火(ホ)と「ニワ」と鍋釜

庭を造るという現場から体験したこと、そして「人はなぜ庭を造るのか?」考え続けてきたことなどを、ぼちぼち綴るブログ。 等ブログの履歴などの情報は、最下部にあります。

火はホと読む。「ニワ」は庭と漢字で書かずカタカナで書く。鍋釜は漢字。
火は唯一人だけが制御できるエネルギー。「ニワ」は人としての基盤。鍋釜は人の食の道具。
一見、脈絡のない言葉がつながる。

2022年5月4日、「小西優子」さんと共に「伏見稲荷」に行った。

「伏見稲荷」に行くのは三度目だったが、今回は今までとずいぶん違う感覚を得たような気がしている。(「稲荷山と伏見稲荷大社」シリーズとして12編書いた)

このところ氣に成るのは、「伏見稲荷の社家」の一つ「荷田氏」が伝えるという「稲荷古伝」であった。

「ニノ峰」を少し降った所に鎮座する「荷田社」に勿論行った。

「荷田社」には荷田氏の祖先神とされる「荷田龍頭太(カダノリュウトウタ)」が祀られていると思っていたが、祀られていたのは「伊勢大神」だった。

この「伊勢大神」が「天照大神」では何と無く違和感なので、「猿田彦大神・申田彦大神」ではないかと感じたが、それで間違いないだろうと思う。
(「稲荷山と伏見稲荷大社-6 荷田社」参照)

「猿田彦大神・申田彦大神」と「龍頭太」という名前から閃いたのは、五島列島の「野崎島」の磐座「王位石」だった。

「野崎島」の「王位石」には、2021年3月13日に行った。

「王位石」に付いては勿論知っていたが、そう簡単には行けない憧れの磐座だった。

大分県在住の「猿田彦」こと「横山航宣」さんが、「王位石」探索の企画をしてくれた。

「行きたいけれど!」と迷いの連絡をすると、「是非参加してください!」との強い誘いをいただいたので、参加した。

集まったのは強い個性の7名だった。(「五島列島・野崎島の王位石」シリーズ参照)

思い返しても、「王位石」に行って本当に良かったと思っている。

その「王位石」の足元に「龍の石」と名付けられた石が在り、見方によっては「龍」にも「猿」にも見える。(「龍の石」に付いては「五島列島の野崎島の王位石-17 王位石と龍の石」参照)

これが、「伏見稲荷」の「猿田彦大神」と「龍頭太」の閃きで、「伏見稲荷」の「雷石」と「王位石」を「地理院地図上」で繋いでみた。(「雷石」に付いては「稲荷山と伏見稲荷大社-11 長者社の雷石」参照)

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地理院地図」で「伏見稲荷の雷石」と「野崎島の王位石」を繋いだレイライン。

総延長は645km強と言う壮大なライン。

「伏見稲荷」の「一ノ峰」ではなく、「雷石」を繋ぐポイントにした。

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「稲荷山の神蹟」のどこと繋いでも、ラインが壮大なので、大差はないのだが、あえて「雷石」にした理由は後ほど述べる。

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「野崎島の王位石」のポイントの少し南側にも、素晴らしい巨石・磐座が在り、こちらが本体か?と思ったほどであるが、「野崎島」のポイントはやはり「王位石」にした。

このレイラインは、ピンポイントで、

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姫路沖の「家島諸島」の無人島である「上島」を通る。

「上島」は、小さな無人島であるにもかかわらず「大本」の「出口王仁三郎」は、大聖地としている。

この「上島」も行くのが困難な場所だが、2016年6月21日(夏至)に行っている。

企画したのは、カタカムナ研究家の「吉野信子」さんで、総勢6名で、男は僕だけだった。

吉野さんには、大きな目的があったようだったが、その時はその目的にが何であったのか知らなかった。

2013年12月8日に、これも滅多に行けない家島諸島「西島」の「頂ノ岩・コウナイの石」に行っている。(「家島群島の磐座」参照)

家島群島の磐座」の中で、「上島は精子」だと書いている。

そして、「上島」に「石の神」と呼ばれている「人面岩」の存在も知った。

2016年6月21日に「上島」行った時、僕の密かな目的は、この「石の神」と対面することだった。

「吉野信子」さんによる神島での神事を終えて、桟橋まで降りてくると、干潮であった。(吉野さんは、次なる神事のために「上島」に正詩の石を取りに行ったのだった。)

「石の神」は海岸べりに在ることは、写真で確認していた。

それで、海岸べりの岩場をたどって、あてずっぽうに「石の神」を探した。

途中、岩場もあったので、たどり着けたのは3人だけだった。

その時の感動は「上島-04 神の嶋の石の神」に綴っている。

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巨大な「人面岩」で眼・鼻・口もハッキリあり、頭は三角形で「猿田彦」を思わせる。

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しかも、右眼から涙を流していた。(いずれも上島-04 神の嶋の石の神」よりコピー)

「播磨国風土記」には、

「神嶋。伊刀嶋の東にある。神嶋というわけは、この島の西の辺に石神がいる。形が仏像に似ている。だから、この像によって島の名前とした。
 この神の顔に、五色の玉がある。また、胸に流れる涙もあって、これも五色である。泣いているわけは、品太天皇の世に新羅の客人が日本にやってきた。そうして、この神の立派なのを見てたいへん珍しい玉と思い、石神の顔をくじり取り、その一つの瞳を掘り取った。神はそれで泣いている。そこで神は大きく怒り、暴風を起こして客の船を打ち壊した。」

と書かれているらしい。

この「上島」の位置は、

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「上森三郎」さんが言う神河町の太田ダムの南側に在る「イエス・キリストの陵墓」の真南に当たる。(「上島-07 その位置」参考)

稲荷神はイエス・キリスト」という説が根強くあるが、このレイライン的繋がりは俄然面白くなってきた。

更に「猿田彦はイエス・キリスト」という説もあるようだ。

話を「野崎島」に戻そう。

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「野崎島」の形は、まるで鼻の高い「猿田彦」の顔そっくりではないか。

「野崎島は猿田彦!」と直感したのは、

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「野崎島ビジターセンター」にあったこの写真からだった。(「五島列島・野崎島の王位石-9 野崎島の形」よりコピー)

「伏見稲荷の雷石」と「野崎島の王位石」を「地理院地図」状で繋いだレイラインは、「上島の石の神」のすぐ傍を通る。

総延長645kmで「石の神」とレイラインの誤差はわずか30m弱なのだ。

この繋がり故に、「野崎島」は「猿田彦大神・申田彦大神」の島であるとの確信も持てる。

そして、「伏見稲荷」のポイントとして「長者の雷石」にしたのにも訳がある。

「王位石」すぐ南側に、地図で示したように巨石・磐座が在り、迫力のある「鹿子の木」が生えていた。

「王位石」に向かう道中、僕が目を凝らして探していたのが「鹿子の木」だった。

「鹿子の木は、聖地の証」とさえ思っているからだ。

そして出会ったのが、

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巨木というほどではないが、岩の上に生え、その姿は迫力に満ちていた。

「雷が落ちた」痕跡がありありだった。

幹は裂け、上部は吹き飛んでいるようだった。

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正に「鹿子の木は聖地の証」を示す貫禄であった。(いずれも「五島列島・野崎島の王位石-13 王位石へ-4巨石磐座と鹿子の木」よりコピー)

「野崎島」のレイラインポイントは、この「鹿子の木」ないしその上部の巨石・磐座でもよかったのだが、やっぱりシンボルである「王位石」にした。

「王位石」のすぐ傍にも、

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「鹿子の木」が生えていた。(いずれも「五島列島・野崎島の王位石-18 王位石と鹿子の木」よりコピー)

「雷石」はズバリ「雷」であり、「野崎島」の「鹿子の木」には「落雷」の痕跡がありありと残っている。

「雷」は「カミナリ」であり「神成」でもあると思う。

「雷」を「カタカムナの数霊」で見ると、

カ・・25・・チカラ

ミ・・   3・・実体・光

ナ・・14・・核・重要なモノ

リ・・   8・・離れる

数霊の合計は 25+3+14+8=50

一桁化すると5

5・・イ・・伝わるモノ・陰

で、連想ゲーム的に「イナリ」にも繋がって来る。

地図上にラインを引くことに何の意味があるのかと、疑問を持つ方も少なくないだろう。

今までに沢山のレイラインを引いてきたが、ラインを引くことによって、2点間以外のポイントにもヒットして、その関係性が見えてくることが少なくない。

また方位的な繋がりによっても、その関係性が見えてくる。

上森三郎」さんの方法は、「三角法」を用いるので、より明確な関係性が現れてくる。

僕はごく単純な「直線」、それでも多くの気付きが得られる。

そして面白い。

「面白い」は、生きて行く上で、極めて重要だと思う。

つまりそれは「イナリ」であり、それは「イ(伝わるモノ)=5・ナリ」であり。それは「生命成(イナリ)」でもある。

「伏見稲荷大社」から「稲荷山」まで登ると、興味深い場所が沢山あるが、あまりに多いので、この辺りで切り上げ、最後に「四ツ辻」を紹介したい。

「千本鳥居」を昇り降りすると合流する場所があり、そこを「四ツ辻」と呼んでいる。

ホッとする場所なので、茶屋もある。

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民家のような建物は茶屋。

この辺りは露岩で、北西方向に京都市内のほぼ全貌が見渡せる。

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このように見通しの効く場所は、信仰の山でも重要ポイントだと思われる。

しかも「京の都」のほぼ全域を見渡せるのだ。

このような場所は、「防衛」的にも極めて重要な拠点に成るはずで、京都を取り巻く山には、そのような重要ポイントとしての山がいくつも在る。

京都盆地を挟んだ対岸の山と、いくつかレイラインを引いてみたが、面白い場所を通る。

北西方向に在る信仰の山「愛宕山」と繋ぐとそのラインは、「秦氏」の拠点とも言える「広隆寺」を通る。

「伏見稲荷」と共に「秦氏」の重要神社としての「松尾大社」と繋ぐと、「東寺」の境内を通るので、「空海」との繋がりも見えてくる。

また、北方の「貴船山」と繋ぐと、「鴨川」と「高野川」合流点を通る。

このようなレイラインに付いては別項で考えるとして、ここで今シリーズは終了する。

「伏見稲荷大社」の本殿に付いてはまったく書かなかったが・・・

始めて「伏見稲荷大社」に行き、「稲荷山」まで登ったのは何時だったろうか?

急な思い付きで、カメラを持って行かなかったので、写真記録もない。

その時に強烈に印象に残ったのは、「長者社」の上部に在る、巨石・磐座だった。


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「長者社」の鳥居をくぐると、上部に磐座が見える。

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「御剱社」この社の中に「剱石」が在るらしいが、それは見えない。

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拝殿の後ろの注連縄を巻かれた石が「雷石(ライセキ)」。

「雷石」は「神成石」でもあるのだろう。

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「雷石」は、そそり立つメンヒル状。

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背後から。

傍らの石碑が氣に成って、アップしてみると「国照大神」と記されている。

調べてみると、面白い記事を見つけた。

天照大神は、高天原を治める神で、日本列島に在する神ではありません。
大国主は葦原中国(現在の福岡県北部の平野)を支配する地主神です。

大国主は、スサノオ(国照大神)に対する、日本列島の外交の窓口(宗主国)であり、高麗朝廷との交易を行っていたようです。

以下略(「天照国照****命という神様が西日本中心にわりと有名な神社に祭られてい... - Yahoo!知恵袋」よりコピー)

この人は、「国照大神」を「スサノオ」としている。

いろんな説があるのだろうが、面白い。

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横から。

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見下ろすと、この辺りは「お塚」の石もいっぱいで岩岩々。

始めて来た時は、この「雷岩」こそが「伏見稲荷大社」の本体だと、思ったほどだった。

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案内板には、

長者社神蹟(御剱社)
長者社神蹟は稲荷山七神蹟の一つです
謡曲「小鍛冶」で三条小鍛冶宗近が稲荷明神のご神助により名刀「小狐丸」を鍛えたと伝える由緒ある井戸があります
剱石また雷石と呼ばれ鉄鋼関係者などから篤い信仰を集めています


とある。

この説明では、「剱石」と「雷石」は同じともとれる。

「稲荷山と伏見稲荷大社-10 御膳谷の御饌石」でも参考にした「石神・磐座・磐境・奇岩・巨石と呼ばれるものの研究」の「伏見稲荷と稲荷山の岩石信仰」から、「長者社」神蹟の剱石と雷石」を参照してみる。

長者社神跡の剱石と雷石

御膳谷からさらに登ると、山頂近い山腹に「長者社神跡」がある。
長者社は伏見稲荷の司祭者である秦氏の祖神を祀った社で、ここはその最初の社があった神跡として伝えられている。

能楽の「小鍛冶」の舞台であり、「ここの土を焼刃に利用し刀を作れ」との神託を受けて名刀が完成したという鍛冶職人の聖地としても知られる。

長者社神跡には御剱社が鎮座しており、社殿内には「剱石(けんいし/つるぎいし)」という岩石がまつられているという。明治10年頃に剱石をまつるための社を新設し、昭和30年以降は社の門扉を閉ざしたままというので内部の剱石の姿を拝むことはできないが、その名が示すごとく剣に似た形状という。
先述の鍛冶伝説にちなみ、鍛冶・金物関連の霊験を持つ岩石として信仰されている。

京都新聞の取材(1998.11.7「岩石と語らう」33)では、剱石の姿を知る人によると、剱石は人の丈より高いもので、緑がかった剱状の岩だったらしい。
このことから、剱石は小石程度のものではなく、ある程度の規模の自然岩の周りを社で取り囲ったものだと類推される。

一方、剱石のある御剱社のすぐ裏には「雷石(らいせき)」と呼ばれる巨岩がそびえており、こちらはすぐに目がつく。自然岩盤から隆起した巨大な岩である。
こちらは目視できるので、この雷石を剱石と勘違いする方も多そうだが、両石は別のものなので注意されたい。

「現在は、剱石は社の中にあり、外からは雷石しか見ることができないため、雷石が剱石と誤って紹介されることもある。『しかし、そもそもの信仰は、雷石から始まったようです』と伏見稲荷大社宣揚部は話す。」(「岩石と語らう」33の記事より)

この雷石であるが、由緒書においても「長者社の神跡が残る霊地である」「古くからの神祭りの場と思われる」など、曖昧な説明にとどまっている。

唯一具体的な伝承として、享保17年(1732年)に編まれた『稲荷谷響記』の中に大略「古老が伝えるには、昔ここで激しい雷が落ち、神が呪文を唱えこの岩に雷を縛った(封じた)」という記述が載っている。
この記述から、雷岩がその名の通り雷に関係のある信仰を有していたことは異論のないところだろう。

雷が降臨したという部分を見ると、この岩は雷神の磐座のようなものと解されるが、一方で神がここに雷を縛った(封じた)という部分を見ると、爾来この岩には常に雷が宿っているということになり、現状としては常に石に神宿る状態にも見受けられる。
上記の点から、雷石は最初の1回目だけ遠地から神霊が岩石に降臨し、その後はそのままに岩石に常時宿る石神となった「一度きりの磐座→石神」パターンの事例ではないかと考えられる。

なお、山上伊豆母氏(帝塚山大学名誉教授)は、雷石以外にも稲荷信仰には雷に関わる情報が多いことを指摘し、稲荷山信仰の源流に雷神信仰があったのではないかという考えを述べている(山上1986年)。

剱石と雷石の関連については、先出の京都新聞の記事によれば、稲荷山を描いた最古の図「山上旧跡図」(1531年)には両石の存在が記されており、それぞれ共に中世にさかのぼりうる存在だったことがわかる。
また、伏見稲荷大社宣揚部の意見では、元々雷石と剱石は両者一体の岩石信仰だったものが、後に剱石だけ鍛冶伝説関連の岩石として独立したのだろうといった要旨の見解を述べている。

良く調べておられ、参考になるので、全文コピーさせていただいた。

この解説によると、雷が落ちたが故に「雷石」と呼ばれているようだが、「雷が落ちると稲が豊作になる」という言い伝えがあるので、何らかの繋がりがあるのかもしれない。

調べてみると、やっぱり出てくる。

雷で豊作になるから稲の妻と書いて「稲妻」

1・雷による肥料の効果
窒素は肥料の三大要素のひとつで、タンパク質を構成する要素です。 植物を大きく沢山育てるために欠かせない栄養であり、不足すると色が薄くなったり成長が遅くなったりします。

窒素は空気の8割を占めているとても身近な存在ではありますが、しかし植物は空気中の窒素をそのまま取り込める訳ではありません。 土中の窒素を微生物が分解することによって窒素化合物となり、植物はそれを活用しています。

空気中の窒素が土中に送られる代表的な現象が雷です。 雷による放電が起きると空気中の窒素分子が酸化して窒素酸化物となり、雨と一緒に地面に落ちてきて土壌に固定されます。 土壌の窒素は更に細菌の働きなどによって硝酸塩やアンモニウム塩となり、それを植物が吸収して栄養としています。

このように空気中の窒素分子が窒素化合物に変換される事を「窒素固定」と言います。 窒素固定は雷による放電の他、紫外線や空気の燃焼、一部の細菌の作用などによっても起きています。

高圧線の下なども雨が降ると電線が放電し雷と同じ作用が起きます。 雷がよく落ちる地域や高圧線の下で農業をすれば農作物がすくすく育つことでしょう。

2・神社のしめ縄は稲妻を表している
しめ縄が広まったのは室町時代ですが始まったのは縄文時代と言われています。 一説によると横向きの太縄は雲、下向きの細藁は雨、ギザギザの紙は稲妻を表し、しめ縄を神社に奉納する理由は豊作を祈願するためと言われています。

この説が正しいとすれば、縄文人は農作物の育成に雷が欠かせないことを経験則的に知っていたのでしょう。 特に肥料の概念がない時代の農作物の成長は自然任せだったので、雷の有無による成長の差は歴然だったことでしょう。

雷が落ちた周辺の農作物がやたらと育ち、それを見た人々が雷に何か神聖なものを感じ、しめ縄に雷を模した模様が組み込まれたのかもしれません。

しめ縄の由来は他にも諸説ありますが、私はこの稲作信仰説が一番しっくりきます。

3・漢字に見る農作物と雷の関連性

稲妻は「稲」の「妻」と書きます。 これは稲妻が稲をよく実らせる妻のように大事な存在であることに由来していると言われています。

なお「雷」の由来は農業とは無関係です。 雨と田の組み合わせなので一見すると農業と関連しているように見えますが、別の字が変化して簡略化されたものです。

稲作信仰においても豊作に関係しているのは稲妻と言われており、雷については特に言及されていません。

(「雷で豊作になるから稲の妻と書いて「稲妻」」よりコピー)

「稲荷山」から少し東側に、「大岩大神」と言う岸壁状の磐座が在ることに付いては、すでに書いた。

「稲荷山」の
「一ノ峰」、「ニノ峰」、「三ノ峰」にも磐座が在ったのかもしれないが、今は夥しい「お塚」で覆われてしまい、その存在の確認は難しい。

唯一ハッキリ磐座と分かるのは、この「雷石」のみのようだ。

古くからの「磐座祭祀」の形を残しているので、「稲荷信仰」が始まる前からの「磐座信仰」の場であったとも推測できる。

「雷と豊穣」が科学的にも関係があるようなので、稲作の普及と共に、「稲の豊穣を祈る場」としての「稲荷信仰」へと変革していったのかもしれない。

そればかりか、あらゆる産業を豊かにする神として崇められ、この場に庶民の願いが結集し、凄まじいばかりの「エネルギーの場」となったのかもしれないと思う。

その意味でもこの「雷石」は、「稲荷信仰」の中核にあるのかもしれない。

つづく

力松大神」のすぐ下に、

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天端の平たい石が二つ組み合わされたのが在った。

明らかに供物台で、この石は「御饌石(ミケイシ)」と言うらしい。

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「稲荷山の三神」に「御饌」を供える場所のようだ。

このような記事を見つけた、

御膳谷では神酒(みき)を斎土器(いみどき)七十枚に盛ってお供えします。斎土器は耳土器(みみがわらけ)とも。この後に、稲荷山の神蹟七ケ所の注連縄を懸け換える神事が行われます。(参拝日は一月九日で新しい注連縄のお山を見て回ってきました)

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大山祭「山上の儀」御饌石の上に中汲酒を盛った古式の齋土器を供進(写真は伏見稲荷大社HPより)
耳土器は福徳円満・商売繁盛のお守りで、特に酒造家では酒質を良くし、水質を澄ませる霊験があるとされ、1960年代ごろまでは、例祭後に奪い合う「かわらけ拾い」が勇壮に行われていたそうです。現在では、事前予約で希望者に土器引換券で頒布する制に変わっているとのこと。

この辺りは「御膳谷」と言うようだ。

磐座関連の記事として、「石神・磐座・磐境・奇岩・巨石と呼ばれるものの研究」の「伏見稲荷と稲荷山の岩石信仰」でも興味深い記事を見つけた。

御膳谷の御饌石

奥社から「三ッ辻」「四ッ辻」を経て、山をしばらく登っていくと「御膳谷」と呼ばれる谷に差し掛かる。この谷は、山頂の一の峰と二の峰の両方の尾根に挟まれて形成されており、奥社と同じように御膳谷も奉拝所の1つとされている。

御膳谷にある祈祷殿の裏に1体の平石が安置されている。これを御饌石といい、この石を用いて「山上の儀」という祭祀儀礼が今も執り行なわれている。

御饌石

具体的には、酒を注いだ素焼き土器70枚を御饌石の上に供え、神に生産豊穣を祈るという祭儀で、この内容は社殿建築以前の古態を伝える貴重な祭儀例として重要視されている。

この御饌石の機能を見てみると、石の上に供物を置くという供物台としての役割を担っている。
供物台は、神がその場所なら捧げ物を受け取れるということを示す、祭祀空間の中でも特別に「神に近い」空間でもある。
その意味で供物台として使われる岩石は、それ自体は磐座とは異なる役割の岩石だが、岩石のすぐ奥には信仰対象がいることを自明するという点において、祭祀空間の中でもほぼ神のテリトリーであることをあらわすものでもある。

ちなみに御饌石の前には、祭祀を行なう神職者専用の台座石が併設されている。こちらも「ここが神聖な行為をする人間だけに許された空間である」ということを示している。

磐座を客観的に見つめる視点もあり、共感できる。

「御饌石」を遥拝するような拝殿があり、扉が開いたので入ってみた。

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すると、若い神官らしい人が来て、「あんたらの入る所ではない!」と言われて、追い出されてしまった。

聊か気分悪しだったが、素直にその場を立ち去った。

つづく

「御膳谷」というところに、

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「力松大神」が祀られている。

これは気に成る。

何故なら、僕の父親の名前が「武部力松」だから。

ちなみにお爺さんの名前は「梅吉」。

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小さな赤い鳥居にも「力松大神」とか「力松大明神」と書かれているのがある。

調べてみたが、「力松大神」に付いては、殆ど分からなかった。

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近くに在る「奥村大神」。

これもよく分からない。

来る時、伏見の墓地に車を停めた。

狭い道をたどって「伏見稲荷大社」まで歩いたが、その途中で「武部」という姓の墓標をいくつか見た。

「武部」という姓は多そうで意外と少ない。

勿論、何の繋がりもないと思うが、伏見に「武部姓」を見て、少し驚いた。

つづく

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