「旧劇もQと同じく意味不明だった」「Qは旧劇のリメイク的作品」「旧劇も意味不明だったし、これこそエヴァ」「Qを批判する奴は新劇から見始めたニワカ」などという、直視に耐えない、愚かさの塊のようなコメントが、残念ながら世の中に蔓延している。

どうも「旧劇は意味不明だった」というのはインターネットにおいて一定のコンセンサスを形成しているらしい。確かに旧劇はそれまでのアニメ作品と比べれば圧倒的に難解な物語だった。テーマも重く、要素は詰め込みすぎの感が強く、心情描写やメタメッセージに大幅な尺を割いており、ひとつひとつのシーンが重かった。

しかし、旧劇は決して「わけのわからない作品」ではない。難解だが、明確な話の筋があり、テーマがあり、メッセージがあり、そして観る人に感動を──少なくとも衝撃を──もたらすまっとうな作品だった。これは間違いない。そこで、本記事では旧劇とエヴァQの簡単なあらすじを作成し、それぞれの持つ「難解さ」について比較してみることとした。当然ながら旧劇、エヴァQ両作のネタバレを含むので未視聴の方は注意して頂きたい。


そもそも「難解さ」とはなんだろう。
あまりに壮大な主題だし一般化することは極めて難しいが、あえて以下のような整理の仕方をここでは取りたいと思う。つまり

①物語の一部に解釈の難しいシーンを含むのか
②話の筋として理解が難しいのか

という分類である。

①は

「太郎は戦争に行き、英雄として活躍した。戦後、太郎は決して豚肉を食べなくなった」

などの文書があてはまる。太郎にとって戦争と豚肉がどのような関係を持つのかは一見してわからない。しかし太郎にとって豚肉は何らかの象徴的意味合いを持っており、それ故それを忌避していることは推測できる。確かに「難解」だが話の筋としては理解できる。


②は

「太郎は洗濯機を買うために恐山に行った。恐山で天狗に出会った太郎は、10年後経営コンサルタントとして巨万の富を得た」

などの文書があてはまる。
なぜ洗濯機を買うために恐山に行くのか。なぜ天狗に出会うことと経営コンサルタントが関係するのか。全く意味不明である。人物の行動の動機、ものごとの論理、これらがちぐはぐだとこのようなゴミが出来上がる。ちなみに作者の僕にも意味不明である。このような話は「難解」というよりも、むしろ「無条理」とか「意味不明」などの形容が適当だろう。

さて、もう何が言いたいのかおわかりと思うが、旧劇は①の、エヴァQは②の難解さを持っているというのが僕の主張だ。その難解さは決してイコールではなく、全く別種ものだ。物語として成立した上で解釈上の難しさを持つのか、そもそも物語として成立していないのか、両者の違いは極めて大きい。


ではまず旧劇をあらすじを見てみよう。


ついにネルフとゼーレの全面的な対決が幕を開ける。
覚醒したアスカの奮闘もむなしく、本部施設は次々に陥落し、エヴァ弐号機も敗北する。
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ゲンドウの計画はレイの離反によって挫かれ、ゼーレ主導の人類補完作戦が実行される。
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しかしシンジは補完計画を最終的には拒絶し、少なくともシンジとアスカは生き残る。

明らかに①のタイプの物語だ。話の筋は明確で、物語として成立している。量産機が空中で陣を組んだり、自らにロンギヌスの槍(コピー)を突き刺したりと一見何が起こっているのか把握しづらいシーンもあるが、人類補完計画自体が「儀式」であるということを補助線にすれば、それほど問題なくストーリを把握できる。そもそもネルフとゼーレの対立、人類補完計画、オカルト的儀式、これらは全てテレビシリーズから何度も作中で言及されてきたことで、旧劇になって急に登場した要素はほとんど皆無だ。

たしかに「なぜアスカはいきなり覚醒できたのか」「なぜレイはゲンドウの元を離れたのか」「なぜシンジが補完を拒絶できたのか」「最期の『キモチワルイ』という台詞は何を意味するのか」など解釈の難しいシーンは存在する。それを以って旧劇を「難解だ」とする意見には僕も同意する。しかし、物語としては基本的に成立しており、その難解な箇所も十分納得の行く解釈を作成可能なものだと僕は考えている。


今度はエヴァQのあらすじを見てみよう。
 

初号機からサルベージされたシンジは、そこが14年後の世界であること、旧ネルフクルーの大半は「ヴィラ」という新組織に所属しネルフと対立していることを明かされる。正体不明の敵(インフィニティ)が襲ってくるが、エヴァではなくヴィレの戦艦「AAAヴンター」により殲滅される。
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「ヴィレ」内において何故かシンジは徹底的に敵視され、爆発物付きの首輪を装着される。その理由は全く明かされない。突如零号機がやってきて戦艦に攻撃をしかけシンジに乗るよう促す。シンジは(なぜか)零号機について、ネルフ本部へ行く。
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ネルフ本部はほとんど無人だった。ゲンドウは「エヴァに乗れ」と告げたっきり何も言わず退場してしまう。綾波もどこか様子がおかしい。冬月副司令との会話もシンジの心を平静にはしない。唯一コミュニケーションが可能な渚カヲルはシンジのせいで「ニアサードインパクト」が起こり、人類のほとんどが死滅したことを明かす。しかし13号機でリリスに刺さった2つの槍を抜けばこれらは元通りになるという。混乱の極みにあるシンジは、カヲルの言葉にすがる。
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カヲルと共に13号機に乗りセントラルドグマに向かうシンジ。槍を目前にしても「この槍は違う」とカヲルは告げるが、シンジは聞く耳を持たない。2つの槍を目前とした所でアスカ、マリの2機のエヴァに妨害されるも槍を引き抜くところまで行く。しかし戦艦「AAAヴンダー」により妨害される。カヲルは任意に外せるはずの首輪の爆弾により死亡。13号機も撃墜され、アスカに救助される。

…。

これはもう、明らかに②に属する物語と言わざるをえない。
話の筋が完全に崩壊している。なぜ零号機が来たのか、なぜシンジは零号機に乗ったのか、なぜ槍を抜かなければならないのか、ネルフもヴィラも何を目的としているのか、カヲルの目的は何か、というかなぜネルフにいるのか、全てが謎である。
「特徴的なシーンに謎が残る」のではない。最初から最後まで、徹底して、全てが謎である。

確かに、謎が多いこととつまらないことはイコールではない。
テレビシリーズのエヴァは、多くの謎を含みながら完成度の高いエンターテイメントとして成り立っていた。しかしエヴァQは違う。最初から最後まで徹底して「謎」のみが描かれ、話の筋は存在しない。もちろん「物語」とはひとつひとつのシーンの連続なわけで、「話の筋が理解しづらい」と「ひとつひとつのシーンが理解しづらい」は根本的にはイコールなのだが、それでも程度問題というものがある。旧劇は物語として成立していた。エヴァQは成立していない。これは明らかではないか。


僕の意見をまとめる。

・物語の一部に解釈の難しいシーンを含むのか
それとも話の筋そのものが崩壊しているのか

これらは明確に分けられなければならない。エヴァQは話の筋そのものが崩壊している作品だった。それを「これこそエヴァ」などと言って旧劇にからめて擁護するのは全く馬鹿げた行動だ。今一度、両者を注意深く比較して欲しい。