2017/2/16 の記事を改めて掲載しました。

運動場の向こうに校舎が見える。

割れた窓から廊下を見ることができた。右側に、職員室、二つの教室、宿直室がある。

校舎の側の廃屋は、校長先生夫妻の住まいであったろうか。


 
  河野小学校は、昭和52年(1977年)、大宮小学校に統合され、閉校となった。その時の児童数は、3名だったという。

 校舎は、昭和29年(1954年)に新築され、2つの教室と職員室、宿直室がある。
 廃校になっても、部落が存続しておれば、校舎は集落センターとして利用されることが多い。
 しかし、河野部落そのものが、限界集落を超えて消滅してしまった。いまは、静かに朽ち果てるのを待っているかのようだ。

 校舎のすぐ側に崩れ落ちた廃屋がある。おそらく先生の住宅だったのではなかろうか。山間部の小学校の先生が、学校の近くに建てられあ教員住宅に住み込むことは、珍しいことではなかった。
 香北町史を読むと、「昭和36年に赴任した近藤昇徳校長夫妻は、学校教育はもとより地域の社会教育にも力を入れ、婦人会活動が活発に行われ、地域の人が集まって演芸会をしたり町外へ遊びに行ったり視察に行ったりして見聞を広め、地域の活性化に努めた」とある。
 小学校と赴任した先生は、その地域の文化の中心的存在だったのだろう。


 廃校までの沿革を辿ってみよう(香北町史)。
明治5年氏神山祇神社の拝殿を利用して学校を開く。
明治8年上河野西サコ、川ノ内地区にそれぞれ小さい学校を
設ける。
明治28年河茶の奥奈路に校舎を建築する。
明治42年下河野に校舎を移転改築して、暁霞小学校の分教場とする。
昭和23年暁霞村立河野小学校として独立する。
昭和29年校舎新築落成する。
昭和31年町村合併により大宮町立河野小学校となる。
昭和36年町村合併により香北町立河野小学校となる
昭和52年児童数減少(3人)のため、大宮小学校に統合
閉校となる。