こんにちはこんばんはおはようございますm(_ _)m 世界一影の薄い勇者です。アニメーション描いて、ブログ一記事だけ書いて、しばらく音信不通になっておりました申し訳ございませんm(__)m 
言い訳をします。


…反動が大きかった…( ̄▽ ̄) 

いやですね…、いや〜ですね……。

キツかった。アニメーション描いた後、なんか、何もしたくなくなった。もうゲームもしたくなかった。パソコンもいじりたくなかった。かといって眠くもなかった…。

そんな「なんで俺は生きてるんだ⁉︎」生活を送っていまして。最近復活しました。本当にすみませんm(__)m

(*実はですが…映画はしっかり毎週欠かさず観てましたm(._.)m

…ということで反省も込めてのこちらの作品です。

旅猫リポート 感想会

初見の感想

原作読んだ身なのですが…
…感動しました。

<目次>

*ここから下ネタバレ不可避

あらすじ


どうしても猫のナナを手放さなければいけなくなったサトルは、猫を受け取ってくれる人を探しに、銀色のワゴンに乗って、小、中、高と、それぞれの友達に会う旅に出かけて行った…。
サトルとナナの、思い出の、決して繰り返すことのないただ一つの旅…。

映像への変換


私はさっき、原作読んだと言いました。そこにもう少し情報を付けたそうと思います。

私は原作のファンです

( ̄▽ ̄) 懐かしいですね〜高校の帰り、夕方5時半頃の、少し混んでる電車内の隅で、ちょうどこの本の終盤読んでて、本格的に泣きそうになって、しゃくりあげそうになりながらもなんとか堪えて読み進めていた思い出があります。

この本は…是非読んでほしいです。というか、おそらく読み始めたらズンズンと読み進めてしまうと思います。

なぜならこの本…

最初の1ページから既に面白いからです。
本当に面白い(( _ _ )) 「我輩は猫である 名前はまだない」 から始まるのですが、とにかく有川浩さんの書く文章に引きずり込まれます(*引きずり込まれます ̄∀ ̄) 

で、話を戻しますが、原作があるということで、原作の再現度が注目されると思われます。その点で言うと…、

…かなり高いと思う…。

…と僕は思う…。

おそらく個人差はあります。ただ僕が感じたこととすれば、『旅猫リポート』を再解釈したのが映画版『旅猫リポート』ではないかと…。

ネタバレになるので言えませんが、映画版で原作と変わっているところがままあります。それを「いや変えちゃあかんやろ」と思うか、「非常に良い変え方で感服致します」とひれ伏すのか、個人差はあると思います。

ただ、あの原作1ページ目から引きずり込まれる文章は、カットされています。それと連動するように、結構印象的な言い回しもカットされています。コースケが猫飼うかどうかメールするところとか。カットというか、変わってるというか…。

ですが、決して最初っからそうパッと変えたのではなくて、どうにかして再現しようと努力して、けど出来なくて、だから色々考えた挙句この方法で落ち着かせたというような葛藤があると感じました。

よって、全体を通して観て、原作への愛もあるし、再現度としては高いと思います。で、ここで思ったのが、ある種の考え方として…、

文章と映像は別物

という事です。皆さんは、僕もそうですが、文章を読む時にその状況や場面を映像として想像すると思います。

例えば松尾芭蕉の俳句
『古池や 蛙飛び込む 水の音』
で、多くの人は「静寂に包まれた古くからある、石に苔が生えた池に蛙が一匹居て、その蛙が池に飛び込んで、波紋が立ち音がし、そしてまた静寂が訪れる」というような映像を頭の中でイメージし作り上げ、それを再生すると思います。

しかし、この俳句、外人が訳した文には蛙のことを

frogs

と訳しているらしいです。語尾にsが付いている。つまり「複数蛙がいる」となります。

この時に、「いや、この俳句はわび・さびを描いているのであって、複数いる訳がない、だからこの訳しは日本のわび・さびを分かっていない」と考える人が私含めていると思います。しかし、こう考える事も出来ると思います。「この訳の通りにイメージしたらどうだろう?」

確かに、義務教育の過程で、高校などで「この俳句は静寂を表している」と教えられて来ました。しかし、複数蛙がいるとイメージした時、全く違う映像と印象が浮かび上がると思います。

この例はかなり顕著ですが、つまり僕が言いたいのは

同じ文章を読んでいても、人それぞれ微妙にイメージが違う

ということです。どういう町?、どんな顔?声?とか、ほんの少しの違いが必ず生まれます。

それは一人一人がそれぞれ異なる人生と経験を積んでるからなのですが、それは本を読んだ人がそれぞれの経験から、それぞれの世界を作っている事になります。

では映像はどうかと考えると、それとは逆に、状況や場面はある程度固定されます。どこを見ればいいかも固定されます。しかし、文章では描けて、映像では描かれない部分があります。それは心情描写です。

こう考えると、文章と映像で、描ける箇所と描けない箇所が分かれている事がわかります。その他にも、例えば映像では画面の統一化がなされ、その映像を観た人のイメージする画面が同じことにより、感動や面白さの共有が小説より優しくなると考えられます。

加えて、同じ時間軸で観れる事によって、リアルタイムでの感動の共有が可能になります(ニコニコ動画の生放送とか)

このことを踏まえた上で、話を戻します。今回の映画『旅猫リポート』では、引き込むような文章はカットされています。確かにカットされていますが、だから原作の再現度が低いということではなく、

原作を映像として描く上で、良変換がされている

と考えることも出来るのではないか、ということです。文章と映像では描けるもの、そうでないものが分かれています。よって、再現ではなく、変換したとも言えるのではと考えました。

そしてその「変換」に関して言えば、高いレベルでされていると私は思います。

*ここから下ネタバレ不可避

2つの幸せ


この映画、ネタバレ不可避なので言いますが、ラストでサトルが亡くなるじゃないですか…で、その後の次のシーン? で、ノリコとナナがサトルについて話すと思います。「サトルは幸せだったのかな? 」「それは言わずもがな分かるよ」みたいな事を言うと思います。

…すみません。いつもならセリフ抜き取って書くのですが、もう返してしまいました…m(__)mニュアンスが間違っていたらすみません。ただ「幸せ」については言っていたと記憶しています。

で、その幸せについてなのですが、サトルは、他の人と比べたらかなり不幸な方だと思います。小学生で親を亡くし、その親は養子で、家族の一員だった猫を手放さなくてはならず、その後は転校続きで友達と離れ離れになり、最終的に病で若くして亡くなるっていう……。

ただ、この不幸って、他の人と比べたらなんですよね…、つまり、「相対的な幸せ」でみたら不幸というだけなんです。私は、たとえサトルが周りから不幸に見えても、幸せだったと思います。

それは、サトルが亡くなった1年後、サトルの友達が集まって楽しく話しているシーンなどに現れていると感じるし、サトルとノリコとの会話の中でもそのような事を言っていました。

この「サトルの幸せ」はどのような幸せなのか? サトル自身が作り上げた、サトル自身しか持ち得ない、たとえ周りが変わってもその幸せは不変である。そんな

「絶対的な幸せ」

だと言えるのではないでしょうか? サトルは世間一般的に言われる幸せは持ち合わせていませんでした。しかし、サトルしか手に入れられない幸せをサトルは持っていました。これ程の幸せがあるでしょうか? 私はそう思います。


…ぁあ〜僕もそんな幸せが欲しいですね〜…。

いや、もしかしたらもう持っているのかもしれない( ̄▽ ̄) 

だって、この映画はそういう話だったじゃないですか…。