ロシアとウクライナの歴史的な関係上から、オレンジ革命まで


< クリミアが突然ウクライナ譲渡された理由 >
(1)ロシア・ウクライナ関係の象徴となったのは、ペラヤースラウ会議 ・条約(1654年)

これはウクライナのポーランド隷属からモスクワ隷属への移行を意味した。


(2)この条約の300周年記念として、1954年にクリミア半島がウクライナに譲渡された。

当時はソ連時代、単なる象徴(譲渡とはいえ、何の意味のない)と解釈されていた。


上記の歴史的背景は、・・・・

1:ポーランド・リトアニア連合王国の支配に反旗を翻したフメリニツキー(ウクライナ・コサックの最高指導者)は、クリミア・ハン国と組んで独立戦争を起こすが、裏切られる。

2:その後、オスマン帝国と組むが、頓挫


3:最終的に、同じ正教徒のロシア帝国(イヴァン4世)の保護下に入ったが、それを決めたウクライナ側のセレモニーが、ペラヤースラウ会議(1654年)

 

その後、ロシア帝国は、徐々に支配力を強化した。フメリニツキーの死後、ウクライナ・コサックは部族間抗争に陥り、衰退の時代となり、完全にロシア帝国の一部となった。
 

 
11

 

1917年のロシア革命を機に独立を試みるが、前回書いたように、国際政治のはざまで夢と消えた。ソ連時代、特にスターリン時代は弾圧された。

 

< 独立後、オレンジ革命まで >

ゴルバチョフの登場(1985年)、その後の冷戦終結(1989年)を経て、1991のソ連崩壊でようやく、ウクライナは独立した。

独立したとは言え、
1:統一された国家の経験がほとんどない、
2:部族間対立が日常茶飯事の遊牧民族のDNA、
3:ソ連崩壊から独立初期の時期に、国家財産を収奪して財を成した財閥(ティモシェンコを含む富裕層)と、その恩恵に浴さなかった大勢(無産階級労働者)の格差社会構造、

4:目を覆うばかりに劣悪な汚職の蔓延、
、などで
国民の国家帰属意識、国民としての意識は低レベルに終始し、国家は混乱

そんな中、2004年に起こったオレンジ革命がウクライナを激動させた。

第一回目の選挙結果に対して抗議運動を行った野党支持者がオレンジをシンボルカラーとしたことからオレンジ革命と呼ばれるが、基本構造は親西側政権を樹立したいグループによるデモとメディアを使った革命であった。

その推移は、・・・・・

独立後のウクライナは、鉱工業が盛んでロシアとの関係の深い東部と、特段の産業が無いためにEUやNATOに加盟してEU経済の恩恵と補助金に浴したい西部で、意見が分かれていた。

 

2004年の大統領選挙では、親ロシアのヤヌコーヴィチと、ヨーロッパへの帰属を望むユシチェンコの一騎打ちとなった。

1121日の開票の結果、大統領選挙におけるヤヌコーヴィチの当選が発表されると、その直後からユシチェンコ支持層の基盤であった西部勢力が、ヤヌコーヴィチに不正があったと主張し、不正の解明と再選挙を求めて、首都キエフを中心に、ゼネラル・ストライキ、座り込み、政治集会を行った。

 

抗議運動はマスメディアを通じて世界各国に報道され、大きな関心を呼んだ。特にヨーロッパやアメリカではユシチェンコに対して、ロシアではヤヌコーヴィチに対して肩入れする報道がなされた。

報道合戦では、大統領選挙が民主的ではないというスタンスを取った欧米側の報道に世界世論がなびいた

下図は、2004年の大統領選挙の様子だが、東西で、綺麗に分かれている。

橙色:ユシチェンコ支持青色:ヤヌコーヴィチ支持


22


オレンジ革命。。。それは、結局、
デモとメディア攻勢が、ヤヌコビッチを退けた。
という現代、世界各地に蔓延する、民主主義の暴力的側面であった。

 

 

< オレンジ革命後のユシチェンコ大統領時代 >

ユシチェンコ大統領は成ったが、政治は混乱を続けた。

 

2006年の議会選挙では、大統領選挙に敗れたヤヌコビッチ派が勝利し、首相に就任


2007
年の議会選挙では、ソ連時代の国家財産を我が物にして富豪になったティモチェンコ(ユシチェンコ支持)が首相に就任した。

しかし、ティモチェンコ首相は、ガスの利権汚職にまみれ、政治は混乱した。

 

ユシチェンコ大統領時代の政治の混乱と、汚職不正の激化に怒った民衆は、2010年の大統領選挙ではヤヌコビッチを大統領に選んだ

33


facebookコメントヘ

 

目次へ