タクシン首相は、タイの政治経済に急進的な政策を導入した

 1:アジア通貨危機の勃発

 1997年に始まったアジア通貨危機(ロシアを含め世界中の新興国が危機に陥ったので、新興国危機とも言われる)の打撃を最も大きく受けたのが、タイ、韓国、ロシアだった。

新興国ブームに伴って大量に流入していた海外からの資金が脱兎のごとく流出し、タイ・バーツは暴落し、タイ企業は資金繰りに窮するようになった。

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中でも、USドルによって資金調達をしていた金融機関の多くが、預金の取り付け騒ぎに巻き込まれ営業を停止すると同時に、ドル高/バーツ安によって膨らんだ負債(ドル建て短期借入)の返済が出来なくなり、金融機関の破たんが続出した。
タイ政府はリーダーシップに欠けていたこともあり、有効な手を打つことが出来ず時間だけが過ぎて行った。経済は急速に低迷状態に陥った。

最終的には、IMFが救済に乗り出した。

しかし、IMFの救済パッケージは、後年「間違った処方箋」と評価される「緊縮財政、金利の引き上げ」というタイ経済を破壊するものであった。

破壊されたタイ経済が復活するのは、タクシン政権の積極的な経済政策を待たねばならなかった。なお、タイ株式市場は、未だに高値を超えていない。


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2:通貨危機後の低迷経済を復活させたタクシン 

経済の破綻に直面しタイ国民は、経済を復活させる「強い指導力を持った首相」を望んだ。

2001年に首相に就任したタクシンは、アメリカ流の資本主義を強力に導入した。

国家を企業と位置付け、目指すべきゴール、それを達成する手段、期間を区切った進捗評価を政府機関や公務員に導入した。

タクシン首相の中央集権的な権力行使と迅速な政策決定&実行、積極的な経済政策によってタイ経済は急速に回復した。

2005年2月の総選挙では、タクシン首相の率いるタイラックタイ党はタイ選挙史上稀に見る圧勝で再選された。

一方、タクシンの政策目標は、政治体制、公務員制度、社会保障などあらゆる制度と、タイ人の能力発揮を阻害している「伝統的な価値観」をアメリカ流に近代化することだった。

なお、タクシンが次々と実行する「急速で過激な政策によってもたらされる社会秩序の変化」は、国王や軍を含めた旧来の既得権層の反発を買うものでもあった。


3:国王の政策と対立したタクシンの政策

タイの国王は統治者であって、単なる象徴では無い。選挙で選ばれた首相であっても、国王の考え方に反するものは排除される。

これがタイの政治の厳しい現実である。

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ブミポン国王はタイ危機の最中、1997年12月に「足るを知る経済」というタイの国家建設の基本的な考え方を打ち出した。

韓国、台湾、香港、シンガポールのようにがむしゃらに経済成長に邁進せず、ほどほどのペースで満足すべきであり、タイ人の伝統的な価値観である「競争よりは融和」を重視すべきであると述べた。
タクシン登場以前の首相は、その精神ののっとった経済政策を実行していた。

 しかし、タクシンは「競争よりは融和」を否定し、切磋琢磨、信賞必罰の競争原理を大々的に推進した。

その結果、特に総選挙に圧勝して急進性を増したタクシンの政策に対して、国王とその支持者は「タクシンは国王をないがしろにする独裁者」と非難し、またタクシンの経済政策の恩恵に浴さない層(=国民の多数)も、「タクシンの急進的な政策には、ついていけない」と反発を始めた。

反タクシン運動は、2005年8月に「タクシンの身内にたいするエコヒイキと莫大な金額の蓄財」を非難する集会に端を発し、2006年になると「タクシン=王室をないがしろにする人、国王への忠誠=反タクシン運動」という図式に変化し、大規模な黄シャツ(黄色=国王の色)のデモが出現した。

なお、タクシン支持勢力は、赤シャツを着用してデモを組織して対抗した。

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9月19日タクシン首相が国連総会出席のため国内不在となった時を狙って、国王の承認を得た軍事クーデタが勃発した。

この日を契機に、国王とその支持者、軍部、官僚などの既得権益層による「タクシン排除、タクシンの導入した制度」の完全排除が始まった。

2005年8月以降、今日までタイの政治は混乱した状態が続いている。

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