2010年07月17日
働くことは喜びです。
最近は、テレビでよく見るようになりましたが
かつては、パチンコの宣伝は「射幸心をあおる」ということで
放映することが禁じられていました。
テレビ局は、この不況の中、ぐぐぐとハードルを下げて
経済的に優秀なパチンコ産業をターゲットにしたので
現在のようにテレビで見られるようになりました。
でも、考えてみたらヘンですよね。
宝くじのCMはずい分前から放映されていました。
競馬も競艇もです。いずれも射幸心をあおらんのでしょうか?
この射幸心にスポットを当てて考えてみると
賭博系だけでなく、株式やFXだって
「濡れ手で粟」の発想で近づけば、それは「射幸心」に
違いないはずです。でも、こちらはあまり取り上げられません。
西欧の人たちは、“労働が神から与えられた罪”である
と考えているそうです。働くことは失楽園以来の咎なのです。
自らすすんで行うことではなく、できれば避けたい行為なのです。
逆に日本人は、労働は神の行為のまねごとと考えたそうです。
神聖な神様の行為を真似することで、神様に近づきたい。
そんな憧れにも似た思いで働いてきたのです。
だから、汗水たらして働くことは尊いことであり
喜びにつながる行為だったのです。
(学習院大学名誉教授の吉田敦彦先生のお言葉)
そんな発想は、やはり働くことが罪だと考える文化から生まれてくるのではないでしょうか。
手足を動かし、アタマを働かせ、汗水たらして生きていく。その対価として、日々生きていける糧を手に入れる。人生は、そんなシンプルな姿でいいんじゃないでしょうか。それ以上もなく、それ以下もなく、生き続けていく。
それこそ、「人生」だと思います。
そんなスタイルで生きていたら
「あおられる射幸心」なんてないはずなのに…。
2010年07月03日
命をなんやと思てるの?
閉館ぎりぎりの4時すぎに入ったので、ドタバタと天守閣に登って
大阪市を一望し、あわてて階段をかけ下りていって、
お目当ての『大坂冬の陣図屏風』を見て、
大阪市ゆかりの屏風絵の図録を手に入れて、
見送りというか、早く出て行ってBGMに送られながら
天守閣を後にしたのでありました。
お堀ばたでは、禁止看板が出ているにもかかわらず、
たくさんの人たちが
釣りを楽しんでいました。
看板を読み込む限り、
釣りの禁止は危険防止の
ためのようです。
決して、お堀の動物たちを
保護しようということでは
ないようです。
そんなことを考えながら大阪城
の周回道を歩いていると目の前になぜかカメが。甲羅の中に
首も手も足も引っ込めたままに、じっとしています。
堀の石垣は高く、水面からは
2メートルほどの高さがあります。どう考えても、カメが自分で
登ってきたとは考えられません。
?????…と思いながらも、堀の中に逃がしてやろうと
カメをかかえて、釣り人のそばに立って、堀を見つめていました。
すると、隣にいた釣り人が「カメいたやろ」と声をかけてきます。
「なんでかしらんけど、道に居たんですわ」とぼくが答えると
「さっき、釣れよって、ハラたったから道に投げたったんや」と釣り人。
確かに、よく見ると甲羅は無残にも割れていて、
そこから血がにじんでいます。甲羅の他の部分にも
擦れた傷があって、血がついていました。
ぼくは急にムラっときました。昔の映画『大魔神』の怒りの顔に
そっくりの表情をしていたのではないでしょうか。
思わず釣り人(60歳くらいのおじさんでした)を堀の中に
蹴り落としてやろうか、と思いました。
やっとの思いで、蹴落とす衝動を抑えて、
ぼくはカメを堀に落しました。
あっ!後の祭でした。カメは浮いてきませんでした。
彼は、甲羅を割られていたのです。
人間でいえば肩甲骨骨折のようなものでしょうか。
とにかく重傷だったはず。
それをぼくは堀に投げ入れてしまたのです。
自分が欲している獲物じゃなかったというだけの理由で
道にカメを平気で投げつけるオヤジ。
その理不尽を心の中で非難していたぼくは
カメのからだの状況も思いやることなく堀に投げ入れました。
なんで、人間はかくも自分勝手なのでしょう。
命の重みをなんと考えているのでしょう。
とても恥ずかしい告白でした。
2010年06月26日
いたちごっこ。
突然ですが、左手の甲を右手でつねってみてください。
あ、遠慮してはなりませんよ。
勇気を出して、思いっきり強くつねってください。
まだまだ勇気が足りないようですね。
そう、もっと、もっと強くつねるんですよ。
そうじゃないと話を前に進めることができませんから。

どうですか?
痛いですね。涙が出るくらい。
でも、なんか感じませんでしたか?痛みの中に…。
そうなんです。快感なんですよ。
このやろー!とつねることを愉しんでいる自分と
お、お願い…もうやめて…と愉しんでいる自分。
ふたりの自分がそれぞれに
快感を愉しんでいることが感じられませんでしたか?
あなたはマゾですか?サドですか?
そんな質問を受けることがありますが、
このいたちごっこの応用実験を通じてわかることは、
いかにその質問がナンセンスであるか、ということです。
人間の中にはマゾ嬢とサド公爵が同居しているのです。
あの阿修羅男爵のように…。
そのバランス如何で、マゾにもサドにもなるわけです。
感覚には閾値というものがあって、
刺激がある一定の数値を超えなければ関知しない
構造になっているそうです。
閾値を境にして、マゾとサドが誕生するのです。
あぁ、なんと悪魔的であることか。
と、まあ、ムズかしい話はここらで終わって。
さぁ、今宵、この遊びを愉しんでみませんか?
ほろ酔い加減で試してみるとまた妙味。
いったい自分は何者なのか?
この痛みに関する快感は、
与える快感なのか、それとも与えられし快感なのか…。
しばし、テツガク的に愉しもうではありませぬか。
