「上森三郎」さんのブログ「かごめかごめの真実とは」は、毎日朝6時過ぎにアップされる。

そのブログを、毎朝ベットでチェックするのが、僕の日課に成っている。

7月28日のブログは、僕個人へのコメントのようであった。

小野妹子~孝徳天皇~定恵~光明皇后の順番でお願いします」と!

武部さん、お墓参りは、定恵の墓から光明皇后の墓へと行きたいと思います。

申し訳ありませんが、それまでに小野妹子の墓から孝徳天皇陵へと行っていただけないでしょうか。

それが順番のようです。

とあった。

8月2日に、上森さんが「光明皇后の陵墓」という「光明山」という山に行くことに成っている。

上森さんからのこの手の要請は、久々だ。

その前に僕が行かねばならない場所があるらしい。

場所は我が家から近い太子町。

「小野妹子の墓」へは以前に行った事がある。

上森さんが指定して来た「小野妹子」、「孝徳天皇」、「定恵」、「光明皇后」の繋がりは、僕にはまるで分からない。

「小野妹子」は、「聖徳太子」と深いかかわりのある人。

同じ太子町の「叡福寺」には「聖徳太子廟」がある。(「美具久留御魂神社」と「三輪山」を結ぶライン上に「聖徳太子廟」が在る。「美具久留御魂神社と三輪山」参照)

上森さんは「聖徳太子」という人はおらなかったとしている。

「乙巳の変」で殺された「蘇我入鹿」が「聖徳太子」とされたと上森さんは言う。(「大和郡山の松尾寺-1 磐座と小山」参照)

このところ上森さんは「藤原不比等」にのめり込んでいるようだ。

「大化の改新」は、古代日本の大変革期に当たると思うが、ここに登場する人物はその時代の人達であり、主人公だと思う。

超古代の日本文化が、大陸からの文化に塗り替えられようとした時代でもあるように思う。

超古代の日本の文化が隠された時代でもある。

何故上森さんが、「藤原不比等」にのめり込んでいるのか、僕にはよく分からない。

その「藤原不比等」の娘とされているのが「光明皇后」。

上森さんは、「それも違う!」と言っているが。

上森さんの依頼で一緒に行く山の殆どは「お墓・陵墓」。

定説とは全く違う場所だが、上森さんは「神さま」に導かれ、地図上で「三角法」などを駆使しながら、その位置を特定して行く。

そして、その場所に行く。

その殆どに、何故か僕が誘われる。

僕にはそれぞれの「陵墓」に付いてはよく分からないが、別の関心事がある。

そしてその場に行くと、それが見つかり、次に繋がる。

何とも不思議。

「小野妹子の墓」には以前に行った事があるので、上森さんの指示した順番とは違うが、先ず向かったのは、「孝徳天皇陵」。

場所は大体わかっていたが、太子町のあの辺りは道がややっこしいので、スマホのナビで行くことにした。

カラーアスファルトや石貼りで整備された道に入る。

するとスマホのナビは、道が違うと言う。

U転して、ナビに従う。

すると、ある企業の私有地に入るように指示する。

勿論、関係者以外立ち入り禁止。

仕方なく、地図で場所を確認して向かうと、先程の道。

この道は細いが、最古の国道「竹内街道」。

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駐車スペースにはバリケードがあって入れなかったが、道が狭いのでギリギリに駐車。

周辺は草刈りもされ、綺麗に整備されていた。

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天皇陵ではどこでも見る「宮内庁」の注意書き。

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正面から挨拶できない。

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砂紋が美しい。

砂紋は、侵入を監視するシステムでもある。

降りかけると、踏み跡があったので行ってみた。

陵墓の脇に出た。

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綺麗な「円墳」で、「聖徳太子廟」と同じ。

ほぼ真北に立つと、気持ちの良い風が吹き出したので、「きみがよ」を歌った。

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反対側から。

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「孝徳天皇陵」は、一番高い所に在る分けではないが、きれいな「円墳」であることが、コンターラインからも分かる。

次に、「小野妹子の墓」に向かう。

「科長神社(シナガジンジャ)」のすぐ上に在る。

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「小野妹子の墓」への階段はけっこう長い。

その登り口で、「科長神社」との分岐のところに、

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石と二体の石仏。

石仏は古くはないが、この石は「小野妹子の墓」を作った時にすでに在ったのではなかろうか?

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何か意味ありげ。

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石の右手の、道標的な燈籠。

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階段脇の石碑に、「道祖小野妹子の墓」と書かれているが、「道祖」がよく分からない。

思い浮かぶのは「道祖神」。

「塞ノ神」、「幸の神」ともされ。「サルタヒコ・申田彦大神」に繋がる。

調べると「小野妹子」は、「華道の祖」とされているらしい。(「令和2年 池坊の道祖・小野妹子の墓前祭を行いました」参照)

それで、

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階段脇にあるこの石碑の意味も分かった。

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階段を登り詰め、右に回ると、

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祭壇が在る。

方位は見ていないが、ほぼ北に向かって拝むように成っているのかもしれない。

ここでも、「きみがよ」を一人歌う。

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「小野妹子の墓」も「円墳」で、土留めの石積みは、古くはない。

「科長神社」にも挨拶に向かう。

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拝殿。

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石燈籠にくっきりと刻まれた「八社宮」が気になる。

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本殿。

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本殿の彫り物は「龍と鳳凰」。

例によって、本殿の裏に回る。

すると、

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本殿の真裏に、「小さな石」。

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この「小さな石」は明らかに祀られているように思う。

「丸石」もいくつか有り、おまけに「白狐」。

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すぐ裏側は、急な崖で岩盤。

小滝も在る。

科長神社」の主祭神は、「級長津彦命・級長津姫命」という「風の神」。

元は「二上山」に祀られていたという伝承も在るらしい。

科長→磯長→息長との連想からか「神功皇后」の生誕地とする伝承もあるようだ。

境内社でひときわ目立つのが、

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「正一位・金平大明神」。

この、

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同じ境内社の「金毘羅大権現」とは、別のようだ。

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狐もいるし「正一位」だし、「稲荷社」のように思えるが・・・。

調べてみても、よく分からない、

「科長神社」の社殿の向きを調べてみると、喜志の「美具久留御魂神社」に至る。

「美具久留御魂神社」は、「聖徳太子廟」と「二上山」を通って「三輪山」と繋がる。(「美具久留御魂神社と三輪山」参照)

「レイライン・ネットワーク」で間接的に、「二上山」、「三輪山」と繋がっているように思える。

「科長神社」の北東方向に、326mの「神山(コウヤマ)」が在る。

「神山」は以前気に成った山で、2018年12月9日に登っている。(「宍粟市の熊ノ原の宝珠岩から繋がった太子町の神山」参照)

「神山」は見る向きによって、綺麗な三角形に見える。

近くにもう一座、綺麗な三角形の「254mの山」が在る。

この二座の山と「宍粟市の熊ノ原の宝珠岩」と繋ぐと、いずれも神河町の「イエス・キリストの陵墓」を通る。

このレイラインは、両地域の繋がりを表しているようにも思われる。

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「神山」を中心とした「レイラン・ネットワーク」。

この「レイライン・ネットワーク」とワークの意味は?

「二上山」の西側には、古墳が非常に多い。

太子から羽曳野周辺、そして古市には「古市古墳群」が在り、そのさらに西には「百舌鳥古墳群」という巨大古墳群が在り、いずれも「世界遺産」に登録されている。

上森さんが見出した「神河町」は、「秘められた古墳群」。

この古墳群が証明されれば、日本史どころか世界史まで変わってしまう。

人に何と言われようと、その解明に命をささげている「上森三郎」さん。

さて次は、何に出会えるのであろうか?