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豊臣・徳川が関ヶ原の戦いの後の表面上の平穏を破り、最初に激突したのが大阪冬の陣である。この戦いで、大阪城に真田丸という出城を築いて勇戦し、その名を高めたのが真田幸村だ。

しかし、最終決戦となった大阪夏の陣では、大阪城は外濠(そとぼり)を埋まられたため籠城することができず、幸村も死を覚悟して出陣に臨んだ。このとき、幸村は徳川家康の本陣に斬り込む作戦をとる。

家康も本陣から逃げ出したほどの戦いぶりだったが、やがて幸村の命運は尽きる。傷を負って逃走した幸村は、槍に突かれて命を散らした。う

幸村の首はすぐに家康のもとへ届けられ、徳川方に加わっていた幸村の叔父によって首実験が行われたが、死者の顔は面相が変わっており、自信をもって本人だとは断言できないと彼は答えている。

ただ、このとき首がつけていた兜(かぶと)が確実に幸村のものだったので、彼の討ち死にが公式のものとなった。

首が身内ですら断言できなかったというところから、幸村本人は生きて逃げ延びたのではないか、といわれるようになる。ことに、幸村は生前から影武者を何人か使っていたと『真田三代記』が記録しているため、首をとられたのは影武者だったという話が真実味を帯びたのである。

生き延びた幸村のその後についてもっとも語られるのは、やはり大阪の陣を生きながらえた豊臣秀頼を伴って、鹿児島へ落ち延びた話だ。

大阪城落城直後からこの話は広まったようで、京都、大阪の町では二人の生存を歌ったわらべ歌も生まれている。『真田三代記』もこの説をとっており、幸村は鹿児島で過労から喀血して没したとしている。

ところが、鹿児島では、秀頼が先に亡くなったため、幸村は嫡男の大助(だいすけ)を伴って諸国巡礼の旅に出たという説も伝えられている。その旅の途中で秋田の大館(おおだて)にたどり着き、思うところあって、幸村はそこに居を定めた。大館での幸村は、農民相手に故郷の特産である真田紐(さなだひも)を編(あ)んで売っていたともいうし、信濃屋(しなのや)を名乗って造り酒屋を営んだとも伝えられている。

とくに信濃屋の話は、大館の寺の過去帳から実在が確かめられ、それが幸村だと記した古文書も残されている。

本当に幸村は死んでいなかったのか、それとも英雄礼賛から生まれたこじついたというけなのかは不明のままだ。さらに異説では、逃げ延びた幸村が晩年を熊野の山中ですごしたというものまである。人びとの心に幸村の名が深く刻まれていたことだけは確かなようだ。






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