東町のおもいで。

おばあちゃんの昔のこと。

子供の頃からまったく気にならなかったわけではないけれど、それでも僕は一度たりともおばあちゃんに尋ねてみようとは思わなかった。

年寄りの昔話ほど気が滅入るものはないってことをあの頃の聡明な僕が知っていたというのもあるだろう。

ありもしないエピソードをふんだんに盛り込んで、自分達の生きてきた貧しくて乏しい時代を雄弁に語りあげているうちはまだいい。

「最近の若い者ときたら」というあのお馴染みのフレーズが飛び出して、一転世代間闘争の様相を呈し始めるのもまた微笑ましいものだ。

新しい世代に対する戦術も戦略もない無邪気なまでのマウントポジションは、じじいばばあの真骨頂である。


ところが強気なファイティングポーズのその先に、きゅっと握りしめた10オンスと10オンスのそのむこうに、物質的にも精神的にも恵まれた僕ら下の世代に対する生々しいまでの妬み嫉みが垣間見えた途端、僕はいつも背筋が冷たくなった。

田舎のスーパーになぜかいつも平積みされているあの安い発泡酒くらい後味が悪くてたまらなくなった。


殊にうちのおばあちゃんの昔話が決して愉快なものにはならないことを僕は経験上、嫌というほど知っていた。

きっと今のご時世であればアルファベット四文字の大層な名前を戴いていたであろう心因性のアレを心のポケットいっぱいに持ち歩いていた祖母は、毎晩眠りにつくと程なくして激しくうなされはじめ、しばらくすると大きな叫び声を上げながら目を覚ますようなドラマみたいな人だった。

それを一晩のうちに何度も何度も繰り返すのだから連続ドラマみたいな人だった。

それと同時に、最後の叫び声がむにゃむにゃとうわ言みたいにあやふやになってよく聞き取れない様がまるで漫画みたいな人でもあった。

それを一晩のうちに何度も何度も繰り返すのだから連載漫画みたいな人だった。

祖母のあの声は誰かを呼んでいるようにも聞こえたし、悲しんでいるようにも、怒っているようにも聞こえたけれど、
いかんせん漫画みたいな人だったので、当時、中2にして英検準二級を保持していた僕の類稀なるリスニング能力をもってしても一語たりとも聞き取れることはなかった。

子供の頃は祖母のあの声を聞くのがほんとうに嫌で、祖母がいつものようにうなされはじめると、僕は毎週あんなに楽しみにしていた「パパパパPUFFY」の放送もそこそこに毛布を頭までかぶって寝てしまうようになった。

生温い汗が背中いっぱいに滲み出て、お腹の底から不快感が這い上がった。

ついでに喉の奥の方からレモン10個分くらいの酸っぱいものが込み上げてきて、たらふく食べたその日の夕飯を激しく後悔した。


母が言うには、祖母は毎晩のように昔のことを夢にみてうなされているのだという。

祖母が今までどんな思いで生きてきたのか、安穏と平和を食い散らかしてきた僕に想像できようはずもなかったけれど、それでも悲しいと思った。

生きていたって、あれでは地獄だと思った。


けれども同時に僕は確実に僕をこんなに不愉快にさせる祖母を恨んでもいた。

祖母の寝室の仏壇の、名前も知らない男の人の白黒の写真にすら腹がたった。

付けっぱなしにした深夜のテレビからは奇抜な髪型になって僕を心底がっかりさせた下平さやかアナの鼻に付く笑い声。


その日の僕は慌てて目と耳を塞いだ。

臭いものには蓋をした。






中瀬町のおもいで。

おばあちゃんの喋る聞きなれない言葉は、子供の僕にはまるで外国の言葉みたいだった。

いま思えばあれはおばあちゃんの生まれた町の言葉だったんだろうな。

別にそんな言葉わざわざ使わなくたって普通に喋れる癖に、会話の所々に無理矢理織り交ぜてくるあざとさが子供みたいで可笑しかった。


そういえば、おばあちゃんはたまにロシア語なんかも話していた。

話していたといっても決して流暢に話せていたわけではなくて、たとえば教科書の冒頭数ページあたりで容易に習得できる程度のお馴染みの定型文を得意げに何度も何度も繰り返していただけなのだけれど。

英語に当て嵌めるならばI have a pen.みたいなもんだったんだろうか。

あるいはI have an apple.だったか。

ahー

その先の一番大事なところは、おばあちゃんはいつも言えない感じだった。



告別式の日。

火葬場から上がるいつもとおんなじような煙を知らない女の人と一緒に見上げながら、そういえば僕はおばあちゃんのこと何も知らないな。とぼんやり思った。

ずっとひとつ屋根の下で暮らしていたのにだ。

それはもう、心にダムがあるのかないのかお茶の間で論争を繰り広げていたあの兄弟よりも長い時間ずっと一緒にいたはずなのに。

阿呆みたいにぼろぼろと涙を零しながら、ちゃんと返したのか返しそびれたのかも思い出せない知らない女のハンカチをくしゃくしゃになるまで握りしめながら、ぼんやりとそのことを悲しいと思った。





大久望町のおもいで。

毎週土曜日になると、おばあちゃんはいつも決まって僕を隣町の老人会に連れて行った。

僕がまだ小学生の頃の話だ。

両親共働きで、歳の離れた兄と姉の帰りが遅いこともあって、幼い孫をひとりで家に置いておけないというおばあちゃんなりの配慮があったのか、
あるいは、傍から見れば阿呆な顔をした残念な孫ではあったけれど、それでも他の呆けた顔したじいさんばあさんに見せびらかしたかったのか。

どちらにしても、その親切心だか虚栄心だかよくわからないもののおかげで僕は毎週あの尋常じゃない長い坂道を登って、わざわざ丘の向こうの公民館まで行かなければならなかった。


老人会と銘打たれたその集まりはその名に恥じることなく右も左も老人ばかりで、良くも悪くも変わり映えのしない停滞した時間と、それとは裏腹にいつ誰が欠けてもおかしくない今際の際の際の際の独特の危うさがあった。

僕は、そこでものすごく大事にされていたように思う。

阿呆みたいな顔こそしてはいたけれど、どうすれば人を喜ばせることができるのかくらいはよくわかっていた。

年寄りが各々持ち寄った、どうしたって口に合わないお菓子をへらへらしながら食べるのはほんとうに辛かったけれど、自分のその弛まざる努力がたしかにその場所を華やがせているという事実にただただ興奮していた。

それでもあの長方形の、わざわざオブラートに個包装された毳毳しい色をしたゼリーがほんとうに嫌いで、あれだけはどうしても食べられなかったな。

ゼリーというよりは、あのまわりにこびりついたオブラートが嫌で、はじめのうちは一枚一枚器用に剥がして食べていたけれど、そのうちそれも馬鹿馬鹿しくなってやめた。

言いにくいことを遠回しに伝えることを「オブラートに包む」だなんて言うけれど、わざわざ包むくらいならそんなものはじめから飲み込んでしまえよ。と言いたい。

そして、オブラートそのものの持つ攻撃力をすこしは勘案しろ。と言いたい。


あの縁も所縁もない大久望町で過ごした毎週土曜日の午後は、それは至極退屈なものだったけれど、
考えてみれば学校に友達はひとりもいなかったし、飼ってた犬は臭かったから、それなりに毎週楽しみにしていたんだろうか。

そう思うと、途端にあの何が正解かわからなかったおばあさん達の踊りにもなんらかの呪術的な魅力があったように思えるし、
マイナーコード連発の陰鬱な民謡やら童謡やらの合唱も楽しかったような気がする。

いつから行かなくなってしまったんだろうか。

結局ちっとも上達しなかったサッカーを始めた頃からだろうか。


何度聞いても恥ずかしかったあの語尾にいちいち「ずら」を付けるあの町の方言は、それこそ十字砲火のようにあの部屋には飛び交っていたけれど、よくよく思い出してみれば僕のおばあちゃんはあんな野暮ったい言葉は一度たりとも使わなかった。

けれども、まわりのおじいさんやおばあさんとは違う言葉で喋るおばあちゃんが、なんだかひとりだけ余所者みたいで悲しかった。












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