 今年の誕生月の9月は少し特別でもあった。一人氏暮らしでも遠くから家族が祝ってくれたし、下の娘がようやく4月に四日市に就職して誕生祝いの食事もしてくれた。子育てはいろいろあったけれど、一応親としての最低の勤めができたような気がする。それぞれに抱えている問題はあるにしても子どもたちが自立し、会社も次の世代が育ってくれている中で残された自分の仕事は?書類の片付けや終活は当然進めねばならないとしても、私が生かされている使命は何なのか?

 普段片付け(断捨離)を続けながらも人生を振り返る時間を与えられていろいろと考えることがあり、自分の個人的経験がもつ共通性の部分をうまく抽出できれば次代の人たちの多少の参考になったりしないかなと考えたりする9月でした。
コロナ禍はまだ続きますが、少し気候も良くなってきたので「ぼっーと生きているんじゃねえよ!」といわれないように日々のキレを少し取り戻したいものです。


たかが一輪の花、されど一輪の花?

 先日の朝、例のごとくベルファームへ持っていった花を農家市場にかざっていたら、ある農家さんが「誰が飾ってくれているのかなと思っていたんだけどあなただったの!私も花が好きだから気になっていたの、さり気なくがいいよね!」と。
 生花を竹で作った一輪挿しに飾りかけたのは2018年3月のパン屋さん「やさい畑」のオープンからしばらくたった6月頃からだった(一度2018年8月21日のブログに書いている)。もう2年余り続いていることになる。一時別の農家さんが共鳴してくれてしばらく花をいけてくれたりしたがあまり続かなかった。そんなこともあったがこのように声をかけてもらえる(見てもらっている)のはとてもありがたいことである。
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 自分がベルファームへ行けるときに自宅から持っていって花を替えているので時にしおれていることもある。センスもないじいさんの自分で決めた仕事ではあるが、心していることは器は仲間の燻竹での手作りであること、花もベルファームにはたくさんあるが自分で作ったものを持ってくようにしていること。
自宅の門柱で育てている日々草とポーチュラカ IMG_20200925_094644IMG_20200926_103254





今はペンタス、ポーチュラカ、日々草、各種ミント、竹ラン、笹竹、業平竹、白妙菊、さらにアスパラガスやパセリなど。花の名前はよく忘れるが家の季節に咲く花が少なくなってくると花屋さんで苗を買ってきたりして花を育てる(といっても水をやっているだけだが)のが楽しみの一つになってしまった。
 その農家さんは女性が生けているように思っていたらしいが、当初よりいい花をたくさんベルファームに出してくれていて、時々話す前田さんは、「ここには女性が居ないのよね!」といって笑われるのである。しばらく来れなくてしおれた花がそのままになっている時に、しおれていたらせめて一輪挿しから抜いておいてもらえるといいのにねなどと話していた時のことである。
最近はやさい畑、農家市場、事務所前などにも置いていて、しおれたら片付けておいてくれることも増えているが。
 子育てが終わってからは完全な一人暮らしで昔で言う男の仕事女の仕事に関係なく何でもやってきたので、自分でできることや気がついたことは何でもするし、そのことはベルファームの小使いさんを自認する私の楽しみや強みになっているのかもしれない。竹遊倶楽部での買い物や洗い物、たまに作る仲間(十人分ほど)の料理や仲間にあげる手づくりジャムやしそジュースなども楽しいのだが、目先のことに追われて断捨離が進まないなとか、体が疲れてマッサージや温泉でケアするのに時間がかかり終活が進まないな、とかの反省はあるが…。(10/9)


それぞれのラジオ体操ー地域の高齢者が生きるひとコマ

 以前にも少し触れたかもしれないけれど、豊ヶ丘コミュニティクラブでは夏は毎朝7時から公園でラジオ体操が行われています。7時でも晴れの日はすでにかなり暑いですが、25人前後が集まってくる。毎日の体調やすることとの関係で出たり出なかったりもあります。
〈装いの多様性〉
男女比は1:2か1:3くらいでやはり女性優勢です。服装もそれぞれですが、カジュアルな洋服を見事に着こなしている人も見えます。でも多くの人がお気に入りがあるのかそれぞれらしい装いです。そんな中私は一番変わっているのかもしれません。ベルファームへ行きがけに出る時は作業服ですが、夏はトレパン姿や半ズボンが多いです、よく走っていた40代の頃のミズノの短パンなど履いていくと誰も何も言いませんが若いな(変わっているな)といった感じのようです。汗かきついでにその後2kmほどの散歩(この頃は速歩になっていない)をするからの理由もあります。家から公園が遠い人は数百メートル歩いてこられますが、家からの往復だけでなく続いて散歩をする人も少なくありません。
〈参加理由の多様性〉
 体操はそっちのけでぺちゃくちゃ世間話に忙しい人もあります。もちろん女性ですが、それも彼女たちにとっては大事なのだろうと思います。お風呂でもそうですが、男の人が喋っているのは少ないですね。ラジオ体操は豊ヶ丘コミュニティクラブのいち種目として行われているのでメンバー同士の安否確認の意味もあるのかもしれません。私は自宅で一人で体操を続ける根気がないので、ラジオ体操に出ることで体ほぐしをし、その後の散歩で最低の運動にしています。散歩は5時頃に起きて先に歩いてきている人もいます。
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コミュニティの朝の体操



〈体操が移す体の状態〉
 たかがラジオ体操されどラジオ体操でうまく全身のストレッチが組み込まれていますし、多少の筋肉は使うので体調維持にはいいと思います。人の体操する姿を見ていると結構いろんな事が分かりますね。腰の悪い人、方が硬い人、力強い人、手足までピッと伸びる人、形だけ真似ている感じの人等々、体操する姿にその人の生きざま的なものが現れているとも言えます。
 私がいつもほれぼれと見ている一人の先輩がいます。腰は少し痛そうなのですが、腕振りや腕回しの時には腕がしなるようにきれいです。体操の始まるまで時間があると近くの木の太い枝にぶら下がったりされているのですが肩関節が柔らかいです。先日お歳を聞かせてもらったら昭和9年生まれとのこと、私より10年も先輩です。生まれつきの部分もあるかもしれないけれど、日々の精進なんだろうとおもいます。
 今年の八月はコロナ禍もあるのか、あるいは終戦75年ということもあるのかいつになく戦争の話題に触れる機会が多かったように思います。多くの人の無念を垣間見ているとちゃんと自分の生かされた人生を生きなきゃと思えます。それには改めて健康を維持する体つくりですね。
 

こもれび広場のリニューアルオープンー水鉄砲遊び

 三重スローライフ協会竹遊倶楽部では2015年からベルファームの竹林をお借りしての竹林整備とこもれび広場での竹炭作りや竹細工をしてきました。暑い夏場は直射日光が遮られ、鬼ケ窪池からのそよ風が素敵な場所なのでもっと来園者に利用してもらいたいと今年に入ってから広場の整備を進めてきました。

作業場と憩いの場所を分ける竹柵を作り、憩いの場所には赤い瓦チップを敷き詰めました。3年前の台風で折れたままになっていた枝も先日(7/19)新しく入会してくれた中井さんの友達が高所作業車を使い取り払ってくれました。

夏場ベルファームで一番涼しい場所ではないかと自負していますので来園者の方のお越しを待っています。竹遊倶楽部に入りたい方も歓迎です。 

 リニューアル・オープンの中身は「竹製品の展示と竹水鉄砲・竹コッポリ遊び」

8910-12時、ベルファーム西門脇のこもれび広場(雨天中止)

先着20名程度、参加費小学生以上ひとり200(幼稚園以下無料

受付はベルファーム事務にて。人数に余裕あれば当日現地で可

として一週間前にベルファームのホームページに載せてもらいましたが、三重県に置いてもコロナ感染者が拡大してきていることもあり、マスク着用、アルコール消毒、三密を避けるを徹底して行いました。
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 (入り口のアルコール消毒とテーブル・椅子の準備)

 竹仲間は12名8時過ぎから集まってくれてテーブルと椅子を用意し、ワンセット分はベルファームからお借りして、私たちの竹製品を展示すると共にこもれび広場の一角を水鉄砲遊びのコーナーとしました。
10時から12時ころまで都合4家族が来てくれて、竹コッポリより水鉄砲が人気で楽しく遊んでくれました。30-40人分は用意した冷たいしそジュースも喜んでもらえました。しそサワージュースは自宅で赤紫蘇を煮出して三温糖を加え米酢で鮮やかにしたものにその場で氷水とサイダーを加えて作りました。
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 (竹製品の展示と水鉄砲の水を見事に的に当てた凱土くん)
 竹の展示品は北村さんと笹原さんが作られた「うかし彫」と中西さんの作った「竹灯籠用の透かし彫り」が人気でした。他に甲田さんの竹風車、向川さんのお母さんが作った草履、そして私が作っている竹靴べらやスクレーパー、竹箸なども展示して、仲間内でも欲しい物があればお代をカンパにしました。
 久しぶりに12名の竹遊倶楽部の仲間が集ったので、いつもの紅工房さんに私たちの竹林整備で収穫した筍を使った弁当を作ってもらい交流も深めました。
 

参加費を含め収益はすべてコロナ禍及び令和二年西日本豪雨の寄付金にします。
との案内もしていましたが、参加費、竹製品等のお代、お昼弁当分のカンパなどで合計4300円が集まりました。これに竹遊倶楽部と私からも足して、とりあえず今回は令和二年7月西日本豪雨義援金として日赤に届けたいと思います。みなさんのご協力ありがとうございました。
 またお昼過ぎあいさつをお願いしていた岩森社長が芝刈りの仕事に時間がかかり遅れたとのことで倶楽部の仲間用にスイカを差し入れてくれました。同じく芝刈りをしていて少し体調を崩されたという廣畑園長も駆けつけてくれて一声お礼を言っていただき、いいつながりができました。

☆赤瓦チップが敷き詰めた「こもれび広場」はオープン後はスタッフがいなくても、ご自由にお使いください。またこもれび広場や竹のことで質問等があれば下記まで連絡ください。

三重スローライフ協会竹遊倶楽部、連絡先オオハラ090-5030-2614、ササハラ090-1622-8555

 

 

断捨離を気持ちよく進める方法―hunger free worldとの出会いなどなど

 切手の整理を行ったことは「コロナと断捨離」(2020/5/16)でも書いたが、今年は自宅にいる時(週の半分かそれ以上)片付けをしていることが多くなった。今は社会的な仕事も減らしてスケジュールはそんなに詰まっていない。にもかかわらず時間がない、少ないのはなぜ?仕事を作ってしまう?頼まれると引き受け、頼まれても居ないのにお節介をし(必須とはいえない物作りに精を出し)、を続けるのはなぜ?
 今年竹遊倶楽部に加わってくれて言いたいことを言い合える仲間の一人が、最近「あんた竹製品作ったり、椅子磨きもいいけれど、もっとあんたがやらなあかんことがあるのと違うの?」と言われてギクッとしたことがある。彼はスローライフ協会の年次報告の巻頭言(私の執筆箇所)をみて「凄いな!」と言っていた人なので、誰でもできることではなくあんたしかできんことをやらなあかんのと違う?、と言いたいようだった。巻頭言を書くのも四苦八苦だったが、ベルファームやスローライフ協会の先行きなど基本的なことを考えることから逃げているとの自覚があったからこそギクッとしたのだろう。

 片付けても片付けても整理が進まない現実と作業量が逃げの口実になっている自覚はどこかにあるけれど、一人住まいの家に物が多すぎるのは事実である。「備えあれば憂いなし」でたとえ次に来ると言われている東南海地震が来て、電気や水道のインフラを絶たれたとしても一週間やそこらの水や食料・生活品の備えはある。車に乗っているときに大きな自然災害に会ったとしても数日生き延びる備え(水や当面必要なもの)は一応しているが、ローリングストックを心がけていると言ってもたまにチェクすると賞味期限を遥かに過ぎているものも見つかるし、見つかったとしてもまだ使えると思うものは捨てることができない。結局の所、モノ云々の前に考え方が変わらないとなかなか断捨離も進まないのだろうと思ってしまう。ものを活かしたい、人に役立ちたいという基本のところは試行錯誤しながらも自分の生きる術(すべ)として身についてしまったところもあるので、これを変えるというのは自分が自分でなくなるような気になってしまうのである。
 年賀状など人との付き合いは少しずつ減らしてきているが、特にこれと言った取り柄もない自分が何とか生きてこられたのは多くの友や知人のお陰であるし、そういう人々には生きているうちにちゃんと感謝の気持は伝えたいなと思い、書き物も含め自分の手作り品を気持ちを込め送るにも、物事の処理能力が落ちているからか思いの外時間がかかってしまう。物事の処理に役立つはずのIT技術への適応も以前以上に落ちていて本音は若い人に教えてほしいところであるが、子供にしても会社にしても現役世代はたいへんだから、そのフォローに回らなければと思っているととても聞くどころなくなる。もがきながらも(子供を含め)あまり人には迷惑をかけず何とか一日一日を過ごしているのは案外高齢者の共通項かもしれない。

12月の初め頃、突然リユース業者の訪問を受け、使わなくなったもので値打ちのあるもの、古い昔のカメラセットや使わなくなった腕時計なども値がつくというのであれこれ数十点出したら、思いの外の値がつき、歳末たすけあいにもしやすくなった。春先にも下の娘が三重に戻って無事就職し、そのきっかけになった国境なき医師団や研修を兼ねて短期のミャンマーへのボランティアに送り出してもらったジャパンハートに募金したが、年末募金の強力な助立ちになった。
 非常勤になってから本や書類の整理にかなり時間を費やすようになったが、なかなかはかばかしく進まない。思い入れのある壊れた時計も部品取りができますと言われると手放すことが用意になる。もののない時代に育った人は大抵そうだろうが、モノを生かして使うということにかなり思い入れがあるので、少しでも値を付けてもらうということは誰かにまた使ってもらえる可能性が高いということ。ベルファームでリユース市をやっていてもなかなか履けないが、さすがプロはプロだなと改めて感心し、加工するとなるとかなりのお金がかかりそうだし、持ち続けても仕方ないかなと思えたサファィアの原石なども差し上げてまた少し断捨離が進んだ。
 ものを生かして使いたいという考え自体は修正する必要はないと思うので、自分が大事だと思うことにはこだわりながら少しずつでも前に進むしか仕方ないのかなあー。(何ヶ月もかかった末に、12/12)

こもれび広場のリニューアルの完成

 これまでこもれびの森全体を竹遊倶楽部で使わせてもらっていたが、夏場は暑い太陽が木々で防がれとてもいい環境の場所であるので、来園者にもっと利用してもらいたいと思い、環境改善に手を付けることとなった。2019年の11月後半からこもれびの森のこんにゃく畑との簡単な竹柵の更新をするとともに、北村さんの植木職人技術を活かしてもらって竹遊舎や炭窯の手前にバージョンアップした竹柵を作り、入口の部分にも竹柵を追加した。
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 さらに、その間に瓦のリサイクルである赤瓦チップを万縁株式会社から購入して敷きつめ、古い木のテーブル・イスもグラインダーなどで汚れを磨き、竹酢液で防腐し、ぎりぎり年度内の3月29日に完成した。20人くらいならいつでも座ってもらって、弁当を食べたり、鬼ケ窪池に集う鳥たちを見ることができるようになった。
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 4月にはコロナ禍により緊急事態宣言が全国的にだされるなどなかなかお客さんも少ない状況がつづいてきた。宣言が解除されても長い梅雨などでなかなか使ってもらえる状況にも至らなかった。
 そうこうしている時に、7/19に最近竹遊倶楽部に入ってくれた美濃田区の中井さんの友達が高所作業車を持ってきてくれて2017年秋の台風で太い枝が倒れて隣の木の股に引っかかったままになっていた枝を切り落とし、周辺の枯れ枝も払ってもらった。強い風が吹くと太い枝が落下してくる危険性があったので、「頭上注意」の案内板を取り付けていたのですが、これでそれを取り外すことができるようになりました。
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 今年の梅雨明けはこの分では8月にずれ込みそうです。7/26のサロンフィリアの時にこもれび広場のリニューアルオープンの相談をしたのですが、竹水鉄砲など竹細工の遊びを含めて8/9日曜日に小さなイベントをすることになりました。昔少年、心は今も少年の70-80歳のメンバーは竹を使った遊びや楽器などの話に盛り上がりました。さて、8/9にどんなイベントができるのか楽しみです。


農産物仕入の難しさー施設への姉訪問ついでの一仕事

 介護施設に入居している姉に会いに奈良へ行った。三密が避けられないこの種の施設ではコロナが蔓延してから家族でも面会謝絶が続いていました。7月からようやく訪問が可能になったので7/15に行ってきたのです。
 せっかく出かけるのでそこから小一時間で行ける先日視察訪問したJA紀の里の農産物直売所「めっけもん広場」に立ち寄って農家市場で売れそうなお値打ちの桃を仕入れてくることになりました。

(ここまで書いて10日あまりが経ってしまいました)
直売所は9時からオープンなのでその前に到着するつもりだったのですが、朝の出掛けに時間がかかってしまい、着いたのが9時20分頃、すでに第一駐車場は満杯で道路に何十メートルも車が並んでいました。買い出しに来たので離れている駐車場では無理と思い、並んで待つことにしました。やがて入場の番になりましたが多くの人が桃目当てなので、一箱1000円から7000円程度まである中で、お値打ちのものはあっという間に売れていきます。ベルファームでは一箱が千円程度のものしか売れていかないだろうというアドバイスあったので何とかベルファーム用の5箱確保して、竹の仲間等への入用は道の駅かつらぎ等で求めました。

昼前にグループホーム橿原に行かねばならなかったので忙しい買い物でした。もう十回近く来ているのに今回のように混んだのは初めてで、スタッフの一にお聞きすると水曜日は特に人が多いとかでした。
いい経験になりました。

さて、半年ぶりに訪問した姉は思いの外元気で、外に連れ出した昼食も楽しみ食べてくれました。
自分自身が随分と劣化してきているので他人の後見でもないのですが、甥が自信を持つまでもう少しの辛抱かと思っています。
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健康青竹を作ってみる

視察でスタッフから求められた健康青竹は、7/2にある程度の素材づくりの準備ができ、素材と工具を持ち帰り、7/4,7/5と自宅でさらに炙りとつやだしをして形を整え、最後に竹の接地面に両面テープで松阪木綿を切って貼り付け仕上げとした。かなり前から一つ作ってあったのだが、今回少し山が高い状態で作ってみたのが上手く足裏にフィットして気持ちがいい。洗面台の前において歯磨き時に乗ってみると塩梅がいい。

20200705200410_p仕上がった健康青竹

廃油缶の油汚れとの格闘

 スローライフ活動のスタート地点から廃食油のリサイクルを始め、回収拠点はキハタトレーディングの社長が立ててくれたログハウスを「くるくるえこ家」と名付けた場所にある。園内はもちろん近隣の人やたまには遠くからの来園者も廃食油を持ち込んでくれている。

 さて、長い間懸案だった廃油缶のフタ掃除の目処が7/8ようやく付きました。数種類の薬剤を試してみましたが、ウルトラバードあるいはウルトラオレンジが常温でも取れやすいです。ネットで見たセスキ炭酸ソーダも使ってみるとかなりいけます。こちらは値段が安いのでうまく組み合わせればいいかと思っています。
 あと7個残っていた廃油缶の掃除も7/10に終了できました。といっても利用者の方が蓋をとって入れやすいようにフタの周りのみです。サイド部分の汚れはまた機会を見てやります。昨年は腱板修復手術をして一年間はリハビリだったので、力を入れないと拭い取れない汚れ落としは無理だったのですが、痛いと言いながらも竹細工がリハビリで筋力の強化に繋がりました。
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 掃除再開の時点で廃油缶は16個にもなっていたのですが、2缶はエコ家の裏に予備としておき、さらに2缶は竹遊工房の軒下におくことにしました。(7/11)

桃の産地への視察から

 コロナ禍で今年はなかなか視察にも行けなかったのですが、7/1社内の希望者を募って和歌山の紀の川へ視察に行ってきました。ハイエース満員の十人、私はお茶とコーヒーと少しの菓子を用意して道中を楽しんでもらうことにしました。
 社長自らが探し出してくれた視察コースに従って、最初は和歌山県紀の川市桃山町市場の「あら川第一桃生産組合(農事組合法人)直売所 」を訪問。あら川第一桃生産組合は、和歌山県紀の川市桃山町段新田地区に昭和43年「第一出荷組合」として発足し、現在では情熱をもった農家28戸からなる組合です。
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 紀ノ川の中流左岸に位置する桃山町一帯は、江戸時代中期から続く桃の一大産地で、紀ノ川の河川敷にほど近い排水抜群の土壌と、まばゆいばかりの陽光がおいしい桃を育み、「あら川の桃」ブランドを育んできたという(HP)。直売所には昭和十年のトラックによる出荷の状況を示す写真が掲げられていた。
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 (昭和10年の出荷の様子)
 2年前の台風21号の暴風により樹が折れ、全体の収穫量が低下していて、一人一箱の販売制限ながら多くの人が農家から運び込まれる桃を待っていました。

 次いでその近くの「八旗農園」に行きました。ホームページの八旗農園の企業理念によると、八旗農園は四百年の歴史を持つ「あらかわの桃」の伝統農業を継承・発展しつつ、豊かな自然環境に恵まれた紀の川流域の豊富な農産物を生かした事業を展開する。農業生産では最高においしい桃を、加工品については、素材の良さ・加工技術・衛生管理で、いずれも革新的な技術と科学的方法を確率し、安心・安全で高品質の商品を提供し、お客様に信頼される活動を展開する、としていて加工にも力を入れていました。そこで食べた桃のスムージーは絶品でした。
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    (あら川第一桃生産組合直売所 ) (八旗農園のイートコーナー)
 
 その後は「JA紀の里 ファーマーズマーケットめっけもん広場」に行きました。JA紀の里は平成4年10月1日には那賀郡内の5JAが、平成20年4月1日にはJA岩出が加わった大型合併JAです。組合員数は19,761名、職員は313名で本所と6支所4事業所、農機施設センター、給油所、選果場の施設などを配置しています。めっけもん広場(大型農産物直売所)は平成12年11月3日に開設されています。松阪協働ファームは2007年に設立され、一年間はモクモクの社長木村修氏が社長を兼任されていましたが、私が木村氏から引き継いでまもなく、めっけもん広場との関係ができました。当時JA紀の里の販売部長?をされていたたまたま同じ名字の大原部長にはベルファームにきてもらってお話もお聞きしました。それ以来わがスタッフのめっけもん広場のフアンは増えています。
 ちなみに販売高10億円以上の直売所は全国に39箇所あり(2017年)、ダントツの一位はJA福岡の伊都菜彩で40.7億円、2位はJA紀の里のめっけもん広場の28億円、3位はJA愛媛おちいまばりのさいさいきて屋の21.8億円、そして4位にはJAあいち知多のげんきの郷21.1億円で続いています。
 わが農家市場は社長が店長をされていたときに2.5億円ほどになったことはありますが、今は1.8億円止まりです。店舗の規模や周辺人口などさまざまな要因が影響しますし、どこのスーパーも直売コーナーを作るようになり、現状維持が精一杯の時代に入っているといえましょう。

 帰りに、奈良葛城市の道の駅かつらぎに立ち寄ってきました。花コーナーが広くて、竹製品もいろいろと売っていました。同行の女性スタッフもいろいろと刺激を受けたようです。
 帰り道いろいろ話している中で、七夕の笹竹と道の駅かつらぎに売っていた青竹踏み(600-800円)を作って欲しいと複数の人からリクエストされました。
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(右、山のように野菜を積み開けげられたランチ屋さん)




(左、各種竹製品の販売…道の駅かつらぎ)

 7/2は経営会議で出勤になっていたので、午前中に笹だけをルーベルと農家市場前及び野菜畑に設置しました。そして青竹踏み用の竹を切り、適当な長さに切り、それを炭火で燻して油が出てきたところで汚れを磨きました。さらに切り口のサンダー掛けをし、床の接地面は布を巻いたほうがいいのではという意見が出ました。7/2は17時に会議が終わったあと暗くなるまで作業をしていましたが、なかなか面倒です。
 7/3は公民館講座の英字新聞読みに久しぶりに出席し、疲れもあって作業の続きは手つかずで、今日ようやくサンダー掛けの続きや表面磨きなどの続きをしましたが、黒カビがついているのを落としたりがなかなか厄介です。完成はもう少しかかりそうになってしまいました。

新型コロナウィルスが暴き出したマスク人間模様ーアベノマスクが届いた日

(かなり時間が経ってしまいましたが、自粛期間中いろいろ考え、メモをとることがありました)
1) 武漢から発生した新型コロナウィルスは数ヶ月のうちに世界へ拡大しました。
 中国武漢から発生した新型コロナは、当初中国と横浜のクルーズ船の問題と、特に西洋諸国からはみられていたようですが、貿易も観光客など人の移動も現代世界における中国の影響力は半端でなく、2月頃からヨーロッパ諸国に急拡大しました。最新の5/29の世界の感染者は580万人、死者36万人という被害状況になっています。
 日本では、1/16国内で初めて感染確認がされ、武漢に渡航した中国籍の男性と分かりました。その後、横浜を出発し香港島を経由したクルーズ船「ダイヤモンド・プリンセス」号が2/3横浜港に入港し乗客の感染が確認されました。乗客の下船は19日から行われましたが、帰宅後に感染が確認されたケースも相次ぎ、このクルーズ船では結局、712人の感染が確認され、13人が死亡しました。マスコミの新型コロナ情報は増えつつありましたが、この頃まではまだ他人事のような雰囲気が少なくありませんでした。

2) 日本での対策の経過
 日本政府が1/28に国内初のヒトからヒトへの感染を公表すると、マスクや消毒液が店頭から消えました。2/13に国内で初めて感染者死亡が報告されました。2月24日イタリアで一日の感染者が200人を超え、中国以外での初の大規模感染が起こり、2月末から3月にかけて欧州での爆発的な感染が起こりました。 
 日本でも危機感が強くなり、2/26に安倍首相から多くの人が集うイベントの自粛要請があり、翌2/27には首相が全国すべての小中高校に臨時休校要請の考えを公表しました。当時は感染者のいない都府県が半数を超え、法的根拠のない突然の要請に教育現場や保護者に混乱が広がりました(朝日新聞3/21)。
 2/24政府の専門家会議はここ1-2週間が瀬戸際だといい、2週間が過ぎた3/9の専門家会議は、これまで感染が確認された場所に共通していた、①換気の悪い密閉空間、②多くの人が密集、③近距離での会話や発話(密接)の「3つの条件」を示し、これを避けることが大事と発表しました。3/11にはWHOがパンデミック(広範囲に及ぶ流行病、感染爆発・世界的大流行とも)認定をしました。
 開催がやきもきされた東京五輪・パラリンピックは3/24安倍首相とIOCのバッハ会長との電話会談で1年程度延期が合意されました。新型コロナウイルスの感染が都市部で急速に拡大している事態を受けて、4/7政府は新型コロナウイルス対策特措法に基づく「緊急事態宣言」を東京、神奈川、埼玉、千葉、大阪、兵庫、福岡の7都府県に対して行いました。宣言の効力はゴールデンウィークの5/6まででしたが、4/16に対象を全国に拡大しました。欧米のように強制力を伴う措置ではなかったものの自粛はかなり徹底され、結果として飲食店や接客業等の分野で、休業や閉店から店を畳んだり、倒産するお店も増えてきました。
 そこで、政府は5月14日に北海道・東京・埼玉・千葉・神奈川・大阪・京都・兵庫の8つの都道府県を除く、39県で緊急事態宣言を解除することを決定し、5/21には、大阪・京都・兵庫の3府県について、さらに5/25には残りの1都1道3県で解除、およそ1か月半ぶりに全国で解除されることになりました。
 とはいえ、コロナ以前に戻ることはもはやありえなく、「仕事と生活の新しいあり方」が問われることになっています。

3) マスクをめぐる悲喜こもごも
 先に見たように「ない」といわれるとそれを買いに突っ走る人が多いのは古今東西あまり変わらないのかもしれない。そしてそれは「ない」状態を一気に加速し、持てる人はさらに持ち、持たない人はないままという持ち方の格差を拡大してしまう。ものが少なくなればそのものの価格が上がるのは市場経済の常道だけれど、それに乗じて儲けようという人がかならず出てきます。以下、マスクをめぐるいくつかの記事です。
  ◯2020/03/09 - 中国の国家発展改革委員会は2日、国内の1日あたりのマスク生産量が1億枚を超えたと発表した。 ... 新型コロナウイルス対策で、マスクの生産能力と生産量は急速に増大し、2月29日に通常のマスク、医療用マスク、医療用N95マスクなどの1日の総生産量は1億1600万枚に達した。
  ◯20代の日本人学生は…50枚入りマスク3箱7500円相当を、約3万3000円で販売⇒売上合計は約30万円。「(値段について)他のサイトなどで相場を見て決めているので妥当。申し訳ない気持ちはゼロではないが、自分もマスクを買うために動き回ったり努力している」
  ◯足りる足りないは別にして、1日2000万枚から1日1億1000万枚もの生産に。
  ◯安倍首相は、3月5日に月6億枚以上の供給を確保していると言明したが、それから1カ月以上経ってもマスクの入手困難は解消していない。
  ◯不織布マスク(ドラッグストアで売られている使い捨てのマスク)の場合、供給の8割を輸入に頼っており、しかもその9割近くが中国からの輸入なので、中国でマスク需要が高まれば日本への輸出が減ってマスクが入手しにくくなる、といわれていてそのとおりとなり、4ヶ月ほどしたらほとんど元通りに近くなってきた。
 
 日本でマスク不足が始まったのは2月初旬であるが、その時点での新型コロナウイルスへの感染者数はまだ30人以下だった。人々がマスクを買い求めたのは感染を恐れたというより、「中国で感染拡大によってマスク需要が高まるため、日本への輸出が減るのではないか。だとしたら、買えるうちに買っておこう」という心理が働いたようである、といわれている。
 そしてそしてマスクが通常の数倍や重倍以上もしてくるにつれて、個人輸入などで儲けようとする人達が増え、薬局等ではバカ高い値段では売れないので、いろんな店屋さんの店頭でも売られるように状況になった。その高い価格でかわされた人とこの機に乗じて設けた人もいます。

4) 私はどうなったのか
 幸いにもマスクが必要になってきたとき、私は普段備えのマスクが一箱余りあった。この頃あまり風邪も引かないので残っていたのである。上の娘がほしいと言うので十枚あまり送った。この4月から医療機関に務めた下の娘は足りているとのことだった。息子は感染者が多い東京に住んでいることもあり、コロナ禍に過剰反応していて人手に触れるものは何も送ってくるな、という。
 会社はマスクが足りない人もいるということで、自分使いの十数枚を残して会社へ提供した。そうこうするうちの3/28に元私の研究室の留学生で昆明市に住む程さん(大学教授になっていた)から電話があり、マスクは足りているかという。私は大丈夫だが会社では足りていないと伝えると送ってくれることになった。マスク一箱50枚入りが4/10に自宅に届き、すぐに会社に持っていった。
それにしても普段は連絡を取り合っているのでもないが、ニュースで日本のマスクが足りないことを知って尋ねてくれたことにほんとに感謝である。一昨年には留学生たちが蘇州に招いてくれたし教師冥利に尽きるとはこのことですね。

 そんなこんなでマスクについてはドタバタせずにやり過ごせた。一時私も念の為もう人箱ぐらい備えておくかなと迷ったことはありましたが、開店のに3時間前から並んで待つ気はしないし、マスクの値段も急騰しすぎたので、何枚かのマスクを洗ってリユースすることで今もやり過ごしている。
 振り返ってみると1973年のあの苦い経験ー第一次石油危機時のトイレットペーパー騒ぎで物価が急騰したときーが役立っているのかもしれない。私はトイレットペーパー騒ぎには巻き込まれなかったのですが、日曜大工などのための工具箱が欲しいと思っていて、それもつられてどんどん価格上昇していくので、確か一箱8000円余で購入した。そしたら数ヶ月経って4-5分の一に下落したのである。
 人間は社会的動物である、という中身にはいろんな側面があり得ようが、ある程度は人に合わせながらも振り回されないでいることは大事なことなのだと改めて思う。(3がつ頃からメモ、6/13にテーマを絞り、6/23発信)
 

コロナと断捨離

先日、金属ゴミ回収の日、コミュニティのメンバーが整理されていたので手伝った。いつもの2倍ほどの金属ゴミが出されていた。通常メインとなる缶類や小物金属のほか、ソファ、石油ストーブ、自転車、掃除機など電気製品等々である。新型コロナによる自粛が余儀なくされる中思い切って断捨離を進められたものらしい。
私自身は非常勤になってから少しずつ本や資料その他の荷物の整理を進めているが遅々とした歩みである。
今の若い人はミニマリストとかあまり物を持たない人が多いが、高度成長の恩恵に浴しマイホームを建てたような世代は随分と物持が多いものと思われる。私もまた36年務めた前職を定年退職するとき、研究室に置いていた本や書類を収納するために書庫を立ててしまった。第二の職場で8年はフルタイムで勤めた後、心筋梗塞を患ってからは非常勤にしてもらって時間がだいぶ出来たので本や書類の整理を進めているが、お節介心もあって仕事を作ってしまうのでなかなか片付けは進まない。
それでも4月になって緊急事態宣言が発令されるにつけ、県立図書館にもいけなくなり、極楽湯なども休館になって家にいるしかなくなってきてからは整理が進んだ。
ここ一ヶ月あまり、それなりに整理できたものには年賀状や記念切手、そしてスクラップなどである。
基本的に何でも残してきたので、改めて整理しだすと時間がかかる。年賀状もあいうえお順に一通りの整理をするとともに、個性的な文面はつい残してしまう。
記念切手は中学生ころから折に触れて買っていたので、かなり残っている。近年はメールやスマホの発達で手紙を書くことがほとんどなくなってしまったので切手を使うチャンスがあまりない。けれど手紙は書くのに考えていることが多いので違った味わいが出ることもある。クロネコヤマトに持っていくことの多い宅急便も郵便局を利用すれば切手が有効活用できそうである。
何がより大事なのかを振り返るチャンスにもなったコロナ自粛を質的に充実したライフスタイルに変えていければと思う(6/6)。

コロナに関係なくベルファームの庭園は花ざかり

4月16日の緊急事態宣言の全国への拡大後、ベルファームの飲食店は閉店の止むなきに至っていますが、日常食料品を販売する直売所の農家市場と庭園は開いています。今庭園はさまざまなチューリップなどの花ざかりです。庭園ボランティアさんなどの支援を受けながらも、4人ほどのスタッフで頑張っている庭園メンバーは毎年チューリップの品種なども増やしてくれているので、これがチューリップと思うような変わったものも見られます。
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花を生かした写真スポットもたくさんあります。先日(4/26)もみんなでお撮りしましょうかとお節介心を発揮してきました。ルーベルでランチを楽しむお客さんにはしばらく待っていただかなくてはなりませんが、気分転換の散歩や健康のために園内を歩いている方は少し増えているかもしれません。
庭園は反対側の遊びの広場からも入れるようになっていますので十分楽しんでいただきたいです。
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道端のゴミに見る季節性

さっさと歩いてしまうと腰や足に負担が来てしまうのでゴミ拾い散歩の機会が増えている。
春分の日を過ぎて早三週間日もだいぶ長くなってきたので夕方の散歩がゆとりをもってできるようになった。春先のゴミ拾いで目立つのがティシュやマスクである。夏場に比べるとコーヒー缶なども少ない気がする。タバコの吸殻は相変わらずであるが‥。それでも小さなゴミ袋で余裕があるほどゴミは少なくなった。
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ここ二、三週間の道端のゴミ
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200本の枝垂れ梅―鈴鹿の森庭園

先日(3/7) 友達と赤塚植物園が10年余前から作っていたという鈴鹿の森庭園に枝垂れ梅を見に行ってきた。入園料が1500円とちょっと高いなあと思ったけれど、全国から集めたという200本ほどの枝垂れ梅は実に見ごたえがあり、十分満足できた。
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樹齢100年以上の枝垂れ梅もあり、さまざまな樹形と大きさの梅を見事に咲かせ、樹間に色とりどりの花を配置して見事な庭園になっている。
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背景に鈴鹿山脈があり、それが借景となって素敵なコントラストである。
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