その報せを受けたのは、枯れてしまった花を見分ける作業の最中でした。何の前ぶれもない遺報に思わず日付を確認しましたが、いわゆる嘘吐きの日でもなく、私は母のかすれた声にただただ耳を傾けました。そうして感じたのは、深い悲しみの海に飲まれる我が身でもなく、ただ一片の詫びしくすすけた風が身をかするような感覚。父への言い知れぬ気まずさや、伸ばす手を拒んだ私の磁力は、悲しみの海すら干潮にしてしまっていたのでした。
 おばさんに事情を説明すると、酷く哀れんだ顔で「ちいちゃん、大丈夫かい?心配しないでも良いのよ。うちは小さい店だからね。早く行ってきなさいな」と私の身を案じてくれましたが、どうにもそれが絵空事の、悪く言えばドラマのシーンの様に思えてしまい、目の前にある悲しみの風をまた掴み損ねてしまった気がしました。それでも私には上手にドラマを演じるだけの浅ましさも厚顔無知さもあったので、うつ向き、出来るだけ消え入るような声で「はい」と言えたのです。
 故郷へ向かう電車の中で、優先席に座る高校生が居ました。食い入る様な目で携帯電話を見つめ、ふとした瞬間に小さく笑う姿が、人と繋がりたがる機械仕掛けの人形に見えておかしくなってしまいました。何処にでもある風景なのに、それを見てそう思う私の方がおかしいのかも知れません。優先席で携帯電話を使うのは褒められた事では無いけれど、誰かと繋がりたいという純粋な渇望を少なくとも非難する気にはならないのでした。そして、少しだけ、少しだけ羨ましいとも思いました。

 私は悪い事をしました。
 高校の帰り道に寄った小物のお店にあった、魚を型どった青いピアス、私はそれに一目で惹かれました。安っぽい作りで、値段だって可愛いもので、きっと世間一般の女の子達はもっとキラキラして華やかな物を好むだろうに、私はそれに惹かれてしまったのです。でも、確かにそのピアスは海の匂いがしたのです。夏が追いすがった秋の、誰もが夢から覚めた後のがらんとした海の匂い。
 私は十分以上立ち尽くした後、周りを伺う様にして、それをポケットに入れました。
 ヤニで壁が黄色くなった休憩室で、ただ机のシミを見ていました。店員のお姉さんは黙秘を続ける私にしびれを切らしたようで、タバコを一口吸い「とにかく親に連絡するから」と落ち着きのない様子で店の電話に手を掛けました。今でもはっきり覚えているのは、これで終わりなんだというある種の高揚感と、制服のポケットでしわくちゃになった千円札の感触。お金は、持っていたのです。
 息を切らし飛び込んできた父は一通り話を聞くと、お姉さんに向かって土下座し、何度も何度も謝っていました。自分より一回りも二回りも下の女性に頭を下げる事が大人の男性にとってどれだけ恥ずかしい事か。私はそれを直視するのが憚られ、ただ机のシミを教科書で見たインディアンの顔に見立てて、空想の会話に浸ろうとしていました。
「海の匂いが好きなのか」
「ええ、それも、夏が終わった後の誰もいない、がらんとして深い海の匂い」
「お父さんの匂いがするからか」
「え?」
「お父さんの匂いがするからか」
「そんな事、ない」

 父の必死の謝罪が功を成したのか、結局学校にも警察にも届けず、ピアスを購入する事で私は無罪放免になりました。お金を払う意思表示をしたのですが、父はそれを制すと、財布から千円札を何枚かお姉さんに渡し、お釣りを貰わず、私の手を引っ張って店を後にしました。
 生きてきて一番気まずい瞬間だったと思います。父は私の自転車を押しながら、少し前を歩いていました。太陽はその残虐さを潜め、惰性を模した夕焼けで父の姿をくっきり映し出していて、私はもう、いつその背中が振り返るのかと、恐怖ではない他の感覚を持って見ていました。
「秋が始まった……でも気付いたら、すぐ終わるんだ、秋は」
 聞こえてきたその声の丸さに、ぴいんと張りつめたものがほつれる感覚を覚えました。私は、怒られる事を期待していたのです。今までずっと、怒られる事のない良い子でいたし、父は底無し沼の様に優しい人だったけれど、でもどんな沼にも底がある様に、一人の人間である様に、何かの拍子に溢れだすのを私は期待していたのです。そして、それが今だと確信していました。初めての、それでいてとても大きな反抗だったのです。でも父は怒りませんでした。あろう事か「ピアス、プレゼントだと思って使いなさい。きっと良く似合う」と私の頭を撫でたのでした。もう私は居ても立っても居られず、この手の主が別の世界の生き物の様に思えて、溺れてしまいそうで、逃げなければいけない、逃げよう、と心から思いました。
 それから半年後、卒業と同時に私は家を飛び出し地方の花屋で働き始めました。出発の瞬間まで母は反対しましたが、父は私の頭を撫で「体に気をつけなさい」と、いつもの調子で笑っていました。

 今、青い魚のピアスを電車の窓に映して、私は逃げ切れたのかしら、と考えています。

 酒席は好きになれません。悪意も善意も全て剥き出しで、それが循環する事なく、ただ浮遊して沈殿して……とにかく空気が悪くて、澱んでいるのです。そして今、運悪くその空気に捕まってしまった私はドラマの登場人物になりきる作業に徹する事にしました。
「親の死に目に会えん奴は不幸になる」
「すみません」
「大体、女一人で遠い所に働きに出て、一人で暮らして、そんなんで幸せになれるか? なれたのか?」
「幸せかどうかは、わかりません……でも、少なくとも今は楽しくやれているので……」
「今は今はって、そんなだから親の死に目に会えないで、ったく、あいつが天国で泣いてるよ」
 お酒でほんのり赤ら顔になった叔父さんは、辛辣な言葉を吐きながらも、どこか悔いている様に見えました。この人は昔から口「だけ」が悪いのですが、今はその自虐的な辛辣さが、私にここに居る為の役を与えてくれている様な気がして、じっと耐える事にしました。
「まあまあ、そこら辺にして……千恵子、皆さんに出すお酒を運ぶから、こっちにいらっしゃいな」
 母はわざとらしい助け舟で、私を連れ出しました。
 二人きりの広間は、遠く聞こえる喧騒によってもう一つ次元の違う世界に見えました。母が何か話したげに目線を泳がしていたので、私は少したるんだその目元を捉えながら、首を傾げました。
「久しぶりに会ったと思ったら、随分大人になってねえ……いや、ちょっと老けたかも知れないわね、目元なんか私に似てきたんじゃない」
 私は家族同士の当たり障りのなさげな、それでいて腹を探り合う会話が苦手で、とにかくどう返したら良いか分からなくて、とっさに思いついた疑問を、極力感情を抜き、母にぶつけました。
「お父さんの事、なんで私に教えなかったの?」
「母さんはすぐに連絡するつもりだったけど、お父さんがね、どうしても言うなってうるさくてね。千恵子は今一人で頑張ってるのに俺が枷になっちゃいけないって。あの人、ああ見えて頑固な所があったからねえ」
 そう言うと母は泣きそうになって、でもたぶん今泣いたら全部駄目になると思ったのか、口を真一文字に閉じてお面のように固い顔になりました。それを見て、私はもっと後悔するべきかも知れない、と思い始め、母に引っ張られる様に歪んでいく顔を引き戻すのにやっきになりました。その僅かな邂逅を遮る様に、母はバッグから一つ白い便箋を取り出すと、私に、ぽん、と差し出しました。
「これ、病院でお父さんが書いた手紙、千恵子に渡してくれって。母さんも見てないけど、でも見たら化けて出るからなって言われて、見ようかと思っちゃった」
 精一杯、無理して笑ってる母の顔は少し私に似ている気がしました。

 実家の私の部屋は物が全く無いからかとにかく無機質で、本来宿っていたはずの思い出も全部飲み込まれてしまった様でした。寂しさとはまた違う感覚、喪失感? いや、そんな大それたものでもなく、例えるなら染み付いた自分の匂いが薄れていくような、そんな感覚でした。何年ぶりかに布団を敷き、真っ黒な服を脱ぎ、中に潜り込むと、つーんと畳の匂いがして、これだけは変わらないのだと少し安心しました。開いた窓から草熟れが流れ込み、喧騒は何も聞こえず、しいんと静まり帰った部屋で、私は布団に包まりながら手紙を読み始めました。

 その夜、涙とは目から出るだけではなく、心からも溢れるという事を、私は初めて知りました。ぐっと我慢したのです。涙になったら全て流れ落ちてしまって、現実になって、乾いてしまう気がして。それで終わってしまう気がして。だから、心が溺れました。枕に顔を埋め、剥がされたのは匂いだけじゃなかったと痛いくらい感じ、手紙の端がしわくちゃになるくらい手を力ませて、もっと後悔するべきだったのだと、私は初めて気付きました。

 母へ
 お母さん、元気ですか? しばらく連絡しないでごめんなさい。お父さんにならって手紙を書いてみたけれど、難しいものですね。秋が終わる前に急いで書こうと思います。
 本当に突然ですが、私には今、結婚したいと考えている人が居ます。その人は花屋へ配送に来る業者の人で、タヌキみたいな顔をしているのでそのまま皆から「タヌキ」と呼ばれています。去年の秋、お父さんが亡くなってからすぐ、私は喋った事も無い彼に告白されました。急過ぎてびっくりしたけれど、でも彼の顔が少しお父さんに似ている様な気がして、放っておけなくて、私達は付き合う様になりました。そして、やっぱり彼はとても優しい人でした。その告白の事を「私はタヌキに化かされたのね」と言うと、彼はスイッチが入った様に顔をくしゃくしゃにして笑うのです。不思議なスイッチです。ねえお母さん、私は幸せという意味を知りました。思えばお父さんが亡くなってから、短い間に沢山の事を知りました。
 お母さん、お父さんは海だったのですね。私は底無しの沼に溺れてしまうのが怖かったのです。でも、お父さんはもっと広くて深い海だったのですね。なら、私は海に生きる青い魚になりましょう。
 私はほんの少し、いや、大きく変わった気がしています。今度タヌキの彼と一緒に、必ずお母さんを化かしに行きます。お父さんの墓参りにも一緒に行く予定です。
 全く脈絡の無い宣言ですが、もし彼と結婚して子供が生まれたら、最初は私が頭を撫でてあげたいと思っています。お母さんに横取りされないようにしなきゃいけませんね。何でかは、ずっと、内緒。
 それでは、また。


 まず最初に、千恵子の事を守ってあげられなくなったお父さんを許して欲しい。
 人間、体が弱ると心まで弱るのですね。抑えていた寂しさが吹き荒れています。
 千恵子が叱られた事がないという事で酷く悩んでいたのを、お父さんは知っていました。きっと重圧に感じていたでしょう。
 でも分かって欲しいのは、お父さんが千恵子を守る為に出来る唯一の手段が許す事だったのです。これは、必ずしも正しくはない事。罪と罰が普遍の倫理なら、お父さんは道徳心に欠けた人間なのです。
 記憶にないでしょうが、歩くのがやっとの頃の千恵子はお母さん子で、お父さんには余り懐きませんでした。そんなある日、千恵子が高熱を出しました。辛そうに泣く千恵子を見て、お父さんはどうして良いか分からず、とにかく一晩中頭を撫でました、一睡もせずにただ撫で続けました。すると翌朝、熱は嘘の様に下がり(この光景は今でも鮮明に思い出せます)窓から入る朝焼けに照らされて、泣きっぱなしだった千恵子が、笑ったのです。この世のものとは思えない位綺麗な笑顔でした。その時、お父さんは許された気がして、この子をずっと守ろうと誓いました。だから許すのです。お父さんは千恵子に沢山の物をもらいました。だから優しくなれるのです。
 お父さんは聖人ではありません。でも、千恵子にとってそうありたいと思っているよ。
 これを書くのは枷をつける様で躊躇われるけれど、出来れば、もう一度、もう一度だけ、千恵子の頭を撫でたかったと思います。ああ、駄目なお父さんを許してください。
 秋が終わる。千恵子、体に気を付けなさい。