火(ホ)と「ニワ」と鍋釜

庭を造るという現場から体験したこと、そして「人はなぜ庭を造るのか?」考え続けてきたことなどを、ぼちぼち綴るブログ。 等ブログの履歴などの情報は、最下部にあります。

火はホと読む。「ニワ」は庭と漢字で書かずカタカナで書く。鍋釜は漢字。
火は唯一人だけが制御できるエネルギー。「ニワ」は人としての基盤。鍋釜は人の食の道具。
一見、脈絡のない言葉がつながる。

2024年2月22日(木曜日)
第九回 222 金鳥山 カタカムナ祭」を開催します
2024年2月7日
武部正俊
2月22日」は近著山山頂の通称「狐塚」再発見の記念日です。
2019年2月22日」でした。「吉野信子カタカムナ研究会」のメンバーに
保久良神社と金鳥山への案内を頼まれて行った時のことでした。
金鳥山はピークらしい高みが無く、非常に分かり辛い山で、おまけに背丈ほどの笹が生い茂っていて見通しも効きません。
前年の「3月3日」に金鳥山山頂近くで一個の興味深い石を見つけていたのですが、大勢の目で周辺を見ると次々に石が見つかりました。
その時興味深い石組が見つかり「狐塚」と思われました。(その時の記録は「金鳥山とカタカムナ-1 金鳥山探索」参照)
その時は道具も持ってなかったので、本格的調査は、同年の「5月5日」に行いました。(その時の記録は「カタカムナと金鳥山-2 金鳥山の探索」参照)
そして「2019年11月1日」に「111 金鳥山 カタカムナ祭」を開催しました。(桜井陽子さんによるその時の記録は「
111金鳥山カタカムナ祭」参照。

その後も新たなルート開発なども行い「金鳥山 カタカムナ祭」も「第九回」を迎えることになりました。

今回も、周辺整備や新たなルート開発を行いたいと思っています。
気に成っている未開拓の金鳥山南尾根の探索を行いたいと思います。猛烈な笹薮が予想されます。(無理な方は、従来の階段コースを降ることも可能ですし、寅屋哲哉さん開発の南側斜面を降ることも可能です。)

金鳥山 カタカムナ祭」は毎回、武部正俊が「この指とまれ」形式で企画してきましたので、軽いハイキング程度の体力さえあればどなたでも参加出来まし、参加費も無料です。

それ故に、「自己責任」での参加をお願いします。

開催要領

開催日・・・・・・2024年2月22日・木曜日

待合せ場所・・・・阪急・岡本駅・南改札口前

待合せ時間・・・・10時

持参するもの・・・昼弁当飲み物(岡本駅隣のコープで買えます)、雨具手袋、鎌や鋏など(なくても問題ありません)

服装など・・・・・歩きやすい靴と服装

参加資格・・・・・・カタカムナや磐座に興味のある方、軽いハイキング程度ですがしっかり歩ける方で、自己責任で参加できる方

参加費用・・・・・・無料

コース・・・・・・・阪急岡本駅→岡本八幡神社→八幡谷経由で山の神の祠→八幡池(周辺の磐座整備)→金鳥山北西尾根経由で金鳥山(昼食・周辺整備)→金鳥山南尾根開拓(無理な方は階段ルートなどを降る)→十字架の木→保久良神社→尾根上の磐座広場→古墳(古墳に至るルートに散在する磐座周辺整備お行う)→岡本駅

加表明など・・・・当ブログのコメント欄、当ブログはFacebookでシェアしますのでFacebookのコメント欄、あるいはMessengerにコメントを。勿論参加表明無しで当日直接来ていただいても問題ありません。

遅れて来た場合の連絡・・10時には岡本駅を出発して岡本八幡神社に向かいます、遅れた場合は武部の携帯電話 090-2599-7367 にご連絡ください。

中止の連絡・・・・・天候の都合等で中止せざるを得ない場合は、当日早朝までに当ブログないしFacebookでお知らせします。
遠くからお越しの方で前泊されている方がおれば、武部の携帯電話 090-2599-7367 にご連絡ください。
武部は雨が降っても岡本駅に行きます。(雨で登山できない場合、集まった方達で懇親会を開く予定です)

下山後、JR本山駅近くだ直会を行う予定です(希望者のみ)。

Gardening研究会開催のご案内

2022年1月以来長らく休会していましたGardening研究会を久々に開催します。

日時 2024年2月11日(日曜日・建国記念日)  13時から17時まで

会場 河南町立中央公民館3階会議室 (大阪府南河内郡河南町大字白木1387番地)

会費 無料
 (庭に興味のある方ならプロ・アマ問わず、どなたでも参加出来ます)

弁当は用意していませんので、昼食は各自済ませて来てください。

作品発表 「HUKUTAKE TRES 時の庭」 荻野景観設計 荻野彰大
「HUKUTAKE TRES 時の庭」・「福武トレス」は岡山市北区の半田山の麓に出来た建築と庭が一体となって里山に溶け込むような複合施設です。
福武書店(現:ベネッセコーポレーション)の創業者・福武哲彦氏が「福武書店迎賓館・庭園」として、伝統的数寄屋造りと、雑木の庭の小形研三氏が造り上げた建築と庭の復元と共に、新たなコンセプトで造られた建築と庭が、一体となって半田山の山裾に溶け込んでいます。
迎賓館の庭は、小形研三氏の作庭精神を受け継いで、
「荻野景観設計の荻野彰大」さんらによって忠実に復元されています。元在った場所に戻された朝鮮の層塔も見ものです。
「Fギャラリー」として新たに建てられた建築は「武井誠+鍋島千恵・TNA」さんが設計し、「自然に溶け込む建築」がテーマでした。庭は「荻野景観設計の
荻野彰大」さんが中心となって設計施工されました。
建築は極めて特殊で、細い丸鋼を沢山使った柱と総ガラス張りの壁、宙に浮いた床、そして細長い不等辺三角形の複合によって成り立っています。
「自然に溶け込む建築」をテーマにしている通り、雑木と石組によって構成された庭と背景の里山とに溶け込んでいますが、その尖がった先端部は、ハッキリと建築の存在意思を示しています。
建築も庭も、極めて困難な工事であったろうと思われます。建築と庭が混然一体となているので、工程の擦り合わせが大変だったと思いますし、お互いの協力なくしては造りえないと思えます。その辺りの苦労話などもお聞きしたいと思います。
「福武トレス」に付いては「GA JAPAN 184号」、「庭NIWA №.254 2024春号」などに掲載されています。
また「
庭NIWA」の編集長沢田忍さんと荻野彰大との対談が「荻野彰大×澤田忍「創造の場となるオフィスの庭」 | 第7回 庭シンポジウム - YouTube」で見ることが出来ます。


講演 「作庭57年・庭とは?を追い求めて」 OM環境設計 武部正俊
武部は1943年(昭和18年)生まれで80歳になります。夜間大学に通っていた23歳の時に突然庭造りを始めることになりました。家業が造園でもなく、専門学校に行ったわけでもなく、誰かに師事したこともなかったので、当然のことながら何の知識も技術もなく興味もなかったのです。何故か何の知識も技術もないのに仕事だけは次々でした。仕事に応じて道具をそろえ、分からないことは本で調べたり、専門家に聞きに行ったりで何とか仕事をこなしていました。当時他にやりたいこともあったので、いつまでやるのかも曖昧のままでしたが、いつしかこの仕事が面白くなり、気が付けば57年もやっていて、「天職だった」と思えるようになっています。
何の知識も技術もなかったのですが、常に考えていたのは「庭とは何か?」「人はなぜ庭を造るのっか?」でした。まだ未だ結論には足してはいませんが、何と無く見えて来たこともあります。
庭造りはほぼ「我流」で、造りたいことを提案し、理解していただいて今までやって来ました。宣伝活動も営業活動も全くやっていませんが、何故か仕事が切れることもなく、大きな仕事もやらせていただきました。自分でも不思議です。
殆ど参考にならないかもしれませんが、終末に差し掛かった我が人生を話しながら「庭・ニワ」について考えてみたいと思います。
話の途中でも「突っ込み」や「質問」も大歓迎です。

多くの方の参加、期待しています。

2023年11月11日(土曜日)
第八回 11111111 金鳥山カタカムナ祭」を開催します
2023年10月29日
武部正俊

11のゾロ目」が続く月日が年に三回あります。1月1日、1月11日と11月11日です。

時間分まで入れると、11月11日は「11111111」となり、1つも繋がります。

この日を特別な日と感じて第八回目の「金鳥山カタカムナ祭」を企画しました。

11時過ぎには金鳥山の山頂に登り、11時11分の時刻になると、通称「狐塚」と呼ばれている「ホト型の磐座」を囲んで、カタカムナ 1首・4首・5首・6首・80首を奏上します。

12時前の「南中する太陽の光」が「ホト型の磐座」に差し込むのを観察します(天候次第ですが)。


奇しくも「金鳥山カタカムナ祭」も第八回目です。

」は「八咫鏡」・「八尺瓊勾玉」・「大八洲」・「八咫烏」などにも繋がる数です。

また「」は「カタカムナ48音思念表」によると「飽和する」です。

「飽和」とは「最大限の状態」を表していますので、その状態を「金鳥山」で味わってみましょう。

2023年6月22日、この「ホト型の磐座」に人一人しゃがみこめるぐらいの「穴」を掘りました。

その「穴」は「産道(参道)」でもありますので、その「穴」に入り出てくることによって、「生まれ変わり(蘇り)」を体感できます。

また「竜宮道場の寅ちゃん」こと「寅屋哲成」さんが、「金鳥山南斜面」の笹を刈り新しいルートを開拓してくれていますので、降りはそのルートを降ります。

金鳥山カタカムナ祭」は毎回、武部正俊が「この指とまれ」形式で企画してきましたので、軽いハイキング程度の体力さえあればどなたでも参加出来まし、参加費も無料です。

それ故に、「自己責任」での参加をお願いします。

なお武部は「金鳥山の謎を探る」と題してブログ「火(ホ)と「ニワ」と鍋釜」に、その想いと考えを書いています。興味があれば下記のリンクにアクセスしてみてください。

http://blog.livedoor.jp/omtakebe/archives/91576490.html


開催要領

開催日・・・・・・2023年11月11日・土曜日

待合せ場所・・・・阪急・岡本駅・南改札口前

待合せ時間・・・・9時30分

持参するもの・・・昼弁当と飲み物(岡本駅隣のコープで買えます)、雨具手袋、鎌や鋏など(なくても問題ありません)

服装など・・・・・歩きやすい靴と服装

参加資格・・・・・・カタカムナや磐座に興味のある方、軽いハイキング程度ですがしっかり歩ける方で、自己責任で参加できる方!

参加費用・・・・・・無料

コース・・・・・・・阪急岡本駅→保久良神社→金鳥山→11111111 カタカムナウタヒ奏上→南中する太陽を観察してから昼食→ミトロカヘシの沼往復→寅屋さん開拓の南側斜面を降る→保久良神社の磐座案内→十字架の木から巨石ルートを降り→岡本駅(コースの変更ありかも。希望者で懇親会開催予定)

参加表明など・・・・当ブログのコメント欄、当ブログはFacebookでシェアしますのでFacebookのコメント欄、あるいはMessengerにコメントを。勿論参加表明無しで当日直接来ていただいても問題ありません。

遅れて来た場合の連絡・・9時半には岡本駅を出発して保久良神社に向かいます、遅れた場合は武部の携帯電話 090-2599-7367 にご連絡ください。

中止の連絡・・・・・天候の都合等で中止せざるを得ない場合は、当日早朝までに当ブログないしFacebookでお知らせします。
遠くからお越しの方で前泊されている方がおれば、武部の携帯電話 090-2599-7367 にご連絡ください。
武部は雨が降っても岡本駅に行きます。(雨で登山できない場合、集まった方達で懇親会を開く予定です)

2023年10月21・22日、長野県で「イワクラ学会」の「イワクラサミットin安曇野」が開催された。

今回は会員だけのこじんまりとしたサミットになった。

宿泊したホテルで、研究発表も行われ、発表者は三名であった。

武部も「ホツマツタヱ36紋のアグラ石は内宮の磐座か?」と題して発表することにしていた。

プレゼンテーション作成中にどんどん膨らみ、かなりの量になってしまい、発表の制限時間30分ではとても収まらないようになってしまった。

それで全文をプリントアウトして参加者に配るつもりでいたが、印刷途中で複雑な紙詰まりをしてしまい、修理時間もなく、結局プリントを配布できなくなってしまった。

発表の席上では、かいつまんで話すつもりだったが、それも出来なくなってしまった。

案の定、早口で話しても、きちっと伝えることが出来ないまま、時間切れとなってしまった。

準備不足で簡潔に纏められなかったことを悔いつつも、きちんと伝えたいとの思いもあり、リベンジを試みることにした。

時間制限もページ数の制限もないので、研究発表用のプレゼンテーションより詳しく検討できるものと思う。

何回のシリーズになるか分からないが、時間をかけて検討を重ねて行きたいと思う。

先ずはプロローグとして「内宮の磐座」(これはあくまでも仮称であったが、このようになずけてからその磐座を「内宮の磐座」と呼ぶことが独り歩きしてしまい、今やGoogleマップにもそのポイントが示されている)との関わりについて書いてみる。


「内宮の磐座」との関わりの歴史

1・・2008年8月「ガーデニング研究会」で伊勢方面の研修旅行に行った際、「外宮」と「内宮」の正式参拝を行った。参加者の知り合いのある神社の宮司の紹介もあり、その時の正式参拝は特別なものとなった。今から思うとそれは大いなる導きであったと感じている。武部にとって神社に接する始まりだった。

2・・2008年9月、「イワクラ学会」に入会。その後、深くイワクラ・磐座に接するようになり、人生が変わったようにも思う。

3・・2010年、志摩市で仕事をすることになり、その行き帰りに伊勢を通るので、しばしば「内宮」に行くようになる。「子安神社」と「大山祇神社」の存在を知り、宇治橋を渡って必ず挨拶するようになった。その場の雰囲気から「磐座が在るのではないか?」との思いが高まり、行く度に探して見た。祀られている小石を次々に見つけたが、磐座と思えるものは見つからなかった。

4・・2011年4月、スピリチャル系の人気ブログ「伊勢-白山道」のブログに、それらしい磐座が写真と共に紹介されていたが、最後に「行くな!」というような文言が書かれていた。

5・・2011年8月15日、神宮司廟の脇を通て北側に出て進むと三叉路があり、目の前の小高い丘の茂みの中にそそり立つ巨石を見つけ「これだ!」と感激する。その時はカメラを持っていなかったので写真は撮れなかった。

6・・2011年9月25日、写真撮影。ネット上などで調べては見たが、ほとんど情報が見つからなかった。

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西側から見たそそり立つ巨石

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東側から見る

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南側から見る

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大きな杉の木の倒壊を防ぐために、ワイヤーロープが張られていた
(その後その杉は伐採され、ワイヤーロープも外された)

7・・2011年10月、Googleアースで、「内宮」の真北に在ることを発見。

8・・2012年9月、「イワクラサミットin日向」で研究発表。この時に「内宮の磐座」として紹介。

9・・2013年8月10日、重藤悦男さん主宰する「感動塾」の93回「なぜか秘められた内宮のイワクラ」と称して伊勢周辺の磐座を案内した。恵利原の「鸚鵡岩の稜線上の磐座」で参加者の「上森三郎」さんが、綺麗な三角の山を発見。その後その山が、「内宮」の真南の「八禰宜山」であることを教えてくれた。
   8月11日、「内宮」では「お白石持行事」が行われていて、大勢の人出で賑わっていたが「内宮の磐座」周辺は静かだった。この時、磐座の東端部に人一人立てるスリットを発見。そこに立つと、涼やかな風が吹くことを体感。その日は猛烈に暑い日だったが。

10・・2013年8月22日一人で「八禰宜山」の探索に出かける。「八禰宜山」周辺にも沢山の巨石が在った。そして、剣峠の東側の尾根で「剱岩」に出会っている。

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剱岩と巨大なウバメガシの生えている岩で引用を成している

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この時に写した内宮の磐座の「スリット」
ここに立つといつも涼やかな風が吹く

11・・2014年9月16日、「内宮の磐座」の天端が平らであることを発見。この時「ホツマツタヱ 36紋」に登場する「アグラ石」がこの磐座ではないか?と感じ始める。(「風が吹くの不思議」参照)

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写真では分かり難いが、磐座の天端は平らで、座ることも寝ることも出来るスペースがある

同日「八禰宜山」にも登り、山頂の南側の直下に、不思議な構造物を発見。

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明らかに人工的に彫られた痕跡があり、腐葉土化した堆積物から、水が溢れ出していた

12・・2014年9月23日、確認のため再度「内宮の磐座」に行き、磐座の石質が「真っ白な大理石」であることを発見。

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汚れてはいるものの、石質は真っ白で、大理石と思われる

13・・2014年9月28日、「イワクラ学会10周年記念大会」で研究発表。
この頃には「内宮の磐座」のすぐ東側の広場で内宮の遷宮の一番最初の祭「山口祭」が行われるのを知っていた。この時すでに「アグラ石」を気にしている。

14・・2014年12月、「検証ほつまつたゑ」に投稿。

15・・2015年1月26日、当ブログ「火(ホ)と「ニワ」と鍋釜」に「白髭神社と内宮の磐座」掲載。

16・・2016年2月11日、「八禰宜山」直下で見つけた人工的な遺構を調べに行ったところ、2m近い深さであることが分かった。(詳しくは「八禰宜山・山頂直下の井戸状遺構と磐座」参照)

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掘ってみたが、腐葉土化した堆積物ばかりなので、
2m近い棒を差し込んでみたが、底まで届かなかった

16・・同日、気に成っていた「外宮」の真北に在る綺麗な三角の山「五ケ所・浅間山」に登ってみた。沢山の巨石が在り、山頂には「宝永山」が祀られていた。標高178mの低い山だが、明らかに「富士山」を象徴していた。(詳しくは「五ケ所・浅間山の磐座」参照)

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「五ケ所・浅間山」の山頂には、宝永年間に噴火した「宝永山」が祀られていた
周辺には磐座群

17・・2016年9月24日、「イワクラサミットin鳥羽」開催。「イワクラとレイライン(伊勢神宮内宮・外宮の示す南北軸の重要性とイワクラ」と題して研究発表。(イワクラ学会HPより「イワクラサミットin鳥羽」参照。「石・岩・磐座-(イワクラサミット用の資料として)」参照)
    明くる25日、「伊勢イワクラツアー」で案内役(イワクラ学会HPより「伊勢イワクラツアー」参照)

18・・2017年1月10・11日、カタカムナ研究家「吉野信子」さんの一連の神事の最後として、伊勢に行き、その時「内宮の磐座」に案内をした。全国から100名を超える人が集まった。
11日の早朝、「二見興玉神社」に行き「輪注連縄」に出会う。この「輪注連縄」がその後の大いなるインスピレーションに繋がった。そしてこれは「猿田彦大神・申田彦大神」との強い繋がりとなった。
また当日内宮では「一月十一日御饌」と言う祭りが行われていて、予定されていた100名もの正式参拝が出来なくなった。これもまた一人正式参拝の参加をしないと決めていた武部にとって意味あることとなった。

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「一月十一日御饌」に先立つ祓の行事

    この時の神事の前日(1月9日)に「白髭神社」に正式参拝をしている。それは「外宮・多賀宮」の謎を知ったからだ。「「外宮・多賀宮の謎」参照)

19・・2018年4月であったろうか、「上森三郎」さんのセミナーで、「八禰宜山の壷の掃除をしなければ、とんでもないことが起こる!それは発見者の責任だ!」と血相を変えて言ったそうだ。その時武部は参加していなかったが、「とんでもないことが起こる!」とは武部に命の危険が及ぶというような意味だったらしい。その時に参加していた人から、「私達も手伝うから、八禰宜山の壷の掃除をしましょう!」との申し出があった。掃除をしたい気持ちはあったが、少人数では難しい仕事になることが予測された。
    5月6日、一回目の掃除をすることになった。当日11名もの人が集まってくれた。必要な道具は用意しておいた。

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腐葉土化した堆積物を、スコップとバケツで掘り出して行く

20・・2018年7月1日、6月も発掘清掃するつもりだったが、台風が来て出来なかった。それで7月1日に開催した。この時は「上森三郎」さんも来てくれた。
人数が多いとやはり作業は進む。堆積物の全てを掘りだした。底から多少の砂粒が出て来ただけで、ほとんど全て腐葉土化した落ち葉の堆積物だった。何か歴史的な遺物が出てくることを期待していたが、そのようなものは何も出てこなかった。

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バケツリレーで堆積物を運び出す。

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深さは1.8mぐらいで、途中に段があるので、底まで降りることが出来る

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掘り終えたら、祝福するかのように光が差して、満面の笑み

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上から見ると明らかに人工的に掘ってあることがよく分かる

21・・2018年8月5日、最後の「八禰宜山の壷」掃除。

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「壺」一敗に水が溜まっていた

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バケツで水を汲み出し

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水に浸かって、壁面を洗う

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これで構造がよく分かる,明らかに階段が造られている

21・・2018年11月4日、再び「八禰宜山の壷」に。

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雨上がりだったので、壁面にハッキリと「ホト型の筋」が現れていた

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その「ホト型の筋」は、西を向いていた

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この「内宮」の真南に在る、明らかに人工的に造られた「八禰宜山の壷」は、いったい誰が何時頃、何のために作ったのだろうか?

22・・2019年11月14日は「大嘗祭」の日であった。伊勢で行われたあるイベントに参加するために伊勢に向かって、まず「外宮」に行った。

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「外宮」の正殿から出て来た、このような列に出会った。

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列は二手に分かれ、「刀」を捧げ持った列は、「多賀宮」に向かった。時間は8時21分だった。
その時の我々の目的は、先ず「多賀宮」に行くことだったが、神事が1時間ぐらい津木菟とのことで行けなかった。
イベント終了後、内宮の磐座に一同で行った。

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「大嘗祭」の日であるのにもかかわらず、「内宮の磐座」は、益々荒れていた。

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正宮に行かず、宇治橋を渡ろうとしたら、2台の乗用車が、宇治橋を渡って来た。
朝「外宮」で出会った「刀」を持った神官が乗っていた。
「宇治橋」を車で渡れるのは、天皇と天皇の勅使だけだと聞いている。
「大嘗祭」がこの日の夜に行われるので、明らかにそのための勅使の一行。時間は13時19分だった。
この日が「大嘗祭」の日とも知らず、イベントに参加すべく伊勢に行ったのだが、その時「外宮」でも「内宮」でも、「大嘗祭のための新天皇の勅使」一行に出会ったのにも不思議な縁に感じる。

「内宮の磐座」は「内宮」の真北に在り、「八禰宜山」との南北ラインを作っている。しかも遷宮の最初の祭「山口祭」は、まるで「地鎮祭」のようで、「内宮」の位置を決める起点(ベンチマーク)でもあると思うのだが、新天皇の最も大事な行事である「大嘗祭」の日でも、まるでほったらかしなのだ。

知っているのか、知らないのか?
あるいは無視しているのか?

この「秘められた磐座」の謎を、探ってゆきたいと思う。

「金鳥山」は、「楢崎皐月」が、1949年に「平十字」から「カタカムナ神社の神宝」として見せられた巻物を書き写した場所とされている。

その書き写したものが、「唯一のカタカムナ文献」。

つまり「カタカムナ」を研究する者にとって、「金鳥山」は「カタカムナの聖地」といえる。

「カタカムナ神社」は未だ見つかっていないし、当然神宝としての巻物も見つかってはいない。

謎だらけで、「金鳥山」そのものを調べた記録もあまり見つからない。

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「金鳥山」という山名は「地理院地図」にも、六甲山系の338mの山として明記されている。

ところが、紙の地図をもってこの山を目指して行っても、たどり着くのは極めて困難なのだ。

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山頂らしいものが無く、笹が生い茂っていて見通しも効かない。

山としても何の魅力もないので、「金鳥山」を目指すハイカーも皆無だろう。

僕が「金鳥山」を目指して、一人で始めて向かったのは2018年3月3日だった。

当時すでにAiphoneも持っていたし地図アプリ「Geographica」もインストールしていたが、それを見ずにどんどん進んで行ったので、「風吹き岩」を通り越し「横池」まで行ってしまった。

その辺りは、登山に夢中だった二十歳前後の頃、よく行った山でもあった。

「金鳥山」を見つけることが目的だったので、引き返し、
「Geographica」に誘導されてやっと「金鳥山」にたどり着けた。

当時、踏み跡はあったものの、猛烈な笹薮で、ほとんど見通しは効かなかったが、石を一つ見つけて、それだけで満足して帰った。

翌年、「吉野信子・カタカムナ研究会」の研究生から「保久良神社の磐座群」と「金鳥山」への案内を頼まれて、2019年2月22日に行った。

この時、「金鳥山」山頂当たりに興味深い石組のあるのを発見した。
(2019年2月22日の記録は「金鳥山とカタカムナ-1 金鳥山探索」参照)

つづいて同年の5月5日に、周辺の笹を刈り、埋もれていた石組を掘りだした。

その石組の形は「ホト型」つまり「女性器型」で、「上を向いている」。
(2019年5月5日の記録は、「カタカムナと金鳥山-2 金鳥山の探索」参照)

その後頻繁に「金鳥山」に登ることになり、「南中する太陽の光がホト型の石組に入る」ことも確認した。
(2021年2月12日の記録、「金鳥山の磐座に南中する太陽が!!」参照)

この「ホト型」の石組こそが地元で「狐塚」と呼んでいる磐座に違いないと思った。

「蘆屋道満の墓」という伝承も在るらしいが、疑問だらけに。

この山らしくない山を何故「金鳥山」と呼ぶのかも謎だった。

それを解くヒントが「久世東伯」著の「イナリコード」にあった。

「イナリコード」を読むのがこれで三度目で、やっとおぼろげながら理解できるようになってきた。

そのヒントは、「第二章 稲荷にはどこか不気味さが漂う」の「稲荷狐は妖艶に変容していった」の項に書かれている「芦屋道満大内鑑(アシヤドウマンオオウチカガミ)」という歌舞伎の演目で「葛ノ葉子別れの段」が有名だ、と記されていた。

つまり「安倍晴明」の生誕物語としてよく知られているそれだ。

本に書かれている内容だけではヒントにならないのだが、直感的に気になったので、ウイキペディアを参考にすると、その物語のあらすじも書かれていて、これがなかなか面白い。

「葛ノ葉子別れの段」ばかりが有名だが、その前後の物語も実に興味深い。

芦屋道満大内鑑」は江戸中期初演の浄瑠璃作品で、「初代竹田出雲」が「安倍晴明」伝説を題材に、親子の情愛をテーマとした作品、とウイキペディアでは解説されているが、「芦屋道満」の主君への忠義、親への孝養も重要なテーマになっている。

「芦屋道満」と「安倍晴明」は同時代の「陰陽師」で敵対関係に合ったように伝えられ、「芦屋道満」が悪役とされているが、この物語では全く違う。

物語は面白いので「ウイキペディアのあらすじ」を読むことをお勧めする。

「第一段 ・東宮御所の段」の段に、陰陽道の秘伝書「金烏玉兎集」が出てくる。

この「金烏」に反応して調べてみると、

太陽にいる鳥がカラス(烏)であるとする解説は古代から中国にあり、『楚辞』天問の王逸注にも「日中の烏」という語がみられる。また、『山海経』(大荒東経)などではカラスが太陽を載せて空を移動してゆくとも記されている。日の出と日の入りの時間帯に移動をするカラスの動き、あるいは太陽の黒点を象徴化したものと考えられており、カラスであると語られる点もその羽色から来ているとみられる。金という語は太陽本体の光りかがやく様子を示している。

足が三本あるという特徴もしばしば語られ(三足烏を参照)、描かれるときの最も目立つ特徴として挙げることが出来る。道教や陰陽道などに基づいた古典的解説では、数字の三が陽数、カラスが陽鳥であるからと語られることが多い。三本足であることを強く押し出した金烏の説は、漢の時代に大きく広まったようである。

日と月が描かれる際、日に烏、月に兎(または蟾蜍)が描き込まれることは中国を中心に古くから行われており、壁画や祭具、幡(はた)などに残されている。日本でも鎌倉・室町時代に仏教絵画として描かれた『十二天像』では日天・月天の持物としての日・月の中に烏と兎が描き込まれている作例がみられるなど、美術作品で太陽を示す題材として広く用いられている。江戸時代まで、天皇即位の際に用いられていた冕冠(べんかん)や袞衣(こんえ)、日像幢にも用いられている。「金烏」という名称が用いられているが、描かれるカラスのすがたは通常のカラスのように黒く描かれ、背後に描かれる太陽あるいはそれを示す円が朱や金で彩色されることがほとんどである。

日本神話では、神武天皇を案内したと記述されている八咫烏(やたがらす)に「天照大神がつかわした」という点から金烏と共通する「太陽とカラス」の結びつきが見られ、平安時代以後にそのすがたが金烏のような三本足のすがたとして説明されるようになっている。

とある。

「金烏(キンウ)」は三本足の烏で、太陽の象徴。

「古事記」に登場する「八咫烏」にも似ている。

「玉兎(ギョクト)」は月に住む兎で、月の象徴。

「太陽と月」で「陰陽」でもある。

「金烏」は字形も「金鳥」とそっくりであり、「金烏」がより分かり易い「金鳥」に変化したとも考えられる。(辞書などでは「カラスは全身真っ黒で目がどこにあるかわからないことから、「鳥」の字の目の部分の一画を外して「烏」とした。」と説明されている。)

さらに「第二段 」に「御菩薩池(ミゾロガイケ)」という池が登場する。

「楢崎皐月」が描き残した「金鳥山」付近の見取り図に、

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「ドロガエシ池」と書き、その後「ミトロカヘシの沼」などと呼ばれている池の名前と、「ミゾロヶ池」と似ているし、この池は現在京都市北区上賀茂にある「深泥池(ミドロガイケ)」の名前ともよく似ているように思う。

「金鳥山」山頂の磐座は、明らかに「ホト型」であるのに、地元の伝承では「狐塚」と言い「芦屋道満の墓」とも言うらしいと「楢崎皐月」も書いている。

「芦屋道満大内鑑」の「第二段 ・磐座間の段」のあらすじに、

治部は『金烏玉兎集』を道満に与え、「これで陰陽道の大家となり、主人である橘元方の望みを叶えよ」と命ずる。道満は感謝してこれを受け取る。なんとか橘元方を東宮の外戚に地位に付けたいと考える治部は、道満に対して、陰陽道の術で橘元方の娘である御息所を懐妊させることが可能かを問う。道満は、御息所の懐妊については荼枳尼の法を用いればよく、そのためにはメスの白狐生き血が必要と答えた。狐に関しては、悪右衛門の故郷石川郡で難なく手に入るという。

という記述がみられる。

「荼枳尼の法」とは、「稲荷」のことだろう。

この閃きの元である「イナリコード」には、

伏見稲荷の教義の中に「稲荷愛法」というものがあるが、その法に真言密教における理趣経の「愛染法(本尊・愛染明王)」を結び付けたことにより、稲荷の教義に「性愛の呪術」が現れるようになる。
中略
稲荷狐が妖艶な様相に変容したのは、この愛染の法の変質が大きな要因であった。

と書かれている。

「第二段 ・小袖物狂ひ」には、

そこへ鐘や法螺貝の音とともに白い狐が逃げ込んでくる。「白い狐は不思議な獣で、伏見稲荷の神使でもあるから助けてやろう」と保名はかたわらの祠の扉を開けて入れてやる。

保名」とは、この物語の主役級の登場人物である「安倍保名(アベノヤスナ)」で、道満同様の陰陽師。

「安倍
保名」が「白狐」を助けたことから、その「白狐」は、保名が恋した「葛の葉」に化け、保名の面倒を見る。

「第四段 ・
保名住家の段(子別れの段)」には、

保名と葛の葉が安倍野に隠棲して6年。二人の間には男子が生まれて穏やかな生活を送っている。
中略
すると身支度を整えてきた女が、抱いた我が子に対して、縁を切って別れなければならないと涙ながらに告げる。自分は悪右衛門に追われていたところを助けてもらった狐であること、自分のために傷まで負った保名の恩に報いるため葛の葉の姿に化けて保名の自害を止めたこと、夫婦の語らいをしているうちに情愛が深まったことを告白する。さらに、葛の葉とその両親に預けるので、狐の子と後ろ指を差されないよう精進して生きよと言い聞かせ、泣き崩れる。この言葉を聞いた保名は走り出て、思いとどまるように声をかける。その声を聞いた庄司夫妻と葛の葉も出てくるが、女は童子を置いて消え去る。葛の葉と両親は、この子を我が子として育てる決心をするが、童子は母を慕って泣きじゃくり、保名も「狐の女房であっても何も恥ずかしいことはない」と嘆き悲しむ。さらに保名は一首の歌「恋しくは 尋ねきてみよいづみなる しのだの森のうらみくずのは」が障子に書きつけられているのを見つけ、悲しみを深くする。庄司は、歌には「恋しくなったら信太の森に訪ねて来て」とあるではないかと、保名を慰める。

有名な「子別れ」。

この童子がのちの「安倍晴明」。

この物語では「清明」という名前を「芦屋道満」が与えたとしている。

この「白狐」は「稲荷狐」であり「稲荷巫女」でもある。

「イナリコード」のこの項は、

この葛ノ葉に託された秘密と愛染法には繋がりがあるからだ。この二つは「性の秘密」が隠されている。それは「霊精の目覚め」に関わるものだ。イナリ秘教にはその秘密が説かれている。愛染法の真実の道、「イナリ愛法」。稲荷愛法ではない、イナリ秘教に説くところの「愛法」とは性愛の秘技ではない。我が子に対する母の情愛でもない、「聖なる愛の玄理(コトワリ)」である。

と締めくくっている。

「芦屋道満大内鑑」は創作された物語であり、歴史的真実ではないが、「金鳥山」にまつわる真理がそこはかとなく染み出ているような気もする。

「芦屋道満大内鑑」の「第五段 ・大内の段」では、「安倍晴明」と「芦屋道満」の術比べが行われる。


内裏では、桜木親王が座る傍らに、左大将橘元方、参議小野好古の両名が控える。そこに葛の葉と晴明が連れてこられる。小野好古は「この者は自分の家臣安倍保名の息子の晴明。8歳と幼いが、陰陽道に通じているので、芦屋道満ともども帝都にあれば長久の基となるでしょう」と奏上する。これを聞いた橘元方は「この者の父保名は未熟者で、先般都を逐電し、落ちぶれ果てた男。その子が才能豊かなわけがない。都には、天下に並ぶ者なしと評判の芦屋道満一人いれば十分」と、晴明を貶める。これに憤った葛の葉が「幼くても才能ある人間はいる。小さな子に対してその態度は…」と食ってかかる。これに怒った橘元方が「卑しい女め」と葛の葉を引っ立てようとしたところ、桜木親王が制止する。桜木親王は晴明と道満の術比べを提案し、近在の百姓が見つけたという長櫃の中身を当てることを命じる。橘元方はこの長櫃が六の君呪詛のための藁人形入れたものと気づいて、なんとか中身当てをやめさせようとするが、桜木親王はこれを聞かない。

中身当てが始まった。道満が晴明から占うよう勧めるが晴明は固辞して、道満が先に占うこととなる。道満の見立てでは、中には人の形をしたものが二体あるが、一方は形だけ模した人形。他方は斬られて死んだ30歳ほどの男だと言う。晴明がこっそり占ったところ、道満の見立て通りで、心の中で悔しがる。晴明はしばらく思案した末、刀傷の男は魂魄がまだ抜け切ってないので落命とは言えないと答える。道満と葛の葉は心配して晴明に再考を促す。詰め所に控えていた石川悪右衛門がここぞとばかりに占いの場に現れ、「蓋を開けて、死体が出れば許さない」と晴明にすごんでみせる。晴明はこうした脅しに臆することなく、「母様ご安心を。刀傷をたちどころに直してみせます。ご覧あれ」と秘文を唱える。

この刀傷の男こそ八歳の清明の父の
「安倍保名」であった。

「第五段 ・清明蘇生の祈り」には、

(晴明は一心不乱に祈祷する)
祈祷の効果か、長櫃の上に無数の鳥が集まってくる。鳥たちはしばらく旋回を繰り返した後、悦びの声を上げて飛び去る。晴明は「蘇生の徴。蓋を開けて」と促す。恥をかかせてやると、悪右衛門が蓋を開けようとすると、中から保名が悪右衛門を掴んで足元に踏みつけ、悪右衛門と橘元方による六の君呪殺の悪企みを明らかにする。一部始終を聞いた左近太郎が橘元方を投げ飛ばしたところ、道満が割って入って、「これでも御息所の父なので、命ばかりはお助けください」と嘆願する。これを聞いた桜木親王は「左大将は流刑、悪右衛門は保名父子に任せる」と裁定し、保名は悪右衛門を斬る。桜木親王は晴明に官位を与え、道満ともども末の世まで語り継がれる存在となった。

でこの物語は「めでたしめでたし」で終わる。

「久世等伯」著「イナリコード」その最終章「イナリ奥伝「宇宙創成。生命創造の玄理」」に、

稲荷は一見するとご利益信仰に見え、また昔からそのように言われてきたが、本来の稲荷はそうではない。稲荷は人間の心から我欲を取り除き、人間その欲のところを巧みに利用し、最終的には人間本来の生命の本質としての「魂の目覚め」へと導くものだが、さらに奥にあるイナリの教えは、「生命を有るべき本来の姿に戻すことで、生命力を再び活性化させ蘇生させるための秘技の伝授」にあると言えよう。

と書かれている。

物語では、この「蘇生」をドラマっチックに書きだしているが、その奥に秘めているのは「魂の目覚め」であろう。

「安倍晴明」の「清明」は「生命」そのものを表しているのであろう。

八歳の「安倍晴明」この「イナリ奥伝」を伝えたのは、母親の「葛の葉」に化けた「白狐」で、「白狐」は「イナリの巫女」であったのであろう。

では何故に「金鳥山」の山名と、その山頂に在るとされる「狐塚」を「芦屋道満の墓」を、「蘆屋道満大内鑑」と結び付けられるのか?との疑問も湧き上がる。

先に「金鳥(キンチョウ)」は「金烏(キンウ)」ではないかと書いた。

「金烏」は「太陽の象徴」でもあり「三本足の烏」ともされている。

「三本足の烏」で思い浮かぶのは「八咫烏」。

「神武」を案内したという「三本足の烏」。

八咫烏」に付いて調べてみると、

熊野三山においてカラスはミサキ神(死霊が鎮められたもの。神使)とされており、八咫烏は熊野大神(素戔嗚尊)に仕える存在として信仰されており、熊野のシンボルともされる。

とあり、「素戔嗚尊」との関わりが強調されている。

「金鳥山」の中腹に鎮座する「保久良神社」の祭神は、「須佐之男命」、「大国主命」、「大歳御祖命」、「椎根津彦命(シイネツヒコノミコト)」とされていて、ここでも主祭神は
「須佐之男命(素戔嗚尊)」であるが、気に成るのは「椎根津彦命」。

調べてみると、

神武天皇が東征において速吸門で出会った国津神で、船路の先導者となる。このとき、『日本書紀』では曲浦(わだのうら)で魚釣するところを椎の棹を授けて御船に引き入れて名を珍彦(うづひこ)から椎根津彦に改めさせたとあり、『古事記』では亀の甲羅の上に乗っていたのを棹をさし渡し御船に引き入れて槁根津日子の名を賜ったという。

とあり「八咫烏」同様に「神武」の案内人であることが共通する。

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(保久良神社の椎根津彦の像 2021年9月7日撮影 「生石高原-7 空海と繋がるレイライン・そして上森三郎さん」参照)

神武東征」に付いてはいろいろ疑問もあるが、ここではそれに触れない。

こんなことを考えていた時に、まるでシンクロするかのような記事を見つけた。

日頃から色んな刺激を受け、参考にもしている洪水伝承者を名乗る「坂口成事」さんのFacebookに、

補足
金鳥山の金鳥の元は金烏で、載せている写真では阿曇の双方向の螺旋回転(私の中の宇宙のタカミムスビと宇宙の中の私のカミムスビ)と最後の二重羽の鳥の事です。

と書かれていた。

その根拠ははっきりしないが、「金鳥」を「金烏」と考え始めた僕にとって、このシンクロは大いなる力となった。

「金鳥山」山頂の通常「狐塚」と呼ばれている石組に、南中する太陽の光が入ることは先にも書いた。

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この写真は2023年2月22日に「第三回 222 金鳥山カタカムナ祭」と称して企画して行った時に撮った写真。

撮影時間の記録を見ると11時55分とあり、丁度この辺りの南中時刻だと思う。

この石組は「ホト型の磐座」なので、この情景は「太陽と大地のマグアイ」とも思う。

「イナリコード」の「イナリ奥伝「宇宙創成。生命創造の玄理」」に「白翁老」の言葉として、

「稲荷の元にイナリあり。それ、いのちなれ(命成れ)に始まりて、いのちなりなる(命生り成る)の言霊ぞ。いのちのりのり(命宣り乗り)ての息吹。則ち、命の火となれり神の光にあるなり」

と書かれているが、この写真は、「白翁老」のその言葉を具現しているように思われる。

今年5月5日に「第五回 55 金鳥山カタカムナ祭」を企画した。

ネット上で次のような記事を見つけたからだ。

「ことのはじまりは昭和24年(1949)。楢崎皐月という電気技術者が、現在の神戸市東灘区にある金鳥山に入った。目的は植物の生育状態と大地を流れる電気の関係を調べること。
地元の人から「金鳥山には蘆屋道満の墓ともいわれる狐塚という穴があるから、行ってみるといい」と勧められた楢崎は、この穴をベースに、山中に計測装置を置いて調査を開始する。
すると何日かすぎた夜、突然、その穴に鉄砲を手にしたひとりの猟師が訪れてきた。
「変な仕掛けをされて、キツネたちが迷惑しているから取り外してくれ」
猟師は怖い顔をしてそういった。翌日、楢崎が計測装置を外すと再び猟師がやってきて、自分はヒラトウジ(平十字)だと名乗った。楢崎が素直にいうことを聞いたので気をよくしたのか、猟師は父親が宮司をしていた「カタカムナ神社」のご神体だという、謎の古代文字が書かれた巻物を取りだし、楢崎に見せたのである。
たしかに巻物には、渦巻きのような模様がたくさん書かれていた。それを見た瞬間、楢崎の頭にはある言葉が甦ってきた。

参考にしたリンクには今はアクセスできない。

ここに書かれている「狐塚のという穴」が気に成ったからだ。

我々が再発見した石組が「狐塚」ならそこに「」の痕跡が在るはずだ。

その「穴」は塞がれてしまったのか、見つけることは出来なかった。

それで引き続き6月22日に「第六回 622 金鳥山カタカムナ祭」を開催した。

「穴」が見つからなかったのでその「穴」があるべき場所を掘ることにした。

磐座は「ホト型」なので掘る場所は「膣」つまり「産道」。

それは「参道」でもある。

夏至の明くる日の最も太陽が高い日を選んだが、あいにくの雨。

しかし、山に登る頃には止んだ。

石コロや竹の根に苦労したが、皆で力を合わせ、夢中になって掘った。

「穴」は石コロで埋められていたように感じたが、人一人がしゃがんでは入れるぐらいの穴を掘った。

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6月24日に彫り終えた穴。(夢中になって掘っていたので、作業中の写真は撮り忘れていた)

掘り終えた時、雲間から一瞬太陽が顔を出し、掘った穴を光らせたので、一同感激の声を上げた。(一瞬の出来事で、その光景を誰も写真に収めることは出来なかった)

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「穴」のアップ。

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コンパス写真で撮った方位を示す映像、写真ではほぼ南北を示しているが、正確に南北を観察する小さな二個の石が、北側に在る。

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掘りだした石コロで、大きくはないが掘るのに大変な労力を要した。

石がぎっちりと詰まっていたので、埋められたのではないかと推測しているが、果たしてどうだろう。

つづいて9月9日に「第七回 99 金鳥山カタカムナ祭」を企画、その案内文に、「相似象学会誌9号」に「楢崎皐月」が書いたという次の文を紹介しておいた。

八鏡の文字とは、日本の上古代に存在した声音符号の図象符のことであり、上古代文字の役割を演じたと想う。筆者は、在満当時、老子教道士盧有三師より八鏡之文字の伝説を聞いた。その後、兵庫県六甲山系の金鳥山の頂上に在る、俗称狐塚蘆屋道満の墓)にて、偶然知り得た平十字殿の奉祀するカタカムナの神の御神体が、八鏡文字によるらしい巻物であった。当時は、重大な価値あるものとは思わなかったが、好奇心から筆者はその図象符を再写して、八鏡文字を追求しようとした。

ハッキリと「狐塚」と書き「芦屋道満の墓」と書いている。

9月9日は「重陽の節句」でもあり、「掘った穴」に南中する太陽光が入ることの確認が主な目的だった。

それと当日になってもう一つ大きな目的が出来た。

2016年カタカムナ研究家の「吉野信子」先生が、一連の神事を行った。

2016年6月23日「上島」に「精子」を取りに行き、7月7日にその「精子」を「六甲比命大善神」の巨大な「兎の磐座」に「種付け」し、10月10日に「保久良神社」の「三交岩(三五岩)」で、「ヤマトタケル」と「イワナガヒメ」の双子誕生当の一連の神事。

10月10日は参加出来なかったのだが、その双子の生誕の儀式のときに「臍の緒を切った」という方が、9月9日のカタカムナ祭に来てくれ、その「臍の緒」を持っているので、それを「お炊き上げ」したいと言う。(上島での記事は「上島-01 プロローグ」以下の一連の記事参照。)

その「臍の緒」を焼くとすれば、「掘った穴」以外ありえない。

このような山で火を焚くのを禁じていることは、重々知っている。

しかしここで焼かねばならないと強く感じたので、細心の注意を払って、責任をもって僕自身が火を点けることにした。

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到着した時、「穴」は落ち葉などで埋まっていた。

撮影時間は11時54分で、南中する光が入っているが分かり難い。(「ホト型の磐座」真南に樹木が茂っていて、南中する光が届きにくくなっていたので、分かり難いが。)

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「穴」掃除し、その「臍の緒」を穴に入れる。

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火をつける準備をする、時刻は14時19分、やや西に傾いた太陽光が、「穴」付近に差し込んでいる。

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慎重に火を点け「焚き上げる」。

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「灰」は「双子」が誕生した「三交岩」付近に散布するために集めた。

 このように長々書いてきたのは、「狐塚」と呼ばれているこの「ホト型の磐座」に太陽の象徴である「金烏」が舞い降り、大地とマグアって、生命が誕生する、命の循環を象徴しているように思えるからだ。

「金鳥山」は「金烏の山」から発しているのかもしれない。

「金烏」という言葉が何時頃伝わったのか分からないが、太古から在ったこの「ホト型の磐座」を「金烏が舞い降りる石」としたのではないかと思う。

では何故「狐塚」か?

「芦屋道満大内鑑」の「第二段 ・磐座間の段」に、

懐妊については荼枳尼の法を用いればよく、そのためにはメスの白狐生き血が必要」とあるのは、「イナリの生命力」を象徴しているのではあるまいか。

この「狐塚」と称される「ホト型の磐座」は生命の誕生を祈る場であると共に、「生命の蘇り」を祈る場であったのかもしれない。

この「ホト型の磐座」に、人がかがみ込めるほどの「穴」を掘った。

「白翁老」が言った、

「稲荷の元にイナリあり。それ、いのちなれ(命成れ)に始まりて、いのちなりなる(命生り成る)の言霊ぞ。いのちのりのり(命宣り乗り)ての息吹。則ち、命の火となれり神の光にあるなり」

この言葉を、感じ取る場所としての「狐塚」なのかも知れない。

伏見の「稲荷山」には「伏見稲荷大社」とは関わりがないとされる「伏見神寳神社」が鎮座する。

主祭神は「天照大神」となっているが「十種神宝」を祀る神社でもある。

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「十種神宝」の図

この図は「性的なシンボル」に満ちているようにも思う。

「死返玉」は、

死者を蘇らせることができる玉。左胸の上に置き、手をかざして呪文を唱え由良由良と回す。

という霊力があるとする。

八歳の「安倍晴明」が父である「安倍保名」を蘇らせた、にも繋がる。

「十種神宝」は「数霊」でもあるようだ。

「狐塚」を「芦屋道満の墓」と伝承されているようだが、

「カタカムナ第一首」に登場する「アシアトウアン」とあまりにも似ている。

カタカムナ – カタカムナと生命の神業

「カタカムナ第一首」

カタカムナヒヒキ
マノスヘシ
アシアトウアン
ウツシマツル
カタカムナウタヒ

「アシアトウアン」が「カタカムナウタヒ」を写し書いた、ということだろう。

「芦屋道満」は平安時代の陰陽師であるから、「アシヤトウアン」は何時の時代の人なのだろうか?

「芦屋道満の墓」であるとされる「金鳥山」でなぜ「楢崎皐月」が「カタカムナウタヒ」を、「アシヤトウアン」の如く書き写したのであろうか?

「カタカムナ文献」は、この「楢崎皐月」の写本しかないのだ。

いつも気に成るのが、その場所の地質。

「金鳥山」付近の地質は、六甲山系あって極めて異質なのだ。


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(「地質図navi」からコピー)

「金鳥山」付近のブルーの地質は、

付加体
形成時代:中生代ジュラ紀~後期ジュラ紀オックスフォーディアン期
岩石:海生層泥岩 中期-後期ジュラ紀付加体


と説明されている。

六甲山の殆どはピンクで示される地質で、

火成岩
形成時代:中生代後期白亜紀カンパニアン期~マーストリヒチアン期
岩石:花崗岩 塊状島弧・大陸


と説明されている。

ブルーで示された地域の堆積岩である「泥岩」の方が、ピンクで示された火成岩の「花崗岩」より古い。

僕自身の観察では「金鳥山」の西側の「八幡谷」の西側の山腹には、「花崗岩」質も多くあるように思う。

「金鳥山」はこの「泥岩」質の中心部分に位置し、境界線にあるように思う。

僕は、「地のエネルギー」などを直接感じることは出来ないが、何と無くこのような地質の境界線はエネルギーが高いように感じている。

「宇宙のエネルギー」と「大地の深くから湧き上がって来るエネルギー」の交わる・マグアう場所。

その何の特徴もないこの山に、太古「ホト型の磐座」を創り祈り、
後世、「蘆屋道満大内鑑」から「金鳥山」と名付け、その磐座を「狐塚」とし、「芦屋道満の墓」としたのかもしれない。

「久世東伯」著「イナリコード」の54pに、「白翁老」の言葉として、

「稲荷はイナリにて文字にあらず。それ即ち命成り生る。命は霊ににあり。霊は思いにありて、故に言は霊なり。思いは霊にしてことを発す。故に象(カタチ)御現れる。言霊(コトタマ)は是なり。故に象は言霊なり。イナリは言霊、天地(アメツチ)を創り成す大元神象(フトモトノカムカタ)、万霊万物の造り主、天成(アマナリ)の神璽象(カムシルスミアレカタ=カタカムナ象神名〉と同じ語意)。イナリの布斗麻邇フトマニ)は是なるぞ」

と書かれている。

イナリの「白狐」はイナリの使いであり「巫女」であるから、この場所に「カタカムナ」が現れても、不思議はないように思う。

「楢崎皐月」が言うように「平十字」なる人物が現れて、見せられた巻物を書き写したのか?あるいは自動書記のように頭に現れた図象を書き写したのか?

それはどちらでもよい。

「カタカムナウタヒ80首」が世に出たことを賞賛すべきだと思う。

「伏見神寳神社」の拝殿に、不思議なものが飾られていた。

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両側に「盾」が飾られていて、通常「隼人の盾」と呼ばれている。

「イナリコード」のよると、この渦巻き模様を「イナリのフトマニ(布斗麻邇)」というようだ。

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「稲荷山」の遥拝所にも「隼人の盾」のミニチュアが掛けられている。

そこには磐座も祀られている。

「吉野信子」先生は、この渦巻きを、カタカムナを解く上で重要視している。

このことから「稲荷・イナリ」と「カタカムナ」には、深い繋がりがあるように思われる。

したがって、「金烏の山」である「金鳥山」に通称「狐塚」と呼ばれる「ホト型の磐座」が在ることは「伏見稲荷・イナリ」との深い繋がりを感じさせる。

そこを「芦屋道満の墓」とするのも暗示であると思う。

「芦屋道満」=「アシアトウアン」の図式も成り立つ。

このような「金鳥山」であるからこそ、「カタカムナウタヒ80首」が太古の昔から歴史的時空を無視して、一足飛びに今の世に現れたのではなかろうか?

「カタカムナウタヒ80首」は、1949年「楢崎皐月」によってこの世にもたらされてすでに74年経つ。

僕が六歳の時に「カタカムナ」は世に出たのだ。

これを偽書とする向きも多いが、民間での研究は盛んで、様々な解釈がなされるようになってきている。

「楢崎皐月」→「宇野多美恵」路線だけが正当とするのではなく、第二・第三世代の研究が高まるのも興味深い。

いろいろ探りながら書いてみた。
                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                   

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