2011年02月21日

梟たち

最近 過去を夕陽のように眺めるのがブームらしい。
自らに禁止していたノスタルジアに僕もどっぷり。
俺俺私小説が嫌いな女の子。
でも俺達の方法論があの頃と変わらないなら俺たちは安吾のように腐りきる必要が堕ちる必要があるのか。
闇屋になるには何かがありすぎ 落後者になるには何かが圧倒的に足りない。
マキャヴェリにおける徳は未来を予見する能力のことだ。
それには運命を予期しそれに合わせるという受動的な能力のほかに 運命の女神を従わせる積極的な能力がある。君は従わせることができるか。俺たちが勤めて運命論者ではなかったのは 前者を否定するためだったのか。世界はフーコーを引かずとも檻だろう。俺たちが江戸時代の関所に関して思うアナクロニスムが今この世界を分断している。
俺は「ミネルバのフクロウは夜飛ぶ」というヘーゲルの言葉を 思考する者の思考力が夜活動するという意味だと思っていたのだが これは大間違いで 俺たちの認識が時代に制約されており その時代の終わりにしか時代の十全な認識は不可能だとうヘーゲル右派の依拠する言葉なのだ。俺たちのフクロウの飛ぶ夜は 時代の終わりなのか それともお祭りの夜なのか。



ここで曲♪ inu「気狂いて」♪

2009年11月24日

夜空の襞 改訂版 

全然システムが変わってる!!
なんだこれ。

果てしない空間というのは不思議なもので 見た目には平面に見える。
星座はすべて折りたたまれた光なのであり
夜は光る関節を持つ動物達の骨が化石となってよく見える。

マヤ暦が人類全体を代表しているなんて馬鹿げているけれど(世紀末が安く買い叩かれるのはいつの世も同じだ。終わりを認識しない人々に終(週)末を与え 消費をいそがせるのだ)暦は天体観測の周期表であり それを担う占い師は天の異変―例えば人類の歴史より遥かに長期的な周期を持つ彗星の飛来なんか―を説明できないと殺されたんだとか。天の秩序。我々は宇宙に法則を発見した気でいるが 人間が生じないとき数学はあったあろうか。月はあっただろうか。人間が余りに短い時間しか生きられないが故に 空は永遠を刻印された神々の世界だった。観測選択位置効果。パースペクティブの一元性。
アトランティス大陸の消失は古代ギリシャ世界の夜空の変遷で ゼウスたる牡牛座が地平線に沈んでいく時代の没落なのだという説をどこかで読んだ事がある(こんな時代に付き合わされるだなんて)。

星を見るというのは空のより高きを見ることで それはつまり古い光を見ることであり より遠い空間を見ることはそれ自体過去を凝視することに他ならない。
太古の人間たちが円環状の時間を開発したのは無理なからぬことで 未来を占う天体観測は過去を見ることであり 周期は未来と過去をイコールでつなぐ弁証法であり 起こり得る未来の計算は過去のデータの蓄積を用いる(一度起きてないことは周期と円環の例外であり時間の外から到来する?時間の外?)。
希望という言葉を古代ギリシャでは先見性 先のわかることととらえていた。人間の末路が見えることが?(ケパロスの箴言通りなら・・・)人間はそれでもその最悪を生きようと未来を予期しようと試みる。そのために過去を見るのは人間の愚かさを直視し絶望することに他ならないのでは?

夜空を『discipline』に入ってる「THE SHELTERING SKY」なんかを聴きながら凝視しているとキングクリムゾンつながりで「Dinosaur」が聴こえてきて 不思議な未来の地層に化石となって眠る自分が想起されて仕方がない(人に舞い降りる最悪の運命を目前に人は安らいでいると言う)。私の死は時間の外から飛来し 私を直線状の時間から切り取るみたいだ。上流が未来なのか下流が未来なのか。私たちの精神のカテゴリーなのか。覆水盆に返らずを説明するただの想定物か。言葉の上に成り立つ秩序。我々の言葉がないとき宇宙に秩序は?物理法則の正しい記述は我々に関係がないのかも知れない。

折り畳まれた星座の褶曲の流転。永遠それ自体に貼り付けられた古い光の襞。読み込まれたストーリーの恣意性とそれへの愛。
人間が皆いなくなったときに音楽を誰が聴くというんだ。すべての芸術の半永久性。その「半」という言葉をつけざるを得ない我々の悲しみと倫理。
夜空の下に流れる溶岩は絶えず空を更新している。









ここで曲king crimsonで「THE SHELTERING SKY」♪


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2009年03月17日

久しぶり

モラトリアム讃歌なんぞというピーターパンな名で始まり盛り上がりほっておかれた当ページ。
ああもうモラトリアムがつきかけている。
もう二度と子供時代はやってこない。
死んだ人はもう感じることができないよ。
悲劇があるから英雄がいる。
幸福の恐るべき対義語を口にするほど俺は強いだろか。
文章を書くという事は心の中を蹂躙されてもしかたのないことで
なんとナイーブだったのか。
思想思想というけれど他人に考えてもらっただけではないのか。
他人に依拠せずに考えてもそれは独白だ。
5060超えても人間はにっちもさっちもいなかいらしい。
わお。
それって不思議なことなはずなのに
今ではそれが当然のことのように思える。
誰がこの世界を作り支配しているかでっちあげは簡単だ。お遊び娯楽気晴らし怠惰。
厭世は許させず常にアッパーなものが美しいとかいうのはどこのどいつだろう。
高校の頃 子供時代の夢が明けて不快な朝(義務の始まり)が 大人になるという朝がくるという映画を計画だけした。おきない事。もうおきない事。もう省みられないこと。起きなかった可能性。過去は人間を捕らえてはなさないとはミラン・クンデラでもおなじみよ。人間を本当に捉え苦しめるのは過去。その過去の潜勢力。たったひとつだけ生きた可能性に対置して苦しむ無数の可能性。それはポジティブにしろネガティブにしろ強いパワーを持つ。
未来はまだ何もない空虚。ただ胎児たちだけがやってくる。未来を祝福しろとね。
もう春だ。
地球があったまっているのか中世と比べてくれ。ただひとついえるのは幼い頃はもっと寒かったってこと。俺の誕生日前に桜が咲いたのは数えるほどしかないんだ。
雪の中に何かが置き去りにされてもそれでもくる春。
ぐちゃぐちゃの汚泥に足をとられていたい。誰かを置いていくようで この冬が去るのがなんだか許されないようで。
大きく様変わりし 花は散り 他の花が結ぶ。
それを肯定してもいいのか。散る花は 結ぶ花とは違うはずだから。
なんだろう 関係性は 人間の運命をシステム化した思考が常に一定であるように思いたいのか。
思考の狂ったメカニズムと 実際の世界と よりよき世界と








ここで映画 『どですかでん』

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2008年11月23日

出来事の未整理

2日連続のアルコールと議論
メモ 明日まとめよう


世界について
あることはあり あらぬことはあらぬ。パルメニデスのお言葉通り。宇宙の中で子供が虐待されてうんこまみれになって泣いていてもそれは在ってしまい それを救う神もいない。
あるからある。殺されるから殺される。同語反復 事実としての世界。
しかし それに対する超越的な理解があったこと。それは無意味=悪いことというような見えない前提があったということ。
世界の無意味さそれ自体超越論的もの。事実としての世界というと語弊がないかな。
そうした超越論的な視点は実存主義的な文学の影響や自然状態への嘆きと恐怖がないまぜになっていたからか。
なぜか30上の初対面の人とがっちり話した。大信田の親父さん。お酒ご馳走になりました。彼は僕を戒めた。世界や僕らはゴミではないと。
同じく悩める大人丸山先生も開高建のエッセイを僕に渡すことによってそれの危険をいさめてくれたのかも。意識無意識にかかわらず。己や世界の無意味さの行き着く先は『嘔吐』のロカンタンの不安から簡単に『一指導者の幼年時代』のリュシアンの反ユダヤ主義に行き着く。他者軽視。そういう危険は常にある。「生きづらさ」と共に。だって差別主義者や軽薄でキッチュなものを愛好する人を見ると人間に生まれたことの恥を感じてしまうから。ニーチェが劇物なのは簡単に使用法を誤るバカがいるから。だけれどもパックリ世界は開いてて無意味なんだよ。

文学のたくさんの意味(無意味・神話・倫理・滑空)
それは不条理世界を条理化する神話やその抵抗であり発展した倫理・アイロニーであり(ユートピア文学が仲介する) 無意味さそれ自体であり それを滑空する楽しみですらもある。アナロジー。まったき芸術としての文学。

そこで僕は世界に有意味なことを探したわけだ。

バタイユ経由の内的体験のはなし
数学音楽の快楽。それはびっくりするほど主観的でそれだけに夢中になれる 宇宙に抹殺されて省みられもしないことを忘れることができる。つまり死を忘れいるということだ。
その真実さ。クオリアだ。
でもそれ自体世界の無意味さの一部であることも確か。だって物質がきっと引き起こしてんだもの。
でもそういう忘我を生み出す諸形式をつくりだせたら人間でいることの恥から喜悦に 喜びの側に住める気がした。それは好みもあって多様でいいわけなんだが 結局物質に還元されるという視点があると クスリづけになってもいいことになる。朝の5時くらいの雪の中でふじのと話し合ったのはそこだった。

快楽を求めることの危険がそこにある。薬漬けは別によいことになる。むしろよし。そこで手段と快が個々人にとってのものでしかないとすれば 欲望を矯正して公営団地に暮らして糞市民生活を送ってもいい。俺はそこで糞とかいうから問題なわけで自己への配慮と社会性がごちゃまぜだ。一生後悔するような批判的態度をもつ。悲しいことだ。洗脳されなかったがゆえのかなっしみ。砂漠で神に祈ることもない。でもそれは不可欠。地獄の季節の自己批判がそれ自体輝かしい。内的体験それ自体の権威。ブランショ。

宗教ががった経験 人生の破壊 個人主義的なもの。社会的でありつつ孤独な主観。
→社会的かつ個人的 非社交的社交性ってカントやはりすげぇのか 二重な包括的な事態。だから別の論理が必要?抱握というホワイトヘッドの方法で人間や世界を捉えた時すべては同時進行の出来事・事件なわけで分析家の分析は出来事でなくなってしまうかもしれない。個人的かつ社会的。
んで無意味さについての捉えなおし。
「神がいなかればなにしてもオッケー!」朝教会から抜け出して六本木で酒を飲む神学者の台詞・・・じゃなくってドストエフスキーの嘆き。でもそれは逆でジジェクやコント=スポンヴィルいわく 逆で神がいないからなにしてもよいにならない。意味を担保してくれないから 誰も運命や天の声のせいにできない。太陽のせいにもできないのかもしれない。
だから無意味さはポジティブな条件ですらある。自由に処せられてあることの恐怖と恍惚我らにあり。サルトルとカミュの師匠が出会う。
意味は必ず人称をもつ。誰誰にとってコップは飲むもの。無意味なもの有意味なものの違いが生じる。誰かにとっての意味。それは詩に限りなく接近する?
その中で目的を論じ合うことは馬鹿げ始め コミュニケーションの合意形成によるルールづくりだけが求められる。自由さは必要であって その自由の拡張の不自由さを認識することも必要。

ルールについて存在から当為は導けない。快の個人主義は功利主義の台頭時期が個人主義的なシーズンだったってのもある。
目的は多様で社会は多神教的社会。その中で有意味なことは何かの価値観に殉死すること?わざと宗教単語を使うけど。


ルールの構築とコミュニケーション
滑空するコミュニケーション。これは大信田家の人々との対話から。
愛にも友愛にも構造化されない快い場当たり的なコミュニケーションが可能であること。それ自体快いものであること。
人間の理解の可能性であり 不条理世界の滑空するすべかと思った。んでそれを有意味と捉えることも可。積極的に。

世界の不条理無意味の中で信という実践だけが有意味か?これは考えどころ。快いものを信じることと規範を信じること。ルールというと語弊がありそうだ。その都度構築されるものでなければならない。信というとちょっと悲しげに聞こえなくもない。浄土真宗の誰も客観的に救われてないけれど社会を運営し自己として救われるような信の実践。その場合やっぱり救われていないという客観性が不気味なわけだ。真に人間をそとから眺めることの不可能さ。でも想定しうる意味の王座。そこに人々の合意を肉として埋め込まないとならない。メルロ=ポンティ的な国家観の行方。

幸福論と自由論の区別。これもまた出来事の一体性にはむかうようだが 分けるというのは知識のかなり根源的な部分をきていしているだろうし必要かもしれない。どのどちらもがあり密接に関わる。純粋に何かへ殉死することは不可能かも。



洗脳だとか資本主義の話。
ヨクボーの多様化とアノミー。できれば人間は快いものを自分で見つけなければなるまい。悲しいことだそれができないのは。故に自由さの確保。国家とか宗教とかでらりるのは楽しいだろうけれど 社会的な共同性と個人の宗教的な快楽が同時にありえる宗教は強い。ただ意味に対する責任にかける。その一方で確固たる地盤があるからいう事は強力に憩える。無矛盾の体系内のみで真。

←ヨクボーの本当の多様化と巨大化←フーリエ。ユートピアを志向することでもあるが 実際に可能なことに捕らわれすぎている。政治や道徳はある意味ユートピアで 人間はあることだけに規定されいない。だからこそ占いを糞信じてみたり(結局それは金と金をかけたことの責任ゆえに信じるほかなしということだけれど)神を信じたりする。下部構造だけが強力なのでない。上部を豊かにしないと象徴の貧困 スティグレールの言う「いきづらさ」にたどり着く。もうついているけれど。だれが「ガンバーれニッポーン すごいぞにっぽーん」の歌を歌うのか。んで買う人がいるわけだ。でも個人の趣向は仕方がないとしてもそれを成り立たせる恐怖の欲望破壊。こんな糞な芸術ともいえないキッチュきわまる大量生産大量消費のものでまんぞくしなきゃならない人間の恥辱。それに対抗するために巨大な欲望を懐く。社会の構築とか。アノミー自殺しそうになるけれど人間であることの喜悦を感じたいわけで。
つまり個人としてあることと社交的存在としてあることと個人が自己を陶冶しいくことがごっちゃまぜになっているわけだ。これを分けて考えてもよいけれど真に可能な人間の選択にするにはこれを混乱の中で考え抜き出来事にまで事件にまでしないとならない。
はじめから投げ込まれた世界で孤独な主観があり そいつが何事かを感じたいと思っている。他者の絶対性に意味の根拠を求めるのはありか。己の生涯すら己から逃げていく。意味はそとにあり 人生を解釈されて意味が定まる。ゆれているけれどね。ゆれをもたない人生はない。判断も。だからこそ人類の記憶を保持してほしいわけだがその人類は宇宙の藻屑なのだ。笑える。恥辱を感じるのは屑が屑として満足する姿だ。最後にであう無意味さは人生を投げ出し脳の一部をぶっとばすほどの衝撃か?なんにも定まっていない。さだまさし。ぼくらはユートピアをシコウして悦に入りたいだけかもしれない。けれどその悦が求められる。無意味に接して悦に浸れるか。絶望は本当に絶望的なのか。キルケゴールでも読むか。世界は絶望だから神を信じないとだめよん。神もばかっぽい。コミットできる夢中さを求めなら洗脳もありになる。こんな風に人間がバカのように汗癖他人のためや最初からかね持っている奴らのために働くのはそれ自体無意味でも無意味さを忘れれるから?サプリメント戦争の序文を思い出す。美しい忘我を求めて。他人になるための生成変化。奴隷になるためじゃなく蝶になり蟷螂になり花になること。センスや価値観かしら?ないまぜの世界だ。




なんだかんだで見ちゃうそこまでいっていいんかい。
中山は言い訳に終始。教育という言葉に社会の問題のすべてを代弁させているに過ぎず 蓋然性に乏しい。しかし議論されていなかったがなんつっても奴が懐いてるのが単一民族論なわけで そんななかで愛国とか教えて子供らの未来がアカルイわけあるかい。欠如があるから必要という。欠如はそうした意味でポジティブな側面を持つのも事実。しかし 僕らが愛国心を鼻で笑うのはある種もうそうした感情があるからで 故郷を愛しているし だけれどそれが国土や歴史まで拡張あれると超時間的な国家観の押し付けになるわけで。
もちろんすべての主体化が服従化の要素も含むのだから 学校境域・歴史教育はすべてプロパガンタ的要素を含まざる終えないんだから相対化できるように個々人で歪んだ発達を遂げるべきなのだ。
個性個性個性!というのもまた無個性的な押し付けなのであって ほっといても生じるものに対するパターナリズムみたいなものにゲロすべき。
どうやら保守論壇の人々は二級国家な扱いについて不満らしいが もしこれが他の国とおんなじようになればそりゃ軍隊ができ どこかで戦うことが可能になるだろうさ。常態としての暴力に対して それは自然状態とされてきたけれど そこにすら否を捉える領域の入り口に日本は立っているわけなのであって 普通に考えたら自国軍もったら米軍の死んでもいいよ部隊に配属だろうし かといって米軍との付き合い無しに自国を運営できるようにするにはそういう正規軍をメインにしたらそれこそ無謀なドンパチをしなきゃならんので市民的な抵抗は別のところにあるんだ。戦車道を作るときに土地を奪われるように 最終的に市民の利益と軍隊の利益は衝突すらする。だって為政者が変わっても僕らは生きていけるんだもの。よっぽど狂ったやつが支配しないがぎり。そしてそれはできなくなりつつあるわけだ。北朝鮮がロシア中国アメリカの権力空白地帯のシニフィアンであることの意味も小さくなっていくだろうべし。唯一問題なのは核だけれど これは北朝鮮だけにいえることでないものな。イスラエルが先制攻撃を開発したわけで。
んで超時間的な国家を守らせようとしてくるのが支配者側からの要請だけれど 被支配者である僕らが仕事ないから自衛隊に入った時に守るのって超時間的な万世一系の天皇とかいうお肉がエログロで魅惑的な古代から君臨してきたものを守るはずがない。今生きている俺達が問題なのであって それを守るんじゃないんだからさ。それを一体化させて「じいさんは悪くない!」と訴えても違うんじゃないかな。中山も教育で「じいさんたちは悪い子でしたと教えている」とか言ってたけれどそんなふうに教わったか?ちげえ。もっと現場の教育は精緻だよ。悩みぬかれて近代のお話はされているだろうが。んで戦争責任を赤に対する肉壁になることによって許された為政者たちとじいさんを同一視なんてできないんだわい。ミクロな歴史とマクロな歴史は違う。ミクロのほうは歴史というか「汚辱にまみれた人」の生だ。フーコー的に言えばね。それは権力との衝突によって残される。俺達はマクロな責任を問われるけれど主体が存在しないからとれるはずないわけで だからこそその問いはちゅうぶらりんになり続ける。それが反戦だろう。ナショナリズムを神社で再生産しなくてもじいさんはじいさんだ。権力に付き添って間違った。今度は権力を誤らせないように抵抗しないとならない。抵抗は権力に接続されている。俺達一人ひとりが権力の要素だから。米騒動。日本の抵抗史を学ぶべきだ。そしてそれが欠けている。敵対性。それは共同体のバイタルな条件で国民国家を必然的に越境していくかもしれない。

しかし超時間的な国家観で見られる。わけだ。俺達だけが世界ではないものな。だから昔の思い出に引きずられて戦力が足りませんとか言うのかしら。でもでも迎撃ミサイルくらいあんだろ?けっこう金つかってんじゃんか。
金と暴力。ファシズムは資本主義の鬼っこだし 全体主義すらいまだにある。利権が渦巻く国防という問題点もあるだけだし 軍産複合体の傭兵たちは利益のためなら拷問も当たり前だ。生権力の発露としての戦争と資本主義の密接なかかわり。経済を道徳化することは不可だったが 消費活動は道徳・政治・世界を貫く。安さだけでなくより精緻な選択における消費が新しい経済を生み出せるかも?ここは昨日の話。



ここで 出来事 マイク・オールドフィールド「ommadawn」パート1♪!!!


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2008年10月02日

予防社会

リクエストに答えまして



太郎の所信表明演説読んだけれど ぷぷぷ 民主に「政局を第一義とし、国民の生活を第二義、第三義とする姿勢に終始したのであります。」と避難を向けながら 政局を一義としている自民党の現内閣の本質が語られていますね。まずもって民主批判を述べるのですからお笑いです。自民のやり口はいつも 自分たちがめちゃめちゃにしてきたものを「改革しなければなりません!」とマッチポンプです。小泉もお得意の手法でしたね。あと「合意の形成をあらかじめ拒」んできたのは自民のほうではなかったか?強行採決の思い出はいまもって健在です。あの横暴で幼稚な国会運営を二度と行なわせないために拮抗した緊張状態を国会に保つべきではないのか。
あと繰り返された「強い」日本。「日本は、強くあらねばなりません。強い日本とは、難局に臨んで動じず、むしろこれを好機として、一層の飛躍を成し遂げる国であります」とな。太郎の語録に残される「運良く朝鮮戦争が勃発して日本経済の再建を加速化させた。」 を加味すると難局とは戦争・戦後 そうして発展とは戦争経済のことかしら?難局が好機であるのは権力が乱立して空白状態に見えること。闇市で価格を吊り上げて金を得たアレな人々ほうが非国民じゃねぇかと言いたくもなるわいな。ミクロな歴史を忘れてはならない。町人文化は楽しかろう。男も女も役者の体を買った江戸時代。「日本は、明るくなければなりません。幕末、わが国を訪れた外国人という外国人が、驚嘆とともに書き付けた記録の数々を通じて、わたしども日本人とは、決して豊かでないにもかかわらず、実によく笑い、ほほ笑む国民だったことを知っています。この性質は、今に脈々受け継がれているはずであります。よみがえらせなくてはなりません。」生徒会長の所信表明を聞いているようだぜ!明るく明るく明るく明るく!!その歴史には貧農の暮らしが 立ち上がった一揆が はけ口としての最下層級の存在が刻まれているのだろうか。たしかに町人階級 中でも商人は米の仲介によって100パーセント消費階級の武士から国際的な市場が開ける次の時代の主役を奪う段階にあったがそれでもその絶対数は少ないのだ。多数決の怖い所だねぇ。圧倒的多数は農民。耕作の傍ら夜は工芸。百姓は文字通りなんでもする人であり 鎖国状態なんのその 大陸と交易を秘密裏に行なっていたとか。歴史の複数性を 日本人の複数性をこいつはうけとめているか?
そうそう強い国だった。今も健在の雷帝プー朕の標語「強いロシア」を彷彿とさせますね。ロシアは最近 皇帝暗殺の歴史を前時代の誤りとして国家的に承認。真実を暴くのは勝手だが 皇帝的な存在への強い帰属感が再び芽生えつつあるとかないとか。プーチンの強力な支持母体だったコサック。ソ連時代には活動を禁じられていた皇帝崇拝の右翼集団だ。子供への軍事訓練をかかさないところなんかヒズボラすら彷彿させますな。むかしアホな武部はフリーターは自衛隊にはいってサマワにいけみたいなことぬかしていたけれど 雇用促進戦争経済富国強兵♪侵略は自衛。攻撃は予防。こんな論理がまかり通るなら政治なんて意味あるのかしらね。おっとっと こんな物騒なこと書くと 大げさだと思われそうだ。うひひ。予防やセキュリティが大好きなんだろう?管理社会の人間達よ。これは予防だぜ。セキュリティだぜ。同じ支配のパラダイムに住む人間同士なかよくやろうじゃあないか。
「海上自衛隊によるインド洋での補給支援活動を、わたしは、わが国が、わが国の国益をかけ、わが国自身のためにしてきたものと考えてきました。テロとの闘いは、まだ到底出口が見えてまいりません。尊い犠牲を出しながら、幾多の国々はアフガニスタンへのかかわりを、むしろ増やそうとしております。この時に当たって、国際社会の一員たる日本が、活動から手を引く選択はあり得ません。」と言っています。ますます関わる気なんでしょうな。アメリカの自国内ではさっさと撤退させないと自国内での権力闘争に負けますから イラク戦争後半は治安の正常化という情報を躍起になって流しアメリカ兵は引き上げて 他の国の軍や傭兵に丸投げにしようとしていたんだとか。アフガニスタンでドンパチやってこい!と言われていくんでしょうかね。
戦争がはじまればなんとでもいえるからな。結局 核武装論者の中川も含めこいつらは人が不当に殺されることを容認しているから嫌なんだ。
え?それが他国の人だったらいい?家族よりマシだろって?いつかの大論争だ。そんなことわかりきったことなのだ。
ってか麻生が統一教会から秘書雇ったりとか日韓トンネルとかの話はマジなのか?笑 なんかもう陰謀論とかまで視野に入れたら誰も信用できないものねー 






最近忘れてる ここで曲♪ 頭脳警察 「戦争しか知らない子供達」♪


2008年08月07日

情動本位体制 

リクエストに応えまして。



モダニズムを乗り越えようとして中世的なものへの参照を行なうことは多々ある。モダンが古代を参照したように。

用意するもの
‖舂未梁湿緡潅『芸術起業論』
▲ソリン

焚書で幕開け!!!

図書館にあったので読んでみました。『芸術起業論』。『ネオリベ起業論』かと思った。徹頭徹尾 金の いやマネーの話なんですな。
「すべての芸術は現実に我慢がならない」とニーチェは言ったが 現実に安住しきった芸術がここにあり。本書で頻繁にダシにされておりまするデュシャンが妹の結婚祝いの送った「作り方」を参照し この本 窓の外につるして三年放置しようか?
今日 芸術はひとえに人工的なバブルの装置 不動産と同じであるご様子。自己のセンスなどなく徹底した役割分担という経済性のために ご自分のセンスを決定してもらう第三者がオ芸術社交界には必要でござんすか。そうですか。バスキアは路上で書いた最後のタグに「自分は死んだ」と残したのだよ。作品を最初に好きな人に買われたら止まってしまい それ以上価格が高騰しないだってさ。「作品の価値とは実体のない虚構から生まれる」・・・そうですか。一理あるがね。物語は重要だ。しかしこれを彼はブランド化という。人生のブランド化。ウハハ。悪い夢でも見ているようだ。この人は芸術を愛していないんじゃないか?そんな素朴な不信感まで沸いてきちゃいます・・・・愛だって!アッハッハ!!ここでの愛とは投資のことでしたね。ってニーチェを参照するほど全時代的なのはわたくしのほうでござんすか?保守?
ふへへ。今日の抵抗の困難がここにある。ドゥルーズのミクロ政治学的分析はここでも使えそうでありまして つまり現実に安住しきった保守どもが自分達でアナーキーさ 破天荒さ 多様性 個性をこちら側にあるというんですな。
お芸術の擁護者ぶることがステータスだと思っている成金どもにここまで迎合するとはお見事。実際これは芸術についての本ではなく「成功するひとの法則12!」とか糞くだらない処世術の本です。彼は自分でおススメできないといっていますから さらには処世術ですらなくって俺は自分の身を裂きながらも根本的に価値観が異なるところでがんばってきたんだ!認めて!ってことかしら?んでもって欧米の価値に迎合するのが正しいとよ。そうとりあえず日本はダメなのであーる。なのでR(昭和軽薄体で書くとますますダメっぽい)
日本は言われなくてもダメです。ダメすぎてみんな最近は言わないことにしています。しかしそのダメというのは日本に大規模のお金持ちがいないことが原因はようですね。これには参りましたな。市場がない。業界が弱い。「大きな権威に利用される喜び」がないそうです。
大きな権威だとさ。

そんでもって彼は『泉』を矮小化させる。それはあくまで確信犯的な(それは正解)芸術破壊でありながら芸術を破壊しない新たなルールの構築であったと。デュシャンの便器は コンセプチュアルなゲームという側面を肥大化させたというのはある種正しいが 彼が行なったのは「すべてのものがまったく別のものでありうるということをしめしたかった」ってことだ。それはピカビアが人間の頭が丸いことを賞賛したことと同じなのだ。それがどうだ?そうした権威破壊のポテンシャルを破壊し ついには芸術すら成り立てなくなるほどの倫理性を備えているにも関わらず である。未来を語らないのに反抗的な思想家は叩かれるが(ドゥルーズもフーコーも未来を語らない為に 新保守主義とか呼ぶ人があるらしい)それは倫理的であるが故だ。未来の保障などないし 未来の抑圧になるくらいなら死んだほうがましなのである。彼は常に海外では 欧米では アメリカでは!浮世絵が海外で評価されたバンザーイ!とオリエンタリズムに浸りきる日本人を馬鹿にするくせに ご自分は日本には独立した権威がないからと海外の権威を参照する。実際売れてんだって。どんだけくだらない世界だろ。セリーヌを評して生田耕作が言ったように 世界は生きるに値しないかもねー!

あ?なに?おフランスの思想でアンタも村上を裁いているじゃないかって?「おフランスの思想だから」使うのではありません。出典を明らかにし僕自身それを引き受ける為です。
一階の無名糞ガキが何を言う?やれやれハマコー論法には飽き飽きだ!俺達は今-此処に残念ながらいるほかなく そこからはじめるしかない。伝統が失われているくらいならまだいい。伝統を復活させたりそれらをサンプリングしたりすればいいから。でも 此処にはなんにもない。伝統も何も。何重にも植民地化されたセンスと方法があるだけだ。しかしそれが父なる文化なのならそこからはじめるしかない。好きな歴史を引き受けろ。
歴史といいましたな。歴史なんて始めから不可能だし その中で本質とか出来事の選択の恣意性とか言い出したらさ切りないけれど 日本のマンガ文化をアメリカ人に説明するのに縄文時代から ってなんだよ。大日本帝国の皇紀ですか?「私が縄文文化から影響を受けた」ならすばらしいだろうよ。しかし文化がって!かの岡本太郎でさえ あの暗い軍人のエゴイズムを自らの戦争体験とともに嫌悪していた(蛆が人間をなめる音を聞いたことがあるかい?)太郎さえ 縄文に日本の源流を求めるというヘマをやらかしそうになった。実際やらかしたりした。彼自身 再三注意を払いながらもだ。太郎は日本を欲しすぎたのだ。
ゆえにデリケートになるべき部分なのだ。太郎は日本に飢えていた。俺達は伝統やオリジナルに飢えている。しかしこんなものに走ってはいけない。


作品の価値はどこに?それは僕の心はどこに?と問うのに似ている。ピクシーズ♪
ブランショはバタイユとの対話のなか「内的体験それ自体の権威を持つ」いう。秘密の 誰にもわかりえない それゆえに倫理的なそれ。それが価値ではないのか?実際 作家の天才性を垣間見せるのは神秘的な体験というものであって 彼も「光」などと称し 最後の章でマティスには何か見えないものが見えていたとそれに言及するのだが 自らでっち上げた虚構の歴史とブランド化と評価基準への迎合が作品の価値だという。わかりえないものは価値にならないものね。結局可視化された金額というものが それを手に入れ見せびらかすことが それを手放す時さらに多くの金額を得ることが価値なんだそうだ。世界では。いったいその世界は何処にあるんでしょ?たぶんアメリカと欧米の すごく狭いところ。息が詰まりそうなくらいの空間。あんなに広い大陸なのにそこだけが世界。
なんだか主人公とその関係者の心理が世界そのものを変えていくみたいな文学・マンガが多々あるみたいですが(セカイ系っていうんですか?)それってその狭い空間での政治的決定や価値観の決定みたいー!

なんか分析哲学の本でちら見したんだけど 基本的に価値観を共有していないと差異それ自体が認識しえないみたいで そのたくさん共有している中の極小の差異を人は誇張するらしいんだけれど(ブサイクな人がブサイクとして祭りあげられるのは大勢のちょいブサたちを隠すためなのさーおんなじ形をしている彼女達が 鼻の穴という極小の差異を強調してあるブサイクを貶めた さようなら)
まったく異なる 交換不可能ともいえる 外の価値観は差異すら認識できないだろう。
科学をモデルにあらゆるものを組み立てすぎたら芸術なんて工業なんだもの。知覚にばりばりクル光の量や音を研究してダイレクトに刺激してやればいんだからさ。クスリさ。社会生活を破壊しない程度の 明日を乗り切る健全な余暇としてのドラッグ。あーあ。
それでは刺激→インプット→脳→アウトプット→反応。
もう考えるの辞めませんかー!
しかしね 富の科学として資本主義が生政治と融合したといわれる今日に そうした快楽刺激=マネーで芸術を論じましてもね。資本論的転換ですかね?笑える。
芸術に対する最高の蹂躙。こいつダダイスト?ぶっぶー!ダダ宣言1918からやり直し!!金で芸術を破壊しても 新たな偶像を結わえ付けただけだ。マネーという金ぴかの神様。現実的な救済を与えてくださる!
天の救済はホラ。しかし地上の救済も糞。誰が女をはべらしくだらん話をするために大枚はたくだろか。はたくから困るんだなー!ベートーベンフリーズが救済?
ああ 此処は天国で きっと僕らは天使なんだ。なぁハウスマンとバーダー?


あ まだ続くよ。んでね最後の章はね 結構読めんの。一般的で主観的な苦悩が書かれているからさ。芸術家 作家の死後の自由。それが一体なんだってんだ!的なこととか さっきの内的体験めいた話とかさ。でも最後は結局オリエンタリズム!世界を盾にぼくらを殴る。あとがきなんかでは(アトガキまで読んだのですか?スゲェ!!)「時間も心も兌換できる得る人類共通言語」がマネーだとさ!うひゃー!金本位制をはるかに上回る貨幣体制。ホリエモンここにもう一匹!モンスターボールで捕まえろ!俺はあんた以上に怒りを得たよ。ってか。あっはっは!そう最後の章のいい部分 怒りについても忘れていないことがありましたね。でもなんですか。ポケモンくん。ファインアートとサブカルの区別もない国ってあんたが推進してんじゃん。確信犯?なおさら罪だね。自分で権威をぶちあげろといいたいのかも知れないけれど 日本の強い部分 カワイイものを尊ぶってオイー!!!!キャラクターというわかりやすいものがコンセプチュアルアーチョに抵抗する日本軍の零戦でござるか?!権威を利用して逆輸入を狙ったあなたはやっぱりあなたの同士たちに国賊!といわれてしまうのではないでしょうか?まあ僕はそのような言葉遣いはいたしません。僕に言わせればあのようなフィギュアたちが6千万とかネタですので。そういう立ち回り?悲しい。彼自身 猿回しとかいってたな。なんかほんと世界ってつまんないね。これが新書じゃないのもうけるな。

時代の強風が何もかも消し去ればいい。創造力を失ったら終わりだ。何か別のものへ。



2008年06月04日

問いとメモ


僕らの存在様式
生きることと生き残ることは違うとすればそれは如何なることによってか?
「さもなくば死」 先駆的覚悟性とも呼べるだろう。そのようにして生きる(てきた?)

はたして教えることができないことどもを教えることが出来るのか。記すことができるのか。命を賭けろとはいえるのか。

命がけ いまや妄想に過ぎないだろう。しかし私の愛する存在様式。
君は生きているか?生き残っているか。
生き残りは 生の質を問わない。生存を問う。生の質などあるのだろうか。クオリティ・オブ・ライフ。中流階級の夢か。

「さもなくば死」 生を問う。生以外の外的な体系をこさえているだけか?背後世界者たちよ。ご存知生の外には何もなし。死すら生の中で希望として機能するにも関わらず生の外側とは?もはや物質。答えどころか問いすら生成されないのだろう(と 考えられる)。
さすればタナトスとは?ドゥルーズ&ガタリは滑稽だと笑い飛ばしたそれ。すべては生のうちに。死はただの そう ただのシニフィアンだった。内容がない記号だった。現実対象を欠くシミュラークル?
死 死のシミュレーション。それは思考だろう。死とは関係がないのだろう(・・・かもしれない)

「死にたい」それは倦怠感を。示す語の語彙の少なさなのか。本当に人々は死にたいのか。それはむしろ感情の強さ。違和感の強さ。アンチノミーに引き裂かれながらそのストレスに耐え切れない。生存という 存在の息苦しさ。(起きているのは誰か)無限に引き伸ばされる生。

生の速度に対して。高速で宇宙を旅すると帰ってきた飛行士は浦島太郎だ。


愛について。
お見合いという風習は共同体維持の風習として古今あるだろう。
しかし フランス宮廷文化がいわゆる「恋愛」としてあまねく庶民にいきわたる。
「まだ死ぬことだけはできるわ」
生き残るより 永遠に匹敵する一瞬を選ぶことも可 なのだ。

生存より高い価値。それを見出したものの悲劇的悦楽。ラリリっぱなしが人生か?

気分。存在とともにある気分。
気分の維持の買取。感情のマネージメント。
だが悲しみも怒りも楽しまずに?


ドゥルーズ&ガタリをもう一度。彼らはマゾヒストは快楽を現実対象から引き離すみたいなことを言った。幸せの記号を用いなければ世界から幸せを鋳造できなのではなくって 生成変化させること。快楽を見出すと言うよりかは 快楽になること。

マンホールの中 我が家から徒歩20分の奇景。世界をゆがめてみたというより 始めから転がっていたというより 肌で見た 目で聞いたこと。



ここで曲 ジャックスで「ラブ・ジェネレーション」♪



okomeozisan at 22:43|この記事のURLComments(2)TrackBack(0)体験記 

2008年05月22日

対話篇

け、けッ結婚招待状が来た。我々は一日に1600万kmだか宇宙の中で移動しているんだっけ?ひぃぃぃ時間と空間は取り戻せない。この場所の同一性はどう保たれるのだろう。人間の同一性は責任により保たれるとパスカルは言った。しかし場所はどうだ。現在を常に取りこぼす。常に遅延されていく。地球の遠心力は宇宙へ私をはじき出そうとするが地球全体が重力と言う脆弱な力を補い私をひきつけ私は墜落し私は耐えざる肉粉砕に辟易する。

俺「粉砕 粉砕 ばらばらに砕けた俺の過去の対話記録 再録。」

俺「世界の改変って 人並みの欲望(就職したい!お金を得たい!ほしいものを得たい!)を懐けない または軽視するお前が言っても説得力に欠けるんだがなぁ この誇大妄想狂メガロマニア!」

俺「ム 出たな 俺!」
俺「ああ お前もこいよ 俺。」
俺「仕方在るまい。」
俺「脱構築が 最大の注意であるのだとすれば 広がるコンテクストに従い 俺は お前を つまりは俺を批判せざるを得ない。」

俺「わかりきったことだ。俺自身 震えが止まらない。」
俺「地震か それとも恐怖か どちからわかるなど事後的な意味づけだ。」
俺「お題目はやめよう。恐怖の翻訳家たちのおかげで いわゆるハイ・カルチャーが貶められて久しい。哲学者はニートばかり 画家は性格破綻者 お前の つまり俺の好きな愛すべき自殺者リストには まさにお手本とならないものたちばかり。」

俺「まったく新しいことがらを目指すものにとって手本などないだろうとはエリュアールの言葉か。しかし ハイ/ロウなどの二項は恣意的な権力の線引きだぜ?」

俺「バカを言うなよ!お前が つまり俺が 差別化を謀ろうと企てる「彼ら」と 己の中で別っているのは まさにハイ/ロウの区別ではないのかね?和漢洋の知識に通じた大正教養人 デカダン趣味・・・他のデカダン気分をキッチュと呼び捨てるその態度。知識の階層性について眼を向けなければな ただの衒学趣味か はてまたオタク的な蒐集癖か それを別つのもやはり恣意的な 差別化のラインだ。」

俺「近代化のはて 大正に極わずかいたが小説にこぞって描かれた高学歴ニートともいうべき遊民が あまねく日本中に供給されたということかねぇ?しかも高学歴ですらない。」


俺「知識は良いとしよう。あまねく与えられるべきだ。マルクスが子供を飢えさせたからといって哲学へ親近感が沸くかと言えば疑問だ。どちらかと言えば 死の思考だろう。幼い頃からそれに取付かれ 慣れ親しんだものが行き着くのさ。おっと でだな 趣味性は多様化すれば その選択のセンスのよさが求められる。そして何もかもで尽くしたなら 選択が 検索が レファレンスが個性になるんだ。」

俺「どうだか?内心びびってんのが解るぜ。なんせ俺はお前 つまりは俺だからな。」

俺「そのさ お前はお前で自己の中の指示語はそのままでよくない?」
俺「そうだな。そうしよう。内心 己の苦悩の普遍性に つまりはどうしようもない人類の業であり 青年期特有のありがちなもの しかし世にはびこる未来が見えない人々となんら変わりはないものだということに。」

俺「「喰う為に」という最後のエートスすらない。それはお前が つまり俺が予めそうした価値観を軽蔑するように囲い込んだとしたら 自殺だ。」

俺「ちょっと待て!だからどうだってんだ?皆がそう 等しい気分を抱えているならばそれはそれで連帯の可能性だし 人間性ともいうべきものだよ。死という点において等しい我々はわかりあるはずだ。」

俺「俺の中のナイーブボーイめ!死はただの空虚なシニフィアンだ。どうにでもなる。自由な書き込みが可能と言う点で皆等しいだけだ。問題は生だよ。クオリティ オブ ライフとかいうミドル階級の価値観が貧困者をますます追いやりつつ 死の意味も変えつつある。死の現場ではささやかれているだろう?生のクオリティが。」

俺「そして 己の苦悩の特異性を聖なる傷にして 選民意識を味わいたいだけだな。苦悩が得意のように見える違和感を味わっているだけだろう。焚き火を囲い 清談にふける。まぁ 語りがクソみたいにできないやつもいるがな。しかし 彼らごと救われようとしているんじゃないのか?」

俺「お前もナイーブどころか基督野郎だ!くそ この極私的文章が公共の空間に流れ出ていく時 人々は私をどう思うのだろう?」

俺達「お!お前は外面!!」
外面と呼ばれた俺「公共空間へでていく私的空間は吐き気しか催さない。」

俺「黙れ。どこまでがフィクションか現実か どちらの厚みも同じで 同じくらい強さを持つ どちらもクスリであり 毒だ。」

俺「考えたことは現実的だろうか フィクションだろうか。」
俺「え?」
俺「だって こうして考えたことは発せられ効果がそれなりにあるだろう?でも実在しない。」

俺「ヴィルノ的に言えば 言語活動も唯物のうち。」
俺「国家と同じく実在体だろう 透明なあるもの。」
俺「なんだそれ?つまり俺達の存在が揺らいでいるよ・・・うな・・ぁ

ああ


ああ



俺「あぶねぇ!もう少しで言語からはじかれそうになった!」
俺「まったくだ あれは俺って言うか俺の中の他者性の一言だな。」
俺「ここでこうして自己の多様なポリフォニーすらわからないひとっているよね。」
俺「こら そうやって人を軽蔑してはいけませんよ。」
俺「超自我ごっこもやめろよ・・・」

俺「戻ろう。救いの問題って実は 多数的であり それは求められるべきものなんだけれど 多面的な問題でさ 宗教の創始者にとってはただのトリップが 多数的になるとトリップであり 現実の秩序であり 共同体なんだよな。」

俺「むかし 教授と半分怒鳴りあいしたけれど 創始者にとって救いなど個人的なものだし 彼らは創始したわけじゃないものな。」

俺「ユートピアもそのように考える必要があるかもしれない。」
俺「なるほど 個人的な救済など個人で行えと?」
俺「でもこのディストピアも想像力がないひとにとってはさ 最高ジャン 目的が始めから備え付けてあって 国民皆兵で。夜コンビニ開いている 想像力がなくても金をばらまけばラウンドワンにいけるのさ。」

俺「町へでれば彼をむしられますます貧乏ってか。」

俺「想像力の貧困だ!」
俺「スローガンは気持ちがいいよね。とってもだまされそうになるわ。」
俺「でもそうした備え付けの目的が実はクソだっていうのはまさに死を思うからでしょ。でも死をセットすれば他のどんな可能ごとだって無意味ジャン。」
俺「実存・・・いやなんでもない 翻訳がうまく進まないな。」
俺「ああ それがこうしたポリフォニーを書き立てる。」
俺「決まりきった予定に不慣れな僕らと駆り立てたが本当はそういうの大好きジャン?」
俺「ああ 悲しいな。ドゥルーズさん・・」
俺「半永久を作り出したいと願いつつ・・・」
俺「「大作を書きたい」と思い いつかアッと言わせてやるモラトリアム主人公ってありがちだな。」
俺「まさに明治以降の 近代化に現れた遊民を地で行き それが広範に拡大した今 まさにそれに落ち込んだ感じ?」
俺「そうした分析は非常に嫌だな。リストは忘れる為にあるといい。」
俺「ポーだね。」
俺「だからさ マイナー言語だよ。徹底的に無意味なものをつくろうぜ。んで倫理的な存在になんの。」
俺「このへん もう誰にも通じないかも。つまりヴァルター・ゼルナーでありたいんだね?」
俺「うん まさに生きる自殺。ビル・エヴァンズもびっくりの長時間自殺だ。」
俺「社会の再生産にウンコオフ。新しき 世界の待望・・・ああ宗教臭いなぁ。世の中全体が宗教臭いのにな。」
俺「むかし俺に向かって 変な宗教に走らないでよ?とか抜かしたやつがいたがお前らのほうがよっぽど信者だったな。消費の。べつにいいけど。宗教は必要かも知れないからね。」
俺「ただその宗教からあぶれたものは あぶれたなりのものを作り上げないとな。」
俺「ここからが新しいのだけれど って今のは独り言だ。無意味なもの・・・機能見ただろ?どんなファンタジーもブルトンさん風に言えば現実だ。幻想はすべて唯物なんだ。だから教訓みたいなものを引き出せる。酷い眼にあってもそこから経験し 成長する・・・まさにこういう主体が企業家って感じで こういう考え方がはびこっているけれど なんだか現在の自分を圧殺しつつ進むんだよな。まぁそこはおいといて そうリアリズムは現状賛歌・ファンタジーは現状の息抜き または現状に回帰しろ 人と恋をして救われたフリをしろ そういうことを教える。しかしファンタジーの中のくだらない日常は何にも使えない 目的論を超えたそれ自体の楽しみでしかないんだ。」

俺「でも昨晩みたものを非常にくだらなかったわけだ?」
俺「ああ 結局保守 サザエさんだね。記号だらけ。女性の記号。知的の記号・・」
俺「そういうのが作りたいんじゃないんだよな。」
俺「ああ でもケネス・アンガーの『ルシファーライジング』とかホドロフスキーだとか まるで旅行するような綺麗で不思議な映像を映画ってどうだろ?」
俺「息抜き・・・にされちゃう?」
俺「いいや 強烈な吐き気があればいい。『ホーリーマウンテン』は現実に帰れとも読めるけれど。」

俺「だから心地よい映像と音の羅列。」
俺「見れるかな?他人の自動筆記が読みにくいようにきつそうだ。」
俺「形の 心地よい形の反復だ。」
俺「まさに俺達のプロジェクト。」





別の対話

俺「いやしかし まさに 欲望の欲望だ。
日常にながれゆく欲しくもないものを欲しくさせられるような 真実にたどり着けない欲望と同様にやりたいこと 目標 本当に好きな相手 などなど アキレスと亀のようにたどり着けず 無限だいのジュース(2分の1づつ飲んでいけば永久に減らないパラドクス)のように欲望は尽きない。
改変後の世界を思い浮かべれない時 運動それ自体が自己目的化しないだろうか。
それを肯定したうえで 楽しい世界を間褐的に セツナ的に存在させることも可能だが
つまりそれが人生だとか 漢詩の世界だな。
我々に許されるのは運動性だけだろうが。」

俺「こうしたロマン主義的なアイロニー 絶対性への接近という不可能な 可能になるためには自己再帰的にならざるをえない運動性みたいな青年期のアレ ってドイツの青年運動だな。日本もごりごり影響うけてる 精神の到来か 。」

俺「ののしりあいの世界を 歩くしかないか
こちらがわが生を謳歌している つまり苦しみぬいていると 楽しく歌はないとな
ブラウアーの絵と歌 あれくらいの分裂を引き受け ボロをきて心の錦すらわらいとばす そうつが笹と竹の間にざす人間のメンタリティ
そうした古代からのアウラが勝手にオレを囲むだろうな 七人賢いヤツがいればそれでいい 言葉はどもり つかえていく しかし聞き付けるものもあろう

誰の詩かな 高啓だったかな 山と町 何が違うだろか 。」





モラトリアム座談会が続く。おおよそ恋の外側を見ようとするやつ 堅実にしかし仲間との夢を見出したいやつ。旅に出るやつ。

「わかちゃった/わからなくちゃった」そういう人間は二項の価値観を超えて 死んでしまうかもしれない。

キッチュなものの分析。交感神経系・副交感神経系。その間に光るもの。燃える白いもの。らーらーてぃーちゃまいらーらーてぃちゃふぉーゆー♪

ここで曲♪MANDODIAO ホワイトウォール!!









okomeozisan at 16:48|この記事のURLComments(2)TrackBack(0)体験記 

2008年05月21日

雲泥

ユーキャンのシーエムは現代の怪談なのか。ただの弁当屋の菅野美穂がばりばりと仕事をこなし帰ってゆく・・・・。ああ そうした訓練された労働力をフリーター価格で雇用しようという企業の欲望なのだろうか。訓練!訓練!自己実現!ディシプリンは内在化された。再び世界が状況化しつつある時 我々はどう振舞うべきなのだろうか。
昨晩 男女の役割分担について小論文を書きなさいという課題を抱えた友人の弟君が見せてくれた資料によると「男は仕事 女は家庭」という考え方に同意するという女性が以外にも多い事が判明。どこから引いてきたのかわからん資料だがな。女性の労働者を描くドラマのリアリズムは結局社会への強制的な奉仕ってことに気付いていらっしゃるのか 現状とはあまりにかけ離れた理念は彼女達に恫喝として聞えているのではないのかと思う。社会の再生産に賃金を払うと典型的な主婦の年収は1500万でしたっけ?これをして矢部史郎は「賃労働は人間を養う事ができない」と言っていたっけ。

訓練と成功と自身と人間関係上のファシズム。家父長制の香り。
男のほうは男女の役割分担の解体に同意する人が全体として多いんだとか。現代社会の軋轢は男性にひたすら経済性を求める。ゾンバルトも涙する 愛妻経済より零れ落ちた悲しき男たち。34歳フリーターの戦争待望論。

デュシャンは3を好んだ。多様性の始まりだからだ。飼いならされた個性・可能性・多様性を超えた吐き気催す多様性ISMS。真昼にランタンを掲げ人間を探すように 夜道に車をせき止めて運転手に「お前は誰?」と問うべきなのだ。

相も変わらず酒泥の悪臭。昼間の倦怠。夜の思考と耐えざる自己解体。ポリフォニーを失えば人でなし。一神教者の呪詛と争う。感情の負債を自分で清算 便利で哀れな人間よ。哀れな人間たちの一瞬の完璧な瞬間。それに囚われたい。





ここで映画 ポランスキー『反揆』


okomeozisan at 17:14|この記事のURLComments(2)TrackBack(0)体験記 

2008年05月12日

いくつかの箴言


1.あらゆる目的論は失効する。
2.癒され「たくて」ペットを飼った。しかし彼女は死んだ。
3.最期はカタルシスですらない。事実のようなものがそこに転がるだけだ。
4.「死にたい」という欲望はそうした欲望の再生産と目的論を失効させるように思える。
5.しかし多くの場合「死にたい」という欲望は語彙の少なさ故の一種の誤訳だ。
6.語彙が少ない人間は「だるい」から「死にたい」への以降が早い。
7.しかし(ぼんやりとした)不安というと感情の翻訳を経る以前の混沌を内包することができるかも知れない。
8.死にたいという人間を真似する人間も不安だ。
9.徴候は真実か虚偽か見分けることができない。
10.目的論は此岸の経済学だろうか。
11.即ち教養主義。何かのための知識の動員。
12.それは公務員試験で 聞いたことのないクラシックの知識や見たことのないオペラの知識に答えることだ。
13.あまりに迂回しすぎた欲望。
14.欲望について 正しく知ることは不可能に思える。
15.多くのパラドックスはその手引きかもしれないが。
16.目的論を回避するためには 迂回した欲望を防ぐほかない。
17.今 この時 此処で 充足すること。
18.新しい世界を 今生み出すこと。
19.早すぎて反省を省みられない。
20.自己破壊だけがある。
21.高所の空気は肺に悪い。暗いところで強すぎる光は視力を奪う。



ここで本 『愛と暴力の現代思想』



okomeozisan at 15:03|この記事のURLComments(0)TrackBack(0)体験記