火(ホ)と「ニワ」と鍋釜

庭を造るという現場から体験したこと、そして「人はなぜ庭を造るのか?」考え続けてきたことなどを、ぼちぼち綴るブログ。 等ブログの履歴などの情報は、最下部にあります。

火はホと読む。「ニワ」は庭と漢字で書かずカタカナで書く。鍋釜は漢字。
火は唯一人だけが制御できるエネルギー。「ニワ」は人としての基盤。鍋釜は人の食の道具。
一見、脈絡のない言葉がつながる。

「淡路島を取り巻く六芒星」は、古くから知られていた。

上森三郎」さんも「淡路島を取り巻く六芒星」の存在を指摘していたが、旧来の説に対して上森説は、ほんの少し西にずれる。

六芒星の各頂点に付いて詳しくは確認していないが、その中心が氣に成って、「その中心を探しに行こう!」と上森さんに提案した。

提案したのは2012年の12月頃だったと思う。

2013年1月3日にまず行ったのは「油谷山」という山だった。(「淡路島・油谷山で見つけた不思議な石」参照)

苦労して登った「油谷山」だったが、何と無く違うという氣がして、再度上森さんに六芒星の中心を探ってもらった。

そして同年の2月3日にその山に登った。(「淡路島を取り囲む六芒星の中心・勾玉山」参照)

その山の形は「勾玉」のようだった。

勾玉山衛星画像
(「淡路島の勾玉山再訪」よりコピー)

「五芒星」の存在も聞いていた。

京都を取り囲むものや、奈良を取り囲むものがあるらしい。

聞いてはいたが、あまり興味を示していなかった。

大倭神宮の場-4 繋がった空海と竜神」を書いた時、このブログをリンクしているFacebookに読者から、「大倭神宮は、近畿の五芒星の中央に位置します。以下略」というコメントをいただいた。

それで、「五芒星」が俄然氣に成った。

ネット上で検索して見ると、結構沢山出てくる。

【驚きの発見!】ここを結ぶと“五芒星”全国各地の守護魔法陣」には沢山纏められている。

「奈良を取り巻く五芒星」代表的なのは、

これ。(「日本有数の五大パワースポットを線で繋いでみた…」よりコピー)

五ケ所の頂点は、

・伊弉諾神宮
・熊野本宮大社
・伊勢神宮内宮
・元伊勢内宮
・伊吹山

僕も「地理院地図」でポイントして繋いでみた。

09-14-5
厳密に見ると「正五角形の五芒星」ではなく、やや歪。

特に「伊吹山」が遠くずれている。

したがって中心部もやや東にずれる。

内側の五角形を拡大してみると、

09-14-6
「伊吹山」がやや遠いので、歪がよく分かる。

この歪を解消すれば、「大倭神宮」はほぼ「五芒星の中心」に収まっているといえるかもしれない。

面白いのは、「伊邪那岐神宮」と「伊吹山」を結ぶライン」。

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鎌倉時代に移された「御所」真上を通る。

「二条城」をかすめて通っているので、「平安京遷都」当時の「大極殿」もこのライン近くに在ったことになる。

「平安京」は、北の「船岡山の磐座」と南の京田辺の「神南備山(カンナビヤマ)」の南北ラインを軸線にして造営されたとか。

これは、北の「内宮の磐座」と南の「八禰宜山」を南北軸線を元に遷宮する「内宮」の造営と同じ。

このように、磐座や山は、重要施設の位置を決める上でも、基準ポイントになっている。

さらにそれに加えて、歴史的にも重要な聖地を結ぶレイラインも重要視されているように思われる。

「大倭神宮の磐座」は、正確に南北を示している。

IMG_9222
「大倭神宮の磐座」。(「大倭神宮の場-4 繋がった空海と竜神」よりコピー)

この南北ラインを元に、引いたレイランにに付いては、「大倭神宮の場-4 繋がった空海と竜神」に書いたが、「二条城」の南側に在る「神泉苑の善女龍王社」の真上を通る。

この「神泉苑の池」は「元の御所の庭園」であったらしい。

当時、御所内の庭園であったこの場所で、「空海」が雨乞いをするために「善女龍王」を祀った意義は、「大倭神宮の磐座」と南北ラインで繋ぐ上でも重要な事であったと思う。

「大倭神宮の磐座」の南北ラインと「五芒星」のレイラインの組み合わせはかなり面白い。

しかし、「五芒星」が多少歪でいるとしても、「大倭神宮の磐座」の位置が、中心よりやや西にづれているのが氣にかかる。

それで、中心付近に目立ったものがないか調べてみた。

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探ってみると、そこには「平城宮蹟」に復元されている「第一次大極殿」が在った。

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赤丸ポイントが、復元された「第一次大極殿」。

現在「平城宮蹟歴史公園」として整備されていて、それが地図にも反映されているので分かり易い。

北側には、天皇陵も多い。

平城京」についての解説(ウイキペディアより)

藤原京から平城京への遷都は文武天皇在世中の707年(慶雲4年)に審議が始まり、708年(和銅元年)には元明天皇により遷都の詔が出された。しかし、710年(和銅3年)3月10日 (旧暦)に遷都された時には、内裏と大極殿、その他の官舎が整備された程度と考えられており[1]、寺院や邸宅は、山城国の長岡京に遷都するまでの間に、段階的に造営されていったと考えられている。恭仁京や難波京への遷都によって平城京は一時的に放棄されるが、745年(天平17年)には、再び平城京に遷都され、その後784年(延暦3年)、長岡京に遷都されるまで政治の中心地であった。山城国に遷都したのちは南都(なんと)とも呼ばれた。

「平城京」が造営された頃には、「五芒星」の各ポイントは特定されていた。

それらのポイントを基準としたかどうかは、勿論分からないが、そのほぼ中心に「平城京の大極殿」が位置しているのは、驚異に感じる。

「大倭神宮伝承の紀」に書かれている祭神、

・奇稲田日女命(クシイナダヒメノミコト)の終焉の霊地
亦の名、櫛名田比売(クシナダヒメ)、歳徳玉女神(トシトクギョクニョシン)。

・建速須佐緒命(タケハヤスサノオノミコト)の因縁の霊地
亦の名、牛頭天王。

・奇玉饒速日命(クシタマニギハヤヒノミコト)の降誕の聖地
亦の名、大国主命(オオクニヌシ)、天照国照彦火明命(アマテルクニテルヒコホアケノミコト)、大物主命(オオモノヌシ)、及び、天火明命(アメノホアケノミコト)とも言い、右の建速須佐緒命を父とし奇稲田日女命を母として、この大倭祖神の霊地にて降誕された。
後世、この命の徳を讃えて多くの別名が出来たのである。

(「大倭神宮の場-2 磐座と祭神」よりコピー)

この祭神が、人として生きていた時代とすれば、歴史的にははるかに古く、「五芒星」の頂点に在る神社はまだ存在していなかったと思われる。

そこで、「大倭神宮の磐座」から「内宮の磐座」を半径に円を描き、その近辺の山にポイントを打って「五芒星」描いてみた。

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比較的綺麗な「五芒星」を描くことが出来た。

ほぼ中心部に「大倭神宮の磐座」。

東端は「内宮の磐座」。

南端は「熊野本宮大社」、これは同じ。

西端は「山王山」、この山頂に「山王神社」が鎮座し、磐座群が在る。

北西端は、福知山市と綾部市の間にある名も無い247mの山。

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周辺に鳥居マークもあるので、一応この山にポイントを打ってみた。

同じライン上にある332.0mの三角点のある山も氣になるところ。

調べてみると「宮ヶ嶽」という山だった。

北東端は、米原市の281.3mの山で三角点がある。

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一応情報を探してみたが、何も得られなかった。

山は低いが、コンターラインを見ると、結構綺麗な山ではないかと思う。

このような「五芒星」を地図上に描くことによって、何が見つかるだろうか?

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北の交点は現在の「御所」が在り、ライン上に「二条城」が在るのは、何と無く示唆的と思われる。

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「飛鳥京」~「平安京」に至る国の祭政の中心は、この「五芒星の内の五角形」の範囲か近辺であったことが分かる。

そしてその中心が「大倭神宮」。

「大倭神宮」のこの場所は、2000年あるいはもっと長く秘められた場所であったらしい。

明治になってから四代にわたって祟り、「矢追日聖(ヤオイニッショウ)」師の代になって、やっと祀り、終戦直後、宗教法人化して公にしてきたようだ。

僕にはまだまだ分けの分からないことばかりだが、この場になぜか惹かれ、この場に立った。

少しわかることは、「真実は隠されて来た!」という事。

「上森三郎」さんも同じで、秘められた真実を表に出そうとしている。

僕も同じで、文献は時の為政者の都合で、改竄されることもしばしばだけど、山や磐座などの神聖なポイントは動かないし、土地の記憶もありそうに思えてきた。それを端的に今に示す樹木にも氣づき始めている。

まだまだやらねばならないことがあるようだ。

つづく

「大倭神宮(オオヤマトカミノミヤ)」からいろいろ触発されている。

「大倭神宮」の東西・南北の繋がりに付いて、「大倭神宮の場-4 繋がった空海と竜神」に書いた。

さらに気になったのが、8月29日誘われるようにして行った「稲倉神社」。(「生駒の八大龍王と稲倉神社の磐座-2 驚異の稲倉神社の磐座」参照)。

「稲倉神社」と「大倭神宮」を繋ぐラインがどこを示唆しているか、「地理院地図」上で探ってみた。

ほぼ南東方向に伸びるラインを辿ってみると、宇陀市の「伊那佐山」に至った。

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地図上の「稲倉神社」→「大倭神宮」→「伊那佐山」の繋がり。

「伊那佐山」が気になりだしたのは、「上森三郎」さん達と、同じく宇陀に在る「三郎岳」に登ったのが切っ掛けだった。

2016年11月6日に「三郎岳」に登っている。(「宇陀市の三郎岳はピラミッドか?」参照)

そして「なぜか気になる伊那佐山」を書いた。

そして11月13日に一人で「伊那佐山」に登った。(「宇陀の伊那佐山にはやはり巨石・磐座が-1 山腹」、「
宇陀の伊那佐山にはやはり巨石・磐座が-2 山頂」、「宇陀の伊那佐山にはやはり巨石・磐座が-3 稜線参照)

その後も「伊那佐山」は気になる存在で、いろんなレイラインで繋がることを見つけている。(「上島-11 思わぬ繋がり」、「八禰宜山の壷のレイライン」参照)

つまり「伊那佐山」は、極めて重要ポイントであることが、レイラインからも分かる。

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「伊那佐山」の山頂にポイントを打ち、

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「稲倉神社」にもポイントを打ち、両ポイントを繋ぐ。

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「大倭神宮の磐座」にドンピシャとまでは行かないが、「大倭神宮」の敷地内をラインが通る。

このようなラインがどのような意味を持つのかと訊ねられても、適切に答えるのは難しい。

しかし、地図上での繋がり、つまりレイラインは極めて重要だと思っている。

その繋がりから、次々と発見が現実に出来ている。

「上森三郎」さんは、直線だけではなく、三角法を用いて、重要ポイントを次々に見つけ出している。

それは、過去の文献も記されていない場所ではあるが、その場に行くと、その場所が特別な聖地であると感じる事が出来、多くの場所の近辺で磐座も見つけている。

隠された重要な聖地を再発見する手段として、地図上のレイラインは極めて有効なのだ。

現在では極めて精度の高い地図をインターネット上で扱うことが出来るのだが、かつて超古代人や、特別な能力を持った聖人には、いとも簡単に、そういうレイラインを繋げる能力があったのではないかと、常々思っている。

もう一点加えておかねばならないことがある。

それは「神武東征」との関わり。

「伊那佐山」山頂には「都賀那岐神社(ツガナキジンジャ)」が鎮座。

標高637.2mの伊那佐山頂に鎮座。御祭神は頬那芸神・高龗神。由緒等は詳かではないが、古代から祭祀があったとされる。江戸時代「貴船神社」と称し、近年まで日照りが続く際には伊那佐山麓の農家は雨乞いに参詣していた。神明造りの本殿の横には古事記に由来する古歌を刻んだ歌碑がある。

このような解説を見つけたが、祭神に付いてはよく分からない。

さらに「八咫烏神社 週刊ねぎ生活」と言うブログの「伊那佐山・都賀那岐神社のご祭神」に興味深いことが書かれている。

それは古事記の中にありました。
イザナギとイザナミの神が国土を生成されたあと、
自然界を司る神々(石・土・海水・河水etc)も生成されたのですが、
その神の一柱に頬那芸神(ツラナギノカミ)がいらっしゃいました。
岩波文庫の『古事記』では
「水面が凪ぐことと波立つこととの神格化であろう」
と解説されています。
水流を司る神といったところでしょうか。

以下略。(興味ある方はリンク参照)

八咫烏神社」の鳥居のど真ん中に「伊那佐山」がおさまる。

P1210547
ということは、「八咫烏神社」は「伊那佐山」遥拝所でもある。(
宇陀の伊那佐山にはやはり巨石・磐座が-1 山腹」よりコピー)

「伊那佐山」山頂には「神武天皇の歌碑」がある。

P1210636
宇陀の伊那佐山にはやはり巨石・磐座が-2 山頂」よりコピー)

同ブログより、参考解説を再度掲載しておく。

伊那佐山は神武東征の偵察陣地があった所で、『日本書紀』神武天皇即位前紀戌午年11月7日条には次の久米歌で歌われたとされている。 
盾並めて 伊那佐の山の 木の間ゆも い行き守らひ 戦へば 我はや飢ぬ 嶋つ鳥 鵜飼が伴 今助けに来ね 
意味は、「盾を並べて伊那佐山の木の間より敵を見張りながら戦ったので我らは飢えている。嶋つ鳥(鵜にかかる枕詞)鵜飼が伴(奈良県五條市の東部、吉野川沿いで鵜飼をする民)今すぐ助けに来い」である。つまり、イワレヒコが東征の際この地に至って鵜飼いをしていた人に食べ物を持ってきて欲しいと要望する内容である。

(リンク先の「標高637.2mの伊那佐山の山頂に都賀那岐神社」とは現在繋がらないようだ)

またこの歌に係わるこのような記事も見つけた「神武天皇の「鵜飼いが友」の歌の舞台は奈良ではなく鳥取県北栄町であった」。

「猿田彦」も出て来て興味深いが、ここではコピーしない。
いろんな考え方があるものだ。(興味ある方はリンク参照)

「大倭神宮」には、「神武天皇」すなわち「神倭磐余彦尊(カンヤマトイワレヒコノミコト)」もかかわって来る。(「大倭神宮」の場-2 磐座と祭神」参照)

「古事記」や「日本書紀」あるいは「ホツマツタエ」の記述とは異なるが、このような中に真実が隠されているように思う。

このような繋がりをどう見るか、まだまだ分からないことばかり。

つづく

「大倭神宮(オオヤマトカミノミヤ)」の磐座」をiPhone6で撮ると、その位置情報も記録される。

付近の環境や天候によって、GPS精度に影響は出るが、精度はかなり高く、半径5mの以内の誤差だから、通常の使用にはほとんど問題ない。

IMG_9222
位置情報は撮影場所なので、対象の磐座とはすでに5m位の誤差はあるかもしれない。

位置情報
N34°40’40.94”  E135°44’52.90”  高度94.0m

「地輪地図」には位置情報表示機能があるので、この位置情報を地図上に落としてみる。

09-8-2
それがこれ。

紺色のラインは東西を現し、赤色のラインは南北を表している。

紺色のラインの西側は、「生駒山」山頂付近であることは分かっていたが、地図上に同緯度をポイントする。

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8月27日に行った「八大龍王・総本山・龍光寺」の「龍王堂」の少し下側を通る。

そこには「小桜龍王」が祀られた池が在る。

L1150315
(「生駒の八大龍王と稲倉神社の磐座-1 八大龍王の磐座」よりコピー)

この池には、興味深い伝承がある。

由来(当山由来記より)

標高642M、生駒山山頂に今を去る一千百有余年、弘法大師勅を奉じ高野山開創の砌り、河内の国額田郷(東大阪市 石切)に於て心身潔斉し、はるか東方を見るに八大龍王の霊感を受け山頂を尋ねるに、清水の流出を見られ白水山と名付ける給ふ。(現在の当山)

早害瘻々にして村々の稲田の枯死すること両三度、弘法大師この地に八大龍王を勧請し請雨の大法を修し給う。

霊雨忽にして至り野山の草木皆その法沢の浴し、爾来今日に至るも
清水を噴出、如何なる早天と雖も霊水の絶えることなく里人様々なその徳を慕いて「弘法の井戸」と称しその跡を残す―

(「生駒の八大龍王と稲倉神社の磐座-1 八大龍王の磐座」よりコピー)

弘法大師・空海」がこの場所で雨乞いをしたという。

この「弘法の井戸」と言われ「小桜龍王」を祀るこの池は、「生駒山」山頂直下に在るにもかかわらず、「1200年らい涸れたことがない!」と当日あった住職も言っていた。

「大倭神宮の磐座」は北方を指しているので、経度から真北に何が在るのか調べてみた。

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「弘法大師・空海」開基の「東寺」を通る。

南北に並ぶ南大門・金堂。講堂・食堂のすぐ東側をラインは通る。

さらに北に追って行くと、

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二条城」に至る。

「二条城」の真南に池が在り「神泉苑」と記されている。

まだ意識して行ったことがない場所だ。

ウイキペディアには、

延暦13年(794年)の平安京遷都とほぼ同時期に、当時の大内裏の南に接する地に造営された禁苑であった。もともとここにあった古京都湖(古山城湖)の名残の池沢を庭園に整備したものと考えられ、当初の敷地は二条通から三条通まで、南北約500メートル、東西約240メートルに及ぶ、池を中心とした大庭園であった。

と記されていて、元々天皇のための庭園だったようだ。

また、

季節を問わずまたどんな日照りの年にも涸れることのない神泉苑の池には竜神(善女竜王)が住むといわれ、天長元年(824年)に西寺の守敏と東寺の空海が祈雨の法を競い、天竺の無熱池から善女竜王を勧請し空海が勝った。また空海以降も密教僧による雨乞いが何度も行われている。

この「神泉苑」でも、「空海」は雨乞をしている。

「神泉苑」にある鳥居マークは「善女龍王社」で勿論「善女龍王」を祀る。

ウイキペディアには、

八大竜王の一尊、沙掲羅龍王(しゃかつらりゅうおう)の三女で神泉苑、金剛峯寺などで鎮守社に祀られている。醍醐寺に鎮守として祀られる「清瀧権現」と同一視される他、同じ沙掲羅龍王の第三王女とされる方位神「歳徳神」とも関係が深い(蘇民将来伝説では牛頭天王が竜宮まで赴き、娑竭羅龍王の娘「婆梨妻女」を娶る話となっている。中世以降は牛頭天王とスサノオと陰陽道の方位神が習合・同一視され、結果的に牛頭天王の后「婆梨妻女」=歳徳神=櫛稲田姫とみなされる事もあった(異説もあり))。神泉苑では善女龍王社のすぐそばの恵方社に歳徳神が祀られている。

と記され、「歳徳神」と関係が深く、牛頭天王の后「婆梨妻女」=歳徳神=櫛稲田姫とみなされる事もあった(異説もあり)、は興味深い。

何故なれば、「大倭神宮伝承の紀」には、

・奇稲田日女命(クシイナダヒメノミコト)の終焉の霊地
亦の名、櫛名田比売(クシナダヒメ)、歳徳玉女神(トシトクギョクニョシン)。

・建速須佐緒命(タケハヤスサノオノミコト)の因縁の霊地
亦の名、牛頭天王。

と書かれているからだ。(「大倭神宮の場-1 磐座と祭神」参照)

「大倭神宮の磐座」と「神泉苑の善女龍王社」が、ピッタリと南北に並ぶ。

「大倭神宮伝承の紀」を信ずるなら、当然「大倭神宮」の地の方が「神泉苑」いや「平安京」より、はるかに古い。

「空海」が雨乞をしたという二ヵ所の場所が、「大倭神宮の磐座」と東西あるいは南北に並ぶのは、偶然とも思えない。

「弘法大師・空海」が、「大倭神宮の場」を重要な聖地として認識していたのであろうか?

矢追日聖著 「やわらぎの黙示」と「ながそねの息吹」を読んでいるが、今のところ「空海」の記述は見当たらない。

出てくるのは「日蓮」ばかり。

また、「善女龍王」を祀る祠が「甲山・神呪寺」に在るのも興味深い。

IMG_5563
(「甲山の磐座」よりコピー)

「甲山・神呪寺」は大いに「弘法大師・空海」と縁が深い。

幕に染め抜かれた「三つ鱗紋」が氣に成るところ。

つづく

GARDENING研究会2018年9月定例会ご案内
                      2018年9月10日
                        武部正俊


日時  2018年9月16日 11時より17時
会場  河南町やまなみホール(大阪府南河内郡河南町大字白木1387番地TEL0721-93-6222)
昼食費 1,100円
随時参加者会費 2,000円
申し込みは9月14日までにお願いします。
TEL 090-2599-7367 
FAX 072-290-2813
E-mail  omtakebe@sakai.zaq.ne.jp


今年の近畿地方は、災害の多い年となってしまいました。
地震から始まり、豪雨、そして三度の台風襲来。特に台風21号は猛烈な風が吹きました。場所によっては樹木が折れたり倒れたりで、大変な事態になりました。街路樹や公園樹木も大きな被害が出ていますが、個人庭園でも樹木の損傷が多く、その後始末に今も走り回っています。ところがまた長雨と、難儀なことが続きますが、それに対処してやって行かねばなりません。

テーマ1・・武部は何故、庭を造って来たのか?-オフロードレース・・・武部正俊
武部は30代中頃に、四輪駆動車いわゆる4WDや四駆と呼ばれている車を買いました。最初に買ったのが、スバル・レオーネ・ライトバンの4WDでした。当時はまだ珍しい車でした。
これを買ったのが切っ掛けで、オフロード・レースに参加するようになりました。
まるで作庭・造園には無関係のように思えますが、僕にとって仕事をして行く上でも大いに関係がありました。何故か?一つは、集中力!さらに、センス!そのようなところを話してみます。

テーマ2・・台風で折れたり倒れた木々の観察から・・・武部正俊
先の台風21号では猛烈な風が吹きました、身近でも沢山被害が出ました。
つぶさに観察し記録を取ったわけではありませんが、折れたり倒れたりした樹木にはそれなりの理由があったように思われます。なぜそのように成ったかを考え、これからの対策に付いても考えてみます。

テーマ3・・その他の新作発表、その他もろもろ・・・発表者数名
先月の荻野さんの素晴らしい新作発表から、若手会員の発表を募りましたところ、数名手を上げてくれました。
人前で発表することによって、プレゼンテーション能力だけではなく、実作業でも確実にスキルアップできます。


案内は武部正俊のブログやフェイスブックでも公開しています。随時参加も可能です。
随時参加費は2,000円とします。 


「大倭神宮(オオヤマトカミノミヤ)」の中心に祭られた磐座の左手にも鳥居があり、その先に「生駒石」で囲われた小さな石の角柱が祀られている。

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角柱の最上部のに、「鉢巻」のような注連縄が巻かれている。

「鉢巻状の注連縄」がずり落ちないように、棕櫚縄が十文字に取り付けられている。

真上からの撮影をしていなかったので、この写真をアップしてみる。

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素材は違うものの、形態は「輪注連縄」とそっくり。

「輪注連縄」に付いては、当ブログではまだ紹介していないが、このところ気になるシンボルでもある。

「輪注連縄」は伊勢・二見の「二見興玉神社」に沢山積んで置かれている。

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(画像は「なべさんの中国情報」というブログの「お伊勢さん125社 二見めぐり その4」よりコピー)

同ブログには、このような解説もされている。

この輪注連縄は、筑紫申真著 「アマテラスの誕生」によると、
 
「二見興玉神社は、後世にほかの場所から移して建てられたもので、江戸時代にはなかったのです。そのかわりに、そこには神木である一本のサカキがあり、その木にはしめなわを円形に巻いた"輪じめなわ"の大型のものがかけてありました。この垢離かき場は二見の浦の江村の経営であったので、いまでも村の会所には、そのような"輪じめなわ"をかけた神木の描かれた垢離かき場の絵図が残されています。
 しめなわを丸くむすんでサカキにかけるとは、なんという素朴な太陽のシンボルでしょう。海の彼方から、太陽船に乗ってこの清なぎさにおとずれてくる太陽のたましいは、二見の浦の巫女にカミがかりして、「この輪じめなわを私と思ってまつれ」といったかもしれません。いまでも二見興玉神社では、参詣者のもとめに応じて、小型の輪じめなわを与えています。人びとが個人的にこの小型の輪じめなわを購って、神前に捧げている姿をみかけることができます。この二見の輪じめなわが、神島のグミの木でつくった日輪とおなじように、太陽のシンボルであることは、一見して判断できるといわなければなりません。神島の場合は村の共同祭祀の目標となったのに対して、ここでは個人祭祀の手段にされているだけの違いはありますが、そのシンボルとしての意味はおなじです。参宮客が、垢離をかくことによって太陽の若々しいスピリットをじぶんの身に分け与えられることをねがうための、祈りのシンボルであったのでした。」

とある。

この参考文からも察しがつくように、元々「二見」には「二見興玉神社」は無く、海中の磐座「興玉神石」やその背後の「富士山」を遥拝する場所であったようだ。

確かに「伊勢参宮名所図会」の第六巻の「二見浦」には、

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社殿は描かれていない。

参照文にある「この輪じめなわを私と思ってまつれ」の「輪注連縄」この絵には描かれていないので、現在の小型のと同形のものであったかどうかは分からない。

機会が在れば、江の会所にあると絵図を見てみたいものだ。

僕がこの「輪注連縄」を初めて知ったのは、2017年1月11日、カタカムナ研究家「吉野信子」さん率いる一連の神事で伊勢に行った時だった。

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これを見て即座に思ったのは「カタカムナ図象」。(2017年1月11日撮影)

通常は持ち帰るものではないようだが、200円を納めて当日泊まったホテルに持ち帰り、吉野さんにプレゼントした。

カタカムナ ウタヒ 第5首
この中心に在る「ヤタノカカミ」そっくりだと思ったからだ。(「吉野信子オフィシャルサイト」よりコピー)

当初、丸に十文字の「島津家の家紋」のような形だと思っていた。

だから、

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このような形で写真を撮っていた。(今年2018年7月1日撮影)

「輪注連縄」に付けられた「紙垂(シデ)」が気になる。

「紙垂」は通常下にぶら下がっているはず。

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正式の形は、このように成るはず。

するとこの形は、「丸」と「ペケ」。

「丸=正解・肯定」。

「ペケ=間違い・否定」。

形的には、相反するイメージが統合されている。

そこで閃いたのは、「丸とペケの統合」。

「正解・肯定」と「間違い・否定」も統合されていると。

それは「善・悪」の統合でもあると。

これを45°まわすと「丸十文字」になり、

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見た目のイメージはずいぶん変わる。

これを重ねてみると、

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結構面白い。

丸の輪に、「八つの交点」が出来る。

「カタカムナ文字」は、45°ずらした「輪注連縄」を二重に重ねる事によって出来るのではないかと!?

「カタカムナ文字」の直線は、垂直ないし水平で、斜めの線は無い。

45°で分割した八角形の交点が重要で、ペケで示される斜めの線を取り除く。

何故ならそれは「間違い・否定」を表すから。

「カタカムナ文字」は、大きな円と小さな円、そして垂直線と水平線で成り立っている。

そして八か所の大きい円上の交点が重要になって来る。

この二つ重ねた「輪注連縄」から「カタカムナ48文字」が作られると推理してみたが、どうだろうか?

カタカムナ48声音の思念(言霊)表 著作者:吉野 信子
(「吉野信子オフィシャルサイト→思念表」よりコピー)

また、「注連縄の原点は蛇」と捉えたのは、民族学者であり陰陽五行の研究家でもあった「吉野裕子」さん。

その著書「蛇(ものと人間の文化史32)」(法政大学出版局刊)、や「日本人の生死観-蛇転生する祖先神」(人文書院刊)に詳しい。

(また「ヘビの文化史/しめ縄も鏡餅も正体はヘビだった?」にも蛇にまつわる話が記載されているので、興味ある方はリンクを参考に)

注連縄が蛇とするならば、「輪注連縄」は「ウロボロス」。


ヘビは、脱皮して大きく成長するさまや、長期の飢餓状態にも耐える強い生命力などから、「死と再生」「不老不死」などの象徴とされる。そのヘビがみずからの尾を食べることで、始まりも終わりも無い完全なものとしての象徴的意味が備わった。
(ウイキペディアよりコピー)

「輪注連縄」は、始まりも終わりも無い完全なものとしての象徴的意味ともとれる。

その「輪注連縄」と同じデザインが、「大倭神宮」にも在ることが、シンクロニシティーと思えて、面白くかつ興味深い。

「大倭神宮」に興味を持ち行くきっかけになったのは、矢追日聖(ヤオイニッショウ)著「ことむけやはす二・ながそねの息吹」(野草社刊)だった。

興味深く読めたので「ことむけにやはす一・やわらぎの黙示」も購入した。

そのP74に、

神示

抱擁徳化(ホウヨウトッカ)、清濁併呑(セイダクヘイドン)の信念に生きよ

善悪は不二(フニ)である


と書かれている。

「善悪不二」は、僕の「輪注連縄」の解釈と同じ。

「二見興玉神社」の祭神は「猿田彦大神と宇迦御魂大神」。

「夫婦岩」は「興玉神石」の鳥居ともされる。

興玉神石(おきたましんせき)は、三重県伊勢市二見町江、立石崎の北東650mの沖合[1]に鎮座する二見興玉神社の祭神猿田彦大神縁りの霊石である。猿田彦大神の化身とも、天孫降臨の際に猿田彦大神が立たれたとも伝わる。『勢陽五鈴遺響』によれば、石名の「興玉」とは、海中の神霊を意味する「澳魂」(おきたま)を意味する。

宝暦年間に発生した地震により、海中に沈んでいるため、肉眼で見る事は出来ないが、1960年のチリ地震による津波で水が引いた際に一時的に姿を現した[1]。石の大きさは東西216m×南北108mである。
ウイキペディアよりコピー

「夫婦岩」と「興玉神石」の海を隔てた向こうに「富士山」が在り、「夏至の日の出ライン」でもある。

「猿田彦大神」は、太陽神でもあり富士山の神でもあると解釈できる。

そして「富士は不二」とも書く。

このところ特に気になるのが「猿田彦大神」。

「八衢(ヤチマタ)」の神ともされる。

ここでも「八」。

「八はヤー」で「ヤハウェ(YHVH)」にも繋がる。

「ながそねの息吹」の最後近くに、次のようなことが書かれている

そのあと猿田彦神社に行きました。猿田彦さん、あんた道案内したという伝説もあるけれども、ここはあんたの領域やったなあと、ところが横から天照がでてきて、軒貸したばっかりに母屋とられてしもうて、あんたつまらんのうって、そんなこと言って遊びに行ってきました。
ところがあそこの宮司さん佐田さんと言わはります。サルタヒコ、猿田彦と、猿なんて感じ書くもんやからサルと読むけれども、サルタヒコではなくサダヒコなんですよ、あそこは。サダヒコで、そこから代々続いている佐田家ですと言うてはりました。
そういうように伊勢というのは、軒貸して母屋とられたんですね。お気の毒にと、私は大倭から出てきたんやから、仲良うしましょうやと言うて、サダヒコさんのところに頭下げました。(P299)


この「矢追日聖」師の直感は、僕も同じ思いなので興味深い。

妄想が膨らむが・・・

つづく

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