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栄西 と 建仁寺 展



建仁寺 法堂京都最古の禅寺建仁寺の創建は建仁2年(1202)、京都五山第三位の格式を持つ寺として知られています。
日本に禅宗を伝え広めた栄西が開山し、今年は栄西が亡くなって800年縁起にあたり記念展覧会が開かれています。

栄西ハ臨済宗デ〜 道元ガ曹洞宗 」、
その昔試験のために丸暗記したフレーズが懐かしくよみがえります。
知識とも言えないこれだけのことしか知らないで、桜が散り終えてもなお賑わう上野公園を通り抜け東京国立博物館に向かいました。

これからトーハクの建仁寺展に行くと言って分かれた友人が先日京都で建仁寺を訪れたそうです。
「特別展といっても滋味だから混雑していないでしょう」と言う言葉に見送られましたが、どうしてどうして展示物を目の前では見ることができない思った以上の入場者です。
若い人達も多く、歴女、仏像ガール、歴士君・・・嬉しいことですがその人口はかなり多いのでしょう。

では、順を追って進んで行きます。

序章 禅院の茶

四頭茶会
2 四頭栄西が日本にもたらした文化の一つに茶があります。

会場に入ってすぐに建仁寺のお茶席が再現されていました。
毎年栄西の誕生日の4月20日に
四頭茶会が開かれます。


4人の正客と相伴客各8人、計36人の禅宗の茶会の原型である独特の作法のお茶会で、再現茶室頭上のビデオでもその様子が流されていました。

僧侶が右手に菓子と左手に茶碗を持ち茶席に入ります。あらかじめ抹茶を入れた天目茶碗を客に配り、客と向かい合って茶を点てます。

両の手に物を持つことや立ったままのお手前など、お茶の礼儀作法と真逆だと思うのですが映し出される僧侶のたたずまいは美しく違和感はありません。

栄西は日本に茶の習慣を伝えたとされる「茶祖」として知られています。
今回の再現展示の掛け軸中央の祖師栄西の像と両脇の龍そして虎、卓の上に飾られた香炉・花入・燭台などのしつらえは、すべて実際に使われているものだそうです。

茶の眠気覚ましの効用は座禅にうってつけで、栄西が伝えたお茶の文化は後に千利休のもとわが国独自の茶の湯文化に発展して今に至っているということです。


第1章 栄西の足跡


栄西像 鎌倉時代13-14C 神奈川 寿福寺
1 栄西像栄西は1141年備中吉備津神社の神主の子として生まれました。
11歳にして仏教を学び、13歳になると比叡山に登り天台密教を修めた後、正しい仏教を求め2度中国にわたり厳しい修行の果てに禅をきわめ日本に持ち帰りました。

この時代栄西が禅の教えを広めようとしたときの苦労は大変なものでした。しかし、禅は天台宗の教えに背くものではないとその重要性を訴え、栄西の熱い信念はやがて幕府や朝廷にも届いてゆきます。

帽子をかぶっていると思いましたが実は頭で、勉強しすぎて頭が大きくなったと言われているそうです。


興禅護国論和解   高峰東峻著 江戸時代18C 京都両足院
イヤウサイ建仁寺では「栄西」を「ようさい」と読むようです。

これにはどうしても馴染めずガイドフォンから聞こえる「ようさい」には、「えいさい」のイメージが付きかねましが、それには左の書物の「イヤウサイ」という振り仮名に基づいての根拠があったのです。

「えいさい」と読んでも間違いではないということでしたが、やはり「えいさい」のほうがしっくりおさまります。


勅額 扶桑最初禅窟 後鳥羽上皇筆 安土桃山〜江戸 16〜17C 福岡 聖福寺 
3 勅額)「扶桑最初禅窟」 後鳥羽上皇 筆栄西が55歳にして開いた日本初の禅寺それは福岡の聖福寺です。

当時京都では新しい禅宗への風当たりは強く、宋に渡る前に住み慣れていたこの地に門を構えました。
その聖福寺の山門に掛けられていた額「扶桑最初禅窟」。
扶桑とは日本のことでわが国最初の禅宗寺院を讃えています。

栄西は45歳のとき後鳥羽天皇の命を受けて雨乞いを行っています。
すると指から光明が放たれて雨が降り、雫には栄西の姿が現れたといいます。


送海東上人帰国図 
鍾唐傑・竇従周賛 中国南宋時代1194頃 神奈川 常盤山文庫

日本からの留学僧が帰国に際し友人から贈られたものだそうです。

送られた日本僧は栄西の他、俊芿・重源といった説があり、いまだ特定されていません。



賛者である鍾唐傑・竇従周が日本僧と接点を持った時期として可能性が最も高いのが1194年ごろで、この時期は朱子学、禅宗など本格的に日本に入ってきた時期と重なっており、美術史・仏教史などにおいて非常に重要な作品ということです。

松の下に見送る数人が見えます。


喫茶養生記 巻之上 栄西著 南北朝時代14C 神奈川 寿福寺
4 喫茶養生記 巻之上1168年、栄西はかってあの鑑真和上の住んだという中国五山の一つ阿育王寺(あしょかおうじ)に向かいます。

道中暑さで憔悴した栄西に店の主人が差し出したお茶を飲むと、茶の苦味で心臓の働きが強くなり具合が良くなったそうです。

中国で盛んにお茶が飲まれている様子を目の当たりにした栄西は喫茶の風習を日本に広めようと茶の種を持ち帰り栽培を奨励します。

時を経て栄西は71歳のときそういう茶の効用を述べた「喫茶養生記」を記しました。
茶を飲む風習は平安時代に伝わっていましたが、それは茶葉を煮出す飲み方で栄西が紹介したのは当時の中国で主流だった抹茶式の飲み方でした。

栄西はこの日本初となる茶の本を鎌倉幕府三代将軍源実朝に捧げていますが、禅宗を広く伝える糸口として先ずは茶の文化を紹介したとも言われています。
喫茶とは何とハイカラな、思わずカフェーでコーヒーを連想してしまいます。
あの時代一部上流社会に限られていた飲み物であったお茶はやはりハイカラだったことでしょう。


国宝誓願寺盂蘭盆一品経縁起 栄西筆 平安時代1178 福岡 誓願寺
5 国宝 誓願寺盂蘭盆一品経縁起




中国南宋時代の黄庭堅の流れをくむ洗練された栄西の直筆。

栄西は14歳の時に比叡山で出家し、18歳で優れた記憶力と理解力を獲得する手法を授かり密教を学んだことは前に記しました。

やがて博多に赴いた栄西は、そこで海商を営む李徳昭(りとくしょう)に禅宗の盛んな中国の仏教事情を聞き宋へ渡ることを志します。

1168年4月、商船に乗って宋に入り半年ほどで帰国した栄西は、福岡の聖福寺で経典の研究と著述に専念しました。そして寺の起こりを「誓願寺創建縁起」に記します。

その3年後聖願寺で一品経の書写が行われました。一品経とは法華経28本を一品ずつ分担して書き写すもので、栄西は多くの人々の尽力を讃え、中国から輸入された華麗な唐紙にその様子を記します。
それが「誓願寺盂蘭盆会一品経縁起」です。


第2章 建仁寺ゆかりの僧たち

蘭渓道隆坐像 康乗作 江戸1676 京都 西来院
9 蘭渓道隆坐像鎌倉時代半ばに中国から来日した建仁寺11世住職蘭渓道隆。

母国宋での厳しい禅のあり方を日本に根付かせ、建仁寺だけでなく日本の禅の歴史上重要な人物だそうです。

自筆の書には規律を破ったものには長時間座禅をさせるなどその一端が記されているように、蘭渓のもと建仁寺は純粋な禅の道場となり                           ました。
目は落ち窪み、頬骨は張り、受け口のとがった顎、生前に描かれた絵とも共通する特徴があり、作者は江戸幕府に重んじられた康乗で定朝や運慶などの高名な仏師の流れをくむ格の高い仏師の一人です。

この展覧会開催に当たって大発見がありました。
この像の頭を取り外した所体内に鎌倉時代の作らしき別の顔があり、首より大きいために取り出せないそうですが顔立ちはこの像と似ているということです。
幾度か火災を潜り抜けた古い蘭渓道隆像の顔を参考に江戸時代この像が作られたと考えられているという解説がされていました。

写真パネルを見たとき、木像の中から蘭渓道隆の骸骨が発見されたのかと早合点してしまいましたが、色や質感がミイラを思わせました。

ナンダ木像頭部かと一寸がっかりしながら、しかし取り出せないものをどうして入れることができたのか???謎です。


九条袈裟 円爾弁円所用 宋時代 東福寺
袈裟が陳列台に並べられているいくつかの袈裟の内、どうしてもミシン目のようにしか見えないものがありました。係員に受付で聞くようにいわれてそのつもりでいたのですが、帰るころはすっかり忘れてしまいました。


中巌円月坐像 南北朝時代14C 京都 霊源院
10 重要文化財 中巌円月坐像激動の南北朝時代に寺を率いた建仁寺42代住職中巌円月

まるで生きているようにリアルなことから、本人の生前または没後間もなくの制作と考えられているということです。

鎌倉時代末、中国の伝統に習い、京都の禅寺は南禅寺を筆頭に格付けされました、京都五山です。
建仁寺もその一つです。五山の寺院には最新の中国文化が紹介される国際交流の場であり、新たな芸術が育まれました。
中国に足掛け8年留学していた中巌円月は五山文学の第一人者で、漢詩や漢文に優れ儒学に詳しく多くの著作を残しました。

建仁寺住持として迎えられたとき中巌はそれまで住んでいた京都万寿寺に建てた庵妙喜世界を建仁寺に移築し、その庵で75年の生涯を終えます。
平成8年この像の体内から毘沙門天像が発見されました。江戸時代に妙喜世界の庵に住んだ僧が仏の遺骨舎利を毘沙門天のかかげる塔に納め、この像の中に安置したと言われています。

この章には建仁寺歴代の僧の像が並んでいましたが、ほとんど鞭を持っていました。修業を怠けたり座禅で居眠りをしたりしたときは容赦なくこの鞭が飛んでくるのでしょうか、禅の修業は厳しく辛そうです。

何度か座禅をしたことがありますが、襲ってくる眠気との戦いでその度に肩をビシッと打たれ、瞑想や無の境地とはほど遠い体験でした。


1467年に始まった応仁の乱より京都の町は荒廃、以後約100年続く戦国の世となります。
建仁寺も戦禍を受け、乱が静まった16世紀末安土桃山時代にようやく再建が始まり、その担い手は寺に帰依した武将たちでした。

第3章ではその功績を、戦乱の世を生き抜いたそれぞれの人生とともに紹介されます。


第3章 近世の建仁寺



織田有楽斎坐像 江戸17C 京都 正伝永源院
11 織田有楽斎坐像織田長升は、本能寺の変で兄信長が世を去った後仏門に入って有楽斎と名乗りやがて豊臣秀吉に仕えます。
秀吉の側室淀殿は有楽の姪でした。

有楽斎は千利休の優れた弟子の1人であり、利休亡き後は秀吉の下で茶の湯の行                     事を執り行ないました。

晩年は建仁寺の塔頭の正殿院を再建してそこに隠居、茶室長安を立てて静かな余生を過ごしましたが、現在その茶室は愛知県に移築され国宝になっているそうです。

多分この像を見て皆思うことはどこか信長の面影がないかということではないでしょうか。

「 信長の兄弟 どこか似ているはず !! どこ 」と・・。


打掛 花菱亀甲模様縫箔 高台院所用 安土桃山16C 京都 高台寺
12- 打掛 花菱亀甲模様縫箔 高台院所用豊臣秀吉の正室ねねは、関白の妻北の政所として足軽から天下人に上り詰めた夫を支え、明るく飾らない人柄で多くの武将に慕われたといいます。

秀吉亡き後出家して高台院となり高台寺を建立、晩年寺の行く末を案じ信頼する建仁寺の三江紹益(さんこうじょうえき)を迎え高台寺は建仁寺派の寺院となります。

高台寺には金の模様が美しい蒔絵の調度品が多く伝来していて、中でも大量にあつらえるため黒い漆の地に簡潔なデザインと技法で作られた高台寺蒔絵が有名だそうです。

びっしりと刺繍がほどこされた内掛けですが、ねねはかなり小柄だったのでしょうか、現代の成人女性のサイズには見えません。


竹林七賢図 海北友松筆 安土桃山1566 建仁寺






全部で10幅あり、中国の7人の賢者が描かれています。友松は風をはらんだ袋のような布をつけた略筆による人物の描写を得意としていました。

天下執りの争いが続く安土桃山時代、絵の世界では狩野派が一斉を風靡し、この絵の作者海北友松も狩野派に学びました。

友松の父は近江の浅井家の重臣でしたが、父が戦で他界したため友松は幼くして東福寺に入ります。

さて、広島安告寺から荒廃していた建仁寺に方丈を移築し、建仁寺の再興を果たしたのは広島の安国寺恵瓊(あんこくじえけい)、西国の大名毛利家や豊臣家に使えた外交僧でした。

恵瓊は東福寺住職も勤めていたことから友松のことを良く知っていたはずで、この絵を依頼したのは恵瓊だったかもしれないと解説されていました。

永徳、等伯らと同じ時代に活躍した海北友松ですが、一般的な知名度はさほど高くないと思います。
しかし、この展覧会で目にする大画面の水墨画の迫力は他を寄せ付けない魅力がありました。


雲龍図 海北友松筆 安土桃山1599 建仁寺
14 龍頭 左4幅




14 龍図 右4幅阿吽に対比する龍を描いた海北友松の傑作、重文「雲龍図」です。

渦巻く暗黒の雲から姿を現す巨大な龍、友松は墨の濃淡による迫力と威圧感で壮大な画風を作り上げました。

67歳の友松の迷いのない筆使いを感じさせる鋭い爪や鱗、墨の暈しが見事なこちらにうねりくるようなその巨体には息を呑みます。

龍は海北友松が得意としたもので当時から高く評価されてており、中でもこの雲龍図は圧倒的迫力を誇る傑作です。

建仁寺の玄関に近い所の襖絵で8面の内4面ずつに阿吽の龍が向かい合うように配され、かって建仁寺を訪れる者を出迎えたということです。
現在は精巧な複製が代役で、本体は博物館に預けてあるそうです。

友松は、もともと近江の浅井家の家臣という武士の子として生まれましたが、浅井長政が信長に滅ぼされたとき、一家は主君とともに殉じます。
友松は、たまたま京都の東福寺で僧侶の世話をする稚児として暮らしていたため、難を逃れたというわけです。

実は友松が画家として頭角を現すのは60歳を過ぎてからで、それまでの謎に包まれた半生もまた魅力の一つと言えます。


第4章 建仁寺ゆかりの名宝



十一面観音菩薩坐像 南北朝時代14C 京都清住寺
15 十一面観音菩薩坐像建仁寺54世蘭州良芳のお墓を守る清住院、そこに伝来した「十一面観音菩薩坐像」です。

頭上に十一の頭を持ち様々な姿に変化し人々を救いに導く観音菩薩の功徳を表しています。

薄目を開け頬に張りのある穏やかな顔立ち、衣は強くうねる線が幾重にも重なっています。

全身に金泥をぬり金箔を細く切って貼る切り金文様を施した上に鳳凰や龍などの模様を盛り上げて表し、南北朝時代の名品のひとつに数えられる傑作です。



十六羅漢図 良全筆 南北朝時代14C 建仁寺 16 十六羅漢図 良全筆16幅のうちの部分。
修行を終え悟りの境地に達した十六羅漢は釈迦入滅後、この世にとどまり仏法を守るように任命された十六人の弟子。

平安時代は法華経信仰の中で仏の教えを守り伝える役割が説かれ鎌倉時代になると釈迦に従う眷属(けんぞく)として信仰が広がり、さらに禅宗では修行者の手本としてこうした絵が多く生まれます。

人物の輪郭線は繊細な筆づかい、かたや岩や木の幹は墨の濃淡により立体感を出し重厚な雰囲気を出していて、水墨画が発達した中国宋時代の新しい様式を取り入れているということです。

作者は鎌倉時代から南北朝時代に活躍した良全、故郷は九州あるいは中国や朝鮮から来日したといわれ、九州出身の東福寺17世住持乾峰士曇(けんぽうしどん) のもと多くの仏画を手がけました。

この羅漢図は良全の代表作で、金泥の書き込みからもとは東福寺にあったということです。



松に童子図襖 長谷川等伯筆 安土桃山〜江戸17C 京都 両足院
17 長谷川等伯《松に童子図襖》両足院
安土桃山時代の
巨匠長谷川等伯の
この襖絵は69歳の作。



もとは左右二面ずつの真ん中に別のふすまがあり、二人の童子の主人が書かれていたそうです。

手荷物籠には筆と巻き物が入っておりこの絵は文人の遊びを描いた「琴棋書画図」の、またはの場面かもしれないという解説です。

風景を本物らしく描くのではなくデザイン性を追及した画風で、岩の水平に引かれた線や、太く強く描かれた衣の線は画面の中のアクセントになっています。

海北友松の障壁画に学んだ等伯の晩年の水墨画は、余白を大きくとり簡素で力強い筆使いの画風を確立しました。



竹林七賢図屏風 長谷川等伯筆 江戸1607 京都 両足院
長谷川等伯 竹林七賢図
「竹林七賢図屏風」は友松の「竹林七賢図」に刺激を受け描いた作品ということです。


友松の風をはらんだ丸みのある略筆表現とは正反対の強く太い直線で描かれています。友松とは違う描き方を意識して表現したのでしょうか。



花鳥図襖 海北友松筆 安土桃山1599 建仁寺
海北友松 花鳥図襖建仁寺の塔頭
霊洞院、その建物の一つが1853年に再建され、建仁寺内外の寺院から障壁画が移築されました。

この襖絵はその一つで、海北友松が方丈の障壁画より以前に手がけた貴重なもので、珍しく色がほどこされています。
しかし狩野派の華やかな色使いと異なる禅宗寺院にふさわしい落ち着いた印象で、孔雀の細い足の肢体が目を引きました。

狩野派に学んだ友松でしたが、余白のある画面に気迫のこもった線を鋭く走らせる画風は武家の出身であることに由来するかもしれないということです。

建仁寺を巡る二人の男、
1人は建仁寺を再建した安国寺恵瓊、彼は関が原の戦いで豊臣側について無念の最期を迎え、その首塚がかって自らが移築した方丈のすぐ後ろにあります。60歳前後の生涯だったようです。
応仁の乱や火災で大きな打撃を受け続けた建仁寺を救ったのはほかならぬ恵瓊だったのです。

もう1人、障壁画を手がけた海北友松は、関が原のあと皇族との親交を深め妙心寺にもその作品を残しています。
そして大阪夏の陣で豊臣家が滅びたその年、83歳の天寿を全うしました。



山水図  曾我蕭白筆 江戸18C 京都久昌院
18- 曾我蕭白《山水図》久昌院江戸時代中期、西洋や中国の文化を取り入れる動きが美術にも波及し、特に京都では個性的な画家が多く活躍しました。

その一人曾我蕭白は、京都の商家に生まれますが父を早くに亡くして画業で身を立て、室町時代の画家曾我蛇足に私淑して曾我姓を名乗ります。


盛んに出版されるようになった版本の画譜を活用し、室町水墨画に学んだ復古的な作品を多く残していますが、巧みな技術に裏付けられた独特の作品世界は現代人をも魅了します。

濃淡の墨を駆使した蕭白の美しい「山水図」です。


雪梅雄鶏図 伊藤若冲筆 江戸18C 京都 両足院
19 雪梅雄鶏図有名な動植綵絵の直前の作品という若冲の
「雪梅雄鶏図」。

降り積もる雪の中、餌をついばむ鶏、梅の枝にとまる鶯。墨の色が白を引き立てて、雪が降り止んだ後のひっそりとした空気が漂っています。

羽根には貝殻を砕いた胡粉をほどこしてレースのような質感を出し、雪や梅の花と同じ白い色をたくみに描き分けています。
花やとさかの赤の使い方が利いていて、そのかもしだす
            画品には目を奪われます。
伊藤若冲は京都錦小路の青物問屋の長男、40歳で早々と弟に家督を譲り絵に打ち込みます。

これは丁度そのころの制作。若冲は狩野派や中国の模写に飽き足らず実物をスケッチしたいと数十羽の鶏を飼って庭に放ち、来る日も来る日もスケッチをしたことはよく知られています。

そしてこの独特の鶏は生み出されたのですが、トサカや脚、尾羽は丹念なだけではなく実に美しい。
こんなに美しく気高いニワトリがいるのでしょうか、その姿はまるで鳳凰のようです。


牧童吹笛図 長沢芦雪筆 江戸18C 京都 久昌院
19- 牧童吹笛図去年の夏の「夏目漱石の美術世界展」で、幽霊を描いた丸山応挙の弟子で、奇矯な表現を得意とした長沢櫨雪という画家を知りました。

小説「草枕」の中に引用されている切り立つ絶壁の頂上のこれ以上ないという奇怪な形相の山姥の立膝姿が忘れられません。
こんな美しくない絵をどうして描かなければいけないのかと思ったものです。
落款の下に「指で描いた」と見えましたが、指描きの限界があるとしても童子のまたがる牛は今にも解けてなくなりそうな液状化寸前です。

垂らした墨で、牛が今にも起き上がってきそうと解説されていたように思いますが、いやいやこれも実に奇奇怪怪、長沢櫨雪はこういう画家ということが分り、完成品でないのですが妙に印象に残っています。



涅槃図 中国清時代17C 長崎 春徳寺
20 涅槃図禅の寺に似合う水墨表現にすっかり目が慣れてしまっていたので、目の前に現れた鮮やかな色彩には惑うほどでした。

画面中央で大勢の弟子や菩薩に囲まれ最後の時を迎えた釈迦。



80歳で入滅したとされる表情は穏やかで、とりわけ鳥や獣までもが嘆き悲しみ集う様子を描いた涅槃図ですが、これは日本に伝わる他の絵とは少し違います。

一つは釈迦の母親摩耶夫人、普通は天から舞い降りてくる姿で描かれますがここでは釈迦の傍らに白い象と共にいます。

またその近くの白衣観音など本来涅槃図には登場しない姿や、様々の吉祥の意味を持つモチーフも描きこまれています。

画面下の岩にはつがいの鳳凰、その隣には長寿を表す鶴、他にも虎や獅子などとこうした表現は、17世紀以降中国の福建地方で描かれた仏画の伝統を踏まえているということです。

これは長崎にある建仁寺派のお寺春徳寺に伝来したもので中国にもあまり現存しない貴重な作品という解説でした。

大体に涅槃像は、80歳で入滅とは関係なくしみしわ一つない理想化された荘厳なお顔のお釈迦様の姿があります。

この涅槃図の前がはだけ頬杖をついた佇まいからは、周りの嘆き悲しみはどこへやら、やんちゃ小僧が悪戯に疲れて一寸一眠りをしているようにしか見えないのが劇画のようで思わず和まされました。

宗教画というのはたくさんの矛盾する課題が一枚の絵の中にいつも凝縮されているとあらためて思いますが、宗教の教えに添って鑑賞したときに矛盾が解かれていくのかもしれません。



小野 篁立像 院達作 江戸17C 京都六道珍皇寺
21 小野篁立像六道珍皇寺に伝わる小野篁像。

伝記に記された6尺2寸およそ188センチあったと言う身長を再現しています。

閻魔の元で冥界の裁判に携わる姿で、左右には地獄の役人も展示されていました。

篁の先祖は第一回の遣唐使小野妹子、篁も遣唐使の副使に任命されますが揉め事から参加せず、嵯峨上皇             の逆鱗に触れて島流しとなります。
しかし、才気溢れる篁は間もなく都に戻され、その権威に屈しない生き方は数々の伝説となって語り継がれていきます。

その一つが今昔物語の話。
若いころ篁が恩義を受けた大臣が病に倒れ地獄裁判を受けることになりますが、そこには何と閻魔に使える篁がいて弁護をしてくれたため大臣は生き返ることができたというのです。

夜な夜な地獄に降りては閻魔大王の副官を務めたという伝説の小野篁は、この世とあの世を自由に行き来する人知を超越した存在とされたのです。



古染付写花鳥文芋頭水指 奥田頴川作 江戸18〜19 京都 大中院
22 古染付写花鳥文芋頭水指白い肌に青が映える染付けの器。

中でも中国明代景徳鎮で創られた染付けの日本向け輸出品は古染と呼ばれます。

手本となった古染付は鮮やかな青が主流ですが、薄くくすんだ色は頴川ならではでのびのびとした絵には洒脱な味わいがあるとの解説。

縁の釉薬がはがれたわびた風情、乳白色に薄い青色が何とも日本人好みで魅力的です。

この水差しは江戸時代奥田頴川が古染付をまねて作ったお茶席用の水差しで、絵に漢詩が添えられている所など中国への憧れが強くあった時代を感じます。

若いころ建仁寺の塔頭清住院に暮らした頴川は、やがて家業の質屋を継ぎますが30歳半ばで隠居します。
実家の財力を背景に研究を重ね当時京都で流行していた中国趣味を取り入れ、ついに京都で始めて本格的な磁器の制作に成功します。彼の多くの作品はゆかりの建仁寺に伝来しているということです。



風神雷神図屏風  俵屋宗達筆 江戸17C 建仁寺23 俵屋宗達の国宝《風神雷神図屏風》建仁寺










日本絵画の至宝「風神雷神図屏風」、豪放な身振りながらユーモラスな表情。

左右の画面ぎりぎりに描かれた金の余白が天空の広がりを感じさせ、雲は墨をにじませた垂らしこみの技法。雲に銀泥を塗って柔らかい質感を加えているが、銀が年月を経て黒く変色しています。

銀色は時間が経つと変色することは分っていなかったのか、俵屋宗達からおよそ100年後の尾形光琳の同じく「風神雷神図」の雲の銀泥のおびただしい黒変には目を覆うものがありもったいないと思います。
この宗達の最高傑作はもと京都妙法寺に伝来していましたが、後に建仁寺に移ったとされています。

この絵には作者の落款がありません。しかし、大胆な構図や技法から江戸時代初め琳派という美の一大系譜を生み出した俵屋宗達であることは比べようもないということです。

絵の制作に当たり京都三十三間堂風神雷神図を見たとも北野天神縁起絵巻に登場する雷神を参考にしたともいわれていいます。

落款がなくても俵屋宗達以外比べようもない・・・
」、
昭和の書聖日比野五鳳の「ひよこ」にも落款がないことを思い出します。

当時書道会の第一人者であった鈴木翠軒
このような書は、あなただけしか書けないのだから落款はいらないのではないか
との助言に従ったからという話は語り継がれていますが、翠軒先生はこの風神雷神図屏風に基づかれての助言だったのでしょうか、興味深いことです。



大いなるかな心や。

天の高きは極むべからず。
しかるに心は天の上に出づ。

地の厚きは測るべからず。
しかるに心は地の下に出づ。

日月の光は踰ゆるべからず。
しかるに心は日月光明の表に出づ。

大千紗界は窮むべからず。
しかるに心は大千紗界の外に出づ。

云々大いなるかな心や


なんと心は大いなるものか。

天の高さは極めることが出来ないほど高い。
けれど心はその高さをも超えることができる。

地の厚さは測ることができないほど厚い。
けれど心はその下に出ることもできる。

日月の光は越えることができないほど速い。
けれど心はその光を越えることもできる。

星の数や海岸の砂は数えることができないほど多い。
けれど心はそのすべてをとらえることができる。

人間の心は本来自由で大らかなものである。


あらゆるものを考えられるし、あらゆることができる。それを不自由にしているのは自分自身である。
禅こそは国を護ることができると説いた興禅護国論の序文を謳うガイドの声がまだ残っています。



ご参考
京都三十三間堂 風神雷神像          北野天神縁起絵巻
京都33間堂 風神雷神像北野天神縁起絵巻










曽我蕭白の雲龍図
曽我蕭白の雲龍図













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