コーおじさんの種まきブログ

定年の随筆集「農、教育、人生ーコーおじさんの七転八倒半生記ー」のその後、スローライフ協会の五つの種まきと松阪農業公園ベルファームのできごと、また人生についての「つぶやき」を、月に数回程度を目処に書いていきたいと思っています。ご意見・感想をいただける場合にはkohara@xf6.so-net.ne.jpへお願いします。

遅々として進まぬ断捨離…半分は人生を振り返ってしまうから?…

 今年の2題テーマ①「空間を増やす」(断捨離を進める)、②「動ける心身」の②は幸いほぼ毎日の散歩も続けられているし、ベルファームに行ったときには一万三千歩以上あるけていて、温泉やマッサージの世話になることは少なくないが、何とか達成できている。
 ところが①の荷物や書類を広げないで「空間を増やす」のはなかなか進まない。基本的に便利さを追求してしまうがゆえのモノが多すぎる状態はなかなか改善が難しい。文房具にしてもどの部屋でも作業ができるようにペン立てはあちこちにある。最近は滅多に来ないのにいつ人が来ても応対できるようにコーヒーと紅茶、それにハーブティーも手作りのものを常備している。砂糖も白砂糖、三温糖、黒糖などはほぼ常備。しばしば仲間に差しあげるジャム作りを年間何回もしてしまう。断捨離を最優先するなら活動を縮小すべきなんだろうけれど、人に喜ばれるのが趣味みたいになっていてなかなか行動様式が変えられない。
 それでも何とか断捨離を進めなきゃと本については先ずはリユースで、全集やジャンルのまとまりごとに写真を撮ってもらってもらえないか何人かに見てもらったりしているが、なかなか欲しいという返事はない。今まで留学生や教え子に数冊ずつ需要があったくらいである。ベルファームには食育・環境や人生関連の書籍を横90cm、縦120cmの本棚1個とともに移転できることが決まっただけで本の選定はまだ終わっていない。あと国境なき医師団や京都大学が本で寄付という仕組みを利用できることになっているが、古本でも多少とも需要のありそうな本でないとダメで、これも本の選定がキーポイントになりそうである。取りあえずは古本屋でも見向きもしなさそうな見かけの悪い本を優先的に処分をしているが。
 高度経済成長を経た現代日本ではモノが有り余っていて、すぐに食べられる飲食物以外はなかなか引き取り手がないのかもしれない。スローライフの会の瓦版に手作りの竹製品や残っていた熊野古道DVDを紹介させてもらったが、神奈川のOさんから熊野古道に行くかもしれないのでとDVDの注文1個が今のところ唯一である。
 紙の資料については本以上に断捨離が難儀である。いろんな組織に関わってきた資料が一旦ほとんど全部、ファイル等に入れて整理もうまくできないでそのまま残してしまっているからである。定年までの書類は書庫に持ち帰る前にある程度は処分したのであるが、書斎を整理していたら定年時の最終講義や皆んなにお世話になった定年退官パーティ関連の書類がたくさん出てきた。〇〇委員会とかに参加していた書類などはそのまま処分するのに抵抗もないのだが、自分が深く関わったものについては、つい読み込んでしまうし、どこかで個人史を書くことがあればその資料に残しておいた方が良いかなと思って、ファイリングと選別の手間をかけてしまう。
もちろんもうどれくらい生きられるかわからない残り人生の中で個人史を書く気力と時間が取れるのかどうかはさっぱり分からない。無駄なことをしているだけかもしれないとは思いながらも、必ずしも思うようにいかなかった子育ての最後のフォローとしての可能性もあり、再度ファイリングをし直して保存してしまう。彼・彼女らがほんとに人生の危機に直面した時に血の繋がった人間の生き様がなにがしらのヒントを差し出せるかもしれないと思ってしまうのである。
現役時代に力を注いだ教師生活は曲がりなりにも眼の前にある課題に挑戦し続けて、研究者としては大したことはなし得なかったが、留学生を含めた教育では多くの手応えを得られて何ら悔いはない。定年間際に始めたスローライフ運動についても定年後にベルファームという実践の場を得て、立派な後輩たちに恵まれそれなりの達成感は味わわせてもらっている。
 唯一引っかかりがあるとすれば、家族問題であろうか。自分としてはどちらも大事にしてきたつもりでも、仕事優先で家庭は二の次だったと思われても仕方がない生き様をしてきたと見られても仕方がない現実があったことは事実である。そうした紆余曲折があり十分に整えられなかった家庭環境の中で、3人の子どもたちが何とかそれぞれ自活の道を見つけてくれたことは感謝しか無い。ただ仕方がなかったとはいえ、どこかで何かしらの役立つことができればと思っているフシはある。竹遊倶楽部の共同作業日におやつ時のドリップコーヒーやお茶の準備、昼弁当の買い出しなど、そして時々ジャム作りその他、仲間の世話を焼きたくなるのは楽しい。それは竹林整備や環境整備などそれぞれれの持ち味を活かして駆けつけてくれる仲間への感謝はもちろんのこと、一人暮らしが長く続いて家族代わりの対象にさせてもらって世話焼きをしているのかもしれないとも思える。
 話が断捨離から少しそれてしまったが…また筆を改めて。4/28


若さへの暗黙の憧憬か?ーある結果の後遺症に愕然

 八十歳を超えた頃からかなあ、物忘れがひどくなり、一つのものを取りに行く途中で別の仕事に気が付き、これもしなきゃとやっているうちに元々何をしにきたのかなと最初の目的を忘れてしまう。昔(現役の頃)には同時にいくつもの仕事をこなせたのにとつい昔と比較してしまう。
 そんなできなくなったことの一つにペットボトルの蓋を開けにくくなったことがある。ノコギリや包丁を持つ握力が弱ってきているのを実感することも多い。先日たまたま中央郵便局を尋ねた時(確か4/17)に血管年齢や握力のチェックをしていたのでやってもらった。結果は血管年齢72歳、握力は右33.4、左34.7で少しホッとした。昔は右利きなので右がもっと高かったが、竹林整備など続けているお陰でそれなりに保たれているということなのだろう。
 ところで、数値を出そうとかなり頑張りすぎた実感はあったが、早くも後遺症は翌朝訪れた。手指を動かそうとしても固まってすぐに動かないのである。マッサージをしたり、グーパーグーパーを繰り返したりしてなんとか動くようになり1日が過ぎた。ところが翌朝も同じ状態である。さらに三日目の今朝もほとんど同じ状態だった。普段思いっきり握力を使うような場面はまずないので何かが壊れたような感じである。それに関連して十数年前後ほど前に手術している両肩鍵盤も痛みだした。
 これも「年寄りの冷や水」というのだろうか。年相応に劣化していくのはやむを得ないと一方で達観しつつ、どこかで少しでも若くありたいと思っているのかもしれない。歳をとっても日々続けていることはともかくも、しばらくやっていないことや急にやることには改めて注意が必要なことを思い知らされた。4/20

筍の季節到来ー竹林の更新管理やイベント用に

 私たち竹遊倶楽部が管理させてもらっているベルファーム竹林の初筍は3月15日だった。その後雨があまり降らなかったり、寒さがぶり返したような風が吹いたりで目立って出てこなかった。それが4月2日に行ったときには20本あまりの筍が出ていて、側に管理杭を打ってきた。5日の日曜日には5人が作業に参加してくれて、残す(育てる)筍を選り分けて、筍掘りをしてもらった。
 5月の連休には今年もベルファームと共催で竹林街道ウォーキングを企画し、筍弁当を参加者に出す予定である。そのための筍を毎年農家市場の惣菜部門に提供しているが、みかん箱いっぱい(20数kg)をそれに当ててもらうことになった。イベントまで1ヶ月ほどあるのが少し心配だが、冷蔵庫に入れて保存するとかで対応してもらうことになった。  
 少し残った筍をもらってかえり、いつもお世話になっている近所のBさんに差し上げたら、筍混ぜご飯となって戻ってきた。Bさんは作られた筍ご飯を近所の人に上げたらとても喜ばれたという。ほんの少しの筍が喜びの連鎖を生み、嬉しい出来事だった。

IMG_3198image7管理竹林と初筍






IMG_3415image1
土の中から芽を出す筍(左)

農家市場に出てきた農家さんの筍(右)












3月さんかサロンの感想と…ささやかなスローライフ提案

 3月さんかサロンは3月17日「『もう15年』か『まだ15年』か~ふくしまの今~」をテーマに開催された。当時は2度ほど福島を訪ねて忘れてはいけない東日本大地震と福島原発事故の目に焼き付けた。それでもいつしか自分の中でも少しずつ風化しているのか、当事者意識が薄れてきていることを認めざるを得ない。
 まだ15年で避難先から帰還できない人も少なくないのに東電は管内の原発の再稼働に舵を切り、国は早々と基幹電源重視する方向を打ち出している。原発関係者はあるいは原発によって何らかの経済的利益がある方は再稼働にアクセルを踏む側になるのかもしれませんが、原発事故に見舞われた人、あるいはその様子を見て心が傷んだ人たちが、やはり原発のない世の中になってほしいと願うことは当然と言えるし、私も自分の生活が多少不便になってもあんなに危ないものは避けたいと思う一人である。ズーム会議で中村桂子先生も言ってみえたが、自分たちの問題だと如何に捉え続けられるかが重要なのだと思う。
 それではそのために一市民として何ができるのか。AIなどビックデータを動かすには多くの電力がいるという話も聞くけれど、日本の人口は減少傾向だし、省エネ技術もさらに進むことを期待し、多くの人がよりスローなライフスタイルに馴染めば、電力需要もさらに減らすことに繋がる。

 人生の晩年にだけれども三重スローライフ協会などを通してスローライフ運動に関わってきたものとしては、ささやかでも身体が動く限りはそこにこだわり続けたい。私個人的にはスローなライフスタイルは自然(物)をきるだけ活かすことであり、そのためには手間暇を惜しまないことだと思っている。たまたま十年あまり前から勤めている松阪農業公園ベルファームで竹林整備や伐採竹の竹製品を作って楽しんできた。ただ反省としてはどこまで社会的に広げる努力をしてきただろうかということである。
 それで今からでもできることは何なのか?あと何年生きられるかが迫ってくる目の前の課題としては現役時代に溜まりすぎた本等を多少ともリユースしてもらえないかとの貰い手探しと、ささやかながら最終的に自然に還って悪さはしない竹製品が広まってくれないかなと思っている。ベルファームの松阪商会では私たちが造作した竹製品や竹炭を販売させてもらっているし、仲間や知り合いに差し上げたりしている。写真のように竹箸、靴べら、一輪挿しは少しストックが多いが、杖や竹ナイフなども作っている。是非気軽に声掛けしてもらいたい。

IMG_3370IMG_3372(左) 松阪商会の竹遊倶楽部販売コーナー
(右) 手前から竹箸と箸置きのセット、燻竹の靴べら、一輪挿し

モーニングの魅力再び…嬉しくて手作り一輪挿し

 「モーニング」というと一般には何をイメージするのかな、とAIに聞いてみると自分が思っているような内容が出てきた。すなわち、「喫茶店やカフェで朝の時間帯(開店から午前11時ころまで)に提供される、ドリンク代だけでトーストやゆで卵などの軽食がセットになって付いてくるお得なサービスです」と。さらに「発祥地とも言われる愛知県を中心とした…サービス精神旺盛な朝食」と一宮のモーニング文化まで出てきた。
 私が人生でモーニングに出会ったのは大学を出て就職してまもなく調査地の一宮市で出会ったのが最初で、農家さんで朝早く野良に出て、田んぼから喫茶店でモーニングを食べてまた仕事に戻るような人も居て印象に残っているのである。
 この2月のある時にたまたま津駅近くのヨシダコーヒーに入ったらモーニングがあって気に入ったので回数券も求めた。写真にあるように満足度が高くて楽しめたので、ある時作った一輪挿しを持っていったらスタッフのお姉さんたちが「素敵!」と喜んでくれた。それで時々家から生花を持っていったりしている。今日も昨夜半ようやく確定申告ができたので、自分にご褒美で楽しんできた。3/14
IMG_3399IMG_3398


3月というのにこの寒い中…いちごフェスタの魅力?

 津市の豊ヶ丘では朝から強い風で雪がチラついていた。8日日曜日で竹仲間の集まる日であるが、大部分は滋賀での竹灯籠展示の見学に行っている。私はいろいろとベルファームでしたいことがあって別行動のとなった。3月になってから一時の2月の暖かさから冬に戻ったような寒さが続いている。5日の木曜日も経営会議でベルファームに来ていて、会議始まる15時まではほぼ週に一回の花生けの他、燻竹の靴べらと一輪挿しや竹箸を作り、売れた竹炭の補充などをしていた。この日(8日)もその続きをしていたのだが、しばらく作業していると手が悴むのに室内でパソコン作業をしているよりは楽なのである。
 それにしてもこの寒い日に、沢山の人々がいちごフェスタでの苺の生販売やスイーツなどを楽しんでいた。普段の日だと少し天候が悪いと人出が悪くなり、パンや弁当がかなり残ったりすることがあり、天候に左右されることが少なくない。それがいちごフェスタでは、苺の魅力故なのか、これまでスタッフが培ってきた、出店者との良好な連携を保持してきた故なのか、本当にありがたいことである。
 この日私は久しぶりに燻竹竹炭飾りを数個作ってみたりした。合間に農家市場に行ったり、どんなお店が出店しているのかな、と見て回ったりしていた。そしてコーヒーのミンデンさんが出店されているのをみつけ、2月11日の「薪ストーブとパンプレート☓極上コーヒー」のお礼にと燻竹の靴べらと一輪挿しを差し上げたら奥様共々とても喜んでいただけた。
IMG_3393IMG_3388






そしたらカップコーヒーをいただけたので、竹仲間で一人来て、竹林散歩道に竹桟敷の腰掛けを整備してくれているUさんに持っていってあげたらこちらも喜ばれた。
あっちにもこっちにもベルファームに思いを持って集ってくれる人たちに恵まれて有り難いことです。

IMG_3394IMG_3390

人生悔いなし、最後まで動いていたい…でも

 2月28日、放送大学新年度の科目登録の最終日。今年は書庫の整理を進めるため、放送大学の科目登録は少なめにして放送授業は3科目に絞っていたが、ぎりぎりでもう1科目追加した。朝から首周りがひどく痛くて、友達が見てもらって良くなったと言っていたTMCパワーヒーリングというところに予約の電話を入れた。はやっているのかすぐには予約できずに3月3日となった。
 翌3月1日は竹遊倶楽部の共同作業日。速歩気味の朝の散歩のあと腰痛がひどくなった。なんとか動けるのでベルファームには予定通り行く。暖かくなってきたのもあるのか仲間は9人も集まってくれた。世話役としては否応なく張り切ってしまう。少し腰を曲げながらも黒竹の移植やいつも通りのお昼の弁当の注文やお茶の準備、午後まで居てくれた仲間にはドリップコーヒーも作って出した。夕方帰りがけ、マッサージをしてもらい、極楽湯にも行ったが体のガチガチが解れない。後に尾を引くかなと思いながらも動ける限り動いていたいのである。いつ死んでも我が人生悔いなしの感覚があるので結果的に無理をしてしまう。確かに歩数は13000歩を超えていたので、振り返ってみると賢くはないわな、と思う。
 動いているときには無理をしているとは思っていないので悔いはないが、自分をうまく活かし切るという観点に立てばまだまだ改善の余地がありそうである。本日予約していたTMCパワーヒーリングは不思議な経験だった。マッサージではなく、カイロプラクティクに少し近いような気がしたが、関節の可動域や背骨の歪みを取ってもらい、1時間あまり施術してもらって、歩いてみて下さいと言われて歩いたら全く痛みがなくなっていた。気を入れるとかいうことがよくわからなかったけれど体が楽になったのが一番である。施術後に再発防止の注意事項を書いたものをいただいたが、無理はしすぎないでもう少し自分の体をいたわることを素直に学ぶ必要がありそうである。

image0

本の断捨離準備で思うことー可能なら活かしたい

 学生時代も京都の古本屋さんなどで本を漁っていたが、給料をいただくようになってからは欲しいと思った本は本集めが趣味かのように留めもなく買ってきた。ところが書斎派と言われるような本好きでも無いので、新聞の書評や始めと終わりだけ読んで良い本だなと確認して積読に終わっている本が数多い。元々貧乏性で贅沢はあまりできない性分だけれど、本は例外で当時20-30万円はしたであろう全集とかも結構買っていた。36年の教師生活でそのような本が増え、定年で私物(本)は持って帰らねばならない。家にある普通の本棚七段を6-7連(約1500冊収納)程度では全く足らず、退職金を半分使ってその4-5倍の書庫を増築して、単行本の他に学会誌や関連資料を収めた。
 そして定年後、読書三昧というような状況ができていればもう少し本は読めたのであろう。しかし、モクモクを始めとする農業現場の人々と、2004年にNPO法人「三重スローライフ協会」を立ち上げ、その実践現場ともなりそうな松阪農業公園ベルファームの管理運営する会社の社長の提案を提示されれば断る理由など出てこなかった。そうしてあっという間に18年になろうとしている。社長会長のフルタイムで働いていたときは小さいとはいえ、会社を運営する資金繰りから人事問題でいろんな問題が生起し、日々現場に追われる毎日だった。出勤日数を減らして非常勤で良いとなかった2016年頃がもう一つの転機だった。取締役は継続して責任は分担するも日々の経営活動は同僚に任せてほぼ安泰な状況になった。その少し前に素敵な燻竹を造られていた笹原氏に出会いそこから竹を中心とした竹林整備や竹細工などのボランティアグループを続けることになった。集まったくれたメンバーは元会社員から、公務員、大工さん、元自衛隊員、農家さんまでさまざまな職種の人が1個人として参加してくれた。持ち出しも少なくない中で十年も続いたのは不思議というか、素敵な仲間たちであった。その仲間も3人ほどは亡くなってしまい、活動メンバーは十人程度に減ってしまったけれど何とか続いている。話がそれてきたけれどこのグループの先行きも含め方向性をはっきりさせていく時期にもきている。

 こうして元旦に今年の目標の一つとしてあげた「空間を増やす(断捨離を進める)」をどのように進めるかは2月に入ってからの大きな課題であった。3人いる子どもたちはこの家に帰ってくることはなさそうなので、家の処分も含めて家にあるもので一番活かしようで価値がありそうなのは本である。単なる焼却は忍びない。せめて使ってもらえるかもしれない次の所有者を探すことが一番本に申し訳のない道筋かな。最近は新しい農学系の学部や地域創生の学部ができたりするので、纏ってもらってもらえればそれが一番いいのである。
 また、最近は本で寄付(売れそうな本を送ってお金になった部分だけ)という方法もあることが分かったので、これも次の方法である。書庫の中で真摯に本に向き合っていると、このテーマは大事だなと思って購入したのに目先のことに追われて積読になっている本が少なくない。目も十分通していないのは本にはほんとに申し訳ない。
 あと何年生きられるかわからないけれど、放送大学に時間を取られすぎるよりは自分の書庫で本と格闘するのもありかも。他人に教える機会がなくなってから学ぶというインプットばかりしても、他人に伝えるようなアウトプットが重要だと気づくのも皮肉なんだけれど。この2月はブログを見ていただいている人が最近になく増えているので、暗黙であってももう少し交流を意識すれば残された時間を有意義に過ごせそうな可能性は出てきそうである。
 断捨離、断捨離と言い慣れてきているが、断捨離の意味を調べ直してみると、断:新たに不要なモノが入ってくるのを防ぐ・断つ、捨:今ある不要なモノを捨てる、離:モノへの執着から離れ身軽な心になる、不要だと思っていれば捨てるのは簡単であるが、必要だからこそ手に入れてきたのである。ただ後を継いでくれるものがいない中で、しかも残り少ない時間の中で個々の本の行末に可能な限り関わっていくということが最後の責任といえる。
 そこで、シリーズもの全集モノをリストアップした写真を添付し、興味のある人は是非お声掛けいただきたいと思う。複数に声掛けはしているので手に入らない場合もありますが、よろしくお願いいたします。

エンサイクロペディア・ブリタニカ 24冊
大百科全書 26冊
原色世界の美術 19冊
世界の名著  49冊
戦後日本の食料・農業・農村  17巻21冊
ユネスコ世界遺産 13巻
岩波講座 哲学 18巻
岩波講座 日本歴史 13巻
岩波講座 世界歴史 29巻
転換期における人間 12巻
ビデオ世界の秘境  8巻
ビデオ20世紀   10巻
農業と経済 1962年5月~2014年8月

民衆の歴史・農業発達史ブリタニカ世界の美術世界の名著大百科全書ユネスコ世界遺産人間戦後日本の〈農〉哲学日本歴史農業と経済

2月前半、なぜ見てもらっている人が急に増えたのかな?

 1月も相変わらず相談役の仕事や竹遊倶楽部、放送大学などあれこれ重なっていた上に、18日から26日までWebテストがあり、昨年の反省と今年の目標テーマなどが整理できたのはギリギリ1月末でした。
 2月も1日の竹林街道整備(枯れ竹伐採)に始まり、手帳メモの毎年の書き換えが2月2日までかかったりしていた。毎年2,3月は放送大学のテストも終わって心理的には少し余裕の持てる時期である。それで、スローライフの会の野口さんからの原稿要請などもあり、そのブレイントレーニングも兼ねて、数ヶ月間は月に一回程度しか書けていないブログを10日までに3本書いた。
 そしたらそれまで1日に10件は超えなかった訪問者が2/11から30件を超え、それが一週間も続いているのである。最近特に過不足なく伝えたいことをまとめる力がなくなっているので、ある意味勝手な言いたい放題にも付き合ってもらえる人がこれだけ居てくださるのはほんとにありがたいことである。

 ちなみに2月に入ってからも結構スケジュールは詰まっている。時系列で主なものを示すと…
2/5 経営会議、竹靴べらの制作
2/7 書庫の断捨離(本の処分)の準備、まとまりごとに写真にとって受け入れてもらえる人を探す。
2/8 カイロプラクティク (2/15も)坐骨神経が傷んでいるのかリバウンドを起こす。
2/10 鈴鹿のシオンシネマで、吉沢亮主演の「国宝」を見る。「ばけばけ」の錦織先生(吉沢亮)の渋い役が気になっていて、久しぶりに映画を観ることになった。
2/11 岩森社長指名のベルファームと松阪森林公園の8名のメンバーが1年掛けて検討してきたコラボ企画の「パンプレート」の日。
2/13 循環資源再生利用ネットワークの総会(名古屋)
2/15 「パンプレート」の反省会。私はコーディネーター的な役割だったのだが、各メンバーが自主的に動いてくれるようになって、嬉しくて手作りジャムを作って渡したりした。

急に増えた閲覧数パンプレートの日 - コピーパンプレートパンプレート







 増えた閲覧数     パンプレート     エコフィード

最近にない大雪、そして滅多に見られない現象

 いつもこんなことは無いのに足先が冷えて眠れず、3時頃にトイレに起きた。イヤに足先が冷たいので湯たんぽを布団の中に入れて朝まで寝た。それでも2回目のトイレを5時にいって、その後はうつうつしながらも朝のベット体操や腹筋背筋をして、起きたら窓の外が白いので雪だと直感。久しぶりに長靴を履いて、念の為両手に燻竹のスティックを持って散歩に出た。スティックの先にショックアブソーバでゴムが付けてあるが、それが雪の中の凍っている地面で滑る。

image4
image1image0






 (左)玄関先の雪
(中)雪の我が家
(右)駐車場の中まで降り込んだ雪

 坂道のある方の散歩コースを慎重に歩いていたら、市バスの駐車場の近くで金網を登って道路を横切ろうししていた野生ザルを見つけ、慌てて持っていたスマホで撮ったのが竹藪に入る直前の猿(写真)。記憶にある限り野生の猿を身近に見たのは人生初めて。昨年は熊で日本中を賑わしたが、餌の問題だろうか?
 それにしてもこの冬最大の凍てついた朝で足が冷えてよく眠れなかったのも納得である。昨日、ベルファームで寒風吹きすさぶ中、風を避けながら竹遊舎で竹箸を作ったりしていたが、温度差は数度にしても冷えの状態は久しぶりに経験するものであった。2/9
image3
道路を渡って竹藪に逃げ込む猿(写真上の黒い部分)

SDḠsの時代に竹へのこだわりー最近の活動概要

 今、楽しい仲間は竹遊倶楽部のメンバーである。元々2004年から2023年まで活動していた三重スローライフ協会の一部として松阪農業公園ベルファームで活動していて、スローライフの精神を受け継いで残っている仲間が竹遊倶楽部なのである。毎週一二回集まれる人が集まって、ベルファームの竹林整備をしたり、それぞれが思い思いに竹細工をしたりしてなお続いている。
 昨年の簡単な振り返りによると、「常連メンバー7-8人になったが何とか竹林整備の現状維持はできた。松阪商会での竹製品の販売は引き続き好調で、月3,000-5,000円ほど販売でき活動費に当てられたのはよかった。時々の手作り市等への参加は少なかった。柳屋奉善さんへの羊羹竹は500本+80本(内用)ができた。」この他ベルファームから美濃田大仏へ竹林街道の竹柵が古くなったので更新した。十人あまりのメンバーの平均年齢は80歳前後だと思われる。多少の活動費収入や竹製品の販売収入はあるものの年会費も徴収して各自持ち出しも多いのだが、不思議と続いている。
 元々素敵な燻竹を作られていた私たちの重鎮Sさんの燻竹素材に魅せられて集まった仲間というグループで、私が以前にベルファームの管理運営に携わっていたことから園内の竹林を整備することでこもれび広場という園内の一角を使わせてもらうことになり、関係の会社から2つのログハウスも提供してもらって活動を続けてこられたのである。

おかえりスローライフ夕刊三重に掲載10月29日竹製品の販売棚
(左)スローライフの精神
(中)竹林街道整備の新聞記事
(竹・竹炭製品の販売)









以下、最近の竹遊倶楽部の活動概要を示す。

◯主な活動内容…ベルファームが唱える緑育の一環として、竹や自然に触れる体験講座等を行う。これまでの例では、筍掘り体験、竹林整備、水鉄砲作り、竹炭焼と竹炭かご作り、竹筆作り、竹飯盒、竹箸作り、竹馬・竹ポッコリ、竹とんぼ、及び夢の手作り市、ベルファーム手作り市、柳屋奉善月晦日市、三重環境フェア・松阪環境フェアへの参加など。
◯その他活動
 ・入り口のログハウス(竹遊工房)に会員の竹製品等(浮かし彫り、透かし彫り、一輪挿し、靴べら、竹箸、竹ナイフ、竹炭飾りなど)を展示し、希望者には即売する。
ベルファーム土産物屋の「松阪商会」に竹・竹炭製品を展示販売。
ベルファーム園内トイレの消臭炭や一輪挿しなどを維持する
・イベントはできるだけベルファームや森林公園と協同して行う。

◯ベルファーム竹林、No1No2エリア整備
・年間51日、10人(述べ154人―2024)、総活動延べ時間―632時間
・竹林街道竹柵の補修支援を含む
◯景竹林の管理・充実(竹林No1及びこもれび広場)
・「亀甲竹」、「黒竹」、「四方竹」・「斑入り業平竹」、「仏タン竹」、「布袋竹」。岐阜の竹林ガーデンより「朱竹」、「算盤竹」、「六折竹」を頂き移植する(2024-25)
・竹林No1の竹林内小路を建設(2/4)

景竹林入口竹柵更新完成竹柵更新メンバー遠景竹製品の販売棚





一ヶ月遅れの今年の目標整理

 ほんとに時間の経つのは早いものですね。元々1年の総括と新しい年のテーマや目標はせいぜい一週間程度でしていたのですが、今年は心身が劣化しているのにあれこれ予定を入れすぎて普段の放送大学の勉強ができていず、放送大学の9科目ほどのテストにだいぶ付け焼き刃の時間を使ってしまいました。それでも1/26にはテストは一応終了して、毎年更新している手帳メモや必要住所録もようやくできました。
 ただIT化が進んで、いろんなアプリなどにいちいちアドレスとパスワードを入れなくてはならなくなり、あっという間にやたらとその数が増えて、メモっていたパスワードを入れても開けなかったり、トラブルばかりが増えてきました。使いまわしはダメということも分かりますが、自分が混乱してくると一体何のためにこんなに苦労するのとなってきています。本音は昔の生活に戻りたいところですが、時代は勝手に進んでいくので、小さい頃からITに馴染んでいる若い世代と異なる年配世代としてはギリギリの落とし所を探る必要があると改めて感じています。
 モタモタついでに毎年年始にやるおみくじの占いを確認しておこう。毎年何となく今年はこんな方向でと思っている時に近い表現が出てくると心強く感じるものである。今年は中吉で「きっぱりあきらめることも時には必要。執着を捨てたとき、新しき道がみえる像。自己を顧みて変革を。幸運は意外に近くにあり。」でした。
 どうしても執着が出てしまうのは自分が苦労して一生懸命集めた本や資料、あるいは活動の証としての物品である。モノへの執着はそんなに無いつもりであるが、価値があると思うものは何とか生かせる道はないかと思ってしまうのである。SDGsに叶う道でもあるので。まさに今年断捨離がある程度でも進められるかどうかという時に2つの光が指してきた。
 一つは上の娘が探してきてくれた京都大学の「本で寄付」という話である。似たような話は以前、国際医療ボランティアのジャパンハートがいらない本を送ってもらえれば査定がついた額だけ寄付扱いさせてもらいますということがあり、一つの選択肢になっていた。専門書は流石に難しいかなと思っていたのだが、大学都市京都の数多い古本屋さんなら専門書も大いにありだなと思い、数千冊の本資料の1/5から2/5の断捨離というかなり高い目標を掲げることとなった。知的好奇心に任せてあちこち講演会なども聞きに行ったような行動は少し自粛しないと看板倒れに終わりそうである。
 もう一つは長くお世話になった村落研究学会で、特別会員にしてくれるというので少し寄付をさせてもらうと共に関連本をもらってもらえる可能性が出てきてこれから本の選定をすることになった。
 本や資料の断捨離はある意味これまでの人生の後処理である。一方でこれまでの自分の人生で培ってきたモノとノウハウ差し出す場作りや次世代に多少とも役立ちそうな活動は会社や地域での相談活動等であり、喜びでもあるのでこれは続けたい。(2/3,2/4)
2026おみくじ

初めてかもしれない年末年始のずごし方

 この年末年始はそれらしいことは何もしなかった(できなっかった)。上の娘が帰ってきてくれるので、多少とも片付けをと、食卓上・玄関周り・居間の床置き資料ファイルボックスの整理・処分を年末最終週におこなった。20数個あった資料は三分の二程度を捨て、処分処分した紙量は23kgほどになった。残した資料も今後使うかどうかは?の要素もあるが。
 31日昼過ぎに帰ってきた娘と遅い昼食を台湾飯店で取り、簡単な買い物をして帰った。モクモクのハムと地ビール以外にこれといったものを買ってもいなかったので、それぞれの夕食を自宅で取る。どうしようかと迷っていた年越しそばも作らず、元旦のお雑煮も作らなかった。大晦日の夜、テレビのリモコンは娘に委ねたのでずっとお笑い番組ばかりで、結構面白かったが少しの時間も紅白歌合戦を見なかったのも多分初めて?
 1年の総括と新しい目標も文章化できていないのだが、年の暮れ頃から日々のルーチンというか大げさに言うとライフスタイルを少しでも変えないとまずいかなという思いが強くなっていた。できそうにないことはすぐに先延ばしにし、マイペンライ(気にしない)で生きていくのはストレスはたまらないし楽でいいのだけれど、断捨離や終活作業は進まなくてちょっとマズイなとの自覚はあった。そこに身内でも一番鋭く突っ込んでくる、コーチングをしている娘が帰ってきたのである。共有してもらった時間は辛いけれど有意義であった。
 大晦日は23時ころに就床したと思うが、元日は朝早く4時頃に目が覚め、今年のテーマや目標が浮かんできたので寝床でスマホにメモをした。大きくは2つ、断捨離をどう進めるか、とそのためにも心身の健康を維持していけるかどうかである。身体の健康は何とか維持できているが、それは朝の散歩と腰痛緩和のマッサージや温泉入浴(極楽湯、白鳥湯、やすらぎの湯)のお陰である。1年間たいへんお世話になった極楽湯は元日の朝6時開店であった。先着百名様に特典があるというので、5時すぎに家を出て、予約票配布開始の5時半に二分遅れて着いたのだが、順番は男性の41番で、5;36には予約数が埋まってしまっていた。開店直後の男性の浴槽はみんなが入れないほど混雑していた。いつも利用させてもらっているジェット水流の出てくる浴槽で凝りをほぐして朝風呂を堪能し(これも初めて)、帰りに恒例の須賀神社に参ってきた。
 娘にも指摘されたが、最近特に短期記憶が悪くなっていて、すぐ前に聞いたことや自分がしていたことを覚えていられない。忘れてしまうのであれもしなきゃこれもしなきゃとテンパってしまうことは無いとも言えるが良し悪しである。もう一つ娘に頼むしか無いかなと思っていたことはスマホの便利な使い方である。親しくさせてもらっている人は会社やボランティア仲間にいるとは思っていても、ついこんなことで迷惑をかけてもと思ってしまい自粛してしまう。この上の娘はズケズケ言われる分、私が何を求めていそうかを読み取ってもくれるので叱られながらも頼みやすいのである。いくつも聞いてもすぐに忘れていくのでいくつ覚えているかは怪しいが、よくわからないままついボタンを押してしまって12月からチャージされていたアプリをキャンセルしてくれたのは助かった。
 ある意味緊張の2日間だったけれど、物覚えがより悪くなった父親に付き合わされた娘はもっとたいへんだったであろう。時々気分転換に外国旅行をする娘に持っていたドル紙幣を渡させてもらったけれど、貴重な正月の時間を浪費させられても協力してくれたことには感謝しか無い。
 元日の午後には1年のテーマ・目標を忘れてしまわないように紙に書いて居間の壁に貼り付けておこうと書道道具一式を持ち出して書くことにした。一つは「空間を増やす」(モノで埋め尽くされた台所と書斎の断捨離をする)、そのためには「動ける心身」を維持する、である。行動のテーマとしては「迷ったら捨てる」であり、目標として―月末に冷蔵庫、食品棚3箇所の棚卸し、本と資料の2000点減少、ー柔軟体操・ストレッチ・散歩の継続と、ー書くこと(考えること)の復活(ブログ少なくとも月一)である。最初は週で考えていたら娘から高すぎる目標はヤレないことに繋がると月単位に修正したがそれでも時間がないのに放送大学の面接授業などすぐに増やしてしまう行動様式を現実的に変えないと高すぎる目標に留まるのかもしれない。それにしても竹筆で正月に文字を書いたのは十数年以上覚えがない。(1/3, 1/4-4:02, 1/12微修正)
元旦朝の極楽湯駐車場2026元旦日の出2026のテーマ左・元日の極楽湯駐車場
中・元旦の日の出
右・今年のテーマ(surrender 降伏するー娘)

久しぶりのバンコク…ハーブボールマッサージ三昧の帰結

相変わらず文章が書ききれなくて、10月末からあまり整理できていなくて、途中までで没にすることが多いのであるが、備忘録的に振り返っておくことにする。11/23

 

1.     はじめに

春先頃から企画していたのだが、ようやく1021-24ThaiAirway利用でBangkok行きを実行することになった。主な目的は頑固な肩の凝りを解すためのハーブボールマッサージを受けることと、買い物その他である。

私のバンコク(Thailand)との関わりについて振り返っておくと。最初の外国の地を踏んだのが1971年のBangkokであった。当時京大農学部の院生で経緯はほとんど覚えていないがトヨタの現代文化研究所のお手伝いをしていて、Asian Carの可能性を探るための基礎調査のようなことで、タイの主だった地域を周らせてもらった。その後、三重大に勤めてから海外学術農業調査でタイ全国を見て回ったり、一年間の海外留学でそのうちの5ヶ月をタイのアジア工科大学院で過ごしたり、個人的なつながりで再三訪問することになったり、定年後もWat Po Massage School4つのコースの研修を受けに行って認定書をもらったり、いろんな意味で第二の故郷的な安らぐ処でもある。

タイは列強に踏み込まれたアジアの中で、植民地化を免れた2つの国の一つである。日本とタイの似た処は独自の文化をもっていて、文字は外国人が学ぶのが大変なことであると思われる。自分も挑戦はしてみたが、皆目刃が立たず、片言の日常会話がやっとである。

 

2.     3日連続のハーブボールマッサージ

     一日目

Bangkokに到着してSkhumvit 道路のSoi 24の角の手頃なinnにチェックインした後、早速夕方にAsian Herb AssociationPromphong店に出向いた。以前に利用したことがあって良かったのでネットで予約していたのである。しかし、その日してもらったハーブボールマッサージは自分が記憶していた以前のものとはかなり違っていた。以前は日本人スタッフも常駐していたが、それらしき人もいなかったし何かが変わってしまっていた。ハーブボールマッサージの施術箇所は、以前は全身であったが椅子に座っての足だけであった。施術者は若い女性であったが、それでも肩や背中の揉みは、コリのツボへの刺激は的確で少し楽になったような気がしていた。

     二日目。

渡航前日は準備等で寝不足気味だったのに現地時間五時頃になると、目がぱっちり開いてしまった。普段は5時半から6時に起きて眠くて目を閉じながらベッドの中で柔軟体操や簡単な筋力トレーニングをしているうちに眠気が覚めたから、体は日本での習慣をきちんと覚えていて時差(2時間)の適応に少し時間がかかるということなのだろう。

午前中は買い物したり、銀行でバーツを下ろしたり所用をこなした。渡航前はBangkok到着日と一日開けて三日目にマッサージを受ける予定であったが、一日目が期待外れだったので、二日目もしてもらうことにしてどこにしようかと思案したが、ずっと以前の大学退職直後に何度か習いに来ていたWat Po Massage School(人々にマッサージの技術を教える他にマッサージの営業もしていた)のハーブボールマッサージ(90分)を受けることにした。施術者が経験豊富そうなおばさんで頑固なコリをすぐに探り当て、マットの上で体重をかけてしっかり揉んでくれた。さすがに痛くて、半分以上の時間をカタコトのタイ語で悲鳴を上げ続けた。湿布薬や塗り薬がほとんど効かないほどの頑固なコリが何ヶ月も続いていたので、ひょっとしたら何か変わるかもしれないと我慢をしながらも止めてとは言わなかった。後で揺り戻しがあるかもしれないけれどかなりほぐれた感じがして、肩もさることながら体全体がかなり軽く感じた。

     三日目

肩の凝りは少しぶり返した感じもあったが、BTS(スカイトレイン)は時々使いながらも3日間で三万歩も歩けたので、マッサージによってそれだけ体が軽くなっていたということなのだろう。

Sukhumvit通りの周辺、とりわけAsokeからPromphongあたりはマッサージ店が集中している。その割に2日ほど見た限りではお店に人があまり入っていない気がした。しかし、二日目のWat Po Massage Schoolやいくつかのお店はよく流行っていて、競争が激化している感じもした。この日、スワンナプーム国際空港へ向かう日の午後、泊まっていた24インの隣りにあったマッサージ店で3度目のハーブボールマッサージをしてもらった。2日目と同様のよく効くマッサージであった。頑固な肩の凝りもかなり緩和し、Bangkokに来ただけのことはあった。

 

3.     非日常のいくつかの出来事

    Wifi

この旅行中、簡単な挨拶くらいでほとんど誰とも話さなかった。日本人がいるHISBangkok支店に散歩の途中で立ち寄った時にインターネットが繋がらない話をしていたら、ポケットWifiSim cardがないと難しいですよ、ということだった。以前はホテルとかのWifiでメールは繋がっていた気がするのだが、今回はセントレアに帰りつくまで繋がらなかった。

     買い物

 今回一番驚いたのはものの値段が随分上がっているなと感じたことだった。日本から輸入しているものは日本より高いのは当たり前で、特に果物はりんごなども日本円に換算すると1300-400円などとなっていた。ボロボロになるまで履いている運動靴も履き替えに買ったが、AssicsNikeなどメーカーものは15,000円から2万円を超えるものも多く、町中の海賊版的なものでようやく数千円であった。

 それに比べると、マッサージは90分で4000-5000円なので、まだおよそ日本の半分である。それにBangkokでは昔から家で朝ごはんは作らないのかと思うほど、朝からお粥や弁当の類が売っていて200-300円で済ませられるので日本の半額かそれ以下である。それにしても百貨店やスーパーでは日本とあまり変わらない価格レベル、という印象であった。

 何度も来ているBangkokでの買い物の一つの楽しみは掛け合いで値段が変わることだった。今も市場のセリに残っているどうしても欲しければ高く買うなど値が掛け合いで決まることである。それが20-30年前は町中の店では普通で、金持ちだと思われてふっかけられて高く買わされることもあるが、定価販売にはない売買における活気があることである。

    その他

帰りの機中ではインドネシアから日本に働きに来ている若者たちがいて、そのうちの一人が朝食も取らずにお腹を抑えているので、持っていた薬をあげたら片言の日本語で話しかけてきた。すでに日本で働いていて里帰りをしてきたような感じだった。

豊富な惣菜露天の惣菜2体重計も商売に











りんご惣菜弁当多様な果物






   果物と惣菜の露店、体重計も商売になります。
ホテルのマッサージ店

何でこんなに書けなくなってしまったのかな?-最後の頼み

 メモしておきたい、整理してみたい、と思うことは日々いろいろあるのに形になかなかならない。今、やっとギリギリ津のなぎさ町からセントレア行きの船に間に合って、座席に座ってパソコンを取り出した。八十路超えには宿題が多すぎるのかな?モノ探しに時間を取られる。他優先の生き方は変えたくない、変えられない。それが自分の生きがいでもあり喜びでもあるから。ただ気分よく生きていくだけでも大変な時代とも言える。ここ数年切実に感じるのは世の中のIT化。パソコンは若い時から使い続けていて何とかこなしてきたけれど、機能はドンドン新しくなり、なかなかついて行けない、Windows10のサポート終了(10/14)に伴う切り替え問題も、結局は息子の手を煩わせて、Lets NoteからHp(ヒューレットパッカード)に買い替え、数日を要して必要なデータの移動やソフトを取り入れてもらった。レッツノートより500gほど軽い約1kgという軽さが押しの一つだったが、まだまだ戸惑うことばかりである。苦手なITだけれど、そしてしばしばストレスにもなるが、自分らしく生きていくにはパソコンは手放せないようだ。
 パワーの無さのもう一つは体力が戻っていないことだろう。夏場、といっても最近は9月の半ばころまでエアコンで冷房していたような気がする。布団もエアコンのある居間に移動したのでベッドに寝ることになり、布団の上げ下げもしなくなって楽な、自堕落な生活で、時間菜園も暑くて植木や鉢物に水をやるだけで草引きをする気にならなかった。エアコンを使う必要がなくなってから布団も寝室兼書斎に戻したので、布団の上げ下げを毎日することによって多少の体の運動にもなった。一人暮らしは体が弱ると途端にウエルビーイング(生活の質)が落ちるので、暑い夏場も朝の2キロ余りの散歩は基本的に続けた。が、腿がちゃんと上がっていなくて微妙に足を引きずっている状態だったことが最近楽に歩けるようになって始めて気がついた。体調確認のため散歩の時間も基本的に測っているが、振り返ってみるとテキメンにデータに出ている。
 もちろん週に2,3回はベルファームへ行くルーチンにし、自分で作った花を持っていって、竹で作った園内の一輪挿し十数か所に生けて回っているのも自分のためでもある。ベルファームへ行くと行ってもオブリゲーションは月一回の幹部会だけで、あとは自由にさせてもらっているので、竹遊倶楽部のメンバーと竹林整備や竹細工などをさせてもらえているのが元気のモチベーションなのかな。ただ、基本たまになので、作業の後は疲れが次の日以降に長引くことはママある。とりわけずっと気になっているのが頑固な肩首痛で、車に乗っていて右よし左良しがうまくできなくなっていることである。
 こんな諸々もあって、思い出しやはり行ってみようと動き出したのが、BangkokのAsian Herb Associationのハーブボールマッサージである。頑固なコリは日本のマッサージではほとんど効き目がないが、いくつかのハーブを入れた布袋を蒸気で蒸してツボに押し当てる温灸のような治療法が最後の頼みなのである。10/21、セントレアの待合室で。

比叡山千日回峰行者の特別祈祷に参加

9月6日(土) カッコーパルックのバス旅行で比叡山千日回峰行者の特別祈祷に行ってきました。当初探したツアーは関IC発着の9月7日でこの日は伊良湖岬への自治会旅行の日で早くから申し込んでいたので無理かなと思っていたのですが、よく調べたら一日違いの6日に鈴鹿ハンター発着の同様のツアーがあったのですぐに申し込んだのである。
 30-40年前酒井雄哉大阿闍梨が千日回峰行を2回成し遂げた時、感動して酒井雄哉大阿闍梨の本を買ったくらいなのでよく覚えているのである。伝教大師最澄が開いた比叡山は約1200年のときが経っているが、この間千日回峰行を満行したひとは50人ほどといわれるのに戦後に限れば14人もいるとのこと。
だからこそ、3日間かけて3人の大阿闍梨が特別祈祷を行うといったことが可能だったのであろう。
 6日は光永園道大阿闍梨が祈祷されたが、参拝者が寄せたね願い事の護摩を焚べ、最後には120-130名もいたかと思われる参拝者一人ひとりの頭と両肩に数珠をかざされた。私は頭に数珠がコツンをあたったのを覚えている。私の願いは特に長男夫婦の家内安寧とウクライナに平和を、だった。9/19
 そしてまた、あっという間に一週間が過ぎてしまった。何とか週に二回はベルファームへ行き、生け花を取り替えて、竹遊倶楽部の仲間が何人か来てくれているときは、竹林街道の竹柵の修理用の竹枝の整理などをしているが、その間は朝散歩とラジオ体操をした後、疲れて午前中寝たりしていて、イマイチ体力とやる気が戻ってこない。そんな状態が長野行き後もう二週間も続いている。足掛け二年もかかっている櫟野寺樹木葬の契約書をようやく昨日送ることができたので、そろそろ元の元気を取り戻したいのだが…。因みに天台宗の櫟野寺は子供の時の遊び場であったのみでなく、三重大教師時代に学生を連れて坐禅に行った場所でもあり、後縁を感じるお寺である。9/25

比叡山マップ (5)比叡山マップ (3)比叡山マップ (2)

「花園ZEN講座」を受けるー「空」が少し身近に

8月31日(日)表記の講座を受けてきた。7月8日に京都に住んでいる娘からこんなのがあるけれど興味ある?とLINEがきて、ホームページを見てすぐに申し込んだのである。その後、会社の連携プロジェクトの会議や竹遊倶楽部の活動の一環として裏千家三重南支部西山さんたちの竹の蓋置作りが同日に重なってしまったが、その日までの準備は引き受け、当日は他のメンバーにお願いすることで進めることとした。

花園禅講座花園精進料理
講座の内容(左)と精進料理(右)










佐々木閑(シズカ)先生の「空の教えを味わう」は例えが具体的で、昔(40歳代)から断食に言っては唱えていた「般若心経」の世界の理解が少し進んだ。
 ブッダの教え:諸行無常、諸法無我、涅槃寂静、一切皆苦。すべての物事(諸行)は常に変化し、永遠に続くものはない(無常)。諸法無我とは、「我という普遍の存在があり、その我が自己の欲求を満たすことが幸福だ」という人が持つ本能的世界観は誤りであって、我に執著(執着)することは苦しみを生む。生き物には我などという不変の実体はない(人無我)のみならず、あらゆる物事に「物事の我」(本性)はない(法無我)。
 ではなぜ私たちは物事に本性があると考えてしまうのか。佐々木先生によるとその原因は「言葉」であるという。確かに物事を言葉で表すとそれが不変の実体であるかのごとく錯覚してしまう。人間の存在を構成する色受想行識(五蘊)、物理的な身体や形ある物質を表す色(しき)、感覚器官を通して得られる快・不快・中立的な感覚や感情を表す受(じゅ)、感覚や認識によって形成されるイメージ、概念、表彰をあらわす想(そう)、行動、意志、習慣、情動など、さまざまな心の作用や心の働きをあらわす行(ぎょう)、外界の事物を認識し、それを自己の内に浮かべる作用をあらわす識(しき)、この五蘊は相互に連鎖的に作用することで私たちの心と行動を形作っている。この心身の5つの要素に執着することから「思う通りにならない苦しみ」が生ずるので、五蘊はすべて条件によって成り立っており、独立した実体はない(区分できない)と理解する(照見する)によって執着から離れることができ、世の中を正しく見ることができて、苦しみを遠ざけることができるというのである。9/2
 佐々木先生は、執著しない喜び、手に入れなくても構わないと考えることのできる清涼感、これが「空の味わい」です、という。「なるようにしかならん」という諦観とも言える考え方は祖父徳次郎が晩年(私の学生時代)によく言っていたことであった。それは特に自分の次男(私の叔父)の行動に関して行っていたことである。当時はちょっと薄情だなとか感じていた部分もあったが、自分もさまざまな人生を歩んできて、祖父に近い年齢になると、ある種の達観の境地がよく分かる気がするのである。
 自分があれこれできていないことも、もう一人の自分が見ていて、「良くないよな」と思う自分もいるものの「ねばならない」とは思っていないので気は楽なのである。

 もう一つ、心に強く響いたのは和歌山県聖福寺住職の関守研吾さんの「音楽で味わう仏心の世界」だった。「いのちのまつり」「見上げてごらん夜の星を」「嘲笑」「愛燦燦」「いのちの理由」の五曲をご自身が歌われ、歌の間にブッダや禅のお話があった。禅とは、ただ静かに座り、自分の内面を見つめること。呼吸に意識を向け、思考をとどめず、あるがままの自分に向き合う。そこには言葉を超えた、深い沈黙の世界が広がる。音楽もまた、音と言葉の間にある「間」や「余白」が大切である。現代は、情報が溢れ、常に何かに追われる時代である。その中で音楽や禅が与えてくれる「静けさ」や「間」は、身体と呼吸と心を調える大切な場となる。音に包まれながら、自分自身と深く向き合う時間。そこには言葉では届かない真実との出会いがあるように思います、と述べられる。それが素敵な声と共に届くことによって確かに心が揺さぶられる。坂本九の「見上げてごらん夜の星を」にしても、美空ひばりの「愛燦燦」にしても、何か歌詞を超えたその人の歌声の力を感じてしまう。釈迦が宵の明星をみて、「自他不二の目覚め」を感じられたように、自分は独立しているようで、その自分は両親を始めとして周りの人との関わりの中で存在している。これをしなければならないというような状況を超えて生きさせてもらっている今のような実体ではなにかお役に立つことはないか、何か人の肥やしになることはないかと思い動く(動ける)ことは幸せなことともいえるのでは。
 先日、コミュニティのラジオ体操の公園で気になっていた桜に巻き付いているフジのツタを桜の木に登ったりして持っていった枝切りバサミでほぼ切り取った。そんな話を一人の娘にしていたら、もっと若い人はいないの、と聞く。普段使わない筋肉を使ってちょっと足腰が痛いと言っていたのに心配してくれたゆえではあるが、私の感覚ではこんなことは気づいた人がボランティアで動いてやればいいことなのだと思う。9/3

広島被爆80年目の挨拶と発言者の覚悟

 今年の8月6日は広島に初めて原爆が落とされてから80年である。毎年8/6と長崎被爆の8/9、そして8/15の終戦記念日は非戦を自覚する機会であるが、今年は広島市長松井一実氏の平和宣言を始め、子どもたちの平和への誓い、石破首相あいさつ、広島県知事湯崎氏の挨拶、グテーレス国連事務総長の挨拶(中満泉国連事務次長の代読)と全員のお話を聞いた。それぞれに素敵なメッセージであったhttps://www.chugoku-np.co.jp/articles/-/691435。
 松井一実氏の平和宣言でとくに印象に残ったのは、為政者に対してもはっきりと要請をされていたことだった。少し長いが核兵器禁止条約の再検討会議への日本政府のオブザーバー参加の要請の部分は以下の通りである。
 「日本政府には、唯一の戦争被爆国として、また恒久平和を念願する国民の代表として、国際社会の分断解消に向け主導的な役割を果たしていただきたい。広島市は、世界最大の平和都市のネットワークへと発展し、更なる拡大を目指す平和首長会議の会長都市として、世界の8,500を超える加盟都市と連帯し、武力の対極にある「平和文化」を世界中に根付かせることで、為政者の政策転換を促していきます。核兵器禁止条約の締約国となることは、ノーベル平和賞を受賞した日本原水爆被害者団体協議会を含む被爆者の願いに応え、「ヒロシマの心」を体現することにほかなりません。また、核兵器禁止条約は、機能不全に陥りかねないNPT(核兵器不拡散条約)が国際的な核軍縮・不拡散体制の礎石として有効に機能するための後ろ盾になるはずです。是非とも来年開催される核兵器禁止条約の第1回再検討会議にオブザーバー参加していただきたい。」
 全体を聞いていて少し残念だったのは石破首相の挨拶であった。オブザーバー参加のことには触れられないのはもちろんのこと、ほとんど始めから終わりまで原稿に目を落としたままで原稿を読んでいるという感じであった。他の人たちは子どもも含めて内容が頭に入っていて、たまに原稿に目を落とすことはあってもメッセージが生きていて感動が伝わってきた。発言者の原爆の日に向かい合う覚悟が感じられた。
 国連事務総長の原稿の代読をされた日本人女性初の国連事務次長の中満泉さん(軍縮担当上級代表)のお話も内容に手を入れられたのではないかと思えるほど職務上も我が事として発言されているような迫力があった。
 映像はある意味言葉の内容以上のものも映し出してしまう。唯一の被爆国である日本が核兵器禁止条約の会議にオブザーバーで参加することだけでも反対する勢力いるのだとすると寂しい限りである。

元気をもらってきた久しぶりの京都

 6月12日(木)は竹文化振興協会の総会に参加してきました。50周年記念ということで、名誉会長の千玄室さんがお話されました。初めてでまったく知らなかったので元気な方だなぁ、90歳くらいかしらと思っていたら、話の中に軍隊のことなど出てきて、後で102歳だとわかりました。少し繰り返しの話はありましたがかくしゃくとされていました。自分が80歳やそこらでとても歳のことは言えないなと元気をもらってきました。最近はすぐにぶつかって争いや戦争になってしまうけれど、間や一呼吸が大事、平和をつくるにはゆとりが必要などいいお話しでした。竹に関して、「若竹の伸びよ日の恩土の恩」と読まれた詩が印象に残りました。
千玄室会長の話Hオークラの一室に設えられた青竹 (1)
千玄室さんのお話(左)
ホテルオークラに設えられた青竹と筍(右)









 久しぶりの京都なので、長く気にかかっていた大学院時代のポン友、山口三十四君に会ってきた。昨年久しぶりに再開した河村君と共に京都で出会った無二の親友の一人である。重い病気を経験していたのはだいぶ前の年賀状で知り、気になっていた。足も悪くしていて歩きにくそうだったが、彼の京都まちなかの自宅の近くの喫茶店で3時間ほど旧交を温めることができた。話の八割は彼の話を私が聞いていたので、体の大変さにも関わらず、元気なのが嬉しかった。
 彼は何でも勉強ができた上に京大卓球部に入っていたので、大学院の昼休みにしていた卓球も抜群に上手だった。英語もよくできて博士課程ではアメリカに留学してPhDを取ってきた。今なお孫の受験の手伝いに数学を教えていたり、仏教書や哲学書を読み漁っているのである。もともと出来るうえに猛烈な努力もするので、本も何十冊も書くような存在である。そんな凄い彼らとどうして友達になれたのかなと不思議に思うが、思い起こすとヒントになることが一つ2つあった。
 一つはランニングである。お互いに血気盛んな頃で何のきっかけだったかはっきり思い出せないが、宝ヶ池一周の徒競走をして、もう一回やろうと言わせないくらい私が勝ったのである。彼は卓球部でかけっこは一番だったらしいが、私も四年連続東海学生駅伝の三重大選手で負けるわけにはいかなかったのである。その話が今回も出てきたので彼のエピソード記憶の一つになっているらしい。
 もう一つは当時院生同士でいろんな読書会などしていたが、マルクスの資本論の読み会をしていて、私の説明がよく分かったとか言ってくれて印象に残っているらしい。私とすれば当時流行りだしていた数学の知識を必要とする計量経済学はさっぱりわからないし、考えることはまだ好きだったのでマルクス経済学をかじるしかなかったという背景がある。その2つの話は以前にもしてくれていた。彼の凄いところはそれをものにして他の追従を許さないような計量経済史の本をものにしてしまったことである。
 振り返ってみると、京都での無二の親友との出会いがその後の人生を決めたとも言えるのだが、奇跡が奇跡を呼んだとも言える我が人生である。私の座右の銘の一つは「走即人生」、人生はマラソンと同じで山あり谷あり、最後まで諦めたらあかん、がそこから得た教訓。実際三重大での学内駅伝では総合農学科四年の最終年にアンカーとして3位でタスキをもらい、ゴール寸前で前の走者を抜いて優勝したことがあった。頭の出来はイマイチだったけれど、諦めなかったので今があるといえる。当時大学受験は1期校と2期校の2回受けられたが、一期の三重大は落ちて、二期の静岡大の寮についたら、三重大の補欠になっているが来るかどうかと電話がかかってきて、自宅にも近い第一志望校なので二つ返事でオーケーして補欠入学できたのである。その三重大に柏先生が講演に来て、こんな先生のところで学びたいと京大農学研究科を受験して、英語とドイツ語の語学の成績はイマイチだったけれど、専門がそこそこできていたので採択したのでしっかり頑張りなさい、と試験後に柏先生に言われて拾ってもらったのが私の京都の始まりであった。まさに出会いとラッキーと最低限の努力の賜であった。山口くんもよくあんたの人柄が良いからというのだが、いろんなめぐり合わせに感謝してせめて努力だけは続けるしかないというのはそこで生きていくために必須だったのである。謙虚というよりこうなりたいという目標があって必死にもがいてきた結果というだけなので感謝しかないのである。
 いい育つ環境は必ずしも作れれなかったが、3人の子どもは何とか自活の道を見つけてくれたし、請われて入った農業公園の現場でも必死でもがいている中で自分よりは優秀な後継者がいてくれたし、もう思い残すことはなく淡々としていると山口くんに話していたら、それを羨ましがってはくれたけれど、私は逆に孫のために現役の数学の試験問題などを必死で解き、難解な哲学書を学び続け、気力で病気を遠ざけている彼の生き様から、淡々と生きるのも悪くないが、最後まで自分ができることをもがくのもいいなと元気をもらったのである。まさに友に感謝である。7/1

今年も竹羊羹の竹素材づくりが完了ー僥倖と振り返り

 珍しく余裕のない5月が終わって、翌6月1日は5月26日に香良洲の布袋竹林から切り出してきてあった竹羊羹用の竹を仕上げる日であった。9時から開始のため、朝のラジオ体操後の公園の掃除も早々と済ませ、高速道路を使って8時15分にはベルファームに着き、作業の準備を始めた。今年の柳屋奉善さんからの羊羹竹の注文は400個(昨年は300)。この日はこれまでになく会員11名とほぼ全員が参加してくれたので仕事がスムーズに捗った。
 まず大工の三鬼さんが丸鋸で一本一本の竹からすばやく規定の長さの羊羹竹に切り落としてくれ、後のメンバーがサンダーやペーパーヤスリやナイロンたわしで角を取り、節についた白カビや黒い斑点などを磨き落とした。以前はすべての羊羹竹の過度と内側の角を落としていたが、むしろスパッと切った切り口が残っていて、怪我をしないよう滑らかさがついている状態にするには、ほぼナイロンたわしで十分であることが分かった。しつこくこびりついた白カビは燻竹のナイフで削ぎ落とすのが、金のナイフのような傷ができなくていいし、竹酢液を使うのも磨きには効果的であった。サンダーやナイフで削りすぎているものは見た目に違和感ができお客様にとっては嫌がる人もいるのではないかと思われた。ひっかかりのあるものは自分ら用として、最終的に今回は私が一個一個点検して納入する箱に入れた。
 もう何年もやらせいもらっているので、何となくそれぞれ自分ができることをして作業は捗っていくが、もう少し標準化していけばもう少し無駄なくいいものが納入できるのではないかと思えた。実際、笹原さんは全体の動きを見て、羊羹竹には少し太すぎるものなどを森林公園から要請の竹馬づくりの素材として選別してくれていた。他の用事で少し遅れてこられたMさんは木漏れ日広場のくさ引きなどをしてくれていた。今年度から加わったお二人もすぐに馴染んで作業してもらっていたし、自立性と協調性のボランティア仲間に囲まれていると老体に鞭打って頑張れるのが不思議である。

IMG_2726IMG_2727IMG_2725







羊羹竹作り



 午前中にはこの日の仕上げは300くらいでもう一日かかるかなと思っていたが、午後も数人のメンバーが居残って作業を続けてくれたので、注文の400個と予備の20個、竹遊倶楽部の買い取り分80個の合計500個が16時前にはできてしまった。
 こうした中で私の役割は世話役、いわば潤滑油の機能だと思っているので、大きなポットへのお茶の準備、お昼の弁当の買い出し(松阪紹介と農家市場から)、丸鋸の調整に六角レンチがないかと聞かれて、あちこち探し回り、最終的にベルファームの工具箱から借りてきたり、ゴミの持ち帰りなどなどである。ちょこまかと動く機会が多いのでこの日も歩数は13000歩を超えた。
 一日で500個の仕上げは初めてでびっくりだった。夕方には納入しているはずだったが、信じられないことが起こって納入できたのは19時45分。羊羹竹3箱を後部座席に積んですぐに動けばよかったが、作りかけの梅酒のホワイトリカーの確保や先般買ってきた電動草刈り機のアタッチメントの購入、それに結局この日は駄目になったがマッサージの問い合わせなどしているうちに羊羹竹の納入のことをすっかり忘れてしまっていた。お店などを動き回り、二軒目の津のビバホームでホワイトリカーと燻竹杖用のハカマを購入して後部座席に置こうとして羊羹竹の箱を見つけてまさかの納入忘れに気がついたのである。生竹をほっておいてカビを生やしてもいけないので注文元の奥様に電話してすぐに松阪まで戻った。後片付けなどよく手伝ってくれるTさんがちょこまかと動き回っている私を心配してか納入にご一緒しましょうか、と言ってくれていたのは何か予感があったのかもしれない。26日の竹切りで竹藪の中でバランスを崩して切り株の一杯ある竹林に倒れ込んだのをたまたま近くにいて見ていたのがTさんで、わざわざ「一緒に行きましょうか」と声掛けしてくれた「神のみぞ知る」の余地があったのかもしれない。あまり他人を煩わせたくないというある種の矜持も心身の変化に合わせて柔軟に対応すべきかもと学んだ出来事だった。
 かなり疲れてはいたので、風呂とマッサージはしたかったが余分な松阪往復をした分、そのまま家に帰ることにして、梅酒にリカーを入れるなどをして寝たのが夜の11時過ぎだった。そしてもう一つ不思議なことが起こった。多いと数回、ブロチゾラムなど入眠剤を飲んでも一、二回は夜間尿で目を覚ますのにこの日は朝まで眠れたのである。熟睡というよりずっーと夢見たりしていたような気がするが、体重がいつもより1.5kgほど減り、疲れていたには違いないが、何か仲間と一仕事やり遂げたような爽快感があった。いろいろと生きている面白さを経験させてもらった一日だった。

体が丈夫だった人は体の不調に弱いのかな?

 歳を取るとたいていどこかに問題を抱えていて、病気や不調と上手に付き合っていくのが必要なんだろうとは思う。開腹手術をして以来まもなく4ヶ月になるが、何かスッキリしない状況が続いている。ここずいぶん長く熱が出たこともないし、外科的な手術は受けても一、二週間、せいぜい一ヶ月もすれば普通の状態に戻っているので、こんなに長く続く不調を受け止めきれていないのかもしれない。
 腹の底からの続く咳、大隔膜がひきついて起こるしゃっくり、長く続く食欲不振と嘔吐感、その上一週間前くらいから始まった坐骨神経痛による足のしびれ、等々。散歩はできるし、少しは気にしながらも運転も慎重になるものの普通にできる。自分として何となく許せないのは何となく気になることが多くて、それらを仕事や片付けが進まない暗黙の理由にしているのじゃないかということ。
 足のしびれは3/10に診てもらったモミの木整形外科で出してもらった薬を四日飲んで少し緩和してきた。何度かお腹のCT検査は受けてきたが、よほど病状が進んでいないと分からないというか、大丈夫ですということになる。それで2/28には内視鏡検査を受けたが、胃がん検診としては問題ありません、結論だけが強調されてそうなのか、と思っていたが、内視鏡検査の所見のなかに「バレット食道」「表層萎縮性胃炎」でピロリ菌の現感染が疑われるとあり、ピロリ菌の検査は5/17の杉政先生の定期検査の日になっていたが、食欲不振や胃のもたれが続くので3/17に早めてもらった。よくわからなかったバレット食道を改めてスマホで調べてみると、逆流性食道炎で胃酸の逆流によって食道下部の粘膜が胃の粘膜(円柱上皮)によって置き換わったもので治す方法はないのだという。このあたりが食欲が起きないことや胃のもたれ感などの理由になっているのかもしれない。最近竹の友だちと話していて、ピロリ菌がなくなったら食欲が一気に戻ったとのことだったのでそこに期待するしかないのかな。

すっきりしない体調が続く中で

 普段からしゃっくりが止まらず、時々腹の底からの大きな咳。これらが集中力をそいで、ただ時間を過ごすだけの日々の営みに成りがち。それでもしなければならないことはそれなりにできるので、会社の会議や竹遊倶楽部のボランティア、放送大学の学習やテストは何とかこなした。
 1/26に8科目の最後の「人文地理学から見た世界」のテストを終えて、2月3月にかけては春休みなので抱えている宿題をこなすのにいい時期である。1/28にピアノを取りに来てもらうことになっていたので、ベランダの下や応接間を少し片付けられた。体力維持に朝の散歩は続けているが、少し気を入れて歩くと疲れが出て、午前中にも昼寝をしたりする始末でなかなか体力が戻らない。腹の底からの咳が続いて喉も痛くなり、1/31にはN耳鼻咽喉科で喉の痛み止めなど5日分処方してもらったが、効いているのかわからんような状態。
 それでも2/3は遠山病院の杉政先生の診察日で28日のCT撮影の結果がわかり、とりあえず心配したことはなかったと先生自身がホッとされていた。私も終活を進めるには良い情報には違いなかった。その時は首と頭も痛くて内科の小西先生に紹介されて頭のCTを撮ったが大丈夫とのことだった。そんなこともあり、2/6の会社の経営会議、2/7の伊賀サントピアでの産官学連携セミナーにも出席、2/9は竹遊倶楽部の共同作業日でベルファームに行く。主に笹原さんが切ってくれた伐竹を木もれ日広場へ運ぶなどしたが、この日は仲間の北村さんのお孫さんが勤めている青島での仕事仲間のアメリカ人夫婦一緒で竹の製品を見てもらったり、一緒にルーベルで野菜ソムリエランチをご一緒したりに久しぶりに賑やかな会になった。
 ところが、この日から体調はさらに悪化することになる。朝はいつもどおりのパン一切れとコーヒーで、9日のランチは食べられなくて1/3ほど残したが、午後と夕方にも久しく経験しない酷い下痢だったので、その日の夕食以後食べ物を取るのは止めたが下痢は3日続いた。その間も体力を落とさないように少しゆっくり散歩は続けたが、しゃっくりや嘔吐感が無くならない。体重は3日間で60kg前後から56kgまで下がった。10日には一応高野尾クリニックに行ったがウィルスによるものだろうと整腸剤を出されただけ。時間が十分できると体調がより悪くなって課題が進まない、こんな繰り返しが続くんだよね。それでも三重学習センターに来たので何とかこれが書けたことを良しとしよう。2/12

「よっさん」勇気と感動をありがとう!

 阪神の華麗なショートストップで鳴らした「よっさん」こと吉田義男氏が一昨日2月3日91歳で亡くなられた。私が子供の頃に本気で惚れ込んだスポーツマンが吉田義男氏であった。自分では小学3-4年の頃からのファンと思い込んでいたが、京都山城高校から立命館大に進み、1958年に阪神球団に入ったと記事に出ていたので私の記憶が二三年ずれているかもしれない。子ども心に印象的だったのは身長167cmというプロとしては背が低いながら、堅実かつ華麗な守備と短く持ったバットでしぶとい打撃で有名だった。それ以来の阪神ファンなのである。自分もどちらかといえば小さくてコンプレックスを持っていたのを小さくてもこんなにやれるんだと勇気をもらったことを覚えている。
 その後吉田さんは阪神の監督を3度していて、スポーツ史に有名な甲子園、バース・掛布・岡田のバックスクリーン3連発で日本一に輝いたときの阪神の監督でもあった。阪神球団での唯一の日本一になった時でその感動は今も憶えている。また、いきさつは知らないが一時フランスの野球の監督なども勤め「ムッシュ」と言われて親しまれてた。
 それ以来野球への憬れはあって、中学では野球部に入ったが上手な子がたくさんいて私はマネージャーだった。高校は陸上部だったが、三重大で半年間硬式野球部に入っていた。左で打たしてもらったりしていたが肩を痛めて断念せざるを得なかった。それ以後はプロ野球を見るだけの楽しみとなった。それでも80歳になっても野球を楽しませてもらっているきっかけはまさに吉田義男であった。

前に進むための、気になることの確認と行動

 NHK朝ドラはよく見ているが、今作の橋本環奈がヒロインを務めるNHK連続テレビ小説「おむすび」もつい見入ってしまう。神戸のさくら通り商店街で靴屋を営む渡辺孝雄(緒形直人)が、阪神淡路大震災で亡くした一人娘、真紀(大島美優)との思い出の家への執着から解き放たれ、新たな道を歩む決心をするのが今週のメインストーリーだった。今朝の朝イチにはその緒形直人が登場し、本人の普段見せない素顔などを紹介して朝ドラの魅力倍増に役立っていた。
 振り返ってみると、この前のブログは12月の半ばに書き始めて何度も書き直しながら、とりあえず1月20日に打ち止めにしたという感じである。最低限動きながらも何となく留まっている感じの自分ももう一歩踏み出さにゃと、数日前からモノを飲み込むのに痛みを感じていた事柄の解消に向けて、今日は自宅近くの耳鼻咽喉科を受診してきた。3種類ほどの薬を5日間処方してもらって後は時間待ち。28日のお腹のCT造影検査の結果は2月3日の受診で分かるので、先延ばししている事柄をもう少し計画的に進めなければと改めて考えている。
 もちろん多少は動いてきていて、「活かすものは活かして後は断捨離」の一環の自宅のピアノ(娘用に買ったが今はほとんど使われていない)は、当初はベルファームで活かしてもらえないかと経営会議にも提案したが、どうもうまく活かせそうにないということで、リユース市場へ出すことにした。数社が応募してくれて、引取料もそれなりで活かしてくれそうな名古屋の業者に売ることにし、28日の午後に引き取りに来てくれた。何人来るのかなと思いきや大型トラックで来て、二人で担いで乗せていった。業者さんに入れたコーヒーを振る舞った。引取料は娘と折半して、私はベルファームへ寄贈する予定のピザ窯の一部にするつもりである。
 購入依頼居間の一角を占めていたピアノがなくなると、私がいなくなると誰も帰ってこなくて処分せざるを得ない自家の数千冊の本を始めとした荷物をどのように活かし断舎離するのかが改めて喫緊の課題として浮かび上がってきた。1/31

手術から早2ヶ月が経って…基礎体力を取り戻さねばと始めた入院前の習慣

 11/29に遠山病院を退院して、次の診察の12/10までが随分長く感じられた。10日は血液検査と杉政先生の診察があった。もう少し詳しく検査しててみましょうということで、13日にCT造影検査を行った。その結果をもって18日に診察があった。杉政先生が急遽来られないということで手術にも関わってもらった井上院長が心配ないから経過観察していきましょうとのこと。
 12月23日にもう一度杉政先生の診察があり、今すぐどうこうということはないが、進行度をチェックするために1月28日に2回目のCT造影検査を行うこととなった。たまに咳き込むと開腹手術の内部に響く。退院後4週間はお腹に負荷がかかるようなことはしないようにということで寝起きもベットでしていた。平坦路を少しゆっくり目に歩く分には何ともないが、ふらついたりした時に体幹が弱っているのは感じていた。散歩でも少しスピードを上げてみるとその疲れが尾を引く。集中力が続かないのも体力不足からもきていると思われた。
 それで正月明けから布団は畳の上にして、毎日布団の上げ下げをするようにした。入院から2ヶ月、退院してからも6週間で、入院前には毎日していた布団での柔軟体操と腹筋背筋を再開することにした。先行きが見通せないので、日々重視すべき事柄の判断がつかず、片付けをしていても、とりあえず分類をして、捨て去るものの量が少ししかならない。三重スローライフ協会の資料は組織も閉じたので廃棄にする分は増えたが、ベルファームや竹遊倶楽部の資料はその活動の記録を残すとするとそれをまとめるのは自分しかいないなと思うので一旦分類して残す方になってしまう。
 纏める力もなくなっているのにこれからそんな時間が取れるとも思えないのだが、子どもたちと十分話す時間も取ってこなかったので、なにか残せるとしたら、それなりの自分史とファミリーヒストリーのようなものかなと思う。NHKで報じている有名人などのファミリーヒストリーはさすがにNHKという取材力で見るものを感嘆させるものになっているが、そこまでで無くても自分のルーツを知ることはその人の何らかの力になることは事実であろう。と考えるとまたまた資料が捨てられないのである。1/18
 入院から2ヶ月(退院から6週間)が過ぎ、基礎体力を取り戻すために入院前までは毎日続けていた朝布団の中での柔軟体操と腹筋背筋などを復活し、散歩の強度も少しずつ上げるようにした。もちろん2ヶ月のブランクは大きく、疲れが出て昼寝したりもするが、少しずつ体力が戻ってきている気がしている。この間も会社のスタッフや地域の人々の相談活動は今できることとして動き出している。1/20

痛い痛いの2週間を活かせるの?

 振り返ってみれば前回のブログから6週間も経っている。書くことがなくてぼんやりしていたわけではなく、少しばかり元気であれこれと予定を詰め込みすぎてアップアップだったのかな。最近少し次世代に残せるあるいは役立つことに時間を増やしたいとの思いがつよく、それが三重大学経営研究室のゼミへの参加であったり、会社でのおしゃべり部屋の開設であったり、となった。
 その前に10月に放送大学の生活文化コースの学生継続とともに、心理学関係の放送大学大学院の科目も2科目受講したりで、竹林整備で痛める肩や腕を殆ど使わなくてもいい方向への無意識が働いていたかもしれない。
 確かに11月に入ってもバタバタしていた。経時的にみると、11/1 車検、樹木葬相談会(基本は決めていたがいくつかの疑問があり、大津まで)、11/2 高齢者健診、11/3日 竹林整備とおしゃべり部屋の開始、11/4 豊ヶ丘でのおしゃべり健康サロンの開始 、11/7木 おしゃべり部屋、阿坂マルシェの準備。
 そしてこれは書こうと途中までメモを作った11/9-11 高知県檮原町でのスローライフフォーラムへの参加。その後も予定が詰まってバタバタしていたが、11/13の午後辺りからちょっとイヤな腹痛だなと思いながらも様子見の時間が長くなり、いよいよ11/15の朝から掛かり付けの高野尾クリニックへ行って血液検査などしてもらった。そしたら、手術が必要かもしれないのでとすぐに紹介状を書いてもらって遠山病院へ行った。11時に最初の診察はしてもらっているのにその後のことをよく覚えていない。あれこれの検査をして15時過ぎだか即入院ということになったが、すぐ帰るつもりで朝家を出ているので何も持ってきていない。看護師さんに無理を言って外出許可をもらい、換えの下着と放送大学の教科書などを持って病院に戻り入院となった。診察室からは一旦相部屋に入れられていたが、看護師さんから電話も気兼ねなく出来るし、Wifiの調子もいいとのことで個室に入れ変えてもらった。
 すぐに輸液の点滴と抗生物質の点滴、更に痛み止めを組み合わせて、これが2週間も続くとは…。とりあえず、家族と隣近所、会社への連絡は済ませた。コロナ下もあり幸か不幸か面会は家族に限るとの制約があったので、遠い兄弟には連絡もせず、次の日に娘二人が訪ねてくれて、長男は孫のラインをみせてくれた。後は次女の母親が突然訪ねてくれたが、それ以外は痛みと格闘し、集中力低下の中で放送大学のWeb面接指導(中間テスト)を受ける日々だった。
 主治医のS先生(東大出の女医さん)は炎症が小さくなる保存医療?をしながら、19日に手術となった。いくつかの想定の中で一番難儀な状態だったようだが、病巣は取れたという。腹腔鏡下手術から回復回盲部切除術に移行せざるを得なかったので、予後も10日ほどと長くなることになった。(29日12時)
 下の娘が和歌山の橋本から昼過ぎに戻って来てくれて、今日も緊急手術を控えて見えたS先生から手術の詳しい説明を聞けた。娘が検査結果をもらえますかと声掛けしてくれたので「病理組織検査結果報告書」のコピーをいただけた。初発急性化膿性虫垂炎との病名がついていてかなり悪かったらしい。要経過観察ということになり、次回は12月10日に外来受診することとなった。術後4週間は腹部に力のかかる動作は避けること、という外はデスクワークなら復帰可能とのことだった。
 今日始めて開腹部を見たが確かに10cmの切開傷があり、お腹の鈍痛はこれだと納得。後どれだけ生かされるのかは分からないけれど、この命をどう活かせるのか今からの課題。
 入院が急だったので帰ってみると冷蔵庫の中のものもかなりカビが生えていた。あまり冷えていないのかもしれないけれど15日間というのは大きいな。花の水やりは近所の人に頼んでいたのでよかったけれど。

個人にも組織にも盛衰はあるーそこで自分はどう振る舞う?

 続けていた医療の現場を休まざるを得なくなって、いろいろなことを試みながら出身校で臨時?のお手伝いをしている下の娘から久しぶりにSNSで連絡があった。と思ったら、ままならない仕事での悩みのようなものだった。少しやり取りしていたらどこにもありそうな組織や個人の問題で、つい自分の心身の劣化のことや会社での課題に思いを馳せていた。
 昔から生老病死、栄枯盛衰など命あるもの(広義に組織も含め)には、その生から消滅までさまざまなことが起こり得る。その変転の中でその時々に自分はどうするのかも問われてくる。10/15
 私たちの会社で言えば、数年前から社長のリーダーシップのもとトップダウンよりボトムアップを目指し、現場の一人ひとりの力をつけようとしてきている。先日も部署ごとの視察研修の感想文を見せてもらったが、スタッフの多くが視察でもいろいろなところを見てこの部分はベルファームでも取り入れられるのではないかなどとてもアクティブな反応をしている。このような動きをどう活かしきれるかは中間管理職などに問われるところであるが、まだまだ進化していけそうな活力が感じられる。そんな中で非常勤とはいえまだ組織においてもらっている我が身としては、何が出来るのか?
 3年半前から放送大学で心理学関係の科目を学び直し、なかなか頭が追いついていかないことも事実ながら、なるほどと思うことも少なくない。もともと苦手ではない「聞く力」(よく聴くためには適切な問い交えることも大事ということもあり) はもう少しできるようになった気もしている。それ故、先日経営会議で了承してもらった「おしゃべり部屋の開設」で求めるスタッフの話を聞かせてもらいながら自分に何が出来るのかちょっと楽しみでもある。
 娘の通っていたきのくに子どもの村学園は教育家のニイルが1921年に設立した小さな寄宿学校サマーヒル・スクールをモデルにして作られたという。世界で一番自由な学校と言われ、生徒の自立性や自由意志を大事にする素敵な学校であった。設立者の堀さんは大学教授を辞めて学園長に専心され、同様の学校を全国に増やしていかれた。私は密かに心配していた。パジェロであちこちの傘下の学校を飛んで回られる学園長の体ととてもユニークな学園であるだけに設立者の思いや趣旨を理解して教育に当たるスタッフがどれだけ育っていくのだろうかと。娘の話を聞いていると、理想と現実のギャップ少なからず生じているようである。10/16
 理想に燃えているほど会社や組織は大きくしたいものである。しかしながら、体制が整わなければ、後継者を育てられなければ、いずれ縮小又は廃止をせざるを得なくなる。残念ながら、NPO法人三重スローライフ協会の場合もそうであった。組織もまた生きているので、組織を作った情熱や思いがメンバーに伝わっていかなくなれば形骸化し、個々人は問題が起こっても見ぬふりをしたり、何とかやりすごすだけということも起こりがちである。
 そんなときに個々人、自分はどうするのか?上記NPO法人の場合は自分が責任ある立場にいたし、多少の余裕もあったから、自分で決断し赤字を賄うことも出来た。一人ひとりの立場や思い入れ等によって様々な対応があり得よう。復活の展望がなくても何とかしようともがくこともあろうし、何とかしたい気持ちはありながらも自分ひとりでは何とも出来ないこともあろうし、より必要とされる仕事に移ることも選択肢の一つであろう。要は突き進むも撤退するも自分の納得が基本になるのだと思う。どちらの方向へ行こうとも向き合った末の行動は必ずや将来に生きると思うからである。10/18

足場の悪い竹林での草刈り

 13日の竹遊倶楽部作業日は二手に分かれ、一班は竹遊舎前のテント作りと低い地面の部分にバラスを置いて固め、その上に〇〇とコンパネを敷いて竹細工作業もできるようにしてくれている。後は竹林草刈りの続きである。私は竹林草刈りの方にまわったが、散歩道から竹林になる傾斜地をナイロンコードの電動草刈り機で草刈りしていたが、運動靴を地下足袋に履き替えていたらまだましだったのだろうけれど、足元が不安定で腰への負担がきつかった。午後はSさんが手伝ってくれて電動草刈り機を使いたいというので私は混合油のエンジン草刈り機を使ったが、これは電動よりかなり重く腕にも腰にもかなりの負荷だった。
 ちょうどその日の午後Kさんにカイロプラティックをしてもらえることになっていたので良かった。事情を話したらかなり丁寧に見てもらえ、終わって時間をみたら1時間のところ1.5時間も調整してもらっていた。随分楽になったが、基本は普段の姿勢やストレッチにある。特に肩甲骨回しとスクワットを日々の運動に取り入れる必要がある。したほうがいいよなと気づいていながらも出来ていなかったので、少しずつでも取り入れないと先生に申し訳ない。10/14

ついやってしまう先延ばしパターンを変えるには

 もう数年前から行動のスケジュール化にやたらと時間を食ってしまう。スマホのスケジュールは予定の通知もしてくれるので、そこがメインにはなりつつあるが、その前にメモ帳代わりの「日々メモ」に思いついたことや近々にやるべきことを書き出して、日々の日記代わりにも使っている。家にいる時間が多いと毎日が似たようなことになり、いつ何をしたのかがよくお覚えていないのでできるだけメモを取るようにしてきている。とはいえ特別困らない事柄はつい先延ばしになってしまう。
  あれこれ思うこと多いがいざメールを書いたり文章にするとなるとなかなか文字や文章にならなくて途端にストレスが溜まってしまう。そうなると晴れの日などは外に出て花や野菜の管理や時に竹細工をしているのは気分転換にもなって好きなのだが、メールでの返事がなかなかかけなかったり、ブログに書きたいと思う内容があっという間に時間が過ぎて陳腐化してしまう。先延ばしできることはしたって構わないとどこかで思っているからか、ストレスを溜め込みすぎることはないのはいいのだが、仕事に追われない、プレッシャーがほとんどないことの良し悪し、両面があるんだよね。どこかで別の声がもう少ししっかりしいな、と叫んでいる。

 そんな時に10月7日、上の娘から久しぶりに連絡があった。お父さん、また人とあまり喋らなくて呂律が回らなくなっているのではと一時間あまりも電話で喋ることになった。確かに人と会うのは朝のラジオ体操だけということはよくあり、それもおはようございます、というぐらいで大抵の男性と同じようにそんなにべちゃくちゃ喋らなのである。ベルファームの竹遊倶楽部のボランティアのときはまだ少し喋るが、舌が回らなくて舌を噛むことすらよくある。
 その日は話しているうちに舌の回りもよくなってきて、コーチングに関わるような内容が多いので刺激も受ける。こんなこともしたいと思っているとかの話をしていたら、それいつからやるの、とか突っ込んでくる。これは時にキツイんだけれど、退路を断つというほどではないにしても先延ばしにしがちな行動をプッシュしてくれるのは実にありがたい。
 これをきっかけに次の日から散歩を坂道のあるコースに変えられたし、自宅での健康サロンや会社でのおしゃべり部屋の開設案内文がその日から2、3日でできた。中身は心身の健康相談のようなことを考えながら言葉が硬すぎるよなと思っていたところだったので、娘と喋っている間に、「何でも話せる機会」があれば堂々巡りしている人の後押しも出来るかなということになった。10/14

久しぶりの草刈り機の使用

 10月1日は火曜日だが、メンバーで一番若い植村さんが草刈りに参加してもらえるとのことで急遽竹遊倶楽部のメンバーに参加を呼びかけた。集まってくれたのは草刈りチーム4人と竹焼却、環境整備の3人。私自身も電動草刈り機を使っての草刈りは随分と久しぶりだった。やりだすと根を詰めてやる方なので2時間あまりで結構疲れた。夕方頃に胸が痛く心臓が気になったが、草刈り機を左右に振りながら草を刈っていくのに腰と胸の筋肉も使っているからだろうと納得がいった。足場の悪い斜面などでの作業がやりやすいようにせっかく地下足袋を持っていったのに運動靴のままで作業して負荷が余計かかったこともあるのかも知れない。10/2
 でも改めて草刈り用のナイロンコードの威力を確認し、自宅の庭も草が伸びているので草刈り機を持ち帰ることにした。2日朝から玄関の松の周辺と菜園の周り、台所裏などがきれいになった。いつも散歩とラジオ体操後の数十分を外作業に当てているが、今日は午前中時間をかけて行い、朝食抜きでブランチとした。今日はここまでやろうとかその気で行動しないとなかなか片付かない。終活までの道のりはまだまだありそうである。10/3

年輪を経た夫婦の妙味ー9月中旬に再会した二組の旧友

 9月10-11日はベルファームの直売所「農家市場」へりんご等の果物を納入してもらっている「アップルさみず」さん訪問の仕入れ旅に同行させてもらった。社長は今回同好を遠慮されたのだが、専務、常務と農家市場を率いる二人とベルファームの次代を担う4人私の五人だった。さみずの会長の山下さんとは20年以上のお付き合いでご夫妻に自宅で泊まってもらったことやアップル三水の15周年?だったかの総会でお話させてもらったこともあった。9/17。そういえば竹遊倶楽部をつくって2年目だったか2017年11月りんごの収穫手伝いの名目でマイクロバスで山下家を訪問したことがもあった。その時印象的だった一つのことはその後亡くなられた東さんが認知症の進んだ奥様と一緒に参加され、優しく奥様をエスコートされていたことである。
 今回は会社の幹部クラスの交流とともに、果物の仕入れの役割もあった。夕食は松阪から持っていった焼き肉と山下会長が作られた野菜で奥様がピザを作り、レンガのピザ窯で焼いて出していただき皆んなで食べながら話が弾んだ。泊めてもらった翌朝の朝食には信州名物のおやきが出た。こんな素敵なもてなしはなかなかできないものである。

 翌日の9月12-13日は、年賀を送らなくなってお詫びも兼ねた三重スローライフ協会の『活動の記録誌』をお送りしたのがキッカケでやり取りが再開し、是非会いたいとのことで鳥羽のホテルを予約していたUさん夫妻との久しぶりの出会いの日だった。Uさんとは高校の仲良し三人組の一人で、当時からできが良くて苦労人のクラスのスターだった。
 一級建築士になった彼には私の生涯に関わる3度の建築の設計でお世話になった。一度目は最初の結婚をして初めてのマイホームを建てた時(引き渡しは1980年1月の娘が生まれる直前)、二度目が双方子連れ再婚で、先方の土地に大きな2階建てを建てた時(再婚は様々な問題が起こり4年目に別居して、処分せずにいた最初の家にもどる)、そして三度目が定年になって大学から持ち帰る数千冊の本の置き場として書庫兼大広間の増設である。今から思うと、子どもたちも家には帰ってきそうにないそし長い一人暮らしが続いていたので、コンパクトな家に作り変えていたらよかった。何となく古い家の2階の子どもたちの部屋を残しておくように思ってしまったのである。
 そんな経緯もあり、Uさんは私の紆余曲折の人生もよくわかってくれているのだが、それだけに結婚生活50年余というUさん夫婦の深く優しい会話には感心することしきりだった。山下さん夫婦の支え合っている絶妙の間合いといい、永年の風雪を乗り越えた夫婦の味というものをたっぷり見せてもらうことになった。
 自分としては眼の前のことに一生懸命で、結果として悲しい思いをさせたであろう人も複数であるが、複数の人をかなり深く知る機会を与えられたことは人間理解のプラスにはなったかもしれない。

断食で心身のリセット…人も生きものだと感じられる小さな仕掛け

私は50歳の頃からこれまで30年で25回の断食をしてきました。その最新回が今年の御盆期間でした。断食にもいろいろな仕方があるようですが、私が習ったのは生駒の静養院断食療養所のやり方です。一週間の断食期間があるとすると、1-2日間予備断食で毎食減らしていき、水だけの本断食3日間、そしてお粥や消化の良い野菜煮などの回復食2-3日の配分です。

断食をするというと、1食抜いてもお腹が空くのにとても無理、とかの反応をされます。1食抜くのはお腹空くけれど、二三日抜くなら平気よ、と答えたりするのですが、要は体(生物としての人間)の適応力を如何に活用するかなのです。その時の体調とかもあり、きゅーとお腹が空いてくる経験もありましたが、今回は快調でした。

スローライフの会の野口さんから断食について原稿をと言われて、改めて断食について振り返ってみました。そして確かに断食の仕方の勘どころは「ゆっくり」(スロースタイル)だなと改めて感じます。特に回復食の過程は断食の成否にも関係してきます。重湯、三分粥、五分粥と徐々に慣らし、おかずも消化の良いものを少しずつ増やしていく感じです。過去にはいくつかの失敗もあります。たとえ3日間であっても水だけからお粥など食べ物を入れると胃が刺激されて食欲が出てきます。そこでおやつなども含め食べすぎると体重も急速にリバウンドしてしまいます。そこを乗り切るとご褒美がついてきます。

 

断食の実感的恩恵

最近は特に脳機能(特に記憶)の低下を自覚することがママあり、したことの順番や何をしていて時間が過ぎたのかが全く思い出せない事が多く、そのため断食日誌がしっかり書けていません。

断食をしていてよくあるしんどいことは、予備断食がうまくできず少し急に本断食に入ってしまった時にはキューとお腹のすく感じを持て余すことがあります。また、断食中は睡眠導入剤はもちろん一切のサプリメント(ビタミン剤やバイアスピリンなど)も使わないことが静養院の教えでもあり、今回もそうしたが特に問題はなかったです。

これまで本断食が始まってよくあるのは、足がだるくて眠りも浅くなったりすることでしたが、今回は一切ありません。少しぼーっとしたり、軽くふらつくこともよくありますがそれも今回は大丈夫でした。予備的に少しスポーツドリンクをとったりしたことも関係あるかも知れません。静養院では水だけで苦しくなってきたときにポカリスエットを与えられることがありました。ミネラルなどの補給のため楽になるのだと思います。その時々の体調などで少し異なることはありますがだいたい以下のような実感的な恩恵を享受しています。

①断食して毎回思うことは、食べられることのありがた味。たった3日食事を抜いただけで、重湯やお粥と梅干しがこんなに美味しく感じられるのです。そして回復食になると1食1食力が出てくる感じ。8月は原爆や終戦など戦争のニューズが多く、敵からの逃避行や食料なしの行軍などが夢に出たり思いを馳せることがあった。毎回食事を食べられるということが、歴史的世界的に見ればとても有り難いことなのだといつも気付かされる。

②当初の予定通り股関節と肩関節をほぐすAOTAKEヨガ体操をずっと続けられ、首周りの柔軟性はだいぶ改善した。腰痛がほとんどなくなり、腕・肩の柔軟性も改善した。これもいつも感じるところ。

③前回同様に確かに爪の色は桃色で循環が良くなっている。肌が少しツルツルしている。

④全体として、回復食の二、三日目に黒っぽい宿便が出るが、ここから体調は一気に良くなってくる。体も軽い感じで朝の散歩(速歩)のスピードも出てくる。心身は調子良くなり、やる気も増してくる。

写真は断食期間の体重の変化です。ざっと4キロ減って2キロ戻り、経験的に何とか2,3ヶ月はこの状態が保てると断食をやってよかったと実感できますね。

参考https://livedoor.blogcms.jp/blog/okaeri33/article/

断食中の体重の変化2rr



台風下のヨガ最後の日

 ベルファームでは健やかに老いていく健育を提案していたこともあり、フィットネス、中でもヨガは人気であった。何人かの講師の先生の中でも人気の佐久間先生は週に十数コマもあちこちで開講しておられた。その佐久間先生に頼み倒して豊ケ丘まで来てもらうことにしたのが2016年1月からであった(世話役を続けていたので記録が残っていた)。早8年半が経過している。ベルファームで参加していた頃は常勤だったのでせめて月に2,3回は参加できていた。
 しかしながら2016年ころからベルファームは非常勤勤務になって行く日数も少なくなってきたので、豊ヶ丘でのヨガのみに参加するようになった。ところが開催日の木曜日はベルファームの会議やたまにある名古屋での講演会などと重なることが多くなり、豊ヶ丘ヨガに参加できるのは月に1,2回、一回のみということも多くなった。元々硬い体は一人ではなかなかできないこともあり、さらに固くなって最近はヨガに行くのが苦行のようなことになっていた。
 それでいよいよ潮時かなと思いながらも遠い松阪からずっと来てもらっている先生への恩義もあり、なかなか切り出せなかったが、この夏25回目の断食をしながら今後のことを考えていて、終活が進んでいないこともあり、80歳になるこの9月前が良い区切りかなと思うようになった。
 最初は十人足らずだった豊ヶ丘ヨガも十二、三人になったこともあり、安定してきたし、数年前から世話役もKさんが担当してくれるようになっていたので憂い無しである。今日はみんなにお礼をいい、ここ数日の部屋の整理で出てきた事務用品でまだ使えそうなものを一人二、三点もらってもらうことにした。また、時々でも来てくださいとか言ってもらったが、一つ考えているのは認定心理士も活かして以前コロナまで続けていた自宅の書庫二階での「健康サロン」の復活である。

心筋梗塞の予防改善にはー石原結實院長

 一つ前のブログに書いたように、ヒポクラティック・サナトリウムの石原結實院長からの年齢制限による断食の断り状には、「病歴伺い」に書いた心筋梗塞の予防改善には、として次の4点が記されていた。
(1) 運動が一番大切です→◯◯◯の血流よくする、◯◯◯を拡張させる
(2) ニラ、ニンニク、ネギ、生姜の多食→血栓を溶かす
(3) 魚介(エビ、カニ、イカ、タコ)をしっかり→含有成分の「タラ◯ン」が血栓を溶かし、血液サラサラに
(4) 適酒→血管内皮細胞より「ゥ◯◯ナーゼ」を分泌させ、血液サラサラに…
などをご励行下さいませ、と。
◯の部分は読み取れなかったのであるが、(1)は続けているが、(2)~(4)はあまりできていない。
 それにしても、一介の質問者に対して丁寧な御返事は感謝のみで、学ぶべき生き方だと思う。


断食道場探索…適切な場所がみつからないということは?

 NPO活動三重スローライフ協会の活動の完全な結了に関してはまだ忍耐強く待つしか仕方のない状況でもあるが、そしてまだこの人には送っておきたいなという人が二三人いるけれど、ここ数年の大きな課題の一つであった仕事が終わりつつあることはありがたいことである。
 放送大学の学習はこれからも当分続けていくことになりそうであるが、ちょうど夏休みに入った今が今後の終活に向けての、少なくとも今後数年の力点を置くべきことの整理には都合の良い時期である。
そうして久しぶりにネットで断食道場を探し始めた。まずは以前から気になっていた伊豆半島にあるジュース断食を主とする「ヒポクラティック・サナトリウム」を調べてみた。断食専門医が運営する断食施設というように院長の石原結實先生は、何故か自分の過去の断食日誌の中にも何度か出てくる有名な人であった。ちょっと遠い340kmほどあるけれど新東名高速道路を通っていけば数時間で行けると、気持ちは勝手に進んでいた。が、ホームページを良く読んでみると、70歳以上の人は問い合わせてくださいとあり、健康状態、過去の病歴等正直に問い合わせてみると、実は内規で72歳以上の人はお断りしているとの石原先生直筆PDFの返事が来た。
 仕方がないので、静養院を始め他の施設を探してみた。静養院はコロナの頃からか臨時休業になっていて、今年の関連SNSに上がっていたのは大正からの珍しい木造建築という建築家の学生たちの訪問があったという記事のみであった。
 そういえば信貴山にもあったようなと探してみると大宇宙教なる宗教団体が運営する断食道場が出てきたが、あいにく今年の2月に出火して臨時休業中であった。8/9
 さらに探していたら長野県の車山高原に「断食道場コーナストーン」という場所が見つかった。標高1500mでいくつかの断食の方法もあり、料金も一泊一万円以下でリーゾナブルであり魅力的であったが、御盆期間は予約でいっぱいだった。
 これは自分でやれということかなと思いつつも、このところ暑さもあり胃腸に優しい煮物など全く作っていないし、回復食を自分で作るのが億劫だと思い、さらに探してみた。すると大阪の町中、大阪城の近くに「桜ガーデンホテル」という医師監修の短期のファスティング施設をみつけた。一週間ほどで十万円ということで、それならあり、かと連絡を取ってみたら、部屋は空いているがお盆は特別価格で十五万円くらいにはなるとのこと。メインは二、三泊の女性狙いということもあり、もう一つ気が動かない。ということは今回は自分でやりさない、ということなのかな。
 高校からの友達との会う時期を先延ばししていることもあり、やはり予定の入っていない8/12から一日予備断食、本断食は3日とし、体調によってはスープ、orジュース断食に切り替えて、後は回復食3日間で乗り切ってみよう。朝夕の般若心経唱え、ルーチンの寝起きのヨガ体操、短時間の片付け、可能なら『記録誌』の返信への返事に取り組もう(優先順位を高くして『記録誌』問題の一段落にしたい)。さらにできればこれから数年の力点の置き方も検討すべし。8/11, 2:20

 

竹細工がつなぐ縁ー松阪東部中学生との出会い

 時々総文の手づくり市に竹製品を出させてもらっているが、7/20運営者の長岡正樹さんから松阪東部中学の先生が竹細工を教えてくれる人を探しているとかでお話聞いてみるのは大丈夫ですよと返事しておいたら、東部中学の2年の生徒が二人竹細工に興味を持っていて来年3月の学園バザーに出したいと言っているので話を聞いてもらってもいいかと学年主任?の倉口先生から電話がかかってきた。
 その後、二人のうちの1人の服部くんがら連絡があり、私がベルファームへ行く7/27の午前中に会うことになった。相当暑い日だったので朝から冷茶を準備しておいた。9時過ぎに母親と現れた服部君の話を聞くと、彼は竹で編んだコースターや竹籠のようなものをイメージしていたらしい。竹籠の類は竹を薄く削る道具とかもないし私たちはやっていないけれど、竹の一輪挿しとか竹とんぼとか竹の物入れは比較的簡単にできるよと、眼の前で一輪挿しを作って見せた。ベルトサンダーだと削ったりが容易だよ。というと学校にはあるから借りられるかもしれないと彼は話した。14歳にもなると吸収力も早いし楽しい時間が過ぎていった。帰り際、私が集めて整理した竹作品のファイルを2冊貸してあげた。次回が楽しみである。7/29

認定心理士認定書が届くまでの顛末

 本日、日本心理学会から「認定心理士認定書」が届いた。国家資格である公認心理師でもなく、広く知られている臨床心理士でもなく、日本心理学会が一通りの心理学の基礎と応用をを学んでいるということを証明する程度のことである。3年半前から放送大学の心理と教育コースで学び始め、三年間で一通りの単位を取って卒業ということになり、もう少し学び続けたいとこの春から人間と文化コースに転コースしたが、とりあえず心理学を一通り学びましたよということを示すには便利かと申請することにしたのである。
 放送大学の2年目くらいに同じなら認定心理士の必要条件を満たすように心理学実験等も取ってきたので軽く考えていたのだが、手続きが大変だった。最初は1月28日に申請のための日本心理学会への登録から始まり、放送大学の成績証明書は三重学習センターですぐに出してもらえた(2/28)が、三重大学の卒業証明書は電子申請のみになっていて慣れないので取得に手間取った。シラバス等も含めて書類を郵送し、これでいいのかと思っていたら3月末頃か、認定の条件は満たしていますが、申請の様式が揃っていないので、これらの点を修正してくださいとのコメントがあり、4月4日に修正申告した。
 ところがその後も修正要請が、何度もあり、結局6月21日の修正が最後となり、6月末の認定審査委員会で通りましたとの連絡が7月5日にあった。7/6-7日は「規範倫理学」の集中授業で手一杯だったので、7/8に放送大学のメールを開き、合格を確認してその日のうちに登録料33,000円(先に審査料は一万円)を振り込んで、認定心理士認定書が届いたのが7月26日というわけである。7/26
認定心理士 (2)
 当初から目指していた資格取得でもないし、取ってこんなにプラスになるというようなものでもないのに、IT操作にいっそう自信を失いながらも我ながらよく我慢したものだと思う。アナログで動いていた世界なら、内容が満たされていれば形式であれこれ言われることはそんなにないのにデジタルの世界はプログラムを組んだ人の要求通りにしかOKにならないのでitが苦手な人たちには難儀な世界である。レストランのタブレット注文くらいならまだお店の人に頼む余地もあろうが、いわゆるデジタルデバイスの操作格差は非常に大きく、一つの大きな社会問題にもなりかねないくらいである。
いずれにしても、私が途中で諦めなかったのは、ランニングで培った習性で走り出したら最後までということなのだろう。『活動の記録誌』がやりきれたのもそんなところかもしれない。
 ちなみに、2023年の3-4月時点で、公認心理師の登録者数は69,875人、臨床心理士は40,749人、認定心理士は70,372人だそうである。認定心理士の認定書とともに、日本心理学会への入会案内や仕事の商会などという情報も入っていた。心理学関係の学会へは以前から入ってみたいという思いもあったので、しばらくでも入ってみるかな。7/28

長くて短い一ヶ月…蘇る懐かしさと宿題の増加

 前回のブログから早一ヶ月が過ぎようとしています。書きたいこと、まとめたいこと、伝えたいことは日々ありながら、頭がスムーズに動かず、目の前のことに追われているうちに、時はどんどん経てゆきます。
 『活動の記録誌』の自分から送る部分の作業も、少し友達に手伝ってもらったりしながらも一言添えたりに時間がかかり1ヶ月半も経過している。赤字の穴埋めは銀行からの借り入れを肩代わりすることになった十年ほど前から覚悟はしていたので、そのことで心が乱されることはほとんどない。ところが、作業の段取りも悪くなり、頭も体もスッスッとは動かなくなり、ミスも多くなって宛名を書き、切手を貼り数通ずつ郵便局に持っていったりしているのが、意外と時間がかかってしまう。
 手元においていた記念切手等はほとんど使って、確かシートの記念切手とか残していたはずなのに見つからず、数千円ずつ何回か切手を買って送ったりしていたが、ほぼ送り終えた頃に残していた切手帳を見つけた。中学の頃から趣味で集めていて、仕事をするようになってからはそんなに熱心ではなかったが、外国に活かせてもらうときにはたいていその国の切手を買ってきているので、日本、外国、使用未使用を含めて数冊の切手帳がある。記念切手なら多少の値はつくのかと思っていたが、古いものだと原価割れも普通とのこと、あまり手紙など出さなくなっているけれど、額面価格では使えるので知り合いにあげるか死ぬまで使っていくのかな。
 そんな後始末作業の実態であるが、前回6/16のブログで書かせてもらった先輩大先生からの励ましのお手紙を始めとして、40名ほどの友人知人からお返事を頂いた。当初亡くなってしまった人には『記録誌』を送る予定にしていなかったのだが、ある時ふっと自宅で話題になっていたこともありうるだろうし、たくさん取り上げた写真に載っている人も少なくない。案の定仲間だった何人かの奥様からお返事いただけて、お送りしてよかったと思った。7/16
 たくさん送ってもらえた返事にはそれぞれその人の生きざまが出ていることが多い。何人かの人はちゃんと総括も読んでくれたんだなあ、とか総括部分に反応してくれた人もいて、苦しんだけれど区切りをつけられてよかったと改めて思って次第である。メールで何人かの人には返信のお返事を書かせてもらったが、蘇った交流を噛みしめるにはまだまだ時間がかかりそうである。
 ここではとりあえず、大学院時代より何かとお世話になった河村能夫氏との再会とスローライフにつながる中でインパクトの大きかった松ちゃんこと松崎了三さんの返事と本のことについて触れておきたい。
 『活動の記録誌』送付の後、何人かからまた会いたいね、という返信が届いていた。その中で私が研究者人生を歩むうえで少なからざる影響を受けた河村氏には7月9日に京都で会ってきた。市内に住む娘に用事もあったからである。彼は出会いをとても喜んでくれたが、衝撃だったのは彼の業績と彼がなしてきたこと、そしてあの1969年の京大闘争の一つのキッカケにもなったかと思われる「京都大学農経大学院学報」の創刊号をコピーして持ってきてくれたことである。
 研究者としてどのように歩むのかのキッカケとも苦闘ともなったこの創刊号の巻頭言「我々にとって大学闘争とは何か」を彼が書き、総括「いばらの道ー農経闘争中間総括ー」を私が書いていた。実はすっかり忘れていた。その時が出発点となった研究者としての姿勢は概ね貫けたし、その現場重視の一つの結果が『三重スローライフ協会 活動の記録誌』でもあったけれど、彼の言わんとするところはこれで終わりと満足するなよ、ということなのだと思う。京都には大学院時代と内地留学一年の計六年間住んでいたけれど、その日に彼が連れて行ってくれた京の料亭は人生最初で最後のような素敵なもてなしの場所だった。少し前から死ぬまでの宿題はいろいろあるなあ、と思っていたところに彼からの無言の叱咤激励は真友の有り難さを再確認する機会であった。7/18
 松崎了三さんは高知県の小さな田舎の馬路村を全国に知らしめた人として私達の仲間でも異色の人だった。ゆず製品を売るのでなく、ゆずを作っている人、田舎の懐かしさと新しい商品の工夫を程よくミックスして人に伝えていくスタイルが送ってもらった手紙(下記)からも分かるユニークな人である。そして一緒に送ってもらった彼の仕事の一つの集大成ともいうべき『起業家に贈るマーケッティングの詩50選』は商いの原典ともいうべき珠玉の言葉の宝庫であった。先週の土曜日7/13久しぶりに地域と協同の研究センターの理事会に出席させてもらった電車の行き帰りで貪るように読んでしまえた。
 IMG_2257私たち松阪農業公園ベルファームの管理運営も現社長と専務が協同組合出身で、地域とともに、三方良し(五方よし)の精神で日々研鑽しているけれど、改めて原典の考え方を振り返ってみるいい機会なので、次の日に社長に手渡した。松ちゃん、振り返りの機会をありがとう!7/19 (re8/17)



今年も老舗菓子店のお手伝い…ようかん竹作り

 もう数年以上前になるが、竹仲間の西山さんが引き受けていた柳屋奉善さんの羊羹竹作りを私たち仲間で引き受けてきた。多いときには十人もの人が参加してくれていたが、倶楽部設立9年目になり、当の西山さんをはじめ仲間3人を失い、それぞれに歳を取って大抵の組織でそうであるように若手の補充が難しいのでより大変な作業となってきた。それでも6月に入って奥様から300個の依頼があったので、仲間と相談してみますと答えた。なんとか今年もやろうということになって、晴れの日を探して、14日は香良洲の布袋竹林で数十本の竹を切ってきて、午後もやろうということになって200個プラスアルファを仕上げて、カビが生えないうちにということでその日に納入してきた。6/18
 続きは16日のし残し分の完成とまだ使えそうな伐採してきた布袋竹から午前中に都合170個あまり出来たので、契約の残り100個分と竹遊倶楽部用に作ってもらう竹羊羹60個分ハネを含めてその日に170個あまりを納入してきた。今は一個50円もらっているが16日だけでも7人が朝から7時間かかっている。18日は5人が3時間、届ける時間なども合わせると70時間はかかっている。
 適当な大きさの布袋竹が一番竹羊羹に合うが、これを節の下から12-13cmに切り、ベルトサンダーで角を取って、白いカビが付いている部分や汚れをぬので落とす作業を仲間の流れ作業でしているが、1人や二人ではとても出来ない仕事である。経済的な請負仕事としてはとてもやれるものではない。
 かかっている手間からすれば一個50円は安すぎるけれど、私たちが始めたきっかけの一つは四百年続く地域の菓子屋さんの伝統的なお菓子作りに協力して少しでも良き伝統の継続に協力したいことである。いろんな分野で起こってきている事柄であるが、効率や金儲け基準だけであると伝統の継続はとても大変である。いつ頃だったか依頼主の菓子屋さんが貴方がたが羊羹竹を作ってくれなくなれまば竹羊羹を続けるのは難しくなるだろうと言われたことがある。だから竹羊羹もプラスチック製になったり廃れたりしていくのである。
 ベルファームの竹林維持管理だけでも私たちがやれなくなれば放置竹林に戻る可能性は大である。今後益々人口減少が進んでいく中では、それは止むを得ない事かもしれないが、可能な限りは維持したいものである。6/21
 

『三重スローライフ協会 活動の記録誌 2003-2021』の完成と反応

 2022年3月31日(2021年度終わり)にNPO法人の解散届を出してから間もなく、主に広報担当の森本理事との間で進めた「活動の記録誌」は5月の半ばにほぼ完成していて、発送もほぼ半分は森本さんに手伝ってもらえることになり、私が担当すべき200部の冊子が自宅に届いたのは5月27日だった。
 それから日々いろんなことに追われながら、挨拶文への一筆とか、宛先も手書きで書き、切手収集で集めた記念切手とかを貼ったりしていてなかなか進まないのだが、その後の経過についてもまた整理したいと思っている。確か6月6日にお送りさせていただいた大先輩の先生から思いもかけないお言葉をいただいた。それは私たちの今後の活動にも力になる内容なので共有させてもらいたい。(以下アンダーラインは筆者)

◯その一。高橋正郎先生から
  このたび『三重スローライフ協会 活動の記録誌』をご恵贈賜り、誠にありがとうございました。
 貴殿は、学者・研究者であるとともに、根気ある「活動家」として、その実績をあげてこられ、常日頃から尊敬いたしておりました。
 この冊子は、その「活動家」としての実績を簡潔にまとめられ、多くの写真が挿入されたの冊子で、その20年間の歴史が手に取るように読めます。
 なお、何事も「ことはじめ」は簡単ですが、「ことを納める」のは容易なことではありません。しかし、貴殿はそれを為し遂げました。
 私にも経験がありますが、NPOはその活動資金のやりくりがむつかしく、貴殿の「総括」の末尾にあるように、「精算では147万円のマイナス・・・・20万円を岩森理事、残りを」貴殿が負担したように記載されております。まさに自腹を切っての「活動」であったことと読み、あらためて敬意を抱きました。
 「スローライフ」というキーワードが、マスコミに一次は取り上げられましたが、その後、忘れられたように目にしません。しかし、三重をはじめ、草の根の活動として、各地に根付いているものと信じています。雑草のようにそれがジワジワと拡がることをゆっくり待ちたいと思います。
 いずれにせよ、長い間ご苦労様でした。この冊子は“有終の美”として末永く残ることでしょう。

◯その二。樋口貞三先生から
 
『貴重な冊子をいただきました』
♦三重大学名誉教授の大原興太郎先生から『三重スローライフ協会:活動の記録誌2003-“た2021』が送られてきました。年賀状もやめた現在、交流が途絶えていましたが、お元気に地域の強力なブレーンを務めておられたことをしり、敬服するだけです。イタリア発、1980年台の“スローフード宣言”は日本でも大きく取り上げられ、それを根とするさまざまな運動の種となったと理解しておりますが、それとの関連はともかく、大原さんの20年に及ぶ活動の記録、そして“種を渡す”という区切り方に大拍手を送りたいと思います。長いことご苦労様でした。新しくまた種が花開き、実を結びますよう、お祈りしております。

◯お二人から学ぶべきこと。
 農業経済分野の著名な研究者で教育者でもおありのお二人は卒寿あるいは少し超えられた大先輩である。受取から日を置かずにポイントを絞った内容を後輩に伝えることは、私が勇気づけられたようにできるかぎり見習いたいものだと思う。お褒めの部分は割り引くとしても両先生が教育者としてもずっと見守っていただいていたからだろうと思う。研究者としてはほとんど何もなし得なかった身としてはせめて教育者としては後輩たちを見守りたいとは思っているが、その思いを改めて喚起させていただいた。

「ケチ」、モノを活かし切るということについて

 5月21日開催のスローライフの会の月一回のさんか・さろん(139回)にズーム参加した。エッセイスト小笠原洋子さんの「エレガンスに『ケチ上手』」がテーマであった。いつも気になるキーワードなので改めて国語辞典をひいてみたところ、ケチ、吝嗇(リンショク)とは、①金銭や品物を惜しがって出さないこと、②粗末なこと。劣っていること。③縁起が悪いこと。悪評。(小学館『現代国語例解辞典』)また、岩波『国語辞典』第二版では、イ、必要以上にものを惜しがること、または人。ロ、みすぼらしく、くだらないこと。ハ、景気が悪いこと、とある。辞書が古いこともあるかもしれないが、おおよそマイナスイメージにつながることしか書かれていない。ある意味ちょっとショックです。5/22
 さろんでの小笠原さんの主張は、「エレガンスに『ケチじょうず』」、「太平洋戦争の戦時下を生きた私の親たちが、終戦後も懸命に貧しさをかいくぐって生きた生活のヒントを、私は尊い精神的遺産として、今後の世界に向けて伝えたいとも思っています。」(さんか・さろん用メモ)、「そして軽いお財布とシンプルな暮らしを、楽しむまでに高めるには、アイディアを駆使した生活スタイルの中にあるような気がします」と。
 自分にはエレガントさは縁遠いかもという自覚はあるが、生活スタイルとしては全く同感である。高度経済成長期のカネカネのスタイルに多少はなびいても完全には魂を売り渡さなかった人々、あるいは古い世代には共感することが多いことだろうと思う。そして一日千円の出費目標というのも分かりやすくていいなと思った。
 小笠原さんのお話に触発されながら、自分の生きてきた過去とそのスタイルの淵源をいろいろと考えてみた。ちなみにさろんでも発言させてもらったが、私も一ヶ月の飲食費は平均すると3万円以下で済んでいる。この中には仲間に時々差し上げる果物ジャムの素材費やごくたまにカレー十人分ほど作っていったりする食材費も入っている。別に我慢しているわけでも何でも無いが今の一人暮らしの中で自然体で暮らしている結果がそうなっているのである。
 改めて振り返ってみると、自分が農家の生まれで小さい頃は基本的に自給的生活をしていてそのスタイル(もったいない、モノは可能な限り活かして使う)が身についてしまっている。食べられるかどうかは賞味期限ではなく、モノの状態を見て判断するクセになっていること。買い物も子どもたちの弁当を毎日作っていたときには賞味期限も見ていたが、子どもたちが家を離れて一人暮らしになってからは期限切れ近いものから買うようになり、結果として値引きしていることが多く節約になっている。1970年頃家から月に一万円もらって京都で院生生活をしていた時に、ある時倒れて病院に担ぎ込まれて栄養失調だと言われた経験があり、その後アルバイトも見つかって生活は改善したが、自家の苦しいやりくりの中、教育費としてもらっていたので貧乏性(できるだけ始末して生活すること)が身についてしまった。
 いろんな事情で一人子育てをすることになって、周りに気を使うこともなく意思決定が気楽になり、さらに一人暮らしになってからは「メニュー」ありきではなく、ほとんど「素材」ありきで調理するようになった。自ずから旬のものが多くなり、結果として食材費も低くなっている。定年後は直売所を運営しているところにいるので、なおさら旬のものがお値打ちに買える。このような好条件が結果として食品ロスの減少にもつながっていると思うので有り難い。
 本などを含めなかなか物を捨てられない理由の一つに物との付き合い方があると思っている。ものに愛着が湧きやすいということもあるのかもしれないが、基本的にはモノを活かしきりたいのである。タオルが汚くなりかければ、雑巾にして、それも駄目になってくれば汚いものを拭き取って捨てるといったカスケード利用をしてでも使えるものは活かしたいのである。職場の体型の似た後輩にあまり着ていないクリーニングをかけた背広などもらって頂くのは嬉しいのだが、使えそうなものはなかなか捨てられない。
 大学の定年退官時に在職36年間に私費で買っていた数千冊の本を持ち帰るために退職金を半分使って書庫を建てた。定年後にゆっくり読もうと微かに考えてはいたが、請われて農業公園の管理運営に携わることになり、その夢も実現が怪しくなっている。本は少なくともはじめにと終わりには見て買っているが、ここまでになると集めるのが趣味みたいなもので、別の人からみれば"もったいない"の極みかもしれない。今時あちこちの図書館も書庫が一杯で寄贈しようにも受け入れできないとのこと。元の学生や留学生たちに時々もらって頂く以外、本の活かしようが思いつかないのが悩みの一つである。6/5

GW過ぎて、エネルギー尽きて…生きている充実感はあるが

 令和6年度の初めの一ヶ月があっという間に過ぎ去った。
放送大学は心理と教育コースを卒業できたあと人間と文化コースに転コースし、科目は少なくしたが集中以外4科目の授業が始まった。夏野菜の苗も植えてキューリとミニトマトはよく育っているが、ブロッコリーは早丸々虫に食べられてしまった。花の鉢を増やしすぎてベルファームに持っていく切り花には困らなくなったが管理に結構時間がかかっている。日差しの中での作業は楽しいが少し縮小しないと…。そういえば既存の巨峰の木が枯れたかと思って買ってきたブドウ苗が育ってきたが、枯れたと思っていた巨峰の幹から新しい芽が出て伸びだした。ブドウの生命力に感動である。
巨峰枯木の新芽シャクヤクとクレマチス菜園











 ゴールデンウィーク(GW)は予定を詰めすぎて、歳をあまり考えず動きすぎた。そのツケはすぐ翌日七日に出た。腰・背中の張りが強くかなりひどい腰痛。昨日は少し早く帰らせてもらってマッサージをしてもらい温泉でほぐしたにも関わらずである。何とか腰をかばいながら食事準備とか庭の花の水やりとか最低限の動きをしながら後は横になっているという具合だった。睡眠も長めに取ったがほとんど改善の兆候が見られず、今週に予定していた姉の施設訪問や京都にいる娘にスーツケースを届けるのも取りやめ、木曜日の会社の会議も休ませてもらうことにした。GWが過ぎて早4日目、散歩もひかえているが腰は多少マシになった程度。12日はベルファーム手作り市に参加の予定なので腰ベルトのママでも行くことになろう。
 それでもGWは充実感のある日々だった。5/5の竹林街道ウォーキングは4回目。今年の参加者は21名と30名の低イン切れではあったが、これまでのように筍弁当を楽しんでもらい、参加した子どもたちはその後ダーツやゴム鉄砲遊びも楽しんでくれた。(5/9)
 5/3夕方から5/5の朝までは一年余りぶりに息子家族3人が帰省。5/4は孫の希望で名古屋のリニア・鉄道館へ4人で行って孫の成長ぶりが見られたのは幸せだった。息子には相変わらず、これは危ないとか、選んでいないでみんな捨ててしまえとか言われるのだが、ITには強いのでパソコンやスマホの使い勝手を良くしてもらえるのはありがたいです。普段は1人で好き勝手しているので、思う通りにしかない経験ができるのも有り難いことかもとも思います。
リニア鉄道館でアーバンライナー (3)











 もう一つGWの休み中にできたことは、放送大学の受講がきっかけでお会いさせてもらい、時々スーパーバイズも受けることができた臨床心理士(家族療法学会の認定ファミリーセラピストでもある)のW先生の岐阜の山の家を訪問できたことである。山間部の傾斜地に娘さんが経営する喫茶店を兼ねた素敵なところだった。自然木を利用したツリーハウスがあり、見晴らしが良くてスローライフを楽しめるところだった。ジャムや竹の手作り品をお持ちしたが、手作りのジェラートが素敵な味だった。(5/11)
 ツリーハウスと見晴らしの良い山の家ツリーハウス (1)w付知の菜園から

寝食、苦難を共にした留学生たちとの関係は時を超える

 コロナが始まって日本でマスクが市場からなくなったときに中国からマスクを送ってくれた程士国さんから、「4月1日に三重大学の中国学友会約30人は三重大を表敬訪問する予定ですが、王初文さん、李梅梅さん、樊輝さん及び私はそのツアーに参加しております。もし先生のご都合が良ければ、3月31日午後、大原先生研究室のメンバーは先生との話合会を行いたいです。」とのメールが届いたのは2月28日だった。その後のやり取りで3月30日お昼に自宅に来てもらってカレーでも作るからということになった。
  程さん、王さん、ファンさんは中国でも会っているが、李さんは1991年頃の修士終了以来なので33年ぶりである。当初は彼・彼女らの身元引受人にもなったりし、ゼミ合宿ではみんなで温泉宿に泊まったりして何とか論文が書けて修了できるようにと共に闘った戦友みたいなものである。そうしたベースがあったからだろうか、あっという間にとても賑やかな関係に戻った。
経営留学生書庫二階経営留学生夕食




 

  我が家での交流   彼らからの夕食招待

 自宅に来てくれたのは研究室出の4人にそのつれあいと友達の合計6人だったが、彼、彼女らがとても仲がいいのも嬉しかった。カレーの他に自作のらっきょう漬けや梅酒も提供したが、もともと食の細かった一人がカレーを少し残したほかは全部喜んで食べてくれた。そして食べた後はうまく分担して食器も洗ってくれたので、後片付けが少なくてすみありがたかった。
 4月1日の生物資源学部での三重大学との座談会と大学食堂パセオでの交流会には中国からの留学生30名と大学側や日中交流協会の数名ずつも参加して賑やかだった。
 留学生たちは銘々が心尽くしのお土産も持ってきてくれたので、我が研究室の卒業生4名の一人一人に少しのお菓子と共通のメッセージとそれぞれへのメッセージを届けた。
留学生への手紙
留学生一人ひとりへのメッセージ(左)

経営同窓生四季折々留学生交流会で






三重大での交流会
           (程さん、李さん、王さん、ファンさん、社会人博士の山内さん)

  30日と1日の2日間、場所を4箇所移動しての濃密な交流の時間だった。まさに「友遠方より来る、また楽しからずや」である。心身が衰えている自分には疲れるくらいの楽しい時間であったが、それは単に楽しいということではなく、人としての深い交流があったからこそなのだろう。数年前に程さんにあったときに彼から、当時の先生は簡単に声をかけられないほど怖かったですよ、といわれてびっくりしたことがある。
 博士の学位を目指していた程さん、ファンさん、山内さんは3つ以上の学術論文(学会誌論文など)を出した上に博士の学位論文を書き上げねばならなかった。そして私の63歳での定年という時間の縛りがあった。一人ひとりの学習スケジュールを相談しながらの闘いであった。山内さんが留学生たちが来ることを聞いて会いに来たのは同じ苦闘を経験した者同士だからであろう。ファン君とは緊張緩和によく極楽湯にも連れて行ったが、彼はその後研究室に戻って論文を執筆し、研究室の窓から朝日をみたことがよくあったという。
 留学生を受け入れ始めた1990年代はじめ頃の李さん、王さんへの対応は戸惑いながらもまだ余裕があった。私は家庭的にはいろいろあったが、安定期で子供の弁当を作っていたくらいでまだ余裕があった。これが2000年代に入ると仕事が多面的に増え、特に定年間際の数年には博士や修士をめざす留学生が毎年数人以上いた上に、講義やゼミのほか、いくつかの社会的な役割(審議会委員やスローライフ活動等)もあった。さらに、学部の4つの付属施設の再編でフィールドサイエンスセンターを作り、その初代所長(2期4年)を務めていたので、忙しさは半端ではなかった。必要以上に留学生や研究生に厳しかったとしたら申し訳ないことだった。それでもお互いにギリギリの中で頑張れたからこそ今のようなつながりに結果しているのだと思う。4/4


放送大学の学位授与式に参加してみて

 年度末はいつもあれやこれやで時間が過ぎてしまうなあー。人生の残り時間はどんどん短くなっているはずなのに、自分の行動を振り返ってみると、あれもしなきゃこれもしなきゃであっという間に年度末も押し詰まってまさに「光陰矢の如し」である。三年前に放送大学教養学部の心理と教育コースの2年次に編入して三年が経ち、今年3月卒業ですよという連絡が本部から届いたのが3月はじめ頃だった。最初から心理学を総合的に学びたかったけれども卒業はほとんど意識していなかった。3/26
 それからまた書ききれない内にあれこれの予定が入って10日も経ち、途中まで書いた原稿がよく消えていたりで冴えない日々です。いい加減にこのへんで決着を。
24日の放送大学学位授与式に出席してみての大きな収穫は、放送大学教養学部の6つのコースを全部卒業した人が、その日出席した人の中にいて、後の交流会には同窓生の中にさらに二人もおられたことだった。80歳を超えての卒業者には梅川センター長からの特別賞が渡された(その日の最高齢は86歳、同窓会の交流会には90歳の人が参加されていた)。79歳の私などまだまだであることを実感させられた。
 
学位記授与式梅川センター長と (1)学位記
 





立派な学位記にカーネーションも




   梅川センター―長との写真

 私の現役時代にもあちこちの大学を卒業するのが趣味?のような人がいた。それはそれで立派なことだと思うが、私はもう少し欲が深いので、学んだことを何とか社会に活かしたい、少し考えていることがあるので夏までには実行に移したい。4/4

久しぶりの一日二万歩ー自然生芋こんにゃく作りの日

 2月17日、野菜ソムリエのNさんに参加してもらう都合で土曜日の開催となり、竹仲間8人が参加した。まとめきれぬ内に次々と予定の消化のような事態で早一週間が過ぎ去ろうとしている。
 当日はいろいろとすることが多かったので、地区でのラジオ体操の後、芸濃インターから高速に乗って8時10分にはベルファームに着いた。すぐに南駐車場を始め、園内諸施設のある一角の周辺のゴミ拾いをして、花生けは半分だけ済ませて、竹仲間が集ってくる時間に木漏れ日広場に戻り、生芋こんにゃく作りは11時からなので、それまでにこもれび広場でこんにゃく芋を湯がいて準備する(ほとんど笹原さんがやってくれた)とともに、いつもの私たちの食事場所になっている八角テーブルの丸太椅子の取替作業を行った。(2/25)

入り口renewalニュー八角テーブルimage0










 
  2月11日に森林公園に倒れた木の丸太があり、園長が持っていってもいいよとのことで数個は運んでいたが、少しテーブルに比して低かったので、チェンソーを持ってきてくれるUさんが来てくれることもあり、森林内に転がっている少し長めの丸太から椅子を切り出すことになったのである。大工のMさんが座る位置を大型カンナで丸めてくれていい感じになった。
 11時からは技の工房で「生芋こんにゃく作り」昨年だったかにまとめているステップとあまり変わらないのであるが、二鍋作って最初は少し竹灰汁の割合が芋の3割程度に留まってしまって少し柔らかめになった。灰汁との割合や湯で時間などでなかなか難しいところがあるが、石灰などで固めたものと比べると独特の噛みごたえがあるように思われる。今年使った芋は4、5年ものであるが、栽培から含めると随分と手間がかかっているが、まさにスローフードでその分味わいがある。
こんにゃく作り20240217 (2)こんにゃく作り20240217 (1)






 こんにゃく作りは13時すぎまでかかり、それから昼食のお弁当をみんなで食べて、一応解散になった。何人かが後始末などを手伝ってくれたが、みんな帰ってからも八角テーブルの丸太椅子のまわりにNさんが仕入れておいてくれた赤瓦チップを撒いてちょっと見られる感じになった。その間にも15箇所ほどの花生けをいつもどおりしていたりして動き詰めだったのでほぼ二万歩にもなったのだろう。(なんか次から次へとやることがあって半月以上もかかってしまいました3/6)

入り口renewal入り口花鉢 
綺麗になったこもれび広場の入り口

ヤバい!と思いながらも動き続けてしまう習性

 相変わらずまとめたり整理したりするのが苦手で、日々ブログにしてみたい内容を思い描き、ストーリーを考えてみたりすることは多いのに、いざ書くとなると抵抗感(それに時間がかかりすぎる?)が生じてバスしてしまう。
 昨日(2/11)は竹遊倶楽部の合同作業日だった。案内以外特別に呼びかけなかったが6人集まってくれた。1月に園長から環境整備などにボランティア活動支援金を頂いたこともあり、前々から考えていたこもれび広場をもう少し来園者が来やすい場所にするための花の植栽等をすることにした。Kさんが6個のプランターを持ってきてくれたので、今日参加してくれた女性陣二人と共に花植えをし、N.Tさんが買ってきておいてくれた赤瓦チップを花壇の周辺に敷くことにした。
   こもれび広場の入口付近から鬼が池側の手すり近くの植え込みの区画にはまだ落ち葉がたくさん残っていて、笹もかなり生えているのでその整備が先であった。
 8日の経営会議の始まる前にベルトサンダーを使って燻竹楊枝の少し長いセットを作っているときも腕や昔痛めた肩がかなり痛かった。特に右腕は生活の中で使わざるを得ないのでマッサージや温泉でもみほぐしていてもなかなか治りにくい状態だった。
 それでも動かせば動くのでみんなと作業している時にはどうしても無理をしてしまう。この日は午後の13:30から学士会関連の「人間の本質に迫る医学とスピリチュアル」のズーム講演会を入れていたので、昼過ぎには帰らざるを得ず、朝は高速を使って8時過ぎにベルファームに着き、ルーチンワークの園内3箇所15本の一輪挿し等を済ませ、上記の花植えの段取りだったので、いつものコーヒータイムはつくりながらもほとんど動き詰めだった。作業中も特に右腕は痛んでいたが、何とか思っているところまで進める習性のお陰で一応の格好がつく程度にはできあがった。火の始末だけNKさんにお願いして、帰りも高速道路を利用したがズーム講演会は始まっていた。
 帯津良一氏と高野覚の対談風でのやり取りは頷く点が多かった。ホーリスティク医学の大事さ、薬やエビデンスに便り過ぎの現代医学への批判、死生学の大事さ、「生きる悲しみを敬う」ことの意味など。
 何とかここまで終えたが、さすがに肩はガチガチ、腕は痛む、腰や背中もつらいので、マッサージ店なごみのTさんに40分してもらい、極楽湯でもみほぐして帰った。それでもあまりほぐれず、熟睡できずによく覚えていないが、いろんな夢を見て寝返りばかり売ってシーツがくちゃくちゃになっていたからかなり疲れていたのだろう。今朝は一瞬散歩止めておこうかなとも思ったが、ベッドでのカイロプラティックを念入りにやって普通に速歩できたのでまず一安心である。
 昔から好きなマラソンでどんなに足やお腹が痛くても全力で完走することは続けられた習性のおかげかな。2/12(2/22re)

出さなくても届く年賀状に改めて感謝!

 一昨日放送大学の後期のWeb試験が終了した。やっぱり気が楽になったので、先延ばしの仕事を進めねばならない。二、三年前から年賀も失礼するようになっているが、それでも今年も30通あまり届いた。ほとんどが一言以上書いて家族や仕事の様子を知らせてくれる人たちでありありがたい事である。ほとんどできていない終活などやることは多く、空いている講演を聞きに行ったりすぐに予定を詰めてしまうけれど、基本的には自由度が高いので会いたいと言ってくれる人にはぜひ会いたいし、ブログを見ているよと言ってくれる人もいるので、こちらも伝えたいことをもう少し要領よくまとめられるようになりたいものです。
 子どもさんが大きくなったと家族写真を送ってくれる人が何人かいますが二十歳近くの娘さんと40-50代のお母さんが写っていると兄弟姉妹かと見間違うことがよくある。私たちの子供時代の50-60代のじいさん、ばあさんは腰が曲がっている人が多かった。この半世紀あまりの間に農作業も機械化されたし、栄養は良くなり、化粧品の質も良くなったので、今や70-80代でもきれいな人が少なくない。もう一つの要因はずっと平和が続いてきたこともあろう。
 その平和で安心した社会を崩すのは戦争を含む国際的な紛争であり、致命的な自然災害である。ロシアのウクライナ侵攻、イスラエルとガザの問題(今回の引き金はハマスだとしてもイスラエルのガザ空爆は目に余るものがある)、アフガニスタンもまだ復興には程遠いし、シリア、リビア、イエメンなどの内線も解決していない。その上異常気象の常態化によるさまざまな自然災害が発生している。猛暑、森林の大火災、洪水、そして地震、元日に起こった能登半島地震は時を経るごとに被害が増大し、地震の被害を増大した火災についても初期消火がうまくいっていればこんなに広がらなかったのではということも言われている。とりあえずは募金をすることくらいしか出来ないのであるが、三重県人としてはまだあまり危機感のない南海トラフ巨大地震への対応を呼び起こしてくれるものでもある。
 マグニチュード8-9クラスの地震の30年以内の発生確率は70-80%(2020.1.24時点)とされている。自宅にいる時に起こるとすると津波の心配はないとしても住宅の古い部分はもたない可能性があるし、水や多少の食料、燃料用の竹炭の数日分はあるとしても、電気や水道ガスなどのインフラが長く使えないとすれば、そして地域であるいは会社でどのような緊急対応ができるのか…、まだまだこれからの課題のようである。1/26

卒寿に記念出版本を出した方に勇気づけられて

 卒寿といえば90歳である。昨年の竹文化振興協会の総会が京都であり、1人で参加した時に、長く(40年)京都大学演習林の文部技官を務められ、その後も竹文化関係のさまざまな活躍をしてこられた渡邊政俊先生が卒寿祈念に出版された『竹とともに生きた我が人生』というご本をいただいた。いつも追われているような生活の中でペラペラとめくって凄いものを出されたなあ、との印象はあったが、竹仲間に紹介したくらいでそのままになっていた。
 今回、村落研究学会のメールで『年報 村落社会研究』60集における各分野の研究動向執筆に関する業績情報提供のお願い、という内容があった。多い時には15あまりも入っていた学会研究会もどんどん減らしてきて、今や村落研究学会と最初に入会してずっと続けている地域農業経済学会、それに先祖が関係していたらしいということで数年前の設立以来入った国際忍者学会の3つには入っているだけで学会活動らしきこともしていない。
 それで渡邊先生のご本はタイトルからすると随筆みたいで研究とはみなされないかもしれないけれど、実地に世界中を歩かれて各章に引用文献もつけられているこの本の価値を先ずは提案してみたいと思った。たまたま[林業および林業経済・経営]という分野を担当されているのが林田朋幸さんで以前に彼の学位論文の作成に関する調査でほんの少しお手伝いしたことがあり、面識があったので渡辺さんの本の奥付と目次などをメールでお送りして対象になるかどうかを尋ねてみた。そしたらすぐに読んでみたいとの返事があり、渡邊先生と竹文化振興協会の事務局に連絡を取り、一冊寄贈してもらえることになったのである。ある意味周辺部にいる私だからこそ取り次げたのではないかと、人のことながらちょっとヤッタという満足感があった。少なくとも料理をたくさん作って近所に上げたり、売れない竹細工を作ったりしているよりは自分の仕事をしたよな、という感じなのである。
 スローライフ活動の個人的な振り返りや次世代に残したいことをいろいろと考えたりするが、仕事を先延ばしばかりしている現状に諦めが先に立っていたのだが、渡邊先生の本を読み返したりして、まだ諦めちゃダメだとダメ太郎さんに叱咤する自分がいた。1/18
image0

今の子供たちに見る希望ー楽しいお正月から

 ベルフアームは元日のみ休みで、1月2日と3日は「楽しいお正月イベント」。お餅つきは相変わらずの人気で園長自ら手返しをして対応している。お正月遊びということでコマ回し、羽子板、けん玉を提供し、少し前までは子どもたちを呼び寄せるために〇〇選手権とかで上位者に景品を出したりしていたが、今年はスタッフの人手が足りないこともあり、遊び道具だけ広場に出していた。それでも自由に随分と遊んでいた。今は子供でもスマホを持っていてよくゲームをしているのはその通りなんだろうけれど、むしろ逆に体を動かして遊ぶことが却って面白いのかなと思ったりする。
 2日の日、木漏れ日広場に遊びに来た家族連れがいた。最初小学校高学年くらいの女の子が竹馬に挑戦して数回の試行錯誤の後見事に乗りこなした。次いでその母親と思しき人もやはり数回の試行錯誤のうち乗りこなした。まだあまり歳を意識していない自分は試みてひっくり返り後頭部を打ったりしていたのに、若い世代に脱帽である。若い人たちはブレイクダンスとかジャズダンスとか複雑な動きするバランス感覚とか体幹が優れているなと感じることが多く、大谷に限らずいろんな分野で世界と闘っていて凄いなと思う。将棋の藤井名人のようにAIをこなした上で人間的能力を高めている人も少なくない。高齢者からするとえらい時代が来たものだと思うが、若い人は新しい時代を作っていくのだろう。
 image0

今年の方向性を暗示する一枚の紙

 12月の後半もあれこれの予定が入っていて整理しまとめてみたいことがいろいろとあったが、日々の生活優先と体調維持の散歩、食事、マッサージ等に時間を取られていたらいつのまにか年が超えていた。食事の片付けなどをしながらチラチラと紅白歌合戦も見ていたが見終わらぬうちに疲れもなお溜まっていたか22時すぎに床についた。夜中に一度トイレに行ったが…、いやパソコン作業をしながらいつのまにか打とうとしてしまい2時頃目覚めて再び眠くなるまで1-2時間作業していたのは一昨日のことだったのかな?最近、すぐに思い出せなくなるし、意識が混濁してしまう。
 いずれにしても今朝(元日)は六時半の定時目覚まし(ふつうその30分か一時間前に起きて布団の中でヨガ体操のある部分をしているが…)には気づかず、起きたのが7時47分。とりあえず外出着に着替えて最近のルーチンになっている地元の須賀神社にお参りをする。好きだった運転も結構疲れるようになっているので交通安全のお守りを取り替え、おみくじをひいた。
 第二十三番の「大吉」。昨年の暮れころから、自分は何がしたいのか、何に時間をかけるのが周りにも自分にもいいのか、を考えていていくつか気づくことがあった。おみくじの内容はある意味それを後押しするようなものであった。もちろん凶が出ても、こういうことに気をつけろということだなと勝手に解釈するのだが、弱い人間にとっては何事も客観性を失わないようにしながらも前向きに捉えていく方が都合がいいのである。
 その内容は「興奮と刺激の多い時。幅広い交際が道の扉を開く。今こそ積極的に出れば、大きく花開く像。口論議論避けて賢明。追い風を利用せよ。」である。そして、個別の項目をつまみ食いすると。◯願望 慎み叶えられる。◯失物 出てくる。◯争事 口は災い。◯学問 一心に勉強を。◯待人 来る。◯旅行 朝に難あり。◯病気 安静がなにより。さらに私にはほとんど関係ないがベルファームがそうだったらいいなということが…。◯商売 利多い。◯求人 良き人あり。
 私の子どもは「お父さんはずっと好きなことをしている!」と思っているようで、それは間違ってもいないけれど、田舎で長男で育って父親がずっと仕事で家を出ていたのでその代わりとして親戚の冠婚葬祭の出席や部落の常会などにも高校生の頃から家を代表して出ることが多かった。そんな中であれこれと気働きができるようになった。実はこれはよし悪しなのであるが、忖度の文化に馴染みすぎたとも言えるし、あまり座を乱さないで自己主張が苦手に育ってしまったとも言える。だからどうしても周りや集団の中で自分が何をするのが全体がうまくいくのかと考えすぎてストレスが溜まることもある。自分のしたいことを後回しにして集団の中での役割を優先したとしても、その意味を納得して腹が座っていれば何も迷うことや悩むことは無いはずなのである。
 12月の半ば、一人参加が可能な一日バス旅行(今年からはじめ、二回目)に参加したが、バスに乗っている時間が長いので、たくさん買っていてちゃんと読めていない河合隼雄氏の本を持っていったが、引き込まれるように読めて大きな収穫だった。そこで再確認したことは、「中心を外さずに、ただそこにいる」ことで数えきれない心の病の患者さんを治されてきた凄さとそのことの大事さである。信頼関係ができ、心のコミュニケーションができるようになってくるとその人自身の自己治癒力が活性化してくるとも言えるだろうか。学者としても一流であるが、臨床の現場を大事にし、心を病んでいる人が一人でも多く治っていくことを自分の使命とも考えておられたかにみえる河合先生の生き様は心を打ち、残り人生の力を注ぐべき事柄へのヒント、出来不出来に関わらずやりうることがあるとの啓示があった。元々農業経営の研究でも現場を大事にしてはきたし、そこから教えられることも多かったけれども、中心を外さずにただそこにいる、ということの凄みに、改めて戦慄するものがあった。
 それともう一つは昔からバスには酔いやすかったのに、歳をとって三半規管の感度が衰えたためなのか、車酔いの気持ち悪さを遥かに超える本の面白さがあったためか、久しぶりの読書三昧の時間だった。これまで車に乗り出して数十年、国内旅行といえば自家用車であったし、友達と行ってもほとんど自分が運転しているので、その間は何もできない。でもバスや列車の旅行なら道中本が読めるなというちょっとした発見だった。
 ここまで読み返してみても方向性の暗示に関する中身がかけていないのであるが、昨年の総括と今年の目標に関わる問題でもあるので、もう少し整理できた段階でまた伝えることとしたい。
記事検索
月別アーカイブ
プロフィール

コーおじさん

カテゴリ別アーカイブ
タグクラウド
QRコード
QRコード
  • ライブドアブログ