空を見上げて

七月 の カレンダー


今年も小学校の校門の両脇に青々とした笹が立てられている。赤や青の短冊に書かれた幼い文字がゆれ、願い事は様々だ。

笹2以前は各家庭にも小さな笹を見ることがあったが、今は学校や図書館や商店などでみるだけとなった。
とはいえ、季節を知らせてくれる大事な年中行事であり、荒々しい世の中にあって続いてほしい風習だと思う。

梅雨の雨に打たれ、四方に飛び散った短冊を集めて思わず口元が緩む。
子供たちの願いはほほえましい。
134「マンガ家になりたい」
「足が速くなりたい」
「家族と仲良く」
「虫をいっぱい捕まえたい」
「みんなが健康」「字がきれいに」
「世界が平和に」「お金持ちに」
「バレエ団にはいりたい」
「10億円ジャンボが当たりますように」・・・

短冊に書かれていたわけではないが、大人の願いは少し切実である。
あの国々の指導者に言いたい。
「ガザ侵攻やめて」「侵略戦争NO」「核廃絶」・・・

そしてこの国の指導者には、
「増税反対」「税金の浪費はやめて」「裏金政治は終わり」
「物価高対策を」・・・

子供たちの願いは日々に近づいていくだろう、しかし大人の願いは少しずつ遠のいていくようで残念だが、次世代の明るい未来のためにはあきらめてはいけない。

戦いの火ぶたが切られて1週間が経った。都知事選の行方は東京だけでなく日本の政治の行方を大きく左右することを考えると、隣の県在住ながらドキドキしてしまう。

内閣支持率が下がり続けているとはいえ、変革の風が吹き始めたかとはなかなか読めない。この鬱陶しい霧が晴れ、河の向こうの新しい世界を次世代に残したいと、七夕の日に空を見上げて祈ろう。

たぶてにも 投げ越しつべき 天の川 隔てればかも
               あまたすべなき

2024.7.2

万葉集:第八巻−1522
作 者:山上憶良
読 み:たぶてにも なげこしつべき あまのがわ へだてればかも あま
    たすべなき
意 味:小石でも投げれば、向こう岸に届いてしまいそうな天の川なの
    に、その川で隔てられているのでどうすることもできません。

2024.7この歌は「山上憶良の七夕の歌 十二首」のうちの1首で、天平元年(729年)七月七日夜、大伴旅人の家で天河(あまのがわ)を仰ぎ觀て作るとある。





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六月 の カレンダー


すさまじい今年の幕開けだったが、はや一年の半分が過ぎようとしている。そして先月すでに30度を超えた日が何日かあり、暑い夏がそこまでやってきた。

もう20年ほども前になるが、クールビズという言葉が踊った。男性はネクタイを外し、半袖ワイシャツをと音頭をとったのは当時の環境相だった小池大臣で、自らアスファルトに水を撒く姿が繰り返し映し出された。
ああ、そんなこともあったなと思い返す元環境大臣は、その後防衛大臣など様々な要職を歴任しながら、いま東京都知事として君臨して瞬く間に8年の歳月がたった。

この夏、3期目の立候補出馬表明予定の元環境大臣は、華々しく東京をイルミネーションで飾る。

1プロジェクトマッピング勇壮な240辰離薀鵐疋沺璽タワー東京都庁は、50億円の費用をかけてラッピングされているのだ。

世にプロジェクションマッピングと呼ばれる大事業のようだが、ネクタイ外せ、袖を切れ、水をまけと訴えた趣旨とは桁違いな電力消費の無駄遣いの気がする。



炊き出し電気代の値上がりに青息吐息で、できるだけ我慢を強いられる今夏であると思う。

目もくらむ電飾の下で炊き出しを待つ人の列が日々増えているという現実もおかしい。

東京というブランドを、更に知名度を上げるための努力を惜しまない施策で、疲弊する他県にどれほどのトリクルダウンがあるのだろうか。

7月の東京都知事選、そして衆議院総選挙も近そうだ。
広く薄く平等に、都民や国民への優しい目線が政治家に今こそ求められていると思う。

政治は生活…、好い社会に、希望の未来のために、無関心ではいられない。



立山に 降り置ける雪を 常夏に見れども飽かず
             神からならし

立山2_20240531

詠 者:大伴家持
万葉集:巻17−4001
読 み:たちやまに ふりおけるゆきを とこなつに みれどもあかず
    かむからならし
歌 意:立山に降り置いている雪は、夏のいま見ても見あきることが
    ない。神の山だからにちがいない。

越中万葉を代表する歌。
天平十九年(七四四)四月二十七日(太陽暦で六月十三日)に詠んだ「立山の賦(たちやまのふ)」の反歌二首のうちの一首。

立山連峰万葉の時代は四月から六月が夏で、家持は、夏なのに白い雪が積もった立山連峰を越中の地ではじめて目にした。
そのはじめて見る光景に対する素直な感動を
見れども飽かず」と歌い、
夏に雪が積もることに対する驚きを
きっと神の山にちがいない」と歌にした。

家持の感性は、都を離れて豊かになっていく。
それまで歌を楽しんでいた家持が越中にていかに目覚めていったか、そしてその足跡を万葉集に残していったかが偲ばれる。

2024.6五月に一旦、平城京に戻った家持は、越中の自然のすばらしさを知らない都に住む人たちに、この歌を披露したのではないだろうか。



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五月 の カレンダー


風薫る五月、そよ風に花と緑が揺れる。ああ、なんという心地よい季節がやってきたことだろう。

ゴールデンウイークたけなわ、一歩外に出れば一瞬少子化を忘れてしまいそうなくらいの幼子の黄色い声と、抱っこやバギーに乗せられた親子連れがまぶしいくらい街中にあふれている。

花屋に並ぶ赤いカ―ネーションに、もうすぐ母の日が近いことを思う。

1カーネーション昔は赤色が主役で、逝った母親には白色とそれくらいたったが、今はピンク、緑、オレンジと色とりどりとなった。遺伝子組み換え技術で青色のカーネーションもあるようだ。

戦後、米国から伝わった母の日。
100年以上前アメリカ東部フィラデルフィアの女性教師が、5月に亡くなった母親を白いカーネーションを飾って偲んだことが全米に広がった。
やがて感謝の気持ちを生前に伝える運動を呼びかけるきっかけとなり、日本にも大切な日として定着している。

生前はあまりに空気のような存在で、ありがたいと思いながらも言葉や形で表すこともなく、気が付くと「千の風」となってしまっていた大切な人。
かけられた言葉の意味の大きさを思う日々でもあり、それは朝に夜にと日を追うごとに多くなっていく。

「生前に感謝を」と呼びかけた米国教師の功績を湛えたいと思う。
白いカーネーション

生前の義母と実母の面影を偲びながら、近くの大好きな花屋さんで白いカーネーションを求めてきましょう。




天地の 神も助けよ 草枕旅ゆく君が 家に至るまで
スキャン_20240427

作 者:読み人知らず
万葉集:巻四―五四九
読 み:あめつちの かみもたすけよ くさまくら たびゆくきみが
    いえにいたるまで
歌 意:天地の神もお守りください。草を枕の旅ゆくあなたが無事家に
    着くまで。

現在の福岡県筑紫野市にあった蘆城(あしき)の駅家(うまや)で行われた送別会で歌われた歌。作者は不明だが贈られたのは石川足人(いしかわのたるひと)という高官。
奈良時代の役人は高位高官であっても地方赴任をいとわなかった。国を護るという意識が強く、国のために自分を捨てて僻地へも赴いた。

2024.5万葉学者の上野誠先生は、源氏物語の光源氏が須磨明石に行くことになったと泣き暮らしているとことを取り上げ、平安時代の文学が都周辺にとどまったいることが見えてくると書かれているところがあった。
それに比べて、旅の先々で歌を詠んで残した万葉歌は、全国の地に広がっていると解説されていた。





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四月 の カレンダー



大谷夫妻金妍児韓国に国民の妹と呼ばれたフィギュアスケーター、
金妍児というスターがいた。



日本にも国民の兄、恋人・・・いや息子・孫?
米国に渡って7年の活躍は目覚ましく、野球をあまり知らなくても愛くるしい童顔に癒されてきた二刀流大谷選手。

この人気者の突然の結婚報道に、日本中が祝福に沸いたそのつかの間、人生何が起こるかわからない、こんな足の救われ方あるのかと唖然としたニュースだった。

そして、にわかに起こった「ギャンブル依存症」問題、
よく行く書道具屋さんのビルにある二基のエレベーター、うち一基は「場外馬券売り場」用となっていて、行くたびに競馬新聞を手にした人たちが列をなしている。
警備員が長い列を整備して誘導しているのだが、ビルの上で競馬をやっているわけではないだろうから購入した馬券のレースの実況が放映されているのか。

とにかく競馬の愛好者が多いことをそのたびに思わされ、この中にも急浮上したギャンブル依存症の人がいるのかもしれない。

これは大谷選手の通訳者が起こした問題であったが、三十代のこれからという若者がこんなことで「あっ」という間に堕ちていくとは、なんという残酷な病なのだろう。

大体勝ったり負けたりが性に合わないので宝くじも買ったことがない。まして大事なお金を賭けて擦ってしまうなんてケチな性分にはもっと合わないので、この病に秘める闇はよめない。
持統天皇
ギャンブルは実は古代から存在し、持統天皇の689年に「双六賭博禁止令」が出されているそうだ。清少納言や紫式部の遺したものの中にも、賭け事について記された箇所があるそうだ。


碁
賭け事の対象になっていたかどうかはわからないが、確かに囲碁を打つ場面は頻繁に出てきた。



1300年以上前に、持統天皇はギャンブルに依存することがいかに国益を損なうことかと禁止の法令を出した。その後の時の政権も全て賭博抑制で動いていたのは、賭け事を国家の収益にするという発想がなく、働く意欲をそがれる社会のマイナス面を放置しなかったからと書かれたものがあった。

ギャンブル優待でカジノ設置を推進している現在の政治家よりだいぶレベルの高い政治力を感じる。

行き詰まった景気浮揚のため、先の見通せない日本の経済効果の打開策のため、カジノや武器輸出に手を突っ込むことはそれこそ先が全く見えない国民にとっては不安な未来でしかない。

7億近い返す当てもない借金を抱えて、「ギャンブル依存症」という病を抱えたこの青年はこれからどうやって生きていくのか、依存者をこれ以上つくりだしてはいけない。
総合型リゾート
いまこそ総合型リゾートという名のカジノ設置に歯止めをかける絶好の機会だと思う。




まるで年が明けるのを待つように大災害が発災し、瞬く間に三か月が過ぎた。
裏金、キックバック、還付金、政倫審と忙しく、今年を憂う予感が当たったかのように、違法賭博、サプリメント薬害と休む間もなく次々に難題が発生してくる。

次の女性首相は誰がいいなど、どうでもいい政局に右往左往しているメディアに言いたい。
被災地対策が一向に進んでいないことは気にならないのか、少しづつ進む軍拡について報道しなくていいのか。
今の国民の生活の安寧を、そして十年後、百年後のこの国の希望を語ってくれる政治家に国つくりを任せたいものだ。

新年度がスタートする。
不安定な天候が続いたが春は間違いなくやって来て、やがってが満開になる。

我が背子に我が恋ふらくは奥山の馬酔木の花の今
                盛りなり

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万葉集: 第10巻 1903
作 者: 作者不詳
よ み: わがせこに わがこふらくは おくやまの あしびのはなの いま
     さかりなり
馬酔木意:訳: あの人に恋い焦がれている、その
    今の自分の心情は、奥山で人知れず        
    今を盛りと咲いている馬酔木の花そ
    のものです。




馬酔木はツツジ科アセビ属の常緑低木で、毒性があるので昔は殺虫剤に使われた。

2024.43月から4月にかけて、枝の先に壷の形をした白い花をつける。
馬がこれを食べて苦しんだという故事から
馬酔木という名前がついたといわれている。








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蜻蛉日記 書写


歴史好きにとっての平安時代はどういう受け止め方なのだろう。

大河ドラマ「光の君へ」の視聴率は過去最低だというが、確かに大河につきものの「戦」からは縁遠い時代だとしたら物足りないかもしれない。

テレビを見る習慣は全くないのだが、「古典の会」に参加しており話題についていけないのはつらいものがあるので時々視聴している。

何と、藤原道長と紫式部の恋愛模様が延々と描かれていたり、紫式部と清少納言が歌会で張り合っていたり、ドラマと割り切っているとしても頭がこんがらがってきてしまう。

その中で初回の方だったが「蜻蛉日記」の感想を述べあう貴族の姫たちの和歌の女子会のシーンがあった。

女子会2お気の毒ですわねえ、結婚してもほっておかれる立場をお察ししますわね」
美しい着物に身を包んだ4・5人は、大きなセンスを口元にあてて、おほほほ・・・とお上品に笑うのだ。

そんな女子会の面々を伏し目がちに見ながら、
そうでしょうか、私はそうは思いません。あれは時の最高権力者右大臣家の三男に見初められた私ってどう、すごいでしょうと自慢しているのだと思います」と、まひろ(ドラマでの紫式部の幼名)は返すのだ。

赤染衛門を筆頭の才媛女子たちは意表を突かれ、一瞬驚き時間が止まる。
なるほど、綿密な時代考証を踏まえての大石静さんの脚本は、後の大作家紫式部の物事のとらえ方の通り一遍ではない、奥に隠れた実意に迫る。
それで、以前から気になっていた「蜻蛉日記」の冒頭を少し読み返したのだが、やはり「私って可哀想」という嘆き節であった。

ということで、今年の古典の書写は「藤原道綱の母 著 蜻蛉日記」をと重い腰を上げた。

一ヶ月ほどで、半壊紙75頁、上巻が書きあがる。
上巻中 和歌が124首、この後「中巻」そして「下巻」と延々と続くのだが、「源氏物語54帖」の書写を終えていることを思うとその何十分の一にも満たないことになる。



あの頃は草稿を書き、それを読み合わせて清書に取り掛かっていたが、その段階は今は省略でき、段違いに楽な書写になった。














冊子に仕立て、題践を張って、「蜻蛉日記 上」が完成。
これまでどれだけの冊子を作ってきたことかと思うが、不器用ゆえに上達の道は遠い。
中巻」は、もう少しゆっくり丁寧な書写を務め、冊子作りも丁寧を心掛けたい。

















文法も理解しておらず、ただひたすら写すだけの古典文学との触れ合いを延々と続けているだけとはいえ、和歌の散らし書きはもう苦にならない。

上達は何より臨書を含め多字数書くこと、そして息をするように慣れることだと思っているので、その点からすると仮名文字は少し上達したかもしれない。

源氏物語、紫式部日記、枕草子、徒然草、方丈記、土佐日記、奥の細道、歎異抄 etc・・・、書写を終えた古典文学は枚挙にいとまがなくなっている。

道綱母と孝標娘系図次の世代がこの書写本を読むことは多分考えられず、護美となるのは必須である。

それでも下巻が終了したら藤原道綱の母の姪である菅原孝標女著「更級日記」をと、まだまだ書写の旅は続く。







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三月 の カレンダー

三月三月 - コピー


朝方の冷え込みはまだ厳しいものの、晴れた日の陽光の春めきに心身が和らいでゆく。
まだ寒さはひとしきりだが、しかし春がやって来た。

桜弥生三月、雅で何か清らな響きを持つこの言葉に、ひとしお新しい季節を思う。
「弥生」、「」は「いよいよ」「ますます」などの意味で、「」は、「生い茂る」というように草木が芽吹くことを表しているそうだ。

春の訪れをとりわけ感じさせるこの言葉も思い浮かぶ。

春は花 夏ほととぎす 秋は月 冬雪さえて冷しかりけり

スキャン_20240228道元禅師の残した有名な和歌だが、日本の四季の澄み切った色が目の前にゆくりなく広がり、自然の美をありのまま素直に愛でる気持ちを呼び起こしてくれる。

現在NHK大河ドラマ「光の君へ」で、宮廷の熾烈な勢力争いが繰り広げられている。貴族の家の権勢は、官位と位階にかかっているので権謀術数のすさまじさに驚く。

道元は摂政関白の由緒ある家系の出であるが、病弱の母は宮廷の醜い勢力争いから遠ざけたい一心で、仏道に入ることを望みながら8歳の道元を残して亡くなる。

母の言いつけを守ると決意する幼い道元であった。それからの厳しい修行の行き着いた先の「自然の美をありのまま」。
歌を繰り返し口ずさみ、生きとし生けるものの全てを素直に愛でる気持ちを気づかされ、しみじみと勇気が呼び起こされる。

何物でもあろうはずがない自分をわすれて、無駄に着飾り、はやり横文字言葉を持て遊んで、あたかもそれが自身であるかのような錯覚をして、あげく空虚が残るだけの日々を過ごしていたのならもったいないことだ。

この四季の移ろいの美を心底愛おしむ、そんな季節と月日と時間を感じながら日々を過ごすことは、それ以上望むものなど何もないのだと新しい季節のスタートに当たって自分にそう言い聞かせたい。

こんなに不正義にまみれた世の中であることを知ってか知らずか、日本の四季も何やら様相に変化を呈してきているが、それでも弥生きにけり、花盛りの季節は巡ってきた。

季節を告げに訪れた春に潤う花々のように、「春は花」の言葉を頼りに一日一日を素直に生活してみたい。



あらたまの年行き返り春立たばまづ我が宿に鶯はなけ
スキャン_20240227

万葉集 第1−0056:

作者: 大伴家持
よみ: あらたまの としゆきがへり はるたたば まづわがやどに
   うぐひすはなけ

意味: 年があらたまって立春になったら、まずは私の庭で鴬よ、
   鳴いておくれ。

757年12月18日、大監物三形王の邸宅で宴をしたときに詠まれた歌3首のうちのひとつで、この歌が詠まれた翌日の19日が立春と和暦にあります。

2024.3

三月三月 - コピー


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本阿弥光悦 の 大宇宙

鶴下絵


0 IMG_8653本阿弥光悦の展覧会は10年振りだそうだ。琳派や俵屋宗達となど小規模展は毎年のようにどこかで行われている気がするが、3年以上のコロナ禍を考えるとやはり久しぶりなのかもしれない。

伝承・伝説の研究は進み10年の内に本阿弥光悦についても多少の変化があるようだ。詳しくないものには全てが新鮮であることは間違いなく、雑踏の土曜日の何時間並びを覚悟して出かける。


コロナ禍で切れたパスポートを新しくすることもなかったので、チケットを購入して入り口を通った。

平成館に向かいながら思わず日にちを間違ったのかと思ったのは、並んでいる人など全くいないことだった。
スーパーマルチアーティストは、案外マイナーなのか?


2光悦とその時代
本阿弥光悦の時代は世にいう150年続いた戦国時代にあって刀の時代であった。

人を切ると刃はこぼれ油もつき、だんだん切れなくなるので一人5本の刀が必要だったそうだ。
兵が10万ならば50万の刀が必要である。研ぎと拭いを担う刀鍛冶は不可欠の存在だった。



戦国時代150年の間に、刀剣バブルで本阿弥家は裕福な大商人になっていった。武器商人が戦で潤う一方で、兵は戦死、負傷、躯となって転がされる悲惨さ。何と過激な時代であったことか。

やがて徳川幕府となり、戦乱の世は落ちついて平和になった。屋台を大きくした本阿弥家にとっては大打撃であったことだろう。

しかし、財を成した余技で芸術を知った町衆は、そこに幸福を見出していた。
我々の知る光悦芸術は、そのような様々なことが重なって生まれたものだ。

芸術とは悠々自適の余裕から生まれるものだろうか。
明日の苦労を知らなければ、のびのび悠々に際限はなく、大宇宙は大きく手を広げて待っていてくれるのかもしれない。

発想の広がりはまさに「本阿弥光悦の大宇宙の世界へようこそ」で、そこへこれから案内してもらうことになるようだ。

時代、環境、個人の資質、様々が折り重なって芸術は近くにも遠くにもなる。そのようなことを考えながら、あの時代を生きた本阿弥光悦の芸術の足跡をたどってみたい。


第1章 本阿弥家の家職と法華信仰―光悦芸術の
    源泉

光悦は刀剣の研磨や鑑定などを家業とする本阿弥家に生まれた。刀剣の価値を引き出し見定める審美眼と刀剣を介した人脈が、光悦の後半生に展開される多彩な芸術活動の背景にある。
そして、本阿弥家は日蓮法華宗に深く帰依し、光悦もまた熱心な法華信徒だった。光悦が晩年に京都・鷹峯にひらいた光悦村には、法華信仰で結ばれた様々な美術工芸分野の職人たちが集まる。
まず、本阿弥家の家業と法華経信仰に関わる品々を通しての作品が紹介される。


光悦の孫光甫が造る。大きな耳たぶに目を細める福々しい姿は恵比壽さんのようといわれるが、ビリケンさんを思わせるおかしみがある。

多彩なアーティスト本阿弥光悦には切れ上がった姿態とクールな面相を勝手に思い描いていたので、初めてこの木像を見た時は驚いたが、今はもう慣れた。

本阿弥光悦肖像
4 本阿弥光悦肖像3 ビリケン坐像









                 画:神坂雪佳
                 賛:富岡鉄斎

神坂雪佳は、明治時代の琳派の継承者。
経巻を手に持ち温和な笑みを浮かべた理想化した姿が表現されている。



一生涯へつらい候事至て嫌ひの人
0-2 「一生涯へつらい候事至て嫌ひの人」
本阿弥光悦の人柄を今に伝える「本阿弥行状記」。
光悦の養子 光瑳の時代から始まり、孫 光甫が中心となって編纂されたこの行状記には、光悦一族にまつわる家訓や光悦についての聞き書きがまとめられている。

本阿弥行状記には、
光悦は一生涯へつらい候事至つて嫌ひの人にて
異風者」といわれた光悦が、篤い信仰のもと戦乱の時代のなかで、書・漆工・陶磁など様々な造形に関わり、革新的で傑出した品々を生み出していったことが記されているそうだ。

自分の考えを迷わず述べる、「へつらわない」を通した光悦の生き方は信仰に支えられていたおかげもあるのだろう。
ビリケンさんの風貌からすると「お主も悪よのう」と手もみするチョイワルオヤジのようだが、実はこんな清廉潔白さを慕って人々は集まり光悦村ができていったのだろう。

江戸時代前期の京の町衆・歌人・蹴鞠家・茶人で、遊女吉野太夫を妻にしたことで有名な灰屋紹益は、光悦を大叔父に持つ。

その灰屋紹益(はいやじょうえき)は、光悦をさして,
世に有へき人間とは覚侍らず(生まれつきの才能や趣味好み、また自覚して取り組んだことも失われて無く、伝聞されるはずの事もまた失われている、2度と世に出てくるべき人とも思われない)」と絶賛した。


本阿弥家の家系図
6本阿弥家の家系図左端に光悦の名がある。
光悦の父光二の実家である片岡家。
光悦の母妙秀の実家である本阿弥家。
刀剣を家業とする京都の町衆と呼ばれる裕福な商工業者であった。

光悦の美に対する審美眼は、家業を通した人脈によって、また日蓮法華宗を信仰する同士によって、様々な職種の職人たちと独自のネットワークの築きの中で磨かれていった。
それらが、芸術活動の土壌となっている。


7京都
本阿弥行状記」によると、1615年に光悦は家康から京都の洛北「鷹峯」の領地を与えられると、その地で一族や仲間、職人たちに土地を分け与え、法華信仰を絆とした光悦の街を築いた。

しかし、光悦が家康から鷹峯を拝領したという正式な文書は残っていない。










研磨・浄拭・鑑定
9ー2研磨浄拭鑑定8研磨浄拭鑑定










の向こうに見えたもの。
本阿弥光悦が見たあの揺らめく波紋こそが光悦の全能型美意識の世界。
家業によって研ぎ澄まされた美に対する審美眼の原点だったと思う。


短刀 兼氏 金象嵌 花形見と
刻鞘変り塗忍ぶ草蒔絵合口腰刀

5 短刀光悦の差し料(小刀)であったと伝えられる唯一の刀剣。
きらきらとしたきめ細やかに美しく、中には金象嵌 花形見と記され、その刀を納める鞘全体に忍ぶ草が金蒔絵でほどこされた華麗なデザインとなっている。

刀の号「花筐」は、花などを摘んで入れる花籠のことで、光悦が深く愛した能の世阿弥にちなんでいる。
内容は日本書紀に由来する。越前の国に生まれた継体天皇が若き日の恋人照日の前花筐の舞をきっかけに再会を果たす。花筐はまさに思いの成就を象徴する。

花筐の本来の持ち主が継体天皇であることを踏まえ、この花筐は直系ではない皇子が皇位についたように、分家であっても宗家を継ぐことができるという光悦の秘めた思いが込められていると解説されていた。


扁額
 学室     本門寺       妙法花経寺    正中山
7 扁額




寛永の三筆
と称される能書家本阿弥光悦。
この扁額はどれも日蓮法華宗の寺々に掲げられていた光悦の筆とされるもの。
妙法花経寺」と「本門寺」は背面の銘文から、父光二と母妙秀のために書したとされる。
「妙法花経寺」は左下に光悦とあり、東京池上本門寺に掲げられていた。当初は金で縁どられ
ていたそうだ。
正中山」は本阿弥家が江戸で菩提寺とした千葉中山法華経寺のもので、法華堂に掲げられていた。
学室」は京都鷹峯常称寺にある僧侶たちの学問所のもの。白い胡粉が残り学問所らしいシンプルものになっている。


紫紙金字法華経ならびに開結
8-34 紫紙金字法華経ならびに開結8-34 法華経





「法華経」8巻と開経「無量義経」、結経「観普賢経」とあわせて10巻1具を完備する。
光悦が記した寄進状には「道風之法華経」とあって、「三跡」で知られる小野道風(894〜966)筆と
されていたことがわかり、平安時代中期の書写と考えられる。
光悦が一門の菩提寺・本法寺に経箱とともに寄進したもので、極めて篤い信仰心がうかがえる。


立正安国論        始聞仏乗義
13立正安国論13-2 始聞仏乗義







日蓮上人が天変地異に苦しむ衆生の救済のために1260年に記し、時の最高権力者である北条時頼に提出した書、日蓮宗の根本聖典として尊ばれる。

立正安国論は、光悦が妙蓮寺の所望により母・妙秀の忌中の日に書写した。
光悦特有の肥痩、大小、崩れた草仮名の書状や、和歌を見慣れている目には驚きだった。なんと王義之をさらに温和にしたような均整の取れたお手本のような字形だろう。
目に優しく麗しく、その美しさにしばらく立ち止まる。


第2章 謡本と光悦蒔絵―炸裂する言葉とかたち
繊細な蒔絵の技に、大きな鉛板や螺鈿を用いる大胆な造形の品々が展示されている。
俵屋宗達風の意匠と共にこれらの漆工作品は、現在「光悦蒔絵」と称されている。それは本阿弥光悦が何らかの形で関与したと考えられているからだ。

光悦が深く嗜んだ謡曲の文化があり、斬新な造形の流れと、豊かな文学への憧憬が感じさせられた。

桜山吹図屏風
8-35 本阿弥光悦筆、屏風:伝俵屋宗達筆《桜山吹図屏風 - コピー

桜と黄色い山吹の花が画面いっぱいに広がる。

東博でこの作品を見たのはいつごろだったか、その時は俵屋宗達の意匠性豊かな画面構成に焦点が当てられ、貼り付け色紙についての作者は不問だった。
色紙が書かれたのは屏風画より20年ほど早いようなので、最初からの画と書のコラボを狙ったのではないのかもしれない。

絵の上に色紙を貼っていくのは、勇気がいることだと思うが、芸術家同士が一歩も引かない気持ちと、創るのであれば最高のものをという協調体制で仕上げられたと思う。
結果、こうして琳派の創始者のタイアップ名作となり、作品は時を超えて人々を感動させている。

謡本 特製本
15《光悦謡本 特製本》(東京・法政大学鴻山文庫)

安土桃山時代から江戸時代初期に刊行された観世流の謡本のうち、華やいだ雲母刷り装飾と光悦流書体の謡本のことを「光悦謡本」という。

中でも特に美しいこれは「特製本」といわれ、表紙だけでなく、本文、表紙すべてに草花や木々など雲母刷り模様を施した豪華な装丁である。

この雲母刷りには上製本と呼ばれるシリーズを省略したような版が使われていることから特製本は上製本より後に制作されたものではないかとの解説だった。

料紙には上質な斐紙を数枚重ね、たっぷりと胡粉を敷き、綴り糸には絹、表紙に染め紙、題践には濃い茶の麻紙と随所にこだわりが感じられる。
崩しの強い光悦風の文字と、謡い方を示す技法が他のシリーズから独立した特製本独自の活字が組まれていて、当代きっての粋が尽くされている。

花唐草文螺鈿経箱
16花唐草文螺鈿経箱》
第1章の「紫紙金字法華経ならびに開結」は、この蒔絵箱に収められて本法寺に寄進される。
蓋の中央に法華経の文字、その周りに螺鈿の花唐草が優美な曲線を描いている。

16−2  花唐草文螺鈿経箱

文様は当時流行していた朝鮮王朝時代の螺鈿表現をもとに独自のデザインが生み出されている。

光悦が直接関与したことが確かな唯一の作品で、この箱のほかに関与したとわかる蒔絵は存在しない。







忍蒔絵硯箱
11-56 偲蒔絵硯箱
全面に施された忍草を背景に、和歌の一部が印象的にあしらわれる斬新なデザインの蓋を開けると、蓋の浦に螺鈿による兎があらわれる。



典拠を知っていればなお更に興味深く鑑賞できることだろうと解説されていたが、はてその典拠とは?

古今和歌集の有名な和歌、
みちのくの しのぶもぢずり 誰ゆゑに みだれむと思ふ 我ならなくに」を表現した硯箱。表面は金平(きんひら)蒔絵による忍草で埋め尽くしており、蓋表中央に「たれゆえに」の文字を配している。
文字を中心に据えた、伝統的な蒔絵にはない斬新な意匠ということだった。


船橋蒔絵硯箱
1-1 船橋蒔絵硯箱
蓋が高く盛り上がった特殊な姿の硯箱。波模様を表す金の地には4層の小舟が、その上に黒々とした橋が横たわり、更に光悦の書風を表す文字が銀の板を切り抜いて散らされている斬新なデザインである。
光悦の手によるものとされるこの硯箱は、平安時代の公卿・源 等の歌を題材としている。

東路の 佐野の舟橋 かけてのみ 思ひわたるを 知る人ぞなき」
(東国の 佐野にある舟を並べた上を渡る船橋という危ない橋をかけるよう に、想いをかけてずっと恋し続けていますのに、それをあの人は知ってはくれないのです)

光悦は、船橋の文字を外している代わりに、この硯箱に黒い橋をかけた。
後にこんな悲恋の物語が作られた。


1 船橋蒔絵硯箱1-2




東国の佐野に橋のない川があり、村人は行き来をすることができなかったので船を浮かべてそこに板を渡していた。両側の村に住む恋人はその橋の上で夜な夜な逢瀬を交わしていた。
親は二人の交際を快く思っていなかったので、何とか合わせないようにと考えて渡した板をはずしてしまう。
事情を知らない二人は恋しい人のもとに今日も急いで川を渡ろうとしたのだが、船橋がないことを知らずに川に落ちて亡くなってしまうという悲しい日本版ロミジュリのような話で、それにしても亡くなってしまうというのはあまりにもいたましい。

この蒔絵硯箱はこれまで何度も見たことがあるが、船橋の意味など考えたこともなかった。
源 等は平安貴族だが、あの時代もちろん橋梁技術はないとしてもこんなことを考えつく人間の知恵には尊敬の念を禁じ得ない。



舞楽蒔絵硯箱
この3点は徳島藩主蜂須賀家に伝来したもの。

21 《扇面鳥兜蒔絵料紙箱》(
蓋表には舞楽に使う鳥兜を扇に乗せた様子。



22舞楽蒔絵硯箱》
大きな太鼓の前にこちらに背を向けて座り鳥兜をかぶっている人が表されている。
いずれも謡曲「藤太鼓」を思わせる。

23子日蒔絵だな
「源氏物語」を題材に、
天板は「初音」から根引きの松、
第二層は「夕顔」にちなみ扇面に夕顔、
第三層は御所車と白丁で「関谷」を表す。

現在NHK大河ドラマ「光の君へ」で、紫式部に脚光が当たり、2008年の源氏ブーム再来である。
この展覧会でも源氏物語からいくつかモチーフがとられていた。源氏物語は、いつの時代も工芸品などの意匠に愛好され続けている。

源氏物語に詳しければ、女主人公やどこの帖であるかがわかるのだろう。やはり源氏物語はとんでもない不朽の名作であることを改めて思う。


梅蒔絵硯箱
13 梅蒔絵硯箱謡本の表紙や料紙下絵によくみられる梅の枝が、クローズアップしたかのように大きく施される。
硯箱の四角い形に添って斜めに大きく配された梅の花を付けた枝先、その挿絵は光悦謡本の表紙などにも使われている。
また花と枝の一部には鉛の薄い板を用いる。
他の光悦蒔絵と通じる手法がとられている。

光悦の謡本上製本の梅を比べてみると枝の別れの様子や枝の角度、花の付け方がほぼ一致しており、この硯箱の図柄はそうした嵯峨本の装飾がもとになっているということだ。

嵯峨本とは17世紀初頭に刊行された豪華本のこと。主に光悦風の書体に染紙が特徴的な雲母刷りの料紙を用いたことでも知られ、嵯峨本の装飾が豪華な蒔絵の意匠にもふさわしいと考えられていたことを物語っている。


第3章 光悦の筆線と字姿―二次元空間の妙技

9-1 書の入口和歌巻に代表される光悦の書は、肥痩をきかせた筆線の抑揚と、下絵に呼応した巧みな散らし書きで知られる。

しかし光悦の書の特質は、大胆な装飾性だけではない。鋭く張りつめた筆致で書写された日蓮法華宗関係の書には能書の第一人者であることを再認識させられる。

書状に見られる潤い豊かな線質は、光悦の天性を感じさせる一方、晩年に顕著となる筆を傾けた書き方は、中風との格闘の跡と考えられる。




日蓮道歌
14 日蓮道歌
末尾に元和5年10月13日とされたこの書は62歳の光悦が日蓮法華宗の開祖日蓮上人の命日に合わせて筆を執ったもの。



鋭い線でありながら震えやかすれが顕著、50代半ばに患った中風の影響とされる。
手の震えをおして筆を走らせたこの書は光悦の熱い信仰心が感じ取れるようだ。

書中に日蓮上人が詠んだとされる一首が、仮名のもととなった漢字の姿を残した草仮名の字体でしたためられている。
葦の葉の・・・・・・・浪速の人に絵こそわたさぬ」
これは葦の葉の姿は舟に似ている、葦の生い茂る浪速の人々を船に乗せることができない、法華経以外の教えでは理想の世界に行けないということを表している。


書状 今内様宛・今民様宛
16 今内様宛光悦が、加賀藩重臣今枝内記重直の養子今枝民部近義にあてた手紙23通を一本の巻子に仕立てた。

潤い豊かな筆の線は光悦の美意識を感じさせ、線の太さを巧みに操りながら迷いなく進める線は、この後の「鶴下絵36歌仙絵」を思わせる。

書状の話題として特に上がっているのは能の謡に関すること。
重直と光悦が稽古を励む様子や、謡の上達を通じて互いに数寄者として認め合う様子が書状から読み取れる。

また、嵯峨で出版された光悦謡本のことをさすとみられる記述もあり、嵯峨本に強い関心を持っていたことや、さらには重直などの要望を受け、嵯峨から謡本を調達していたことがうかがえる。

光悦の遺した書状は現代に通じ、書家がそのモダンさを取り入れた作品を発表しているのをよく目にする。戦国の芸術が現代によみがえり、古趣に富み、更に洗練された優品となって皆の目を楽しませる。


古今和歌集断簡 本阿弥切
17 本阿弥切平安時代に書写された古今和歌集の断簡で光悦の愛蔵と伝えられてきたことから「本阿弥切」といわれる。
舶来品の唐紙に華麗な雲母刷りが施され、平安時代を代表する銘品。

平安時代に愛用された唐紙は鎌倉時代には衰退していたが、光悦の書風の流行と共に謡本や和歌巻の料紙として復活する。

平安時代から鎌倉時代にかけて書かれた仮名の名筆は特に古筆と呼ぶ。
特に光悦の周りの上層町衆の間では平安時代の古筆収集が盛んで、こういう唐紙にかかれた和歌集の断簡も多く出回っていた。

この古今和歌集の断簡はもとは全20巻の小さな巻物で、そのうちの一部を光悦が愛蔵していたことから「本阿弥切」と呼ばれている。

書の上達の基礎は古筆をまねる臨書である。
本阿弥切を臨書して上手にならない人はいないと先達は言い残しているが、それほどの最高の古筆手本である。


蓮下絵百人一首和歌巻断簡
18
蓮を書いた下絵の上に、光悦が百人一首を散らし書きしたもの。



花盛りを迎えた蓮の花は、風にあおられて散り落ちる花びらとなり枯れてしまう。
しかし、最後は落ちた花びらが満開の蓮の花へと変貌しており逆蓮華に象徴される理想の法華世界を表現されている。

静謐な景色が広がるこれらの断簡は光悦の代表する作品の一つで、当初は百人一首すべてをしたためた長大な巻物だったが、内60首が関東大震災で焼失し、他は各所に分蔵されているということだ。

百人一首は、花にたとえられる和歌の言葉と、歌詠みの心を重んじて集められたと伝わる。

また、日蓮法華宗の教えの中で、蓮の花は植物の中で唯一開花と同時に実がなる花とされている。
光悦が蓮の下絵と百人一首の取り合わせにこうした花と実の意味を込めていた。
法華信仰と古典の名歌の深い造形がおりなしたこれらの作品は、光悦自身も最高傑作と自負していたかもしれないということだった。

和歌巻で光悦が見せる散らし書きは、行頭を左下がりにしていくパターンを数行ずつ繰り返していくシンプルな構成。その代り、一行ごとの字数、文字の大小、行間の広狭、下絵との密度や余白、字配りと、毛筆だからこその可能な表現での躍動感ある散らし書きに、能書家光悦の真骨頂を見せつけられる。


鶴下絵三十六歌仙和歌巻
19 鶴下絵三十六歌仙和歌巻19-2鶴下絵三十六歌仙和歌巻







全長13mを超えるこの大作は、絵師俵屋宗達とのコラボレーション作品。
宗達の描いた鶴の下絵に、光悦が36歌仙の和歌をしたためている。

銀泥と金泥で表された鶴の群れは、上昇したり下降したりしながら海を越えてやがて向こう岸に降り立つ。

光悦はダイナミックな鶴の動きにあわせ、線の太細を駆使した抑揚ある散らし書きを展開している場面の連続に見事な調和が生まれている。
まさに光悦の最も充実した作風を示した時期の書跡を代表する作品。

この展覧会の最大の見せ場であると思う。
壁に沿った陳列棚に13メートルの鶴が飛び交っていた。それだけではない、上空にも飛んでいた。
このような大胆な演出は、傑出したアートプロデューサー光悦も「ようやったの〜」と苦笑しているのではないか。
あのビリケンさんのほくそ笑み顔がよみがえる。


第4章 光悦茶碗―土の刀剣
口縁や腰、高台の形に、定型のない個性的な光悦の茶碗。大胆に箆削りを残していたり、ざらざらとした素地の土そのままであったり、「楽茶碗」には一碗一碗手び練りならではの豊かな表情がある。

太平の世を迎えた江戸時代初頭にあって、光悦は元和元年(1615)に京都・鷹ヶ峯を拝領した頃より
樂家2代・常慶とその子道入との交遊のなかで茶碗制作を行なったと考えられている。

茶碗づくりを生業とする楽家との交流と、刀の世界で生きてきた光悦ならでは個性が作陶においてゆるぎない存在感を発揮している。

大宇宙の茶碗の世界であった。


赤楽茶碗乙御前
31 赤楽茶碗乙御前光悦の赤楽茶碗は黒楽茶碗に比べ個性的な作風が多く、「乙御前」は赤楽茶碗を代表する作品の一つである。
上から見ると大きくたわんでいる。口縁も一方は内に向き、一方は外にと光悦の指の形どりを感じさせるような絶妙さである。

また、ふっくりと愛嬌ある姿からお多福を意味する乙御前と名付ける。


ちゃわんや吉佐殿宛
32 ちゃわん基地佐殿宛
楽家2代常慶に茶碗用の土を所望する手紙。。
ちゃわん四分ほど白土赤土御持候而いそぎご出可有候かしく正ノ十六光悦」




光悦の茶碗は楽家から取り寄せた土を、楽家の釜戸で焼いてもらっていた。
この乙御前で茶をもてなされた増田鈍翁は、箱の蓋裏に、
たまらぬものなり
と書きつけたという。その箱書きを拝見したいものだと思う。

赤楽兎文香ちゃわんや吉佐殿宛
33 赤楽兎文香合兎が活発な筆で生き生きと描かれている。光悦作とされる香合は唯一残される貴重なもの。
松平不舞が所持、後に原三渓に渡る。
箱書きに宗達とあったことで、三渓は絵師俵屋宗達のものと考えた。
しかしその後兎年に光悦が自ら書いたもので、極めて少ない最も確かな光悦の資料の一つとされている。


黒楽 時雨
34黒楽 時雨
光悦銘品の一つ。

低い高台からわずかに沿った口の周りはヘラで切り取られ鋭さを増している。なだらかな丸みの腰周りの曲線が手捻りならではの魅惑の世界だと思う。


口縁の部分は気を付けないと口を切ってしまいそうなほど無造作に切りとられているが、こういうことを許すのも刀の波紋をじっと見てきた光悦ならではかもしれない。
ここにも刀剣の研磨・浄拭・鑑定の家業があったからこそと思わせるものを感じる。

1903年、数寄者森川如春庵は西行庵の茶会に招かれ、「時雨」に出会った。すぐに養父に頼んで、その年の12月に買い求めてもらったと伝わっている。「時雨」は記念すべき如春庵の最初の美術収集品となった。わずか16歳で本作を所望した如春庵の早熟な感性には驚かされたことが今に至るまで語り継がれている。

三井家から森川家へ、如春庵がわずか16歳で手にし、その後手放した銘品が少なくない中、これだけは肌身離さず、現在も森川コレクションに収蔵されているそうだ。


黒楽 村雲      赤楽 加賀     白楽 冠雪
22-98 村雲22-106 赤楽加賀21-104 白楽冠雪
 




京都・楽美術館蔵    京都相国寺蔵     京都・光悦寺蔵


先日、楽家当主のインタビューと添えられた写真を見て、えっ、と目を疑った。
しばらくして15代の楽直入さんから5年前に当主を襲名された楽家16代 吉右衛門さんということがわかった。
昨年の10月ごろだったか、朝日新聞の「人生の贈り物」というコーナーで15代の記事と写真を見ていたので混同してしまったのだった。

もがき苦しみ茶碗づくりにたどり着き、振り返ると一生をかけていたという15代の語りに、数寄者でなくても人が何故茶碗に狂うのか少しだけだがのぞいた気がした連載記事だった。

哲学者のような思考と、仙人のようにそぎ落とされた風貌の15代に比べ、若くたくましく現代的なマスクの16代にはびっくりしてしまい、しかし先代と同じに作陶と向き合うここまでには相当な時間であったのだろう。

今は政治家はもとより、歌手も俳優も2代、3代と世襲の時代だが、これだけ悩みぬいて行きついた先が家業であったのならそれはそれで正当性を感じる。




一昨年、茶道愛好家であった知人が亡くなった。そのご遺族から新年早々、長い年月のお付き合いということで茶碗を三碗頂戴した。箱に「萩」や「備前」と記されていて、茶の湯と共に歩まれた先輩の人生を思った。
箱から出して器を拝見し、また箱に仕舞い目の届くところにしばらく置いていたので、目に入るたびになんとも言えない幸せな気分に浸った。
もちろん驚くほどの銘品ではないと思うが、故人に愛された茶道具の不思議な力がそうさせるのだろう。
IMG_E8665あらためて箱結びを解き、一人お抹茶をいただいた。
両の掌に収まった桜の萩茶碗は、乙御前のようなぷっくりとした小さめの佇まいで、陶磁器に魅入られながら故人を偲んだ。
  


23-3 IMG_8652知人に京都が大好きな人がいる。
神社仏閣ではなく京都の町を歩く人々を見ているだけでいいのだという。
「ああ、この人たちはここに千年も住んでいるんだ」と思う憧れの街だというのだ。

千年の間に人の入れ替えはあったと思うが、京都には王朝の美意識が脈々と流れている。

桃山、江戸、そして今日の京都を理解するうえでそれこそが重要なポイントであると、そういう京都の感じ方もあるのかと改めて思ったりした。

またそうであるなら、今頃は外国からの観光客で大賑わいの古都に、静かにしてあげたいと思ったりもする。



39肖像応仁の乱の後に、非常に民主的な市民が京都に生まれた。彼らは町衆といわれ、その中でも経済的に豊かな人を上層町衆といった。本阿弥光悦は上層町衆の出身であった。

少し遅れて、尾形光琳、尾形乾山・・・誰が名付けたか、琳派と称され、酒井抱一、鈴木基一と脈々と琳派は現代まで継承され続けている。

この展覧会は琳派を紹介したものではないが、本阿弥光悦と俵屋宗達を足掛かりに400年続く琳派が派生していく日本の美術に触れることができた充実の時間だった。
会期中にもう一度足を運んでみようと思っている。


(ご参考)10年前の光悦展の記事
書に関してあれこれ


記事をあげていたこともすっかり忘れていた。
読み返すとかぶっている箇所も見受けられるが、10年前の方が克明に綴られている気がする。
珍しく図録も購入しているようなのでどこにしまったか・・・、探して改めて光悦をたどってみたい。


各章案内文について、また列品解説の一部に東博本展紹介欄の記事を参考にさせていただきました。


鶴下絵


omokage1omokage1  at 11:07  | コメント(0)  |  この記事をクリップ! 

二月 の カレンダー


何という幕開けだろう。元日の身も心もゆっくりとくつろぐお屠蘇ほろ酔いのひと時であった。

16時10分、石川県能登地方を震源とするマグネチュード7.6の大激震、そして救援に急ぐ海保機が旅客機と衝突して乗務員が5名犠牲になった次の日の大惨事。

このような年明けがこれまであっただろうか。何もできないことをもどかしく、何かできることはと義援金を信頼できる機関にお願いした。その時ふっとよぎるものがあった。

寄付をさせてもらったことを家族にはなすと、自己負担率半分の税を納めていることを考えると、今は国に全面的にお願いしたいという意見が返ってきた。

確かに寄付行為の後、ふと頭をよぎったことはそれだった。

siojiiかって塩じいの愛称で呼ばれる政治家がいた。
母屋でおかゆを食べておるのに、離れではすき焼きを食っておる」と権力側の放漫支出に矢を放ち、現在でも塩川正十郎さんの名言として語り継がれている。
塩じいの時も政治改革はなされていたと思うが、建前だけの改革改善が叫ばれ続け、のど元過ぎてすっかり何もなかったかのように、あげく只今の改悪とはむなしすぎる。

政治家には何に使ってもいいお金があるなんて、そしてそれを見直せという声に「もちろん検討しています」となぜかニヤリと答える不気味さ。

働いても倹約しても我が暮らし楽にならざり」の若い世代であれば、惨事を目の前にしても寄付行為を思わず立ち止まらせてしまうかもしれない。

このように自分を支えるだけで精いっぱいの世の中になっていくかもしれないこの先を思うと、今すぐ金のかかる政治、どれだけでも自由に使えるという政治家の麻痺した金銭感覚を一掃して、お金を健全に回していく社会づくりをしてほしいと願ってやまない。

kokkai明日は今日より良くなる」、いつかとまた同じことを先日の国会で聞いた。
明日は今日より貧しくなる」と、つい頭の中で変換してしまうほど政治不信が頂点に達している。


降る雪は あはにな降りそ 吉隠の 猪養の岡の
              寒からまくに

2024.2

万葉集:巻二 ― 203
詠 者:穂積皇子
読 み:ふるゆきは あはになふりそ よなばりの ゐかひのおかの さむ
    からまくに
歌 意:降る雪はそんなに積もらないでくれ吉隠の猪養の岡に眠って
    いる但馬皇女が寒いだろうから

tajimanohimemiko穂積皇子は、天武天皇の第五皇子で、万葉集に4首の歌が残っている。
そのうちの1首が、708年の但馬皇女薨去を悼んで降り積もる雪に呼びかけ読んだこの歌。
吉隠の猪養の岡のお墓に眠る但馬皇女が寒いだろうから、そんなに降らないでほしいと愛情が切々とにじみ出る一首。

但馬皇女が眠っている「吉隠の猪養の岡」は、はっきりとした場所は分からないが、奈良県桜井市の吉隠公民館あたりから見渡せる岡のどこかだろうか。
吉隠公民館にはこの歌の歌碑が建っているそうだ。


2024.2吉隠は長谷寺から三重方面に向かった榛原の手前にある非常に小さな集落で、「吉隠」との標識があるという。




omokage1omokage1  at 00:00  | コメント(0)  |  この記事をクリップ! 

第68回 現代書道二十人展



現代書道20人展第68回

2ユネスコ







「現代書道二十人展」が、3日から東京・日本橋高島屋で開かれた。1957(昭和32)年から、今回で68回目。漢字、かな、篆刻など、日本を代表する20名の書家が珠玉の約80点が披露される。

現代書壇を代表する作家が会派を超えての発表の場において、ここ三年ほど先生方のお名前は変わらなかったが、今年は尾西正成先生柳澤朱講篁先生の名前が新しい。

27日朝日新聞夕刊を切り抜きさせてもらい、会場で書き写した先生方の今春作品に寄せるコメントをもとに振り返らせていただく。


新井光風
1 新井1937年生
謙慎書道会 西川寧
大東文化大学名誉教授

顯徳」(書経・文侯之命)
大意:明らかな徳






先生の言葉
常に思うことは線の命と存在感、そして命の躍動、書の本質の追及。いまだ道のり半ばにも至らずの感あり。表現における新鮮な世界を求め、新たな可能性を切り開くことに全力を傾注」

新井先生のお作品にはつい創造力がたくましく働いてしまう。篆書という日常遣いの文字ではないので読めない、意味はさらに分からないから遊び心の世界が自由に駆け巡ることになるのだ。 
ケンちゃんとトクちゃんの、追っかけっこ? 押しくらまんじゅう? etc・・・?
ご専門の篆書の起源は象形文字なので、理屈を抜きにすれば観るものの想像世界は案外そこに行き当たるかもしれない。

作家は不謹慎と眉を顰めるだろうか、はかり知れない文字学の世界を徹底的に研究されている先生のご日常とストイックな書生活についてお弟子さんからお聞きしたことがあるので、この一点一画の存在感にたどりつくまでの集中力を思うと尊敬しかないことは当然だ。

80歳になられたころのエッセーに,「いくらやっても書は近づいてくれない。難しく辛くもあるが面白くもある」とありました。
あれから7年、輝く目をした書道界のレジェンドは「夢中になるものがあって幸せ」と少年のままです。


高木聖雨
2 高木聖雨1949年生まれ 謙慎書道会 青山杉雨
「藝正」

出典が記されていないので、ご自分の造語でしょうか。








正座の両親と、慈しむ母の手の中で両手を上げる幼子の無邪気な笑顔さえ見えるようで幸せな気持ちになる。

書は全人間的なもの、この作品の拝見しながら高木先生という方は心底お優しい方なのだと思う。

またまた勝手なことをとのお叱りを覚悟しながら、
観客に楽しく鑑賞していただきたい・・・」とのキャプシャンに乗じて、何より中国古代文字についての非才の言をお許しください。

先生の言葉
伝統主義と表現主義の偏りがないように書作を試みる。観客に楽しく鑑賞していただくには表現豊かな創作を表し、しかし伝統をも守りたい。今回金文、隷書で表現。行・草は伝統を重視して創作したが、書作してみて究極はやはりである。また黒と白のせめぎ合いから離れられない」



角元正燦
3 角元1948年 謙慎書道会 青山杉雨・成瀬映山

「桃源四面絶柳塵 
 柳市南頭訪隠淪 
 到門不敢題凡鳥 
 看竹何須問主人…」(王維詩)





金文・王維詩・蘇東坡・陸游…、中国の漢詩を古代文字で様々にかき分ける作品群。
漢字の世界は、専門家としての知見がどれほど必要かと改めて思い、漢字作家には敬意しかない。


先生の言葉
金文文字二字『黙孝』は柔らかな線で、開放感のある作品にと心掛けた。二字がうまく響きあって修だと思う。
隷書(八分書)作品は漢碑が持つ整然とした様式美に従わず、文字が持つ個性、『画数の多少』を尊重した木簡を意識した構成。
他に草書・行書を加えた4点を書いた」



樽本樹邨
4 樽本1937年 謙慎書道会 青山杉雨
龍驤虎視」(蜀志)
辰年にちなみ「」の文字を選ぶ感性は大先生も同じなのだと思う。

こういう書法は何というのだろう、階段をがくんと一つ下りるような転折を見ながら、作品の前の空間で手が軌跡を追う。

いかつい漢字作品の最後は高村幸太郎の「秋の祈り」の一説が穏やかな調和体で書かれていた。世界的に拡大していく感のある戦争問題に、書芸術を通して世界平和を祈るお気持ちで選ばれたのではないだろうか。





先生の言葉
豪快な楷書、のびやかな行書、趣向を変えた調和体とバリエーションをつけて制作した。墨の黒と余白の白のバランスを意識し、力強さや柔らかさ、穏やかさなどを表現した」


真神巍堂
5 真神1943年 京都 村上三島
建仁寺派宗務総長

寒依疏影蕭蕭竹春掩残香漠爆苔
(蕭々竹/高啓)


先生の言葉
いつものようにもがき苦しんだ末に、『いっそ無茶苦茶に書いてやれ』と筆を画仙紙にぶっつけるように書いたことがある。その時の写真を今も机の引き出しにそっとしまっていて、泥沼地獄に落ち込むとこっそり見直す。同じつもりで筆を執ってみてもその時の心境にはなりえない。ところが今度の出品に際しては、コロナ禍のお蔭で時間の余裕があったため、作品の資料がたくさんたまり早目に仕上がる。あの時のアレを挑戦してやれと試みた。以前とは仕上がりは異なるけれどそれなりに納得いくものになった。それがどれであるかはナイショ

昨年大流行の「アレ」ですね。やはり「アレ」は吉を呼ぶ何かが内包されているのでしょうか。

果たしてどれだろうと4点の御作品を何度か行ったり来たりした。


吉川焦仙
6 吉川1938年 村上三島
「夙興夜寐」 (詩経・大雅・蕩之什・抑)













先生の言葉
充分に体調を整え、紙墨相発するを期待して、制作に取り掛かる。好い作品が出来上がるための様々が、バランスよく構築されることを願って、今日も筆を運んでいる。 
しかし、中国の古い説諭にあるように『時至らざれば生ずべからざるなり』である。いくら期待し、いくら力んでも駄目で、厳しい線の鍛錬を繰り返しながら好機到来を待つのみである。好い作品が知らず知らず生まれてくれるのはまだまだ遠いようだ」

最高の仕事は後進を育てるに尽きると思います。この後の、尾西正成先生から目が離せません。



尾西正成
7 尾西1970年 吉川焦仙
















性明穀」 (唐書・吐蕃伝)  二曲屏風
朶湖山祜佛 重々烟樹一楼臺」(大川晋済・慈峰千仏閣)
白楽天問佛教 大法如伝…」 (七佛通戒偈)
隠逸花 心空及方等… 」 (古渓宗陳)
                  以上4点


今年初出品の尾西先生は京都橘大学書道学の先生で54歳。
20名の先生の中でただ一人の50代。

先生の言葉
二十人展は書を志した時からの憧れの展覧会で雲上の存在。初出品の案内を頂戴して以来ドキドキが止まらず、作品が完成しない夢を何度も見て飛び起きた。こんな若輩にできる書は限られておりここは開き直って『今できること、自分の好きな書』だけを悔いのないように書ききろうと励んだ。良くも悪くもこの四点が今の自分の精いっぱいの空回り。『私好み』を示すものになっていればと願った」


中村伸夫
8 中村伸夫1955年 雪心 今井凌雪

「龍蟠鳳逸」 (李白)
「萬古江河有正傳」 (啓功論書詩)
「飛鴻踏雪泥」 (蘇東坡詩句)
「少年楽新知 哀…」 (韓退之詩句)







書と学問を両立させる新世代のエース格といってさっそうと20人展にデビュウされた人も6回目の出品となり重鎮の風格である。
筑波大学から北京の大学に留学し数年間、文字の起源をもつ中国で書学を学ばれているので、外国語として中国の古筆法帖を学んだだけではない論客だと思う。

先生の言葉
毎回新たな自分の発見を目指して作品の構想を練り紙面に向かう。同じ言葉を繰り返し書いているうちに自分が自分の真似をして袋小路に追い込まれてしまうことがある。そんなときは一旦立ち止まり、熱を冷まして自分の表現を見つめなおすことにしている。試行錯誤の結果、今回は全て同じ筆を使った四点を出品する」


星弘道
9 星弘道







1944年 栃木 浅香鉄心

「黙而識之」 (法華経)
「鴻雁飛何遠 蚊龍舞更驕る」 (舒芬)
「千里黄雲白日曛北天下…」 (別董台其一/高適)
「妙法蓮華経 第15」

星先生はお坊さんである。年の初めに必ず拝見できる「写経」をどんなに楽しみにしていることか。

先生の言葉
作品はなかなかうまくいかず、こう表現してみようと思いながら書いていくうちに変化していく。
こう表現してみようと思いながら書いていくうちに変化していく。選文をし、紙に大小、縦横、文字の持つ構造などを模索しながらの作業になるので、ついつい枚数を書いてしまう結果になる。それゆえ書き込むうちに生気が無くなったりして初めに書いたものが残ることがよくある。毎年のことながら書のむつかしさを痛感している」




吉澤鐵之
10 吉澤鐵之1954年 書魁 星弘道








老梅鐡骨 
何ゾ言フ七十 古来稀ナリト 千里ノ前途 未ダ疲レヲ厭ハズ 今見ル寒庭春数點 老梅 鐡骨 氷肌ヲ吐ク 

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何言七十古来稀 千里前途未厭疲 今見寒庭春数里 古老梅鐡骨吐氷肌
 
今年で4回目ご出品の先生は、今年は古稀祝ということで、杜甫の「 人生七十これ希なり」を下敷きに今年も自詠の漢詩を書作された。


渋沢栄一は「40・50は鼻たれ小僧、60・70は働き盛り、90になってお迎えが来たら、100まで待てと追い返す…』という格言を残している。もう今から一昔前の時代であることを考えると、今の書道界では60・70はひよっこで、限りない伸びしろの世代かもしれません。

先生の言葉
今年の秋に古希。杜甫が『人生七十 古来稀なり』と詠じたのは大昔のこと。これからの長い人生を思えば疲れたなどと言ってはいられない。我が家の寒々とした庭を見やれば春の気配がチラホラと。それは老梅のごつごつとした枝にも美しく透き通った花びらが咲いている(私もこの老梅のように頑張ろう)との意の自詠を、篆・隷・行・草・調和体で書き分けてみた」

古稀、改めておめでとうございます。



石飛博光
11 石飛1941年 北海道 金子謳亭










「我逢人 心と心との出会い出会いこそ命」(我逢人/道元禅師)

「美しい物より、生きているものを 死んだ優雅より、生きた野蛮を」(魚/仲川一政)

「この道しかない」(この道/山頭火)―軸装

誰でも読める調和体書作が3点。例年黒縁の大きな額に入った作品でまとめられるが、今年は小さな軸装に山頭火の歌が展示されていた。

メディア露出も頻繁な人気書家なので作品の前には鑑賞者が多い。


柳澤朱篁
12 柳澤朱皇1944年 大野篁軒

「寒山唯白雲 寂寂絶埃塵」 (寒山詩句)




こういう書もあるのか、こういう書き方もあるのかと不思議な体験であった。流麗な書よりも骨のある線、奥行きのある書を目指しておられるということだが、この震える線の理解は難しい。

ピカソは、幼稚園に視察に行った折に、子供たちの絵を見て言ったこと。
「自分はラファエロの絵が描けるようになるのに4年、しかしこの子たちのような絵はまだ描けない」、と深い名言を残している。

柳澤先生のこの震える、しかししっかり紙背に食い込むうわずらない線は、型を超越した透徹した名人の域、ピカソの世界かもしれない。

先生の言葉
中国漢代の書が好き。漢は八分の隷書のイメージが強いが、書風・書き手・地域・時の推移道具の差などによりバラエティに富んだ書法が生まれている。中でも、摩崖隷に心動かされる。そこには自分にない野生とエネナルギーを感じる。摩崖に近づこうとしてもがくと、その野性とエネルギーが少し自分にも宿る気がして元気をもらうことがある。
寒山詩句』は荒っぽいので、その気を味わうことができた」

尾崎蒼石
13 尾崎1943年 梅舒適 

獨坐觀心
← 斜めの線の処理に苦心しながら、単純な構成にならないように心掛ける




先生の言葉
作品制作にあたっては、印文を決めることから始まるが、私の場合は気に入った語句を探すことに時間をかけている


綿引滔天 綿引滔天
14 綿引滔天1961年 謙慎書道界 小林斗盦

萬邦須井惟慶
←  円璽に仿い文字を気儘に配してみた。





先生の言葉
本年度勤務校が創立100周年を迎えた。
これにちなんで『百川学海』を印文とした。多くの川は流域を異にしながら、とどまることなくまた海に還る、学問は継続しなければならないという意で、学生のみならず私自身への戒めとしたい言葉である」


井茂圭洞
15 井茂1936年 兵庫 一東書道会 深山龍洞
2023年文化勲章受章

「ひばりは あめにかける たかゆくや 速総別さゝぎとらさね」
 (隼/古事記・女鳥王)

 崑舅造蝋颪里泙曚蹐弌ΑΑΑ廖 
 (大和/古事記・倭建命)

◆屬笋弔瓩気后ΑΑΑ廖 
 (贋刀/古事記・倭建命)

ぁ崢立ての倉椅山を・・・」  
  (倉橋山/古事記/連総別王)


ここ2・3年古事記から離れておられたが、今年は4点古事記でまとめられた。井茂先生には古事記が似合う。

日々、一文字ごとかな独特の造形・所詮・時間の変化・行の左右移行による行間の交響・毛筆の弾力による瞬時の線質の妙・呼吸から生まれる異質なリズムを奏でる書線など、矛盾抵抗の美などを考え書美を目指す。
更に朝夕の天空に一瞬出現するなんとも言えない赤味、橙色のグラデーションを、運筆法、用筆法を駆使し表現しようと模索。また、多様性と単純化という両極の魅力を求め精進している」



黒田賢一
16 黒田1947年 正筆会 西谷卯木







「あしびきの やまの黄葉 こよひもか 浮かびゆくらむ
山川の勢に」  (もみぢ葉/万葉集・大伴宿祢書持)


先生の言葉
書作にあたり心掛けているのは『変化と統一』という相反する性格を持つ二つの要素をどのように盛り込むかと仮名本来の持ち味である『省略』と『余白』をどう活かしていくか。
又、線の充実を常に念頭に置いているが、今回は特に細線の中にも緊張感を持たせ魅力あるものとなるように筆を運んだ」



土橋靖子
17 土橋靖子昭和31年 千葉 日比野五鳳 光風








「山深み 峰にも渓も 声たてて けふもくれぬとひぐらしぞなく」 
                     (ひぐらし/道元)
         造り過ぎず気力を大切に野趣を求めて書く

「録・崔子」  背筋を正し
「ゆっくり」  気張らず、さっそうと
「児」     いつの世も変わらぬ小さきものの愛おしさを
               思い雅よりもぬくもりを

先生の言葉
古典古筆を礎に、題材を土壌として線に命と心を籠める書の世界を深淵だが、これからもひたすら歩んで行きたい」

昭和の書聖日比野五鳳先生の「清らで品格ある書」を体現されている土橋先生のお作品は、新春展に華やぎを添える。

古筆を基礎に、伝統をふまえた風趣な世界、王義之をライフワークにされて研鑽を積んでおられるお話をギャラリートークで伺ったが、漢字・仮名のジャンルを超えた、新しい書表現が生まれ続けているわけがわかった気がした。

音楽、絵画、彫刻、スポーツ・・・、生活の全てに生み出すヒントがあり、決して見逃さない生き方が散りばめられているギャラリートークは、埋め尽くすというより会場からあふれる全ての聴衆者を魅了する30分だった。

高木厚人
18 高木厚人昭和28年 千葉 杉岡華邨

今回も源氏物語の作中歌を3点。

「つれなきを うらみもはてぬ しののめに とりあへぬまで おどろかすらむ」
(「帚木」光源氏 (しののめ/紫式部)
光源氏が17歳の時に初めて読んだ和歌で空蝉に送った後朝の歌

「おもかげ」
光源氏が若紫に初めてであったときに贈った歌

源氏屏風
染色史家吉岡幸雄先生の「源氏物語」を足掛かりに植物染めで染め上げた織物の色
をヒントに料紙を選び、贈答歌を六組書く。


高木先生にとって20回近くになるこの20人展は、自分のできる力を発揮したいと考える一番楽しい時間ということだった。

何年か前から大河ドラマが源氏物語のようだといわれ始めたのを機に、折々に書き続けてきた源氏物語を今年の課題にし、そしてこれで源氏を一区切りにするとのことだった。

染色史家吉岡幸雄先生の「源氏物語」をもとに、色目も華やかな源氏世界の集大成は「源氏屏風」と題して壁面を飾る。

この日、土橋先生との対談トークだったが、これを受けて「今日はその染司よしおか工房のストールをしてきました」という、土橋先生の襟元には薄い桜色のストールが巻かれていた。

昨年、染司よしおか6代目吉岡更紗氏の講演を聞いたのだが、その時は興味もあまりなく理解もほとんどできなかったのだが、ここで結びついてなんと嬉しかったことか。

ちなみに、染色史家吉岡幸雄先生は5代目で、2019年ご逝去されたので更紗氏が後継された。


吉川美恵子 
19 吉川美恵子 








なの花や 昼ひとしきり 海の音
二人して むすべばにごる 清水かな
すむかたの 秋のよ遠く ほかげかな
水仙や さむき都の こゝかしこ
      蕪村の俳句を4句)

先生の言葉
今年は作品すべて俳句とする。和歌の発展とともに創出されてきた仮名美の諸要素を俳句の世界で表現したいという思いからの挑戦。

井上ひさし
難しいことは優しく
優しいことは深く
深いことは愉快に

という創作への信条、その言葉を心に留め俳句における漢字の存在感、語句の間なども大切に、余白を存分に生かした作品をと念じつつの創作。改めて、優しく表現することのむつかしさを痛感する」

直線と直線が重なり絡み、優しい文字が浮かび上がる。属性を言うのはタブーの現代社会で、女流書家という言葉もそのうち死語になっていくと思うのだが、あえて触れさせてもらうと媚が一切感じられない澄み切った明るい個性、そして生気のある女流書だと思う。

俳句だけで与えられた4 〜 5辰諒斌未鯔笋瓩襪箸蓮何と意欲的な試みかと溜め息の感嘆だった。



倉橋奇艸
20 倉橋「あわ雪の 中にたちたる 三千大千世界((みちおほち) またその中に 沫雪ぞ降る」
       (沫雪/良寛)  長軸装

「嵯峨に遊びて去来が落柿舎に至る」 
(嵯峨日記抄/嵯峨日記/芭蕉)  二曲屏風

「珠(たま)藻(も)刈る 敏馬を過ぎて 夏草の 野島の崎に 舟近づきぬ・・・」
(旅の歌/万葉集/人麻呂)   大軸装

「いにしへの ことは知らぬを 我れ見ても 久しくなりぬ 天の香具山」
                  (香久山/万葉集)  大額装


先生の言葉
松尾芭蕉は紀行文で知られているが、今回は「嵯峨日記」取り上げる。文中に見える、源氏物語・土佐日記など今も読み継がれている古典作品を芭蕉も身近においていた。
漢字が頻出する題材ながら仮名に会えて変換せず、その思いを込めて書く。
逆にそれにとらわれ、流れが滞る仕上がりとなる。力みを捨てて自然体で書くことのむつかしさを改めて感じる」

親しい書友の会派だったので、作品展に足を運んだり、関係の図録や資料をいただいたりしていたこともあり倉橋先生の書風や作品のデザイン性など素晴らしいと思ってきた。
自然なのに大胆、何もしていないのに不思議なくらい洒落てあか抜けているのは、やはり細い線の中にこめられた張りと強さなのだと思う。


第68回20人展、敬称を略させていただき、勝手なことを書かせていただきました失礼を心からお詫び申し上げます。
今年も仲間と書道に励むことで、何卒お許しください。




2024年の幕開け、美しく晴れ渡った元日がまさか大災害の日になろうなどと夢にも思わなかった。
しかし刻々と時は過ぎ、はや今日は小正月。
寒かろう、ひもじかろう、悲しみや苦しみは分かちがたく、思っても手を差し伸べることもできないことが歯がゆいが、日本中の皆が心配して応援しています。
せめて政府主導で、ホテルや旅館の暖かい部屋と布団にくるまって心と体を休ませてほしい。大丈夫、みんなが見守っているから、どうぞ体調をこれ以上崩すことがないように。
              祈
 









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1月 の カレンダー


暁の空に陽が昇り始め、美しい国の夜明けがやってきた。

まさに師も忙しいその名の通りの師走であった政界、政局は国民にも伝播して気ぜわしかったが、その金まみれを一時忘れて「美しい国、再び」と願いを込めて呼びたい。
誰一人見捨てないこの国で、一度だけ生きる新しい一年の始まりだから。

昨年暮れには喪中葉書や年賀状仕舞い葉書をたくさんいただいた。その中の106歳の友人のお母様の喪中葉書にはしばらくお母様のことを偲んだ。
いただいた手編みの室内履きソックスが2足、もったいなくてなかなか履くことができなかったが、そっと足を入れてみた。暖かさが全身を包み、ご長命を全うされた友人のお母様のことをまた思った。

年賀状仕舞いのお葉書には縁を断ちがたい思いで、そのうちの何通かには「返信御無用」と記して、ご迷惑を詫びながら投函した。
下手書きであるのに、コレクションにしているとか、楽しみにしているなどとはお世辞と承知しながら、一枚でつながっていることを心から嬉しく思い、美しい国の文化に寄り添う。ユネスコ

もう書の世界とは遠くなっているのではばかりながらであるが、昨年の12月半ばに飛び交った、「書道」がユネスコ無形文化遺産の候補に提案されたニュースは嬉しかった。


ユネスコ - コピー年々パソコン文字入力が主流となり、筆どころかペンや鉛筆も持つ機会が少なくなっていく現状だが、手書き文字の向こうに書き手の個性と感性が息づくもう一つの美しい国への足掛かりを思い描いたものだ。

新年を寿ぐ家々の美しい正月飾り、そして縁つなぎの63円の年賀状、何より龍の年とあれば昇るしかありません。

本日は快晴、佳いスタートになりました。


 正月立つ 春の初めに かくしつつ 相し笑みてば 時じけめやも
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万葉集:第十八巻:4137
詠 者:大伴家持
読 み:むつきたつ はるのはじめに かくしつつあひしゑみてば、とき
    じけめやも
意 味:正月の 春の初めにこんなふうに みんなで集まってともに笑
    いあうというのは まさにこのときならではのこと、楽しい
    ことです

1平安の宴
天平勝宝2年(西暦750年)1月5日に、大伴家持の部下である久米広縄(くめのひろつな)の館で催された宴で詠まれた歌です。


この歌の題詞には「判官 久米朝臣廣縄の舘に宴する歌一首」とされ、また、左注には「同月五日守 大伴宿祢家持の作」とあります。
2024.1


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