April 02, 2005
君は踊るサチュロスに触れたか−愛知万博・イタリア政府出品文化財への賛歌
開幕からお弁当ごときでミソのついた愛知万博だが、八丁味噌の産地だからご愛嬌というものだ。ほかのものはともかく、これだけは見て触れていただきたいと思うのはイタリア政府出品の文化財「踊るサチュロス」である。
このサチュロスの発見当時、1998年の3月、私はイタリアのシエナで暮らしていた。前年の9月から3ヶ月ほどしたところで、夫は持病が悪化し緊急入院したシエナ大学附属病院の外科で大腸全摘出という5時間の手術を受け、年明けに退院し、病後は人工肛門をつけて車を運転しながら、カルナヴァレの地方を回り、3月は格安ベルリン行きのツアーを計画していたころのことである。シチリア沖から発見された国宝級のギリシア彫刻のニュースははっきりと記憶に残っている。海中からぬっと出したその顔はおぼれかけた瀕死の青年のようだった。
イタリアの新聞の中心は文化欄にあり、発見や展示にまつわる案件は単なる一過性の報道にとどまらず、連日様々な角度から論評が加えられる。それはまぎれもなく次世代の文化ヒーローとなることが期待されていた。
その年の夏にはシチリアへ夜行列車に愛車パンダを乗せて出かけ、ほぼ時計回りに1周した。アグリジェントの夕刻の中、黄金色にライトアップされた古代遺跡はことばに言い尽くせぬ永遠のシーンだった。次の日はパレルモに北上するはずだったが、夫はどうしてもマザラ・デル・ヴァッロの重要な教会へ寄ってからいくと強引である。パレルモのホテルは駅近くのちょっと怖い場所だったので、明るいうちにつきたかったが一度言い出すと聞かない人だからしかたない。私はパレルモまでその日のうちにつけるかどうか、気がきでなく、小1時間いたマザラの街は田舎の猟師町という感じであまり印象が無い。しかし大聖堂の木製の椅子のひじかけや背に凝った細工が施してあり、寄進者の名前がそれぞれつけられていたことは忘れられない。シチリアの貧しさと裏腹のような重厚で敬虔な感じをよく表していたように思う。
その街の猟師たちが偶然引き上げた彫像が万博にきた。3月、東京国立博物館の表敬館・丸天井下で対面したとき、なんともいえない感動に襲われた。あのおぼれかけた瀕死の表情はみごとに生気を取り戻し、恍惚と人生の幸福に酔う青年のそれに変わっていたからだ。展示のまわりをゆっくりといくと、宙を舞う躍動的な動きは背中の表情にあった。そのとき、サチュロスは私に「君はこの7年間何をしていたんだ」と無言で問いかけ、自分にあとに勇気をもって続けとささやいたのだ。
去りがたい空間だった。展示室の前段には発見から修復のパネルとともに、レプリカが置かれ触れられるようになっていた。サチュロスのひねりのある背から腰にかけてのラインに触れたとき、私ははっきりとイタリアのエロスを感じた。
展示に伴って、シチリア州政府関係者や文化財修復担当者、そして万博への展示プロジェクトを担当した人たちの特別講演会も開催された。博物館のホールはほぼ満席で、イタリアにはめずらしく時間制限を守った簡潔な、お行儀の良いプレゼンテーションには感心した。それよりも保存修復移送に伴うデータ解析に情報技術が駆使され、まさに文化を創造する補助技術として用いられていることに感服した。日本のように主客逆転が多いCGの利用ではない。あくまでも技術利用は目的ではなく手段なのだ。
最後に、サチュロスのネットサイトを構築しているなかばの美しい映像デザインをみせながら、担当者の口から興奮気味に今回の本当の目玉が語られた。視覚障碍者にもサチュロスに出会ってほしい、そのためにレプリカを置くと言う提案をし、受容されたことはこのうえもない喜びだったという。私はそこにケアのある文化外交をイタリアが果たしたことを悟った。モナリザでもミロのビーナスでもできなかった、万人のための文化の享受をイタリアのシチリアからきたサチュロスは表現している。今世紀は博覧会の時代ではない。博触会をめざすべきなのである。(山口順子)
愛知万博・イタリア館サイト
http://www.expo2005.or.jp/jp/C0/C3/C3.12/C3.12.3/index.html
シチリア州文化財省によるサチュロスの愛知万博展示報道http://www.regione.sicilia.it/beniculturali/dirbenicult/info/news/satiro.html
October 13, 2003
「マリア・カラスとエイダの映画」
冷夏のこの夏は緊縮バカンスとなって、ある水曜日の夜、新宿で映画を2本立て続けに見ただけで終わった。「永遠のマリア・カラス」(Callas Forever,2002)と「クローン・オブ・エイダ」(Conceiving Ada,1997)の組み合わせは、単に時間帯がうまくあったという関係ではすまないように思えてきた。
前者は、フランコ・ゼフィレッリの愛情溢れる回想とフィクションの取り混ぜだが、妙にリアリティがあって思わずウルウルさせられてしまったのは、カラスが深夜に一人、絶頂期のレコードを聴きながら練習するシーンである。イタリア人のメイドが証言している事実だという。もう一つは、ゼフィレッリ本人と思しき男が若い男性画家と恋に落ちて、その間柄をカラスが明るく嫉妬し、二人の夕食の約束に無邪気に割り込んでいく場面。ミラノのスカラ座を舞台にした有名な三角関係を知っている人なら大いに笑えた。おすぎが墓場までもっていきたいと喧伝する所以もわからなくはない。それ以上にゼフィレッリの言いたいことは、もちろんカラスが代言している。デジタル技術を駆使して絶頂期の声をかぶせた劇場映画を作ったとしてもそれは客を欺くことになるのだと。この映画自体がそれだから自己矛盾といえるが、ハリウッド型の映画批判というのは読みすぎだろうか。
後者は、レイトショーのマイナー作だが、女性監督のリン・ハーシュマン・リーソンはビデオ制作では数々の国際賞を得ているカリフォルニア大学の教授である。詩人バイロンの娘であるエイダ・バイロン・キング(1815−1852)の名前を知ったのは、1980年代半ば、イギリス政府の男女平等委員会がつくった、女の子に理数系を選ばせる教育キャンペーンポスターだった。日本ではこのようなキャンペーンは記憶にないが、EU諸国ではかなり行われたらしく、工学系を含む自然科学分野への女性の進出度を比較すればその少なからぬ効果は歴然としている。エイダは、コンピュータのプログラム原理を開発した陰の立役者として最初に記憶される女性であり、情熱的な恋愛関係を科学者たちともった壮絶な人生は、西垣通『デジタル・ナルシス』(岩波・同時代ライブラリ)に詳しい。修士課程に入ってすぐ入院というつまらない時間を過ごす間にこれを読んだとき、彼女の強い生き方と子宮ガンで苦しみぬいたという最期が、こちらも産婦人科病棟にいただけに印象深かった。リン・ハーシュマンはビクトリア時代にこのような女性がいたことに驚き、映画にしてみたいと思ったそうだ。
映画では、記憶遺伝子の学者を志す女性が同棲相手との間の妊娠・出産に迷う一方、過去の世界のエイダとDNAを介した交信に成功し、研究の佳境を迎える。子育てで自分の才能を十分に開花できなかったと嘆くエイダに対して、クローン技術によって生命力は半減するが現代に生き直すチャンスを与えようとする。結局、エイダはこの技術を拒み、自分の夢、つまりコンピュータ言語で進めるあらゆる創造活動を実行してほしいのは、コンピュータ画面を通じて過去の世界をのぞくあなたたちというメッセージを残す。それをsave(「助けて!」と「(自分の記憶)を保存して」の意味を重ねている)というキイワードで伝えようとするのだが、全体に少し中途半端な印象もぬぐえないのは、米国でとらえたビクトリアン・テイストをデジタル化して借用しているからだろう。エイダのためにデジタル技術を駆使したと、リン・ハーシュマンは説明しているが、時代背景を描くベースが本物でないと、やはり安っぽいアングロアメリカン・テイストのソープドラマに陥る危険がある。それよりも素直にできのよいフェミニズム映画とみたほうがよく、人文・社会系の人物を赤やピンクのお決まりの色調やデザインでしか扱えない、日本のそれと比較すると、はるかにチャレンジングであり表現に幅がある。エイダとの交信のエージェントに金色の小鳥を使うといった小技は、JRの券売機や銀行のATMで強制的に見せられる制服を着た女性のおじきよりはずっとましではないか。
重要なのは、二人の女性、エイダもカラスも現代に生き直す先端技術に身を委ねきっていないかのように映画作品が仕上がっていることである。ここに制作者の情報技術に対する倫理観が偲ばれる。技術的に再現できるほど人間の人生は単純ではないのである。
・参考
リン・ハーシュマンの自作解説サイト・イタリア語
エイダ・バイロンについて
エイダ・プロジェクト〜女性の能力開発と情報技術〜のサイト・フランス語とドイツ語
(米国エール大学で開催された同名プロジェクトは94年から99年まで行われたあとミルズカレッジに継承された。)
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November 11, 2001
「第1回横浜トリエンナーレへのno-ten-keyなreview」
jo:アラお久しぶり、お元気でしたか。
ke:ほんとにお久しぶり、どうなさってたの。横浜市民ギャラリーでは天職だなんていって仕事してらしたのに。
jo:まあ、お役所の異動だからしかたないんだけど3年いて、いろんなアーチストやギャラリストの人と知り合いになれたのは、心底楽しく幸せな時間だったわ。大小10くらいの企画をしたけどほとんど満足しています。そのあと栄区役所のまちづくり全般にかかわって、横浜彫刻展の作品設置のコーディネートなどいたしましたが、わけあって退職し、97年から98年の間
イタリアに夫と住んで、帰ってきてから企画コンサルタントと今は大学院の2年生なの。
ke:今日の作家展でもおもしろい企画がありましたよね。
jo:今日の作家展の将来像として今回の横浜トリエンナーレのような国際展も構想していて、そのプレ企画が35周年記念でやった「洋上の宇宙」展でした。あのタイトルには本当に困ったんですが、横浜線の車窓から帰宅途中ふうっと浮かんだのを覚えています。横浜の姉妹都市関係にある都市の将来性豊かなアーチスト支援を主眼にしたことと、ベネチアビエンナーレで
スイスの美術大学の学生が展示準備にかかわり、単位に代えるなんて洒落たことをしてましたので、それを応用してBゼミの亡くなった小林先生にお願いして、学生さんに展示準備参加していただいたんです。これは前年の逢坂恵理子さんを今日の作家展の歴史上初めて女性のコミッショナーとして抜擢した「視えない現実」展のときにも、すでに幾人か美大の方にきていた
だいていたんですけど、Bゼミの学生さんたちは、色々な職業経験があるので、電気系統とか詳しい人もいてとても助けていただいたし、アーチストとのコミュニケーションも言葉ではない心の共感でうまくできていたようでした。ボランティアでなく、日当を払ってお願いしたんですよ。5000円だったと思う。それぞれ技術をもっているわけですし、貴重な労働時間を割い
てお願いしているわけですから。
ke:そのころの95年96年ころはバブルがもうはじけたけど、そのなかのあだ花とか私なんか悪口いっちゃってましたけど、NICAFも結局横浜を見限っていったわけでしょう。
jo:NICAFをパシフィコで続けるというのは、横浜の都市経営からみて重要だったと思うんですが、アートのメッセという意味がほとんどその当時の文化行政担当と横浜美術館トップサイドに理解されていなかったのが残念でした。美術品売買についての偏見が合ったと思います。ただ、他の業界に比べてその不透明さというのは、今でも払拭されていないし、とりわけ文化な
んて役所のオーソドックスからいえば「特殊な」仕事と思っているお役人感覚ではフツー感覚なのかもね。80年代前半まで神奈川県を中心にただよっていた行政の文化化という発想にはそういう感覚の変革も込められていたと思いますが。
ke:あのNICAFのころもそうだけど、横トリのたちあがりでもなんとなくギクシャクしたものを感じたのは私だけではないと思うわ。
jo:横浜市役所には田村明氏を中心として、都市デザインを核とした都市計画がまちづくりの市民的公共性、文化性をリードしてきたという自負があり、それはそれでよいことなんです
が、その異動のない技術専門職を含むラインが大型イベントを誘致するあるいは立ち上げる、博覧会型まちおこしをリードしてきたという実績をもっています。それももはやアナクロといっていい時代に入っていると思いますが。一方で、美術館ブームで作られた市長部局の文化行政担当部門は異動のある部署はどうしても財団化した施設管理型になってきている。横トリも
文化行政担当部門が主体的に施策をたちあげたわけではないので、ちょっとしたねじれが見え隠れしてしまうんでしょう。現在は人事的な配置でずいぶん改善されたと思いますが、そういう問題性がNICAF当時はまだあって、最も歴史ある横浜市民ギャラリー(戦後では、鎌倉の近代美術館の次くらいに位置する美術施設です。現在は横浜美術館と同じ組織に入っています
が、発足当時は桜木町駅前にあった、産業奨励館という古い建物だった、そのあと教育文化センターの文化事業課という教育委員会事務局。94年に市長部局に移管となり、その後美術振興財団化。今後、美術館とともに文化振興財団への実質的な吸収合併も決定されています)としては、今日の作家展をわざわざNICAFの開催時期に合わせたり、会場内でもギャラリー企画の
ものをブースで出したりして、協力体制をつくろうと努力してたんですけどね。今回の横トリで地域連携がここまでできているというのは、関係者の努力によるところが大きいと私は評価していますよ。
ke:そして、こんなふうに会場で偶然合うなんて何かのご縁よね。どう感想は?
jo:まず、企画段階からアーチストの数が多すぎることは指摘されていましたよね。そのことは主役であるアーチストそして観客である市民両方に対する配慮欠いていると思うのです。限られた時間であっても作品と視聴覚言語を通じた対話をする余裕がほとんどなくなってしまい、作品そのものに対しても失礼だし、鑑賞する市民もどれがどれだかわからなくなって、結局ポスターでみた作品、NHKに出た作品といったようにマスメディアに操作された偏った見方をしてしまうし、皆がいくから私もいったという動員型展覧会の域を越えないと思うんですね。
ke:ビデオとかが多いから時間もかかるしね。
jo:幼稚園くらいの子どもを連れていった友人は、暗がりが多いから子どもが怖くなってもう「おかあさん、帰りたいよう」っていうのをなだめるのは大変だったって。あのスーパーマーケットにありそうな子どものお遊びコーナーもいいけど、いっしょに見たい空間づくりというのはコンセプトとからんでくる問題ではありますね。それはバリアフリーともからんでいて、通路の幅に問題があったり、階段をわざわざつけている作品など、アーチストの社会的視野を疑うものもありました。なぜスロープではないのかしら。すでに人権の世紀であるという意識に欠けているといわざるを得ない。暗がりの多い中でキャプションも小さく見づらかった。
ke:うーん、さすがに厳しい見方だなあ。
jo:そうでしょうか。文化を享受する権利は万人に開かれているはずです。
ke:それってテクノロジーのデジタルディバイドともからんでくる話じゃない?
jo:あなたこそ、鋭い指摘よ。私なんかも液晶画面がでたばかりのころ、NICAFの狭いブースにちょうどいいからなんてリースで揃えたりしたんですけど、ハイセンスなテクノロジー機材を駆使して映像表現できる国のアーチストは北の人たちに偏っていたでしょう。一瞬これは、東京ビッグサイトのぱそまる展かと疑う場面もありました。そういうことに強烈な異議申し立てをしていたのは、赤レンガの最初にあった、クシュトワ・ウディチコのパブリックプロジェクト。かつてサンディエゴとの姉妹都市交流で美術展をメキシコのティファナの文化センターでも展開したので、あの丸い天井を脳天気になつかしく思い出しましたが、あの当時、あの町で起きていたことが、女性たちから語りだされたときはのど元に短刀つきつけられた思いでした
よ。当時、一緒に行った、あの亡くなった宮前正樹さんが「町じゅうがホントにこわれちゃってるよ」っていいましたけど、マキラドーラという関税障壁を低くした地域では情報通信系多国籍企業や日本企業が利潤追求していたり、国境を隔てたサンディエゴはまたそれ系統の有名ベンチャーが集まっていますが、その一方で、ティファナの家のなかは暴力や性的強要でこわれていて、女性や子どもはその犠牲を強いられている。そのことは今現在、世界中でつながっている話なんですよ。ああいう映像をMITの先生からみせられちゃうと、日本の大学からそういう先生はいつ出てくるのってもう絶望感にかられる思いよ。
ke:もうちょっと明るい話題に変えようよ。
jo:私が3回もみてしまったのは、シボーン・リデルの「目には見えないけれどもここには私たちの知っているいくつかのエネルギーがある」です。見えるか見えないかの細い銅線や糸を遠近法を使って張り、また平行の配列にモワレなんか出しちゃって、唯一ホット癒されたし、また、こういう世相なので、見えない緊張や恐怖のようなものが皮膚を伝わる一瞬も感じられました。平日の昼間だったので、わりと朝日新聞とっている風のシニア女性が多かったので、たくさんの人に入り口からまっすぐ、壁の糸のさがっているようにみえるところまでゆっくり歩いていくと、いろいろなモノが見えてきますよって勧めたんです。壁までたどりついて振り返りにっこりする人が多くて幸せな気分でした。若い人で、皮膚感覚が薄くなっているのか、何も感じられないような表情の人もいたのも、さっきのテクノロジー依存と関係しているように思う。「糸」という材料は横浜の歴史ともつながっています。生糸貿易で日本の殖産興業は始まり、その製品は赤レンガ倉庫のようなところから海外に輸出されていったわけだし、その労働は日本中のただ同然の女子労働力だったんですよね、誰のおかげでここまで経済成長できたと思ってるのかしらねえ。開港資料館の前のシルク博物館の展示をみるとそういうこともよくわかります。ついでにいうと、シルク博物館は県内でもかなりよいレベルで、作品解説をする人の配置などリニューアルしたあとの活動がすばらしいです。
ke:あなたのジェンダー感性からいうとあの一番大きなシャワーの塩田千春の「皮膚からの記憶2001」は好みのタイプでしょう。
jo:それが、午前中シャワーがこわれているからっていうんで、午後また見に行ったんですけど、両方私には力強いものを感じました。シャワーなしで背後からみると芥のような泥水の静けさにパシフィコの天井が移りこんでいて、国内はもちろん、ODAについてもハード中心の公共政策とそこに住む女性や子どもとの遊離の現状を問い掛けているようにみえた。もちろん、
シャワーがかかっているのが本来のコンセプトでしょうけれど。メガウェーヴで隠蔽されていく問題を垣間見たというのが総合的な私の印象です。
ke:中国の作家たちもおもしろかったわね。私はダイエット中だからあの脂肪の「文明柱」にはまいったね。肉感覚というか大陸感覚だよね、あれって。
jo:最初、思わず蜜蝋か、とか叫んじゃって、香りの感覚まで想像したところで注射針の写真ですからね。(笑)できれば、得意の象牙彫りのようなものを施してほしかった感じ。上海の性風俗をとりあげたヤン・フードンも笑えた。現代美術交流で上海に行ったとき、日曜日の公園なんか明るくても平気という個人主義のカップルの多さにびっくり、もう目のやり場に困っ
ちゃうの。そのとき行った人、皆、休憩専門のラブホやれば絶対もうかると思ったんだけど、誰も手を出していない。今からでもビジネスチャンスありってことよね。カップル喫茶でもいいかもね。うーん、もうありそうだなあ、そこに、思いっきりハイテク機器を現地生産で入れると中国だけIT不況から脱却できるのか・・・。
ke:オイオイ、何考えてんだ。目玉のバッタとか、山本育夫さんのaw-mlでマエセンの激しかった小沢剛のトンチキハウスは?
jo:トンチキハウスは平日の昼間から生き場のないような女の子の和み場所になってましたが、チャブ台だけは古いものを用意してほしかったわ。チャブ台の発祥は横浜の本牧よ。寝室兼食堂みたいな住宅事情の悪い日本の都市生活にはぴったりあった道具だったはず。歴史的文化的背景をもう少しコンセプトに反映させてほしかったと思う。せっかくの新聞のレトロな広告にあわせてほしかったなあ。椿さんと室井さんの「飛翔」は、先月天気のよい日に写真だけ抑えにきたときもありますけど、横トリ見に行ったときはあいにく足が壊れてしまって、干からびたようにホテルにへばりついてました。けれど横浜国大の学生さん始め、設置にかかわった人たちはきっと新しく生きる虫のような力を得たでしょうね。その昔ボイスの東京の展示に上野の山でかかわった人たちからすぐれたアーチストが出ているという共通性を発見したことがあるのですが、きっとこのプロセスで得た力がトリエンナーレを続けていくことにつながると私は信じています。
ke:奈良さんはみちゃったの?
jo:拝見しましたけど、メディアとフィギュアを制した作家を成功している作家として祭り上げてよいのか。強烈に私たちを侵食する消費文化との対比でちょっと疑問です。ぬいぐるみも売れてるっていうけど、中国製というところが、製造の空洞化の状況とリンクしていて、アーチストの想像力の侵食と空洞化が本人たちの知らない間に起きているように思えてなりません。東京大学出版会の「内破する知」の表紙でもなぜかナイフもってないし、あの横浜・上大岡のパブリックアートで「目がこわい」といわれた作家はどこにいってしまったのかという気がする。内破することをやめてしまったらアーチストはアーチストではないのではないかしら?
ke:いやはや、厳しすぎないこと?
jo:批評のないところに文化は育たない、そう思わない?それも批評のための批評でなく、反省的思考の上に実践を展開していくための批評が必要だと思います。
ke:またこうして会って言いたいこといおうよ。
jo:次の横トリでね。私って偶然知り合いと逢うのがとても好きなの。
*著作権は、小野(山口)順子が有します。
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