火(ホ)と「ニワ」と鍋釜

庭を造るという現場から体験したこと、そして「人はなぜ庭を造るのか?」考え続けてきたことなどを、ぼちぼち綴るブログ。 等ブログの履歴などの情報は、最下部にあります。

火はホと読む。「ニワ」は庭と漢字で書かずカタカナで書く。鍋釜は漢字。
火は唯一人だけが制御できるエネルギー。「ニワ」は人としての基盤。鍋釜は人の食の道具。
一見、脈絡のない言葉がつながる。

2015年8月24日、「上森三郎」さんが岡山県美咲町に「マリアの陵墓」があると言い出した。(「マリア様のお墓発見」参照)

それで、9月4日、上森さん、田中さん、そして僕の三人で現地へ向かった。

着いた場所は山の中の「阿吽山房」という宿だった。

すでに3年経つが、この時に縁が出来て仕事にまで繋がり、このところ打ち合わせでしばしば「阿吽山房」に向かう。

2015年9月5日、上森さん、田中さん、「阿吽山房」のご主人で陶芸家の「高垣門土」さん、そして僕の4人で、上森さんが地図上で指摘した山に向かった。

その時の模様は、正に劇的だった。(「ピンポイントで示された無名の山に磐座が在った!」参照)

その山頂に素晴らしい磐座が在ったのだ。

その山に向かう途中、僕は気になるものを見つけた。

道路際の墓地に、今まで見たことないような形の石塔が目に付いたので、車を停めて調べてみた。

するとそこには、天端の平らな、まるで「祭壇石」のような石が在り、その真正面に上森さんが「マリヤの陵墓」と指摘した山が在った。

この「マリヤの陵墓の遥拝所」は、重要な場所だと感じ、「阿吽山房」に行く度に立ち寄っている。(「マリヤの陵墓での新発見」参照)

6月14日、打ち合わせのために「阿吽山房」に向かっていた。

予定より早く着きそうだったので、先ず
「マリヤの陵墓の遥拝所」によってみた。

この場所から見える「二上山(フタカミサン)」を確認しておきたいからだった。

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石塔の右側に見える山が「二上山」。

山名通り二つのピークを持つ山で、右側の山の中腹に高野山真言宗の寺「二上山・蓮華院・両山寺」があり、そのさらに上に「伊弉諾命・伊弉冉命」を祀る「二上神社」が鎮座。

「二上神社」についてのウイキペディアの説明。

二上神社(ふたかみじんじゃ)は、両山寺境内の上に位置する神社である。旧社格は村社。祭神は、伊弉諾命・伊弉冉命。

役行者がこの地に巡錫した際、伊弉諾命・伊弉冉命の夢を見たので祠を建てたことが始まりとされる。古来、二上の社と呼ばれたが、永禄年間(1558年 - 1570年)に戦火により焼亡。元亀元年(1570年)に再建され、二上八頭大明神と称した。明治6年(1873年)二上神社と改称した。

ここでも「役小角」の伝承。

そして「二上山」は「二神山」でもある。

さらに特筆すべきは左側のピーク。

山頂直下に「天邪鬼の重ね岩」という巨大磐座群が在る。

この磐座群には3月20日、最初の打ち合わせに行ったおりに「高木門土」さんに案内してもらってい行っている。

一部の写真を紹介しておこう。

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「夫婦岩」と名付けられた磐座。

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「夫婦岩」の上部の尾根筋に列石があり、その内の見事な配列の巨石・磐座群。

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山頂直下の巨石・磐座。

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山頂直下の「天邪鬼の重ね岩」の巨石・磐座群。

巨石累々の場所。

山頂には電波塔があり、山頂近くまで車で行ける。

当日はゆっくり探索できなかったが、機会があれば再度調べてみたい魅力ある場所。

「二上山」は正に聖地で、「マリヤの陵墓の遥拝所」は「二上山」の遥拝所でもある。

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「祭壇石」、石塔、「二上山」を撮影していると、左手のトタンの中から、蛇が長々と姿を現していた。

しばらく全く動かなかったが、下部を調べていたら、いつの間にか姿を消していた。

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石塔を強調して撮影してみた。

石塔の石質は「豊島石」。
「豊島石」は「角礫凝灰岩」で加工しやすく火に強い。

L1149450
「祭壇石」これは意図的に組まれたもの。

何時ごろ組まれたものか分からないが、聖地遥拝のため何か感ずるものがあって祭壇としたのではなかろうか。

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石塔の傍に在る蔓植物に覆われたこの石が気になっていた。

草刈りもされていたので、下に降りて調べてみた。

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そこそこの大きさの石で、「二上山」がハッキリと見える。

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農地化する時に出て来た石か、あるいは古から顔をのぞかせていたのであろうか。

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石の前に立つと、真正面に「マリヤの陵墓の山」(中央の山)。

最初この山を見た時は、何の特徴もない平凡な山と思っていたが、何度か登り、何度もいろんな方角から眺めていると、何だか神々しく見えるようになって来た。

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石仏と「マリヤの陵墓の山」。

「阿吽山房」裏の工事予定地に行くと、

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「笹百合」が咲いていた。

ここの笹百合はかなり白っぽい。

マリヤのシンボルは百合

百合には沢山の種類があるが、この笹百合が最もふさわしいように思えた。

奈良の「
率川神社(イサガワジンジャ)」では笹百合を奉納する「三枝祭(サイクサノマツリ)」がある。

ここでは書かないが、かなり意味深。

GARDENING研究会2018年6月定例会ご案内
                      2018年6月10日
                        武部正俊


日時 2018年6月17日 11時より17時
会場 河南町やまなみホール(大阪府南河内郡河南町大字白木1387番地    TEL0721-93-6222)
昼食費 1,100円
随時参加者会費 2,000円
申し込みは6月15日までにお願いします。
TEL 090-2599-7367 
FAX 072-290-2813
E-mail  omtakebe@sakai.zaq.ne.jp




梅雨期に入り、私達にはいささか辛い季節到来です。肉体的にも辛いですが、予定が立てにくくなります。毎年のことなのですが。

テーマ1・・武部は何故、庭を造って来たのか?・・・武部正俊
5月定例会で話すつもりでしたが、別の話題が入り話せませんでした。今月も時間の都合で、話すようにします。臨機応変にやって行きます。
何の知識も技術もなく始めた庭を造るという仕事でしたが、思い起こすとごく初期から、「土壌改良」を行っていました。それと共に排水の重要性についても認識していました。
排水という言葉は、ある種の誤解を生むかもしれませんが、今のところ適切な言葉が浮かびません。つまり、地表ばかりでなく、地中の水も動かすという事です。
水が動くことによって、空気も動きます。
水の動きは、あらゆる生命にとって極めて重大なように思います。

テーマ2・・人は何故木を植えるのか・・・武部正俊
この大きな命題に対し、再度挑戦してみます。
このところ街路樹などのぶつ切りが大きな問題になってきていますが、現実にはそれがまかり通っています。みじめな樹形を曝すのであれば、むしろ無い方がましだと思える場合もあります。それを行っているのも、我々同業者です。
植林した樹木や、農産物は必ず収穫として、その全ては切られたりして使用されます。それは生産活動です。
ところが、庭や公園、街路樹などとして植えられる樹木や植物は、生産物ではありません。収穫を目的としていないのです。
むしろ、大きく成長してゆく樹木などを、その場に合ったように制御する必要が出てきます。それがメンテナンス・手入れです。
私たちの仕事は、樹木を植えると共に、そのメンテナンスを行うことが主な仕事になっています。それ故に植木屋と呼ばれることもあります。
そのためには、費用が必要になってきます。その費用で、我々の生活が成り立っています。
一体何のために樹木などの植物を植えるのでしょうか。その辺りをきっちり抑えておかないと、ただただ無駄仕事をしているだけになりかねません。
いろんな意見を聞きたいと思います。

テーマ3・・その他の新作発表、その他もろもろ・・・発表者未定
新作などありましたら、どんどん発表ていただければと思います。


案内は武部正俊のブログやフェイスブックでも公開しています。随時参加も可能です。
随時参加費は2,000円とします。 


5月6日と6月2日、ある大きな目的をもって伊勢方面に行った。
(このことに付いては、まだ事情があって報告できない。)

待ち合わせ場所は「外宮」。

せっかくなので、先ずは「外宮」に挨拶。

そして、参拝者の殆どが気も付かないような、小さな石や樹木、そして特別な場所について、集まってくれた方達に解説して回った。

きわめて個人的な感覚かも知れないが、現実にそのような物がある。

そして興味深いのは、いろんな思いの目が加わると、今まで見えなかったものが見え、気付き・発見にも繋がって行く。

今回、僕にとって大きな発見があった。

途中は端折って、「外宮」での最も注目ポイントは「多賀宮」。
(2017年1月4日に書いた「外宮・多賀宮の謎」参照)
(さらに2015年1月26日に書いた「白髭神社と内宮の磐座」参照)

「多賀宮」から降りて来ると、必ず「下御井神社」に挨拶に行く。

「上御井神社」には近づくことさえ出来ないが、「下御井神社」は近寄り、付近を観察することもできる。

「下御井神社」は、谷間に在る井戸。

谷には水も流れているので、井戸には必ず水が湧きだしているはず。

先ず5月6日、その谷間と山裾の接点付近で、面白い樹木を見つけた。

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檜と樫類かと思われる樹木と合体している。

このところ僕はこのような樹木によく出会う。

「夫婦杉」などと呼ばれる二股の樹木はよく見かける。
同一樹種の合体木で、常々「夫婦木」と呼ぶにはふさわしくないように思っていた。

真の「夫婦木」は、異種樹木の合体木であるべきだと思っていたからだ。

この合体木は、正しく「異種樹木の夫婦木」。
しかも、上部も繋がるようにくっ付いていて、まるで強く抱擁しているかのようでもある。

さらに、根元には角の取れた石がゴロゴロ置かれている。
何処からか何らかの意味を持って運ばれてきているものと思われる。

一種の「石塚」でこのような石にもよく出会う。

ここが重要な場所であることを裏付けているようにも思う。

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「合体木」の根元に置かれている石。

傍に在る黒い玉石は、白い玉石と共に「土宮」の聖域を示す石。

さらに、「土宮」と「風宮」の間にも異種樹木の「合体木」が在った。

5月6日は、この発見だけで終わった。

6月2日、その印象はさらに強まった。

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6月2日に撮影した「山裾の合体木」。

近くには、

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まだ細いが「板根」の木も生えていた。

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「土宮」と「風宮」の相どの空間の「合体木」。

その周辺も小石が一杯。

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そしてすさまじい迫力の根。

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まるで「鳥の足」。

今回同行してくれる神職の方が「八咫烏」だと言った。

正にと思った。

ここから、僕の妄想が膨らんだ。

ホツマツタエ 第六紋 (日の神十二妃の綾)」に出て来るこの部分が気になる。

      ココニヰマセハ
        
ムカツヒメ フチオカアナノ  

オシホヰニ ウフヤノミミニ  
                                      
アレマセル オシホミノミコ  

オシヒトト イミナオフレテ

カミアリノ モチヰタマエハ
  
タミウタフ     

「ムカツヒメ」は「アマテルカミ」の后である「瀬織津姫。ホノコ」。

その第一子「オシヒト」つまり「オシホミミ」を生んだ場所に付いて書かれている。

その場所が「フチオカアナノ オシホヰニ」とある。

これに付いて調べてみると、

高倉山を構成する1山である藤岡山の山裾に鎮座する 上御井神社

いずれもこのように解説されている。(「ウイキペディア 上御井神社」参照)

「ホツマツタエ」の解説でもほぼ同じ。

「フチオカアナ」と書かれているが、山とは書かれていない。

気になるのが地形。

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「地理院地図」からの、「外宮」と「高倉山」の位置関係。

「高倉山山塊」を構成する三つのピーク(?)に赤丸ポイントを打っておいた。

「多賀宮」や「下御井神社」の周辺に入ると、その木立故に山深い感じがするが、「高岡山山塊」はごく小さく、一番高い「高倉山」でさえ標高はわずか117m。

山というよりは岡という感じさえする。

そこで、尾根筋のラインを引いてみた。

紫のラインは、「高倉山」から「上御井神社」に至るライン。

このライン上に「藤岡山」と思えるような山は見当たらない。

尾根の末端部に在る「上御井神社」の少し上部の標高は21.5mしかない。

「高倉山」から「下御井神社」側に伸びるラインは、赤丸ポイントで示した岡状の部分を通る。

この岡状の部分の標高は、87.5m。

ここから尾根は幾本かに分かれるが、一本は「多賀宮」を通る。

「下御井神社」を挟むようにもう一本の尾根筋が、「土宮」側に降る。

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この赤丸ポイントこそ「フチオカ」と呼ぶにふさわしくないだろうか。

「藤岡」ではなく、単純に「高倉山の縁にある岡」。

「フチオカアナ」の、「あな」はここでは「はな(端)・はた(端)」の変態。
とういう解説も見つけた。(「ふちおかあな」参照)

このように地形から読み解いて行くと、「フチオカアナノ オシホヰ」とは、「上御井神社」を指すのではなく「下御井神社」ではないかと思えて来る。

「下御井神社」辺りは谷間で、薄暗く「産屋」を建てるには不向きではないかと思う。

ほんの少し北側に行けば、開けて場所があり、山裾といううにふさわしい場所でもある。

近くには聖水が湧く井戸があり「産屋」を設けるにはもってこいの場所だと思う。

しかも、この場所は特別な場所でもある。

06-06-2

「土宮」と「風宮」の間に、赤丸ポイントで示した「地理院地図」で四角く区切られた場所がある。

この場所に、先ほど示した「合体木」と「八咫烏の木」が生えている。

「内宮の宇治橋」の前の道を「五十鈴川」に沿って南に登って行くと、「剣峠」に至る。

この道を五ケ所湾に向かって下って行くと、切原辺りで真正面に綺麗な三角形の山が見える。

標高はわずか178mだが「浅間山(センゲンザン)」と名付けられている。(
(「行った場所は、石・岩・磐座だらけー速報」よりコピー)

つまり「富士山」。

この山にも、2016年2月11日に登っている。

磐座の沢山ある山で、山頂には「宝永山」を祀っていたので、益々「富士山」。
(「行った場所は、石・岩・磐座だらけー速報」参照)

僕はこの「浅間山」こそ「外宮」の位置を決めるベンチマーク・ポイントではないかと思っている。

「浅間山」の位置情報(地理院地図による)。

N34°21’25.57”  E136°42’13.27”  標高178m

この同経度を「外宮」側に落としラインを引くと、先ほど示した地図の赤い南北ラインとなる。

このラインは、ほぼ「三ツ石」を通り、「忌火屋殿」のすぐ西側に至る。

これこそが「外宮」の南北ラインだと、僕は確信を持つに至った。

したがって、現在の「外宮」の正宮の配置は、少し西にずっていると考えている。

この赤丸ポイントに、「アマテルカミ」と「セオリツヒメ・ホノコ」の第一子「オシホミミ」の産屋が設けられた可能性が非常に高いのではないかと、僕は推察している。

二組の「合体木」と「八咫烏の木」がそれを示しているような気がしてならない。

さらに、この場所を中心に、西に土、東に風、北に火、南に水。
そして周辺には木々。
真上には空。
足元の小さいが石(金)。

「地・水・火・風・空」の「五大」、と「木・火・土・金・水」の「五行」の全てが揃っている。

先日、「場所の記憶」を読み解くという不思議な女性と、このことについて話し合った。

僕にはまだ信じきれない面もあるが、そのような「場所の記憶」が現象として現れ、それを今に伝えている可能性もあるように思えてきた。

「それが樹形として現れている!」。

最近、このような場面によく出会う。

僕もどうやら不思議人間の仲間入りをし出したようだ。

5月28日、芦屋で仕事をしていたので、久しぶりにJR六甲道駅前の上森三郎さんの会社T.T.Cに行き、上森さんと会った。

上森さんはその時、興味深いレイラインを見つけていた。それを5月28日の上森さんのブログ「かごめかごめの真実とは」に書いていた。

題して「卑弥呼さんは竜宮城の御姫様」。

このブログには、いろいろな伏線がある。

その一つが「岡山は凄い! 黒沢山萬福寺は凄いスゴイ !!」。

このブログがアップされたのは5月19日。

僕は5月28日、岡山県美咲町の「棚田のお宿・阿吽山房」に仕事の打ち合わせで行った。

雨が降っていたが、打ち合わせの前に、上森さんが注目した津山市に在る「萬福寺」に行ってみた。

萬福寺」は日本三大「虚空蔵菩薩」として有名なお寺らしいが、僕にはほとんど予備知識はない。

スマホのナビに誘導されて「萬福寺」に向かったが、かなりの山の中。

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雨にけぶる「萬福寺」本堂。

境内には、磐座らしきものは見つからない。

本堂の真裏に回ってみると、小さな社が在り、その下はコンクリート製のタンクのようだ。

しかしその横に、

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巨大な龍の頭。

口から水が流れ落ちている。

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横から見ると、龍の同体は山の斜面。

石が組み合わさっているようにも見えるが、雨で詳しくは観察できなかった。

「萬福寺」で重要なのは「水」かも知れない。

もう一つの伏線は、上森さんが「卑弥呼」の生まれ故郷とする、兵庫県香住町の「庵月山」。

僕はまだ行っていないが、上森さんは「庵月山」には磐座が在ると言う。

そして興味深いのが、「庵月山」のコンターライン。

05-29-1
「庵月山」のコンターラインは、少し尖っているが「ハート形」。

今までに「ハート形のコンターライン」を「地理院地図」上で沢山見つけてきたが、いずれも意味があり、方向性を示している。

「庵月山のハート形」は、鏃のように尖がっていて、特に指し示す方向性が強い。

その示す方向に兵庫県猪名川市の「竜宮山」に至ると、上森さんは指摘していた。

僕も「地理院地図」上でラインを引いてみたが、ピッタリだった。

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このところ何故か、宝塚市から猪名川市そして能勢町あたりに繋がることが多くなってきた。

「竜宮山」という興味深い名の山なので、調べてみると、悲しい伝承だけが出て来た。

悲劇の主人公は「名月姫」というらしい。

山も荒れているようで、磐座が在るかどうかは今のところ分からない。

しかしこのラインをさらに伸ばしてみると、

05-29-3
「三輪山」の中腹に至る。

「箸墓古墳」や「崇神天皇陵」、「景行天皇陵」の近くも通る。

いささか意味深なのだが、ここでは省く。

僕の注目は「甲山」との関係。

「甲山」中腹に在る「神呪寺」の本堂→参道→山門のラインは、ピッタリと和歌山県かつらぎ町に鎮座する「丹生都比売神社」に至る。

このことに付いてはすでに、2016年10月7日に「西宮の甲山と神呪寺のレイライン-1 眞名井神社と丹生都比売神社」に書いている。

また「丹生都比売神社」の本殿→拝殿→太鼓橋のラインは、ピッタリと「庵月山」に至る。

このことも2016年10月11日に「西宮の甲山と神呪寺のレイライン-2 丹生都比売神社と兵庫県香住の「庵月山」」として書いている。

「甲山→丹生都比売神社」のレイラインは「空海」の関連で容易に理解できる。

しかも、「丹生都比売神社」の上部、高野山への表参道である「町石道」には、不思議な鳥居が在る。

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二つ鳥居」(2015年2月5日に書いた「丹生都比売神社と二つ鳥居」参照)

この鳥居の不思議さは、潜っても行き先がない事。

この鳥居は正にモニュメント。

元の木造の鳥居は「空海」が造ったとか。(上森さんのブログ「二つ鳥居の謎」参照)

上森さんは「二つ鳥居」に「空海さんと眞名井御前の影を見た」などと言っていた。

「丹生都比売神社」と「庵月山」のレイラインンに付いてはよく分からない。

「丹生都比売神社」には立派な太鼓橋が在り、その方向が「庵月山」を指している。

強い意志を感じる。

「丹生都比売=卑弥呼」の等式が成り立つのだろうか?

「丹生都比売=瀬織津姫」という説もあるらしいので、「瀬織津姫=丹生都比売=卑弥呼」の等式も成り立ってしまうのだろうか?

そしてさらに「庵月山のハート形」は明確に「竜宮山」を指している。

「猪名川の聖地」との関わりも出てきている。(「猪名川町の烏帽子岩とドルメン」参照」

ネットワークとして、複雑に絡み合い繋がっているように思える。

ちなみに「甲山→竜宮山」のラインを伸ばして行くと、何処に繋がるかを探ってみた。

05-29-4
なんと福井県おおい町の「大飯原子力発電所」に至る。

関西電力の原発の余剰電機は、神河町に在る揚水型ダム・「太田ダム」に送られる。

「太田ダム」の近くには、上森さんが言う「イエスキリストの真の陵墓」が在る。

「卑弥呼の陵墓」のすぐ傍にも巨大な送電線鉄塔が在り、この送電線を「地理院地図」上で追って行くと「能勢変電所」に至る。

現代のエネルギー・ネットワークはうねうねと複雑に曲がりくねりながら、しかしどこかで皆繋がっている。

レイラインは極めて直線的だが、ハブとなるような重要な聖地でいろいろ繋がっているような気もする。

このようなレイラインによる繋がりを、どう捉えてよいのか、まだよく分からない。

しかし何らかの繋がりを示しているに違いないと、思いつつある。

我が仕事部屋というか事務所は、本やら鍋釜でぐちゃぐちゃ状態。

探し物があったのでほんの少し片づけた。

積み上げた本の隙間から「検証 ホツマツタエ 第74号」が出て来た。

何と無くページを捲っていると、「大江幸久」さんの「六甲山・瀬織津姫とワカ姫」という記事があって「甲山の神呪寺」が書かれていたので読んでみた。

そして思い出したのが、大江さんの「六甲山 瀬織津姫 白山姫と和歌姫 和す・尽くす トノオシテの復活」のA4プリントアウト版の論文だった。
(「六甲比命神社」に置いてある論文で、サラシャンティでも1000円で購入可能。)

購入してはいたものの、ちらっと読んだだけだった。

大江さんは、神話伝承・ホツマツタエ研究家で、特に「瀬織津姫」の研究家として名高い。

この論文の中に「麁乱荒神(ソランコウジン)」という神名が出て来た。

「鷲林寺」や「神呪寺」にこの神の伝承があるらしい。

大江さんの論文を読むと共に、引用していた「鷲林寺のホームページ」も見てみた。

現住職による「鷲林寺と麁乱荒神」という論文が掲載されていて、非常に興味深いので、ほぼ全文コピーさせていただく。

鷲林寺略縁起 
当寺は人皇53代淳和天皇(じゅんなてんのう)の勅願にて天長10年(833)弘法大師空海によって開創された真言宗の寺院である。
観音霊場を開こうと地を求めて旅をしていた弘法大師が廣田神社に宿泊されていたとき、夢枕に仙人が現れこの地を教示された。それに従い入山したところ、この地を支配するソランジンと呼ばれる神が大鷲に姿をかえ、口から火焔を吹き大師の入山を妨げた。大師は傍らの木を切り、湧き出る六甲の清水にひたして加持をし、大鷲を桜の霊木に封じ込めた。その霊木で本尊 十一面観音(じゅういちめんかんのん)を刻み寺号を鷲林寺と名付けた。また、大鷲に化けたソランジンは麁乱荒神としてまつられた。
その後、貴族寺院として大いに栄え、盛時は70坊以上を有する大寺院に成長し、その寺領は鳴尾地方(なるおちほう)にまで及んでいたことが古文書などによって伺える。しかし、戦国時代に入り寺領は押収され、天正6年(1578)11月に荒木村重の乱(あらきむらしげのらん)が起こり、それを期に翌7年、織田信長軍のために諸堂塔はすべて焼き滅ぼされてしまった。本尊を始めとする仏像は瓶(かめ)に入れ地中に埋め隠されたため兵火から逃れることができた。後に掘り出され小堂宇を建立し観音堂としたが、その後も幾多の山津波や火災に遭い、住職がいない時代が長く続いた。昭和の時代に入ってようやく復興され始め現在に至っている。

「鷲林寺」は、天長10年(833年)、空海によって開基されている。
また「神呪寺」は天長8年(831年)に落慶したとウイキペディアに書かれていた。

「鷲林寺」と「神呪寺」はほぼ同時期に創建されていることになる。

鷲林寺と神呪寺が伝える麁乱神
ソランジンは鷲林寺の開基伝(かいきでん)に登場するが、神呪寺(かんのうじ)開基伝にも登場する。神呪寺は西宮市のシンボルとされる甲山(かぶとやま)の麓に位置する真言宗の寺院である。鷲林寺の開基伝説の主人公が弘法大師であるまに対して神呪寺のものは如意尼公(にょいにこう)となっている。如意尼公は淳和天皇の妃であり弘法大師の弟子のひとりとして伝えられる。如意尼公が弘法大師の協力を得て神呪寺を建立しようとしていた時、鷲林寺からソランジンと呼ばれる神が大鷲に姿をかえ建立の邪魔をしに来た。その本体は八面八臂(はちめんはっぴ・・・・顔が八面で八本の腕を持つ)である。如意尼公は何度も襲いかかるソランジンに恐怖を感じ大師に相談した。東の谷に大きな岩があるのでその上に神をまつれとの大師の教えに従ったところ、それ以降邪魔をしなくなり逆にソランジンは守護神となったと伝える。
開基を伝える資料の中で現存する最も古いものは元亨釈書(げんこうしゃくしょ)である。元亨釈書は鎌倉時代に虎関師錬(こかんしれん)が著した書物で30巻からなる資料である。この中に如意尼公が神呪寺を建立した記述があり、そこに麁乱神を登場させる。元亨釈書以降の記述はすべてこれを元に著されているものと思われる。また、弘法大師弟子譜卷十の天長七年二月の項には、如意尼公が神呪寺を建立しようとした時、麁乱神が邪魔をしたことを説き、この麁乱神が鎮守伽藍神(ちんじゅがらんしん)となり、これをまつる寺を鷲林寺としたと記述されている。
鷲林寺と神呪寺が開基された時代はほぼ同年代と伝えられているが、数ある開基伝では如意尼公を中心にした物語が大半を占めるのに対し、鷲林寺に伝わる開基伝のみが如意尼公を登場させず弘法大師を主人公としている。これは鷲林寺と神呪寺の間で勢力争いがあったことを意味するのではないだろうか。

「荒神」が現れて、寺の開基を邪魔するのは、空海が高野山を開く時の伝承にも出て来る。

大和国吉野郡池津川の南に当りて海抜四千二百余尺の高峯荒神ヶ岳という所に三宝荒神の御社あり。本地は阿弥陀如来ましまし当所の鎮守なり。
抑も当社の由来を尋ぬるに弘法大師御勧請の霊神と申伝うるなり。
往昔人皇五十二代嵯峨天皇御宇弘仁七年、大師高野山伽藍を開基し給う思召にて初めて御登山これあり。今の檀場にて地鎮の法を修行し給う時、俄かに天地振動し東の方より黒雲たなびき其中に異類異形の夜叉神顕われて大師の御建立を妨げんと種々の障碍をなしければ、大師暫く修法を止め、汝は何者ぞと問い給う。夜叉答えて曰く我はこれ荒神ヶ岳に住む神也、我別に神体なし、汝は則一切衆生本有倶生障(しゅじょうほんうぐしょうく)の惑貪瞋痴(わくどんしんち)の三毒にして一切衆生の善根功徳を障うる神なり我に九億九万八千五百七十二神等の眷属ありて、衆生の悪業力に因って、彼の眷属を不信心の家に遣し日々に七難を起し夜々に七福を滅して貧窮無福の人となさしめ、一切の善事を障うるなり。若し衆生有て、勇猛精進にして種々の供具を備え、一心に我を祭らば速に本に帰し三宝荒神と現じ一切の障碍悉く消滅し一切の諸願立所に満足せしめん、七難即滅七福即生は我第一の誓願なり、汝先我を供祭せば必ず大願成就すべしと云えり。
依て大師無二の信心を凝し一枚の板に三宝荒神の御像を画きて本尊となし、一七日の間荒神供を御修法ありて、伽藍繁栄、密教守護の祈誓をなし給うて、檀上の鬼門に荒神の社を勧請あり。而して後に大伽藍を御建立ありけるに何の障もなかりき、故に大師御一生の間は、毎月当山にご参詣ありしとぞ。

(「三宝大荒神略縁起(荒神社御宝物写)」よりコピー。

内容はほぼ同じ。

要するに「空海」は地の神を大事にしたということであろうか。
それと共に、「空海」の霊力の強さも表しているようだ。

麁乱荒神(そらんこうじん)と三宝荒神(さんぼうこうじん)
谷響集(こっこうしゅう)第九に「悪人を治罰することがあるが故に麁乱荒神と称し、また三宝を衛護するが故に三宝荒神と号す」とあり、麁乱荒神と三宝荒神は同体でであると説く。荒神は日本で古くから信仰されている神であるが、インド伝来の神でもなく中国からもたらされた神でもなく、日本で成立した神であると言われる。神道では荒ぶる神であり素戔鳴尊(すさのおのみこと)と関係があると説き、陰陽家では大年神(おおとしがみ)・奥津日子命(おくつひこのみこと)・奥津比売命(おくつひめのみこと)の三神とし、仏教では毘那夜伽(びなやきゃ)・荼吉尼(だきに)・剣婆(けんば)あるしは摩多羅神(またらしん)とするとある。ここにいう素戔鳴尊は、古事記や日本書紀に見られるように天界で暴れる荒ぶる神とされ、大年神・奥津日子命・奥津比売命は素戔鳴尊の子孫にあたり、これらの神が竈(かまど)の神としてまつられることから、いつの時代からかこれらと結びつけて荒神を竈神としてまつるようになったのかもしれない。


清荒神(きよしこうじん)
宝塚市に真言三宝宗大本山 清澄寺(せいちょうじ)がある。清荒神として広く信仰を集めている寺院であるが、清荒神は鷲林寺の麁乱荒神を移したものであるという説がある。東大寺 戒壇・真言両院長老 性善(しょうぜん)・・・(洞泉)の伝を智山第二十二世・動潮(どうちょう)がまとめた三宝院洞泉相承口訣(さんぼういん とうせんそうじょう くけつ)第二十二 荒神供 に著しているのがそれである。これによると、清荒神とは如意尼公が神呪寺を建立するときに出現した鷲林寺の麁乱神のことであると説く。また逆に、清澄寺に伝わる蓬莱山清澄寺記(ほうらいさん せいちょうじき)にも弘法大師が神呪寺を建立のとき、まず鷲林寺に麁乱荒神をまつり、清澄寺を開創の折に益信(やくしん)がその神を清澄寺の西の谷にまつったとし、その深い関係を強調している。

ソランジンに対する私見
鷲林寺と神呪寺の開基伝にともに登場するソランジンは両寺にとって重要な神であると言える。大鷲に姿をかえたり、口から火焔を吹いたりしたという話は信じがたいが、弘法大師の「飛行三鈷」(ひこうさんこ)の話と同じように、その話の裏には真実・真理が隠されているはずである。ソランジンが現れ、大師なり如意尼公の邪魔をしたということが何を意味するのかを考えてみた。
仏教が伝来する前の日本は神の国であり、八百万(やおよろず)の神が守護していた。六世紀半ばに中国大陸を経てインドから仏教が伝来する。インドの神々を日本に受け入れるためには大黒天(だいこくてん)などのように、日本の神とインドの神を習合させなくてはならなかった。(本地垂迹)
仏教が伝来する前の西宮地方は廣田神社の神域であった。その神域内に神呪寺なり鷲林寺なりの寺院を建立するということになると、もともと鎮座されている神である廣田の宮に挨拶をすることは当然のことであろう。廣田の宮の祭神は天照大神荒御魂(あまてらすおおみかみ あらみたま)である。伊勢神宮の和御魂(にぎみたま)と対で伊勢を“東の宮”とするならば廣田を“西の宮”と故障するという説があるほど大切な宮である。
その神を両寺院建立の物語上に、天照大神荒御魂をソランジンとして、すなわち麁乱荒神として表現したのではないかと考えられるのではないだろうか。

この「ソランジンに対する私見」と同じようなことを、大江さんも述べている。

麁(あらい)乱(みだ)れ=あらみたま=天照大神荒御魂示すと思われる。

と、大江さんは注釈している。

「天照大神荒御魂=瀬織津姫」と解釈しているようだ。

すると「麁乱荒神」=「瀬織津姫」という等式も成り立ってくる。

そして住職の論文で特に興味深いのは、「東の谷に大きな岩があるのでその上に神をまつれとの大師の教えに従ったところ、それ以降邪魔をしなくなり逆にソランジンは守護神となったと伝える。」というくだり。

「東の谷の大きな岩」とは、

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「甲山中腹」の「神呪寺」から東に回った所に在るこの巨石・磐座群として間違いないだろう。(写真は2016年4月7日に書いた「甲山の磐座」よりコピー)

付近は谷というほどの切れ込みはないが、この岩の根元から水が染み出しているのを確認しているし、その下部は浅いが谷状に成っている。

「甲山」の東側に付いては、現地を歩いて調べているが、この巨石・磐座群より大きなものには出会っていない。

伝承通りに、この巨石・磐座群の上に「麁乱荒神」を祀っていたとすれば、興味深く面白い。

大江さんの推察通り「麁乱荒神=瀬織津姫」であるなら、この巨石・磐座群は「瀬織津姫の磐座」ともいえる。

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(「甲山の重要性-1 甲山森林公園のシンボルゾーンとの関係」よりコピー)

「甲山」の真東に「瀬織津姫の磐座」があり、さらにその東側に「甲山森林公園のシンボルゾーン」が在る。

大江さんは、シンボルゾーンの「愛の像」を「廣田神社」の一番元の社地と、推定しているようだ。(同論文58ページ)

僕も何と無くだけど、「廣田神社の元宮」はその辺りではないかと考えている。

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シンボルゾーンの「愛の像」と「甲山」。
僕の根拠は、地図で分かる通り、「甲山」はシンボルゾーンの真西に在り、その中腹に在る磐座は、朝陽を浴びて、黄金色ないし茜色に輝いていたと思われるからだ。

現在は樹木が茂りすぎてしまった、その輝くさまは観測できないが。

その磐座にが「瀬織津姫の磐座」ならば、元宮が在っても何の不思議もない、理想的な場所といえる。

また「甲山の重要性-5 みくるま池の源流と下流」に書いたように、

みくるま池
昔、この谷を横切る道は古来、京、大阪から神呪寺に参詣する山道に当たり淳和天皇がこの地に真井御前(まないごぜん)を訪ね御幸されたとき、ここで御車を降りられたといういい伝えから、その名が付けられています。周囲には休憩広場や芝生広場があり、憩いの場になっています。

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「淳和天皇」の時代とは、景観もかなり異なるだろうが、完成したばかりの「神呪寺」に参拝に行く途中でこのような光景が見えれば、「淳和天皇」が御車から降りるのも当然だろう。

中腹に見える巨石は「瀬織津姫の磐座」であり、それはご先祖様でもあるのだから。

「古事記」や「日本書紀」では完全に消されてしまった「瀬織津姫」は、「聖徳太子」、「役小角」、「空海」達によって仏に名を変えて守られていると、大江さんは推察している。

それ故の「神仏習合」だとも書いている。

非常に興味深い。

それが明治時代になって「神仏分離」され益々ややこしく分からなくなってしまっている。

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