エッセイ
May 22, 2005
ガンで逝った友人のこと
木の芽どきになって、ふと彼女はどうしているのかと思った。卵巣ガンだとわかって休職したと聞いてからずいぶん時がたっていた。春の挨拶状にも返事がない、おかしい、と思って知り合いを辿ると、3月に東京の郊外のホスピスで他界したという話だった。
何かすーっと消えていってしまった彼女との間のできごとを思い出しながら、声もなく花をぼんやりと眺めた。自然のとても好きな人で職場のベランダで矢車草をきれいに咲かせたり自然観察などの会によく出かけていた。彼女のくれた四万十川のトンボを美しく撮った本が手元にある。私は入院した彼女を見舞ったとき、ヘッセの庭仕事の本とシエナで買ったきれいな花の栞を送った。ふと花を育てていたに違いないからその花に水をやりたいと思い、最期を送ったホスピスに電話した。4月からの個人情報保護法で電話回答できない、公的機関を通してほしいというのである。面倒な社会になってしまった。しかも公的機関の具体的な部署や方法は相手方も正確に答えることができなかったので、しかたなく彼女の元の職場である公的機関から電話を入れ副申のようにこちらの訪問意図を伝えてもらうことにした。結果は育てていた花のようなものはないのだという話だった。家庭の事情で墓参も難しいということも聞いた。一人身で逝った彼女の最期の地をどうしても訪ねるべきだという思いが募り、わたしと彼女の関係を証明できるものを考えた。あの森という男の学生時代の蛮行を暴くという男によるスキャンダリズムが大きな梃となった個人情報保護法の元で、私的でささやかな友人関係まで公的機関に証明されなければならない道理は全くないのだ。シエナ在留中に、大腸全摘出手術で一月入院した夫の退院直後、はるばる訪ねてくれた彼女と撮った写真、そして入院中の焦燥からやや興奮気味にメールを送ってきた彼女を静めるために書いたわたしの長いメールというやりとり(下記に添付。公表にあたり内容を一部変えている)をもって、よく晴れた日にそのホスピスに向かった。
駅からの道はまっすぐで点々と続く店のなかにコム・サ・デ メゾン(家々のように)という小ぎれいな花屋を見ながら、駅前で簡単に買ってしまったトルコキキョウとユリの安易な花束を後悔しつつ、部屋を出てこの道を歩いたこともあったのかなあと彼女の生活を思ったりした。終末期医療に着目されるなか、近郊で唯一のそのホスピスは普通の住宅街を入っていった奥に、ふと開けた大きな病院に隣接してあった。応対してくださったシスターから、彼女にはもう花を育てる体力はなかったという話を聞き、健康ということが言わせる傲慢さに初めて恥じ入った。そしてまた花をよく買ってきて飾っていたということを聞いた。せめて我が家のベランダにも花が絶えないようにしていくことくらいしか、手向けとして思いつかない。ご冥福を心からお祈りします。
*****************************************
From: 彼女
To: わたし
Subject: RE: くれぐれもお大事に
長くて力の入ったメールありがとうございます。
ご心配も当たっており受け入れます。
きのう忽然と自分が戻ってきました。もう大丈夫です。
一週間かかりましたが、怒ってばかりいたり、急に悲しくなったり
病院の「システム」(といえるものではないかも)に改善提案のレポートを出し
たりとにかくそうでもしないと自分が不満で壊れてしまいそうでしたが、
昨日見舞いに来てくれたNさん(人権課のときの課長で、とにかく愉快な人)
とIさん(保全局の友人で遊びにいつも誘ってくれる人)と笑い転げているうち
にふと気がつくといつもの自分になっていたのです。
どこまでお話したかよく覚えていませんが、病気の発見者(健保診療所の所
長)も主治医(発見者が配慮してくれた)もまれに見る優れたお人柄(どちらも
自然に患者の意向を尊重してくれ、隣人のように話せ相談し合える)で、めぐり
合わせの奇跡を感じ、何にもまして恵まれているとふたりに感謝しています。
メールももっと短くて軽いのにします。
秋のシエナはいいでしょうねえ・・・できたら前にくださった花の表紙のノート
を買ってきてくれませんか?
-----Original Message-----
From: わたし
Sent: Tuesday, September 30, 2003 5:46 AM
To: 彼女
Subject: くれぐれもお大事に
Junko Yamaguchi Onoです。
病院というのは隔離施設なので、身体的自由は拘束されてしまうものですが、情
報に対する権利、あるいは医療従事者とのコミュニケーションの自由はあるとい
う基本的なことが日本ではまだよく理解されていないと思います。(シエナの病
院で仲良くなった隣のベッドの患者のおつれあいの女性は、食事内容について猛
然と看護師(男性)に抗議し、その迫力には夫も私も驚くばかりでした。あとか
ら食事に招かれてわかったことですが、この女性は料理とお菓子がほんとに上手
な人なのです。(略)
カルテが開示されない以上、自分の健康を自分で守るための基本的情報を得て考
えることができないというのが最たるものです。それをおざなりにしてコンピュ
ータ利用と遠隔医療が推し進められているところに、私は怒りを覚えます。
加えて女性の生殖器が自分自身で確認できないということが、産婦人科診療の患
者側のストレスを高めます。それを診療する医者の多くは男性であり、ストレス
原因が理解不能であって、女性の看護師の声も届きにくいという問題もありま
す。
私は子宮筋腫の手術後、工学部のロボット研究の先生に、医師と視線を交差させ
なくてもすむような産婦人科内診用ロボットとマック型のかわいい計測パネルの
アイデアを伝えました。2足ロボットやアイボよりもずっと重要だと思います。
なぜ産婦人科を受診しにくいかという理由は、他人の視線が直接入ってくること
にあるからです。
また、医療機関が中絶代金という現金収入を手放したくないために、薬業と結託
してピルの前面解禁にいたっていないという事実も怒りを超えています。
(この問題についてhttp://finedays.org/pill
また、関連してオーストラリア政府提供の妊娠中の薬物副作用についてのサイトも、
有益です。)
昨年シンガポールで行われた未成年者対象の公的実験では、携帯電話で自分の排
卵期データを知ることのできるサービスがあり、サービス提供者はピルを売る薬
品会社です。お試し期間の無料メールサービスを試してみましたが実に快適なも
のでした。日本では全く話題にもなっていない代物ですが、欧州では未然に防止
することが困難に成っている、強姦被害を跡から手当てするために、緊急避妊ピ
ルを無料配布するというのは重要な施策になっています。いわゆる青少年対策の
一環でもあります。
こういう問題への世論形成ができない女性センターは無用の長物以外の何者でも
なく、ただの地区センターであって、かつてこのような代物の全国一号をつくる
のに加担してしまったことを私自身は、ひどく恥じています。
というように産婦人科をめぐるストレスは増大なものがありますが、そういうこ
とと闘うのは、全快されてからにしたほうが絶対によいと思います。特に暗がり
で液晶画面を見つめつづけると、脳へ刺激が強く働くので、一層PCから離れら
れなくなって、ハイテンションに働いてしまいます。微量ですが電磁波も出てい
ます。自重されたほうがいいと思います。
私たちは、今月末から来月に14日ほど、ミラノ、ラベンナ、シエナ、ローマと回
り、待望久しい、Duccioの大展覧会をシエナにみにいく予定にしています。あ
と半世紀はそういう企画はないだろうということなので、後悔しないためです。
停電もおきないことを祈っています。ちなみにシエナのサッカーチームは高校並
みの小さなグラウンド(あのホテルの裏にあった小さな小さなものです)からセ
リエAを果たし、昨日パルマと引き分けました!
それではまた。
jy
*************************彼女が気に入っていた花のノートは、そのときもうシエナのサン・フランチェスコ教会へ行く道の文房具屋にはなかったが、思い出のためここに掲示した。(山口順子)

何かすーっと消えていってしまった彼女との間のできごとを思い出しながら、声もなく花をぼんやりと眺めた。自然のとても好きな人で職場のベランダで矢車草をきれいに咲かせたり自然観察などの会によく出かけていた。彼女のくれた四万十川のトンボを美しく撮った本が手元にある。私は入院した彼女を見舞ったとき、ヘッセの庭仕事の本とシエナで買ったきれいな花の栞を送った。ふと花を育てていたに違いないからその花に水をやりたいと思い、最期を送ったホスピスに電話した。4月からの個人情報保護法で電話回答できない、公的機関を通してほしいというのである。面倒な社会になってしまった。しかも公的機関の具体的な部署や方法は相手方も正確に答えることができなかったので、しかたなく彼女の元の職場である公的機関から電話を入れ副申のようにこちらの訪問意図を伝えてもらうことにした。結果は育てていた花のようなものはないのだという話だった。家庭の事情で墓参も難しいということも聞いた。一人身で逝った彼女の最期の地をどうしても訪ねるべきだという思いが募り、わたしと彼女の関係を証明できるものを考えた。あの森という男の学生時代の蛮行を暴くという男によるスキャンダリズムが大きな梃となった個人情報保護法の元で、私的でささやかな友人関係まで公的機関に証明されなければならない道理は全くないのだ。シエナ在留中に、大腸全摘出手術で一月入院した夫の退院直後、はるばる訪ねてくれた彼女と撮った写真、そして入院中の焦燥からやや興奮気味にメールを送ってきた彼女を静めるために書いたわたしの長いメールというやりとり(下記に添付。公表にあたり内容を一部変えている)をもって、よく晴れた日にそのホスピスに向かった。
駅からの道はまっすぐで点々と続く店のなかにコム・サ・デ メゾン(家々のように)という小ぎれいな花屋を見ながら、駅前で簡単に買ってしまったトルコキキョウとユリの安易な花束を後悔しつつ、部屋を出てこの道を歩いたこともあったのかなあと彼女の生活を思ったりした。終末期医療に着目されるなか、近郊で唯一のそのホスピスは普通の住宅街を入っていった奥に、ふと開けた大きな病院に隣接してあった。応対してくださったシスターから、彼女にはもう花を育てる体力はなかったという話を聞き、健康ということが言わせる傲慢さに初めて恥じ入った。そしてまた花をよく買ってきて飾っていたということを聞いた。せめて我が家のベランダにも花が絶えないようにしていくことくらいしか、手向けとして思いつかない。ご冥福を心からお祈りします。
*****************************************
From: 彼女
To: わたし
Subject: RE: くれぐれもお大事に
長くて力の入ったメールありがとうございます。
ご心配も当たっており受け入れます。
きのう忽然と自分が戻ってきました。もう大丈夫です。
一週間かかりましたが、怒ってばかりいたり、急に悲しくなったり
病院の「システム」(といえるものではないかも)に改善提案のレポートを出し
たりとにかくそうでもしないと自分が不満で壊れてしまいそうでしたが、
昨日見舞いに来てくれたNさん(人権課のときの課長で、とにかく愉快な人)
とIさん(保全局の友人で遊びにいつも誘ってくれる人)と笑い転げているうち
にふと気がつくといつもの自分になっていたのです。
どこまでお話したかよく覚えていませんが、病気の発見者(健保診療所の所
長)も主治医(発見者が配慮してくれた)もまれに見る優れたお人柄(どちらも
自然に患者の意向を尊重してくれ、隣人のように話せ相談し合える)で、めぐり
合わせの奇跡を感じ、何にもまして恵まれているとふたりに感謝しています。
メールももっと短くて軽いのにします。
秋のシエナはいいでしょうねえ・・・できたら前にくださった花の表紙のノート
を買ってきてくれませんか?
-----Original Message-----
From: わたし
Sent: Tuesday, September 30, 2003 5:46 AM
To: 彼女
Subject: くれぐれもお大事に
Junko Yamaguchi Onoです。
病院というのは隔離施設なので、身体的自由は拘束されてしまうものですが、情
報に対する権利、あるいは医療従事者とのコミュニケーションの自由はあるとい
う基本的なことが日本ではまだよく理解されていないと思います。(シエナの病
院で仲良くなった隣のベッドの患者のおつれあいの女性は、食事内容について猛
然と看護師(男性)に抗議し、その迫力には夫も私も驚くばかりでした。あとか
ら食事に招かれてわかったことですが、この女性は料理とお菓子がほんとに上手
な人なのです。(略)
カルテが開示されない以上、自分の健康を自分で守るための基本的情報を得て考
えることができないというのが最たるものです。それをおざなりにしてコンピュ
ータ利用と遠隔医療が推し進められているところに、私は怒りを覚えます。
加えて女性の生殖器が自分自身で確認できないということが、産婦人科診療の患
者側のストレスを高めます。それを診療する医者の多くは男性であり、ストレス
原因が理解不能であって、女性の看護師の声も届きにくいという問題もありま
す。
私は子宮筋腫の手術後、工学部のロボット研究の先生に、医師と視線を交差させ
なくてもすむような産婦人科内診用ロボットとマック型のかわいい計測パネルの
アイデアを伝えました。2足ロボットやアイボよりもずっと重要だと思います。
なぜ産婦人科を受診しにくいかという理由は、他人の視線が直接入ってくること
にあるからです。
また、医療機関が中絶代金という現金収入を手放したくないために、薬業と結託
してピルの前面解禁にいたっていないという事実も怒りを超えています。
(この問題についてhttp://finedays.org/pill
また、関連してオーストラリア政府提供の妊娠中の薬物副作用についてのサイトも、
有益です。)
昨年シンガポールで行われた未成年者対象の公的実験では、携帯電話で自分の排
卵期データを知ることのできるサービスがあり、サービス提供者はピルを売る薬
品会社です。お試し期間の無料メールサービスを試してみましたが実に快適なも
のでした。日本では全く話題にもなっていない代物ですが、欧州では未然に防止
することが困難に成っている、強姦被害を跡から手当てするために、緊急避妊ピ
ルを無料配布するというのは重要な施策になっています。いわゆる青少年対策の
一環でもあります。
こういう問題への世論形成ができない女性センターは無用の長物以外の何者でも
なく、ただの地区センターであって、かつてこのような代物の全国一号をつくる
のに加担してしまったことを私自身は、ひどく恥じています。
というように産婦人科をめぐるストレスは増大なものがありますが、そういうこ
とと闘うのは、全快されてからにしたほうが絶対によいと思います。特に暗がり
で液晶画面を見つめつづけると、脳へ刺激が強く働くので、一層PCから離れら
れなくなって、ハイテンションに働いてしまいます。微量ですが電磁波も出てい
ます。自重されたほうがいいと思います。
私たちは、今月末から来月に14日ほど、ミラノ、ラベンナ、シエナ、ローマと回
り、待望久しい、Duccioの大展覧会をシエナにみにいく予定にしています。あ
と半世紀はそういう企画はないだろうということなので、後悔しないためです。
停電もおきないことを祈っています。ちなみにシエナのサッカーチームは高校並
みの小さなグラウンド(あのホテルの裏にあった小さな小さなものです)からセ
リエAを果たし、昨日パルマと引き分けました!
それではまた。
jy
*************************彼女が気に入っていた花のノートは、そのときもうシエナのサン・フランチェスコ教会へ行く道の文房具屋にはなかったが、思い出のためここに掲示した。(山口順子)

onore at 21:59|Permalink
文化資源の意味を再確認する会話
春のある日曜日に収録しました。
jy:イタリア中世美術がご専門で、日本の古典芸能にも造形が深く、また山梨県立美術館の準備段階から現場で実践的な経験をおもちですので、この際伺ってみたいのですが、文化財と文化資源あるいは、文化資産という場合の定義づけの違いについてどうお考えになりますか?
mo:まず有形文化財、ものとして物体としてある文化財は、滅びることを必至としている。時間を経た時に現在の状態より良くはなり得ないもの。路傍のパブリックアートも同類です。これに対して財を生むことを期待されまた可能性をもつものが文化資産なのではないか、人間国宝とか無形文化財は、今後現状より優れたものに発展する可能性を持っており資産に入りうると思う。
jy:滅びることを必至というのは、そのままでは朽ち果てるとか、変質するとかいう意味ですか?物体としての文化財がそのままでは財を生まないということですが、そこに実際の物体と人間との関係づけが介在することによって、例えば効果的な展示であるとか解説とかによって、新たな財や知を生むということも考えられると思いますが・・・。その場合の財は必ずしも経済的な価値のみをいうわけではないですね。共有財としての知といっていいのではないか。
mo:保存価値が稀少ということで政策的に指定されたものが指定文化財ですから、無形文化財の場合は、共有財として成長を保持していく可能性ももっているということ。
jy:一方で個人でもコレクションとして有形文化財の保存活動が新たな知をうむこともあるようです。
mo:例えば?
jy:最近発刊された『与論方言辞典』の共著というより原著者といってよい、菊千代さんは30年前以上から民具を家族とか地域とかで集めて個人資料館のようにしていたのですが、それが発展して与論民俗村になっている。一方で方言も集めて85年に著作を出しそれが今回の辞典に結実したということです。集めて保存展示する過程から知的活動として発展したよい例ではないでしょうか。有形、無形とかで切り離されない生活世界から菊千代さんが共有財としての方言の研究をされていったわけです。そうして新たな知を生んだという最近では珍しい佳話なんですが。
mo:なるほど。しかしそれは民具そのもの、方言そのものが生なかたちで文化財的価値を持ったというよりも、それらを収集あるいは研究するという行為を通して新たな意味づけがなされたという点で、行為のほうに多分に価値が存するように思える。
jy:では上位概念として文化資源があるのでしょうか?東大の文化資源学教室などもありますが・・・。
mo:文化資源とはどういう定義づけをしているのか僕は知らない。
jy:東京大学大学院文化資源研究室サイトの説明では、「(略)「文化」と呼んできたものを根源に立ち返って見直し、多様な観点から新たな情報を取り出し、社会に還元する方法を研究することが求められるようになった。それが「文化資源学Cultural Resources Studies」(resourceは泉に臨むという意味)であり、とくにその後半部が「文化経営学」と呼ばれるものである。具体的には、史料館、文書館、図書館、博物館、美術館、劇場、音楽ホール、文化政策、文化行政、文化財保護制度などの過去と現在と未来を考えようとするものだ。」とありますが、よくわからない。ただ、ものだけ見つめていると滅びは食い止められないから社会還元するということかしら?この社会が市民社会なのか市場なのか驚くほど緊張度は薄いですね、文化経営学といったときには・・・。すでに国立文書館も独立行政法人だし、美術館でやっている大規模美術展は新聞社やテレビ局といったマスメディアという資本権力によって展開される大衆動員イベントにすぎないという現状に対して最初から問題意識がみえてこないような感じもするんですけど・・・PFIなどの動きにもうまく対応できる技能としての学問領域なのでしょうか。文化への市場の侵食が政策的に進められていることへの批判は全く見えません。
mo:今述べた有形文化財を活用する行為ないしは知恵といったものが少なくとも文化資源と呼ぼうとしている学問領域の一端であるようには思う。そして、ほかの人はどう考えるかはわからないが、僕は文化資産の根本に言語と食文化を置く。その民族のものの考え方の基本を造っているものとしての言語と、生きていくための必需品である食べ物をその民族の嗜好と結びつけた食文化が、知性と感性の基本を成している。ともに生活文化の根源を成すものであり、ひいては文化創造全体の根幹を成すと考える。その上で、純粋美術、応用芸術としての工業デザインなど、そしてパフォーミングアーツ、音楽、演劇などが展開されていると考えるなあ。文化財と文化資産で文化資源なんじゃあないかな。
jy:なるほど非常にわかりやすいですね。ユネスコの世界歴史遺産などは面としての地区指定だったりするわけだから、財と資産をとりこんで観光にのせやすくしているわけですね。
mo:例えば、イタリアだとラヴェンナでモザイクの最高峰をみる、そのあと白トリュフのリゾットを食うと、ああこういううまいものを食ってたからああいうすばらしい造形感性が生まれた、と納得できるでしょう。トスカーナのシエナの料理も同じだよ。いのししの生ハムとか、トマトのこってりした煮込みを食ってモンタルチーノの赤ワインじゃないとね。これがアメリカンピザのような立ち食いですませたんじゃあ、文化資産も資源も総体として理解できないね。
jy:白トリュフのリゾットは5,6年越しで食べそこなったことを後悔していらっしゃいましたからね。あのモザイクの道具のあるリストランテでついに食べたときはどんな感想をもったんですか?
mo:もう何時死んでもいい感じですね。地上の楽園といった感じだったね。
jy:小さな夢(il sogno del cassetto:イタリア語でたんすの引き出しのなかにそっとしまってある夢)のリゾットが食べられたんだっていったら、お店の人もとっても喜んでましたね。日本でいうとどういう例がありますか?なかなか少ないかと思いますが。
mo:成功例は山梨県立美術館で、美術館をみてぶどう狩り、ワインと組み合わせることができて日帰りだから、ミレーの絵の前は床が減っているんだよ。美術と食事の片方だけではなかなかツアーが組みにくいと旅行社の人がいっていたんだ。
jy:そういえば、山梨県立美術館のシンボルマークはぶどうでしたね。やっぱり文化施設としては食べ物をシンボルマークにしたほうがよいということですかね。さしずめ茨城は梅干か納豆、千葉は房総のお魚か落花生、横浜はスープ中華まんじゅう、栃木は餃子ときて、埼玉は何でしょうか?
mo:埼玉は・・・むずかしいね。それに美術館のシンボルマークを直接食べ物に結びつける必要はないと思う。食べ物は飽くまで文化の根元を成しているものであって、発達した文化にあってはもちろんそれが全てではないのだからね。
jy:浦和に有名な鰻屋があったはずですけど、良いものをみて、佳話を聞き、ご当地のおいしいものを食べて帰るということですか。
mo:それが人生の楽しみってものじゃあないのかね。
jy:どうもありがとうございました。大変勉強になりました。
山口順子より、小野迪孝氏(東海大学教員、オノーレ情報文化研究所顧問)へのインタビューをまとめたものです。
jy:イタリア中世美術がご専門で、日本の古典芸能にも造形が深く、また山梨県立美術館の準備段階から現場で実践的な経験をおもちですので、この際伺ってみたいのですが、文化財と文化資源あるいは、文化資産という場合の定義づけの違いについてどうお考えになりますか?
mo:まず有形文化財、ものとして物体としてある文化財は、滅びることを必至としている。時間を経た時に現在の状態より良くはなり得ないもの。路傍のパブリックアートも同類です。これに対して財を生むことを期待されまた可能性をもつものが文化資産なのではないか、人間国宝とか無形文化財は、今後現状より優れたものに発展する可能性を持っており資産に入りうると思う。
jy:滅びることを必至というのは、そのままでは朽ち果てるとか、変質するとかいう意味ですか?物体としての文化財がそのままでは財を生まないということですが、そこに実際の物体と人間との関係づけが介在することによって、例えば効果的な展示であるとか解説とかによって、新たな財や知を生むということも考えられると思いますが・・・。その場合の財は必ずしも経済的な価値のみをいうわけではないですね。共有財としての知といっていいのではないか。
mo:保存価値が稀少ということで政策的に指定されたものが指定文化財ですから、無形文化財の場合は、共有財として成長を保持していく可能性ももっているということ。
jy:一方で個人でもコレクションとして有形文化財の保存活動が新たな知をうむこともあるようです。
mo:例えば?
jy:最近発刊された『与論方言辞典』の共著というより原著者といってよい、菊千代さんは30年前以上から民具を家族とか地域とかで集めて個人資料館のようにしていたのですが、それが発展して与論民俗村になっている。一方で方言も集めて85年に著作を出しそれが今回の辞典に結実したということです。集めて保存展示する過程から知的活動として発展したよい例ではないでしょうか。有形、無形とかで切り離されない生活世界から菊千代さんが共有財としての方言の研究をされていったわけです。そうして新たな知を生んだという最近では珍しい佳話なんですが。
mo:なるほど。しかしそれは民具そのもの、方言そのものが生なかたちで文化財的価値を持ったというよりも、それらを収集あるいは研究するという行為を通して新たな意味づけがなされたという点で、行為のほうに多分に価値が存するように思える。
jy:では上位概念として文化資源があるのでしょうか?東大の文化資源学教室などもありますが・・・。
mo:文化資源とはどういう定義づけをしているのか僕は知らない。
jy:東京大学大学院文化資源研究室サイトの説明では、「(略)「文化」と呼んできたものを根源に立ち返って見直し、多様な観点から新たな情報を取り出し、社会に還元する方法を研究することが求められるようになった。それが「文化資源学Cultural Resources Studies」(resourceは泉に臨むという意味)であり、とくにその後半部が「文化経営学」と呼ばれるものである。具体的には、史料館、文書館、図書館、博物館、美術館、劇場、音楽ホール、文化政策、文化行政、文化財保護制度などの過去と現在と未来を考えようとするものだ。」とありますが、よくわからない。ただ、ものだけ見つめていると滅びは食い止められないから社会還元するということかしら?この社会が市民社会なのか市場なのか驚くほど緊張度は薄いですね、文化経営学といったときには・・・。すでに国立文書館も独立行政法人だし、美術館でやっている大規模美術展は新聞社やテレビ局といったマスメディアという資本権力によって展開される大衆動員イベントにすぎないという現状に対して最初から問題意識がみえてこないような感じもするんですけど・・・PFIなどの動きにもうまく対応できる技能としての学問領域なのでしょうか。文化への市場の侵食が政策的に進められていることへの批判は全く見えません。
mo:今述べた有形文化財を活用する行為ないしは知恵といったものが少なくとも文化資源と呼ぼうとしている学問領域の一端であるようには思う。そして、ほかの人はどう考えるかはわからないが、僕は文化資産の根本に言語と食文化を置く。その民族のものの考え方の基本を造っているものとしての言語と、生きていくための必需品である食べ物をその民族の嗜好と結びつけた食文化が、知性と感性の基本を成している。ともに生活文化の根源を成すものであり、ひいては文化創造全体の根幹を成すと考える。その上で、純粋美術、応用芸術としての工業デザインなど、そしてパフォーミングアーツ、音楽、演劇などが展開されていると考えるなあ。文化財と文化資産で文化資源なんじゃあないかな。
jy:なるほど非常にわかりやすいですね。ユネスコの世界歴史遺産などは面としての地区指定だったりするわけだから、財と資産をとりこんで観光にのせやすくしているわけですね。
mo:例えば、イタリアだとラヴェンナでモザイクの最高峰をみる、そのあと白トリュフのリゾットを食うと、ああこういううまいものを食ってたからああいうすばらしい造形感性が生まれた、と納得できるでしょう。トスカーナのシエナの料理も同じだよ。いのししの生ハムとか、トマトのこってりした煮込みを食ってモンタルチーノの赤ワインじゃないとね。これがアメリカンピザのような立ち食いですませたんじゃあ、文化資産も資源も総体として理解できないね。
jy:白トリュフのリゾットは5,6年越しで食べそこなったことを後悔していらっしゃいましたからね。あのモザイクの道具のあるリストランテでついに食べたときはどんな感想をもったんですか?
mo:もう何時死んでもいい感じですね。地上の楽園といった感じだったね。
jy:小さな夢(il sogno del cassetto:イタリア語でたんすの引き出しのなかにそっとしまってある夢)のリゾットが食べられたんだっていったら、お店の人もとっても喜んでましたね。日本でいうとどういう例がありますか?なかなか少ないかと思いますが。
mo:成功例は山梨県立美術館で、美術館をみてぶどう狩り、ワインと組み合わせることができて日帰りだから、ミレーの絵の前は床が減っているんだよ。美術と食事の片方だけではなかなかツアーが組みにくいと旅行社の人がいっていたんだ。
jy:そういえば、山梨県立美術館のシンボルマークはぶどうでしたね。やっぱり文化施設としては食べ物をシンボルマークにしたほうがよいということですかね。さしずめ茨城は梅干か納豆、千葉は房総のお魚か落花生、横浜はスープ中華まんじゅう、栃木は餃子ときて、埼玉は何でしょうか?
mo:埼玉は・・・むずかしいね。それに美術館のシンボルマークを直接食べ物に結びつける必要はないと思う。食べ物は飽くまで文化の根元を成しているものであって、発達した文化にあってはもちろんそれが全てではないのだからね。
jy:浦和に有名な鰻屋があったはずですけど、良いものをみて、佳話を聞き、ご当地のおいしいものを食べて帰るということですか。
mo:それが人生の楽しみってものじゃあないのかね。
jy:どうもありがとうございました。大変勉強になりました。
山口順子より、小野迪孝氏(東海大学教員、オノーレ情報文化研究所顧問)へのインタビューをまとめたものです。
onore at 21:32|Permalink
May 05, 2005
風景の浮かぶ一皿−ジャンルーカのつくるトスカーナ料理

今から15年ほど前に毎年行われていた、イタリア料理の老舗リストランテ・文流の夏のフェスティバルにはイタリア人のシェフたちが招かれていた。そのうち、唯一残ったのがジャンルーカ・パルディーニ(Gianluca Pardini)である。今年は地元野菜とのコラボレーションということで楽しみにしながら国立に向かった。
ジャンルーカは日本にとても慣れているはずだが、寒暖の差が大きいなかで、かぜをずっとひいていると気の毒にちょっと凹んでいる。しかし、いただいた料理はどれも国立周辺の野菜と魚をうまくアレンジして、一口食べたときに、シエナのやさしい丘の風景を彷彿とさせて私たちを驚かせた。特に、ファッロ(スペルト小麦)とポモドーリ・セッキ(ドライトマト)のサラダは、以前いただいたトマトとミント風味のリゾットに負けず劣らずトスカーナの味わいそのものだった。細かく刻まれたチーズもてっきりもってきたのだろうと聞いてみると、こちらで手に入れたペッコリーノだという。少し大目のオリーブオイルがそれぞれの素材の塩味をうまく引き出してまろやかな風味を醸し出している。そのやさしさがゆるやかに続く丘の緑を脳裏に甦らせてくれた。
彼はフィレンツェの西のルッカという街の出身である。ルッカは丸い城壁の中に中世の教会が点在しており、重要な美術品も多い。美術史のドットーレだが、なかなか職業として成り立たないのでシェフの道に入ったのだそうだ。だからジャンルーカの一皿には見た目というよりも味わいのアーティスティックな創造が感じられるのである。それは、自分の原点にある風土を自覚できている料理とでもいえ、日本の素材を使ってもトスカーナの風土に根ざした味を作り出せるのである。イタリアンブームで留学したシェフたちの料理もよいが、どこかイタリアンジャポネーゼになってしまう。それはそれでしかたないのだが、それらが表現する風土はどこになるのかと疑問になるときがある。グローバルな味だという聞いたような言い回しでごまかしてほしくない問題である。
文流がシエナ郊外の古い館を利用して日本人のためのトスカーナ料理の学校チェンニーナを開校すると、ジャンルーカは永らくその指導者として多くの学生にトスカーナ料理の真髄を伝えてきた。日本に留学経験もあり、日本語に堪能だということもあって最後まで指導を務めたのはジャンルーカだった。2004年にその学校が終わる直前に訪ねたとき、一抹の寂しさもあるが、ルッカの郊外で後継となる活動を始めるため「新しい出発をする」と力強く語っていた。今はルッカにあるイタリア料理学院を主宰している。
ルッカで思い出深いのは、郊外の山の頂近くにある古い教会ピエーヴェ・ディ・ブランコーリを訪ねたときのことである。九十九折を車でようやく登ってたどりつくと、教会の扉が少し開いていて夕べのミサの前のそうじのため近所の人たちが立ち働いていた。夫の調査はいつもこうした教会の名も知れぬ画家の十字架形板絵やマリアとキリストの母子像を訪ねるもので、ノートや写真をとる間、少し寒いので私は車の中でまっていた。山の天気が変わりやすく、登ってくるときは晴れていたが、すぐに霧がかかった状態になった。その霧の切れ目から、セルキオ川の蛇行する光だけがちらちらと見えているのである。山並みの緑とうす白い霧、そして川の銀色の流れがなんとも印象的だった。それをながめながら、私はかつて暮らしたシエナの1年の出来事をなつかしく思い出していた。そうした情景もジャンルーカの料理とヴェルナッチャの黄金色のむこう側に透けてみえてくるのだ。
帰り際にとてもジャンルーカの似顔絵になっているポスターが気になってお店の人に聞いてみると、厨房にいる山澤さんの作品だそうだ。シェフへの尊敬と愛情あふれる表現をみて、お願いしたら特別にプリントアウトしてくださった。ジャンルーカが我が家を訪ねたときに見せて驚かせようと思っている。(山口順子・地名校訂小野迪孝)
onore at 16:17|Permalink
April 02, 2005
君は踊るサチュロスに触れたか−愛知万博・イタリア政府出品文化財への賛歌
開幕からお弁当ごときでミソのついた愛知万博だが、八丁味噌の産地だからご愛嬌というものだ。ほかのものはともかく、これだけは見て触れていただきたいと思うのはイタリア政府出品の文化財「踊るサチュロス」である。
このサチュロスの発見当時、1998年の3月、私はイタリアのシエナで暮らしていた。前年の9月から3ヶ月ほどしたところで、夫は持病が悪化し緊急入院したシエナ大学附属病院の外科で大腸全摘出という5時間の手術を受け、年明けに退院し、病後は人工肛門をつけて車を運転しながら、カルナヴァレの地方を回り、3月は格安ベルリン行きのツアーを計画していたころのことである。シチリア沖から発見された国宝級のギリシア彫刻のニュースははっきりと記憶に残っている。海中からぬっと出したその顔はおぼれかけた瀕死の青年のようだった。
イタリアの新聞の中心は文化欄にあり、発見や展示にまつわる案件は単なる一過性の報道にとどまらず、連日様々な角度から論評が加えられる。それはまぎれもなく次世代の文化ヒーローとなることが期待されていた。
その年の夏にはシチリアへ夜行列車に愛車パンダを乗せて出かけ、ほぼ時計回りに1周した。アグリジェントの夕刻の中、黄金色にライトアップされた古代遺跡はことばに言い尽くせぬ永遠のシーンだった。次の日はパレルモに北上するはずだったが、夫はどうしてもマザラ・デル・ヴァッロの重要な教会へ寄ってからいくと強引である。パレルモのホテルは駅近くのちょっと怖い場所だったので、明るいうちにつきたかったが一度言い出すと聞かない人だからしかたない。私はパレルモまでその日のうちにつけるかどうか、気がきでなく、小1時間いたマザラの街は田舎の猟師町という感じであまり印象が無い。しかし大聖堂の木製の椅子のひじかけや背に凝った細工が施してあり、寄進者の名前がそれぞれつけられていたことは忘れられない。シチリアの貧しさと裏腹のような重厚で敬虔な感じをよく表していたように思う。
その街の猟師たちが偶然引き上げた彫像が万博にきた。3月、東京国立博物館の表敬館・丸天井下で対面したとき、なんともいえない感動に襲われた。あのおぼれかけた瀕死の表情はみごとに生気を取り戻し、恍惚と人生の幸福に酔う青年のそれに変わっていたからだ。展示のまわりをゆっくりといくと、宙を舞う躍動的な動きは背中の表情にあった。そのとき、サチュロスは私に「君はこの7年間何をしていたんだ」と無言で問いかけ、自分にあとに勇気をもって続けとささやいたのだ。
去りがたい空間だった。展示室の前段には発見から修復のパネルとともに、レプリカが置かれ触れられるようになっていた。サチュロスのひねりのある背から腰にかけてのラインに触れたとき、私ははっきりとイタリアのエロスを感じた。
展示に伴って、シチリア州政府関係者や文化財修復担当者、そして万博への展示プロジェクトを担当した人たちの特別講演会も開催された。博物館のホールはほぼ満席で、イタリアにはめずらしく時間制限を守った簡潔な、お行儀の良いプレゼンテーションには感心した。それよりも保存修復移送に伴うデータ解析に情報技術が駆使され、まさに文化を創造する補助技術として用いられていることに感服した。日本のように主客逆転が多いCGの利用ではない。あくまでも技術利用は目的ではなく手段なのだ。
最後に、サチュロスのネットサイトを構築しているなかばの美しい映像デザインをみせながら、担当者の口から興奮気味に今回の本当の目玉が語られた。視覚障碍者にもサチュロスに出会ってほしい、そのためにレプリカを置くと言う提案をし、受容されたことはこのうえもない喜びだったという。私はそこにケアのある文化外交をイタリアが果たしたことを悟った。モナリザでもミロのビーナスでもできなかった、万人のための文化の享受をイタリアのシチリアからきたサチュロスは表現している。今世紀は博覧会の時代ではない。博触会をめざすべきなのである。(山口順子)
愛知万博・イタリア館サイト
http://www.expo2005.or.jp/jp/C0/C3/C3.12/C3.12.3/index.html
シチリア州文化財省によるサチュロスの愛知万博展示報道http://www.regione.sicilia.it/beniculturali/dirbenicult/info/news/satiro.html
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October 13, 2003
「マリア・カラスとエイダの映画」
冷夏のこの夏は緊縮バカンスとなって、ある水曜日の夜、新宿で映画を2本立て続けに見ただけで終わった。「永遠のマリア・カラス」(Callas Forever,2002)と「クローン・オブ・エイダ」(Conceiving Ada,1997)の組み合わせは、単に時間帯がうまくあったという関係ではすまないように思えてきた。
前者は、フランコ・ゼフィレッリの愛情溢れる回想とフィクションの取り混ぜだが、妙にリアリティがあって思わずウルウルさせられてしまったのは、カラスが深夜に一人、絶頂期のレコードを聴きながら練習するシーンである。イタリア人のメイドが証言している事実だという。もう一つは、ゼフィレッリ本人と思しき男が若い男性画家と恋に落ちて、その間柄をカラスが明るく嫉妬し、二人の夕食の約束に無邪気に割り込んでいく場面。ミラノのスカラ座を舞台にした有名な三角関係を知っている人なら大いに笑えた。おすぎが墓場までもっていきたいと喧伝する所以もわからなくはない。それ以上にゼフィレッリの言いたいことは、もちろんカラスが代言している。デジタル技術を駆使して絶頂期の声をかぶせた劇場映画を作ったとしてもそれは客を欺くことになるのだと。この映画自体がそれだから自己矛盾といえるが、ハリウッド型の映画批判というのは読みすぎだろうか。
後者は、レイトショーのマイナー作だが、女性監督のリン・ハーシュマン・リーソンはビデオ制作では数々の国際賞を得ているカリフォルニア大学の教授である。詩人バイロンの娘であるエイダ・バイロン・キング(1815−1852)の名前を知ったのは、1980年代半ば、イギリス政府の男女平等委員会がつくった、女の子に理数系を選ばせる教育キャンペーンポスターだった。日本ではこのようなキャンペーンは記憶にないが、EU諸国ではかなり行われたらしく、工学系を含む自然科学分野への女性の進出度を比較すればその少なからぬ効果は歴然としている。エイダは、コンピュータのプログラム原理を開発した陰の立役者として最初に記憶される女性であり、情熱的な恋愛関係を科学者たちともった壮絶な人生は、西垣通『デジタル・ナルシス』(岩波・同時代ライブラリ)に詳しい。修士課程に入ってすぐ入院というつまらない時間を過ごす間にこれを読んだとき、彼女の強い生き方と子宮ガンで苦しみぬいたという最期が、こちらも産婦人科病棟にいただけに印象深かった。リン・ハーシュマンはビクトリア時代にこのような女性がいたことに驚き、映画にしてみたいと思ったそうだ。
映画では、記憶遺伝子の学者を志す女性が同棲相手との間の妊娠・出産に迷う一方、過去の世界のエイダとDNAを介した交信に成功し、研究の佳境を迎える。子育てで自分の才能を十分に開花できなかったと嘆くエイダに対して、クローン技術によって生命力は半減するが現代に生き直すチャンスを与えようとする。結局、エイダはこの技術を拒み、自分の夢、つまりコンピュータ言語で進めるあらゆる創造活動を実行してほしいのは、コンピュータ画面を通じて過去の世界をのぞくあなたたちというメッセージを残す。それをsave(「助けて!」と「(自分の記憶)を保存して」の意味を重ねている)というキイワードで伝えようとするのだが、全体に少し中途半端な印象もぬぐえないのは、米国でとらえたビクトリアン・テイストをデジタル化して借用しているからだろう。エイダのためにデジタル技術を駆使したと、リン・ハーシュマンは説明しているが、時代背景を描くベースが本物でないと、やはり安っぽいアングロアメリカン・テイストのソープドラマに陥る危険がある。それよりも素直にできのよいフェミニズム映画とみたほうがよく、人文・社会系の人物を赤やピンクのお決まりの色調やデザインでしか扱えない、日本のそれと比較すると、はるかにチャレンジングであり表現に幅がある。エイダとの交信のエージェントに金色の小鳥を使うといった小技は、JRの券売機や銀行のATMで強制的に見せられる制服を着た女性のおじきよりはずっとましではないか。
重要なのは、二人の女性、エイダもカラスも現代に生き直す先端技術に身を委ねきっていないかのように映画作品が仕上がっていることである。ここに制作者の情報技術に対する倫理観が偲ばれる。技術的に再現できるほど人間の人生は単純ではないのである。
・参考
リン・ハーシュマンの自作解説サイト・イタリア語
エイダ・バイロンについて
エイダ・プロジェクト〜女性の能力開発と情報技術〜のサイト・フランス語とドイツ語
(米国エール大学で開催された同名プロジェクトは94年から99年まで行われたあとミルズカレッジに継承された。)
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November 11, 2001
「第1回横浜トリエンナーレへのno-ten-keyなreview」
jo:アラお久しぶり、お元気でしたか。
ke:ほんとにお久しぶり、どうなさってたの。横浜市民ギャラリーでは天職だなんていって仕事してらしたのに。
jo:まあ、お役所の異動だからしかたないんだけど3年いて、いろんなアーチストやギャラリストの人と知り合いになれたのは、心底楽しく幸せな時間だったわ。大小10くらいの企画をしたけどほとんど満足しています。そのあと栄区役所のまちづくり全般にかかわって、横浜彫刻展の作品設置のコーディネートなどいたしましたが、わけあって退職し、97年から98年の間
イタリアに夫と住んで、帰ってきてから企画コンサルタントと今は大学院の2年生なの。
ke:今日の作家展でもおもしろい企画がありましたよね。
jo:今日の作家展の将来像として今回の横浜トリエンナーレのような国際展も構想していて、そのプレ企画が35周年記念でやった「洋上の宇宙」展でした。あのタイトルには本当に困ったんですが、横浜線の車窓から帰宅途中ふうっと浮かんだのを覚えています。横浜の姉妹都市関係にある都市の将来性豊かなアーチスト支援を主眼にしたことと、ベネチアビエンナーレで
スイスの美術大学の学生が展示準備にかかわり、単位に代えるなんて洒落たことをしてましたので、それを応用してBゼミの亡くなった小林先生にお願いして、学生さんに展示準備参加していただいたんです。これは前年の逢坂恵理子さんを今日の作家展の歴史上初めて女性のコミッショナーとして抜擢した「視えない現実」展のときにも、すでに幾人か美大の方にきていた
だいていたんですけど、Bゼミの学生さんたちは、色々な職業経験があるので、電気系統とか詳しい人もいてとても助けていただいたし、アーチストとのコミュニケーションも言葉ではない心の共感でうまくできていたようでした。ボランティアでなく、日当を払ってお願いしたんですよ。5000円だったと思う。それぞれ技術をもっているわけですし、貴重な労働時間を割い
てお願いしているわけですから。
ke:そのころの95年96年ころはバブルがもうはじけたけど、そのなかのあだ花とか私なんか悪口いっちゃってましたけど、NICAFも結局横浜を見限っていったわけでしょう。
jo:NICAFをパシフィコで続けるというのは、横浜の都市経営からみて重要だったと思うんですが、アートのメッセという意味がほとんどその当時の文化行政担当と横浜美術館トップサイドに理解されていなかったのが残念でした。美術品売買についての偏見が合ったと思います。ただ、他の業界に比べてその不透明さというのは、今でも払拭されていないし、とりわけ文化な
んて役所のオーソドックスからいえば「特殊な」仕事と思っているお役人感覚ではフツー感覚なのかもね。80年代前半まで神奈川県を中心にただよっていた行政の文化化という発想にはそういう感覚の変革も込められていたと思いますが。
ke:あのNICAFのころもそうだけど、横トリのたちあがりでもなんとなくギクシャクしたものを感じたのは私だけではないと思うわ。
jo:横浜市役所には田村明氏を中心として、都市デザインを核とした都市計画がまちづくりの市民的公共性、文化性をリードしてきたという自負があり、それはそれでよいことなんです
が、その異動のない技術専門職を含むラインが大型イベントを誘致するあるいは立ち上げる、博覧会型まちおこしをリードしてきたという実績をもっています。それももはやアナクロといっていい時代に入っていると思いますが。一方で、美術館ブームで作られた市長部局の文化行政担当部門は異動のある部署はどうしても財団化した施設管理型になってきている。横トリも
文化行政担当部門が主体的に施策をたちあげたわけではないので、ちょっとしたねじれが見え隠れしてしまうんでしょう。現在は人事的な配置でずいぶん改善されたと思いますが、そういう問題性がNICAF当時はまだあって、最も歴史ある横浜市民ギャラリー(戦後では、鎌倉の近代美術館の次くらいに位置する美術施設です。現在は横浜美術館と同じ組織に入っています
が、発足当時は桜木町駅前にあった、産業奨励館という古い建物だった、そのあと教育文化センターの文化事業課という教育委員会事務局。94年に市長部局に移管となり、その後美術振興財団化。今後、美術館とともに文化振興財団への実質的な吸収合併も決定されています)としては、今日の作家展をわざわざNICAFの開催時期に合わせたり、会場内でもギャラリー企画の
ものをブースで出したりして、協力体制をつくろうと努力してたんですけどね。今回の横トリで地域連携がここまでできているというのは、関係者の努力によるところが大きいと私は評価していますよ。
ke:そして、こんなふうに会場で偶然合うなんて何かのご縁よね。どう感想は?
jo:まず、企画段階からアーチストの数が多すぎることは指摘されていましたよね。そのことは主役であるアーチストそして観客である市民両方に対する配慮欠いていると思うのです。限られた時間であっても作品と視聴覚言語を通じた対話をする余裕がほとんどなくなってしまい、作品そのものに対しても失礼だし、鑑賞する市民もどれがどれだかわからなくなって、結局ポスターでみた作品、NHKに出た作品といったようにマスメディアに操作された偏った見方をしてしまうし、皆がいくから私もいったという動員型展覧会の域を越えないと思うんですね。
ke:ビデオとかが多いから時間もかかるしね。
jo:幼稚園くらいの子どもを連れていった友人は、暗がりが多いから子どもが怖くなってもう「おかあさん、帰りたいよう」っていうのをなだめるのは大変だったって。あのスーパーマーケットにありそうな子どものお遊びコーナーもいいけど、いっしょに見たい空間づくりというのはコンセプトとからんでくる問題ではありますね。それはバリアフリーともからんでいて、通路の幅に問題があったり、階段をわざわざつけている作品など、アーチストの社会的視野を疑うものもありました。なぜスロープではないのかしら。すでに人権の世紀であるという意識に欠けているといわざるを得ない。暗がりの多い中でキャプションも小さく見づらかった。
ke:うーん、さすがに厳しい見方だなあ。
jo:そうでしょうか。文化を享受する権利は万人に開かれているはずです。
ke:それってテクノロジーのデジタルディバイドともからんでくる話じゃない?
jo:あなたこそ、鋭い指摘よ。私なんかも液晶画面がでたばかりのころ、NICAFの狭いブースにちょうどいいからなんてリースで揃えたりしたんですけど、ハイセンスなテクノロジー機材を駆使して映像表現できる国のアーチストは北の人たちに偏っていたでしょう。一瞬これは、東京ビッグサイトのぱそまる展かと疑う場面もありました。そういうことに強烈な異議申し立てをしていたのは、赤レンガの最初にあった、クシュトワ・ウディチコのパブリックプロジェクト。かつてサンディエゴとの姉妹都市交流で美術展をメキシコのティファナの文化センターでも展開したので、あの丸い天井を脳天気になつかしく思い出しましたが、あの当時、あの町で起きていたことが、女性たちから語りだされたときはのど元に短刀つきつけられた思いでした
よ。当時、一緒に行った、あの亡くなった宮前正樹さんが「町じゅうがホントにこわれちゃってるよ」っていいましたけど、マキラドーラという関税障壁を低くした地域では情報通信系多国籍企業や日本企業が利潤追求していたり、国境を隔てたサンディエゴはまたそれ系統の有名ベンチャーが集まっていますが、その一方で、ティファナの家のなかは暴力や性的強要でこわれていて、女性や子どもはその犠牲を強いられている。そのことは今現在、世界中でつながっている話なんですよ。ああいう映像をMITの先生からみせられちゃうと、日本の大学からそういう先生はいつ出てくるのってもう絶望感にかられる思いよ。
ke:もうちょっと明るい話題に変えようよ。
jo:私が3回もみてしまったのは、シボーン・リデルの「目には見えないけれどもここには私たちの知っているいくつかのエネルギーがある」です。見えるか見えないかの細い銅線や糸を遠近法を使って張り、また平行の配列にモワレなんか出しちゃって、唯一ホット癒されたし、また、こういう世相なので、見えない緊張や恐怖のようなものが皮膚を伝わる一瞬も感じられました。平日の昼間だったので、わりと朝日新聞とっている風のシニア女性が多かったので、たくさんの人に入り口からまっすぐ、壁の糸のさがっているようにみえるところまでゆっくり歩いていくと、いろいろなモノが見えてきますよって勧めたんです。壁までたどりついて振り返りにっこりする人が多くて幸せな気分でした。若い人で、皮膚感覚が薄くなっているのか、何も感じられないような表情の人もいたのも、さっきのテクノロジー依存と関係しているように思う。「糸」という材料は横浜の歴史ともつながっています。生糸貿易で日本の殖産興業は始まり、その製品は赤レンガ倉庫のようなところから海外に輸出されていったわけだし、その労働は日本中のただ同然の女子労働力だったんですよね、誰のおかげでここまで経済成長できたと思ってるのかしらねえ。開港資料館の前のシルク博物館の展示をみるとそういうこともよくわかります。ついでにいうと、シルク博物館は県内でもかなりよいレベルで、作品解説をする人の配置などリニューアルしたあとの活動がすばらしいです。
ke:あなたのジェンダー感性からいうとあの一番大きなシャワーの塩田千春の「皮膚からの記憶2001」は好みのタイプでしょう。
jo:それが、午前中シャワーがこわれているからっていうんで、午後また見に行ったんですけど、両方私には力強いものを感じました。シャワーなしで背後からみると芥のような泥水の静けさにパシフィコの天井が移りこんでいて、国内はもちろん、ODAについてもハード中心の公共政策とそこに住む女性や子どもとの遊離の現状を問い掛けているようにみえた。もちろん、
シャワーがかかっているのが本来のコンセプトでしょうけれど。メガウェーヴで隠蔽されていく問題を垣間見たというのが総合的な私の印象です。
ke:中国の作家たちもおもしろかったわね。私はダイエット中だからあの脂肪の「文明柱」にはまいったね。肉感覚というか大陸感覚だよね、あれって。
jo:最初、思わず蜜蝋か、とか叫んじゃって、香りの感覚まで想像したところで注射針の写真ですからね。(笑)できれば、得意の象牙彫りのようなものを施してほしかった感じ。上海の性風俗をとりあげたヤン・フードンも笑えた。現代美術交流で上海に行ったとき、日曜日の公園なんか明るくても平気という個人主義のカップルの多さにびっくり、もう目のやり場に困っ
ちゃうの。そのとき行った人、皆、休憩専門のラブホやれば絶対もうかると思ったんだけど、誰も手を出していない。今からでもビジネスチャンスありってことよね。カップル喫茶でもいいかもね。うーん、もうありそうだなあ、そこに、思いっきりハイテク機器を現地生産で入れると中国だけIT不況から脱却できるのか・・・。
ke:オイオイ、何考えてんだ。目玉のバッタとか、山本育夫さんのaw-mlでマエセンの激しかった小沢剛のトンチキハウスは?
jo:トンチキハウスは平日の昼間から生き場のないような女の子の和み場所になってましたが、チャブ台だけは古いものを用意してほしかったわ。チャブ台の発祥は横浜の本牧よ。寝室兼食堂みたいな住宅事情の悪い日本の都市生活にはぴったりあった道具だったはず。歴史的文化的背景をもう少しコンセプトに反映させてほしかったと思う。せっかくの新聞のレトロな広告にあわせてほしかったなあ。椿さんと室井さんの「飛翔」は、先月天気のよい日に写真だけ抑えにきたときもありますけど、横トリ見に行ったときはあいにく足が壊れてしまって、干からびたようにホテルにへばりついてました。けれど横浜国大の学生さん始め、設置にかかわった人たちはきっと新しく生きる虫のような力を得たでしょうね。その昔ボイスの東京の展示に上野の山でかかわった人たちからすぐれたアーチストが出ているという共通性を発見したことがあるのですが、きっとこのプロセスで得た力がトリエンナーレを続けていくことにつながると私は信じています。
ke:奈良さんはみちゃったの?
jo:拝見しましたけど、メディアとフィギュアを制した作家を成功している作家として祭り上げてよいのか。強烈に私たちを侵食する消費文化との対比でちょっと疑問です。ぬいぐるみも売れてるっていうけど、中国製というところが、製造の空洞化の状況とリンクしていて、アーチストの想像力の侵食と空洞化が本人たちの知らない間に起きているように思えてなりません。東京大学出版会の「内破する知」の表紙でもなぜかナイフもってないし、あの横浜・上大岡のパブリックアートで「目がこわい」といわれた作家はどこにいってしまったのかという気がする。内破することをやめてしまったらアーチストはアーチストではないのではないかしら?
ke:いやはや、厳しすぎないこと?
jo:批評のないところに文化は育たない、そう思わない?それも批評のための批評でなく、反省的思考の上に実践を展開していくための批評が必要だと思います。
ke:またこうして会って言いたいこといおうよ。
jo:次の横トリでね。私って偶然知り合いと逢うのがとても好きなの。
*著作権は、小野(山口)順子が有します。
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November 03, 2001
「芸術文化振興基本法案を問う〜憲法政策論の観点から」 山口順子
第151回国会より「芸術文化振興基本法案」が継続審議中となっている。
山本育夫氏主催によるメーリングリストaw-ml上の11月2日付の宮崎刀史紀氏の発言によれば、WEB上において公明・保守党案及び民主党の案も参照できるものの「自・公・保のいわゆる「与党案」がWEBでは見られません...(これがだいぶ問題があるとされている案です)この法案は、現在、音楽議員連盟(超党派)が検討をすすめていて、11月1日には音議連の特別委員会で、与党案からさらなる検討が行われたようです。とりあえず、与党案がそのまま国会に上程されるということはなくなった模様です。」ということである。この法案がその活動形態から美術分野に比較して共同体的性格をもちやすい音楽関係者中心に進められてきたことから、美術関係者を中心とした同メーリングリスト上では、にわかに法案策定に関する市民的議論の必要性について関心が高まりつつある。
ここで、小林直樹教授の『憲法政策論』(日本評論社、1991年)を元にしながら、芸術文化に関する基本法(以下、「文化基本法」と省略する。先の法案の対案を想定)の位置について少しく考察してみたい。
同書p30では、「基本法秩序のあり方に関係するために、憲法政策論は高度に政治的な性格を有する。」ということが述べられているが、文化基本法は、現行の憲法の規範的理念=恒久平和、主権在民、基本的人権の尊重の3つの原則いずれにも深く関わり、憲法政策の一端をなすと考えられ、むしろこの憲法理念と現実の乖離を埋めることを目的とすることにその意義があると考えられるので、政治性を強く有し、それゆえ、できるだけ広範な市民的議論が必要であることは明らかである。ここで国民的議論といわず市民的議論とする理由は、高度情報化や国際化に伴い、芸術文化の創造の場が国という範囲をすでに超えており、市民であるかどうか問わず、さまざまな時空のなかで生きられる場としてのアイデンティディの模索と芸術文化が深く関わることによっている。
小林教授は、憲法政策論の整理の基準として多々あるなかで、改正を要するか要しないかという分類に則して、憲法秩序の中で各政策の位置や意味を概観させている(同書p14-23)が、もし、新しい人権として文化基本法が「文化権」を盛り込むことを考える場合は、人権条項への新たな付加として憲法の部分改正を必要とする。(環境問題に関して「環境権」を確立させたい場合にも同様)改憲を要しない場合の文化基本法の位置は、思想・表現の自由や信教の自由、社会権といった領域にまたがり、憲法の根本原理との複雑で深い関連を考えざるを得ない。
より善い立法実現に向けての実践的戦略としては、生涯学習との連携を視野に入れつつ、文化基本法に基づく文化政策が、社会権の拡張原理をもつような構成を法の中に求めていくことになるだろう。
また、小林教授は、政策をめぐる諸理念の調和と方向性について、「個人の「人権」と「公共の福祉」、「自由」と「統制」又は「秩序」、「進歩」と「安定」という対概念は、日本の法政策の場合、ほとんど後者に重点がおかれ、前者は軽視もしくは抑制されているが、前者に重点をおく理念論的枠組みは憲法の要請と合致すると思うと述べられている。
(p27-30)
すでに、80年代以降、すでに展開されてきた文化政策及びそれに隣接した国際文化交流や観光政策においてはどうか。とりわけ、国の文化機関の独立法人化と地方への波及(これ自体、地方分権の本旨から大きくはずれていると思えるが)を考えた場合、新自由主義に基づく経済効率優先のアプリオリな政策原理が浮かび上がってくる。そうした政策を方向付け、あるいは後押ししてきた文化経済論並びにその周辺の論説を、筆者は強く疑問視せざるをえないのは、その基底に政策原理として憲法の理念が置かれているかどうかという点からである。
とりわけ、憲法の私人間適用ノ間接適用説(注)が有力な国内において、文化創造の基本原理中の基本にある「表現の自由」が、公益「法人」を通じて確保されるのか、きわめて疑わしい。公立施設においてさえ、その確保が難しい現状があることは、富山県立美術館収蔵作品をめぐる争いと裁判によって明らかになったところである。
文化基本法では、この基本的権利に深く注意した構想が必要となる。
さらに、2つの国立文化財研究所が法人化されたこと、地方自治体の考古資料の整理が進まない一方、遺跡捏造事件が起きている事などを考慮しながら、文化財保護法との整合性を問う視点も重要である。
では、実際に、この基本法の立法を含めて法政策が展開される場合、そのプロセスに市民的参加をどう挿しはさんでいけるのか、ということになるが、小林教授は、法政策の全過程を、政策立案=決定過程と実施過程があり、前者の決定過程に3つの段階があることを平井宣雄論文(注)に基づきその過程モデルを提示している。以下数記号を省略しつつ引用すれば次のようになる。(p30-31)
・問題形成過程:問題の探索→問題の確認→問題の分析→問題の定式化
・対策立案段階:代替案の探索→各代替案から生じる事態の予測→代替案の評価→代替案の選択
・行動計画段階:実定法体系との接合→解決案の実施
そのうえで、小林教授は、問題の分析・定式化のプロセスに、他の諸問題との比較による優先順位の検討、必要性の計測を、可能な限り民意を導入する手続きが要請されると述べている。
対案立案段階でも代替案の検討を広く討議していく制度的保障をおくべきという。
行動計画段階では、憲法政策については、憲法との整合性を問題形成過程と対案立案段階で十分に検討されるべきであり、最終段階の実定法との調整は立法技術的処理にとどめるべきだと述べている。(p31)
しかし、この文化基本法を考える場合、現行文化政策を規定している実定法との調整無く、国立の文化諸機関の独立法人が誕生し、同様の趨勢が地方公共団体にも及ぼうとしている以上は、出発点の問題形成段階の視野になかに実定の文化関連法との調整を含めざるをえないと考える。具体的には博物館法、文化財保護法、図書館法、教育基本法、社会教育法、いわゆるNPO法等である。
以上まとめれば、すでに文化立国をめざして文化政策が展開されている現状の問題を深く分析し、憲法の3つの原理との整合を改めて問い、その理念と現実との乖離を埋めるべく、対案法案を早急に練っていくほかない。その場合、芸術文化の領域を問わない、広範な議論フォーラムが必要なことはいうまでもなく、その設置役割は、文化事業をメディアイベントとして利用し、とりわけ美術文化振興においてそれが顕著になっているマスメディアが負っていると考える。(2001年11月3日)
注)例として簡単にいうと、aw-mlなどメーリングリスト上での発言について争いがおきた場合は、国や地方自治体といった行政府が関与しているわけではないので、直接的に憲法を根拠として争うのでなく、民法の不法行為を争点として争う。
注)平井宣雄「法政策学序説」『ジュリスト』(1976年)及び『法政策学』(1987年)
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March 24, 2001
「イタリア・古都シエナの女性活動紹介」
油彩画の色名の一つ、バーントシエンナの語源となった、赤みの強い茶褐色の
レンガの家並が連なり、中世の都市国家の面影を今に残すシエナ。イタリア中
部のトスカーナ州フィレンツェから南へ約70kmに位置する古都を初めて
訪ねたのは1989年の冬のこと。その後,2度ほど訪ねる内にその魅力に魅せられ
て、とうとう1997年から1年間を過ごすことになってしまった。イタリアで最
も美しいイタリア語が話されるこの街は人口約57,000人。不思議と街の歴史は
女性イメージに彩られている。教皇庁をアヴィニヨンからローマに戻すための
政治的交渉を行った,聖女カテリーナの生家があり、また、プロベンザーノの
マドンナと聖母に捧げる旗=パリオを奪い合う祭で名高い。
パリオは年2回7月2日、8月16日にカンポ広場で行われる裸馬の競馬大会で、
コントラーダという17の地区対抗で行われ、トスカーナの夏のバカンスのハイ
ライトとして、世界中から人々を集める。しかしシエナの人々にとってこれは
単なる競馬 大会を意味しない。地縁互助組織でもあるコントラーダは生まれた
場所又は親の選択によって定まり、洗礼を受けることで一員となる。いわば、
カトリックとコントラーダと2つの宗教を信じているようなものだ。コントラー
ダを一生 変えることはなく町を離れたとしてもいつでも迎えてくれる故郷でも
ある。
このパリオの歴史をひもといても、今日の開催形態を決定した重要な女性に出会
う。中世の共和国時代に最も栄えたシエナの地域軍事組織がコントラーダの原型
であるが、街そのものは1348,1352年のペスト禍での人口衰退、フィレンツェとの
攻防に敗退したのち、1560年メディチの支配下に入った。1718年馬好きの王女ベア
トリーチェ・ヴィランテ・ディ・バヴィエラが執政に就き、1729年 彼女は現代に
至る重要な2つの取り決め、すなわち17地区の境界を制定して、祭りごとの10頭の
選出規則を創ったとされている。
こうした歴史上の女性の功績にあやかってか、毎年8月にシエナ近郊で行わ
れる「女性文化史サマースクール」(シエナ大学とイタリア歴史学会との共催。)
は、イタリア女性史研究の重要なセミナーともなっている。そして、シエナの
女性たちはこうした歴史的風土の上に新たな連帯と創造の活動を生み出してい
る。筆者が出会ったいくつかの活動を紹介したい。
<Centro Pari Opportunita・Retravailler>
男女機会均等センター・ルトラヴァイエセンター
シエナの歴史的中心地区を貫く、目抜き通りバンキ・ディ・ソプラに面した
オフィスビルの一角に、シエナ県が管轄する「男女機会均等センター及びルト
ラヴァイエセンター」が存在する。1986年に設立され、法律に基づく雇用機会
の平等化、平等施策の推進、啓発活動、法律相談などとともに、女性のための
再就職プログラム「ルトラヴァイエ」を実施してきた。1970年代にフランスの
社会学者エヴリヌ・シュルロ女史の創設したこのプログラムは、パリを本部に
フランス、イタリアを中心にEU諸国で展開されている。日本では財団法人横浜
市女性協会が、日仏女性資料センター創始者の一人である寺田悠子さんの協力
を得て導入し、日本で唯一の実施団体となっている。イタリアでは、20州の内
15州にセンターがあり、そのうち半数が中部の州に集中している。この国内
での支部活動をまとめたイタリア国内協会の年報は、シエナのファシリテータ、
マルチェラ・ジリオーニさんのイニシアティヴで編集が行われており、プログ
ラムの改善のための情報交換も活発だ。ちなみに、シュルロ女史の考案した元
祖ルトラヴァイエは、「ルトラヴァイエ・クラシコ」(古典的ルトラヴァイエ)
と名づけられ、基底にあるオリエンタメント(生き方の方向付けと進路指導)
を共通コンセプトとして、若年層対象、起業支援、収監女性や薬物中毒者の更
正保護プログラムにも応用されている。
特に起業支援については、1992年に商工省による法・第215号の女性企業支
援法以降、雇用機会の創出のため力点がおかれている。1994年から毎年秋に開
催されている「ドンナ・プロデュース」というイベントでは、テーマだてて、
地方産業の振興に女性企業家が位置付けられるよう、展示やワークショップ、
講演会などを行っている。98年は協同組合方式の起業が取り上げられトスカー
ナを中心に活動している、観光、縫製(舞台衣装など)文化財修復、保育や児
童社会教育、リハビリ・介護、酪農、環境保護といった23企業団体が紹介され
た。
このほか、女性就労機会の創出をめざした研究調査「Labour Team」において
育児・介護社会的サービスの需要分析を行ったりしているが、実施プロセスで
は、トスカーナ州の他県、商工会議所やEU,女性団体グループとの連携が積極
的に進められている。その女性団体の一つが次に紹介するマラ・メオーニ記念
女性文化センターである。
<Centro Culturale delle Donne“Mara Meoni”>
マラ・メオーニ記念女性文化センター
1981年、U.D.I(Unione Donne Italia旧イタリア共産党女性部)の活動グル
ープとフェミニストグループのイニシアティヴによって、女性解放のための主
人公にふさわしい生き方をしたシエナの女性、マラ・メオーニの名において、
かつ彼女を記念して設立された。平均年齢40歳くらいの約100人の会員を擁す
る。大学事務室や公共的な教育機関と共同利用する近世の館の3階に、図書室
兼事務室、集会室そしてアーカイブをもつ。他の施設と共用で150人くらい収
容可能な大ホールもあるから、民間の女性センターとしては非常にリッチな空
間といえるだろう。
女性の創造した無形の文化財を歴史的に継承したいという意思の表れが、約
3,000冊の女性文学、女性あるいは女性に関する論文、雑誌を所蔵する図書室
として具現されている。スチールの本棚に整然と整理されたあ書内容は、全国
の女性図書館やセンターを結んでいるLILITHネットにつながってインターネ
ット上で検索可能となっている。イタリアでは、民間の女性グループ主導で、
1980年代各都市に女性問題研究情報センターや図書館をつくられ、1986年に初
めての国内全国会議が開催されたのがシエナであった。この会議ののち全国的
情報ネットワーク構想が生まれ、今、インターネットによる女性関連図書雑誌
検索システムLILITHに結実している。年間維持のための各施設分担金は約2万
円、事務局はサルデニアにある。
図書館と共にセンターの基底には文書館がある。1982年U.D.Iは第11回全
国会議で37年間の活動を事実上終結し、各地方の女性解放運動の行方にその行
く末を委ねることになると、シエナでは、1942年からの文書群をアーカイブと
して残す作業が選ばれた。廊下の壁にそった文書ファイルの一群と、小さなカ
タログのなかに、自らの足跡に自ら責任をもとうとする女性たちの強い意志が
込められている。
センターの財源は、地元シエナのモンテ・ディ・パスキ・ディ・シエナ銀行、
シエナ市、県、州、会員会費によって賄われており、週2回、火曜、木曜の夕
方2時間、ボランティアによって開かれる。みな常連の話し相手を見つけに、
三々五々皆集まり、そのなかから、季節ごと主催イベントの企画が練られてい
く。私の在留中に行われた主だった事業としては、市立ギャラリへの持込企画
として実現した、ミラノの女性アーチスト、アントネッラ=プロータ・ジウル
レオの個展、女性作家の指導による「女性のための著述表現シリーズ講座」の
発表会、子供たちの人種差別意識を全国調査した「La pelle giusta」(正しい
皮膚)の監修者である女性社会学者パオラ・タベットの講演会、先の男女機会均
等センターと共催で、全国巡回されたイタリア女性政治運動ポスター展
「Reguardarsi」(再び省みる)などがある。
シエナが誇る世界一美しいといっても過言ではないカンポ広場に面して、中
世以来この街の執政をつかさどってきた市庁舎とマンジャの塔がたつ。この市
庁舎の壁画に、アンブロージオ・ロレンツェッテが描く大フレスコ画「善政と
悪政の寓意」(1338-40年)がある。西洋絵画の最初の大風景画として名高いこ
の絵には、善政を司るシエナ共和国の執政者を囲んで6人の寓意的女性像が描
かれる。カトリックの枢要な徳目virtu:giustizia正義、prudenza思慮、
temperanza節制、fortezza剛毅、pace平和、magnanimita高潔を、女性名詞で
あるが故に女性の擬人像として表すということだが、治世の根幹にあるべき理
想を女性たちこそが主体になって追求していくべきではないか、とこの絵は静
かに語りかけてくる。そして、善政の街シエナの中心には、美しく思い思いに
着飾った女性達が輪になって踊り歌う姿が描かれる。それはまさに私がみた、
シエナの女性活動、平和のうちに質実だが人生を謳歌するために連帯する女性
たちの姿に通じている。
●参考
*シエナ県観光協会(日本語あり)
http://www.terresiena.it/
*シエナ・女性文化センターhttp://www.women.it/luoghi/luoghi-it/meoni.htm
*リリス:イタリア全土の女性図書館、女性センターの図書検索ネットワーク
http://www.women.it/lilith/docs/prog.htm
*国立女性図書館の検索ページへの入口
http://www.women.it/bibliotecadelledonne/catalogo.htm
*初出:日仏女性資料センター発行『女性空間』2000年
*著作権は、小野(山口)順子が有します。
レンガの家並が連なり、中世の都市国家の面影を今に残すシエナ。イタリア中
部のトスカーナ州フィレンツェから南へ約70kmに位置する古都を初めて
訪ねたのは1989年の冬のこと。その後,2度ほど訪ねる内にその魅力に魅せられ
て、とうとう1997年から1年間を過ごすことになってしまった。イタリアで最
も美しいイタリア語が話されるこの街は人口約57,000人。不思議と街の歴史は
女性イメージに彩られている。教皇庁をアヴィニヨンからローマに戻すための
政治的交渉を行った,聖女カテリーナの生家があり、また、プロベンザーノの
マドンナと聖母に捧げる旗=パリオを奪い合う祭で名高い。
パリオは年2回7月2日、8月16日にカンポ広場で行われる裸馬の競馬大会で、
コントラーダという17の地区対抗で行われ、トスカーナの夏のバカンスのハイ
ライトとして、世界中から人々を集める。しかしシエナの人々にとってこれは
単なる競馬 大会を意味しない。地縁互助組織でもあるコントラーダは生まれた
場所又は親の選択によって定まり、洗礼を受けることで一員となる。いわば、
カトリックとコントラーダと2つの宗教を信じているようなものだ。コントラー
ダを一生 変えることはなく町を離れたとしてもいつでも迎えてくれる故郷でも
ある。
このパリオの歴史をひもといても、今日の開催形態を決定した重要な女性に出会
う。中世の共和国時代に最も栄えたシエナの地域軍事組織がコントラーダの原型
であるが、街そのものは1348,1352年のペスト禍での人口衰退、フィレンツェとの
攻防に敗退したのち、1560年メディチの支配下に入った。1718年馬好きの王女ベア
トリーチェ・ヴィランテ・ディ・バヴィエラが執政に就き、1729年 彼女は現代に
至る重要な2つの取り決め、すなわち17地区の境界を制定して、祭りごとの10頭の
選出規則を創ったとされている。
こうした歴史上の女性の功績にあやかってか、毎年8月にシエナ近郊で行わ
れる「女性文化史サマースクール」(シエナ大学とイタリア歴史学会との共催。)
は、イタリア女性史研究の重要なセミナーともなっている。そして、シエナの
女性たちはこうした歴史的風土の上に新たな連帯と創造の活動を生み出してい
る。筆者が出会ったいくつかの活動を紹介したい。
<Centro Pari Opportunita・Retravailler>
男女機会均等センター・ルトラヴァイエセンター
シエナの歴史的中心地区を貫く、目抜き通りバンキ・ディ・ソプラに面した
オフィスビルの一角に、シエナ県が管轄する「男女機会均等センター及びルト
ラヴァイエセンター」が存在する。1986年に設立され、法律に基づく雇用機会
の平等化、平等施策の推進、啓発活動、法律相談などとともに、女性のための
再就職プログラム「ルトラヴァイエ」を実施してきた。1970年代にフランスの
社会学者エヴリヌ・シュルロ女史の創設したこのプログラムは、パリを本部に
フランス、イタリアを中心にEU諸国で展開されている。日本では財団法人横浜
市女性協会が、日仏女性資料センター創始者の一人である寺田悠子さんの協力
を得て導入し、日本で唯一の実施団体となっている。イタリアでは、20州の内
15州にセンターがあり、そのうち半数が中部の州に集中している。この国内
での支部活動をまとめたイタリア国内協会の年報は、シエナのファシリテータ、
マルチェラ・ジリオーニさんのイニシアティヴで編集が行われており、プログ
ラムの改善のための情報交換も活発だ。ちなみに、シュルロ女史の考案した元
祖ルトラヴァイエは、「ルトラヴァイエ・クラシコ」(古典的ルトラヴァイエ)
と名づけられ、基底にあるオリエンタメント(生き方の方向付けと進路指導)
を共通コンセプトとして、若年層対象、起業支援、収監女性や薬物中毒者の更
正保護プログラムにも応用されている。
特に起業支援については、1992年に商工省による法・第215号の女性企業支
援法以降、雇用機会の創出のため力点がおかれている。1994年から毎年秋に開
催されている「ドンナ・プロデュース」というイベントでは、テーマだてて、
地方産業の振興に女性企業家が位置付けられるよう、展示やワークショップ、
講演会などを行っている。98年は協同組合方式の起業が取り上げられトスカー
ナを中心に活動している、観光、縫製(舞台衣装など)文化財修復、保育や児
童社会教育、リハビリ・介護、酪農、環境保護といった23企業団体が紹介され
た。
このほか、女性就労機会の創出をめざした研究調査「Labour Team」において
育児・介護社会的サービスの需要分析を行ったりしているが、実施プロセスで
は、トスカーナ州の他県、商工会議所やEU,女性団体グループとの連携が積極
的に進められている。その女性団体の一つが次に紹介するマラ・メオーニ記念
女性文化センターである。
<Centro Culturale delle Donne“Mara Meoni”>
マラ・メオーニ記念女性文化センター
1981年、U.D.I(Unione Donne Italia旧イタリア共産党女性部)の活動グル
ープとフェミニストグループのイニシアティヴによって、女性解放のための主
人公にふさわしい生き方をしたシエナの女性、マラ・メオーニの名において、
かつ彼女を記念して設立された。平均年齢40歳くらいの約100人の会員を擁す
る。大学事務室や公共的な教育機関と共同利用する近世の館の3階に、図書室
兼事務室、集会室そしてアーカイブをもつ。他の施設と共用で150人くらい収
容可能な大ホールもあるから、民間の女性センターとしては非常にリッチな空
間といえるだろう。
女性の創造した無形の文化財を歴史的に継承したいという意思の表れが、約
3,000冊の女性文学、女性あるいは女性に関する論文、雑誌を所蔵する図書室
として具現されている。スチールの本棚に整然と整理されたあ書内容は、全国
の女性図書館やセンターを結んでいるLILITHネットにつながってインターネ
ット上で検索可能となっている。イタリアでは、民間の女性グループ主導で、
1980年代各都市に女性問題研究情報センターや図書館をつくられ、1986年に初
めての国内全国会議が開催されたのがシエナであった。この会議ののち全国的
情報ネットワーク構想が生まれ、今、インターネットによる女性関連図書雑誌
検索システムLILITHに結実している。年間維持のための各施設分担金は約2万
円、事務局はサルデニアにある。
図書館と共にセンターの基底には文書館がある。1982年U.D.Iは第11回全
国会議で37年間の活動を事実上終結し、各地方の女性解放運動の行方にその行
く末を委ねることになると、シエナでは、1942年からの文書群をアーカイブと
して残す作業が選ばれた。廊下の壁にそった文書ファイルの一群と、小さなカ
タログのなかに、自らの足跡に自ら責任をもとうとする女性たちの強い意志が
込められている。
センターの財源は、地元シエナのモンテ・ディ・パスキ・ディ・シエナ銀行、
シエナ市、県、州、会員会費によって賄われており、週2回、火曜、木曜の夕
方2時間、ボランティアによって開かれる。みな常連の話し相手を見つけに、
三々五々皆集まり、そのなかから、季節ごと主催イベントの企画が練られてい
く。私の在留中に行われた主だった事業としては、市立ギャラリへの持込企画
として実現した、ミラノの女性アーチスト、アントネッラ=プロータ・ジウル
レオの個展、女性作家の指導による「女性のための著述表現シリーズ講座」の
発表会、子供たちの人種差別意識を全国調査した「La pelle giusta」(正しい
皮膚)の監修者である女性社会学者パオラ・タベットの講演会、先の男女機会均
等センターと共催で、全国巡回されたイタリア女性政治運動ポスター展
「Reguardarsi」(再び省みる)などがある。
シエナが誇る世界一美しいといっても過言ではないカンポ広場に面して、中
世以来この街の執政をつかさどってきた市庁舎とマンジャの塔がたつ。この市
庁舎の壁画に、アンブロージオ・ロレンツェッテが描く大フレスコ画「善政と
悪政の寓意」(1338-40年)がある。西洋絵画の最初の大風景画として名高いこ
の絵には、善政を司るシエナ共和国の執政者を囲んで6人の寓意的女性像が描
かれる。カトリックの枢要な徳目virtu:giustizia正義、prudenza思慮、
temperanza節制、fortezza剛毅、pace平和、magnanimita高潔を、女性名詞で
あるが故に女性の擬人像として表すということだが、治世の根幹にあるべき理
想を女性たちこそが主体になって追求していくべきではないか、とこの絵は静
かに語りかけてくる。そして、善政の街シエナの中心には、美しく思い思いに
着飾った女性達が輪になって踊り歌う姿が描かれる。それはまさに私がみた、
シエナの女性活動、平和のうちに質実だが人生を謳歌するために連帯する女性
たちの姿に通じている。
●参考
*シエナ県観光協会(日本語あり)
http://www.terresiena.it/
*シエナ・女性文化センターhttp://www.women.it/luoghi/luoghi-it/meoni.htm
*リリス:イタリア全土の女性図書館、女性センターの図書検索ネットワーク
http://www.women.it/lilith/docs/prog.htm
*国立女性図書館の検索ページへの入口
http://www.women.it/bibliotecadelledonne/catalogo.htm
*初出:日仏女性資料センター発行『女性空間』2000年
*著作権は、小野(山口)順子が有します。
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March 25, 2000
イタリアの女性起業支援策
1 はじめに〜日本とイタリア,どっちが進んでる?・ネット起業家として期待される日本女性? 今年の7月に、アメリカのComputer Economicsが発表した、今後5カ年にみるE-businessへの女性の参入に関する期待感は、日本がカナダ、アメリカを押さえて第1位、ヨーロッパ先進諸国では、フランス、オランダ、スペインが続き、イタリアが第16位と低位だった。この評価指標には、高等教育進学レベルやインターネット利用度、コンピュータ教育の進展、英語力といったことが使用されたため、日本女性への期待感第1位とありがたい(?)推定がなされたわけだ。しかし、女性がE-businessに参入する以前に、社会基盤としての日本の国内状況は果たして女性起業家や経営者に追い風であるといえるだろうか。
・「雇用」優先、「独立」まで手が回っていない?
この4月、「改正雇用機会均等法」と「男女共同参画社会基本法」の成立をみたばかりであり、依然として施策の大半は、雇用労働女性の環境整備に注がれている。雇用改善のための創業や新産業創出の原動力として、積極的に女性の力を引き出そうとする具体的な施策はまだ乏しい。
他方、中小企業の活躍で注目を集めてきたイタリアだが、女性の自営業比率はヨーロッパ諸国(平均10%)日本(12%弱)と比較して16%以上と高い。そして、慢性的な高失業率の改善や女性の活動の経済分野への広がり、経営意志決定への参加をねらって、女性起業者支援プログラムがさまざまに実施されてきている。このレポートでその一部を追いかけてみたい。
2 女性企業家支援法とその余波
・1992年に女性企業家支援法が誕生 イタリアは、1977年にすでに「労働の場における男女平等取り扱い法」を生み、女性労働力は飛躍的に増大した。その後、90年代に入ると、1990年法律第164号で首相直轄の男女機会均等国内委員会の設置、翌年に法律第125号「男女平等のための積極的行動法」の施行と労働省内機会均等委員会の設置、さらに92年法律第215号「女性企業家支援法」により、商工業省内に女性企業委員会の設置と女性企業家への具体的支援策が実現した。この法律は、イタリア国内の全産業分野と全業種サービス部門について、50人以下の従業員をもつ女性企業家、又は構成員の女性比率が最低6割である個人経営会社あるいは協同組合、少なくとも出資者の3分の2が女性あるいは3分の2の女性管理職をもつなど一定の条件を満たす場合、税制優遇、有利な資金貸し付け、税の減免措置などの経営面だけでなく女性企業家への投資行為にも納税の優遇措置がある。この法律の制定以降1993年から96年にかけて、農・工業、サービスいずれの部門でも女性企業家は増加を見せた。
・州レベルでもさまざまな女性支援策を展開 また、従来、州や県レベルを中心に、産業振興策がとられているが、起業や自営業支援策に男女平等取り扱いを定めた条例をもたない州はなく、女性のみ対象とした積極支援条例は3本(アブルッツォ州・1995年第143号、カラブリア州・1995年第22号、ラツィオ州・1996年第96号)、女性への優遇措置を含む条例としては、15州で24本制定されており、そのうち、16本が1992年以降の制定。前述の商工業省第215号法の影響をうかがわせている。ただし、女性優遇措置を含む州条例は、北部や中部の州に偏っており、国内の開発途上地域のような扱いの南部では未だ産業振興の底上げ策が優先されるものと思われる。州条例の数は、最も多いトレンティーノ州の15本から最も少ないピエモンテ州やトスカーナ州の2本までさまざまで、各州の独自性がうかがえ、女性支援策を実施する窓口も多岐にわたってわたる。では具体的な動きを中部からみていこう。
3 トスカーナ州:「ドンナ・プロデュース(女性の生産)」
・進路指導プログラム「ルトラヴァイエ」 先述の起業や自営者支援策に女性支援の視点を含んだ州法を2つしかもたないトスカーナ州は、中世に共和制が行われていたため、県の自立性や独自色が強く、州全体のまとまりが各分野でいま一つみえにくいのが特徴である。しかし、女性の就労支援において、EUの共通プログラムである「ルトラヴァイエ」という女性の再就職プログラムを導入し、その普及を進めてきた。もともと70年代に、フランスの社会学者エヴリーヌ・シュルロ女史が開発したこのプログラムが、イタリア・ミラノに導入されたのは1987年のこと。1997年時点で30センター、そのうちトスカーナ州は8センター、エミリア・ロマーニャ州7センターと中部で半数を占めている。ちなみに、日本では1988年に財団法人横浜市女性協会が移入し唯一の実施主体となっているが、EU諸国全体では7ヶ国に展開され、イタリアは本家のフランスについで普及度が高く、国内委員会も有している。
本来、この「ルトラヴァイエ」は、結婚や出産育児を理由として離職した女性を再就職させる目的をもったプログラムだったが、就労継続があたり前になってきたこと、実際の就労先が少ないことなどから、イタリアでは「ルトラヴァイエ・クラシコ」(古典的ルトラヴァイエ)と位置づけられている。現在では、このプログラムの根幹にある「オリエンタメント」(本人の生き方の方向付けを含んだ進路指導)を機軸にした、さまざまなバリエーションのプログラムがあり、その一つが女性の起業支援プロブラムとなっている。
・94年から毎年秋に啓発イベントを実施
フィレンツエとローマの間、赤ワインで有名なキャンティ地方を含むシエナ県では、県の男女機会均等センター兼ルトラヴァイエセンターが、毎年秋に啓発イベント「ドンネ・プロデュース(女性の生産)」を主催している。シエナ商工会議所や1472年設立のモンテ・デイ・パスキ・ディ・シエナ銀行のスポンサーを得て、州や近隣の自治体、また、EUのビジネスセンターBICと協力ネットワークを組みながら、女性の起業家紹介や啓発・情報提供活動を進めている。場所はシエナ市の中心的歴史地区、大聖堂前にある中世からの病院跡を美術文化センターと多目的ホールに再利用している「サンタ・マリア・デッラ・スカラ」で、1994年からテーマを変えて開催されてきた。食品加工や手工芸、古文化財や美術品修復、編集・広告デザイン、観光サービス、アグリツーリズモ、コンピュータ関連ビジネスなど女性起業家たちの活動を紹介する展示コーナーや美しいPRキットを作成。それぞれの活躍の支援に努めている。
・きめ細かい起業プログラム
このイベントで筆者が垣間みた女性の起業支援コースの公開講座では、一方的な座学ではなく、女性の主体的な能力開発の視点が明らかだった。会計士による税制度や経営管理の説明の後、即座に受講者が順番に講師になって、同じ内容をボード代わりの大型模造紙に書きながら模擬講義しなければならない。まとまった人数の人前で、自分の考えを正確に明快に伝える訓練機会をなかなかもたない女性たちには、自然にプレゼンテーション能力が身に付き、また自分の理解不足をすばやく感知することも可能だ。起業志願の女性にOJTなどという悠長な訓練はないことを考えると、少人数だが効果的なきめ細かいプログラムが練られている印象を受けた。プログラム全体は少なくとも50時間の構成。このような起業プログラムはほとんどの国内ルトラアヴァイエセンターで実施されており、他の公共機関への出張講座も行われている。
・女性による協同組合
昨年行われた「ドンネ・プロデュース(女性の生産)」では協同組合形式をとりながら起業する女性達がテーマだったが、商工省による女性企業家支援法が、前述のように、単に会社組織のみならず女性の協同組合も支援しているため、シエナ県やその周辺でも92年以降2ー3人からというごく小規模の協同組合形式で起業する女性が増えている。その分野も、畜産、保育や老人デイサービスのような社会的公益サービスなど日本でもおなじみの分野もあれば、観光サービス、舞台衣装制作、文化財修復といった文化事業にも広がっている。機会均等センターの解説によると、女性たちは協同組合方式によって労働市場の改革に向かい、連帯的精神によって新たな企業文化を開発しようとしているのだという。イタリアには戦前からの永い協同組合活動の実績があるが、従来、個人主義のより強いトスカーナ州では消費者協同以外の活動になかなか広がりがないといわれてきた。しかし、この女性たちの小さな連帯はトスカーナの穏和で安らかな風土の上にもう一つの豊かさを切り開こうとしているかのようだ。なお、国内の代表的な協同組合中央組織の一つ、レーガコープでは労働省の支援も得ながら、WEBサイト上に「ファーレ・インプレーザ(創業)」プログラムを提供。ビジネスプランの作成法を初めとする各種資料がダウンロードでき、実にきめ細かい情報提供を行っている。
4 ロンバルディア州:メントーレ(よき指導者)プログラム
・地域ニーズに密着した研究機関
北部イタリアの豊かな経済基盤を形成するロンバルディア州、州都ミラノの郊外にあるビジネスシンクタンクISTUDでも、ユニークな女性企業支援プログラムが現在展開中である。ISTUDは、1970年に、ミラノの企業連合組織アッソロンバルダ(4,705社、251,229人従業員)とイタリアの大企業グループ(ピレッリ、オリベッティ、IBM,SMI他)のイニシアティブによって創立された。当初はハーバードのような大規模ビジネススクールをモデルにスタートしたが、今日では地域ニーズに密着した経営管理技術のノウハウを提供しながら、国際的科学文化研究機関として実績を積んでいる。社会的政策、小規模企業と地域発展、非営利組織管理、労働市場のなかの女性活用、公的部門と民間部門の事業活動評価、コンピュター技術などの調査研究の他、ビジネススクールとしても機能し、企業会員として約90企業の参加を得ている。
・WEBやEメールも活用
このISTUDの調査研究部門の一つ、女性企業支援プロジェクトWEMPが、昨年9月から1カ年かけて取り組んでいる女性企業支援プログラムに「メントーレ(メンター=よき指導者)」がある。80年代後半に日本でも企業内に女性の登用が進んでいったころ、組織内メンターの必要性が指摘されたことがあったが、ここでは、メンターと女性起業家や企業家同士をインターネット上で結びつけ、そのなかでビジネスプランの作成は元より、経営指導や個別コンサルティングを提供していこうというものだ。プログラムの開発には、オランダやフィンランド、ドイツのビジネススクールや生涯教育機関との共同研究が基礎になっているという。
このプログラムは、企業の発展レベルにより3段階のクラス分けがあり、起業段階、強化段階、発展段階それぞれに10人から15人程度のグループ編成が組まれている。起業段階を例にとると、12か月のうち最初の3カ月は、方向付け指導が個人的な面と事業化に向けた面とで進められ、次の6か月で具体的な経営管理科目を2日ずつ10科目学び、ビジネスプラン作成支援にのべ12日の面談がつく。その後はコンサルタント指導をメールや面接でフォローしていく。通常はWEBやEメールが利用され、実際に参加者がオフで面談を受けるのは原則月2回程度。家事育児にも忙しい女性たちがインターネットを使っていつでも相談できるよき先輩をもち、的確な情報を得ることができるわけだ。このなかで、なかでもユニークな試みとしては、強化段階や発展段階の対象者は女性経営者ばかりでなく、経営者の妻あるいは娘といった立場の女性もターゲットにしていること。意識的に彼女たちを経営中枢のなかに組み込み経営改善実施を戦略的に行うことで、企業活動の中の女性の存在を確かなものにしていこうというねらいがこめられている。
5 おわりに〜次世紀に向かって必要なこと
・日本より10年早い平等法 このように、イタリアの女性起業支援策のいくつかを紹介してきたが、これらのバックボーンにはEUの施策が強く働いている。特に、国際間協調によるNOW「女性の新機会創出」プロジェクトが進める教育プログラムの開発が効果をあげてきている。このプロジェクトの4つの機軸の一つに、小規模企業や協同組合形式の起業支援教育プログラムの重点的開発が掲げられているため、起業への後押しができている。また、EUのなかの法整備圧力によって、日本より10年早く雇用平等法制を整備したイタリアが、さらに90年代初頭に商工業省によって女性企業家支援法をもったことは注目に値する。首相直轄の男女機会均等委員会が省間セクショナリズムを越えて機能したと思われる。1996年に機会均等省の誕生をみる前に、就業関係の実質的な施策は打ち出されていたことになる。機会均等大臣の設置は法律の実効性をさらに強化させる意図をもっている。
・かたや日本では?
かたや、日本では省庁再編のなかで、男女共同参画大臣の可能性等もはや消え去ったかに見えるが、「男女共同参画社会基本法」のもとで、通産省が、強力な優遇措置をもった個別法として「女性企業家支援法」を提案することがぜひとも望まれる。
21世紀の超高齢社会における労働力不足、仕事無き失業を改善するための新たな雇用創出。日本とイタリアに共通の重い課題だが、イタリアは、すでに次世紀に向かって女性の創業力を積極的に導き出し、新たな企業文化を育てようとしている。
(了)
初出(『オンラインマガジンべんべん』1999年10月7日号http://ven.liba.co.jp)小野(山口)順子が著作権所有者です。
onore at 06:20|Permalink