吉野山には何度か登っている。

高校三年の晩秋、吉野から山上ヶ岳、弥山を経て前鬼まで、山岳部の友達と二人で歩いたことがある。

吉野を午後に出て、夜通し歩いて弥山までまで歩いた山行は思い出深い。

しかし、吉野の山には何の印象も残っていない。

すでに半世紀以上もも前の事だ。

昨年2月、千葉の造園家「高田宏臣」さんに誘われて、吉野の桜の調査に同行した。

桜の状況を見て回ると同時に、石・岩・磐座は無いものかと眼を光らせた。

金峯山寺」の朝の勤行にも参加したが、それらしいものを見つける事は出来なかった。

「金峯山寺」は「役小角」の開いた、「修験道」の総本山とも言うべき寺院なのに、石・岩・磐座らしきものが見つからないのが不思議だった。

10月6~7日は「吉野信子・カタカムナ研究会」の研修旅行だった。

7日は、9時~12時まで研究発表だった。

僕も発表した。

昼食後、先ず向かったのが「吉水神社」。

泊まった温泉旅館のすぐ近くだった。

「金峯山寺」への、
まるで商店街のような参道から、急坂を一旦降り、再び階段を登った所に山門がある。

「吉水神社」は元は寺院で「吉水院(キッスイイン)」と言ったらしい。

後醍醐天皇」が「吉野行宮」を開く上で重要な拠点となった場所らしい。

明治時代の「廃仏毀釈」の影響下、「明治天皇」の命により、「後醍醐天皇」を祀る
「吉水神社」となったらしい。

始めて行く場所でもあり、全く予備知識も無かった。

山門前で、先ず面白い石を見つけたが、これに付いては、後ほど書くことにする。

山門を潜ってまず目に飛び込んだのは、

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石組された庭園だった。

この部分は、境内の左側で、右側にも枯山水の石組が在る。(庭園に付いても別に書くことにする。)

庭園以上に僕の眼を引いたのが、その向こうの小山のような盛り上がり。

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少し角度を変えて見ると、その小山のような盛り上がりは、かなりの急斜面。

表面はほとんど全て植物で覆われ、土なのか岩なのか分からない状態。

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近付いて観察しても、岩かどうかは判然としない。

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この角度で見ると、階段のような個所があり、一部石積みもされているが、その上には露岩も見える。

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「吉水神社」の書院の廊下側から見る。竹垣の背後はトイレで、その向こう側はかなりの崖。

左手の藪上に見えている部分が、小山。

草木が覆い茂っているので、何が何だか分からない。

団体行動なので、勝手に周辺を調べる分けにも行かない。

しかし、先ずこの小山の形状から、全体が岩であることに間違いがないと確信が持てた。

つまりこれは、かなり大きな磐座だという、確信。

「吉水神社」に付いては全く何も知らなかったので、帰ってから調べてみた。

吉水神社、𠮷水神社(よしみずじんじゃ)は、奈良県吉野郡吉野町吉野山にある神社である。旧社格は村社。世界遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」の一つとなっている。「吉」の正確な表記はTsuchiyoshi.svg(「土」の下に「口」、つちよし)である。

もとは金峯山寺の僧坊・吉水院(きっすいいん)だったが、明治維新の神仏分離(廃仏毀釈)により、神社となった。後醍醐天皇を主祭神とし、併せて南朝方の忠臣であった楠木正成、吉水院宗信法印を配祀する。
(ウイキペディアよりコピー)

社伝では、白鳳年間に役行者により建立されたと伝えられる。南北朝時代、後醍醐天皇が吉野に潜幸したとき、宗信法印の援護を受けて吉水院に行宮を設け、一時居所とした。後醍醐天皇の崩御の後、後村上天皇が後醍醐天皇の像を作って吉水院に奉安した。
(ウイキペディアよりコピー)

つづいて、「地理院地図」でその地形を調べてみた。

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「金峯山寺・蔵王堂」に向かう参道の周辺に沢山の建築が並んでいる。

それらを取り囲むような顕著なコンターラインがある。

太いコンターラインが標高350mのコンターライン。

これが特徴的。

10数mの高低差で細長く続く。

「吉水神社」辺りで、南北に膨らんでいる。

北側の「吉水神社」側には、吹き出しのように尾根が突出する形になっている。

「金峯山寺・蔵王堂」への参道から、一旦降り、そして登るという構造は、防衛的にも有効だと思われる。

しかも東側も西側も急勾配で谷に降る。

北側は緩やかだけれど、見通しがきく。

東側には、大岩が南北に突出し、この場所の聖性を表しているようにも思われる。

ウイキペディアに、
「吉」の正確な表記はTsuchiyoshi.svg(「土」の下に「口」、つちよし)である。とあるように、この場所のすばらしさを表している。

防衛上も、自然の要塞となっている。

「大峰山」を修験道の霊地として開いた「役小角」は、吉野の山に本拠地を築くためにまず選んだ場所は、現在の「吉水神社」つまり「吉水院(キッスイイン)」ではなかろうか。

吉野全体を見て回ったわけではないが、ネット上で調べた結果も、この地域に磐座と思しきものは見いだせないでいる。

この場所こそが、吉野地区唯一の磐座かも知れない。

「役小角」がこの場所を見逃すはずがない。

しかし、場所的に狭い。

巨大な「蔵王権現」を安置する
には狭すぎる。

それ故に、広い空間をこの場所の近くに求め、造成して「金峯山寺・蔵王堂」を建立したのではなかろうか。

植物が茂っていて、全体像がつかみにくいが、この磐座が在ってこそ、「役小角」もこの場所を聖地にしたのではなかろうか?

「後醍醐天皇」もまた、この磐座を目指して、この地にやって来たのではなかろうか?

また、ほぼ南北に連なる「大峰山地」の北端に当たる場所で、険しい山々を通じて、南部の大聖地「熊野」に繋がっている。

さらに、末は「紀ノ川」となる
「吉野川」を挟んでその北方には、「明日香」、「橿原」、「奈良」、「京都」と都の旧跡が繋がる。

この「吉野川」のすぐ傍を東西に「中央構造線」が通る。

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中央のブルーの帯が「中央構造線」。

「中央構造線」は、地質的にも大いに違っている。

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黒のラインは「断層」。

「吉野川」の北部の、東西に走る断層線が「中央構造線」。

色分けされているので、地質の違いがよく分かる。

北部の赤い部分は「火成岩」系、南部のグレーの部分は「付加体」で主に「堆積岩。

地質的に見ても、吉野が「南朝の行宮」を置くのにふさわしい場所だったのかもしれない。

「後醍醐天皇」はこの場所から、強く京の都に帰ることを夢見ていたのかもしれないが。

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「Googleマップ」の衛星写真で見ても、磐座部分は樹木で覆い隠されてしまっているので、これが岩だという事は、全く分からない。

磐座部分の写真を拡大してみると、植物の生えていない部分は層状の岩石であることが分かる。

石質まで鑑定する目を持っていないが、「堆積岩」であるという事がはっきりと分かる。

この小山のような部分はおそらくこの石質ではないかと思う。

亀裂が極めて多いので、植物茂り、覆い隠されてしまっている。

「吉水神社」の宮司「佐藤一彦」さんと少しだけ話をする機会があって、この磐座に付いて尋ねてみた。

「全てが岩で、磐座です。」

「建物側は、建築の際に削られています。」

「上に祠が在ったようで、再建したいと思っています。」

との答えをいただいた。

「佐藤宮司」も磐座として認識されているようだった。

それにしても、「
建物側が削られている」というのが氣にかかる。

建築内部には、

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「義経潜居の間」と呼ばれている「書院」があり、

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「後醍醐天皇の玉座」もある。

鎌倉時代に建てられた初期書院造りの傑作といわれます

檜皮葺きで、南面入母屋造・北面切妻造段違・西面軒唐破風付の建物です

書院建築史の第一頁に位する本格式の住宅建築
現在日本住宅の源流をなす最古の実例として数々の珍しい手法が見られます
初期書院造の代表的傑作です

後醍醐天皇の玉間と源義経が潜居したと伝えられる間があります
「義経潜居の間」は、室町初期の改築で床棚書院の初期の様式を伝えるきわめて古風な遺構です
「後醍醐天皇玉座」は、後年秀吉が花見に際し修理したもので豪華な桃山時代の風格を残した書院です
大正4年に重要文化財に指定されています

という記事を見つけた。(吉水神社書院「吉水院」よりコピー)

現存する最古の「書院」とされているようで、鎌倉時代ののものとされている。

桃山時代の「豊臣秀吉」による改築もあるようだ。

だとすると、磐座の書院側、つまり西側が削り取られてのが何時かというのが問題になる。

「役小角」はまず磐座を割るという事はしないはず。

おそらく「後醍醐天皇」もやらないのではないかと思う。

桃山時代、「豊臣秀吉」はこの場で、壮大な花見をしている。

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この案内板によると、

1594年(文禄3年)の大幸秀吉公が、5千人の家来と吉野の大花見をしました。
その時、吉水神社(旧吉水院)は花見の本陣となりました。
この花見に際して、豊臣秀吉が自ら基本設計を行った庭園です。
この庭園は安土桃山時代の華やかな雰囲気を今に伝える「桃山様式の日本庭園」です。

とある。

あるいは、「秀吉」の命によって、磐座も切り崩された可能性も大かと、邪推。

つづく