鍵穴。


6月23日。金曜日。

何年も前に三軒茶屋から京都に引っ越していってしまった友人と久しぶりに三軒茶屋で会う。

昔とおんなじように駅前の喫茶店の安っぽい椅子に腰掛けてとりとめのない話をする。

ノンスモーカーのふたりが揃って喫煙席に座って副流煙をたらふく呑み込んでいる様は実に滑稽であったと思う。

僕はテーブルに行儀よく並べられた小倉トーストにとにかく意識の六割くらいをごっそりやられていたから、彼の話を半ば上の空で聞いていたのだけれど、どうやらしばらく東京に滞在するということなので随分と広くなった僕の部屋の隅っこを貸してあげることにする。

引っ越してきた日に作った合鍵は、そういえば今でも別れた彼女が持っていて、どうしたものかと思ったけれど、部屋の引き出しの奥の方の皺くちゃの茶封筒から身に覚えのない合鍵がもう一本出てきたものだからそれを彼に渡すことにした。



部屋に荷物を置き、これから下北沢にでも行くと言う彼の丸まった背中を見送るこれから阿保みたいな仕事に行く僕の背中もまた丸い。

そんな日。

ものぐさ。

もうかれこれ8年も付き合っていた人と別れた。

はっきりとした別れ話はしなかったけれど、お互いもういい大人なので、部屋いっぱいに膨らませたそういう類の空気を最後はふたりでゆっくり呑み込んだ。


ここ2年くらい、僕はほんとうに仕事ばかりで家に帰ることも少なくなって、彼女とは同じ部屋に住んでいたはずなのにほとんど会うこともなかった。

彼女は彼女で毎日忙しそうにしていたからお互い様だったけれど。

それで、せめて最後くらいはと思って、いつまでたっても終わらない仕事もそこそこに彼女の引っ越しの手伝いをしに部屋に帰ってはみたのだけれど、
結局のところ僕はほとんど役立たずで、おろおろするばかりで、最終的には興味のないバラエティ番組をただただ真顔で観ているばかりだった。


5年前にこの部屋に引っ越してきたときに僕は家財のほとんどを処分してしまったから、ひとりになったらまたあの悪意と憎悪がぐるぐる回転するコインランドリーという暗礁宙域に足を踏み入れなければならないのかと危惧していたのだけれど、
そんな僕を不憫に思ってか、彼女は僕に今どきの洗濯機をくれて、それがほんとうに嬉しかった。

荷造りついでに5年ぶりに剥がしたクッションフロアはひどくくたびれていて、久しぶりに顔を出したフローリングがやけにひんやりと冷たかった。


なんだか聞いたらいけないような気がして散々迷ったけれど、遠慮がちに彼女の引っ越し先を訪ねてみたら、それがほんとうに目と鼻の先だったものだから、よくあるアニメの最終回の使い古されたオチみたいでおかしかった。


長いことかかってしまったけれど、
今度はきちんとひとりになれたと思う。

全自動洗濯機のスタートボタンを連打していると、そう思う。







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偏見ベッケナー。

誤解を恐れずに言うならば、
私は偏見が大好きである。

せっかくだからもう一度言おう。

私は偏見が大好きである。


では「偏見」とはなにか。

アメリカの心理学者、ゴードン・オールポートによれば、偏見とは「十分な根拠もなしに他人を悪く考えること」であると定義されている。

さて、言葉の定義をこれを読んでいる読者との共通認識とした上で、私の博識ぶりに舌を巻いているであろう読者の方々に正直に告白するならば、上の一文はそっくりそのままウィキィペディアからの引用である。

私はこんな機関車みたいな名前の奴は知らない。

しかし国籍から推察するに、こいつもハンバーガー片手にスーパーボウルの生中継に熱狂しているようなワスプ野郎であることには疑いの余地もない。

そう。

これが「偏見」である。


ちなみにスーパーボウルというのはアメリカンフットボールリーグの優勝決定戦のことであって、決してアメリカの化学者、ノーマン・スティンレーが開発したゴム製の玩具のことではない。

聡明な読者の方ならばもうお気付きであろう。

私はこんなメキシコオリンピック銀メダリストでありながらブラックパワーサリュートを支持したばかりに不遇の生涯を送ったオーストラリア人選手みたいな名前の奴は知らない。

しかし国籍から推察するに、こいつもコーラ片手にアメリカン・アイドルの放送に一喜一憂するようなワスプ野郎であることには疑いの余地もない。

そう。

これが「偏見」である


「偏見」という言葉が私の意図するものよりも読者の方々にネガティブに響いてしまっているのならば「ステレオタイプ」と言い換えてもいい。

かえってよく響きそうな字面になってしまったけれど、ドルビーサラウンドが主流の昨今においてたかだか2chなのだから容赦して頂きたい。

さて、この「ステレオタイプ」。

例えば先程の国民性の話だけとってみても、なるほど確かに乱暴な話ではある。

全人類70億人を国民国家という比較的新しい概念で線引きしてしまうわけだから当然である。

アメリカの政治学者ベネディクト・アンダーソンに言わせれば国民国家などは「想像の共同体」、つまりは作り物である。

人種やら民族やら宗教やらを全く勘案しない誰かの都合で引かれた線が、数多の悲劇を産み出してきたのもまた歴史の必然である。

そして遅ればせながら私はこんなニューヨーカーの朝食みたいな名前の奴は知らない。


しかしそんなことは百も承知で、それでも私は線を引きたいのである。

メキシコ人は全員売人だと思いたいのである。

ブラジル人は全員コーヒー農家だと思いたいのである。

ドイツ人は全員オルド自由主義者だと思いたいのである。

理由は面白いからである。


誤解を恐れずに言うならば、
私は偏見が大好きである。








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