梅ちゃんの運転する梅ちゃんの親父さんの車に乗って、一路大阪へ。
待ち合わせ場所に向かう途中で梅ちゃんが事故を起こした為、出発は大幅に遅れてしまった。
そのせいもあってか、東京を出発して数時間後、もうすぐ大阪に到着するという頃には、既に日はとっぷりと暮れていた。
そんな時、ハンドルを握る梅ちゃんが何やらブツブツと独り言を呟いている。

「……何? どうしたの?」
「ね、眠い。何か話して」

また事故を起こされてはたまらんと、僕らは何とか梅ちゃんが寝ないように、その場で思いつく限りの話題を披露した(否、でもホントおつかれさま)。
大阪に着いた頃、僕は風邪をひいてしまった。

夜の大阪は、光る看板が空に踊っていて、初めて訪れた場所なんだけれど僕は何だか懐かしいような感じがした。
高層ビルのすぐ上を、飛行機が低く飛んでいる。
近代化された街並みとはうって変わって、翌日訪れたドヤ街の一角では、放し飼いの犬の横で浮浪者が得体の知れない肉を食べている。
日本橋も新世界もそれぞれに独特の熱気を帯びていて、通天閣はそれらを見下ろすようにそびえ立っていた。
あぁ、そうだ。80年代サイバーパンクだ。
僕の求めていたアノ風景が垣間見えたような気がした。
でも、鼻水は止まらないし、喉は痛い。体がダルい。
僕的にはもっと大阪を満喫したかったのだけれど……。
機会があったらまた行きたいなぁ。

それにしても、今週の「深夜のバカ力」。
レギュラーコーナー「リストカッターケンイチ」冒頭での、伊集院光の「岡田斗司夫が大嫌い」発言。
最近話題の「レコーディングダイエット」を取り上げたTV番組で、伊集院光と岡田斗司夫が共演しているのを見たばかりだった。
話はやはりそのTV番組の事に及んだ。
「痩せてから娘が一緒に歩いてくれるようになった」という岡田斗司夫の発言について。

「それはてめぇの育て方の問題じゃねぇかよ!自分を育ててくれた親を、太ってるとか痩せてるとかで判断するその価値観をもっと問題視しろよ」

伊集院光は憤っていた。

「痩せるのはてめぇの勝手だけど、自分の価値観を他人に押し付けんじゃねぇよ!」

確かにそう言われても仕方ないくらい、ダイエット成功者・岡田斗司夫の言葉の端々には、「デブ=悪」という価値観の一方的な押し付けが感じられた。

話は変わるが、僕の出演している「童貞。をプロデュース」という作品はフィクションである。
作品を観た多くの人が勘違いしているが、それも無理はない。堂々と「ドキュメンタリー」と銘打っているのだから。
監督から言わせれば「ヤラセとか仕込みがあってもドキュメンタリーはドキュメンタリー」ということなんだろうけれど、多くの人が「ドキュメンタリー」というその言葉をしてそれを事実として捉えようとするのが現状であろうし、出演した僕としては何の説明もないまま単に「ドキュメンタリー」と銘打たれることは、はっきりいって誠に不本意である。
というか、作品自体不本意だけど。
現場では無理矢理言わされていたが「AVは汚い」なんて僕は全然思っていないし、「女性器を見たことがない」というのも嘘だ。
というのも、僕はしばらくの間AVの仕事でご飯を食べていたし、その結果、色々な女性器を嫌というほど見てきたワケだし。
再三に渡って出演をお断りしたにも関わらずゴリ押しされた挙句、2部の冒頭では僕をステレオタイプな悪役に仕立てる為に、監督の連れて来た見知らぬ女性と並ばされて、あたかも僕が童貞を喪失してヤリチンになったかのような画を撮られた、というのも隠された事実だ。
それに、初対面の人たちの視線の中、パワハラ的な状況下で恫喝され性暴力を受けた結果、好きな女性への告白を決意するなんて、そんなアホな話ある筈がない。
告白シーンも嘘。ただのヤラセだ。
確かに、カンパニー松尾さんの「迷惑はかけるものだ」という言葉は説得力があって、実に良い言葉だと思う。
しかし、実際のところ迷惑をかけていたのは僕ではなく、監督の松江さんに他ならない。
僕は松江さんの顔をたてる為に、わざとああいう風な言い方をしたのであって、僕と松江さんとの間の話で言えばそれは全く別な話だ。
「取材に行くだけで何もしない」と嘘をついて僕を連れてきたのは松江さんなワケだし、土壇場で僕が拒否したところで、そのケツを持つのは松江さんというのが本来の筋だろう。そこを履き違えてもらっては困る。
本当のヘタレはどっちなんだ?
いくら大の男だといっても、密室で知らない大人に囲まれた非常にアウェーな空気の中で、苛立ちをあらわに「早くしろよ!」と恫喝され、パワハラ的な状況下に追い込まれたらどうか?
あれを暴力でなかったと言い切れるのか?
人として卑怯な行為ではないのか?
それをコミックリリーフとして使うその神経が僕には理解出来ない。
まー、イジメる側の人間にはイジメられる側の気持ちなんてわかんねぇんだろーけど。

あれは、一方的な価値観の押し付け以外の何ものでもない。

それは2部のラストシーンでも同じようなことが言える。
あそこに映されているのは梅ちゃんの表面的な愛想笑いでしかなく、あのシーンには本質的な意味で梅ちゃんの意思はどこにも介在していない。
梅ちゃん自身があの作品の中で導き出した答えやたどり着いた場所、そういったものはどこにもなく、松江さんの用意した押し着せの答えしかそこにはない。
結局、梅ちゃんのゴールは見えないままストーリーは迷走を続け、画づらだけが帳尻を合わせたように幕引きの合図を出す。
そこに本当の感動はあるのだろうか。
僕には見えなかったし、本当の意味で被写体と向き合っているのだろうか、という疑問だけが残った。

そこには、文化人類学的な傲慢さだけが見え隠れしている。
分かり易く表現すると「上から目線」。
非童貞の、童貞に対する同情と蔑視。
そこに「共感」とか「理解」などという言葉は存在せず、登場人物はただその嘲笑の対象でしかない。
フィクションであろうがノンフィクションであろうが、本来のドラマトゥルギーに乗っ取って描けていればそんなこともなかったろうに。そこは力量不足ということか。
フェイクドキュメンタリー大いに結構。ただ、「フィクション」と「無責任」を履き違えてもらっては困る。
作品に関して表に出て評価を受けるのは監督である松江さんだ(逆に酷評や誹謗中傷の対象となるのは出演者の方だ)。
しかし実務レベルの話でいえば、あれだけ出演者に依存した制作スタイルをとっておきながら、もっと乱暴な言い方をすれば、他人のフンドシでスモウをとっておきながら、出演者をただの素材としてしか見ていないようなこれまでの言動の数々にはさすがに目に余るものがあった。
強い者には弱く、弱い者にとことん強く出るその姿勢は改めるべきだ。
僕が受けたモラルハラスメントを挙げればキリがないが(それに僕にもデリカシーというものがあるし)、その恩着せがましい態度も何とかして欲しい。
松江さんに「誰のおかげでお前の映画の宣伝が出来たと思ってるんだ」なんて一方的に言われる筋合いはないし、誰のおかげかといえば勝村さんをはじめとしたシネマロサの皆さんのご厚意によるものであり、僕と松江さんとの間の話でいえばそれはお互い様の話だ。松江さんは勝村さんたちに謝るべきだ。
そこを勘違いしてもらっては困る。
雑誌インタビューでの発言に見られる多くの嘘にも、その偽善的な表情が窺える。
別に博愛主義者になる必要はないが、もう少し人の気持ちを考えるべきだ。
都合のいいように事実を歪め他人の人権を弄ぶのも甚だ問題ではあるが、それ以前に、作品がモチーフとしている出演者の僕一人を未だ納得させられていないという事実が、作品の脆弱さを示す一つの答えなのではないか。

人の気持ちを尊重出来ないならドキュメンタリーをやめるべきだ。

単なる価値観の押し付けでは、本当の意味で人を変えることは出来ない。
そこにドラマとしての弱さがあり、それが事実であるという前提の下でしか説得力を持たないほど松江さんの描いたプロットは実に独善的且つ偽善的で、しかも陳腐だ。
松江さんが「ドキュメンタリー」と言い切らなければならない必然がここに存在するのかもしれない。

僕を本当に変えてくれたのは、決して変わることのないものの存在だ。

劇中で描かれてはいないが、あのクリスマスの日。色々あって、僕はとても落ち込んでいた。
そんな僕を見かねてか、同居人の大西くんはバイト帰りにケーキとワインを買ってきて、酒なんか全然呑めないクセに僕と一緒にそのワインを呑んでくれた。
たったコップ一杯のワイン。
それで大西くんはトイレに駆け込み一晩中ゲロを吐いていた。
あのゲロは、松江さんがローションとスポーツドリンクを混ぜて梅ちゃんに吐かせた偽物のゲロなんかじゃなくて、本物のリアルゲロだ。
僕の為に買ってきてくれたワインで吐いた、世界で一番やさしいゲロだ。

僕はあの日大西くんが吐いてくれたゲロを一生忘れない。

さみしくて死にそうで死ねない夜を、大西くんはいつも付き合ってくれた。
だから、僕に彼女が出来た時も真っ先に報告したのは大西くんだった。
早朝、迷惑極まりないのも覚悟で寝ている大西くんを叩き起こした。

「何だよ、寝てんだよ。邪魔すんじゃねーよ!」

眠気眼の大西くんに「彼女が出来た」と告げると、大西くんは黙って布団から体を起こし、煙草に火を着けて一言。

「……話してみろ」

僕は話した。
それを大西くんはいつもと変わらずに聴いてくれた。



つづく