2017年09月01日

『童貞。をプロデュース』について

ここでは情報を整理するために、『童貞。をプロデュース』という映画に関してぼくが知っている事実を時系列を追って説明させていただきたいと思います。
可能な限り客観的事実に即して語っていきたいとは思うのですが、「なぜそうなったか」を説明するためにその時その時のぼくの私見や心情も入ってくるとは思います。加えて、なるべく事実関係の誤解が生じないよう、主語や目的語などを極力省略せずに書いていこうと思いますので、多少読みにくい文章になるかとは思いますが予めご理解ください。

まず松江さんと初めて会ったのは、ぼくが通っていた映画の学校で松江さんがドキュメンタリーのクラスの講師を担当していたことに由来します。
卒業後、しばらくしてぼくが出品していた映画祭で松江さんと再会します。当時、ぼくはAVにモザイクを入れるアルバイト等をしながら、自分の「童貞」をモチーフにしたセルフドキュメンタリーを制作していて、その内容を整理する目的もあって、女性に恋をしたこと等、その当時の様子を自分のブログに書いていました。
そんなある日、ブログを見た松江さんから「最近、恋してるんだって? ドキュメンタリー作ってるんだって?」という電話が掛かってきて、「イメージリングス主催の上映イベント(ガンダーラ映画祭)があって、俺も今度『童貞』をテーマにしたドキュメンタリーをつくろうと思っているんだけど、一緒にやろうよ」といった話になったのです。その時も悩んだのですが、松江さんから「加賀の悪いようにはしないから。どういう作品にするかも必ず相談するし、二人の判断で決めていこう」と言われ、松江さんとドキュメンタリーを制作することになったのです。そうして、それまでにぼくが撮り溜めていた映像素材を松江さんに渡して、その後もぼくは自分のカメラで自撮りをして自分や自分の周りのことを撮影していました。
そんな中、松江さんから「俺がセッティングするから、AVの現場へ取材に行こうよ」と言われ、自分のカメラを持ってAVの撮影現場へ取材に行くことになりました。初めて訪れる事務所へ案内され、初めてお会いする松江さんの知り合いのAV関係者の方たちに挨拶をして取材はスタート。するとなぜか内トラ(※人員不足などを補うためにスタッフがエキストラ出演すること)のような形で屋外でのスチール撮影をする流れになり、その後、ホテルの一室に移動すると突然「それじゃパンツ脱いで」と言われたのです。その時点でぼくは断ったのですが、密室で初めて会う人々に囲まれる中、松江さんから「早くしろよ」「みんなお前待ちなんだよ」「お前のせいで現場が進まねえんだよ」「俺に恥かかせんなよ」「松尾さんを待たせるなんて、お前いい度胸してるな」等々を言われ、それでも断っていたのですが、「じゃあフェラチオのフリだけでいいよ」と提案され、そういった恫喝によって判断力が疲弊していたのもあって、さすがに断りきれず渋々ながら形だけのポーズを取らされたのです。そうして始めはフリだったはずが、不意打ちでいきなり本当にフェラチオをされたので、ぼくは「やめましょう」と言って女優さんを引き離しました。すると周りにいた男性に羽交い締めにされ、無理やりフェラチオされる様子を撮影されたのです。
その撮影後、今度は松江さんから「告白シーンが撮りたい」と言われたのですが、それもぼくは断りました。すると後日、「俺から連絡しておいたから」とぼくが当時好きだった女性に、松江さんが独断で出演オファーをしたのです。それでもぼくは撮影を拒んでいたのですが、松江さんが「もういいよ。だったら俺の方から、あの娘にお前が好きだってことを伝えてやるよ」と言い始めたのです。ぼくはこんな撮影に彼女を巻き込みたくはなかったし、告白は自分のタイミングでしたいと思っていました。最終的に断れなかった理由は、これは本当に幼稚で青臭い理由だと思われるかもしれませんが、「好きな女性に告白する機会」というものを松江さんに人質に取られて、松江さんとの押し問答の中で半ば脅迫されていたからです。そうして「告白シーン」は撮影されたわけですが、実際には告白までに至っていません。松江さんに呼び出されて渋谷の交差点で待っている彼女の元へカメラを持って行き「話があるんですけど」と言って撮影は終わりました。その場には松江さんも立ち会っていて、彼女に「これはフィクションなんだ」「ヤラセなんだ」と説明していました。ぼくは自分の現実が、松江さんの手によってフィクションに歪められていくことが非常に不本意でした。
(※ちなみに、ネットニュースの記事で松江さんが「制作費はテープ代の1万円から2万円だった」と発言していたようですが、それの正しい金額がいくらだったかは置いておいて、そのテープ代というのもぼくが購入したテープで、撮影機材もぼくが所有していたものを使用しました)
そうして『童貞。をプロデュース』は完成したのですが、松江さんが編集した完成版を見たぼくは納得していない旨を伝えました。するとまた松江さんのゴリ押しが始まり、「俺はこれをノーギャラでやっている」「これで金儲けはしない」「ガンダーラ映画祭で上映するだけだから」「もし他で上映することになったとしたら、その時にまた話し合おう。その時は必ずお前の意見を尊重する」「ガンダーラ映画祭にはお前も呼ぶし、お前も言いたいことがあるならそこでお客さんに説明すればいい」と説明したのです。ガンダーラ映画祭はぼくの知り合いも参加している、言ってしまえば内輪ノリの小規模な上映会で、観る人も松江さんの人間性を含めてある程度わかっているような人たちばかりだから、ぼくの声が届く範囲で説明をすれば、むしろ問題点は観た人に伝わるのだろうと思っていました。
ガンダーラ映画祭が終わってからしばらくして、先述した女性とお付き合いすることになりました。彼女も『童貞。をプロデュース』には不快感を抱いているようでした。
(※一応書いておくと、この女性とお付き合いが始まってから一ヶ月くらいまでぼくは童貞でした)
性暴力云々といった問題も、もっと早い段階でもっとちゃんと議論するべきだったのかもしれませんが、自分のせいで巻き込んでしまった彼女をこれ以上傷つけたくなかったというのも、この議論に歯止めをかけていたひとつの大きな要因としてあると思います。その時は、自分が「性被害者」であることを声高に訴えてあれを「笑えないでいる」と強く主張することが、彼女や周りの人を傷つけてしまうのではないかと思っていました。
ぼくには「被害者」になる勇気と覚悟も足りていなかったのかもしれません。しかしそれは間違いでした。
被害者であることは決して恥ずかしいことではないし、そういうものを笑えないことは「空気を読めない」ということではないと思います。むしろ恥ずべきはそういったことに無自覚な人々の方で、なにも臆することはないし、「笑えない」なら「笑えない」ともっと強く主張するべきでした。
(※その時にぼくが全くなにも言っていなかったわけではありません。主張の強度の問題であることをご理解ください)
なにより不本意なのは、自分が被害者であるということよりも「加害者」でもあるということです。ぼくは「映画をつくる側」の人間だし、自分がそういった同調圧力の形成に加担しているのだとすると、ぼくにはそれがどうしても耐えられないのです。
ちなみに誤解があるようなので念のために書いておくと、ぼくは映画を含む映像制作を生業として生計を立てていますが、俳優ではありませんし、AV男優をしていたこともありません(※文脈上、齟齬が生じそうなので一応付け加えておきますが、もちろん「俳優」も「映画をつくる側」だと思っています)。ぼくはあの映画の被写体であると同時に、あの映画の撮影者でもあるのです。事前に台本が用意されていたわけではなく、問題となっている一部箇所を除いて、大半はぼくがぼくの演出と自己判断で撮影した映像が使われています(そこにヤラセ要素はありません)。それを松江さんが編集して「作品」にしました。松江さんとぼくは「撮る側」と「撮られる側」でもありますが、「編集者」と「撮影者」という関係でもあるのです。
ですから、10年以上前に「劇場公開をしないでください」とお願いしたにも関わらず約束を反故にされ、一方的に劇場公開を強行された時も、機会があるのならば、ぼくには舞台挨拶の場に立って観た人たちに説明していく責任があると思いました。松江さんとの縁を切って知らぬ存ぜぬを決め込むのでは、あれを撮影した人間としては無責任だと思ったのです。
(※「当初からフェイクドキュメンタリー/モキュメンタリーと説明されていた」といったご指摘もあるようですが、「わかってる人はわかっていた」といったことは一先ず置いておいて、これはどうしても印象論になってしまいますが、あれは当時ぼくが舞台挨拶の場でツッコんでいたからで、松江さんの方から積極的に喧伝していたということではないと記憶しています。それは言わば松江さんなりの小さな免責表示のようなもので、それも舞台挨拶という限定的な場で、一部の松江さんによるヤラセ要素を認めることがたまにあったということです。つまり商品パッケージにそういった記載は一切なく、販売者が購入者を選び、口頭で説明することが時々あったということで、それをもって「説明があった」とするのは少々弱い気がします。それと都合の悪いツッコミに対して松江さんは、その場でぼくを嘘つき呼ばわりすることでスルーしていました)
観客の目に晒されることで、観客のリテラシーに委ねることで、ぼくの主張も一定の理解はされるものと信じていました。なにより作品自体が証拠なのだから、それこそ「わかる人にはわかるのだろう」と考えていたのです。
しかしそれは甘い考えでした。ぼくがなにを言っても、概ねそれはただの「笑い」として消費されていったのです。
そうしておよそ10年前、周りの人たちだけにでも、ぼくのその主張が本当に真剣であるということを理解してもらうために、ぼくは『世界で一番やさしいゲロ』と題したブログ記事に、例の「告発」と言われている文章を書いたのです。もちろんそれまでにも関係者とは幾度となく話し合いを重ねてきました。
しかし状況はなにも変わりませんでした。
観客の方から個人的にいくつかの同情や応援の声は頂けたものの、ぼくの中の「真実」やぼくが考える「道理」も、松江さんたちが主張する「おもしろければいい」という論理の前に黙殺されたのです。関係者は誰もぼくの言い分を受け入れてはくれませんでしたし、多少の同情を寄せてくれたとしても、結局は「気持ちはよくわかるけど、もう少し大人になろうよ」といった結論に終始していました。
その後も色々あったのですがキリがないのでここでは一旦省略するとして、その後は松江さんから「もうお前とは話したくない」と言われて連絡が取れなくなり、宣伝配給の直井さんとのやり取りも途中で返信が来なくなって途切れてしまいました。そうして関係者からぼくは完全に無視されるという形で、これまでの10年間以上、『童貞。をプロデュース』の上映は続けられてきたのです。

それからおよそ10年の時が経ち、どういう経緯があったのか詳しくは存じ上げませんが、再びぼくに舞台挨拶の機会が巡ってきたのが先週(2017年8月25日)のことです。
全然関係のないことなのかもしれませんが、その日の昼下がりの時分でしたでしょうか、NHK教育では『いじめノックアウト』という番組が放送されていました。夏休みが終わりを迎えようとしている頃、学校へ行きたくなくてしょうがない人たちは今どんな気持ちでいるんだろう、死刑への秒読みを待っているような心持ちなんじゃないだろうか、とぼんやり考えていました。
その日は亡くなった親友が生前にくれた『バーバレラ』のTシャツを着て劇場へ向かいました。
少し触れておくと、その親友はAVの仕事をしていて、仕事を楽しんでいるようだったし職場の先輩たちに対する尊敬の言葉も度々口にしていましたが、それと同時に彼は仕事のことで心を痛めているようでもありました。高円寺の居酒屋で「もう誰にも傷ついてほしくない。もう誰にも死んでほしくない」と泣いていた本当に心のやさしい友人は、ある日突然ぼくたちの前からいなくなってしまいました。そんな彼は生前、何度もぼくに「松江さんと仲直りするんだ」と言っていたのでした。
先週、劇場の控え室でスタッフの方から『童貞。をプロデュース』のTシャツを渡されましたが、ぼくは着替えることができませんでした。なので、Tシャツの丈云々といったご指摘はあまり関係がありません。

ぼくは自分のやったことが正しいとは思っていません。松江さんたちと同じ土俵に上がった以上、松江さんたちと同じ責任を負わなければならないと思っています。
ただ、ブルース・スターリングの『スキズマトリックス』のセリフにもあるように、「俺たちは正しいことと可能なことのあいだで生きている」わけで、少なくともあの時に結局なにもしないで終わるなんていうことは、ぼくには不可能でした。「本当か、嘘か」ではどうせ水掛け論で終わるだけですし、「正しいか、正しくないか」といった倫理性を巡る議論も当事者間ではいつまでも平行線のままで、松江さんたちの言う「おもしろいか、おもしろくないか」の土俵で勝負することしか、その時のぼくには残されていなかったのです。
そこで観客を巻き込む以上、いかにして野坂昭如vs大島渚戦といいますか、『ゼイリブ』のロディ・パイパーvsキース・デヴィッド戦、もしくは『青春の殺人者』の水谷豊vs市原悦子戦のようなベストバウトを、泥試合を見せられるかが問題なのだと思いました。ズボンを履いたまま一方的に正論を並べ立てたとしてもお客さんは退屈するだけだろうと予想し、あそこではフルチンになって語るのがお客さんへの最低限のマナーなのだろうと考えた次第で、もしそれを不愉快に感じる人がいるのだとしたら、それは単純に観る映画を間違えたということなのだろうと解釈したわけです(※皮肉を説明するというのは非常に野暮なことかもしれませんが、ここでいう「不愉快に感じる人」というのは、つまりぼくと同じ感覚の持ち主ということです)。
映画をつくる人間であれば「作品」で勝負をするべきだというご指摘はあるかと思います。それは当然の意見だと思いますし、それこそ正当なやり方なのでしょう。しかし「伝える」という観点から、最も実効性の高い方法としてぼくは「事件」を選んでしまったのです。あるいは客席からカメラが向けられている以上、松江さんの文法でいうところの「映画」にさえなりうると思ってしまいました。
しかし、それをして状況がどう変わったのかはわかりません。
ただ、ぼくが松江さんの髪の毛を掴むあの瞬間まで、ほとんどのお客さんが、自分がどんな映画を観にきたのかにさえ気づいていなかったということもひとつの事実なのだと思います。

あの一件の後、『童貞。をプロデュース』に関して笑ったことを後悔しているとか罪悪感を感じているといった声を耳にしました。ぼくは笑ってしまうこと自体は別に悪い事ではなくて(「笑い」というものは根源的に暴力性を備えたものなのだと思います)、むしろその笑いを通してなんらかのリテラシーが得られれば、それこそもっとおもしろいことなんじゃないかと思うのです。そもそもリテラシーというのは高いとか低いとかではなくて、それぞれ違うリテラシーが存在するということなのではないでしょうか。
「笑えないでいる人間」を、一方的に「空気が読めない」とか「リテラシーが低い」とかいった同調圧力で否定してしまうことこそが問題なのであって、「自分はこんなにおもしろいと思っているのに、どうしてこの人は笑えないでいるんだろう?」もしくは「この人は本当に笑っているんだろうか?」といった想像を巡らせて考え始めた時に、人間はもっとやさしくなれるのだろうと思います。

補足として、今回の件に関して梅澤くんは関与していませんし当然責任もございません。舞台挨拶の一部始終をご覧になられた方はご存知のように、むしろ梅澤くんという人はああいう空気を読まない、何を考えているのかよくわからないトリックスター的な存在でして、友人のぼくが言っても信用されないことかもしれませんが、彼の言葉というのはぼくにとっても自らを省みる判断材料として、客観的な証言として信用できたといいますか、「梅澤くんはこんな風に思っていたんだ」というぼくなりの発見と理解がありました。
客席から声を上げてくださっていた話題の動画撮影者の方についても、決して一部で指摘されているような「仕込み」などではございません。あの時まで直接お会いしたこともなかったのですが、この件とは全く関係のない別の機会にこの方が監督されたセルフドキュメンタリーを拝見させていただくことがあった関係で、顔と声とお名前だけは存じ上げておりまして、それで壇上から「誰かわかった」と発言した次第です。なので、この方についても舞台挨拶上の件に関しては直接的な関与も一切の責任もございません。

長々と書き連ねてしまいましたが細かいことを並べていくと本当にキリがないので、今はこれくらいに留めておきます。
以上のことは誤解や錯綜している情報を整理する目的で、ぼくからの事実を書いたもので、松江さんや関係者を誹謗中傷するために書いたものではありません。ましてや松江さんの出自を理由として無分別な批判をしたり揶揄したりだとか、そういった対立軸に与する気は一切ございませんし、むしろそういった不合理な言説を強く否定するためにも書いたものであるとご理解ください。
もちろん事実に基づいた正当な批判であれば、ぼくも松江さんも関係者もそれを受けて然るべきだと思います。ぼく自身も恨んでいないと言ったら嘘になるでしょうし、お酒を飲んでいたりして話の折に触れれば松江さんや関係者の悪口のひとつやふたつくらいは口にするのだろうと思います。しかし、どうでもいい単なる愚痴なんかは飲み屋での酒の肴くらいに留めておきたいですし、インターネット上で個人攻撃や人格攻撃をすることも本意ではありません。
皆様のご理解を賜れれば幸いです。

以上の文章は、誰になにを言われたわけでもなくぼくが一人で勝手に書いたものです。専門家に相談したわけでもないし、事前に誰かに読んでもらったわけでもありません。なので、もしかしたら自分で書いたこの文章が自分にとって不利に働くこともあるかもしれません。
正直、松江さんと直井さんが連名で出した文章に失望してしまったというのもあります。大人だから保身の意味もわかってはいるつもりですが、ぼくが裸になったのは下半身だけじゃなかったはずで。
だからこそ、ぼくは自分の言葉で書きたかったし伝えたかったのです。
一番伝えたい人たちに伝わらないのが本当に悲しいけれど。

加賀賢三

onosendai at 22:11|PermalinkComments(126)clip!

2007年11月03日

世界で一番やさしいゲロのつづき

前回からのつづき。



あの時、あの瞬間には、僕が真剣に悩んで、真剣に恋をして、真剣に考えた色んなことがあって、忘れられないこととか、忘れちゃいけないこととか沢山あって、だからそれをあんな根も葉もない形にされたら、僕はやっぱり納得がいかないし、みんなと一緒に素直には笑えない。
だからといって、松江さんにしても作品に労力を割いてきたワケだし、一方的に「納得いきません」ではあんまりだと思ったから、第一回ガンダーラ映画祭出品上映に限って僕は譲歩したのだ。というか、そもそもガンダーラ映画祭用に作ったものだったんだし、松江さんにしてもそこで納得するべきだった筈だ。
作品が完成した時だって「もし他で上映するようなことになるなら、その時には必ずまた相談するから」と約束したワケだし、僕としてはそこで改めてNGを出すつもりでいた(今思えばこれが甘かった)。
それなのに、「この前〇〇で上映したから」とか「劇場公開が決まったから」(「劇場公開はしないでください」と言ったのにも関わらず)とか事後報告で済ませてきて、それでも松江さんの顔をたてるつもりで僕は苦虫を噛み潰す思いをしながら我慢してきたというのに(無用なトラブルを避けたかったというのもあるし、何も知らずに尽力している関係者の方々への配慮という意味もあった)、テレビで勝手に映像を使ったり、それは悪質極まりないものへとエスカレートしていった。
細かい話をすれば、作品の著作権に関してだって100%監督一人の物なのかどうかだって疑わしいのに(ちゃんと権利考証すればわかることだけど)。
ましてやDVDなんて……。
結局、弱者は泣き寝入るしかないのか。
「口約束も契約のうち」という民法原則を持ち出すまでもなく、そもそも後から出てきた話に欲を出して「男と男の約束」にケチをつけるとはいかがなものか。
僕が勇気を出してどれだけ真剣に話をしても、ことあるごとに舌打ちをしたり、携帯をいじったり、少しでも気に障る話題になると隣の直井さんに「こいつ殴ってもいいですか?」とか聞いたり。
そんなこといちいち人に聞くなよ。殴るなら殴ってこいよ。人に聞かなきゃ喧嘩も出来ねぇのか?
本当に男らしくない。

あー、何だかただの愚痴になってしまった。否失敬。

ただ、なにも人権に対して鈍感なのは松江さんに限った話ではないのかもしれない。
世の中の風潮なんだろうか、テレビを見ているとよくそんなことを思う。
人の生き死にをエンターテインメント化する報道のあり方とか、無関心が人を殺す世の中で笑えれば何でもいいのか?
昔から身内ノリで人を貶める類いのお笑いが生理的・倫理的に大嫌いだったし、寧ろ世間ズレしているのは僕の方かもしれない。
でも、物事を深く考えず偉そうにキレイゴトだけを平気で並べたてる、その厚顔無恥な態度が僕は許せんのだ。
ましてや、性的な乱暴を笑いで肯定してはならないし、それを「口では嫌がっていても体は正直」なんていう前近代的且つアホ丸出しな理由で正当化してはならない筈だ。
あれがもし僕ではなくて、女性や僕よりずっと若い人であったならばどうなっていたというのだろう。
同じく、程度の差こそあれ(逆にいえば「程度の差でしかない」ということに留意すべきだ)、人を傷つける行為であるということに変わりはない。
僕一人が我慢して済む問題なら別に大したことではないのかもしれないが、あれを見て不愉快に感じる人は大勢いると思うし、実際に僕はそういう声を耳にしている。良識を持った人間なら当然の反応だ。
それなのに、あたかもそう感じること自体が、まるで恥ずかしいことかのように言うその感覚が僕は気持ち悪い。
ふざけた価値観がまかり通る世の中で、人として当然の感覚が失われていっているのかもしれない。
そもそも罪の意識が欠如しているワケだ。
僕は「毎日、同級生たちから挨拶代わりに尻を蹴られる」という学生生活を送ってきたけれど、もしかしたらその同級生たちからすれば、それは本当に「挨拶代わり」のつもりだったのかもしれない。
しかし、蹴られている方からしたら、とてもそんな風に思えるものではない。
相手に罪の意識がない以上、怒ろうにも怒れないし(「怒るのは恥ずかしい」みたいな空気を作っているから悪質だ)、逆に怒ったら怒ったで逆ギレされるのは目に見えているし。
その時に僕が出来た精一杯の反抗は、脳内でその同級生たちを僕の幽波紋(妄念)でボコボコにしてやるくらいが関の山だった。

僕は人にバカにされたりするのは馴れっこだから、別に僕の見た目とか気持ち悪さを笑ってもらう分には全然構わないし、寧ろそれで誰かがハッピーな気持ちになれるのなら僕は嬉しい。
でも、何も知らないクセに僕の周りの人を悪く言うのだけは許せないし、松江さんが自らの上位承認欲求を満たす為だけに、人前で何の根拠もなく平気で人を貶めるような言動をしたことも僕は我慢ならない。
今思えば、その時何も言えなかった自分が本当に悔しい。
もうキレイゴトはうんざりだ。
要は作品がどうのこうのという以前に、僕はあの強烈な自己愛からくる他人への侮蔑と歪んだ選民意識が反吐が出る程気に入らない、ってだけだ。



皆様からコメントやメッセージでご意見をいただきました。誠にありがとうございます。
これを真摯に受け止め、僭越ながらお答えさせていただきます。

タイミングに関してですが、単純に今まで言う機会がなかったからというのが一つです。
今回の内容は事実上「告発」という感じになってしまってはいるものの、松江さん含め関係者には幾度となく話してきた内容ではあります(聞く耳をもっていただけなかったのが実情ですが)。
このブログは日記の形式をとっており、その時思っていること、感じたことなどを正直に書いていこうという趣旨のもと行っており、若干躊躇する内容ではあったものの、事実は事実として隠す必要もないだろうと判断し、掲載した次第です。事が事だけに感情的になってしまった部分はあるにせよ、個人を誹謗中傷する目的で掲載したわけではありません。
出演に際して、僕に落ち度がなかったのかといえば決してそうは思いません。
舞台上でのパフォーマンスや告知に関しましても、どこか色気というか欲を出した部分があるのではないか、と思われても仕方はないのかもしれません。
しかし、劇場公開を止められなかった(劇場公開を強行された)僕としては表に出て誤解を少しでも解いていきたい、という意味でも、あの作品を観た人たちを少しでも繋ぎとめておきたかった、というのが僕の正直な気持ちです(誤解を恐れずにいうと、僕はいわゆる「出たがり」とかでは決してありません。サービス精神が過剰なのは認めますが)。
それでも、あの場での宣伝活動が単純に集客に繋がったのなら、それで一応の納得をするべきなのかもしれませんが、どうしても割り切れないのが今の僕の心情です。
キレイゴトに聞こえるかもしれませんが、それを不愉快に思われる方がいるのは当然として、それでも多少のご理解はいただけるものと信じたいし、こうして少なからず反応をいただけたことは、今までずっと一人で悩んできた身といたしましてはまったくもって嬉しい限りです。
本当にありがとうございます。
今回の文章に関しましても、『ドキュメンタリー』というエンターテインメントの延長線上にあるものとしてご理解いただければ幸いです。
これからもどうぞよろしくお願い申し上げます。

onosendai at 06:01|PermalinkComments(25)clip!

2007年10月31日

世界で一番やさしいゲロ

梅ちゃんの運転する梅ちゃんの親父さんの車に乗って、一路大阪へ。
待ち合わせ場所に向かう途中で梅ちゃんが事故を起こした為、出発は大幅に遅れてしまった。
そのせいもあってか、東京を出発して数時間後、もうすぐ大阪に到着するという頃には、既に日はとっぷりと暮れていた。
そんな時、ハンドルを握る梅ちゃんが何やらブツブツと独り言を呟いている。

「……何? どうしたの?」
「ね、眠い。何か話して」

また事故を起こされてはたまらんと、僕らは何とか梅ちゃんが寝ないように、その場で思いつく限りの話題を披露した(否、でもホントおつかれさま)。
大阪に着いた頃、僕は風邪をひいてしまった。

夜の大阪は、光る看板が空に踊っていて、初めて訪れた場所なんだけれど僕は何だか懐かしいような感じがした。
高層ビルのすぐ上を、飛行機が低く飛んでいる。
近代化された街並みとはうって変わって、翌日訪れたドヤ街の一角では、放し飼いの犬の横で浮浪者が得体の知れない肉を食べている。
日本橋も新世界もそれぞれに独特の熱気を帯びていて、通天閣はそれらを見下ろすようにそびえ立っていた。
あぁ、そうだ。80年代サイバーパンクだ。
僕の求めていたアノ風景が垣間見えたような気がした。
でも、鼻水は止まらないし、喉は痛い。体がダルい。
僕的にはもっと大阪を満喫したかったのだけれど……。
機会があったらまた行きたいなぁ。

それにしても、今週の「深夜のバカ力」。
レギュラーコーナー「リストカッターケンイチ」冒頭での、伊集院光の「岡田斗司夫が大嫌い」発言。
最近話題の「レコーディングダイエット」を取り上げたTV番組で、伊集院光と岡田斗司夫が共演しているのを見たばかりだった。
話はやはりそのTV番組の事に及んだ。
「痩せてから娘が一緒に歩いてくれるようになった」という岡田斗司夫の発言について。

「それはてめぇの育て方の問題じゃねぇかよ!自分を育ててくれた親を、太ってるとか痩せてるとかで判断するその価値観をもっと問題視しろよ」

伊集院光は憤っていた。

「痩せるのはてめぇの勝手だけど、自分の価値観を他人に押し付けんじゃねぇよ!」

確かにそう言われても仕方ないくらい、ダイエット成功者・岡田斗司夫の言葉の端々には、「デブ=悪」という価値観の一方的な押し付けが感じられた。

話は変わるが、僕の出演している「童貞。をプロデュース」という作品はフィクションである。
作品を観た多くの人が勘違いしているが、それも無理はない。堂々と「ドキュメンタリー」と銘打っているのだから。
監督から言わせれば「ヤラセとか仕込みがあってもドキュメンタリーはドキュメンタリー」ということなんだろうけれど、多くの人が「ドキュメンタリー」というその言葉をしてそれを事実として捉えようとするのが現状であろうし、出演した僕としては何の説明もないまま単に「ドキュメンタリー」と銘打たれることは、はっきりいって誠に不本意である。
というか、作品自体不本意だけど。
現場では無理矢理言わされていたが「AVは汚い」なんて僕は全然思っていないし、「女性器を見たことがない」というのも嘘だ。
というのも、僕はしばらくの間AVの仕事でご飯を食べていたし、その結果、色々な女性器を嫌というほど見てきたワケだし。
再三に渡って出演をお断りしたにも関わらずゴリ押しされた挙句、2部の冒頭では僕をステレオタイプな悪役に仕立てる為に、監督の連れて来た見知らぬ女性と並ばされて、あたかも僕が童貞を喪失してヤリチンになったかのような画を撮られた、というのも隠された事実だ。
それに、初対面の人たちの視線の中、パワハラ的な状況下で恫喝され性暴力を受けた結果、好きな女性への告白を決意するなんて、そんなアホな話ある筈がない。
告白シーンも嘘。ただのヤラセだ。
確かに、カンパニー松尾さんの「迷惑はかけるものだ」という言葉は説得力があって、実に良い言葉だと思う。
しかし、実際のところ迷惑をかけていたのは僕ではなく、監督の松江さんに他ならない。
僕は松江さんの顔をたてる為に、わざとああいう風な言い方をしたのであって、僕と松江さんとの間の話で言えばそれは全く別な話だ。
「取材に行くだけで何もしない」と嘘をついて僕を連れてきたのは松江さんなワケだし、土壇場で僕が拒否したところで、そのケツを持つのは松江さんというのが本来の筋だろう。そこを履き違えてもらっては困る。
本当のヘタレはどっちなんだ?
いくら大の男だといっても、密室で知らない大人に囲まれた非常にアウェーな空気の中で、苛立ちをあらわに「早くしろよ!」と恫喝され、パワハラ的な状況下に追い込まれたらどうか?
あれを暴力でなかったと言い切れるのか?
人として卑怯な行為ではないのか?
それをコミックリリーフとして使うその神経が僕には理解出来ない。
まー、イジメる側の人間にはイジメられる側の気持ちなんてわかんねぇんだろーけど。

あれは、一方的な価値観の押し付け以外の何ものでもない。

それは2部のラストシーンでも同じようなことが言える。
あそこに映されているのは梅ちゃんの表面的な愛想笑いでしかなく、あのシーンには本質的な意味で梅ちゃんの意思はどこにも介在していない。
梅ちゃん自身があの作品の中で導き出した答えやたどり着いた場所、そういったものはどこにもなく、松江さんの用意した押し着せの答えしかそこにはない。
結局、梅ちゃんのゴールは見えないままストーリーは迷走を続け、画づらだけが帳尻を合わせたように幕引きの合図を出す。
そこに本当の感動はあるのだろうか。
僕には見えなかったし、本当の意味で被写体と向き合っているのだろうか、という疑問だけが残った。

そこには、文化人類学的な傲慢さだけが見え隠れしている。
分かり易く表現すると「上から目線」。
非童貞の、童貞に対する同情と蔑視。
そこに「共感」とか「理解」などという言葉は存在せず、登場人物はただその嘲笑の対象でしかない。
フィクションであろうがノンフィクションであろうが、本来のドラマトゥルギーに乗っ取って描けていればそんなこともなかったろうに。そこは力量不足ということか。
フェイクドキュメンタリー大いに結構。ただ、「フィクション」と「無責任」を履き違えてもらっては困る。
作品に関して表に出て評価を受けるのは監督である松江さんだ(逆に酷評や誹謗中傷の対象となるのは出演者の方だ)。
しかし実務レベルの話でいえば、あれだけ出演者に依存した制作スタイルをとっておきながら、もっと乱暴な言い方をすれば、他人のフンドシでスモウをとっておきながら、出演者をただの素材としてしか見ていないようなこれまでの言動の数々にはさすがに目に余るものがあった。
強い者には弱く、弱い者にとことん強く出るその姿勢は改めるべきだ。
僕が受けたモラルハラスメントを挙げればキリがないが(それに僕にもデリカシーというものがあるし)、その恩着せがましい態度も何とかして欲しい。
松江さんに「誰のおかげでお前の映画の宣伝が出来たと思ってるんだ」なんて一方的に言われる筋合いはないし、誰のおかげかといえば勝村さんをはじめとしたシネマロサの皆さんのご厚意によるものであり、僕と松江さんとの間の話でいえばそれはお互い様の話だ。松江さんは勝村さんたちに謝るべきだ。
そこを勘違いしてもらっては困る。
雑誌インタビューでの発言に見られる多くの嘘にも、その偽善的な表情が窺える。
別に博愛主義者になる必要はないが、もう少し人の気持ちを考えるべきだ。
都合のいいように事実を歪め他人の人権を弄ぶのも甚だ問題ではあるが、それ以前に、作品がモチーフとしている出演者の僕一人を未だ納得させられていないという事実が、作品の脆弱さを示す一つの答えなのではないか。

人の気持ちを尊重出来ないならドキュメンタリーをやめるべきだ。

単なる価値観の押し付けでは、本当の意味で人を変えることは出来ない。
そこにドラマとしての弱さがあり、それが事実であるという前提の下でしか説得力を持たないほど松江さんの描いたプロットは実に独善的且つ偽善的で、しかも陳腐だ。
松江さんが「ドキュメンタリー」と言い切らなければならない必然がここに存在するのかもしれない。

僕を本当に変えてくれたのは、決して変わることのないものの存在だ。

劇中で描かれてはいないが、あのクリスマスの日。色々あって、僕はとても落ち込んでいた。
そんな僕を見かねてか、同居人の大西くんはバイト帰りにケーキとワインを買ってきて、酒なんか全然呑めないクセに僕と一緒にそのワインを呑んでくれた。
たったコップ一杯のワイン。
それで大西くんはトイレに駆け込み一晩中ゲロを吐いていた。
あのゲロは、松江さんがローションとスポーツドリンクを混ぜて梅ちゃんに吐かせた偽物のゲロなんかじゃなくて、本物のリアルゲロだ。
僕の為に買ってきてくれたワインで吐いた、世界で一番やさしいゲロだ。

僕はあの日大西くんが吐いてくれたゲロを一生忘れない。

さみしくて死にそうで死ねない夜を、大西くんはいつも付き合ってくれた。
だから、僕に彼女が出来た時も真っ先に報告したのは大西くんだった。
早朝、迷惑極まりないのも覚悟で寝ている大西くんを叩き起こした。

「何だよ、寝てんだよ。邪魔すんじゃねーよ!」

眠気眼の大西くんに「彼女が出来た」と告げると、大西くんは黙って布団から体を起こし、煙草に火を着けて一言。

「……話してみろ」

僕は話した。
それを大西くんはいつもと変わらずに聴いてくれた。



つづく

onosendai at 04:36|PermalinkComments(13)clip!