【かみふうせん❤について】

 

台詞を一言一句変えずに古典戯曲の舞台を現代へ。

 

傍から見ている僕は楽しくてしようがありませんでしたが、俳優さんの苦労ははかりしれない作品です。

 

いい俳優であればあるほど、細かい台詞・状況に対し幾通りもの選択肢を用意し、事前に用意をしていないまでも「その方向性ではない」と言われたときに、すぐに別の選択肢を生み出せる。

それをつなぎ合わせていくだけで、同じ言葉しか発していなくても違うドラマが作れるのではないだろうか、とこれまで俳優をやりながら常々思っていたことを実際にやってみました。

 

「かみふうせん❤」だけに言えることではなく、今回の3作品全てにおいて俳優さんに頼っていました。

もしあなたが今回の作品をおもしろいと思ってくれたなら、全ては俳優さんのおかげです。

もしあなたに今回の作品の良さが伝わらなかったなら、全ては僕の力のなさです。

 

俳優が用意してきたものを演出家が削る。演劇を始める前は予想していなかった工程でした。全て演出家、監督の指示のもと、細かく指定された一挙一動を演じているのだと思っていました。もちろん劇団や演出家の方向性にもよります。が、まるで企業でディレクターが会議中、部下が出した企画をことごとく退け、穴を潰していくかのような作業。そういうふうに作品をつくる劇団は数多くありますし、僕もそのようにして楽をして進めていきました。だから勝算が見込める、いい俳優さんに出演してもらいました。

 

「紙風船」は「伝える」ことを意識しました。

一方で「かみふうせん❤」は演技を現代風の口語に近付け、俳優から発信される情報量(動き、言葉の抑揚)を極力削っていきました(もちろん表に見えるものを削るのであって中身を捨てるわけではない)。情報量の少なさゆえに、観る側が情報、状況、心情を「掴み取りに来る」かたちにした。

 

観る側には伝わらなくてもいい、裏モチーフとして坂口安吾の代表作「桜の森の満開の下」を下敷きにしました(リンクしているところと、リンクしてないところはもちろんあります)。


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企画当初の構想では「暴力夫と怯える妻」という、今回上演したのとは逆の構図でした。単純にテキスト上の問題で、妻が激怒するより夫が激怒する方が台詞の脈絡が損なわれないのです(もし気が向いたら夫が激怒する様子を思い浮かべながら戯曲を読んでみてください。楽しいですよ)。

 

しかし個々の俳優さんの個性を見ていくうちに逆の選択肢(「桜の森の満開の下」のような女に翻弄される男の姿)が頭をよぎり、「暴力妻と怯える夫」という構図に方向転換をしました。

テキストの脈絡として多少なりとも無理があるため、俳優さんへの負荷は増えてしまいましたが、功を奏しました。「紙風船」で既にお客さんは一度聞いている台詞であるにも関わらず、前後の脈絡の食い違いを生まずに演じてくれました。会話としての脈絡のなさがあったとしても夫婦という関係性で成立しているコミュニケーション、あるいは破綻をきたしている夫婦としてのディスコミュニケーションとして消化できました。

 

前半は、淡々と。いつも繰り返されてきた日常。暗澹たる日常。

 

因幡屋ぶろぐで因幡屋通信主宰・宮本起代子様にご紹介頂いているように「都会で孤立したひきこもり風の夫婦」をイメージしています。

テキストで夫は働きに出ていると明言しているし、生活費を稼ぐためには勿論働きに出ています。が、妻には何らかの理由で(制作過程でいくつかの要素・方向性を提示してディテールは俳優さんに任せました)外出ができない、したくない、社会・第三者に対する嫌悪をバックグラウンドとして持ってもらいました。抑圧、そして殺された感情を吐き出す先が夫です。

 

夫の方が比較的社会に近い立場にいる。優しい男でもある。かつて楽しかった頃の自分たちを取り戻したいという意志もある。

妻の「行きたいところがあるわ」という言葉を聞いて電車の絵を描き出すと、妻も追随する。二人にとって、久しぶりの楽しいひととき。

 

妻の写真を撮ったあとの夫の長台詞。

赤いポスカで「幸福を描こうとするけれど幸福を描くことができないシーン」と僕は呼んでいました。

 

「紙風船」では穏やかに伝えていた感情を、「かみふうせん❤」では激しく、夫の自分自身への憎しみをこめて演じてもらいました。「紙風船」では諦念に似た感情だったのを、自分自身に対する強い憤りと幸福への憧憬を込めて。

それを見ていた妻は強い性格ゆえに(弱さの裏付けでもある)素直になれるわけがなく、笑う。最初はいつも通り馬鹿にしようとして、しかし夫の言葉がどうしようもなく響いて、笑おうとして、笑って笑って響いて笑って、泣いてしまう。「あなたは馬鹿よ」と笑いながら、泣く。

 

一刹那、離れていた二人の心がつながる。

 

けれど、自分にとって切実な言葉を真剣に吐露したときにふと、夫は虚脱感に襲われる。切実であればあるほど、今までの自分の苦悩が馬鹿みたいに思える瞬間。

夫は決意をする。

「この家を出て行こう。この女の元から去ろう」

 

「紙風船」では台詞のとおり会社の同僚(川上さん)のところへ遊びに出るという設定でしたが、「かみふうせん❤」では夫に「川上さんのところに行くという嘘をついて家を出ていく決意をした」という演技をしてもらっていました。

 

客席の角度によっては夫の虚ろな表情は見えず、声音だけでは伝わりきらないこともあったかもしれません。見えていたとしても、伝わりきらない人もいたかもしれません。

ですが、角度やお客さん一人ひとりのアンテナによって感じ方が変わってくるのも演劇の良さだと思っています。

 

繰り返しになりますが、お客さんに情報として伝えるべき意味や意図を書いているのではありません。こういった想いを携えた俳優が作り上げる関係性(意味や意図ではなくここが伝わりきらない部分は僕の力不足です)と、そこにいたお客さんが俳優と同じ空気を吸っていたのだということが大事なのです。料理に例えるならば、これは飽くまで「レシピ」であって「料理そのもの」でもなければ「味」でもありません。

 

「川上さんとこへちょっと出かけてくる」

という、夫の嘘。

 

妻はそれに気がつかない。

夫が背を向けていることも原因かもしれない、虚ろな様子が妻には穏やかな語り口に聞こえているのが原因もしれない、何年かぶりに心が通じ合った高揚のせいかもしれない、響いた言葉が妻を信じさせているのかもしれない、信じるのではなく疑いさえもさし挟ませないのかもしれない。

 

妻は、夫の変化に気がつかない。

 

「紙風船」ではおだやかに、ゆるやかだけれども確かに届いていた言葉たち。

「かみふうせん❤」で、一方は(妻は)「この先の幸福」を見つめて、一方は(夫は)「これまでの不幸」を想いながら語られている。

交わることのない、言葉、言葉、言葉。

 

そっと妻が背中合わせに寄り添ってもその構図は揺るがない。文字通り、二人は別の方向を見ているのだから。

 

  夫 犬でも飼はうか。

  妻 小鳥の方がよかない。

 

沈黙ののち、夫は感傷や決別に近い想いで

 

  夫 昔々ある処に、男と女とがあった。(略)

 

と語る。心がもうここにはない夫、幸福を見つめ続ける妻。

そこに紙風船が飛び込んでくる。

 

そこで夫は妻の後ろ姿に欲情をおぼえる。

窓一枚隔てた向こう側に子供がいる、という状況がそうさせるのかもしれない。別れ際は女性が美しく見える瞬間の一つだからかもしれない。あるいはどこかでまだ、家を出ることへの、妻への未練が残されていたのかもしれない。

 

夫は妻の制止を無視して愛撫をし始める。ここでも、「偶然に」夫は紙風船を手にとってしまう。このときも、もし紙風船を手にしなかったら妻の首をしめようとはしなかったのではないかと僕は思う。

 

カミュの『異邦人』でムルソーが殺人の動機を聞かれて「太陽が眩しかったから」と答える有名な一節があるけれど、それに近いのではないだろうか。

殺人にしろ、もっと小さな暴力や、もっともっと小さな言葉の暴力でさえも、明確な理由などないことの方が僕は多い気がしていて(人を殺したことがないので想像の域をでませんが)、誰にでも「偶然」で起こりうることなのではないかと思っています。逆に「偶然」で殺されることもあるだろうな、とも思っています。理不尽だけど。理不尽だからこそ。

 

だから夫が妻を殺したとしてその動機を聞かれたならば「妻に暴力をふるわれていたから」ではなく、「妻が美しかったから」とか「紙風船がきれいだったから」と答えそうな気がするのです。「桜の森の満開の下」に描かれた桜への理由の明確でない、春の魔力、みたいなものもそうかもしれない。文字通り「魔がさした」という魔力、とも言い換えることができるかもしれません。

(テキストでは妻が「今頃コスモス何かが咲いててごらんなさい」と言っているので舞台は夏~秋なのかもしれませんが、僕はたとえば「犬でも飼はうか」「小鳥の方がよかない」などの前後のト書き「長い沈黙」に春の暖かさや木漏れ日が見えるような気がしていて、今回の上演時期も相まって「紙風船」にしろ「かみふうせん❤」にしろ、どこかで春をイメージして作っています。もしこれが、真夏や真冬が舞台であったなら殺そうとはしなかっただろうな、とも思います)

 

かと言って、本当に「偶然」だけが作用したわけでもありません。

鎌倉に行く戯れ・妄想が二人にとって何年かぶりの本当に楽しい思い出だったからこそ、ここで、今日、終わらせたいだとか、意識的でない理由づけはできるでしょう。もちろん、これまでの二人の生活があってこその「偶然」です。

 

夫が首を締め始めたとき妻は拒んでいますが、拒むことを途中で止めるのです。夫の行為を許すのです。夫も許されたことに気がついて、叫ぶ。叫ぶしか、なくなる。

 

「紙風船」での戯れと、「かみふうせん❤」での愛撫という対比で十分に成り立っているからあのシーンは必要ないのではないかという感想も頂きました。熱心に見て頂けると感じるありがたい感想です。

 

あのとき紙風船が入ってこなければ、夫はそのまま家を出て行って戻ることはなかっただろうと僕は思うのです。しかし紙風船は入ってきてしまった。偶然にも。

(例えば「紙風船」(1本目)でも、もし侵入してきたものが近所の子供が遊んでいた紙風船ではなく、川上さんの来訪であったとすれば……もし紙風船が飛び込んでくるのがもう少し早ければ……また別の結末が待っていたかもしれないと思うのです)

 

紙風船の侵入が「偶然」であるからこそ、僕は「偶然」を見過ごせなかったのだと思います。