コーおじさんの種まきブログ

定年の随筆集「農、教育、人生ーコーおじさんの七転八倒半生記ー」のその後、スローライフ協会の五つの種まきと松阪農業公園ベルファームのできごと、また人生についての「つぶやき」を、月に数回程度を目処に書いていきたいと思っています。ご意見・感想をいただける場合にはkohara@xf6.so-net.ne.jpへお願いします。

体が丈夫だった人は体の不調に弱いのかな?

 歳を取るとたいていどこかに問題を抱えていて、病気や不調と上手に付き合っていくのが必要なんだろうとは思う。開腹手術をして以来まもなく4ヶ月になるが、何かスッキリしない状況が続いている。ここずいぶん長く熱が出たこともないし、外科的な手術は受けても一、二週間、せいぜい一ヶ月もすれば普通の状態に戻っているので、こんなに長く続く不調を受け止めきれていないのかもしれない。
 腹の底からの続く咳、大隔膜がひきついて起こるしゃっくり、長く続く食欲不振と嘔吐感、その上一週間前くらいから始まった坐骨神経痛による足のしびれ、等々。散歩はできるし、少しは気にしながらも運転も慎重になるものの普通にできる。自分として何となく許せないのは何となく気になることが多くて、それらを仕事や片付けが進まない暗黙の理由にしているのじゃないかということ。
 足のしびれは3/10に診てもらったモミの木整形外科で出してもらった薬を四日飲んで少し緩和してきた。何度かお腹のCT検査は受けてきたが、よほど病状が進んでいないと分からないというか、大丈夫ですということになる。それで2/28には内視鏡検査を受けたが、胃がん検診としては問題ありません、結論だけが強調されてそうなのか、と思っていたが、内視鏡検査の所見のなかに「バレット食道」「表層萎縮性胃炎」でピロリ菌の現感染が疑われるとあり、ピロリ菌の検査は5/17の杉政先生の定期検査の日になっていたが、食欲不振や胃のもたれが続くので3/17に早めてもらった。よくわからなかったバレット食道を改めてスマホで調べてみると、逆流性食道炎で胃酸の逆流によって食道下部の粘膜が胃の粘膜(円柱上皮)によって置き換わったもので治す方法はないのだという。このあたりが食欲が起きないことや胃のもたれ感などの理由になっているのかもしれない。最近竹の友だちと話していて、ピロリ菌がなくなったら食欲が一気に戻ったとのことだったのでそこに期待するしかないのかな。

すっきりしない体調が続く中で

 普段からしゃっくりが止まらず、時々腹の底からの大きな咳。これらが集中力をそいで、ただ時間を過ごすだけの日々の営みに成りがち。それでもしなければならないことはそれなりにできるので、会社の会議や竹遊倶楽部のボランティア、放送大学の学習やテストは何とかこなした。
 1/26に8科目の最後の「人文地理学から見た世界」のテストを終えて、2月3月にかけては春休みなので抱えている宿題をこなすのにいい時期である。1/28にピアノを取りに来てもらうことになっていたので、ベランダの下や応接間を少し片付けられた。体力維持に朝の散歩は続けているが、少し気を入れて歩くと疲れが出て、午前中にも昼寝をしたりする始末でなかなか体力が戻らない。腹の底からの咳が続いて喉も痛くなり、1/31にはN耳鼻咽喉科で喉の痛み止めなど5日分処方してもらったが、効いているのかわからんような状態。
 それでも2/3は遠山病院の杉政先生の診察日で28日のCT撮影の結果がわかり、とりあえず心配したことはなかったと先生自身がホッとされていた。私も終活を進めるには良い情報には違いなかった。その時は首と頭も痛くて内科の小西先生に紹介されて頭のCTを撮ったが大丈夫とのことだった。そんなこともあり、2/6の会社の経営会議、2/7の伊賀サントピアでの産官学連携セミナーにも出席、2/9は竹遊倶楽部の共同作業日でベルファームに行く。主に笹原さんが切ってくれた伐竹を木もれ日広場へ運ぶなどしたが、この日は仲間の北村さんのお孫さんが勤めている青島での仕事仲間のアメリカ人夫婦一緒で竹の製品を見てもらったり、一緒にルーベルで野菜ソムリエランチをご一緒したりに久しぶりに賑やかな会になった。
 ところが、この日から体調はさらに悪化することになる。朝はいつもどおりのパン一切れとコーヒーで、9日のランチは食べられなくて1/3ほど残したが、午後と夕方にも久しく経験しない酷い下痢だったので、その日の夕食以後食べ物を取るのは止めたが下痢は3日続いた。その間も体力を落とさないように少しゆっくり散歩は続けたが、しゃっくりや嘔吐感が無くならない。体重は3日間で60kg前後から56kgまで下がった。10日には一応高野尾クリニックに行ったがウィルスによるものだろうと整腸剤を出されただけ。時間が十分できると体調がより悪くなって課題が進まない、こんな繰り返しが続くんだよね。それでも三重学習センターに来たので何とかこれが書けたことを良しとしよう。2/12

「よっさん」勇気と感動をありがとう!

 阪神の華麗なショートストップで鳴らした「よっさん」こと吉田義男氏が一昨日2月3日91歳で亡くなられた。私が子供の頃に本気で惚れ込んだスポーツマンが吉田義男氏であった。自分では小学3-4年の頃からのファンと思い込んでいたが、京都山城高校から立命館大に進み、1958年に阪神球団に入ったと記事に出ていたので私の記憶が二三年ずれているかもしれない。子ども心に印象的だったのは身長167cmというプロとしては背が低いながら、堅実かつ華麗な守備と短く持ったバットでしぶとい打撃で有名だった。それ以来の阪神ファンなのである。自分もどちらかといえば小さくてコンプレックスを持っていたのを小さくてもこんなにやれるんだと勇気をもらったことを覚えている。
 その後吉田さんは阪神の監督を3度していて、スポーツ史に有名な甲子園、バース・掛布・岡田のバックスクリーン3連発で日本一に輝いたときの阪神の監督でもあった。阪神球団での唯一の日本一になった時でその感動は今も憶えている。また、いきさつは知らないが一時フランスの野球の監督なども勤め「ムッシュ」と言われて親しまれてた。
 それ以来野球への憬れはあって、中学では野球部に入ったが上手な子がたくさんいて私はマネージャーだった。高校は陸上部だったが、三重大で半年間硬式野球部に入っていた。左で打たしてもらったりしていたが肩を痛めて断念せざるを得なかった。それ以後はプロ野球を見るだけの楽しみとなった。それでも80歳になっても野球を楽しませてもらっているきっかけはまさに吉田義男であった。

前に進むための、気になることの確認と行動

 NHK朝ドラはよく見ているが、今作の橋本環奈がヒロインを務めるNHK連続テレビ小説「おむすび」もつい見入ってしまう。神戸のさくら通り商店街で靴屋を営む渡辺孝雄(緒形直人)が、阪神淡路大震災で亡くした一人娘、真紀(大島美優)との思い出の家への執着から解き放たれ、新たな道を歩む決心をするのが今週のメインストーリーだった。今朝の朝イチにはその緒形直人が登場し、本人の普段見せない素顔などを紹介して朝ドラの魅力倍増に役立っていた。
 振り返ってみると、この前のブログは12月の半ばに書き始めて何度も書き直しながら、とりあえず1月20日に打ち止めにしたという感じである。最低限動きながらも何となく留まっている感じの自分ももう一歩踏み出さにゃと、数日前からモノを飲み込むのに痛みを感じていた事柄の解消に向けて、今日は自宅近くの耳鼻咽喉科を受診してきた。3種類ほどの薬を5日間処方してもらって後は時間待ち。28日のお腹のCT造影検査の結果は2月3日の受診で分かるので、先延ばししている事柄をもう少し計画的に進めなければと改めて考えている。
 もちろん多少は動いてきていて、「活かすものは活かして後は断捨離」の一環の自宅のピアノ(娘用に買ったが今はほとんど使われていない)は、当初はベルファームで活かしてもらえないかと経営会議にも提案したが、どうもうまく活かせそうにないということで、リユース市場へ出すことにした。数社が応募してくれて、引取料もそれなりで活かしてくれそうな名古屋の業者に売ることにし、28日の午後に引き取りに来てくれた。何人来るのかなと思いきや大型トラックで来て、二人で担いで乗せていった。業者さんに入れたコーヒーを振る舞った。引取料は娘と折半して、私はベルファームへ寄贈する予定のピザ窯の一部にするつもりである。
 購入依頼居間の一角を占めていたピアノがなくなると、私がいなくなると誰も帰ってこなくて処分せざるを得ない自家の数千冊の本を始めとした荷物をどのように活かし断舎離するのかが改めて喫緊の課題として浮かび上がってきた。1/31

手術から早2ヶ月が経って…基礎体力を取り戻さねばと始めた入院前の習慣

 11/29に遠山病院を退院して、次の診察の12/10までが随分長く感じられた。10日は血液検査と杉政先生の診察があった。もう少し詳しく検査しててみましょうということで、13日にCT造影検査を行った。その結果をもって18日に診察があった。杉政先生が急遽来られないということで手術にも関わってもらった井上院長が心配ないから経過観察していきましょうとのこと。
 12月23日にもう一度杉政先生の診察があり、今すぐどうこうということはないが、進行度をチェックするために1月28日に2回目のCT造影検査を行うこととなった。たまに咳き込むと開腹手術の内部に響く。退院後4週間はお腹に負荷がかかるようなことはしないようにということで寝起きもベットでしていた。平坦路を少しゆっくり目に歩く分には何ともないが、ふらついたりした時に体幹が弱っているのは感じていた。散歩でも少しスピードを上げてみるとその疲れが尾を引く。集中力が続かないのも体力不足からもきていると思われた。
 それで正月明けから布団は畳の上にして、毎日布団の上げ下げをするようにした。入院から2ヶ月、退院してからも6週間で、入院前には毎日していた布団での柔軟体操と腹筋背筋を再開することにした。先行きが見通せないので、日々重視すべき事柄の判断がつかず、片付けをしていても、とりあえず分類をして、捨て去るものの量が少ししかならない。三重スローライフ協会の資料は組織も閉じたので廃棄にする分は増えたが、ベルファームや竹遊倶楽部の資料はその活動の記録を残すとするとそれをまとめるのは自分しかいないなと思うので一旦分類して残す方になってしまう。
 纏める力もなくなっているのにこれからそんな時間が取れるとも思えないのだが、子どもたちと十分話す時間も取ってこなかったので、なにか残せるとしたら、それなりの自分史とファミリーヒストリーのようなものかなと思う。NHKで報じている有名人などのファミリーヒストリーはさすがにNHKという取材力で見るものを感嘆させるものになっているが、そこまでで無くても自分のルーツを知ることはその人の何らかの力になることは事実であろう。と考えるとまたまた資料が捨てられないのである。1/18
 入院から2ヶ月(退院から6週間)が過ぎ、基礎体力を取り戻すために入院前までは毎日続けていた朝布団の中での柔軟体操と腹筋背筋などを復活し、散歩の強度も少しずつ上げるようにした。もちろん2ヶ月のブランクは大きく、疲れが出て昼寝したりもするが、少しずつ体力が戻ってきている気がしている。この間も会社のスタッフや地域の人々の相談活動は今できることとして動き出している。1/20

痛い痛いの2週間を活かせるの?

 振り返ってみれば前回のブログから6週間も経っている。書くことがなくてぼんやりしていたわけではなく、少しばかり元気であれこれと予定を詰め込みすぎてアップアップだったのかな。最近少し次世代に残せるあるいは役立つことに時間を増やしたいとの思いがつよく、それが三重大学経営研究室のゼミへの参加であったり、会社でのおしゃべり部屋の開設であったり、となった。
 その前に10月に放送大学の生活文化コースの学生継続とともに、心理学関係の放送大学大学院の科目も2科目受講したりで、竹林整備で痛める肩や腕を殆ど使わなくてもいい方向への無意識が働いていたかもしれない。
 確かに11月に入ってもバタバタしていた。経時的にみると、11/1 車検、樹木葬相談会(基本は決めていたがいくつかの疑問があり、大津まで)、11/2 高齢者健診、11/3日 竹林整備とおしゃべり部屋の開始、11/4 豊ヶ丘でのおしゃべり健康サロンの開始 、11/7木 おしゃべり部屋、阿坂マルシェの準備。
 そしてこれは書こうと途中までメモを作った11/9-11 高知県檮原町でのスローライフフォーラムへの参加。その後も予定が詰まってバタバタしていたが、11/13の午後辺りからちょっとイヤな腹痛だなと思いながらも様子見の時間が長くなり、いよいよ11/15の朝から掛かり付けの高野尾クリニックへ行って血液検査などしてもらった。そしたら、手術が必要かもしれないのでとすぐに紹介状を書いてもらって遠山病院へ行った。11時に最初の診察はしてもらっているのにその後のことをよく覚えていない。あれこれの検査をして15時過ぎだか即入院ということになったが、すぐ帰るつもりで朝家を出ているので何も持ってきていない。看護師さんに無理を言って外出許可をもらい、換えの下着と放送大学の教科書などを持って病院に戻り入院となった。診察室からは一旦相部屋に入れられていたが、看護師さんから電話も気兼ねなく出来るし、Wifiの調子もいいとのことで個室に入れ変えてもらった。
 すぐに輸液の点滴と抗生物質の点滴、更に痛み止めを組み合わせて、これが2週間も続くとは…。とりあえず、家族と隣近所、会社への連絡は済ませた。コロナ下もあり幸か不幸か面会は家族に限るとの制約があったので、遠い兄弟には連絡もせず、次の日に娘二人が訪ねてくれて、長男は孫のラインをみせてくれた。後は次女の母親が突然訪ねてくれたが、それ以外は痛みと格闘し、集中力低下の中で放送大学のWeb面接指導(中間テスト)を受ける日々だった。
 主治医のS先生(東大出の女医さん)は炎症が小さくなる保存医療?をしながら、19日に手術となった。いくつかの想定の中で一番難儀な状態だったようだが、病巣は取れたという。腹腔鏡下手術から回復回盲部切除術に移行せざるを得なかったので、予後も10日ほどと長くなることになった。(29日12時)
 下の娘が和歌山の橋本から昼過ぎに戻って来てくれて、今日も緊急手術を控えて見えたS先生から手術の詳しい説明を聞けた。娘が検査結果をもらえますかと声掛けしてくれたので「病理組織検査結果報告書」のコピーをいただけた。初発急性化膿性虫垂炎との病名がついていてかなり悪かったらしい。要経過観察ということになり、次回は12月10日に外来受診することとなった。術後4週間は腹部に力のかかる動作は避けること、という外はデスクワークなら復帰可能とのことだった。
 今日始めて開腹部を見たが確かに10cmの切開傷があり、お腹の鈍痛はこれだと納得。後どれだけ生かされるのかは分からないけれど、この命をどう活かせるのか今からの課題。
 入院が急だったので帰ってみると冷蔵庫の中のものもかなりカビが生えていた。あまり冷えていないのかもしれないけれど15日間というのは大きいな。花の水やりは近所の人に頼んでいたのでよかったけれど。

個人にも組織にも盛衰はあるーそこで自分はどう振る舞う?

 続けていた医療の現場を休まざるを得なくなって、いろいろなことを試みながら出身校で臨時?のお手伝いをしている下の娘から久しぶりにSNSで連絡があった。と思ったら、ままならない仕事での悩みのようなものだった。少しやり取りしていたらどこにもありそうな組織や個人の問題で、つい自分の心身の劣化のことや会社での課題に思いを馳せていた。
 昔から生老病死、栄枯盛衰など命あるもの(広義に組織も含め)には、その生から消滅までさまざまなことが起こり得る。その変転の中でその時々に自分はどうするのかも問われてくる。10/15
 私たちの会社で言えば、数年前から社長のリーダーシップのもとトップダウンよりボトムアップを目指し、現場の一人ひとりの力をつけようとしてきている。先日も部署ごとの視察研修の感想文を見せてもらったが、スタッフの多くが視察でもいろいろなところを見てこの部分はベルファームでも取り入れられるのではないかなどとてもアクティブな反応をしている。このような動きをどう活かしきれるかは中間管理職などに問われるところであるが、まだまだ進化していけそうな活力が感じられる。そんな中で非常勤とはいえまだ組織においてもらっている我が身としては、何が出来るのか?
 3年半前から放送大学で心理学関係の科目を学び直し、なかなか頭が追いついていかないことも事実ながら、なるほどと思うことも少なくない。もともと苦手ではない「聞く力」(よく聴くためには適切な問い交えることも大事ということもあり) はもう少しできるようになった気もしている。それ故、先日経営会議で了承してもらった「おしゃべり部屋の開設」で求めるスタッフの話を聞かせてもらいながら自分に何が出来るのかちょっと楽しみでもある。
 娘の通っていたきのくに子どもの村学園は教育家のニイルが1921年に設立した小さな寄宿学校サマーヒル・スクールをモデルにして作られたという。世界で一番自由な学校と言われ、生徒の自立性や自由意志を大事にする素敵な学校であった。設立者の堀さんは大学教授を辞めて学園長に専心され、同様の学校を全国に増やしていかれた。私は密かに心配していた。パジェロであちこちの傘下の学校を飛んで回られる学園長の体ととてもユニークな学園であるだけに設立者の思いや趣旨を理解して教育に当たるスタッフがどれだけ育っていくのだろうかと。娘の話を聞いていると、理想と現実のギャップ少なからず生じているようである。10/16
 理想に燃えているほど会社や組織は大きくしたいものである。しかしながら、体制が整わなければ、後継者を育てられなければ、いずれ縮小又は廃止をせざるを得なくなる。残念ながら、NPO法人三重スローライフ協会の場合もそうであった。組織もまた生きているので、組織を作った情熱や思いがメンバーに伝わっていかなくなれば形骸化し、個々人は問題が起こっても見ぬふりをしたり、何とかやりすごすだけということも起こりがちである。
 そんなときに個々人、自分はどうするのか?上記NPO法人の場合は自分が責任ある立場にいたし、多少の余裕もあったから、自分で決断し赤字を賄うことも出来た。一人ひとりの立場や思い入れ等によって様々な対応があり得よう。復活の展望がなくても何とかしようともがくこともあろうし、何とかしたい気持ちはありながらも自分ひとりでは何とも出来ないこともあろうし、より必要とされる仕事に移ることも選択肢の一つであろう。要は突き進むも撤退するも自分の納得が基本になるのだと思う。どちらの方向へ行こうとも向き合った末の行動は必ずや将来に生きると思うからである。10/18

足場の悪い竹林での草刈り

 13日の竹遊倶楽部作業日は二手に分かれ、一班は竹遊舎前のテント作りと低い地面の部分にバラスを置いて固め、その上に〇〇とコンパネを敷いて竹細工作業もできるようにしてくれている。後は竹林草刈りの続きである。私は竹林草刈りの方にまわったが、散歩道から竹林になる傾斜地をナイロンコードの電動草刈り機で草刈りしていたが、運動靴を地下足袋に履き替えていたらまだましだったのだろうけれど、足元が不安定で腰への負担がきつかった。午後はSさんが手伝ってくれて電動草刈り機を使いたいというので私は混合油のエンジン草刈り機を使ったが、これは電動よりかなり重く腕にも腰にもかなりの負荷だった。
 ちょうどその日の午後Kさんにカイロプラティックをしてもらえることになっていたので良かった。事情を話したらかなり丁寧に見てもらえ、終わって時間をみたら1時間のところ1.5時間も調整してもらっていた。随分楽になったが、基本は普段の姿勢やストレッチにある。特に肩甲骨回しとスクワットを日々の運動に取り入れる必要がある。したほうがいいよなと気づいていながらも出来ていなかったので、少しずつでも取り入れないと先生に申し訳ない。10/14

ついやってしまう先延ばしパターンを変えるには

 もう数年前から行動のスケジュール化にやたらと時間を食ってしまう。スマホのスケジュールは予定の通知もしてくれるので、そこがメインにはなりつつあるが、その前にメモ帳代わりの「日々メモ」に思いついたことや近々にやるべきことを書き出して、日々の日記代わりにも使っている。家にいる時間が多いと毎日が似たようなことになり、いつ何をしたのかがよくお覚えていないのでできるだけメモを取るようにしてきている。とはいえ特別困らない事柄はつい先延ばしになってしまう。
  あれこれ思うこと多いがいざメールを書いたり文章にするとなるとなかなか文字や文章にならなくて途端にストレスが溜まってしまう。そうなると晴れの日などは外に出て花や野菜の管理や時に竹細工をしているのは気分転換にもなって好きなのだが、メールでの返事がなかなかかけなかったり、ブログに書きたいと思う内容があっという間に時間が過ぎて陳腐化してしまう。先延ばしできることはしたって構わないとどこかで思っているからか、ストレスを溜め込みすぎることはないのはいいのだが、仕事に追われない、プレッシャーがほとんどないことの良し悪し、両面があるんだよね。どこかで別の声がもう少ししっかりしいな、と叫んでいる。

 そんな時に10月7日、上の娘から久しぶりに連絡があった。お父さん、また人とあまり喋らなくて呂律が回らなくなっているのではと一時間あまりも電話で喋ることになった。確かに人と会うのは朝のラジオ体操だけということはよくあり、それもおはようございます、というぐらいで大抵の男性と同じようにそんなにべちゃくちゃ喋らなのである。ベルファームの竹遊倶楽部のボランティアのときはまだ少し喋るが、舌が回らなくて舌を噛むことすらよくある。
 その日は話しているうちに舌の回りもよくなってきて、コーチングに関わるような内容が多いので刺激も受ける。こんなこともしたいと思っているとかの話をしていたら、それいつからやるの、とか突っ込んでくる。これは時にキツイんだけれど、退路を断つというほどではないにしても先延ばしにしがちな行動をプッシュしてくれるのは実にありがたい。
 これをきっかけに次の日から散歩を坂道のあるコースに変えられたし、自宅での健康サロンや会社でのおしゃべり部屋の開設案内文がその日から2、3日でできた。中身は心身の健康相談のようなことを考えながら言葉が硬すぎるよなと思っていたところだったので、娘と喋っている間に、「何でも話せる機会」があれば堂々巡りしている人の後押しも出来るかなということになった。10/14

久しぶりの草刈り機の使用

 10月1日は火曜日だが、メンバーで一番若い植村さんが草刈りに参加してもらえるとのことで急遽竹遊倶楽部のメンバーに参加を呼びかけた。集まってくれたのは草刈りチーム4人と竹焼却、環境整備の3人。私自身も電動草刈り機を使っての草刈りは随分と久しぶりだった。やりだすと根を詰めてやる方なので2時間あまりで結構疲れた。夕方頃に胸が痛く心臓が気になったが、草刈り機を左右に振りながら草を刈っていくのに腰と胸の筋肉も使っているからだろうと納得がいった。足場の悪い斜面などでの作業がやりやすいようにせっかく地下足袋を持っていったのに運動靴のままで作業して負荷が余計かかったこともあるのかも知れない。10/2
 でも改めて草刈り用のナイロンコードの威力を確認し、自宅の庭も草が伸びているので草刈り機を持ち帰ることにした。2日朝から玄関の松の周辺と菜園の周り、台所裏などがきれいになった。いつも散歩とラジオ体操後の数十分を外作業に当てているが、今日は午前中時間をかけて行い、朝食抜きでブランチとした。今日はここまでやろうとかその気で行動しないとなかなか片付かない。終活までの道のりはまだまだありそうである。10/3

年輪を経た夫婦の妙味ー9月中旬に再会した二組の旧友

 9月10-11日はベルファームの直売所「農家市場」へりんご等の果物を納入してもらっている「アップルさみず」さん訪問の仕入れ旅に同行させてもらった。社長は今回同好を遠慮されたのだが、専務、常務と農家市場を率いる二人とベルファームの次代を担う4人私の五人だった。さみずの会長の山下さんとは20年以上のお付き合いでご夫妻に自宅で泊まってもらったことやアップル三水の15周年?だったかの総会でお話させてもらったこともあった。9/17。そういえば竹遊倶楽部をつくって2年目だったか2017年11月りんごの収穫手伝いの名目でマイクロバスで山下家を訪問したことがもあった。その時印象的だった一つのことはその後亡くなられた東さんが認知症の進んだ奥様と一緒に参加され、優しく奥様をエスコートされていたことである。
 今回は会社の幹部クラスの交流とともに、果物の仕入れの役割もあった。夕食は松阪から持っていった焼き肉と山下会長が作られた野菜で奥様がピザを作り、レンガのピザ窯で焼いて出していただき皆んなで食べながら話が弾んだ。泊めてもらった翌朝の朝食には信州名物のおやきが出た。こんな素敵なもてなしはなかなかできないものである。

 翌日の9月12-13日は、年賀を送らなくなってお詫びも兼ねた三重スローライフ協会の『活動の記録誌』をお送りしたのがキッカケでやり取りが再開し、是非会いたいとのことで鳥羽のホテルを予約していたUさん夫妻との久しぶりの出会いの日だった。Uさんとは高校の仲良し三人組の一人で、当時からできが良くて苦労人のクラスのスターだった。
 一級建築士になった彼には私の生涯に関わる3度の建築の設計でお世話になった。一度目は最初の結婚をして初めてのマイホームを建てた時(引き渡しは1980年1月の娘が生まれる直前)、二度目が双方子連れ再婚で、先方の土地に大きな2階建てを建てた時(再婚は様々な問題が起こり4年目に別居して、処分せずにいた最初の家にもどる)、そして三度目が定年になって大学から持ち帰る数千冊の本の置き場として書庫兼大広間の増設である。今から思うと、子どもたちも家には帰ってきそうにないそし長い一人暮らしが続いていたので、コンパクトな家に作り変えていたらよかった。何となく古い家の2階の子どもたちの部屋を残しておくように思ってしまったのである。
 そんな経緯もあり、Uさんは私の紆余曲折の人生もよくわかってくれているのだが、それだけに結婚生活50年余というUさん夫婦の深く優しい会話には感心することしきりだった。山下さん夫婦の支え合っている絶妙の間合いといい、永年の風雪を乗り越えた夫婦の味というものをたっぷり見せてもらうことになった。
 自分としては眼の前のことに一生懸命で、結果として悲しい思いをさせたであろう人も複数であるが、複数の人をかなり深く知る機会を与えられたことは人間理解のプラスにはなったかもしれない。

断食で心身のリセット…人も生きものだと感じられる小さな仕掛け

私は50歳の頃からこれまで30年で25回の断食をしてきました。その最新回が今年の御盆期間でした。断食にもいろいろな仕方があるようですが、私が習ったのは生駒の静養院断食療養所のやり方です。一週間の断食期間があるとすると、1-2日間予備断食で毎食減らしていき、水だけの本断食3日間、そしてお粥や消化の良い野菜煮などの回復食2-3日の配分です。

断食をするというと、1食抜いてもお腹が空くのにとても無理、とかの反応をされます。1食抜くのはお腹空くけれど、二三日抜くなら平気よ、と答えたりするのですが、要は体(生物としての人間)の適応力を如何に活用するかなのです。その時の体調とかもあり、きゅーとお腹が空いてくる経験もありましたが、今回は快調でした。

スローライフの会の野口さんから断食について原稿をと言われて、改めて断食について振り返ってみました。そして確かに断食の仕方の勘どころは「ゆっくり」(スロースタイル)だなと改めて感じます。特に回復食の過程は断食の成否にも関係してきます。重湯、三分粥、五分粥と徐々に慣らし、おかずも消化の良いものを少しずつ増やしていく感じです。過去にはいくつかの失敗もあります。たとえ3日間であっても水だけからお粥など食べ物を入れると胃が刺激されて食欲が出てきます。そこでおやつなども含め食べすぎると体重も急速にリバウンドしてしまいます。そこを乗り切るとご褒美がついてきます。

 

断食の実感的恩恵

最近は特に脳機能(特に記憶)の低下を自覚することがママあり、したことの順番や何をしていて時間が過ぎたのかが全く思い出せない事が多く、そのため断食日誌がしっかり書けていません。

断食をしていてよくあるしんどいことは、予備断食がうまくできず少し急に本断食に入ってしまった時にはキューとお腹のすく感じを持て余すことがあります。また、断食中は睡眠導入剤はもちろん一切のサプリメント(ビタミン剤やバイアスピリンなど)も使わないことが静養院の教えでもあり、今回もそうしたが特に問題はなかったです。

これまで本断食が始まってよくあるのは、足がだるくて眠りも浅くなったりすることでしたが、今回は一切ありません。少しぼーっとしたり、軽くふらつくこともよくありますがそれも今回は大丈夫でした。予備的に少しスポーツドリンクをとったりしたことも関係あるかも知れません。静養院では水だけで苦しくなってきたときにポカリスエットを与えられることがありました。ミネラルなどの補給のため楽になるのだと思います。その時々の体調などで少し異なることはありますがだいたい以下のような実感的な恩恵を享受しています。

①断食して毎回思うことは、食べられることのありがた味。たった3日食事を抜いただけで、重湯やお粥と梅干しがこんなに美味しく感じられるのです。そして回復食になると1食1食力が出てくる感じ。8月は原爆や終戦など戦争のニューズが多く、敵からの逃避行や食料なしの行軍などが夢に出たり思いを馳せることがあった。毎回食事を食べられるということが、歴史的世界的に見ればとても有り難いことなのだといつも気付かされる。

②当初の予定通り股関節と肩関節をほぐすAOTAKEヨガ体操をずっと続けられ、首周りの柔軟性はだいぶ改善した。腰痛がほとんどなくなり、腕・肩の柔軟性も改善した。これもいつも感じるところ。

③前回同様に確かに爪の色は桃色で循環が良くなっている。肌が少しツルツルしている。

④全体として、回復食の二、三日目に黒っぽい宿便が出るが、ここから体調は一気に良くなってくる。体も軽い感じで朝の散歩(速歩)のスピードも出てくる。心身は調子良くなり、やる気も増してくる。

写真は断食期間の体重の変化です。ざっと4キロ減って2キロ戻り、経験的に何とか2,3ヶ月はこの状態が保てると断食をやってよかったと実感できますね。

参考https://livedoor.blogcms.jp/blog/okaeri33/article/

断食中の体重の変化2rr



台風下のヨガ最後の日

 ベルファームでは健やかに老いていく健育を提案していたこともあり、フィットネス、中でもヨガは人気であった。何人かの講師の先生の中でも人気の佐久間先生は週に十数コマもあちこちで開講しておられた。その佐久間先生に頼み倒して豊ケ丘まで来てもらうことにしたのが2016年1月からであった(世話役を続けていたので記録が残っていた)。早8年半が経過している。ベルファームで参加していた頃は常勤だったのでせめて月に2,3回は参加できていた。
 しかしながら2016年ころからベルファームは非常勤勤務になって行く日数も少なくなってきたので、豊ヶ丘でのヨガのみに参加するようになった。ところが開催日の木曜日はベルファームの会議やたまにある名古屋での講演会などと重なることが多くなり、豊ヶ丘ヨガに参加できるのは月に1,2回、一回のみということも多くなった。元々硬い体は一人ではなかなかできないこともあり、さらに固くなって最近はヨガに行くのが苦行のようなことになっていた。
 それでいよいよ潮時かなと思いながらも遠い松阪からずっと来てもらっている先生への恩義もあり、なかなか切り出せなかったが、この夏25回目の断食をしながら今後のことを考えていて、終活が進んでいないこともあり、80歳になるこの9月前が良い区切りかなと思うようになった。
 最初は十人足らずだった豊ヶ丘ヨガも十二、三人になったこともあり、安定してきたし、数年前から世話役もKさんが担当してくれるようになっていたので憂い無しである。今日はみんなにお礼をいい、ここ数日の部屋の整理で出てきた事務用品でまだ使えそうなものを一人二、三点もらってもらうことにした。また、時々でも来てくださいとか言ってもらったが、一つ考えているのは認定心理士も活かして以前コロナまで続けていた自宅の書庫二階での「健康サロン」の復活である。

心筋梗塞の予防改善にはー石原結實院長

 一つ前のブログに書いたように、ヒポクラティック・サナトリウムの石原結實院長からの年齢制限による断食の断り状には、「病歴伺い」に書いた心筋梗塞の予防改善には、として次の4点が記されていた。
(1) 運動が一番大切です→◯◯◯の血流よくする、◯◯◯を拡張させる
(2) ニラ、ニンニク、ネギ、生姜の多食→血栓を溶かす
(3) 魚介(エビ、カニ、イカ、タコ)をしっかり→含有成分の「タラ◯ン」が血栓を溶かし、血液サラサラに
(4) 適酒→血管内皮細胞より「ゥ◯◯ナーゼ」を分泌させ、血液サラサラに…
などをご励行下さいませ、と。
◯の部分は読み取れなかったのであるが、(1)は続けているが、(2)~(4)はあまりできていない。
 それにしても、一介の質問者に対して丁寧な御返事は感謝のみで、学ぶべき生き方だと思う。


断食道場探索…適切な場所がみつからないということは?

 NPO活動三重スローライフ協会の活動の完全な結了に関してはまだ忍耐強く待つしか仕方のない状況でもあるが、そしてまだこの人には送っておきたいなという人が二三人いるけれど、ここ数年の大きな課題の一つであった仕事が終わりつつあることはありがたいことである。
 放送大学の学習はこれからも当分続けていくことになりそうであるが、ちょうど夏休みに入った今が今後の終活に向けての、少なくとも今後数年の力点を置くべきことの整理には都合の良い時期である。
そうして久しぶりにネットで断食道場を探し始めた。まずは以前から気になっていた伊豆半島にあるジュース断食を主とする「ヒポクラティック・サナトリウム」を調べてみた。断食専門医が運営する断食施設というように院長の石原結實先生は、何故か自分の過去の断食日誌の中にも何度か出てくる有名な人であった。ちょっと遠い340kmほどあるけれど新東名高速道路を通っていけば数時間で行けると、気持ちは勝手に進んでいた。が、ホームページを良く読んでみると、70歳以上の人は問い合わせてくださいとあり、健康状態、過去の病歴等正直に問い合わせてみると、実は内規で72歳以上の人はお断りしているとの石原先生直筆PDFの返事が来た。
 仕方がないので、静養院を始め他の施設を探してみた。静養院はコロナの頃からか臨時休業になっていて、今年の関連SNSに上がっていたのは大正からの珍しい木造建築という建築家の学生たちの訪問があったという記事のみであった。
 そういえば信貴山にもあったようなと探してみると大宇宙教なる宗教団体が運営する断食道場が出てきたが、あいにく今年の2月に出火して臨時休業中であった。8/9
 さらに探していたら長野県の車山高原に「断食道場コーナストーン」という場所が見つかった。標高1500mでいくつかの断食の方法もあり、料金も一泊一万円以下でリーゾナブルであり魅力的であったが、御盆期間は予約でいっぱいだった。
 これは自分でやれということかなと思いつつも、このところ暑さもあり胃腸に優しい煮物など全く作っていないし、回復食を自分で作るのが億劫だと思い、さらに探してみた。すると大阪の町中、大阪城の近くに「桜ガーデンホテル」という医師監修の短期のファスティング施設をみつけた。一週間ほどで十万円ということで、それならあり、かと連絡を取ってみたら、部屋は空いているがお盆は特別価格で十五万円くらいにはなるとのこと。メインは二、三泊の女性狙いということもあり、もう一つ気が動かない。ということは今回は自分でやりさない、ということなのかな。
 高校からの友達との会う時期を先延ばししていることもあり、やはり予定の入っていない8/12から一日予備断食、本断食は3日とし、体調によってはスープ、orジュース断食に切り替えて、後は回復食3日間で乗り切ってみよう。朝夕の般若心経唱え、ルーチンの寝起きのヨガ体操、短時間の片付け、可能なら『記録誌』の返信への返事に取り組もう(優先順位を高くして『記録誌』問題の一段落にしたい)。さらにできればこれから数年の力点の置き方も検討すべし。8/11, 2:20

 

竹細工がつなぐ縁ー松阪東部中学生との出会い

 時々総文の手づくり市に竹製品を出させてもらっているが、7/20運営者の長岡正樹さんから松阪東部中学の先生が竹細工を教えてくれる人を探しているとかでお話聞いてみるのは大丈夫ですよと返事しておいたら、東部中学の2年の生徒が二人竹細工に興味を持っていて来年3月の学園バザーに出したいと言っているので話を聞いてもらってもいいかと学年主任?の倉口先生から電話がかかってきた。
 その後、二人のうちの1人の服部くんがら連絡があり、私がベルファームへ行く7/27の午前中に会うことになった。相当暑い日だったので朝から冷茶を準備しておいた。9時過ぎに母親と現れた服部君の話を聞くと、彼は竹で編んだコースターや竹籠のようなものをイメージしていたらしい。竹籠の類は竹を薄く削る道具とかもないし私たちはやっていないけれど、竹の一輪挿しとか竹とんぼとか竹の物入れは比較的簡単にできるよと、眼の前で一輪挿しを作って見せた。ベルトサンダーだと削ったりが容易だよ。というと学校にはあるから借りられるかもしれないと彼は話した。14歳にもなると吸収力も早いし楽しい時間が過ぎていった。帰り際、私が集めて整理した竹作品のファイルを2冊貸してあげた。次回が楽しみである。7/29

認定心理士認定書が届くまでの顛末

 本日、日本心理学会から「認定心理士認定書」が届いた。国家資格である公認心理師でもなく、広く知られている臨床心理士でもなく、日本心理学会が一通りの心理学の基礎と応用をを学んでいるということを証明する程度のことである。3年半前から放送大学の心理と教育コースで学び始め、三年間で一通りの単位を取って卒業ということになり、もう少し学び続けたいとこの春から人間と文化コースに転コースしたが、とりあえず心理学を一通り学びましたよということを示すには便利かと申請することにしたのである。
 放送大学の2年目くらいに同じなら認定心理士の必要条件を満たすように心理学実験等も取ってきたので軽く考えていたのだが、手続きが大変だった。最初は1月28日に申請のための日本心理学会への登録から始まり、放送大学の成績証明書は三重学習センターですぐに出してもらえた(2/28)が、三重大学の卒業証明書は電子申請のみになっていて慣れないので取得に手間取った。シラバス等も含めて書類を郵送し、これでいいのかと思っていたら3月末頃か、認定の条件は満たしていますが、申請の様式が揃っていないので、これらの点を修正してくださいとのコメントがあり、4月4日に修正申告した。
 ところがその後も修正要請が、何度もあり、結局6月21日の修正が最後となり、6月末の認定審査委員会で通りましたとの連絡が7月5日にあった。7/6-7日は「規範倫理学」の集中授業で手一杯だったので、7/8に放送大学のメールを開き、合格を確認してその日のうちに登録料33,000円(先に審査料は一万円)を振り込んで、認定心理士認定書が届いたのが7月26日というわけである。7/26
認定心理士 (2)
 当初から目指していた資格取得でもないし、取ってこんなにプラスになるというようなものでもないのに、IT操作にいっそう自信を失いながらも我ながらよく我慢したものだと思う。アナログで動いていた世界なら、内容が満たされていれば形式であれこれ言われることはそんなにないのにデジタルの世界はプログラムを組んだ人の要求通りにしかOKにならないのでitが苦手な人たちには難儀な世界である。レストランのタブレット注文くらいならまだお店の人に頼む余地もあろうが、いわゆるデジタルデバイスの操作格差は非常に大きく、一つの大きな社会問題にもなりかねないくらいである。
いずれにしても、私が途中で諦めなかったのは、ランニングで培った習性で走り出したら最後までということなのだろう。『活動の記録誌』がやりきれたのもそんなところかもしれない。
 ちなみに、2023年の3-4月時点で、公認心理師の登録者数は69,875人、臨床心理士は40,749人、認定心理士は70,372人だそうである。認定心理士の認定書とともに、日本心理学会への入会案内や仕事の商会などという情報も入っていた。心理学関係の学会へは以前から入ってみたいという思いもあったので、しばらくでも入ってみるかな。7/28

長くて短い一ヶ月…蘇る懐かしさと宿題の増加

 前回のブログから早一ヶ月が過ぎようとしています。書きたいこと、まとめたいこと、伝えたいことは日々ありながら、頭がスムーズに動かず、目の前のことに追われているうちに、時はどんどん経てゆきます。
 『活動の記録誌』の自分から送る部分の作業も、少し友達に手伝ってもらったりしながらも一言添えたりに時間がかかり1ヶ月半も経過している。赤字の穴埋めは銀行からの借り入れを肩代わりすることになった十年ほど前から覚悟はしていたので、そのことで心が乱されることはほとんどない。ところが、作業の段取りも悪くなり、頭も体もスッスッとは動かなくなり、ミスも多くなって宛名を書き、切手を貼り数通ずつ郵便局に持っていったりしているのが、意外と時間がかかってしまう。
 手元においていた記念切手等はほとんど使って、確かシートの記念切手とか残していたはずなのに見つからず、数千円ずつ何回か切手を買って送ったりしていたが、ほぼ送り終えた頃に残していた切手帳を見つけた。中学の頃から趣味で集めていて、仕事をするようになってからはそんなに熱心ではなかったが、外国に活かせてもらうときにはたいていその国の切手を買ってきているので、日本、外国、使用未使用を含めて数冊の切手帳がある。記念切手なら多少の値はつくのかと思っていたが、古いものだと原価割れも普通とのこと、あまり手紙など出さなくなっているけれど、額面価格では使えるので知り合いにあげるか死ぬまで使っていくのかな。
 そんな後始末作業の実態であるが、前回6/16のブログで書かせてもらった先輩大先生からの励ましのお手紙を始めとして、40名ほどの友人知人からお返事を頂いた。当初亡くなってしまった人には『記録誌』を送る予定にしていなかったのだが、ある時ふっと自宅で話題になっていたこともありうるだろうし、たくさん取り上げた写真に載っている人も少なくない。案の定仲間だった何人かの奥様からお返事いただけて、お送りしてよかったと思った。7/16
 たくさん送ってもらえた返事にはそれぞれその人の生きざまが出ていることが多い。何人かの人はちゃんと総括も読んでくれたんだなあ、とか総括部分に反応してくれた人もいて、苦しんだけれど区切りをつけられてよかったと改めて思って次第である。メールで何人かの人には返信のお返事を書かせてもらったが、蘇った交流を噛みしめるにはまだまだ時間がかかりそうである。
 ここではとりあえず、大学院時代より何かとお世話になった河村能夫氏との再会とスローライフにつながる中でインパクトの大きかった松ちゃんこと松崎了三さんの返事と本のことについて触れておきたい。
 『活動の記録誌』送付の後、何人かからまた会いたいね、という返信が届いていた。その中で私が研究者人生を歩むうえで少なからざる影響を受けた河村氏には7月9日に京都で会ってきた。市内に住む娘に用事もあったからである。彼は出会いをとても喜んでくれたが、衝撃だったのは彼の業績と彼がなしてきたこと、そしてあの1969年の京大闘争の一つのキッカケにもなったかと思われる「京都大学農経大学院学報」の創刊号をコピーして持ってきてくれたことである。
 研究者としてどのように歩むのかのキッカケとも苦闘ともなったこの創刊号の巻頭言「我々にとって大学闘争とは何か」を彼が書き、総括「いばらの道ー農経闘争中間総括ー」を私が書いていた。実はすっかり忘れていた。その時が出発点となった研究者としての姿勢は概ね貫けたし、その現場重視の一つの結果が『三重スローライフ協会 活動の記録誌』でもあったけれど、彼の言わんとするところはこれで終わりと満足するなよ、ということなのだと思う。京都には大学院時代と内地留学一年の計六年間住んでいたけれど、その日に彼が連れて行ってくれた京の料亭は人生最初で最後のような素敵なもてなしの場所だった。少し前から死ぬまでの宿題はいろいろあるなあ、と思っていたところに彼からの無言の叱咤激励は真友の有り難さを再確認する機会であった。7/18
 松崎了三さんは高知県の小さな田舎の馬路村を全国に知らしめた人として私達の仲間でも異色の人だった。ゆず製品を売るのでなく、ゆずを作っている人、田舎の懐かしさと新しい商品の工夫を程よくミックスして人に伝えていくスタイルが送ってもらった手紙(下記)からも分かるユニークな人である。そして一緒に送ってもらった彼の仕事の一つの集大成ともいうべき『起業家に贈るマーケッティングの詩50選』は商いの原典ともいうべき珠玉の言葉の宝庫であった。先週の土曜日7/13久しぶりに地域と協同の研究センターの理事会に出席させてもらった電車の行き帰りで貪るように読んでしまえた。
 IMG_2257私たち松阪農業公園ベルファームの管理運営も現社長と専務が協同組合出身で、地域とともに、三方良し(五方よし)の精神で日々研鑽しているけれど、改めて原典の考え方を振り返ってみるいい機会なので、次の日に社長に手渡した。松ちゃん、振り返りの機会をありがとう!7/19 (re8/17)



今年も老舗菓子店のお手伝い…ようかん竹作り

 もう数年以上前になるが、竹仲間の西山さんが引き受けていた柳屋奉善さんの羊羹竹作りを私たち仲間で引き受けてきた。多いときには十人もの人が参加してくれていたが、倶楽部設立9年目になり、当の西山さんをはじめ仲間3人を失い、それぞれに歳を取って大抵の組織でそうであるように若手の補充が難しいのでより大変な作業となってきた。それでも6月に入って奥様から300個の依頼があったので、仲間と相談してみますと答えた。なんとか今年もやろうということになって、晴れの日を探して、14日は香良洲の布袋竹林で数十本の竹を切ってきて、午後もやろうということになって200個プラスアルファを仕上げて、カビが生えないうちにということでその日に納入してきた。6/18
 続きは16日のし残し分の完成とまだ使えそうな伐採してきた布袋竹から午前中に都合170個あまり出来たので、契約の残り100個分と竹遊倶楽部用に作ってもらう竹羊羹60個分ハネを含めてその日に170個あまりを納入してきた。今は一個50円もらっているが16日だけでも7人が朝から7時間かかっている。18日は5人が3時間、届ける時間なども合わせると70時間はかかっている。
 適当な大きさの布袋竹が一番竹羊羹に合うが、これを節の下から12-13cmに切り、ベルトサンダーで角を取って、白いカビが付いている部分や汚れをぬので落とす作業を仲間の流れ作業でしているが、1人や二人ではとても出来ない仕事である。経済的な請負仕事としてはとてもやれるものではない。
 かかっている手間からすれば一個50円は安すぎるけれど、私たちが始めたきっかけの一つは四百年続く地域の菓子屋さんの伝統的なお菓子作りに協力して少しでも良き伝統の継続に協力したいことである。いろんな分野で起こってきている事柄であるが、効率や金儲け基準だけであると伝統の継続はとても大変である。いつ頃だったか依頼主の菓子屋さんが貴方がたが羊羹竹を作ってくれなくなれまば竹羊羹を続けるのは難しくなるだろうと言われたことがある。だから竹羊羹もプラスチック製になったり廃れたりしていくのである。
 ベルファームの竹林維持管理だけでも私たちがやれなくなれば放置竹林に戻る可能性は大である。今後益々人口減少が進んでいく中では、それは止むを得ない事かもしれないが、可能な限りは維持したいものである。6/21
 

『三重スローライフ協会 活動の記録誌 2003-2021』の完成と反応

 2022年3月31日(2021年度終わり)にNPO法人の解散届を出してから間もなく、主に広報担当の森本理事との間で進めた「活動の記録誌」は5月の半ばにほぼ完成していて、発送もほぼ半分は森本さんに手伝ってもらえることになり、私が担当すべき200部の冊子が自宅に届いたのは5月27日だった。
 それから日々いろんなことに追われながら、挨拶文への一筆とか、宛先も手書きで書き、切手収集で集めた記念切手とかを貼ったりしていてなかなか進まないのだが、その後の経過についてもまた整理したいと思っている。確か6月6日にお送りさせていただいた大先輩の先生から思いもかけないお言葉をいただいた。それは私たちの今後の活動にも力になる内容なので共有させてもらいたい。(以下アンダーラインは筆者)

◯その一。高橋正郎先生から
  このたび『三重スローライフ協会 活動の記録誌』をご恵贈賜り、誠にありがとうございました。
 貴殿は、学者・研究者であるとともに、根気ある「活動家」として、その実績をあげてこられ、常日頃から尊敬いたしておりました。
 この冊子は、その「活動家」としての実績を簡潔にまとめられ、多くの写真が挿入されたの冊子で、その20年間の歴史が手に取るように読めます。
 なお、何事も「ことはじめ」は簡単ですが、「ことを納める」のは容易なことではありません。しかし、貴殿はそれを為し遂げました。
 私にも経験がありますが、NPOはその活動資金のやりくりがむつかしく、貴殿の「総括」の末尾にあるように、「精算では147万円のマイナス・・・・20万円を岩森理事、残りを」貴殿が負担したように記載されております。まさに自腹を切っての「活動」であったことと読み、あらためて敬意を抱きました。
 「スローライフ」というキーワードが、マスコミに一次は取り上げられましたが、その後、忘れられたように目にしません。しかし、三重をはじめ、草の根の活動として、各地に根付いているものと信じています。雑草のようにそれがジワジワと拡がることをゆっくり待ちたいと思います。
 いずれにせよ、長い間ご苦労様でした。この冊子は“有終の美”として末永く残ることでしょう。

◯その二。樋口貞三先生から
 
『貴重な冊子をいただきました』
♦三重大学名誉教授の大原興太郎先生から『三重スローライフ協会:活動の記録誌2003-“た2021』が送られてきました。年賀状もやめた現在、交流が途絶えていましたが、お元気に地域の強力なブレーンを務めておられたことをしり、敬服するだけです。イタリア発、1980年台の“スローフード宣言”は日本でも大きく取り上げられ、それを根とするさまざまな運動の種となったと理解しておりますが、それとの関連はともかく、大原さんの20年に及ぶ活動の記録、そして“種を渡す”という区切り方に大拍手を送りたいと思います。長いことご苦労様でした。新しくまた種が花開き、実を結びますよう、お祈りしております。

◯お二人から学ぶべきこと。
 農業経済分野の著名な研究者で教育者でもおありのお二人は卒寿あるいは少し超えられた大先輩である。受取から日を置かずにポイントを絞った内容を後輩に伝えることは、私が勇気づけられたようにできるかぎり見習いたいものだと思う。お褒めの部分は割り引くとしても両先生が教育者としてもずっと見守っていただいていたからだろうと思う。研究者としてはほとんど何もなし得なかった身としてはせめて教育者としては後輩たちを見守りたいとは思っているが、その思いを改めて喚起させていただいた。

「ケチ」、モノを活かし切るということについて

 5月21日開催のスローライフの会の月一回のさんか・さろん(139回)にズーム参加した。エッセイスト小笠原洋子さんの「エレガンスに『ケチ上手』」がテーマであった。いつも気になるキーワードなので改めて国語辞典をひいてみたところ、ケチ、吝嗇(リンショク)とは、①金銭や品物を惜しがって出さないこと、②粗末なこと。劣っていること。③縁起が悪いこと。悪評。(小学館『現代国語例解辞典』)また、岩波『国語辞典』第二版では、イ、必要以上にものを惜しがること、または人。ロ、みすぼらしく、くだらないこと。ハ、景気が悪いこと、とある。辞書が古いこともあるかもしれないが、おおよそマイナスイメージにつながることしか書かれていない。ある意味ちょっとショックです。5/22
 さろんでの小笠原さんの主張は、「エレガンスに『ケチじょうず』」、「太平洋戦争の戦時下を生きた私の親たちが、終戦後も懸命に貧しさをかいくぐって生きた生活のヒントを、私は尊い精神的遺産として、今後の世界に向けて伝えたいとも思っています。」(さんか・さろん用メモ)、「そして軽いお財布とシンプルな暮らしを、楽しむまでに高めるには、アイディアを駆使した生活スタイルの中にあるような気がします」と。
 自分にはエレガントさは縁遠いかもという自覚はあるが、生活スタイルとしては全く同感である。高度経済成長期のカネカネのスタイルに多少はなびいても完全には魂を売り渡さなかった人々、あるいは古い世代には共感することが多いことだろうと思う。そして一日千円の出費目標というのも分かりやすくていいなと思った。
 小笠原さんのお話に触発されながら、自分の生きてきた過去とそのスタイルの淵源をいろいろと考えてみた。ちなみにさろんでも発言させてもらったが、私も一ヶ月の飲食費は平均すると3万円以下で済んでいる。この中には仲間に時々差し上げる果物ジャムの素材費やごくたまにカレー十人分ほど作っていったりする食材費も入っている。別に我慢しているわけでも何でも無いが今の一人暮らしの中で自然体で暮らしている結果がそうなっているのである。
 改めて振り返ってみると、自分が農家の生まれで小さい頃は基本的に自給的生活をしていてそのスタイル(もったいない、モノは可能な限り活かして使う)が身についてしまっている。食べられるかどうかは賞味期限ではなく、モノの状態を見て判断するクセになっていること。買い物も子どもたちの弁当を毎日作っていたときには賞味期限も見ていたが、子どもたちが家を離れて一人暮らしになってからは期限切れ近いものから買うようになり、結果として値引きしていることが多く節約になっている。1970年頃家から月に一万円もらって京都で院生生活をしていた時に、ある時倒れて病院に担ぎ込まれて栄養失調だと言われた経験があり、その後アルバイトも見つかって生活は改善したが、自家の苦しいやりくりの中、教育費としてもらっていたので貧乏性(できるだけ始末して生活すること)が身についてしまった。
 いろんな事情で一人子育てをすることになって、周りに気を使うこともなく意思決定が気楽になり、さらに一人暮らしになってからは「メニュー」ありきではなく、ほとんど「素材」ありきで調理するようになった。自ずから旬のものが多くなり、結果として食材費も低くなっている。定年後は直売所を運営しているところにいるので、なおさら旬のものがお値打ちに買える。このような好条件が結果として食品ロスの減少にもつながっていると思うので有り難い。
 本などを含めなかなか物を捨てられない理由の一つに物との付き合い方があると思っている。ものに愛着が湧きやすいということもあるのかもしれないが、基本的にはモノを活かしきりたいのである。タオルが汚くなりかければ、雑巾にして、それも駄目になってくれば汚いものを拭き取って捨てるといったカスケード利用をしてでも使えるものは活かしたいのである。職場の体型の似た後輩にあまり着ていないクリーニングをかけた背広などもらって頂くのは嬉しいのだが、使えそうなものはなかなか捨てられない。
 大学の定年退官時に在職36年間に私費で買っていた数千冊の本を持ち帰るために退職金を半分使って書庫を建てた。定年後にゆっくり読もうと微かに考えてはいたが、請われて農業公園の管理運営に携わることになり、その夢も実現が怪しくなっている。本は少なくともはじめにと終わりには見て買っているが、ここまでになると集めるのが趣味みたいなもので、別の人からみれば"もったいない"の極みかもしれない。今時あちこちの図書館も書庫が一杯で寄贈しようにも受け入れできないとのこと。元の学生や留学生たちに時々もらって頂く以外、本の活かしようが思いつかないのが悩みの一つである。6/5

GW過ぎて、エネルギー尽きて…生きている充実感はあるが

 令和6年度の初めの一ヶ月があっという間に過ぎ去った。
放送大学は心理と教育コースを卒業できたあと人間と文化コースに転コースし、科目は少なくしたが集中以外4科目の授業が始まった。夏野菜の苗も植えてキューリとミニトマトはよく育っているが、ブロッコリーは早丸々虫に食べられてしまった。花の鉢を増やしすぎてベルファームに持っていく切り花には困らなくなったが管理に結構時間がかかっている。日差しの中での作業は楽しいが少し縮小しないと…。そういえば既存の巨峰の木が枯れたかと思って買ってきたブドウ苗が育ってきたが、枯れたと思っていた巨峰の幹から新しい芽が出て伸びだした。ブドウの生命力に感動である。
巨峰枯木の新芽シャクヤクとクレマチス菜園











 ゴールデンウィーク(GW)は予定を詰めすぎて、歳をあまり考えず動きすぎた。そのツケはすぐ翌日七日に出た。腰・背中の張りが強くかなりひどい腰痛。昨日は少し早く帰らせてもらってマッサージをしてもらい温泉でほぐしたにも関わらずである。何とか腰をかばいながら食事準備とか庭の花の水やりとか最低限の動きをしながら後は横になっているという具合だった。睡眠も長めに取ったがほとんど改善の兆候が見られず、今週に予定していた姉の施設訪問や京都にいる娘にスーツケースを届けるのも取りやめ、木曜日の会社の会議も休ませてもらうことにした。GWが過ぎて早4日目、散歩もひかえているが腰は多少マシになった程度。12日はベルファーム手作り市に参加の予定なので腰ベルトのママでも行くことになろう。
 それでもGWは充実感のある日々だった。5/5の竹林街道ウォーキングは4回目。今年の参加者は21名と30名の低イン切れではあったが、これまでのように筍弁当を楽しんでもらい、参加した子どもたちはその後ダーツやゴム鉄砲遊びも楽しんでくれた。(5/9)
 5/3夕方から5/5の朝までは一年余りぶりに息子家族3人が帰省。5/4は孫の希望で名古屋のリニア・鉄道館へ4人で行って孫の成長ぶりが見られたのは幸せだった。息子には相変わらず、これは危ないとか、選んでいないでみんな捨ててしまえとか言われるのだが、ITには強いのでパソコンやスマホの使い勝手を良くしてもらえるのはありがたいです。普段は1人で好き勝手しているので、思う通りにしかない経験ができるのも有り難いことかもとも思います。
リニア鉄道館でアーバンライナー (3)











 もう一つGWの休み中にできたことは、放送大学の受講がきっかけでお会いさせてもらい、時々スーパーバイズも受けることができた臨床心理士(家族療法学会の認定ファミリーセラピストでもある)のW先生の岐阜の山の家を訪問できたことである。山間部の傾斜地に娘さんが経営する喫茶店を兼ねた素敵なところだった。自然木を利用したツリーハウスがあり、見晴らしが良くてスローライフを楽しめるところだった。ジャムや竹の手作り品をお持ちしたが、手作りのジェラートが素敵な味だった。(5/11)
 ツリーハウスと見晴らしの良い山の家ツリーハウス (1)w付知の菜園から

寝食、苦難を共にした留学生たちとの関係は時を超える

 コロナが始まって日本でマスクが市場からなくなったときに中国からマスクを送ってくれた程士国さんから、「4月1日に三重大学の中国学友会約30人は三重大を表敬訪問する予定ですが、王初文さん、李梅梅さん、樊輝さん及び私はそのツアーに参加しております。もし先生のご都合が良ければ、3月31日午後、大原先生研究室のメンバーは先生との話合会を行いたいです。」とのメールが届いたのは2月28日だった。その後のやり取りで3月30日お昼に自宅に来てもらってカレーでも作るからということになった。
  程さん、王さん、ファンさんは中国でも会っているが、李さんは1991年頃の修士終了以来なので33年ぶりである。当初は彼・彼女らの身元引受人にもなったりし、ゼミ合宿ではみんなで温泉宿に泊まったりして何とか論文が書けて修了できるようにと共に闘った戦友みたいなものである。そうしたベースがあったからだろうか、あっという間にとても賑やかな関係に戻った。
経営留学生書庫二階経営留学生夕食




 

  我が家での交流   彼らからの夕食招待

 自宅に来てくれたのは研究室出の4人にそのつれあいと友達の合計6人だったが、彼、彼女らがとても仲がいいのも嬉しかった。カレーの他に自作のらっきょう漬けや梅酒も提供したが、もともと食の細かった一人がカレーを少し残したほかは全部喜んで食べてくれた。そして食べた後はうまく分担して食器も洗ってくれたので、後片付けが少なくてすみありがたかった。
 4月1日の生物資源学部での三重大学との座談会と大学食堂パセオでの交流会には中国からの留学生30名と大学側や日中交流協会の数名ずつも参加して賑やかだった。
 留学生たちは銘々が心尽くしのお土産も持ってきてくれたので、我が研究室の卒業生4名の一人一人に少しのお菓子と共通のメッセージとそれぞれへのメッセージを届けた。
留学生への手紙
留学生一人ひとりへのメッセージ(左)

経営同窓生四季折々留学生交流会で






三重大での交流会
           (程さん、李さん、王さん、ファンさん、社会人博士の山内さん)

  30日と1日の2日間、場所を4箇所移動しての濃密な交流の時間だった。まさに「友遠方より来る、また楽しからずや」である。心身が衰えている自分には疲れるくらいの楽しい時間であったが、それは単に楽しいということではなく、人としての深い交流があったからこそなのだろう。数年前に程さんにあったときに彼から、当時の先生は簡単に声をかけられないほど怖かったですよ、といわれてびっくりしたことがある。
 博士の学位を目指していた程さん、ファンさん、山内さんは3つ以上の学術論文(学会誌論文など)を出した上に博士の学位論文を書き上げねばならなかった。そして私の63歳での定年という時間の縛りがあった。一人ひとりの学習スケジュールを相談しながらの闘いであった。山内さんが留学生たちが来ることを聞いて会いに来たのは同じ苦闘を経験した者同士だからであろう。ファン君とは緊張緩和によく極楽湯にも連れて行ったが、彼はその後研究室に戻って論文を執筆し、研究室の窓から朝日をみたことがよくあったという。
 留学生を受け入れ始めた1990年代はじめ頃の李さん、王さんへの対応は戸惑いながらもまだ余裕があった。私は家庭的にはいろいろあったが、安定期で子供の弁当を作っていたくらいでまだ余裕があった。これが2000年代に入ると仕事が多面的に増え、特に定年間際の数年には博士や修士をめざす留学生が毎年数人以上いた上に、講義やゼミのほか、いくつかの社会的な役割(審議会委員やスローライフ活動等)もあった。さらに、学部の4つの付属施設の再編でフィールドサイエンスセンターを作り、その初代所長(2期4年)を務めていたので、忙しさは半端ではなかった。必要以上に留学生や研究生に厳しかったとしたら申し訳ないことだった。それでもお互いにギリギリの中で頑張れたからこそ今のようなつながりに結果しているのだと思う。4/4


放送大学の学位授与式に参加してみて

 年度末はいつもあれやこれやで時間が過ぎてしまうなあー。人生の残り時間はどんどん短くなっているはずなのに、自分の行動を振り返ってみると、あれもしなきゃこれもしなきゃであっという間に年度末も押し詰まってまさに「光陰矢の如し」である。三年前に放送大学教養学部の心理と教育コースの2年次に編入して三年が経ち、今年3月卒業ですよという連絡が本部から届いたのが3月はじめ頃だった。最初から心理学を総合的に学びたかったけれども卒業はほとんど意識していなかった。3/26
 それからまた書ききれない内にあれこれの予定が入って10日も経ち、途中まで書いた原稿がよく消えていたりで冴えない日々です。いい加減にこのへんで決着を。
24日の放送大学学位授与式に出席してみての大きな収穫は、放送大学教養学部の6つのコースを全部卒業した人が、その日出席した人の中にいて、後の交流会には同窓生の中にさらに二人もおられたことだった。80歳を超えての卒業者には梅川センター長からの特別賞が渡された(その日の最高齢は86歳、同窓会の交流会には90歳の人が参加されていた)。79歳の私などまだまだであることを実感させられた。
 
学位記授与式梅川センター長と (1)学位記
 





立派な学位記にカーネーションも




   梅川センター―長との写真

 私の現役時代にもあちこちの大学を卒業するのが趣味?のような人がいた。それはそれで立派なことだと思うが、私はもう少し欲が深いので、学んだことを何とか社会に活かしたい、少し考えていることがあるので夏までには実行に移したい。4/4

久しぶりの一日二万歩ー自然生芋こんにゃく作りの日

 2月17日、野菜ソムリエのNさんに参加してもらう都合で土曜日の開催となり、竹仲間8人が参加した。まとめきれぬ内に次々と予定の消化のような事態で早一週間が過ぎ去ろうとしている。
 当日はいろいろとすることが多かったので、地区でのラジオ体操の後、芸濃インターから高速に乗って8時10分にはベルファームに着いた。すぐに南駐車場を始め、園内諸施設のある一角の周辺のゴミ拾いをして、花生けは半分だけ済ませて、竹仲間が集ってくる時間に木漏れ日広場に戻り、生芋こんにゃく作りは11時からなので、それまでにこもれび広場でこんにゃく芋を湯がいて準備する(ほとんど笹原さんがやってくれた)とともに、いつもの私たちの食事場所になっている八角テーブルの丸太椅子の取替作業を行った。(2/25)

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  2月11日に森林公園に倒れた木の丸太があり、園長が持っていってもいいよとのことで数個は運んでいたが、少しテーブルに比して低かったので、チェンソーを持ってきてくれるUさんが来てくれることもあり、森林内に転がっている少し長めの丸太から椅子を切り出すことになったのである。大工のMさんが座る位置を大型カンナで丸めてくれていい感じになった。
 11時からは技の工房で「生芋こんにゃく作り」昨年だったかにまとめているステップとあまり変わらないのであるが、二鍋作って最初は少し竹灰汁の割合が芋の3割程度に留まってしまって少し柔らかめになった。灰汁との割合や湯で時間などでなかなか難しいところがあるが、石灰などで固めたものと比べると独特の噛みごたえがあるように思われる。今年使った芋は4、5年ものであるが、栽培から含めると随分と手間がかかっているが、まさにスローフードでその分味わいがある。
こんにゃく作り20240217 (2)こんにゃく作り20240217 (1)






 こんにゃく作りは13時すぎまでかかり、それから昼食のお弁当をみんなで食べて、一応解散になった。何人かが後始末などを手伝ってくれたが、みんな帰ってからも八角テーブルの丸太椅子のまわりにNさんが仕入れておいてくれた赤瓦チップを撒いてちょっと見られる感じになった。その間にも15箇所ほどの花生けをいつもどおりしていたりして動き詰めだったのでほぼ二万歩にもなったのだろう。(なんか次から次へとやることがあって半月以上もかかってしまいました3/6)

入り口renewal入り口花鉢 
綺麗になったこもれび広場の入り口

ヤバい!と思いながらも動き続けてしまう習性

 相変わらずまとめたり整理したりするのが苦手で、日々ブログにしてみたい内容を思い描き、ストーリーを考えてみたりすることは多いのに、いざ書くとなると抵抗感(それに時間がかかりすぎる?)が生じてバスしてしまう。
 昨日(2/11)は竹遊倶楽部の合同作業日だった。案内以外特別に呼びかけなかったが6人集まってくれた。1月に園長から環境整備などにボランティア活動支援金を頂いたこともあり、前々から考えていたこもれび広場をもう少し来園者が来やすい場所にするための花の植栽等をすることにした。Kさんが6個のプランターを持ってきてくれたので、今日参加してくれた女性陣二人と共に花植えをし、N.Tさんが買ってきておいてくれた赤瓦チップを花壇の周辺に敷くことにした。
   こもれび広場の入口付近から鬼が池側の手すり近くの植え込みの区画にはまだ落ち葉がたくさん残っていて、笹もかなり生えているのでその整備が先であった。
 8日の経営会議の始まる前にベルトサンダーを使って燻竹楊枝の少し長いセットを作っているときも腕や昔痛めた肩がかなり痛かった。特に右腕は生活の中で使わざるを得ないのでマッサージや温泉でもみほぐしていてもなかなか治りにくい状態だった。
 それでも動かせば動くのでみんなと作業している時にはどうしても無理をしてしまう。この日は午後の13:30から学士会関連の「人間の本質に迫る医学とスピリチュアル」のズーム講演会を入れていたので、昼過ぎには帰らざるを得ず、朝は高速を使って8時過ぎにベルファームに着き、ルーチンワークの園内3箇所15本の一輪挿し等を済ませ、上記の花植えの段取りだったので、いつものコーヒータイムはつくりながらもほとんど動き詰めだった。作業中も特に右腕は痛んでいたが、何とか思っているところまで進める習性のお陰で一応の格好がつく程度にはできあがった。火の始末だけNKさんにお願いして、帰りも高速道路を利用したがズーム講演会は始まっていた。
 帯津良一氏と高野覚の対談風でのやり取りは頷く点が多かった。ホーリスティク医学の大事さ、薬やエビデンスに便り過ぎの現代医学への批判、死生学の大事さ、「生きる悲しみを敬う」ことの意味など。
 何とかここまで終えたが、さすがに肩はガチガチ、腕は痛む、腰や背中もつらいので、マッサージ店なごみのTさんに40分してもらい、極楽湯でもみほぐして帰った。それでもあまりほぐれず、熟睡できずによく覚えていないが、いろんな夢を見て寝返りばかり売ってシーツがくちゃくちゃになっていたからかなり疲れていたのだろう。今朝は一瞬散歩止めておこうかなとも思ったが、ベッドでのカイロプラティックを念入りにやって普通に速歩できたのでまず一安心である。
 昔から好きなマラソンでどんなに足やお腹が痛くても全力で完走することは続けられた習性のおかげかな。2/12(2/22re)

出さなくても届く年賀状に改めて感謝!

 一昨日放送大学の後期のWeb試験が終了した。やっぱり気が楽になったので、先延ばしの仕事を進めねばならない。二、三年前から年賀も失礼するようになっているが、それでも今年も30通あまり届いた。ほとんどが一言以上書いて家族や仕事の様子を知らせてくれる人たちでありありがたい事である。ほとんどできていない終活などやることは多く、空いている講演を聞きに行ったりすぐに予定を詰めてしまうけれど、基本的には自由度が高いので会いたいと言ってくれる人にはぜひ会いたいし、ブログを見ているよと言ってくれる人もいるので、こちらも伝えたいことをもう少し要領よくまとめられるようになりたいものです。
 子どもさんが大きくなったと家族写真を送ってくれる人が何人かいますが二十歳近くの娘さんと40-50代のお母さんが写っていると兄弟姉妹かと見間違うことがよくある。私たちの子供時代の50-60代のじいさん、ばあさんは腰が曲がっている人が多かった。この半世紀あまりの間に農作業も機械化されたし、栄養は良くなり、化粧品の質も良くなったので、今や70-80代でもきれいな人が少なくない。もう一つの要因はずっと平和が続いてきたこともあろう。
 その平和で安心した社会を崩すのは戦争を含む国際的な紛争であり、致命的な自然災害である。ロシアのウクライナ侵攻、イスラエルとガザの問題(今回の引き金はハマスだとしてもイスラエルのガザ空爆は目に余るものがある)、アフガニスタンもまだ復興には程遠いし、シリア、リビア、イエメンなどの内線も解決していない。その上異常気象の常態化によるさまざまな自然災害が発生している。猛暑、森林の大火災、洪水、そして地震、元日に起こった能登半島地震は時を経るごとに被害が増大し、地震の被害を増大した火災についても初期消火がうまくいっていればこんなに広がらなかったのではということも言われている。とりあえずは募金をすることくらいしか出来ないのであるが、三重県人としてはまだあまり危機感のない南海トラフ巨大地震への対応を呼び起こしてくれるものでもある。
 マグニチュード8-9クラスの地震の30年以内の発生確率は70-80%(2020.1.24時点)とされている。自宅にいる時に起こるとすると津波の心配はないとしても住宅の古い部分はもたない可能性があるし、水や多少の食料、燃料用の竹炭の数日分はあるとしても、電気や水道ガスなどのインフラが長く使えないとすれば、そして地域であるいは会社でどのような緊急対応ができるのか…、まだまだこれからの課題のようである。1/26

卒寿に記念出版本を出した方に勇気づけられて

 卒寿といえば90歳である。昨年の竹文化振興協会の総会が京都であり、1人で参加した時に、長く(40年)京都大学演習林の文部技官を務められ、その後も竹文化関係のさまざまな活躍をしてこられた渡邊政俊先生が卒寿祈念に出版された『竹とともに生きた我が人生』というご本をいただいた。いつも追われているような生活の中でペラペラとめくって凄いものを出されたなあ、との印象はあったが、竹仲間に紹介したくらいでそのままになっていた。
 今回、村落研究学会のメールで『年報 村落社会研究』60集における各分野の研究動向執筆に関する業績情報提供のお願い、という内容があった。多い時には15あまりも入っていた学会研究会もどんどん減らしてきて、今や村落研究学会と最初に入会してずっと続けている地域農業経済学会、それに先祖が関係していたらしいということで数年前の設立以来入った国際忍者学会の3つには入っているだけで学会活動らしきこともしていない。
 それで渡邊先生のご本はタイトルからすると随筆みたいで研究とはみなされないかもしれないけれど、実地に世界中を歩かれて各章に引用文献もつけられているこの本の価値を先ずは提案してみたいと思った。たまたま[林業および林業経済・経営]という分野を担当されているのが林田朋幸さんで以前に彼の学位論文の作成に関する調査でほんの少しお手伝いしたことがあり、面識があったので渡辺さんの本の奥付と目次などをメールでお送りして対象になるかどうかを尋ねてみた。そしたらすぐに読んでみたいとの返事があり、渡邊先生と竹文化振興協会の事務局に連絡を取り、一冊寄贈してもらえることになったのである。ある意味周辺部にいる私だからこそ取り次げたのではないかと、人のことながらちょっとヤッタという満足感があった。少なくとも料理をたくさん作って近所に上げたり、売れない竹細工を作ったりしているよりは自分の仕事をしたよな、という感じなのである。
 スローライフ活動の個人的な振り返りや次世代に残したいことをいろいろと考えたりするが、仕事を先延ばしばかりしている現状に諦めが先に立っていたのだが、渡邊先生の本を読み返したりして、まだ諦めちゃダメだとダメ太郎さんに叱咤する自分がいた。1/18
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今の子供たちに見る希望ー楽しいお正月から

 ベルフアームは元日のみ休みで、1月2日と3日は「楽しいお正月イベント」。お餅つきは相変わらずの人気で園長自ら手返しをして対応している。お正月遊びということでコマ回し、羽子板、けん玉を提供し、少し前までは子どもたちを呼び寄せるために〇〇選手権とかで上位者に景品を出したりしていたが、今年はスタッフの人手が足りないこともあり、遊び道具だけ広場に出していた。それでも自由に随分と遊んでいた。今は子供でもスマホを持っていてよくゲームをしているのはその通りなんだろうけれど、むしろ逆に体を動かして遊ぶことが却って面白いのかなと思ったりする。
 2日の日、木漏れ日広場に遊びに来た家族連れがいた。最初小学校高学年くらいの女の子が竹馬に挑戦して数回の試行錯誤の後見事に乗りこなした。次いでその母親と思しき人もやはり数回の試行錯誤のうち乗りこなした。まだあまり歳を意識していない自分は試みてひっくり返り後頭部を打ったりしていたのに、若い世代に脱帽である。若い人たちはブレイクダンスとかジャズダンスとか複雑な動きするバランス感覚とか体幹が優れているなと感じることが多く、大谷に限らずいろんな分野で世界と闘っていて凄いなと思う。将棋の藤井名人のようにAIをこなした上で人間的能力を高めている人も少なくない。高齢者からするとえらい時代が来たものだと思うが、若い人は新しい時代を作っていくのだろう。
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今年の方向性を暗示する一枚の紙

 12月の後半もあれこれの予定が入っていて整理しまとめてみたいことがいろいろとあったが、日々の生活優先と体調維持の散歩、食事、マッサージ等に時間を取られていたらいつのまにか年が超えていた。食事の片付けなどをしながらチラチラと紅白歌合戦も見ていたが見終わらぬうちに疲れもなお溜まっていたか22時すぎに床についた。夜中に一度トイレに行ったが…、いやパソコン作業をしながらいつのまにか打とうとしてしまい2時頃目覚めて再び眠くなるまで1-2時間作業していたのは一昨日のことだったのかな?最近、すぐに思い出せなくなるし、意識が混濁してしまう。
 いずれにしても今朝(元日)は六時半の定時目覚まし(ふつうその30分か一時間前に起きて布団の中でヨガ体操のある部分をしているが…)には気づかず、起きたのが7時47分。とりあえず外出着に着替えて最近のルーチンになっている地元の須賀神社にお参りをする。好きだった運転も結構疲れるようになっているので交通安全のお守りを取り替え、おみくじをひいた。
 第二十三番の「大吉」。昨年の暮れころから、自分は何がしたいのか、何に時間をかけるのが周りにも自分にもいいのか、を考えていていくつか気づくことがあった。おみくじの内容はある意味それを後押しするようなものであった。もちろん凶が出ても、こういうことに気をつけろということだなと勝手に解釈するのだが、弱い人間にとっては何事も客観性を失わないようにしながらも前向きに捉えていく方が都合がいいのである。
 その内容は「興奮と刺激の多い時。幅広い交際が道の扉を開く。今こそ積極的に出れば、大きく花開く像。口論議論避けて賢明。追い風を利用せよ。」である。そして、個別の項目をつまみ食いすると。◯願望 慎み叶えられる。◯失物 出てくる。◯争事 口は災い。◯学問 一心に勉強を。◯待人 来る。◯旅行 朝に難あり。◯病気 安静がなにより。さらに私にはほとんど関係ないがベルファームがそうだったらいいなということが…。◯商売 利多い。◯求人 良き人あり。
 私の子どもは「お父さんはずっと好きなことをしている!」と思っているようで、それは間違ってもいないけれど、田舎で長男で育って父親がずっと仕事で家を出ていたのでその代わりとして親戚の冠婚葬祭の出席や部落の常会などにも高校生の頃から家を代表して出ることが多かった。そんな中であれこれと気働きができるようになった。実はこれはよし悪しなのであるが、忖度の文化に馴染みすぎたとも言えるし、あまり座を乱さないで自己主張が苦手に育ってしまったとも言える。だからどうしても周りや集団の中で自分が何をするのが全体がうまくいくのかと考えすぎてストレスが溜まることもある。自分のしたいことを後回しにして集団の中での役割を優先したとしても、その意味を納得して腹が座っていれば何も迷うことや悩むことは無いはずなのである。
 12月の半ば、一人参加が可能な一日バス旅行(今年からはじめ、二回目)に参加したが、バスに乗っている時間が長いので、たくさん買っていてちゃんと読めていない河合隼雄氏の本を持っていったが、引き込まれるように読めて大きな収穫だった。そこで再確認したことは、「中心を外さずに、ただそこにいる」ことで数えきれない心の病の患者さんを治されてきた凄さとそのことの大事さである。信頼関係ができ、心のコミュニケーションができるようになってくるとその人自身の自己治癒力が活性化してくるとも言えるだろうか。学者としても一流であるが、臨床の現場を大事にし、心を病んでいる人が一人でも多く治っていくことを自分の使命とも考えておられたかにみえる河合先生の生き様は心を打ち、残り人生の力を注ぐべき事柄へのヒント、出来不出来に関わらずやりうることがあるとの啓示があった。元々農業経営の研究でも現場を大事にしてはきたし、そこから教えられることも多かったけれども、中心を外さずにただそこにいる、ということの凄みに、改めて戦慄するものがあった。
 それともう一つは昔からバスには酔いやすかったのに、歳をとって三半規管の感度が衰えたためなのか、車酔いの気持ち悪さを遥かに超える本の面白さがあったためか、久しぶりの読書三昧の時間だった。これまで車に乗り出して数十年、国内旅行といえば自家用車であったし、友達と行ってもほとんど自分が運転しているので、その間は何もできない。でもバスや列車の旅行なら道中本が読めるなというちょっとした発見だった。
 ここまで読み返してみても方向性の暗示に関する中身がかけていないのであるが、昨年の総括と今年の目標に関わる問題でもあるので、もう少し整理できた段階でまた伝えることとしたい。

ベルファーム竹林整備の現状と振り返りー竹遊倶楽部

 2023年12月17日、壊れかけた黒竹前の竹柵の整備処分など環境整備の後、今年最後の竹遊倶楽部の共同作業の締めとして昼食会兼振り返りの会を松阪市森林公園で開かせてもらった。この日は松阪マラソンの日と重なったこともあり、2名の参加予定者がマラソンの交通規制に引っかかって森林公園に辿り着けなかった。
 当倶楽部の重鎮でダントツに多く竹林整備に関わっていただいている笹原さんから今年度のこれまでの活動状況や、亀甲竹、黒竹、四方竹、仏胆竹、布袋竹、斑入り業平竹などの景竹林が育ってきていることの報告があった。今回集まれた8名からは様々な意見や今後に向けての構想などの発表があった。今年は8年前の当初からの活動仲間2名の逝去があった。平均年齢が80歳に近い年齢を考えると若い人の加入が課題ではあるが、なかなか難しく、活動領域を絞らざるを得ないことも提案された。
 来年度に向けては、現在電源が途切れて物置状態になっている竹遊工房の本来的機能、竹工作をできるような状態に復活することを最優先課題として、竹林整備については竹見本園のある竹林Aの整備を優先的にしていくことが了解された。
 私たちがそのきっかけをつくった美濃田竹林街道の整備については、以前から要請しているように地元の美濃田及び野村が主体となる体制ができることを期待したい。当街道の整備は、私たちの仲間でもある美濃田地区の中井さんの個人的な努力によるところが大きく、要請に応じて今後も可能な限りの協力はしていくことになろう。

整備竹林遠景 (1)整備後竹林B
景竹林の遠景





整備竹林入り口2023.11末整備竹林亀甲竹、黒竹整備竹林2023.11末 (1)






  竹林の入り口と整備状況(2023年11月末)


変な夢が暗示するものは何なんだろう?

 11月いっぱいまでいろいろと追われていて、11/13-18の断食の効果もあって何とか乗り切れた。12月に入ってとりあえず台所のテーブルの上と書斎が機能する程度にファイルボックスなどの整理を始め、スローライフ活動、ベルファーム、竹遊倶楽部、新聞等のスクラップ、放送大学関連、等々複数あちこちにあったりするボックスをある程度まとめられた。3日間かなり根気よく片付けていた夜、いろんなことを考えて寝入りが悪く、2時頃トイレに起きて、その後もよく眠れず、4時ころから寝ながら枕元のメモ帳に寝たままボールペンを走らせた。

 

―ファイルの中身に目を通しながらの整理なので、まるで情報のシャワーである。

0時頃床について、2時にトイレに起き、4時すぎからメモを取り出し、半分夢なのか現実なのかわからないような部分もありながら…

―どこかに留学しているのか、勉強仲間に加わって、合宿のような形でそれぞれの研究構想をつくったりしている。そして自分の発言が人のまとめに役立ったりしている…(これって この二三日の片付けに伴う意味ある情報が頭を通過あるいは再通過していったからでは…それってみんな書くとすれば自分史の材料になりうるもの)

―それがなぜ研究テーマのぎろんみたいになっているのかな→ここしばらくの放送大学の学習で、卒業要件には必修ではないのだが、心理学で卒論を書いてみようかどうしょうかと時々考えていたことに繋がっているのか?…

―受講科目の「錯覚の科学」の中でもでてきた「ヒューリスティック」(経験や先入観によって直感的にある程度正解に近い答えを得ることが出来る発見的方法という)って、手痛い間違いをすることもあるが、人間が生きていく上で有効な方法であるという。確かに私はヒューリスティックを使うことが多いように思う。

―しかしながら、問題解決のもう一つの手法である「論理的アプローチ」は苦手だなあ―、できないなぁーと、最近は何度も感じることがある。

・書斎の片付けも書斎机の配置換えを下の娘に手伝ってもらってから半年にもなろうかというのに、ほとんど進んでいない理由の1つは段取りが下手になっているからではないかという気がしている。どこにどの資料を配置したほうが仕事がよく進むのか、今後何事を優先したいのか、全体的な見取り図を的確に描くには論理的思考が不可欠なのではないか?

―すっかり忘れていたが(最近とみに物忘れが酷いが…)、1985年頃から定年(2008)までの絶えず修正しつつの中期計画が出てきた。当時まだ小学校低学年の二人の子供の子育ての見通しをベースに、どんな共同研究を何年して、社会的な活動、〇〇委員や〇〇会会長などをいつまでしてなどのように、そこにはかなり精密な人生設計のようなものが描かれていた。それに比べて今は…、と考えたくなってしまうが、今は今現状でできることをするしかないのだが、他人に合わせることも含めて、勇気を持って止めることを増やしていくことしかないのかもしれない…

―何かいろんな夢をみていた気がするのは、熟睡できていないから。寝ながら背中や腰の痛みを感じていたのは、一昨日は動き過ぎたのもあるのかもしれない。体のキレが良かったのか、朝のいつもの2.3kmの散歩が24’09”と最近にない速さだったし、日中も動きっぱなしだった。

―それでも、今後第二弾、三弾の整理は必要になろうが、ベルファーム関連、スローライフ、自分史資料、情報スクラッフ、家や施設がらみの事、家族や友達とのやり取り資料など、一次的なファイルボックスによる区分がある程度でも進んだ。

―これは面白い記事だけれどどうしょう?、というようなファイル資料は何箱もの平ファイルボックスに入れたまま。反面、これはもう捨てようと決断できる資料は残念ながらほんの少ししか出てこない。ということは、男性の平均寿命は81歳、80歳の平均余命が8年ほど、平均的にあと10年ほど生きる可能性があるとしても、死ぬまで延々と整理を続けていることにもなりかねない…。これって方略の間違いなのでは?

12月に入って3日間は結構書類整理に時間を割いたためか肩腰のみならず、両腕まで痛い。結構頭は回っているのに、他方でドーンとした疲れは感じていて、まだこのママ寝ていたい感じも持ちながら、横になりながらメモのペンはしばらく走らせた。

―メモがあるのにそれを文章に起こすのに、何で何日も、書き始めて数時間もかかってしまうのかな?4日はクレ・ド・ポー委員会でベルファーム、5日は地域のコミュニティクラブで志摩の渡鹿野島の天然温泉風待ちの湯福寿荘へ。明日の経営会議での竹遊倶楽部の活動報告が整理できないまま…情けないが一ヶ月ぶりにブログを書けただけでヨシとしよう。12/6, 22:08

子どもたちに大人気だったごむ鉄砲遊びー松阪環境フェア

 1028-29日は松阪農業公園ベルファームでの松阪環境フェアで、三重竹遊倶楽部は28日は主に竹炭つにいて、29日は竹とんぼとゴム鉄砲遊びで参加した。11/1
 28日は人出はかなりあったが、風が強い日だった。29日の日曜日はさらに賑わった。結果的に29日のゴム鉄砲がとても人気で、Nさんが準備してくれていたが、更に当日追加の鉄砲を割り箸とゴムで作って23人が遊んでくれた。小袋いっぱいの竹炭も竹とんぼもゴム鉄砲も材料は高くないので一個200円というのが利用しやすかったこともあるのか、竹炭5袋、竹とんぼ3個、ゴム鉄砲は23個売れた。木漏れ日広場の銀杏を拾って仲間のUさんが利用できる実にしてくれたものも小袋に50個入れたものが3袋、スプレーボトルに入れた350mlの竹酢液原液が一つ、普段は1000円程度で出している2L入の竹酢液原液(ネットでは数千円している)を製造者のSさんが500円でいいということで3本売れた。何とか7名の竹仲間スタッフの弁当代が出たのは幸いだった。
 この二日間ベルファームと取引のある長野のリンゴ農家山下さんを始めとしたアップル三水から3人がテント販売に駆けつけてくれたのは毎年のこととはいえありがたいことだった。山下さんとは農村ネット21の頃からのお付き合いなのでもう20年以上になる。28日の夕食で旧交を温めることができた。
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 環境フェアの様子   赤いテントのハチマキをしているのが山下さん
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 竹炭の浄化力のテスト  11/3投稿

グリーンカレーが取り持つリフレッシュ効果

 10月22日はベルファームでカレーマルシェの日。竹遊倶楽部は共同作業日で、黒竹の移植や竹林整備をすることになっていた。私はカレーマルシェに因んで、竹の仲間にタイカレーを食べてみてもらいたいと前日に準備を進めていた。といっても十人分程度の料理は久しぶり、たぶんコロナ以降は初めてなのでスマホで調べたレシピの一つを参考にしながら適当に進めていった。
 備忘録も兼ねてラインに載せた手順に従った材料メモによると、最初にみじん切りしたニンニクと生姜をオリーブ油で炒め、香りを立たせるためにタイのグリーンカレーペーストを加え、さらに鶏肉(今回ムネ肉)、筍二種(四方竹を湯がいておいたのと孟宗竹の冷凍してあったものを戻し)、長なす、ブナシメジを加えて炒めた後、ココナツパウダー、牛乳、水を加えて煮立てた。仕上げにピーマン(赤・黃・緑)とナムプラー(タイの魚醤)、三温糖、パイナップルと香り追加のMさんに頂いて育てたレモングラスを入れた。カレーペーストは初めての人には辛すぎないように半分程度に抑えたつもりだが、十分に辛さは残っていた。夕食に試食してみたらマアマアだった。
 ここまでの一つの反省は色付けに使ったつもりのカラーピーマンが一晩置くと脱色してしまっていたことである。再度熱を加える直前に入れた方がいいんだと分かった。ご飯は普段使いの5合炊きだと少ないので押し入れから長く使っていない一升炊きの大きな炊飯器に伊賀のこしひかりを水を少なめにして作った。結果的に半分近くご飯は余ったのでおにぎりにした。
 さて、仲間たちの評価は?何人かが美味しかったと言ってくれたし、残した人がいなかったので良かった。辛くて食べられない人がいることも想定して、3年もののラッキョの甘酢漬け、オリーブのピックルス、ムーヨン(shredded pork…スルメを割いたみたいだという声があったが、家に帰って確認したらやはり豚肉の加工品だった)、フリカケなどを持っていったが、最初の三品が珍しいものを食べさせてもらったと喜んでもらえた。まだ使うチャンスがあるかもと残しておいた十あまりのカレー皿も役立った。
 冗談めかしてレストランが開けるよとか言われるが、子どもたちから母親を切り離してしまった罪滅ぼしもあり、小学校から高校を出て家を離れるまで弁当は作り続け、時に学生たちを招いて食事を作ったりしたのが負担感なく料理を作れるベースとなっているのかもしれない。といっても竹細工などと同じでいい加減で我流には作れるがきちんとしたものを作るのは苦手である。それでも自分で楽しみ、ちょっとおもてなしのおすそ分けができるのはありがたい。
 だいたいいつも食事後の食器は持って帰って家で洗うが、この日は女性のTさんが来てくれていたので、カレー皿などはベルファームで洗ってもらえて助かった。高齢世代の既婚男性はあまり炊事をしたことがないだろうと思われる人が多いが、八十歳超えのKさんやいつもコメントの鋭いMさんはしばしば後始末を気遣ってくれる。何となく家庭での様子がうかがい知れるのが面白い。
 それにしても久しぶりに食事がたいへんにぎやかになり、みんなの交流も深まって楽しんでもらえたのが幸いであった。10/26

久しぶりのカイロプラクティックで気づいたこと

 昨日(10/8)、午前中何とか天気が持ったので竹遊倶楽部の8名参加による共同作業の竹林整備(伐採竹の運び出し処理など)ができた。皆んなで昼食を終わった頃に雨が降ってきて、続きの作業はできないので仲間の逵さんが出品している松阪市展の竹製品を有志で見学に行くことになった。
逵作品10月8日整備竹林入り口






整備竹林(右)と松阪市展へ出品の竹作品と作者(左の写真の左側)



 夕方、久しぶりに竹内さんのカイロプラクティックの施術を受けに行った。たまにマッサージには行っていたが、首肩・背中・腰の凝りがかなり酷くなっていたからである。ほぼ一時間の施術で凝りがほぐれ柔軟性が取り戻せるのがいつも奇跡のように思う。まさにゴッドハンドなのである。最近は比較的マメにつけている「健康・運動日誌」を見ると動きま回っていて疲れ気味だった9月一度も行っていなくて、8月20日以来であった。体が楽になるとモチベーションも上がるので、最低月イチはやってもらうようにしたほうがイイなと改めて思った。
 それに姿勢が悪くなってくる一つの原因にパソコンやスマホの小さな字を見て、つい前かがみになってしまうのでメガネの焦点距離をもう少し離した方がいいのではないか、メガネを作り替えてもらうのもアリかなと思ったのである。

バンコクでのちょっと嬉しかった経験

 9月はいろいろと予定が入っていて、疲れもあり、まとめる力もなくなりでぶつ切りの報告です。バンコク市内の移動は、昔からそうだが交通混雑が酷く、今回は一層混雑している感じだった。急ぐ場合はバイクタクシーを利用するのが一番手頃なのだが、一般的にはスカイトレイン(BTS)と地下鉄を利用しながら後は歩くのが手っ取り早い。着いた日(12日)からBTSを利用したが、運賃は初乗り17B、3駅先で25Bほどである。今回バスは利用しながったが公共交通は価格が抑えられている感じである。  
 そのこともあるのかBTSはいつもほとんど満員である。いつもの外出スタイルでつり革を握って立っていたら若者が席を代わりましょうと代わってくれた。今回席を譲られたのが2回。実は十数回のバンコク滞在でも初めてであった。まだ価格をちょっとふっかけられたりはあるけれど、銀行での手続きは外国人でもパスポートがあれば銀行カードもすぐに発行してくれるし、さすが国際都市バンコクという感じである。9/29
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 相変わらずの交通混雑(左)と以前になかったBTSへのエレベータ(右)
 もう一つ嬉しかった経験があった。それはHISの日本人駐在員Iさんである。バンコクに着いた日だったか、次の日だったか記憶が定かでないが、今回HISの名古屋支店で航空券と宿泊を手続きしてもらったので、以前に訪ねたことのあるSkhumvit支店を探して行ってみた。一般的なサービスは別のところに移っていて20-30人の机が並ぶ事務所のみになっていた。たまたま対応してくれた埼玉出身とかいう人にスマホが繋がらないのでちょっと見てもらえませんかと厚かましくも頼んでみた。
 しばらく格闘してくれた後スマホが2本と通じる状態になり、マップも反応し、時計も日本との時差2時間を反映してバンコク時間に自動的に変わった。マッサージ店のAsia Herb Associationやエムポリウムなど買い物ができる場所は紙媒体の地図で大丈夫だったが、大きな不便をしないで済んで助かった。たまたまリュックに入れていた手作りの燻竹の靴べらを差し上げただけだが嬉しい経験だった。10/4(9月はあれこれ予定が詰まっていて、今日の締切になっていた日本農業賞三重県代表の講評も何とか3日に書き上げられたので数日を経ての続きとなった)

モノによる変動幅が大きくなったバンコクの物価

 5年ぶりのバンコクで一番驚いたのは輸入果物やスニーカー等の価格高騰と比較的安定していると思われる屋台食べ物や日常薬、タイマッサージ代などである。統計的に確認したわけではなく、当日のメモをベースにはしているが思い違いもあるかもしれない。
 到着予定の15時より30分以上前にスワンナプーム国際空港に着いて、ホテルまでのタクシーを探す。公的な感じのタクシー案内所ではバンコク市内まで750B(バーツ、1バーツ=約4.1円)という。タクシーの運転手に直接交渉すると500Bだというのでそれに決める。以前に街から空港まで400Bで行ったことがあるのでまあリーゾナブルかなと。HISで探してもらったエンポリウム周辺のホテルARAWANA Express PrompongはSoi41の少し入ったところにあった。部屋はワンルームアパートのようなトイレ・シャワー、自炊可能なタイプで日本で予約先払い。以前に泊まっていた中クラスのホテルが8,000-10,000円/泊していたから少し上がっているという感じである。
 履きやすいのだがボロボロになってきたスニーカーを買い替えるつもりで、街中を探し回ったが、アシックス、ナイキ、アディダスなどになると3,000-4,000Bもして日本より高い感じ。デザインはイマイチだったが、フィット感がよかって随分と見て回った中では一番安かった1,900Bのスニーカーに履き替えた。もう一つ夏用のサンダルのお値打ちなものを探したが、一番安いので1,500Bほど。これは特に急ぐことはないので日本で買うことにする。
 びっくりした一つに日本のDAISOの進出がある。あるデパートの一角にみつけたのだが、一個60B以上という大きな表示があった。日本の2.3倍ほど。
 次に食べ物でびっくりしたのが果物の高さ。手のひらに近いような立派な桃が2個入で798B、店員さんにどこの産ですかと聞くと、中国という。日本産もあるのかと聞くと別の場所に連れて行かれ、やはり798B(一個が1,600円ほどすることになる)。梨は更に高くて一個650B、シャインマスカットかマスクメロンのようなもの。ニュージランド産のりんごが少し大きなものは一個60B,70Bしている。小さな青りんごでも45B。振り返ってみると輸入果物がびっくりするほど高い。
 タイ産のシャインマスカットは150Bくらい、皮をむいて食べやすくしたSomOu(ザボンのようなもの)が100-120B、10個程度に小分けしたシャインマスカットやSomOuが30Bで買えた。それでも以前(少なくとも5年前)と比べて2-3割から2倍に上がっている感じである。9/26 1:10

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日本とほぼ同等に高騰したバンコクの果物価格
(りんご、桃、梨)




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日本より少し安い程度のデパートの麺+コーラ(左)
とふっかけられてもまだ安いトムヤムとソムタム(右)10/4

5年ぶりのバンコク体験の経過

 私の初めての海外経験の場所であったタイのバンコクはいくつかの御縁があって、複数の海外調査や留学を含め、公的・私的に二十数回訪問している。ここしばらくはコロナその他で動けず、行きたくても行けなかった。今年の5月8日だったか、新型コロナウィルス感染症が「新型ウィルス等感染症(いわゆる2類相当)」から5類に変化し、さまざまな規制が緩和されるとともに、入出国規制もほとんどなくなってきた。
 そこでタイ農業銀行での宿題もあり、9月の12日から16日の日程で5年ぶりに一人でバンコクを訪問してきた。今回はコロナの経験やロシアのウクライナ侵攻による世界貿易の停滞や結果としてのかなりの物価の上昇がタイ国でも起こっていることを実感できた。前回との変容ぶりには度肝を抜かれたところもあり、バンコク滞在中からいろんなメモを取っていたが、なかなか文章に起こすことができずにいた。帰ってきたその日に大学の同窓会、ベルファームの竹林の草刈、会社の研修旅行、日本農業賞三重県代表の現地調査と瞬く間に5日間が過ぎ去ろうとしている。
 コロナで旅行需要も現象する中、津にあったHISの支店も閉じられてしまったので、名古屋まで行って個人用の航空券と宿泊施設を別々に頼んだ。LCC(Low Cost CaCarrier)を使ってみたい気もあり、迷ったが今回は安全性(キャリア)を優先してタイ国際航空にし、行きはTG645の昼便、帰りはTG644の深夜便とした。時差は2時間で飛行時間は5時間だが、各座席の前にあるテレビ兼情報機器は機中を楽しく過ごせるようになっていたが、私は気になりながら読めていなかったW先生にいただいた鯨岡峻「ひとがひとをわかるということー間主観性と相互主体性ー」を惹き込まれて読んでいた。帰りは3時間程度しか眠れず疲れは残った。
 こんなに大きかったかなと改めて思ったスワンナプーム国際空港に着いてからの体験(びっくりしたこと、変わっていなかったこと、感動したことなど)は次号に。9/21真夜中以前。

台風7号の被害と竹林街道竹柵の修復

 8月15日(火)本土に上陸した台風7号はあちこちに被害をもたらした。松阪農業公園ベルファームは警報発令により休園となった。風による被害は主に木々の枝の損壊で、こもれび広場のクスノキの枝はかなり折れ、ベルファーム竹林の倒竹は20数本にのぼった。
ベル竹林台風被害2ベル竹林台風被害1 (1)台風で折れた枝と倒竹






美濃田竹林街道の私たちが協力して作った竹柵が2箇所壊れたので、20日の竹遊倶楽部共同作業日はこの竹柵の修復を優先した。美濃田区の人々は竹林街道沿いの倒竹の伐採整理をされた。
竹林街道竹柵被害2竹林街道竹柵被害1






 壊れた竹林街道の竹柵
竹柵はみっしりと作り上げていたのが風をモロに受けたこともあるので、修復のときには少し風が抜けるように密度を粗く修復した。それに適度な間隔で支柱をしてもらったので、今度は少し耐久性が増しているであろう。
修復された竹柵 2 (1)修復された竹柵 2 (2)






 修復された竹柵

ベルファームの竹林の倒竹整理は20日の午後に2時間行い、続きは27日に行うことになった。
倒竹の整理は倒竹を根本からチェンソーで切り、数mの長さに切って、枝を全部払う。その後竹と枝を別々にまとめて木漏れ日広場に移動し、杭や炭焼の燃料にし、枝は主に竹柵用に使うので、結構手間がかかるのである。




今年も暑い夏、戦争を考える夏がやってきた

 人類に初めて原子爆弾落とされたのが8月6日の広島。そして3日後の長崎に2発目が。その結果、翌10日に連合国のポツダム宣言受託、15日の天皇の玉音放送及び日本軍の戦闘停止。ミズリー艦上での降伏文書署名までを日本の降伏というようである。原子爆弾の投下は戦争を終えるために必要不可欠だったと考える米国民は圧倒的に多かったが、最近では必要なかったという意見も増えてきているらしい。
 敵国であったオバマ米大統領が2016年5月27日に広島訪問をしたこと、そして現バイデン大統領も今年の5月19日に広島を訪問した。その滞在時間がオバマ大統領の約4倍の39分だったとかの記事もあるが、被爆者や原爆被害の実相をより経験してもらったことは明らかに世界政治へのプラスであろう。
 しかしながら、世界の現実はロシアのウクライナ侵攻やそこでの戦略核として核爆弾を使うのではないかとの危惧である。さらにわが日本政府がアメリカの核の傘のもとに平和が保たれているとの配慮なのか、核兵器禁止条約へのオブザーバー参加すらできていないという残念な事実もある。
 終戦から68年経った今でも残酷な戦争の現実を亡くなる前に吐露して戦争の抑止を願う人もいる。つい先日のファミリーヒストリーでは「なつぞら」のおじいさん役がハマっていた草刈正雄のルーツが明かされた。日本人離れしている顔立ちだなとは思っていたが父親は朝鮮戦争の時に日本にいた米軍人であった。草刈が聞かされていたように朝鮮戦争で亡くなったのではなく、米国に戻り10年ほど前に亡くなったのだという。その姉に当たる人(草刈の伯母にあたる)が存命で草刈の父親から密かに日本に子供がいることを知らされていたのだという。その伯母に会いに行った草刈の心境は複雑だったことが明かされているが、これもまた戦争がもたらした一つの現実への人の向き合い方であろうと思う。
 個人的に生々しい経験はない自分にとっての一つの向き合い方は少しでも多くの人に意識してもらえるようにウクライナ医療募金を集めることである。昨年の前半はベルファームの土産物屋松阪商会と飲食店のルーベルに募金箱を置かせてもらった。その結果が松阪商会7,287円、ルーベル2,155円であった。今年も1-6月で募金を継続したが、それぞれ2,597円、236円、パン屋さんのやさい畑933円を加えても3,762円と関心が薄れていることが見て取れる。しかしながら、コイン種別で検討してみると昨年は500円玉は1枚だけだったのに今年は3枚、100円玉は昨年22枚に対して今年は16枚と相対的に多かった。向き合い方に差が生まれているとも言える。なかなか募金の処理に動けなかった自分自身も残念だが、友達などから集めた寄付なども加えて、何とか国境なき医師団日本と医療ボランティアのジャパンハートに一万円ずつロシア・ウクライナ戦争が集結することを祈って送ることが出来た。8/15

ボーッと生きてんじゃねえよ…怪我の功名になる?

 連日の暑い中、日も陰りつつあった27日夕方、菜園の管理をしていた。最近しばしばあることだがちょっとふらついてよろけて、痛っと思ったら左足踵を三角鍬にしこたま踏んづけて、しばらくしたら足裏からどろっとした赤いものが流れてきた。散水用のシャワーで流して程なく止まり傷バンドでとにかく収まったのでよかった。体幹がしっかりしていないというか、少しバランスを崩した時によろけることがよく起こるようになった。
 風呂は止めて阪神・巨人戦のテレビ放映が始まったので、ほとんど釘付けになってしまって21時半ころまで見ていた。1985年の初めての日本一を成し遂げた"よっさん"こと吉田義男監督がショートを守って今牛若丸と言われた頃からの阪神ファンなので70年近い。阪神ファンにはこういう凝り性の人が多いらしい。
 試合は才木の調子が悪くて6:9で負け、広島に首位を明け渡したけれど、打線の調子が上がってきて28日の広島戦に勝って一日で首位を取り戻した。
 その日は怪我の体調不良もあったのか電気をつけたまま寝た。翌朝さすがに散歩は控えたがラジオ体操には出席した。戻って花や植木に水をやり、洗濯をして朝食を済ませ、「らんまん」と朝イチを見ているうちに疲れが出てきて朝から昼寝。目が覚めたら12時40分でびっくりしたが、ボーッとしていた頭はかなりスッキリした。
 やるべきことはそんなに出来ていないのに夜は時間の経つのも早くなかなか目標の23時前には寝られない。朝は5時すぎには目が覚めてしまうので寝不足気味である。睡眠導入剤のブロチゾラムを処方してもらっているけれど、あまり使いたくないので半錠とかにしていると熟睡できないことも多いのである。でもやっぱり私には睡眠不足は堪えるな。7/29

どうする〇〇、出来ない症候群の克服

 「どうする家康」の徳川家康はこれまで描かれたことがないキャラクターと言われ、親しまれている反面、人間としての器の面で物足りなさを感じている人もいるのではないか。偉人やスーパースター(例えば大谷翔平のような)にはあこがれの側面を期待してしまうからかもしれないが…。自分のような凡人でも現役のときやフルタイムで働いているときには結構いろんな事柄をこなせていたのである。もちろん余裕がない分知らず知らずに周りに迷惑をかけていたのかもしれないが。
 6月に予期せぬ片付け仕事が増えたとはいえ、早7月も下旬に入ったのに片付けは捗々しくは進んでいない。問題は「これどうしょう?」と捨てるものと保存しておくものの選択がなかなかできないのである。判断力・決断力が鈍っているというか、なかなか一つ一つの書類の判断ができないのである。今に始まったことではないが、会社が非常勤勤務になって基本的には時間的に余裕ができ、先延ばししても自分が困るだけで他人には直接的には迷惑をかけないで済むことが逆にこの状態を招いているとも言える。フルタイムでいろいろやっているときはそれぞれの作業の期限も有り、否応なく決めていたのかもしれない。
 決められない、片付かない、先延ばし…、7月15日からは放送大学の前期Web試験が始まった。16日は竹林の草刈り、17日は下の娘の相談、18日と20日はベルファームの会議、19日には朝の6時から会社の有志での和歌山の桃などの生産地の視察といろいろと重なって試験勉強も後回し。6科目と少なくしたのに普段の授業もあまり聞けていなくて付け焼き刃の勉強で何とか4科目(「より良い思考の技法」「神経生理心理学」「学習言語心理学」「認知症と生きる」)は終えた。
 試験は25日の17時までと期限があり、その日は定期検査もあるのでギリギリまでもがくことになりそう。残る「日常生活のデジタルメディア」も「コンピュータの動作と管理」も前の4科目と同様なかなか頭に入らない。記憶力も理解力も相当落ちているのに好奇心だけは維持できているのでようやく続いている感じである。
 ただ今回はいろいろと気づいたり反省することがあった。多少は今後の人生に役立てたいとの思いはあったが、自分に残された時間がどんどん少なくなる中で、何に時間を使うべきなのかはもう一度吟味しなければと改めて思い、私にしか出来ないことで次の世代に伝えておきたい仕事を精査し集中すべきことをテストが終われば改めて考えなければと思っている。7/23

レポートの枠組みがとってもユニークな先生

 今期最後の放送大学の面接授業(20230708-09, 三重学習センター)が心地よい疲れの中で終了した。丸山広人先生の「セラピストとして考えること」のレポート用紙が最初に配られ、1時限ごとに「気づいたことや新しい発見となったキーワードを1-3個書き、その中の一つを選んで、理由も簡単に書いてください」と1時限に対して2行が用意されていた。まとまらない割に文章が長くなってしまう癖のある自分にはこの枠組みがとっても新鮮に映り、質問どおりに答えられてもいないが以下のように提出した。

 

(1)     人が成長するということ
〈学びほぐし〉〈健康な退行〉〈両行モデル〉
理由ー共通しているのは心の柔軟性、一生懸命生きていると必要な時に適切なことが起る

(2)     心理療法、ちょっとその前に
〈聴くと訊く〉〈言葉のやり取り〉〈話しやすい工夫〉
理由ーいかにして来談者がモヤモヤしていたり、自覚していなかったことから自分自身を発見できるか

(3)     聴くということ、訊くということ
〈筋を読む〉〈何を肯定する〉〈話を深めないモード〉
理由ー受容的なやり取りの中から何が来談者の成長に繋がると見抜くのか

(4)     子どもたちの生きている現実から心を考える
〈スマホ〉〈体感の希薄化〉〈アクチュアル遊びの喪失〉
理由ー社会的動物としての生物感覚とリアルなコミュニケーション喪失の危機

(5)     頭を使って考える・こころを使って考える
〈心の現実化〉〈認識反射〉〈不一致状態〉
理由ー生きている全体を受け止めている心は葛藤や不一致の程度によって表に出てくる

(6)     こころを使って考えるということ
〈心を使って感じ考える〉〈素直に伝える〉〈抱える〉
理由ー頭と心を使って感じ考え、問題を温め
向き合いながら、気づいたことを素直に伝える

(7)     特別な教育的ニーズを
〈発達障害〉〈興味の極限性〉〈認知の違い〉
理由ー人間の多様性の理解を深める上でパラリンピックにみられるように障害のある人の役割は大きいかも

(8)     まとめ

上記は人に伝える言葉としては不十分で学んだ者が振り返りのヒントになる程度かもしれない。ただ、カウンセリングとは、この人らしさを発揮して生きていける道を探すお手伝い、この人らしさを妨げているもの(自己イメージ、考え方の癖、信念)の学びほぐし(unlearning)のお手伝いをすることだということは、人との関わりのあり方としても大事な視点だと思われる。7/9

ブログを始めて5000日目の反省

 えっ、そんなに経っているの、が実感。ベルファームに来て2年目の2009年10月29日にスローライフ活動と多少ともベルファームの魅力を発信したくて始めたらしい。それからそれから13年半あまりに投稿数はこれでわずか540である。最初は週に二三回書いていたこともあるが最近年では今回のように一ヶ月も空くことも出てきた。書きたい内容はなくならないのに、まとめるのに時間がかかるようになって情けない実態である。比較的最近は時々見ているよ、と伝えてくれる人に出会い、なかなか書けないと申し訳ないなという気持ちにはなる。一ヶ月も空くと何回か見に来ても外れが続くことにもなりかねないからである。
 ブログの利用情報を見てみると総訪問者数は36,173人だが、継続的に書いていないことも有り、最近では毎日0-6人程度である。それでも見に来てくれる人がいるのは書き続けようというモチベーションにつながる。それでも実態は書く(まとめる)ことから逃げていることがあり、申し訳ないと思う。時々何人かの人が一回に十数PV(頁)あるいは数十PV見てもらっていることがある。私の文章は短くまとめられていることはほとんどないので、複数頁読んでいただくことはかなりの労力だと想像される。6月19日などスマホ(モバイル)の人が二人で218PV見られている。相当な時間を費やしていただいたのではないかと思われるのである。
 あまり自信がないので言い切れないが、もう少し文章を短くして頻度の回復をしたいものです。7/8

尾を引く6月の予期せぬ出来事―片付け作業の追加ばかり

 途中まで書いた原稿が消えてしまっていてやり直しの元気がなかなか出なかったり、取り掛かれる余裕が出てきたと思ったら、竹林整備や電動草刈りなどの作業で腕や肩の腱鞘炎気味の状態や何とか寝込まなくて済んではいるが、片付け作業をすれば状態がさらに悪化しそうでブレーキがかかったりで思うに進まない状態が続き、はや7月に入ってしまった。
 予期せぬ出来事の一つは旧スローライフ協会事務室の明け渡しのための書類処分が意外と時間がかかってしまい、持ち帰った書類が家のあちこちの空間に片付けを待つ状態で溜まってしまっていること。もう一つは名古屋の家修理会社A社の巧妙なセールスマンS氏の話に乗ってしまって、お金の問題もさりながら、実作業は半日2回だったのに足場のために2週間も軒下のものが雨ざらしで捨てざるを得ないものが多くなり、まだその作業も進んでいないことである。
 スローライフ協会の後処理は気になりながらもずっと先延ばしになってきている。昨年の3月に解散の法的手続きを始め、2004年から18年間の活動の総括をするということで、広報担当理事だったMさんの手も煩わせながらなお進行中。当初3年間はモクモクの運営していたレストラン「時のぶどう」の一角に事務所があったが、2007年にNPO法人三重スローライフ協会も参加した(株)松阪協働ファームが発足してからは事務所もベルファームの施設内に移り、今日に至っているので18年間の様々な資料が出てきた。将来、時間ができたときにより詳しく総括してみたいとの欲が捨てきれないので、総会資料や活動資料は取り敢えず残しておくかとのスタンスになってしまう。
 部屋自体の片付けは、一時元理事に助けも求めたが、皆んな忙しくしているので、結局は九分九厘自分ひとりの仕事となった。ベルファームから最終期日を6月23日と定めてもらったので、56月に十回あまり段ボール箱で書類を自宅に持ち帰った。とは言いながら、今できるだけ減らさないと死ぬまで放っておくということになりかねないので、少しでも減らそうと合間合間に作業しているが、点検できていない書類がまだ十箱ほど残っている。
 A社の話はなるほどこれだと落ちる人は多いよな、と感心したこともあるので簡単ないきさつをメモっておきたい。5月末のある日だったかA社のS氏が突然訪ねてきて、屋根の樋が1月の大雪(珍しく積もったので調べたら十センチあまりあった)で曲がっていますね。保険かけていたら保険金額の範囲内で直せますよ、という。言われてみてもそんなにはっきり分かるほどではなく、特に困ったこともなかったし、あと何年か生きたとしてもその後はどの子供も帰ってくる予定はなく、乗り気はなかった。しかしS氏は人は悪くない感じでこちらも忙しいのにと思いながらもつい相手をしてしまった。書庫の二階にハトが巣を作り樋にハトの糞が溜まって草が生えてしまっていること、もうだいぶ古くなっている二代目の太陽熱温水器が少し傾いて取り付けの針金が緩んでいるのではと思われることなど、足場が無いと作業が難しいことなどがあり、結局保険金額の範囲でということで話が進んでいった。
 共済への申請は業者がやってくれたのだが、共済からは実見に来ることもなく、20万円程度かなと思っていた2倍ほどの保険金がおりてきた。その額の範囲内ということで改めて見積書が作られ6月8日契約することとなった。翌日周りのベランダの波板を外して足場が建てられ、2週間は軒先のものが雨ざらしとなった。よく雨が降ったので捨てざるを得ない物間が増えたのが大きな誤算だった。足場は最初から2週間して撤去するとは言われていたが、この間樋の修正や掃除はわずか半日の仕事。
 そして作られた請求書には消費税が外税で付加されていた。きちんと確かめなかった自分がアホウ。その時に屋根の瓦が一部ズレているからこれは絶対直しておいたほうが良いという。さらにハト対策として針金線を張ってみてはとの提案があり、簡単な作業と思って見積もりを作ってもらったら足場がすでにあるのにびっくりするような値段、交渉をして多少値引きしてもらったが、進みかけた事業なのでなかなか途中でやめられないのが実情。
 すべての作業は23日に終わったが、ハト対策は何の効果もなし。軒先の雨に濡れたものに関してはお客様のことを考えれば、少しシートを被せておくとかの方法もあったのではと初めて会社にも苦言を呈したが、後の祭り。S氏にはやり取り時にはコーヒーを出したり(もちろん作業の職人さんにはお茶とお菓子程度は出したが)、個人的にはいい感じの人なので燻竹の靴ベラを上げたりもしていたが、雨ざらしのものの廃棄手間の苦情をいうと2時間ほど手伝いに来てくれたのがせめてもの救いか。
 S氏は団地内を同じ仕事広めをしているが、私のラジオ体操の仲間は私の話を聞いて二人ほど思いとどまったらしい。仲間に噂になっていたらしく結果として一つの役割を果たしたのかな?ただ軒先の片付けは、もう少し使い勝手がよくモノを減らす方向で考えたいので未だすすんでいない。7/3-7/8

補足…振り返ってみたいキーワード、キーセンテンスーその6

もう一度振り返ってみたいキーワード・キーセンテンス

・食と農が持続的であるためにはー「食と農の基本に戻ること」、「自然の恵みを最大限活用する知恵」…旬産旬消、「自分でできることは自分でしてみよう」という「自賄の思想」。

・メニューから素材ありきの食生活への方向づけ…伝統食などの復活、伝統食にみられる生活の知恵。

・ここ四半世紀以来の全国的な直売所の普及とその変容…地産地消プラス生産地連携

・高度経済成長と金がすべてを決めるかのような新自由主義的スタイルの相対化は可能なのか?(文献1,2)

・現代農業(化学肥料・農薬に依存した近代農業から、若い人も含めた農のさまざまな試みへ

自然の恵みを最大限活用する観点からの、代替農業といわれていた有機農業、自然農法、環境保全型農業の可能性。自然に寄り添う方向性の農のあり方や生き方。

自然回帰の方向性…自給自立・半農半X(文献3)、地域と一体的な、自立自給的な方向への運動へ。

・国民が基本的に「農業などに一年間(あるいはたとえ一ヶ月でも)従事する社会奉仕年」の導入

・農業の人材育成…「体験型食農教育を小中学校の基本カリキュラムに取り入れる」・

互酬性(お互いさま)がもっと豊かに働く協同組合社会の構想。

・なぜエコよりロハスなの?(文献3)

 

さらに深めるための参考文献の一部

1)  池上甲一・岩崎正弥・原山浩介・藤原辰史『食の共同体―動員から連帯へ―』ナカニシヤ出版、2008

2)  阪本慶一他『21世紀を拓く食文化の創造―医・食・農からみた画期的日本デザイン論―』南山出版、1980

3)  塩見直紀『半農・半Xという生き方実戦編』ソニー・マガジンズ、2006 (原著2003)

4)  島村菜津『スローフードな人生…イタリアの食卓から始まる』新潮社、2000.7

5)  下山晴彦・神村栄一『認知行動療法』放送大学教育振興会、2020.3

6)  高橋秀明『学習・言語心理学』放送大学教育振興会、2021.3

7)  原田律『食の原理・農の原理』農文協、1997

8)  ピーター・D・ピーダーゼン『LOHASに暮らす』ビジネス社、2006

9)  森津太子・星薫『危機の心理学』放送大学教育振興会、2017

10) 柳田邦男『壊れる日本人―ケイタイ・ネット依存症への告別―』新潮社、2005(2007文庫本)

11) Carl Honore In Praise of SLOW Orion book, 2004

12) 『自給ルネッサンスー縄文・江戸・21世紀ー』現代農業1999.5増刊

13) 山極寿一「科学季評―コロナ後の世界に向けて、社会的な絆失わぬ体制を―」朝日新聞2020.05.14

14) 山極寿一「科学季評―コロナ後のコミュニケーションの形、分身技術で活動を広げよ―」朝日新聞2020.08.06

協同の役割と行動変容の可能性ーその5

5. 協同の役割と行動変容の可能性


 食と農は人間が生きていくための根源的な行為の局面を指している。では「地域コミュニティのために」はどのように理解することができるのだろうか。1つは個人・家族・地域という主体の階層の側面である。20世紀の後半から21世紀初めにかけての時代は、家族や地域の機能が縮小し(縮小させられ)、個が全面に出て、自己責任がより問われ、人と人の繋がりが著しく弱化した。これにさらに追い打ちをかけたのが世界的なコロナ禍による行動自粛であった。

 

日本経済新聞(2023/03/13)によると新型コロナウイルスの累計感染者は世界で67657万人、死者は688万人に達しているという(https://vdata.nikkei.com › coronavirus-world-map)WHOの発表では実際にはこの3倍であるとしている(2022/12/21)。まさに大きな人類の危機である。実際現代人はさまざまな危険の中で生きているが、いちいちピリピリしていられないので、「ある範囲までの異常は、正常の範囲内のものとして処理するような心のメカニズム(文献9)が働いているという。いわゆる「正常性バイアス」である。変化や危機を感じにくくさせる心の作用は「チェンジブラインドネス(変化盲)」とも言われるが、これもまた行動変容を起こすにはマイナスに作用する。

 

だが、物事の持続性や生き残りのためにはまっとうな危機の意識を持つことが危機を乗り越える知恵を生み出すのではないか。日本の人口が減少局面に入り、高齢者の増大・働く人不足が顕著になってくる中で、最近「クレド」作りに取り組む企業が増えてきているように思われる。それは単に信条というのでなく、企業理念や目的を経営者や従業員の日常的な行動規範にまで落とし込み、ボトムアップの姿勢でチーム力をあげ、危機の時代に対処する取り組みとも言いうる動きである。お客様大事でリピーターの増加につながるのみならず五方良し経営を目指すものでもある。

 

基本的に私たちは自然と人の循環の中で生きている。社会分化が進んだ社会では、食を巡る生産と消費の循環が形成され、そこにはそれぞれを担う人の交流が見られる。近代社会のある種無機的な循環、モノとカネの循環と考えるのか、その背後にいる人を想定して支え合う関係と捉えるのかで様相は異なってくる。

 

協同組合はその組織が大きくなりすぎて人の支え合う関係組織でもあることが見えづらくなっていることは事実であろう。しかし、それはもともと助け合いの組織であった。小さなより集まりの単位での互助精神の復活大きくなった組織としての社会への発信力の大きさを共に追求する柔軟な対応力(レジリエンス)が求められている時代ではないだろうか?

 

しかしながら現代人は過剰な情報化の中でその真贋を見極めることがますます困難になっているのではないか。「断捨離」という言葉が頻繁に聞かれる世の中になっているが、それはモノの溢れた社会になって、そこでのモノは単なるものではなく何らかの思いや経験がくっついているので、とりわけ戦中戦後のモノのない貧しさを経験している世代ではなかなか断捨離ができないことがあろう。その上に現代社会の過剰な情報である。モノとコト、ともに過剰になっている中でほんとに必要な物や事をどのように見分けるのか

 

先に見たようにこの世の中は以前にもまして格差が拡大し、分断が進んでいる。ストレス源が世の中に充満しているので一触触発の危険性はあり得るとしても、いかにそうした緊張を緩和し、生身の人間がつながっていけるのか。そして意識的に地域に多様なコミュニティを作り出していくには何が大事になってくるのか

 

行動変容に必要なことは…

私たちは慣れ親しんだ考えや行動をそれらを変えることが良いと知っていてもなかなか変えることは出来ない。その慣性の力は侮り難い。高橋は「学習learning」とは「行動変容behavior modification」と定義されることが一般的である、と述べている(文献6) p14)が、これは人の発達過程上のことではないか。でも確かに一旦習得した行動様式や習慣化した行いを変えようとするのも「学習」からというのも一理ある。時代(環境)がより厳しくなれば必然的に変わる可能性は高いが、認知行動療法からの学びも得て、先ずは自分自身を変え続けていくこと、その難しさにチャレンジし続けられること、あるいは仲間の経験から学び行動していくことも大事なのかもしれない。


世の中全IT化の落とし穴―その4

4.  危険な流れへの抵抗力…世の中全IT化の落とし穴…

ファーストフードの典型としてのマクドナルドの世界制覇に棹さすべくスローフード・スローライフの運動は何とか命脈を保っているが、世界の大きな流れはファーストライフの大きな流れが一層進み、つながりを作る動きに増して格差が拡大し、分断を煽る動きは世界中に充満してきている。

中でも気になるのはスマホに典型的にみられるIT化の影響とこれが未来の人類にもたらすものへの危惧である。今や人々のあらゆる情報が巨大IT企業の傘下にあるといっても過言ではない。世の流れについていこうとすると自分のさまざまな情報が伝わること(漏洩にもなりうる)を「許可」せざるを得ない仕組みが出来上がりつつある。人々はますます忙しくなり、ストレスが溜まり自分でしっかりと考える機会が失われていく。

人間の生と死について深い洞察をされてこられた柳田邦男氏は2005年の作品『壊れる日本人―ケイタイ・ネット依存症への告別』(2007年新潮文庫化, 文献10))で早くから電子メディアの使用に慎重になることを指摘されている。「人間は二十世紀において様々なものを獲得した。…しかし二十世紀は同時に、そうした発展と裏腹に負の遺産というべき様々な人間の悲劇をもたらした。つまり「失ったもの」は、核兵器を頂点とする数々の新型兵器の開発による大量殺戮戦争の続発、各種イデオロギー国家の出現による反体制の人々の強制収容と圧殺、資源の乱開発と大量消費の進展による産業公害と地球環境破壊、無防備な過密都市化による災害・事故の犠牲者の増大、科学者・技術者・医学者の傲慢による数々の人体実験など、惨憺たる状況だ」と。

ただ、二十世紀型のこれら「負の遺産」の共通項は「…半人道的な行為と人間や環境の被害との間には、明確な因果関係があり、その実態を目に見える現象や数値でとらえるということができるということだ。…ところが二十一世紀型の負の遺産となるに違いないIT革命あるいは情報化社会の影の部分は、目に見えにくいという特質をもっている」と警鐘を鳴らし、1999年にアメリカ小児学会が2歳未満の子どもにはテレビを見せるなと提言したことを紹介している。特に暴力シーンや性的なシーンが幼児の心に歪みを作るとの研究が進んだことやTVづけになることによって生身の親との接触を奪ってしまう両面からのマイナスを指摘している。

さらに「だが、しかしと考える視点」の重要性や、脳の感覚を壊すナビ、という視点からちょっとだけ非効率でもいいのではないか、とか白黒はっきりさせる科学主義や効率主義の弊害を指摘し、日本にある「あいまい文化」を見直してもいいのではと指摘している。この本に一文を寄せている臨床心理士の河合隼雄先生は、これは「警世の書」であると推薦し、柳田はテレビやケイタイを否定しているのではない、それに溺れる恐ろしさを指摘しているのであると、柳田が提唱しているノーケイタイ・ノーテレビデーが一時でもそこから離れて生身の関係を紡ぐことの意義を指摘している。

スマホ全盛時代の現代は、残念ながらその便利さ故に、同時にその悪影響から逃れることの困難性がむしろ増しているのではないか。スマホを見ていたことによる事故は増加しているし、何が真実かを考えるゆとりもなく、フェィクニュースに踊らされる現象はあちこちに見られるようになっている。人類はこの危機を如何にして乗り越えることができるのだろうか。巨大なIT産業にどう立ち向かえるのか、ひょっとしたらおどらされているかもしれないという自覚をもつには生身の人間としての開かれた交流が不可欠であることは確かであろう。

スローライフ・スローフードの流れから学ぶーその3

 

3.  スローライフ・スローフードの流れを補強するには

「スローフード」という言葉が日本で一般に広まったのは、島村菜津さん(ノンフィクション作家)2000年の7月に『スローフードな人生!』(文献4))として新潮社から出版して以来だと思われる。それまで十年ほどイタリアと日本を行き来していた彼女は、1986年の夏イタリアのとある田舎町(ブラ)で始まったスローフード運動を4年にわたって取材し、日本に紹介したのである。

NPO法人三重スローライフ協会は2003年の3月 「三重まるみえ地産地食交流会」主催で日本のスローフードの第一人者、島村菜津氏を講師に迎えた講演会をきっかけとして4月以降、毎月1回以上の設立準備会議を開き、2004111日に設立している(2022年3月に解散)。この頃は現在も続いているNPO法人スローライフジャパン(200310月設立)NPO法人スローライフ掛川(2004年7月設立)が立ち上がっている。

3000人以上の会員を擁し、広い影響力をもっているNPO法人スローライフジャパンの設立の趣旨の一部は以下の通りである(HP)

21世紀、「スローライフ」というキーワードが、世界を動かす流れとなってきました。がむしゃらに突き進むことだけを良しとする世界から、立ち止まって考えることも是とする世の中への変化です。「ゆっくり、ゆったり、ゆたかに――」。マイナスイメージをプラスに切り替える。結果だけでなく過程を楽しむ地域の自然・歴史・伝統・文化を大切にして暮らす感性を磨き、みずみずしい人間関係を取り戻す。こうした価値観の変化は、新しい暮らし方をつくりあげるでしょう。

イタリアの片田舎から始まったスローフード運動は「スローフード宣言」の中で「我々の世紀は、工業文明の下に発達し、…我々みんなが、スピードに束縛され、そして、我々の慣習を狂わせ、…ファーストフードを属することを強いるファーストライフという共通のウィルスに感染している」とし、「我々の反撃は、スローフードな食卓から始めるべきであり、…郷土料理の風味と豊かさを再発見し、かつファーストフードの没個性化を無効にしよう、…スローフードは、シンボルであるカタツムリのように、この遅々たる歩みを、国際運動へと推し進めるために、多くの支持者たちを広く募るものであります」と結んでいる。

そしてスローフード協会(1989年設立)は、2000年にはイタリア国内ばかりでなく、世界中に約6万人(現在8万人…HP)の会員を持つ一大組織に成長していた。

今、私たちはどのように食と農を考え、行動すべきなのか(続)ーその1

 年間で一番忙しい月の1つでもある5月、5月14日の三重竹遊倶楽部の総会での会計報告などの準備に時間を取られた。次いで翌週末5月20日の地域と協同の研究センターの総会兼シンポジウム「持続可能な食・農・地域コミュニティのために」のコーディネーター兼提案者ということでギリギリの19日までもがいて原稿を書き上げた。その日のフォーラムは複数の人から面白かった、良かったとの声や意図するところがよくわかったとかの声をいただいたので、メモとして残しておきたい。(6/8)

 

持続可能な、食・農・地域コミュニティのために

1.  はじめにーさらに一歩前進するために

事務局から与えられた上記のテーマを「今、私たちはどのように食と農を考え、行動すべきなのか()」と読み替えて進めます。食と農の世話人会の中でここ何年か、提案させてもらい、議論してきたことを振り返り、堤さんの有益なコメントなども参考にさせてもらいながらまとめさせてもらったのが「地域と協同の研究センターNEWS220号の記事であり、第23回通常総会議案書〈第2分冊〉「研究フォーラム食と農」のまとめ(6)です。

そこでの全体提起、1. 耕作放棄地を回復させるのには自然農法を取り込んでもいいのでは、2. 新自由主義的なあり方ではないオールタナティブなあり方の追求、3. 地域と一体的な自立自給的な方向への運動4. メニューありきで無い・材料ありきの食育5. 人生のあり方トータルの中でのエコやエネルギーの節約を考えていく、の5項目を少し視点を変えて論じてみたい。そして部分的にではあれ、どのようにこれまでのあり方を相対化し、目指すべき未来に繋げ、行動できるのかを模索してみたい。

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